クロ宗の死の儀式は存在したのか? その考察12
ウ〜ム、なんだかわからなくなってきたぞ……。
いきなり嗟嘆を漏らしたのは他でもない。
>>164から
>>175にかけて長々とクロ宗に関して独自の考察をタレてきて、
一応は結論が出たと勝手に決めつけていた。しかしながらこれで片づけてしまうのは、独善的であり性急すぎるというもの。
実はその後も水面下で執拗に調査を続け、このたび国内日本文化研究センター(大学共同利用機関)のHP内より、
米村竜治氏(筑紫女学園大学・文学部)という教授が執筆した『隠れキリシタンと隠れ念仏』なる資料を発見するに至った。
これが驚愕の内容だった(発表されたのは1997年以降?)。
これまで海外の『怖い島』を取り上げてきたが、流れをブッタ切って緊急速報的な感じで追記せねばなるまい。
話をまぜっ返して悪いが、この報告書によると、どうやら……クロ宗における、瀕死になった信者の生血と生き胆を取り出し、
それを飲み食いする『死の儀式』、すなわち『秘蹟』は、まんざらデマでもなさそうというのだから、その衝撃たるや如何ほどかわかってくれよう。
こんな資料が埋もれているとはまだまだ勉強不足であった。これも不徳の致すところ。
とにかく興味深い個所を引用するので、眼を通していただくのが手っ取り早い。全文を抜粋するのは長すぎるうえ、冗長になる。
クロ宗だけに『肝』となる文をピックアップしてみる。以下、アンカー部分からが引用文。
>日本にはじめてキリスト教を導入したのは、鹿児島の人アンジロウである。(中略)アンジロウの正式な呼び名はヤジロウ(弥次郎)である。
>ヤジロウは鹿児島(薩摩藩)の水軍軍師の1人であったと想像される。その彼が何らかの理由で殺人事件を起し、薩摩を脱藩する。
>勿論、逃げ行く先は海である。ポルトガルの貿易船に便乗しマラッカに流れ着く。
>1547年10月、マラッカでヤジロウはフランシスコ・ザビエルと出会う事になる。ザビエルは初めて見る日本人の容姿に驚き、同時に日本の存在を知る。
>ザビエルはヤジロウの背後に日本という国の高度な文化体系を嗅ぎとり、日本への布教を思い立つ。
>ヤジロウはやがてゴアに移り、自分の犯した殺人の行為を含めて一切の罪の赦しと神の恩寵を与えられ、キリスト教徒として新生する事になる。
(中略)
>実は、ヤジロウが島津藩を脱藩したのは単身ではなく、共に脱藩した同士が2人いた。その2人とも常にヤジロウと行動を共にし入信している。
>筆者の想像だが、この2人は薩摩水軍の軍師であるヤジロウの家来であったと思われる。この2人にはそれぞれ、ジョアン、アントニオの名が与えられている。
>ヤジロウは神を「大日」と通訳した。真言密教の大日如来の「大日」である。これには日本人の方がその誤ちを指摘してくるほどである。
>そこでザビエルはその訳はかえって神を冒漬する置換である事に気付き、以後はすべて「デウス」という言葉を使うようになる。
>同時にザビエルはキリスト教の特殊な用語に関しては日本語としての仏教用語に置換える事をやめ、ラテン語あるいはポルトガル語をそのまま使うようにした。
>扨(さて)、そのヤジロウはその後どうなったか。
>1950年以後、神の恩寵と布教のもとにあったはずの彼の行方はようとして知れない。彼は鹿児島を追われ中国へ渡りそこで死んだという。
>ルイス・フロイスが書いている。
>「信仰を棄ててしまったのか、あるいは、キリシタンであることをやめてしまったのか……」、彼は富を求めて海賊になり「シナへ渡りシナで殺されたという」、
>「しかし、それは確かなことでもなく、また彼の最期についてこれと違ったことを知るよしもない」と。
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