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続・怖い島・いわくつきの村


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001 2013/10/13(日) 18:57:55 ID:/PiSTRs3Ps
全国に散らばる、おっかない伝承伝説が伝わる離島専用スレッド第2弾です(若干ながら村ネタもあり)。
もちろん島の奇祭や神秘の風習、島のみならずワケあり岩礁や奇岩なども含み、いかがわしいオカルトにとどまらず、
れっきとした民俗学としての側面を持ち合わせています。島ネタに関して異常に特化したソレを目指すつもりです。

……前スレが500レスに達する前に続編を立てた理由は、サイズが500KBを超過してしまい書き込めなくなったためです。
せっかく満杯になるまで文字で埋め尽くし、有終の美を飾ろうとしたのにカウンターストップとは……。いささか文章がボリューミーすぎたかも。
まあ、めげずにご要望に応え、続・怖い島と行きましょう。

ちなみに……スレ自体を保存し、あとで読む方法をお教えします。
書き込みできなくなったスレは後ろへ流れてしまい、新スレが立ち上がるたび、古いものから消えてしまいます。
そうなる前に貴重なスレは永久保存しておきましょう。前スレはネット世界は広しといえど、近年類を見ない極上の資料スレですぞ。
以下は、その手順。

任意のスレ内の適当な空白で右クリック→プロパティ→アドレスをコピー→画面上部のアドレス直接入力枠にペースト→そのアドレスへ飛ぶ→
このスレが表示される→ファイル→名前を付けて保存。

※スレ画は前スレ>>188で紹介した、愛知県蒲郡市、三河大島にある仏島(島というより岩礁だが)。


癒されたい僕のブログ カヤック編 三河大島へ
http://blog.livedoor.jp/usa_usao5/archives/1697874.htm...

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002 2013/10/13(日) 19:04:15 ID:/PiSTRs3Ps
     13代続く島守だけが住んでいた島 妻ヶ島

長崎県の壱岐島にある石田町印通寺港の南、約500mにある島を妻ヶ島という。
この島は前スレ、>>62で紹介した平野仁右衛門一家だけが住む仁右衛門島と同じく、1世帯だけの『島守』のみが住む島だ。
住人である百崎(ももざき)さんは江戸時代から数えて13代目。聞くところによると、松浦の殿様の側室付き人の血脈だとか。
百崎夫婦はおしどり夫婦として名が知られ、かつては島の暮らしぶりを描いた著書も出版された。島では牛を飼い、自給自足の生活をしていたとのこと。
もっともその百崎夫婦も高齢になられ、平成14年になって壱岐本島に転居しており、現在、妻ヶ島は無人となってしまったそうだ。

また島には百崎さんの生家と厩舎だけでなく、衣通姫(そとおりひめ)神社もある。祀られている神、衣通姫とはなんであろうか? ウィキにはこうある。
記紀(古事記と日本書紀との総称)では絶世の美女と伝承される人物で、あまりにも美しさで衣を通して輝くことからこの名がある。
本朝三美人の1人とも称される。
古事記と日本書紀では衣通姫の設定が異なる。古事記には、允恭天皇(いんぎょうてんのう・在位412〜453年)皇女であり、
同母兄である軽太子(かるのひつぎのみこ)との兄妹による許されざる恋に落ちる。それが原因で天皇崩御のあと、軽太子は群臣に背かれて失脚。
伊予へ流刑となるが、衣通姫もそれを追い、再会した2人は心中する。これを衣通姫伝説として伝えている。

また日本書紀においては、允恭天皇の皇后忍坂大中姫(おしさかのおおなかつのひめ)の妹・弟姫(おとひめ)とされ、允恭天皇に寵愛された妃として描かれる。
近江坂田から迎えられ入内し、藤原宮(奈良県橿原市)に住んだが、皇后の嫉妬を理由に河内の茅渟宮(ちぬのみや、大阪府泉佐野市)へ移り住み、
天皇は遊猟にかこつけて衣通郎姫の許に通い続ける。皇后がこれをいさめ諭すと、以後の行幸は稀になったという。
いずれにせよ、島の歴史や生誕につきものの女の悲劇がここにも見受けられる。しかも衣通姫のソレは、あまりの美人がゆえの受難であった。
なぜこうも女の悲劇譚が多いのか、近いうち言及するつもりだ。

余談だが、嫁ヶ島は2010年にテレビ番組の企画で話題となった。
テレビ朝日系の、『いきなり!黄金伝説。』の中の企画、よゐこ・濱口の「獲ったどー!」で有名な『無人島0円生活』で舞台となったことがあるのだ。
百崎夫人自らが濱口あてに手紙を送り、そこから実現した。文面には妻ヶ島での生活を懐かしく思い、もう一度島のおいしいお米や野菜を食べられるようにして
欲しいと綴られており、その切なる願いが通じたようだ。

文明の利器が普及しておらず、いくら生活に支障をきたすほど不便でも、長年住み慣れた土地は離れ難いものだ。
島守であった人の心にはいつまでも『島』が浮かび、『島』こそ全世界だったにちがいない。
小さな『島』であったけれど、百崎さん夫婦にとって世界は広かったはずだ。伝統を守り続けたことを誇りに持って欲しい。


司馬遼太郎が見た壱岐の風景 唐人神
http://mtv17.ninpou.jp/iki2/kaidou/kaidou.htm...
印通寺散策
http://www.ikishi.sakura.ne.jp/intuuzi.htm...
衣通姫伝説wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A1%A3%E9%80%9A%E5%A7%...
ザ・テレビジョン 「黄金伝説」がついに無人島の開拓に成功!? 濱口優が「今までにない伝説になった」と自信
http://news.thetv.jp/article/18290...

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003 2013/10/13(日) 19:39:17 ID:LnSe8g1X12
     7月11日にしか上陸できない秘境島 小築海島(こづくみじま)

三重の鳥羽湾、および県内ではもっとも大きい島である答志島から、さらに北上したところには小築海島という無人島がある。
周辺は禁漁区に指定されており、普段は人が立ち入ることができない。
小築海島は古くから秘境の島と呼ばれていた。島には神社があり、祠や石の祭壇が祀られており、毎年祭りが催される。
7月11日だけ地元の漁師だけが島に上がることが許されるという。そして答志島の八幡神社に供えるアワビを漁協青年部が採らねばならない。
代わりに小築海島から答志島へ桑やススキの葉を持ち帰り、八幡神社に採ったアワビを奉納し、海上安全と大漁祈願をする。
また小築海島の近くには洞窟があり、その洞窟は『9人ぼうら』と呼ばれている。名称は遭難者9人がこの洞窟で発見されたからだそうだ。


Archive.is - webpage capture 答志島海岸線調査
http://archive.is/vYKD...
海女のまつり
http://www.city.toba.mie.jp/kikaku/ama/documents/ama54-55....

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004 2013/10/13(日) 19:44:20 ID:LnSe8g1X12
     百日通いの九十九日目の悲劇 お初伝説 初島

初島は静岡県熱海市の網代から東へ約6kmの海上に浮かぶ静岡県内最大の有人島である。
今から1万年前の氷河期終息による海面上昇で、現在の網代辺りと切り離されるように残ったのが初島であり、島内からは7千年前の土器や石器、
また初木神社社殿下からは古墳時代の祭祀場跡が見つかるなど、古代人との関わりがあったことが知られている。

集落は島の北側に集中しているが、この集落がいつごろできたのかは不明。東明寺の建立が西暦800年ごろ、初木神社の創建は鎌倉時代の始めあるいはそれ以前、
竜神宮もそれに順ずる古いものだとされ、鎌倉期にはすでに小規模な集落ができていたと考えられている。
漁業と、限られた土地を耕す生活が連綿と続き、江戸時代後半になると耕作地や水源、漁獲を島民で均等に分け合う共同体生活が営まれるようになり、
初島特有の、「次男以降は島を出て、跡取りがいない家は婿養子をとる」という決まりごとが頑なに守られ、江戸時代から現代に至るまで40戸前後の
家と島の平和が維持されてきた。

そんな初島には、これまた女の悲劇譚が後世に語り継がれている。それが『お初伝説』である。
昔、初島にはまだ住人が6軒家族しかない淋しい島だった。
17才の美しい娘が伊豆山(伊豆半島・熱海)の祭りで、右近という若者と出会い、好きになった。 
「百夜通ってくれば結婚しよう」という約束を結び、お初は毎晩タライに乗って3里もの距離を渡って通ったのだが、99日目の夜、
なんとお初に横恋慕を抱いていた男が灯台の火を消してしまう。お初は海を渡りきれず、波に飲まれて命を落とした。
それを知った右近の悲しみはいかばかりか。右近は彼女を弔うため、いつ帰ると知れたものではない諸国巡礼の旅に出たという。
因果なことに、灯台の火を消した男は7日7晩、苦しんだ挙句死んだそうだ。

集落のそばには『お初の松』と名付けられた松の木が佇み、こんな悲しい歌が添えられている。
『島の乙女のはや胸に、秘めて高鳴る琴の緒の断たれて悲しい恋の火よ』


初島にいこうよ。
http://www.hatsushima.jp/find/legend.htm...
伊豆:初島
http://hobbyland.sakura.ne.jp/Kacho/tabi_yukeba/2008/2008_07...
百夜通い(ももよがよい)wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%99%BE%E5%A4%9C%E9%80%...
とっしーのツイッターまとめ blog 百夜通いの謎を推理する(1)
http://toshiey.cocolog-nifty.com/twitter/2012/02/post-d3a1.htm...

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005 2013/10/14(月) 07:48:32 ID:IlhFosf6t.
     百夜通い伝説の亜種 百夜月(ももよづき)集落

実は>>4の小野小町の『百夜通い伝説』とそっくりな伝説がある集落が、僕の地元からそう遠くないところにある。
それが『百夜月』というちっぽけな集落で、その惹きつけられる地名のとおり、ロマンチックな伝説が残されているから印象深い。
それも併せて収録しておきたい(もっとも、別スレ『地域の伝説やまじない・風習』の>>70で書いたのだが、個人的趣味で再収録)。
若干、スレチになるかもしれないが、村ネタということでご容赦を。

三重県熊野市紀和町花井(けい)に、上述した百夜月という風情ある地区がある。
北山川沿いにあり、今どき対岸の和歌山県新宮市熊野川町九重から、渡し船で渡ってでしか行き来できない陸の孤島のような集落である。
そこに百夜月と名付けられる元となった伝説が残されているのだ。

かつて、そこには光月山紅梅寺という寺があった。寺には若くて美しい1人の尼僧が住み、 仏道修行に励んでいた。
美人の尼僧は近隣村の若者たちの憧れの的でもあった。
対岸に住むある若者が彼女に会いたいと思い立ち、昼間では村人に知られるとなると尼僧に迷惑をかけてしまうので、夜陰に乗じて川を渡って会いに行こうと決意。
ところが川を渡ろうとするも、山の上に姿を見せた月があまりに明るいため、これでは村人に露見してしまう。結局その晩は行くのを諦め、家に引き返した。

次の日もその次の日も、若者は尼僧に会いにいくべく川まで下りるのだが、いずれも月明かりがまぶしくて行くことができない。
「今晩で何度目だろうか……」と、数えてみると、九十九夜目であった。
とぼとぼ家に帰り、母にそのことを打ち明けると、母は「あの方は仏様をお守りしている方だから、きっとお前が好きになってはいけない人なんだよ。
お月様の光は人々が悪さしないように、いつもあたりを照らしているんだね。だから百夜通っても想いは届かないってことさ。もう諦めなさい」と諭した。
それからというもの、この土地を百夜月と呼ぶようになった。

……そんな百夜月も、最近までたった1戸残っていた老人も今はいなくなってしまったようだ。というわけで完全に廃村となったわけだ。
百夜月集落はこれから朽ち果てていく一方なんだろう。こんな叙情的な伝説がありながら、なんともったいない……。


〜東紀州情報発信ブログ&twitter〜 ☆尼僧伝説 百夜月☆
http://blog.livedoor.jp/higashikishu/tag/%E7%99%BE%E5%...
百夜月
http://www.momoyoduki.com/momoyoduki.htm...
三重・熊野ふるさとBlog 川を渡る梅!!!!!
http://blog.murablo.jp/kiwafurusato/kiji/244253.htm...

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006 2013/10/14(月) 07:50:47 ID:IlhFosf6t.
     悪さする犬を断崖から投じた『犬の門蓋』 徳之島

徳之島は南西諸島の奄美群島に属する離島の1つ。鹿児島県内では奄美群島は奄美大島を中心とする、奄美地方という地区に分類される。
面積は約247.77km2、周囲およそ80km。日本では北方領土の色丹島よりやや小さく、14番目の面積を有する。人口約27,000人の島だ。

徳之島には平土野集落から南側へ入ってそんなに遠くない場所に、犬の門蓋(いんのじょうふた)と呼ばれる景勝地がある。
それは洞門状の奇岩で、穴は隆起した珊瑚が季節風や東シナ海の荒波によって浸食されたものらしい。
なぜ犬の門蓋なる地名なのだろうか? その由来となった話がこうだ。

昔、大飢饉が猛威をふるったことがあった。そのときに人間だけではなく獣たちも飢えた。
犬の群れが集落に出没しては人畜を襲い、それを食らったため、島民は頭を悩ませた。
ついに決断することになる。犬の群れを生け捕りしては断崖から投じて始末したというのだ。
それ以来、この地は犬の門蓋と名付けられたという。

門蓋は西向きに屹立しているので、この穴越しに眺める夕日は美しいとの評判。
そんな絶景の裏には、まさかこんな極限状況で生まれた陰惨な話が横たわっているとは……。


『島の散歩』 犬の門蓋(徳之島)
http://shimanosanpo.com/churajima11/tokuno00/innojyouf...
かごしま検定をめざす鹿児島案内 徳之島の畔プリンスビーチ
http://blogs.yahoo.co.jp/kagoshimaboy_2009/folder/59623...
徳之島町の史跡・聖地めぐり(PDF:2553KB)
http://www.tokunoshima-town.org/shakaikyoikuka/kurashi/kyoiku/...

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007 2013/10/14(月) 08:22:58 ID:1z.n8nYH3U
     見てはいけない男子禁制の秘祭『祖神祭』(ウヤガン) 大神島 1

沖縄県宮古島市に属する宮古列島の1つである大神島。面積は0.24km2、人口は約40人足らず。
前スレ>>79で海賊キャプテン・キッドが大神島に自身の財宝を隠したという伝説を書いたが、島にはそれ以外に秘密のベールに包まれたウヤガンなる
祖神祭があると知ったとなると、いやがうえにも興味をソソられるのは浅ましき人の業と言うべきか。

大神集落は港がある島の南部に固まっている。また島中央には標高75mほどの高台があり、宮古島、池間島などを一望することができる。
眺望は素晴らしく、とりわけサンゴ礁の海に描かれるエメラルド色のラグーンは、この世の楽園もかくやと思われるほど美しい。
この高台を遠見台(とおみばる)と呼ぶ。この地はかつて琉球王朝時代には、外国船の往来を知らせる狼煙台の役目を担ってきた。
ふだんの日は誰でも上にあがることが可能なものの、祭祀に関わる特別な日になると極端に立ち入りが制限される。
というのも、遠見台のはるか上には神が宿るとされる巨岩があり、神域として指定されているからだ。

実は大神島には上述したような神聖な場所が無数に存在する。それが森の中の洞窟であったり水辺であったりもする。
そのような聖域は御嶽(うたき・琉球神話に記された神々が来訪したり存在する場所で、祖先神を祀る場所)として崇められている。
大げさに言えば、集落以外のほとんどが聖域だといっても過言ではない。
沖縄は観光する分には開けた感があるが、宮古は特殊であると言う人は少なくない。ましてや大神島は観光地化されておらず(宿泊施設はおろか売店すらない)、
古くから周囲の島の人々から『神の島』(それにしてもこう冠された島の多いこと!)、もしくは島そのものがご神体と言われ尊ばれてきた。
国内最大級の聖地だとする声もあるほどだ。

大神島の御嶽の場合、祭祀を執り行う関係者……選ばれた女性しか立ち入ることができないのだ。
それは伝統的な祭祀である祖神祭(ウヤガン)になると、タブーはより厳しいものなる。これは旧暦6月〜10月の間、毎月12〜14ごろから4、5日間、
計5回行われる祭りで、豊穣や健康を祈るものだ。男子禁制であり、島外者にすら公開されない秘祭中の秘祭である。
公開どころか、その内容を説明することさえタブーとされている。関係者である女性たちは、家族にすら語ってはいけないのだとか。
もしも禁を破ったものなら、恐ろしい祟りがあると信じられているという……。
祖神祭自体は大神島だけではなく、宮古島の狩俣(かりまた)、島尻(しまじり)でも行われるが、島尻は1997年まで、狩俣では2001年まで行われたのを最後に、
祭祀関係者の女性の高齢化と、後継者の不在により中断されている。その中で唯一、大神島のソレだけが現在も引き継がれている。

祖神祭には何かとオカルト的な言い伝えが散見される。こんなことを書くのは、いささか躊躇われるのだが……。
今から70年ほど前、ある大学教授が祖神祭の秘密を暴こうとして島へ渡り、祭りが行われている山中に忍び込んでその様子を撮影したらしい。
ところがその教授は島から戻ったとたん急死。教授を信用して撮影に協力した島民一家もまた次々と怪死を遂げたという。
また、過去に1人だけ祖神祭の全容を調査し、記録した女性の学者がいた。その女性学者は10年来の時間を費やして大神島を行き来し、
すっかり島民と打ち解けた仲になっていた。だが、調査内容は決して論文にまとめることをせず、記録をすべて封印した。
……と、こう書くと、なんとも芳ばしい香りがするが、その実、島の人いわく、なんの変哲もない豊年祭にすぎず特筆に値するほどのものではないと否定する。

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008 2013/10/14(月) 08:28:55 ID:1z.n8nYH3U
     見てはいけない男子禁制の秘祭『祖神祭』(ウヤガン) 大神島 2

見ると祟りがある秘匿性の高い祖神祭。それはどんな祭りなのだろうか。
ならば見ずして、どうにか祭祀の一部だけでも知ることができないかと探りを入れた結果、少なくとも以下のことだけはつかめた。
箇条書きだが、これが祭祀の準備から本番に至るまでの大まかな流れだ。

①祭祀を執り行うのは『ウヤガミ』と呼ばれる祭祀集団である。
②『ウヤガミ』は『ウヤガミ筋』なる血筋の家からしか現われることがない。
③ウヤガミは神がかりを受けた女性(主婦である場合がほとんど)しか選ばれない。祖神祭に参加できる人は、毎年11人ほど。
④祭祀の時期になると、ウヤガミはある日突然、神が憑依したとされ意識不明に陥るという。全員が同時刻に同じ神がかり体験をし、同じ日の夕方に家を抜け出す。
祭祀が行われている4〜5日の間は、断食状態になり帰宅すらしない。
⑤ウヤガミがひとたび山篭りすると、聖域(とくに祖神祭の中心となる大神御嶽)には誰も足を踏み入れてはならない。
⑥ウヤガミの女性たちは円陣を組み、フサ(神歌)を謡って踊る。フサはフサヌス(白装束の女性)の音頭取りで謡われ、そのあとを続いて他のウヤガミが謡い踊る。
⑦踊りはフサヌスを取り囲んで、立って手にしているテーフサ(手草)をこすり腰を振る。単調な踊りながら、場合によっては長時間続く。
⑧木の葉で編んだカウス(木の葉で編んだ帽子のような草の冠)を目深にかぶり、手に木の枝や杖を持つ。
⑨手にはテーフサをもち、腰には神の糸・アヤと呼ばれる五色の腰ヒダを吊るしている。
⑩島外者はもちろん祭祀に関係のない島内の人間や、ましてや男がウヤガミたちと出会ったり、真正面から見るなどもってのほかとされている。
⑪祭りはすべて神役の女たちで話し合われて執行されるため、男たちや身内にさえ一切秘密裏に行われる。

日本には古来より女性をカミ(=神)として位置づける考えがある。ここ大神島をはじめとする沖縄や奄美諸島、伊豆諸島などである。
沖縄などでは、村の女性が、ある年齢に達すると、『カミンチュ』としての役職を司る。
カミンチュは村の年中行事のすべてを携わらねばならない。また伊豆諸島の新島では、隠居した女性は、『ヤカミ(家神)衆』と呼ばれ、やはり祭事、仏事を司るのだ。
東北のイタコなども同義といえよう。
このように、女性は神や先祖を代弁する役割(シャーマン)として、共同体になくてはならない役目を担ってきた。
いずれにせよ、島は彼女たちの領域だ。土足で踏み荒らすなどあってはならない。好奇心も大概にしとけってことである。


Diving Mania ダイビングの気になるネタ 大神島の伝説と謎 〜大神島の祭祀〜
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沖縄ジョートー市場ブログ『ななろぐ』 神の島・大神島 〜宮古諸島
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STUDIO VOICE 比嘉康雄展「母たちの神」
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009 2013/10/20(日) 01:56:29 ID:XEWJx8j1BI
     骨まで貪り喰らった海獣の正体とは? 海獺島(あしかしま)

神奈川県横須賀市、東京湾フェリー久里浜近くの沖に浮かぶ海獺島という無人島がある。画像右の灯台のある方がそれだ。
字面から『らっこ島』とも読まれることも多いが、可愛いイメージがある反面、昔、この地にいたとされる海獣が獲物を血を滴らせ、
骨まで貪り喰ったことから『鬼畜島』とも呼ばれていたらしい……。いろいろ調べてみたが、これ以上詳細はわからなかった。
海獣の正体とはなんであったのだろうか?
また海獺島は、かつて日本海軍が砲撃練習の標的に利用された島として知られている。砲弾の先端には艦独自の染料が入っており、着弾時に色で識別したという。


あぁ〜つかれる!! 東京湾フェリー
http://blog.goo.ne.jp/a-y_2006/e/a7ca4ae683b2060842b...
満天☆の海-2 アシカ島(観音崎ー剣崎間)の危険海域
http://mantenbosi.exblog.jp/10573061...

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010 2013/10/20(日) 01:59:23 ID:XEWJx8j1BI
     東洋のローレライ伝説 屋慶名(やかな)海峡

沖縄県うるま市に属する藪地島(やぶちじま)という無人島がある。勝連半島の東側に位置し、沖縄本島とは藪地大橋で結ばれている。
約300年前までは有人であったという。現在、島の一部は農地で、本島の住民が農業に従事している。

勝連半島と薮地島に挟まれた水路のことを屋慶名海峡と呼んでいる。さて、今回のネタは藪地島自体ではなく、むしろこの海峡にあり。
ドイツのライン川に伝わるローレライ伝説をご存知だろうか? 長大なる川の途中で水面から130mもの突出した岩山があり、川幅が狭くなっているうえ流れが速く、
浅瀬がそこかしこに潜んだ一番の難所であるため舟による転覆事故が後を絶たなかった。
それが転じて、「岩山に佇む美しい少女の姿と、その魔力を秘めた歌声で船頭を虜にするがため、舟が川の渦に飲み込まれてしまう」という伝説を作り上げた。
ローレライは岩山そのものであると同時に、この岩の妖精、あるいはセイレーンの一種であるという。

その伝説と酷似した話が、なんとこの屋慶名海峡にもあるというのだ。
「晴れた日には沈没した大和船(本土の船)の霊が和歌を歌い出す」だとか、「喪中の人が海峡を渡ると波が立つ」とかまことしやかに伝えられている。
もっともこの海峡には乙女こそ姿を現さないが、ここを通る船は岸辺にある、拝所『東大神(ヒガシウーカン)』の前で帆を降ろし、頭を下げてから船を走らせないと、
波が荒れ、この先を航行することができなかったとさえいう。

あるとき、このしきたりを知らない大和船がやってきて、こともあろうか拝所の香炉で刀を研いでしまった。
これが神の逆鱗に触れ、あっという間に船は転覆させられたと伝えられている。
それからというもの、晴天の日はどこからともなく櫓音とともに舟歌が聞こえてきたというのだ。


ローレライwikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%...
島の散歩 藪地島
http://shimanosanpo.com/churajima01/yabuchi00...
ジロの沖縄の徒然 東洋のローレライ
http://seseragijiro.at.webry.info/201302/article_6.htm...
ネオアイランド〜horizon〜 沖縄県うるま市与那城屋慶名・屋慶名海峡展望台(やけなかいきょうてんぼうだい)の下へ。
http://blogs.yahoo.co.jp/neoisland2/30808078.htm...

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011 2013/10/20(日) 02:25:35 ID:MTfFrTuV8M
     掟を破った者の末路……お浦と治作の悲恋物語 情島(なさけじま)

情島は広島県呉市阿賀港の南南西の沖合い約8kmに位置する有人島でありながら、世帯数は9、人口は10人にも満たず、
限界集落も瀬戸際まで立たされている。そんな情島にも『お浦と治作(おうらとじさく)』という哀れな男女の恋が引き裂かれる物語がある。

昔、瀬戸島(現在の倉橋島)の波多見(呉市音戸町)に、お浦という美しい娘がいた。
島の若者はお浦に言い寄るのだが、ことごとくあしらわれていた。袖にされた若者たちは、なぜ相手にされないのだろうと苛立つばかりであった。
どうにも納得のいかない。男たちはお浦の行動を監視することにした。
実はお浦には意中の人がいた。激しい恋に燃えてるのに他の男など眼中に入るはずもない。
月夜の晩、波多見の岬でお浦が1人待ち続けると、やがて小舟に乗って若者が渡ってきた。若者は浜に下り立つと、お浦をひしと抱きしめた。

「あの男は餘所村(よそむら)の治作じゃねえか!」見守っていた若者の1人が声を殺して言った。
「餘所だと? 夜中にコソコソとやってきて、お浦と逢引してたのか!」と、他の若者も激昂した。
「おれたちを差し置いて、餘所の男に取られてたまるか……」
瀬戸島の波多見では、餘所村の者と恋愛してはならないという厳しい掟があった。お浦と治作はその掟に背くことになる。
そんな若者たちの憤懣やるかたなき思いをよそに、2人は小舟に乗って沖に浮いた誰も住んでいない孤島に渡った。2人は毎夜、こうして逢瀬を重ねていたのだ。

ある日、若者たちは同じように波多見の岬で待ち伏せしてから、島に渡る前に灸を据えてやろうと決めた。
2人が揃ったのを見届けると、物陰から一斉に出て、お浦と治作を取り囲んだ。手には棒切れ。殺気を感じた治作はお浦を背中に回した。
「なんだ、おまえらは……おれたちをどうする気だ」と、治作。
「よくもぬけぬけと餘所から来たもんだな。掟を破ってお浦と乳くりあってたとは恐れ入るわ」
「掟がなにさ。治作さんとは別れるつもりはないわ」お浦は言った。
「うるさい。今からでも遅くない。お浦とは金輪際会うな。そして二度とこの島に来るんじゃねえ」

1人の若者が治作の腕を取った。治作はすかさず前蹴りを相手に放つと、包囲網にほころびが生じた。お浦の手をつかむと円陣を突破した。
「逃がすか!」「追え、追うんだ!」
治作とお浦は追っ手をまこうとしたが、しかしながら多勢に無勢、相手の男たちは数が多すぎた。
そのうち岬の突端に追い詰められてしまい、万事休す。あろうことか治作は足を滑らせ、海に転落してしまった。
「治作さん! 治作!」お浦の悲鳴がむなしくこだました。

翌朝、治作の変わり果てた遺体が浜辺に打ち上げられた。
お浦は嘆きは深く、その夜、治作が落ちた岬から同じく身投げして命を絶ってしまった。
この悲劇の結末に波多見の人々はみずからの行為を後悔し、岬の上に祠を建てて2人の霊を弔った。その後、この岬は『お浦の鼻』と呼ばれるようになった。
また、お浦と治作が人目を忍んで逢瀬を重ねていた島を『情島』と名づけたという。


阿賀まちづくり推進協議会(まち協) まちしるべ 旧町名「情島」
http://26.pro.tok2.com/‾agamachi/photo/machishirube/nasakezima.htm
:Elliott-7さんの旅行ブログ 瀬戸内,気ままなヨットセーリング・・・・過疎の島で男の隠れ家発見!
http://4travel.jp/traveler/elliott-7/album/10513...
お浦と治作
http://homepage2.nifty.com/buchaneko/kure/minwa/ouratojis...

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012 2013/10/26(土) 11:43:38 ID:vH2suprj1o
     夫の無事をひたすら祈り待ち続けた妻と無蔵水 伊平屋島(いへやじま)

沖縄本島北端、辺戸岬の北西約33kmにある沖縄最北の有人島、伊平屋島。
太陽に照り輝く美しい島の意である『てるしのの島』と呼ばれ、さまざまな伝説、神事や伝統行事が継承されている。
島の歴史は古く、琉球王朝の第1尚王朝・尚巴志の祖先・屋蔵大主(やぐらうふぬし)生誕の地として知られ、
屋蔵墓や天の岩戸などの史跡や伝説など、琉球史を語るうえにおいて欠かすことのできない貴重な島だという。

その伊平屋島には無蔵水(んぞうみじ)と呼ばれる大岩があり、とある伝説が残されている。それが以下の内容である。
昔、田名村に若い夫婦がいた。
ある夏のときであった。夫は小舟で田名岬の沖へ釣りに出かけたはいいが、前触れもなく強風と高波に襲われて漂流してしまった。
2、3年の間、皆目行方が知れず、村人たちはもう助かってはいまいとあきらめていた。
妻はまわりから諭され、村一番の美人だっただけに再婚話を持ちかけられたが、彼女は頑として、
「きっと夫は生きています。私はあの人が帰るまで待ち続けるつもりです」と言って聞かなかった。

そして小山ほどの大岩の上で1日と欠かさず、夫が消息を絶った沖合の見える方角を見守り、ひたすら無事を祈った。
数年後、奇跡は実現した。夫が無事に妻のもとに帰ってきたのだ。その後、2人は仲睦まじく家を興し、立身出世したという。
当時の村人たちはこの妻の貞操を讃え、女性たちへの教訓歌を作り残している。

この岩のてっぺんにある周囲6m、深さ50cmの水たまりが無蔵水と言われているもの。
水は決して涸れることはなく、それはまさしく夫の無事をひたすら信じ抜いた、妻の無償の愛のように滾滾と湧き出ているそうだ。


てるしのNET 伊平屋村 役場観光ガイドマップ|伊平屋村ホームページ
http://www.vill.iheya.okinawa.jp/detail.jsp?id=12532&menuid=423...
離島の旅日本の旅 伊平屋島
http://islands.travelaround.jp/okinawa/iheya.ht...

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013 2013/11/04(月) 15:46:38 ID:D2Glt/ToHo
>>1 いつも感心しながら読んでます。 
ここまで調べているならサイト立ち上げて残してほしい。いや、マジで。

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014 2013/11/04(月) 20:55:11 ID:Rltr9sTrYk
>>13
そう言ってくれて感謝。
サイト立ち上げは考えたことがあるけど、あくまで余興でやってるだけだから勘弁ね。
飽きっぽい性格だから、たぶんモチベーションが持続しないと思う。それに最近はネタも枯渇しつつあるし、
このスレも続編を立てたはいいがどこまで続けることができるかどうか怪しかったり……。
そういう危ういバランスを保ったまま、這うように進んでいくだけです。


     罪人を突き落とした処刑場跡・三丁落鼻 与路島(よろしま)

鹿児島県は奄美群島に属する有人島の与路島。島には集落が1つしかない。
家々はサンゴを積み上げた石垣が連なり、南方系特有の景観が広がっている。標高297mの大勝山を中心に、ほとんどが山で形成されている。
そんな与路島には島の南側に『三丁落鼻』と呼ばれるいわくつきの断崖絶壁がある。ここはかつて藩政時代、罪人の処刑場だったのだ。
処刑法は罪人をこの断崖から突き落とすやり方。高さは優に100mを超える。落ちたらひとたまりもあるまい。

あるとき、役人が1人の罪人を引きつれて三丁落鼻に行き、刑を執行することになった。時刻はまさに太陽が東から昇ったばかりの早朝。
刑の執行前、罪人は役人に向かってこう言った。
「あんなきれいな太陽を前にして死んでいくのは忍び難い。どうせこの世から消え去るなら、せめてささやかな頼みを聞いてくれ。
どうか太陽を背にしておれを落としてくれ。そもそも海の方を向いて突き落とされるのは怖い」
「どちらに転んでも、もうすぐおまえは死ぬんだ。……よかろう」と、役人は了解した。

ところが突き落とす瞬間、罪人はとっさに役人の胸ぐらをつかむと抱きしめ、もろとも転落した。怒涛が2人をかき消した。
これ以来、三丁落鼻での処刑は行われなくなったという。


SIESTA 秘島・大島海峡クルージング
http://www.nippon-ocean.jp/plan/kakerom...
徒然なる奄美 与路島・海物語
http://amamiturezure.blog67.fc2.com/blog-entry-440.htm...
奄美ホライゾン日記blog
http://amahorizon.exblog.jp/i5/32...

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015 2013/11/04(月) 21:00:18 ID:Rltr9sTrYk
     サバイバルの殿様、リベンジャーとなり生還を果たす 玄界島(げんかいじま)

玄界島は福岡湾の出入口に浮かぶ離島だ。標高218mの遠見山を中心に斜面が海岸線まで続き、平地はほとんどなく、
港がある南側の斜面に集落が張り付くように軒を並べている。
玄界島には太古より『百合若伝説』が伝えられており、それにまつわる小鷹神社が鎮座している。
百合若伝説は日本八大伝説の1つで、室町時代には幸若舞として脚色され、のちに近松門左衛門の浄瑠璃に影響を与えているという。
その伝説とは以下のとおりである。

昔、豊後の国主である百合若大臣という巨漢の殿様がいた。百合若は唯一、鉄の弓を引くことができる名人でもあった。
あるとき遠征に出かけた際、部下である別府貞澄の裏切りに遭い、当時は無人島であった玄界島に1人取り残されてしまう。
しかし強靭な意志をもつ百合若は、必ず故国に帰ることを誓い、木で作った弓で魚を射ては、それを食って生き抜いた。
とはいえ島での忍従生活は無味乾燥なものだった。耳に入るのは波が打ち寄せる音だけ。目にするものは大海原と空のみ。
夜、寝そべり、夜空の星を数えるでしか無聊を慰めるしかない。いつしか孤独に打ちのめされ、心が折れそうになる。
しだいに着ている服はボロ同然となり、髪もひげも伸び放題、肌は真っ赤に日焼け、さながら赤鬼のように変わり果てた。
かつての地位は見る陰もなかった。

しばらく経ったある日、百合若が獲物を狙っていると、空から1羽の鷹が飛んでくるではないか。
紛れもない。それはかつて百合若が可愛がっていた『緑丸』に相違ない。幾百の孤独の日々に耐え忍んできた百合若にとって、
愛鷹との再会は天にも昇るようであった。
百合若はさっそく着物の端をちぎってそれを紙とし、指を切って血文字で自身の無事をつづり、妻宛にと緑丸の足に手紙をくくりつけた。
あとは緑丸が無事豊後の国に帰り、妻に届けてくれるよう願うしかあるまい。
ところが待てど暮らせど緑丸は戻ってこない。ある日、島を散策していると、波打ち際に緑丸が力尽きて死んでいるのを発見する。
百合若は嘆き悲しんだが、緑丸の足に妻からの伝言が結わえてあるのを見つけると、むさぼるようにそれを読んだ。
手紙によると、裏切り者、貞澄は大臣になっていた。しかも百合若の妻を奪った挙句、牢に閉じ込めたうえ、民衆には重税を課し、
自身を含め権力者たちは贅沢の限りを尽くしていた。民はいま、絶望に打ちひしがれているという。

百合若の身内に沸々とマグマのような怒りがこみ上げてきた。
このまま野垂れ死にしてなるものか。必ずや豊後へ舞い戻り、妻を奪還し、奴に復讐の一矢を突き立ててやる。
その願いが天に届いたか、1艘の難破船が漂着した。百合若はそれを修繕し、ついに玄界島を脱出。一路、故国を目指す。
折しも豊後の国では、貞澄が力自慢の部下を集めて、鉄の弓を引かせる催しに戯れていた。みごと弓を引けた者には褒美を取らすという。
部下はこぞって挑戦するものの、鉄弓はビクともしない。何人束になってかかろうがまるでダメ。
そのとき、屋敷の屋根の上で、呵々大笑する巨漢が現われた。その姿は髪もひげも伸び放題の汚い男。
「その弓はおれにしか引けん。どれ、やらせてみろ」と、男は言った。
時ならぬ狼藉者に貞澄は激怒した。「たわけたことを。だったら引いてみるがよい。もしも引けぬなら打ち首にしてやるぞ!」
巨漢は鉄弓を手にすると、やすやすと引き絞った。そして貞澄に矢を向けてこう言った。「貞澄、待たせたな、地獄の底から這い戻ってきたぞ。
このおれが誰だかわかるか!」
「……ま、まさか百合若? 生きていたのか!」
「貞澄、おれをひと思いに殺さなかったのが運の尽きだ!」百合若は言うと、矢を放った。矢は貞澄の心臓を射抜き、仇は桟敷から転落した。
その後、百合若は妻と再会を果たし、ふたたび大臣と返り咲いた。時間はかかったが国はもとの平穏を取り戻した。


百合若大臣wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%99%BE%E5%90%88%E8%8B%...
日本語と日本文化 幸若舞「百合若大臣」(日本版「オデッセー」の物語)
http://japanese.hix05.com/Performing/kowaka/kowaka02.htm...
Dailymotion動画 0126 百合若大臣
http://www.dailymotion.com/video/xkoef0_0126-%E7%99%BE%E5...
福岡県島めぐり 玄界島
http://www.yado.co.jp/sima/genkai/genkai.ht...

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016 2013/11/10(日) 07:32:34 ID:PVkXY47n6Q
     時間厳守の島 六島(むしま)

長崎県の野崎島から北約1kmにある小島を六島と呼ぶ。人口は年々減り、今では30人ほどしか住んでいない。
小中学校分校はすでに廃校となり、診療所もないどころか1台の車すらないんだとか。
野崎島の東南にある小値賀島の笛吹港から定期船が出ており、六島にも寄るのだが降りる人も乗る人もほとんどいない。

そんな六島であるが、1つだけ他とは異なる『島憲法』がある。というのも、六島は時間厳守の島として知られているのだ。
ここでは自治会長(1年交替制)が決められ、漁業の入金、公共料金の支払いなど、島のお金の出入りはすべて会長が一括して行っており、
いわゆる共和制度を今も残している。
そもそも時間に厳しくなったにはわけがある。明治時代に発生したある事故がきっかけとなったという。
昔から六島の周囲は潮の流れが速く、港の出入りは苦労が絶えなかった。あるとき、1人の島民が船の出発時刻に遅れ、
その間に潮の流れが変わってしまい、船が潮に揉まれるうちに転覆事故を起こした。
以来、六島では時間に遅れることは御法度となったという。

それゆえ、こんなエピソードも生まれた。ある日、葬式をするため別の島へ僧侶を迎えに行ったはいいが、
約束した時刻に僧侶が間に合わなかったので船はそのまま六島に引き返してしまった……。
厳しい自然環境に囲まれているからこそルールは厳格に守る。生きることはかくも真剣なのだ。


上五島・小値賀ポータルサイト 時間厳守の島 島憲法もある時間厳守の島・六島
http://www.japan-island.info/portal/guide?cntnts_id=59&gnre...
五島の歴史(パート7)
http://members3.jcom.home.ne.jp/honnjyo/120rekisi.ht...

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017 2013/11/10(日) 07:35:50 ID:PVkXY47n6Q
     哀れ白縫姫、蛇体となりて行方をくらます……『白縫姫伝説』 蛇島(じゃじま)

かつて長崎県佐世保市の九十九島に属する五島灘に、蛇島と呼ばれる無人島があった。
島には悲しくも不思議な伝説が語り継がれているが、今やそれも忘却の彼方に押しやられようとしている。

時は戦国の世。まさに争乱の時代。ここ佐世保城主の遠藤但馬守に白縫姫(しらぬいひめ)という美しい娘がいた。
あるときのこと、主筋にあたる相浦の飯盛城主・松浦丹後守親九郎親が、烏帽子岳の狩りの帰りに、この但馬館の門を叩いた。
他ならぬ丹後守の訪問とあっては歓待せねばなるまい。但馬館では酒席を設け、姫に舞いを披露させもてなした。

このとき、丹後守はあでやかに舞う姫の姿を一目見るなり虜となり、ぜひとも自身の側室にと申し入れた。
さりとて姫には赤崎伊予という婚約者がすでにおり、ましてや間もなく嫁いでいく身。
時の支配者、平戸の松浦鎮信の弟でもある丹後守といえば、遠藤但馬守にとって平伏せざるえない存在であったが、
娘のことを思えばこそ、丹後守のしつこい申し出に首を振り続けた。
丹後守は諦めきれない。どうしても白縫姫を我が物にしたかった。ついには但馬守に対して怒りを憶えた。

やがて横恋慕は、但馬謀叛にかこつけて但馬館を急襲し、姫を力づくで奪おうとまでエスカレートしてしまう。
不意をつかれた但馬館はたちまち炎上。戦闘もあえなく片付き、ついに落ちた。
ところが丹後守は血眼になって館を探すものの、白縫姫の姿は見当たらない。
兵士たちも姫の行方を追って将冠岳の頂上近く来たとき、突然、岩穴の中から白い煙とともに1匹の白い大蛇が這い出た。
そして兵士たちが驚嘆しているのをよそに悠然と山をおり、佐世保浦のあたりから海に入って、赤崎館の方へ向かって泳いでいった。

しかしその蛇体は途中の小島でふっつりと消え、二度と姿を現すことはなかった。
これを目撃した人々は、きっと姫の一念が蛇の姿に変え、愛しい赤崎伊予がいる赤崎館に向かって渡ろうとしたが、
力尽きて無人島で死んでしまったに違いないと思った。それからというもの、誰がともなくこの島を蛇島と呼ぶようになった。

とはいえ1905(明治38)年、この島を利用して大繋船池が作られると、巨大なコンクリート岸壁の下に埋もれて、
蛇島は見る陰もない姿に変わり果てた。そういうわけで、この伝説もいずれ忘れられていくのだろう……。


佐世保人グスタフの熱情と冷静の間 蛇島伝説①
http://sasebodaisuki.blog38.fc2.com/blog-entry-123.htm...
長崎県佐世保市の民話 福娘童話集 きょうの新作昔話 蛇島(じゃじま)
http://hukumusume.com/douwa/new/2014/07/21.ht...
がんばらんば! 佐世保民商 佐世保と、その周辺(15)「島の伝説・昔話」・・・巻さんのコラム
http://sasebominsho.blog123.fc2.com/blog-entry-164.htm...

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018 2013/11/10(日) 15:14:00 ID:uyAVWtO8d2
この膨大かつ貴重な資料を
ここだけにとどめておくにはあまりに惜しい
自分もサイトを作って欲しいと思う
ここに記した情報をまとめるだけでいいからさ
片手間にでもやってもらいたい

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019 2013/11/10(日) 18:28:40 ID:nb0NvyCJHg
>>18
あれま……まさかこんなに反響があろうとは。
職場の人にも当スレを紹介すると、同じように勧められることがあるけど(そのたびに島マニアは変人扱いを受ける)、
こんなことより他にやりたいことがあるのになあ……。
確かにこれまで書いたレスも、誤字脱字・蛇足があったりして修正したいとは思ってたんだよね。
ここ最近、必ず土日か祭日のみ更新できるよう鉄の規則を己に課し(平日の夜はしこたま酒が入ってて、マトモに文が書けません)、
なんとか続けられているのは救いだけど、仮にサイトを立ち上げたはいいが、コンスタントにネタがひねり出せるかどうか不安なのよ。
しょっぱい話ばかり続くのはなんとしても避けたいし。
……まあ、前向きに考えておきます。どうせやるなら隙のないものを作りたい。そのためにはさらなる資料の調達が必須。

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020 2013/11/10(日) 18:37:14 ID:nb0NvyCJHg

     熊野川に御船明神が祀られた島あり 御船島(みふねじま)

我々は『島』をイメージするとき、ほとんどの人が海上に浮かぶシルエットを思い浮かべるにちがいない。
前スレを含め、9割方、海という水域にある島を取り上げてきた。変化球をつけるべく湖中の島もやった。
前スレ>>412の猫島などは巨大な池の中のソレだった。
島の定義によれば、「四方を水に囲まれた小陸地を島と呼ぶ」とある。とすれば、あとは川の中の島も選んで然るべきかもしれない。
実は以前から『川中島』(仮にこう命名する)で狙っていたネタがあった。それもわりと僕の地元近辺にあるのだから、ますます見すごせない。
それが御船島である。三重県南牟婁郡紀宝町に属し、熊野川河口より約2km上流に位置する堆積岩から形成された小島で、当然ながら無人島だ。
実はこの御船島、少し離れた対岸に鎮座する熊野速玉大社(和歌山県新宮市)の社地として指定されており、島には御船明神が祀られているという。

毎年10月15から16日にかけて、熊野速玉大社の例大祭として『熊野速玉祭』という神事が催される。
そのとき15日を『神馬渡御式(しんめとぎょしき)』とし、翌16日を『御船祭(みふねまつり)』が行われる。
速玉大社は『熊野十二所権現』と総称される複数の神を祀るが、本祭礼はその中でも主祭神である速玉大神と夫須美大神に対してのもので、
宗教民俗学的な解釈にしたがえば、常世から来た神霊が熊野川を遡上して御船島に鎮座したあと、乙基河原を経て新宮に遷座したという熊野権現来臨の
ありさまを演じた祭りである。

特筆すべきは16日午後の御船祭。
熊野夫須美大神(くまのふすみのおおかみ)が年に一度、神幸船で御船島に渡り、ふたたび速玉大社の社殿に還ってくるという神事で、
夫須美大神が来臨した様子を再現する祭礼のことだ。
神輿から神霊が諸手船(もろとぶね)に曳かれた神幸船に移されると、雅やかな神楽が奏される。
すると熊野大橋下の川原で艫(とも)を岸につけて一列になっていた9雙の早舟が我先に岸を離れる。
舟を操る男たちは川上を遡り、はるか御船島を目指すのだ。そして御船島を3周して対岸の相筋河原にゴールする上がりの早舟競漕が始まる。

上がりの早舟競漕が終了すると、斎主船に曳かれた諸手船、神幸船が上がってくる。
諸手船の上では女装の演者が櫂を回して、行く手を望遠するしぐさの『ハリハリ踊り』が行われる。
斎主船が相筋河原に着くと、御船島の上に立つ神職の合図で、下りの早舟競漕がスタート。岸で待機していた早舟が御船島を2周して神社裏の河原にゴールする。
神輿に遷された神霊とともに神職ら一行は御旅所へ渡御し、前夜と同様の祭儀を執行したあと、夜中、神霊を奉じて大社に戻り、
神霊を大社の第二殿におさめて、祭は幕を閉じる。

このような緒手船神事のなかで9隻の舟が競漕する船渡御は全国に類例がなく1800年以上の伝統を誇るという。
勇壮な競漕を見せる早舟は古式を保った舟形で鯨船の祖形といわれ、中世に強力な武力をもってその名を知らしめた熊野水軍の面影を偲ばせるもの。
『夫木和歌抄(ふぼくわかしょう)』という鎌倉後期の私撰和歌集に御船島が登場する歌がある。

 「三熊野のうらわにみゆるみふね島 神のゆききにこぎめぐるなり」


熊野速玉大社
http://www2.ocn.ne.jp/‾sanzan/NTTcontents/hayatama/index.htm
HBのページ 御船祭り
http://blog.murablo.jp/crushkun/kiji/15587.htm...
熊野ヒーリング 熊野速玉大社例大祭〜御船祭
http://blog.murablo.jp/kumano-healing/kiji/268628.htm...
YOMIURI ONLINE 傷ついた聖地 復興への祈り
http://www.yomiuri.co.jp/zoomup/zo_111031_01.ht...

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021 2013/11/10(日) 19:30:29 ID:nb0NvyCJHg
今日の午前中、外出したついでに熊野川まで足を伸ばし撮影してきた。撮れたてホヤホヤの御船島です。ところがあいにくの天気。
>>19の画像は拾いにすぎない。まさに御船祭の最中を写したものだろう。恐らく結構昔の在りし日の姿だ。
現実は2011年9月に発生した台風12号による紀伊半島豪雨で、周辺一帯のみならず、御船島も甚大な被害を受けた。
熊野川が氾濫し、この島も濁流に飲み込まれたのだ。以前はこんもりと木々が繁茂し、杜御用達の島としての風情を醸していたが、
木々はなぎ倒されてすっかりハゲ山と化し、瓦礫が積み重なった見るも無残な姿をさらしていたものだ。
あれから2年2ヶ月。瓦礫は撤去され、島はどうにか以前の面影を取り戻しつつある。

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022 2013/11/10(日) 19:33:04 ID:nb0NvyCJHg
真横のアングルだとこんな感じ。……なんていうか、ゾウリムシみたいな形をしていると思う。趣もへったくれもない比喩だ。
頭上は曇天にくわえ、川面もまったく透過しない翡翠色を湛えており、お世辞にもいい画だとは言い難い。
ちなみに葉陰から、はるか彼方に垣間見える赤い欄干が熊野大橋。

河原近くまで降りられるよう階段が備え付けられていたが、まわりは薄暗い森に囲まれ、折からの雨でジメッとしたうえ、
人っ子1人見当たらない。下まで行くのは気が削がれたのでやめた。また機会があれば。
今年の御船祭も終わったことだし、この時期に興味を示すバカは僕しかいまい。

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023 2013/11/10(日) 19:41:17 ID:nb0NvyCJHg
>>21
>>20の画像の間違いね。

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024 2013/11/24(日) 11:11:55 ID:BP56SEy2WQ
     日本が誇る3大景勝地の1つに神秘の7不思議あり 宮島(厳島) 1

言うまでもなく厳島神社の社が鎮座する宮島は、広島県廿日市市宮島町、広島湾の北西部の海上に佇む朱塗りの大鳥居が印象的な島だ。
この大鳥居は高さ16mもあり、海底に固定されておらず自重だけで立っている。日本が誇る松島・天橋立と並び、3大景勝地の1つとして有名である。
現在では人口1800人あまりの島に、国内外から年間300万人を超える参拝客および観光客が訪れており、2011年には、世界最大の旅行クチコミサイト
『TripAdvisor(R)』の日本法人・トリップアドバイザーが『外国人に人気の日本の観光スポット』のトップ20の堂々1位に輝いた。

前スレを含め、当スレでは『神の島』の異名をもつ島をくり返し紹介してきたが、宮島はその名に恥じぬ最たる例であろう。
宮島が太古より神の斎(いつ)く島として崇められるようになってからの歴史は古く、史実に名を連ねる多くの人物が崇敬してきた。
とりわけ平家清盛・平家一門の宮島崇拝は有名で、舞楽、清盛の保元の乱、平治の乱の勝利や官位昇進につれ、その信仰は年ごとに篤くなり、
仁安3年(1168)には、神社の造営まで行っている。
また平安朝の建造物から江戸時代にかけての美術品など国宝や重要文化財などを含め、多くのものが収蔵されている。
平成8年には厳島神社が世界遺産に登録を果たした。

宮島は島自体がご神体であり神域とされるため、血や死といったケガレの忌避は顕著であるという。
島で死人が出た場合、すぐに対岸の赤崎の地に移して葬るとされている。赤崎は現在のJR宮島口駅のやや西にあり、
かつては遺族は喪が明けるまで島に戻ることができなかった。この風習は第二次世界大戦ごろまで続いていたという。
それにともない、島には墓地がないそうだ。墓そのものを築いてはならず、それは現在とて1基もないほど。
また島の女性に出産が迫ると、対岸に渡って出産後、100日を経て島に戻るしきたりであった。女性は生理の時期には、町衆が設けた小屋ですごした。

……あの有名な宮島を、当スレに載せてしまうのはいささか暴挙とも言えるかもしれない。
しかしながら厳島神社特有の7不思議(実際は7つどころではない)の神秘は、あながちスレチとも言えまい。
もっとも、あまりにも多いため列挙するだけにとどめるが。

1.宮うつし貝……大鳥居の根潟にいる白い貝の殻には、鳥居や神社の形をした模様が入っているという。採るのはおろか食すると罰が当たるとされる。
2.猿の口どめ……毎年10月の初申祭で『口どめ』の行事が行われる。この日は、島で大きな声や物音を立ててはならない。
3.つもごり山伏……大晦日に行われる鎮火祭は、元は大聖院の祭りだった。大聖院から厳島神社拝殿まで山伏が松明を持ってほら貝を吹き、
火の粉をまき散らしながら走り抜ける行事。不思議なことに、この火が原因で火事になったことは一度もない。残り火は火事よけのお守りになるとされている。
4.多賀江念仏……毎年旧暦7月16日、17日は『厳島おどり』の日。昔々、多賀江兵衛なる大将が、厳島おどりの夜、戦船で沖を通りかかった。
島じゅうの人間が浜で踊っていたのを見て、激怒した兵衛。「兵たちが戦をやっているというのに、不謹慎ではないか!」と、船上から怒鳴った。
とたんに神罰がくだり、兵衛は船もろともに沈没。その後、死んだ兵衛の亡霊が夜な夜な沖を通る船に悪さをするので、厳島おどりの夜、
念仏百万遍を唱えて兵衛の霊を鎮めるようにした。これが多賀江念仏の始まりだという。
5.そとば石……昔、平康頼という人物が、薩摩の鬼界ヶ島に流罪になった。都に1人残した母を思い、康頼は墓に立てる卒塔婆に、
「薩摩潟 沖の小島に われありと 親につげよ 八重の潮風」という和歌を千枚書いて海に流した。
その卒塔婆の1枚が厳島に漂着し、たまたまお参りにきていた康頼縁者の坊さんが見つけて都の母に届けた。
康頼の母は70を超える高齢で、息子の流した卒塔婆をかき抱いて泣いた。やがて康頼は罪を許されると、無事に母のもとに帰ることができた。
康頼はこれも平家一門を日ごろからお守りくださる厳島明神のおかげと、大きな灯篭を神社に寄進したという。

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025 2013/11/24(日) 11:17:52 ID:wDBSlux00.
     日本が誇る3大景勝地の1つに神秘の7不思議あり 宮島(厳島) 2

6.干満岩……弥山の8合目にある目洗薬師のそばの干満岩には、1mもない浅い穴が口を開けている。
穴には水がたまり、海の満ち干にあわせて増減する。塩分を含んだ水で、この水で眼を洗うと眼病が治ると言われている。
岩穴は標高約500mの地点にあり、いまだ科学的証明がなされていない奇現象らしい。
7.宮島の神馬……厳島神社に献上された馬は、ふつうの毛並みの馬も、4、5年も経つとみな白馬に変わる。
8.消えずの火……弥山には1200年間、絶えることなく燃え続けている霊火がある。
大同元年(806年)、弘法大師が弥山山頂で100日間に及ぶ求聞持(ぐもんじ)の秘法を修して以来、今日まで途絶えることなく燃え続ける霊火だという。
この火で沸かした霊水は万病に効くと言われている。また、明治34年(1901年)に操業を始めた八幡製鉄所の溶鉱炉の種火や、
広島市の平和記念公園の『平和の灯』の元火にもなった。

9.拍子木の音……深夜、人の気配のないところから拍子木の音が響き渡るとされている。
10.龍燈の火……旧正月の初旬の夜になると島周辺の海面に出没する謎の灯りを龍燈という。
この龍燈がもっともよく見える弥山頂上の大杉は『龍燈の杉』と呼ばれた。現在この杉は枯れてしまったが、それらしき根株が残されている。
11.錫杖の梅……弥山本堂のすぐ西の脇にある八重咲きの紅梅。弘法大師が立てかけた錫杖が根をはり、ついには梅の木になったという伝説が残っている。
毎年美しい花を咲かせるが、山内に不吉な兆しがあると咲かないらしい。
12.しぐれ桜……どんな晴天の日でも時雨のように露が落ち、地面は通り雨がすぎ去ったように濡れる不思議な桜。
江戸時代に発行された『厳島図会』にもその奇妙な現象が記されているとか。現在は伐採され、切り株だけが残っている。

13.曼荼羅岩……弘法大師が石面に梵字と真字で、「三世諸仏天照大神宮正八幡三所三千七百余神云々」と刻んだ数十畳の大岩がある。
14.誓真井戸……誓真氏は宮島杓子の考案者として知られており、宮島では数々の公共事業を行った。なかでも飲料水の不足に苦しむ島民のため、
各所に井戸を掘った。その井戸はどんな干ばつのときにも枯れることがないという。
15.奥の院の迷い道……上述したように島には墓地はなく、対岸の宮島口に埋葬する。しかし死後50年経つと仏が神になり、宮島に帰ることができると
言い伝えられている。50回忌を済ませると宮島の奥の院に卒塔婆を立て供養する。奥の院に卒塔婆を立てに行った多くの人が不思議な体験をしている。
奥の院に行こうとしても、なぜか元の道に帰ってしまう迷い道があるという。
16.暗い山……宮島の山中には日中でも日の差さない暗い山がある。宮島の山は神域なので、奥は手付かずの原生林そのままなのだから無理もあるまい。


宮島観光公式サイト 人と神々が共に生きる島〜宮島 嚴島神社
http://www.miyajima-wch.jp/jp/itsukushima/index.htm...
一般社団法人 宮島観光協会
http://www.miyajima.or.jp/index.htm...
御山神社
http://www.7kamado.net/misen.htm...
キャンピングカーで放浪の旅 世界遺産の島、宮島を歩く 〜厳島神社、千畳閣、大聖院 他〜 他(2010/4/8)
http://akkamui21.blog39.fc2.com/blog-entry-926.htm...
下川友子オフィシャルブログ「あなたに神様の光がとどきますように・・・☆」 厳島神社のパワーの元は・・・??奥宮〜☆ 御山神社
http://ameblo.jp/tomo-chupi/entry-10462001265.h...

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026 2013/12/01(日) 01:03:01 ID:m1nh0gAucY
     ダイダラボッチが作った島 礫島(つぶてじま)

静岡県浜松市の浜名湖には唯一の島である礫島が浮かんでいる。松に覆われた、ほんの200㎡の無人島にすぎない。
島には鳥居があり、その先には1617(天和3)年に琵琶湖の竹生島から移設した市杵島姫と弁財天を祀った礫石神社がある。
竹生島の成り立ちは前スレ>>238で紹介したとおりだが、この浜名湖の礫島の誕生もなかなか味わい深い説話が語り継がれている。
というのも、ダイダラボッチ伝説がかかわっているからだ。ダイダラボッチといえば伝説上の巨人のことだが、
なぜか日本にはこの手の話がよく転がっており、彼らの正体がなんであったのか食指が動くところ。

その礫島の誕生の話がこうだ。
かつてこの地に住むダイダラボッチは、富士山が地元の秋葉山より高いことに腹を立て、秋葉山に土を盛ろうとした。
土を掘った窪地こそ、のちに浜名湖となったという(あるいは転んだ拍子に地面に手をつき、手の平の跡が浜名湖になったという説もある)。
またダイダラボッチは作業の途中で疲れ、浜名湖のそばで腰をおろして握り飯にかじりついていた。
その握り飯の中に小石が混じっていたのを発見。ダイダラボッチはそれをつまんで放り投げた。そのときの小石が礫島だと伝えられている。

浜名湖周辺には他にもダイダラボッチにまつわる伝説が点在している。
下気賀の北にある姫街道沿いに小さな池があり『ダイダラボッチの足跡』と言われるし、石巻山の中腹にも同様の足跡がある。


ダイダラボッチwikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%80%E3%82%A4%E3%83%...
礫島
http://homepage3.nifty.com/y-iwata/densetu/tubutejima.ht...
eしずおかブログ 静岡 新“十”不思議第8話 ダイダラボッチ伝説
http://shin10fushigi.eshizuoka.jp/e947892.htm...
ナルキッソスの黄昏 歴史雑学と世界的ニュースまとめ ダイダラボッチの正体は?
http://narcissu.doorblog.jp/archives/31660273.htm...
アプリ学園 【重要まとめ】「進撃の巨人」がブームだから世界中の巨人についてまとめてみた【進撃の巨人 デジタルフォトステッカー】
http://appgaku.com/iphone-pickup/2013/06/20130619...
わらじ祭り公式ホームページ
http://www.warajimatsuri.jp/

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027 2013/12/01(日) 01:06:34 ID:m1nh0gAucY
     島のヌシたる大蛇に相対し、潮垢離を済ませ正装し口上を述べる 比岐島(ひきじま)

愛媛県今治市桜井港沖、約6kmにある有人島である比岐島。
桜井地区の漁業者が移住して開拓した島で、もっとも多いときには70人を超える人口があったが、それも昔の話。
平成22年の国勢調査では1世帯人口3人まで減り、今や風前の灯となっている。だからこそ島の話をこのスレにとどめておきたい。
比岐島は慶長年間(1596〜1615年)に松の造林がなされ、最初の島民となる『守役人』が置かれた記録がある。
阿部家所蔵の古文書『当島言伝控書』にはその歴史が克明に記され、同時に不思議な大蛇伝説が添えられているのだ。
その経緯が以下のとおりである。

昔、玉川町の法界寺に利右衛門(りえもん)という農民がいた。ある日、利右衛門はもののはずみで大罪を犯してしまう。
打ち首にはされたくない。利右衛門は罪を償うため、比岐島に松の木を1万本植えることにより島を開拓してみせるので、
どうか命だけは助けてくれるよう、藩主をはじめ役人に願い出た。
当時の比岐島といえば、人が分け入ることができないほど雑草が生い茂り、樹木すら生えていない荒地だった。
利右衛門の必死の訴えが通じ、島での開拓作業が言い渡された。それからというもの利右衛門は島に入ると死に物狂いで働き、
3年がけで松の造林をやってのけた。

利右衛門はこうして放免され島から引き上げていった。それからあとは島に渡る者がなく、せっかくの造林も荒れてしまい、
たまりかねた今治藩主は、お触れを出して守役人を募った。
ところが名乗り出る者はいない。そこへ誰もいかぬなら私が行こうと、阿部孫左衛門(大庄屋曾我部三郎衛門の次男)が藩主に申し出た。
生来、豪胆で名が通っている孫左衛門は、松の木1万本を10万本に増やしてみせると誓ったほどであった。
この男、決断は早い。自身の3.6haほどの土地を売り払うと島へ渡り、さっそく住居の建築にとりかかった。

ところが比岐島開拓に暗雲が垂れこめる事件が起きる。
大工や左官を呼んで家を建てている最中に、突如草むらがガサガサと音がしたかと思うと、大蛇が姿を現わしたではないか。
その大きさたるや頭が3升樽なみ、長さ4.5mにも及ぶ巨大サイズ。その大蛇が家の棟に長々と巻き付いたうえ居座ったからたまらない。
大工と左官はあまりの恐ろしさに島から逃げ出すほどであった。

孫左衛門は腹を決めた。衣服を脱ぎ、海に入って身を清め、袴に袖を通した。
そして棟に居座る大蛇の前に平伏してこう言った。「あなたはこの島の主とお見受けします。私はこの島の開拓者として、
同時に見守り役として任命された者でございます。どうか私の仕事を無事完遂させていただきたい。
まずはあなた様がこの場から立ち退いてくれるようお願いします。その際には後日、祠を建て、
この島の産土神(うぶすながみ)として祀ることを約束いたします」

大蛇は孫左衛門の口上を理解したらしく、棟から巨体をすべらせると東の山へ去っていった。
後日、約束通り祠を建ててこの大蛇を祀り、これを氏神とした。
そのあとも例の大蛇が出たとの話が残っているが、やはり孫左衛門同様、みそぎをして拝むと、いずこともなく消え去ったという。
現代の比岐島では大蛇のことを『長い人』『あの人』『巳さん』というふうに人格化した呼び方をしており、大蛇の祠を丁重に祀り、
好物の卵やあずき飯が供えられるという。


旅、島、ときどき、不思議 今日は、人口6人の比岐島を紹介
http://ameblo.jp/tokaraushi/entry-10459814355.h...
日本の島々 日本の島、比岐島(日本に残された電気のない有人島)
http://islands.cocolog-nifty.com/blog/2007/05/post_22aa.htm...
今治商工会議所 六、動物に関するもの
http://www.imabaricci.or.jp/contentscci.php?prm=densetsu_...
教えて!goo 大蛇のいない日本で大蛇伝説が多いのはなぜ?
http://oshiete.goo.ne.jp/qa/2425223.htm...

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028 2013/12/07(土) 19:29:53 ID:BEXLi7FV9I
     干拓事業の際、人柱ならぬ犬柱を立てた歴史 青島

青島と呼ばれるごくありふれた島名は全国に星の数ほどあるが、最近は愛媛県大洲市の青島が猫好きの間で話題となっているのは、
こちとら先刻承知である。
島民たったの15人に対し、猫は優に100匹を超えており、『猫密度』は今や宮城県石巻市の田代島をも上回っているらしい。
だが今回紹介する青島は別の青島だ。猫の楽園ではなく、犬がいない島の方だ。
愛猫家御用達の島はスレタイに反しているので今回は見送らざるを得ない。

長崎県松浦市の北松浦半島の先端から北東へ1.3kmの位置にその青島は浮かんでいる。
昔は満潮になると低い部分は海に沈み、3つの島に分かれていた。北から『崎の島』、『中の島』、『南島』と呼ばれ、
島民と河童の河太郎(がたろう)一族が一致団結して1つの島にしたという民話『長者と河太郎』が残されている。

また江戸時代の干拓事業の際には、難工事を成功させるため人柱ならぬ犬柱を立て、神に祈願したという伝承も伝えられている。
それ以来、犬は神の眷属として尊ばれ、飼うのは御法度とされたという。
前スレ>>87の田代島や>>289の篠島、加えてこの青島のように、なぜか犬を飼うのがダメという島が多く、大変興味深い。
もっともそんな青島だが、最近はこのタブーも古臭く思われるようになったのか、犬を飼う人も増えてきたらしいが。


FUJIKAZEのちょっとピンボケな日々 生まれた島へ!(生家は何処・・・)
http://fujikaze.cocolog-nifty.com/blog/2013/05/index.htm...
山野草図鑑歳時記2
http://blogs.yahoo.co.jp/ryujumihouchida/61221213.htm...
長者と河太郎(がたろう)
http://www.eonet.ne.jp/‾nagasaki/kappa/aosima.htm

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030 2013/12/15(日) 17:51:07 ID:StlHc2JQ/A
     寄磯兄弟獅子 網地島(あじしま)

宮城県牡鹿半島の寄磯浜では、ある獅子舞にまつわる不思議な伝承が残されている。
文永3(1266)年建立の神石碑が鈴木寛也氏宅の角にある。その背後の東森山頂上には、住民が海上安全を祈願した『安波大明神』が祀られている。
『安波大明神』は関東から東北地方にかけての太平洋側の漁村で信仰されている神様であり、女神やお船霊様であるとされている。

寛永18(1641)年ごろには寄磯集落の人口は30人以上になり平和な日々を謳歌していたが、天保4(1835)年に大飢饉が起こり、
人々は食料を確保するため時化であるにもかかわらず出漁しなくてはならないほど困窮していた。
そんな綱渡りのような生活をしていたある日のこと、渡辺平五郎なる人物が漁に出ているとき、急な天候の悪化に遭遇。
波浪高く荒れ狂い、小船はたちまち大破して船子たちは絶体絶命に陥った。そこで船子たちは藁にもすがる思いで安波大明神を念じた。
安波大明神のご利益があったのか、小船はなんとか海岸にたどり着き、命拾いすることができた。
渡辺平五郎はこの海難事故から生還できた報恩御礼として、安波様を一層信仰するために天保6(1837)年、新たに安波大杉大明神の石宮を建立。
みずから神主となり、若者に呼びかけ『神風講(じんぷうこう)』という団体を組織し、毎年旧正月16日を祭日と定め、祈願するに至った。

時同じくして、他の地域では正月の行事として獅子舞が盛んに行われていた。寄磯においても先に述べた天保4年の大飢饉に続き、
大暴風、大洪水などが相次いで起こり、加えて悪病が流行。生活苦の辛酸を舐めていた神風講においても、
天下太平・五穀豊穣・家内安全・海上安全・大漁満足を祈願するべく獅子舞を舞わせることにしたのだ。

しかしながら、これほどの困窮を救えるのは霊験あらたかな獅子であり、よほどの名作でなければなるまい。
方々を探していると、網地島から来た遠藤英助信近という人物が興味深い話を語るのだ。
ちなみに網地島は宮城県牡鹿半島の最南端に位置する有人島。大きさは周囲20.7km、広さ6.43k㎡。細長い形をしており、
島のほとんどが南三陸国定公園特別地域に指定されている。この網地島もまた猫がたくさんいる島として知られている。

遠藤氏いわく、「網地島に獅子が2振りあり、時折その箱の中から不思議な音がする。
何度開けても箱の中には獅子しか入ってなかったが、ためしに別々に収めたところ、音はそれっきりしなくなった。
もしや元気な2振りの獅子が追いかけっこでもして暴れていたのではないか」

これを聞いた神風講は、これほどの不思議な力をもつ獅子であればご利益があるかもしれないと信じ、ただちに網地島へ向かい交渉した。
すると獅子1振りと、付属品として天狗の面、大小の木刀を譲り受けることとなったわけである(この獅子は天保6年の作と伝えられている)。
これを受けて神風講では獅子舞の唄を作り、笛太鼓の囃子をもって旧正月の16日、安波大明神の祭礼にて行うことになった。
以来、悪病の流行もおさまり、牡鹿半島の人々は平和な年月を送ることができた。
もっとも慶応年間の大火災に遭遇した際には、この獅子を燃やしてなるものかと、神主の井戸に入れて守り、
明治13年の大火災のときは渡辺松雄氏宅の井戸に入れてどうにか消失は免れたものの、度重なる火災で汚損が著しく、獅子舞ができなくなってしまう。

その後、遠藤栄四郎氏が東京で獅子を購入し寄付してくれたので、ふたたび獅子舞を始めることができるようになったが、
獅子を振るたびになぜか雨天が続き、困り果てた末、結局網地島から譲り受けた獅子を修理して行うようになったという。


網地島ラインホームページ
http://www12.ocn.ne.jp/‾ajishima/
石巻百景: 石巻観光案内(4)網地島・田代島
http://ishinomaki-photo.blogspot.jp/p/blog-page_13.htm...
宮城県牡鹿半島寄磯浜のアンバサンに見られる里海の記憶
http://archive.is/VlI4...
あじ島冒険楽校 「昔の子供たち」から「未来の大人たち」へ 「島の夏休み」体験 宮城県 石巻 牡鹿
http://plaza.rakuten.co.jp/ajisima/diary/200608040000...

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031 2013/12/22(日) 09:15:35 ID:HouxoVDPTE
     友は鳥となり相棒を助ける頓石物語 与那国島

おおッ……この画像は、まさしく前スレの顔になっていた与那国島の立神岩ではないか。
スレ画に選ばれていたのだから、なんらかのいわくがあるに相違ない。
このような立神岩は、古くから神が佇んでいる姿と見立てられ、信仰の対象とされてきた。
与那国島のソレも例外ではなく、別名『頓石・トゥンガン』と呼ばれ、案の定こんな伝説が語り継がれているのだ。

その昔、与那国島には2人の仲良しの若者がいた。1人は屈強な身体つきの乱暴者、もう1人は美しい顔立ちをした華奢で心優しい若者だ。
島の娘たちのお目当てはもちろん優しい若者の方。優しい若者が歩けば、娘たちが列をなしてついてくるほどだった。
しかしそんなにモテながら優しい若者は娘たちに詫びて、1人ぼっちになっている乱暴者のところへ行くのが常だった。
そして2人で寝転びながらクユ(与那国島の言葉で『月』)を眺めては肩を並べて家路に着くのだった。

島の南側は断崖絶壁になっている。絶壁には冬になると海鳥が巣作りをする。島民たちはこの時期に卵取りをするのが楽しみになっていた。
ある日のこと、乱暴者が優しい若者の家を訪ねて、一緒にトゥンガンに登って、平久保大鳥(アホウドリとの説もある)の卵を取ってこようと
誘う。優しい若者は危ないからやめろと止めるが、乱暴者は頑として引かない。結局2人してトゥンガンへ足を運ぶことにした。

崖の下から海へ50歩のところにトゥンガンは直立不動の姿勢で佇んでいる。見上げると天を衝くごとき高さである。
怖気づく優しい若者を尻目に、乱暴者はどんどん上へよじ登っていく。
ためらっていた優しい若者も、勇気を振り絞ると岩にかじりつくようにして登った。そして2人はどうにかてっぺんにたどり着いた。
2人は手を取り合って喜び、平久保大鳥の卵を取れるだけ取って、さあ帰ろうとしたとき、突然足元の岩が崩れて、
うっかりアングインナ(縄)を落としてしまう。
乱暴者は心配するなと言って相方を慰め、岩を降り始めた。ところが乱暴者は途中で手を滑らせ、真っ逆さまに落ちてしまう。
落下しながらも彼はこう叫んだ。「大丈夫だ。きっと助けがくるから待っていろ!」
自身の命よりも友の身を案じたこの言葉に、優しい若者は岩の上で泣き叫んだ。

幼少のころ、ひ弱だった優しい若者は、いつも他の子供たちにいじめられていた。そんなときはいつも乱暴者が助けてくれたものだ。
大人になると乱暴者は島民から嫌われ、逆に彼は娘の注目の的となった。
とはいえ、子供のころから優しい若者のことを気にかけてくれた真の友人は、実は乱暴者だけだったのだ。
泣き疲れて眠ってしまった若者は夢を見た。夢の中では大きな平久保大鳥が優しい若者の頭上を飛んでいた。
平久保大鳥は旋回しながら叫んだ。「待ってろ、今助けてやるからな」

そして若者が眼を覚ますと、そこはトゥンガンの頂上ではなく、地面の上だったのだ。不思議にもかすり傷の1つもついていない。
若者は大いに喜び、友と神様に感謝した。
このできごとがあってから、人々はこの岩を立神岩と崇めている。岩の前を行き来するときは、被り物を脱いで通るという。


美ら島物語 立神岩
http://www.churashima.net/shima/yonaguni/l_20010508_2...
琉球沖縄を学びながら、いろいろ考えていきたいな〜 与那国の頓岩の由来〜新『球陽外卷・遺老說傳』第44話
http://totoro820.ti-da.net/e4393811.htm...

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032 2013/12/22(日) 09:19:57 ID:HouxoVDPTE
     沖縄にも巨人伝説あり……その正体は? 伊江島

>>26の礫島でダイダラボッチ伝説を取り上げたが、沖縄にも類似の話が残されているようだ。
舞台は沖縄本島北部、本部半島の北西9kmの海上にある伊江島。
伊江島は俯瞰から見下ろせば中央がくぼんだ楕円形状をしている。東西8.4km、南北3km、総面積は22.77k㎡であり、
島の中央は標高172mの城山(ぐすくやま・通称『イージマ・タッチュー』)がそびえているのが印象的だ。
その山の頂上に、これまた『巨人の足跡』が残されているのだ。伊江島には古くから『力(ちから)タンナーバ』という大男が住んでいて、
彼にまつわるものだという。
隣村との戦いでタンナーバはタッチューに登り、迫り来る軍勢に岩を持ち上げて投げつけ、敵を追い払ったと伝えられている。
その際、踏ん張った地面にこの足跡ができたとのことだ。

……そもそもこれらの巨人伝説とはなにを意味するのだろう?
前スレ>>277の入砂島でも言及した『天人(あーまんちゅ)』も開闢の神であり巨人であるし(これは史実に基づかれたとは言えないが)、
同じく前スレ>>122の与那国島の女傑『サンアイ・イソバ』も身の丈180cmを超え、牛や馬よりも大きな身体をしていたという逸話がある。

人類学の分野でいえば『港川人』から1万年以上、人骨は発見されていなかったそうだ。
しかし近年、港川の近くのガルマンドゥ洞窟からは、縄文後期のものと思われる7体の人骨が発見される。
この人骨を調査した結果、これまで出土した人骨よりも骨のサイズが大きいことが判明。
身長にすると約160cmほど。現在の沖縄の人々につながる南西諸島弥生人と、『港川人』は身長が極端に低かったことを考えると、
その間を埋めるガルマンドゥ洞人に代表される沖縄の縄文人だけが大きかったことは一体なにを意味するのだろうか?
当時の沖縄の人より背の高かった巨人たちは、漂流してきたフェニキア人ではなかったのではないかとの説もある。


ハイヌミカゼHome 伊江島タッチュー(城山)
http://www.hainumikaze.com/iejima/iejima-tacchuu.htm...
沖縄に行く前に! 伊江島の伝説
http://okimae.higepapa.com/?eid=34799...
巨人 (伝説の生物)wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B7%A8%E4%BA%BA_(%E4%B...
港川人wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B8%AF%E5%B7%9D%E4%BA%...

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033 2013/12/22(日) 09:33:06 ID:HouxoVDPTE
     実在した伝説の巨漢力士・生月鯨太左衛門 生月島(いきつきしま) 1

長崎県の平戸島の北西にある島、生月島は前スレ>>261で『だんじく様』を取り上げてしまい重複になってしまうが、
そんなことは知ったことか、である。巨人つながりで偶然ネタを見つけたので、併せて紹介しておくべきだと思ったからだ。
それが『生月鯨太左衛門(いきつきげいたざえもん)伝説』だ。

生月島の英雄力士、生月鯨太左衛門は記録によると、江戸時代の終わりごろである文政10(1827)年の3月21日、舘浦に生まれ、
天保15(1844)年に18歳で大坂場所に姿を見せ、翌年には江戸相撲に進出して大いに江戸を賑わせたのの、嘉永3(1850)年、
24歳の若さでこの世を去った。
江戸相撲に登場した弘化2(1845)年と翌年にかけての鯨太左衛門ブームで多数の錦絵が印刷されたため、それにより彼の顔立ちや、
身長七尺五寸(なんと227cm!体重は169kg。日本一の巨漢力士としての記録保持者)など体格についても知り得ることが可能だ。

生月島には鯨太左衛門の幼少から青年期にかけての規格外の伝説が無数に存在する。
そもそも誕生についてもこんな秘話がある。長年子宝に恵まれなかった鯨漁師の多七・ハル夫婦が、志自岐大菩薩に詣って男子を授かるよう
祈願したところ、夢に子持ち鯨が現れ、自分を捕らずに逃がしてくれたら子供を授けようと言った。
漁師仲間はそれを信じ、漁場に入った親子鯨を逃がしてやった。するとお告げどおりハルは子供を身ごもった。
生まれてみると、鯨のように大きな赤ん坊だったという。
また別の話では、夢で現れた鯨が大宝寺にお詣りに行くので、行きがけには捕ってくれるなと言ったが、結局捕獲されてしまい、
しばらくして要作(鯨太左衛門の幼名)が生まれたため、周囲の人々は、あの鯨の生まれ変わりだに違いないと噂したとか(勤勉なる読者ならば、
前スレ>>373で書いた宇久島の『紋九郎鯨物語』の夢のお告げと同義であることにお気づきになられるであろう。
これはあくまで後付けの『伝説』だろうが)。

幼少時における鯨太左衛門のこんな力自慢もある。重いものを抱える話では、3歳のときひき臼を抱え上げただの、
5歳のときは造り酒屋の近藤家で一厘銭百貫五〇把をやすやすと抱えただの、7歳時には同じ近藤家から米俵を持ち帰ったなどの武勇伝があるほか、
先般志自伎神社の宮司いわく、同神社の上宮の石祠を山頂まで抱え上げたというから恐れ入る。
または船と綱引きした話。ある話では、要作は体重が重すぎて父の漁船に乗せてもらえなかったので、出漁の際、
もやい綱を引っ張り、なんと船を引き揚げたという怪力を見せた。
その一方で父親の船が帰ると1人で船を引き揚げ、いとも簡単に船をひっくり返してアカ水を出すといった孝行話もある。
14歳になると、1人で鯨を仕留めて『鯨の要作』『鯨吉』と呼ばれるようになったと、まさに生きる伝説そのものである。

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034 2013/12/22(日) 09:40:04 ID:HouxoVDPTE
     実在した伝説の巨漢力士・生月鯨太左衛門 生月島(いきつきしま) 2

その後、大阪の小野川嘉平次(小野川部屋)に入門。18歳で初土俵、翌年天保15(1844)年に江戸相撲の玉垣額之助(玉垣部屋)門下に入った。
生月鯨太左衛門の人気は高く、一陽斎豊国ら著名な作家の手による錦絵も多数残されている。巨体から繰り出される技は豪快で、
張り手と突っ張りに威力を発揮したとされているが、巨体お披露目的な興行が多く、番付に張り出されて以降の6年12場所間、
ほとんど土俵入りのみの出場であった。なおその巨体だけでなく、顔も人気であったらしい。

江戸では女遊びを覚えたようで、両国の水茶屋の評判娘に振られたので、腹いせに水茶屋の近くの見世物小屋に出ていた一寸玉之助という
身長1m程度の女性を妻にしたエピソードも伝わっている。度がすぎたのか、晩年の約5年間は瘡毒を患っていた。
平戸藩主の松浦熈は鯨太左衛門を、松浦家の江戸での菩提寺である天祥寺の長屋の2階に住まわせていた。嘉永3年に鯨太左衛門が24歳で死去した際、
遺体を運び出すのに、長屋の天井を切り開いて搬出したと伝わる。越後での巡業に出立の際、脚気にて病死とする資料あり。
また、瘡毒で死んだとする資料も残っている。 死してもなお「地獄で鬼があきれる」(その体格に)という題の絵が発行された。

幕内在位:12場所(1844年10月場所-1850年3月場所。但し実際に相撲を取ったのは1846年11月場所のみ)
幕内通算成績:3勝2敗115休 勝率.600(休場の大半は土俵入りのみの出場)
現役在位:12場所


昔に出会う旅 長崎旅行-16 「平戸市生月町博物館・島の館」江戸時代最大の捕鯨
http://blog.goo.ne.jp/tako_888k/e/620c24e65390a5d1b7...
珍スポット探訪・普通の旅に飽きたあなたへ キリシタンと捕鯨の島・生月
http://b-spot.iza.ne.jp/blog/entry/531558...
紀行歴史遊学 伝説の巨人力士
http://gyokuzan.typepad.jp/blog/2013/02/%E9%95%B7%E8%BA%A...
相撲人名鑑 生月 鯨太左エ門(いけづき げいたざえもん)
http://www.fsinet.or.jp/‾sumo/profile/1/18441003.htm
ロバート・ワドロー(ギネスブックに載ったもっとも身長が高い人間)wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AD%E3%83%90%E3%83%...
金太郎wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%91%E5%A4%AA%E9%83%...

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035 2013/12/22(日) 14:49:41 ID:HouxoVDPTE
     七城鬼女伝説 喜界島(きかいじま)

喜界島と来れば通常、俊寛の話を持ち出すのが王道なのだろうが、オカルト板でそれを書き連ねるのはいささか場違いな気がする。
よって今回は『七城の鬼女伝説』に焦点を絞る。
喜界島は鹿児島県大島郡に属し、奄美大島の東方約25kmに浮かんでいる。隆起サンゴ礁で形成されたのが特徴的で、
真横からのシルエットがなだらかな丘陵の美しい島である。件の鬼女伝説がこうだ。

はるかな昔。壇ノ浦の戦いに敗れた平家の残党200余名は追っ手から逃れるため、はるばる喜界島を目指していた。
命からがら喜界島にたどり着き、今でいう志戸桶から上陸したのだった。
志戸桶に上陸後、一行は伊実久にまわり、その上の森に城を築いた。その土塁は現在でも遺構をとどめ、七城(ななじょう)と呼ばれている。
別名『平家森』とも呼ばれ、早町の後方に位置し、早町港方面から来襲する源氏を想定した砦である。
この七城こそ『七城の鬼女』なる伝説を後世に伝えているのだ。

平家の落人たちが七城が建つ前の森に分け入ると、頭に薄布をかぶった着物姿の女が一行に背を向けてなにかの作業をしていた。
近づいてみると、どうやら女は機織りをしているらしい。
「すまぬ、女。そなたの土地に無断で入ったのを許されい」と、一行の首領である平盗盛が声をかけた。
女はそこで機織りの手をとめ、ゆっくりと振り向いた。顔は覆った布のせいで計り知れない。
「これはこれは武者さまのご一行とは。気配に気づかず背中を見せておりご無礼いたしました。ですが、このような僻地にいかなご用で?」
鈴を転がしたような声に一同はハッとした。おそらく妙齢の年のころであろう。

「某らは、恥ずかしながら戦から落ち延びてきた身でありますゆえ、どうか追っ手よりかくまっていただきたい」
「ホッホッホホ……さすればこの土地に屋城を築かねばなりますまい。喜んで協力しましょうぞ」
女は歌うように言うものだから一行の中には、内心癪に障る者もいた。しかもお辞儀しても頭の布を取らないときている。
「これ、女。殿の面前であるぞ。布を取りたまえ。無礼であろう」と、側近の1人がたしなめた。
「いかにも、手前は田舎者の女であるからでしてのう」と女は言うものの、おじきした姿勢のままクスクス笑うだけ。
「ざれごとを言うてからに」見かねた部下の1人が女の背後へまわり、だしぬけに布を剥ぎ取った。すると女の頭頂があらわになった。
「こ、これは……」一行は思わず我が目を疑った。なんと女の頭の両側には3cmほどの角が生えていたのだ。

「おのれい、よくもわらわに恥をかかせてくれたな。無礼はどちらじゃ!」女は夜叉のごとき形相で叫ぶと両腕を広げた。爪は鋭く尖っていた。
「出たな、物の怪、成敗してくれる!」
平盗盛の抜刀一閃と、女が電光石火の反応で宙に飛び退いたのはほぼ同時。
「やりおるな。仕損じるとは……」盗盛は苦々しげに刀をおさめた。
「うぬらは永遠に追っ手から逃れられはせん。うぬらは源氏の影に怯えて、一生すごすこととなろう。さらばじゃ!」と、
中空の闇の中から女の捨て台詞がこだまし、哄笑とともに消えていった。

昔の文献によると、喜界島は『鬼界島』と記されており、文字どおり鬼が住んでいたとされている。


喜界島ナビ.com
http://kikaijimanavi.com/
喜界島ドットコム
http://www.kikai-jima.com/sknh.htm...
播磨のしっぽ 平家伝説と小野豆
http://kiontgm.blogspot.jp/2012/06/blog-post_15.htm...
東方纏める神社 鬼女出ないかな/安倍氏
http://blog.livedoor.jp/kusurikan/archives/27848514.ht...
戸隠に伝わる鬼女紅葉の物語 (信州戸隠、鬼無里(きなさ・現長野市)集落に伝わる鬼女伝説)
http://www1.ocn.ne.jp/‾pia/momiji.htm

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036 2013/12/31(火) 20:46:35 ID:.ih5l2c0q.
     田んぼの中に神を祀った祠あり 八畝(ようね)集落

おざなりな感も否めないが、たまには村ネタもやらねばなるまい。島ばかりではいささか偏り気味であろう。
村といっても、その共同体を貶めるようなことを書くわけにはいかないので、ちょっと風変わりなものを紹介するにとどめるけど。

高知県大豊町は徳島・愛媛の両県と接する山深い土地。その斜面には日本の原風景である牧歌的な棚田が連なっている。
なかでも標高600mにある八畝集落の棚田の1つに笹岡家の所有する田があり、その田んぼの中央には神を祀った祠が鎮座しているのだ。
祠には『若宮八幡様』を祀ってあり、笹岡家が代々守ってきた。2013年時で86歳の笹岡富子さんいわく、
「いつの時代からあるのかわからんぐらい、昔からある」とのこと。
こんな祠が田んぼのど真ん中に据えられていれば田植え稲刈りする際、場所を取られるうえ作業に支障をきたしそうだが、
古来、日本は稲作を主とした農耕民族であり、豊作への切なる願いを込めて先人たちが建てたに違いない。


まほろばの島詩 高知県/八畝(ようね)の棚田2
http://mahorobanoshimauta.blog10.fc2.com/blog-entry-776.htm...
黄昏君の写真帳 朝もや煙る八畝の棚田
http://conan57.exblog.jp/2031946...
山田養蜂場 リトルヘブン-小さな楽園
http://www.3838.co.jp/littleheaven/200806...

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037 2013/12/31(火) 21:34:31 ID:.ih5l2c0q.
     オサバイ様祭 穴内集落

同じく大豊町穴内地区では、田植えのときに『オサバイ様』という無形の神を祀る神事が行われている。
昔は田植えを始めるときには、各家の一番上の小さな田んぼで『オサバイ様』を祀り、豊作祈願したものであるという。
オサバイ様とは毎年5月の田植えの時期に、五穀豊穣の願いを聞いてくれるとされている神様だ。


旅の発見
http://tabihatsu.jp/program/85747.htm...

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038 2013/12/31(火) 21:52:42 ID:.ih5l2c0q.
     臼杵城を鬼や邪から守るための鬼門封じの島 津久見島(つくみしま)

大分県臼杵湾の沖合7kmの湾の中央に、どこから見ても形の整った円錐形の島が見える。
その形状から別名『おにぎり島』と呼ばれているが、正式名は津久見島。日豊海岸国定公園に指定されているとはいえ無人島だったりする。
島名が津久見島ゆえ、津久見市の管轄と思いがちだが、臼杵市にある。
周囲は急な斜面に囲まれているが、本土側がわずかながら浜が開けており、海水浴場及びキャンプ場が整備されている。また磯釣りも人気がある。

古くは竹島といい、津久見島という名は臼杵城からこの島と月を望む景観が素晴らしいことから、月見島をもじってつけられた。
この津久見島の方角が、臼杵城から見て鬼門に当たることから、寛永元(1624)年、臼杵藩主・稲葉一通が近江の琵琶湖に浮かぶ竹生島(前スレ>>238)の
竹生島神社から弁財天を勧請し、島名を竹生島と改称したという記録があるらしい。

鬼門とは北東(艮・うしとら。丑と寅の間)の方位を指し、陰陽道では鬼が出入りする方角であるとされ、万事に忌むべき方角としている。
鬼門の反対の、南西(坤・ひつじさる)の方角を裏鬼門と呼び、これも忌み嫌われているのは有名だ。
陰陽道においては、北と西は陰を表し、東と南は陽とされる。すなわち鬼門・裏鬼門の方角は陰陽の境になるため、不安定になるとしている。
また鬼門は忌み嫌われるいわれの他に、逆に神々が通過する方向、あるいは太陽が生まれる方位であるために、
清浄の気を保つ必要があるという説もある。

たしかに、南西は沖縄から北西の果ての北海道に至るまで、日本列島は鬼や邪がつけ込みやすい立地にある。
だからこそ鬼門・裏鬼門の防備には最善を尽くさねばならない。


臼杵
http://nisiyoko.sonnabakana.com/usuki.htm...
臼杵城と鬼門
http://www.coara.or.jp/‾yas/miwari/kimon.htm

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040 2014/01/01(水) 01:13:01 ID:8MFQsRObqE
あけおめ〜、トシのせいか深夜起きてるのはキツイが、正月企画として特別に連投しちゃおう。新年早々、悲しくて陰惨な話とか〜!


     美しさゆえに死んだ悲劇の歌姫・カンツメ伝説 奄美大島宇検村

奄美大島では薩摩藩時代、役人や豪農の家では『ヤンチュ(家人)』と呼ばれる奄美独自の奴隷制度があった。
ヤンチュとは上納米や砂糖を納めきれない貧しい農家が、その代償として身売りをしていたのである。
身売り金は年3割という高利で、ヤンチュの立場になれば一生その家で暮らすしかなかった。
今から約180年前、カンツメは須古村から隣の名柄(宇検村)の豪農へと、ヤンチュとして売られていった。
元来、美人で器量もよく利発だったカンツメは同じヤンチュたちの中でも抜きん出ていた。それゆえ他のヤンチュたちから妬まれ、
よく嫌がらせを受けた。しかし主人は、カンツメの美貌に気をとめていたので、目のつくかぎり彼女をかばった。
もっぱら飯炊きや草刈りなどが彼女の仕事だったが、手抜きすることなくよく働いた。

ある日、久慈集落から岩加那(いわかな)が名柄の豪農の家を訪れた。岩加那もまた美青年であり、役所の書記をしている傍ら、
三味線と歌を得意としていた。
やがて宴が催された。カンツメも招かれ、岩加那の歌の相手をするようになったので、心をこめて歌った。
岩加那はたちまち彼女の歌声に惹かれ、歌い終えるころには2人の気持ちは通じ合っていた。
この日から2人は恋仲となり、仕事が終わると、久慈と名柄の境にする佐念山の小屋で、夜ごと逢瀬を重ねるようになった。

どんなに人知れず会っていたとしても、遅かれ早かれ2人の関係は目ざとい者に露見するものである。
やがて2人の仲がヤンチュ仲間に知れわたり、主人夫婦の耳にも入ってしまう。女主人は嫉妬深く、気性の激しい女だった。
ヤンチュの分際で泥坊猫のように恋愛するのは御法度。ましてや相手は役所の書記であり主人の知人。
カンツメは裸にむかれると鞭で打たれ、あれほど嫌がらせからかばってくれた主人に強姦されたうえ、
挙句の果てには陰部に焼け火箸を押し付けられた。酸鼻を極める折檻に、カンツメは悶絶し気を失った……。

女主人は彼女をボロ雑巾のように扱っておきながら、翌日にはたき木採りに山へ行かせた。
たき木を拾い終えた他のヤンチュたちが山を下りたあともカンツメは1人山に残り、岩加那と逢引していた佐念山の小屋に向かった。
小屋で身支度を整え、郷里に残した両親と、いまだ恋の炎が冷めやらぬ岩加那に感謝と別れの祈りを残し、自身の帯で首をくくって死んだ。

その夜、まさかカンツメが折檻にあい、自害したとは知らない岩加那は、三味線片手に佐念山へ行き、カンツメを待っていた。
カンツメはいつもより沈んだ顔で小屋にやってきた。それでも2人して楽しく歌っているうちに彼女は元気になっていった。
夜明け前、別れにカンツメはもう1曲歌った。「あかす世や暮れて汝きゃ夜や明けり、かふ節ぬあればまた見きょそ……」と、
歌い終わると、カンツメの姿は霞のようにすっと消えてしまった。
岩加那はあたりを探し回った。ふと頭上を見上げるなり絶叫した。カンツメの変わり果てた亡骸を見つけたのである。
その後、経緯を知った岩加那は、早く身請けをしてあげればよかったと悔いたが、すべては遅すぎた。

因果な話で、名柄の豪農夫婦はカンツメの亡霊に脅かされて変死を遂げ、家は没落したと伝えられている。
現在でもヒギャ(奄美大島南部)では、カンツメの霊が出るのを恐れて、夜半カンツメ節は歌わない習慣があるという。


あまみんちゅドットコム奄美人 悲恋のカンツメ物語
http://amaminchu.com/iroiro100ca/column/story02.htm...
みんなで楽しもう! 〜琉球沖縄の、先祖から伝わってきたお話〜 奄美・沖縄本島・沖縄先島の伝説より、第66話。美人が出ない村
http://totoro820.ti-da.net/e3169870.htm...
宇検村の史跡・文化財・石碑 宇検村の史跡ギャラリー
http://www.synapse.ne.jp/hatashin/01ooshimahontou/06uke...

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041 2014/01/01(水) 01:23:34 ID:8QaG7/sxqE
     悲しみのあまり石化した佐用姫 加部島(かべしま)

佐賀県唐津市、東松浦半島の先端にある呼子。呼子港の目の前にあるのが加部島だ。
かつては断崖に囲まれた島ゆえに『壁島』と呼ばれていたが、漢字表記をあらため、今の加部島へと代わったのだという。

さて、加部島にはまたしても女の受難と悲劇、『松浦佐用姫(まつらさよひめ)』の伝説が残されている。
……こう言っちゃなんだが、既出した悲劇譚と似たり寄ったりの内容だったのでスルーしようとも考えたのだが、
よくよく検討した結果、2つの理由からこのスレにとどめておくことにした。
1つ目の理由としては『日本三大悲恋』のうちの一話として語られているから。
日本の三大悲恋伝説といえば『羽衣物語』『竹取物語』と次いで、この『松浦佐用姫』が挙げられるのだそうだ。
とはいえ、『羽衣物語』『竹取物語』が架空の物語なのに対し、『松浦佐用姫』はその大部分が史実に基づいるというから、ますます見過ごせない。
2つ目の理由は、次なる課題につなげる布石として、真打としてこの伝説を紹介しておく必要があったからだ。
その課題とは、とかく島の伝承伝説に女性が命を落とす悲劇譚が多いのは勤勉なる読者諸兄ならお気づきのことと思われる。
次のレスでその考察をしたいがために、代表作ともいえる佐用姫伝説は避けるべきではないと考えなおしたまでだ。

537(宣化天皇2)年、朝廷の命を受け、任那・百済を救援するため軍を率いてこの松浦の地にやってきた大伴狭手彦(おおとものさでひこ)と、
松浦佐用姫は出会うべくして出会った。
佐用姫は現在の唐津市厳木町にいたとされる豪族の娘であり美女であったとされ、かたや狭手彦は名門大伴氏の凛々しいイケメン武将であった。
物資の補給や兵を休ませるため、しばらく松浦の地に軍をとどめている間に狭手彦は佐用姫と逢瀬を重ね、ついに契りを結んだ。
しかしそれも短き恋仲。狭手彦は新羅への出征の通達を受け、後ろ髪を引かれる思いで別れることになった。

やがて狭手彦が出船の日、別れの悲しみに耐えかねた佐用姫は鏡山へかけ登る。そして山頂で身にまとっていた領巾(ひれ)を無我夢中で振るった。
その当時、領巾を振れば、邪を払いのけると信じられていたからである。
狭手彦が乗っているであろう軍船は見る見る沖へ遠ざかっていく。半狂乱になった佐用姫は鏡山をかけ下り、栗川(現在の松浦川)を渡り、
海沿いに北へ走り、やがて加部島の天童岳の頂きにたどり着いたが、ついに船が見えなくなると、その場にうずくまり7日7晩泣き続け、
とうとう石化してしまった……。人々はその石を佐用姫の化身として手厚く弔ったという。

また肥前国風土記には、同様に狭手彦と領巾を振りながら別れた弟日姫子(おとひめこ)という娘の話が収録されている。
こちらでは別れたあと、狭手彦に瓜二つの男が家に通うようになり、これが沼の蛇の化身であると正体がわかると
沼に引き入れられ死んでしまうという話になっているが、この弟日姫子を佐用姫と同一視し、もう1つの佐用姫伝説とされることもある。


松浦佐用姫wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E6%B5%A6%E4%BD%...
【特集】佐用姫伝説ゆかりの地を訪ねる。
http://www.thr.mlit.go.jp/isawa/sasala/vol_27/vol27_2m.h...
松浦佐用姫を追え!(古代史の謎のカギは唐津にあった!!)
http://www.arabaki.co.jp/sayohimepage2.htm...

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042 2014/01/01(水) 01:29:34 ID:8QaG7/sxqE
     なぜ女が命を落とす悲劇の話が多いのか? その考察

このスレを続けていくにつけ、あまりにも女性の悲恋話、命を落とす悲劇譚が辟易するまでに多いのはどういうことなのか?
まるで島の誕生、あるいは島の歴史につきもののように、乱暴的に言えば人身御供的に女は死ぬ。
まるで判で捺したかのように、そんな話が多すぎる。
フェミニストの権化である田嶋陽子が、まかり間違ってこのスレを覗いてしまったら烈火のごとく怒りそうだが、
むろん、そんな意図を狙っているつもりは毛頭ない。
探れば探るほど、この手の話ばかり転がっているにすぎない。多少の脚色はするにせよ、本質をありのまま伝えているだけだ。
なにもそれは離島に限定したケースだけではない。内地に眼を向けても、このような女性の悲劇譚はめずらしくない。
やや脱線するが、古くから伝わる3大怪談『四谷怪談』『番町皿屋敷』『牡丹燈籠』ですら、それが当てはまっているではないか。
これらに共通するのも、いずれも女にとっての受難と悲劇、無念の最期を遂げて、みな情念の塊となって男に迫り、復讐を果たす。

どうやら鍵はここにありそうだ。
この3つの怪談は江戸時代に作られた話。江戸時代といえば男性中心の社会であり、封建制度の真っ只中であった。
男と比べて女の地位は社会的にも家庭的にも低く見られた。こういった風土が、怖い女幽霊を生み出すことにつながったものと思われる。
対する男は不倫はするわ、己の地位にしがみつくため女が邪魔になると惨殺するわ、下手すれば『四谷怪談』などはお岩殺しの濡れ衣を
奉公人の男に着させるなど、卑劣なまでに策を弄する。

腕力では男性に太刀打ちできない女性は生前こそ勝ち目がないが、死後、化けて出ることで『怨嗟力』を獲得。復讐を遂げることで男を上回っている。
現在の『リング』の貞子ですら、外見と登場シーンだけはオドロオドロしく恐怖のシンボルとして支持されているが、突き詰めればこれも悲劇の女だ。
もっとも近年は男女のパワーバランスは崩れ、こういった一連の悲劇は古臭く思えてしまうが。
いずれにせよ、啓発という名のナイフの切っ先を突きつけるには、女の悲劇や悲恋が土壌にある方が、男は身につまされる思いがして、
忘れがたい光背効果を発揮するということだ。


安珍と清姫の物語
http://www.7kamado.net/antin-kiyohime.htm...
たびねす 慈悲とおもてなしの心!蛇となった清姫の伝説が残る和歌山県最古の寺・道成寺
http://guide.travel.co.jp/article/1921...

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043 2014/01/01(水) 01:36:30 ID:8QaG7/sxqE
     『伝説』はどこからやってきたのか? その考察

恐縮ながら突然話が変わる。
前スレでも散見されたが、互いに離れた土地であるにもかかわらずほぼ同義の話があったり、類似の伝説の多いことに驚かされたはずだ。
そもそも伝説とはどこから派生し、どのようにして伝播していくものなのか?
伝説とは読んで字のごとく、『伝え語られていた一説』である。しょせんは仮説にすぎず、史実とは限らない。
大いに誇張と脚色が混じり、眉唾とも言える(当スレでまことしやかに語っておきながら申し訳ないが)。

火のないところに煙は立たない。とすれば必然的に共同体の外から流れてきたアウトサイダーが話を持ち込み、拡散させたにちがいあるまい。
その人物は話術に秀でており、つまり語る内容に説得力があり、同時に読み書きと歴史に詳しい人物であっただろう。
もしかしてそれは語り部をしつつも、神仏を売り込むことを生業とし、諸国を遍歴する山伏などの漂泊の民だったかもしれない。
彼らが通り過ぎた村や町には、神社建立に関係した逸話が創作され(どうりで宗教色の強い話が多いわけだ)、それらは人づてに語り継がれ、
中には原型をとどめぬほど変容してしまった話だってあるかもしれない。だからAの人物が語った話とBが語った話のアウトラインこそ同義だが、
微妙に登場人物が違ったり、よけいな枝葉が混じったり、なかにはオチまで異なってしまった場合もあり得る。
彼らは自身の信仰を布教するため流れ歩き、神仏を受け入れてもらう見返りとしそんな話を語って聞かせたのかもしれない。

ちなみに、柳田国男著書の『日本の伝説』を紐解けば一目瞭然、日本各地には類似の伝説がゴロゴロしている。
それこそ内地は東から西にはじまり、沖縄の離島に至るまで伝播しているのだ。
柳田によると伝説と昔話の相違について、「昔話は動物のごとく、伝説は植物のようなものであります」とある。これはいまいちピンと来ない。
ドイツのグリムの説明だと、「昔話は詩的であり、伝説は歴史的である」とした。つまり前者は、それ自身でまとまった形態をとっているが、
後者の方は一定の場所や史上の人物と結びつくということであった。
また柳田国男はこうも言及。「昔話と伝説との相違は、以下の3点に集約される。第一に昔話は、誰からも信じられていないが、
伝説はある程度まで信じられている。第二に、昔話は『昔々、あるところ』の物語であるが、どこか決まった場所と結びついている。
第三に、昔話は決まった型をもっているが、伝説はこれといった型をもたないという。それらの特色のなかでもっとも重要なのは、
伝説は信じられているということである。(中略)そのような伝説はもともと何らかの信仰に支えられていたと考えられる。
そういう意味であらゆる伝説は、やはり何かしら真実を伝えていたといってよい。
すべて伝説が特定の場所に落ち着いて、特定の事物と結びついたということは、それが信じられるという証拠としてあげられる。」

というわけで伝説はまんざら嘘八百ではない。そこに何かしら真実が隠されているのだ。
物語に龍や鬼が出てくる話だから、しょせんは作り話と侮るなかれ。
先人たちは我々に、巧妙に隠された伝説から真理を読み解く力を試そうとしているのだと思う。


鬼怒の中将乙姫伝説 天空の竜宮城「鬼怒沼湿原」
http://home.f07.itscom.net/rainbow/kinutyujodensetu.htm...
鬼怒沼山 オロオソロシの滝へ
http://sakuramaya.fc2web.com/east/kantou/kinunuma.htm...

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044 2014/01/25(土) 09:34:02 ID:DTL6kmXWWw
     実盛様が害虫を駆除してくれるのを信じて 城川町田穂・魚成・今田地区

愛媛県西予市城川町周辺の水田にて行われる風習『虫送り』。
地元の人たちが作ったハリボテの紙人形を『実盛様』と呼ぶのだが、その正体は平安時代末期の武将・斎藤別当実盛のことだ。
木曽義仲軍との戦いのさなか、田んぼの稲株に足を取られ、討たれ死んだ。
辞世の言葉は、「無念やな、我、虫となってイネを食い尽くさん」と叫んだという。
虫送りはこの実盛の怨念を鎮めて供養し、害虫駆除と豊作を祈願する行事となった。
梅雨に入った6月30日、愛媛県城川町の田穂〜魚成〜今田地区の田んぼの中を、実盛様の紙人形を持った一行が、鐘や太鼓を打ち鳴らしながら行進していく。
終着地点は黒瀬川。川べりに紙人形が置かれ行事は幕を閉じる。大雨が降ると害虫とともに流されていくのだという。


斎藤実盛wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%8E%E8%97%A4%E5%AE%...
本日のごはん塾 季節の行事:サネモリさんと虫送り
http://gogolesson.jugem.jp/?eid=...
高知の祭り 高知県土佐町宮古野 虫送り(H17.6.20)
http://maturi.lolipop.jp/maturi/2005/maturi36.htm...

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045 2014/01/25(土) 09:39:27 ID:DTL6kmXWWw
     薩摩七島の身代わりになった七ツ島伝説 七ツ島(ななつじま)

今でこそ七ツ島は鹿児島市の町名であり埋立地となって久しい。工業地帯が広がり産業道路の一部として姿を変えてしまっている。
埋め立てが行われる前は緑地公園付近は砂浜となっており、谷山市街地に近いため多くの海水浴客が訪れていた。
しかも大小7つの島が点在する景勝地としても知られており、七ツ島と呼ばれていたのだ。
七ツ島はその名のとおり、七ツ島、沖之島、腰掛島、出口島、中ノ島、平島、一ノ島の7島からなり、
かつては『伊智貴島』と称されていた。このうち樹木のある島は七ツ島と沖之島の2島のみで、他はすべて岩島だった。
七ツ島、沖之島の両島には数本の老松がそびえていたが、次々に枯れてしまったようだ。
その今はなき七ツ島にもちょっとした歴史が残されている。それが以下のとおりである。

その昔、藩主・島津公が、薩摩七島を領していたとき、ある別の藩主と互いにその領土である七島を賭けて、ある勝負ごとをした。
運悪く島津公は惨敗。そこで相手の藩主は、さっそく七島を譲るよう詰め寄った。
困った島津公。ただ一時の娯楽のためとはいえ、薩摩七島を譲り渡すのは口惜しいってものではない。
しかしながら武士が約束した以上、今さらなかったことにしてくれと申し入れることはできない。

さんざん頭を悩ませた末に思いついたのが例の七ツ島。薩摩七島ではなく、この七ツ島を譲ることにことになったが、
相手の藩主は家来に七ツ島の近況を聞いたところ、七ツ島はとても人はおろか、鼠1匹住めそうにないらしい。
その島だけは御免こうむると断り、ともに呵々大笑して事なきを得たという。薩摩七島の身代わりになった島であるといわれる。


さつまの国の言い伝え 七ツ島の言い伝え 谷山の伝説
http://kagosimalegend.seesaa.net/article/287936882.htm...

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046 2014/01/25(土) 09:50:13 ID:DTL6kmXWWw
     美しさは罪……絶世の美女マムヤの悲哀伝説 宮古島・東平安名崎(ひがしへんなざき)

>>40のように、美しさゆえに命を落とす美女伝説は少なくない。
昔、平家の落人がはるばる宮古島まで落ち延び、東平安名崎に近い保良(ぼら)村にいついた女がいた。
女をマムヤといい、香草の香る絶世の美女と評判で、また機織りの腕が自慢だった。
彼女の美しさが話題になると、宮古の島々の按司(あじ・豪族の意)や役人たちはこぞって家を訪ね、ぜひ妻にしたいと申し込んだ。
だがどんなに頭を下げられたり、宝を積まれてもきっぱりと断った。ちょっと人間嫌いだったのかもしれない。
にもかかわらず按司たちはひっきりなしにマムヤに会いにくるので、彼女は東平安名崎の下の洞窟に身をひそめ、そこで機織り仕事をしていた。
世の中には耳ざとい者がいるもので、岬に轟く波音にまじって、機織りの音を聞きつけた男がいた。
それが野城按司(ぬぐすくあじ)で、保良村や近くの村落を支配している権力者だった。
彼はその洞窟に入り調べてみた。岩の回廊には美しい布を織りかけにしたままの機織り機があれども、人の姿は見当たらない。
「ここで機を織っていたのは誰か。隠れているのなら出てきなさい」と、洞窟の奥に向かって言うと、女の声が答えた。
「私はわけあってここを住処にしております。どんな偉いお方にも姿を見せたくないのです。どうかお許しを」
「その声は、もしやうわさのマムヤ?」
「そうでございます。お願いします、見逃してください」

ここで野城按司は駆け引きに出る。彼が村じゅうにお触れを出せば、たちまち他の按司たちが求婚しに押し寄せる騒ぎになる。
これはめぐり合わせだ。いっそのこと、わしの妻になれと持ちかける。それでも難色を示すマムヤに対し、今度は賭けを申し出た。
「わしはこれから狩俣村(かりまたむら)まで珊瑚の石を石垣に積む。おまえは狩俣まで芭蕉の糸を紡いでいくのだ。
どちらが先に狩俣に着くか勝負だ。もしわしが勝ったら、わしの妻になるのだ」
よく意味のわからない賭けだが、しばらくマムヤは考えたのち頷いた。狩俣村は、宮古島の東南端の東平安名崎から20km以上も離れているのだ。
途方もない勝負のように思えた。

野城按司は家に取って返すと、家来に命じて領地の農家を総動員させた。そして海から平たい珊瑚の石をかき集めると石垣を積ませた。
一方のマムヤも必死で芭蕉の糸を細く裂いては紡いでいった。卑怯にも人海戦術を使う按司に軍配が上がるのは火を見るより明らかだった。
ついに按司は狩俣まで石垣を積み終えた。マムヤの健闘むなしくわずかに芭蕉の糸は届かなかった。
そういうわけて野城按司の妻となって暮らすことになった。ところが按司には2人の子供と妻がすでにおり、
その妻がことあるごとにマムヤに辛くあたるのだった。
意地悪に我慢できなくなったマムヤが按司に問い詰めた。「私は勝負に負け、妻にするというからあなたの家に嫁ぎました。
ですが奥様がいらっしゃるとは存じませんでした。一夫多妻制でもあるまいし、なぜ私を妻にする必要があったのですか。
結局、私と奥様を秤にかけた場合、どちらが大事なのですか」
男は身勝手な生き物である。欲しい欲しいと願い、あらゆる力を駆使し手に入れた品物も、遅かれ早かれ飽きてしまい、どうでもよくなる。
「ウ〜ム、そうよなあ。どちらが大事か〜」按司はそっぽを向いて寝そべり、股ぐらをかきながら言った。「……たとえ糞尿の臭いがしたとしても、
そりゃおまえ、子供のおる妻の方がいいわな」
「なんですと!」まさに顔に泥、である。あれほど恋焦がれたと言わしめたのに、マムヤにとって屈辱以外のなにものでもない。
マムヤは家を出ると、平安名崎に向かった。
「神様、私がこんなに辛苦を舐めさされるのは、ひとえに私が美しかったからです。どうか保良に美しい娘が生まれないようにしてください。
こんな悲しい思いは私だけで充分……」と、祈ると崖から身を投じて死んだ。

平安名崎の白い灯台の近くに、今もマムヤがいたとされる洞窟と彼女の墓がある。


按司wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%8C%89%E5%8F%B...
瀬音の写真集 大海原へ 東平安名崎(東平安名岬ひがしへんなざき)沖縄県宮古島市
http://blogs.yahoo.co.jp/seoto_kisyuu/61877268.htm...
日本珍スポット100景 美しすぎるって不幸ね 「東平安名崎・マムヤの墓」【宮古島】
http://b-spot.seesaa.net/article/280402289.htm...
みんなで楽しもう! 〜琉球沖縄の、先祖から伝わってきたお話〜 奄美・沖縄本島・沖縄先島の伝説より、第66話。美人が出ない村
http://totoro820.ti-da.net/e3169870.htm...

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047 2014/02/01(土) 16:56:35 ID:Q4IMo3cvs6
     欲をかいたばかりに大蛇となったお里乃 蛇喰(現・関川村)

新潟県岩船郡関川村は、新潟でも北部に位置する村。かつては蛇喰(じゃばみ)と呼ばれていた。
そのいわくありげな名前のとおり、不思議な伝説が語り継がれ、それにまつわる祭りまで催されている。

蛇喰は荒川の支流である女川の上流にあった。村には忠蔵とお里乃(おりの)の夫婦、そしてその娘が住んでいた。
忠蔵は炭焼きを生業としていたが、仕事場の阿古屋谷には大蛇が潜むという噂が立っていた。
ある日、忠蔵が昼食を済ませうたた寝していると、おかしな物音がしたので眼を開ければ、その大蛇が忍び寄ってきているではないか。
忠蔵はとっさにマサカリをつかむと大口開けて威嚇する大蛇に挑んだ。死に物狂いで戦い、どうにかしとめることができた。
忠蔵はその大蛇をみそ漬けにしてやろうと思い立ち、血抜きしハラワタを取ると、適当な大きさにブツ切りにしてから家に持ち帰り、
樽に放り込み、みそ漬けにしたのだった。肉の量もボリューム満点で、樽は全部で13個半も漬けたことになった。

忠蔵はお里乃と娘に、「樽の中は決して見てはならんぞ」と釘を刺した。熟成するまでフタを開けさせ酸化させたくない考えもあったが、
しとめた大蛇はなんだか人外の生き物だけに、無惨に切り刻んだ姿を見せるのは憚られたからである。
しかしながらここでも『見るなのタブー』は破られる。見るな見るなと言われれば、よけい見たくなってしまうのが人の性。
お里乃は夫のいない隙に、ちょっとだけ覗いてみようとスケベ心を起こし、フタを開けてしまう。
そしていい塩梅に熟成した肉を見るなり、つまみ食いした。これが美味。あと1つ、もう1つとたいらげ続け、しまいにはすべて食べ尽くしてしまった。
のどが渇いたお里乃は女川の水を手ですくい飲んだ。しばらくしてから水面に映る自分の顔を見て悲鳴をあげた。
なんと大蛇の顔に変わり果てていたのだ。

夕方、忠蔵が仕事から帰ると、娘が1人泣いている。聞けば、しきりに母がいないと訴える。
忠蔵はもしやと思い、樽を開けた。やはり樽は空になっていた。お里乃を探したが、杳として行方はわからなかった。
それから数年経った秋が押し迫ったある日。旅の途中の座頭が米沢街道を歩いていた。
大里峠で日が暮れてしまったので、座頭は祠の前に座って休むことにした。暇を持て余したので琵琶をかき鳴らした。
1曲弾き終えると、闇の中から女の声がした。「素敵な音色に魅了されました。どうかもう1曲、お聞かせください」
座頭もまんざらではない。琵琶を演奏し続けた。そのあと、女の身の上を尋ねてみると、

「私はもともと人間でした。家族もいましたが、わけあって大蛇になってしまったのです」
「左様か。おまえさんさえよければ、そのわけとやらを聞かせてくれないか」と、座頭が言うと、闇の向こうの女は今までの経緯を語った。
「身体が大きくなったので住む場所も不自由しました。ですので、貝附の狭い所を堰き止めて荒川や女川のあたりを大きな湖にして、
そこに住もうと思っております。だから座頭さん、あなたにだけ忠告しておきます。安全な場所へお逃げなさってください。
それと、このことは誰にも言わないで。もし洩らせば命はありませんよ」と、女は言うと気配を消した。

座頭はこうしてはおられん!と思い、下関へと急いだ。大蛇が川を堰き止めたら村はひとたまりもない。
下関に着くと、大庄屋の渡辺三佐工門の家へかけこんだ。洗いざらい話すと、座頭は本当にそのまま息を引き取った。
座頭は死ぬ直前、「大蛇は鉄がとても苦手です。鉄を使いなさい。鉄を……」と、言い残した。

三佐工門は主だった人間を集め、緊急会議を開いた。そして座頭の助言どおり、村中の鉄を集め、大きな釘をたくさん作ることにした。
できあがった釘をみんなで大里峠まで運び、あたり一面に打ち付けたのだ。
姿を現した大蛇だったが、釘を嫌がり、身をよじらせて苦悶した。その様子は7日7晩続き、村人たちも眠れない日々をすごした。
やがて大蛇は息絶え、こうして村は難儀を逃れたのだった。命を賭して危険を知らせてくれた座頭に深く感謝し、神格化させ、神社に祀ることにした。
今でも下関には、座頭が遺した琵琶が祀られているという。


新潟県関川村 山と川と湯の里 関川村
http://www.vill.sekikawa.niigata.jp/
いいでの伝説 『大里峠の大蛇伝説』(関川村)
http://www.hrr.mlit.go.jp/iide/iide/story03.htm...
龍学 蛇になったお里乃
http://www.hunterslog.net/dragonology/ryujatan/hokkaidou...

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049 2014/02/02(日) 11:03:03 ID:iFYr8RvP72
     1月24日に忌の日の明神様がやってくる島……決して海を見てはいけない 御蔵島(みくらじま) 1 

御蔵島は伊豆諸島の1つであり東京都に属する島だ。周辺海域に野生のイルカの群れが生息し、ダイバーにとって憧れの聖地とされている。
周囲16.4km、面積20.55k㎡、中央には標高851mの御山を有し、シンメトリーのシルエットが美しい。
断崖に囲まれた形状から、「海にお椀を伏せたよう」と形容される。

さて、この御蔵島には前スレ>>396で取り上げた、みんな大好き海難法師と酷似した怖くて垂涎の伝説が残されており、
その物忌行事は現在も続けられている。それが忌の日の明神様(きのひのみょうじんさま)伝説である。さっそくイってみようではないか。
島では毎年1月20日、御前に明神様が上陸すると信じられている。その姿は赤い衣をまとい、鉄下駄を履いた怖い形相の神なんだとか。
恐るべき神は南西に位置する稲根神社本殿の沖にある3つの根(岩礁)のうちの『みな根』に降り立ち、『神の道』を通り、
北西にある『アカイ川』までやってくる。
21日から北上し始め、まずは『テガキド』、22日は『おばんの尾』、23日は『鳥の尾』、24日にはついに『ウタヅ川』にまでさしかかる。
そうなると、島唯一の『里』集落まで入ってきてしまう(※南東部にはかつて『南郷』と呼ばれる集落が存在したが、今は衰退している)。
この明神様が1日ごとに里に近づいてくる際、人が近づいてはいけない『結界』も日ごとに狭まってくるとされる。
たとえば1月20日は稲根神社本殿まで来ており、この日の結界を『アカイガワギリ』と呼び、これ以上人が侵入することはタブーとされている。
同様に21日は『テガキドギリ』、22日は『オバンノオギリ』、23日は『トリノオギリ』、翌24日は『ウタズガワギリ』なる結界の呼び方がある。
なんだか中二病紙一重である。ところがこのタブーを無視して結界内へ入り、山仕事をして事故が起こった事例は数え切れないという。
以来、業者ですら、この時期にかぎり山仕事を休むとのこと。

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050 2014/02/02(日) 11:07:26 ID:PSz5D9rIOI
     1月24日に忌の日の明神様がやってくる島……決して海を見てはいけない 御蔵島(みくらじま) 2

そしてもっとも注意すべきは、24日の真夜中から25日にかけて。この日は『忌の日』といい、夕食にはアブラアゲ(俗にいう油揚げではなく、
米粉で作った団子)を食べる習慣がある。
この深夜、明神様は里に入ってきて徘徊し、2時ごろ(まさしく丑三つ時)に各家に入り込み、神棚にアブラアゲをちゃんと供えているか確認し、
去っていくのだという。もしもアブラアゲを前もって供えていなければ、履いている鉄下駄でトイレの戸を蹴飛ばして破壊していくそうだ。
なぜトイレの戸なのかは不明。
そのため、明神様が入ってこれるように雨戸を少し開けておかなければならない。そのくせその夜は外を見てはならず、ましてや海を見るのも厳禁。
海難法師同様、外出も許されない。外に出れば、明神様に出くわす可能性があり、見てしまったら眼が潰れると信じられている……。
そして25日の早朝には、里の崖下の『大根が浜』から船に乗って、北西の神々が集う島である神津島に向かうという。
伊豆諸島の神が集まって、会議が行われるんだとか。
この日の朝も決して海を見てはいけない。早朝、神が船出するところを見てしまうと、一緒にさらわれてしまう言い伝えがあるらしい。
前スレ>>396の海難法師は新島の話だった。御蔵島とはせいぜい60km足らずしか離れていないが、物忌の行事は同義こそすれ、
微妙に話が異なる。決定的なのは恐れるものの対象だ。ウ〜ン、伝説って奥深くておもしろい。
……しかし、どうせなら1月20日以前に取り上げるべきだったなと、ちょっと反省。


御蔵島伝説 キュートウキュージン様 伝説
http://www5b.biglobe.ne.jp/‾mabuta/progra-m/legend-4.htm
玄松子の記憶 稲根神社 [東京旅行] 東京都御蔵島村
http://www.genbu.net/data/izu/inane_title.ht...
下川友子オフィシャルブログ「あなたに神様の光がとどきますように・・・☆」 御蔵島の最も神聖な場所。稲根神社の本殿へーっ!
http://ameblo.jp/tomo-chupi/entry-11548249000.h...
御蔵島の旅人 御蔵島伝説 忌の日の明神様の伝説(きのひのみょうじん)
http://www5b.biglobe.ne.jp/‾mabuta/progra-m/legend-2.htm
御蔵島の旅人 年中行事
http://www5b.biglobe.ne.jp/‾mabuta/progra-m/gyouji.htm
ニコニコニュース 伊豆大島に伝わる奇習・日忌様とは? 「1月24日の夜は海を見てはいけない」
http://news.nicovideo.jp/watch/nw89886...
御蔵島★イルカの棲む島ぐらし(Mikura) 神様が動く! 
http://bluemoonocean.at.webry.info/201101/article_19.htm...
みくらいふ。〜御蔵島・イルカの棲む海〜 忌の日の明神様
http://ameblo.jp/oooloveooo/entry-10795403960.h...

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051 2014/02/04(火) 18:47:19 ID:FHRIDPggTU
     人を食い殺す恐ろしい森『ガーナー森(ムイ)』 那覇

人を食い殺す恐ろしい森とな。……もう辛抱たまらんでござる、である。
食らって殺す、その張本人が『森』とくれば、サム・ライミによる『死霊のはらわた』の冒頭を想起せずにはいられない。

那覇はもともと浮島だった。大規模な埋め立てで整備され、かつての面影はまるで散見されない。
しかし伝説は細々と生きながらえるものである。
現在、豊見城市(とみぐすくし)の真玉橋(まだんばし)集落に『イリヌシーサー』なるシーサーが鎮座している。
言うまでもないが、シーサーを設置する意味はヒーチケェーシ(悪風返し)だ。そのシーサーの眼は、かつての小さな島を睨んでいる。
その島こそ『ガーナー森』だ。現在のガーナー森は那覇市の住宅地の中にあるが、かつては漫湖に浮かぶ小島だったのだ。
そこにはこんな逸話が残されている。

はるかな昔、ガーナー森は大蛇の化身であった。ガーナー森は夜になると漫湖沿岸の村を襲い、民家を壊しては人を食べたとされる。
集落の人々は恐れつつも、なんとか防戦しようと鍬や鎌などを持って集まった。
ガーナー森からは、真玉橋の村人の慌しい動きが手に取るように見えていた。
「鎌や棒切れで、このわしに楯突こうというのか。笑止千万」と、魔物は冷ややかに笑っていた。
しかし人間の力ではどうあがいても魔物に太刀打ちできない。村人はついに神に向かって、ガーナー森を退治してほしいと祈った。
その願いを聞き入れた神は、巨大な石を天から落とした。石はガーナー森の頭と尻尾に直撃し、魔物は動けなくなった。
さらに完全に動きを封じるべく、イリヌシーサーをガーナー森に向けて鎮座させたのだという。
これには魔物も観念して、水鳥の集まる島へと変わった。

……今さら言うまでもなく、この伝説は先人の豊かな感受性が生み出した比喩だろう。まさか森の魔物とメテオストームを額面どおり捉える人はいまい。
当時、水害に悩まされていた人々がガーナー森を大蛇に例えて、藁にもすがる思いで特別なシーサーを作ってガーナー森に向けたのかもしれない。
氾濫した川や湖は、必ずといっていいほど大蛇や龍に見立てられたものだ。水は人間および共同体にとって必要不可欠な恵みをもたらすものと同時に、
大雨などの影響でひとたび荒れ狂ったとき、人間や共同体に牙をむくアンビバレンスの要素を持っている。だから大蛇や龍を祀る信仰は、
幸を望みつつも怒りを畏れたわけだ。実際、昔の国場川は現在より川幅も広かったので、大雨になるとたちまち氾濫したらしい。
ガーナーという名の由来は、『たんこぶ』の意味であり、形が似ていたからと言われている。ガーガーとうるさいガチョウ(雁の仲間)が棲んでいたから
とされる説もある。


レキオ・島唄アッチャー 怪物と恐れられたガーナー森
http://rekioakiaki.cocolog-nifty.com/blog/2013/09/post-fc2b.htm...
日本珍スポット100景 人を食い殺す恐ろしい森「ガーナー森」【沖縄本島】
http://b-spot.seesaa.net/article/374550087.htm...
nakamuraの思考回路 ガーナー森(ガーナームイ)
http://space.geocities.jp/sanpin_jasmin/old/ganamui.htm...

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052 2014/02/09(日) 10:06:03 ID:xIzVcRqars
     某宗教団体が乗っ取った島……某島

真の怖い島とは、案外こんな島なのかもしれない。あえて宗教名も島名も名指ししないでおこう。
興味があるなら自力で探してみれば?
触らぬ神になんとやらだ。


東京BREAKING NEWS 宗教団体に乗っ取られた西日本の小さな島「夜中に楽器を鳴らして行進している」
http://n-knuckles.com/discover/folklore/news000572.h...
でんでんむしの岬めぐり 928 荒崎=瀬戸内市牛窓町牛窓(岡山県)緑島の隣が黒島で岬をまわると向こう側には青島と黄島とが隠れている
http://dendenmushimushi.blog.so-net.ne.jp/_pages/user/iphone/article?nam...

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053 2014/02/09(日) 10:14:24 ID:xIzVcRqars
     真玉橋の人柱伝説・七色ムーティー 那覇市

>>51で紹介した豊見城村と那覇市の間を流れる国場川にかかる真玉橋は、他にもこんないわれがある。
真玉橋は1522年、尚真王により、首里と豊見城間切を結ぶ重要な橋として架けられた。
しかしガーナー森伝説のとおり、当時の木製の真玉橋は大雨のたびに洪水で流されてしまうため、
1707年、尚貞王の代になると、丈夫な石で造りかえることにしたのだ。
ところが大勢の人夫を雇い手早く工事するにもかかわらず、大雨になるとたちまち川が氾濫し、せっかく架けた橋脚が流されてしまう。
建設は難航し、役人たちは頭を痛めていた。

そんなとき、役人のもとに1人のノロ(神女)が現れ、こう言った。
「この橋を完成させるには、子年生まれで、七色の元結(髪の根元を結ぶこと)をした女を人柱として立てるがよいとのご託宣がありました」
「まさか人柱とは……。いささか非人道的ではあるまいか」と、絶句した役人たち。
とはいえ、沖縄ではノロやユタの発言力は絶対であった。
役人は血眼になって人柱となるべき条件の人間を探したものの、なかなか該当する者にめぐり会えない。

しばらく経ったある日、お告げを言ったノロ自身が子年生まれであることが発覚した。
そこで役人たちがこっそりノロの家を訪ねてみると、なんと彼女の元結が七色に輝いているではないか。
思わぬ役人の訪問に慌てふためいたノロは、「これは私を陥れるための罠です!」と涙ながらに訴えた。
役人たちにしてみれば体のいい詭弁。問答無用で女を連行した。

翌日、ノロは皮肉にも自身が下した託宣どおり、人柱として生き埋めされることになった。
大勢の人々が見守るなか、ノロの一人娘が泣いている姿を認めると、ノロはこう叫んだ。
「娘よ、どんなことがあっても人より先に口を利いてはなりません」
川に沈められる直前、母の最期の言葉を聞いた娘は、それからというもの口を閉ざした。
その後、村人たちは「物ゆみ者や 馬ぬ さちとゆん(おしゃべり者は、馬の先を歩いて災いをまねく)」と言って戒めた。

後日談として、やがて婚期を迎えた娘だったが、ものが言えないので結婚できるはずもない。
そのとき蝶に姿を変えたノロの霊が現れ、娘のまわりを舞うと娘は口が利けるようになり、結婚することができたという。
民話で有名な『雉も鳴かずば撃たれまい』との類似点が見られるが、それもそのはず、本土の『長良川の人柱』をもとに平良良勝が、
『真玉橋由来記』として書き直し、このように変異したようだ。これもまた、伝説の伝播における1つの形といえよう。


雑貨屋 anshare project の日記 「言葉発見! 七色ムーティー」
http://anshare.exblog.jp/11624454...
奄美・沖縄本島・沖縄先島の伝説より、第132話。真玉橋まだんばしの人柱
http://totoro820.ti-da.net/e3371545.htm...
[PDF]沖縄・豊見城村の伝説「真玉橋の人柱」
http://barrel.ih.otaru-uc.ac.jp/bitstream/10252/768/1/RLA_97_2...
沖縄芝居「真玉橋由来記」と新作組踊「真珠道」について
http://www.geocities.jp/yuminuyu/kumi22.htm...

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054 2014/02/09(日) 10:19:40 ID:xIzVcRqars
     巨大なタコのような奇岩! 鮹岩(ポロワタラ)


知床西海岸のアイヌ語地名を巡る 知床半島中央部 - 道北の釣りと旅
http://www.kitakaido.com/okhotsk/shari/shari_21.htm...
YAHOO!知恵袋 タコの漢字は、蛸と鮹どっちが正しいんですか?
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q132175627...

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055 2014/02/09(日) 10:23:13 ID:xIzVcRqars
     壷よりいでし和気姫、のちに神格化 興居島(ごごしま)

愛媛県松山港の沖合に浮かぶ有人島、興居島。島の南部の小高い山は、伊予小富士といい、気品ある佇まいを見せている。
地元では親しみをこめて小富士山(こふじさん)と呼んでいる。
興居島では祭神、和気比売(和気姫)を祀った船越和気比売神社が鎮座している。
その和気比売とはいかなる神なのか、興味を示さずにはいられない。発祥である『和気姫伝説』がこんな話だ。

昔、船越には和気五郎太夫という名の漁師が住んでいた。
ある日、沖に出て漁をしていると、大きな丸い物体が浮かんでいるのを発見する。
それは壷だった。拾い上げ磯の岩に打ち当てて砕いてみると、中から12、3才ぐらいの、見目麗しい女の子が出てきた。
五郎太夫はまさか子供が入っているとは夢にも思わなかったので、腰を抜かすほど驚いた。
「なんでまた、おまえは壷の中に閉じ込められていたんだ? どこから流されてきた?」
すると少女はこう答えた。「私は唐の国の者でございますが、訳あって壷に入れられ漂流してきたのでございます。私の名は和気姫」
「和気姫か。それにしてもめんこいのう。どうだ、宿無しなのなら、ウチに来るか。とりあえずメシでも食ってけ」
「壷から出てきたというのに、私のことを奇異に思わないとは寛大なお方。喜んでお言葉に甘えさせていただきます」
こんなトントン拍子で話が進み、五郎太夫はついに自身の娘として大切に育てることにした。五郎太夫はロリコンではなかったと信じたい。

立派に成人した和気姫。美しさは眩しすぎるほどであった。ある日、伊予皇子に見初められてしまう。世の常で権力者は手が早い。
これには歯ぎしりせずにはいられない五郎太夫であったが、娘をいつまでも手元に置いておくわけにはいかない。
やがて和気姫は伊予皇子の奥方となり、三つ子の男の子を授かった。
しかしながら当時は三つ子は忌み子として蔑まれた迷信があった。せっかく授かった命を小船に乗せて海へと流してしまう。
それでも三つ子は無事、それぞれ島に流れ着いた。第一子は伊豆の国に、第二子は備前児島、第三子は伊予の国三津浦にという具合。
しばらくすると各地の豪族として栄えたが、とりわけ第三子である小千御子(おちのみこ)は、伊予の大豪族・越智家の祖となったという。
のちに小千御子が、「母が住んでいた島」と言ったことから、この島を母子島(母居島)と呼んでいたが、元禄12年から、興居島へと変遷した。
和気姫の死後、和気姫を神格化させて船越社に祀り、後に船越八幡宮と改められ、明治期に船越和気比売(ヒメ)神社となった。

……壷が流れてきて、そこには子供が入っていたという話は、なんだか虚舟や桃太郎、かぐや姫を髣髴とさせておもしろい。
年端もいかぬ子供を罪人の流刑にしたというのは考えにくい。追っ手からかくまうため、壷に入れて流したのだろうか? 


愛姫伝 ☆「姫の島」興居島へ NO1(霧の導き)
http://makild.exblog.jp/12830540...
興居島愛好会(ごごしま あいこうかい)
http://gogosima-ikou.nsf.jp/densetu/densetu.htm...
YAHOO!知恵袋 双子が忌み子だと言われていた時代はあるのでしょうか?
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q103376813...
ちるみぃでっどり− 【虚ろ舟=UFO】空っぽの鉄の舟,南蛮渡来の美女【宇宙人=人間】
http://blog.goo.ne.jp/kill_me_deadly/e/7becdcaa48d4c...

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056 2014/02/16(日) 10:20:37 ID:W9iRoQJPrQ
     お万と維盛の伝説 龍神村 1

和歌山県田辺市の日高川沿いを山間部に分け入っていくと突如現れる龍神村。古くから林業が基幹産業である。
『龍神』とつく村なのだから、さぞかし龍にちなんだ伝承があるのかと思いきや、これは温泉の名に由来するものだという。
日本三美人の湯として名高い龍神温泉は、およそ1300年前に役小角(えんのおづの)が発見し、弘法大師が難陀龍王の夢のお告げによって
開いたといわれる。他の三美人の湯は島根県湯ノ川温泉、群馬県川中温泉が数えられるそうだ。
それとは別に、龍神村には平家一族で名を馳せた平維盛(たいらのこれもり)と、その家来たちが落ち延びた地として知られている。
この維盛と恋に落ちた娘、お万の伝説がこんな話。

今から800年前以上も昔、屋島の陣をから行方をくらませた平清盛の孫、維盛とその一行は高野山にたどり着いた。
亡父、重盛が寵愛していた家臣、滝口入道時頼に諭され、 熊野水軍を指揮している法印湛僧に平家側に与するよう説得すべく田辺に向かっている道中、
切目神社の宮司湯浅宗光から一ノ谷の敗戦、義経の鵯越の逆落としによって陣屋は壊滅したと聞かされる。
同宮司より「法印湛僧の動向はお伝えしますので、今は日高川奥地の在所にて好機をお待ち下され」と諌められ、維盛は龍神小森に姿を見せたのだった。
この在所は治承4(1180)年ごろ、落ち延びて来た源頼氏支配の地であり、頼氏の迫害を恐れ、断崖絶壁の小森渓谷を上ること約2里の場所に谷端を切り開き、
周囲50mほどの屋敷を構えたのが寿永3(1184)年の4月であった。
在所から屋敷へ食料や衣服を運んだり、身の回りの世話を任されたのが地元の19歳の娘、お万であった。
お万は田舎娘とは思えぬほど洗練された所作と、白い肌が美しい女だった。
維盛とて容姿端麗で気が優しく、元来戦には向かない武将であったとも言われていた。お互いが惹かれあうのも時間の問題だった。

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057 2014/02/16(日) 10:25:47 ID:W9iRoQJPrQ
     お万と維盛の伝説 龍神村 2

しかし恋の行方も暗雲が垂れ込める。
寿永4年(1185)2月、頼みにしていた熊野水軍は船首に熊野権現の神旗と源氏の白旗をなびかせて屋島に乱入。法印湛僧による平家への裏切りだった。
維盛が平家の滅亡を知ったのは同年4月。維盛は小森渓谷の山頂で護摩木を積んで火を放ち、「平氏勝利を得るならばこの煙を天へ上げ給え、
もし不運にして破れるならばこの煙を地に下し給いて、我が家の運命を知らせ給え」と行く末を占った。
ところが煙は不吉にも地肌を這うばかり。地を這う煙は凶兆に他ならなかった。
絶望的な面持ちで維盛は悟った。もはや平家の運命、ここに潰えたも同じ。

維盛は従者の衛門・嘉門兄弟、そしてお万に別れを告げ、屋敷を去り、那智の滝で自決した。
自決の知らせを受けた従者衛門・嘉門兄弟は、これも滝から身を投げて後を追った。片やお万はその翌朝、在所から屋敷へと向かう途中で白粉を流し、
清流に紅を溶かし、最後は淵に身を投げて若くてしなやかな命を散らせた。
その後、里人たちは維盛が護摩木を積んで占った山を護摩壇山、衛門・嘉門が自決した瀧を衛門・嘉門の瀧、お万が白粉を流したところを白壷、
紅を溶かしたところを赤壷、身を投げた淵をお万が淵と名付け、後世に伝えている。

……そもそもこの平維盛、高野山に入って出家したあと、前スレでたびたび取り上げた補陀落渡海で志願して屋形船に乗り込み、入水した1人と言われているのだ。
しかしながら、「三位中将維盛、歳二十七、寿永三年三月二十八日、那智の沖に入水する」と書き付け、死んだように見せかけて、
実は偽装工作であった線が濃厚だという。源氏の追撃を諦めさせるための方便であろう。そういった経緯を経て、龍神村に辿りついたとされているのだ。
下記の平維盛wikipediaでご覧になればわかると思うが、落ち延びた場所が無数にある。欺瞞してまで落ち延びるというのは、
想像を絶するほど命がけの逃亡だったに違いあるまい。
龍神村以外にも、那智勝浦町の奥深いところには色川という集落があり、ここには維盛の墓まで存在する。
色川はとても景色のきれいなところで、秘境とも言うべき場所。今度暇を見て突撃取材に行ってくるつもりだから、乞うご期待。


人生の空からVonBraun.exblog.jp 小森谷
http://vonbraun.exblog.jp/1288126...
龍神村の文化財 田辺市龍神村
http://www.aikis.or.jp/‾eiji-ito/ryujin/hometown_cultural.htm
Revoir... < 龍神へ >
http://revoir.exblog.jp/1855665...
役小角wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BD%B9%E5%B0%8F%E8%A7%...
平維盛wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E7%B6%AD%E7%9B%...
熊野の観光名所 - み熊野ねっと 補陀洛山寺
http://www.mikumano.net/meguri/fudaraku.htm...
わかやま新報 Staff Blog 星神社
http://www.wakayamashimpo.co.jp/staffblog/2009/10/post_227.htm...
nicozon つボイノリオの極付けお万の方
http://www.nicozon.net/watch/sm531110...

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058 2014/02/16(日) 15:41:27 ID:AfCtjJjSt2
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CWニコル沖縄久高島へ

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059 2014/02/16(日) 19:15:14 ID:AfCtjJjSt2
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     神域の島 8月7日に行われる『夕日の神事』と海底遺跡の因果関係 経島(ふみしま)

島根県出雲市の日御碕(ひのみさき)から西へ約100m行くと日本海に出る。すぐそばには経島という無人島が見える。
『経巻』を積み重ねたような柱状節理の石英角斑岩から形成されており、お経の本を載せる文机のように見えることから、
その名がついたと伝えられている。またウミネコの繁殖地として、国の天然記念物『経島ウミネコ繁殖地』に指定されている。
毎年11月下旬から冬にかけて約5000羽ものウミネコが飛来し、4月から5月にかけて産卵・孵化、7月ごろに島を離れるそうだ。
ウミネコは主に海面近くのイワシや小魚を常食としており、ブリに追われて海面に浮上したイワシを求めてウミネコが群れをなすので、
これを目印に出漁する漁師にとっては特別ありがたい島である。

さらにはこの経島、古くは日御碕神社の下之宮があり、今もなお神職以外の一般の立入りは禁止されている。
8月7日の『夕日の神事』のときのみ宮司だけが舟で渡ることができるのだ。
それだけではない。実は日御埼灯台北の海底には、サドガセとボングイと呼ばれる岩があり、人工的に造られた階段や参道、祭祀跡が発見されたのだ。
なかでもサドガセにある2つの巨石がもたれかかってできた岩屋は、沖縄の南城市にある世界遺産、斎場御嶽(せーふぁうたき)に酷似しており、謎めいている。

この遺跡を発見したのは、日御碕漁港でダイビングショップを営む岡本哲夫氏。
12年ほど前、岡本氏が新たなダイビングスポットを開拓すべく周辺の海を調査したところ、件の遺跡にめぐり会ったというわけだ。
「最初に見つけたのは、日御埼灯台北の海底です。階段のように削られた岩や、玉砂利を敷いた参道らしきものがあり、
どう見ても自然にできたものとは思えず、 調査を始めました」と、岡本氏は語る。

ちなみに伊勢神宮が「日の本の昼を守る」のに対し、日御碕神社は「日の本の夜を守る」ところという勅命があり、
その名も「日沈宮」という美しい宮が建てられたとの逸話が残っている。
また上記した『夕日の神事』は、かつては経島沖の『タイワ』と呼ばれる瀬で行なわれていたという言い伝えがあり、
その伝説を裏付ける発見かもしれないと、期待が寄せられているそうだ。


漁港漁村の歴史文化財産の紹介 経島〔ふみしま〕〈宇竜漁港〉(出雲市大社町)
http://www.pref.shimane.lg.jp/gyokogyojo/zaisan/02fumishima....
平成・美しい日本を護る会ブログ【やむやま】 日御碕神社
http://heigokai.blog.fc2.com/blog-entry-109.htm...
あれこれある記 2013年8月 1日(木) 日御碕神社
http://soundmaster.cocolog-nifty.com/blog/2013/08/index.htm...
さんいん旅ねっと 日本海のダイビングスポット「日御碕」に海底遺跡か?
http://www.san-in-tabi.net/travel/44.htm...

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060 2014/02/22(土) 10:08:52 ID:mbxGwEYciA
     泥神パーントゥ、その起源 宮古島島尻

前スレの>>64>>66でパーントゥを取り上げたはいいが、発祥を書いていなかったので長らく不満げに思っていた。
よって追加する形で書いてみようと思う。
旧暦9月上旬の吉日に、沖縄の宮古島では重要無形民俗文化財に指定されていながら、奇想天外な悪魔払いの伝統行事が行われる。
島尻地区の青年が3人選ばれ、パーントゥと呼ばれる泥神に扮し、新築の家や新生児の生まれた家々を主に回るのだが、
道中出会った人や車にも泥を塗りたくるという奇祭。この泥には悪霊が憑くのを防ぎ、無病息災をもたらすありがたいものだという。
よって、住人たちは(近年は観光客も多く含まれる)喜んで、パーントゥに泥を塗り付けられる。ただ臭いがなかなか落ちないのが玉に瑕らしい。
この奇祭は正式には『パーントゥ・プナハ』と呼ばれる。『パーントゥ』は宮古方言で鬼や妖怪、もしくは島の歴史について書かれた『宮古島庶民史』
(稲村賢敷・1948年)によると、『パーン(食べる)+ピトゥ(人)』が訛ったのではないかとの説もある。そして『プナハ』は祈願祭という意味。
宮古島の北部、島尻に伝わるこのパーントゥについては、はるか遠い昔から語り継がれた発祥の物語がある。

その昔、島尻の北東部にあるムトゥズマ(元島)という村に近いクバマという海辺に、ビロウの葉に包まれたものが流れ着いた。
このあたりの海岸はふだんは波も穏やかで静かな海だった。しかし波はなくとも潮の干満で激しい海流が起こることもあり、
こうして浜辺に見なれぬ物が漂着することが少なくなかった。
村人が恐る恐るその包みを解いてみると、3個の木の仮面が現れた。
村の長老にそれは差し出され、主だった者が集まり、これをどうしたものか話し合いが進められたが名案が浮かばない。
太古より沖縄ではニライカナイの思想が根付き、海から寄りつくものは『神のものたらすもの』(寄り神)として、
決して捨てたり葬り去ったりすることはしなかった。水死体でさえ神の贈り物としてありがたく祀ったほどであった。
先人は海の彼方からやってきた漂着物に、思わぬ力が宿っていることを信じていたのだ。
長老はこの仮面をつぶさに調べたのち神の霊験を感じ、大切に拝所に祀っておいた。
村では1年に1度、悪魔祓い(厄払い)の行事を行っており、ためしにこの木面を使って村祭(サトマツリ)をやってみた。
これが功を奏し、この祭が始められたその年から、村は雨にも恵まれて植物もよく育ち、良いこと続きの豊作になったという。

……集落の外れに『ンマリガー』(生まれ井戸)なる場所がある。文字通り、生まれたときの産湯に使う水を湛えた井戸のことである。
祭の際は、3体のパーントゥはまさしくこのンマリガーの奥で衣装に着替え、姿を現す。
そして集落を練り歩き(ときにはダッシュし)、ありがたい泥を塗布するわけである。
そして祭の終わりは以下のような形で締めくくられる。
3体のパーントゥは集落の発祥地に祀ってある拝所をまず巡り、無事に行事を終えられたことの報告とお礼をお参りする。
お礼参りを済ますと今度は海へと通じる道を歩く。海辺に着くと仮面をはずしてサンゴの岩の上に置き、身にまとっていたつる草を鎌で切り取って海に流し、
全身の泥を落として海水で身を清めるのだ。このとき、パーントゥが帰っていく工程だけは何人たりとも見ることは許されない。
ここにも見るなのタブーがつきまとうわけだ。
いったいこの仮面はどこから解き放たれたのだろうか? いまだ学者の間でも定説が立てられていない。


お祭り日本の旅 パーントゥ
http://festivals.travelaround.jp/okinawa/pantoxu.ht...
沖縄B級ポータル - DEEokinawa(でぃーおきなわ) 宮古島島尻地区の奇祭パーントゥ
http://www.dee-okinawa.com/topics/2011/10/panto.htm...
NAVERまとめ なまはげより怖い!?沖縄の奇祭「パーントゥ」の様子まとめ
http://matome.naver.jp/odai/213176093343288690...
ライブドアニュース 泥だらけの神様に追っかけられる祭り
http://news.livedoor.com/article/detail/4378353...
えびすwikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%88%E3%81%B3%E3%81%...
羽黒神社宮司のブログ 寄り神の信仰
http://ameblo.jp/hagurotetsu/entry-10825295700....
民族学伝承ひろいあげ辞典 ラッキーエビスと漂着神・恵比寿
http://blogs.yahoo.co.jp/kawakatu_1205/51889336.html?ty...

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061 2014/02/23(日) 10:46:33 ID:u/lf4RtPJ2
「八重山島年来記」 
http://yaeyamaocean.com/camp/nenraiki.ht...
『パイパティローマ』 −楽園の島は何処だったのか?
http://www.kt.rim.or.jp/‾yami/hateruma/paipateroma.html
いちらん屋 伝説の大陸・沈んだ大陸・沈没した大陸の一覧
http://ichiranya.com/technology/134-continent_of_le...

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062 2014/02/23(日) 10:54:51 ID:u/lf4RtPJ2
     美女盗賊・鬼神のお松伝説 石ヶ戸(いしけど) 1

青森県十和田湖畔の子ノ口から奥入瀬(おいらせ)川を9km下ったところにあるのが石ヶ戸休憩所。
そこから眼下を見下ろしてみるとよい。川沿いには天然の岩屋が見えるはずだ。
岩板の厚さは約1m、長さ10mを超える溶結凝灰岩で、2本のカツラの老木がこの巨石を支えている。
これを石ヶ戸という。『ヶ戸』とは方言で『小屋』の意味であり、すなわち石小屋ということになる。
石ヶ戸には昔、『鬼神のお松』なる美女の盗賊が住んでいたとされ、付近を通りかかる旅人から金品を巻き上げていた伝説があるそうだ。

鬼神、または鬼人のお松といえば、嘉永6(1853)年に売り出された錦絵『三幅対』で、石川五右衛門、児来也(じらいや)と並び、
『日本3大盗賊』の1人として描かれるほど知名度が高く、歌舞伎『新板越白浪』では毒婦として登場した別名『女児来也』のこと。
美女盗賊とは、今までなかったタイプの伝説で、これは大いに興味がそそられよう。
とはいえ島か村ネタに該当しないのでスレチになってしまうのだが、あまりにもったいないのでやっぱり載せておく。我儘許せい。
実は青森や秋田の各地にはいくつものお松伝説が転がっており、内容が微妙に異なったり、オチも違うケースがある。
とりあえず一般的なお松伝説とはこんなお話。

江戸深川ではちょっとは名の知れた美貌の遊女・お松がいた。ある日、仙台藩士の立目丈五郎に見初められ、仙台へ越して丈五郎の妻となる。
娘も生まれ、お松にとって幸せの絶頂であったが、遊女の身の上が不幸が多いように、それも長続きはしない。
丈五郎が御前試合のもつれから剣道指南役の早川文左衛門に殺されてしまうのだ。
愛する夫を殺されたお松の悲しみ、悔しさはいかばかりか。仇討ちを誓い、夫の仲間である稲毛甚斎に助太刀を頼むべく京都を訪ねた。
ところが非道な稲毛。「……助太刀してやらんでもない。その代わり、一晩おれの相手をせい」と、舌なめずりしながらお松の身体を求めてきた。
お松はとっさに懐刀を抜いて抵抗した。「お呼びでないんだよ、このエロ親父!」もみ合っているうちに、懐刀が稲毛の胸にグサリ。
この殺害がきっかけで、お松の性格が毒婦のそれへと一変する。

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063 2014/02/23(日) 10:59:52 ID:TPNdM7QV4A
     美女盗賊・鬼神のお松伝説 石ヶ戸(いしけど) 2

仙台に戻ったお松は、早川文左衛門に色仕掛けで迫り、ともにに一ノ関への旅に出る。
そして衣川を渡る際、色っぽくねだって背負ってもらい、川の深間にさしかかったところを懐刀で早川を刺殺。
ついに本懐を遂げたわけである。
そのあと、一ノ関から金岳山に向かったところで、山賊・三島権右衛門の一派に襲われるものの、
ここでも権右衛門の隙を突いて盗賊を従え、権右衛門にかわり山賊の女頭目にまでなってしまう。

このときを境に『鬼神のお松』と呼ばれ、笠松峠を拠点として付近の村々を荒らし回り、
賊退治に向かってくる腕自慢の剣士たちを返り討ちにしていく。
ところが因果応報は巡る。天明3(1783)年、夫の仇の息子、早川文次郎という18歳の青年が現れ、金岳山での仇討ちに来た。
お松はあえなく首を落とされる。異説によれば、お松は抵抗せず、文次郎に父の仇を討たせてやったとも言われている。

……すでに青森・秋田には類似のお松伝説が転がっていることを述べた。実はお松を仕留めた加害者が違うケースがあるのだ。
お松はスリルに富んだこの生業に惚れ込んでおり、なかには生き血を吸う快感を味わっていたとの説さえある。
この石ヶ戸に伝わる話の場合、この石小屋を住処とし、旅人から金品を奪って暮らしていたお松の手口は、旅人が現れると先回りして行き倒れを装い、
介抱してくれた男の油断をついて刺殺するか、または旅人に背負ってもらい川を渡り、流れの中途にさしかかると、いきなり短刀を振りかざしたとされる。
この凄腕の毒牙にかかった男は48人。
ある日、49人目の犠牲者となるはずの仙台出身、夏目仙太という侍が通りかかる。お松の官能的な仕草の中に、ただならぬ殺気を感じた仙太は、
お松がそっと懐刀を取り出し、突き立てようとした瞬間、背負っていたお松を投げ飛ばし、一刀両断して成敗したとも伝えられている。


入瀬渓流と十和田湖 奥入瀬渓流
http://www.geocities.jp/busi_tabi/oirase.htm...
社団法人 十和田湖国立公園協会 十和田湖フィールドノート〜カンジルトワダコ〜 奥入瀬渓流探勝路ガイド
http://www.towadako.or.jp/archive/?c=kanko&id=1...
仮分数 アメーバビグ  3.実録 江戸事件簿③ ≪毒婦・鬼神のお松≫
http://ameblo.jp/yoshida1049/entry-11523520612....
NAVERまとめ 世界の毒婦集
http://matome.naver.jp/odai/212615369101189600...

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064 2014/02/23(日) 11:06:57 ID:TPNdM7QV4A
     醜く変貌した蜂子皇子 白山島(はくざんじま)と由良海岸

山形県鶴岡市の沖合には、約3000万年前に玄武岩が噴出して形成された無人島が浮かんでいる。
由良海岸の砂浜から島までは、長さ約170mの歩道橋が架けられており、歩いて島まで渡ることができる。
島の形こそ違えど、海岸から伸びた橋の欄干は眼にも鮮やかな朱色で、福井県東尋坊の近くにある雄島とそっくりである(雄島に関しては
前スレ>>169を参照されたし)。
奇しくも別名は『御島(おしま)』だとか。因果なことに、雄島同様この白山島も自殺者の亡霊が出没するスポットとして有名らしい……。

ちなみに本土の由良海岸にはこんな伝説が残されている(てか島ネタじゃないんだが……)。
推古元(593)年、出羽三山の羽黒山・月山が開山され、推古13(605)年に湯殿山が開山された。
この山に霊力を感じ、修験山として開らいたのが、崇俊天皇の第三皇子・蜂子皇子(波知乃子王)。
蜂子皇子は、父である崇俊天皇が蘇我馬子の配下・東漢直駒(やまとのあやのあたいこま)に暗殺されたため、
馬子から逃れるべく丹後国由良(京都府宮津市由良)から船で北上した。
ここにたどり着いたとき、八乙女浦にある舞台岩と呼ばれる岩の上で、8人の乙女が笛を吹き、舞いながら蜂子皇子を迎え入れた。
上陸すると3本足の霊烏(ヤタガラス)に導かれ羽黒山へとたどり着いたとされている。

蜂子皇子は能除大使(民衆の悩み苦しみを取り除く高僧)や弘海などの名を持ち、羽黒山を開いたのちは、地元住民の面倒をよく見、
それらの苦しみを一身に背負ううちに、画像のような醜い顔になったと言われる。
 

ひーさんの散歩道 白山島/由良海岸
http://blog.goo.ne.jp/hi-sann_001/e/beae3b96e95c690f...
山形県由良温泉ホテル八乙女 出羽三山と八乙女伝説
http://www.yaotome.co.jp/legend...
あをべにブログ 心霊スポット探訪記 第十三話「白山島」
http://soukublog.blog113.fc2.com/blog-entry-601.htm...

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065 2014/03/02(日) 10:30:44 ID:jEdfiAeqrU
     抜き身の刀がキラリと光って居所がバレた? 延元さま伝説 鵜来島(うぐるしま)

鵜来島は高知県宿毛市の沖合、南西23Kmにある有人島であり、足摺宇和海国立公園に指定されている。
島の最高点は標高252mの竜頭山。周囲は峻険たる断崖絶壁で取り囲まれているが、磯釣りのメッカとして知られている。
太平洋戦争時では軍事的に重要な位置にあったため、その竜頭山には砲台が置かれていた。現在もその名残をとどめている。
それとは別に、鵜来島には宇和島藩350石、高禄の侍の悲恋の伝説が残されている。地元では延元(えんげん)さま伝説と称されており、
今回はそれを紹介しよう。

元禄13年、伊予宇和島藩の若侍・栄玄(延元?)が、家老の娘・了因と恋に落ちた。しかし上下関係が絶対の武士の世界では、それは許されざる恋であった。
2人は手を取り合い、はるかな鵜来島を目指して駆け落ちした。当時、鵜来島は宇和島藩の所領地であり、漁業の基地として重要な役割をもっていた。
純朴な島民ばかりだから若い2人をかくまってくれるだろうと期待して頼んでみたものの、それに反し島民は受け入れてくれなかった。
一緒についてきた娘の乳母も頭をさげるが頑として譲らない。もし役人に露見すればお咎めは必至として、島民はかくまうわけにはいかなかったのだ。

乳母を含めた3人は森の中に身を隠し耐え忍んでいた。不憫がってか、食料を届けてくれる人がおり、なんとか飢えずに済んだ。
それから2、3日経ち、ついに藩の船が港に乗り込んできた。3人の行方を追って、侍たちは島じゅう捜索を開始。
しかしそれも徒労に終わる。茂った木々や起伏に富んだ磯が作り出す死角が若侍たちを救ったにちがいない。
追っ手はあきらめ、他の島を探すことに決め船に乗り、まさに港の鼻を曲がろうとしたとき、対岸の水場で仕事をしていた女が「あっ!」と叫んだ。
若侍が松の木にのぼって船が去っていくのを確認していたのが仇となってしまう。
腰につけていた刀が陽光を反射してキラリと輝き(鞘におさめていればそれはないはずなのに、抜き身のままさげていたのか?)、
それを女が目ざとく見つけたのだ。女は叫んだ。「見つけた! 隠れている侍はあの松の木の上だよ!」

船が取って返し、追っ手が島へなだれ込んでくる。なんとか逃げおおせたと思った安堵から瞬時に絶望に叩き落された若侍。
松の木からおりると、近くの岩場で身を隠していた娘と乳母に言った。
「かたじけぬ、私の失策で彼らが戻ってきた。もはや私たちの命運、進退窮まった。この上においては潔く自害し、いっそあの世で伴侶となろう」
「あなたに従います……」と、娘。「では私もともにお仕えしましょうぞ!」と、乳母もうなずいた。
「許せ了因、せめて苦しまずに殺してやる」若侍は2人の胸を一突きして即死させ、自身も腹をかき切って果てた。

そのまま見逃してやればよかったものを、なまじ密告してしまった女は金一封受けるどころか、家ではあまりにも災難が続いたので、
すわ若侍たちの祟りではないかと恐れ、彼らが死んだ場所に祠を建て『延元さん』として祀り、その魂を供養した。
その子孫は現在まで毎年の祭りを欠かさないという。その祠は港を望む小高い丘に今も佇んでいる。


slow life blueview - sukumo okinoshima island PART.3 宿毛市沖の島の生活
http://www.k5.dion.ne.jp/‾blueview/life4.html
My Fortnight's Dairy 明日より、鵜来島へダイビングに行ってきます
http://geocities.yahoo.co.jp/gl/st4974/comment/20090423/124...
おさるの日本刀豆知識 刀の取り扱いと作法
http://www7b.biglobe.ne.jp/‾osaru/sahou.htm

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066 2014/03/09(日) 12:48:49 ID:qWp0QGI2ag
     無足明神『ムスッドン』を祀った島 知林ヶ島(ちりんがしま) 1

鹿児島県指宿市の西の沖合に、知林ヶ島なる奇妙な島名の無人島がある。
名前の由来は、島には松が繁茂しており、夜間、付近を航行する船乗りが、風に吹かれてクロマツ林が揺れる音をたよりに航海したことから、
こう呼ばれるようになったのだとか。チリン、チリンと音が鳴ったので知林ヶ島だそうだ。もっとも現在はソテツやビロウの方が多く占めているが。

知林ヶ島はふだん、鹿児島湾にぽつんと浮かんでいるだけだが、干潮時の数時間だけ、長さ約800mの砂の架け橋ともいうべき砂州が現れ、
対岸の指宿市の突端である田良岬から歩いて渡ることができる。その光景はさながらモーセの十戒のごとし。
勤勉なる読者諸兄なら気づかれよう。前スレからたびたび取り上げたトンボロ現象である。

知林ヶ島は戦前、指宿市にある尾掛(おかけ)集落の住人たちが所有する島だった。
住人は島を開墾して農地を作り、島の見張りと管理のため一家族を常駐させ、これを島守としていた。
その後、昭和38(1963)年〜42(1967)年にかけて森村グループの一部である森村産業が、森村学園の林間研修に使う名目で土地を買収し、全島の土地を所有。
これを契機に昭和52(1977)年以降、知林ヶ島は無人となる。
しかし、知林ヶ島を含む鹿児島湾一帯は国立公園に指定されていたため、地形の変更や大規模な建築等の許可が下りない。
森村学園の研修施設建設計画は難航し、放置されることになる。八方塞がりとなった森村産業は、地元の指宿市に対して買収を求め、
平成20(2008)年に3億4千万円で市に売却。それから現在まで指宿市が島を所有する形になったわけだ。
指宿市は砂州が『架け橋』や『絆』を想起させることから、『縁結びの島』としてPRし、今では夫婦やカップル、婚活女子、
家族連れなどに人気の観光スポットとなっている。

……正直、そんなことはどうだっていいだろう。今回、当スレに取り上げた理由は、島に鎮座する神社と謎の石塚に触れたいがためである。
島内には尾掛の住人が開墾に入る遥か以前から神社と石塚があり、何かを祀っていたらしい。ビロウやソテツの中に神道の社があるのはなんとも不思議な眺めである。
神社の祭神は尾掛から勧請された天照大神であろうと推測されている。
問題は石塚である。これは『蛇塚』もしくは『蛇神様の塚』と呼ばれ、かつて『無足明神(むそくみょうじん)』なる神を祀っていたという。
島の看板にはこう紹介されている。
「知林ヶ島は潮風の影響で霜が降りないことから、『宝の島』として戦前から芋や麦などの作物が植えられた。
終戦後、島を開発する際に、たくさんの蛇を殺したため、鼠が大量発生してしまった。結果、多くの作物が食べられ、農家は困り果てた。
そのため約250年前(※元島守である人物が言うところによると、360年前とも)からあった石塚に、蛇を殺した供養として蛇を祀ったところ、
鼠が減って作物が育つようになったといわれている。」

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068 2014/03/09(日) 13:10:51 ID:8k3WEOrgzY
     無足明神『ムスッドン』を祀った島 知林ヶ島(ちりんがしま) 2

実はこれにはさらなる因縁めいたオドロオドロしい話が隠されていた。細かく書いてみよう。
尾掛の人間が開墾する際、あまりにも蛇が多くて難儀した。とりわけ2mクラスのアオダイショウがゴロゴロおり、片っ端から殺した末、作物を植えた。
昭和14(1939)年、尾掛では大火災が発生。それは集落全体に及ぶ大惨事であり、その後、昭和33(1958)年にも同様の火災に見舞われたことから、
これを異常事態だと住人たちは騒いだ。
このとき、尾掛の住人の1人である石坂ケサなる祈祷師の老女がこう言った。「……まさしく、ムスッドンの祟りじゃ」
そして島を開墾する住人たちに忠告した。「おまえたち、知林ヶ島の蛇を殺したな。これはムスッドンの災いに他ならないぞ。
殺した蛇を供養せねば、この祟りはおさまりがつくまい」
そこで石坂ケサは島へ渡り、無足明神を祀っていた石塚に『南無大悲見』と彫った戒名石をおさめ供養した。
塚の正面には直径10cmの丸い穴が開いており、内側ががらんどうになっているのだ。実際、現在も中を覗くと戒名が彫られた石がちゃんと入っている。

それにしても、このいかがわしい……もとい、不思議な託宣を告げた石坂ケサの言う『ムスッドン』及び『無足明神』とはいかなるモノであろう?
江戸時代後期に薩摩藩が編纂した文書『三国名勝図会』によると、やはり尾掛には天照大神を祀る社があり、そのすぐ隣には『無足明神』と
崇める神木と祠があったと記されているのだ。
この無足明神こそ別名『ムスッドン(無足殿)』と呼ばれ、大昔、海の彼方からやってきたとされる文字通り足のない者だという。
ムスッドンは尾掛の山に登り、毎年、娘を1人ずつ食っていった。そして神木に7回りして巻きついたため、集落の人々が祠を作って祀ったいう言い伝えがある。
また旧暦10月15日の秋祭りの日、尾掛では足のない者に扮した1人がいざり進む『無足の舞い』という神楽を行っていた。
この舞い手たちは渚から山を巡り神木の前に行って舞い、笹竹で神木をくくり、縄をかけたという。恐らく『ムスッドン』とは蛇神信仰であろう。
しかしながら明治から昭和への激動の変遷とともに人々から信仰心が薄れ、尾掛で祀られていた神木は朽ちてしまい、秋祭りの『無足の舞い』さえ廃れてしまった。

そもそもムスッドンはどこからやってきたのであろうか?
蛇神とはすなわち水神であり、稲の収穫後、日を選んで稲作に必要な水を森からいただいていたことへの感謝の祭りを行ってきた。
そのとき来年の春まで山止めする意味の7巻きであろうと言われる。また蛇神は川や田の溝の象徴であり、鹿児島県長島や熊本県球磨郡地域では、
秋に集落ごとに祭りを行い、山の入り口の木を縄で7巻きするそうだ。

あるいはこうも考えられるという。……もしかしたら、知林ヶ島と田良岬の間に現れる砂州こそがムスッドンに見立てられたのではあるまいか。
干潮時、海から突如現れる細長い砂の道は、古代人にとって大蛇の化身のように映ったのではないか。
ムスッドンが毎年、集落の娘を人身御供のように食らった伝承は海難事故を暗喩した線が強いという。
田良岬と知林ヶ島を結ぶ海域は、一見すると浅瀬で穏やかな海だが、実は潮の流れは速く、泳ぐなど論外。
昔、砂州で海産物を拾っていた娘たちが、いつの間にか潮に満ちてきたことに気づかず、波にさらわれたこともあっただろう。
それを尾掛集落では「ムスッドンに食われた」と考え、畏怖したのではなかろうか。


鹿児島観光 あじこじ九州 知林ヶ島(鹿児島県指宿市)
http://www.ajkj.jp/ajkj/kagoshima/ibusuki/kanko/c...
鴨着く島 知林ヶ島に渡る(指宿市)
http://kamodoku.cocolog-nifty.com/blog/2013/08/post-4d39.htm...
まつりの俳優・隼人(※2007年 10月号  纏向の俳優、隼人の「やまと」の項目に『無足の舞い』に関することが載っている)
http://www4.synapse.ne.jp/yatusiro/newpage4.htm...

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069 2014/03/16(日) 18:23:55 ID:rknP.Yy0jk
ネイビーブルーに恋をして 横須賀軍港めぐりツアー〜「日本で一番危険な島」
http://blog.goo.ne.jp/raffaell0/e/7dae3f9de7f642721f...
EOD JAPAN is SUPER INDUSTRIAL  樹樹に覆われし吾妻島神社
http://blogs.yahoo.co.jp/guardianvein/13736211.htm...

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070 2014/03/16(日) 18:26:51 ID:rknP.Yy0jk
     嘆かわしき廃棄物処分場の島 上黒島

呉市の沖合、約5km先には嘆きの島・上黒島が浮かんでいる。
島のそばには対で寄り添うかのように下黒島があり、両島は戦前まで、合わせて20世帯ほどが暮らす有人島だったものの、
戦後ほどなくして無人島になる。
しばらくの後、渡島する人が現れ、昭和30年の国勢調査では人口43にまで増えるもそれも束の間にすぎず、またぞろ人口流出し、
昭和51年、ついに無人化してしまう。

近年では地元土木会社が島を買い取り、採石場として利用。島はもとの原型をとどめぬほど掘削された。
その後、上黒島のほとんどの土地を廃棄物処理業者が取得し、平成元年には産業廃棄物最終処分場、平成3年には一般廃棄物焼却灰処分場が建設される。
運び込まれる廃棄物の大部分は関東のものだという。皮肉なことに採石場の跡地にある穴に廃棄物を埋めているのが現状だ。
悲しいかな、下黒島も同じ運命を辿っている。


四国新聞社 連鎖の崩壊 第4部 ミクロの逆襲 11
https://www.shikoku-np.co.jp/feature/rensa/4/11...
下蒲刈島の海 地域文化の継承
http://www10.plala.or.jp/mirai-wo-sinjite/umi/umi.htm...
風のように雲のように 削られ、そして詰め込まれ。。。〜呉市・上黒島
http://blogs.yahoo.co.jp/ymgysh/36366245.htm...

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071 2014/03/16(日) 18:34:31 ID:KUewdNZWRo
     古座川の神霊宿りしご神体の島 清暑島(せいしょとう)

>>20で『川中島』の代表格である熊野川の御船島を紹介した。
実は御船島よりも上流には昼嶋、骨島、反対に下流には亀島という島が点在しており、島マニアの心をくすぐるのだ。
仕事の都合でたまに熊野川を行き来するので、業務そっちのけでデジカメにてバシバシ撮りまくっている僕はいけない子です。
これら3島は次のレスでURLを貼っておくので、そちらで調べられるとよい。『怖い』という範疇から外れてはいるが、
いずれもちょっとした歴史が残されており、注目に値すると思う。

……それとは別に、お隣、和歌山県の古座川にも同様の島があるのを発見した。
古座川は二級河川ながら、大塔山系に源を発し、古座川町、古座町を流れ、熊野灘に注ぎ込んでいる延長60余kmの日本屈指の清流。
険しい山間を蛇行して流れる水は透明度が高く、流域には奇岩奇峰が無数にある。
なかでも虫喰岩・牡丹岩・飯盛岩・一枚岩・天柱岩など、自然が織り成す造型美と奇景ぶりに感嘆せずにはいられない。

件の島は東牟婁郡古座川町に属し、古座川河口から3kmほど遡ったところにある。
それが清暑島である。これまたおいしいことに、島全体がご神体とされ、古座川の神霊の宿るところとして尊ばれているのだ。
清暑島は河内(こうち)さま、もしくは河内神社とも呼ばれ、川の中に島があること自体めずらしいのに、川中の神社はさらになかなかお目にかかるまい。
神社といっても社殿はなく、鳥居も川岸にあり、拝所から島を拝むわけだ。祭神は素戔男尊(スサノオノミコト)。

また、毎年7月24、25日には古座川河口から清暑島にかけての川筋で河内祭が行われることで知られている。
一説によると、源平合戦で源氏方として参戦した熊野水軍が凱旋し、戦勝を河内神社で祝ったときの様子を再現する祭りとされている。
古座川河口で汲み上げた『潮』をご神体と一緒に、24日の午後、3艘の御船で古座川を、河内大明神の祀られている清暑島へと遡っていく。
その日は『潮』を供え、御船と一部の若者は河原で一晩明かす。
翌25日は、河口から昇ってきた櫂伝馬船や川船が合流し、神事が始まる。地元中学生の『櫂伝馬船』下古座、中古座、上古座の3地区を代表する3艘で、
神事、獅子舞の奉納のあと、島の周りを競争。 ホラ貝の音、こぎ手による木遣りのような舟歌のなか、御船が島の周りを回り始めると、
河原では厳かな神事が始まる。
神事が終わると、各地区から集まった者たちが、それぞれの天幕(座)に集まり、各地区の獅子舞が奉納されるのだ。
幟を立てて飾った御船は雅やかで美しく、人々の目を惹きつける。そんな河内祭は国の重要無形民俗文化財に指定されている。

島がご神体……当スレでいくつものソレを取り上げてきたが、この川中島は可愛くて萌え萌えである。


み熊野ねっと 河内島(河内神社)
http://www.mikumano.net/meguri/seishoto.htm...
オーラ立つ聖地を求めて 〜パワースポット・磐座・巨石信仰めぐり〜 清暑島・水に浮かぶ聖地(河内神社)
http://blogs.yahoo.co.jp/doctor3044/14904110.htm...
AGARA紀伊民報 ゆっくり、神の島へ 古座川で河内祭の水上渡御
http://www.agara.co.jp/modules/dailynews/article.php?...
和歌山県ふるさとアーカイブ 鯛島(たいじま)と清暑島(せいしょとう)
http://wave.pref.wakayama.lg.jp/bunka-archive/minwa/43.htm...

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072 2014/03/16(日) 18:39:50 ID:KUewdNZWRo
     熊野川の川中島 亀島・骨島・昼嶋など

熊野古道 伊勢路  川丈街道(川端街道)コース
http://www.kumadoco.net/kodo/course/23/photo_05.htm...
幸徳秋水(こうとく・しゅうすい)らの熊野川での船遊び(亀島)
http://www.urikomail.jp/modan-spot/shusui.htm...
熊野本宮・湯の峰温泉旅行 クチコミガイド 2009年11月熊野古道中辺路その3(川湯温泉−熊野川川下り−新宮)
http://4travel.jp/travelogue/1083975...
み熊野ねっと 熊野の観光名所 熊野権現が昼食をとった島(昼嶋)
http://www.mikumano.net/meguri/hirujima.htm...
和歌山の観光ポータルサイトTIC WAKAYAMA  熊野川 川舟下り 【串本・勝浦・新宮】
http://www.ticwakayama.jp/detail/index_30.htm...


※画像は、こないだ車窓から撮った昼嶋。ゴツゴツした岩で形成された、無骨な、まっこと男らしい島である。
いつか川下りのツアーに参加し、島に上陸して、島のてっぺんでランチをとりたい。

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073 2014/03/22(土) 06:28:25 ID:cI.VlCUWTM
     米軍の射爆撃場地・傷だらけの島 鳥島(久米鳥島)

沖縄県島尻郡久米島町に属し、久米島の北約2kmに位置する無人島、鳥島。別名、久米鳥島(くめとりしま)。
島全体が米軍の演習地『鳥島射爆撃場』となっており、空対地射爆撃訓練が行われている。
水域は使用期間中、上陸はおろか、漁業及び近づくことさえ許されない。
平成7年12月から平成8年1月にかけて3回にわたり、米海兵隊のハリアー機が訓練中、計1520発の劣化ウランを含有する徹甲焼夷弾を
誤って使用していたことが明らかにされている。
長年、米軍の爆撃にさらされ、島の形が変わるどころか、削り取られて小さくなってしまい、いずれ水没してしまうのではと懸念されている。
沖縄県は島が消滅する前に早急な返還を求めているが、米側はそれに応じない姿勢を示し続けているのが現状だ。


知られざるヒバクシャ 劣化ウラン弾 被曝深刻
http://www.hiroshimapeacemedia.jp/abom/uran/okinawa/index2.htm...
管内 在日アメリカ合衆国軍海上訓練区域一覧表
http://www1.kaiho.mlit.go.jp/KAN11/anzen/Us97/US97.htm...

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074 2014/03/22(土) 06:32:20 ID:cI.VlCUWTM
     源氏の落ち武者7人が切り拓いた琵琶湖の島 沖島

前スレから琵琶湖の島をいくつか紹介してきたが、沖島こそ琵琶湖内を代表する島と言えよう。
驚くべきことに日本唯一の淡水湖上の有人島で、人口約330人(2013年調査)を擁する。
そもそも、なぜ広大な琵琶湖とはいえ、島に人が住む歴史が始まったのか? 内地の方が何かと利便性に優れているだろうに……。
その実、沖島は万葉集に詩が散見されることから始め、大正時代に赤碕沖付近で漁を行っていた船からシジミに混じり縄文土器や
和同開珎が発見されたことから、太古より沖島付近に人々の往来があったと言われている。

和銅年間(708〜715年)に近江の国守であった藤原不比等(藤原鎌足の子)が奥津島神社を建立。
奈良時代には、称徳天皇への反逆の罪で追われた恵美押勝(藤原仲麻呂)が一族らと沖島に一時期住んだと伝えられている。
紫式部がこんな歌を詠んでいる。「おいつしま 守りの神やいますらん 波もさわがぬわらわえの浦」
これからわかるように、昔は『神の島』と崇められた島であった。

さらに本格的に人が住むようになったのは、保元・平治の乱(1156〜1159)による源氏の落武者7人が山裾を切り開き、
漁業を生業とし居住したことに始まると伝えられ、一行(南源吾秀元、小川光成、西居清観入道、北兵部、久田源之丞、中村磐徳、茶谷重右衛門)が
現在における島民の祖先とされている。
また沖島は戦略的見地から重要なポジションにあり、数々の歴史書から垣間見られる。
南北朝時代には戦いに敗れた南朝軍の一部が越前—新田義貞との連絡網を確保。食料と軍備をたて直すために頭山一帯に城を構えたとされ(蒲生郡史)、
室町時代では、当時勢力を伸ばしつつあった堅田(大津市)の湖賊が比叡山延暦寺の攻撃によって町が焼き払われたため、
およそ2年間、沖島にて避難生活をしたとの記録がある(堅田本福寺・明誓跡書)。
また、8代将軍足利義政は湯谷ヶ谷(番所山)において、島民に湖上を航行する船の監視・取締りを命じたとされ、
戦国時代には、織田信長が浅井長政に対して行った『手筒山の戦い』や『小谷城攻め』の際に、島民に船を差し出すよう命を出し、
これらの戦での活躍により、信長から感謝状と琵琶湖一里四方を禁漁区とする特権を付与されている。

文禄の役(1592)でも朝鮮出兵に従軍し(管浦観音寺文書)、関ヶ原合戦後の徳川家康による石田三成への『佐和山城責め』においても水軍として
活躍(沖島共有文書)。
以後も時の権力者から、航路の警備、輸送等の重要な任務を務める見返りとして、漁業権の特権は認められ続けた。
徳川時代にも慣用専用漁場として認められ、堅田の漁師との8年にも及ぶ論争においても京都町奉行で沖島側主張が受け入れられ、
明治8年には滋賀県知事より永代借用権として認められたが、最終的には戦後の漁業法改正により消滅した。


沖島漁業協同組合 ようこそ 沖島へ
http://www.biwako-okishima.com/
沖島について
http://www.city.omihachiman.shiga.jp/‾okisyo/okisimanituite.htm
2chコピペ情報局 【衝撃】 関西人ですら知らない !? 琵琶湖に人が住む離島が存在していた !!!!!
http://news.2chblog.jp/archives/51759087.htm...

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075 2014/04/12(土) 07:25:14 ID:P2l3bsoGxU
     欠損した神の島 石鏡島(いじかじま)

三重県志摩半島の東沖1kmにも、古来より『神の島』として人々から崇められた無人島がある。
かつては島の中央に大きな空洞があり、その穴を通して日の出が拝めるようになっていた。
海上に朝日が昇るとき、空洞内を満たした海水が鏡面のように眩く輝いたことから『石鏡』という名が冠された。
もっとも伊勢湾台風や船の座礁などによって、今では洞窟は見る影もなく、単なる岩礁へと変わり果ててしまっている。
それでも元旦の朝は浜に出て、海上の初日の出を拝む風習は続けられている。


石鏡島
http://www.ijika.com/ijikasima.ht...

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076 2014/04/12(土) 07:30:16 ID:P2l3bsoGxU
     雨乞いの龍神伝説 八幡浜大島(やはたはまおおしま)

愛媛県八幡浜市に属する大島、三王島、地大島の3島がつながっており、全体を八幡浜大島と呼ぶ。
島には約400人が暮らしている。
全島が神域とされ、島(ことに大島)には、龍神・龍王を祀った神社があり、こんな龍神伝説が残されている。

昔のことである。千丈鳴滝のそばには、若くて身分の高い男が住んいた。名を胎宝院といった。
ある日、彼が滝の近くで1人の美姫と出会う。あまりの美しさに心を奪われ、毎日滝の姫に会いにいった。
姫は瀬織津姫(せおりつひめ)と名乗り、ほどなく2人は結ばれ、幸せな毎日をすごしていた。やがて姫は身ごもった。

姫が臨月にさしかかったときであった。胎宝院にこんな約束をさせるのだ。
「じき子供が生まれましょうが、どうか私たちのいる部屋には入らないでいただきたいのです」
「何を申すのだ。生まれた我が子に会えぬだと?」
「訳は言えません。とにかく部屋に入ってくださるな。これだけはかたく誓ってください」
部屋の向こうから、ついに赤ん坊が生まれたという知らせを胎宝院は聞いたのに、いくら待っても姫は姿を見せない。
泣き声すら漏れてこないので、痺れを切らせた胎宝院はある夜、こっそり部屋を覗くことにした。そして目を瞠った。
そこには姫の姿はなく、1匹の大きな紅い蛇がとぐろを巻く形でタライを抱え、中にいる数十匹の蛇の子と戯れていたのだ。
驚くべきことに姫は鳴滝の精霊であり、蛇の化身だったのである。正体が露見した姫はもはやここにとどまるわけにはいかなくなった。

翌朝、蛇は胎宝院に別れを告げ、滝に帰っていった。胎宝院と離れ離れになった姫の悲しみはいかばかりか。
このまま嘆き続けても埒が明かない。胎宝院への想いを断ち切るため、鳴滝から去ることにした。
滝壺には雌渕(めんぶち)という蛇の抜け穴があり、郷川へと続いていたのである。
郷川に出た蛇は千丈川を下り、さらに北茅、南茅の川の下流へ進み、五反田川を上がったあと、川沿いにある保安寺の庭の池でしばらくの間
住み着いた。
成長するにしたがい、寺の池が狭く感じるようになった。ある日、和尚が蛇にこう諭した。
「おまえは蛇ではなく、龍神の子であるな。ならばおまえにふさわしい安住の地を紹介してやろう」と、大島の大入池を示した。
保安寺の池を去り、千丈川を下って海に出た蛇は、浅瀬の海岸をたどって、大島の反対側にある『池の浦』に到着し、
しばらくそこに落ち着いた。しだいに蛇の体表の縞模様は鱗へと変わり、小龍神に成長した。
そして海を渡り、大島の大入池に入り込むことができたのだった。やがて龍神は修行を積み重ねて神通力を得るようになった。
その力を使い、雲を呼んで雨を降らすことのできる飛龍……八大龍王の1つ娑伽羅龍王と昇級したのだ。

龍神は保安寺の池で大入池を教えてもらったお礼にと、保安寺の和尚には一代のうち、三度までは大島の大入池まで雨乞いに参籠すれば、
どんな日照り続きの夏でも雨を授けることを告げ、『雨乞いの寺』『龍神の棲んだ寺』として古くから人々に知られ、
藩政時代、宇和島藩からの雨乞いの礼状や記録が現在でも寺に保存されているという。


千時千一夜 龍神と瀬織津姫神【Ⅰ】──宇和海・大島の龍神伝説
http://blogs.yahoo.co.jp/tohnofurindo/27589340.htm...
千時千一夜 龍神と瀬織津姫神【Ⅱ】──八幡浜・鳴滝の龍神伝説
http://blogs.yahoo.co.jp/tohnofurindo/27620977.htm...
月の抒情、瀧の激情 宇和海の守護神・鳴滝神──八幡浜・大島の龍神伝説
http://teamtamayura.blog87.fc2.com/blog-entry-6.htm...
龍学 竜神のわたり
http://www.hunterslog.net/dragonology/ryujatan/shikoku/i...

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078 2014/04/12(土) 08:17:38 ID:k2v/1ipSSM
     なぜ特定の島では犬を飼ってはいけないのか?

すでに前スレで田代島や篠島、当スレ>>28では長崎の青島のように、『犬を飼ってはいけない島』を取り上げてきた。
沖縄の『神の島』たる久高島でさえ、以前はダメだったらしい。古来より犬は日本人にとって従順な友であり、また頼れる番犬として重宝された。
にもかかわらず、それを飼ってはならないタブーがあるとは、ずいぶん厳しい縛りがあるものだと前から気になっていた。
いったいこれはどういうことなのだろうか?

簡単に復習しておきたい。
宮城県の田代島の場合(前スレ>>87を参照されたし)、島の大半の住民が漁師を生業としており、天候を察知してくれる猫は重宝がるため、
天敵である犬を飼わないようしたとか、あるいは『化け猫騒動』以降、化け猫の機嫌を損なわないよう、タブーにしたとも言われている。
同じく愛知の篠島のソレは(前スレ>>289を参照)、海神である『八王子様』が、犬というより畜生全般を嫌うのではないかと思い、タブーとしたとある。
>>28の長崎の青島では、昔の干拓事業の際、難工事を成功させるため犬柱を立て神様に祈願した歴史があることから、以来、犬は神の眷属として尊ばれ、
飼うのは御法度とされたと伝えられている。
また佐賀県の加唐島も猫だらけの島として知られている。犬は島の鎮守である八坂神社の神様の怒りに触れ、島に住めなくなったという言い伝えがある。

もっとも興味を惹くのは久高島の件である。久高の場合はいかなる理由か?
久高に限らず、琉球地方では風葬による葬制が行われていた。風葬とは特定の洞窟や山林、あるいは亀甲墓などに遺体を安置し、
そのまま風化するのを待つやり方である。
この葬制法だと周辺に野良犬がいると、遠方からでも嗅ぎつけ、遺体を食い荒らしてしまうのは明白。たとえ土中に埋葬されていたとしても、
犬なら掘り返してしまう。私的な体験だが、昔家で飼っていた兎が死んで裏山に埋葬したが、10日と経たないうちに掘り返されていた。
兎の遺骸がズタズタにされていたのは痛ましかった。同時に犬の嗅覚に恐れ入ったものだ。
……したがって風葬が行われている離島では、犬を飼うことは避けた習慣があったと思われる。沖縄や奄美ではかつて風葬が一般的で、
すべての離島が犬を飼うのを禁止しそうだが、とりわけ久高は神聖さに突出していたのでタブー化が目立ったのかもしれない。
もっともその久高も1960年代には風葬をやめた。以降、犬を飼う人も増えてきたようだ。

何もこれは離島に限定した話だけではない。
奈良県吉野町国栖地区にある窪垣内という約70世帯が暮らす小集落でも、古くから犬を飼ってはいけない決まりがあるらしい。
そのタブーはおよそ1300年前から守られており、犬を飼うと災いがあると言い伝えられてきたという。
地元の談によればこうだ。
西暦672年に起きた日本古代最大の内乱・壬申の乱。これは大海大皇子と大友皇子が皇位継承をめぐった争いだった。
この地に逃れてきた大海大皇子を、渡し舟の老人が機転を利かし、舟をひっくり返してその内側に大海大皇子をかくまった。
舟の上に食べ物を載せておき、偽装を図った。
そこへ大友皇子の追っ手とカグハナとミルメという2匹の犬を連れてかけつけた。犬はすぐさま舟の中に人の気配を察し、吠え立てた。
老人はそばに転がっていた石をつかむと、「食べ物に吠える卑しい畜生め!」と大義名分をかかげ、打ち殺してしまった。
大海大皇子の窮地を救ったということで、のちに飛鳥浄見原に構えた際、印を持って国栖の者が感謝の意を捧げにきたという。
こんな事件があってからというもの、窪垣内では犬を飼うと災いが起きると言い伝えられた。集落の神社には狛犬すら建てられていない。

……いずれにせよ各地には、いろんな歴史と理由から犬を飼ってはならないという話がありおもしろい。

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079 2014/04/12(土) 08:23:52 ID:k2v/1ipSSM
加唐島の自然
http://www.surpz.net/‾shige-happy1228/island-shizen.htm
風葬wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A2%A8%E8%91%A...
洗骨wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B4%97%E9%AA%A...
飛耳長目 国際紛争の心理 (九州沖縄スペシャル 与論島の洗骨儀礼 とうとがなしばあちゃん与論島 死者を弔う洗骨儀礼 
http://blogs.yahoo.co.jp/nakamushyh/32394070.htm...
fuyuさんの日記 久高島の風葬
http://kayama.cocolog-nifty.com/fuyu/2008/03/post_2fda.htm...
[PDF]女が男を守る島 —オナリ神信仰と久高島—
http://repository.seikei.ac.jp/dspace/bitstream/10928/197/1/a...
養和の飢饉
http://www.ne.jp/asahi/kibono/sumika/kibo/note/...
ブログ版 ティラキタ駱駝通信 死体が野ざらしに!? インドネシアの風葬の村
http://blog.tirakita.com/2011/10/%E6%AD%BB%E4%BD%93%E3%...
気楽にバイクライフ こころ旅トレース2013〜奈良県編〜130727
http://nmtr220.blog66.fc2.com/blog-entry-278.htm...
狼神話 吉野・犬塚(いぬづか)
http://www.raifuku.net/special/wolf/map/area/kinki/sh...
世界遺産の吉水神社から「ニコニコ顔で、命がけ!」 吉野には一匹も犬を飼わない村があるのです。
http://blogs.yahoo.co.jp/yoshimizushrine/53432375.htm...

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080 2014/04/13(日) 17:49:31 ID:.ERxFd78zw
     海賊どもを成敗しに、いざ鬼ヶ島に乗り込まん! 女木島(めぎじま) 1

4月現在、小栗旬扮するハードボイルドタッチな桃太郎のペプシのCMがひそかな話題を呼んでいるので、
それにまつわる島を紹介しよう。
どうせ前スレ>>334で浦島太郎にちなんだレスもしたことだし、いずれ桃太郎に関する島の話をせねばなるまいと
思っていたところだった。
映画板でも専用スレッドが立っているが、僕も徹底的にシブいノリで映画化して欲しいと願う1人だったりする。
原作のもつイメージをブッ壊して、パワーみなぎるエンターテイメントにアレンジするのもアリだと思う。

それはそうと、言うまでもなく桃太郎は『昔話』にカテゴライズされる(もしくは童話か)。
ちなみに『昔話』は誰が決めたか、『桃太郎』『猿蟹合戦』『舌切り雀』『花咲か爺』『浦島太郎』を、俗に5大昔話と呼んでいる。
なかでも桃太郎は定番中のド定番。それに勧善懲悪モノは日本人に受け容れやすい。これは儒教的な精神が絡んでいる。
子は親に、女は男に忠を尽くすことが大切で、その努力の結果として「善ヲ勧メ悪ヲ懲ラシム」ということにつながっていくのだ。

その桃太郎にはモデルがあったのをご存知だろうか?
いくつか諸説があるが、まずは岡山県岡山市にある吉備津神社。そこに祀られている吉備津彦命(きびつひこのみこと)こそ、その1人だという。
吉備津彦命は第7代の天皇・孝霊(こうれい)天皇の子であり、弥生時代後半から古墳時代前半の間に実在し、岡山の吉備地方を支配していた。
そもそも岡山は桃の産地としても有名で、物語中、キーアイテムとして扱われるキビ団子の原料、キビの名産地でもあった。
この地方で採れるキビは良質で、人々は昔から団子にしたり酒に加工していた。それにキビ=吉備という発音の共通性も見られ、
以上のことから、桃太郎は岡山県出身である説が有力なのだと推す学者も多い。その鬼退治の元となった物語が吉備津彦命による『温羅伝説』である。

その昔、異国から流れてきた鬼が吉備国に住み着いた。鬼とは名ばかりで、温羅(ウラ)と呼ばれ、もとは百済の王子だったという。
温羅は赤髪の巨漢の持ち主で、人相・性格はきわめて凶暴なり。現在の吉備津神社から西北へ10kmのところの片岡山に築いた『鬼の城』を拠点に、
暴虐の限りを尽くして人々を絶望の淵に立たせていた。
それを征伐すべく、朝廷から派遣されたのが吉備津彦命であった。
吉備津彦命には3人の精鋭の部下がいた。それが犬飼健(いぬかいたける)、楽々森彦(ささもりひこ)、留玉臣(とめたまおみ)である。
現在の吉備津神社近くにある『吉備の中山』に陣を張った吉備津彦命は、温羅とその軍勢との死闘の末、からくも勝利をもぎ取った。
吉備津彦命は降伏した温羅の首を刎ねたにもかかわらず、首は不気味にも吠え続け、地中深く埋めてもやまなかった。
そこで首の上に御釜殿を建築し祀るとなんとか静まり、釜を鳴らして吉凶を占う霊となったという。
これが吉備津彦神社の始まりであり、鳴釜神事(なるかましんじ)の由来でもある。
鳴釜神事とは、釜の上にセイロを置いて中に米を入れ、蓋を乗せた状態で釜を焚いたときに鳴る音の強弱・長短で吉凶を占う行事。

この伝説より吉備津彦命は本来土着の神だったが、神話や系譜を整える際に天皇家の系譜に組み込まれたものとする説がある。
また、部下であった犬飼健を犬、楽々森彦を猿、留玉臣を雉と見立て、この温羅伝説が桃太郎の物語に昇華したといわれ、
岡山県では自県を『桃太郎発祥の地』として宣伝している。
ちなみに、吉備津彦命の部下の1人、犬飼健は犬養氏の始祖で、5・15事件で暗殺された犬養毅首相の祖先であるとされている。
さらに温羅は吉備津彦命以前に吉備国を支配していた旧勢力であり、製鉄技術を供与していた渡来人乃至は地来の豪族であり、
旧勢力に義理立てするために吉備津彦命(つまりヤマト王権)と戦った、と言う見方がある。これが鬼の正体だった。

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081 2014/04/13(日) 17:54:40 ID:.ERxFd78zw
     海賊どもを成敗しに、いざ鬼ヶ島に乗り込まん! 女木島(めぎじま) 2

ところが桃太郎はこの岡山版だけではない。
瀬戸内海を挟んで、対岸の香川県にも異なるモデルが存在するのだ。
香川の桃太郎は、まさに吉備津彦命の弟・稚武彦命(わかたけひこのみこと)である。
ここでの鬼は、瀬戸内海を股にかける海賊を指す。
そう言えば前者、岡山版桃太郎には、片岡山に築いた城であって肝心の鬼ヶ島のモデルが言及されていなかったが、
香川版ではちゃんと存在する。
瀬戸内海の直島諸島に含まれる女木島は、高松港から北沖合へ約4kmのところにある有人島。この女木島こそ、
桃太郎が攻め入った鬼ヶ島そのものだという。
島名の由来には諸説の1つとして、源平合戦で那須与一が射落とした扇の一部が流れ着いたことから『メギ』という名が冠されたとされている。
この地方の方言で、『壊れる』ことを『めげる』ということからだそうだ。

香川版桃太郎である稚武彦命による鬼退治の話の概要はざっとこんな感じである。
讃岐国一帯の不穏な情勢を鎮めるため朝廷から派遣されてきた稚武彦命。船に乗って、まずは河口から本津川を遡っていた。
その途中、川で洗濯をしていた老女と出会う。老女は稚武彦命を夫に紹介し会話した。聞けば、子宝に恵まれなかった老夫婦は、
いたく稚武彦命を気に入り、養子になってくれと懇願する。稚武彦命は快諾した。老夫婦の家を拠点に行動しても支障はあるまいと思ったのだろう。
当時、この讃岐国に住む住民は、女木島を根城にする海賊の被害に遭っていた。
事情を聞かされた稚武彦命はさっそく身支度を整え、女木島へ海賊討伐に向かうことにした。

その前に、敵戦力と数を鑑みたら、いささか心もとない。まずは備前の犬島(岡山・前スレ>>208を参照されたし)、
陶の猿王(香川・綾南町)、雉ヶ谷(香川・鬼無町)に住む3勇士を仲間に加えた。いずれも戦闘に長けた男たちであった。
これで準備は整った。いざ女木島へ!
島に上陸した4人のパーティは、海賊がひそむダンジョンの奥に攻め込み、壮絶な死闘の末、みごと海賊たちを討ち倒した。
洞窟内部には海賊たちが村人から略奪した宝物が山と積まれており、一行はそれらを回収して讃岐に帰還したのだった。

後日、海賊の残党どもが讃岐国の村(現在の高松市北西部)までお礼参りにやってきた。
しかしまたしても稚武彦命たちに返り討ちにされる。今度ばかりは1人残さず全滅させた。その屍を埋めたのが高松市鬼無町に残る『鬼ヶ塚』だという。
それ以来、讃岐国には海賊がいなくなり、平和を取り戻すことができた。また鬼と最後に戦ったこの村を『鬼無』と呼ぶようになった。
鬼無にある熊野権現、別名桃太郎神社は稚武彦命が祀られている。ここには桃太郎ばかりか、犬、猿、雉の墓石が揃っている。
なんと老夫婦の墓まであるらしいが、やや演出過多とも言えよう。

海賊たちは女木島の洞窟を住処としていたのはすでに述べた。件の洞窟は、島中央にある鷲ヶ峰という標高188mの山にあり、全長約400mを誇る。
大正3(1914)年、高松市中間町出身の郷土史家・橋本仙太郎氏により発見されたこの洞窟は、『鬼ヶ島洞窟』と名づけられた。
昭和6(1931)年より一般公開され、現在に至る。2010年には瀬戸内国際芸術祭の会場の1つに選ばれ、期間中は国内はもとより、
海外からも多数の観光客が渡島した。
この洞窟は天井にノミ痕が見られることから、明らかに人工的な産物だそうだ。およそ紀元前100年ごろに造られたものらしい。
洞窟中央付近にある『宝庫』は一見行き止まりのように見えるが、その実、下には穴が掘られており、ここに財宝が隠されていたという。
また、洞窟内で唯一の水源地『鬼の力水』、海賊たちが捕らえてきた婦女子を監禁したと思われる『監禁室』なども存在する。
洞窟の中間には、周囲30mの開けた空間があり、おそらく海賊たちはこの広間で飲めや歌えやの宴会をしていたに違いあるまい。

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082 2014/04/13(日) 18:09:33 ID:zuPRIBLYrA
[YouTubeで再生]
     海賊どもを成敗しに、いざ鬼ヶ島に乗り込まん! 女木島(めぎじま) 3

吉備津彦命wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%89%E5%82%99%E6%B4%...
温羅wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B8%A9%E7%BE%8...
鳴釜神事wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B3%B4%E9%87%9C%E7%A5%...
Blue Signal西日本の美しい風土 特集 桃太郎伝説をたずねて、吉備路へ
https://www.westjr.co.jp/company/issue/bsignal/05_vol_1...
高松みなと散歩 女木島(鬼ヶ島)・男木島
https://www.city.takamatsu.kagawa.jp/kankou/meisyo/megi.ht...
たびねす 桃太郎伝説ならここ!!香川・女木島の大洞窟で鬼を探索
http://guide.travel.co.jp/article/1063...
yahoo!知恵袋 桃太郎の鬼について質問します。岡山のウラ伝説と女木島(鬼が島)の海賊説は同一人物がモデルですか?
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q106862565...
チョコバナナch 日本の先端技術で再現された「桃太郎」これ映画化されたら絶対観に行くわwwwwww
http://blog.livedoor.jp/koj2323/archives/1000499069.ht...

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083 2014/04/24(木) 18:06:36 ID:RHsl2ySR5I
仏像なんか盗むから…

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084 2014/04/27(日) 18:32:09 ID:jx.xCMfwKY
     加地藤左衛門による大蛇退治伝説 大槌島(おおづちしま)

岡山県玉野市の宇野港からすぐのそばに、標高150mほどの三角錐の形をした無人島がある。それが大槌島だ。
島の周りは鯛や鰆が育つ漁場になっている。かつて備前と讃岐両藩が漁場をめぐって騒動を起こしたため、大槌島から樽を流し、
両藩の領海を決めた『樽流し』の説話として知られ、江戸で裁定を下した裁判官の1人に、あの大岡越前守忠相も含まれていたという。
他にも大槌島には、またしても大蛇伝説が語り継がれている。それがこんな話。

昔、大槌島には大蛇が住み着いており、島から対岸の日比村に渡ってきては人々を苦しめていた。
日比村には加地藤左衛門という人物がいた。藤左衛門は武術に長け、勇猛果敢で腕っぷしも強く、さらに弓の達人でもあった。
ある日、そんな藤左衛門を見込んでか、枕元に神が立ち、こう告げるのだ。
「おぬしに頼みたいことがある。大槌島から大蛇が泳いできては、村人を長年悩まして困っている。どうかこの脅威から救ってやってくれぬか。
おぬしならできる……」
藤左衛門が夢から醒めると、枕元に弓と一矢が残されていた。男ならやらないわけにはいくまい。その弓を手に取り、感触を確かめた。

翌日、彼が海辺に出向くと、大蛇はすでに島に渡ってきていた。大蛇は松の幹に巻きついて眼を輝かせ、口から二股の舌をチラつかせていた。
大蛇と藤左衛門との距離は100mあまり離れたが、命中させる技量と自信があった。すかさず膝撃ちの構えをとると、満月の形になるまで弓を引き絞った。 
放たれた一矢は狙いを違わず大蛇の喉に突き刺さった。松の木から大蛇の巨体が崩れ落ちた。
そばまで駆けつけると、大蛇は最後の力のなせる業か、毒息を藤左衛門に浴びせかけると事切れた。
とっさに顔をかばったつもりだったが、たちまち毒気は体内を蝕み、しだいに意識がかすんで倒れてしまった。
藤左衛門の命運、ここに尽きるのか。しばらくすると時ならぬ雨が降り出した。仰向けになった藤左衛門の口から喉に雨水が流れ込む。
それが毒を癒したか、彼は意識を取り戻した。

村人は神と助けと藤左衛門の勇敢さを称えた。大蛇を退治した矢(『大雁』なる矢の名前)は享保のころまで伝えられ、
大蛇のウロコは現在も御前八幡宮に残されているという。
一説にはそのとき、日比港に入っていた難波の米船が、死んだ大蛇と米とを交換して持って帰ったとも伝えられている。
日比の八幡宮は当時、日比の宮山の頂上にあったものを文明年間に麓に移したが、昭和18年に現在の御前八幡宮に合祀されている。

……それにしても、日本には驚くほど大蛇伝説が転がっている。この大蛇も何らかの比喩なんだろうね。


樽流し伝説
http://www6.plala.or.jp/mori-ben/taru.htm...
山陰百貨店—日常を観光する— 【龍宮城伝説】備讃瀬戸に浮かぶおにぎり【大槌島・小槌島】
http://ameblo.jp/sanin-department-store/entry-1...
玉野の伝説 岡山県県南の街、玉野市の伝説 大槌・小槌・大蛇退治:玉野の伝説
http://tamano.imawamukashi.com/umi/umi-3.htm...
[PDF]玉野市観光協会 海のまち 玉野にいらっしゃ〜い !!
http://www.tamanokankou.com/pdf/23.11.27walking.pd...

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085 2014/04/29(火) 20:36:22 ID:Ui8J/Kq2s.
>>83
韓国の旅客船セウォル号沈没事故に関連した海神神社の件ね。今回は見送り。
実は同じ対馬でも、その海神神社の近くに、『白鬚明神』なるモノを祀った謎の祠があるとの情報をつかんでいる。
個人的にはそっちの方に好奇心が動く。またの機会に書くわ。今日は海難事故に関した話をば1つ……。


     漂流者にとって島の先住者・長平は鬼として映ったか? 鳥島(伊豆鳥島) 1

あなたが乗っていた船が大時化に遭い、あてどもなく漂流したものと仮定する。
風雨が荒れ狂い、波頭が艫(とも)にぶつかり、潮の飛沫で船内が水浸しになる。船の機能の大半が破壊された。もはや舵は利かない。
食料や飲料水も波にさらわれるか、数日もすればあなたの胃袋に消え、蓄えが底を尽く。
猛烈な渇きを憶え海水を飲もうとするも、あまりの塩辛さに嘔吐する。それでものどを潤したくて、しまいには自身の小便を飲むようになる。
10日間、漂流し続けた。船がどこへ向かっているのか知る由もない。
死にたくない。とにかく飢えと渇きを解消しなくては。
船が進むにつれ、お椀を伏せたような青い島影が見えてきた。あなたは飛び上がらんばかりに歓喜するに違いない。
当然、島に上陸したいと思うはず。潮流の影響か、徐々に島に近づく。これはラッキーだ。
やがて島のなだらかな丘稜がはっきりと見えてきた。その丘に、なんと1人の人間が立っているのがわかった。
あなたは俄然喜ぶだろう。どうやらその島は有人島で、人が住んでいるのならば、インフラの設備が整っているに違いないと踏む。
とすれば食べ物と水にありつける。

船はさらに島に迫る。
あなたは眼を凝らす。おかしい……。それもそのはず、その人間は異様な姿をしているのだ。
それは男であるのは確かだ。ただし、ざんばら髪がだらしなく風になびき、ヒゲが伸び放題、皮膚は赤黒く日焼けし、
白い羽で編んだ蓑(みの)のようなものをまとっている。しかも目つきが尋常でない。ギラギラとした険しい光を放っている。
腰には毛をむしって乾燥した鶏みたいな物体がぶら下がっており、手首には貝をつなぎ合わせて作った数珠のようなものが巻かれている。
まるで野蛮人だ……いや、あれこそ鬼かもしれないと、あなたは直感するだろう。
男は片手で拝むポーズをとり、眼をつむって何やら念仏のようなものを唱えている。


……東京都直轄である伊豆諸島の1つである鳥島(国内には無数の『鳥島』があり、他と差別化するため『伊豆鳥島』とも呼ばれる)は、
八丈島の南約300km、小笠原諸島聟島列島の北約370kmに浮かんでいる。過去に何度も噴火した火山島でもあり、水源なども皆無に等しい。
よって、およそ人が住むには適していない。
島は現在でこそ無人島だが、かつての遺構が風雨にさらされたまま佇んでいる。それが気象庁鳥島気象観測所である。
観測所は昭和22(1947)年に開設され、島に生息する特別天然記念物に指定されているアホウドリの保護プロジェクトが行われてきた。
昭和40(1965)年の群発地震による避難まで、18年間、職員が駐在していた。あまりのアホウドリの数から、鳥島と冠されたのはムベなるかなであろう。
その後も昭和56(1981)年から、環境庁(現・環境省)によるアホウドリの生息状況調査および繁殖地の維持・保全事業が復活し、
現在でも年数回の上陸調査が実施されている。平成6(1994)年の調査で約159つがいが確認されている。先日その様子を、BS・NHKで放送していた。

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086 2014/04/29(火) 20:41:56 ID:Ui8J/Kq2s.
     漂流者にとって島の先住者・長平は鬼として映ったか? 鳥島(伊豆鳥島) 2

その伊豆鳥島であるが、位置を見ても日本の最果てにある。絶海の孤島とはまさしく青ヶ島やこの鳥島を指す。
実は昔、ふだん船が立ち寄らないこんな不毛の無人島に、海流の影響で難破船が流れ着くことが少なくなかった。
海難事故は江戸時代に集中している。当時は千石船という運搬船がさかんに使われていた。経済的には積載能力にすぐれ、
それ以前まで帆走と櫓で漕ぐことを併用していた船と異なり、帆走能力に秀でていた。
反面、千石船にはシケに対する致命的な欠陥があった。主として甲板が水密式でなかったことに起因する。胴の間といわれる船の中央部の甲板は、
ただ揚げ板式になっているだけなので、荒天になり高波が襲ってくると海水がどんどん入ってくる。たちまち船は水浸しになり、沈没のリスクが高くなる。

また舵が壊れやすい難点も秘めていた。当時の各港は河口にあるものが多く、水深は浅い。それゆえ千石船の舵は水底に引っかからないよう、
引き上げ式になっていた。構造上計算された造りであったにもかかわらず、固定された西洋の船の舵にくらべ脆弱であった。舵の羽板は大きすぎて、
激しい波に叩かれ破壊されたら最後、航行不能となる。
こうした構造上の欠点があるうえに、鎖国政策によって西洋の進歩した航行術を取り入れることもできず、千石船は沿岸航海のみに制限されていた。
江戸幕府は千石船を使用することを推奨していたが、それは鎖国政策に絡んでいた。外洋を自由に行き来できるような船が作られるようになれば、
それに乗って異国へ行く者も出てくるし、西洋の文物を持ち込むことにつながる。それは鎖国政策をとる幕府にとっては脅威であり、
なんとしても防がなくてはならないことだった。

以上の理由から幕府は、外洋の航海に適さない千石船の使用を勧め、皮肉にも多くの海難事故を促すことになったのである。
ほとんどの船は沈没し、さもなくば船は航行不能になったまま漂流した。シケにあい海岸から沖に流され、加えて舵を失うことは死が必定であった。
さらに日本列島は潮の流れが複雑であることも漂流事故を誘発させる原因としてあげられる。
とりわけ黒潮の流れは、九州、四国、本州と列島沿いに流れ、場所によっては時速10kmにも達するほど速いことで知られている。
黒潮は幅も広く、遭難して沿岸から離れてしまった船が潮流に乗ってしまうと、たちまち遠方に押し流され帰れなくなる。
遭難位置によって行き先はさまざまで、伊豆七島、小笠原諸島方面、最悪、太平洋の真っ只中へ流され、北アメリカ方面、アラスカ方面、
反転すればフィリピンまで流されることもあったとされている。いずれにせよこの海流は離岸流となり、多くの悲劇を生んだ。
中には何とか無人島にたどり着いて、助けを待った人たちも数知れない。

無人島とサバイバル……このシチュエーションの燃えること。健全なる男子であるならば嫌いな御仁はいまい。
だからこそテレ朝の『よゐこの無人島0円生活』や、日テレのDASH島が、そこそこ数字を取るわけだ。
かつてそんな漂流者の1人に、長平という土佐の船乗りがいた。長平は漂流し、無人島で12年生き抜いて、無事生還した実在の人物。
吉村昭という作家が書いた『漂流』というドキュメンタリー小説がある。日本版ロビンソンクルーソーともいうべき名著だ。
この吉村氏の『漂流』こそ、長平の壮絶な生還劇を克明に描いた話なのだ。そして舞台となった無人島こそ今回の鳥島である。
ざっくり話の筋を書こう。以下、ネタバレになるのでお嫌いなら目を通すべきではない。

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087 2014/04/29(火) 20:51:02 ID:Dzbt3DV8Co
     漂流者にとって島の先住者・長平は鬼として映ったか? 鳥島(伊豆鳥島) 3 

天明5(1785)年の2月某日。片道わずか7里半(30km)の短い航海になるはずだった。
仕事を終えた帰り道、にわかに北西の風が吹き始めて、24歳の長平以下船乗り4人が乗った船は、たちまち沖へ流される。
自然の猛威を前に、なす術がない。次から次へと襲いくる激浪に揉まれて船が壊されていく。もはや浮いているのが奇跡なぐらいの有様であった。
10日間の漂流の末、命からがら未知の島に上陸。そこは岩だらけの不毛の土地で、およそ樹木が見当たらない。植物はせいぜい萱(かや=ススキなどのイネ科・
カヤツリグサ科の植物)が自生している程度。
驚くべきことに平坦部にはおびただしい数のアホウドリがいた。広げた翼の長さが8尺(2.42m)、重さ2貫匁(7.5kg)、クチバシの長さも5寸(15cm)以上
もある巨大な鳥だ。
長平たちは初め、アホウドリを棒で撲殺し、それを海水で揉み洗いして生で食べていたのだが、4月下旬から5月上旬になるとアホウドリの習性として
島から渡ってしまう恐れが浮上した。そして9月に入るまで帰ってくることはない。アホウドリは古くから地球上に棲息している最大の海鳥で、
冬期に鳥島でヒナを育てると遠くカリフォルニアの沿岸へ渡る。そして反転すると、赤道の北側を西に飛び、秋に鳥島へ帰ってくるわけである。

当初はアホウドリの卵と肉ばかり食べ、たまに釣り糸(船材から抜いた釘で作った)にかかる魚を刺身にしたり、磯で貝や海草を採ったりして
食に変化をつけていた。
湧き水すら湧かない島だったので、飲料水はアホウドリの比較的大きな空の卵を容器とし、雨水を溜めた。定期的に雨が降る島だったので、
渇きに苦しめられることはなかった。卵1つにつき3合の水が蓄えることができる。それをズラリと並べ、貯水池とした。
アホウドリが渡ってしまう前に干し肉を作って、これを貯蔵。また鳥の脂肪は塗り薬として使えば化膿止めの効果があり、それもかき集めた。
数日を要して島を探索した結果、人が住んでいない無人島であることが判明した。とすれば、自分たちの力で命をつなぐより他ない。

とはいえ単調で目的意識の見出せない生活から、いつしか移住拠点である洞穴で日がな1日寝転んだまますごすようになる。するとたちまち健康を害した。
原因は運動不足と栄養の偏り(ビタミン不足)。その間、健康状態をどうチェックするかというと、爪の付け根に現れる白い半月があるか否かで知り得る。
爪に半月が現れれば身体に栄養が行き渡っていることを示し、それが消えれば状態が芳しくない証拠だという(……と、作中では語られているが、
医学的に必ずしもそうとは限らないらしい)。
メンバーが1人、また1人と死んでしまい、長平のみが生き残る。悶絶しそうな孤独に打ちのめされ、彼は激しく取り乱す。
死んだはずの仲間の声が幻聴となって聞こえたり、鳥を蹴飛ばして罵声を浴びせたり、そうかと思うと石塊で殴り殺した鳥を抱きしめて泣くこともあった。
眠ると夢の中では好きだった娘が現れ、そのたびに性欲をもてあました彼は娘を押し倒すものの、コトに及ぼうとした瞬間、夢から醒めてしまう。
ついに自殺を決意し、入水しようとするのだが、なまじ幼少のころより泳ぎに長けていただけに死にきれない。
いつしか長平は神仏にすがるようになる。長平は常に念仏を唱えるようにした。すると精神統一され、心が乱されることもなくなった。
さんざん苦しんだ挙句、ふんぎりがつく。いっそ生き続けてみるか……。それは諦観だった。

長平が漂着して奇しくもちょうど3年後の2月、大坂北堀江の船が漂着する。さらに2年後、今度は薩摩国の船が流れ着く。
そのファースト・コンタクトの際、漂流者たちは鳥島の先住者をひと目見るなり、ギクリとする。
その姿こそ>>85の冒頭で描写したように、髪やヒゲはボーボー、身体にはアホウドリの白い羽で作った蓑(みの)をまとい、
皮膚は赤黒く日焼けしており、何より過酷な無人島生活では生への執念が不可欠で、おのずと眼はギラギラしているのだ。
そんな異様な姿を見た遭難者は、思わず鬼に出くわしてしまったと錯覚し、恐慌をきたして逃げようとする。
それを呼び止めようとする長平の姿は哀切と言えるし、不謹慎だが滑稽ともとれる。

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088 2014/04/29(火) 20:55:11 ID:Dzbt3DV8Co
     漂流者にとって島の先住者・長平は鬼として映ったか? 鳥島(伊豆鳥島) 4

長平は、他に2度にわたる漂流者たちを仲間に加え、途中数人が病死・自殺等で命を落とすものの、合計14人の男たちとともに生き延びた。
鳥島近辺は航路がなく、島を横切る船影は皆無だった。したがって、通りかかる船に救難信号を示して救ってもらうのも諦めなくてはならない。
故国へ帰るには他力本願にすがるより、自力で帰るしかない。
船をこしらえるべきだ。若干の大工道具は揃っているが、肝心の船材がほとんど見当たらない。座礁した船のわずかな残骸や流木が流れ着くことも稀にあったが、あまりに少なすぎた。
結局3年にわたり船材をかき集め、拾った碇を炉で溶かして釘を作り、折れそうな心を奮い起こして、つぎはぎだらけの異様な姿の伝馬船を完成させた。
そして島からの脱出である。
来るべき出帆の日と、船を進ませる方向をおみくじを引いて占った。もはや神頼みの世界で、運悪くあさっての方向に船出したくらいなら、
あの世行きは確定であった。紙一重で北西のくじを引いた長平は、その方角へと一行とともに船出し、当時から有人であった青ヶ島にたどり着くことができる。
青ヶ島に着いたら八丈島は目と鼻の先だ。それは奇跡とも言える生還だった。実に長平にとって12年4ヶ月ぶりの故国の土だった……。

……これは故国に帰ってきた長平をはじめ、生還者の証言を、幕府の役人が事情聴取して記録としている。この内容に異常な興味をもった吉村氏が、
せいぜい20ページ足らずの調書と情報収集により、想像力をフルに使って物語に仕立てた。途中経過はともかく、結果は歴然たる事実である。
吉村氏によると鳥島に漂着し、脱出できた者の記録は15例以上にのぼるという。
長平たちの不屈の闘いから人間の可能性と叡智を見ることができる。作中、物理的に無理がある設定やご都合主義などのツッコミどころも散見されるが、
笑って許してやろうじゃないか。後半は涙なくして読めない。無人島とサバイバルというキーワードが好きならば必読の書であること請け合い。
個人的にいたく感銘を受け、新潮文庫の単行本500弱のページを読了後、すぐ頭から読み直したほどだ。
同時に思ったのだが……古来より、日本の昔話・伝説で『鬼』が出てくる話は数知れない。
鬼とは白人が漂流してきて山に住み着いたり海賊を鬼と見立てた説も考えられるが、案外、長平たちのように漂流した日本人が見間違えられたケースだって
なきにしもあらずだったかもしれない。いずれにせよ、人が生きるということは鬼気迫るほどの力が要るのだ。


公益財団法人 山階鳥類研究所 アホウドリ 復活への展望 鳥島ウォーカー
http://www.yamashina.or.jp/hp/yomimono/albatross/06walker...
珍鳥の繁殖を目指す島 伊豆鳥島
http://tonesan.fc2web.com/torishima.ht...
ジョン万次郎wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A7%E3%83%...
野村長平wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%8E%E6%9D%91%E9%95%...
漂流ものがたり
http://www.nansenhokubasha.com/essay/hyoryu.htm...
江戸時代漂流記「出雲国清蔵の鳥島奇談」
http://www.otenki.co.jp/com/list/ch_hokuso_torishima1....
緇井鶏子
http://shiikeiko.blog.so-net.ne.jp/2009-02-1...
NAVER まとめ “爪を見る”だけで精神状態が分かる!
http://matome.naver.jp/odai/213773204823484070...
爪で病気まるわかり 爪半月
http://tsu.eulbblue.com/001/post_2.htm...
アナタハンの女王事件wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%8A%E3%82%...
現代事件簿 No.064 孤島に女1人と男32人。アナタハン島で起こった、女をめぐっての殺し合い
http://ww5.tiki.ne.jp/‾qyoshida/jikenbo/064anatahan.htm
無人島に生きる十六人 須川邦彦
http://www.aozora.gr.jp/cards/001120/files/42767_15618...
amazon.co.jp 漂流 (新潮文庫) [文庫] 吉村 昭 (著)
http://www.amazon.co.jp/%E6%BC%82%E6%B5%81-%E6%96%B0%E...
※画像は高知県香南市香我美町にある『無人島長平』の像

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089 2014/05/10(土) 08:25:32 ID:wZna0eUDq6
前スレ>>209>>212で、物部村の秘祭『いざなぎ流』を取り上げた。
いざなぎ流は物部でも、ごく小さな共同体でのみ伝承されてきた激レアな民間信仰。学者がこぞって取材に訪れるほど、地味に人気が高い。
下記の動画などは極めてめずらしい、貴重な資料になり得る。興味があれば覗いてみるとよい。


イキイキテレビ いざなぎ流日月祭
http://ikiiki.tv/index.php/pc/video?id=00000000...
Dear安倍晴明さん 陰陽道民間伝承・いざなぎ流 [陰陽道]
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鷹陵の栞 いざなぎ流への〈旅〉その3 花をいさみて寄りござれ
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Y`S GEAR CLUB WEB 地球元気村といざなぎ流の和合の極意
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HIROKO YAMAMOTO WEB OFFICE 特別企画——物部・いざなぎ流関連小論 その2
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090 2014/05/10(土) 08:32:01 ID:wZna0eUDq6
     弥九郎とマンの紀州犬発祥の伝説 阪本集落

三重県御浜町は主に海岸線に広がる町だが、なかでも尾呂志(おろし)地区は内陸部に入り、
さらに山間に抱かれるような隠れたところに阪本集落がある。
この阪本こそ昭和9年に天然記念物に指定された歴史ある紀州犬の発祥の地と知られており、
それにまつわる伝説を後世に伝えている。

江戸時代のころの話である。阪本には弥九郎という鉄砲撃ちの名人がいた。
ある日、弥九郎が山中で口の中に骨が刺さって苦しんでいる1匹の狼を助けた。後日、出かけようとすると、家の前には1匹の子犬がうずくまっていた。
弥九郎はハタと思い当たった。「これはこないだ助けた狼の子に違いない」
子犬を授かったことをいたく喜び、その犬を『マン』と名付けた。
弥九郎に大切に育てられたマンは、新宮の殿様を襲った手負いのイノシシを撃退し、褒美をもらうほどの勇敢なそれへと成長した。
ところがある日、弥九郎のもとに訪ねてきた叔母がこう言った。
「狼は生き物を千匹食べると次に飼い主を襲うと言われておる。イナゴ1匹でも生き物のうち。あんなに育ってきてることだし、
そろそろ千匹目になるかもしれない。おまえも寝込みを襲われんように用心した方がええ」
そのやりとりを外で聞いていたマン。人間の言葉を理解したものか、悲しげに夜空に向かって3回吠えてたのち、以来、姿を消してしまった。
マンがいなくなったあと、夜になると鷲ノ巣山から哀切を帯びた狼の遠吠えが聞こえるようになり、
阪本の住民たちは「あれはマンの鳴き声だ……」と、噂した。
坂本の紀州犬は、弥九郎が育てたマンの血を引いていると言われている。


御浜町 峰弥九郎ものがたり
http://www.bunka.pref.mie.lg.jp/minwa/kishu/mihama/index.ht...
MIE御浜町商工会 尾呂志(おろし)地区
http://www.mie-shokokai.or.jp/mihama/kankou/oroshi_index.htm...

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091 2014/05/10(土) 08:39:24 ID:wZna0eUDq6
     糞を浴びてまで美白を得たかった娘の末路 海猫島(弁天島)

和歌山県日高郡美浜町三尾にある日ノ岬灯台へのぼる途中で、海辺にはちっぽけな無人島が見下ろせる。
それを海猫島と呼んだり、弁天島とも称したりする。ご多分に洩れず、島にはまたしても女の悲しい話が残されている。

昔々のできごと。三尾に色の黒い娘が住んでいた。娘は海にもぐって魚介を採ってそれを売ったり、破れた網を繕ったりしながら暮らしていた。
娘はその素肌の色に劣等感を抱いていた。できることなら色白の美肌になりたいと思い、毎日御崎の神にお祈りをかかさなかった。
ある夜のことである。枕元にまばゆい光をまとった神が現れ、こう言うのだ。「願いを叶えたくば、21日間、水乞いをとりなさい」
娘はお告げのとおり、冷たい水を頭からかぶって身を清め、無心で祈りを捧げた。
ついに悲願の21日目を迎え、浜辺に出た。するとどこからともなく羽音が聞こえてくるではないか。
それはおびただしい数の音で、頭上に気配を感じたとたん、頭頂部に、べちゃりと何か生暖かいものが降り注ぎ、やにわに顔まで垂れてきた。
娘はもしやと思い、頬を伝う粘液を手にとってみた。紛れもない。ウミネコの白い糞だったのだ。
はじめは嫌悪した娘だったが、糞は奇跡をもたらした。不思議なことにあれほど黒かった肌が、真っ白になっていたのだ。

娘はそれ以来、毎日浜に来てはウミネコが飛来するのを待ち侘び、糞を浴び続けた。日増しに白くて美肌に変じていくさまを嬉々としてすごしていた。
しかし女の欲望は際限がない。より美しくなりたいと願う娘の執念がこりかたまり、しだいに娘の姿は峨々たる岩山の様相を呈し、
ついには1個の島になってしまったのだ。
いつしか人はこの島を海猫島と呼ぶようになった。漁師たちは島の頂上に弁天様を祀り、娘の魂をなぐさめた。
今でも島にはウミネコが寝床にしており、糞で岩肌が白くなっている。


癒しの和歌山☆彡 ☆ 三穂の浦のウミネコ島 ☆
http://ameblo.jp/968-910/entry-10409356681.htm...
声なきに聴き 形なきに視る〜ためによりも 立場にたって〜 弁天島になった娘(美浜町に伝わる話)=ひだかむかしばなし
http://blog.goo.ne.jp/xkxpd325/e/43b151b676f5d495238...
関西自然に親しむ風景100選90番 煙樹ヶ浜と日の岬
http://www.global-kansai.or.jp/kansai100sen/fukei090.ht...

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092 2014/05/10(土) 08:42:35 ID:wZna0eUDq6
     リア充しか渡れない恋人の聖地にキリシタン伝説あり 余島

香川県の高浜港の北にある小豆島。小豆島に関しては前スレ>>409で一度やったが、ふたたび違うネタで。
島の南西部・土庄町総合会館のほぼ真南には、弁天島と中余島、小余島、大余島(この4島を総称して『余島』)が点在している。
これらの島へは1日2回干潮時に、いわゆるトンボロ現象によって海岸に砂州が現れ、歩いて渡ることができる。
地元ではこの陸繋砂州を『エンジェルロード(天使の道)』と呼び、観光客の誘致、ひいては恋人たちが手をつないで渡ると幸せをつかむことが
できるという噂が口コミで広がり、願掛けの絵馬や貝殻を中余島の樹木に結びつけていくことで注目を浴びている。
意中のお相手がいない者が1人で渡るのは、いたたまれない心境になろう。

エンジェルロードの名前は伊達で付けたわけではない。それにまつわるキリシタン伝説があったのだ。
そもそも小豆島にキリスト教を伝えたのは、大坂城築城の石を切り出すため派遣されたキリシタン大名・小西行長であった。
小西行長はこの島を日本のキリスト教の本拠地にすべく、宣教師グレゴリオ・デ・セレベデスを送り込んで熱心に布教した。
しかし天正15(1587)年、豊臣秀吉はキリスト教禁止令を発し、厳しく取締りを始める。

隠れキリシタンであった島の娘タエは、逃れてきたキリシタン大名・高山右近のぞはに仕えていた。
やがて船で長崎に逃れる手はずを整えるため、セミナリオの神学生・小平太がやってきた。いつしか小平太とタエは恋に落ちるのである。
ある日の追っ手の襲撃。なんとか難を逃れた右近と小平太は、入り江の向こうに4つ並んだ余島に渡り、九州行きの船を待っていた。
夜、隣村から戻って事情を知ったタエは、小平太を追って入り江まで来たはいいが、暗いうえに流れの速い海を渡れるはずもない。
手を合わせていたタエは小平太から聞いた願いごとが叶うというおまじないを思い出した。
砂浜に貝殻を5個、十字架の形に並べ、夜空に向かって無心で祈ったのである。
すると奇跡が起きた。空から星が1つ降りてきたかと思うと、愛らしい天使になったのだ。

天使は竪琴を弾きながら海の上をゆっくりと羽ばたき、タエは魅了されたかのごとくその導きを追った。
不思議なことに、タエが踏み出した足もとには波間から白い砂の道が現れ、光輝きながら島に向かって伸びていった。
タエはついに3つの島を渡りきり、対岸で待ついとしい小平太の胸に飛び込んだ。
この様子を見ていた村人たちはそれ以後、愛の力で海の中にできる砂州を『エンジェルロード』と呼ぶようになったという。


小西行長wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E8%A5%BF%E8%A1%...
高山右近wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E5%B1%B1%E5%8F%...
小豆島国際ホテル エンジェルロード 
http://www.shodoshima-kh.jp/angel/index.ph...
[PDF]エンジェルロード
http://doboku7.sakura.ne.jp/kikou/dobokukikou78.pd...
函館無限1UP エンジェルロード 天使の散歩道
http://blogs.yahoo.co.jp/authortalentfactor/archive/201...

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093 2014/05/15(木) 19:38:35 ID:94gmw9umAc
>>66の無足明神『ムスッドン』について追加。

[PDF]いぶすきまるごと博物館(第95回)ムスッドンの無足舞と不思議な石像
http://www.city.ibusuki.lg.jp/modules/xfsection/cache/upload...

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094 2014/05/18(日) 17:15:59 ID:0QfEi4/3vo
     人類創生異伝4 沖の島

沖ノ島といえば、真っ先に前スレ>>10の玄界灘の『海の正倉院』を思い浮かべるが、今回は高知県宿毛(すくも)市の方の『沖の島』だ。
四国の最南端である足摺岬の西、約40km、宿毛港から南西へ約25kmの距離にある有人島である。
およそ数百年にわたって積み上げられた石段の上に民家が軒を連ねており、その景観は2009年、『石垣・石段とともにある暮らし』として
『島の宝100景』に選出されたほどである。

集落は北側の母島(もしま)地区と、南側の弘瀬地区を中心に古屋野、谷尻、久保浦などの小集落が点在しており、
なかでも母島には元久2(1205)年に鎌倉から訪れた山伏が住み着いたという伝説をはじめ、鎌倉幕府の重臣であった三浦大助の孫、
三浦新助則久という人物が何かの事情では咎(とが)を受け、その一族とともに今の弘瀬を開墾して農耕をし、海岸では漁業を行い、
島の祖となったと言われている。

その他に、沖の島には沖縄あたりから兄妹始祖神話が伝播して生まれたであろう人類創生伝説の文献があるというから驚きだ。
太古のころ、沖の島は別名、妹背(いもせ)島と呼ばれていた。
その昔、土佐国に1人の農民が住んでいた。あるとき、その男が食物や農作業用の鋤・鍬・鎌などの道具、それに稲の苗を舟に積み込んだあと、
14、5歳の男の子と、12、3のその妹に舟番をしてもらい、陸に上がった。

2人の兄妹は船底で横になり寝息を立てていたが、いつしか潮が満ちてきて舟は流され、沖へ出てしまう。
兄妹は泣きながら必死の思いで妹背島に上陸した。さんざん島を調べ回ったものの、まったく人気がない。
食料が尽きると、舟に積んであった稲苗を水のあるところに植えて田を作ってみた。それから斧やのこぎりで木を切り倒して家を建て、
木の実を食べて飢えをしのいでいるうちに季節は秋になった。田には稲がよく実ったので、それを刈り取って備蓄した。
やがて歳月が経ち、兄妹は年頃になったので契りを結び、男の子と女の子をもうけた。
その子供たちがまた夫婦になって子孫がふえ、おかげで島は栄え、田を多く作り広げて今日に至っているという。


宿毛市 沖の島
http://www.city.sukumo.kochi.jp/kankou/okinoshima.htm...
古代、中世の沖の島 妹背島伝説
http://www.city.sukumo.kochi.jp/sbc/history/sisi/009901.htm...
【兄妹婚】物語要素事典
http://www.aichi-gakuin.ac.jp/‾kamiyama/ki2.htm#kyokon
[PDF]
兄妹始祖神話再考 〜生まれ出ずるものを中心として
http://journal.seijo.ac.jp/gslit/student/jomin/pdf/jpn-03...
大阪の史跡好きライター「醸工房」 妹背と洪水
http://blog.livedoor.jp/writer_norichan/archives/cat_5...
Myth is Mystery Mazes 兄妹始祖神話について
http://blog.livedoor.jp/eastasian/archives/1578003.htm...

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095 2014/05/18(日) 17:29:11 ID:DoYp9NyfAE
     白鬚明神なる祭神を祀った謎の祠・白鬚=新羅? 対馬島 1 

旅客船セウォル号沈没事故を受けて、掲示板の類では下世話にも、「韓国はワダツミの神の逆鱗に触れているのではないか?」と、
まことしやかに囁かれているが、単に危機管理能力の杜撰さがここにきて断続的に露呈しているだけだと思うが……。

その海神神社は対馬の一宮で上島に鎮座する。
主神に海の女神豊玉姫命を据え、彦火火出見尊、宗像神、道主貴神、鵜茅草葺不合命を祀っている。
社伝によると、神功皇后が三韓征伐からの帰還する際、新羅を鎮めた証として旗八流を上県、郡峰町に納めたことに由来するという。
旗はのちに現在地の木板山(伊豆山)に移され、木坂八幡宮と称された。
また、仁徳天皇の時代、木坂山に起こった奇雲烈風が日本に攻めてきた異国の軍艦を沈めたとの胸躍る伝承も残されている。
明治3(1870)年、『延喜式神名帳』に見える和多都美神社へと改めた。翌明治4年5月、国幣中社に列格するとき、祭神を八幡神から豊玉姫命に改め、
同年6月に現在の海神神社へと変遷した。

……さて、天邪鬼な僕としては、海神神社よりも別の神社が気になってしかたがないのだ。
対馬の北端には2つの『白鬚(しらひげ)神社』があり、問題の『白鬚明神』が祀られているのだ。白鬚明神とは耳慣れない祭神であろう。
実はこの白鬚神社こそが、この神の原初の形態をとどめているのではないかと示唆されている。
周知のとおり、対馬は本土と朝鮮半島の中央……どちらかと言うとやや半島寄りに位置し、わずか53kmの距離にある。
古来より日本と韓国からの文物が行き来し、日本にとっては良くも悪くも異国との文化的・経済的交流の橋渡しの役を担ってきた。

ところで、最北端にある上対馬町の『豊』という集落にはこんな伝承がある。
対馬の沖合に椎根島なる無人島があり、別名『通らずが浜』と村人は呼んでいた。
江戸時代、他国の船頭が島にやってきて、薪を拾うために島の山に登った。花が咲き乱れ、白い水が流れているところがあったので、
ぼんやり眺めていたら、どこからともなく白髪の老翁が現れた。謎の老翁はニベもなく「何をしに来た? 早々帰れ」と、言った。
船頭は臆して引き返そうとすると、「よいか、この水を見たことを誰かに喋ると命がないぞ」と、警告。
「す、すっかり忘れた……お助け」と、船頭が言って逃げたが、老翁の言いつけを守らなかったのか、ほどなく死んだという。

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096 2014/05/18(日) 17:32:50 ID:DoYp9NyfAE
     白鬚明神なる祭神を祀った謎の祠・白鬚=新羅? 対馬島 2

この話では、『白い水』と『白髪の老翁』が何なのか気になる。
郷土史の第一人者、永留久恵氏によると、椎根島にはかつて式内社があり、江戸時代には祠があったとされている。
もっとも、現在はただの岩礁にすぎない。
また、『上対馬 ものごつ・いいつたえ』によると、『白い水溜り』の池には『白蛇』と『白髪の老人』が棲んでいたそうだ。
これらを含めて、『白い水』『白髪の老人』『白蛇』が意味するものは何か?
どうやらこの地域の広範に分布する海神・安曇の祖先『安曇磯良(あずみいそら)』が浮かび上がるのである。
上対馬町のやや下である峰町に海神神社があるが、その近くに、やはり白鬚明神の祠があったと言われている。祭神は、まさしく安曇磯良。
『津島記事』によると、「磯良が白髪の老翁となって猿田彦とともに現れ、神功皇后に奉仕した」との記述が見受けられる。

「池(水)から出てきた老翁が海神の様相をとどめている」という考えは、古代朝鮮でも裏付けられるそうだ。
現代の韓国の寺院でさえ、壁面や堂内には白髪白鬚の老人が配置されており、『山神』とか『竜神』と呼ばれている。
古来より朝鮮では、神は白髪白鬚の老人として描かれ、『山神』『竜神』が主流であったという。
しかしながら竜神の場合、女性として描かれることも多々あるが。
古代朝鮮の『三国遺事』の新羅王の条をみると、老人が池や海と関連し、また竜と交渉をもつ伝承が記載してある。
日本にも椎根島のように老翁と池(水)の絡む伝承が各地に伝播していることから、これは古代朝鮮から日本に連なるものではなかろうかと推測される。
しかもこれらが海神、安曇氏の拠点と結びつくことが注目に値する。

知らなかったが類似の白鬚神社は全国に、なんと300社前後もあるらしい。有名どころでは琵琶湖西岸にも同様の神社がある。
すべてを羅列すると長くなりすぎるし、いささか冗長である。それはまたの機会に語られるべきであろう。


対馬市
http://www.city.tsushima.nagasaki.jp/
ぶらり寺社めぐり 海神神社・対馬国一之宮(長崎)
http://www.geocities.jp/flow_and_stock/jisya-kyuusyuu/...
神人写楽・中野英治 秋の祭り
http://sinjinsyaraku.jimdo.com/%E7%A5%AD%E3%82%8A%E3%82%AE%E3...
玄松子の記憶 安曇磯良
http://www.genbu.net/saijin/isora.ht...
玄松子の記憶 海神神社 (対馬)
http://www.genbu.net/data/tusima/kaijin_title.ht...
第68話 日本は祟り神のおかげで守られている
http://www11.plala.or.jp/yamamotokenta/column.files/shi...
【おやこ新聞】まめちしき「対馬の仏像」なぜ返ってこないの?
http://sankei.jp.msn.com/world/news/140503/kor140503084...

※画像は海神神社

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097 2014/05/24(土) 19:05:12 ID:gAke3RaikA
     巨石で人工的に組まれた? 謎の鳥居・王位石(おえいし)  野崎島

長崎県五島列島の北東部に位置する野崎島。旧石器時代から戦国時代にかけての遺跡などが多数出土しているおり、
太古より人が住んでいたとされる。
島北部にある沖神嶋(おきのこうじま)神社は遣唐使の航海安全を願って慶雲元(704)年に創建されたもので、
五島列島の中では随一の古社として知られている。

その社殿背後の山腹上部には意味ありげな巨石が、まるで鳥居でも組み合わせたかのようにそびえ立っている。
神域を思わせる佇まいである。奇岩とひと括りするのは無礼だろう。
それもそのはず、巨石群を『王位石』と呼んでおり、沖神嶋神社の御神体とされているのだ。
高さ24m、幅12mにいくつかの岩が形よく嵌め込まれ、頂上の天板の石は5m×3mの広さを誇る。
故意につくられたものか自然にできたものなのか判明しておらず、その用途もメンヒルの一種、古代の祭祀場跡、天板上で神楽を奉納したとか、
遣唐使船航行の目印だった、あるいは遥か太古に巨石の上に神島明神が現れたという伝説もあり、いずれにせよ古来から崇拝されてきたという。

神島明神が現れた伝説というのは興味深く、いろいろ探ったのだが詳細はつかめなかった。無念……。


奇蹟の島 野崎島 長崎県五島列島北端 小値賀町
http://nozakijima.jp/midokoro.htm...
島作家 斉藤潤の島紀行 王位石探索行 — 14年前の野崎島(1)
http://www.japan-island.info/portal/essay/100/60...
西彼杵半島日和 野崎島 王位石・沖の神嶋神社 編
http://who-ta.seesaa.net/article/221187721.htm...

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098 2014/05/24(土) 19:11:01 ID:gAke3RaikA
     忽那(つくな)水軍の城塞島 クダコ島

クダコ島は愛媛県松山市に属する怒和島(前スレ>>231を参照されたし)と中島本島の中間に位置する、周囲1.8kmの無人島だ。
この海域をクダコ水道といい、大物のタイやブリが狙える好漁場で釣り人にはたまらないだろうが、潮流が速く危険を伴うエリアでもある。

『クダコ』という名とは奇妙な響きだ。
これはおよそ鎌倉時代から安土・桃山時代までといわれる中世のころ、この島を拠点にしていた水軍の呼び名であり、
忽那家文書には『久田子衆』や『九多児衆』と記されている。
言うまでもなく水軍は、海上における組織的な戦闘力・行動力・情報収集力を活用してテリトリーを掌握した。
水軍の基本的な性格は、瀬戸内海の島々や沿岸の半農半漁の海人たちを母胎とした海上武士団・海上交易商人団・海上交通支配団ともいうべき
機動的武装集団であり、海に生きる海人の本領を遺憾なく発揮した。

また水軍は海賊衆・警固(けいご)衆とも呼ばれ、いずれも島々や沿岸の要害の地に堅固な水軍城(海城)を築き、水軍独特の情報ネットワークを駆使して
各瀬戸に睨みを利かせた。
彼らは、瀬戸内海の要地を航行する船舶から帆別銭(ほべつせん=帆の広さによる税金)、荷駄別役銭(にだべつやくせん=積荷の多少による税金)、
櫓別銭(ろべつせん=櫓の数による税金)など、通行税を徴収し、水先案内や警備保障費にあたる警固料を取得して、
それぞれの水軍の領地支配と経済基盤を強固なものにした。

忽那水軍も例に洩れず中島に本拠を設置。各所に砦を設け、往時は西瀬戸一帯を牛耳ってきたといわれている。
クダコ島はまさにそのうちの1つであり、今も島内に名残りをとどめているのだ。
島からは南北朝時代(1336〜1392年)のものと思われる城塞跡が見つかっていることから、島がまるごと城という威容を誇っていた。
城郭は頂上の地形を巧みに利用して第1、2、3郭に区切られ、第1郭は50m×22m、第2郭は50m×25m、第3郭は44m×33mの長方形であったとされる。
第1郭と第2郭の段差は5m、第2、3郭は2.5mの段差があり、段ごとに幅3m、深さ50cmの堅堀によって連携。
島の南側は絶壁であることから自然の城壁とし、船着場跡にはピットが残されている。
もっともその城塞の島も、天正13(1585)年、忽那水軍の滅亡とともに役割を終え、江戸時代には草刈り・採藻の入会地と変わり果てた……。

全盛期のクダコ島には常時、見張りの兵士を立て厳重な警備をしていた。
あるときには弓の名人が、許可なくクダコ水道を横切ろうとする船の帆柱を射ち、なんば(帆を巻き上げる滑車)を壊して船が進めないようにしたり、
またあるときには、そろばん自慢の兵士が潮の流れを計算して、水道を通っていく船を自然に引き寄せたりして、作為的に通行税を徴収していたとも
言われている。


愛媛県 しまの詳細:怒和島(ぬわじま)
http://www.pref.ehime.jp/chu52109/navi/shima/nuwajima/i...
はっしのオレ物語 クダコ釣行 『瀬戸内モンスター』ブリGET!!
http://d.hatena.ne.jp/k-pac/20131101/p...
52回の週末 7/17 忽那諸島シーカヤックツーリング
http://quickturn.jp/archives/2010/07/17/%E5%BF%BD%...
[PDF]しまの情報紙 2012春号 愛ランドまつやま 松山離島振興協会
http://island-matsuyama.com/h24spring.pd...

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099 2014/06/01(日) 10:40:10 ID:tZBsppIit2
     虚空蔵菩薩を祀った霊域の島 虚空蔵島(こくうじぞうじま)

宮崎県日南市南郷町の目井津港入り口には小さな無人島がポツンと浮かんでいる。
寛永3(1626)年、飫肥城主・伊藤修理大夫祐慶公の慈母なる慶因(松寿院殿)が、住持比丘昌悦團禅師に命じ御堂を建立。
その際、霊験あらたかな虚空蔵菩薩を奉納した。のちに松寿院殿の菩堤のため、併せて海上安全・大魚満足・国家豊饒・下繁栄のために
奉られるようになった。
虚空蔵菩薩とは、天のように広く大きな福徳と智慧をもち、生きとし生けるものの、あらゆる願いを適えてくれるという仏である。
以来、いつしかこの島を虚空蔵島と呼ぶようになった。虚空蔵菩薩をお堂に安置し、八大龍王、船玉大神など水の神・海の神を迎えて、
虚空蔵島全体を霊域として崇めた。

信仰の篤い地元の人々は、島の草木をはじめ、小石や貝殻に至るまで、神仏の目に見えない力が宿っていると信じた。
70年ほど前にはカラスが3000羽も住みつき、朝、餌を求めて飛び立つものの、夕方には大堂津の海岸で足を洗ってから虚空蔵島の森へ帰っていく姿が
見られたという。
当時、戦地へ出征する若者に、島の小石や貝殻をお守り袋に入れて持たせ、武運長久を祈る親や身内もめずらしくなかった。
現在でも島周囲の貝を採ると腹痛に襲われると言われ、タブー化されている。毎年、旧暦6月12日、13日には、町を上げて祭りが開かれる。


古代文化研究所 虚空蔵島
http://blogs.yahoo.co.jp/yan1123jp/9810295.htm...
Miranka パワースポット日南市虚空蔵島(こくぞうじま)
http://ameblo.jp/taniyanhp/entry-11613133415.ht...

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100 2014/06/01(日) 10:45:06 ID:rhGS10XPOM
     犬猫を連れ込んではいけない島 江島(えのしま)

宮城県牡鹿郡女川町の沖合には江島が浮かんでいるが、神奈川県の江の島やその他の江島と差別化するため『陸前江島』とも呼ばれる。
女川町から見て南東の女川原子力発電所の正面に位置し、牡鹿半島から伸びる江島列島の中で、最大の島でありながら唯一の有人島である。
この江島には、またしても犬……のみならず、猫までも連れ込んではいけないタブーがあるそうだ。これは金鶏の天敵全般を指すという。
その伝承がこうだ。

文治5(1189)年、源義経をかくまった罪で源頼朝に追われた奥州藤原氏の家臣にして、日詰(現紫波町)を領していた桶爪五郎季衝が
この島に落ち延びたとされている。
そのとき、季衝は家宝である金鶏を連れていったが、鳴き声で追っ手に露見してしまうことを恐れ、海洞の中に閉じ込めて隠した。
ところがある日、嵐によって洞窟ごと吹き飛ばされてしまう。
季衝は、「なんとも惜しいことをしてしまった……」と悔いたが、しかしこれも神仏の意思だと思い直し、以来、
鶏を供養する意味で島には犬猫を連れ込まないというしきたりを作り、これを守った。

江島は江戸時代、重罪人が流される流刑地であった。江島自然活動センター裏の東岸の岩場は、『流人転がし』と言われ、
かつては罪人を突き落とす仕置場であった。仙台藩で貴族階級に属する流刑人も多かったため、風流を愛でる気風が残されているという。
その1人に、豊臣家の家臣筋であった修験者、栄存法印がおり、死後は島民によって手厚く葬られたものの、
埋葬場所はその後、農地として開墾されてしまったようで現在はない。


キンケイ(金鶏)
http://www.kagiken.co.jp/new/kojimachi/bird-kinkei_larg...
伝承之蔵 桶爪五郎季衝と金鶏
http://legend.main.jp/50-onagawa-003-hizumegoroutoki...

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101 2014/06/01(日) 10:51:52 ID:rhGS10XPOM
     日本最北の悲恋伝説?久種湖が生まれた悲話 礼文島(れぶんとう)

北海道の北部にある稚内の西60kmの日本海側に位置する礼文郡礼文町に属する島が礼文島である。
地名語源はアイヌ語のレプン・シリ(沖の島)から来ている。人口は平成26(2013)年4月1日の調べで2,760人。
礼文島には日本最北の淡水湖といわれる久種湖(くしゅこ)がある。湖畔の湿原には4月中旬にミズバショウが観賞でき、
またキャンプ場やスキー場も揃っており、アウトドア派の誘致に一役買っている。久種湖の語源はアイヌ語で『山越えする沼』の意である。
そんな久種湖には、またしても悲恋伝説が残されていた。日本各地には何かと昭和の歌謡曲ばりに恋人が結ばれる話より、
悲しい別離のソレの方が圧倒的に多く、風土らしさを感じさせる。それでいながらこの手の話は、やはり印象深いのも否めないのだが。

……昔、礼文島のあるコタン(集落)に、イコッポとフプリという若者が住んでいた。
2人は仲が良く、漁をして暮らしていたが、年頃になると酋長の娘、エリアに恋心を抱くようになる。
エリアは聡明なうえに目を瞠るような美人で、2人の憧れの的であった。
イコッポとフプリとて例外ではなく、身体が丈夫でなかなかの好男子。エリアは2人に言い寄られてもどちらか決めかねた。
酋長オテナは腕組みしながら、「娘もそろそろ嫁に行かさねばなるまい。見たところ、どうやらイコッポの方が漁の腕がいいようだ。
奴ならエリアを幸せにしてくれるに違いない」と、言った。
この言葉に気を良くしたイコッポに対し、フプリの心中たるや穏やかなはずがない。いつしか2人の友情にすき間風が吹く。
エリアをめぐる対立は漁場争いへとつながり、他人の迷惑にもなりかねない。困ったエリアはある決断を下した。
「いっそのこと2人で決闘なさい。戦い、勝ち残った者にすべてを許します」
「エリア、約束だぞ。酋長がなんと言おうと、勝ったらおまえを頂く」と、フプリ。
「決闘か。受けて立つ。どんなにあがいてもおれに勝てっこないことを証明してやる」と、イコッポが言った。
武器を持つことを許された2人は砂浜で対峙した。こうして1個の雌をめぐる雄同士の、原始的でありながら純然たる雄間闘争へと転じた。

激闘の末、フプリの執念がイコッポのそれより勝った。ついにフプリは恋敵を仕留めたのだ。
イコッポは息を引き取る寸前、「エリア……おれを愛してくれ」と言い残し果てた。
すると、時ならぬ暴風が吹き荒れ、目の前の漁場がたちまち砂に埋もれてしまった。
「なんてことだ……おれたちの漁場が!」フプリは絶句し、その現象が平手打ちであったかのように我に返った。
いくら憧れの女を手に入れるため熱に浮かされていたとはいえ、大切な友を手にかけてしまった。身悶えるような良心の呵責に耐えきれず、
その場で彼は自害した。
一部始終を見ていたエリアはこの世の終わりを迎えたかのように慟哭した。ほんの戯言のような口約束から、2人の若者を死なせてしまった……。
「ごめんなさい! あたしがバカだった!」と、エリアも刃物で自身の首を掻き切り、あとを追った。
3人の遺体が折り重なるように倒れた場所に、やがて水がたまり、久種湖ができたと言われている。

……オチこそ違えど、なんとなく前スレ>>286で書いた、八丈島の船幽霊こと『佐吉舟』の筋に似ているね。
いずれにせよ、この手の話は報われないケースばかりだ。悲惨。


礼文島観光協会
http://www.rebun-island.jp/
久種湖 北海道礼文町 悲恋が生んだ最果ての湖
http://www.harubow.com/album/koshonodensetu/KOSHO/01....
道北の釣りと旅 礼文町の昔話とアイヌ伝説・創作はあるかも?
http://www.kitakaido.com/soya/rebun/rebun-17.htm...
NPO法人国際朗読ことば協会
http://www.kageyama.jp/sanpo...
アイヌ語一覧wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%82%A4%E3%83%...
性淘汰wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%80%A7%E6%B7%98%E6%B1%...
まんが日本昔ばなし動画 佐吉舟
http://nipponmukasibanasi.seesaa.net/article/383709456.htm...

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102 2014/06/14(土) 14:47:13 ID:9u2W9oArUE
     南方熊楠による海難法師考察 伊豆七島 1

前スレ>>427>>428では和歌山県田辺市の神島にゆかりある人物として南方熊楠の名前を出したが、この方はそれだけにとどまらず、
マルチな才能ぶりと恐るべき知識量には舌を巻かずにはいられないのだ。
実はその南方熊楠も、伊豆七島に伝わる『海難法師』(前スレ>>396>>398を参照)に関する論文の記述を遺していた。昭和26(1951)年発表、
題は『十二支考 蛇に関する民俗と伝説』でのほんの一文であるが、さすが我らが南方熊楠、ネットのない時代によくぞ知悉していたと
尊敬の念を抱かせるに充分である。以下、抜粋してみよう。アンカー部分が引用文。


>『郷土研究』四巻二九六頁、尾佐竹猛氏、伊豆新島の話に、正月二十四日は、大島の泉津村利島神津島とともに日忌で、
>この日海難(またカンナンボウシ)が来るといい、夜は門戸を閉じ、柊またトベラの枝を入口に挿し、その上に笊(ざる)を被せ、
>一切外を覗かず物音せず、外の見えぬようにして夜明けを待つ。
>島の伝説に、昔泉津の代官暴戻(ぼうれい)なりし故、村民これを殺し、利島に逃れしも上陸を許されず。
>神津島に上ったので、その代官の亡霊が襲い来るというのだが、どうも要領を得ぬとある。
(中略)
>1903、4年の間、グリーンランドのエスキモ人の中に棲んだ、デンマルク人ラスムッセンの『極北の人民ゼ・ピープル・オヴ・ゼ・ポラー・ノース』を読むに、
>輓近(ばんきん)エスキモ人がキリスト教に化する事多きより、一代前の事は全く虚誕のごとく聞えるが、遺老に就いて種々調べると、
>欧人が聞いて無残極まり、世にあり得べからずと思われる事や、奇怪千万な行いなどは、彼らに取ってはありふれた事で、
>欧人が聞くに堪えぬと惟(おも)う話のその聞くに堪えぬところが、彼らのもっとも面白がるところである。
>したがって欧人が何とも要領を得ず、拙作極まる小説としか受け取れぬ諸誕は、ことごとく実在した事歴を述べたものだと論じ居る。
>新島の伝説もこの通りで、代官暗殺云々は全く事実であろう。

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103 2014/06/14(土) 14:49:33 ID:9u2W9oArUE
     南方熊楠による海難法師考察 伊豆七島 2

>代官の幽公が来るのを懼れて、戸を閉じ夜を守ったも事実であろう。柊は刺で、トベラは臭気で悪霊を禦ぐは分りやすいが、笊を何故用いるか。
>種彦の『用捨箱(ようしゃばこ)』巻上に、ある島国にていと暗き夜、鬼の遊行するとて戸外へ出でざる事あり。
>その夜去りがたき用あらば、目籠を持ちて出るなり、さすれば禍なしと、かの島人の話なりといえるは、やはり新島辺の事で、
>昔は戸口にも笊を掛け、外出にも持ち歩いたであろう。
>種彦は、江戸で二月八日御事始おことはじめに笊を門口に懸けた旧俗を釈(と)くとて、昔より目籠は鬼の怖るるといい習わせり、
>これは目籠の底の角々は☆如此かく晴明九字(あるいは曰く晴明の判)という物なればなり。
>原来の俗説、ただ古老の伝を記すと言ったが、その俗説こそ大いに研究に用立つなれ。
>すなわちこの星状多角形の辺線は、幾度見廻しても止まるところなきもの故、悪鬼来りて家や人に邪視を加えんとする時、
>まずこの形に見取れ居る内、邪視が利かなくなるの上、この晴明の判がなくとも、すべて籠細工の竹条は、此処ここに没して彼処かしこに出で、
>交互起伏して首尾容易に見極めにくいから、鬼がそれを念入れて数える間に、邪視力を失うので、イタリア人が、無数の星点ある石や沙や穀粒を、
>袋に盛って邪視する者に示し、彼これを算(かぞ)え尽くすの後にあらざれば、その力利かずと信ずると同義である。
>節分の夜、豆撒くなども、鬼が無数の豆を数え拾う内に、邪力衰うべき用意であろう。

>かつて強盗多かった村人に聞いたは、強盗盛んな年は、家に小銭を多く貯え置く、泥的御来臨のみぎり、二、三問答の上、しからばやむをえない、
>貴公らに金を仮りたとあっては相済まぬ、少々ながら有金すっかり進呈しよう、大臣にでもなったら返しくだされ、その節は、子供を引き立てくだされなど、
>いい加減に述べて、引き出しを抽いて、たちまち彼奴の眼前へ打ち覆かえすと、無数の小銭が八方へ転がり走る。
>泥公一心これを手早く掻き込むに取り忙ぎ、銭の多寡を論じたり、凶器を弄ぶに暇なく、集めおわりてヘイさようならで慌あわて去るものだ。
>強盗に逢ったら僕の名を言いたまえ、毎度逢って善い顧客だから麁略(そりゃく)にすまい、貴下のような文なしには、
>少々置いて行くかも知れぬと教えくれたが、まだ一度も逢わぬから、折角の妙案も実試せぬ。
>全体予の事を、人々が女に眉毛を読まれやすいと言うを、いかにも眉毛が鮮かなと讃めてくれると思うたが、拙妻聞いて更に懌ばぬから、奇妙と惟いいた。
>ところが『郷土研究』四の四三三頁に、林魁一君が、美濃の俗伝を報じた内に、眉毛に唾を塗ると毛が付き合うて、狐その数を読む能わず、
>したがって魅ばかす事がならぬとあるを読んで大いに解り、〈人書を読まざればそれなお夜行のごとし〉と嘆じた。
>マアこんな訳故、新島の一条も、もと目籠を以て邪視を避くる風が、エジプト、インド、東京、イタリア等同様、日本にもありしが、
>新島ごとき辺土に永く留まった。

>そこへ代官暗殺されその幽霊の来襲を惧るる事甚だしくなりて、今更盛んに目籠を以てこれを禦ぎしより、ついに専ら代官殺しが、
>日忌の夜笊を出す唯一つの起りのよう、訛伝(かでん)したのであろう。


十二支考 蛇に関する民俗と伝説 南方熊楠
http://www.aozora.gr.jp/cards/000093/files/2536_20184....
※なお、南方熊楠の他の論文を閲覧したくばここで取得されたし。
青空文庫 南方熊楠
http://www.aozora.gr.jp/index_pages/person93.html#saku...

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104 2014/06/14(土) 15:01:32 ID:1qv/H9M08Q
     江戸時代では禁則地、それ以前は死者の埋葬地だった島? 青島 1

宮崎市の日南海岸のすぐ目の前には、美しい海岸と200mもの長さの弥生橋がかかり、その先の平べったい青島が見える。
橋を渡れば、その景観に感嘆せずにはいられない。島の周囲には『鬼の洗濯板』と称される奇岩風景が広がっているのだ。
これは約1000万年から800万年前の地層(硬さの違う砂岩と泥岩)が、侵食によって規則正しい凹凸で形成されたことから名付けられたもの。
干潮時には沖合100mにも達し、他の島とは一線を画する趣を醸している。
島の周囲はわずか860m、鬼の洗濯板部分を含めても1.5kmほど。最高6m程度の平坦な島ながら、鬱蒼と生い茂った亜熱帯植物の森が広がり、
植物の種類も220種を超え、原始の森がほぼ手付かずの状態を保っている。
というのも手付かずであったには理由がある。この島は江戸時代中期までは禁則地とされ、一般人が足を踏み入れてはならない聖域だったからだ。

弥生橋を渡り青島に降り立つと、御影石の灯籠が参道の両脇に立っている。100mばかり突っ切ると、大鳥居が迎えてくれ、
それをくぐると左方に朱色の鮮やかな青島神社が見えてくる。いかにも南国っぽいビロウやソテツの密林に囲まれる形で鎮座する、
神道の社殿というミスマッチ感がたまらない。
青島神社の祭神は『天津彦火火出見命(あまつひこほほでみのみこと)』『豊玉姫命(とよたまひめのみこと)』『塩筒大神(しおつつのおおかみ)』の3神が
祀られており、縁結び・安産・航海・交通安全のご利益があると信じられ、昔から多くの参詣者を集めてきた。

その天津彦火火出見命であるが、記紀神話のエピソードの1つ、『海幸彦・山幸彦』の山幸彦で知られている。あらましはこうだ。
その昔、海で漁をして暮らす兄の海幸彦と、山で獣を狩って生活する山幸彦の兄弟がいた。
あるとき生活に飽きた山幸彦は、「いちど、お互いの道具を取り替えてみよう」と提案。しかし得意分野から外れたことをすべきではない。
まったく魚はかからず、むしろ兄に借りた釣り針を海でなくしてしまう。
釣り針を失ったことを兄に告げれば、大目玉を食うのは必至。途方に暮れ、海辺でオイオイ泣いていると、そこに塩筒大神のじい様がやってきて、
「そんなあなたのために、私めが力を貸してさしあげましょう」と、言った。
じい様は竹で編んだ小舟を作り、それに山幸彦を乗せてワダツミの棲む海中の神殿へと導いた。
神殿に着くと、ワダツミの娘である豊玉姫が出てきて、たちまち彼女にひと目惚れ。ワダツミも山幸彦の人柄を気に入り、豊玉姫と結婚させた。
山幸彦はご馳走を食べ、優雅な踊りで歓待されるがままに3年の間、ワダツミの国で人生の春を謳歌する。

そしてフト我に返る。そろそろ地上へ帰りたくなった。豊玉姫は止めたが、山幸彦の気持ちは変わらない。
「それはそうと、海でなくした釣り針を捜しにきたんだが、どこにあるか知らないか?」と、本来の目的を思い出し聞いてみた。
豊玉姫を介し、ワダツミの耳に届くと、ワダツミは海にいるすべての魚を呼び集め、釣り針を捜させた。
するとタイの喉に引っかかっていたことが明らかになり、これを抜いてを返した。
その際、ワダツミは釣り針の他に、『潮満珠(しおみつたま)』『潮干珠(しおひのたま)』の、2つの不思議な珠を与え、帰らせることにした。

フカ(サメ)の背中にまたがった山幸彦は、地上に送り届けてもらう。
陸に戻った山幸彦は、釣り針を兄に返すも、その後、しだいに貧しくなった海幸彦は、トントン拍子に暮らしが豊かになる弟を羨み、
ついに亡き者にしてやろうと殺しにくる。山幸彦はここぞとばかりに潮満珠を掲げると、その霊力でたちまち潮が満ちてきて、兄を溺れさせた。
観念した海幸彦は弟に一生忠誠を誓うと言って詫びた。ちなみに海幸彦は隼人族の祖であるという。
その山幸彦が地上に戻って暮らしたとされる場所こそ、現在の青島神社だというのだ。

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105 2014/06/14(土) 15:10:36 ID:9u2W9oArUE
     江戸時代では禁則地、それ以前は死者の埋葬地だった島? 青島 2

言うまでもなく、亀に乗り竜宮城に行った浦島太郎のルーツは、この話が元になったのは明白。
さて、その青島であるが、古来、全島が霊地として神聖視され、藩の島奉行と神職だけが常に入島し、
一般人は旧暦3月16日の『島開きの祭』から、同月末日の『島どめの祭』まで入島を許されていたが、元文2(1737)年、
当時の宮司・長友肥後が一般の参拝者がいつでも島に渡れるよう藩主に申し出た甲斐あって、以後入島が自由になった。
ところで民俗学者、折口信夫はこう言及している。
「海の彼方あるいは海底にニライカナイという異郷の浄土があって、そこからマレビトが現れ、現世の地上の人々を訪れるという信仰が琉球諸島にある。」
と同時に、浦島太郎がたどり着いた竜宮のことをソレとするならば、竜宮は時間さえも超越した世界であり、『死後の世界』とも解釈できるという。
同じく民俗学者の谷川健一が発表した『列島縦断地名逍遥』によると、こんな興味深い記述がある。ちょっと長いが抜粋してみよう。
アンカー部分を引用文とする。

 >青海(あおみ)……渚の埋葬地

>沖縄には死者を葬る青(おう)の島という地先の小島がある。私が『青』は死者と由縁の色ではないかと考え、日本本土でも『青』のつく海岸地名に関心を抱いた。
>それを探して対馬の『青海』を訪ねたことがある。青海は木坂のとなりの集落で、埋葬地は水平線を一望に眺める海ぎわにあった。
>そこは埋め墓で、波に引かれて海の沖に流されてしまうこともしばしばであった。
>詣り墓は寺(慈眼寺)の裏山にあり、埋め墓に参るのは77日の忌までであった。以後埋め墓には、当分の間の記憶としてかんたんな墓標が立てられたが、
>いつか忘れられるのが常であった。供養は拝み墓で行い、渚の埋め墓は捨て墓であった。

>山1つ越した木坂には産小屋があった。その産小屋は人家から離れた川の向こうに作った。そして死者は保利(ほり)の山に葬った。
>保利は葬り(ほふり)である。そこはもと埋め墓であった。
>青海や木坂で聞いたところでは、他部落へ行くことを、それがとなり部落であっても「世の中へ行く」とか「旅に行く」という言い方をする。
>部落をひとたび出ると、そこはもはや他郷であり、他界であった。
>対馬ではかつては、結婚も部落の中だけで行われたという。部落は宇宙であった。
>青海や木坂に、死と生をむき出しにする埋め墓や産小屋があるのも至極当然な風景であった。

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106 2014/06/14(土) 15:16:22 ID:9u2W9oArUE
     江戸時代では禁則地、それ以前は死者の埋葬地だった島? 青島 3

 >青(おう)の島……死者を葬った地先の小島

>田畑英勝(※奄美大島出身の民俗学者)は『奄美の民俗』の中で、名瀬の年寄りたちは、空間的もしくは時間的な距離とか間隔、
>つまり『間』の意味にアヲという言葉を使っていると述べている。たとえば、「アヲヌ トウーサン(距離が遠い)」とか、
>「マダ アヲヌ アッカサ(まだ時間的な間があるではないか)」とか、「アヲヌ チキャサ(距離が近い)」とか、
>「ナリ アヲヌ イティ シレイ(もう少し間をおいてやれ)」などという言い方をする。
>これはもともとどうした観念に基づいているのか私にはつかめないが、こうしたアヲという語の使い方には、何か極めて古い語感がこめられているように思われる。
>青は地名にも使われる。奄美大島では瀬戸内町の嘉徳や住用村の市にそれぞれ青久という地名がある。また『青の花』とか『青ン原ケ』という地名が喜界島にある。

>こうした青という土地の名は、『あやまる』という地名の『あや』と同じように、何かはっきりしないとか、漠然としたとか、はるかな、
>という意味がこめられているのではないか、と田畑は言う。田畑の念頭にはおそらく、『青』という色のもつ漠然さがあるのであろう。
>古代には色は、赤、白、黒、青の4色しかなかった。これは日本全土でも沖縄でも同じである。
>その中で、青色の領域がもっとも広く、緑色も黄色も青色中に含まれていた。したがって青というと、それらの漠然とした感じを伝える色と思われてきたのである。
>これが仲松弥秀(※民俗学者・沖縄における村落研究の第一人者)の『青の世界』の仮説ともつながっていく。
>仲松は沖縄本島およびその属島に奥武という名のつく小島が7つほどあることに注目した。久米島に奥武島があり、慶良間島にもある。
>また沖縄本島の南部に奥武島(おうじま)があり、北中城に奥武岬、那覇市に奥武山公園がある。これらの岬や公園ももとは小島であったにちがいない。

>奥武島は『琉球国由来紀』や『琉球国旧紀』にアフ、アウ、アホと表記されていて、漢字では一部、阿鳥、阿符の字が宛てられているが、
>青という字を宛てる場合がもっとも多い。そこで奥武の島は、もとは青の島ではないか、という考えが成り立つ。
>仲松が調べてみると奥武島は昔、死体を運んで葬った島であった。沖縄では本土とはちがって洞窟墓の中に死体を運んで風葬にする。
>洞窟墓には外部からぼんやりとした黄色な光が入り込んで、死体を照らし出す。このぼんやりとした黄色い光を、南島の古代人は『青』と呼んだと仲松は考えた。
>つまり青の島は死者の島でもあったのだ。

>南島の基層文化が日本列島に渡来したとき、南島の葬制も当然日本に伝わったと思われる。
>もしそうだとするならば南方の人たちが黒潮に乗って渡来した日本本土の海辺部に埋葬の場所として、青という地名が見つかるのではないかと私は考えた。
>たとえば日向の青島がそうである。青島が埋葬地であったという証拠はないが、青島の対岸には青島古墳群がある。
>対馬には青海という海村がある。私もそこを訪れたことがある。波打ち際に今は石の墓碑も立っている。もとはそこは死体を捨てるところで、
>すぐ近くの寺の境内に『詣り墓』が集中していた。
>志摩の的矢湾の奥にそびえる青の峯は、全国の漁師の尊崇を集めるところであるが、そこは南方とのつながりの濃厚に見られるところであった。
>美濃の青墓は美濃で前方後円墳の集中するところである。このようにして、本土に見られる青を冠した地名も、そこが墓地と関係の深いことに気づくのである。
>ただそれが、沖縄の『青の島』の青と、どのように具体的に関連をもつかは今もってはっきりとつかめない。

……以上のことから、『おう(Ou)』という言葉は、古代において死者の埋葬場所を示した。とすればこの宮崎県の青島も例外ではあるまい。
かつては一般人の立ち入りを禁じたほどだから、よほどの権力をもった人間が埋葬されていたのかも……。

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107 2014/06/14(土) 16:08:15 ID:vFg/LgylVI
     江戸時代では禁則地、それ以前は死者の埋葬地だった島? 青島 4


山幸彦と海幸彦wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E5%B9%B8%E5%BD%...
青島神社
http://www9.ocn.ne.jp/‾aosima/
[PDF]青島ご由来
http://www9.ocn.ne.jp/‾aosima/yuisyo.pdf
玄松子の記憶 青島神社
http://www.genbu.net/data/hyuga/aosima_title.ht...
目からウロコの地名由来 「青」の地名
http://baba72885.exblog.jp/872503...
隆慶一郎わーるど 隆慶一郎公式サイト 歴史のこぼれ話(一)死者にちなむ地名
http://yoshiok26.p1.bindsite.jp/bekkan/koborebanashi...
犬の鼻先におなら 金井典美著『湿原祭祀』を読んだ(その2)
http://plaza.rakuten.co.jp/inunohanasaki/diary/2010101000...

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108 2014/06/22(日) 13:18:44 ID:vVsr/8KmDk
     置き去り伝説と船幽霊のブレンド 小市島(おいちじま)

愛媛県松山市の防予諸島の一部、忽那諸島に属する瀬戸内海に、小市島というお椀を伏せたような小島がある。
島の東側には小市島灯台が佇む無人島である。
『おいち』という島名とはずいぶん女性的だ。探ればやはり『小市』という娘が島に置き去りにされて死んだ話が伝えられていることから、
こう冠されたのだという。それがこんなお話。

帆掛船がたくさんの荷を積んで瀬戸内海を往来していた時代のこと。芳造というある船乗りがいた。
芳造は風待ちした港にて、実家に帰れば妻子がいるにもかかわらず、地元の娘、小市にちょっかいを出す。
小市もおぼこ娘だったのか、そんな芳造を相手に恋にのぼせてしまう。
男も話の流れで、「嫁にしちゃるから、おれの故郷へ行って祝言をあげような」と、言ってしまったが後の祭り。
小市を乗せて船が出発してしまった。まさか本当につれて帰るわけにはいかない。いっそのこと、無人島に置き去りにしてしまおうと考えついた。
「船乗りなのにだらしない話だが、いささか酔っちまった。あの島につけるから一緒に小休止といこう」と、芳造は言い、小市をつれて島に上陸した。
小市は、芳造との婚約を前に胸躍らせながら横になり、わずかの間まどろんだ。
はっと気づくと、いとしの芳造はおろか、船が見当たらない。声を限りに叫べども、瀬戸内の海は狭いように見えて助けは望むべくもない。
食べ物すらなく水も沸かない島だったので、小市はしだいに衰弱していき、だました芳造を恨み、己が運命を呪ってしだいに狂気に捉われ、ついには悶死した。

それ以来、島の近くを船が通りかかると、恨めしそうな女の声で、「水を……水をください……」と訴え、船のあとを追ってくる『船幽霊』が出没するようになった。
船乗りが恐慌をきたし柄杓で水を汲み、それごと渡せば、女はニタリと笑った。柄杓を取り上げ、相手の船に海水を注ぎ、船が沈没するまでやめなかった。
そんな女幽霊が出たら、決まって船乗りたちは底を抜いた柄杓を渡してやりすごしていたが、いつしか誰かがこの島に祠を建て、小市の霊を慰めた。
以降、『船幽霊』は出なくなり、誰が言うことなくこの無人島を小市島と呼ぶようになった。

……前スレから愛読してくれている方なら、既視感を憶えたに違いない。
前スレ>>355の京の上臈島の置き去り伝説に酷似していながら、船幽霊の話と一緒くたになってしまっているのだから。
これもなんらかの形で話が伝播したにすぎないのだろう。もっとも、京の上臈島の伝説でさえ最初の発生源なのかどうかも疑わしいのだが。


伊予歴史文化探訪 よもだ堂日記 松山沖の無人島(10)「小市島」
http://yomodado.blog46.fc2.com/blog-entry-1238.htm...
松山の伝説 一覧
http://home.e-catv.ne.jp/naka/mukasi-hanasi/densetu/1-i...

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109 2014/06/22(日) 13:25:55 ID:vVsr/8KmDk
     なぜ特定の島では犬を飼ってはいけないのか? 続き1

以前から気になっていて、>>78では『なぜ特定の島では犬を飼ってはいけないのか?』と独自に考察してみた。その続きに触れたい。
>>28で長崎県松浦市の『青島』を取り上げたのは記憶に新しい。この島も犬を飼うのがタブーであった。
>>104>>107で言及したように、古来より『青島』と冠する島は死者の埋葬地として機能していたというのが通説のようだ。
だとすれば遺体を掘り返される恐れから、犬を飼うのは忌み嫌われたというのもこれで合点がいく。
同じようにこの題目に言及した論文を見つけた。それが野地恒有氏という民俗学者が発表した『移住開拓島の民俗学ノート(一)』である。
僕とは異なる発想だが、うなずける部分もある。その部分を引用してみよう。アンカー部分がソレ。


>犬をつれて行くことを禁忌とする島がある。柳田国男はその本源的な理由として、猫の敵だとする以前にその島が葬地だったからと推測した(猫の島)。
>私は犬をつれていくというのは移住と土地占有を示す行為であったため、特別なとき以外には島に犬をつれて行ってはいけなかったのだろうと推測する。
>柳田国男の『猫の島』という一編を見てみよう。犬をつれて渡ると祟りがあるという島がみられる。
>猫のもつ神秘性ゆえに、猫の敵となる犬を忌むと説明されているが、猫の神秘性を持ち出す以前に犬を忌む戒めがあった。
>かつて島を葬地とした慣習があり、犬が葬地と人里を行き来するため、死の穢れに触れる犬を島に入れるのを忌み嫌ったのだろうと柳田は解釈している。

>たとえば宮崎県石巻市の田代島では、「犬を牽いて渡ってはならぬという戒めが前にあって、その理由がやや不明になってのちに、犬を敵とするものが島に入る、
>それは猫だという説が起こり、その猫には違反を罰するだけの、恐るべき威力があるように考えた」。
>しかし、田代島を猫の島とする以前には、島を葬地とする歴史があった。「島を開きにあとから入った人々」は島を葬地とした慣習を知らず、
>ただ犬をつれて行ってはいけないという戒めだけが伝えられて、その理由が猫に求められるようになったというのである。
>田代島の開拓前史に、島を葬地とする民俗事例があったかどうかはわからない。私は民俗として捉えられないだろうと考えている。
>ただ、柳田の『猫の島』の中で、田代島以外で犬をつれて行ってはならない島としてあげられている他の2例が2例とも、
>近代以降に移住開拓される無人島である点は興味深い。それは式根島(東京都伊豆七島)と大黒神島(広島県江田島市)である。

>柳田があげている式根島の例を見てみよう。
>式根島は「今(昭和14年ごろ)から45年前までは、まったくの無人島であった」。(式根島は明治20年代以降の移住により形成された移住開拓島である)
>無人島であったころには、「わずかな畠地があって隣の島から、ときどき耕作や木草を刈りに渡るだけだった」。
>式根島でも「猫が住んでいるために犬の行くことを忌む」と説明されていた。
>柳田は、「人家がないのに猫のいるのも怪しく、それに遠慮して犬を連れ込まぬというのはなおさら合点がいかない」として、
>「犬を嫌うという方が元で、その理由を知る者が少なくなった結果、新たにこんな単純な想像が生まれたのかもと考えられる」と解釈している。


※本文と画像は無関係です。

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111 2014/06/22(日) 13:39:24 ID:5kWaFLw7Xk
     なぜ特定の島では犬を飼ってはいけないのか? 続き2

>式根島は無人島で、隣の新島から耕作や木草を刈りに渡ってきていた。そのころに、島で犬を連れていってはならないというのは、
>かつてその島が葬地であったからでも、犬が猫の敵だからでもない、と私は考えている。
>犬を連れていってはならないというのは、それが特別な意思表明の行為だったからである。新島の共有地である無人島で犬を飼うということは、
>島の土地の占有、あるいは移住定着の意思の表明であったのではないか。
>その土地や島を共同管理する村では移住が認められたときに犬を連れていってもよかったのであろう。
>だから、むやみに犬を共有地である無人島へ連れていってはならなかったのである。

>塚本学(※日本近世史を専門とする歴史学者。国立歴史民俗博物館名誉教授)の研究によると、江戸時代、犬を飼うことを禁止する村の申し合わせがあり、
>その理由には、狂犬病の流行に対する措置、犬が畑を荒らすことに対する防御、倹約の3つがあげられる。
>第3の理由を見ると、犬を飼うというのは経済的に余裕のある人の行為である。その行為を禁止するというのは単純にいえば倹約のためであるが、
>倹約を禁止する根底には「ある社会のなかで一般のメンバーに対する優越者の地位を顕示する動きをおさえる役割をもつものであった」と、塚本は捉えている。
>また、犬を飼うというのは一種の武力行使でもある。
>「犬を飼うことによって、一般村民とはちがった、一般村民に対してなんらかの力を奮おうとする者が出現することへの警戒が、この規定を生んだ」のであり、
>「村中の申し合わせとして犬飼育をおさえるのは、村内特定家の武力独占を排除するという意味で、つきつめて言えば小農自立傾向と相応ずる面をもつかにも
>見えるのである」とまとめている。

>村の特定の家が犬を飼うということに、野獣や盗賊に対する番犬としての役割だけでなく、その奥に、経済力や武力の顕示と支配関係の創出が捉えられる。
>犬を飼うということに権利や支配の示威行為を見出したのは塚本の卓見である。
>犬を飼うことは他者に対する何らかの示威行為である。それでは、近代の移住開拓島ではどのような示威行為になるのであろうか。
>移住開拓島の飼い犬はワタクシ(私有)の象徴である。移住開拓島に犬を連れていくというのは移住定着と土地占有の意思を表している。
>ゆえに、むやみに犬を連れ込むことは禁止されるのである。村の共有地になっているような島へ渡るときには土地占有の示威行為となるため、
>犬の持ち込みは禁止されたのである。


移住開拓島の民俗学ノート(一) 野地恒有 
http://repository.aichi-edu.ac.jp/dspace/bitstream/10424/3650/1/...

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112 2014/06/29(日) 08:45:57 ID:4qfD/LvSRk
113 2014/06/29(日) 08:49:49 ID:ldjZLPw7Rg
阿久根市ホームページ 阿久根市: 市の歴史(七不思議)
http://www.city.akune.kagoshima.jp/rekisi/nana.htm...
鹿児島の自然と食 光礁
http://blog.goo.ne.jp/sizen2_2006/e/0882d4f6dcda5650...

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114 2014/06/29(日) 08:53:02 ID:awrCz3ta6Q
115 2014/06/29(日) 08:58:01 ID:./jhkIKsCY
みんなで楽しもう! 〜琉球沖縄の、先祖から伝わってきたお話〜 奄美・沖縄本島・沖縄先島の伝説より、第91話。大蛇おろち/だいじゃクチフラチャー退治
http://totoro820.ti-da.net/e3251135.htm...

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116 2014/06/29(日) 09:07:40 ID:./jhkIKsCY
愛媛の伝承文化 トカラ列島の七島正月
http://blog.goo.ne.jp/uchikonotemae/e/7632eb9d3251fe...
トカラ列島 小宝島日記 七島正月
http://jijiragi.blog105.fc2.com/blog-entry-674.htm...
第26巻 七島正月とヒチゲー —鹿児島県十島村悪石島—
http://www31.ocn.ne.jp/‾minneiken/sugata_htm/026sugata.htm

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117 2014/06/29(日) 09:15:09 ID:awrCz3ta6Q
     火伏せの神・蛸神を祀った島 能登島(のとじま)

石川県七尾市には七尾湾を塞ぐ形で能登島が佇む。
島は能登島大橋と『ツインブリッジのと』の2つの橋で行き来でき、能登半島のリゾートアイランドとして注目されている。
その能登島町(2004年10月1日合併により七尾市の一部となる)には、クトゥルー神ならぬ蛸神なる守護神を祀り、
『蛸祭』まであるというからちょっとした驚きである。その起源については、『石川縣鹿島郡誌』によると以下のとおり。

昭和3年から数えて、3代ばかり古い時代のことである。
祖母ヶ浦(ばがうら・能登島の1集落)の人々は、もとは内地の梅木谷内なる地域に住んでいた者たちだった。
かの地を引き払って現在地に移住したとき、大事な村の氏神(火結命・ほむすびのみこと)を置き去りにしてきたことを思い出す。
折りしも11月3日の夜、向田地区に住む農家の三郎助が眠っていると、不思議な夢のお告げを受けた。
そのお告げとは、件の氏神が蛸にまたがり、ようやく島の浜に着いたので、おまえに迎えにきてほしいとのこと。
三郎助が早朝浜へ出かけると、たしかに大きな蛸が流れ着いてうねくっており、頭にご神体を乗せているではないか。
さっそく彼は蛸を海に逃がし、ご神体を家で祀った。
言い伝えでは、氏神が土間のかまどの手洗い場を使ったことにより、三郎助の子孫の中屋家では、かまどで火を焚く男に限り、
ふんどしで腹を温めるなどの不作法は禁じ戒めるという。

のちに祠を建て、氏神をあらためて祀り、毎年11月3日を祭日とした。また10月17日は蛸の飯と称して神職の者が大きな握り飯を作って中屋家に送り、
中屋家ではこれを近隣に分け与える習わしが続けられている。また同家においては蛸の捕獲を禁じ、たとえ他家から分けられることがあっても、
主人はこれを食べることは許されないという。
余談であるが向田地区では過去に何度か火災があり、中屋家の隣まで延焼したことがあるが、同家ではかろうじて一度も被害にあったことがない。
これを蛸神の守護のおかげだと口伝され、今ではこの蛸神は向田地区の鎮火守護神として崇められている。


能登島の蛸祭
http://www.geocities.co.jp/CollegeLife-Labo/6989/TaccoFes...
能登の民話伝説(中能登地区-No.4)
http://www.geocities.co.jp/HeartLand-Ayame/5161/LegendsIn...
FAAVO石川 語り部 in 能登島
https://faavo.jp/ishikawa/report/183/63...
YAHOO知恵袋 アメリカンはなぜタコがキライなんですか?
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1211474723...
食のタブーwikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A3%9F%E3%81%AE%E3%82%...

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118 2014/07/12(土) 23:50:45 ID:FQy2ycAIYs
119 2014/07/13(日) 07:46:30 ID:gVib.r06yE
     イカ寄せの伝説が残された島 西ノ島

島根県は隠岐諸島のうち、西側の有人3島及び周辺の無人島により構成された群島を島前(どうぜん)といい、
東側の主島を島後(どうご)と呼ぶことから、対をなしている。 
隠岐は遠流(おんる)の島として有名で、元弘2(1332)年、鎌倉幕府打倒計画が失敗し、捕らえられた事件『元弘の変』の際、
後醍醐天皇が西ノ島に流されるも、翌年に島を抜け出し、鎌倉幕府倒幕に成功。別府港の近くには同天皇を祭る黒木神社や資料館・碧風館がある。
どうでもよいことだが、女優・田中美佐子の故郷だそうだ。

また浦郷地区にある由良湾は、昔から冬になると何万とも知れぬスルメイカの大群が押し寄せることから、『イカ寄せの浜』と呼ばれている。
そこにはイカ寄せの伝説なる話まで残されており、なかなか興味をソソられる。
湾に面した由良姫神社の祭神・由良姫様が、その昔、オケに乗り日本海を渡って隠岐に向かう道中であった。
海中から1匹の雄イカが腕をするすると伸ばし、姫様の脚に絡みつきイタズラをした。イカの大将はそのイカを罰し、姫様に詫びを入れて許してもらったという。
以来、毎年この浜へ、イカの群れが謝罪のために集まってくるため、手づかみで捕れるんだとか。全国的に見ても類を見ない、イカにまつわる伝説である。
そもそも、なぜこのような現象が起こるのか。昭和35年ごろに発表された水産研究所の調査結果、単なるイカの交接行動であることが判明。
時として伝説はこのような肩透かしのオチにとどまる……。

イカが押し寄せるのは暖かい穏やかな夜だが、いつイカがやってくるかわからないため、島民は浜に30軒もの番小屋を建てて待ちかまえたらしい。
西ノ島の町誌『西ノ島今昔』によると、『12月から1月にかけて南風の良い凪で片月夜の晩にはよく押し寄せるので「今夜は来るぞ!」とおおよその見当はついた。
こんな晩には浜辺の小屋に数10人が陣取り、また赤ノ江方面からは多いときは30隻ほどの船が湾内を埋め、源平合戦さながらの様相で海と陸からイカを待ち受けた』と、
当時の様子が記されている。
そしてイカの大群がやってくるや、燃やしていた焚火を消し、『イカすくいカゴ』を使って、海中に飛び込んですくい上げたとのこと。
昭和初期から昭和40年代前半にかけては、すくい上げたイカで大もうけして『イカ御殿』を建てた者もいたほど。
とはいえこの大量イカの到来も、昭和40年代後半になると、ほぼ見られなくなる。
最近では平成4年に約1,000匹の群れが押し寄せたという記録がある。それが20年ぶりのことで、今後いつくるのか、島民は首を長くして待っているという。


隠岐広域観光情報提供サイト e-oki.net shimane,JAPAN 由良比女神社(ゆらひめじんじゃ)
http://www.e-oki.net/KankoDetail.aspx?id=1...
島根県 イカ寄せの浜
http://www.pref.shimane.lg.jp/industry/suisan/shinkou/umi_sa...

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120 2014/07/20(日) 17:19:56 ID:AgUPEsJBV6
     責任を感じた姥が必死の追跡をするも力尽き……。 姥島(うばしま)

神奈川県茅ヶ崎市の沖合1.6kmのところに広がる大小30個もの岩礁をひっくるめて姥島と呼ぶ。
東西約600m、南北約400mにわたる岩礁群で形成され、なかでもそそり最大の岩礁は高さ14mにも及び、
烏帽子の形をしていることから烏帽子岩と称されている。
昔から絶好の漁場として知られ、茅ヶ崎漁港から渡船で釣りに行くことができる。
その後、太平洋戦争が始まると、辻堂から茅ヶ崎の海岸は米軍による本土攻略の主上陸地点の候補地となった。
終戦を迎えると、海岸沿いの土地は接収。米軍演習場となる。そして朝鮮戦争や日本が東側諸国に占領された場合の奪還を想定し、
上陸作戦の訓練が行われた。

それはともかく、姥島にはこんな伝説が残されている。
昔、鎌倉長谷堂に住む長者に1人娘がいた。ある日、にわかに空が曇ったかと思うと一陣の突風とともに、3mを超える大鷲が飛来。
巨大な爪で娘をさらってしまった……。
娘の姥は責任を感じ、死に物狂いで行方を捜した。その末、沖の岩礁の上で大鷲が娘を寝かせているのを発見する。
姥はこれを救わんと海に飛び込み、岩礁まで泳ごうと努力するも力尽き、波間に姿を消してしまう。それ以来、この島を姥島と呼ぶようになった。
今昔物語に酷似した挿話があり、なんらかの形で伝播したのであろう。


姥島物語り
http://homepage2.nifty.com/_akiyama_/yamada/ebosi-2/monog...
湘南散策
http://members.jcom.home.ne.jp/yoh-suzuki/index.htm...
茅ヶ崎市公式ホームページ えぼし岩あれこれ
http://www.city.chigasaki.kanagawa.jp/kankou/koen/003929.htm...
はまれぽ.com
http://hamarepo.com/story.php?page_no=1&story_id=8...

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122 2014/07/20(日) 17:35:12 ID:AgUPEsJBV6
     佐波賀(さばか)集落を上下に分けるに至った大蛇伝説 蛇島(じゃじま)

京都の舞鶴港といえば、関西の北の玄関口として、また軍港色の強い港として栄えた。
とりわけ東港は明治期より日本海軍の重要港湾としての地位を確立。日露戦争の日本海における海戦時には多くの軍艦がここから出航した。
今回紹介する蛇島はその舞鶴湾の中央部に位置し、鬱蒼たる樹林で覆われ、周囲585m、標高40mの無人島である。
ちなみに蛇島の隣りには仲良く烏島が寄り添っている(※蛇島といえば、>>17の長崎県佐世保市のソレも同名であった)。
島には天正年間(1573〜1592)に若狭の武将逸見駿河守(へんみするがのかみ)の居城が設けられ、『ヘンミ』が『へビ(蛇)』と変遷し、
さらに『ジャ』と発音させてこの島名になったと、『丹後旧語集』に記されている。

蛇島と冠されるならば、大蛇伝説があって然るべきである。案の定、『舞鶴市史』『舞鶴の民話1』には、こんな話が伝えられている。
昔、佐波賀集落が子ナギと呼ばれる谷あいにあった時代のこと。
いつのころからか、港の無人島に大蛇が居ついてからというもの、夜な夜な海を渡ってきては集落を襲い、村人たちを苦しめていた。
困り果てた村人たちは、なんとか被害を食い止めようと額を寄せ合い、知恵をしぼった。
その結果、対岸にある余部(あまるべ)村の雲門寺の和尚・開山普明国師に意見を仰ごうということになった。

和尚いわく、「……ならば谷を境に、村を上下に分けて住むがよろしい。蛇めは日のささぬ谷間を好む習性がある。
子ナギにおびき寄せ、入ったところをとっちめてやるとするか」と、重い腰をあげて、さっそく準備にとりかかった。
ある夜、大蛇が巨体をくねらせて子ナギの村へ侵入したはいいが、そこは完全に無人と化している。大蛇が好む食料とてありはしない。
あきらめて島に帰ろうと身体をひねったら、退路を断つ形で和尚が立ち塞がっている。
「そなたの悪行ここまでじゃ。さんざん村人を苦しめたからには、ちと灸を据えねばなるまい」と言うと、錫杖を振るって大蛇の胴体を打った。
さすがの大蛇も参り、すごすごと退散していった。
「これで懲りてくれればよいが……」と、和尚は島へ去り行く大蛇を見ながら言った。

こんな事件があってから、大蛇は姿を現さなくなり、現在の『上佐波賀』『下佐波賀』に至り、大蛇が棲んでいた島を蛇島と呼ぶようになった。
一説によると、大蛇は雄島(福井県)へ逃げたともいわれる。


丹後の伝説27
http://www.geocities.jp/k_saito_site/bunkn27.htm...
丹後の地名資料編 佐波賀(さばか)京都府舞鶴市佐波賀
http://www.geocities.jp/k_saito_site/doc/tango/sabaka....
丹後の地名資料編 蛇島(じゃじま)京都府舞鶴市佐波賀
http://www.geocities.jp/k_saito_site/doc/tango/jyasima...
舞鶴市民新聞社の運営する舞鶴市近郊ローカルニュースサイトWeb みなと舞鶴  NO.86「蛇島」と「烏島」
http://www.maipress.co.jp/menu/rensai/86.htm...

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123 2014/07/27(日) 14:16:23 ID:0URx9C/Q6c
     猪頭を供え奉納する銀鏡神楽(しろみかぐら) 宮崎県西都市銀鏡 1

久々に村ネタを投入。くり返し念を押すが、学術的に興味深い風習や奇祭が継承されるソレをピックアップする。
宮崎県西都市には『銀鏡』と書いて、『しろみ』と読ませる山間部の集落がある。西都原(さいとばる)古墳で知られる西都市の中心地から、
さらに車で1時間ほど米良山に分け入り、一ツ瀬川の支流の銀鏡川と登内川の合流点に位置する。
集落には銀鏡神社があり、ここでは西之宮大明神(懐良親王・主神)などを祭る銀鏡神社例大祭が毎年12月12日から16日にかけて執り行われ、
なかでも最大の見物である『銀鏡神楽』が14日夜から15日の午前中にかけて、33番が夜を徹して舞われるのだ。
宮崎は神楽がいまだに盛んな土地柄で、350ヵ所余りも催される場所があるそうだ。県内の神楽をくまなく見て回ろうとしたら、
なんと50年はかかるとも言われる。
神楽といえば高千穂神楽や椎葉神楽が有名だが、銀鏡神楽では狩猟文化を今に伝えるとして、神社の境内に設けられた神屋(こうや)と呼ばれる祭壇に
地元猟師が奉納した猪の生首(!)を供えることで知られているのだ。
他の神楽が一般受けを狙って変遷していくなか、伝統を失うことは過疎地で『精神の過疎化』を生むとして神屋の飾りつけや、
神楽における足の運び方1つにも頑なに伝統を貫いており、1977年5月17日、国の重要無形民俗文化財に指定されたほど優れた催しなのだ。

神楽の終盤には猪と山の神の遊びであり、古風な狩りの所作事『シシとぎり』などの演目が披露される。
また最終日である16日の朝、集落の中心を流れる銀鏡川の中州に鎮座する神石の前で、1年間に獲った鳥獣の霊を祀り送る『シシバ祭り』が行われる。
奉納された猪頭を火で焼き、左耳を7切りにして竹串にさして供えるという。これはその年の作物の収穫祭であるとともに、冬の狩りの始まりを告げる意味がある。
例祭の幟旗には菊の御紋が描かれているのは、南北朝時代、肥後の豪族の菊池氏は南朝方に頼られるも敗れて一門は散り散りになった際、
菊池一族の誰かが銀鏡に逃れ、姓を変えて潜んだらしく、その南朝方と菊池氏を象徴するものなのだ。
銀鏡神楽は優雅な京の舞と、イワナガヒメの日向神話にまつわる土着の舞が融合して発達したとされる。
祭壇に供えられた猪頭は、神楽が終わるまでに解体され、その肉はシシズーシー(猪雑炊)として見物客にも振舞われる。
猪は田畑を荒らす害獣だが、一方で山の民にとって貴重なタンパク源でもあった。銀鏡神楽の本来の目的は山の幸を恵んでくれる山の神に
畏敬の念をもって舞い奉納し、さらなる恵みを願うというわけである。

この奉納される猪頭は、決して生贄という位置づけではなく、『御神格』という意味なのだ。
神道における例祭では時として、この平成の世ですら血なまぐさいものが現存する。銀鏡神社の場合、数十頭にも及ぶ猪頭が血を滴らせ供えられている光景は、
かなりインパクトがあり、現代人なら暴力的で野蛮ともとれるかもしれない。
なにも銀鏡だけが特別ではない。千葉の香取神社で行われる大饗祭には、聖護院大根の上に鴨を飛び立つ姿に飾りつけた『鴨羽盛(かもはもり)』が供えられる。
下準備は神職たちが手を血で染めながら鴨を解体するのだが、骨を砕く際のバキバキッという音が部屋に響きわたるほど。
または信州諏訪上社の前宮では、毎年4月15日に『御頭祭(おんとうさい)』という神事がある。
今でこそ剥製の鹿頭を用いているが、かつては祭殿に各地から奉納された75頭もの鹿の生首がズラリと並べられたのだ。
詳細は下記サイトで。

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124 2014/07/27(日) 14:22:27 ID:fBYZc5SqZA
     猪頭を供え奉納する銀鏡神楽(しろみかぐら) 宮崎県西都市銀鏡 2


元気な集落づくりみやざき 銀鏡(しろみ)・上揚(かみあげ)地区
http://www.chusankan.net/genki/saito...
宮崎の神楽2 米良神楽(銀鏡神楽・しろみかぐら)の写真 
http://kagura2.hujibakama.com/siromi...
独立行政法人 日本芸術文化振興会 平成23年6月民俗芸能公演「銀鏡神楽」現地レポート
http://www.ntj.jac.go.jp/member/pertopics/eve110331_2.h...
アジア基層文化研究会 - The reports of Asian Basic Culture 銀鏡神楽
http://www.flet.keio.ac.jp/‾shnomura/siromi/siromi0.htm
インターネット空想の森美術館 森の空想ミュージアム/九州民俗仮美術館 宮崎の神楽を語る
http://www2.ocn.ne.jp/‾yufuin/kagurakou.html
浜砂伴海の《伴海日記》 銀鏡神楽
http://blog.goo.ne.jp/tokyoctv/c/e8edcb60ec697e41f13...
浜砂伴海の《伴海日記》 宮崎(2012/04/16)宿神三宝稲荷神社
http://blog.goo.ne.jp/tokyoctv/e/b7771e2172ab6e05399...
宮崎の神楽 宮崎県に伝承される神楽(一部を掲載)
http://www.pmiyazaki.com/db/kagura.ht...
イワナガヒメwikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%83%AF%E3%83%...
民族学伝承ひろいあげ辞典 鴨羽盛・舞鶴の捌き
http://blogs.yahoo.co.jp/kawakatu_1205/53335540.htm...
諏訪大社と諏訪神社 御頭祭(酉の祭)
http://yatsu-genjin.jp/suwataisya/sinji/ontou.ht...

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125 2014/09/20(土) 08:37:17 ID:N82jvpBh0o
「もののけ姫」の関連テーマを考える 「業病」ことハンセン病について 
http://www.asahi-net.or.jp/‾hn7y-mur/mononoke/monolink04.htm#book1
「緑」がつく地名は危険?地名に隠された自然災害の危険性
http://matome.naver.jp/odai/213320531025766540...
坂本馨の組長と呼ばれる愛隣保育園長 本当は怖い無人島の話・・・血塚島
http://blog.livedoor.jp/airin5/archives/66156150.htm...

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126 2014/09/20(土) 09:00:03 ID:N82jvpBh0o
127 2014/09/20(土) 10:37:38 ID:N82jvpBh0o
     伊豆諸島の大蛇伝説はヤマタノオロチ伝説に酷似 三宅島

三宅島は、近年ではおよそ20年おきの火山噴火により、島民は避難したり、帰島したりと忙しない生活を強いられている。
平成12(2000)年、7月の噴火では全島民が避難してから、平成17年2月1日に帰島できるまでの4年半の間、
関係者以外立ち入ることのできない無人の島になっていたが、現在ではなんとか観光客も自由に出入りできるようになった。
しかしながら依然として雄山では火山ガスの放出が続いており、入島時はガスマスクの携帯が義務づけられているほど。

そんな三宅島にもヤマタノオロチ伝説にも酷似した大蛇伝説が語り継がれていた。それがこんなお話。
昔、箱根の芦ノ湖の畔に年老いた漁夫が住んでいた。この漁夫には3人の娘がおり、ある日、あまりに不漁だったので、
ほんの戯言のつもりで、大漁にしてくれたら娘を1人くれてやってもよい、と独り言を呟いてしまう。
それを湖底のヌシである大蛇が聞きつけ、姿を現した。戯言とはいえ、大蛇は三女、『佐岐多麻の姫』を嫁にくれるよう約束させる。

約束の日、三女は鳩の姿にかえて富士山頂へ逃げ、ここで事代主命に出会い、事情を話し助けてもらう。
残った2人の娘は大島・三宅島へと飛び、王子や家来を集めさせ、追ってくる大蛇を迎え討つべく、大穴を2つ掘り、そこへ飯と酒で満たした。
さらに火之迦土命に命じて霊剣を鍛えさせ、これを差出命に託し、大蛇の来襲を待った。
泳いでやってきた大蛇に、大穴に満たした飯と酒を勧めると、いやしくも大蛇は大口をあけて飲み食いした挙句、ぐっすり眠ってしまった。
これ幸いと、差出命が霊剣を抜き放つと、大蛇の白い腹を切り裂いてあっさり退治。
大蛇の血が流れたところを『血走りの原』と呼ぶそうだ。また大蛇を3つに分断させた際、尾は大島に飛び、頭は遙か八丈島へ放物線を描いて飛び去った。
それゆえ八丈島にはマムシが多く、大島にはアオダイショウばかりだという。

大蛇討伐後、事代主命がいくら探しても三女を見つけることができなかった。小蛇を恐れてツツジの中に隠れていたのだ。
それで神はこの島のツツジは花を咲かせないように、蛇は棲むな、と命じた。今も三宅島に蛇を持ち込んでも1時間もせずに死んでしまうという言い伝えがある。
三女は現在も佐伎多麻比売として祀られ、ここに霊剣も奉納されている。


三宅村役場
http://www.miyakemura.com/databankrekisi.htm...
龍学 伊豆諸島の竜蛇
http://www.hunterslog.net/dragonology/ryujatan/sagami/iz...
伊豆諸島の大蛇伝説(一) 東京都三宅村
http://www.hunterslog.net/dragonology/S/13381a.htm...

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128 2014/09/20(土) 14:02:00 ID:BYQe5tMlTI
お久しぶりです

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129 2014/09/23(火) 12:37:58 ID:MuuY/PbXCY
>>128
PC壊してしまい、しばらくお休みしてました。さすがにケータイで長文打とうとは思わないw
まあなんにせよ、すでにネタ切れのままダラダラ続けているだけですから、あんまり期待しないでください。


     またしても置き去り伝説・玉姫の受難 母島(もしま)のそばの姫島

高知県宿毛市沖の島町母島は宿毛湾の入り口、太平洋上の沖の島の北部に位置する有人島である。
標高404mの妹背山(いもせやま)を中心に、高い山並が海岸線まで迫り、数百年に及ぶ大事業によって積まれた石段の上に民家がひしめいている。
その景観は2009年に鵜来島(>>65を参照)とともに『石垣・石段とともにある暮らし』で『島の宝100景』に選出されている。
集落は北側の母島地区と、南側の弘瀬地区を中心に古屋野、谷尻、久保浦などの小集落が点在。

その母島には元久2(1205)年に鎌倉から訪れた山伏が住み着いたという伝説や、弘瀬には咎(とが)を受け鎌倉を追放された三浦則久一族が
この島に移り住んだという話が伝わっている。
集落の上にはコンクリ製の建造物が建てられており、道路の下に大穴があいている。これは太平洋戦争末期に開発された人間魚雷・回天基地の遺構らしい。
それとは別に、母島にはまたしても置き去り伝説が残されていた。すでに辟易ぎみだが、いっそのこと、コンプリートを目指そう。

その昔、母島の男が京にのぼって暮らすうち、高貴な出の姫君と深い仲になった。姫の名を玉姫といい、まるで輝く珠のように美しい娘だった。
あるとき、男は母島へ帰らねばならなくなった。玉姫との別れが惜しく一緒に帰ることにしたのだが、ご多分に漏れず男には郷里に妻も子もいた。
えげつないことに、男は船が母島の近くまできたとき、その事実を打ち明けた。玉姫がヒステリーに駆られるのは必定。
男は平謝りし、なんとか宥め、すぐに迎えにくるからと言いくるめて、むごいことにシクシク泣く姫を、母島より沖にある名もなき無人島に置き去りにして、
自分だけ帰ってしまった。

男が母島に帰ってみると、妻や親族につかまり離してくれない。約束どおり、早く玉姫を救いたいのはヤマヤマなのだが、日は3、4日とすぎてしまう。
やっとのことで玉姫の待つ無人島へ船を走らせたのだが、時すでにお寿司。
玉姫は荒磯の上で、孤独死していた。その磯から母島は目と鼻の先なのに、思いが届くには遠すぎた。
島民は姫を哀れに思い、姫の名を冠してこの島を『姫島』と呼ぶようになった。


宿毛市沖ノ島町母島の町並み 沖ノ島町母島
http://matinami.o.oo7.jp/sikoku/sukumo-okinosima-mosima...
田舎旅゛イナ旅゛ライフスタイル day 50.4 高知県 鎌倉とつながっている石造りの『沖の島』
http://iku203.blogspot.jp/2010/12/day-504.htm...
沖の島 母島(もしま)
http://outdoor.geocities.jp/ksjjr840/okinosima-mosima.htm...
宿毛市 宿毛歴史館/宿毛の民話 恋に死した玉姫
http://www.city.sukumo.kochi.jp/sbc/history/minnwa/m021.htm...

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130 2014/09/28(日) 11:21:13 ID:4JAMv5c/K6
三宅村指定有形文化財(絵画・彫刻・工芸品)御笏神社御刀
http://okachan.blue.coocan.jp/bunkazai/0121/0121.htm...
東京都指定無形民俗文化財(民俗芸能) 御祭神社の神事
http://okachan.blue.coocan.jp/bunkazai/0126/0126.htm...
伊豆諸島の大蛇伝説(二)東京都三宅村坪田
http://www.hunterslog.net/dragonology/S/13381b.htm...

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131 2014/09/28(日) 11:52:39 ID:4JAMv5c/K6
やまちゃネット サザエ観光案内所でごさいま〜す! サザエさんオープニング訪問地紹介(鹿児島県・後編)
http://www.yamachanet.jp/kagoshima2.htm...

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132 2014/09/28(日) 12:00:23 ID:4JAMv5c/K6
     谷間でうごめく亡者 倉橋島

広島県呉市の倉橋島は、瀬戸内海の芸予諸島に属する島の1つ。
音戸大橋は本州と、早瀬大橋は江田島市、そして鹿島大橋は鹿島と行き来できるが、これは車での交通ルートとして利用される。
徒歩で渡るには、海峡の渡船を利用するのが好ましい。音戸渡船は航路がわずか100mほどしかないことから、
『日本一短い定期船』というキャッチフレーズで、毎朝5時半から夜の9時まで随時運航している。
また古来より造船が盛んな土地柄で、とりわけ倉橋島には多くの船大工がいたとされ、この島で遣唐使船が造られた可能性が高いという。
話変わるが、倉橋島には不気味な民話が語り継がれている。それがこんな話だったりして……。

昔、渡子島(とのこじま)の村はずれの丘には、粗末なお寺があり、年老いた和尚が管理していた。
寺の裏手は竹藪が茂って急な谷間となり、わずかながら水が流れていた。
谷間の間には細い坂道が続いており、夜半、村人が通ると決まって、「ギャギャッ!」と、人や獣ともつかぬ声が聞こえたものだ。
それゆえ村人は気味悪がって、その道を避けるようになった。

ある朝、寺での説教が済んだあと、村の者が、このことを和尚に告げた。あの調子では、谷間を通るのも怖くてかなわない。
和尚は思うところがあり、亡くなった人たちの供養になればと、長い経を唱えるのを日課とした。
月日が経って、雷が轟き大雨が降りしきるある夜。裏の谷間ではたいへんな騒ぎとなっていた。
あばら骨がむき出し、骸骨のように痩せ細った裸の人間たちが、ひしめきながら何かを食いあさり、耳を覆いたくなるような奇声をあげていた。
これは寺の人が食べ残した飯粒が谷間に流れ出たのを、我先にと争って拾いおうとしている餓鬼の姿だったのだ。

ところが餓鬼が食べ物に手をつけようとすると、たちまち炎がついて燃えあがり、うかつに手が出せない。
飢えて、食べたくても口にすることができない、あさましい者たちの悶々たる悲鳴であった。
たちまち寝床から飛び起きた和尚であったが、外を見れば、そんなおぞましい光景はない。なんてことはない、和尚の悪夢だったのだ。
和尚はこの夢に、意味があるのではないか、と考えてみた。
人が生きていくには、動植物の命をいただいているからであり、それによって生かされているのだ。
にもかかわらず、食べ物を残したり、粗末にしては、ろくに感謝もしないから、亡くなるとああして餓鬼道に堕ちて、苦しんでいる者がいるに違いない。

和尚は熱心に供養するよう努めた。法話の中でも、我々の口に入るもののありがたさを強調し、日々感謝の念を忘れないよう、村人に説いた。
やがて谷間にこだまする餓鬼のうめき声も聞こえなくなったという。


JR西日本Blue Signal 西日本の万葉の旅 海の廊下を渡る
https://www.westjr.co.jp/company/issue/bsignal/10_vol_1...
呉の民話 谷間の声
http://homepage2.nifty.com/buchaneko/kure/minwa/taninokoe...

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133 2014/10/05(日) 10:51:53 ID:GTSrn39I1M
徳之島伝説めぐり
http://www16.ocn.ne.jp/‾shiokaze/index.html

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134 2014/10/05(日) 10:56:44 ID:GTSrn39I1M
「石見畳ヶ浦」の犬島・猫島・穴観音の景観
http://blog.goo.ne.jp/tako_888k/e/11f479a9cc89067f11...

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135 2014/10/05(日) 11:02:40 ID:GTSrn39I1M
     六部が追いつめられ斬り殺されて転落した穴 紀伊大島

前スレ>>225にて、和歌山県は串本町の橋杭岩を取り上げた。
その沖合約1.8kmの海上には、面積およそ9.68km2、周囲28kmを誇る和歌山最大の島、紀伊大島(地元の人は単に大島と呼ぶ)があり、
土日ともなれば釣りやダイビングで賑わうことで有名だ。人口は約2,000人。和歌山で唯一の離島振興対策実施地域に指定されている。
また、世界初のクロマグロの完全養殖に成功した近畿大学の養殖実験所があることでも一躍有名になった。

その紀伊大島須江地区の海岸の森の中には、『地獄のガバ(釜)』なる巨大な縦穴がぽっかり口を開けているのだ。
上部口の直径約70m、深さ約40mにも及び、火成岩からなる海食洞窟の天井が崩落したものと考えられており、底部は海と繋がっているため、
満潮時や高波のときには海水が入ってくるようだ。
ここでは昔、どんな理由があってか定かでないが、六部(六十六カ国の霊場にお経を納めて廻る行者)が2人の武士に追いかけられ、
このガバの淵まで追いつめられて斬り殺された挙句、穴の底に転落したという悲惨な伝説が残されている。


きのくに風景讃歌 地獄のガバ
http://www.kinokuni-sanka.jp/modules/landscape/index.php?li...
『ほっと!和歌山県』 〜和歌山県広報リレーブログ〜 ジオパーク目指して、『地獄の釜』の大掃除【串本町】 
http://wakayamapr.ikora.tv/e966172.htm...

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136 2014/10/05(日) 11:07:16 ID:GTSrn39I1M
     隠れキリシタンの処刑の島にして聖地 中江ノ島

長崎県平戸市に属する中江ノ島は、平戸島北西岸の沖合2kmに浮かぶちっぽけな無人島だ。
中江ノ島では禁教時代初期に平戸藩によるキリシタン処刑が行われた記録があり、また現在の生月の隠れキリシタンにとって
聖水を採取する『お水取り』の聖地として『サンジュワン様』などと形容されている。

慶長18(1613)年、徳川幕府が全国に禁教令を出し、翌年キリシタンは国外追放となるが、その後何人もの宣教師が国内への潜入と布教を開始。 
カミロ・コンスタンツォ神父もその1人で、元和8(1622)年に平戸・生月で布教を行ったのち、五島に渡ったところで五島藩の役人に捕らえられ、
9月15日、平戸瀬戸に面した田平側の岬で火あぶりの刑に処された。
神父は柱に縛りつけられながらも日本語、ポルトガル語、フランドル語で説教し、火がつけられても説教をやめず、聖歌を唄いながら絶命。 
このカミロ神父の布教に協力した多くの信徒も処刑されたが、その多くは生月出身者だった。

神父を泊めたヨハネ坂本左衛門と、船を用意したダミヤン出口は、翌年5月27日にこの中江ノ島で処刑されたが、
ダミヤンなど船中で漕ぎ手を手伝い、賛美歌を唄いながら櫓を漕いだという。
また6月3日には船頭で堺目出身のヨアキム川窪庫兵衛が、6月8日にはヨハネ次郎右衛門が同島で処刑された。
次郎右衛門は棄教の印に異教の札を呑むことを拒み、中江ノ島に渡る船の中で「ここから天国は、そう遠くない」と発言した。 

さらに寛永元(1624)年3月5日には、ダミヤン出口とヨハネ坂本の家族たちが、中江ノ島の『地獄』という場所で殺されたが、
坂本の年長の子供たち3人は一緒に昇天できるよう、俵につめられた状態で縛ってもらい、首に袋を被せられて海に投げ込まれた。
隠れキリシタン信仰の中でも中江ノ島は、上述した『サンジュワン様』の他に、『お中江様』『お迎え様』『御三体様』と呼ばれ、
御神体に匹敵する最高の信仰対象とされ、聖水を取る『お水取り』の行事が行われている。 
島の断崖には岩の割れ目があり、オラショを唱えると、乾燥したときでも水が染み出てくるとされている。それを聖水として使うわけである。

平戸市生月町博物館『島の館』の資料によれば、昭和初期、『黒瀬の辻』と呼ばれる丘の上に 『ガルパス様の松』なる大松が生えていたという。
その根元には古い積石墓があり、これこそガスパル様の墓と言われ、隠れキリシタンにとって特別な場所となっていた。
松は戦後の松枯れで倒れたが、信徒はそれを材料に十字架を作り配布。『黒瀬』は十字架、クルスの訛りからきており、
かつてそこには大十字架が立っていたことから由来するのではないか、とする説もある。


長崎から世界遺産を 長崎の教会群とキリスト教関連遺産 長崎のキリスト教の歴史
https://www.pref.nagasaki.jp/s_isan/outline/02.htm...
74. 生月島と平戸の観光
http://www.asahi-net.or.jp/‾rk7j-kndu/bijutu/bi74.html
「知られざるキリシタン王国、光と影。」 第8話 聖地として語り継がれた地
http://christian-nagasaki.jp/stories/8.htm...
オセンタルカの太陽帝国 『さん・じゅあん様の歌』『だんじく様の歌』。
http://blog.goo.ne.jp/ryuzojiryuzoji/e/95c30f10d87a9...

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137 2014/10/06(月) 19:38:45 ID:DtlUIHcOyE
     泥神、現代のクレーマーに怯える 宮古島 

>宮古島の国の重要無形民俗文化財「パーントゥ」が、クレームに悩まされている。
>厄払いの意味を込め、仮面を着けた神様が人々に容赦なく泥を塗る伝統的な手法が、その意味合いを知らない観光客に受け入れられず、
>不幸な衝突が生まれている。

>■「汚された」と苦情・暴行も
>3、4日の夕方、宮古島の平良島尻地区。仮面を着けた青年3人が扮(ふん)するパーントゥが現れた。
>ツル草を巻き付けた体は泥まみれで、鼻を突く異臭が漂う。逃げ惑う人々を追い回し泥を塗るたび、悲鳴が上がる。
>改装したての住宅や乗用車内にも荒々しく上がり込んだ。
>「怒る人はおらんよ。ちゃんと厄よけして、健康を願ってくれてるんだから」集落のお年寄りの男性は誇らしげに言う。
>地元の住民は泥をつけられても笑顔。「ありがとう」と声を掛け、お酒やおすしを振る舞う姿も見られた。

>一方、花柄のワンピースとカメラを泥だらけにされた観光客の若い女性は「ここまでとは思わなかった」とショックを受けた様子。
>近くにいた中年の男性も泥を塗られ、「本気で怒っている」と不満げだった。
>関係者によると近年、観光客から苦情が寄せられ、対応に苦慮しているという。「服を汚された」「抱きつかれた」といった女性のクレームに加え、
>数年前には、怒った男性にパーントゥが暴行される事態になった。「中止も検討した」と、地元の男性は語る。

>トラブルを防ぐため、パーントゥの周囲には複数の付添人を配置。不勉強な観光客が大挙して押し掛けないよう開催日を直前まで知らせない工夫もした。
>島の観光資源としてアピールしてきた宮古島観光協会も地元の意向を受け、大々的に宣伝するのを控えている。
>ホームページ上には日程を載せず、直接問い合わせがあった場合のみ伝える対応に変えた。
>担当者は「必ず汚れてもいい服で来てください、と念を押しています」と話す。

>■「神様尊重して」須藤沖大教授
>パーントゥに類似した行事は全国にある。鬼のような仮面を着け荒々しい言動で集落を練り歩く秋田県の「ナマハゲ」(国指定重要無形民俗文化財)も、
>観光客への対応に苦慮している。
>「泣く子はいねがあ」とすごむ姿で知られるが、近年は幼児虐待との批判が絶えない。
>泥酔したナマハゲが2007年、観光客が泊まるホテルの女湯で暴れる事件も起きた。再発を防止するため荒々しさは影を潜め、
>弱々しい言動の『草食系ナマハゲ』が増え、魅力が失われたとの声もある。
>沖縄大学の須藤義人准教授=映像民俗学=は「こうした祭りはお化け屋敷のアトラクションではない。訪れる側は事前に意味合いを調べ、
>地元の人が大切にする神様として尊重する必要がある。迎える側はパンフレットに明記するなどの注意喚起をしてほしい」と指摘している。

>[ことば]パーントゥ 災厄を払い福をもたらす3体の神様が旧暦9月初旬に現れる。約30kgのツル草を身につけ、お酒を振る舞われながら、
>数時間も集落内を暴れ回る。数百年前に島尻の浜に恐ろしい形相の仮面が流れ着いたことが起源とされる。1993年に国の重要無形民俗文化財に指定された。


沖縄タイムス 神様も苦悩?泥塗り行事に苦情
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20141005-00000014-okinawa...

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138 2014/10/13(月) 19:11:07 ID:bmOnFiTr.A
初秋の肥前歴史短訪 ⑨隠れキリシタンの馬渡島
http://eritokyo.jp/independent/aoyama-col37019.ht...

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139 2014/10/13(月) 19:26:54 ID:bmOnFiTr.A
     天然痘患者を隔離した悲嘆の島 下馬刀島(しもまてじま) 1

今回はまさに島マニアの探査能力の面目躍如である。まだまだsageるには早すぎるのだ、はにゃ〜ん♪
前スレではハンセン病患者を隔離した香川県の大島や岡山県の長島を扱ったが、驚くべきことに熊本には、
かつて天然痘患者を閉じ込めた孤島があったそうだ。エボラウイルスが懸念されている今日、ちょっとタイムリーなのだ。
天草諸島に属する牛深市深海町にある下馬刀島がソレだ。こう書いて『てもまてじま』と読む。
もしくは『まて島』とも呼んだらしい(地図によって『馬丁島』『的島』と表記名が異なる場合もある)。

『地名の探求・松尾俊郎・(新人物往来社)』によれば、海峡の中間の島に『馬』を当て字にすることは多く、
『まて島』とは『海峡の島』であることが明記され、『馬』は『間』が当てられていることも少なくないのだとか。
島はもと深海本郷地区と下平地区の区有財産であったが、大正12年11月2日、深海村へ寄付。昭和45年4月21日の合併により、現在の所有者は牛深市となった。
本来は無人島であった。そこへ天然痘に罹った者を島流しにしたというのだから、先人は非情なことをしたものだ。
我が国のこういう負の歴史を白日の下にさらしてしまうのは、いかがなものかと時々思うが、島マニアの探求心は遠慮というものを知らない。

そもそも天然痘とはどんな病気か? 
痘瘡(とうそう)ウイルスを病原体とする感染症のことを指し、強い感染力をもち、罹患すれば全身に膿疱(水疱の内容物が膿の集合体)を生じる。
仮に治癒しても醜いあばたを残すことから、世界中で不治の病、悪魔の病気と恐れられてきた。同時に世界初の、撲滅に成功した感染症事例でもある。
爆発的な感染力、高い致死率(諸説があるが40%前後を誇った)のため、時に国や民族が滅ぶ要因となった。
天然痘に罹ればどんな顔面様相になるか、各自で画像検索されるがよい。画像を貼るのも憚られるほどひどいありさまとなる。

もともと痘瘡ウイルスは日本に存在しなかった。6世紀半ば、中国・朝鮮半島からの渡来人の移動が盛んになったときに、日本初の感染者が現れたとされている。
おりしも新羅から弥勒菩薩像が送られ、敏達天皇が仏教の普及を認めた矢先であったため、神道の神を蔑ろにした神罰ではないかという考えが広まり、
仏教を支持していた蘇我氏の影響力が低下したほどであった。皮肉にも585年、敏達天皇本人も天然痘で崩御したのではないかとも言われている。
『日本書紀』(完成は720年)にはこう記されている。「瘡(かさ)発(い)でて死(みまか)る者、身焼かれ、打たれ、砕かるるが如し」とあり、瘡を発し、
激しい苦痛と高熱を伴うという意味で、天然痘の初めての記録と考えられる。また奈良の大仏造営のきっかけの1つがこの天然痘流行であるとされている。
かの伊達政宗が隻眼なのも、幼少期に罹った天然痘のせいで失明したからだ。このように日本の歴史は、至るところに天然痘の暗い影を落としているのだ。

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140 2014/10/13(月) 19:33:09 ID:bmOnFiTr.A
     天然痘患者を隔離した悲嘆の島 下馬刀島(しもまてじま) 2

では下馬刀島の件に戻ろう。
江戸時代になっても、予防や有効な治療法が確立されず、感染の拡大を防ぐには感染者を隔離するしかなかった。
江戸後期である天保年間(1830〜1843)、深海でも天然痘は猛威をふるった。当初は内地の裏山に小屋を作って、
そこに患者を押し込めていたものの、裏山では脱走する恐れがあったので、現在の深海町下平地区から沖合にある周囲2kmの無人島・
下馬刀島を隔離場所と定めた。

島に隔離された患者たちは筵(むしろ)をもらい、自分たちで茅で屋根を葺いた小屋に住み、飯を炊いて食べた。
水がなくなると松葉を焼いて狼煙をあげて合図し、内地から物資を届けてもらって生をつないだ。
米や麦を要求するときは中火で炊き、死人が出たときの知らせも松葉を焼いて狼煙で知らせた。
やがて患者は息も絶え絶えになり、狼煙をあげる気力もなく死んでいくのが常であった。
離れ離れになった家族や、恋人に会いたい思いを募らせながら息を引き取ったことだろう。彼らの病苦の悲嘆は、海を超えて内地まで届いたという。

こんな話がある。
下平村で1人の若い妻が天然痘に罹ってしまった。夫の必死の土下座も聞き入れてもらえるはずもない。子供を生んで間もないというのに……。
村人たちは容赦なく下馬刀島にやれと、夫を責めたてる。たった1人の感染者のために村が滅ぶこともあり得るのだ。
妻は察し、簡単な荷物をまとめると、我が子を夫に託し、衰弱した身体を鞭打って下馬刀島めざして舟を漕いだ。
島の海岸に着くと、内地で飢えて泣いているであろう赤ん坊を思い、舟を押し流した。これで島抜けすることもできない。

一方、夫は泣きじゃくる赤ん坊を抱いたまま、妻の姿を見つけようと舟で島のまわりをグルグル回り続けた。
妻がまだ生きているのなら、腹一杯飯を食べさせてやりたい。我が子に乳を与え、腕に抱かせてやりたいのに……。
内地には地蔵が至るところにあった。夫は寝食を忘れ、願掛けをするが、神仏は答えてくれない。
やがて赤ん坊は乳をもらえなかったので死んだ。夫は己が無力さと、いくらすがったところで救済してくれない神を呪った。

天然痘患者を隔離した悲劇を今に伝えるものとして、『もんつき唄』と呼ばれる労働歌が残されている。
江戸時代のころより、下馬刀島の対岸にあたる下平地区あたりで知られた歌だ。『もんつき』とは『穀物つき』の意味で、米・麦・粟などの主食を
杵でつくときの拍子をとるときに歌われていたもの。穀物を臼と杵でつく様子が思い浮かぶ牧歌的な労働歌ながら、歌詞の中にはこんな一節がある。
「夫(さま)の墓所の馬刀島松が 早うけ早うけと手を招く」(あなたが眠っている馬刀島の松が、早くこっちにおいでよと呼んでいるようだ)
「つるぎ崎から身を投げましょか 夫の墓までひと流れ」(つるぎ崎から身投げして死んでしまおうか。そうすればあなたが眠る島の墓まで行けるのに)

ちなみに民俗学においては、赤色には『魔除け』の意味があるとされ、神社の鳥居や、地蔵の前掛けも同義とされる(諸説あり)。
さらに郷土玩具には、飛騨高山市の『猿ぼぼ』など赤いものが多い。これは子供への疫病除けの願掛けがこめられている。
現在でも還暦の際、赤いちゃんちゃんこや赤い帽子、座布団が使用されるのも同義である。
江戸時代、天然痘よけとして赤い達磨が置かれたという。痘瘡神が嫌いとされる赤を集め、患者も家族も赤をまとい、赤い布団をかぶり、赤い玩具、
赤い達磨、赤い春駒、赤い犬張子、赤飯、赤鯛、赤い幔幕、赤い注連縄、赤い屏風、赤色の多い痘瘡絵などを掲げるという迷信が流布した。
用が済んだら燃やすか、川に流した。この風習の発祥は、神聖ローマ帝国カール5世(16世紀)で、幼少時に罹患したときに、赤い衣類を着、
部屋の装飾品など一切を赤色にし、赤い光で部屋を充たしたところきれいに治ったので、この風習はヨーロッパでも長く残ったという。
沖縄では病人に赤を着せ、痘瘡神を喜ばせるために歌、三味線で、痘瘡神をほめたたえ、病人に付き添ったそうだ。

※画像は猿ぼぼ

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141 2014/10/13(月) 19:37:41 ID:bmOnFiTr.A
     天然痘患者を隔離した悲嘆の島 下馬刀島(しもまてじま) 3

避病院(ひびょういん)wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%81%BF%E7%97%85%E9%99%...
M&M News 天然痘について
http://www.machida2.co.jp/topics/tanso/tennento1.htm...
熊本県 地域発ふるさとの自然と文化 下馬刀島ともんつき唄 天草市
http://www.pref.kumamoto.jp/site/arinomama/shimomate.htm...
どんくのつぶやき
http://www.shinkaigyo.jp/index.htm...
飛騨高山のかたりべばあちやん 飛騨のサルボボ(猿ぼぼ)の話
http://www.geocities.co.jp/HeartLand-Suzuran/2463/saru.ht...
還暦祝い.net 赤いちゃんちゃんこの由来について
http://going-going.net/246/247/000592.htm...
[PDF]東アジアの天然痘常在地域における流行メカニズムに関する史的研究
http://www.mishima-kaiun.or.jp/assist/report_pdf/2011c/c_h23_...
[PDF]中央学院大学 中国と日本における色彩語の対照
http://www.cgu.ac.jp/Portals/0/data1/cguwww/06/31/0...
ためいき色のブックレビュー 破船/吉村昭著
http://tameikiiro.net/%E6%9B%B8%E8%A9%95/%E7%A0%B4%E...
忘郷クオリア 【廃墟】かつては人がいた名残りを残す放置された無人の島9選【ミステリ】
http://bokyo-qualia.com/archives/247...

※画像は外国奉行支配組頭、塩田三郎。南原清隆ではない。少年時代に天然痘に罹り、顔中にあばたが残っている。

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142 2014/10/26(日) 08:08:30 ID:g2ieX4GoiY
歴史・芸術・魚・びゃくしんの島「二神島」
http://www.matsuyama-edu.ed.jp/‾s-futaga/hutagamisima/hutagamisyoukai.html
武家家伝_豊田氏
http://www2.harimaya.com/sengoku/html/toyota_kz.htm...
神奈川大学 日本常民文化研究所 共同研究「瀬戸内海の歴史民俗研究」 9月上旬に調査を実施しました
http://jominken.kanagawa-u.ac.jp/cgi-bin/system/special/index.c...

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143 2014/10/26(日) 08:39:30 ID:g2ieX4GoiY
     天然痘に罹った息子をかくまった島 馬島

長崎の佐世保市、平戸市にかけての北松浦半島西岸に連なるリアス式海岸の群島をまとめて九十九島(くじゅうくしま)と呼ぶ。
島数99どころか、公式には208もあるとされている。
その中の1つ、馬島は文字通り島の形が馬に似ていることからこう冠されたという。実はここにも天然痘患者を閉じ込めた歴史があった。

昔、庄屋の一人息子が魔の病と恐れられる天然痘に罹り、見る間に醜い人相に変わり果てた。
庄屋は泣く泣く息子を小舟に乗せて九十九島の島々をさまよった。どこか無人島にでもかくまわなければ、藩に見つかれば即刻殺されるのは明白。
人々が魔の島と呼んで寄りつかない馬島へ舟をつけると、岩陰に小屋を作って息子をそこに隠した。
庄屋は対岸の俵ヶ浦の寺に寄宿し、夜になると人目を避けて食料と水を馬島の小屋へ運んだ。

何ヶ月かすぎたあと、庄屋の切なる祈りが神仏に届いたか、息子の病状は痕も残らず、すっかり完治した。
庄屋親子はこの奇跡に喜び、郷里に帰ることができた。


九十九島パールシーリゾート 西海国立公園 九十九島の紹介
http://www.pearlsea.jp/99islands/island.htm...
ニゴロブナ子は里山(さと)に帰らせていただきます! 岡山 「次は、ないかもしれない」長島愛生園
http://ameblo.jp/25627-ko/entry-10759318222.htm...
モグネット ハンセン病の歴史:フィリピン・クリオン島
http://www.mognet.org/hansen/overseas/culion01.htm...

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144 2014/11/03(月) 13:51:15 ID:wo6HNIuvfQ
天草楊貴妃伝説 天草によみがえる楊貴妃伝説
http://www.geocities.jp/kankyo119/youkihi.htm...
楊貴妃は天草に流れ着いたか - 楊貴妃天草漂着伝説 -
http://www.geocities.jp/flowercities/youkihi...

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145 2014/11/03(月) 14:11:04 ID:wo6HNIuvfQ
[YouTubeで再生]
NAVERまとめ 現在進行形で軍艦島化している九州の孤島「池島」
http://matome.naver.jp/odai/213626458627101700...
池島炭鉱 施設編(1/6)
http://allxa.web.fc2.com/a-map/jp_nagasaki/ikeshima1/ik...
ようこそ炭鉱体験「池島」へ
http://ikeshima.info/
長崎県長崎市 池島
https://sites.google.com/site/ikeshima20...

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146 2014/11/03(月) 17:20:22 ID:wo6HNIuvfQ
     ルイス・フロイスたちが目印に入港した島 八ノ子島

長崎県西海市の横瀬浦港から約300m沖合にある八ノ子島。こんもり盛り上がった頂上に屹立する十字架が目を惹く。
なぜ島に十字架が立てられたのか。
永禄5(1562)年、当時の領主で、日本で初めて洗礼を受けたキリシタン大名・大村純忠により、南蛮貿易港として世界に開かれた横瀬浦。
かつてその付近で、3晩続けて十字架の幻が出現するという奇跡が起き、その翌日、ナウ船(南蛮船)のペーロ・パレット船長が、
十字架を立てるよう命じた(同年10月25日付横瀬浦発信修道士ルイス・デ・アルメイダの書簡より)。
現在の十字架は1962年、南蛮船来航400年を記念して再建され、2009年に復元された。

船は八ノ子島の十字架を目印に入港し、港は全国から集まった貿易商人やキリスト教徒、そしてポルトガル人たちで賑わったという。
のちに織田信長や豊臣秀吉と会見し、戦国時代の貴重な資料となる『日本史』を記したポルトガル人宣教師、ルイス・フロイスも、
この港から日本に上陸した。


ふらり。旅する長崎 第4回 「西海市 八ノ子島」
http://www.nagasaki-press.com/event_travel/furaritabi/furari...
言語文化学科日本語文化コース 肥前研修⑦横瀬浦・虚空蔵算展望台編—西彼杵半島に上陸—
http://blog.hijiyama-u.ac.jp/nb/2013/02...
ミカエル大山のブログ
http://blog.kurosakiparish.holy.jp/?month=20130...

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147 2014/11/16(日) 16:14:11 ID:.ndw6fT8so
東京DEEP案内 【江戸川区】東京23区唯一の島「妙見島」上陸記(1)
http://tokyodeep.info/2009/12/25/215209.htm...

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148 2014/11/16(日) 17:41:36 ID:.ndw6fT8so
能登の民話伝説(中能登地区-No.4)
http://www.geocities.jp/une_gen/LegendsInNoto-4.ht...

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149 2014/11/23(日) 15:01:22 ID:DkVfUW3g3A
歴ログ -世界史専門ブログ- 【日本のアトランティス?】日本の伝説の島5選【ミステリー】
http://reki.hatenablog.com/entry/2014/08/21/12202...

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150 2014/11/23(日) 15:23:39 ID:DkVfUW3g3A
長崎遠めがね 高鉾島
http://hoshinabe.ojaru.jp/209_takahoko/takahoko.htm...
ながさき歴史の旅 第16回 神ノ島 巡礼の旅
http://tabinaga.jp/history/view.php?category=3&hi...
Les Voyages 神の島
http://lesvoyages.fc2web.com/nagasaki/nagasaki12.htm...

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151 2014/11/23(日) 15:55:22 ID:DkVfUW3g3A
     25年ぶりの雨乞いの儀式・本当に雨をもたらす 小浜島

>【小浜島=竹富】少雨の影響で八重山地域の水不足が深刻化する中、竹富町小浜島で約25年ぶりとなる雨乞いの儀式が行われた。
>神司(かんづかさ)7人が雨乞いの唄を歌い始めると小雨が降り出し、祈りを見守っていた島民に期待感で笑みがこぼれた。

>雨乞いの儀式は同島の嘉保根(かぼね)御嶽の敷地内に置かれている「ガンドゥラ(雷)石」に、神司が雨が降るよう祈りをささげた後、
>ガンドゥラ石を集落の中央に位置する道路に運び、島の青年らが石を担いで力比べを楽しんだ。
>ガンドゥラ石は古くから雨乞いの儀式に使われてきたもので、担いで落とすと「ごろごろ」という音が響くことから、
>雷を呼び雨をもたらすと伝えられているという。

>続いて、神司が雨を呼ぶ唄を歌ったり、願いの口上を述べたりして祈願した。
>小浜公民館の浦底透館長は「まとまった雨が降らない。サトウキビは枯れて深刻な状況だ。祈りが天に届くことを願っている」と期待した。
>雨が降らなかった場合はさらに次の儀式を進めていくことになるという。


毎日新聞 2014年11月23日(日) 小浜島:25年ぶりに雨乞い 祈りの最中に小雨
http://mainichi.jp/area/okinawa/news/20141119rky0...

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152 2014/11/29(土) 10:03:36 ID:Ax/u6DeYWQ
まんが日本昔ばなし 愛知『仏島』
http://nipponmukasibanasi.seesaa.net/article/384053118.htm...

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153 2014/11/30(日) 08:15:39 ID:vZ68rXqJS.
[PDF]公開シンポジウム基調講演1 いざなぎ流研究の新時代へいざなぎ流とはなにか 小松和彦
https://www.wako.ac.jp/_static/page/university/images...

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154 2014/11/30(日) 08:55:50 ID:vZ68rXqJS.
[YouTubeで再生]
     追手の襲撃に備えて弓の稽古を怠らなかった島 百島(ももしま)

広島県尾道市の備後灘に浮かぶ、百島と書いて『ももしま』と読む有人島がある。
昔、多くの桃の木が生えていたから桃島と呼ばれていたが、周囲に無数の島があったり、『百』の方が縁起が良いだろうということで、
いつしか百島に改めたとする説、もしくは古くは五十島と呼ばれたこともあり、潮満になると2つに分かれていたものが
間に砂が溜まって1つになったので、合わせて百島と呼ばれるようになった説など、名前の由来はいくつかあるが、いずれも決定打に欠くようだ。

その百島には、菅原道真が大宰府に向かう途中に立ち寄ったという伝説や、室町幕府6代将軍・足利義教を暗殺した赤松満祐一族が
隠れ住んだという逸話が残されている。
その赤松満祐一族にちなみ、福田地区の八幡神社に伝わる『お弓神事』は、嘉吉元(1441)年、嘉吉の乱で敗れた赤松満祐ほか一族7人が
百島に逃れて住み着き、敵の追討襲撃に備えて弓の稽古に励んだのが始まりとされており、毎年1月11日に厄祓いと無病息災を願って催される伝統行事である。
射手には島内の3地区から計15名が選ばれ、15m先の直径60cmの的に向け、太鼓の合図とともに次々と矢を放たれる。
的の中心には『瓦け』と呼ばれる丸い素焼きがつけられ、命中すると祝儀(10円)がもらえる。


百島Net
http://www.momoshima.net/
百島八幡神社お弓神事 尾道市百島2008.1.11
http://www.tamatele.ne.jp/‾onotoshi/momosimaoyumisinzi08.html
赤松満祐wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B5%A4%E6%9D%BE%E6%BA%...
嘉吉の乱wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%98%89%E5%90%89%E3%81%...
尾道 百島物語〜From/For Momoshima〜人生航海 蜃気楼 百の伝結び 百島 旗伝説
http://blog.goo.ne.jp/100-is-land/e/30ef849437c43535...

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155 2014/11/30(日) 10:18:40 ID:vZ68rXqJS.
     弁天様の目玉をえぐり取ろうとして神罰がくだった? 佐久島(筒島)

愛知の三河湾には佐久島の他に、篠島、日間賀島が浮かび(いずれも有人島)、これらを愛知3島として呼び、釣りや観光に賑わいを見せている。
ちなみに篠島は前スレの>>289にて、日間賀島は>>344で紹介した。とすれば、佐久島もやらずにはいられない。
佐久島は中新世に海中で堆積した島とされ、2500万年前と推定される貝の化石が島の各所で発見されている。
島には紀元前3000年ごろから人が住み始め、縄文・弥生式の土器片などが多く出土している。
『佐久島旧記』によれば、崇神天皇(紀元前97年〜紀元前30年、第10代天皇)の時代に、斎宮の郷にいた佐久彦命が移住して農業を始めたことが
島名の由来とされている。

また海を生業の場として地域間の文化交流の橋渡し役を担っていた海部(あまべ)族の生活が、のちに海運業として受け継がれ、江戸時代に繁栄を築いた。
その1つである松本家の屋敷周辺(西港)では、現在も当時の隆盛ぶりを偲ぶことができる。昭和29年に市町村合併し、佐久島村は一色町に編入。
平成23年4月1日、西尾市と幡豆3町が合併し、佐久島は西尾市一色町佐久島となった。

その佐久島であるが(正確には堤防で結ばれた属島である筒島)、弁天様にまつわる不思議な言い伝えが残されている。
広く知れ渡っているふつうの弁天様は琵琶を手にしているが、佐久島のそれは他とは異なり、8本の腕に剣や弓矢、鉄の輪などを持って、
パッと見こそ優しそうな顔立ちだが、凜々しい佇まい。
これは奈良時代の初め、諸国に国分寺を造ったときの古いお経『金光明最勝王経』に描かれた古い姿で、お経によると四天王と弁天様を尊べ、と説いている。
全国にある弁天島10カ所の1つで、異彩を放つ弁天様なのだ。

もとは筒井家初代が僧の姿で紀州から佐久島に渡り、この小島を筒島と名付け、弁天様を筒井城のある大和国より運び祀ったとされている。
昔、この筒島に、渋谷九郎という甲州武田の家臣が戦に敗れて落ち延びてきた。
救いを求めて弁天様を拝み続けるうち、しだいにあまりの美しさに心を奪われるようになった。九郎は弁天様を独り占めするべく、
キラキラと輝く目をえぐり取ろうとした。そのとき弁天様の右目から血がほとばしり、九郎は急に胸がしめつけられ、悶絶したという。
今でも弁天様の右目には、血の涙を流した痕が残されている。
また筒島の石などの物を持って帰ると、必ず胸が痛くなるなどの祟りがあると信じられており、地元の人は頑なに言い伝えを守って、
小石1つたりとも持ち出すことはない。


癒しとアートの島 ようこそ佐久島へ
http://sakushima.com/
angle 筒井カメラマンのブログ 島の古い伝説
http://ameblo.jp/angle1/entry-11441635112.htm...
愛知県地域振興課 あいちの離島振興
http://www.pref.aichi.jp/0000029829.htm...

※>血の涙を流した痕が残されている。と書いたが、画像を見るかぎり残っていない気がするw

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156 2014/12/07(日) 18:15:33 ID:sX4b1JFxnU
与那国町役場 与那国島の祭事・祭場
http://www.town.yonaguni.okinawa.jp/donan-bunka/program2...
[PDF]与那国島の祭場と儀礼 大城學(沖縄県立博物館)
http://www.museums.pref.okinawa.jp/museum/issue/report/image/6-6....

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157 2014/12/07(日) 18:22:59 ID:sX4b1JFxnU
     猿の楽園に平家の落ち武者による神使伝承あり 幸島

宮崎県串間市の石波海岸から200m沖合にある幸島は、周囲約3.5km、標高113mと、一応、無人島のカテゴリーに入るが、
島内には京都大学の霊長類研究施設が設けられ、施設研究員が常駐している。
その研究員、幸島に棲息する野生猿を研究対象としている。なかでも海水で芋を洗う猿は、日本で最初に学術研究がなされたことで知られる。
現在およそ100頭の野生猿が海に囲まれ、隔離された恰好で暮らしている。天敵のいない幸島は、猿たちにとってまさに楽園であろう。
幸島は古くから猿が住んでいたといわれ、大正時代にも旧東北帝国大学などが調査を行っており、90頭もの個体が確認されている。
なぜ人里離れた小島に野生猿が棲息していたかは不明であるが、人為的に持ち込まれたという説が有力視されている。

とりわけ有名なのが、平家の落ち武者が小島に隠匿したとき、猿を神使として飼い始めたというが、伝承の域を出ない。
もっとも、後の研究では本土との行き来が少数例ながら観察されているので、自然分布の可能性も捨てきれない。
串間市地元では幸島の猿を『和子様(わこさま)』と呼び、神の使いと見なして大切にしてきた。
しかしながら、戦後、米軍の統治下にあったころ、米軍司令官にペットとして献上するために子猿が狩られ、個体数は激減。
京都大学の研究員らがこの島を訪れたとき、わずか9頭しか確認できなかった。本格的な研究を始めたのは京都大学の今西錦司と伊谷純一郎らその門下生たちで、
戦後間もないころだった。当初、都井岬の半野生馬『岬馬』を対象とするため、調査に来ていた。幸島に野生猿が棲息していることを知ると、
「馬では複雑な家族関係や社会が成り立っていない」と、物足りなくなったため、 幸島のニホンザルに注目された。

その結果、島での研究から「人間以外の動物にも文化がある」という説が初めて打ち出されることとなる。
1952年に野生猿の餌付けに成功。より綿密な観察が可能となった。そのうち、若猿がもらった芋を海水で汚れを落とし食べるようになり、
この『芋洗い行動』は、初め同年代の仲間に、次には上の年代へと広がりを見せるようになる。さらには子や孫が継いだ。
従来、「文化は人間固有のものであり、動物にはない」と考えられていた。世代と時代を越えても伝達されることは、
『芋洗い行動』を文化であるとする根拠の1つとなっている。

また、多くの猿が芋2つを両手に持って走る様子が撮影され、一時的にではあるが自然に二足歩行することが知られるようになった。
猿1匹ずつすべて名前を付ける(個体識別法)、親子・兄弟関係を記録し家系図も作るといった手法もここで始められ、
京都岩田山のニホンザルやアフリカでのチンパンジーなど他所の研究でも広く取り入れられるようになる。幸島でこの手法に貢献したのは三戸サツヱである。

霊長類研究が欧米人ではなく、京都大学を中心とした日本人によってリードされた理由の1つに、宗教観の違いが挙げられている。
キリスト教では人間は動物の頂点に立つ存在で、人間と他の動物の間には歴然たる壁があり、『動物にも文化がある』という考え方は、
人間も動物の仲間の1つと考える仏教の世界観の方が受け入れやすかったといえよう。
現在、幸島の猿および生息地は『幸島猿生息地』として国の天然記念物に指定されており、文化財保護法によって保護されている。


旅行記・幸島を訪ねて − 宮崎県串間市  2012.10 幸島
http://washimo-web.jp/Trip/Koujima/koujima.ht...
edge-life 幸島に住むボス猿がホタテからカバに変わったという話
http://edge-life.jp/archives/398...
平成16年度牛の博物館友の会シンポジウム 牛馬の守護神 厠猿信仰
http://www.isop.ne.jp/atrui/ushi/07_tomo/mayazaru/ma...
神使wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E4%BD%B...

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158 2014/12/13(土) 08:11:41 ID:NWUiJL1mKI
(瓜生島考)豊府聞書記載の地名位置
http://www9.plala.or.jp/chietaku/uryuu.ht...

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159 2014/12/13(土) 08:40:47 ID:NWUiJL1mKI
     与論島の洗骨儀礼

与論島を当『怖い島』スレに挙げ、あまつさえ洗骨の習俗を面白おかしく語るつもりは毛頭ない。
日本にはこんな葬祭文化があるということを知っておいて損はない。


改装の手順と基礎知識〜お墓の引越しってどうするの?〜 改葬で行う洗骨とは
http://grave-move.net/entry7.htm...
飛耳長耳 国際紛争の心理 九州沖縄スペシャル与論島の洗骨儀礼 とうとがなしばあちゃん与論島 死者を弔う洗骨儀礼 
http://blogs.yahoo.co.jp/nakamushyh/32394070.htm...
[PDF]与論島の洗骨儀礼に関する事例報告
http://ir.kagoshima-u.ac.jp/bitstream/10232/16673/1/AA1195...
[PDF]与論島における洗骨習俗の現状
http://karn.lib.kagoshima-u.ac.jp/bitstream/123456789/14474/3/AA...

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160 2014/12/13(土) 08:56:33 ID:NWUiJL1mKI
↓これは貴重な映像。

与論島の洗骨儀礼
https://www.youtube.com/watch?v=PmYqwiVzPc...

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161 2014/12/13(土) 09:15:09 ID:NWUiJL1mKI
     トンボロで渡った島に疱瘡墓6基あり 前島

>>139に引き続き、またしても天然痘にまつわる島を発見した。ただし、こちらは天然痘に罹って亡くなり、その遺体を葬ったとされる島だ。
長崎県五島市にある奈留島の南西部、奈留島港から約2kmのところに件の前島がある。0.47k㎡、周囲は5.6kmと小島ながら、
人口は35人ほど暮らしている。その前島から400m離れた位置に末津島があるのだが、干潮になるとこの2島の間に砂州が現れ、陸続きとなる。
そう、トンボロ現象だ。

前島は北側にある笠松地区と、西側にある江ノ浦地区の2集落からなる。その江ノ浦集落には、奈留代官山口家の次男・山口倫十郎の墓が残されている。
倫十郎は江戸後期、五島藩に謀反する者と誤解され、家運の傾いた山口家を再興した人物と言われる。
墓石の側面には『疱瘡而庵死』の文字が。当時、奈留島で疱瘡(天然痘)が流行し、感染が広がらないよう、疱瘡で亡くなった者の遺体を、
当時は無人島であった前島に運び、葬ったとされている。倫十郎もその1人だった。

倫十郎の墓石を取り囲むように6基の小さな墓石が並んでいる。全部が疱瘡墓だったと指摘されている。
また倫十郎の墓石の隣には、『尼妙道信女位』と記された墓碑が佇む。これは疱瘡でなくなった夫である倫十郎を、尼となって弔った妻のものだという。
死してなお、夫に寄り添いたいと願ったのだろう。
これらの疱瘡墓は、近くに住む江上長之助氏が管理をしている。誰かに頼まれて世話をしているわけではなく、自身の親が周辺の雑草を抜いたり、
清掃したりしている姿を見て育ったせいで、おのずと江上氏もそれに倣うようになったという。


五島・前島
http://www.hanachann.net/gotou/gotou.htm...
疱瘡神wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%96%B1%E7%98%A1%E7%A5%...
長崎県五島市公式サイト gotouまるごとう よかよか五島百景〜前島〜
http://www3.city.goto.nagasaki.jp/contents/sightseeing/column_de...
Travel:shiomi116 五島・前島
http://shiomi116.blog.fc2.com/blog-date-201303.htm...

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162 2014/12/15(月) 18:12:15 ID:TUypo3/bGM
     日本武尊の叔母・倭姫が渡ってきた島 姫島

愛知の三河湾に浮かぶ田原市唯一の島、姫島。島に平地はほとんどなく、高さは62.1m、島の周囲は約4m。
九州には同名の島があるばかりか、日本各地にも同じ地名が点在している。
三河湾のソレがいつから姫島と呼ばれるようになったのか定かではない。
姫島と冠されるのであればこそ、いろんな伝説も残されているもので、その1つがダイダラボッチ伝説。
とはいえ、これは>>26>>32と、さんざんやったため食傷気味なので却下。かわりに倭姫(やまとひめ)伝説を紹介しよう。

今から2000年ほど前、当時流行した疾病を鎮めるべく、倭姫は天照大神を祀る地を探し、諸国をめぐっていた。
船旅の途中、島に立ち寄り、倭姫はここに滞在した。蚕を飼い、その飼育方法を村人に伝えたという。
後年、姫は島で死去した。今でも蚕の餌となる桑の木や井戸、お墓があると伝えられている。
おそらくこの伝説を契機に、姫島と呼ばれるようになったのだろう。

お供だった伊勢の山田氏や小林氏らが片浜集落に住む人たちの祖先にあたり、姫島に山田と小林姓が多いのはこのためだと言われている。
ちなみに、倭姫は嵐で流され、姫島に流れ着いたとされる諸説もある。一行を乗せた舟は伊良湖水道で暴風雨にあい、梶が折れて流されたが、
ある岬の陰で風をしのぎ、命拾いをした。この岬のことを梶ヶ崎(野田町馬草港の小山)と呼ぶ。
さらに一行は潮に流され、ようやく姫島に漂着した。しばらくここに滞在し、舟を直し仁崎に渡った。
これは天照大神をお祭りする場所の候補地として目をつけたからである。
しかし適当な場所ではなかったため、世話になった村人たちへのお礼に村の中を流れる川の名として、伊勢神宮の内宮前を流れる神聖な川、
五十鈴川の名前を贈ったと言われている。

倭姫は垂仁天皇の第4皇女で、日本武尊の叔母にあたり、伊勢の地に皇大神宮を祭った人とされる伝説上の人物。
また姫島は、江戸時代の地理書には、源頼朝が奉納した御馬の神社(豊川市御津町)の神馬が逃げ出して海を泳ぎ、この島にきたという話から、
飛馬島とも呼ばれるそうだ。


倭姫命wikipedia.
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%80%AD%E5%A7%AB%E5%91%...
こらむ 阿曇連(あずみのむらじ)とサクヤヒメ
http://ascc-style.com/column/2003/11/post-29.htm...
[PDF]歴史探訪クラブ 伝説の島 姫島
http://www.city.tahara.aichi.jp/promotion/koho23/0715/tahara11...

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163 2014/12/21(日) 16:49:26 ID:XvTxHIrGKY
     カナ表記の珍しい島の由来とは? アンジャ島

舞鶴市には珍しい島名の島がある。それがアンジャ(アンジア)島だ。もっとも、現在沖から陸続きになってしまっているのだが。
三浜峠から眼下の小橋の海を見渡すと、アンジャ島を筆頭に、磯葛島、沖葛島の3島が並び、遠方に冠島、沓島を従えている。
このうち、なぜアンジャ島だけがカナ表記なのか? その経緯がこうだ。

どれぐらい昔のことか定かではない。小橋の村に、漁へ行くにも田へ行くにも、一緒に出かけるほど仲のいい兄弟がいた。
ところが当時、流行り病が猛威を振るい、村にも被害がおよんだ。現代なら抗生物質の注射1本で完治する病にすぎないのだが……。
そうなると、>>139>>143>>161のように、感染病患者は離島に隔離するしかない。
当時のまだ名前のついていなかったアンジャ島の前身である無人島に小屋を建て、兄を移り住まわせた。
弟は泣きながら毎日朝夕、小舟で食料を運んだ。しかし日を追うにつれて兄は衰弱し、弟の懸命の看護もむなしく、やがて息を引き取った。

1人残された弟は、毎朝、毎夕、島まで小舟で漕ぎつけ、在りし日の兄を思い、「兄者ー! 兄者ぁ!」と叫ぶのだった。 
この弟の切なる叫びがアンジャ島の由来なのだという。
※もしくは南北朝の争いの時代、南朝ゆかりの姫君が落ち延びて、この島に渡り、行在所(あんざいしょ)を建てて隠れていたので、
『行在島』と呼ばれるようになり、それが訛ってアンジャ島に変遷したのではないかとの諸説もある。


舞鶴市民新聞社の運営する舞鶴市近郊ローカルニュースサイト Webみなと舞鶴 NO.90 「アンジャ島」(三浜・小橋)
http://www.maipress.co.jp/menu/rensai/90.htm...

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164 2014/12/31(水) 23:18:04 ID:XFvrM/xcpY
     クロ宗の死の儀式は存在したのか? その考察1

「クロ宗のもんはな、人間の生肝をとって食(た)もッちいわるッと。病人が死にかかるとな、
夜中に家族のもんも医者もみな人払いをしてな、クロのサカヤと病人と2人だけになってな、何かすると。
それでな、人を病人の部屋へ入れてきたときにはな、病人の身体は白い布でぐるぐる巻きになっとって、
必ずもう息はひきとっておって、床下は血だらけじゃッどよ。
そいで、今度は部屋の灯を消してよ、クロ宗の連中が集まって真っ暗ななかでお通夜みたいなもんがあるんじゃが、
どんから(けれども)そのお通夜みたいなもんは並普通のとは違うて、生魚が出るんじゃッど。
山部落じゃ病人が重くなるというと、大きな魚を買いに出らんならんと。その魚のワタでもとって床下の血をどうとかしてしまう話もあッがよ。
またな、水を沢山使うし死人の身体を洗うとか、水で血を流すとかちゅう話もあッど。
御透視役ちゅうのは、死人を天国とかへ連れて行く役だとかで、剃刀役ちゅうのは、死人の頭を剃ッとか、
生肝を切りとッとかちゅう話もあッど。真っ暗なお通夜みたいなもんに集まるクロの連中の下駄は、みんな裏返してあッと。
その下駄の返し方にも、二段三段の仕掛けがあると。それで朝が来りゃ、真宗のお寺でもういっぺん、立派な葬式をやると。
その仏式のはな、盛大じゃとも、クロを隠すための恰好つけだけじゃと。クロのもんはな、年の暮頃に肉で酒盛りをやると。
子供が生まれると、水で洗ってな、生肉を口に押しつけてやると」

                             ……『鬼無鬼島』より抜粋 太平次が早子に語って聞かせたクロの噂

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165 2014/12/31(水) 23:22:42 ID:XFvrM/xcpY
     クロ宗の死の儀式は存在したのか? その考察2

……前スレ>>21で問題のクロ宗の話を書いた。今一度、コピペ(および改良)しておこう。


     『クロ宗』の鉄の掟 下甑島(しもこしきじま)

今から400年前(注1)、キリスト教徒が江戸幕府によって迫害されていたころの話。
島原の乱に敗れたあと、彼らは幕府からの厳しい弾圧を逃れるべく、鹿児島県、下甑島に流れ着いた。
離島であるがゆえに幕府の追及も届かない。ようやく安住の地を得た彼らはこの島に片野浦地区をもうけ、なおもキリスト教を信仰し続けた。
とはいえ世間から孤立することにより、キリスト教本来の教えとは異なる独自の宗教を編み出すに至る。それが『クロ宗』だった。
クロス(十字架)が語源といわれ、外部との接触を完全に拒んだ秘密結社的な概念。
驚くべきことに、隠れキリシタンの末裔たちによって今もなお受け継がれているそうだ。

クロ宗の最たる特徴は、死の儀式にある。
信者が生命の危機に瀕した場合、『サカヤ』と呼ばれる司祭のもとに運ばれ、まだ息があるにもかかわらず、生き血と生き胆を摘出するというのだ。
信じ難い話だが、その取り出したるモノを信者全員で食べ、飲み干すという……。
ある大学の民俗学教授は言う。「宗教儀式の中には、死者の魂を取り込むため、身体の一部を食するというものは存在します。
ですが、生きているうちから血と肝を抜くというのは稀ではないでしょうか。サカヤ(司祭)の家から出される遺体は白い布でグルグル巻きにされ、
その布には血が滲んでいるというのですから、恐ろしい儀式ですよね」

とはいうものの、この禁断の儀式の詳細はいまだ明らかにされていない。
クロ宗を信仰する片野浦でも、とりわけ『岡集落』の住人は、よそ者を完全に拒み、取材にも一切応じない姿勢を貫いている。
家屋は全部で20戸ほどの小集落にすぎない。しかもそれぞれの家が、3m前後ものブロック塀で囲まれており、異様な雰囲気を醸し出している。
クロ宗信者には集落内での出来事を一切口外してはならないという鉄の掟があり、それを破った者は命を取られるのではないかとも噂されている。

注1……狭義の意味での禁教令は、慶長17(1612)年、及び翌年に江戸幕府が発令したものであるが、広義の意味では天正15(1587)年の豊臣秀吉に
よるバテレン追放令や明治政府による五榜の掲示が含まれる。
※明治時代まで肝食いをやっていただの、集落に近づけさせないためのデマにすぎないとの諸説がある。あまり真に受けないように。

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166 2014/12/31(水) 23:28:52 ID:XFvrM/xcpY
     クロ宗の死の儀式は存在したのか? その考察3

……この文がいろんなサイトや掲示板でコピペされ、正直困惑している。もろに現地名を書き込んでしまった罪は大きいからだ。
名指ししてるのは当スレだけではなく、それ以前に指摘していたサイトやHP、れっきとした民俗学の報告書もあるのだが、
いずれにせよ、島民と島そのものを貶めることは変わらない。甑島出身の者がこの文を読んで気分を害され、お叱りを受けても致仕方ない。
もはや覆水盆に返らず。だったらこのまま深く切り込み、いっそ事の真偽を見極めるべきではないか。
贖罪の意味を込めて火消しというわけでもないが、こんなデマじみた話をとっとと真相究明し、島の名誉を守らねばなるまい。
そして流布の根絶に努めるべきである。

そもそも冷静なる読者諸兄ならば、「隠れキリシタンの集落はあるにせよ、肝食いなんて都市伝説だろw」と、笑い飛ばして片付けてくれよう。
幼稚な都市伝説だったらいい。しかしながら、なぜこんな奇怪な噂が広がったのか長年検証してみたいと思っていた。
前スレを立ててから4年近く経ったことだし、白状してもよかろう。僕が初めてクロ宗の存在を知ったのは、某コンビニで売っていた宙出版
『実録 怖い島 伝説の奇祭編』(¥550・主に漫画で構成されている)の紙面上でだった。
いかにも下世話でインチキ臭がプンプンしているのは否めないが、暇つぶしにエンターテイメントでも楽しむつもりで読んでみたのだ。
この安っぽい本には、当怖い島スレに取り上げてきたエッセンスがすべて詰まっていた。クロ宗の下甑島をはじめ、悪石島のボゼ、新城島の秘祭、
ハンセン病を隔離した大島、海賊の財宝が眠ると噂される大神島、渡鹿野島、新島の海難法師……あとはありがちで低俗な幽霊ネタである。
同時に多彩な『怖い島』(真贋はさておき)に惹き込まれていき、今では独自に探しまくって、この手のスレでは随一との自負を持っているつもりだ。
それはさておき、クロ宗に関してはオカルト研究家である山口敏太郎氏のサイトにも紹介されているぐらいだから、胡散臭いと言えば胡散臭いのだが。

前置きが長くなった。さっさと検証に入ろう。
とは言っても、フィールドワークによる現地取材を行いたいところだが、こちとらそんな経済的・物理的余裕はない。
しょせんは机上の研究なのだから信憑性に欠けてしまう。まあ、それは仕方ない。
それと、この際だから大胆に結論から言っておこう。さんざん長文で引っ張った挙句、尻切れトンボ的なウヤムヤな締めくくり方はしたくないので、
結論から先に出しておくのも良心的ではないか。それに長文がお嫌いな御仁も少なくない。

……では、クロの死の儀式(血を飲み、肝を食う)はあったか否かと問われれば、「ない」と思われる。
いや、「デマはデマでしかない。もしあったとしても、過去に極々稀にあった」かもしれない。
なんとも歯切れの悪い結論だが、そこに至る過程をこれから述べていこうと思う。


山口敏太郎の妖怪・都市伝説・UMAワールド「ブログ妖怪王」 クロ宗・隠れキリシタン
http://blog.goo.ne.jp/youkaiou/e/3c99c80df48e0430427...
実録 怖い島 伝説の奇祭編
http://www.amazon.co.jp/%E5%AE%9F%E9%8C%B2-%E6%80%96%E...
知られざる 怖い!怪奇村の話
http://www.amazon.co.jp/%E7%9F%A5%E3%82%89%E3%82%8C%E3...

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167 2014/12/31(水) 23:36:03 ID:XFvrM/xcpY
     クロ宗の死の儀式は存在したのか? その考察4

まずそれには1冊の著書を参考に真相に迫りたい。が、しょせん著書は著書。
いくら作者が入念に取材して得た情報を元に描かれているとはいえフィクションにすぎないので、あらかじめご了承願いたい。
フィクションだとしても、そこから抽出できる『真実』もあるはずだ。
その著書こそ、芥川賞作家、堀田善衛氏の『鬼無鬼島(きぶきじま)』である。
『鬼無鬼島』は堀田氏が昭和32(1957)年に発表した長編小説。内容はまさしくクロ宗をめぐる、ある離島での奇妙な因習の話。
断っておくが、エキセントリックなカルト教団をモチーフにした悪趣味な怪奇小説ではない。
運命に抗う純然たるヒューマンドラマでもあり、同時に青春ものの側面を併せ持ち、理不尽な境遇におかれた若者の葛藤を描いた意欲作である。
舞台は『鬼無鬼島』という架空の島だが、明らかに下甑島がモデルだ。

発表の前年である昭和31(1956)年、堀田氏は鹿児県立図書館の当時の館長、久保田彦穂氏と会談した。
その際、執筆のネタになるものはないかと持ちかけ、久保田氏はすぐさま下甑島のクロ宗こそふさわしいと教示した。
久保田氏は何度か下甑島を訪れており、島の事情に明るかった。そのときにクロ宗について取材しており、
自身では描ききれないこの土俗信仰の世界を勧めたわけだ。
俄然興味を示した堀田氏(この芥川賞作家にして、クロ宗はソソるネタだった)はすぐに下甑島に渡り、1ヶ月滞在。
念入りに取材して『鬼無鬼島』を書き上げたというのだ。

とにもかくにも著書を手に入れ、読んでみることにしたのは言うまでもない。そして読了した結果……。
個人的主観で言わせてもらえば、「面白い、面白くない」という単純な定義からすれば、ハッキリ言って面白いとは言い難い。
拙い読書生活で、好きな本を10指挙げよと問われたならば、僕はノミネートしまい。とはいえ奇妙な余韻が残る印象的な話であったことは確かだ。
あらすじをここに書き連ねるのは無粋だ。以下のリンク先(女おいどん日記 大山昇子 [本]鬼無鬼島)でだいだいの流れがわかるので(もっとも、
中盤あたりまでだが)、そっちでつかむことを勧める。未読の方は面倒でもまずは目を通されよ。
でないと、これから先の話がチンプンカンプンになる。この後のレスにて、物語の後半を暴露していくつもりだ。
もしも興味を持たれ、自分で読んでみたいというならばネタバレにつながる。残念ながらこれ以降のレスは読むべきではない。


女おいどん日記 大山昇子 [本]鬼無鬼島
http://d.hatena.ne.jp/oyama_noboruko/20060810/p...
堀田善衛wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A0%80%E7%94%B0%E5%96%...
椋鳩十(むくはとじゅう・久保田彦穂のペンネーム)wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A4%8B%E9%B3%A9%E5%8D%...

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168 2015/01/01(木) 07:15:25 ID:ZG/mlLfMb2
     クロ宗の死の儀式は存在したのか? その考察5

物語の時代は戦後間もない昭和20年初秋。敗戦でいまだ深手の傷を負い、未来に対する息苦しい閉塞感が文脈から伝わってくる。
舞台は上述したように『鬼無鬼島』。モデルとなった甑島同様、上鬼無鬼島、中鬼無鬼島、下鬼無鬼島の3島からなり、物語の舞台は下鬼無鬼島だ。
作中、クロ宗の信者がいるとされるのが『山部落』という小集落だ。『山部落』には『サカヤ』なる指導者が共同体の上に立っている。
サカヤとは司祭、または昔でいう庄屋か区長を指す。呼び名の語源は『サクラメント』であるとされている。つまり神思を信徒に分け与える役職。

『クロ』『クロ宗』というのは、クロス、すなわち十字架、磔刑から来たことであって、古い隠れキリシタンの一派だろうということだった。
また甑島島民の出自は平家の落人が多いとされている。鬼無鬼島では平家どころか、楠正成や淀君、木村重成、真田幸村の一派が流れてきたと言及。
それに島原の乱で負けて落ちのびてきた隠れキリシタンの末裔が加わり、血はますます渾然一体となったと描かれている。

ところでサカヤの下には2人の忠実な側近がいる。1人は『御透視役(みとおしやく)』、もう1人は『剃刀役(かみそりやく)』なる役職の男たちである。
この2人も、いわゆるクロの死の儀式『秘蹟』で立ち会うのだという。
>>166で上記した儀式は、『実録 怖い島 伝説の奇祭編』によればこうだ(『鬼無鬼島』作中では、ここまでハッキリと言及されていない)。
……クロの信者が生命の危機に瀕したら、サカヤの屋敷に運ばれ、まず完全に外界からシャットアウトされる。
信者を寝台に横え、サカヤと御透視役、剃刀役の4人のみになる。サカヤが祝詞を唱え、次に御透視役が『施術』の実行を告げ、
それを合図に剃刀役が手にした刃物で信者の腹を切り裂く。まだ生きているにもかかわらずである。
したたる血を器に垂らし、裂いた腹に手を突っ込んで『生き胆』を取り出し、それも器に盛る。それを少量ずつ信者らに振る舞うのだという。

本来、御透視役は子供が生まれたときの相談役にすぎず、剃刀役は信者に死人が出たときに遺体の頭に剃刀をあてて、髪の毛を少し剃って取る、
それだけの役でしかなかった。それが迫害されているうちに、イビツに変容してしまったのだとか。
キリシタンは長年、お上から迫害されては耐え忍んできた。その昔、『ゲド(外道)』と蔑まれた信者たちが、自由を求めて方々の離れ島に、
今日でいえば開拓民のようにして逃げ込み、そこで『ヒラキ(開き・開拓者の意)』とか、『イツキ(居付・移住者の意)』とか地元民に蔑まれながらも
信仰を守った。
ところが、世間一般と隔絶した生活を送ってきたために信仰そのものが土俗化。明治5年以後、信仰の自由を得て公教会に戻ろうとしても、
もはや原型をとどめぬほどに変容してしまい、病気平癒や災難よけの加持祈祷の類となったものが、現に五島列島にあるのだという。


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169 2015/01/01(木) 07:20:51 ID:ZG/mlLfMb2
     クロ宗の死の儀式は存在したのか? その考察6

ところで、ここで指す『生き肝』とは『肝臓』を表すのか、それとも『肝を冷やす・肝をつぶす』という慣用句があるように、
『心臓』を指すのか、いまいち判然としない。
我々が魚や焼肉の『キモ』を食べる際、店で注文して出される部位は『肝臓』で間違いない。
ところがクロにとってのソレは『心臓』を示唆するのではないかとの見方もあり、一概に決め付けるのは性急すぎる。
そもそもなぜ『生き肝』なのか? 個人的に『生き肝』というキーワードで真っ先に思い浮かぶのは『安達ヶ原の鬼婆』だ。
福島県二本松市の有名な伝説『安達ヶ原の鬼婆』では、乳母・岩手が理由あって旅人を襲い、生き胆を取り出すくだりがあるが、
やはりこの生き胆は心臓のことを示すようだ。
生き胆を取り出し、それを食するという話は古代中国でも散見されるらしい。
生体から取り出したナマに臓器に、そんな難病を治癒するほどの効能・栄養価があるのだろうか?

肝臓か心臓か。いずれにせよ、『信者の核となる肉片』というシンボルと解釈すればよいはずだから、これ以上追求せずともよかろう。
別資料によれば、他の信者らがその生き血を飲むことで、死にゆく人と一心同体となる意味で体内に取り込むのだという。
肝を少しずつ切り分け、みんなが一口ずつ食べる行為とは、生き血を飲むという倫理に反する事実を運命共同体としての『口封じ』の意味合いが
込められていると考えられる。なんともグロテスクなイニシエーションだ。こんなカルト教団が現存する(した)とは俄かに信じ難い。

誤解を招くといけないので念を押すが、『鬼無鬼島』の猟奇的な部分ばかりをクローズアップしてしまったが、内容は極めて誠実な文学作品である。
古臭く頑迷な現状を変革しようとする者(作中ではサカヤである用賀家成が対応)と、若者特有の、理不尽な物事を変革どころか、
打ち壊して無に帰してやりたいと思う主人公を対比させる物語であって、シチュエーションが特異なだけで俗っぽいウケを狙ったものではない。


サクラメントwikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%82%AF%E3%83%...
安達ヶ原・観世寺
http://home.s01.itscom.net/sahara/stone/s_tohoku/fu_kanze...
ヒトに由来する生薬wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%92%E3%83%88%E3%81%...
屍体と民俗 中山太郎
http://www.aozora.gr.jp/cards/001420/files/50270_47671...

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170 2015/01/01(木) 07:29:41 ID:ZG/mlLfMb2
     クロ宗の死の儀式は存在したのか? その考察7

サカヤである用賀家成は60にも届こうかと思える男で、井の中の蛙が村落の長に居座っているのではない。
彼自身、若き日には大阪の私立大学に通い、学生運動に明け暮れ、若気の至りで、世の中を変えてみせるという自負を抱いていた。
そして父であり、先代であるサカヤに反抗して、こんなクロ宗のような得体の知れない信仰をいずれ終わらせてやると鼻息を荒くしていた。
父が勝手に決めた許嫁を拒否し、鹿児島の芸者と一緒になって満州へ渡り20年をすごすも、戦時下、父が老衰で死ぬと同時に帰島。
彼はサカヤのたった1人の世継ぎだったので、懇願に根負けしてその役を引き継いだのだった。
若いころ、法律書生であった彼は人生の無常さを見てきた。いつしか諦念だけが彼を支配した。信じられるものと、信じられないもの隔たり。
友則もまた、数奇な出自と信仰の在り方に怒りを憶えている。サカヤはそんな友則を自身の青年時代と重ね、時に激情をぶつけ合うのだが、
同時に親近感を感じている。

サカヤは信者を集め、「らおらてどのみの、ぜんてらおらて、いよみず、ぱるとり……」(※『主の祈り』が変容した祝詞か?)と、
呪文めいた言葉を呟きながら、錫器に満たした水に手を浸し、その飛沫を信者らに浴びせる。
その行為になんの意味があるのか、もはやサカヤにはわからない。先代の親から受け継いだ盲目的に続けてきた信仰にすぎない。
これが古くから継いできた『伝統』なのだ。
山部落での信者らの暮らしは貧しかったが、用賀家成だけはサカヤの特権で悠々自適の生活を送っていた。
基本的な役目も、台風がすぎたあと畑の被害状況を巡視しては、村人にねぎらいの言葉をかけるような共同体の世話役でしかない。

そんなサカヤ自身も葛藤を抱いている。サカヤ、または『山ノ天皇』と呼ばれ尊敬されていても、しょせんは張子の虎にすぎず空虚だ。
クロ宗とて、中身のつまった権威らしい権威は存在しない。仏教のような拝むべき本尊もなければ神道のように御幣があるわけではなく、
切支丹であるにもかかわらず十字架すら持たない。読んで心が洗われる教典さえないのが実情なのだ。
サカヤは思う。「確たる実権すらないのに、ただ役者のように、サカヤの役を演じているにすぎない。おれはピエロだ」
いつしかサカヤは思考停止させてしまう。いずれおれが死んだら、サカヤなんぞ、おれ1代で終わりにしてしまおうと考える。

昔、西洋からキリスト教と文明が入り込んできた。それが日本の風土に根付くためには、土俗化しなければならなかった。
日本の原始宗教や神仏となじまなければ迫害された。土俗化の過程で、長く厳しい禁圧があったがために、本体はいつの間にか変容した。
その変わり果てたシンボルの1つがサカヤなのだろう。
いっそのことサカヤなど、いやクロ宗という過去の遺物を叩き壊し、きれいさっぱり廃止してもいい頃合なのだ。
なのに村落の連中ときたら古い習俗にしがみつき、サカヤを引き立て秘密の会合を続け、あまつさえ『秘蹟』をしろとそそのかす。

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171 2015/01/01(木) 07:37:42 ID:ZG/mlLfMb2
     クロ宗の死の儀式は存在したのか? その考察8

友則もまた悩んでいる。
彼は兄、元一が死ねば(あるいは、息があるうちに)サカヤが生き肝を取るのではないかと怖れている。
むしろ熱心な信者である母がそれを願ってさえいる。元一は病気がちで、波乱の生涯だった。せめてサカヤに取ってもらうことより、
あの世で幸せになってくれればと盲目的に願っているのだ。
友則は、生き肝を取る行為とはなんの意味があるのか、憎みつつも知りたい。そして宗教が幅を利かせ、その実うつろなこの現実を壊し、
いつかは鬼無鬼島から恋人の早子とともに出ていくのだ。
物語は元一が死ぬ騒動により、展開がめまぐるしくなるのだが、結局、元一の生き肝は取られることはない。血も飲み干すシーンもない。
てっきり友則はサカヤが兄を殺し、秘蹟をやろうとしたのかと早合点し、激しくつめ寄る。対するサカヤは、こんな真実を明らかにする。

「厳しい禁制の間に文書も印も失い、何がクロ宗に残ったと思う? 一言でいえば本体がなくなってしまい、
キリシタンの妖術だとか魔法だとか呪術だとかと言われたもの。信仰とは何も関係のない、外部の人間どもが垂れ流した噂だけが残った。
肝心の本体がいつの間にか人の心、信仰の中から消えてしまった。そこで今度は自分たちがクロスの信者だということを証明するために、
外部の人間が魔法だの妖術だのと言いふらしていたことを、逆に信者同士でやらねばならなくなった。これが悲劇の始まりだ。
すべては偏見と差別から始まった。たとえば明治初期、『電線が作物の出来を妨げる』だとか、『電線は処女の血を銅線に塗って音信を流す』だとか、
『写真機は人の魂を吸い取る』とか言ったもんだ。
それと同じで、『宣教師は子供の生き肝を食べる』だの、『瀕死の人の眼球をえぐり取る』だなんて、馬鹿げた嘘も流された。
生き肝を取る、生き血を吸うなんて話は、何も宣教師に限ったことじゃない。日本に仏教が入ってきたときでさえ、そんな悪い噂が広まったものだ。

そんな仏教が落ち着いて、いざ今度は切支丹が入ってくると『宣教師は人間を食う』などと、仏教の坊主どもが切支丹信者に信じ込ませようとして、
血に染まった布を宣教師の家の門口に投げ込んだそうだ。すべては浅はかな迷信と、信者を増やさまいとする卑劣なデマだ。
クロの信者は悲惨だった。信仰の対象を失ったうえ、他人に押し付けられた迷信じみた噂を自分たちで実践して、
自分たちの信仰心を試さねばならぬところまで追いつめられたのだ。
『瀕死の信者の生き肝を取る』というのは、おれの推測では、切支丹では死ぬ前に家人を遠ざけてバテレンと2人きりになって懺悔をする、
その家人を遠ざけることから出た妄想じみた推測にすぎない。おれはクロが追いつめられた、と言ったが、追いつめられただけじゃない。
追いつめられて先祖帰りしたのだ。生き肝取りの件は部落の結束が危うくなったときに、サカヤの一生では一度やるだけの『切り札』だった。
現におれがサカヤになってからというもの、一度たりともやっていない」
 
……と、このように、共同体としてのアイデンティティーの維持が難しくなったとき、彼らは他人(主に薩摩藩が意図的に流したとも)に
後ろ指さされたデマをあえて実行し、信仰心と結束を試したというのだ。日本人特有の負の感情である閉鎖的排他的な『ムラ意識』(シマ意識)なら、
忌み嫌うと同時に怖れるあまり、偏見や悪質なデマを流布させるだろうし、窮地に立たされた被害者側の共同体がそれを受け容れるのも、
なんだか充分に考えられうる話だと思う。


バテレン追放令wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%90%E3%83%86%E3%83%...
日本キリスト教史wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%82%...
幕末物語 Topic15 異人は若い日本女性の生き血を吸うらしい
http://onjweb.com/netbakumaz/jshoda/essay/topic1...
神様の教会世界福音宣教協会 聖書に関する質疑応答
http://japanese.watv.org/truth/qna/content.asp?idx=2147...
都市伝説という謎 都市伝説概要
http://yosicomic.jugem.jp/?cid=...

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172 2015/01/01(木) 12:48:12 ID:pH.7IML5.E
     クロ宗の死の儀式は存在したのか? その考察9

それにしても、心ない近隣住人による誤解と悪質なデマ『宣教師は子供の生き胆を食べる・生き血を吸う』は、なぜ派生したのか?
意外にも、生き胆云々の答えを解くヒントは身近にあるではないか。……それがアンパンマンだ。
なぜアンパンマン、と言うなかれ。
アンパンマンが空腹の者に『顔の一部を分け与える』ことで、パワーダウンするとわかっていても、困っている人を見捨てることはしない。
その自己犠牲の精神とヒーロー性こそ、イエス・キリストのソレと同義ではないか。キリストがカリカチュアされた姿と言っても過言ではない。
2013年10月、原作者やなせ氏が死去の翌日、東京新聞の追悼記事にて「ダンディーで信仰篤いクリスチャンだった」と報じられていたが、
後日、同誌上において「やなせさんをクリスチャンとしたのは誤りでした」との訂正記事を載せている。
クリスチャンであろうがなかろうが、キリスト教となんらかの接点があったはずで、この主人公はキリストを投影しているのは間違いあるまい。

そのアンパンマンが自身のパンを分け与えるということは、『聖体拝領(せいたいはいりょう)』を体現していると見てよい。
カトリックでは、司祭が司式するミサの際、キリストの言葉と聖霊の働きにより、パンと葡萄酒はキリストの肉体と血に聖変化するとされている。
聖変化とは、『パン・葡萄酒という形色のうちに、実体として聖体となる』という意味。
この聖体は父なる神への聖なる捧げものであり、キリストの受難と復活の記念であり、その拝領はイエスとの同義でもありながら、
イエスの神秘体である教会共同体としての一致を表している。
ちなみに、資料『キリシタン書 排耶書』に収録された『サカラメンタ提要付録』にはこうある。アンカー部分が引用文。

>ミサは、イエスの「最後の晩餐」に由来する集いです。イエスは十字架での死の前夜、弟子たちとともに晩餐を行い、
>その席で、「これは私のからだ、私の血である」と言われ、パンと葡萄酒を弟子たちに与えられました。
>そして、「これを私の記念として行いなさい」と、弟子たちに命じました。
>それ以来2000年の間、教会は、イエスの死と復活を記念し、命じられたとおりパンとぶどう酒の中におられるイエスをいただいて、
>イエスと一つに結ばれるミサをおこなっています。ミサの最後には、聖体拝領がおこなわれます。
>信徒は、丸いパンの中におられるキリスト(聖体)をいただきます。(中略)聖体拝領はカトリックの洗礼を受けた信徒に限られますが、
>洗礼をまだ受けておられない方は、代わりに祝福を受けることができます。
>信者と同じように列に並び、司祭または奉仕者の前で「祝福をお願いします」と言って小さく頭を下げてください。
>祝福が終わりましたら「アーメン」と唱え、元の席へお戻りください。

恐らくこのカトリックの『聖体拝領』が、誤解や悪意によって歪められ伝播されたのは明白。伝言ゲームが徐々に曲解された内容になるような
効果も手伝ったかもしれない。だからこそクロ宗に限らず、キリスト教自体が日本に入ってきた直後、いわれなき中傷を浴びた。


宗教のときめき 22. アンパンマンとキリスト教
http://www42.tok2.com/home/yasuiyutaka/tokimeki/22an...
Laudate 第86回 秘跡的いけにえにおける感謝、記念、現存
http://www.pauline.or.jp/catechism/catechism086.ph...
Laudate 第87回 キリストとそのからだである教会の、いけにえによる記念
http://www.pauline.or.jp/catechism/catechism087.ph...
Laudate 第88回 キリストのことばとその霊の力とによるキリストの現存
http://www.pauline.or.jp/catechism/catechism088.ph...

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174 2015/01/01(木) 12:58:17 ID:pH.7IML5.E
[YouTubeで再生]
     クロ宗の死の儀式は存在したのか? その考察10

肝食い・生血を飲む、といった秘蹟の正体はこれで合点がいったと思う。
くり返すが、『鬼無鬼島』は堀田氏が綿密に取材したうえでの作品ながら、サクヤ・用賀家成の独白はリアリティがあるものの、
あくまでフィクションにすぎない。それをどこまで鵜呑みしていいか読み手に委ねられるが、いずれにせよ、
信仰を続けていくことの苦悩と心の叫びは真に迫るものがあろう。
現実的に岡集落内で、過去に秘蹟をやったか否かまでは知る由がない。
やったことがあるかもしれないし、周囲の人間が畏怖するあまり、デマだけが1人歩きしているだけなのかもしれない。
おそらく今はそんな歪んだ信仰も廃れ、秘蹟などもちろん、サカヤそのものも存在するまい。

……あと、ついでに付け加えておく。クロ宗信徒が集るとされる岡集落を取り巻くブロック塀の件である。
3mにも届こうかと思われる高い塀で家を囲み(……が、>>165の画像を見る限り、いくらなんでも『3m』は誇張しすぎだ)、
いかにも閉鎖的な雰囲気を醸す集落の風景は、単に風よけの説が有力だ。
冬になれば谷になった集落に強風が流れ込まぬための防衛策だったともいうが、本当のところはどうだろうか?

『家』そのものと、それを囲う『庭』は、実は人間の潜在意識が働くものである。やたらと窓や玄関を開放して空気を入れ替える家人は、
開放的な性分の人だし、「動物好きに悪い人はいない」と言う人もいるが、過剰な数を飼ってる家人の場合、近隣住人に対し、
吠え声や糞尿の臭いの迷惑も顧みないとなるとエゴイスティックな人と取られかねない。
庭いっぱいに花を作っている人は朗らかで、心に余裕がある人が多い(下世話だが経済的にも余裕がある場合が多い)。
それとは逆に、高い塀や生垣で囲い、玄関には監視カメラを取り付けてある家人は、逆に言えば開放的なはずがない。
自分たちの信仰を誰にも邪魔されたくないからこそ、隠したい心理が働いたのではなかろうか?
まあ、塀の話はこれぐらいにしておこう。塀もまた、しょせん塀でしかない。

……とにかく、クロ宗の死の儀式はこんなカラクリだったわけだ。島という小世界では、習俗や価値観が純粋培養し、長時間を経て熟成され、
時には内地とはかけ離れてしまうことがしばしばある。その変容事例の極北と言えよう。
だからあれほど『※明治まで肝食いをやっていただの、集落に近づけさせないためのデマにすぎないとの諸説がある。真に受けないように』と、
補足しておいたのに、誰かさんがこんな動画作っちゃうんだから……。
今回はいささかレスが長すぎた。検証はこのへんで幕引きしよう。
肝食いや生血飲みを恐れるのではない。それを悪意で歪めてしまう我々の心の闇を恐れるべきなのである。


隠れキリシタン
http://www.geocities.co.jp/Playtown-Knight/7829/texts/kak...
[PDF]2012 年度早稲田大学教育学部講義「日本史研究Ⅳ」22.近世人とキリシタン(2)—異端的宗教活動と潜伏キリシタン 2012.11.20. 大橋幸泰
http://www.f.waseda.jp/yohashi/nihonsikenkyuu/1120.pd...
崖っぷちの一歩 隠れキリシタンについて。
http://blogs.yahoo.co.jp/amat_aya/32169192.htm...
南勢出版 22.キリシタン殉教の地に想う
http://www.nansei-shuppan.com/wp/honda/past-aic/2079...
1995年11月号/第71号 [ずいそう] 古本の話 木村 雅信(きむら まさのぶ ・ 札幌大谷短大教授)
http://kamuimintara.net/detail.php?rskey=71199511z0...
teratown.com@journey » 2009 » 11月 » 11 - 寺町健
http://teratown.com/blog/2009/11/11...
50年ぶりの疑問が解けた! - 河童の川流れ - Yahoo!ブログ
http://blogs.yahoo.co.jp/nakam1866/51965253.htm...
『男の隠れ家』Bohken-Dankichi 鹿児島の旅④…下甑島③
http://blogs.yahoo.co.jp/olivin_kanranseki7/folder/5340...
[PDF]五島列島・椛島における点在集落の歴史 脱カクレキリシタン史の視点 佐藤智敬
http://journal.seijo.ac.jp/gslit/student/jomin/pdf/jpn-02...

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175 2015/01/10(土) 07:56:43 ID:5B68EYvsbo
     クロ宗の死の儀式は存在したのか? その考察11

>>166で『れっきとした民俗学の報告書』と書いたが、1例を紹介しておこう。
昭和11年に出版された『川内地方を中心とせる郷土史と伝説』(著者・鹿児島県立川内中学校編、出版者・鹿児島県立川内中学校より)
の101頁目(サイトの『コマ番号』は『69』)にはクロ宗に関する記述が見られる。全文抜粋しちゃおう。平易な漢字で書きなおしてみた。
アンカー部分がソレ。


>甑島のクロ宗

>甑島、下甑村の片ノ浦には「クロ宗」と称せらるるカトリックに属する一種の密教が現存している。
>片ノ浦海岸を隔たる十町、谷間の山間部落にして八十余戸が密集し、平和な農村部落を形成している。
>部落民の結束極めて固く、すべて秘密主義をとっているため、このクロ宗の本体もまた判然となっていない。
>最近県当局の調査によれば、クロ宗のクロとはキリストのクロスから転化した語と見られている。
>付近の古老の言によれば、今を去る約三百年前、島原の乱に敗れた信徒の一部が信仰の自由を求めて海を渡ってひそかにここに転住したものと言われ、
>したがって現在ではクロ宗に関するよるべき確実な資料は発見されず、ただ部落には十字架を彫り付けた三基の墓碑が遺っているのみである。
>部落民の特殊な風俗について見るに、部落民は極端にクロという言葉を嫌悪し、便所も十字を踏まぬ構造となっている。
>祭礼の行事は年一回深夜、極秘裏に催される。
>この深夜、祭事を行うのは、イエス・キリストの誕生日にヤソ(キリスト)教徒が深夜に祭りを行うという古い習慣があるのを、
>部落民が襲行?しているものと考えられ、信徒死亡の祭りは、まずクロ宗による祭りが行われてあと、喪を発して真宗による葬儀を執行すると言われている。
>同部落の素封家(財産家)大毛示氏は、クロ宗の本家と称せられ祭事を握っているものと言われているが、氏は京都中学を経て中央大学出身の人格者である。
>同氏を中心とする部落民の信仰生活はまた恵まれたものであろう。


近代デジタルライブラリー 川内地方を中心とせる郷土史と伝説
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/125597...

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176 2015/02/01(日) 09:13:15 ID:nSv/dix3aA
     津久見島からきた大蛇、娘を憑り殺す 津久見島(つくみじま)

>>38で『臼杵城を鬼や邪から守るための鬼門封じの島』として大分県臼杵市の津久見島を取り上げたが、さらに追加。
この島にも大蛇伝説が残されていたので。ここで登場する大蛇もなんらかの暗喩だろうね。

永禄5(1562)年5月、戦国大名・大友義鎮は臼杵の丹生島(にうじま・現在の臼杵公園)に城を築いて隠棲した。
島の周囲は切り立った絶壁になっており、居城とするには絶好のロケーションだった。義鎮はのちに剃髪し、宗鱗と名乗ったときの話。
宗麟は多くの一族や家老たちを引き連れ、城のまわりに住まわせた。この家老のうちの1人に人目を惹く娘がいた。
幼少より抜きん出て美形だったが、年ごろになって美しさに磨きがかかり、いつしか臼杵城下一の美人と噂されるようになった。
縁談があちこちから持ちかけられた。そのたびに娘は首を横に振り、両親も彼女を手放したくない思いから自宅に閉じ込め、
虫が寄り付かないようにするほどの可愛がりようだった。
ついに娘は18歳の春を迎える。そのころから塞ぎがちになり、木々は緑の芽をふき花が咲き乱れ、誰もが心浮き立つというのに、
表情は日ごと暗い影を落とし、思いつめる日が続くようになった。

時同じくそのころ、臼杵城下町では奇怪な噂が人々の耳目に触れた。臼杵湾内にある津久見島から丹生島城にかけて、
毎夜、銀のさざ波が走ったかと思うと、生臭い一陣の風を伴い、ギラギラ光る怪物が海を渡ってくるという。目撃した者は3日3晩うなされるらしい。
そんななか、娘の病状は日増しに重くなるばかり。父母は娘に問うた。もしや恋の熱病ではあるまいか。
娘は打ち明けた。「毎夜、子の刻(午前零時)をすぎるころ、美しい男性がいずこからともなく通ってくるようになったのです。
すると私は気を失い、その後のことはなにも憶えていないのです。ですがいまでは、その男性のことが忘れられなくなっているありさま。
正直言うと、待ち侘びてさえいるのです」
両親は顔を見合わせた。まさか津久見島から城に渡ってくるという怪物と因果関係があるのではないか。

家来のなかから腕に憶えありの若侍を選び、「怪物の正体を見極めよ。場合によっては斬れ」と宿直を命じた。
真夜中。若侍が寝ずの番をしていると、不意に庭の繁みから若い男の姿が現れ、娘の部屋に入っていった。
若侍は刀に手をかけたまま、金縛りにあったように身動きができない。しばらくすると、件の男が部屋から出てきた。
若侍は裂帛の気迫をふりしぼって抜刀し、「曲者めが!」と叫んで一閃。ところが影を切ったかのごとく手応えはなく、
平然と男は去っていこうとする。
追いすがって今度こそと刀を振るったが、やはり実体がないかのよう。やがて城壁の端に出たかと思うと、ザブンと海に身を躍らせた。
若侍が駆け寄って海をのぞき込み絶句した。男の姿はなく、そこには10mほどもある大蛇が銀色の光を放ち波間をわけていくではないか。
その一件以来、娘のもとに男が通うことはなくなった。
しかしながら娘は日ごと衰弱し、ついには全身の血が枯れ、数日のうちに朽ち木のように見るも無残な姿となり、短い一生を終えたという。


大友義鎮wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%8F%8B%E7%BE%...
豊後水道の奇岩と奇石 豊後水道・津久見市周辺海域で佳丸撮影
http://www.hyper-tsukumi.jp/‾amadai/kiseki.html
パノラマ写真で見る大分県 民話や伝説 大分県の民話や伝説
http://www.d-b.ne.jp/siga/tokusen/minwa.htm...

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177 2015/02/14(土) 10:41:19 ID:3Ak4X4jl6E
     姫島婿島物語 向島

山口県防府市南部の瀬戸内海上にはタヌキの島として知られている向島がある。大正15(1926)年2月24日に『向島タヌキ生息地』として
国の天然記念物に指定されてから、指定当初はおよそ2万頭もの個体数を誇っていたが、錦橋の開通にともない近年は野犬が増加。
その食害によって数は激減している。

向島は遥かな昔、神代のころ、豊後国の国東半島の沖合にある姫島に対し、婿島と呼ばれていた。
婿島と称されていた時代、こんな悲恋の物語が残されている。
そのころ、周防国の佐波志那都命(さばしなつのみこと)に、牟礼香来比古(むれかくひこ)という嫡男がいた。
身の丈6尺(1.8m)あまりで筋骨たくましく眉目秀麗ばかりか、たいへんな働き者。
佐波川の荒野を開拓して美田とし、財をたくわえ豊かに暮らしていた。周防国きっての評判の若者であった。

一方、海を隔てた豊後国の国東には、加奈古志比売(かなこしひめ)という、これまた類稀な美貌と、諸芸に秀で誉れ高い姫君がいた。
父の佐伯速阿岐命(さえきのはやあきのみこと)のもとには国中の多くの若者が、ぜひとも婿にと申し込みが殺到したが、美姫と釣り合う若者は見当たらなかった。
姫の縁談に気をもんでいた父のもとへ、ある日、塩土老翁(しおつちのおじ・当スレ>>104を参照)が訪ねてきた。
話を聞いた塩土老翁は、姫にふさわしい若者をあれこれ思案したのち、周防国の牟礼香来比古のことを父君に紹介した。
さっそく佐伯速阿岐命は、老翁に仲介を頼んだすえ、晴れて牟礼香来比古と加奈古志比売は契りを交わした。

しかしながら当時の結婚生活は特殊なものだった。夫婦は一緒に暮らさず、夫も妻も以前と同じく、それぞれの実家に住むのが通例であった。
夫が妻の実家に夜ごと通い、夜のうちだけ妻子と団欒をともにする、週末婚ならぬ半日婚である。
牟礼香来比古は日中を周防国で働き、夜になってから舟ではるばる国東の加奈古志比売のもとに通い、夜明けにまた佐波の浦へ出かけるという、
涙ぐましいハードスケジュールの生活を強いられた。

とはいえ牟礼香来比古は働き者なだけでなはなく、妻思いの若者だったので、夫婦愛はいっそう深まった。
ところが日が経つにつれ、さすがの牟礼香来比古も疲労が重なって健康を損ない、労働意欲までなくしてしまう。佐波川の美田も荒らしてしまう始末。
不憫に思った父、佐波志那都命は、妻のもとへの通うのをやめるよう諭した。それに反し、牟礼香来比古は家人の目をかすめて国東へ通い続けた。
堪忍袋の緒が切れた父の命は、息子の舟に鎖をかけて、舟が出せないようにした。このままでは息子は早晩、命を落としてしまう。
例のごとく家人の目を盗んで牟礼香来比古は、舟に乗り込み櫓を漕ぐが、櫓はきしむばかりで舟は前に進まない。
若者は灯台下暗しを地で行ったことに気づかなかった。「加奈古志比売、加奈古志比売よ……」と、暗い海に向かって叫んだ。
悲しいかな若者は、夜明けとともに舟ごと島へと姿を変えてしまった。いつしか人はその島を婿島と呼ぶようになった。
のちにそれが今日の向島へと変遷するわけである。

一方、夫を待ち侘びた姫も、国東の沖まで舟を出して夫を迎えにいったが、ついに夫が来ないまま夜が明けてしまった。
同じく加奈古志比売も、舟ともども島へと変化した。これが大分の姫島の誕生だった。
このように恋い慕う夫婦の仲が引き裂かれて離島となり、海を隔てて向かい合って、現在もたがいに会いたがっているというのだ。


向島公民館(出張所) 向島探訪
http://www.city.hofu.yamaguchi.jp/site/mukoushima-kom/mukokom-ta...
豊徳園ライブラリー
http://www14.plala.or.jp/hotokuenhp/libraryind.ht...
^^冬 銀 河^^のブログ 銀河通信 島に渡るには遮断機に注意
http://ameblo.jp/gingayamato/entry-11928923605....

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178 2015/02/22(日) 06:30:13 ID:LKbB/E8UC.
前スレもスレッド5ページ以降に流れてしまっても、ちゃんと検索すれば生存が確認できます。
あいにくサイズ500KBを超過をしてしまい、レスできませんが。


怖い島・いわくつきの村・総合
http://bbs50.meiwasuisan.com/kaiki/1303097760...

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179 2015/02/22(日) 06:33:53 ID:LKbB/E8UC.
     堂ヶ島のゆるぎ橋伝説 三四郎島

前スレ>>246で取り上げた静岡県は三四郎島の悲恋伝説は、個人的にお気に入りだった。
恋が成就する話よりも、想いが届かない悲恋の方がいつまでも余韻を響かせるからだろう。
おさらいしよう。三四郎島は静岡県賀茂郡西伊豆町に属する景勝地・堂ヶ島海岸に点在する象島、中ノ島、沖ノ瀬島、高島の4島の総称だ。
その景色の美しさから『伊豆の松島』とも称えられている。
駿河湾上より伊豆半島の沖合約200mに位置し、干潮時には半島に近い象島まで、幅30mほどの浅瀬が現れる。
沖ノ瀬島は潮が引くと完全に中ノ島とつながってしまい、沖ノ瀬島と中ノ島を1島として数えられることもあり、
また見る角度によって3つに見えたり4つに見えたりすることから、三四郎島と名付けられたとも言われている。
いずれにせよ観光客はその砂の回廊を歩いて渡り、中ノ島で逢瀬を重ねていた源氏の若武者・三四郎と小雪たちに思いを馳せるのも一興だろう。

それはそうと、堂ヶ島海岸には伊豆七不思議の1つとして、こんな伝説が語り継がれていた。
天平年間(729〜749年)、伊豆ノ国田方郡の堂ヶ島に海賊の一団が悪事を重ねていた。これは紀伊国熊野から流れてきたと伝えられている。
頭目の名は墨丸。多くの仲間を従え、沖を行き交う船を襲い、近隣の村も略奪の憂き目に遭っていた。
村々では都へ献上する年貢として、特産の鰹節や砂金を収めるのが習わしであった。
ところがある年、墨丸率いる海賊の一味が砂金欲しさに押し入ってくる。村人は懸命に応戦するも、いかんせん多勢に無勢。
ついに砂金はごっそり奪い取られてしまった。

たっぷり戦利品を得た海賊たちが薬師堂の前の橋にさしかかったとき、奇跡が起きる。
橋は直下型地震のように激しく揺れ、海賊たちは立ち往生してしまう。橋から川の中に転落してしまう者もいるほど。
砂金の袋を離してなるまいと抱えて渡ろうとした墨丸だったが、どこからともなく仁王さまが現れて、墨丸をヒョイとつまみ上げ、
薬師如来さまの前に差し出されてしまったという。
とっくり薬師如来さまに人の道を説教された墨丸は、それまでの悪行を悔い改め、以後このお堂の守護に尽力した。

このあと薬師堂の前の橋は、心の汚れた者が渡ると揺れる『ゆるぎ橋』と呼ばれるようになった。
月経中の女性が渡ると揺れるともいい、橋を削り取った木片を焚き、その火を見せると夜尿が治るとさえ伝えられる。
現在では橋と薬師堂は、長年の風雨による浸食により撤去されてしまい、由来を書いた石碑だけが唯一の名残りとなっているだけである。


一人暮らし老人のサバイバル・ゲーム 伊豆半島の旅〜その十
http://blogs.yahoo.co.jp/jdreamr/45256385.htm...
旧:伊豆ネイチャーガイドの独り言 揺るぎ橋、隠れ名所堂が島
http://nature.i-ra.jp/e362842.htm...
彷徨私事記 今日の観光−堂ヶ島園地@土肥港−
http://blog.livedoor.jp/styling21p/archives/3758577.ht...

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180 2015/03/01(日) 11:35:51 ID:vbRJjZmjbY
     9人の女を餅つきの杵で撲殺・殺人祭『手杵祭』 小浜市矢代区 1

興味深い奇祭を見つけたので、強引に村ネタで1つ。重ねて言いますが、決して共同体を貶めるつもりではありません……。
福井県小浜市は畿内色の濃厚な港町で、律令時代より前から大和王権の日本海側の玄関口として盛えてきた歴史がある。
小京都と呼ばれることも多く、全国京都会議にも加盟しているほど。市内には国宝や国指定の重要文化財が数多く立地し、
『海のある奈良』と呼ばれる所以である。そして小浜といえば、オバマ大統領と……(以下略)。

ところで、その小浜市でも日本海岸の若狭湾を臨む集落の1つに矢代区がある。
矢代には不定期ながら4月3日に矢代観音で行われる祭りがある。それが『手杵祭』で、県無形民俗文化財に指定されている。
この祭の発祥が血なま臭くてムラムラしてしまいそうな垂涎ネタである。それがこんなお話。

天平宝字3(759)年、矢代の浜に、不思議な形状をした1艙の船が漂着した。
乗っていたのは見目麗しい9人の女たち。言葉は通じなかったが、どうやら唐の国から漂流してきたらしく、
王女を中心に付き添いの女靗衆8人を従えていた(※2人の船頭と6人の女靗衆との説もある)。
深い事情があり長い船旅を続けていたのだろう。食糧も底をつき、身も心も疲れ果れ、ただ憐れみを乞うばかりであった。
村人たちは物珍しそうに女たちを眺めていたが、ふと船内を覗くと、金銀財宝と神々しい観音像が積み込まれているではないか。
よからぬ悪心が働いた者がいた。つい金に目がくらみ、女たちを殺害してしまう。奇しくもその日は3月の節句の日。
村では家ごとに餅をついていたが、その杵で1人残らずつき殺してしまったのだ……。

その日を境に悪病が流行り出した。祈祷をしても病はますます猛威をふるい、死人が続出。村人たちは額を突き合わせて相談した。
「唐の国の女たちを殺したのがマズかったのだ。そういや、一緒に奪った観音像はどうした? まさか祟りじゃあるめえな?」
「そうじゃの。観音様にお詫びしなければなるまい」と言って、女たちが乗ってきた船を解体し、船材で堂を建てて観音像を祀った。
そのうち悪病も収まった。現在ある観音像は当時のままのもので、お堂も手を加えられていないと伝えられている。
この悲劇があってからというもの、村人は殺戮を戒め、女たちの霊を慰み、天罰を恐れて手杵祭を行なうようになった。
平安初期以来、不定期ながら途絶えることなく受け継いで行事を守ってきたという。
手杵祭をまとめる人物は大禰宜(おおねぎ)といって、正月元旦より水垢離と潔斎精進を重ね、この1年間を区の祭礼、物忌み、
宗教的諸事の責任者としてすごさねばならない。

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181 2015/03/01(日) 11:43:33 ID:vbRJjZmjbY
     9人の女を餅つきの杵で撲殺・殺人祭『手杵祭』 小浜市矢代区 2

祭行列の役者には5種あるが、手杵棒振りと2人の弓矢持ち、そして女靗衆とが独特な雰囲気を醸し出して悲劇の役を演じる。
編笠にシダ葉を挿し、顔には墨で隈取りをした異様な姿に扮した手杵棒振りと弓矢持ちは惨殺シーンを再現する。
これに反して穢れを知らぬ女児たちの女靗役は、金袋に擬した頭巾をかぶって登場。
禰宜・若者組・女児は、矢代区の戸主、長男、娘に限り、区の成員になるにはこの役割を必ずこなさなければならない通過儀礼としてきた。
集落の過疎化・少子化により祭の参加者(女靗役の女児)が集まらなくなったため存続が危ぶまれており、開催年も不定期ながらと書いたが、
昨年2014年にはつつがなく開催されたようだ。

……当スレ>>55でも興居島(ごごしま)の、壷に入れられ唐国から流された和気姫の話を書いたのは記憶に新しい。
この類話の真相は天然痘などの感染者を追放したか、もしくはソレで絶滅する共同体から健康体を救うために放逐したのではなかろうか?
9人の女たちは感染者だった。だからフタを開けた途端、細菌をまき散らし、村人も罹患したと考えるのが自然ではないか。
もしかしたらオカルトとしてたびたび取り上げられる『虚ろ舟』の正体も、案外こんな事情があったのかもしれない。


福井県小浜市矢代観光協会
http://wakasa-yashiro.com/
オバマを勝手に応援する会wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AA%E3%83%90%E3%83%...
福井県の文化財 手杵祭
http://info.pref.fukui.jp/bunka/bunkazai/sitei/mukeimin/...
祭りのあとで… 手杵まつり
http://maturinoatode.web.fc2.com/festival/tekine_maturi/tekine_...
Beachcomber's Logbook 手杵祭復活!
http://beachcomb.exblog.jp/21958875...
[PDF]祭りの参詣者による伝承と記録 -福井県小浜市矢代の手杵祭から- 橘弘文
http://library.tourism.ac.jp/no.7HirofumiTachibana.pd...
六部殺しwikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AD%E9%83%A8%E6%AE%...

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182 2015/03/01(日) 18:55:04 ID:vbRJjZmjbY
……実は>>180と似たような話が僕の地元にもあったりする。もっとも、感染症をまき散らした話ではないけれど。

熊野古道で知られている三重県熊野市のお隣、御浜町阿田和地区の小高い丘に『稚子塚』と呼ばれる小さな祠がある。
その由来は以下のとおりである。
正徳年間(1711〜1716年)に小舟に乗った美姫が流れ着いた。これを市木村の庄屋・翁了が介抱した。
聞くところによると、姫は阿波(徳島県)の国の大名の娘で、名を乙姫といった。
姫は萩内地区の街道筋に茶屋を開き、生計を立てた。あまりの美人っぷりに茶屋は繁盛した。

信心深い人柄で生涯独身を貫いた。いつしか病床についたとき、臨終の間際、世話になった翁了に礼を述べて財産を託し、
「私が死んだら七里御浜が一目で見える高い山の上に葬ってほしいのです。いつまでも村の人の平和を祈りたい」と遺言を残し息を引き取った。
翁了は乙姫の遺体を近くの飛波山に葬り、稚子塚と呼ぶようにした。のちに大正10(1921)年、祠を建て、乙姫大明神として祀った。
お参りすれば美人が生まれ、無病息災が授かるといって若い女性が押しかけるようだ。4月3日が乙姫の命日にあたり、毎年同日に賑やかな祭礼が行われている。

……この姫の場合も、おそらく感染症に罹り共同体から放たれたか(とすれば漂流中、病から奇跡的に完治したのかも)、
その逆もありうるだろう。


山行の記録 浅間山
http://noyamaumi.web.fc2.com/kiroku/1005_sengensan100207/10...
はなきん 2014年9月アーカイブ
http://www.fmmie.jp/program/hanakin/2014/09...
MIE御浜町商工会 観光の案内 市木(いちぎ)地区
http://www.mie-shokokai.or.jp/mihama/kankou/ichigi_index.htm...
熊野古道伊勢路霊場めぐりモデルウォーク ①風伝・通り峠コース〈平成25年11月9日(土)・10日(日)〉
http://www.pref.mie.lg.jp/HKISHU/HP/4fuudentori2.pd...

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183 2015/03/07(土) 14:39:18 ID:1gRq6t5g.c
     いまも5人の座頭の怨嗟が聞こえる……。 五人宗谷(ごにんぞわい) 1

個人的に、『板子一枚下は地獄』を体現する豪胆な漁師が、気味悪がって近寄らない島がいちばんソソられる。
コレに鑑みれば、前スレ>>356の5人の座頭が海の藻屑と消えた伝説の『五人宗谷』(定義的に言えば、『島』ではなく『岩礁』なのだが)は理想的。
このたびググりまくった甲斐あって、五人宗谷に関する資料を見つけた。タイトルは『島の伝説』。著者・三宅勝太郎、出版社・著琴弾地海水浴場、
昭和11年出版。貴重な資料はとどめておくべきである。若干、前スレで書いた内容と異なる部分もあるが許せる範囲だ。平易な漢字で書きなおしてみた。

いまから5、600年ほど昔の話。安芸の国に按摩を生業としている5人の同業の盲人がいた(以後、『座頭』とする)。
その座頭たちは全国のあちこちから集まった年齢もバラバラの者だったが、同じ境遇であるがため、いつしか血をわけた肉親のように仲良くなった。
ある年の木枯しすさぶ正月、5人は一堂に会し、宴会を開いた。
酒の酔いが回るにつれ、よも山話に花が咲く。1人が、「どうだ、死ぬまで一度は信濃の善光寺さんへ、お詣りしてみたいものじゃな」と、言った。
他の4人の座頭も口をそろえて、「人の一心ほど強いものはない。諺に『精神一到何事か成らざらん』と言うではないか。盲(めしい)であっても、
善光寺さんへお詣りできないことはない。金さえあればどこへでも行けよう」
「そうとも、金だ。金があれば世間様に遠慮することはあるまい」「だったら貯めるべきだ。金があればどんな遠出だって許されよう」

こうして5人は相談の結果、座頭にとって一生の夢である、善光寺へ詣りに行くことを決めた。
それには信濃までの旅費や諸々の費用を蓄えねばならない。1年をそれに費やし、明くる年の正月の新年会でまた会おうと約束した。
昼夜のべつ幕なしに働いた。おかげで5人の親睦会も少なくなったが、夢を実現するには致し方ない。
こうして1年はめくるめく速さですぎ、翌年の正月がやってきた。
祝いの宴の前に、年長の座頭が音頭を取りながら「いかがですみなさん、お金は貯まりましたか。例の約束は果たせますかな?」と、言うと、
各人は自身の貯金額を発表した。
合わせると100両もの大金になる。5人は、「これだけあれば、充分善光寺詣りができるな!」と、小躍りして喜んだ。
その勢いで、正月3日の祝いをすませたら、さっそく出立することにした。

4日目、一般の帆船を雇った。5人の座頭はそれぞれ旅の用意を整えて船に乗り込んだ。
彼ら5人の喜びを乗せた船は、艪を漕ぐ音も勇ましく鞆の浦(現・福山市)の港を出帆。
風はベタ凪に近く快晴。まるで前途に対する不穏さは微塵もない。5人は早、善光寺に行ったような気持ちになり、子供のようにはしゃいだ。
そんな様子を船頭は異様な眼つきで見守り、苦笑をこぼしていた……。

返信する

184 2015/03/07(土) 14:42:30 ID:1gRq6t5g.c
     いまも5人の座頭の怨嗟が聞こえる……。 五人宗谷(ごにんぞわい) 2

座頭にとっては甲板から広がる周囲の景色は見えないのだが、波音や艪のきしむ音、かもめの声などは耳に心地よく響いた。
日が暮れ、やがて夜が明け、出発してから5日目の夕方、船は直島の北方へさしかかった。
そのころになると、船頭の胸中は悪心が支配していた。5人の座頭はたんまりと金を持っているのは身なりのみならず、
後生大事そうに抱えている荷物から察することができる。あとはどのタイミングで罠に落とすかだけである。
『そわい、金! そわい、金! そわい、金!』と、船頭の思考は渦巻いていた。いよいよ彼は決行する……。

突然船を停め、「シマッタ!」と、迫真の演技に打って出た。座頭たちは船頭に、「どうなさったのですか?」と聞いた。
船頭は軽薄そうな笑みを浮かべながら、「船がそわい(※岩礁・小豆島の東から広島湾までの海域での岩礁を指す)に当たっちまい、
船底から水漏れがするようです。このまま船旅を続けるわけにはいかない。ちょっと時間はかかりますが、座頭さんたちは修理が終わるまで、
陸に下りて待っていてくれませんか。おあつらえ向きに、そばに島があるんです」と、5人を陸へ上げるや否や、5人が盲であるのをいいことに、
舌を出して急いで船を沖へ出した。

5人は急かされたものだから、たくさん金を入れた財布も荷物も、船に置き忘れてしまった。
せっかく汗水流して働いて貯めた金。気もそぞろになる。「船頭さん、荷物が濡れては困りますから、そろそろ上げてください」と言った。
いくら呼べど叫べども返事はあろうはずもない。5人はようやく計られたことに気づいたが、時すでに遅し。
善光寺詣りの夢消えて、いまは狂人のように取り乱し、走り回っては岩の凹凸につまずいては転んだが、盲の悲しさ。もはやどうにもなるものではない。
座頭が上げられた陸は、海上のほんのちっぽけな岩礁にすぎなかった。時間が経つにつれ、潮が満ちれば小さな陸は海に沈む。
足に海水がつかり出した。潮が徐々に高くなるにしたがい、悲鳴をあげて1人流され、2人流され、5人の仲の良い座頭たちは散り散りにされ、
怨嗟の呪詛をまき散らしながら海の藻屑と消えた……。

その事件以来、夕方その付近を船が通ると、5つの火の玉がそろって岩礁の上をふわふわ飛ぶようになったという。
雨の日などは、悲しい泣き叫ぶ声さえ聞こえたとされている。地元の人は誰言うとなく、その岩礁を五人宗谷と呼ぶようになった。
宇野港の沖合、鳥島と京の上靗島の間にある岩礁がソレであるとされている。潮が満ちると海中に隠れるが、潮が引けばゴツゴツとした黒い岩が姿を現す。
いまでは秋の夜長の、古老の昔話となっている。


岡山県玉野市に伝わる海や島の伝説 五人宗谷(ぞわい):玉野の伝説
http://tamano.imawamukashi.com/umi/umi-6.htm...
近代デジタルライブラリー 島の伝説 三宅勝太郎(コマ番号は『13』にすべし)
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/145598...
瀬戸内海の浅瀬名について
http://www1.kaiho.mlit.go.jp/KAN6/5_sodan/mame/topic-asase....

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185 2015/03/14(土) 10:28:58 ID:2Oo7iMGRg.
     出産シーンを覗かれ、ナマズ姫おおいに怒る 鵜ノ島

山梨県は内陸部にあって、島とは縁がなさそうだが、富士山の北麓に広がる河口湖には2つの島がある。
六角堂が建つ小島(定義的には島ではない)と、もう1つが河口湖の中央にある鵜ノ島。であるからして、鵜ノ島こそ山梨唯一の島といえる。
河口湖畔には弥生時代の遺跡が点在しているが、島にも縄文時代早期から弥生時代早期からの土器や石器類が出土する『鵜の島遺跡』がある。
同遺跡からは西日本由来で東日本においても遠賀川式土器が出土しており、縄文から弥生への移行期にあたる遺跡として注目され、文化財になっている。
『勝山記』によれば、永正13(1516)年には湖岸の住民が合戦から逃れ、一時は島へ避難した歴史がある。
また天文23(1554)年10月、武田晴信(信玄)が信州下伊那の神之峰城を攻め、捕らえた知久頼元親子を鵜ノ島に幽閉したという。
ほかに島内には鵜ノ島神社の赤い鳥居と『島の弁天』と呼ばれる弁天堂が祀られ、毎年4月25日に例祭日が開かれる。
『甲斐国志』神社部によると、例祭日に湖辺の住人が小舟で島へと参詣したことが記されている。
この弁天堂には豊玉姫が弁天様として祀られているのだが、またしても『見るなのタブー』が絡む伝説が残されていた。それがこんなお話。

神々の時代のある日のこと。彦火々出見尊(ひこほほでみのみこと)は河口湖で釣り糸を垂れていると、そばを娘が通りかかった。
尊は娘の美しさに眼を奪われ、思わず声をかけた。娘は鵜ノ島に住む豊玉姫。若い2人はたちまち恋に落ち、結婚しようと誓い合った。
2人は豊玉姫の住む島に渡り、新婚生活をはじめた。やがて姫は身ごもり、出産の支度をすることに。
その際、姫は「お願いがあります。どうか島から離れたところに産屋を作ってほしいんです」と、提案。
「よかろう。だったら島の鵜に相談し、その羽毛をもらって産屋の屋根を葺いてあげるよ」と、尊は言った。
「ただし約束してほしいのです。その産屋には決して近寄らないでください。ましてや覗くなど暴挙はなさらぬように」
「なんじゃそら?」
「産気づいてイキんでる姿なんて、お見せするわけにはいかないでしょう?」
「ま、それもそうだな」

そうこうするうちに、出産のときを迎えた。尊はソワソワしてきた。姫は半日近く産屋にこもったきりで一向に出産したと返事がない。
まさか難産のすえ、やや子と一緒に命を落としたのではあるまいか?
尊は産屋の扉に手をかけた。約束を忘れたわけではない。むしろ「決して覗いてくれるな」と言ったときの姫の怖い眼といったら……。
「ええい、ままよ!」尊は姫の言いつけを破り、ついに産屋を覗いてしまった。
屋内には姫の姿はなく、かわりに1匹の大ナマズがのたうち回り、まさに出産しているところだった。
驚いた尊。その気配にナマズは振り返り、怒りの表情を見せ、「よくも私の姿を見ましたわね……。正体を知られたからには、
国中の人間を湖中に引きずり込んで、たっぷり苦しめてやるから覚悟おし!」と捨て台詞を吐くと、鵜ノ島に渡り、人前から姿を消したという。

一般的に弁天様は嫉妬深く、美人に災いをもたらすといわれる。江戸時代にはこんな逸話も残されている。
鵜ノ島へ花摘みにきた12人の娘が、弁天様のご尊顔を腐した。すると黒雲が現れ、波が荒れ、帰りの船を転覆させてしまい、
娘たちは湖底に沈んでしまったとか……。


ホオリ(彦火火出見尊)wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9B%E3%82%AA%E3%83%...
トヨタマヒメ(豊玉姫神)wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%88%E3%83%A8%E3%82%...
とある歴史好きオヤジの戯言 『見るな!』のタブーと日本神話
http://blog.livedoor.jp/archon_x/archives/7122091.htm...
神社人 黄泉の国のおはなし 日本神話の見るなのタブー
http://jinjajin.jp/modules/contents/index.php?con...
パワースポット研究所 河口湖のご利益
http://ookuni.info/15_yamanasi/015.ph...
富士山と河口湖周辺ふるさと探訪 鵜の島の弁天様
http://www.fujigoko.tv/furusato/mukashi/act10.htm...

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186 2015/03/21(土) 18:01:59 ID:PXdPRQVgIk
     アイヌの『洞爺湖の神と中島伝説』 中島 1

北海道虻田郡洞爺湖町と有珠郡壮瞥町にまたがる洞爺湖(とうやこ)にも島があるのはご存知だろうか?
湖の中央に大島、観音島、弁天島、饅頭島の4島があり、これらを総称して、中央の島だけに中島と呼んでいるのだ。
中島は約5万年前の火山噴火に伴って形成された溶岩ドームと火砕丘の集合体とされているが、アイヌは神の意志により造られたと信じている。

昔、松前の殿様に仕える文武両道に通じた人物がおり、2人の男子がいた。
幼いころより武士になるべく剣術や学問の英才教育を受けるものの、兄はソツなくこなしていくのに対し、
弟は懸命に努力するにもかかわらず、算盤も剣の腕もからきし上達せず、それどころか読み書きすらままならなかった。
父はそれを憂い、息子の将来のため、よかれと思って手をさし伸べるのだが、なかなか期待に応えてくれない。
歯がゆさに時には癇癪を起し、算盤や刀の鞘で頭を殴られることもあり、母や姉は不憫がって、陰で泣くことも少なくなかった。

ある日、父親は弟を呼びつけ、こう言った。「おまえは立派な体格をもち容貌もいいのに、どうして物憶えが悪いのか、さっぱり解せぬ。
役立たずをいつまでも家においていくことは、我が家の恥辱であり、主君に対しても申し訳が立たぬ。
このうえにおいてはわしが腹を切って詫びを入れるか、さもなくばおまえが家を出ていくか、2つに1つをとらねばなるまい」

まさか父に切腹を強要するわけにもいかない。
「父上たちに迷惑をかけるのは心苦しい。ですから私が家を去って他国へ移り、背水の陣で臨めば、新しい道が開けるかもしれない」と、
答えると、家中の者が涙した。
母は泣きながら小袋に薬をおさめ、父は長い太刀と短い脇差を弟の腰に差してやり、金の編み笠をかぶり、みんなに送られて家を出立した。

……さりとて行くあてなどあるはずもなく、泣きながら歩いていると、名も知れぬ大きな川の畔にさしかかった。川岸には先客が座っていた。
同い年ほどの美しい若者である。同じような荷物をまとった旅装で、やはり長い太刀と脇差を差した姿まで一致している。
その若者が弟を見るなり、まるで旧知の仲のように微笑みながら会釈し、懐中から手紙を取り出して、それをよこした。
『読み書きができないから追い出されたというのに、どこの誰だか知らぬが、人を侮辱するにもほどがある!』と、弟は顔を紅潮させ、
腹立ちまぎれに太刀を抜き、青眼の構えから若者に斬りかかった。

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187 2015/03/21(土) 18:05:09 ID:PXdPRQVgIk
     アイヌの『洞爺湖の神と中島伝説』 中島 2

「いきなりのご挨拶ですね」と若者は言うと、木の葉のように舞い上がって一閃をかわし、川向うの岸まで飛んだ。
その優雅な動きのこと。弟は刀を持ったまま、悔しさのあまり真似て跳躍してみると、なんと若者と同じくバッタのごとく舞うことができた。
その力でもって対岸へ飛び、斬りかかった。若者も鞘から抜き放つと応戦。
電撃のような鍔迫り合いをくり返し、たまらず弟は川の対岸に退くと、負けじと若者も跳躍し、上段の構えから振り下ろしてきた。

……数え切れぬほど斬り合ったが勝負がつかなかった。やがて若者は爽やかな笑みを浮かべながら、手で制した。
「待ちたまえ。もう気は済んだだろう。刀をおさめて、しばし話をしようじゃないか」
「何を言うか」
「貴殿は松前の真中に住む藩士の次男とお見受けする。私は松前の東のはずれに住む藩士の末子。私も貴殿と同じように、
幼少のころより剣道や読み書きを習ったが、どうしても憶えられず、それゆえ家から放逐され、この川の畔まできた。
この川の名をサンピタラというそうだ。ここにきて川の神様に出会うことができた。川の神が言うには、神の国からサンピタラの神に便りがきて、
人間の国にアブタ(虻田)なる場所があり、そこに大きな湖があるとおっしゃるのだ。湖には守護する者がいないため懸念の材料となっている。
神の国から誰かを派遣しようとするのだが、どの神も行きたがらないので、いっそのこと人間界の者から選ぶことにした」

「まさか私たちが選ばれたと言うのではあるまいな?」
「そうだ。条件は身体が丈夫で、正直で賢い若者であること。しかし初めからその任務をまかせるとなると、親兄弟が反対するのは必定。
神の力により、私たちを無能者に見せ、自然に家から放逐されるよう仕向けたということだ」
「私をダメ人間にさせたのは、神の意志だと?」
「つらい雌伏を強いられたが、これも守護者になるための試練と思えば合点がいく。にわかには信じ難い話だろうが、気を取り直し、
まずはこの手紙に目を通してみたまえ」と、言うと先ほどの手紙を突き出してくるので、弟は半信半疑のまま手紙を目で追ってみた。
どうしても判読できなかった文字が淀みなく読めて、まるで乾いた水田に水が浸透していくよう明快に理解できた。
文面はまさに若者が話した内容と同じことが書かれていた。

2人は一緒にアブタの湖に向かって出立し、6日6夜歩きづめで目的地にたどり着いた。
「神酒の入った徳利が神の国より届けられている。これを酌み交わそう。さすれば私たちは神の眷属となれる」
2人は湖畔に腰をおろして徳利を傾け、神酒を口に含んだ。すると神通力が現れて、人間界も神の国も千里眼のように見渡せるようになった。
飲み終えて空になった徳利を湖の真ん中に投げ入れると、たちまち水底から2つの小山がせり上がってきて島となった。
舟で島に渡ってみると、2つの黄金造りの家があり、屋内には目も眩まんばかりの宝物が積まれ、絹の着物を着た2人の娘が刺繍をしながら待っていた。
そこで2人の若者はそれぞれの家に落ち着き、島と湖を守ることに努めた。


一般社団法人・洞爺湖温泉観光協会 洞爺湖温泉トリビア洞爺湖温泉を「知る」
http://www.laketoya.com/point/knowledge...
洞爺湖 ジオレンジャー
http://toya.lohasin.net/index.htm...
龍学 北海道洞爺湖などオヤウカムイ
http://www.hunterslog.net/dragonology/ryujatan/hokkaidou...
ソノトキガ クレバ ワカルコト トドマラズニ アイヌ伝説より「洞爺湖の神と中島」
http://lucky2zacky.jugem.jp/?eid=73...

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188 2015/03/21(土) 18:56:53 ID:PXdPRQVgIk
手前の、ほんのわずかなスペースの岩礁が>>183の五人宗谷だそうです……。

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189 2015/03/22(日) 09:47:17 ID:7.Km5DyTBQ
     ペストに感染した患者、生死を問わず隔離・遺棄した狂気島 ポヴェリア島 1

これまで国内に限定した島ばかり偏執的なまでにこだわってきたが、たまには外国の『怖い島』を取り上げても罰は当たるまい。
と言っても、あえてメキシコの『人形島』はやらない、ひねくれ者の僕であった。アレはいささかケレン味が強すぎる。
そこでイタリアのポヴェリア島を紹介しようと思う。

これまで前スレでは>>44のハンセン病患者を隔離した大島、>>274の同じく長島、当スレにおいては>>139で天然痘患者を隔離した下馬刀島、
>>143の馬島、>>161の前島、>>163のアンジャ島と、伝染病に感染した者を隔離した歴史のある島を取り上げてきた。
離島という天然の閉鎖空間は、同時に合理的な隔離施設となり得ることから、我が国のみならずこのポヴェリア島をはじめ、
フィリピンのクリオン島(ハンセン)、ハワイ州のモロカイ島(ハンセン)、ニューヨークのノースブラザー島(天然痘)、南太平洋の環礁ナウル(ハンセン)と、
世界中に分布しているのだ。

水の都として知られるベネチアの市街地近くに問題の無人島・ポヴェリア島がある。これが『狂気の島』の異名をもつというから食いつかぬ方がおかしい。
英紙『デイリー・テレグラフ』やイタリアニュースサイト『ザ・ローカル』によると、中世から数々の悲劇的な出来事がくり返されてきたという触れ込みがソソる。
というのも、14世紀、都市国家間として関係が悪化したベネチアとジェノバの争いの舞台となったのを皮切りに、
ヴェニスでペストが大流行した際には拡大を防ぐため、数千人規模の感染者の生死を問わず島へ送って隔離、または放置したというから驚きを禁じ得ない。

古代ローマ時代には墓地として使用され、ペスト流行のときは検疫センターという名目を掲げ、大量埋葬地としてフル回転の働きを示す。
累計16万人もの人間の屍が眠っているとされており、島の土壌の50%以上が人間の遺灰ではないかとも噂されている。
また20世紀に入り1922年になると、検疫所の跡地では、ある医師によって精神病院が運営された。
ところがこの医師は、いわゆるマッドサイエンティストを地でいくような男だった。患者にノミやハンマー、ドリルなどを用いてロボトミー手術を行っていたらしく、
鬼畜の実験をくり返した挙句、医師自身も「幽霊のせいで気が狂いそうだ」と口走り、病院の塔の上から投身自殺してしまった……。
1968年に病院が閉鎖されてからは、しばらく農業用地として使用されたものの、やがて完全に放置。
そして、今では島へのアクセスは国有地化したイタリア政府によって制限され、地元漁師をはじめとして近づこうとする者はいない。
漁師が嫌がるのは、周辺海域で網を投じると大量の人骨がかかるからだ。
島周辺の地元では、『邪悪な人が死ぬと、ポヴェーリア島で目を覚ます』という不吉な諺もあるぐらいだ。

もっともこのヘヴィー級の『怖い島』も、所有するイタリア政府の資金捻出策の一環で、昨年2014年5月7日に競売へかけられる運びとなった。
ただ、実際に国の所有権を売却するわけではなく、『99年間のリース権』を与える形となるそうで、政府側としては島に残されている城や修道院跡も含めて、
『高級ホテル』を建て、観光地として開発してくれる業者の参加を希望しているという。
さまざまな噂が取り巻く島が果たして売れるのか、欧米メディアも広く注目しているイタリア政府の売却策だが、これに待ったの声をかけているのが島と
海を挟んだベネチア・ジュデッカ地区の住民たち。
「私たちは島が公共のものであり続けて欲しい」と話す男性は、島が開発されるのではなく、現状維持のまま保存されることを望んでいるという。
そこで住民たちは、「Poveglia per tutti(みんなのポヴェリア)」というFacebookページを立ち上げ、自分たちが競売に参加してリース権を得ようとする運動を開始。
目標額の2万ユーロ(約280万円)の調達に向け、参加者に99ユーロ(約1万4,000円)の寄付を呼びかけているそうだ。

……『世界一幽霊の出る島』などと下衆な側面を併せ持っており、『サイレント・ヒル』や『SIREN』も真っ青の舞台装置がよくも揃ったものだと感心する。
個人的に廃墟マニアの不法侵入ぶりはいかがなものかと首をひねる方だが、この島に限り精神病院跡に潜入し、当時を偲ばせる狂気の空気を伝えるのもアリかと思う。

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190 2015/03/22(日) 09:50:23 ID:7.Km5DyTBQ
[YouTubeで再生]
     ペストに感染した患者、生死を問わず隔離・遺棄した狂気島 ポヴェリア島 2

ペストwikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9A%E3%82%B9%E3%83%...
中世の血塗られた史実 黒死病の大流行〜ヨーロッパ全人口の1/2が死に絶えた!〜
http://www.cosmos.zaq.jp/t_rex/fusigi_3/works/works_4_a...
NAVERまとめ ロボトミー殺人事件とは【ロボトミー手術】
http://matome.naver.jp/odai/213862353069521690...
NAVERまとめ 実在した“マッドサイエンティスト”の恐ろしすぎる実験内容
http://matome.naver.jp/odai/213538971391061950...
超魔界帝国の逆襲 超トンデモ通信 【閲覧注意】ベネチアの世界一幽霊が出る島がオークションへ
http://daimaohgun.web.fc2.com/fushigi/tondemo/14_04_19.htm...
コトダマ系ニュースサイト ナリナリドットコム 「世界一幽霊が出る島」競売へ、財政難イタリア政府の決定に反発も。
http://www.narinari.com/Nd/20140425548.htm...
カラパイア不思議と謎の大冒険 時を止めて過去にたたずむ、世界9の放棄された島
http://karapaia.livedoor.biz/archives/52090994.htm...
モグネット ハンセン病の歴史:フィリピン・クリオン島
http://www.mognet.org/hansen/overseas/culion01.htm...
芭蕉blog ニューヨークのど真ん中にある廃墟、ノースブラザー島 41P 1V
http://bashoh.com/2013/06/%E3%83%8B%E3%83%A5%E3%...

%E3%81%82%E3%82%8B%E5%BB%83%E5%A2%9F%E3%80%81%E3%83%8E%E3%83%BC%E3%82%B9%E3%83%96%E3%83%A9/
[PDF]太平洋の島々におけるハンセン病 後藤 正道 鹿児島大学医学部病理学第二講座
http://cpi.kagoshima-u.ac.jp/publications/occasionalpapers/...

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191 2015/03/28(土) 18:26:32 ID:zbASLxutGc
     地球最後の魔境か、近づくものは弓で威嚇される未開の島 北センチネル島 1

>>189に続き、世界の怖い島をピックアップするのも悪くあるまい。ていうか、国内における島ネタが枯渇しつつあるからね……。
今回紹介するのは北センチネル島。インド領アンダマン諸島中の島で、インド洋東部ベンガル湾内にあり、アンダマン諸島の南西部、
南アンダマン島の西、約30kmに位置し、行政面では連邦直轄のアンダマン・ニコバル諸島に属する。
島の形状は約72平方kmのほぼ正方形であり、周囲はサンゴ礁が取り巻いている。狭い砂浜の先ですぐ先で標高20mほどになり、
その後も徐々に標高が高くなり、最高地点で標高98mに達する。島の内部は鬱蒼たる森林で覆われ、上空からは見通しできない。

……地球上には、いまだ現代文明と接触せず暮らしている民族が100以上もある。これを『未接触部族』という。
21世紀に入って15年目だというのに、携帯電話、インターネットはおろかラジオや車を見たこともなく、その存在さえも知らない無垢の集団もいるのだ。
彼らは長年にわたり森の奥地や高山などに住んでいたため、やむを得ず進歩を止めてしまった。ましてや離島となると世界と隔絶したも同然。
上述した北センチネル島は、地理的に行くのはたやすい。しかしながら近づくのは危険すぎる。上陸を試みるとなると、命の保証はない。

というのも、島には先住民であるセンチネル族が50ないし400人ほど居住しているらしいのだが、彼らは文明の恩恵を享受していないだけでなく、
他民族との接触を一切拒否しており、アンダマン・ニコバル諸島自治政府も干渉するのに手を焼き、もはや放置しているのが現状なのだ。
島で暮らすセンチネル族は、アフリカ大陸から移り住んできた直系の子孫だと考えられている。
この小さな島に約6万年前から住んでおり、その生活様式から文化までまったく進歩していないというのだ。
外部との接触の拒否ぶりは徹底しており、2004年にスマトラ島沖地震が発生した際、生存者のために救援物資を届けに島を訪れたヘリコプターに向かって、
矢を放って抵抗したほどである。

島を所有するインド政府は1964年から数回に渡りセンチネル族との接触を試みたが、すべて失敗に終わっている。
専門家は船に乗り食料や贈り物を持って島を訪れ、敵ではないことを示したが、やはり弓矢で威嚇され上陸は果たせなかった。
ついにはインド政府も住民と接触することを諦め、島へ近づくことを禁じた。
島の住民が拒むのは、島に上陸しようとする意志を持った人間ばかりではない。
時として、海難事故により北センチネル島に漂着してしまう者もいる。が、ほとんどの場合、大怪我をして戻ってくるか、最悪殺されることもめずらしくない。
2006年には、周辺海域でカニの密漁をしていた漁師2人のボートが寝ている間に島へ漂着してしまい、2人とも島の住民に殺害された事例があった。
政府はせめて2人の遺体だけでもと回収を試みたが、やはり住民から矢の雨を降らされて上陸を断念。

こうした背景から、北センチネル島の民族の言語はもちろん、生態そのものも謎に包まれたままなのだ。
島全体がジャングルで覆われているため、ヘリコプターから観察することも限度がある。
彼らの生活様式で唯一明らかにされているのは、どうやら狩猟で生活しており、少なくとも農業は行っていないようなのだ。
野生の果物や根菜類、ブタ、トカゲ、蜂蜜を採取して生活しているのではないかと、専門家は言う。
とにかく独自の生活様式を守り続け、いかなるときでも助けは必要としていないらしい。
手つかずのエリアに、プリミティヴかつ未知の文化が息づいているのは、なんとも知的好奇心をソソられるが、土足で入り込むこともまた傲慢な話である。

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192 2015/03/28(土) 18:30:04 ID:zbASLxutGc
[YouTubeで再生]
     地球最後の魔境か、近づくものは弓で威嚇される未開の島 北センチネル島 2

忘郷クォリア 世界の驚きとワクワクを探訪 【青い海】世界で最も危険なビーチのランキング:トップ10【白い砂浜】
http://bokyo-qualia.com/archives/275...
NAVERまとめ 【未開の地】石器時代の生活を送るセンチネル族とは【インド洋の弧島】
http://matome.naver.jp/odai/213762121606793460...
世界の凄い場所を調べるお 現代文明を拒否する島「北センチネル島」
http://terribleplace.omaww.net/Category/0...
ギークでなくナード [日記]北センチネル島の生活CommentsAdd Star
http://d.hatena.ne.jp/imakitasangyo/2013040...
未接触部族wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%AA%E6%8E%A5%E8%A7%...
ジャラワ族wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%83%...
ヤノマミ族wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A4%E3%83%8E%E3%83%...
ドゴン族wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%89%E3%82%B4%E3%83%...
ドゴン族の神話wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%89%E3%82%B4%E3%83%...

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193 2015/04/05(日) 13:54:49 ID:Macpbf8Sqk
     所有者は怪死を遂げる?呪われた島 ガイオラ島

イタリア、ナポリの海岸からわずか30mしか離れていないところに2つの島があり、これをガイオラ島という。
画像をご覧になれば一目瞭然、2島は橋でつながれており自由に行き来ができ、小島ながら別荘が建ち、洞窟まで揃っているという念の入れよう。
子供のころに描いた秘密基地がそのまま島となったような佇まいが素敵だ。

……とはいえこんな景観の裏に、まさかキナ臭い歴史が隠されていようとは。
というのも、ガイオラ島の所有者が次々と不審の死を遂げていることから、地元では『呪われた島』と囁かれているのだという。
コトの発端は1920年に島を所有していたスイス人のハンス・ブラウン氏がラグ(カーペット)に包まれた状態で遺体となって発見された事件。
その後、彼の妻も夫を追うかのように海で溺死したのをはじめ、次に島の所有者になったドイツ人のオットー・グランバック氏も心臓発作で死亡。
所有権はドイツの鉄鋼事業家、カール・ポール・ラングハイム男爵に移るが、間もなく事業が失敗し、経済破綻した。

次なる島の所有者は医療品の実業家であったモーリス・イヴ・サンド氏もスイスの精神病院で自殺を遂げている。
果てはイタリア、トリノの有名車メーカー『フィアット』の元名誉会長であるジャンニ・アニェッリ氏の手に渡るが、息子は自殺、甥も癌で死亡。
億万長者のポールゲッティは島を購入したあと、孫が誘拐され耳を切られる事件に遭う。
そして2009年、島の反対側に別荘を持っていたフランコ・アンブロジオ氏と妻のジョヴァンナ・サッコが殺害されたことで、
地元の人が久しく忘れていた島の忌まわしき歴史を思い出し、ふたたび話題となる。
さらには島の最後の所有者、Gianpasquale Grapponeの保険会社が倒産し、投獄。現在、ガイオラ島は国が管理しているという。

……『呪われた島』というタイトルとは、全盛期のスティーヴン・キングならば食いつきそうなネタだが、いささか荒唐無稽な気もする。
癌で死ぬのも呪いと結び付けられたらたまったものではあるまい。
人は死ぬべきときに死ぬが、土地の因縁云々が災いをもたらしているとは思考停止もいいところであろう。

なにかと不幸がつきまとう島だが、幸せを謳歌した家族がいないわけではない。
イギリスの作家アーサー・コナン・ドイルの妹であるアイダは、1895年に母親のメアリーの従兄弟、船舶技師のネルソン・フォリー氏と結婚した。
このときネルソン氏は前妻アグネス・ジェーンを5年前に結核で亡くしている。
その前妻のとき、ネルソン氏はイタリア海軍をサポートする仕事のためガイオラ島で生活しており、アグネスとの子供、クレアの思い出話や、
島に数ヶ月間だけ滞在したというドイルの長女マリーの回想録によると、ネルソン夫婦は島での暮らしを大いに楽しんでいたとのことだ。


世界の謎を小一時間問い詰めるQUESTION ARCHIVE なぜ所有者が次々と死に見舞われる島があるのか?
http://questionarchive.blog.jp/archives/15328527.htm...
小太郎ぶろぐ 呪われた島「ガイオラ島」所有者が次々と不幸に見舞われるイタリア、ナポリの小さな島
http://www.kotaro269.com/articles/31812.htm...
ホームズ・ドイル研究ブログ ネルソン・フォリーとイタリア海軍(1)
http://h-doyle.cocolog-nifty.com/blog/2013/11/post-442b.htm...

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194 2015/04/11(土) 21:55:15 ID:7iltj3IZoI
     恐るべき破獄テクニックで難攻不落の監獄島を陥落させた男たち アルカトラズ島 1

『破獄』とは囚人が独房を破って脱獄すること。また『流罪の刑』で離島に送られた罪人が島外へ脱走することを『島抜け』という。
カリフォルニア州サンフランシスコ湾内にあるアルカトラズ島。ここにはかつて、脱獄不可能の謳い文句で悪名高いアルカトラズ連邦刑務所があった。
鉄壁の守りを誇るその刑務所は、囚人たちの肉体、精神、思想、感情をくじくため、1934年に開設された。
そんなアルカトラズ島には全米から矯正不可能とみなされた凶悪犯ばかりが収容された。
シカゴのゴッドファーザーことアル・カポネを筆頭に、誘拐強盗殺人犯のアルヴィン・カーピス、禁酒法時代を代表する銀行強盗ジョージ・ケリー、
服役中に鳥類学者になったという変わり種のロバート・フランクリン・ストラウドなど、錚々たるメンバーが揃っていた。

コンクリで固められた壁、8本の鉄筋を束ねた鉄格子、厚さ8cmの鉄扉、1日に12回も行われる点呼、無数の見張り台では常時、
警備員がライフルを構え監視の眼を光らせている。周囲は峻険な断崖。サンフランシスコの町の灯りがたった3km先できらめていおり手を伸ばせば届きそうなのに、
仮に島を抜け出したとしても海にはサメがウヨウヨ泳いでいるうえ潮流が速く、おまけに水温は10℃前後。
泳いで渡った場合、短時間のうちに低体温症に陥り死に至る。ゆえに生還率は0%と言われた。

その苛酷な環境と脱獄の難しさから、『ザ・ロック』『悪魔島』と呼ばれ、収容された囚人たちに「この世の地獄」と言わしめた。
にもかかわらず人は自由を求めるものである。難攻不落の要塞に閉じ込められたのなら、それを攻略してみせるという気概をもった男たちが名乗り出る。
過去に脱獄者は34人を数える。うち7人が射殺、2人が溺死、5人が行方不明(公式記録上は死亡扱い)、残りはすべて再捕獲された。

元囚人の証言によると、当時200人ほどいた囚人のうち、50〜80人は脱獄を企てた。
1939年には、全米を震え上がらせたバーカーギャング団の一味、ドック・バーカーが、1943年には映画『俺たちに明日はない』で知られたボニー&クライドの一味、
フロイド・ハミルトンが脱獄にチャレンジするも、いずれも失敗。
1946年にはバーナード・コイが軍隊まで巻き込んでの大銃撃戦に発展し、あと一歩のところで手榴弾で爆死を遂げる。

そして1962年6月11日、運命のときを迎える。のちにクリント・イーストウッド出演、ドン・シーゲル作の映画『アルカトラズからの脱出』で描かれた
フランク・モリスとジョン・エングリン、クラレンス・エングリンの兄弟による伝説の脱獄劇である。
アルカトラズ連邦刑務所史上、脱獄を計画し、5人の行方不明者のうちの3人は、このモリスとエングリン兄弟を指しているのだ。

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195 2015/04/11(土) 21:59:04 ID:7iltj3IZoI
     恐るべき破獄テクニックで難攻不落の監獄島を陥落させた男たち アルカトラズ島 2

映画のイーストウッドが扮したフランク・モリス(1926年9月1日〜1962年6月11日失踪)は、ワシントンD.C.生まれのアメリカ人。
幼いころから里親に育てられ、13歳で犯罪に手を染め、10代後半に麻薬所持や強盗の罪で逮捕された。IQは133だった。
1960年1月20日、モリスはアルカトラズ連邦刑務所に護送される。彼はアルカトラズに着いて間もなく脱獄を計画。
これには、アレン・ウェストと、先のジョン・エングリン、クラレンス・エングリンの兄弟が加わった。
計画はウェストにより立案されたものの、彼は脱獄時、独房内の換気口の格子が切断できなかったため、島からの脱出には参加できなかった。

アルカトラズからの脱獄は困難を極めた。約2年に渡ってモリスとエングリン兄弟は、いかだと自分たちに似せた人形を工作。
いかだは、長細い浮き袋を三角形に組み合わせて縫い、その間にシートを貼り付けたものだった。
人形は、紙くずと粘土や木の削り屑を合わせ、散髪した髪を頭部に盛り付け、油絵の具で肌の色をつけた。
脱獄時、このダミー人形をベッドに忍ばせておき、巡回の眼をごまかし、時間稼ぎをさせるわけだ。
また作業場から道具を盗み出し、独房の壁に穴を掘ることを地道に続けた。そして1962年3月、ようやく独房の裏手へと続く穴を開通させる。
小型扇風機を細工した手製のドリルで通気孔を広げ、3人は監視の包囲網をかいくぐり、いかだを使ってアルカトラズ島から抜け出したとされている。
ダミー人形のリアルさも功を奏し、看守が3人の脱獄に気づいたのは翌朝のことだった。

連邦捜査局(FBI)による現場検証の結果、いかだで海に出たあとは生死が確認されておらず、行方不明扱いとなった。
連邦刑務所側は死亡したに違いないとする見解を示しているが、鉄壁の監視体制を敷いた刑務所の自尊心を回復するための希望的観測も含まれているだろう。
現に3人の遺体は見つかっていないのに、死亡と決めつけるのはいかがなものか。
その脱獄事件から1年足らず、1963年3月21日、財政的理由によりアルカトラズ刑務所は閉鎖された。
修繕・維持費用だけで300万ドルから500万ドルかかったとされ、さらに日々の運営費用も他の連邦刑務所と比べ高額だったためと言われている。

最近、オランダ人科学者が最先端のコンピュータシミュレーションソフトを使って検証した結果、3人が脱獄に成功したのではないか?という説を唱えた。
脱獄当時の1962年6月11日、夜11時30分に彼らのいかだがアルカトラズを離れたとすれば、ゴールデンゲートブリッジの北に漂着した可能性が高いというのだ。
この時間は当時考えられていた時間よりも1時間30分遅いのだが、シミュレーションではアルカトラズ島の北にあるエンジェル島に打ち上げられたと表示された。
しかもエンジェル島では実際に、いかだのパドルの1つや所持品が発見されている。とはいえ、夜11時30分前にアルカトラズ島を出ていれば、
強い海流に襲われて生存の可能性はほぼないとしている。
しかしながら関係者は「コンピュータが出した結果は100%事実ではない」としながらも、「いかだで逃げるのに成功した可能性もゼロではない」とコメント。

現在、アルカトラズ島は国が管理する観光名所となっており、貴重な野鳥や植物などが生息している。
セルフガイドのオーディオツアーキット(テープとヘッドフォン)を渡され、それに従って施設内を練り歩けるのだ。
英語で語られたらチンプンカンプンなのでは?と心配するなかれ。ちゃんと日本語も選択できるので、ご安心を。
テープには刑務所内の説明や、刑務所の看守だった人物や受刑者の声も収録されている。映画で描写されていた脱獄の説明も聞くことができるので、
イーストウッドファンにはたまらないかもしれない。
なんと階下の売店では、モリスたちが通気口を掘り進んだ食事用のスプーンが売られているので、お土産に最適。

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196 2015/04/11(土) 22:09:44 ID:7iltj3IZoI
     恐るべき破獄テクニックで難攻不落の監獄島を陥落させた男たち アルカトラズ島 3

ところで日本国内においても、伝説の脱獄囚がいる。最後にその恐るべき破獄テクニックを紹介して締めくくりたい。
もしかしたらそのサバイバル術は、この世知辛い現代社会において、何らかの役に立つかもしれないからだ。
それが白鳥由栄(しらとりよしえ)である。

白鳥由栄は明治40年に青森県生まれ。25歳のとき強盗殺人を犯し2年後に逮捕され、拘置中の昭和11年に青森刑務所柳町支所を脱獄(1回目)、3日後に逮捕される。
無期懲役の刑が確定して収監されたあと、34歳で秋田刑務所(2回目)、37歳のときに網走刑務所(3回目)をそれぞれ脱獄。
脱獄中の昭和21年に北海道砂川町(現砂川市)で、殺人を犯して逮捕される。
逮捕後、札幌刑務所に収監されたものの、ふたたび脱獄(4回目)し北海道山中で300日間生活したが、札幌に戻ったところを逮捕、東京の府中刑務所に移送された。
府中刑務所で13年すごしたあと模範囚として認められ、昭和36年に仮釈放を許される。それから16年後の昭和52年、71歳で死去。

白鳥の4度にわたる脱獄を可能にしたのは、超人的な身体能力(1日に120kmもの距離を走破し、手錠の鎖を引きちぎったという怪力、
身体の関節を自在に外せる特異体質)と、脱獄に向けた知恵、シャバに生還しようとする執念が抜きん出て優れていた点だろう。
そして手ひどい仕打ちを与える看守に対する反抗心だった。その心理を逆手にとったブラッフ(はったり)から、知能の高さが窺えよう。
箇条書きだが、ざっと羅列してみる。

①脱獄における合鍵作り……白鳥は入浴時、手桶にはめられていた金属製のタガをはずして独房内に持ち帰る。
次の入浴後、房にもどると、湯でふやけた掌を錠の鍵穴に強く押し付けて型をとっておく。次回の入浴時、身体を洗うふりをしてタガを床のコンクリート面で摩擦し、
合鍵を作ったとされている。
②手錠をかけられていても、看守が眼を離したスキに、手錠をはずしてくつろいでいるという引田天功そこのけの特殊能力を持っていた。
③合鍵は身体のなかに隠した。身体検査をすると、舌の下に細い金属板が差し込まれ、肛門のなかからはパラフィン紙に包まれた、これも細い金属板が見つかった。
いずれかが見つかった場合、即検査は打ち切られてしまうが、これもブラッフ。よほど慎重な看守でない限り、片方の隠し場所は見落としてしまう。

④このような問題囚人であることから、特製の手錠で拘束される。分厚い鋼でつくられた重さ15kgもある代物で、両環の継ぎ目に太いナットが埋め込まれており、
ハンマーでナットの頭を平たく叩き潰していた(入浴時は看守が1時間かけて、ヤスリがけして手錠を解かねばならなかった)。
にもかかわらず、ナットをはずして破獄。捜査課刑事による現場検証によって明らかになったのは、ナットの腐食だった。
ナットを腐食させた要因は意外にも味噌汁だった。
食事のたびに味噌汁を口に含んだまま房に戻り、看守の眼を盗んでは手錠のナットに垂らすことをくり返した。味噌汁に含まれた塩分が鋼鉄を酸化させ、
やがて腐食してゆるみ、引き抜くことができたのだと結論付けた。

⑤視察窓の鉄枠を外して、その狭い隙間から関節を脱臼させ、忍者かタコのように破獄した。
⑥便所のタガをはずして釘で刻みをつけ、手製のノコギリを工作。それを使い、2日かけて床板をひき切った。床下に潜り込み、食器で土を掘って獄舎の外に脱出。
⑦山中へ逃亡すると、無人の民家から虫眼鏡を入手。それを使って日光で火をおこし、煮炊きをおこなった。
⑧床板などの釘を抜き取るテクニックは、指を釘の頭に強く押し付けて回転させることをくり返せば容易であるという。
⑨監獄から脱獄したあと、高い塀を越えるコツは、塀沿いに斜めに走れば駆け上がれるらしい。

これはまだ戦前戦中、戦後間もない、監視・管理が行き届いていない当時なら可能だったろうが、徹底的に計算させた、現代では至難の業であろう。
しかしながら窮地に落とされてなお、生還しようとする人間の知恵と叡智は学べるものがある。
白鳥には自分のための脱獄はしないという信念があった。刑務所や裁判の矛盾、理不尽さと身をもって戦った人なのだ。
くわえて「人間の作ったものは、人間が壊せないわけはない」というのが白鳥の哲学だった。

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197 2015/04/12(日) 05:57:48 ID:nYYv2e9lcQ
[YouTubeで再生]
     恐るべき破獄テクニックで難攻不落の監獄島を陥落させた男たち アルカトラズ島 4

アル・カポネwikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%AB%E3%83%...
フランク・モリスwikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%83%A9%E3%83%...
怪しい伝説wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%80%AA%E3%81%97%E3%81%...
Aol News 映画『アルカトラズからの脱出』のモデルとなった脱獄犯に生存の可能性
http://news.aol.jp/2014/12/24/big-escape...
NAVERまとめ これは心ざわつく…。。脱出不可能の監獄島『アルカトラズ島』を観光してみたい!
http://matome.naver.jp/odai/214125116673301390...
我家のIT化 フランシスコ、ロサンゼルスの旅紀行(4)−アルカトラズ島
http://homenet.seesaa.net/article/121868160.htm...
AllAbout 元は刑務所の観光名所、アルカトラズ島
http://allabout.co.jp/gm/gc/380224...
Category:刑務所を舞台とした作品wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/Category:%E5%88%91%E5%8B%...
Hatena blog beyond the border 【1563冊目】吉村昭『破獄』
http://hachiro86.hatenablog.com/entries/2013/06/0...
白鳥由栄wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%99%BD%E9%B3%A5%E7%94%...
脱獄王「白鳥由栄」「白鳥由栄物語」
http://www.h3.dion.ne.jp/‾oyama/boukenn-folder/bouken-siratori.htm
博物館網走監獄 監獄秘話「五寸釘 寅吉」
http://www.kangoku.jp/data7.htm...

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198 2015/04/18(土) 08:56:21 ID:3eWMJpEGo2
     放浪の民が旅立つ前に住んでいた約束の地 メスカルティタン

すでに>>109でこの島の画像を貼ったが、今回はそれにツッコんでみよう。島の歴史が他に類を見ないパターンなので取り上げるに値する。
メキシコ合衆国のナヤリット州の湖に、世にも奇妙な人工島が存在する。これがメスカルティタンだ。直径が約400m。
俯瞰からのアングルだとシンメトリーの街並が、まるで太陽の石・アステカのカレンダーのように美しいではないか。
近隣のラ・バタンガから6km、エル・マタデロから2kmの位置にあり、いずれの町からも船で渡航が可能で、観光地として栄えており、
2001年にはプエブロ・マヒコに真っ先に選出されたほどの賑わいを見せる。人口は800人超。

メスカルティタンという名前の由来は、ナワトル語で『メスカルの土地』または『メシーカの家』の意。
アステカ族がもともと住んでいた伝説の地『アストラン(白鷺の地)』の起源こそ、現在のメスカルティタンではないかと言われているのだ(諸説あり)。
アステカ神話によれば、1091年、アストランに住んでいた7部族は、神のお告げにより理想郷を求めて鷲を追って旅に出た。
神託はこうだ。「蛇を咥えた鷲が止まるサボテンがある土地を都とせよ」。この言葉を信じ、200年以上にも及ぶ長旅となった。
1325年、ついに『石の上に生えたサボテン』に鷲がとまっているのを見つけたメシカ族は、テスココ湖の小島に都市・テノチティトランを築いた。
これが後のアステカ大帝国の興りであった。のちにスペインの侵略者(コンキスタドールの侵略)によって埋め立てられ、
現在のメキシコの首都・メキシコシティができたわけである。


DNA ディリィ・ニュウス・エィジェンシィ めいっぱい住宅が建ち並んだ、人口密度が高そうな島10選
http://dailynewsagency.com/2010/12/13/island-cities-aroun...
アステカwikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%82%B9%E3%83%...
芭蕉blog メスカルティタン、メキシコの湖に浮かぶアステカ文化の古代水上都市 23P2V
http://bashoh.com/2013/10/%E3%83%A1%E3%82%B9%E3%...
メキシコからの隠遁者通信 メキシコ中西部、夏の旅 Ⅱ−メスカルティタン−1
http://teacapan.cocolog-nifty.com/blog/2012/08/post-02be.htm...
太陽の石アステックカレンダーを解読する
http://www8.plala.or.jp/KgnosisAC/sub3-Jinrui-astec.ht...
テノチティトランwikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%86%E3%83%8E%E3%83%...
コンキスタドールwikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B3%E3%83%B3%E3%82%...

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199 2015/04/18(土) 21:22:41 ID:AlzfNXg5VA
今拡大進行中の西ノ島が今より更5倍を超えてに拡大していくことになったら中国や韓国が黙っていないという戦略的で戦争勃発の要因となる可能性を秘めているという恐ろしい島だといわれている

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200 2015/04/26(日) 06:23:55 ID:6eJm/nRTvY
     謎だらけの遺跡島の正体は古代ウイグル城塞跡か? ポル=バジン

島マニアの眼は節穴ではないッ!
さすが偉大なるサイト(ブログ?)『カラパイア不思議と謎の大冒険』。いつ閲覧しても、我々の知的好奇心を掻き立ててくれる記事が目白押しだ。
先日、『いったい誰が?何の目的で?謎に包まれたシベリアの孤島にある1300年前の遺跡「ポル=バジン」』と題され、
実にワクワクするような記事が紹介された。かっさらって、ここに追加する形で載せてみようではないか。

謎の島『ポル=バジン』へ行くにはトゥバ共和国の首都キジルからヘリコプターで3時間を要する。
陸路は存在せず、モンゴルとの国境近くにあるため、国境から25km以内は立ち入り禁止エリアに指定されているほど、島へ行くには困難を極める。
シベリア南部の山間の湖『テレ=ホリ』に問題の孤島が浮かんでいるのだが、明らかに人の手が加えられた長方形の外観が印象的。
しかもその『箱庭』の中は升目に壁が仕切られ、まるで平安京のミニチュアのような古代遺跡が佇んでいるのだからたまらない。
ちなみに『ポル=バジン』はトゥバ語で、『土の家』を意味するらしいので、まさに言い得て妙。

最初に遺跡が発見されたのは1891年。のちの1957年にサンクト・ペテルブルクの考古学者ヴァインシュテインによって発掘調査が進められ、
2007年にも大規模な発掘調査が行われたが、現在は終了している。
調査により、人間の背丈ほどの粘土製の平板、漆喰の壁に描かれた絵画、巨大な門、木の燃え跡が発見され、およそ1300年前に造られたと推測された。
しかしながら誰が建築し、なんの用途に使われたのか、なぜ放棄されたのか、謎のベールに包まれたままなのだ。
歴史家と科学者の見解は意見が分かれている。城塞か監獄ではないかとする説、あるいは人を収容・隔離するのではなく、人を呼び込むための施設との説、
はたまた離宮、修道院、天文観測所ではないかと考える専門家もいるが、どうやらウイグルの城跡の線が濃厚のようだ。

もっともテュルク系遊牧民族による遊牧国家、ウイグル(西暦744〜840)と同時期に建設されたとはいえ、居住地や交易ルートから遠く離れた不便な僻地に
城塞を築いた目的は明らかにされていない。
敷地は密集し、利用されている建材とともに、中国の伝統的な建築様式を思わせる。1300年前のものとは信じられぬほど、壁の大部分は保存状態が良好だ。
また、2区画に分割されている中庭の主要構造物は、瓦屋根の通路を持っていたらしく、石の基礎上に立てられた36本の木製柱に支えられていた跡が見られる。
不思議なことに、厳しいシベリアの気候、しかも海抜2.3kmという条件を耐えたにもかかわらず、暖房設備の痕跡が見られない疑問点も残る。
いずれにせよ、クフ王のピラミッドに比肩しうるミステリアスな島兼遺跡である。

2007年、プーチン大統領がアルベール2世モナコ大公と一緒に訪れた際、「これまで色々な場所を訪れ、多くの物を目にしてきたが、こんな場所は初めてだ」と、
困惑しながら言わしめたほど。
今後の調査報告が楽しみな島だ。


カラパイア不思議と謎の大冒険 いったい誰が?何の目的で?謎に包まれたシベリアの孤島にある1300年前の遺跡「ポル=バジン」
http://karapaia.livedoor.biz/archives/52189969.htm...
クラスノヤルスク滞在記と滞在後記 トゥヴァ(トゥバ)紀行
http://homepage2.nifty.com/enisei2580/2012tuva0.htm...
Googleマップ Por-Bażyn
https://www.google.co.jp/maps/place/Por-Ba%C5%BCyn/@50....
泰弘さんの【追憶の記】です・・・ 21・満州の名刹と風光・・承徳の夏の離宮・・絵葉書・・
http://blogs.yahoo.co.jp/y294maself/32170334.htm...
四神相応wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%9B%E7%A5%9E%E7%9B%...

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202 2015/05/28(木) 18:13:18 ID:PXHZS.jQIk
      ☆ チン     マチクタビレタ〜
                        マチクタビレタ〜
       ☆ チン   〃  ∧_∧  / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
        ヽ ___\(\・∀・) 新レス、まだ〜?
            \_/⊂ ⊂_ )   \_____________
          / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ /|
       | ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄|  |
       |  愛媛みかん |/

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204 2015/05/30(土) 14:16:19 ID:C3/28ke6yQ
>>202
お待たせ。ご飯ですよ^^


     危険すぎる、即死級の猛毒をもつ蛇だらけの島 イーリャ・デ・ケマダ・グランデ島

ブラジルの大都市サンパウロから沖合32kmに、なんと蛇だらけの無人島があるんだとか。
これをイーリャ・デ・ケマダ・グランデ島といい、通称スネーク・アイランドと冠されるだけあって、文字どおり至るところに蛇で埋め尽くされており、
その人口密度ならぬ『蛇密度』たるや、1㎡あたり1匹とまで言われているほど。あまりにも危険なため、ブラジル海軍から立ち入り禁止の指定を受けている。

主に毒蛇ジャララカ(アメリカハブの類の毒蛇で、南米に広く分布)が多くのさばり、島全体で5000〜1万匹棲息していると推測されている。
この蛇は、通常のジャララカの5倍の毒性をもち、実験ではネズミを2秒で即死させる強力なものだという。
島が学術的に知られるようになったのは、1921年にサンパウロのブタンタン毒蛇研究所が実地検査を行い、イーリャ・デ・ケマダ・グランデ島の
毒蛇ジャララカの特異な進化と生態を発見してからだ。

なぜこの蛇は通常のソレよりも猛毒を獲得したのか?
主な餌は渡り鳥とされている。咬みついたはいいが、薬効が足りず鳥が逃げて海にでも落ちたら、せっかくの獲物が無駄になる。
それゆえ即死させるほどの猛毒に進化したのではないかと、研究者は結論付けている。

島の大きさは、奥行き1.5km、幅500mで、海岸はなく、海上より切り立った岸壁が高さ90mの台地までそそり立ち、高さ200mの岩山がそびえている。
島には昔、灯台守が開いた草地がある。かつて灯台の管理人として1家族が住んでいたが、住居の窓から蛇が侵入し、パニックに駆られた家族は屋外へ逃げた。
結局彼らは島の異なる場所で、蛇の毒により遺体で発見された。
それ以来、灯台は海軍が管理しており、現在自動化されて保守と燃料補給のために、ヘリコプターで年に数度、人が降り立つ以外は無人島となった。


北海道ファンマガジン 知られざる洞爺湖の無人島・中島の実態とは
http://pucchi.net/hokkaido/nature/laketoyaisland...
私たちの40年!!あるぜんちな丸同船者寄稿集 麻生悌三のブラジル不思議発見(2)大ケイマーダ島の毒蛇ジャララカ
http://40anos.nikkeybrasil.com.br/jp/biografia.php?cod=145...
NAVERまとめ 蛇だらけの島!?世界で一番危険な場所「スネークアイランド」
http://matome.naver.jp/odai/213966693632618030...

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205 2015/05/30(土) 14:19:48 ID:C3/28ke6yQ
     科学者以外、立ち入り禁止区域の実験島 スルツェイ島

世界には無数の非公開エリアがある。なかでも島嶼という隔離されたエリアは隠蔽するには好都合であろう。
問題のスルツェイ島はアイスランドの南にある無人島。我が国の西之島と同じく、1963〜67年、海底火山の噴火から新島を形成した典型例である。
なお、『スルツェイ』は、アイスランド語で『スルトの島』を意味するので、正確には『スルツェイ島』では重複表現なのだが……。
この島は一般人の立ち入り禁止を強いており、ごく少数の認可を得た研究者だけしか入島できない。
というのも、人類の影響を排し、生態系がどのように形成されるのか、その過程を記録するために自然保護区に指定された特別な島、
すなわち実験用の島として使用されているのだ。のちにユネスコの世界遺産(自然遺産)にも登録された。面積はわずか2.8k㎡、標高は173m。

火山噴火を示す最初の兆候が顕れたのは1963年11月14日、周辺海域の海水温の変化、噴煙、硫化水素臭が観察された。
噴火は地殻の亀裂に沿って起こり、海上に噴き上がった粉塵や灰の柱は数kmの高さに達した。
わずか1週間で新島が形成され、北欧神話の炎の巨人『スルト』にちなんでスルツェイ島と命名。
新島誕生と同時に海による浸食が始まったが、噴火は収まらず、島の面積は広がり続け、1964年前半には最大直径1300mあまりの規模になった。
アイスランドは直後に新島の領有権を主張、自然保護区とすることを宣言した。

1967年6月に噴火が終息するころには、スルツェイ島は面積2.7k㎡まで成長。約3分の2は火山灰、3分の1が急激に冷えて固まった溶岩でできていた。
火山灰は年々、少しずつ洗い流されていったが、固い溶岩の中心部はかなりの弾性があることがわかった。
スルツェイ島は、地質学的にも生物学的にも進化の過程を研究する貴重な場となった。他の陸地から隔絶されているため、実験に最適なのだ。
1965年に維管束(いかんそく)植物の生育が初めて観察されたが、より複雑で生育条件が厳しい植物形態である灌木が見られるようになるのは、
1998年に入ってからだ。1970年ごろから海鳥が群れはじめ、大量の糞が堆積することによって、島の痩せた土壌が急速に改善。
島に最初に住みついた鳥類はフルマカモメとハジロウミバトと言われる。1983年にはアザラシが繁殖を始めたのが確認された。

学会はアイスランド環境・食品庁に代わり、島におけるすべての活動を監督している。スルツェイ島の海域でのダイビングをはじめ、自然特性の阻害や、
一切の有機物や土、鉱物の島への持ち込み、廃棄物の投棄も認められていない。また沿岸から2km以内での銃器の使用も禁止されている。
人間の居場所として許されているのは、研究者たちの滞在用に設置された、簡素なプレハブ小屋1棟だけ。
設備といえば数台の簡易ベッドと、自家発電用のソーラーパネル、緊急連絡用の無線装置ぐらいだが、せめてもの慰めにダーツ盤も1つ、備えられている。
スルツェイ島で現在までに観察されているほとんどの植物の種は、自然の『運び屋』によって島に持ち込まれたものだが、1970年代に2度、
人間が持ち込んだ農作物が発見されたことがある。もっとも、ただちに取り除かれたが。
最初に持ち込まれたのはトマト。上陸した研究者が弁当を食べたのち、急に便意をもよおして、結果として土に種をまくことになってしまった。

2004年までに多種多様な生き物が島内で記録され、69種類の維管束植物、71種の地衣類、24種の菌類、さらに14種の鳥類と335種の無脊椎動物が確認されている。
2009年には島の広い範囲でムナグロ(チドリの仲間)の営巣が確認され、最初の渉禽(しょうきん)類として報告された。毎年、2〜5種が新たに発見されている。
現在もなお研究は続けられている。0からスタートした島から、どのように動植物が根付いていくのか、研究者が島に伴走して見守っている。


NAVERまとめ 50年前に突如誕生した火山島「スルツェイ」
http://matome.naver.jp/odai/214045422918935160...
NATIONAL GEOGRAPHIC日本版 『絶対に行けない世界の非公開区域99』から紹介する世界の立ち入り禁止区域
http://natgeo.nikkeibp.co.jp/nng/article/20150202/434024...
スルトwikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B9%E3%83%AB%E3%83%...
新しい島wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%B0%E3%81%97%E3%81%...

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206 2015/06/06(土) 11:48:28 ID:DsCZtogHuM
     バンジージャンプの起源の島 ペンテコスト島

オーストラリアの東約1800kmにあるバヌアツ共和国。
そんなバヌアツにペンテコスト島という人口1万の火山島がある。この島では『ナゴール』、または『ランドダイブ』なる儀式が行われている。
儀式の内容は、足首にツルを巻いて、高い櫓の上から飛び降りるという度胸試し。
そう、今や世界各地で行われているバンジージャンプのルーツにあたるのが、このナゴールと言われているのだ。
そもそも、なぜペンテコスト島でこのような儀式が行われているか? それは以下の伝説があるからだという。

およそ1000年ほど昔。暴力的な男がいつものごとく妻に殴りかかった。
高い木に登って身をひそめていた妻だが、夫に見つかってしまう。追ってきた夫から逃れるためにとっさにダイブした。
後を追った夫も飛び降りたが、地面に叩きつけられて死ぬ。かたや妻は足首にツルを巻き付けていたため、一命を取りとめた。
DV夫が後先考えなかったため命を落とすとはツッコミ満載の悲話だが、これを契機に高所から飛び降りる儀式ナゴールが生まれたらしい。

成人の通過儀礼として紹介されることが多いが、本来はヤムイモの豊作を祈る儀式であるとされている。それゆえヤムイモの収穫時期の4〜6月に開催される。
開催日が決まると、参加者たちは1ヶ月以上かけて30mほどの、建築現場にある足場のような櫓を組む。
また肝心の命綱となり得るツルも自身で選ぶのだが、今日のバンジージャンプのソレと異なり、植物のツルは伸縮性に欠けるので、はたから見ていると怖い……。
儀式当日、参加者は櫓のどの高さから跳ぶかは、自分で選択できる。順番があとになるほど高所から跳ぶ傾向にあり、それにしたがい観客もエキサイト。

ツルの長さを誤ったり切れてしまい、地面に激突して首の骨を折り死亡するダイバーもめずらしくないんだとか。仮にうまくいっても、足首を脱臼することも。
元々は南部のブンラップ村周辺でしか行われなかったが、観光化するにつれて、空港からのアクセスの良い南部の数ヶ所で行われているようだ。
2006年、日本のテレビ局が取材を申し込んだようだが、バヌアツ政府文化庁はナゴールが商業主義に走るのを懸念し、伝統文化を正しく子孫に伝えていくべく、
現在、商業テレビの取材は禁止している。


探偵ファイル国境なき探偵団 死亡確定!?恐怖の儀式ランド・ダイブがヤバイ
http://ftp.tanteifile.com/world/2012/05/04_01/body.htm...
BUNGY JAPAN 日本唯一のブリッジバンジーカンパニー バンジージャンプの話
http://www.bungyjapan.com/ja/index.php/bungy/sections/C5...
2014年度 春学期桜美林大学文化人類学 奥野 克巳 【第20回】通過儀礼とは何か?
http://www2.obirin.ac.jp/okuno/CA20.htm...

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207 2015/06/06(土) 12:05:35 ID:DsCZtogHuM
     五芒星セーマンの魔除けを信じる海女の島 菅島(すがしま) 1

ちょっとここで日本の島に軌道修正。
2016年に開催されるサミットが、三重県志摩市に選ばれ、同県出身者としてはたいへん誇らしい。
主要会場として賢島(かしこじま)が予定されているので、賢島の話でもできれば御の字なのだが(『怖い島』という括りは失礼?)、
あいにく興味を惹くエピソードは見当たらない。
そこで賢島を抱える志摩半島の反対側、伊勢湾の入り口に位置する菅島を取り上げようと思う。
もっとも賢島は志摩市に対し、菅島は鳥羽市だが。なんという暴投ぎみの変化球……。まあ、同じ三重の離島ではないか。

菅島の主産業は伊勢海老、アワビ、ワカメなどの漁業と、民宿、旅館などの観光業が主。とりわけ海女によるアワビ漁で知られている。
その海女というと、毎年7月11日、白浜(しろんご浜)で行なわれる『しろんご祭り』が、学術的に注目を浴びている。
700年ほど昔、菅島に現れた白蛇を竜神の使いと崇めて、大漁と海上安全を祈願したのが始まりとされている。
朝8時、しろんご浜に磯着姿の海女が集まり、神主によるお祓いを受けたのち、法螺貝の音を合図に海女が海にもぐり、つがいの鮑の初採りを競うもの。
一対の鮑を最初に採った者が海女頭となり、1年中尊敬の対象となる。
ふだん、白浜は禁漁区であり、この日の1時間のみ漁が許され、獲られた鮑は『招き鮑』と言われ、菅島にある白髭神社に奉納される。
この『白髭』も『しろんご様』を指し、すなわち守護神である白髭大明神、竜神大明神のこと。
なお白髭神社に関しては、当スレ>>95>>96で触れたので、気になるようならソチラで。

海は豊な幸を与えてくれるが、反面、天候によっては急に荒れ、人食い鮫が出没する死と隣り合わせの世界。
『板子一枚下は地獄』の船乗りでさえ験を担ぐ。だったら海に潜る海女もしかりであろう。したがって菅島ではこんな伝説が信じられるようになった。
曇った日の海で、海女が1人で鮑採りをしていると、海底で自分とソックリな姿の海女と出会う。息継ぎするべく水面に上がり見回してみたが、誰もいない。
そのドッペルゲンガーは『トモカヅキ』と呼ばれる妖怪だという。もし妖怪が差し出す鮑をもらったり、よい漁場へと誘うのについていったりすると、
潜水時間が長くなり、命を落としてしまうのだとか。
だから海女たちは、手ぬぐいや鮑おこしという道具に『ドーマン』『セーマン』の印をつけ、まじないとした。
とくに陰陽師の安倍晴明で知られる五芒星のセーマンは、一筆書きで元の位置に戻り、始めも終わりもないことから魔物が入り込む余地がないとされ、
同時に一筆書きで元の場所に戻ることから『無事に戻って来られるように』との祈りを込めた。

トモカヅキとは、『同一の潜水者』の意味で、『かづく』(潜く)とは『潜水すること』を意味する方言であるとされている。
他方、海女の亡霊ではないかともいわれるが、医学的見地から見て、過酷で長時間の海中作業による譫妄との見方もある。
そんななか、静岡県賀茂郡南崎村(現・南伊豆町)でも同様の事例が報告されている。ある海女がこれに遭遇し、海面に上がって船を操る夫に言うと、
「バカなことを言うな」と、相手にされずにふたたび潜らされ、そのまま死んでしまったとも……。

なにはともあれ、しろんご祭りは市指定の無形文化財である。
ちなみに三重の『海女操業実態調査』は4年に1度行われる。1996年11月のデータによると、志摩市だと海女は2100人を超える。
昔に比べると減少しているが、それでもこれほど多くの海女を抱えるのは志摩だけであろう。

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208 2015/06/06(土) 12:26:56 ID:DsCZtogHuM
     五芒星セーマンの魔除けを信じる海女の島 菅島(すがしま) 2

伊勢志摩国立公園 鳥羽市観光情報サイト
http://tobakanko.jp/
鳥羽菅島 しろんご祭り
http://16.pro.tok2.com/‾jiyubito193/sirongo/sirongo.html
島の宝100景
http://www.mlit.go.jp/crd/chirit/shimanotakara100kei...
[PDF]島の宝100景 しろんご祭り 菅島
http://www.mlit.go.jp/crd/chirit/image/100kei-suga.p...
伊勢鳥羽志摩 鮑の話
http://www.kintetsu.co.jp/ise_toba_shima/shiru/ama_awabi...
菅島紅つげの会 菅島伝説の謎
http://benitsuge.jp/?p=11...
セーマンドーマンwikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BB%E3%83%BC%E3%83%...
トモカヅキwikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%88%E3%83%A2%E3%82%...
海女文化村
http://amabunka.sakura.ne.jp/index.htm...

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209 2015/06/13(土) 11:54:56 ID:FUpihpQgWo
     ハンギング・コフィン・断崖絶壁に棺桶を吊るす葬法の島 ルソン島

フィリピン、ルソン島北部の山岳地帯にある村サガダにはイゴロットと呼ばれる少数民族がいる。
本来イゴロットは、平地で水田農耕を行っていたが、後からやってきた新マレー人により山岳地帯に追いやられてしまったという。
平地のない山間部で水田農業を行うのは並大抵ではなく、彼らは棚田の技術を向上させ、各地にみごとな棚田を残した。
棚田は地域の重要な文化遺産であり、観光資源にもなっている。

サガダは石灰岩地帯に位置するため、切り立った崖や絶壁が多い。そのなかにエコバレーという切り立った崖がある。
その断崖絶壁を利用した特異な葬送儀礼が伝承されており、観光客も見学することができるのだ。
その埋葬方法とは、断崖に棺桶を吊るすというもの。吊るされた棺の中には、燻製にされた遺体が収められている。
イゴロットは棺を崖に吊るすことで魂が『天』により近く、そして早く着き、転生を信じた。同時に遺体が野生動物に荒らされないという合理的な一面もある。

この葬送儀礼を懸棺葬『ハンギング・コフィン』、あるいは懸崖葬と呼ぶ。広義には『崖墓(自然の洞穴を利用した葬送)』の範疇に含まれるものだ。
このような例は中国の四川盆地周辺でBC500年くらいの時期のものが見られるという。この時期の懸崖葬の特徴としては船形棺、副葬品、岩絵が上げられており、
類似の葬送文化は古代日本、東南アジア島嶼部で広く見られる。
それは中国奥地で誕生した懸崖葬、崖墓の風習が民族の移動とともに拡散していったと考えられるが、伝播ルートははっきりしていない。

エコバレーではいくつもの木棺、十字架、なぜか椅子なども吊るされ、文字がペイントされている。
その様子はさほど恐ろしさもグロテスクさも感じさせず、墓所特有の厳粛さが漂っているだけだ。
もっとも2000年以上も続いたハンギング・コフィンは、2010年秋を最後に終焉を迎えた。
良くも悪くもキリスト教の布教がこの地にも広がり、村には教会も建てられ、イゴロット族はクリスチャンとなった。
キリスト教の慣習に従い、土葬へとその葬送儀礼を変化させてしまった。だから現在、壁に吊るされた棺は祖先のものなのだ。
村の経済的発展も必要だが、彼らは祖先の墓が観光客の好奇の眼に晒されるのはいかがなものかと複雑に思っているようだ。


死ぬまでに一度は行ってみたい場所。 崖にかかる棺桶・ハンギング・コフィン(フィリピン)
http://worldtv.blog.fc2.com/blog-entry-679.htm...
Travel.jp 断崖に棺!不思議な埋葬を見にフィリピン「サガダ」に行こう
http://guide.travel.co.jp/article/6566...
KAZE風の旅行社 添乗報告記●中国貴州省 ヤオ族、スイ族、ミャオ族の暮らしと世界遺産のカルスト地形をたずねる7日間(2011年12月)
http://www.kaze-travel.co.jp/indochina_tenjo008.htm...
集合舎 チベットではなぜ鳥葬が行われるのか
http://www.shukousha.com/essay/ohta/436...
日本一選ばれている定額葬儀ブランド 小さなお葬式 死者が家に戻ってくる!?江戸時代の葬儀における風習やタブーとは
http://www.osohshiki.jp/column/article/21...

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210 2015/06/20(土) 21:15:50 ID:1WIW9RUCbc
     世捨て人の家が1軒の島? エリデイ島

滑り台のように反り返った崖が印象的な孤島に、ポツンと家が1軒だけ。この画像、実は当スレの>>111でも貼ったが、ソレに言及しよう。
アイスランド南部にはウェストマン諸島が連なり、そのなかの1島がこのエリデイ島だ。
何年ものあいだ、飛行機や船から撮られた島の写真がネット上で様々な憶測を呼び、ひそかに賑わせてきた。
もちろんフォトショップで作られたフェイクではない。
人間嫌いの世捨て人が隠棲しているのではないか、来たるべき黙示録に備えている億万長者ではないか、
あるいはアイルランド政府が歌手のビョーク(ビョーク・グズムンズドッティル)に贈った別荘ではないかと、まことしやかな都市伝説も囁かれた。
……が、どれも誤りだった。

300年ほど前、この島には5世帯が住み、漁業や牧畜、ツノメドリという海鳥の狩猟などをして生計を立てていた。
その後200年が経つ間に、コミュニティの維持が困難になり、徐々に住民が島を離れてしまい、1930年には完全に無人島となる。
とはいえ、海鳥の狩猟に際しては、非常に恵まれた環境であり、放置するには惜しい。
そこで1953年、旧島民で構成するアイスランド狩猟協会の手によって島に猟小屋を建築。
長期の生活には不向きだが、この猟小屋を拠点に再び海鳥を獲るようになった。画像の、ぼっちの別荘と言われているものの正体はこの猟小屋なのだ。
小屋にはインターネットの設備はおろか、電気も引いていなく、配管設備すらない。ただしサウナだけはあるらしい。
料理や飲用水、サウナに使う水は雨水から得ている。現在はそのアイスランド狩猟協会の会員用ロッジとして利用されている。

そもそもなぜビョークの別荘の話題が出たかというと、紛らわしいことにアイスランドには同名の島が2つあるのだ。
この猟小屋が佇むエリデイ島がアイスランドの南部にあるのに対し、別のエリデイ島が西部に位置する。
この西部にある島に件のビョークの別荘があるらしいので、それで勘違いされたようだ。


TravelPress 絶海の孤島にたたずむ一軒の家!こんな場所に建てられた家の正体は?
http://travelpress.jp/iceland-Ellidaey...
満艦飾 アイスランドの幻想の島、エリデイ。三つの島の三つの物語。
http://mankanshoku.blog.jp/archives/2705314.htm...
HYLEにっき ビョークをチラ聴きしたけど良さがわからないって人におすすめしたい名曲まとめ
http://hyle.hateblo.jp/entry/2014/06/09/22470...

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211 2015/06/20(土) 21:20:22 ID:1WIW9RUCbc
     爆発した歴史をもつ廃墟島 ポレペル島

ニューヨークからハドソン川を北上すること100km。そこにポレペル島があり、廃墟マニアが喜びそうな城の廃墟が佇んでいる。
ポレペル(Pollepel)はオランダ語で『柄杓』を意味するように、本来はオランダ人が発見し、開拓した島であった。
アメリカンインディアンに呪われているという伝説があり、新人の水夫は開拓者の船の船員となる通過儀礼の一環として、
このポレペル島に1人置いて行かれるという慣習があった。

独立戦争の際は、イギリス艦隊を迎撃するための砦のような働きをし、川底には当時の弾薬などが沈んでいる。
また1900年に軍の余剰品販売業者(要は武器商人)フランシス・バナーマン氏がこの島を買い付け、自称アマチュア建築家の実業家を謳うだけあって
スコットランドの古城にインスピレーションを得て、バナーマン城が建てられた。
この城は商品の武器庫として使われていた。わざわざ城の形にしたのは宣伝広告効果を狙ってのことだった。
最盛期、この城形武器庫には、3000万もの軍の余剰弾薬が保管されていたという。

バナーマン氏が死去した2年後、200tもの砲弾や火薬が爆破し、城の一部も大きく破損。
その後も倉庫として使われていたが、1950年には島唯一のフェリーボートがハドソン川の川底に沈み、島は放棄されていた。
事故のあと長らく放置されていたが、1967年、ニューヨーク市が観光地として買い付ける。ところがまたしても2年ほどで火災に遭い、
その後放置されたままとなっていた。
2008年より期間限定で観光ツアーが行われているので、ツアーに参加し、島に上陸することも可能のようだ。
ただし、数年後には城は崩壊するだろうと懸念されている。


世界中に広がる知恵を共有するメディアearth [世界の城跡9選] 海外旅行の候補に入れておきたい!!まるで映画のワンシーンで使われそうな奇跡の城跡
http://feelearth.me/nature/castle-ruin...
素晴らしきアウトドア アメリカとは思えない5つの場所
http://outdoors.discoveramerica.jp/amerikatohasi-enai-5-tunochang...
廃墟検索地図
http://haikyo.crap.jp/s/1791.htm...
死ぬまでに一度は行ってみたい場所。 ハドソン川の小島・バナーマン城廃墟(アメリカ)
http://worldtv.blog.fc2.com/blog-entry-371.htm...
テカムセの呪いwikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%86%E3%82%AB%E3%83%...

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212 2015/06/21(日) 09:09:32 ID:ZOn5yFWHM6
     怪しき鉄の要塞島に人口4人の国家 シーランド公国

イスラム国ことISISが国家を自称しているように、シーランド公国もイギリス南東部のサフォーク州の10km沖合に浮かぶ鉄骨の構造物を
領土と主張し、国家だと訴えている。人口は身内で固めた、たった4人だけ(最近は27人に増えた?)の、ネタみたいな『なんちゃって国家』だ。
そもそもシーランド公国を『島』として括るのはどうか。この構造物は第二次世界大戦中、イギリス軍が沿岸防衛の拠点として4つの
海上要塞と多数の海上トーチカを建設したのが始まり。1942年、最も北に位置していた海上要塞『フォート・ラフス』が誕生した。
イギリス沖10kmの北海洋上、ラフ・サンズと呼ばれる砂堆の上に、大きな柱が2本ある巨大な構造物を沈め、海上に突き出した柱の上に居住区や
対空砲台などを乗せたものである。大きさは幅約9m、長さ約23mほど、面積は207㎡。テニスコート1面よりも狭い。

戦時中は150〜300人ものイギリス海軍兵員が常時駐留していたが、大戦終了後に要塞島は放棄される。
ところが、1967年9月2日に元イギリス陸軍少佐で海賊放送の運営者パディ・ロイ・ベーツが、イギリス放送法違反で訴えられたため、
当時イギリスの領海外に存在したこの北のフォート・ラフスを占拠し、独立宣言を発表。ここを『シーランド』と命名、自らロイ・ベーツ公と名乗った。

1968年、紆余曲折があり、ベーツ父子は逮捕された。逮捕後、ベーツ父子は不法占拠の罪で訴えられるが、イギリスの裁判所は、
「シーランドはイギリスの領海外であり、かつ、今まで領有権を主張してこなかった」ため、イギリス司法の管轄外として父子を釈放した。
裁判所の判断を受け、ベーツは「イギリスがシーランドの主権を認めた」と主張し、1975年には憲法・国旗・国歌を制定した。

はたして冷静に見て、シーランド公国は独立国と言えるのか?
1933年のモンテビデオ条約によれば、国際法で認められるべき国家の要件は、(1)国民、(2)領土、(3)政府、(4)外交能力の4つとされている。
シーランド公国の場合、国民と領土、政府は存在し、外交能力についても1978年の『西ドイツ政府との交渉』を根拠に、
一応条件を満たしているとされている(ただし、当時の西ドイツ政府は、国家として認めて交渉したわけではないと主張)。
しかしながら1982年に締結された国連の海洋法では、島について『自然に形成された陸地』と定義しているので、人工島は領土として認められず、
人工島だけを支配するシーランド公国は、領土を持たないから国家とは認められないということになる。

こうして世界最小面積の自称国家となったわけだが、シーランド公国を独立国として承認している国は1つも存在しないため、
これを国と呼ぶことは国際法上は不可能なのだ。日本も独立国としては認めておらず、外務省のサイトには記述さえない。
2007年1月8日、英紙報道によると、ベーツ公らがこの国の売却先を探しているとされた。売り主は1000万ポンド(約23億円)以上の値を期待しているとしている。
2009年時点では、これを買った人や国は知られていないが、日丸屋秀和著マンガ作品『axis powers hetalia』(ヘタリア)では、
オークションに出されたシーランド公国を落札したのはスウェーデンという設定になっている。
ちなみに、シーランド公国の主力産業は、なんと爵位の販売。ウェブサイト上で行われており、気軽に購入が可能。ただしイロモノすぎる。

ロイ・ベーツ公の晩年はイギリスに隠棲し、シーランドの管理は摂政公太子のマイケルが引き継いだ(ただし、マイケルもイギリスに在住)。
2012年10月9日、アルツハイマー型認知症を患っていたベーツ公はリー・オン・シーのケアホームで死去。サウスエンド=オン=シーで葬儀が執り行われた。
満91歳だった。


NAVERまとめ 【怪奇!人口4人!?】面白すぎる「シーランド公国」の謎。
http://matome.naver.jp/odai/213545086047943280...
シーランド君ですよ!
http://www.geocities.jp/himaruya/ea.htm...
通信用語の基礎知識 シーランド公国
http://www.wdic.org/w/GEO/%E3%82%B7%E3%83%BC%E3%83...
パディ・ロイ・ベーツwikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%91%E3%83%87%E3%82%...
APPREVIEW これであなたも今日から貴族!ネットで購入した爵位が届いたよ
http://app-review.jp/news/21592...

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213 2015/07/04(土) 11:31:54 ID:3IwzxmnZEk
     クロ宗の死の儀式は存在したのか? その考察12

ウ〜ム、なんだかわからなくなってきたぞ……。
いきなり嗟嘆を漏らしたのは他でもない。>>164から>>175にかけて長々とクロ宗に関して独自の考察をタレてきて、
一応は結論が出たと勝手に決めつけていた。しかしながらこれで片づけてしまうのは、独善的であり性急すぎるというもの。
実はその後も水面下で執拗に調査を続け、このたび国内日本文化研究センター(大学共同利用機関)のHP内より、
米村竜治氏(筑紫女学園大学・文学部)という教授が執筆した『隠れキリシタンと隠れ念仏』なる資料を発見するに至った。
これが驚愕の内容だった(発表されたのは1997年以降?)。
これまで海外の『怖い島』を取り上げてきたが、流れをブッタ切って緊急速報的な感じで追記せねばなるまい。

話をまぜっ返して悪いが、この報告書によると、どうやら……クロ宗における、瀕死になった信者の生血と生き胆を取り出し、
それを飲み食いする『死の儀式』、すなわち『秘蹟』は、まんざらデマでもなさそうというのだから、その衝撃たるや如何ほどかわかってくれよう。
こんな資料が埋もれているとはまだまだ勉強不足であった。これも不徳の致すところ。
とにかく興味深い個所を引用するので、眼を通していただくのが手っ取り早い。全文を抜粋するのは長すぎるうえ、冗長になる。
クロ宗だけに『肝』となる文をピックアップしてみる。以下、アンカー部分からが引用文。

>日本にはじめてキリスト教を導入したのは、鹿児島の人アンジロウである。(中略)アンジロウの正式な呼び名はヤジロウ(弥次郎)である。
>ヤジロウは鹿児島(薩摩藩)の水軍軍師の1人であったと想像される。その彼が何らかの理由で殺人事件を起し、薩摩を脱藩する。
>勿論、逃げ行く先は海である。ポルトガルの貿易船に便乗しマラッカに流れ着く。
>1547年10月、マラッカでヤジロウはフランシスコ・ザビエルと出会う事になる。ザビエルは初めて見る日本人の容姿に驚き、同時に日本の存在を知る。
>ザビエルはヤジロウの背後に日本という国の高度な文化体系を嗅ぎとり、日本への布教を思い立つ。
>ヤジロウはやがてゴアに移り、自分の犯した殺人の行為を含めて一切の罪の赦しと神の恩寵を与えられ、キリスト教徒として新生する事になる。
(中略)
>実は、ヤジロウが島津藩を脱藩したのは単身ではなく、共に脱藩した同士が2人いた。その2人とも常にヤジロウと行動を共にし入信している。
>筆者の想像だが、この2人は薩摩水軍の軍師であるヤジロウの家来であったと思われる。この2人にはそれぞれ、ジョアン、アントニオの名が与えられている。

>ヤジロウは神を「大日」と通訳した。真言密教の大日如来の「大日」である。これには日本人の方がその誤ちを指摘してくるほどである。
>そこでザビエルはその訳はかえって神を冒漬する置換である事に気付き、以後はすべて「デウス」という言葉を使うようになる。
>同時にザビエルはキリスト教の特殊な用語に関しては日本語としての仏教用語に置換える事をやめ、ラテン語あるいはポルトガル語をそのまま使うようにした。
>扨(さて)、そのヤジロウはその後どうなったか。
>1950年以後、神の恩寵と布教のもとにあったはずの彼の行方はようとして知れない。彼は鹿児島を追われ中国へ渡りそこで死んだという。
>ルイス・フロイスが書いている。
>「信仰を棄ててしまったのか、あるいは、キリシタンであることをやめてしまったのか……」、彼は富を求めて海賊になり「シナへ渡りシナで殺されたという」、
>「しかし、それは確かなことでもなく、また彼の最期についてこれと違ったことを知るよしもない」と。

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214 2015/07/04(土) 11:35:06 ID:3IwzxmnZEk
     クロ宗の死の儀式は存在したのか? その考察13

>フーベルト・チースリクは書いている。
>「ロドリゲスの『日本教会史』のなかにもヤジロウがシナへ渡り、そこで海賊の手で殺されたと。
>だが、ロドリゲスはメンデス・ピントの『遍歴記』の報告を採り入れたものであり、ピントの書は半分以上作り話であり信憑性は疑わしい」と。
>これらの文脈を浚っていくと、ヤジロウはシナへ渡って殺されたのではなく、日本の何処かに姿を隠し、あるいは匿まわれたのではないかと思えてくる。
>イエズス会という組織の歴とした修道士・宣教師であり、サビエルを日本に連れて来た記念碑的人物が、その三年後には行方不明、
>まして死の記録が教会側に一切ないというのはどう考えても不自然である。
>ところが日本側(鹿児島本土)の基暦にはヤジロウの死を伝える言い伝えが残っていた。ヤジロウは甑島に身を隠しそこで死んだと。
>しかも下甑島の片野浦という山深い集落に、ヤジロウの墓があり、ある秘密集団によってひそかに護り続けられているという。

>早速、甑島に渡ってみる。第1回目の渡島調査が昭和53年2月の事である。この島の手打の港で、片野浦には「テンジョウバカ」と呼ばれるものがあると聞かされた。
>つまり「天上墓」である。(中略)
>昭和53年の調査の当時、天上墓という呼び名が村の墓地のシンボリックな総称であろうと筆者は勘違いをしていた。何よりも観察不充分であった。
>半円形の半ば埋められた卵形の石は、そこに人間の遺体、舎利が埋葬されている標であった筈である。
>天上墓とはシンボリックな呼称ではなく、1人の聖なる人間を埋葬した墓だったのだ。

>平成8年12月、第3回目の調査に赴いた折、ヤジロウ墓は1ヵ所に定着しているのではなく、これまで何度か違う場所に移されて来たと手打の住民から聞かされた。
>片野浦なる村は完全黙秘に沈んでいて、聞き取り調査はいきおい外部の周縁の村から出発せざるを得ない。
>この遷墓は両墓制(※前スレ>>161を参照せよ)に準ずる民俗とも思われない。
>そこで再び、天上墓の聖地を訪れてみる。すると天と地を結ぶヘソでもある、かの如き船形の石は横になぎ倒され掘りくり返されて、
>かつて見た天上墓の荘厳な様子は見る影もなかった。何処へ移されたのか。何故、移すのか。

>これまで片野浦のヤジロウ墓とそれを護り続ける秘密結社の調査にやってきたのは筆者だけではない。それこそ壮大なチームが陸続として乗りこんでいた。
>地元の鹿児島大学をはじめ宮崎大学、大分大学、長崎大学、九州大学等の5大学の民俗調査班、マスコミでは朝日新聞、NHK等々枚挙にいとまがない。
>だが如何なるる調査班であれ片野浦の拒絶にあって彼等は何も掴み得ず素手ぶりで帰ってきた。
>むしろ調査班が村に乗り込んで来るたびに片野浦は秘密の壁を厚くして沈黙した。
>それでも高度経済成長と離島開発の波に乗って、秘密共同体としての村から外へと脱ける人間が出てくる。
>その脱けた村民から周縁の村に少しづつ秘密が洩らされて来たという推移がある。

>それによると、天上墓(ヤジロウ墓)が移されたのは度重なる調査班の侵入から隠すためであるという。聖なるものは匿さなければならない。
>筆者には暴露趣味はない。然し、墓の存在を立証しない限り、筆者の論旨は先に進まない。紆余曲折の果てに墓の新たな場所が判明した。
>平成9年9月10日、第5回目の渡島の折である。日本の村の何処にでも見かける村道脇の竹藪のなかにそれはひそかに荘厳されていた(?)。
(中略)
>村の女性たちにこの墓の事を聞いてみる。「そんなものは知らない」と口々に答える。ただ1人だけ「尊い人の墓だと聞いている」という。
>1981(昭和56年)年2月、ローマ法王ヨハネ・パウロⅡ世が日本にやって来た。その折、随伴した法王庁の使節団から片野浦のヤジロウ墓を、
>訪問墓参したい旨の打診があったという。法王庁でもヤジロウ墓の事は公然の秘密として受けとめられていた模様である。
>だが片野浦はにべもなく断った。彼等の秘匿性は徹底している。

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215 2015/07/04(土) 11:51:37 ID:3IwzxmnZEk
     クロ宗の死の儀式は存在したのか? その考察14

>片野浦は戸数48戸の小さな山中の村落である。その48戸はクロ宗、あるいはクロ教と呼ばれる宗教によって結束している。
>クロ宗のクロとはクロスのクロであるという。つまり隠れキリシタンの末裔であるとされている。
>この事は古来、鹿児島の郷土史に於いては公然の事実として扱われている。但しこのクロは筆者に言わしむればシロに対するクロであり、
>周囲の人間が付けた差別の呼び名であると思える。然しその事はここでは論じない。
(中略)
>片野浦の村落は手打の港からほぼ3キロの距離にある。この片野浦の頂点に立つ人物はサカヤと呼ばれる。
>サカヤとはサクラメントの転訛であり、秘蹟あるいは秘蹟を行う者を意味する。このサカヤに現在は賢家(サカヤ)という文字をあてている。
>サカヤは世襲制度であり大毛家による万世一系によって継承されている。サカヤは、村に対して強大な支配権を握っている。

>このクロ教の村には厳重な掟があり、村以外の人間と結婚する事は許されない。殊に大毛家の場合、この律法は厳しい。
>サカヤの息子としてサカヤを継承しなければならなかった大毛三明氏は、片野浦から北東部へ山一つ越えた青瀬という海岸の青瀬小学校の代用教員を勤めていた。
>そこで女性教師と恋愛し結婚したばかりにサカヤ継承権を奪われ、大毛の名を剥奪されて村を追われた。
>現在、山下姓を名乗っている。山下三明氏(86才)、鹿児島に移住している。

>扨、この山下三明氏などが村を脱けた1つのケースであるが、この脱けによってクロ教の実体が少しずつ外部に漏れてきたのである。
>民俗調査というものは記録史料の不在によって不明な実体とその歴史を聞き取り調査によって明らかにしていく方法を採る。
>その場合、その取材先を公表できない事情もある。筆者の場合、その取材はまずはこの『脱け』に依っている。
>そのなかのもう1つのケースを挙げれば、かつて片野浦の住人であり現在は手打の町でT薬品を営む主人(大毛姓)である。
>もっと大きい取材源もあるが、それは後述する。
>現在のサカヤは女性、大毛久枝さん(年齢推測80才代)である。三明氏が脱けたばかりに男性継承者がいなくなり、姪の久枝さんが継承してサカヤの地位にある。
>いわば、女帝である。(中略)

>ではクロ宗はいかなる秘儀によって成立しているのか。その秘匿性はどこにあるのか。それは「生き胆とり」という秘儀の故であると言われている。
>この場合の生き胆とりとは、人間の臨終に際して即座に胸を切り開いて生き胆(心臓)(※やはり心臓だった!)を取り出すのだという。
>つまり供犠の儀礼である。神に捧げる生贄として心臓を切り取る。この儀礼を村人の死に立ち会うサカヤが執行する。
>この場合、カトリックという表層宗教が地上から隠れ、教会から離れて基層へと埋没していくとき、基層民俗の生贄の祭儀へと帰着していったのか。
>別の言い方をすれば、カトリックの深層に潜む供犠の宗教を帰趨としたのか。
>いろんな要素が重層しているが、もともと、鹿児島の基層土俗には「冷えもん取い」という習俗があった事が『鹿児島の昔話』に伝えられている。

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216 2015/07/04(土) 11:55:43 ID:3IwzxmnZEk
     クロ宗の死の儀式は存在したのか? その考察15

>藩政時代の鹿児島では処刑された犯罪人の生き肝を取る事が公認されていた。「冷えもん」とは肝の事である。
>現在の鹿児島市電の二軒茶屋停留所から山に入った所に、「サカセド刑場」があった。
>そこで行われるのが冷えもん取いである。打ち首によって首が刎ね落ちると、刑場をとりまく兵児は一斉に胴体に取りつき短刀で腹部を切り裂き肝を取り合った。
>鹿児島には特産の秘薬「浅山丸」があるが、それが「冷えもん」で作られたという。つまり兵児たちにとってはそれが臨時収入であったのである。
>それは同時に生贄として他人の命を救う秘薬となった。「浅山丸」は今もあるが、今日ではおそらくそれは鹿か何かの動物の肝であろう。
>ではクロ教の場合、供犠として切り出された心蔵はどうなるのか。「六神丸」になるのだと周囲の村はいう。
>何も驚く事はない。死んだ人間の蔵器が他人の病いを癒す。これは現代、正当化され行われている蔵器移植の類型である。

>サカヤは村を支配するほどに財産家であり資金力が豊かである。
>それであってこそサカヤとクロ宗は存続し得たのである。その財力は生き肝にあると言われている。
>こういう話はすべて「脱け」(註:村から追い出された人たちのこと)からの聞き取りである。
>そこで「脱け」以外からの、外の村の人間からの聞き取りも一つだけ挙げておく必要があるだろう。下甑村立の歴史民俗資料館の調査員氏である。

>彼の父親は大工であったという。手打の港から片野浦へ、屡(しばしば)、家を建てに通ったという。
>作業中のある日、死人が出たので棺桶を造ってくれと頼まれ寝棺を造った。
>見ていると入棺の儀式が何と畳を剥いで床下で行われたという。儀礼執行人が床下から這い上って来た時、何故か、全身が血痕で真っ赤に染まっていたという。
>そして一升瓶に詰められた血を見たという。昭和21年の事である。

>扨、この種の聞き取りをどれだけ積み重ねても実証性の保証には届かない。問題は受容された表層宗教が隠れという長い時間のなかで基層土俗へと沈殿する。
>この場合、宗教学の概念では「変容」と呼ばれて来た。だが基層土俗の内容は神秘という皮を一皮めくれば現世利益である。
>だからこの場合、変容ではなくて現世利益への「転換」ないしは「置換」と言える。要するにすり換えである。
>隠れ離れという条件の如何に関わらず、もともと日本人の一般的受容の態度はこの現世利益にある。
>信仰としてでなく文化としてしか受容しなかったとすれば、それは現世利益という現実的功利性の故である。
>生贄という秘儀には罪の贖いというより冷徹な現世利益がより深く絡まっている。

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217 2015/07/04(土) 12:05:27 ID:3IwzxmnZEk
     クロ宗の死の儀式は存在したのか? その考察16

>片野浦のクロ宗の徒は藩政時代は真言宗の檀徒であったという。この真言密教の持つ呪術性、秘儀性との習合も考えられるが、
>彼等はあくまでも隠れキリシタンである。真言宗の檀徒であったという事は寺請制度による強制でもあるが、キリシタンである事を隠す擬装であったと思える。
>ところが、片野浦のかつての天上墓のあった丘に対応する地点の平地に堂々たる浄土真宗本願寺派の本堂がそびえている。
>たった48戸の村にしては立派すぎる真宗寺院である。ここで、キリシタンと真言宗と浄土真宗という3つの重層が一挙に浮かび上がって来た。

>クロ教の村にそびえる浄土真宗の寺院は村の中心に位置する。寺院名は無名である。浄土真宗本願寺派片野浦説教所と称する。
>かつては隣村の青瀬の西楽寺の管轄する寺であったが、離島の小寺では食っていけない。そこで西楽寺住職は甑島を退転し、本土へ移っていった。
>そこで現在は手打の法雲寺が片野浦の依頼によって肩代わりしている。つまり法雲寺住職・井芹大心師がクロ宗の人々の仏事法要、
>更には片野浦の本堂での報恩講を勤めている。
>然し、それは形だけであり、法雲寺住職が彼等の寺の運営や寺の法要スケジュールそのものに口出しする事は頑として拒否される。
>彼等が浄土真宗の門徒であるのは昼の時間だ。夜の時間になればクロ宗という秘儀の世界へ帰って行く。

>では誰がこの寺を建てたのか。
>サカヤの大毛家が土地を提供し、建築資金のすべてを賄ったという。それほどにサカヤには財力がある。
>かつてこの寺を管轄していた青瀬の西楽寺も表向きはクロ教に雇われていたにすぎない。西楽寺の管轄は行政上の名義にすぎない。
>この場合、名義とはクロ宗である事を隠す擬装工作でもある。というより重層体系の典型的な例証がここにはある。
(中略)
>では、隠れキリシタンの末裔であるクロ宗が何故、浄土真宗なのか。
>キリシタンと同時に弾圧を受け続け禁じられて来たのが浄土真宗である。日本列島は地域によって、その禁圧と容認の仕方が可成り違ってくるが、
>鹿児島では1500年代の初めから明治9年に至るまで浄土真宗は禁じられていた。そこで浄土真宗の門徒は隠れキリシタンと同様に、
>隠れ念仏(※前スレ>>216〜218を参照せよ)の徒となって秘密の講のもとに結集し信心を相続した。
>島津藩の採った弾圧の方法は凄惨で、一村丸潰しという藩の経済損失と引換にしてまで敢行された。
>隠れキリシタンと隠れ念仏と、公権力によって同じように禁圧され、隠れざるを得なかった「隠れるもの同士」が歴史の底の何処かで繋がり合う事はなかったろうか。

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218 2015/07/04(土) 12:37:47 ID:3IwzxmnZEk
     クロ宗の死の儀式は存在したのか? その考察17

……引用ここまで。今回はあえて主観を排した形で締めくくる。この報告書がどれほどまで信憑性があるのかわからないが、
荒唐無稽の一言で片づけるにしては迫真性が漲っている。
興味ある方は下記リンクのサイト(●印のところ。[PDF]隠れキリシタンと隠れ念仏 米村竜治)を閲覧されたし。
全文を読むことができる。そこで判断願いたい。

ちなみに、人の胆で作った薬『浅山丸(あさやまがん)』とは、江戸時代に死刑囚の首を切るという職業を代々継いでいた山田浅右衛門が、
内職として作っていた肺病の薬。金2分で売っていたらしい。
その薬は、首を切り落とした死刑囚の体温がまだ暖かいうちに、みぞおちの当たりを切開し、その傷口から手を入れて胆嚢を引き出したあと小刀で切り離し、
胆汁がこぼれないように切り口を糸で固く縛り、それを陰干しにして、乾燥したらケシ粒ほどの丸薬に加工したものだという。
山田家では、別棟で、それ専用の肝蔵(きもぐら)が建ててあり、夜ごと浮かばれぬ幽霊が出たとかどうとかまことしやかに伝えられている。
また、雲霧仁左衛門、鼠小僧次郎吉、日本左衛門などの巨盗を切った時には、「さぞかし肝が強いだろう」といって、買い手が殺到したとか。
なお浅右衛門は、夜寝床に入ると首の化け物に襲われるというので、女どもに三味線などを弾かせて夜を明かし、明け方からようやく寝付く習慣になった。
したがって、家計簿の支出では油代が一番多かったという逸話が残されている。
山田家は他にも、人間の肝臓や脳を原料とし、労咳に効くといわれる丸薬を製造していた。これらは山田丸・浅右衛門丸・人胆などの名で販売され、
山田浅右衛門家は莫大な収入を得ていた。また、遊女の約束用として死体の小指を売却することもあったという。

……これまでくり返し唱えてきたが、離島とは四方を海で閉ざされた空間だ。生産から死まで自己完結される小世界のなかで独自の異質な文化が発生し、
長い時間をかけて発酵していき、内地のソレとかけ離れてしまうことが、ままある。
つくづくこの世は、理性で片づくものばかりではないことを思い知らされる。

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219 2015/07/04(土) 12:41:38 ID:3IwzxmnZEk
     クロ宗の死の儀式は存在したのか? その考察18

N.E.U.T.R.A.L「B級スポット」不覚にも秘密結社の村「クロ宗」に萌えてしまった
http://neutral-neutral.com/archives/187...
excite世界びっくりニュース TVディレクターが語った、鹿児島の離島に伝わる「クロ宗」と"死の儀式"
http://www.excite.co.jp/News/odd/Tocana_201503_post_59...
●[PDF]隠れキリシタンと隠れ念仏 米村竜治
http://publications.nichibun.ac.jp/region/d/NSH/series/niso/1998-...
RAPT イエズス会と真言密教と浄土真宗と人肉食信仰「クロ宗」の奇妙な接点。フランシスコ・ザビエルを日本に招いた「ヤジロウ」から分かる悪魔教の現実。
http://rapt-neo.com/?p=2788...
ヤジロウwikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A4%E3%82%B8%E3%83%...
じじい見習いのアウトドア日記 ヤジロウの墓
http://blogs.yahoo.co.jp/trout2009jp/66867414.htm...
山田浅右衛門wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E7%94%B0%E6%B5%...
読書日記 『落合論文』陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(2)
http://2006530.blog69.fc2.com/blog-entry-81.htm...
六神丸wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AD%E7%A5%9E%E4%B8%...
熊胆wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%86%8A%E8%83%8...
碧い世界 薩摩のひえもんとり
http://aoisekai487.blog7.fc2.com/blog-entry-683.htm...
鹿児島の市電と街その4 涙橋電停〜谷山電停
http://yamamomo02.web.fc2.com/siden/cityview4.htm...
Googleマップ 下甑島・片野浦の集落
http://urx3.nu/lRc...
Googleマップ 下甑島・片野浦の集落
http://urx3.nu/lRd...

>>166で「島民と島そのものを貶める云々、島の名誉を守らねばなるまい」と書いておきながら、掌を返すようなこんな仕打ちとは鬼畜の所業ですね。

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220 2015/07/16(木) 15:39:53 ID:jV.5IJA1aU
既出だったらスマソ

ソロモン諸島の巨人族
http://tocana.jp/2015/07/post_6767_entry.htm...

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222 2015/07/29(水) 06:23:16 ID:0orG7cK3RE
宗像の沖ノ島が世界文化遺産に登録されるといいですね。端島といい、ついに「島」の時代の到来が来そうな予感。
ある意味、時代を先取りしてたスレだったかも?
だけど沖ノ島は女人禁制で、しかも1年に一度、たった200人しか入島できない制限があるんですよね。
観光客誘致となると、そこをどう解決するかが問題・・・

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223 2015/08/03(月) 08:00:31 ID:9gm55RSqbE
     腐乱死体と隣り合わせ……風葬の村 バリ島トルニャン村

バリ島の東北部にはバトゥール湖があり、その東岸にトルニャン村と呼ばれる小集落がある。
ここではバリ・アガと呼ばれる先住民族が暮らし、彼らはヒンドゥー教徒でありながら遺体を火葬することはなく、
未婚者は土葬にし、既婚者、天寿をまっとうした者は風葬という形で送る葬送儀礼がある。

とくに後者の風葬の場合、遺体は村の郊外の安置所に、野ざらしのまま放置。
遺体には獣が荒らすのを防ぐため、竹と椰子の葉で編んだカゴをかぶせているだけ。手前には故人が生前の愛用品が置かれる。
そして自然にまかせ、やがて肉体が朽ちて白骨化するのを待つ。
遺体置き場のそばには香木が立っており、腐敗臭を打ち消すのだという。その後、骨になると頭蓋骨だけ石段に並べられ、他の部位の骨はひとまとめにされる。
トルニャン村では死後の肉体は大地へと返すべき、という考え方がある。彼らにとって風葬は、自分がきちんと正しく生きた証でもあるのだ。


TOCANA 神秘なる人骨-生と死が共存するバリ島最後の秘境「風葬の村」トルニャン
http://tocana.jp/2013/12/post_3403_entry.htm...
4travel.jp 風葬の村トルニャン
http://4travel.jp/travelogue/1049584...

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224 2015/08/03(月) 08:07:18 ID:9gm55RSqbE
ここまでを振り返り、ちょっと補足を。
当スレを象徴する>>1のサムネの仏島って、単に『潮仏』なのか? 潮仏は主として志摩半島に分布し、対する仏島はすぐお隣りの三河湾だし、
伝播しても不思議ではない。潮仏は海中に祀られた石仏であり、満ち潮の際は水中に没し、干潮時にはその姿を現す。
自らが潮に濡れて苦しみを引き受けることにより、腰から下の病気を治すと信仰されており、志摩の海女たちが参るそうだ。
となると、前スレ>>188の伝説は後付けの可能性があるかも? ……詳細はつかめず。

>>207の菅島での海女の話で、海中で出会う怪異『トモカヅキ』は、低酸素症と疲労によるサードマン現象(別スレttp://bbs50.meiwasuisan.com/kaiki/1419652014/l50)
だろうね。

それはそうと、>>213のクロ宗の『秘蹟』から派生した類似の話にも触れておこう。
『カルト』『秘密結社』のキーワードでクロ宗と共通点が見つかったものがあった。それがロシアの異端『フルイストゥイ』派である。
フルイストゥイ派とは、18世紀初頭、ロシアのヴォルガ河上流にある一寒村から発祥し、ロシア全土に拡散したキリスト教系の異端の秘密結社だ。
帝政ロシア末期にあらわれた怪僧ラスプーチンも33歳のときに入信し、熱心に信仰したほど。

彼らは正教会の礼拝式にも出席するが、それとは別に身内で秘密の集会を開き、そこで特殊な宗教的法悦を得ようとする。
フルイストゥイ派の秘密の礼拝は、主として『ラディエニエ』(献身、熱情の意)と称する儀式で、基本的な形式は法悦を得るための狂熱的な一種の舞踊であった。
時としてこの儀式は暗闇のなかで、いかがわしい集団的な性の饗宴にまでに発展。またごく稀に、儀式としての殺人が行われることもあったとされている。
『ボゴロディチャ』(神の母)の地位に昇進した未婚の若い娘が、出産した男子をキリストの再来と見なし、誕生後8日目に殺害するのだという。
その血と心臓を小麦粉と蜜に混ぜ、これで奇怪な聖体拝受のための聖餐のパンを作るのだとか……。
『フルイストゥイ』とは鞭で打つという意味であり、「救済を得るために罪を犯すべし」という意味不明の原理であった。
つまり人は罪を犯せば犯すほど、それだけ深く悔い改めることができる、という人間性のパラドックスの上に立った、奇怪であり、古風な信仰だったという。
いずれにせよ、怪しいカルト宗教は、稀に常軌を逸したことをやることがあるってことが言いたいのだ。

あ痛、>>217で『隠れ念仏(※前スレ>>216〜218を参照せよ)』と書いたが、正確には『隠し念仏』だった。この2つは似て非なると書いておきながら自爆。
>>220既出ではない。どうもその手はいかがわしくてスルーしていただけ。


伊勢志摩きらり千選 御座の潮仏(志摩市志摩町御座)                     
http://www.kirari1000.com/www.kirari1000.com.base_data.b...

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225 2015/08/03(月) 08:36:35 ID:9gm55RSqbE
>>222
端島に続き、ついに時代が追いついたってか。8月2日の日曜放送の所ジョージ司会の『目がテン!』でも青ヶ島の特集、やってたしね。
沖ノ島については前スレ>>10で早々書いたので、二度も説明するまでもあるまい。強いて言えば、沖ノ島は厳格なしきたりが現在も残され、
世界遺産に登録された暁には観光客が押し寄せると予想されるが、頑なに伝統を守ってほしい。

そのしきたりとは列挙しただけでもこんなにある。①『不言様』(おいわずさま・島で見たり聞いたりしたことを、口外することは許されない)、
②一木一草一石たりとも持ち出せず(ただし島内の湧き水は例外)、③入島する際は、一糸まとわぬ姿になって海水で禊をしなくてはならない、
④女人禁制(島内にある宗像大社沖津宮では、宗像三女神の田心姫神を祀っているが、これが女人に嫉妬するため)、⑤島内での不浄、汚穢(大小便)は一切禁止、


withnews 沖ノ島、女人禁制・裸でみそぎ 本気で守られている「しきたり」
http://withnews.jp/article/f0150729001qq000000000...
「神宿る島」宗像・沖ノ島と関連遺産群を世界遺産に
http://www.okinoshima-heritage.jp/
女人禁制wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A5%B3%E4%BA%BA%E7%A6%...
宗像三女神wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%97%E5%83%8F%E4%B8%...

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227 2015/08/09(日) 09:47:54 ID:rdJYs1VVkw
     日本で1つだけ、『○○島』と名付けるには畏れ多い霊島 金華山

またしても悪い癖でログサイズが500KBに迫りつつあり、そろそろ当スレも終わりを迎えようとしている。
だとすれば、有終の美を飾るにふさわしい島々を紹介せねばなるまい。
福岡県宗像市の沖ノ島が厳格なしきたりを続けているが、実は東北にも多少は緩和されたとはいえ、信仰の篤い『神の島』が存在する。
それが宮城県石巻市の太平洋上に超然と浮かぶ有人島、金華山である。面積10.28km2、周囲17.3km、人口は6人。
島でありながら日本の島の中で『島』と名がつかないのは金華山だけだ。定説はないが、○○島と名付けるには畏れ多い場所で、
信仰の対象となるのはその『山』であるため、呼び名としての位は『島』よりも、『山』の方が格上だったからと言われている。

金華山は島全体が黄金山神社の神域となっており、地場の信仰の対象として知られ、恐山、出羽三山と並ぶ『奥州三霊場』に数えられる。
では黄金山神社は、どんな神を祀ってあるのか?
今からおよそ1260年遡ること天平21(749)年、陸奥国小田郡の金鉱で多くの金が採掘されたことにより、その金が朝廷に献納され、
聖武天皇がみずから奈良東大寺で一大祝賀式を設けた。
そのため金華山には鉱山の神である金山毘古神(かなやまひこのかみ)と金山毘賣神(かなやまひめのかみ)の2神が御祭神として祀られた。

それゆえ金にまつわるというところから、3年続けてこの神社に参拝すると生涯お金には不自由しないで暮らすことができると信じられた。
とはいえ近年の地質調査により「金華山は花崗岩でできた島」ということがわかっており、地質から考えて島で金が採れた可能性は低く、
むしろ金華山近くの、鮎川金山などから産出した金だったのではないかとも推測される。

万葉の歌人・大伴家持が残したこんな歌がある。『天皇(すめろぎ)の 御代(みよ)栄えむ東(あずま)なる 陸奥の山に 黄金花咲く』
この時代は金華山が陸奥の代名詞とされており、混同されたのではないか。いずれにせよ、金華山と直接『金』は関係がなかった。
しかし、牡鹿半島の豪族たちの権力により、あえて黄金のイメージを金華山に託して黄金山神社として祀ったのであろう。
神仏習合の時代になると、金華山は修験道の霊場となる。山全体を御神体とし、その中に鎮座する磐座(いわくら)を祀って聖域としてきたのである。
その後、藤原秀衡により建立された別当寺の金華山大金寺は、弁財天を守護神として明治期の廃仏毀釈で廃寺となるまで多くの信仰を集め、
江戸時代の長きにわたって弁財天の金華山信仰という民間信仰を開花させた。

明治以前まで、金華山は女人禁制の島だった。それを比較すれば、沖ノ島のしきたりはよく頑張っていると思う。
女人禁制の掟が厳しかった昔、牡鹿半島に住む亀という名前の女が禁制を犯して海を泳いで金華山へ渡ったところ、
神の怒りに触れて突然石になってしまったとも伝えられている。その『亀石』は、現在も金華山の港に佇んでいる。
また金華山への参拝を終えて帰るときは、金華山で履いた草履は島に脱ぎ置き、対岸に着くと新しい草履に履き替え、本土の土を踏んだとされている。
神聖なる金華山の神が、島の一木一草一石にいたるまで、たとえ島の土粒たりとも島外に出ていくことを嫌うからこんな因習が生まれたそうだ。


みちのくにやま 黄金花咲く金華山 霊島金華山黄金山神社
http://kinkasan.jp/
白い国の詩 東北の動物たち 金華山信仰と神鹿
http://www.tohoku-epco.co.jp/shiro/08_10/05doubutu/index.ht...
玄松子の祭神記 金山彦神・金山姫神
http://www.genbu.net/saijin/kanayamahiko.ht...
宮城県復興応援ブログ ココロ??プレス 12年に1度の御本殿御開扉巳歳御縁年大祭 前編(石巻市金華山、女川町)
http://kokoropress.blogspot.jp/2013/05/12-1.htm...

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228 2015/09/06(日) 07:07:49 ID:Q5fEw4xzkM
     ヤドカリ葬は実在するのか? その考察1

前スレが産声をあげたのは2011年4月。当スレを合わせると4年と5ヶ月にわたり、スレの私物化も甚だしく、
長らく明和水産管理人様および皆様のお目汚し失礼してきた。この場をお借り、お詫び申し上げる。
当スレも容量の都合上、ついに今回で最終回と相成る。と言っても感傷は不要。粛々と島ネタを提示するのみだ。

さて、前スレ>>133で「ヤドカリ葬に関して鋭意調査中」と軽々しくも書いておきながらずいぶん時間が経ってしまった。
調査中と言ってしまった手前、この課題はきっちりとカタをつけなければなるまい。
島の秘密の風習やタブーを追っていると、必ず突き当たるのが『クロ宗』と『ヤドカリ葬』だった。
クロ宗に関してはさんざっぱら追究したつもりだから、これでよしとしよう。となると、某島で秘密裏に行われているという『ヤドカリ葬』の件である。
ヤドカリ葬とは読んで字のごとく、人間の遺体をチベットの鳥葬みたく、ヤドカリの群れに食べさせる葬送儀礼であろうことは想像できる。

はたして現行法(墓埋法)に触れるような、奇怪かつ野蛮とも思える風習がこの現代日本に存在するというのか?
下世話な某雑誌によると、まことしやかにこの記述が見られ、信じ難いと眉をひそめつつも、むしろ火のないところに煙は立たないはずだ。
某雑誌記者はどこからネタを仕入れたのかと疑問があった。必ずや源泉があるに違いない。
いくらネット世界は広しといえど尻尾をつかめず難航していたが、おぼろげながら輪郭がつかめるようにまでなったので、ざっくり書いてみる。
この検証をするにあたり、ある意味『怖い島』の総決算となろう。ただし容量の関係もあり、いくつもの長文レスを重ねるわけにはいかない。
かなり駆け足の、これまでとは異なる不親切なやり方でアプローチすることになる。せめて★マークをつけたところだけは刮目して欲しい。

ヤドカリ葬の記述が見られる資料は、当スレ>>166で明かした①宙出版『実録 怖い島・伝説の奇祭編』の誌上および、②漫画実話ナックルズ特別編集
『死ぬかと思った絶叫体験SPECIAL』(①②は漫画)、DVD化されている③『恐い動画 投稿&心霊地帯スペシャル2』の1編にすぎない。
これらは似たり寄ったりの情報が羅列しているため、いずれかに触発されて流用されたネタだと思われる。
この3点の、下衆で眉唾モノの媒体を鵜呑みするのは愚かしいことだが(ましてや1つはナックルズw)、異様に興味をソソられる内容ではある。軽くその概略に触れよう。

以下、資料①の要約。
奄美地方の一部集落では風葬以外の『自然葬』も行われていたという報告がある。現行法では法に触れる恐れがあり、現在では行われていないというが、
本土から遠く離れている島々では、今もなお語り継がれている奇習がある。
その奇習が『ヤドカリ葬』と呼ばれるもの。奄美全域で行われた風葬とは異なり、『とある島だけ』に残った信仰と風習が反映された葬儀様式。
『ヤドカリ葬』はチベット仏教やインドのゾロアスター教といった宗教葬儀で行われている鳥葬と様式的に似ている。鳥葬は葬儀後、遺体を郊外の荒地に運び、
それを裁断し断片化しハゲワシなどの鳥類の餌とさせるのだが、ヤドカリ葬もヤドカリが集まるところへ遺体を放置し、ヤドカリに食べさせる葬儀様式である。
この地方のヤドカリは『アマン』と呼ばれ、神聖視された生き物である。わけても岬にそそり立つ岩礁を神の姿に見立て『立神』と呼び、古くから信仰の対象としてきた。
奄美地方だけでなく、トカラ列島、大隅諸島でもこの『立神』を発見することができるが、ヤドカリ葬を行うこの岩礁を神聖なる場所と定めてニャーデバナと呼び、
『天に通じる島』として畏れ敬っていたという。

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229 2015/09/06(日) 12:37:56 ID:Q5fEw4xzkM
     ヤドカリ葬は実在するのか? その考察2

なかには伝染病の疑いにより、★『生体のまま』(つまり生きたまま)島に放置することもあったとの、俄かに信じ難い記述が見られる。
再現漫画では島民の1人が「この風習は一切口外してはならない」と、発言するシーンがある。口外することは許されないとのことから、
外部に漏れにくい構造になっているようだ。
続いて、資料②『死ぬかと思った絶叫体験SPECIAL』の要約。ほぼ①『実録 怖い島〜』と同じ内容ながら漫画はライトな印象。
江戸時代初期まで遺体をニャーデバナという岩礁に安置し、鳥葬とヤドカリ葬が行われた。ヤドカリはオカヤドカリという別種のもので、奄美方言でアマンと呼ぶ。
アマンは死者の霊を弔うものとされ、食欲旺盛なヤドカリが遺体の肉を吸い取るようにして体内へ取り込み、骨だけをきれいに残した。
また、ニャーデバナは『天に通じる島』とされ、亡くなるとそこから天に昇っていくと考えられていた。

お次は、③『恐い動画 投稿&心霊地帯スペシャル2』(パート14中12番目・南国に伝わる奇習『死者を置く島』)から。
動画は右のリンク。削除される可能性があるので、観るなら今すぐに。2時間3分20秒から開始。https://www.youtube.com/watch?v=hrmYwUy8kD...
観光地としても有名な鹿児島県A市。A島の北部ではトフル(※トウール=とおる=通る=通じるという意味の方言。つまり『天に通じる場所』)と呼ばれる洞穴がいくつも存在。
明治初期までは自然に作られた洞穴や岩陰などに遺体を葬り、風にさらし続け、白骨化するのを待った。
さらに時代を遡ると、江戸時代においては村人が死ぬと、ニャーデバナと呼ばれる小さな島に運ばれた。
その遺体はヤドカリに食べられることによって天に昇っていったという。遺体は切り立っている岩の上に置かれると数日でその姿が見えなくなり、
ヤドカリは遺体にまとわりつくと肉を吸い取るようにして死者を体内に取り込んでいたのである。

……この3点の媒体に共通するのが『ニャーデバナ』=『天に通じる島』と呼ばれる岩礁だ。まとめればこうだ。「ニャーデバナは不思議とオカヤドカリが大量に
集まる神聖な場所で、人死にがあると遺体を船で運び、岩の上に安置した。数日、数ヶ月をかけてヤドカリの群れが骨だけを残して食べ尽すという……。」
『ニャーデ』は奄美方言で何を意味するのかわからないが、『バナ』は『鼻』のことを指し、つまり『岬』を意味する。
では、このニャーデバナの在り処はどこかググったものの、見つからず難航した。往年の番組『水曜スペシャル・川口浩探検シリーズ』の川口隊長じゃあるまいし、
「我々は総力をあげて探索したが、結局、謎の猿人バーゴンを発見するには至らなかった……」みたいな、ホロ苦い結論は出したくない。
当初、資料①にある『奄美大島から連絡船に乗って4時間ほどの島』に力点をおいたせいで、固定観念が生じてしまい惑わされた。
が、こんな資料を真に受けるのがそもそも混乱を招く要因となる。結局は②や、③の動画でもわかるが、面積712.52k㎡を誇る奄美大島のどこかなのだ。
このたび執念の追跡をもってして、ついにソレらしき岩礁を特定した。
追跡にあたり、このネタに限らず、島サイト『日本の島へ行こう』http://imagic.qee.jp/には、長年にわたりお世話になった。
Googleマップやストリートビューの技術も偉大だが、時として傲慢な暴露趣味を満たすことに使われることもある。節度をわきまえるべきだと反省もしている。
……ズバリ言おう。★ニャーデバナは奄美大島の北端、笠利(かさりざき)町のビーチ内にある岩礁ではないかと推測する。
https://www.google.co.jp/maps/place/%EF%BC%88%E6%9C%89%...右の長方形っぽい岩礁がソレではないかと。

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230 2015/09/06(日) 12:42:01 ID:Q5fEw4xzkM
     ヤドカリ葬は実在するのか? その考察3

とはいえ、ニャーデバナについての情報は、ほぼ検索に引っかからないのが実情だ。僕の手元にある乏しい文献にもまったく見当たらない。
実際に現地へ行って聞き込みをできたら御の字だが、こちとら経済的物理的な余裕はない。あるいは近隣の自動車整備工に電話で問い合わせるのも手だが……。
この際ニャーデバナは置いておいて、ヤドカリ葬の核心に迫ろう。
聖なるヤドカリに食べられることで天に召されるという構図は、ほぼチベットの鳥葬と同義なのだから理解できなくもないとして、
ヤドカリ=アマンがなぜ神聖視されているのか、本土に住む我々には計り知れないと思う。
ヤドカリに関して、奄美大島の東、約25kmに位置する喜界島の小野津集落では、こんな伝説が存在する。題名は『5つ甕(かめ・ハミンカー)伝説』。
容量の関係で全文を載せられない。下記サイトを参照せよ。リンク切れならば自力で探すしかない。
●奄美の昔話・伝説 №10 上納の機織りで子供を失う悲劇 喜界町 五つ甕
http://www.synapse.ne.jp/‾hellokids/amaminodensetu/amaminodensetu_10.htm
なおアマン神なるものについては下記サイトを参照せよ。沖縄・奄美地方版、人類創成伝説は本土の古事記と似て非なるもので、たいへん興味深い。
ヤドカリ葬を知るうえにおいて、必須の事項であろう。これもリンク切れなら、『沖縄・奄美の神話』などと打ち込んで自力で探すべし。
●かんたん神話学 洞穴の中の兄妹
http://suwa3.web.fc2.com/enkan/kantan/jp_hon/jpr03.htm...

ここでのヤドカリはオカヤドカリ(学名は『ムラサキオカヤドカリ』)を指す。本土で見られる通常サイズのソレよりも大振りで、脚や鋏が太く頑丈。
通常のヤドカリが主に海中で生息するのに対し、オカヤドカリは名前が示すとおり陸上生活をする。
基本的にヤドカリやヤシガニは乾燥に強く、空気中から酸素を取り入れ呼吸ができる特殊なエラを有する。
主に小笠原諸島と南西諸島に分布。本土では九州南部や四国南部、紀伊半島南部の太平洋岸で見られるが、南西諸島以南で繁殖時に放たれた幼生が黒潮に乗って北上し、
偶然定着できたもの。日本に生息するこのオカヤドカリ全種が国の天然記念物に指定されている。
またナキオカヤドカリなどは、その名前のとおり発音することができる。声帯などの発声器官はなく、貝殻の内側を足で引っかくことにより、
ギチギチ、ギュイギュイといった音を出すものの、音を立てる目的については解明されていない。
このオカヤドカリを奄美・沖縄地方ではアマンと呼ぶが、各集落や離島によっては若干の呼び名の差異が見られる。
アーマン、アマム、アマンツァ、アマンブ、アマンザ、アーミンチャーなど。いずれにせよ、ヤドカリは神聖な生き物の扱いを受けている。

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231 2015/09/06(日) 12:44:15 ID:Q5fEw4xzkM
     ヤドカリ葬は実在するのか? その考察4

さて、当山昌直氏という沖縄国際大学南島文化研究所研究員の方がいる(1951年沖縄県那覇市生まれ。動物学専攻・(財)沖縄県文化振興会史料編集室室長)。
この当山氏が書いた報告書に、なんとヤドカリ葬を裏付けるような考察が見られるのだ。タイトルは『沖縄島の古風葬とオカヤドカリ類との関連について』。
それによると、オカヤドカリ類に関する方言、民話、針突(女性の成人の証として、手の甲に入れ墨をする風習)などを調べ、
オカヤドカリ類が民俗学的な面からも極めて興味深い動物と注目し、さらには祖神アマミク神との関連を指摘。
琉球のオカヤドカリ類と人との関わりは、単なる日常生活というより、琉球文化の源流とも深く関わっているとしている。

なかでも人生儀礼の大きな節目となる葬制の面からオカヤドカリ類と人との関わりについて言及しているのだ。
沖縄には古い葬制として、遺体を野外にさらした状態で行う風葬(古い風葬のことを便宜的に『古風葬』と称する) があったのは周知のとおりである。
火葬場が設置される以前の沖縄では、密閉された構造物としての墓内における一次葬も風葬といえるが、古風葬はそれと異なり、より古い時代に行われていたものだ。
多くが海岸およびそれに近い場所のアダン(タコノキ科タコノキ属の常緑小高木)を主とする海岸林や崖などで行われていたものを指す。
実はこれらの古風葬が行われていた場所はオカヤドカリ類の生息地と重なる部分が多く、腐肉食としても知られているオカヤドカリ類が何らかの形で
関わっているのではあるまいかと注目。

オカヤドカリ類は主に海岸付近に生息しているが、オカヤドカリ、ムラサキオカヤドカリの大型個体は、糸満市平和創造の森(海岸までの最短距離約300m) に
おける調査でも多くの個体が多く確認されており、さらに斎場御嶽(標高約120m、海岸までの最短距離約430m)などのように海岸から離れた、
比較的高い場所にも多くの個体が住んでいることが明らかになった。
さらに内陸部になると生息の確認が難しく情報が少なくなるが、オカヤドカリ類は海岸から約500m以内およびその範囲内の崖上までは生息地として見ることができる。
これら古風葬地はいずれも海岸から350m内。つまり古風葬の場所とオカヤドカリ類の生息地がほぼ重なっているのだ。
すなわち、オカヤドカリ類が人間の遺骸に集まり、その遺骸を食したのではないか。
オカヤドカリ類はいわゆる『海の掃除屋』としての側面をもち、海岸に打ち上げられた魚の死骸や海藻などの有機物を食べることが知られている。

筆者は他に、オカヤドカリ取扱商組合関係者の聞き取り調査時に、こんな情報を得ている。
「夜、ヤドカリ類を採取していると、ある場所に多くのオカヤドカリ類が群がっていたので、喜んで捕獲。ふと上を見上げると、頭上に首吊り自殺者の遺体があった」
人間の遺骸をオカヤドカリ類が食することについては文献等でもまだ確認してないが、これまでのオカヤドカリ類の観察から実際に行われる可能性はあると思われる。
風葬の1つとして鳥葬が知られているが、★意図的ではなかったとしても結果的には『オカヤドカリ葬』というのが成り立つのではないか。
それが沖縄島の古風葬の形態として存在したのではないかと思われる。

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232 2015/09/06(日) 12:54:49 ID:Q5fEw4xzkM
     ヤドカリ葬は実在するのか? その考察5

しかしながらこの考察も、いくつか疑問点が残ると当山氏自身が指摘している。あくまで『可能性がある』と見るべきである。
風葬場あるところにアダン林が近くに繁茂し、アダンの実(直径15〜20cmで、パイナップルに似た外見。熟すと黄色くなり甘い芳香を放つが、
ほぼ繊維質で構成されており人間が食べるには適さない。ヤドカリの好物)が実るところにヤドカリが集まり、そのヤドカリは人の遺体に群がり食べ尽す……という図式は、
極めて自然な成り行きでそうなった。海中での溺死体にシャコ、川でのソレにはモクズガニが群がるように、甲殻類は基本的にスカベンジャーである。
それゆえ風葬を行っていた当時を知る者たちにとっては、ヤドカリは死者の化身として映ったという。
なお、沖縄〜八重山に生息するヤシガニも基本的な生態は同じ。見た目はアレだが、食するとタラバガニと遜色ない味だと言う人もいる。
ヤシガニの行動範囲はさらに広く、海岸線から6km以上も離れたところで発見されたこともある。その習性を知っているので、現地人はあえて食べない。
頭蓋骨がひとりでにトコトコ歩いているので、見れば内側にヤシガニが入っていたという事例はよくある話だった。

さらに、近藤功行氏(沖縄キリスト教学院大学・人文学部、英語コミュニケーション学科)』が書いた『与論島における洗骨習俗の現状』という報告書では、
こんな記述が見られる。
与論島では風葬は明治10年まで続き、明治11年に鹿児島県が風葬禁止令を発令し、土葬に変更され、のちに火葬へと移行していった。
それに伴い、洗骨も激減。消滅の危機を迎えている。近藤氏は与論島において洗骨について現地にて、聞き取り調査を行ったところ、迫真性のある情報を得ている。
箇条書きだが、興味を惹く部分を抜粋してみる。
①明治時代、『ジシ』(死を慈しむと書いて、『慈死』)と呼ばれる洞窟や高い岩場の下にそのまま遺体を置いて、持ち帰らないで捨てたということを古老が言っている。
②明治6年ごろ天然痘が流行り、人口の半分が死に絶えた。あまりの数の死人が出たため葬儀や埋葬が間に合わず、遺体を運んだ人まで感染する恐れがあったので、
筵(むしろ)にくるんで放置した時代がある。
③『シミャー』(風葬地)は昔、獣が入らないから、また遺体を荒らさないためにそういったところを選んだ。昔は与論島には犬がいなかった。
④明治初期の天然痘が流行ったころ、薩摩支配の時代だった。疾病が蔓延し、家族でも骨を触れない時代があった。★生きながらに捨てられたような感じの骨を
『ジシ』の中で見たことがある。
⑤焼かれるのがイヤ。昔は風葬でよかった。天然痘の時代、ゴミを捨てるように人間を処分した。★生きた人までもが、その病気になったら、死んだ人たちと同じところに、
身内の迷惑にならないように行った。

コロコロ話が変わって恐縮だが、2004年に公開された邦画『風音』http://www.cine.co.jp/fuon...では、沖縄を舞台に風葬場の場面が描かれている。
とある事情から特攻隊員の遺体を安置させ、しばらくして副主人公が現場に戻ってくると、ピキピキピキという無機質な音を立てて無数のオカヤドカリが群がるのを目撃し、
思わず怖気を振るって逃げ出すシーンがある。
物語後半にも、ある男が刺殺され、秘密裏に砂浜に埋葬される。その土饅頭の上にはアダンの実が置かれ、さもヤドカリをおびき寄せ、
ついでに埋葬された遺体をも食い尽くし、証拠を隠滅させるような形で締めくくられる。オカヤドカリは砂地なら地面を潜ることができるようだ。
さすがこの原作者(沖縄出身の芥川賞作家・目取真俊氏)、風葬について精通しているだけのことはある。
それと、冒頭と最後のあたりで蝶が舞うシーンが挿入されている。これは『再生・生』のメタファーであろう。
他にも魚を生のシンボルとし、カニ(ヤドカニも同義)は死のソレとして描いているのは注視すべきである。

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233 2015/09/06(日) 12:57:42 ID:Q5fEw4xzkM
     ヤドカリ葬は実在するのか? その考察6

今回、ニャーデバナ単体のヤドカリ葬に迫ることはできなかったが、奄美・沖縄地方で行われた広範の風葬において、
ヤドカリにたかられる現象は比較的、日常茶飯事な出来事であったことが明らかになった。ニャーデバナでのヤドカリ葬だけが何も特別な風習なのではない。
ところで、酒井卯作氏(1925年長崎県生まれ。民俗学者、南島研究会主宰)による著書『琉球列島における死霊祭祀の構造』のなかの1編、
『死者を置く島』の項目では、風葬する名目で遺体を置いた島として、大島南西部、焼内湾の枝手久島、★大島北端のニャデ(件のニャーデバナのはず)、
今帰仁湧川のヤガンナ島、勝連浜比嘉のクバ島などを挙げている。
枝手久島などは対岸に位置する与路島の住民が、死者を板付け舟で運び、阿室側の海岸の洞窟へ放置し、風葬にしたと言われている(※恥ずかしながら未読)。

やや煩雑で、まとまりに欠ける連投レスになった。あえて決めつけはしないで締めくくろう。
ヤドカリ葬は、最後の戦いにふさわしい手強い相手だった。図らずも実話ナックルズの名誉を守る一方、奄美のタブーを暴いてしまうとは人の業の深さを感じる……。
最後に、>>57で那智勝浦の色川集落へ突撃取材へ敢行すると言っておきながら、果たせなかったのが心残りだった。
なにはともあれ、これにて『怖い島』は完!


きかい蝶の飛び交う隆起珊瑚礁の島 “五つのカメ”陶磁器(三点)を町文化財に指定
http://www.town.kikai.lg.jp/kikai06/kikai36.as...
琉球神道wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%90%89%E7%90%83%E7%A5%...
2000年・沖縄観光学ことはじめ−「墓は女の苦労」について− 奥田尚
http://www.res.otemon.ac.jp/‾okuda/theses/kankougaku02tomb.htm
★[PDF]沖縄島の古風葬とオカヤドカリ類の関連について(予報) 当山 昌直
http://okinawa-repo.lib.u-ryukyu.ac.jp:8080/bitstream/okinawa/8321/1/No31p...
[PDF]【沖縄県教育庁文化財課史料編集班】 琉球のオカヤドカリ類に関する民俗的伝承について(試論2) 当山 昌直
http://okinawa-repo.lib.u-ryukyu.ac.jp:8080/bitstream/okinawa/7797/1/No32p...
与論島クオリア アマム(ヤドカリ)の位相
http://manyu.cocolog-nifty.com/yunnu/2015/05/post-1cac.htm...
ヤシガニwikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A4%E3%82%B7%E3%82%...
沖縄観光記5
http://www.mugyu.biz-web.jp/nikki.kanko24-12.ht...
鹿児島県奄美大島の歴史と文化
http://www.sh.rim.or.jp/‾misshie/amami.htm
自然と文化 御霊を運ぶチョウ
http://homepage2.nifty.com/pie-grieche/insect-goryo.htm...
amazon.co.jpプライム 風音 [DVD]
http://www.amazon.co.jp/%E9%A2%A8%E9%9F%B3-DVD-%E4%B8%...
墓地、埋葬等に関する法律
http://law.e-gov.go.jp/htmldata/S23/S23HO048.htm...
★[PDF]与論島における洗骨習俗の現状 近藤功行
http://karn.lib.kagoshima-u.ac.jp/bitstream/123456789/14474/3/AA...
与論島クオリア 風葬感覚
http://manyu.cocolog-nifty.com/yunnu/2009/04/post-b20e.htm...
youtube 与論島の洗骨儀礼
https://www.youtube.com/watch?v=PmYqwiVzPc...
★奄美大島旅行 クチコミガイド 月の入りと朝日をみながら〜奄美②
http://4travel.jp/travelogue/1104844...

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234 2015/10/16(金) 06:43:18 ID:4NhXo91lf6
>>229
グーグルマップ、仕様が変わったか?

笠利町
https://www.google.co.jp/maps/@28.5095524,129.6917759,2...

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235 2015/11/14(土) 15:52:30 ID:Jc7F1Tp4E.
掲示板を完全に私物にしてるなw
ブログでやれ

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236 2015/11/16(月) 05:42:52 ID:fiD7imHZYY
スレ消しとけよ

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238 2015/11/21(土) 16:30:52 ID:9QDlpWFCiI
スレ主の書き込みが終わってからで良かったよ、ウジ虫が湧くの。

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239 2015/11/21(土) 16:55:04 ID:3a9kSinRnE
こんな神スレを貶めるとは、人としていかがなものかと思いますね。

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240 2015/11/22(日) 13:54:58 ID:3cyIztaWxM
山伏集落800軒確認 国内最大規模、調査で初確認 九州の英彦山

日本三大修験道場の一つ、福岡、大分県境の英彦山(1199メートル)に800軒超の建物跡があることを、福岡県添田町がレーザー測量で確認した。
英彦山は江戸時代、「英彦山三千 八百坊」とうたわれるほど栄え、その数字は人口3千人、800坊を意味するとされてきたが、詳細は不明だった。
今回の調査で国内最大規模の山伏集落の姿が初めて克明になった。(西日本新聞)
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20151122-00010000-nishinp...

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241 2015/11/22(日) 16:59:35 ID:u.BUzh8HKg
こんな過疎スレに、なぜかほぼ同時にスレ主擁護レスが
自演お疲れ様ですww

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242 2015/11/22(日) 17:22:31 ID:wzYKaigpWA
>>241
ファンは多いですよ。まさかご存じない?

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243 2015/11/23(月) 02:31:18 ID:dlnUD0xk2o
いやーこのスレ主はそんなしょうもない自演はしないよ、たぶん。
過疎スレ板だからこそ位置が変わってたから見たら…ってとこじゃない。
ファンが多いかどうかは知らん。

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