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怖い島・いわくつきの村・総合


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001 2011/04/18(月) 12:36:00 ID:lqbrx3Wq/c
日本全国に点在する、神秘的かつホラーな島や気味の悪い村を挙げるスレです。
もしや、あなたのご近所にもあるのではないでしょうか?

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002 2011/04/18(月) 12:38:44 ID:lqbrx3Wq/c
数多くのタブーが存在する禁断の人魚を祭る島『新城島』(あらぐすくじま)

美しい海に浮かぶ沖縄県・新城島は、数多くのタブーが存在する禁断の島と言われている。
御嶽(うたき)と呼ばれる撮影禁止、入ることも許されない人魚神社……島民以外は参加することが許されない謎の儀式。
島民も鳥居の奥に何があるか、中で何が行われるのか、決して語ってはならない。
万が一、掟に背き無断で中に入ってしまったら、その人間に災いが降りかかり、原因不明の体調不良で苦しみ、死に至る者もいるという……。

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003 2011/04/18(月) 12:47:01 ID:jBK7TQ2K8o
昔、「じゅっぱん」と呼ばれる集落があって
首つり小屋や犬の死体たくさん放置されてるとか
子供の間で噂になってて誰も近寄らなかったよ

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004 2011/04/18(月) 13:00:14 ID:IXRaRvUU7s
ここかな
今は 取り壊されてしまったけど
http://b-spot.seesaa.net/article/38297592.html
近くに 土地を買って小さな小屋を建てて
夏 海など 遊びに来てたりしてたんだけど
この建物に気づくまで2〜3年かかった

中に入った事はなかったけど とにかく不気味だったな・・・

主が時々外に居て 挨拶したりした

主が亡くなって 取り壊しする時 壁から主の嫁の白骨死体が出てきたらしく
やっぱり キティな人・・・だったな・・・

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005 2011/04/18(月) 13:04:08 ID:lqbrx3Wq/c
     その無人島は『海の火葬場』

岡山県笠岡市の沖合いに浮かぶ高島、白石島、北木島、真鍋島の4島を笠岡諸島という。
北木島と白石島のちょうど中間に、地元の人が通称『タテ』と呼ぶ小島がある。
地図上では正式名を『縦島』といい、たった40メートルほどの岩場だらけの無人島にすぎない。
実は平成13年まで、この『タテ』では海上の火葬場として使われていたのだ。

火葬場の施設があるわけではない。タブと呼ばれる木(クスノキ科)でヤグラを組み、その上に遺体を寝かせ、
松ヤニを油代わりに野焼きしたという。大抵は夜半から明け方にかけて、なるべく風のない日が選ばれたものの、
夏場は遺体が傷まぬうちに焼く必要があったため風向きは気にしていられない。強攻策に出ることもめずらしくなかったらしい。
そんな日は風に乗って、髪の毛の焼けるイヤな臭いや、焼け焦げる動物臭が諸島一帯に漂った。
だからといって島民は不満を訴えたりはしない。諸島に古くから根付く不文律が存在したのだ。
島に渡らずとも、通常の火葬施設はある。なぜわざわざ『タテ』に運んでまで焼く必要があったのか?

明治12年と同28年に笠岡諸島でコレラが大流行した。致死率50%の死の伝染病は一帯で猛威をふるい、
岡山全県では9千人が罹病し、うち5千人が亡くなった。島内の火葬場では遺体の焼却が追いつかず、
ついには『タテ』が選ばれ、火葬場として使われるようになったわけだ。

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006 2011/04/18(月) 13:04:54 ID:lqbrx3Wq/c
     戒名の彫られた墓石が投げ込まれている      

洋上の火葬場は『タテ』だけではない。北木島の西にも『横辺島』……島民は『ヨコ』と呼ぶ無人島でも遺体を焼いた。
奇しくも『タテ』と『ヨコ』。まるで対で存在するかのような火葬用の島。

コレラによる被害者だけでなく、スネに傷をもつ出稼ぎ労働者までもがここで処理された。
北木島では花崗岩を産出することで古くから知られ、石切り場が至るところにある。
江戸時代の初めごろから明治中期にかけて石材採掘が盛んに行われたそうで、島外から石切り職人が流れてきた。
危険がつきものの仕事だけに報酬は陸でのそれに比べ、ほぼ倍の賃金を得ることができるものの、
職人の多くは刹那的な生き方を好んだ。酒や女にバクチ。中にはやくざ者や犯罪者もいた。
そんな身寄りのない訳ありの者が亡くなると、そこで焼かれた。
むろん遺骨の引き取り手はいるはずもなく、満潮時に波がすべてをかき消していくままにされた。

画像からは確認できないが、今でも一枚岩には焼け焦げた跡が見られるそうだ。
無縁仏となった者を悼んだのか、波打ち際だけでなく、周辺の海底には戒名のついた墓石が無造作に投げ込まれているという。

とはいえ、こんな悲しい歴史がありながら、渡船をチャーターして磯釣りに訪れる人は多い。釣りキチは恐れ知らずだ。
チヌやメバルがよく釣れるという。

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007 2011/04/18(月) 14:03:41 ID:.H0zWQ..mE

いわくつきと言うよりも実証されているので怖くて言えない場所がある

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008 2011/04/18(月) 15:11:09 ID:QEgPbs5KLU
大久野島でググれ。

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009 2011/04/18(月) 15:26:25 ID:A2N4xYenkE
人売りで有名になった三重の○○○島は?
逃げ出すにも島だから逃げ出せないらしいね。
このことについて取材していた記者が行方不明になった。

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010 2011/04/18(月) 15:48:03 ID:lqbrx3Wq/c
[YouTubeで再生]
     女人禁制の『海の正倉院』沖ノ島

九州本土から約60キロ離れた玄界灘の真っ只中に浮かぶ周囲4キロの孤島、沖ノ島。

島には宗像大社沖津宮があり、宗像三女神の田心姫神(たごりひめのかみ)を祀っている。日本書紀に記されるほど古の時代から縁ある土地なのだ。
人口は、沖津宮に常駐する宮司がたった1人のみ。それも、福岡県宗像市の宗像大社からわざわざ派遣され、10日勤務の交代制だそう。

沖ノ島は古くから航路の道標とされると同時に、島全体が御神体とされ、今でも女人禁制の伝統を守っている。
とはいっても、男性ですら毎年5月27日に開かれる大祭以外の上陸は許されず、その数も250人程度に制限されているほどだ。
上陸前には海中で全裸になり、みそぎを済ましてからでないと立ち入ってはならない掟がある。
それは派遣されてくる宮司とて同じ。真冬の玄界灘は身が切られんばかりに冷たい。

今も禁忌は残っている。
海中でのみそぎだけでなく、島に上陸したとしても島にあるものは一木一草一石たりと持ち出すのは許されない。
さらに島で見聞きしたことでさえ、口にしてはいけないという過酷な掟があったため、周辺の漁師たちは畏怖をこめて、
島の別名を『御不言様』(おいわずさま)と呼んだ。

1954年(昭和29年)以来、十数年かけて沖ノ島の発掘調査が行われ、4・5世紀から9世紀までの石舞台や古代装飾品などの大量の祭祀遺物が発見された。
このことから、沖ノ島は俗に『海の正倉院』と呼ばれている。古代から信仰の対象とされていた所以だ。
また、中国・朝鮮の歴代王朝との交易で栄えていた。九州を中心に沖ノ島を世界遺産にする運動が起こり、
2009年1月5日に沖津宮・中津宮・辺津宮及び沖津宮遥拝所と沖ノ島全体を含めて宗像・沖ノ島と関連遺産群の構成遺産として、
世界遺産暫定リストに掲載された。

それだけでなく、島は国の史跡に指定されているとともに、原生林は亜熱帯植物の北限地として国の天然記念物に、
海鳥の集団繁殖地として国の鳥獣保護区にも指定されるなど、自然環境の面からも保護を受けている。

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011 2011/04/18(月) 15:55:13 ID:lqbrx3Wq/c
[YouTubeで再生]
仏島は何やら不気味な島だ。

『まんが日本昔ばなし』にもネタにされてる島で(まんま『仏島』ってタイトル)、
かなりホラーな内容の伝説があるようだ。

今はどこの動画も削除されてるので観られない……

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012 2011/04/18(月) 17:56:13 ID:D80o01JGaY
>>2 一昨年行ったけどさ、信仰うんたらの恐怖よりも島民と元島民の利権の争いの方がこえーよ

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013 2011/04/18(月) 19:53:45 ID:lqbrx3Wq/c
>>12
詳しくお願いします。

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014 2011/04/18(月) 21:05:58 ID:BP2jAxz0ag
渡鹿野島・・・

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015 2011/04/19(火) 00:49:09 ID:Q4jXfd/NZE
都市伝説と違ってシャレにならないからコワい。

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017 2011/04/19(火) 19:51:24 ID:W6l1dajZHo
[YouTubeで再生]
>>8

大久野島 良いね♡

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018 2011/04/20(水) 01:11:34 ID:dTYq3J/C/o
>>4
某廃墟系サイトで突入してたっけな 懐かしい

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019 2011/04/21(木) 10:48:55 ID:DoEzwiPrZA
削除(by投稿者)

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020 2011/04/23(土) 00:09:12 ID:q9NTXmz5bM
     血族結婚の村

石川県の某集落には、いまだに血族結婚の風習が残ってる。
村民の多くは同じ苗字を名乗り、顔は老人から子供までどこか似ており、仕草まで同じ特徴が見られるという。

現代日本では血族結婚は倫理的にも法律的にもタブーとされている。
しかしながら日本国憲法においては、『本人』『直系血族』『3親等内の傍系血族(兄と妹、姉と弟、おじと姪、おばと甥)』
『直系姻族(婚姻関係終了後も継続)』『養親とその直系尊属及び養子とその直系卑属(離縁後も適用)』との婚姻届は受理されないものの、
憲法第24条には「婚姻は、両性の合意のみに基づいて成立」とあるだけで近親者間の性交そのものを禁止しているわけではない。
すなわち、近親者同士であっても事実婚は阻害されないと、ちゃんと定められているのだ。

とはいえ、血が濃くなると障害をもった子供が生まれる確率が高くなったり、犯罪に手を染めやすいといった昔ながらの先入観もあるだろう。
ところが、この村の人々の特徴は、IQや運動能力がズバ抜けて高く、ほとんど病気知らずらしい。
あるマスコミ関係者は言う。「某村の人々が病気にならないのは、通常では考えられないような強い免疫力を持っているからに違いありません。
突発的に、住人の1人が突然変異によって獲得した『特殊能力』が血族結婚によって守られ、代々受け継がれてきたのではないでしょうか」
唯一のマイナス面といえば80歳で胃癌で亡くなる遺伝傾向があるそうだが、そこまで生きられれば御の字だろう。


ではなぜ、今もなお血族結婚の風習が廃れることなく続いているのか。
村を出たという元住人の証言によれば……
数百年前、村は飢饉の打撃を受け、村人のほとんどが餓死する窮地に陥った。
この危機的状況を打開すべく、村人らは一計を案じた。村へ嫁ぎに来た女性を『民の花嫁』とするのだ。
一個人に捧げるのではなく、村の男全員に奉仕する役目を負わせたわけだ。
つまり、花嫁は万が一、夫との間に子供ができなくても、村人の誰かの子種を宿すことができれば確率的に子孫繁栄しやすくなる。
一の矢がはずれても、二の矢、三の矢で的を射るべし、ということだ。
婚礼の前日、たった一人実家に残された花嫁は、次から次へと訪れる村の男と交わねばならないという。
新郎はそれを指をくわえて見守るしか術がなかったそうだ。

この『民の花嫁』の風習のおかげで、某村はかつての活気を取り戻したうえ、予期せぬ副産物も得ることができた。
上述した『知能・運動神経が秀でており、なおかつ病気に強い』遺伝子を獲得するに至ったというわけだ。

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021 2011/04/23(土) 00:15:22 ID:q9NTXmz5bM
     『クロ宗』の鉄の掟

今から400年前、キリスト教徒が江戸幕府によって迫害されていたころの話。
島原の乱に敗れたあと、彼らは幕府からの厳しい弾圧を逃れるべく、鹿児島県、下甑島(しもこしきじま)に流れ着いた。
離島であるがゆえに、幕府の追及も届かない。ようやく安住の地を得た彼らはこの島にTという集落をもうけ、
なおもキリスト教を信仰し続けた。
とはいえ世間から孤立することにより、キリスト教本来の教えとは異なる独自の宗教を編み出すに至る。
それが『クロ宗』だった。
クロス(十字架)が語源といわれ、外部との接触を完全に拒んだ秘密結社的な概念。
驚くべきことに、隠れキリシタンの末裔たちによって、今もなお受け継がれているそうだ。

『クロ宗』の最たる特徴は、死の儀式にある。
信者が生命の危機に瀕した場合、『サカヤ』と呼ばれる司祭のもとに運ばれ、まだ息があるにもかかわらず、
生き血と生き胆を摘出するというのだ。
信じがたい話だが、その取り出したるモノを信者全員で食べ、飲み干すという……。

ある大学の民俗学教授は言う。
「宗教儀式の中には、死者の魂を取り込むため、身体の一部を食するというものは存在します。
ですが、生きているうちから血と肝を抜くというのは稀ではないでしょうか。
サカヤ(司祭)の家から出される遺体は白い布でグルグル巻きにされ、
その布には血が滲んでいるというのですから、恐ろしい儀式ですよね」

とはいうものの、この禁断の儀式は詳細がいまだ明らかにされていない。
『クロ宗』を信仰するT集落の住人は、よそ者を完全に拒み、話しかけても相手にすらされない。取材にも一切応じない。
家屋は全部で20戸ほどの小集落にすぎない。しかもそれぞれの家が、3メートル前後ものブロック塀で囲まれており、
異様な雰囲気を醸し出している。

『クロ宗』信者には集落内での出来事を一切口外してはならないという鉄の掟があり、
それを破った者は命を取られるのではないかともウワサされている。

※明治時代まで肝食いをやっていただの、集落に近づけさせないためのデマにすぎないとの諸説がある。あまり真に受けないように。

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022 2011/04/23(土) 00:22:32 ID:Yr4u.CGh2Y
地方新聞の記者の女の子がゆk

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023 2011/04/23(土) 10:55:29 ID:q9NTXmz5bM
     クブラバリ

沖縄県の与那国島には悲しい歴史がある。

久部良集落の高台にある久部良張り(クブラバリ)とは、幅2〜3メートル、深さ10数メートルほどの岩と岩の割れ目……クレバスだ。
その昔、八重山には琉球王府により、収穫量や能力を考慮することなく単純な頭数でかけられた人頭税なるものが存在した。
人頭税という制度は、「政府が要求する年貢は、島民1人につき、これだけ収めよ」という悪しきシステム。
与那国島で採れる作物量は限度があるし、年貢だけ収めててもギリギリの生活なのに、大家族だとますます首を絞められる。

この重税から逃れるため、島民は苦肉の策として口減らしを余儀なくされた。
なんと妊婦を集め、そのクブラバリ……岩と岩との割れ目をジャンプして飛び越えさせたというのだ。
失敗して転落死する女性、なんとか飛び越えられたとしても、恐怖のあまり流産する妊婦が出た……
つまり、これ以上島民を増さないよう、弱者の淘汰を促したのだ。

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024 2011/04/23(土) 10:57:43 ID:q9NTXmz5bM
     トゥングダ

同じく与那国島。今から200年もの前の話。
祖納の人舛田(トゥングダ)では、ある日突然、ホラやドラが打ち鳴らされたら合図。
それを耳にした男たち(15歳以上)は、仕事中だろうがなんだろうが、すべてを投げ捨て、
一目散に人桝田めがけて走り、我先に飛びこまなければならない。
その田んぼに入りきれずあぶれた者、たどり着けなかった者(ケガ人・病人・老人など)は、
島民の合意のもと、殺害されたという。

舛(マス)で人を計り、あふれた者を処分する。
そうでもしなければ人頭税は納めきれなかったそうだ。

現在はサトウキビ畑として名残りをとどめている。

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025 2011/04/23(土) 17:37:28 ID:q9NTXmz5bM
日本の各地には「避け地」と呼ばれる、伝染病隔離地区が存在していました。
隔離された集落には、定期的に食料が支給されていたのですが、
太平洋戦争が激化し、食糧難に陥り、政府側は彼らを「見捨てた」のです。
その事実を政府は、例の臭い物に蓋的に隠し続けてきた歴史があるのです。
犬鳴村がそうであるとは言いませんが、日本には実際に存在する事は確かです。
皆さんの住んでいる近くで、山間部の人気がないところに、自衛隊のヘリが定期的に飛んでいる所が有るんじゃないですか?
この事は自衛隊内でもトップシークレットに属す事ですので、知っている人は少ないはずです。
因みに、「避け地」に行く陸路はほとんど無いと考えられます。

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026 2011/04/23(土) 19:27:40 ID:WZBvYjn5eA
027 2011/04/24(日) 00:23:33 ID:Bba2kWODZ.
>>25
避け地に行く陸路がないような場所にどうやって伝染病患者を集められたのですか?
戦前陸路がないような場所にどうやって定期的に食糧を届けてたのですか?
戦前からヘリなんてあったっけ?

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028 2011/04/24(日) 00:43:52 ID:N3w9.rmqMs
>>27
2ちゃんのコピペです
信憑性は高くないと思われ

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029 2011/04/24(日) 00:54:05 ID:N3w9.rmqMs
岡山県備前市の鶴島はキリシタンが流刑に処された島。

地元の人はここへは寄り付かないことで有名。いろいろと怖いウワサがあとを絶たない。
島の所有者がことごとく逃げ出している。詳細はあえて書かないでおく……
http://www.city.bizen.okayama.jp/kankou/guide/hinase/spot/tsuru/index.jsp

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030 2011/04/24(日) 08:20:19 ID:N3w9.rmqMs
405 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 投稿日:2008/09/08(月) 21:06:39.35 ID:/nYwLP210

俺の親の実家にいまだに行われてる気味の悪い風習
親の実家は九州のとある島なんだけど、そこでいまだに信じられてる土着信仰があって、
なんでも死者は生者の血となり肉となり生きるってやつ
それは文字通り人が死んだら、その親族一同がその死者の肉の一部を食べるんだ
昔は骨までしゃぶる程やってたらしいけど、最近は流石に色々な問題があるらしく体の一部を切り取って
それを料理に混ぜて食べるって感じになってる
小学校の頃に初めて祖父の葬式でその儀式に立ち会ったけど、大きな肉きり包丁で右腕をひじの辺りまで切り取ってた
それを細かく切り分けてよく火を通してみんなで食べるんだけど、俺はどうしても無理で、
最終的に親父に無理矢理押さえつけられて食べさせられたのが今でもトラウマ

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031 2011/04/24(日) 08:49:27 ID:N3w9.rmqMs
     山賊村の村長はペテン師

三重県津市(以前は美里村だったが、2006年に津と合併。現在は津市美里町)の山中を進むと、
広大な土地が開けているのだが、僻地にふさわしくないペンションが乱立しているのだ。
ところが今では長年の風雨にさらされ、不気味な廃墟と化している。
近隣の地元の人は吐き捨てるように、こう呼んでいる。……『山賊村』と。

現在、山賊村では自らを『村長』と名乗る年老いた男がたった1人で住んでおり、ペンション経営をとうの昔に辞め、
自然食を食べさせてくれる『長寿郷協会』なる私設道場を開いている。
ネットで調べると、近くに同じ名前のアウトレットモールやレストランがあるらしく、
時折、県外の人たちが誤って足を踏み入れてしまうケースがあるそうだ。
しかし、あまりの異様な光景を目の当たりにし、慌てて逃げ出す人がほとんど。

村長の評判は最悪だ。
「あいつは大ペテン師だ」「あんな人間とかかわるのはやめた方がいい」「あの詐欺師に、まんまと嵌められた」
……などと、近隣住人が罵るにはワケがある。

過去になにがあったのだろうか? 近隣住人の1人が告白する。
「あそこはかつて村長の私有地だったのです。数十年前に、あの人にこう持ちかけられたんです。
『近いうち、この近くに空港が開発されることになった。とすれば、このあたりも観光地になるに違いない。
工事関係者から極秘に入手した新空港建設プロジェクトに乗っかり、私の所有する土地を山賊村と名づけて、
自然と触れ合えるテーマパークにしようじゃないか。土地を安く譲るから、ペンションを建てて儲けないか?』と」

村長は口が達者な男だったらしく、地元住人の多くが賛同し、こぞって山賊村予定地内に土地を購入した。
そのころから、山中には不釣合いなオシャレなペンションが林立していった。

ところがいくら月日が経っても、そんな僻地に空港が開発されるはずもない。
土地購入者たちはようやく騙されたことに気づいた。怒り狂い、みんなして村長のもとへ怒鳴りこみに行ったものの、
購入の際に契約書を作っておらず、口約束のみで資金を投入したので、ペテンにかけられたことを証明することにならなかったのだ。

騙された方も悪い。欲に目がくらんだ負い目があるだけに、裁判を起こすまでには至らず、泣き寝入りするしかなかった。
僻地のペンションなど、客が押し寄せ、繁盛するはずもない。廃墟と化すのに時間はかからなかった。
今でも村長は山賊村に居座っている。


※下記のURLは、山賊村に単独潜入を試みた猛者のブログ
http://blog.livedoor.jp/tokaimakai/archives/50190176.html

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032 2011/04/24(日) 09:19:12 ID:N3w9.rmqMs
     通夜島

和歌山県串本町大島に寄り添うようにある面積が0.3km2しかない無人島。
縁起が悪い島名だが、葬式とは関係ない。
三韓征伐で知られる神功皇后が忍熊皇子(おしくまのみこ)に謀反を企てられ、
この島に身を隠したときに住人が夜を徹して見守ったところから通夜島と名づけられたという言い伝えがある。

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033 2011/04/24(日) 13:57:28 ID:f5Punyj9Mc
>>23-24
その話読みたかったんだ。ありがとうSさん。

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034 2011/04/24(日) 14:13:49 ID:Y6KhihCOxw
>>31
近所だがそんな話、聞いたこともない

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035 2011/04/24(日) 15:09:44 ID:N3w9.rmqMs
>>33
どういたしてまして。
お久しぶりです。諸星大二郎のスレでも書き込んでましたね。
僕にはあなたが誰だか、ちゃんとわかってますよ。

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036 2011/04/24(日) 20:54:31 ID:N3w9.rmqMs
     人肉鍋の村「食っちゃった」

1945年2月、太平洋戦争末期に群馬と長野の県境に位置する尾沢村で起こった事件。
ただでさえ食糧難の時代背景にくわえ、山間部の痩せた土地である村で極貧生活をしいられていた家族がいた。
それが天野朝吉と、妻の秋子。2人は再婚同士ではあったが、ともに知的障害者だった。
また子供は4人おり、そのうち3人は秋子の連れ子で、一番年長(17歳)のトラが朝吉の連れ子だった。
トラも同じく、人と話ができないほどの重度の知的障害をもっていた。

夫の朝吉は怠け者でろくに仕事もせず、生活は日に日に悲惨な状況になっていくばかり。
秋子も内職をして家計を助けるほどの機転がきくわけでもなく、無為にすごしていた。
いくら戦時中とはいえ、山村ならば畑へ出て汗水を流して精を出せば、ヒエ、アワ、コンニャクぐらいは採れたものを、
近所から野菜くずを恵んでもらうなどして飢えをしのいできたにすぎない。

しだいに施しを受けていた近所からも見放されるようになる。
たった1本の大根が唯一の食料となったとき、秋子は夫がいない隙に決断する。

長女のトラは以前から持て余していた。重い障害をかかえただけでなく、図体ばかり大きいうえ飯は人一倍食べるし、
これまた家でゴロゴロするしか能がない。
食いぶちを減らすだけではない。その肉を食ってやろうと秋子の頭をよぎったのだ。

他の子供らを外に追い払うと、トラを絞殺。ノコギリと包丁で娘の身体を解体した。
ワタは庭先に埋め、バラした肉片を煮えたぎる鍋の中に放りこみ、残り少ない塩と醤油で味付けした。
鍋からは黄色い脂がアクとなって浮き出してくる。彼女は夢中になってそれを取り除き、なおも煮続けているうちに、
得もいえぬうまそうな香りが立ち込めてきた。

やがてすきっ腹をかかえて子供たちが帰ってきた。鍋を見て叫んだ。「かあちゃん、うまそうな鍋だな。なんの肉だ?」
秋子は満面の笑みを見せて、「ヤギの肉だべ。さあ一緒に食べよ!」と言った。

その後、終戦を迎え10月。村に戸籍調査に巡査がやってきた。空襲や移動などで、行方不明者の数が多かったせいだ。
巡査が天野家をたずねると、子供が3人しか見当たらない。
「長女トラはどこへ行った?」と巡査が問いただすと、秋子と朝吉は要領を得ない返事。
不審に思った巡査は署に連絡し、警部補を呼んだ。
警部補が取調べしたところ、天野夫婦の話が破綻だらけであることが発覚し、なおも追及。

頃合を見計らって、警部補は秋子を怒鳴りつけた。
「おい秋子! おまえウソをついておるな? トラはどうして殺害したんだ!」
秋子はビクリとし、しばらく言葉も出ず俯いていたが、やがて声をしぼり出し、こう言った。
「食っちゃった」

天野秋子は心神喪失を認められず、懲役15年の刑に処された。


※画像はイメージです。 

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037 2011/04/25(月) 03:32:13 ID:Mq1gTFJLPc
削除(by投稿者)

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038 2011/04/25(月) 15:22:13 ID:ISgApb4nNk
312 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[]:2008/06/27(金) 03:08:27.94 ID:0LIngHwWO
母の友人が二十年以上、○TAMA医科大学で看護婦で婦長かなんかをしているんだけれど
その人から聞いた話。○TAMA医科大学よりも人里離れた山奥に鉄格子のある建物で
奇形の人達を隔離して治療している施設があると言ってた。実際その人も行ったことがあると。
細胞の病気で複数の目がある人や、人間の容姿とは言えないような容姿の方が沢山いるらしい。


327 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[]:2008/06/27(金) 03:13:02.74 ID:9dujutiqO
>>312その話はガチだ


380 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[]:2008/06/27(金) 03:25:08.12 ID:BNtL6KHTO
>>312
うちのカーチャンが俺を産んだ時の入院中に、病院の隔離された部屋の近くで凄い奇形児見たって言ってた。
廊下の隔離部屋の近くにストレッチャーに乗せられてて、普通に赤ちゃんだと思って見たら奇形だったらしい。
隔離部屋から出てきた看護婦が慌てて、カーチャンを叱って隔離部屋に持ってったそうな。
隔離部屋は、冷暗室付近の階みたく一般人が立ち寄り禁止の一角で、カーチャンは迷って立ち入ったらしい。
冷暗室は別の場所だから、あの奇形は行きてた事になるからその後が気になる
出産入院中のママ友達はちゃんとした子供産んでたから、だれが母親だったのか気になる
ってカーチャンが言ってた。

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039 2011/04/25(月) 15:26:26 ID:ISgApb4nNk
夜、道に迷って入った集落があった。
すごい深い森のすごい急斜面に9軒ほどの集落があったんだが、
その集落の入る手前に大きな岩があって注連縄がされてあった。

その集落から先には進めないようだったので、引きかえしたが、
あとになって住宅地図でその集落のところを探すと、
家自体は地図には載ってるけど、世帯の名前や番地が書いてなかった。
(集落の地名は書いてあったが…)

上にあったレスでそういう集落は航空写真では修正されているとあったので、
googleで航空写真をみると山影で真っ黒くなってる。
その集落へ続く道はちゃんと写真に写ってるのにね。

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040 2011/04/26(火) 07:22:56 ID:3/EMguLFmY
[YouTubeで再生]
旧日本軍の基地へとつづく放射能漏れ?のトンネルがあって
そこで日本兵が今もいるらしい

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041 2011/04/26(火) 08:33:22 ID:Y3i4Td3qno
49 :天之御名無主:03/11/26 07:14
俺の実家あたりの村でわ
八月初旬の祭日に村人総出で
山道を登ります
峠にさしかかるとお祈りを捧げ
お社(道祖神?)の裏にある小路に入ります
この小路は草と木と岩に隠されており
一般人にわ決して見つけられません
しばらく歩くと森の中に小さな火葬場があり、土俵があります
消防らはそこで黙々と相撲をとります
大人も声援してわいけません
全員相撲を取り終えたら
行列を作り村まで無言で帰ります
途中でこの奇祭を部外者に見られたら村長が
「お馬周り二百石、大場宇兵衛様のお弔いで御座います」
と説明する。が、意味不明w

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042 2011/04/26(火) 09:22:08 ID:Y3i4Td3qno
>>21
芥川賞作家、堀田善衛が「鬼無鬼島」でクロ宗をモチーフに小説を書いてる。
http://d.hatena.ne.jp/oyama_noboruko/20060810/p1

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043 2011/04/26(火) 12:00:16 ID:cQze0Rqkl6
新島。かいなんほうし。

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044 2011/04/27(水) 10:19:37 ID:mfJgqEOrRM
     ハンセン病患者を隔離した島

明治時代から最近まで、伝染病患者を収容する施設が全国あちこちに存在したのは知られているが、
まるごと隔離施設として使われた島がいまだにある。それが香川県高松市庵治町にある大島だ。
高松港から8キロ先の沖合いに浮かぶ、大島とはいいながら面積わずか61ヘクタールほどの小さな島にすぎない。
そこに国立ハンセン病療養所、『大島青松園』が建っている。
過去に、ハンセン(らい)病患者が収容とは名ばかりに、隔離施設として使われてきた負の歴史があるのだ。

ハンセン病とは、抗酸菌の一種であるらい菌が末梢神経細胞内に寄生することによって引き起こされる病。
顔面や手足などの変形を伴うことから偏見の目で見られ、患者たちはいわれもない差別を受けてきた。
かつては効果的な治療法がなく、空気感染する(現在では完治でき、感染力も非常に弱いことが明らかになっている)と恐れられたことから、
日本全国に13か所の国立療養所と2か所の私立療養所がつくられ、患者たちは無理やり押し込められていたのだ。

大島への交通手段は、庵治町と大島青松園間は専用フェリーが運航しており、無料で行き来できる。
今でこそ往来は便利になったとはいえ、1907年に開園して以来、長きにわたって島と外部との接触は制限されてきた。
島に『隔離』されたまま人知れず息を引き取った入所者は2000人を下らないといわれており、いかに大島が、
刑務所並の厳重な管理体制が敷かれていたかが窺える。
以前はこの島から脱走できないよう、施設の周囲は有刺鉄線で張り巡らされ、財産もすべて没収されたうえ、
代わりに大島内でしか使用できない特殊通貨(主に貨幣)が支給されていたという。

現在でも、大島では50歳から100歳までの患者が200人近くが入所している。2004年度の調べで平均年齢が76.5歳。
高齢化が進み、年々老衰で亡くなる人の数が増える一方だそうだ。

必要な治療を続けるかたわら、各々が自由な暮らしを送ることができる。
ここでは早朝5時から一日の生活が始まる。元気な者は朝から農園へ出かけ、畑仕事に精を出してもよい。
8時の朝食を終えると、治療したい人は治療棟へ出かけて傷の手当てを受け、リハビリ室で運動したりして、
11時ごろには部屋に戻ることができる。
反対に、身体が不自由な人は午前中に職員の介助で入浴し、元気な人でも午後から共同浴場へ行ける。
(ハンセン病の民間療法として、入浴と熱を加える治療法がある。その昔、草津の湯がハンセン病に有効成分が
含まれ、全国から患者が集まったことがあったらしい。全生病院では、『風呂場外科』という科も存在する)

12時の昼食を終えると、リハビリや百寿会、クラブ活動(ゲートボールや手芸・陶芸など)に参加したり、
職員の付き添いつきで散歩に出かけたり、畑仕事の続きをしたりして、各自自由にすごすことができる。
午後4時に早めの夕食をとったあとは、ラジオ、テレビに興じ、8時には床に就くという規則正しい生活を送っている。

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045 2011/04/27(水) 10:20:34 ID:mfJgqEOrRM
2001年に国が隔離政策は誤りだったことを正式に認めるまで、そして罪を後世に残さない意図で、
書物による記録が残されていないので今となっては過去に患者たちがどんな扱いを受けてきたのか知るには
直接、聞き出すしか術がない。

昔の患者の扱いはひどいものだった。
治療は二の次で、『楽土建設』という名目で患者たちは重労働を強いられた。
乏しい食料費を自分たちでまかなうべく自給自足の農作や畜産。
住まいも6畳間に夫婦が仕切りなしで2組生活させられ、単身者の場合だと12畳に8人が押し込められた。
れっきとした国の医療機関であるにもかかわらず、医者や看護婦の数が足りず、注射は患者同士で打ち、
身体が不自由な者の世話も、元気な患者が交代で行わなければならなかったほどだ。

施設内には『監禁室』があり、言うことを聞かない患者が収容された。
とりわけ一番の罪は逃亡罪であり、たとえ内地にいる親の死に目に会いたくてもご法度とされた。

人権侵害の最たるものが、患者同士、夫婦になることを認められるこそすれ、有無を言わさず強制断種手術を施され、
子供を生むことは許されなかったことだ。
祖国浄化の名の下に、天皇の赤子として『健康であること』がすなわち『日本民族』の条件とされ、
障害者や病人は植民地政策になんの役にも立たない国の邪魔者とされ、人として認められず、強制隔離もやむなしというわけだった。
病む者がすがるべきは『療養所』であるのに、罪人としての扱いを受け、まさに国辱として社会から抹殺するかのようだった。

島の南端は断崖絶壁で、そこは自殺の名所だった。
当時の入所者は将来に絶望し、毎日のようにここから身を投げたらしい。


※画像は当時の名残をとどめる監房跡。

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046 2011/04/27(水) 11:44:04 ID:mfJgqEOrRM
[YouTubeで再生]
1996年に『らい予防法』が廃止され、 2001年には『らい予防法』違憲国家賠償請求訴訟で原告が勝訴し、
国は控訴を断念し判決が確定した。
これを受けて、退所者給与金制度などが設けられた。しかし、「せめてもう10歳若かったら社会復帰も考えないではないが、
もうこの歳になると……」とか、「今になって帰ってもよいと言われても、親はすでに亡くなっており、兄弟姉妹もかなりの歳であり、
また子供もいないので、帰るところがない」といった入所者の声がある。
いずれにせよ、入所者たちは歳をとりすぎた。

それに加え、2003年11月に起きた熊本県の黒川温泉のホテルによる療養所入所者の宿泊拒否や、
それをめぐって入所者に向けられた誹謗・中傷の電話や手紙などの背景があったことから、
世の中には、いまだハンセン病に対する理解が得られておらず、偏見・差別などが根強く残っていることを再認識せざるを得ない。
さらに、ハンセン病による後遺症としての重複した障害があることなどにより、医療に対する不安もあり、
社会復帰はほとんど進んでいないのが現状だ。

大島で亡くなった患者たちの亡骸は、本州を見渡せる高台にある慰霊塔に葬られる。
慰霊塔『風の舞い』は、亡くなられた方を火葬にし納骨した残りの骨を治めている場所で、
平成4年、約1000人のボランティアで造られたモニュメント。
2つのモニュメントはそれぞれ天上・天下をイメージし、海に向かって据えられている。
亡くなっても故郷に帰れない人がほとんどだった。
せめて死後、魂は風にのって島を離れ、自由に解き放たれますようにという願いがこめられているという。


※動画は、東村山にある国立ハンセン病療養所多摩全生園から、元患者が68年ぶりに帰郷するもの。参考に。

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047 2011/04/27(水) 11:52:37 ID:mfJgqEOrRM
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048 2011/04/28(木) 09:15:32 ID:mqrJMGuRWQ
「泥棒村」でググるべし。
いろんな意味でここで書くことが憚れる。

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049 2011/04/28(木) 20:30:35 ID:E0lZcnE5yA
御蔵島 [忌の日の明神]
鉄の下駄を履き、赤い衣をまとった恐ろしい形相の神様が、1月20日に御前に上陸して歩き回り、24日の夜になると村にやってくるため、この日は決して家の外には出てはならないとされている。1月24日の夜は今でも島中がひっそりと静まりかえっている。

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050 2011/04/28(木) 21:24:41 ID:rqL4eCPGe2
ごめん。猪木が赤いタオル首にかけて、あのテンションで歩いてるところ想像しちゃった。

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051 2011/04/29(金) 08:47:14 ID:mZdZCoHGjI
     訳ありの者たちが流れ着く島と流刑村

屋久島と奄美大島の間には、北東から南西にかけて点在する島々がある。有人島が7つと無人島が5つ連なり、
これをトカラ列島と呼ぶ。トカラ列島すべての島は、鹿児島県鹿児島郡十島村の行政区域となる。

人口は全島で1000人にも満たないほどの過疎地帯。交通手段は、たった一隻の村営フェリー『としま』が、
鹿児島と奄美大島の間の島々を週2回往復するだけ。病院といえば、小さな診療所こそ全島にあるものの、
手術を要する急患の場合、鹿児島にある自衛隊鹿屋基地からヘリコプターが飛んできて、患者を鹿児島の病院まで運ぶしかない。
どの島にもヘリポートは必須ということになる。

さて、トカラ列島のS島にはいわくつきの村がある。S島はこれといって観光名所があるわけではない。
集落の外れにバブル時代に建てられ、廃墟と化したリゾートホテルがあるのだが、ここへは迂闊に足を踏み入れてはならない。
廃墟では、訳あり連中が共同生活をしているというのだ。……片腕のないカタ〇、背中に刺青の入った者、小指が欠けているなんてザラ。
『組』から絶縁を言い渡され、本島から追放された元やくざたちが最後に流れ着く島がここなのだ。

もちろんS島には純粋な島民も暮らしているが、最近では流刑人の数の方が多いらしい。

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052 2011/04/29(金) 08:51:55 ID:mZdZCoHGjI
     悪石島(あくせきじま)とプリミティヴな異形の神ボゼ

鹿児島トカラ列島にある悪石島。なんてオドロオドロしい島名だろう。
『悪』とつく地名は他に類を見るまい。たしかにこの島の周囲は断崖絶壁となっており、海に向かって石が転がり落ちることから
名づけられたともいう。トカラ列島には平家の落人伝説が残されている。平家の落人が源氏の追っ手から逃れるために、
『悪石』と呼んで近寄り難くしたとの説もある。
 
この島には、現代文明では考えられないような風変わりな伝統行事がある。
旧暦の7月7日から16日まで盆踊りがあり、最終日に太鼓の音が響き渡ると島の古老がこう叫ぶ。「ボゼが出っど!」
それを合図に、『仮面神ボゼ』なる不気味な衣装に身を包んだ島民が3人が登場し、幕引きの役目を担うのだ。

画像が問題のボゼだ。
いかがだろう? とても現代日本では考えられないような出で立ちではないか。
赤土と墨で塗られた奇怪な仮面をかぶり、ビロウという葉の腰ミノを巻き、手首や足にシュロの皮をあててボゼに扮している。
手にはボゼマラという長い棒を持っており、それを振り回しながら人々を追い回すのだ。

盆になると、先祖の霊とともに悪霊も現世にやって来るといわれている。その悪霊を追い払い、新しい世界へと導くのがボゼ神の役目だ。
まさしく悪石島だけの(人口は100人にも満たない)奇習であり、マニアックな嗜好の観光客を呼ぶ英雄的存在でもある。
民俗学者の間では、パプアニューギニアやインドネシアなどの祭に出てくる神の姿と酷似していることから、
起源を南方系から流れてきたのだとする説があるが、いまだ確証は得られていない。

秋田のナマハゲを彷彿とさせるものの、関連はないらしい。ナマハゲと決定的に違うところが1つある。
それがボゼマラによる突っつき攻撃だ。『マラ』から連想できるようにペニスの象徴で、棒の先端も心なしか亀頭の形をしている。
ボゼが登場するとともに、念入りに女子供が追いかけられ(本気で泣き出す子供もいる)、赤土の泥がついたボゼマラで突っつかれる。
泥がつけられた女性は子宝に恵まれ、子供の場合は健康に育つといわれている。
おっかない姿ではあるけれども、島民にとっては歓迎すべき神様なのだ。
祭のクライマックスでは悲鳴と泣き声、歓声に包まれ、楽しく幕を下ろす。

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053 2011/04/30(土) 03:55:18 ID:EyBzF7dL0g
47 :番組の途中ですが名無しです :2006/01/09(月) 18:26:53  
145 名前: 避け地って 投稿日: 1999/12/16(木) 16:51
本当にあるよ 和歌山の山ん中、田辺市から熊野のほうにずっと入った所
親戚のばあちゃんから聞いた
140さんの書いたような理由で放置された部落があるって言ってた。
戦後、町に出てきたその部落の人がいたそうだが、よってたかって殴り殺され、
死体は焼かれたという事 田辺界隈の老人のあいだではタブーになってる話だ
今もその部落は残ってるが、やはり自給自足で10世帯があるかないからしい
(30年くらい前のうわさで)
電気もなにも無く、行くには国道から(和歌山の山深い国道は、舗装もしてない所多い)
けもの道に入り、1000メートル級の山を越えなくてはいけないという事だ。
このほかにも数ヶ所あるらしい

知ってるかぎりでは、福井県敦賀市の山奥にもそれらしい村がある、
そこは「部落民以外はこの奥入るな!」とかんばんが立っている
入らずに、入り口で車を止めてただけなのに
奥からあらわれた血走った目のおやじ数人に追い払われた(実話)

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054 2011/04/30(土) 03:58:48 ID:EyBzF7dL0g
57 :番組の途中ですが名無しです :2006/01/09(月) 18:30:14  
153 名前: トトメス 投稿日: 1999/12/17(金) 11:20

140の者です。
「避け地」に対する食料物資搬送は主に航空自衛隊(離島の場合は海上自衛隊)の
「特殊救難隊」が行っている(いた)ようです。「避け地」の人々は高齢化が進んでおり、
自給自足をしていたのは20年ほど前までです。
彼らのほとんどは「らい病」ですので、食料搬送と同時に、軍医(?)の診察も受けます。
小説に出てくるような「排他的で、攻撃的な」部落はもう存在しません。
安心して行って来て下さい。 犬鳴村なんか無いと思いますが・・・。

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055 2011/04/30(土) 06:11:31 ID:3PfA2lhi/k

巌流島とかどう?

対馬の化物島とか

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056 2011/04/30(土) 12:28:08 ID:WOKrW9s2xs
対馬は美女村だな。

美女塚伝説異聞
http://www1.ocn.ne.jp/~kurose/minwa05.htm(音量注意。このサイトは音楽が流れてる)

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057 2011/05/01(日) 19:27:36 ID:pcMaqOjNFU
削除(by投稿者)

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058 2011/05/02(月) 03:10:57 ID:AMSNQJG4GQ
削除(by投稿者)

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059 2011/05/02(月) 03:12:38 ID:AMSNQJG4GQ

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兵庫県淡路島
古くは“阿波路”と書き、文字通り畿内から阿波の国へ渡る中継地であった

それは、死国(しこく)へと誘う島でもあった・・・
四国八十八箇所巡礼の旅とは生への執着を捨て殺す旅でもあり、
四国に赴く巡礼者たちは皆、明石海峡を渡り鳴門海峡に至るまでに浮世の未練を捨て去ったと云う
己殺(おのころ)島と呼ばれる所以である・・・

はじめにイザナギとイザナミはこの世に地を創った
淡道之穂之狭別の嶋(あわじのほのさわけのしま)、即ち淡路島である・・・

はじまりにして終わりの地
淡路には、嫁の出産時に村の長老が棺桶を持参して赤子の誕生を祝う習わしがあるという
この地で生まれた赤子が天寿を全うし、再びこの地に眠るという願いをこめた風習であり、
現在も淡路各地で行われているという・・・

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060 2011/05/02(月) 09:11:47 ID:S.erbHXoe6
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     ニライカナイに近い神の島

沖縄の久高島と来れば、神秘の神事『イザイホー』が有名。
琉球伝説で知られる『ニライカナイ』とは、あの世、常世の国、どこかにあるはずの理想郷として
沖縄県や鹿児島県奄美群島の各地の人々に今もなお伝わる概念だ。
そして久高島こそ、もっともニライカナイに近い島だと信じられている。

イザイホーとは12年ごとに訪れる丑年の旧暦11月15日から4日間執り行われる行事。
島の女性たちが神女になれるかどうかが試される通過儀礼であり、選ばれた神女はその他の祭祀を一任させられるという。
イザイホーに参加できる女性は、『ナムチュ』と呼ばれ、細かく厳しい条件を必要とする。
そしてさまざまな通過儀礼を経て、晴れて祖母霊と呼ばれる霊力を授かるのだ。

史料に記録される限り600年以上の歴史を持ち、来訪神信仰の儀礼として日本の祭祀の原型を留めているとされ、
多くの学者の関心を集めて、1966年、1978年のイザイホーには、本土からも多くの民俗学者、取材陣が久高島に駆けつけた。
しかしながら現代では島の過疎化が進み、1990年はナムチュの条件を満たす女性の不在と、
儀式の段取りをもっともよく知る久高ノロウメーギ(神職名。久高ノロの補佐役)の逝去のために行われていない。
2002年もナムチュになる女性の不在などの問題により中止され、1978年を最後に現在に至るまで行われておらず、
その存続が危ぶまれている。
http://www.kudakajima.jp/ima/index.html

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061 2011/05/02(月) 12:01:41 ID:S.erbHXoe6
     軍艦島に寄り添う火葬用の島

長崎県端島と言えば、キング・オブ・廃墟として知名度の高い、通称『軍艦島』だ。
かつては日本でも屈指の良質な炭鉱が存在し、ピーク時には約41万トンもの石炭を産出した。
我が国の高度成長期を支え、時代とともに風化していったのは周知であろう。
当時、世界一の人口密度を誇った東京に比べ、優に9倍以上もの5000人を超える炭鉱夫とその家族、そして商売人たちが生活していた。
端島には炭鉱施設や住宅のほか、銭湯、小中学校、病院、寺、映画館、理髪店、美容院、パチンコ店、雀荘、スナックなど……
ありとあらゆる店舗・施設がひしめき、島内だけで完結した都市機能がそろっていたといわれる。
(もっともその栄華も、主要エネルギーが石炭から石油に取って代わられると1974年を最後に見捨てられる)

光あたるところに影あり。炭鉱都市として設備が整った島でありながら、意図的につくられなかった施設があった。
それが火葬場と墓場だった。物理的に土地が足りなかったせいでもあるが、死と隣り合わせの炭鉱夫にとって、
マイナスをイメージさせるそれらは忌避され、ひっそりと端島の北に位置する中ノ島に設けられた。

現在、中ノ島には、端島と同じく炭鉱施設と思われるレンガ造りの構造物、展望台跡、公園跡、納骨堂跡、火葬場跡などが残っている。
長崎市により管理されている端島は立ち入り禁止区域があるが、中ノ島は誰でも上陸することができる。
ここも>>5>>6の縦島・横辺島と同じく釣り人がよく訪れるそうだ。
http://blog.goo.ne.jp/ruinsdiary/e/dcd595be47473cfe3116ee6b152430d9

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062 2011/05/02(月) 13:12:10 ID:S.erbHXoe6
     平野仁右衛門さん一家だけが住む島

仁右衛門島(にえもんじま)は千葉県房総半島南部、鴨川市の沖合200メートル向こうにある個人所有の島だ。

代々島主は平野仁右衛門を名乗り、現在の島主で推定38代目。なんと800年以上前から襲名してきたことになる。
治承4年(1180年)、石橋山の戦いに敗れたあの源頼朝が安房に逃れたとき、初代仁右衛門に助けられ、
この島で平家軍から一時身を隠し、巻き返しを図ったという伝説が残っているのだ。
命を助けてもらったお礼として、頼朝はこの島一帯の漁業権を初代仁右衛門に与えて以来、
現在に至るまで平野一族がこの島を守り伝えているという。

現在の平野家家屋は、宝永元年(1704年)に建て直されたもので、観光客にも公開されている。
http://niemonjima.web.fc2.com/newpage1.html

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063 2011/05/02(月) 18:05:28 ID:S.erbHXoe6
[YouTubeで再生]
ボゼは可愛い。

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064 2011/05/02(月) 21:21:16 ID:S.erbHXoe6
     泥仮面パーントゥはヘドロくさい臭気をプンプンさせて襲ってくる

旧暦9月の初めに、沖縄の宮古島では重要無形民俗文化財に指定されていながら、奇想天外な悪魔払いの伝統行事がある。
島尻地区の青年が3人選ばれ、パーントゥと呼ばれる泥神に扮し、新築の家や新生児の生まれた家々を主に回るのだが、
道中出会った人や車にも泥を塗りたくるという奇祭だ。
この泥には悪霊が憑くのを防ぎ、無病息災をもたらすありがたいものだという。
その祭りの賑々しいこと。パーントゥ役の青年たちも、したたか酒を引っかけているので足取りもおぼつかない。

パーントゥのビジュアルは強烈だ。不気味な面を片手で顔を隠し、『キャーン』と呼ぶ蔓草を全身にまとい、しかも泥でズブ濡れの状態で徘徊する。
しかも実際は、聖なる井戸に沈殿した泥を塗りたくっているのだが、これがヘドロのニオイそのもので鼻が曲がりそうなほどクサイ。
祭りに際し、地元住人はもとより、近年では観光客が押し寄せ、集落は人でごった返しているのものの、
誰彼かまわず容赦なく抱きつき、相手の顔にもべったり塗りつける。

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065 2011/05/02(月) 21:22:23 ID:S.erbHXoe6
木製の3つの面は微妙に表情が異なり、呼び名も違う。眼が鋭い顔が『ウヤ(親)パーントゥ』、優しい顔立ちの『ナカ(中)パーントゥ』、
そし童顔の『ツファ(子)パーントゥ』である。
この3つの面はそれぞれ異なる3軒の家が先祖代々から保管しており、パーントゥプナハ(祭りの正式な呼び名)が開催される以外は
人目に触れることがない。学者や研究者とて例外ではなく、部外者が手に取って観察することすらできない神聖なものなのだ。

http://www.churashima.net/shima/miyako/pantoo/index.html

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066 2011/05/02(月) 22:39:42 ID:S.erbHXoe6
[YouTubeで再生]
泥を塗りたくられて、誰も怒る人はいない。(幼子が泣き喚くのは無理もないが)
歓声が沸き起こり、祭りの夜はみんな楽しそうだ。

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067 2011/05/04(水) 05:47:04 ID:nY6nGufZ6s
子供の頃に「亡夫岩」だか「失夫岩」だか名前はよく覚えていないのだけど、周囲に何も無い海のど真中に異様に不気味な岩があって、非常に怖かった記憶がある。

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068 2011/05/04(水) 19:09:42 ID:nY6nGufZ6s
孀婦岩だった

高さ約100m

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069 2011/05/09(月) 16:05:06 ID:/vZuJx6WOQ
[YouTubeで再生]
     人々をニライカナイへ導くために……ミルク神     

日本最南端の有人島が沖縄の波照間島だ。
波照間島のみならず、沖縄八重山諸島では旧盆の中日(旧暦7月14日)になると、『ムシャーマ』が執り行われる。
『ムシャーマ』とは島全体が3組にわかれ、島の中央にある広場に向けて島民らが仮装行列で歩く祭りだ。
この行列の先頭に立って、人々を先導するのがミルク神の役である。
ミルク神はユーモラスな表情の白い仮面を被り、黄色い着物に身を包み、ゆったりと練り歩く。
まわりには子供たちが付き従っているが、それはミルク神の子供だとされている。

ミルクとは弥勒が沖縄訛りになったものであり、本来の弥勒とは信仰の対象が大きく異なる。
弥勒の場合、釈迦入滅後56億7千万年後に仏陀になることが約束された未来仏なのに対し、
ミルクは過去にあった理想的な豊穣の世の中という意味だからだ。

『ムシャーマ』の本質は五穀豊穣に感謝し、次の夏の豊作を祈願するための豊年祭なのだが、
この祭りはホンワカした穏やかな雰囲気があり、微笑ましい。
http://www.kt.rim.or.jp/~yami/hateruma/miruku.html

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070 2011/05/09(月) 16:06:44 ID:/vZuJx6WOQ
仮面を被ったのがミルク。

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071 2011/05/09(月) 20:08:55 ID:ZyPpNPCbW6
>>21
その塀は高さ1.9mですね。

>>52
ロボッツって映画に出てくる適役の悪い母親に似てる気がする・・・。

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072 2011/05/09(月) 20:17:24 ID:/vZuJx6WOQ
     ままこ伝説

沖縄県宮古諸島にある下地島の『通り池』にまつわる話。
通り池とは2つの池が相接し、天然の橋によって通じている。東北側が直径約55mで水深約25m、
南西側が直径約75mで水深約25mあり、直径約10mの洞穴で海と通じており、両池は潮の干満で水深が変化する。
名勝地としても知られているが、濃紺の水をたたえた不気味なところだ。現在では自殺の名所としての側面を持つ。

この通り池には、地元の人は誰も近寄らないという。
誤って池に落ちようものなら、水面から地上まで10メートルもの絶壁で囲まれているため、
自力で這い上がるのはほぼ不可能だし、いろいろといわくがあるため躊躇させるのだろう。
この池には、継子と間違えて実子を池に突き落としたという伝説が残されている。

その昔、伊良部島に母と幼い息子2人が暮らしていた。弟の方は実子なのだが、兄は継子だった。
よくある話で、母は実子である弟ばかりを寵愛する一方、兄は軽んじ、憎しみすら抱いていた。
そんなある日、母は3人で散歩に行こうと誘う。子供たちは喜んで母のあとに。ついていった先が、例の下地島の『通り池』だった。

池のそばで昼食をとったあと、3人はうたた寝してしまった。真っ先に母が気づいたときには周囲はすでに日が落ちていた。
そのとき、彼女は積年の感情を噴火させる。
膝枕で寝かせていた弟を起こさぬよう下ろし、池のそばで顔を伏せて寝そべっている兄を抱きあげると、
池に放りこんでしまう。
すぐさま弟のもとへ引き返し、眠りから覚まそうと身体を揺さぶった。

だが、月明かりに照らされたのは、弟ではなく兄の方だった。
兄は母に疎ましく思われていたのは承知しており、いつかは殺害されるのではないかと予測していた。
母が寝ていたスキに弟の服をすり替え、弟に化けて寝たフリをしていたのだ。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%80%9A%E3%82%8A%E6%B1%A0

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073 2011/05/11(水) 00:16:11 ID:gR.Xs8ZHCY
     南海の最果てに常世の国を求めて……補陀落渡海(ふだらくとかい)

微妙にスレチだが、ニライカナイつながりで取り上げておきたい。 

奇習……というと、当時の人の切実な願いを愚弄することになるので、オドロオドロしく語るつもりはない。
和歌山県那智勝浦に補陀洛山寺という天台宗の寺がある。補陀落渡海の発祥の地とされた根本道場だ。
紀伊山地の霊場の1つとして世界遺産に登録されている。

補陀落渡海とは、南海のかなたには補陀落浄土(常世の国・あるいはニライカナイを指したのであろう)があるとされ、
平安から江戸時代にかけて、この寺の代々の住職が生きながら船出し、往生する行のことを指した。
捨て身の行である即身仏に近い発想かもしれない。

南方にのぞむ海岸に、渡海船と呼ばれる小型の屋形船を浮かべて、住職や志願者である行者がたった1人で乗りこみ、そのまま沖に流すというのだ。
船には櫓、櫂などの動力装置はなく(せいぜい慰み程度の帆がかけられている。それも「南無阿弥陀仏」と書かれており不気味だ)、
出航したら最後、海流に乗って漂流するだけとなる。
しかもそれだけじゃない。キャビンに閉じ込められたうえ、外に出られないよう戸板で釘を打ち付けられた状態で船出するのだ。
つまり棺桶船である。その閉所の中で、住職や行者はえんえん念仏を唱え続けなければならない。
船内には1か月分の水と食料が備蓄されているが、そんなものは焼け石に水。
いずれ餓死するか、高波にでも襲われ転覆、海の藻屑と消えたことは想像に難くない。

寺の住職は60をすぎると渡海に行くよう風習化されていた。
もし、生に未練があって渡海しない者は、信者らに後ろ指をさされたという。
16世紀には渡海に出た金光坊という僧が、途中で屋形を破って逃げ出し付近の島に上陸したものの、
すぐに捕らえられて海に投げ込まれ死亡した事件もあり、この風習は廃れていった。

今でも補陀洛山寺の境内には渡海船の原寸大の模型が展示されており、間近で見学できる。
4つの鳥居がキャビンを取り囲むようにしてついた屋形船は異様な佇まいを見せている。
http://achikochitazusaete.web.fc2.com/fudaraku/tokai.html

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074 2011/05/11(水) 00:17:34 ID:gR.Xs8ZHCY
[YouTubeで再生]
ホイ、これ補陀落渡海の動画。

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075 2011/05/15(日) 09:50:29 ID:OivVUtbIWg
兵庫の煙島には触ると祟られるという首塚があるよ。

平安時代、源平合戦の際に平家の武者がこの場所で首を切られた。で、ここで焼いたらしい。
そのときに煙が立ったことから煙島という。首塚に触れたら祟りがあるそうな。

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076 2011/05/20(金) 07:48:48 ID:TubBZxCTN.
良スレ!!!
>>10 勉強になった

日本神秘すぎだろw

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077 2011/05/20(金) 10:23:30 ID:MQFSsWkJwE
削除(by投稿者)

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078 2011/05/20(金) 10:59:31 ID:MQFSsWkJwE
削除(by投稿者)

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079 2011/05/20(金) 15:09:10 ID:MQFSsWkJwE
     海賊キッドの財宝が隠されているかもしれない島

世界中の海を股にかけ、暴れまわったウイリアム・キッドこと海賊キャプテン・キッドが
日本の離島に財宝を隠したという伝説は多い。

ウイリアム・キッドのWikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A6%E3%82%A3%E3%83%AA%E3%82%A2%E3%83%A0%E3%83%BB%E3%82%AD%E3%83%83%E3%83%89

鹿児島県トカラ列島の有人島である宝島
http://home.f01.itscom.net/yaeno/Cap.Kidd05.html

沖縄県宮古諸島の北部にある大神島
http://www.okinawainfo.net/miyako/oogami-douro.htm

なかなかロマン掻き立てられる島なのだが、やはり過去にはトレージャーハンターを夢見て島へ入り、
めぼしい洞窟内を荒らした観光客が後を絶たなかったそうだ。

特に沖縄の大神島は地元では神聖な島と崇められ、明治の頃まで風葬をおこなってきた歴史がある。
大神島の場合、風葬は風通しのいい島の洞窟で遺体を放置するのだ。
海賊キッドの財宝は、こういった人が近づき難いタブーのエリアに隠されているのではないかと推測されている。
お宝が見つからず、代わりの記念品として頭蓋骨を持ち帰った者もいるとのこと。
むやみに島を荒らすべきではない。

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080 2011/05/21(土) 10:40:26 ID:1NwzBfnOEI
     七不思議 どこにも墓がない島

山口県柳井市から瀬戸内海に延びる大島大橋を渡ると、瀬戸内海に広がる周防大島諸島が見える。
そのなかでも、もっとも人口が少ない島が笠佐島(かささじま)だ。

その笠佐島には不思議なことに墓が存在しない。墓どころか寺すらないのだ。
では故人をどこに葬るのか?

人が亡くなると今日の日本では火葬場で荼毘に付すのが一般的な慣わしだが、
なんと笠佐島では畑が広がる野外の広場に運び、そこで野焼きにする習慣がいまだに続いているという。
しかも焼き終えたあと、灰と骨になった遺体はそのまま野ざらしにしておくのが島のやり方なのだ。
供養らしい供養といえば、わずかな骨のひとつまみを京都にある大谷本廟に納骨するだけだ。
当然、島に墓がないとなると、お盆やお彼岸に先祖の墓参りをするといった習慣もない。

笠佐島の人たちは無宗教なのか?と思いがちだが、むしろ熱心な浄土真宗の信者ばかりだという。
そもそも遺骨の一部を納める京都の大谷本廟も浄土真宗の墓地だったりする。
これは阿弥陀如来に一心に帰依し、それ以外の神仏、儀礼や風習を「気にしない」浄土真宗の教えから来ている。
したがって墓や葬儀などはいらないという発想なのだ。
このような風習ゆえに、いつのころからか周防大島と周辺地域では浄土真宗の信者は『かんまん宗』と呼ばれるようになった。

山口県の方言に「かんまん」という言葉がある。
「かまわない」が訛ったのは言うまでもあるまい。
小っちゃなことは気にしない。実はおおらかな心をもった懐深い風習なのだ。

http://www.pref.yamaguchi.lg.jp/cms/a123003/island/kasasajima.html

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081 2011/05/21(土) 16:31:52 ID:tQC3BoFMjY
>>80

山口でそれよりもっと不思議なのが「黄色いガードレール」だと思う。

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082 2011/05/25(水) 15:56:48 ID:CVLV/to4b2
>>81
名物の夏みかんの色にして来客にアピールしてるだけ

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083 2011/05/25(水) 18:45:13 ID:6VNKJZ9hgQ:DoCoMo
夢がないこと言ってやんなやw

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084 2011/05/26(木) 19:32:24 ID:nAgEH1iUoM
「鬼血骸村」

頭のおかしなオジサンが屋敷の周りをゴミのようなオブジェで飾り立てている謎の地区

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085 2011/05/26(木) 19:50:31 ID:UvKMTFCiPc
>>44
もろ地元だな
小学生の時に交流会?かなにかで行ったけど、気さくなじーさんばーさんだったよ

手紙をもらって、その内容は島で祭りがあるからまた会いましょう!って感じだった
その人はハンセン病で手が固まってて、手の代わりに口にペンをくわえて書いてたんだよ
結局祭りに行く事はなかったんだけど、あの人はもう亡くなってるんだろうか
もう名前も思い出せないし、手紙もなくしてしまった
本当に後悔している

自分語りスマン

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086 2011/05/27(金) 23:29:50 ID:D3T9Fo39VQ
>>85
貴重な体験談、ありがとうございます。
こんな離島は、現地へ行って、見て聞いてナンボ。

>>44〜46まで、長文タレ流しただけの甲斐がありました。

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087 2011/05/27(金) 23:33:13 ID:D3T9Fo39VQ
     猫だらけの島 犬を飼うのはタブー

宮城県石巻市牡鹿諸島に浮かぶ猫の楽園ともいうべき島、それが田代島。
フジテレビの朝の情報番組から派生したDVD『にゃんこ THE MOVIE』の舞台に選ばれ脚光を浴びると、
瞬く間に愛猫家の注目の島になった。
島民の約8割が漁業に従事している。漁村に猫はつき物だが、肝心の島民よりも猫の数の方が多いのもめずらしい。
もっとも人口は約110人で、その他の離島の例に漏れず、高齢化、過疎化が進んだ限界集落だ。

興味深いのが田代島の化け猫騒動だろう。
江戸時代後期の話である。
海も穏やかな日暮れどき、牡鹿半島の対岸からの渡し舟に、編み笠を深くかぶった武士姿の男が乗り合わせ、田代島に渡ってきた。
舟が二斗田の浜に着くと、男は船頭に船賃を渡すや否や、たちまち姿を消してしまった。
その直後、田代島では数々の異変が起こった。
集落では夜ごと青い怪光が現われ、その光を目にすると、恐怖のあまり寝込む者が相次いだ。
さらには家々で飼っていた犬が片っ端から喉を噛み千切られて殺され、島は騒然となった。

しばらくして、怪異の正体を目撃した者が現われた。
証言によれば、犬を殺したのは秋田犬より大きな虎毛の怪猫であり、カヤを両脇に倒しながらのっしのっしと歩いていた。
また、浜に置いていた50?もあるマグロを山中に引っ張っていって食っていたという。
その怪猫を見ただけで、言葉を発することもままならなくなるほどの病に冒されると噂され、怪猫の話を口に出すことそのものが禁忌とされた。
なぜ田代島にこの化け猫がやって来たのかは誰もわからなかったが、犬が殺されてからはこの化け猫騒動が静かになったので、
機嫌を損ねないように、島にいた犬をすべて殺したといわれる……
http://portal.nifty.com/2009/09/09/c/


牡鹿諸島といえば先の東日本大震災の被害が懸念される。
やはり田代島も10mクラスの津波に襲われたらしく、海岸周辺部の建物は甚大な被害を受けている。
当初、島民の1人が行方不明だったが、その後の調べで本土へ渡っていたそうで無事が確認された。

震災直後の猫好きの2ちゃんねるのスレッド(田代島関連の板)では、島民そっちのけで猫の安否を気遣う書き込みが目立ったのは、
あえて言うまい……

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088 2011/07/11(月) 08:12:36 ID:eEBPJTkNVM
削除(by投稿者)

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089 2011/07/12(火) 02:06:03 ID:5HsChaL5mE
とりあえずage

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090 2011/09/13(火) 17:36:48 ID:FnFITxxC9g
ためになるね〜!

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091 2011/09/15(木) 19:12:25 ID:XC8JLtA/eI
57 :番組の途中ですが名無しです :2006/01/09(月) 18:30:14  

  153 名前: トトメス 投稿日: 1999/12/17(金) 11:20

  140の者です。

  「避け地」に対する食料物資搬送は主に航空自衛隊(離島の場合は海上自衛隊)の

  「特殊救難隊」が行っている(いた)ようです。「避け地」の人々は高齢化が進んでおり、

  自給自足をしていたのは20年ほど前までです。

  彼らのほとんどは「らい病」ですので、食料搬送と同時に、軍医(?)の診察も受けます。

  小説に出てくるような「排他的で、攻撃的な」部落はもう存在しません。

  安心して行って来て下さい。 犬鳴村なんか無いと思いますが・・・。

 

  154 名前: >140 投稿日: 1999/12/17(金) 12:58

  村の名前とかは教えられないの? 「避け地」で検索しても、なにもでてこなかったなー。

  

  155 名前: >152〜154 避け地について(Ver.2) 投稿日: 1999/12/17(金) 19:00

  「らい病」についての「避け地」のことなら、何年か前に夜のニュース番組

  (ニュースステーションだったか?)の中で、特集を組んでやってたと思う。

  

  特集の中では「避け地」という言葉は使っていたかどうかは記憶に無いけど、

  昔「らい病」から国民を守る為に「らい病」ににかかった人を、

  ある特定の地域に隔離したという話だった。 今もその場所は残っていて、人も住んでいる。

  

  場所は確か瀬戸内で、本州の瀬戸内海の海岸寄りのどこかだったように思う。

  海岸というより離れ小島だったかな。 

  なにせ、何年も前の番組なもんで、あまりよく憶えていないんだ。

  だから、そういう地域がある事は確かなようだよ。 それに、そこの住民は温和な人だったよ。

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092 2011/11/17(木) 10:46:19 ID:eS/FsYGz.s
299 :本当にあった怖い名無し:2011/08/13(土) 11:28:24.87 ID:XZBk9m760
20年前、人口100人くらいの島の人と、教授の研究のため何年もかけて交流したことがある。
祭りの時期に合わせて、1ヶ月泊まりで教授の聞き取り調査なんかに同行した。
でも、ほとんど島の子供と遊んでただけ。
なんにもない島で、島の半分がお墓だからということで、その部分には島の子供は絶対に近寄らない。
海がすごくきれいで、島と島の間に干潮時は道ができて歩いて渡れる、すごくキレイで夢のような場所だった。


302 :本当にあった怖い名無し:2011/08/13(土) 11:38:06.89 ID:XZBk9m760
その島では奇祭があり、夜通し村の男の人がお面をかぶって白い衣装を着て、
太鼓のようなものを叩きながら、たいまつを持って村中を練り歩く。
教授から、「この祭りの夜は、絶対に一人で外に行ってはいけない」。
宿なんかないから、船着場の一室に寝泊りしていたんだけど、
「鍵をかけて、誰かきても絶対に入れたらいけない」と念を押されていた。
私たちの部屋には、一緒に行ってた男の子3人と、村の小学生の女の子2人と、私とあと二人の女の子がいた。
窓にはガラスが入ってなくて格子だけがあったから、外を歩いてる人の姿をちらちらと見ることはできる。

昼間に船に乗せて漁に連れて行ってくれたり、
他の日の夜に地元料理を教えてくれたりしたRさん(40代のおじさん・当時私は10代)の声で、
「部屋のドアを開けろ」と言われた。
シャワー室があったんだけど、そこの窓から手を入れたり松明を投げ入れられたりした。
やさしいRさんの変貌ぶりに、女の子みんなでガクブルしてた。

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093 2011/11/17(木) 10:46:52 ID:eS/FsYGz.s
303 :本当にあった怖い名無し:2011/08/13(土) 12:03:43.98 ID:XZBk9m760
一人の女の子が、あまりの怖さに「教授とそのほかの男の子を呼んでくる!」と外に飛び出していった。
その子をTちゃんとする。
Tちゃんが飛び出していったあと、急いでドアを閉めて鍵をかけた。
Tちゃんはすごくかわいい顔をした子で、Rさんの狙いはTちゃんだったみたいで、
彼はTちゃんを追いかけていった。
Rさんと一緒に来てた何人かの男の人も一緒に追いかけていったから、船着場はシーンとなった。

村は車が入れないような狭い路地がたくさん入り組んでいるような場所で、誰かと鉢合わせすると逃げられない。
村には街頭なんかもない。村人が持ってる松明の明かりだけが頼り。
でもそのおかげで、松明の明かりがちかづくと人がいるってことで、
物陰に身をひそめてやり過ごすことができたんだそう。

祭りのクライマックスは、村の真ん中にある祠に祈祷師が入っていて、祭りの間中何かを祈念するんだけど、
その神託?が降りたら、村の女性みんなでその祠を囲って一晩中踊り狂う。
その間中、男たちは松明を持って村を歩いてる。

私はTちゃんが心配になって、男の子2人と一緒に外に出た。
そのとき陰に隠れてた村の人が出てきて、私を見て「チッ」と言ったのが印象深い。

祭りをにこやかに楽しんでいた教授は、部屋の外に出てきてたTちゃんを見つけて血相変えて怒ってた。
私たちも後で合流して、祭りが終わるまでTちゃんと私を、教授と男の子で囲んで座ってた。
お酒や料理をいただいて村人とほがらかに話してた男の子や教授を見て、
なんで部屋から出るなって言ったのかな?なんて思ってた。
でも、お面かぶった村人を、絶対にTちゃんや私に近づけなかった。

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094 2011/11/17(木) 15:45:31 ID:aYeOx//4a.
304 :本当にあった怖い名無し:2011/08/13(土) 12:04:43.27 ID:XZBk9m760
あとから教授と一緒に祭りに参加してた男の人に、
あの祭りのときは、男性が女性をむりやり犯してもいい日なんだと聞いた。
だから、女の子には外に出るなと言われていたみたい。
小学生の女の子は地元の子だったけど、
そういえばその子たちのお母さんたちは、深刻な顔でうちの教授に頭を下げていたの思い出した。

怖いのが、その祭りの日に身ごもった子供は、
名前も付けられずに戸籍も作られずに、島の半分のあるところで育てられて、一生差別されて生きるとか。
狭い島で、上も下もなく人がみんな50歩100歩の村で生きていくことは人間にはできないから、
そうやって差別される人間を作ることで、精神の安定を図っていたと聞いた。
今はそういう子供たちはいないらいしいけど、ほんの50年前まではいたとか。人間て怖いな〜と思った。

この話、書いていいのかどうか迷ったけど、もっと詳しい人いないかな?と思ったので投下してみる。
20年ずっと心にひっかかってたんだ。
ちなみに、教授の手伝いしてたのは男の子だけで、その彼女たちが付いてきてただけなので、
女性陣は何にも知らなかったんだ〜。

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095 2011/11/17(木) 15:52:38 ID:aYeOx//4a.
     瀬戸内海のとある島の風習


52:天之御名無主 [] :02/02/08 06:17

15年ぐらい前にNHKで見たレポートで、瀬戸内海のとある島ではいまだにある風習が
続いていて、それはその島の子供が16歳になると、絶対にセックスをしなくては
ならないものでした。
ルールはこう。
その祭りは一定期間内に行われるもので、祭りになると男・女それぞれ3〜4人
同士でとある家に集まり、3日ぐらい共同生活を続けます。
そこで気の合う同士で事を行うのですが、選択権があるのは男子だけで、指名を
受けた女子には拒否権がありません。
可愛い1番人気の子には、当然、バッティングもあり得るのですが、そうなると
親同士の話し合いで、決着を付けなければなりません。
引き下がった男子は、他の女子を指名しなくてはなりません。
例え相手が凄いブサイクでもセックスしなくては一家の恥なのですから。
すなわち、何が何でもペアにならなくてはならないのです。
セックスする順番にもルールがあったはずなのですが、忘れてしまいました。
ペアになると両家の親同士があつまり、隣の部屋でセックスする自分たちの
子供の様子を伺うそうです。
親たちは伺いながら興奮するどころか、上手く仲良くなれるかが心配で仕方ない
とかなんとか言ってたことを覚えています。
勿論、TVではセックスの場面などは映すわけが無く、家に集まった子供たちが
ダベリあってる場面とか、親たちの顔を写してるだけでしたが、この放送を
見た当時はまじでショックでした。
どうしてこの島に生まれなかったのだろうかと。

だれかこの話に心当たりがある人、見てないかな?

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096 2011/11/17(木) 19:52:02 ID:O3BGN4RY.k
硫黄島が未だに、民間開放されてないのはなぜか。
社会常識としては、硫黄島が軍事上の重要拠点になってるから。
真相は単純。その原理は、旅館の開かずの間と同じだ。出るんだよ。
夥しい数の英霊が。それも、日米混合で。
硫黄島がベトナム戦争並みの激戦区だったのは、
戦後に左翼とかが頑張ったせいかあまり知られていない。
新しくて『密度』がハンパじゃない古戦場。しかも、出るのが英霊。
オカルトだけでなく、政治や軍人遺家族等が織り成す人間的要素が加味される。
それも、日米はもちろん東アジアからも詣でられる。
こういう離島は、硫黄島ほどじゃないけどアラスカ州のアリューシャン列島にもある。
こちらの方は、島の面積も広いし要所要所を米国側がきちんとしてて民間人も住んでる。
硫黄島の海みたいに、大きな戦艦の幽霊船みたいなのが出現したりしないしな。
もし、ゴム筏か何かであの艦船に近づいていったら今頃どうしてるところだったのかな。
だから、硫黄島から基地が移転することは無い。
何十年経っても、たとえ防衛省が民営化される日が来ようと
海運系の華僑や日本の漁師ですら移住できるかは微妙。

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097 2011/11/20(日) 17:11:37 ID:Mcv4TuydPo

1. 利島
[海難法師(かんなんぼうし)]
利島の1月24日は海難法師の日とされ、海には海難法師の船が走っていて、
それを見ると死んでしまうという言い伝えがある。
昔、その海難法師の日、水を汲むために、じいさまや母親の止めるのもきかず、
湧き水の出る浜川まで出かけてしまった息子がいた。その夜の村は明かりがみんな消され、
あたりは真っ暗であった。
息子は桶いっぱいに水を汲むと、家に帰ろうかと思い振り返ったとき、
思わず海を見てしまったのである。「あっ、海にかいなん・・・・・」

無我夢中で家に帰ろうとするのだが、足を早めたくてもガタガタからだが震えてちっとも思うように歩けない。
やっとの思いで家の前まで来て、大戸を開けてツボオ(土間)へ飛び込み、
「かかあ、たらいのような船が、赤や青の帆を立てて、カケンマ沖を走っていったっけ」というと、
ドサッと倒れて死んでしまったという。

2. 新島
[海難法師]
江戸時代、伊豆諸島は韮山代官所の管轄下にあった。
あるとき、代官が島を巡る途中、大島から新島に渡る船が転覆して溺死した。
その後この日に島で人が死ぬなど凶事が続いた。
それ以後、1月24日の夜更けになると海難法師が通り、もし出会えば凶事が起こるとされている。
この夜は大声を慎み早寝をする。

3. 式根島
[海難法師]
昔、島の人々を苦しめた代官様を海に沈め、その霊が1月24日になると海から現れるといわれ、
その日は戸口にトベラの木をさし、夜はトイレに行かないようにお餅を食べて早く寝る習慣がある。

4. 神津島
[海難法師]
新島、式根島同様に神津島でも海難法師の言い伝えがあり、この習わしを無視して一晩中騒いだ若者3人は、
その後皆、不審な死に方をしたという。

5. 御蔵島
[忌の日の明神]
鉄の下駄を履き、赤い衣をまとった恐ろしい形相の神様が、1月20日に御前に上陸して歩き回り、
24日の夜になると村にやってくるため、この日は決して家の外には出てはならないとされている。
1月24日の夜は今でも島中がひっそりと静まりかえっている。

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098 2011/11/20(日) 22:48:04 ID:x8kDUCVMJM
>>97
神津では二十五日様が一般的だな
ひーみー様(御蔵の忌の日と同じ)とも呼ぶ
旧暦の1月25日で行うので毎年違う日になる

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099 2011/11/21(月) 18:08:09 ID:Ip2wO8um/2
[ニコニコ動画で再生]
いわくつきの村とは微妙にスレチだけど。
秘境・比婆神社の参道に車で突入〜
なかなか惹きこまれるものがあるね。

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100 2011/11/23(水) 14:11:14 ID:gzb.8gpEPE
     砂鬼(サンドーラ)

五島列島の五島市玉之浦町では、無形民俗文化財に指定されている『大宝の砂打ち』が大変興味深い奇祭で知られている。

http://yokai.at.webry.info/200810/article_29.html
http://c1000.jp/news/genki/2011/11/08/%E3%82%B5%E3%83%B3%E3%83%89%E3%83%BC%E3%83%A9%E3%81%A0%EF%BC%81%E9%80%83%E3%81%92%E3%82%8D%EF%BC%81%E3%80%80%E4%BA%94%E5%B3%B6%E3%81%A7%E5%A5%87%E7%A5%AD%E3%80%8C%E5%A4%A7%E5%AE%9D%E3%81%AE%E7%A0%82/

ちなみに今晩19:00よりテレビ朝日『ナニコレ珍百景2時間スペシャル』で砂鬼が取り上げられる模様。
興味ある方は要チェック!

返信する

101 2011/11/25(金) 07:41:47 ID:Bu3bipZvW6
だからガチでやるなとあれほど・・

だからガチでやるなとあれほど・・

だからガチでやるなとあれほど・・

だからガチでやるなとあれほど・・

だからガチでやるなとあれほど・・だからガチでやるなとあれほど・・

だからガチでやるなとあれほど・・

だからガチでやるなとあれほど・・

だからガチでやるなとあれほど・・

だからガチでやるなとあれほど・・だからガチでやるなとあれほど・・

だからガチでやるなとあれほど・・

だからガチでやるなとあれほど・・

だからガチでやるなとあれほど・・

だからガチでやるなとあれほど・・

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102 2011/12/06(火) 22:07:09 ID:SZ/Jbpm8eE
Sirenのモデルになった廃村。

http://heyaneko.web.fc2.com/dj10.html

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103 2011/12/06(火) 23:29:28 ID:cI.VlCUWTM
諸星大二郎の短編集『ぼくとフリオと校庭で』(双葉文庫)に収録された
『黒石島殺人事件』の舞台『黒石島』のモデルは、おそらく悪石島。

ちなみにモロ☆はずっと昔からボゼを知っている。

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104 2011/12/07(水) 09:18:49 ID:NiIasRZhhU
有名な三重県は志摩市の売春島、渡鹿野島(わたかのじま)
なんと会社の慰安旅行で利用されていることも……

伊勢志摩渡鹿野島上陸記
http://japandeep.info/2009/08/28/142306.html

伊勢名物「売春島」秘史
http://www.tanken.com/watakano.html

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105 2011/12/29(木) 21:31:20 ID:xWmAkeqoL2
[YouTubeで再生]
>>1の画像は与那国島の立神岩ですね。

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106 2011/12/29(木) 21:38:33 ID:xWmAkeqoL2
日本から最も遠い大事な島〜沖ノ鳥島〜

日本最南端の島『沖ノ鳥島』は、合わせてわずか9・44平方メートルの二つの小さな岩石から成り立っており、
満潮時は岩の大部分が水没してしまう。
沖ノ鳥島は日本の経済水域を確保するためにも、重要な存在であり、
もし島がなければ、日本の国土(水域)が失われ、その経済的損失は計り知れないという。

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107 2011/12/30(金) 23:30:05 ID:/ZS3X7FNGM
[YouTubeで再生]
大久野島:地図から消された毒ガス製造の島

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108 2011/12/31(土) 08:32:04 ID:YjfF.NYMzo
109 2011/12/31(土) 20:20:11 ID:ykiWlFM31U
島とは閉鎖空間。
そこに住む人々は自然の猛威にさらされ、生命が脅かされると、
いつしか神にすがるという。

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110 2012/01/04(水) 21:26:42 ID:rEl69IpWHc
     奄美大島の為朝渡来伝記

源為朝は保元の乱で崇徳上皇方について敗れ、伊豆の大島に流された。
ここまでは本当の事である。その後、為朝が奄美大島に渡ることから伝説が始まる。
「中山世鑑」によると、途中、豪風雨にあい、船員に「運は天にまかせろ、
何も心配することはない」と、励まされ航海を続けた。
こうして着いた所が、今帰仁の港であった。運を天にまかせて、流れついた所なのでその後、
そこを『運天港』と名づけた。
為朝が運天港に上陸すると、琉球の人々は、そのいさましさにおされて、次々と服従した。

しばらくは運天港にいたが、その後、南へ移動して琉球南部の領主、大里按司の妹と結婚した。
そして二人の間に男の子が生まれた。為朝はその子を“尊敦”と名づけた。

やがて、勇敢な為朝も本土へ帰りたくなった。そして妻子を連れて本土へ帰ろうとしたが、
豪雨になって航海が続けられなくなった。為朝は日を変えて再び帰ろうとしたが、
同じように嵐になった。
船頭が為朝に言った。「女を船に乗せると龍宮の神様がおとがめになると言います。
この船が嵐にあうのは、そのためだめと思います」
為朝は仕方なく、妻子を港に残して一人寂しく本土へ帰った。

成長するにつれて、尊敦は器量など普通の人とは違い、並はずれた人格を見せはじめて、
15歳の時には、浦添按司となった。
そして、22歳の時、利勇という者が天孫氏を滅ぼし、王位にのぼると、
尊敦は義兵で利勇を滅ぼした。その後、周りの按司は尊敦に王になってくれと頼んだが、
尊敦はそれを辞退した。しかし三度目で尊敦もついに心を決め、王になって、
舜天と号した。以来、舜天王統は三代73年間、王として君臨しつづけた。

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111 2012/01/05(木) 19:59:57 ID:JaiWhQwhzc
>>107
接地工事の現地調査でいったことがある。うさぎがバカみたいに沢山いたよ。
不気味な雰囲気は感じ取ったけど、まさか毒ガス島だったとはな…。

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112 2012/01/31(火) 19:44:04 ID:Y4R4PBz32k
[YouTubeで再生]
     種子島の仮面神トシドンはまるで子供の心を見透かしたよう

トシドンとは12月31日の大晦日に行われる、種子島西之表市鞍勇と野木平地域に伝承されている情操教育をかねた郷土芸能だ。

事前に巡回する家庭の子供たちの名前や、叱って欲しい内容などを打ち合わせしているため、
玄関に現れた仮面神トシドンに相対した子供たちは、まるで心を見透かされたかのような気持ちになり、
厳粛な面持ちで言いなりになる。とても微笑ましい光景だ。
これもボゼと同様、ナマハゲと酷似しているのが興味深い。
http://www.furusato-tanegashima.net/ky-geinou/kg-kurazami-tosidon.html

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113 2012/02/07(火) 21:09:48 ID:FDs3k5QzBY
     対馬島のオソロシドコロ

長崎県対馬市に『オソロシドコロ』と呼ばれる聖地がある。
天道法師の墓所が八丁角というところにあり、容易に一般人が足を踏み入れてはならない。
『オソロシドコロ』は『恐ろし所』とも記される。
これは単に地名ではなく、人々から畏怖される恐ろしい場所ということで『おそろしい所』らしい。

長崎県対馬市には多久頭魂(たくづま)と名の付く神社が2つある。
厳原町豆酘(いづはらまちつつ)に多久頭魂神社、上県町佐護(かみあがたまちさご)に天神多久頭魂神社がある。
この辺りは天道信仰があるそうだ。天道は太陽(お天道様)のこと。

おそろし所、八丁角、多久頭魂神社などについては以下のサイトを参照されたし。
http://homepage3.nifty.com/yahoyorodu/tsushima.htm
http://homepage3.nifty.com/yahoyorodu/tsushima.html
http://www.genbu.net/data/tusima/takududama_title.htm
http://www.genbu.net/data/tusima/tenjintakudu_title.htm
http://www.genbu.net/zatu/zatu003.htm
http://tsushima-net.org/blog/?eid=132

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114 2012/02/09(木) 12:47:50 ID:TOBdY8uuQU
     立神とは

日本には『立神』(たちがみ・たてがみ・たてがん)という名のつく地名、岩礁が驚くほど多い。
とくに岩礁に多く見られる『立神』の場合、そそり立つ威容を神の姿に見立て、古くから信仰の対象としてきた。

なかでも鹿児島県の奄美諸島、トカラ列島、薩摩半島、大隅諸島の島々では、今もなおその習慣が根付いており、
島民はその岩礁を神聖なる場所と崇めてきた。

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115 2012/02/10(金) 12:15:29 ID:Vu2gPhArwg
削除(by投稿者)

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116 2012/02/10(金) 12:17:23 ID:Vu2gPhArwg
033 三遊亭明和 (2012/02/09(木) 23:15:00)

豊年祭はすでに島民以外の一般人も体験できるようになってきてて、
言い伝えのようなすさまじい密教ではなくなってるよ。
とはいえ祭り当日はもちろん普段も島内はあちこち規制で入れない場所が多いが。
問題なのはその祭りを観光化しようとしてる人と反対してる人との争い。
どちらも新城島の関係者だって話。
上陸すぐにある元小学校だったという空き地(公衆トイレや更衣室がある)も、
トラブルになったあげく立入禁止になってる。
もっとも4年ほど前の話だから今は違うことになっているのかもね。

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117 2012/02/10(金) 18:36:16 ID:7/1gl5Yu66
035 三遊亭明和 (2012/02/09(木) 23:25:36)

←2009年に行ったときの学校跡地

具体的な言葉で書くのは良くないと思うので、かなりあいまいな書き方ですまん。
実際、島内で当事者から直接聞いた話なので本当かと。

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118 2012/02/10(金) 23:07:33 ID:x3mc3vov4k
親知らず 子はこの浦の浪枕 越路の磯の泡と消えゆく

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119 2012/02/12(日) 11:19:26 ID:iT5RMh/kwk
10 :本当にあった怖い名無し[]:2008/04/09(水) 12:37:02

ガチで沖縄出身のボクですよ。
大学で民族学を専攻していたんで卒論のテーマとして研究した事があります。
あの辺の島は確かに独特の土着信仰があったり奇祭や妙な儀式が存在します。
ルーツを辿ると台湾からの流れを組んでいる儒教がベースなのですが
いつの頃からか仏教や密教などが混ざり合い
唯一無二のスタイルが出来上がった訳です。
儀式には幻覚作用のある薬物を(ガンジャやある植物の根を絞り発酵させた酒など)用い人為的にトランス状態を作り出し
神を体に宿し恍惚を感じると言うのが儀式のやり方です。
祭の様子を撮影して暴行を受けたと言う話がありますが
それも現在日本の法律で規制されている上記の幻覚剤の使用や
閉鎖された島特有の近親結婚を繰り返した末のタブーなどが記録され広まる事を嫌ってだと思われます。
しかし、1番の原因は話題に上がっている島の多くは売春が島の収入源となっている様な事も多く
最近では、本土から借金を抱えて出稼ぎに来ている女性も少なくありません。
そんな事から島の住民はカメラ、マスコミ等に過剰な反応を示すのです。
僕も卒論の取材中に何度か危ない目に合いました。

後、これは確認できなかったので僕の憶測ですが
「神の〜」等が書かれた看板が立ち立入禁止になっている場所は
埋葬場だと予測しています。鳥葬の風習が残っている地域も有る様ですし
他にも・・・血が濃すぎるためのタブー
タブーを神の使いとする地域も有り、神への捧げ物とされると言う話も有ったり。
集落でトラブルを起こし何だかの原因で始末された人間を隠したり
まぁ・・・ここら辺はあくまで憶測とか聞いた話ですので確認は出来ていません・・・。

かなり長くなりました
興味が有る方も多く調べてみたいと思う方も居るかも知れません。
でも正直、これ以上は掘り下げないのが良いかな?と思います。
僕等から見て異様な光景でも彼等には受け継がれた文化ですから
見ない振りして知らない振りしておくのが一番です。
そうすれば島の住民は友達で居てくれます。
純朴で優しい人達ですよ。

秘祭の背景
http://homepage2.nifty.com/ameotoko/note004.htm

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120 2012/02/12(日) 11:21:35 ID:iT5RMh/kwk
12 :本当にあった怖い名無し[sage]:2008/04/09(水) 22:36:33
>>10
さらに詳しい話を聞きたいけどやっぱり島の人にしかわからないことがあるでしょうしね


13 :10[]:2008/04/10(木) 01:50:14
>>12
そうですね、やはり話の核心に迫るのは難しかったです。
僕は運良く地元の人間と言う事もあり、かなり深い所まで行けたと思いますが・・・。
インターネットがこれだけ普及した世の中になっても表沙汰にならない所を考えると
地元の人間にとってどれだけ重要な神事なのかは想像できます。
今、改めて当時のレポートを読み返していますが
以前からどうも解せない所があって又沸々と探究心が湧いてしまっています。
>>1に記載されているクロに関しては結局何も分からず仕舞いですし・・・
確かにクロと呼ばれる集落は存在していたのですが
近隣の住人もクロの話になると固く口を閉ざし怪訝な顔をします。
しかし伝承通りにクロの集落中に高い壁が立てられ異様な雰囲気を醸し出していたのは事実です。

アカマタクロマタの秘祭についても石原慎太郎の小説のイメージが強烈で歪んだイメージが強すぎるのだと思います。
実際は荘厳で美しい祭りでした。
島が抱える悲しい事情による悪いイメージも強いのだと思います。

ゴールデンウイークに帰省した際にでも疑問をもう一度スッキリさせてみたいと思います。

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121 2012/02/12(日) 16:47:03 ID:PHx/sZW6Jw
古宇利島のウンジャミ

古宇利島の祭祀
http://rekibun.jp/21kouritakinuugan.html
古宇利島のウンジャミ(海神祭)に思う
http://janjan.voicejapan.org/area/0809/0809100803/1.php

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122 2012/02/15(水) 22:47:09 ID:yvdcFHsbMw
     女傑サンアイ・イソバ 


16世紀初頭、与那国島は当時女性の人口が多く『女護ヶ島』と呼ばれていた。
しかしながら人頭税に苦しめられた島人はやむを得ず、
間引きするための『久部良割』や『人枡田』という残忍な人口制限が行なわれたのは>>23>>24で知っての通り。
この悪習を止めさせ、平和な島を取り戻させたのが女傑サンアイ・イソバその人だった。

イソバは身の丈180センチ以上もある巨体でありながら、知恵と勇気を兼ねそろえていた。
彼女には4人の男兄弟がおり、自身は島中村で、弟たちは浦野、ヤデク、与那原に、
それぞれ按司(酋長)を務めていたが、他の村にも酋長たちがいて、たがいに牽制しあっていた。

ある日、あの残酷な人枡田のドラが打ち鳴らされた。
島人たちは、ドラや法螺貝の合図とともに、人枡田へ死に物狂いで目指すしかない。
やがて人枡田から人があふれ出て、蛮刀で斬り殺されようとした。
そのときイソバの制止の声がかかった。イソバ兄弟とその部下たちは、
イソバの号令のもと、人枡田を監督している酋長たちに斬ってかかった。

奇襲された酋長たちはもろい。ほとんど反抗されることなく片がついた。
島人たちは何事かと唖然としているところで、イソバは一同に語った。
「みなさん、わたしは島を救うために今日のこの挙兵に出ました。人枡田や久部良割は残忍きわまる悪法です。
今日限りでこの野蛮な行事を廃止し、明るい平和な島にしましょう。わたしとともに、新たな国を築くのです!」

これを聞いて、島人は、はじめてイソバが救世主であることを知ったのだった。
http://www.gainendesign.com/taizan/sakishima/others/others.html

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123 2012/02/19(日) 08:07:35 ID:Uze0IQPAj6
削除(by投稿者)

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124 2012/02/19(日) 18:38:55 ID:u5kzHBj15o
美人しか生まれない『美女村』

なんと、対馬島の厳原町豆酘(いづはらまち・つつ)には美女しか生まれない村があるという。
美人しか生まれない美女村……。俄然ソソられずにはいられないネーミング。美人が嫌いな男子などいるのか?
余談だが、秋田美人で代表される寒い地域では日照時間が短いために、
色が白くキメの細かい肌の人が多いとの科学的根拠もあるみたいだし、
水が綺麗な所に住んでいる人も顔立ちまで美しくなる説がある。
http://faire.vivian.jp/modules/weblog/details.php?blog_id=511

一方、九州や沖縄の女性は、目鼻立ちがはっきりした美人顔が多いという評判がある。
九州女性のそれは本土の人と微妙に違って、東南アジア系の人種を祖先に持つからだともいわれている。
それゆえに彫りの深い顔と、日本人離れしたスタイルをもつ女性が多いのかもしれない。
あくまで個人的意見だが、九州出身の美人芸能人は多いと思う。
確率論的に言えば、美女が生まれる割合は、「普通、不美人、美人」の順で「6対3対1」らしい。
何を以って美醜の基準とするのか境界線が曖昧だが、確率的に美人だらけの村があるとは、にわかに信じがたい。

対馬では実際に『豆酘美人』なる言葉があり、昔から豆酘が美人の産地であったという。
その謂われか、この土地の峠道には『美女塚』が築かれている。
美人ゆえの悲しい運命に泣いた伝説で、民謡にも『おつや』という19歳の美女の悲恋物語『今里こんたん』が存在する。

 かつて、豆酘の天神山の麓に鶴王という美しい娘がいた。年老いた母親を大事にし、村一番の働き手であったので、
 誰というとなく『美しい孝行者の鶴王御前』と呼ぶようになった。
 鶴王御前の評判が、やがて都に伝わり采女として召し出されることになった。老母を残しての旅立ちに心を痛めた鶴王は、
 輿(こし)をこの村境の『トンモト山』の丘にとめ、役人に急に小用がしたいといって、道より少し離れた薮の中に入り、
 舌をかみ切った。
 真っ赤な血に染まり、息も絶え絶えに、「美人に生まれたが故に、こんな悲しい思いをして死なねばならない。
 どうか、いまから豆酘には美人が生まれないように、お願いします」といって息絶えた。
 村人たちは、薄幸な美しい孝行娘鶴王の死を哀れみ、この場所に葬り、その上に平石を立て墓石とした。

美人はつらい。この事件のあと、村の娘たちは誰もが美貌が目立たたぬよう化粧もせず、手ぬぐいで隠し、
継ぎはぎだらけのみすぼらしい仕事着を身につけるようになったという。

※画像は豆酘の資料館のもの。美人に該当する人はいないじゃん、なんて言うなかれ。

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125 2012/02/19(日) 18:40:57 ID:u5kzHBj15o
     時には知らなくていい伝説もある『美女村』
     
……というか、これでは美女ばかりが生まれてくるという由来とは正反対になってしまうが?

どうもいろんな文献を調査したり、ネットで検索したものの、肝心の「なぜ美女ばかり生まれてくる村なのか」
という謎に焦点を絞っていないものばかりなのがいただけない。

豆酘ではその昔、他から嫁をもらうことも、他の集落に嫁ぐことさえなかったそうだ。
他集落との婚姻が進んだのは戦後もしばらくたってからのことである。
現在の、70〜80代になる老女たちが、かつて豆酘美人といわれた世代だ。

いずれにせよ、わかっていることは1つだけある。女の花の時期はあまりにも短かすぎるのだ。
今となっては美女村は高齢化と過疎が進み、悲しいかな過去の遺物となりつつある。
美しい伝説はむやみにほじくり返すべきではないと、切に思う。

※画像は検索で引っかかった豆酘美人の某さん。
撮影したのは、昭和35、6年ごろらしい。今も健在のようだ。
http://www.pref.nagasaki.jp/bunka/hyakusen/iki_tsushima/060.html
http://hero1945.livedoor.biz/archives/cat_10019833.html

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126 2012/02/20(月) 12:24:21 ID:OwR8sJ8JX.
     青ヶ島のシャーマンは今も存在するのか?    

青ヶ島は、東京の南358.4キロメートルの太平洋上に浮かぶ伊豆諸島の島だ。
もっとも近い八丈島からは南へ71.4キロメートル離れている。
青ヶ島は、世界でも珍しい端正な二重のカルデラの複成火山の島。
外側のカルデラの中央には丸山という内輪山があり、
青ヶ島の最高点はこの丸山を取り囲んでいる外輪山の北西部分に当たる大凸部(おおとんぶ)で
標高423.0メートルである。

青ヶ島村は、れっきとした東京都の村。
伊豆諸島の南部に位置する青ヶ島全域を村域とする。他の伊豆諸島の町村と同じく所属する郡はなく、
「東京都青ヶ島村」が正式な表記だ。
青ヶ島村を所管する都の行政出先機関は東京都総務局八丈支庁である。

日本国内で最も人口の少ない地方自治体であり、人口の約半分が島外出身の村役場職員や
学校教員・建設作業員及びその家族で占められていることから、島民の平均年齢は離島としては若く、
30歳代後半である。

続きは下記URLを参照されたし。
http://www.geocities.jp/gotos_room/_geo_contents_/aogashima.html

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127 2012/02/20(月) 21:26:46 ID:OwR8sJ8JX.

与太半分で聞いてください。

美人の産地と言われる場所は、日本海側に集中しています。
津軽美人、秋田美人、庄内美人、越後美人、越中とばして加賀美人、で、越前と若狭を飛ばして、
京美人で終点になります(飛ばした地域にも○○美人があるかも知れませんが、
飛ばしてしまったのは回答者の無知によるものです。その地域の女性の皆さん、あしからずご了承ください)。

で、これを京都起点で考えると、北前船の航路に沿って美人の産地が分布しているんですね。
ここから考えると、京文化が北前船によって伝播していく過程で、
洗練された女性像が確立していった地域と言ってもいいかも知れません。
女性の美しさは顔立ちだけでなく、化粧や立ち居振る舞いにもありますから。
秋田美人、個人的には北側の内陸、大館とか小坂がおすすめです(←自分が良い思いをしただけじゃないかという疑惑あり)。

なお、美人というと、対馬には美人村という集落があり、そこの女性はみな美人だそうです。
これには、ウツボ舟(捨身行の一種)の伝説と呪いが絡んでいるとか。

ちなみに、雪女については、一番有名なラフカディオ・ハーンの怪談に掲載されている話は、
東京府西多摩郡調布村(現在の東京都青梅市)で採集された話だそうです。
そこに美人がいるかは・・・、やめときましょうね。そのほかに、雪女伝説自体は全国的に分布しています。

投稿日時 - 2009-08-31 00:47:16

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128 2012/02/20(月) 21:28:53 ID:OwR8sJ8JX.
>私は生まれてから山口県に住んでいますが、山口県は美人が生まれない地として有名です(あんまり嬉しくは無いですが)
なんでもむかしむかしの言い伝えのお話が残っているのですが、昔山口県に美人を生贄に差し出す事があったそうで
生贄が増えてはいけないとそれ以来美人を産ませなくなったと言う言い伝えを聞いた事があります。
私の記憶の中のものなので本当の言い伝えはもう少し違うと思いますが大体こんな感じです。
今現在山口に住んでいてあまり美人さんを見かけたことがありません(もちろん例外の方もいらっしゃるとは思いますが)

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129 2012/02/21(火) 20:20:22 ID:Tq4NbLU4Pc
     虫に食い尽くされる島 ホボロ島

東広島市安芸津町沖500メートルにある無人島(というより岩礁)ホボロ島が、小さな虫の大量発生で崩壊され、
消滅の危機に瀕している。
これは日本国内では珍しい地形の生物侵食に該当するという。
島は以前は最高地点で約22mの高さがあったが、現在では干潮時でも6mにすぎず、
100年後には島そのものが消滅してしまう可能性が懸念されている。

島を崩壊させている虫とはいかなるものか。
現地調査によると、体長1センチ程度でダンゴムシ似の『ナナツバコツブムシ』なる虫が大発生していることが
わかった。この虫は頑丈なアゴで島の岩をかじり、直径約1センチ、奥行きが1〜5センチの住処を作っていたのだ。

島の岩は風化でもろく虫食いされやすく、さらに波に浸食されて急速に崩壊の一途を辿っているようだ。
恐るべし、ナナツバコツブムシ。
http://www.kagakunavi.jp/topic/show/35
http://umafan.blog72.fc2.com/blog-entry-505.html

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130 2012/02/22(水) 21:34:40 ID:.kPSsdSV0k
[YouTubeで再生]
すごいぞ、ラピュタは本当にあったんだ?

和歌山市加太に属し、紀淡海峡に浮かぶ無人島である『友ヶ島』。瀬戸内海国立公園の一部にも指定されている。
実は、第二次世界大戦までは要塞施設として一般人の立入は禁止され、地形図にすら記載されなかった負の遺産でもある。
ところが戦後、放置された廃墟の数々が、宮崎アニメの代表作『天空の城ラピュタ』の舞台、
ラピュタに瓜二つであることがひそかに人気になっており、実写版ラピュタ見たさに観光客が訪れている。
http://matome.naver.jp/odai/2132306162002172901

※動画は、音楽が途中でブツ切りなのがイタイ。しかも魔女の宅急便も入ってるし。

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131 2012/02/23(木) 20:49:11 ID:Mh4HTBSLpo
>>60
久高島の『イザイホー』が絶えそうになったり、
風葬がなくなったのは、まさか岡本太郎が戦犯の1人だったとはなあ…
http://ep.blog12.fc2.com/blog-entry-853.html

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132 2012/02/26(日) 13:38:08 ID:qeiy1yCzko
軍艦島のネーミングセンスには脱帽するね。
http://homepage3.nifty.com/tompei1/Gunkanjima.htm

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133 2012/02/28(火) 20:34:22 ID:bIxDVN.3oI
     ヤドカリ葬は実在するのか?

鹿児島の某島の葬儀では、アマンと呼ばれるヤドカリの群れに遺体を
食べさせる奇習があるというが本当なのだろうか? にわかに信じがたい。
現在調査中。

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134 2012/02/29(水) 04:31:14 ID:LdTY9YsKXM
>>122
凄く好き
なんだか漫画か映画みたいだ

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135 2012/02/29(水) 21:19:59 ID:IJi/2SyLgA
>>134
音楽さん、お久しぶり。
ゲーム板の『シューターは滅びず!』のスレ主であり、頻繁に書き込みもやってる者です。
『シルフィード ザ・ロストプラネット』の件で思い出すかも?
基本的にオカルト板が僕のテリトリーですが、たまにそちらでもレスしてます。
当スレを覗いてくれて、ありがとうございます。今後ともご贔屓に。


     潮干珠・潮満珠から生まれた伝説がある島

山口県下関市長府沖、瀬戸内海に対のような無人島がある。
満珠島・干珠島(まんじゅしま・かんじゅしま)といい、神功皇后が住吉大神の化身である龍神から
授けられた2つの玉、潮干珠(しおひるたま)・潮満珠(しおみつるたま)から生まれたとのいわくがある神聖なる島だ。
源平合戦最後の決戦である壇ノ浦の戦いで、源義経率いる源氏が本陣を構えたという。

陸地に近い方(画像左側の島)が干珠であり、沖にある方が満珠と区別されているが、
単に両方の島を称して満珠・干珠と呼ぶことが多いようだ。

返信する

136 2012/03/02(金) 00:38:31 ID:DmpbCogsbE
137 2012/03/03(土) 03:00:04 ID:RMUO0qzt2o
オカルトだけど何か惹かれるものがあれば…
中ノ鳥島
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E3%83%8E%E9%B3%A5%E5%B3%B6
>>135
お久しぶりです、ちょくちょく見てますよw
以前の件はありがとうございました、お陰で隠し要素等フルコンプしてますよw
皆さんが紹介される他のゲームも楽しんでいます
もっとシューターが増えると良いですね、有難うございました<(_ _)> 

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138 2012/03/15(木) 05:02:14 ID:IsF87lPA82
.

←ここ怖いよ

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139 2012/03/22(木) 19:47:35 ID:EBAYyG0qow
さてはこのブログ、>>21の文章を引用したな
http://blogs.yahoo.co.jp/tmtm0918/36453829.html

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140 2012/03/23(金) 21:15:01 ID:gBBNsY9ffQ
【閲覧注意】日本に存在するヤバイ集落、閉ざされた村
http://chaos2ch.com/archives/3309768.html

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141 2012/03/24(土) 08:17:13 ID:BIrGovXQsg
142 2012/03/24(土) 08:33:36 ID:BIrGovXQsg
地図から消えた村
http://blog.livedoor.jp/isam21-village/archives/5468681.html

【幻想諸島航海記】地図から消えた島
http://homepage3.nifty.com/boumurou/island/

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143 2012/03/30(金) 21:22:50 ID:QQ5zOtWOfM
144 2012/04/08(日) 09:45:11 ID:i8pczwg6F.
     藤原純友の隠し財宝が眠る島 

岡山県倉敷市の南端から沖合い1キロ先の海上に浮かぶ三角形の島が釜島だ。
今でこそ訪れる人もまばらな無人島にすぎないが、高度経済成長期には(昭和30年の調べによると)、
人口70人を数えるほどの定住者がいた。
昭和40年前後になると、海水浴客などの来客者が年間1万人にも達した賑やかな島だった。
その後、定住者もいなくなり、海水浴の客足も遠のいた。

釜島からは先史時代の石器(讃岐石の打製石器)や石斧、土器、古墳群などの遺物が多数見つかっており、
古の時代から人の出入りがあったことが偲ばれる。
また、藤原純友http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E7%B4%94%E5%8F%8Bが瀬戸内海で起こした
天慶の乱(940)の際には、島に出城が築かれ、追捕軍との戦で多くの兵が流血、周囲の海は赤く染まったと語られている。
それゆえに釜島には、「純友の隠し財宝が眠る」という噂がつきまとっていることで有名。

島名は、古くから行われていた製塩に由来する。塩を生成するときに海水を煮るための釜から釜島になったらしく、
以前は塩釜島と呼ばれたこともあった。
島の北側にある塩釜神社には、ひそやかな島の歴史を伝えるかのように古い鳥居と小さな祠が佇んでいる。
http://www.pref.okayama.jp/kikaku/chishin/ritou/13kamashima/index.html

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145 2012/04/08(日) 21:01:08 ID:NLsu.X7T9E
某本州の祭りでは駐在所の警官が泥酔して水死とか、いろいろ。

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146 2012/04/08(日) 21:10:49 ID:NLsu.X7T9E
●田代島(宮城県)
「ひょっこりひょうたん島」のモデルと言われている。
近年は「ネコの島」として知られる。
猫がとても大事にされており、島内で自然繁殖しており、既に島民よりも個体数が上回っている。
一方、島内では犬は猫の天敵とみなされており、島民で犬を飼っているものはいない。
また、犬を島内に持ち込もうとすると、島内の風習により島民から○○されるらしい。
田代島ではかつて養蚕が行われていたため、カイコの天敵であるネズミを駆除してくれる猫が飼われており、島民から大事にされていた。

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147 2012/04/09(月) 21:28:18 ID:VsFO919AxA
御蔵島伝説
http://www5b.biglobe.ne.jp/~mabuta/progra-m/legend-2.htm

「今日は神様が海を渡るから、絶対に海を見るなよ。もし見ちまったら、目がつぶれるぞ」
http://ameblo.jp/oooloveooo/entry-10795403960.html

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148 2012/04/14(土) 10:36:07 ID:aYYT4c3qM2
     レオタード姿の海女さんがまぶしすぎる?壱岐島

壱岐島(いきのしま)は、九州と対馬の中間にある島だ。
周囲には21の属島(有人島4・無人島17)が存在し、総称を壱岐諸島という。
官公庁の定義によると、「壱岐島」と呼ぶ場合、周囲の属島は含めない。
美しく豊かな景色が自慢の全域が、壱岐対馬国定公園に指定されている。

不思議なことに、南北17km・東西14kmの小さな島内には標高の高い山がないにもかかわらず、
火山がなんと100を数えるほど存在し、世界各地の研究者たちが3年の月日をかけて調査したものの、
結局、なぜ島に火山が密集しているか解明できず、断念させた逸話をもつそうだ。

壱岐島の産業は、その他の離島の例に漏れず、農業・漁業などの第一次産業が主である。
なかでも島の東部、八幡地区では、海女さんたちが太古の海人族からの引き継がれている素潜り漁を続けている。
驚くなかれ、彼女らはウェットスーツに身を包んでいるのではなく、レオタード姿で海に潜っているのだ。
島ではウェットスーツの着用を禁止しており、これを地元では『レオタード漁』と呼んでいる。
もっともレオタードとは聞こえはいいが、素肌の一番下にシャツ、次に長袖のヒートテック、
さらにシャツを重ね着し、その上に水着とレオタードと5枚着込むため、実際は着膨れして不恰好。

八幡の海女の漁は5月1日から9月末まで。とくに5月上旬は春をすぎた時期に潜るとはいっても、
海水は氷水のように凍てついているため、着込まないと仕事ができないという理由がある。
それよりも身体に負荷をつけさせ、乱獲を防いでいるんだとか。
http://www.chie-project.jp/001/no15.html

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149 2012/04/14(土) 16:18:02 ID:LUTt7FRvOQ
怖い話まとめブログ『長崎のとある島』
http://khmb.blog92.fc2.com/blog-entry-3941.html

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150 2012/04/14(土) 20:50:56 ID:5D2QtV5cP6
難破した遣唐使の高貴な人物の遺体が安置されていた鍾乳洞がある『沖永良部島』
http://4travel.jp/traveler/maikyukyu/album/10188052/
http://www.tabizanmai.net/rohman/2008amami/0907/index.html

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151 2012/04/15(日) 20:52:08 ID:hzMKApZ49A
散骨、船で火葬、無人島で土に返る…葬送に新しい波
http://www.zakzak.co.jp/top/200810/t2008103130_all.html

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152 2012/05/17(木) 07:35:43 ID:sfCmVuA8FA
壁紙にドゾ

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153 2012/05/20(日) 10:53:18 ID:xm9C8h3Hcg
伊勢志摩渡鹿野島 シーサイドホテルつたやのサイト
http://ssh-tutaya.com/oiroke_f.html

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154 2012/05/20(日) 13:57:13 ID:xm9C8h3Hcg
155 2012/05/20(日) 22:17:24 ID:TyoLwT6Z..
      瀬戸内海の島々こそ怖い島のアンダーグラウンド

岡山県東部に位置する島々を日生諸島と呼ぶ。
備前市日生町を中心に、瀬戸内市邑久町、兵庫県赤穂市にまたがる有人島、無人島14もの島から構成されている。

なかでもオカルト板的に食指が動くのは『首切島』であろう。
かつて島には重罪犯の処刑場があった。
地元の人は決して近寄らない場所なのだそうだ。

首切島
http://www.ceres.dti.ne.jp/~genta/3.htm

流人島から流犬島へ(鹿久居島も含む)
http://t-fujita.typepad.jp/sein/2010/09/%E6%B5%81%E4%BA%BA%E5%B3%B6%E3%81%8B%E3%82%89%E6%B5%81%E7%8A%AC%E5%B3%B6%E3%81%B8.html

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156 2012/05/20(日) 22:19:19 ID:TyoLwT6Z..
……いかん、画像を貼り忘れた。

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157 2012/05/21(月) 18:57:40 ID:zRVeVdl.Lg
[YouTubeで再生]
香川県高松市庵治町大島
国立療養所大島青松園

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158 2012/05/26(土) 08:22:41 ID:FHRIDPggTU
長崎県の平戸の先にある生月島には、今も隠れキリシタンがいる。
明治になって禁教令が解かれたとき、他の地域と同じように宣教師が来て
カトリックへの同化が試みられたのだが、
300年の歴史の中で土着宗教のような独自の変化が起こっており
教義への信仰がなくなっていたため、うまくいかなかったそうだ。

今はもちろん隠れ住んでいるわけではない。
しかし、儀式などをひっそり行うこと自体が伝統になっており
信者本人にはそんなつもりはないのかもしれんが、
秘密めいたイメージがあるのも事実。
過疎化によって後継者が減り、今では廃れつつあるらしい。
http://yattemiyou.net/archive/kakure.html

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159 2012/05/27(日) 09:15:30 ID:TM9rkQQdxk
     管理職研修、由利島(ゆりじま)での受難

由利島は愛媛県松山港の沖合に位置する、面積0.45k?の小さな無人島だ。
島には恐ろしげな伝説が残されている。

昔々のこと、瀬戸内海を行き来する舟は、潮待ちのために由利島の南端に舟を停泊させていた。
そんなとき舟に向かって、どこからともなく美しい女の声で「お舟に申すぅ……」と、聞こえてくるのだという。
船乗りたちは「化けもんの声じゃ!」と恐れ、錨をあげて島を離れること、しばしばであった。
こんな噂が広まり、船頭たちの間では、「由利島にだけは舟を止めるな。あそこには化けもんがおる」と不文律が
生まれたほどであった。

ある日、そんな怪談話を知らぬ一艘の舟が、急な潮に流され、由利島で待ちぼうけを食らうことになった。
しかたなく船乗りたちは眠りにつくことに。
深夜、山の中腹あたりから、「お舟に申すぅ」「お舟に申すぅ」と件の女の声がしたと思ったら、舟に近づいてくる気配がする。
ただならぬ声に目を覚ました船乗りたちは、舟から島を見ると、この世のものとは思えぬ絶世の美女が「お舟に申すぅ」「お舟に申すぅ」と、
言いながら走ってくるではないか。

逃げようにも錨をあげる暇すらない。あっという間に女は舟に飛び移った。途端、舟がグラリと揺れるほどの大音響が響いた。
船乗りたちは我が目を疑った。女が乗ったあたりを見れば、その姿は消え、かわりにまばゆい光が船上を染めているのだ。
なんと、そこには金銀銅の銭が山積みになっていたのだった。
「これは、どげんしたちゅうこっちゃ」と、船乗りたちは口々に言った。
しばらくして船頭が結論を出した。「あの女、わしらの舟が大阪に行くのを知っており、大阪につれて行ってもらいたいもんで、
『お舟にもうすぅ』と、言うたんじゃなかろうか。とすれば、みなの衆、舟を沈まさぬよう、大阪まで旅しょうや」
「なるほど、この銭、大阪までの舟賃というわけか」

夜明けになると同時に出航した。なんとか無事に大阪に着いた。
「はて、このぎょうさんの銭で何をしよう」と船乗りたちは、話し合った。
「そうじゃ、わしら船乗りじゃけん、舟具屋を始めたら、いい品が置けるかも」ということで、舟具屋を開店することに。
屋号も由利島の銭で建てた店だから『由利屋』と名付け、店は繁盛したという。


ちなみにチキンラーメンで有名な日清食品では、管理職の研修をこの島で行っている。
下記URLはその模様。

無人島でサバイバル体験!
http://www.tanken.com/yurijima.html
日清、若手管理職にチキンラーメン持たせて「無人島」に放り込む研修再開
http://nakasoku.blog18.fc2.com/blog-entry-1024.html

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160 2012/06/02(土) 09:25:23 ID:vbRJjZmjbY
     猿島の日蓮伝説

1253(建長5)年4月、日蓮上人は上総から鎌倉へ向けて船出した。
しかしながら春の海は潮の流れが速く、船足も捗らない。
そのうち南西の風が強まり、時化に遭ってしまう。
もはや船の進路方向さえわからなくなり、そのうえ横殴りの強風と大波に船はもてあそばれ、
船底には穴が開いてしまった。

船底から水があふれてくる。このままでは沈没は時間の問題。
上人は舳先に立ち、「南無妙法蓮華経」と題目を唱えた。すると驚くべきことに船底の穴がふさがれ、浸水がおさまった。
奇跡は続いた。いつしか上人の前に不思議な白い猿が現われ、とある無人島を指さしたのだ。
上人はなんとか島に避難し、嵐をやりすごしたのだった。(のちに、この白猿にちなんで『猿島』と呼ぶようになったという)
一息ついた上人は白猿に導かれ、猿島から船を出し、横須賀にある米ケ浜の海岸に上陸しようとしていた……。

一方そのころ、三浦半島の石渡左衛門尉は前の晩、東方から偉人が来るとのお告げを受け、高台から海を眺めていた。
するとどうだ。船に乗った日蓮上人がこちらに向かってくるではないか。
左衛門尉は、あの人に違いないと思い、浜に降りて待つことにした。
ところが船は近づいてくるも、浜は磯になっており上陸することができず、立ち往生していた。
左衛門尉は海に入り、上人を背負って上陸することにした。
なんとか陸まで運んだはいいが、上人が左衛門尉の足裏を見てみると大量出血している。

「足はいかがされた?」案じた上人が聞くと、「どうやらサザエの角で切ってしまったようです」と左衛門尉。
そこで上人がふたたびお題目を唱えると、左衛門尉の出血はピタリと止まった。
さらには以来、周辺で獲れるサザエの角はなくなったという。

嵐に飲みこまれ船底に穴があいたとき、浸水がなぜ止まったのかというと、船底の裏には大きなアワビが貼りついており、
それが栓の役目を果たしたことがわかった。

このあと上人は左衛門尉の世話を受けながら21日間、米が浜の洞窟にこもったあと、鎌倉へ向け去っていった。

日蓮伝説と要塞の島 「猿島」1
http://homepage3.nifty.com/rurounotami/yokosuka_sarushima01.htm
日蓮&要塞
http://www.aonosimasima.sakura.ne.jp/sarusima.htm

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161 2012/06/02(土) 16:59:55 ID:ZDYCjHf1q2
     墓が2つある島々

現代、埋葬する墓とお参りする墓は同じであるのが通常であるが、民俗学者の柳田国男によると、
かつては埋葬する墓と参る墓との別々が存在したのが一般的だったそうだ。
遺体を土葬する場所を『埋め墓』と呼び、石塔を建てて霊を祭る墓を『参り墓』と称した。
これを『両墓制』という。

現代人には奇異に思えるかもしれないが、この両墓制の風習が今もなお残る地方がある。
瀬戸内海の塩飽諸島の島々がそれだ。

起源はいくつか挙げられる。
埋葬と祭儀が区別された古墳時代からの名残である説。
遺体は穢れたものであるから、別の清らかな場所に祭祀の場を設けようとした『穢れ』思想の説など。
たしかに土葬は土壌汚染を免れない。衛生面を考え、埋め墓を高台など人里離れた場所に設け、
参り墓を集落の近くに作ったとすれば合理的だ。わざわざ山の中腹まで墓参りするとなると、老人たちは骨が折れる。

しかし近年、土葬がなくなりつつあるのに加え、過疎、高齢化の影響で埋め墓、参り墓が渾然一体となり、
維持すらままならなくなっているのが現状だ。
このように日本の葬祭文化は多種多様であるが、時代の変遷とともに平易化していくにはあまりにも惜しい。
先祖代々から引き継いできた民俗風習の灯火は絶やしてはいけない。

21世紀へ残したい香川 両墓制(塩飽諸島など)
http://www.shikoku-np.co.jp/feature/nokoshitai/kurashi/4/
瀬戸内海の青い墓/香川県三豊市
http://www41.tok2.com/home/kanihei5/kagawa-awasima.html

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162 2012/06/04(月) 13:08:15 ID:nrGS5cKK1.
>>119
コピペだけどすごく面白いや。
今年、学生と沖縄に民俗学収集に行くんだけど、
少し掘り下げて調べてみようかな。
確かに沖縄周辺の島々に関しては、あまりフォークロア的な
収集事例が無いんだよね。
沖縄本島には結構あるんだけど。

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163 2012/06/04(月) 14:49:38 ID:OH9oea1B3s
調べてみると、ほぼ釣りの名所w

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164 2012/06/04(月) 22:24:54 ID:8qsAi2eGuk
[YouTubeで再生]
>>162
>今年、学生と沖縄に民俗学収集に行くんだけど

元○○○さんであるCentroDestra氏よ、学生とはなんじゃい?
なんの自営をしてるんだっけ? とどのつまり、貴殿は何者なんだ?

いずれにせよ、民俗学の調査に行くのなら(結構なご身分ですな!)、このスレにて詳細に報告されたし。

沖縄周辺も含め、鹿児島のトカラ列島もまた民俗学ファンにとっては垂涎のネタの宝庫。
レポート、心待ちにしておりますよ。

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165 2012/06/04(月) 22:27:22 ID:8qsAi2eGuk
[YouTubeで再生]
     人間魚雷『回天』の訓練基地があった島 

山口県周南市の沖合10数kmのところに大津島という小島がある。
人口は約400人超で7つの集落で形成されておるものの、その他の離島の例に漏れず、
65歳以上の高齢化率が70%に達しており、少子過疎高齢化の進んだ限界集落だ。

戦時中には、島の周辺で人間魚雷『回天』の発射訓練が行われていたことで知られ、
今も訓練に使用された基地跡が残されている。

太平洋戦争末期、「天を回らし、戦局を逆転させる」という起死回生の悲願をこめて、人間魚雷『回天』は産声をあげた。
回天一型は九十三式酸素魚雷を改装したものである。
酸素魚雷は発射後に航跡が残らないという、終戦まで欧米も開発できなかった日本軍の切り札だった。
回天は大量の爆薬を搭載し、この中央に人間が乗り、隊員みずから操縦して敵艦に体当たりする、いわば水中版特攻隊。
速力30ノットは出たらしいが、航続距離が短いので、潜水艦に搭載されて目標近くまで運搬されなければならない。
しかし米軍の対潜哨戒技術が高かったため、多くの回天が潜水艦ごと発見され撃沈されるという憂き目にあった。

隊員の訓練基地が築かれた大津島には、全国から20歳前後の精鋭たちが集結し、毎日厳しい訓練を繰り返した。
そして祖国を守るため、ここから出撃していき、多くの若き命が散華した。

回天Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%9E%E5%A4%A9

戦跡探訪
http://www17.ocn.ne.jp/~senshi/senseki.htm

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166 2012/06/05(火) 12:05:40 ID:7Mg5J55hVY
>>164
今年、漸く地方大学に席を見つけたシガナイ貧乏准教であります。
調査は秋ごろですなぁ・・・

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167 2012/06/07(木) 01:58:32 ID:5l69HLBJhQ
雄島行ってきました。

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168 2012/06/09(土) 10:34:47 ID:YdGSofycFQ
>>166
准教とな……いつぞやの諸星大二郎のスレで、カーゴカルトがどうの、
文化人類学的言語『ブリコラーシュ』がなんたら、建築様式とか造詣が深そうに思えたけど、
案の定、そっちを専攻してるんで?
有体に申しまして、僕にはさっぱりチンプンカンプンの世界ですね……

まあなんにせよ、お仕事頑張ってください。それと調査の報告、よろしく。

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169 2012/06/09(土) 10:38:26 ID:YdGSofycFQ
>>167
こないだとりあえず板で、旅行先どこへ行くかスレ立てして決めたんだっけ?
ご存知かとは思いますが、その雄島を紹介しましょう。夏も近づいてきたことだし、オカルト板らしく。


     雄島の幽霊話は捏造されたもの?

雄島(おしま)はの福井県の越前海岸にある、東西40m、南北200mほどの島でありながら
地元の人々から『神の島』と呼ばれたり、または『瑞巌寺の奥の院』とも称される島だ。

本土から島へは渡月橋で結ばれており、橋全体が神社と同様、朱塗りなのだ。
これは神の島への入り口であり、この世とあの世を結ぶ結界を意味する。
事実、渡ってすぐ島の守り神である大湊神社の鳥居が出迎えてくれる。
島内に点在する岩窟には、諸国から渡った修行僧が刻んだ卒塔婆や仏像、法名などが数多く見られ、
霊場としての風景を今にとどめている。

昼間の雄島の顔は神聖な聖域でありながら、日本海に沈む夕日が美しい絶景ポイントとして知られ観光客に人気だが、
夜ともなればそれも一変する。
というのも、近くに自殺の名所で名高い東尋坊があり、身を投げた自殺者の遺体が漂着することが少なくないんだとか。
それにくわえ、夜は心霊スポットとして屈指の知名度を誇ることで有名。
日が暮れてから橋を渡ると、海から無数の白い手が伸びてきて引きずりこまれてしまうというウワサがあるそうな。

他にもこんな恐ろしいことも……
大湊神社の本殿へ参拝するには古い石段をのぼっていくのだが、途中道は左右に分岐する。
右手から反時計回りに進む『順打ち』と、左から時計回りに進む『逆打ち』と呼ばれるルートがあり、
いたずら半分『逆打ち』の巡礼道に足を踏み入れてしまったものなら、霊界に迷いこんでしまい、
二度と元の世界へは戻れなくなるという。

実はこの2つのルートも、右回りが『逆打ち』で、左回りが『順打ち』ではないか、との説があり判然としない。
ところが、肝試しに行った者たちが実際に2つのルートを回るも、そういった報告はほとんど聞かれないのが実情だったりする。
これは、東尋坊から投身自殺した遺体が潮の流れに乗り、雄島に流れ着くことに端を発しているのではあるまいか。

遺体は荒波に揉まれ、磯の岩肌でヤスリがけされたうえ、魚や甲殻類についばまれ、
ふた目と見られる状態ではなくなっているのがめずらしくない。
そんな悲惨な亡骸を見せ物にしたくないがために、地元の人たちの思いがさまざまな伝承を生み出したのかもしれない。

雄島を歩く正しい順路?
http://www.chunichi.co.jp/kenmin-fukui/article/oshiete/list/CK2012052702000183.html
東北心霊地図
http://gost.s35.xrea.com/hukui/read.cgi?DIR=hukui&FILENAME=1125818262

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170 2012/06/09(土) 13:20:43 ID:DOUlf4jTUY
解説どうもありがとうございます^^
実際に行ってみると、おばさんが一人たたずんでいた事意外は不気味ではなかったです。

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171 2012/06/09(土) 23:12:57 ID:YdGSofycFQ
>>170
そのおばさんは、ちゃんと生きた人間だったの?


     平郡島の蛇の池伝説

山口県柳井市の南20kmの伊予灘に浮かぶ細長い島、それが平郡島(へいぐんとう)。
島名の由来は鎌倉時代に木曽義仲の子、平群丸(へぐりまる。『郡』ではなく『群』)が落ち延び、
住み着いたことから冠された。
集落は頑丈な石垣で囲まれた家々が寄り添い、棚田状の段々畑が山の斜面に広がっており、牧歌的な景観が眼を和ませる。

島の西には『蛇の池』と呼ばれる神秘の池がある。
間近に海があるにもかかわらず、池の水には塩分が含まれていないことから神の水として神聖視している。
その逸話がこんな内容だ。

……今を去ること820年もの以前。
平家は度重なる戦いに敗走、四国屋島の一戦にも大敗を喫し、一部の兵船は熊毛郡室津半島に落ち延び、
阿月池の浦の潟(砂丘などで外海と分離してできた湖)になった池に潜んだ。

源氏の軍勢はこれを見つけ、両軍入り乱れての合戦となり、たちまちにして湖は血の色をたたえた。
この騒ぎに驚いたのは、池の主たる大蛇である。
もともと釈迦如来の使者といわれ、長らく平穏生活を送っていたが、
時ならぬ狼藉者によって聖地を血で汚されたのだからたまらない。
心清きものの住むところではないと、住み慣れた池をあとにし、まずは近くの皇座山に登った。
(今でも皇座山の山頂には草木の茂らない場所があり、そこに大蛇が住んでいたと言い伝えられている)

ある日のこと、室津半島から平郡島へ漕ぎ帰ろうとする漁師が、年のころ18、19の美女に呼び止められた。
女はどうしても今夜中に平郡に渡らなければならないのだという。
「なにとぞ渡してくれたまえ。お礼として、そなたが漁に出たとき、ただの一度だけ、
船一杯の獲物を得させてあげましょう」と、頭を下げた。

漁師はそんな話を眉唾に思いつつも、女に従い、平郡へ渡すことにした。
女が指さした島の波打ち際を見ると、驚いたことに今までなかった大池が広がっているではないか。
青く澄んだ美しい池である。
浜に着き、船から降た女は、「私の家はすぐそこです。お礼の漁はこの一帯でしなさい。
そのかわり、二度と網をお入れなさるな」と言い残し、かき消すようにその姿はいなくなった。

次の朝、漁師は半信半疑の思いで網を投じた。
するとどうだろう、船が魚で溢れんばかりの大漁ではないか。
浜へ帰って魚を売り、たらふく儲けた漁師。しかし味を占めてしまい、すっかり女の言葉を忘れ、
予備の船まで用意してふたたび漁に出てしまった。

予期に反して、二度目も獲物で船が満杯になった。
ところが、いざ帰ろうと船を岸に向けて漕ぎ出したところ、一杯だった獲物は、またたく間に蛇と化したのだ。
漁師は生きた心地もなく、船を捨てて海へ飛びこみ、命からがら逃げ帰ったという。

島の伝説
http://www.higeg.jp/heigun/heigun2.html
自然と歴史が育んだ島-柳井市 平郡島
http://www.pref.yamaguchi.lg.jp/cms/a123003/island/heiguntou.html

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172 2012/06/10(日) 01:09:16 ID:W/esge95J.
>>171
おそらく地元の人が散歩に来てたんだと・・・そう思ってます。

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173 2012/06/10(日) 06:21:42 ID:aZQPxaeFFE
     平郡島では幽霊船が目撃されるという……

平郡島の東南端5.5キロの沖合では、まさにオカルト板らしく、
神出鬼没の幽霊船が目撃されることで地元では有名らしい。
潮が凪いだ闇夜、突如として嵐が起こり、白波が荒れ狂ったと思ったら
巨大な黒船のシルエットが浮かび上がるという。
マストに一個の火が灯るや瞬く間に数を増やし、船全体が灯火の塊となり、
闇と激しい波間のさなか、しばらくの間、炎の浮き城となって姿を現すというのだ。

平郡東のみならず、平郡西でも同じような幽霊船が目撃されており、
同じく灯火の塊となった幽霊船が、見ている人に接近してきて、
ついには人々の頭上をかすめ山の彼方に消えていったとか……

明治8年、御用船『大阪丸』が食糧、金銀を満載して航行中、
平郡島の前にある船舶の寄港地、上関(かみのせき)に立ち寄った。
その際に船長をはじめ幹部らが豪遊し、ご用金を湯水のごとく使い果たした事件があった。
その証拠を隠蔽するべく船長らは平郡沖で船を沈没させた。事情を知らぬ水夫たちまで見殺しにし、自分たちだけが助かったのだ。
そのとき、罪もなく沈められた水夫たちの霊が浮かばれず、今もなお怨霊となってさまよっているのではないか、と言われている。

もっとも、『大阪丸』は3本マストで、英国で建造された総トン数440トンの船であったと記録に残されており、
幽霊船との因果関係は明らかにされていない。

この怪異譚は中央大学の民俗研究会ですら調査報告書を提出している。


柳井の昔ばなし 幽霊船
http://www.yanai-museum.jp/modules/ethnic1/photo.php?lid=118
周東総合病院No.207 02月号(なんと病院のホームページ!)の「5.峠の往来(20)」の部分を注視せよ
http://www.hsp-shuto.jp/shinkokyu/201102.html

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174 2012/06/12(火) 21:15:33 ID:./jhkIKsCY
523: キビチー(東日本):2010/10/24(日) 23:55:49.88 ID:e2UXFvEuP

昔小笠原の母親と娘5人の女だけの民宿に泊まったとき、
夕食のとき、どの子が一番かわいい?と聞かれた
角が立たないよう末っ子の中一の子をかわいいと言ったら、
午後十時頃、部屋でごろごろしてるとその子がきた
どうやら島以外の男性と交わるのが習わしらしい


528: プイ(東京都):2010/10/25(月) 00:02:14.64 ID:oaJGq7dP0

>>523
どこだよ!
小笠原のどこなんだよ!!


535: リッキー(東京都):2010/10/25(月) 00:17:51.93 ID:Gk35mlas0

>>523
少なくとも30年、恐らくは50年以上前だろ。
昔は島外の人と交わるのが当たり前だったんだよな。
思うに離島ゆえに血が濃くなることを避ける為の知恵だったかと。

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175 2012/06/20(水) 09:03:29 ID:k3GSrApz5Y
削除(by投稿者)

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176 2012/06/20(水) 09:08:38 ID:k3GSrApz5Y
雄島は出なかったよ。夜中2時頃、東尋坊の写真撮りに行ったついでに左回りしてきたけど
小さな社しかなかったし

写真の一番下は雄島側から撮ったんだけどこの後
ライトつけずに3脚担いで橋戻ってたら向こうから来てたカップルが
悲鳴を上げながら車に乗り込んで逃げていったw

実際は写真よりもっと暗かったし2枚目の橋の奥から黒い影がこっちに
来てたらびびるのは分かるw

いや、もしや夜中2時すぎにぼっちで雄島に来てた寂しい男だから逃げたのか・・・

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177 2012/06/20(水) 18:05:57 ID:mtx40F5b1M
>>176
すごい高画質。
欄干の塗装が怖すぎ。

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178 2012/06/21(木) 14:13:18 ID:mQrzlNDwFc
雄島か。釣り人は平気で夜釣りする。
それも巨大なブリやヒラマサ、マダイが釣れる
スーパーポイントだな。

3年程前のGWに釣り仲間と訪れた際に偶然自殺騒ぎに遭遇。
駐車場に救急車、人集り、「もう死んでる、ダメだ・・・」
聞こえる方を見たら多摩ナンバーの車から若そうな男性が
運び出される所だった。

魚は黒鯛ばっかやたら釣れたなあ。

ついつい写メった

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179 2012/06/23(土) 09:58:28 ID:PXdPRQVgIk
>>178
そういや、こないだ、市役所が認知症のばあちゃんが行方不明になった旨を放送してた。
山間部で暮らすばあちゃんだったのに、はるか30キロ離れた海岸で溺死体となって発見された。
腐敗が進んでいたらしく、DNA鑑定でようやく本人と確認されたって、
捜索隊に参加したおっちゃんが言ってたなあ……


     屹立するやもめ岩

伊豆諸島の最南端にある無人島、孀婦岩(そうふいわ)。東京都八丈支庁が管理事務を行っている。
東京の南約650km、鳥島の南約76kmに位置し、標高99m、東西84m、南北56mの屹立した孤立突岩だ。
こんな形状の岩礁ならめずらしくなさそうに思えるかもしれないが、驚くべきことにまわりは2000m級の深海。
海底から聳え立っており、海上に出ているのは山の頂上なのだ。

孀婦岩は別名『やもめ岩』、英名はlot’s wife(ロトの妻)と呼ばれる。
18世紀の終わりごろ、初めてこの島を発見したイギリス人は一目見るなり、『ロトの妻』と名づけた。

旧約聖書に登場するロト(アブラハムの甥にあたる)は、ヨルダンの低地ソドムに妻と二人の娘とともに住んでいた。
ソドムは作物が豊かに実っていたが、町の住人は労働せず、昼間から酒や性交に溺れる者ばかりで、
法も秩序もないほど腐敗していた。
神はそのありさまを嘆き、ソドムを滅ぼすことを決めた。
二人の天使がロトの家を訪れ、すぐに町から立ち去るよう伝えた。
天使はこう言った。「いいですか。命がけでお逃げなさい。ただし、うしろを振り返ってはいけない。立ち止まってもいけない。
山に逃げなさい。さもないと、あなたたちも滅ぼされてしまうでしょう」

ロトとその家族は夜明け前にソドムを出るが、道中、背後のソドムがある方角から大音響とともに光が迸る。
邪念を抱いたロトの妻は言いつけを守らず、うしろを振り返った。次の瞬間、彼女は塩の柱と化してしまった。
町を滅ぼすものの正体を見てみたい好奇心や、不安、あるいは家に残してきた財産などの物欲から振り向いてしまったとされている。
この戒めは、天災が襲いかかったとき、よけいなことは考えず、取るものもとりあえず必死で逃げよ、とのことだそうだ。


お散歩宮・風の吹く道
http://snowy-owl.tea-nifty.com/crescent/2007/07/post_ca8c.html
孀婦岩(ソウフイワ)
http://blog.projectbee.com/zodiac/taurus/sb.cgi?eid=12
神々の核兵器〜ソドムとゴモラの町に何が起きたのか?〜
http://members3.jcom.home.ne.jp/dandy2/works/works_14_2_a.html

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180 2012/06/24(日) 19:06:35 ID:mqcF86WN3Q
     これぞ自然の神秘、軍艦岩

与那国島のサンニヌ台(断崖が階段状に続く自然景観)のすぐそばには、
さながら軍艦が停泊しているようなフォルムの岩礁が目につく。それが軍艦岩だ。
直線的な軍艦の甲板と管制塔のようなデザインがカッコいい。

観光の際、以前は軍艦岩の間近から見学できたものの、近年は崩落の危険があるため立入禁止になってしまった。
画像は陸側の展望台からのアングルで、最近ではその展望台すらも入れなくなってしまったとのこと。
現在は海側から遠巻きに望むか、東崎の展望台からなんとか見える程度。

風化侵食で創り出された奇岩は数あれど、これほど雄雄しい造形美はなかなかお目にかかれない。

与那国島の観光
http://www.ishigakijimaumibe.com/ritou/yonaguni/sanninu/sanninu.htm

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181 2012/08/12(日) 21:17:54 ID:IAKsOXjGmo
182 2012/08/13(月) 13:00:50 ID:W11uXr.Wgw
瀬戸内海国立公園 仙酔島 歴史と伝説
http://www.sensuijima.jp/senweb/p/re.html

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183 2012/08/15(水) 17:26:35 ID:gEG8Zrex56
[YouTubeで再生]
     姫島の七不思議とは

大分県の国東半島からフェリーで20分ほど行くと、東西7キロメートルの細長い島に到着する。
それが姫島だ。
古事記によると伊邪那岐命(イザナギ)、伊邪那美命(イザナミ)の二神が『国産み』の際、
大八島のあとに続けて産んだとされる6つの島のうち、4番目に産んだ女島であるとされている。
この女島こそ姫島であったという。

また日本書記によれば、垂仁天皇の御代、意富加羅国(おほからのくに・今の韓国南部)の
王子である都怒我阿羅斯等(つぬがあらしと)が、ある日、黄牛に田器を背負わせて田舎に行くと、
知らぬ間に牛がいなくなった。

捜しているうちに老翁が現われ、こう言った。「おまえの捜している牛は郡公が殺して食ってしまった」
阿羅斯等は郡公の館に行って牛の代償を求めると、郡公は白石を与えた。
白石を持ち帰り、寝室に置くと、たちまち美女と変化したではないか。
阿羅斯等はたいそう喜んで求婚するも、美女は忽然と消えてしまった。
阿羅斯等が追い求めると、美女は海を渡って日本国に至り、比売語曽の神となった。
姫島の名前の由来はここからはじまるのだった。

姫島はかくも古代からの伝承が残る島であり、様々な伝承が島内の名所に関連づけて語り継がれてきた。
代表的なものが姫島七不思議であり、七不思議のうちの3つは比売語曽神にちなむものである。

瀬戸内海国立公園 大分県 姫島
http://www.himeshima.jp/kanko/tourist/seven/index.html

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184 2012/08/17(金) 19:28:02 ID:Xp5ucx/d4k:au
>>176
>ライトつけずに3脚担いで橋戻ってたら向こうから来てたカップルが
悲鳴を上げながら車に乗り込んで逃げていったw

新しい伝説作ったな!想像したら↑(大笑)

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185 2012/08/18(土) 09:10:21 ID:zbRLDl4fjw
削除(by投稿者)

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186 2012/08/18(土) 09:13:11 ID:zbRLDl4fjw
毎度ありがとうございます。知らない間に『オカルトちゃんねる』にて当スレが取り上げられたようです。
http://blog.livedoor.jp/occult12/archives/9649236.html
遅筆ですが、今後もボチボチ続けていく所存です。


     悲しき歴史 金光坊島(こんこぶじま)

>>73でも取り上げた補陀落渡海の追記。それにまつわる島があるらしい。

井上靖の小説に、史実を元にした『補陀落渡海記』がある。
時は永禄8年(1565年)。舞台は補陀洛山寺、主人公は住職の金光坊である。
初めて補陀洛渡海をしたのは、平安初期の貞観11年(869年)に渡海した慶竜上人であった。
以来、金光坊の時代までの700年間に渡海したのは10人も満たなかったのだが、
時代変わって金光坊のころ(戦国終期)、渡海が一種のブームになってしまう。
祐信上人が渡海したのは享禄4年(1531年)で金光坊が27歳のときである。
補陀洛山寺にやって来て半年足らずの金光坊は、このとき初めて渡海の実態を知った。
寺の代々住職が渡海するのは61歳を迎えた年の11月。
住職が次々と渡海に消え、ついに56歳となった金光坊が後を継ぐことになった。

金光坊は檀家信者からの人望が厚い人物であった。
自身も時期が来れば、尊敬する師の正慶上人のように立派に渡海へ出て往生したいと願ってやまなかった。
しかしながら出立の時期が近づくにつれ、心中は穏やかではなくなるというのは、
さしもの仏に仕える身であっても悲しき人の性であろう。
先に渡海した上人たちのことを思うと、まだ渡海に向かうにあたって明鏡止水の域に至っていないことに気づかされる。

ふんぎりがつかないまま、ついに渡海する日がやってきた。
金光坊とつき従う僧らが寺を出ると、檀家を含めた見物人が大勢つめかけていた。
船に入るや、屋形がかぶせられ、釘を打って閉じこめられてしまった。 あとは暗闇。
金光坊の渡海船が3、4艘の船に曳航され、宮の浜の沖合にある綱切島まで運ばれる。
そこで一泊して同行者と別れを惜しんだのち、渡海船は大海に向けて押し出されるのだ。

ところが今回は様子がおかしい。綱切島に着くと、「上人さん、さらばですじゃ」と、声をかけられた。
嵐が近いので見送りの船はすぐに戻るという。
しかたなく金光坊は、渡海船の中で一夜をすごした。
身体がゴロゴロと転がり、痛みで目をさますと、どうやら大時化の真っ只中。
いてもたってもいられず、金光坊は闇の中の屋形から逃げようとした。
体当たりで屋形を破ったところで船は転覆。無我夢中で板子にしがみついた。

金光坊は小さな岩礁に打ち上げられているところを救助された。
実は同行の者たちは嵐が強くて戻ることができず、別の島で一夜を明かしていたのだ。
とはいえ、渡海が中断されるわけではない。同行者たちは相談したのち、金光坊を漁師の船に乗せることにした。
金光坊は抵抗したが、付き添いの役人たちは耳を貸さなかった。
急ごしらえの箱がかぶせられ、船底に釘でがっちり固定された。
そして無情にも船は黒潮に乗って流されていった……

金光坊が一度は命拾いした岩礁こそ、のちに『金光坊島』(こんこぶじま)と冠される島である。


「補陀落」信じ海のもくずに
http://www.zb.ztv.ne.jp/sgj8rw3t/cocoro_02.html

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187 2012/08/19(日) 08:25:04 ID:n0SFaAD.Tc
     島野浦に漂着したソレは『うつろ舟』だった?

宮崎県延岡市の沖にある周囲15kmの島野浦(しまのうら)。地元民は親しみをこめて「しまんだ」と呼ぶ。
「いわしの舞う島」と言われるほど漁業が盛んで、リアス式海岸に囲まれ、
沖合にはテーブルサンゴが群生する美しい景観が広がっている。

そんな島野浦にも、風変わりな伝説が残されている。それが「メキシコ女王伝説」だ。
内容はこうだ。

江戸時代の末期、島野浦の漁師がカツオ漁に出かけていた。
その帰港の途中、波間に漂う奇妙な木箱を発見。
漁師たちはためしに拾い上げ、海藻や貝が付着した木箱を手斧で開けてみることにした。
なんと、中には白骨死体が横たわっているではないか。
フサフサの金髪の頭部に、赤や青の宝石をちりばめた黄金の冠が輝いていた。
それだけではない。死体の周りには金銀財宝で埋め尽くされていたのだ。

漁師たちの間では、せめて冠だけでも取り出そうとの意見も出たが、大方は祟りを恐れたため、
小島に埋葬することにした。(そう言いつつも、結局は多少の財宝を拝借したのだが)
そして、この事件はどんなことがあっても他言はしない、二度とこの島に上陸しないと堅く誓った。

そのころメキシコで内乱があったらしく、島民はあの白骨死体をメキシコの女王だと信じていた。
今も、海に流した女王の柩が潮に乗って漂着したのだと言い伝えている。

概要だけで考察してみると、いわゆる『うつろ舟』を想起せずにはいられない。
いずれにせよ、異文化はこのような形で流れこんでくるものだし、
そこから派生した寄り神信仰も然りである。


島野浦(しまんだ)メキシコ女王伝説
http://www.lead2001.co.jp/ritou/story/index.html

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188 2012/08/25(土) 11:07:24 ID:3.KWvLcFsI
     今も石塔が建っている仏島

愛知県蒲郡市、三河大島の南に位置する『仏島』。
なんともいわくありげな匂いがたちこめている。これはチェックせずにはいられないだろう。
案の定、こんな話が残っていた。

昔、三河の沖合に、干潮のときにだけ姿をあらわす岩礁だけの島があった。
この島の周りは潮の流れが速く、暗礁も多いことで知られ、たくさんの船が座礁、
もしくは沈没して多くの船乗りが命を落としていた。
それでこのあたりは『船の墓場』、『死者の海』と呼ばれ、誰ひとりとして近づく者はいなかった。

あるとき、兄弟の船乗りが村の石屋に頼まれて、大きな石塔を知多の村まで運ぶことになった。
この日は天気も潮の流れも良く、絶好の船出日和だった。
ところが、船が沖合にさしかかると、急に潮の流れが変わり、舵が利かなくなってしまう。

2人が乗った船は潮に流され、こともあろうに人々から恐れられている死者の海に来てしまった。
そのとき、積荷である石塔を結んだ綱が突然切れたかと思うと、船が傾いて石塔は海に落ち、
兄弟も海に投げ出されてしまった。

海に落ちた2人が島の方を見ると、なにやら島のてっぺんに人影が見える。
目を凝らして見れば、なんとそれは骸骨のような形相をした、恐ろしい亡者の群れが兄弟を手招きしている姿だったのだ。
これを見た2人は、死にもの狂いで泳ぎ、やっとの思いで浜にたどり着いた。

この恐ろしい出来事に懲りた兄弟は、次の航海では陸寄りの航路を取ることにした。
しかし、いざ出航するも、やはり途中から舵が利かなくなり、またぞろ死者の海へと流されてしまう。
今度ばかりは助からないだろうと、念仏を唱え出す兄弟であったが、恐る恐る島の方を見ると、
島の頂上には海に沈んだはずの石塔が建っているではないか。

これを見た兄弟は、ここで亡くなった船乗りの亡霊が、供養を求めて石塔を島に運んだのだと知った。
ここで亡くなった者たちが哀れに思え、村の衆にこの経緯を話し、石塔に供え物を捧げ、
坊さんにお経をあげてもらい、迷える死者の魂を慰めたのだった。

以来、この島は『仏島』と呼ばれるようになり、また不思議なことに、
あれほどあった暗礁も海中深くに沈み、引き潮のときだけ仏島が姿を見せるようになったという。


三河大島周辺をクルージング
http://suzukimarine.co.jp/marina/mikawamito/blog/2009/08/post_541.html

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189 2012/08/25(土) 19:04:31 ID:B/BzRpOiZU
     プチ庭園 千貫島

伊達正宗公が湾内を遊覧した際に、島の形の良さに大変感激し、
「あの島を余の館に運ぶ物あらば、銭千貫を遣わす」と言ったことから
千貫島と名付けられた。

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190 2012/09/01(土) 15:05:08 ID:TIKzMZMVTk
     テキ穴の人骨の正体は? 飛島

山形県酒田市の北西39kmの日本海に位置する孤島、それが飛島。
飛島は東北の日本海側で唯一の有人島である。面積2.7km、人口280人足らず。

島の歴史は古く、約6000年前の縄文時代のものと推定される遺跡が発見されている。
発掘された土器を分析したところ、東北北部の特徴があるものから、北陸の特徴のものまで、
広範囲の種類が眠っていたことが判明した。
すなわち縄文時代から飛島は、重要な文化の交流地点として機能していたことがわかる。

ところで島では、昭和39年11月に奇妙な事件が発生している。それが『テキ穴騒動』だ。
集落である勝浦と中村の境に位置する、磐の磯近い『ホグラ』に、『テキ穴』なる海蝕でできた洞窟があるのだが、
ある日、飛島中学校の生徒3人がこの穴を探検すべく中に入り、奥にある広い空間で22体分もの人骨を発見したから、
島はたちまち騒然となった。

集団自殺か、はたまた殺人か。
警察が調査するも、人骨は茶色く変色し、風化して海綿状態となっており、
長い年月が経過したものであることがわかり、事件性は薄いということで捜査は打ち切られた。
代わりに学術調査団が編成され、発掘調査がはじまったわけだ。
その結果22体の人骨は、時代や性別、年齢層もバラバラで、一番古いもので、なんと平安時代にまで遡るという。

現在は洞窟と海は道路が敷かれて遮断されているが、かつて洞窟の入口は海に面していたのだ。
流れてきた水死体が波によって洞窟内に入りこみ、そこに堆積していたとも考えられる。
だとすれば、波に流された人骨もあったろうから、22人分の遺骨だけで済まないかもしれない。

じつのところ、ほかにもいろんな仮説があり、どれもが決定打に欠けるのだ。
『テキ穴』は、大昔、島の住人の墓場だったという説、
火を焚いた痕跡もあることから、単なる住居だった説、
海賊が住んでいた説、あるいは人身御供として贄が入れられた説があり、想像が尽きない。

それにしても『テキ穴』の名前の由来はなんであろう。なにか不安をかきたてるネーミングではある。
『北狄』(ほくてき)や『夷狄』(いてき)という、蝦夷と同義の野蛮人を指す『テキ』ではあるまいかという人もいる。


テキ穴を住処とするは、たがために?
http://doune.blog82.fc2.com/blog-entry-495.html
不思議アイランド「飛島」
http://blogs.yahoo.co.jp/mas_k2513/13548810.html/

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191 2012/09/01(土) 18:49:14 ID:TIKzMZMVTk
192 2012/09/02(日) 08:17:54 ID:uvWLFqeXrc
     高額当選者が続出だって? 高島の宝当神社(ほうとうじんじゃ)

なんと、とある神社で参拝すると宝くじの当選確率が高くなるという、
にわかには信じがたい島が佐賀県は唐津市にあるそうな。それが高島である。

高島には島の守り神として、島民に慕われている神社がある。野崎隠岐守綱吉なる戦国時代の武将を祀ったものらしい。
綱吉は1554(天文23)年、信州の諏訪に生を授かった。幼いころより文武両道だった綱吉は戦のたびに手柄を立てた。
ところが、その有能さを家臣に妬まれて居場所を失い、西へと流浪し1573年、この高島に移住を決意。

当時、島民たちはせっかく収穫した農作物などを海賊に略奪される災難にあっていた。
綱吉は一肌脱ぐことを誓った。ある日、例のごとく海賊が島民が収穫したばかりの農作物を奪い、
船に乗りこもうとしているところを、綱吉は疾風のごとく追い船に飛び移るや否や、その怪力無双の力で帆柱を引き抜き、
海賊たちをなぎ倒したのだ。
襲いかかっきた海賊を相手に、綱吉自身も負傷しながらも、たった1人で複数の海賊を蹴散らしてしまった。
かろうじて生き残った海賊の数人は、島民から奪ったものを差し出して降参宣言。これにて一件落着と相成ったわけだ。

その後、海賊仲間に綱吉の武勇伝は伝播し、高島は二度と海賊の標的にされなくなったという。
島の平和を取り戻し、島民の誰もに慕われた綱吉だったが、32歳の若さで病死したとのこと。
とはいえ、そのリスペクトぶりはすごい。現在、高島では、多くの住人が野崎姓を名乗っているほどだから。

その綱吉が祀られている宝当神社だが、ここには毎年サマージャンボや年末ジャンボが売り出される時期になると、
全国からこぞって一攫千金を狙う人々が神頼みにやってくるという。年間だけで約15万人もの来客があるというから、
知る人ぞ知るということなのだう。
参拝後、みごと宝くじが当たったとお礼状が社内に飾ってあるのだが1等、2等の高額当選者はめずらしくないんだとか。

これも綱吉の善行のなせるわざなのだろうか。野崎隠岐守綱吉は死しても英雄なのだ。


宝当神社の歴史
http://jinja.ehoh.net/b.html
宝当神社参拝ガイド
http://houtou.uresii.biz/index.html

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193 2012/09/08(土) 11:37:42 ID:Ip2wO8um/2
     妖怪『素麺婆』は実在した? 直島

瀬戸内海上に浮かぶ直島。
地元では江戸時代初期から、魔物と化したばあさんが住みついていると信じられてきた小川がある。
その言い伝えがこんな内容だ。

あるとき、村人の法要に出向いた僧侶は精進落としのそうめんと酒を振舞われた。
満腹になり、酔いも回った。夕方になったので、帰途に着くことに。
暗い山越えの道の途中、のどの渇きを憶えた僧侶は小川を見つけた。
近づくと、川面にざんばら髪の見るからに怪しい老婆が現れたではないか。

「水を飲んで休んでいかれたらよろし」と、老婆が言った。
僧侶は訝しげに思いつつも小川の前でひざまずき、水を飲み始めた。
老婆はその隙を見逃さなかった。僧侶を川に引きずりこむと殺してしまったのだ。

老婆の蛮行はそれだけにとどまらない。僧侶の腹を裂くと、胃袋から未消化のそうめんをつかみ出し、
川の水でそうめんをすすいでからズルズルと食らったのだ。
それ以来、幾度となくこの小川で人が殺され、腹を裂かれては食べたばかりのそうめんを食べる老婆が目撃された。

……と、概要からすれば荒唐無稽な話だが、ごく近年にまで目撃談があり、
ありきたりな妖怪話で済まされないのが興味深い。

実はこの『そうめん川』の近くに屋敷があり、鶏の屠殺を生業とする老婆(目撃談によると、
40代だったともされている)が、神格化ならぬ『妖怪化』されて作られた妖怪だったらしい。


伝説のそうめんばばあ屋敷跡を新聞社取材班が発見
http://matome.naver.jp/odai/2133089443014393101

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194 2012/09/08(土) 17:14:48 ID:Ip2wO8um/2
     悲しき口減らし 八丈島の『人捨穴』

東京から287km離れた絶海の孤島、八丈島。
かつて日本では罪人に対する刑罰『流罪』があった。言うまでもなく流罪は別名『島流しの刑』であり、
最高刑である死罪に次ぐ重い刑だった。
八丈島が流刑の地として選ばれた理由のひとつに、黒潮の流れが速いことから『島破り』『島抜け』
(島からの脱走)が困難だったためとされている。

関ヶ原の戦いで西軍石田三成方に属した宇喜多秀家を筆頭に、その後、
明治初期に流罪が廃止されるまで八丈島には1900人近くの流人が送られてきた。
流刑地といえば聞こえは悪いが、流罪を言い渡される罪人は暴力犯よりも政治犯がほとんどであった。
そして政治犯の多くは文化人であり、元は貴族等位の高い者であった。

したがって、そのような人物が大勢流される島には豊かな文化が伝えられ、栄える事例もめずらしくなかったが、
それには流人を温かく迎え入れた島民の寛大な心のおかげだったからこそである。
むしろ島民の方こそ情報が欲しくて、積極的に流人を招き入れたほどであった。

さて、その八丈島と言えども、かつては食べるに困り、泣く泣く家族を口減らしにした悲しき歴史があった。
陸の孤島はただですら食料が乏しい。1822(文政5年)、新島からさつまいもが八丈島に伝播するまで慢性的飢饉が続き、
ついに島民は緊急避難として家族を間引きすることを決意したのだ。
三原山を分け入った先にその穴はあるという。『人捨穴』と呼ばれる穴が。

その昔、島では高齢を迎えた老人たちが男女問わずここへ連れてこられ放置された(ほとんどが自主的だったとも)。
穴に入れられた老人たちは何も口にせず、ただ死を待つのみであった。

はたして暗闇の向こうに、島の希望の灯火が見えたのだろうか?


西高東低波高し!!温泉だらけの八丈島旅行 part6 人捨穴
http://tripvader.jugem.jp/?eid=306
聖堂の詩その7―人捨て穴
http://blog.goo.ne.jp/soujyakuwakasa/e/98553cb551aaf4b48611de6ebf2769dd
江戸時代の人口調整方法
http://www.systemicsarchive.com/ja/a/population.html

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195 2012/09/15(土) 08:44:29 ID:B/PsoiBnL6
52:天之御名無主 :02/02/08 06:17

15年ぐらい前にNHKで見たレポートで、瀬戸内海のとある島ではいまだにある風習が続いていて、
それはその島の子供が16歳になると、絶対にセックスをしなくてはならないものでした。

ルールはこう。
その祭りは一定期間内に行われるもので、祭りになると男・女それぞれ3〜4人同士でとある家に集まり、
3日ぐらい共同生活を続けます。
そこで気の合う同士で事を行うのですが、選択権があるのは男子だけで、
指名を受けた女子には拒否権がありません。

可愛い1番人気の子には、当然、バッティングもあり得るのですが、
そうなると親同士の話し合いで、決着を付けなければなりません。
引き下がった男子は、他の女子を指名しなくてはなりません。
例え相手が凄いブサイクでもセックスしなくては一家の恥なのですから。
すなわち、何が何でもペアにならなくてはならないのです。
セックスする順番にもルールがあったはずなのですが、忘れてしまいました。
ペアになると両家の親同士があつまり、隣の部屋でセックスする自分たちの子供の様子を
伺うそうです。

親たちは伺いながら興奮するどころか、上手く仲良くなれるかが心配で仕方ないとか
なんとか言ってたことを覚えています。
勿論、TVではセックスの場面などは映すわけが無く、家に集まった子供たちが
ダベリあってる場面とか、親たちの顔を写してるだけでしたが、
この放送を見た当時はまじでショックでした。
どうしてこの島に生まれなかったのだろうかと。

だれかこの話に心当たりがある人、見てないかな?


70:天之御名無主 :02/04/20 15:50

>>52
夢と希望をありがとう・・・

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196 2012/09/16(日) 08:06:28 ID:WFHRHPYbkU
     日本のアトランティス 瓜生島

その島は伝説そのものである。
大分県の別府湾には、かつて瓜生島と呼ばれる島があったと言われている。
大分市の沖合500mほどの位置にあったといい、周囲約12km、人口は5000人を擁し、
港町として賑わいを見せていたとされている。

ところが1596(文禄5)年に起きた大地震により崩壊、津波に飲みこまれ、島はたった1日にして海底に沈んだというのだ。
地震については、ポルトガル人宣教師ルイス・フロイスが、「九州にある太閤の海港が地震によって被害を受けた」と言及しているうえ、
実際に起きた地震であったことが現在研究で判明している。慶長豊後地震を示唆しているのではないかとの見解を出している。
震源地は別府湾南東部で、マグニチュード7.0程度の地震が起きたものだったらしい。
もっとも、1699(元禄12)年に記された『豊府聞書』なる瓜生島についての書物があるのだが、
いかんせん地震から100年以上あとの記述であるため信憑性に欠けるとして、いまだ伝説の域から脱しきれていないのが現状である。

島には古老の口伝により言い伝えが語り継がれてきた。
それはこんな内容だった。「瓜生島に住む人々は仲良くしなくてはならぬ。一人でも仲たがいをする者があれば、
神仏の怒りに触れ、島は海中に沈んでしまう。その前兆として、守り神ののえびす様のお顔が真赤になる」

この言い伝えを鼻で笑った申引村(さからすむら)に住む加藤良斎という医者が、悪ふざけのつもりでえびす様の顔を真っ赤に塗ってしまう。
奇しくも地震が頻発し、やがて大津波が島を襲い、一夜にして島は跡形もなく消えてしまったというのだ。

専門家の音波探査機による調査では、まさしく瓜生島があったとされる位置の海底に地層の乱れが示された。
東西約2.2km、頂点から底辺までが約2.5kmのトライアングルゾーンに、多量の土砂が堆積していることが明らかとなったのだ。
これが伝説の島の名残であろうか……。


瓜生島沈没ー日本のアトランティス物語
http://www.ailab7.com/uryuu.html
瓜生島 “沈んだ島”の虚像と実像
http://homepage3.nifty.com/boumurou/island/10/uryujima.html

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197 2012/09/16(日) 10:26:02 ID:WFHRHPYbkU
     しめ縄の向こうは常世 夫婦岩
 
三重県伊勢市の二見興玉神社にある夫婦岩は、一般的に夫婦円満や家内安全、海上保安、
大漁追福の象徴であり祈願祈念でもあるが、古くは古神道における磐座信仰とされ、
自然に存在する巨石、岩、山を御神体とし、神が宿る場所として崇められてきた。
それを注連縄で飾り、鳥居を備えたりして、神が鎮座する証としている。

夫婦岩の大きさは、男岩(おいわ)で高さ9m、女岩(めいわ)は高さ4m、2つの岩を結ぶ大注連縄の長さは35mを誇り、
男岩には16m、女岩に10m巻かれ、その間が9mあるそうだ。
夫婦岩は、沖合660mの海中に鎮まる興玉神石の鳥居と見なされており、日の出の遥拝所として古くから知られ、
両岩の間からの日の出は、5月から7月頃が見ごろである。

男岩と女岩を結ぶ大注連縄は、『結界の縄』と称され、注連縄の向こうを常世神(とこよのかみ)が
太平洋の彼方から寄りつく聖なる場所、そして手前を俗世という隔たりを表している。
この大注連縄は、文保年間(1317〜1319年)には張られていたらしく、現在も氏子たちにより年3回、
張替え神事が行われている。

『古事記』においても夫婦の神話が多くあり、イザナギとイザナミ、サルタヒコとアメノウズメなどの物語があり、
これらが賽の神(さいのかみ)や道祖神になり、磐座信仰と変遷していったと考えられている。
このことから地蔵や道祖神において夫婦が一体となってかたどられたり、
2つの大小の岩や石像が一対となったものが祀られているものは、全国に多い。


胸を焦がす、二見の海の彼方に常世の国
http://beniiwa.blog97.fc2.com/blog-entry-816.html

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198 2012/09/16(日) 10:51:31 ID:rAXd/sF3gg

 いわく付きの島

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199 2012/09/17(月) 09:26:57 ID:QXKDVkevlU
     まるで要塞 四阪島(しさかじま)

その島の佇まいは軍艦島にそっくり。
軍艦島こと端島が炭鉱専用の島だったのに対し、四阪島は島全体が銅山の製錬所だ。
四阪島は、瀬戸内海の燧灘(ひうちなだ)、大島 (愛媛県今治市)の南東約10km、愛媛県新居浜市の北約20kmに浮かぶ島である。
正確には、家ノ島、美濃島、明神島、鼠島、梶島の5つの島で構成されるが、一般に四阪島と呼ばれる。
現在、島は住友金属鉱山の工場があり、全島同社の管理下となっている。人口はゼロ、従業員だけが定期船で行き来している。

1691(元禄4)年に別子銅山が開坑して以来、住友は銅の製錬事業所を別子銅山麓の山根地区、新居浜港地区と移してきた。
しかし、いずれも亜硫酸ガスによる煙害の問題により木が大量に枯死。
やむなく1905(明治38)年1月、当時の別子銅山の支配人、伊庭貞剛が新居浜市北方沖合20kmの無人島である四阪島に移転を命じた。

製錬所造成時には、家ノ島と美濃島は埋め立てられ陸続きとなり、家ノ島に精錬所、美濃島には社宅等が設置された。
1922(大正11)年には海底ケーブルにより新居浜市から電気が供給。これらにより、同島は別子銅山の製錬所として大きく発展し、
人口は大正時代に最大5500人を超え、昭和30年代においても4000人近くにのぼった。

しかしながら、精錬所が四阪島に移転したことにより、煙害はかえって広範囲に広がる悪循環となる。
被害は1939(昭和14)年の硫煙処理装置の設置まで続いた。
別子銅山の閉山、新居浜東予精錬所の操業開始により、精錬所としての重要性は低下、順次合理化が図られ、
1976(昭和51)年12月に溶鉱炉の火は消え、1977(昭和52)年4月には一部の工場関係者を除いて島を離れた。
同じように瀬戸内の離島で大正以降三菱の銅精錬の島となった香川県直島と同じような繁栄と煙害の道を歩んだが、
もとから集落の栄えていた直島と異なり、四阪島は1988(昭和63)年以降人口ゼロの島となった。
71年間に精錬した銅は約220万トンにのぼるという。

ただ、1977(昭和52)年には住友金属鉱山酸化亜鉛の製造工場が完成、従業員が新居浜港から船で通勤することとなった。
工場は現在も稼動中であり、毎日新居浜港から事業用の定期便の船が出ており、島内には50人前後の人が従事している。


大島 『産業遺産の残る四阪島』 見学
http://www.cyclo-shimanami.com/point/oshima/post-70.php
幻の廃墟島 1/5
http://www.geocities.jp/teamhaikyo/kouzan/sisaka/sisaka-1.htm

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200 2012/09/22(土) 23:30:35 ID:R7JYvDtseU
     補陀落渡海追記3

僕の自宅から車で走ること50分足らずのところに、和歌山県は那智勝浦町の補陀落山寺がある。
このスレッドに紹介しておきながら、今の今まで訪れなかったのは怠慢以外のなにものでもあるまい。
思い立ったが吉日。さっそく今日の朝、足を運んだのだ。

那智勝浦町浜の宮の国道43号線沿いにその寺はあるのだが、どちらかと言うと、
さらにこの道を進んだ先にある名勝、那智の滝の方が全国的に知名度が高いだろう(ちなみにこの道中こそ、
昨年9月の紀伊半島豪雨で甚大な被害をもたらしたエリアでもある)。
土日となると那智の滝は観光客でごった返すものだが、案の定、アングラ的な存在の補陀落山寺は訪れる客もまばらであった。

境内はそこそこ広いが、閑散とした雰囲気。
かるく樹齢500年は超えていそうな極太の杉の大木がそそり立ち、はるか上は樹冠で太陽光が遮られ、
炎天下にさらされた駐車場とは打って変わってひんやりしていた。

そのなかで一際目を引くのは、やはり渡海船の原寸大の模型だ。
屋形を取り囲むようにして取り付けられた4つの鳥居。それぞれが『発心門』『修行門』『菩薩門』『涅槃門』の4門を意味している。
修験道の葬送作法によれば、死者はこの4門をくぐって浄土往生すると考えられていた。
同時に、渡海船がそのまま葬送の場(殯・もがり)であったともいえる。

殯 Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AE%AF

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201 2012/09/22(土) 23:34:58 ID:R7JYvDtseU
     補陀落渡海追記4 

平成5年5月、地元の南紀州新聞社の企画、補陀落山寺の高木亮享住職、高木亮英副住職の監修のもと、
渡海船が再現された。

戸板で塞ぐ前の小窓から屋形内をデジカメでパチリ。たぶんこれはめずらしいショットのはず。
ネットで検索しても、みんな不謹慎がってか、こんな大胆な画を撮っていないと思われる(見えるのは明和水産の当スレだけ!)。

サイズを示す小道具と一緒に写すべきだった。気が利かず申し訳ない。
のぞいた感じ、内部は常時、座った体勢しかとれないようだった。こんな狭い場所に僧たちは閉じこめられたのだ。
座禅を組み、お経を唱え続けるのが最後のつとめだっただろう。
とはいえ現実は波に翻弄されれば、壁や天井にしたたか身体を打ちつけたはずだ。
閉所恐怖にくわえ迫りくる死の恐怖。気が狂ってしまう僧がいたとして、誰が非難できようか?

水や食料、灯火の油など、ひと月分備蓄したうえで船出したとのことだが、はたして糞尿の処理はどうしたのか?
この件に関しては、再度補陀落山寺に訪れたときの課題としておこう。

もっとも、この模型とて正確な資料が現存していたわけではなく、かなり脚色が混じっているという。
画像をご覧になれば一目瞭然、皿ビスが写っているのはご愛嬌ということで。

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202 2012/09/22(土) 23:45:22 ID:R7JYvDtseU
     補陀落渡海追記5

>>186でも言及した金光坊の脱走事件をきっかけに、この風習は見直されていった。
生きたまま船出するのではなく、僧の死後、補陀落渡海のやり方そのままで水葬の形式に変遷していったという。
画像は境内にある記念碑を写したもの。ちょうど中央に金光坊の名が刻まれている。

本堂では、土産物売り場兼語り部のおじさんが常駐しており、観光客数人相手に語って聞かせていた。
ここまで来たならば話を聞かず帰るわけにはいくまい。
「たった1人で来た者ですが、話に付き合ってくれませんか? 補陀落渡海について、以前から興味があったんです」
と名乗り出ると、語り部のおじさんは待ってましたと言わんばかりに眼を輝かせ、僕に語ってくれた。

もっとも、この風習は先にもいったようにほとんど資料が残されていないそうだ。
どういう経緯で、平安前期の貞観10年(868)の慶龍上人がまず最初の渡海者として選ばれ、
なぜ生きたまま渡海しなければならなかったのか。

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203 2012/09/22(土) 23:51:05 ID:R7JYvDtseU
     補陀落渡海追記6

記念碑には那智から船出した25人の僧の名を列挙しているが、
実際は人知れず志願した者もいたりして正確な数字がわかっていないらしい。
修験者の方も含まれていた。修行する者にとって、補陀落渡海に出るということは大変名誉なことだった。

いずれにせよ、どれもが謎に包まれ、研究家の推測の域を脱していないのが現状である。
ひとつわかっているのは、当時の民衆は僧の渡海を望んでいたことだ。
時代が混迷し、人々が生きることに絶望したとき、本尊に祀ってある千手観音菩薩に救済を求めた。
そんな思いを背負って僧たちは船に乗り込んだにちがいない。

ところが、いくら僧とて人の子。
渡海に出かけるまで、いろんなドラマがあったであろう。

那智の浜から南方に、仏に仕える者や民衆の理想郷、常世があったとされる。
伝説によると、インドのはるか南方の海上にあり、八角の形状をした山であるといわれる。常世はそこを示唆するのか?

おじさんとの談義は有意義なものとなった。その話も書くと長くなりすぎるから割愛する。
また近いうち、ここを訪れるだろう。

帰り際、車窓から那智浦沖に見える岩礁を眺めた。
頼りなげな金光坊島(こんこぶじま)が波間に見え隠れしていた。

……思いっきり、個人的なブログにしてしまい、相すまぬ。
画像は那智参詣曼荼羅。

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204 2012/09/29(土) 16:50:33 ID:xhZouUhH4I
[YouTubeで再生]
     徐福キタ━━━━(゚∀゚)━━━━ッ! 冠島

京都府舞鶴市成生岬より約10km沖、日本海の真っ只中に浮かぶ無人島、冠島。
別名を雄島、常世島(とこよじま)、あるいは竜宮島とも呼ばれている。

島周囲の海底の一部には、弥生時代に創られたといわれる遺跡のようなものあるが、その詳細は不明だ。
一説によると、701(大宝元年)年3月、凡海郷(おおしあまのさと・現在の舞鶴市及び加佐郡大江町あたりにあったとされる郷名。
大浦半島に隣接する大きな島)が、三日三晩続いた地震により、峯2つを残して海没。
この2つの峯こそ冠島と沓島(くつじま)だと言われている。

さて、その冠島には徐福伝説が残されている。
徐福の一行はこの島で仙薬を見つけ、丹後半島へ上陸したとのこと。
徐福の求めた不老不死の仙薬とは、島に自生する黒茎の蓬(くろくきのよもぎ)や九節の菖蒲だったとも言われている。

秦の始皇帝から不老不死の秘薬を探してこいと遣わされた徐福だが、蓬莱山と謳われた日本の地を踏んだとされるエリアは驚くほど広い。
これはわからないでもない。童男童女3000人と機織り職人、紙職人、農耕技術者、漁業(主に捕鯨)などの専門家、
木工、製鉄、造船などの技術者などを擁し大陸から渡ってきたのだ。
当然何隻もの船でやってきた。大船団なので別行動をとる船もあったろう。

ある船は対馬海流に乗って東北地方まで、別の船は黒潮に乗って熊野灘に面した紀伊半島や伊勢湾、三河湾、
遠州灘に面した地域や伊豆半島、八丈島などに漂流したにちがいない。
あるいは意図せず時化に遭遇し、散り散りになってしまったためかもしれない。


徐福伝説
http://www.asukanet.gr.jp/tobira/jofuku/jofuku.htm
冠島・沓島(かんむりじま・くつじま)京都府舞鶴市
http://www.geocities.jp/k_saito_site/doc/tango/kanmurism.html
凡海郷〜おおしあまのさと〜
http://kammuri.com/index.htm

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205 2012/09/29(土) 16:52:45 ID:xhZouUhH4I
     徐福もまた、村や島に幸をもたらした『まれびと』だった

ちなみに、先週の土曜、那智勝浦の補陀落山寺へ取材に行った帰り、新宮市の駅前にある徐福公園へとはしごした。
新宮市も徐福が漂流の末、たどり着いた地とされているのだ。
園内は徐福像や顕彰碑が建ち並び、不老不死の霊薬の正体ではないかといわれる天台烏薬の木が植えられている。

>>194の八丈島で触れたが、『島』という自己完結した小世界では異文化が流れこんでくることにより、
活性化し、発展するケースがめずらしくない。
徐福一行は製鉄の技術や農耕・土木・捕鯨・医薬、さらには五穀(中国の五穀は麻・黍・稷・麦・豆)の種子をもたらした。

画像は園内の中央に位置する徐福の墓。徐福渡来伝説では、徐福はこの地で亡くなったことになっているが、
とっても眉唾だったり……


徐福公園(じょふくこうえん) 「徐福の墓」を中心に中国風楼門を配して整備された公園
http://bell.jp/pancho/travel/kumano%20sanzan/jofuku%20koen.htm
まれびと Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%BE%E3%82%8C%E3%81%B3%E3%81%A8

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206 2012/09/30(日) 00:36:31 ID:zr7ry/aCgQ
>>200-205さん
同じ方ですよね?大変面白かったです。

>おじさんとの談義は有意義なものとなった。その話も書くと長くなりすぎるから割愛する。
気が向かれたら書いてみて下さい。

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207 2012/10/01(月) 22:30:33 ID:ZHl3CJIkto
>>206
喜んでもらえたら嬉しい。
長文ばかりタレ流しているので、みなさんに放置プレイされてるのでは?と内心ヒヤヒヤしているのですが、
そういう反応は励みになりますね。

たしかに語り部のおじさんとの知識の限りを尽くした談義はアツいものがありました。
おじさんも普段なら観光客相手に、千手観音を祀った座敷の上で正座し語っていたようでしたが、
僕らは土産物売り場の前の土間にあぐらをかいて座り、あとからやって来る観光客をそっちのけで1時間近くダベってましたから。
その姿を見た客はドン引きしたことでしょう。

肝心の会話の内容も脱線につぐ脱線で、ここですべてを書くのはどうかと思われます。しいて言うなら即身仏やニライカナイのネタ。
おじさんから仕入れた補陀落における情報の要点は、>>200〜205まで書いたように、一応まとめたつもり。
ほかにも、最良の資料となる著書を紹介され、これらを書店で買いなさいと勧められたり(タダでくれるんじゃないのか……)。

画像の根井浄さんという方が執筆された『観音浄土船出した人々』がソレ。
やたらと根井先生、根井先生と連呼されていることを察するに、その根井さんとやらも、ここで取材なさったのでしょう。
おじさん曰く、もっとも精度の高い、信頼のおける資料とのこと。

いつまでも場を陣取っているわけにもいかず、まだ語り尽くせぬ感があったので、また来ますと言って別れを告げました。
今度はノート持参でバリバリ取材してやろうかと考えております。何か質問などあれば代表して聞いて来ますよ。

個人的に補陀落渡海の話は異常にソソられます。なんて言うか、おじさんの年齢もけっこう行ってたし、
もし彼が語り部の引退を決意し後継者を据えるのなら、冗談抜きで僕自身が志願したいほどですから。
まあ、それを実現させるには、まだまだ勉強不足。もっと研鑽しなければッ!

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208 2012/10/01(月) 22:33:37 ID:ZHl3CJIkto
     ナイス奇岩・犬石様 犬島(犬ノ島)

犬島は岡山水道南東部にある島であり、同島を含めた犬島諸島全域からなる地域を指す。
諸島のなかでもっとも大きい面積を誇り、唯一の有人島。
犬島という島名の由来は犬の数が多いからではない(むしろ猫の方が多いらしい)。

遥かな昔、菅原道真が左遷され九州の大宰府へ向かう途中だった。
猛烈な風と時化に遭い、たまらずその島で一時避難することにした。
島陰に身を寄せていたところ、風の唸りに混じって犬の遠吠えがするではないか。
ふと上を見上げれば、犬の形をした巨石が鎮座していた。しかも道真公が以前飼っていた犬と瓜二つであった。
風がおさまり、船出するころになっても、別れを惜しむかのように犬が吠えたと伝えられている。
その巨石を犬石と名付け、のちに犬島と呼ばれるようになったという。

ナイスな奇岩の犬石様が祭られているのは犬島の西にある小島、『犬ノ島』。
犬ノ島は無人島でありながら私有地(岡山化学工業の工場が建ち並び、従業員は本土から通勤)のため、
立ち入りには許可が必要だが、5月3日の『犬石様のお祭り』の日だけは一般公開されている。


岡山県の離島 犬島
http://www.pref.okayama.jp/kikaku/chishin/ritou/08inujima/index.html
ブログ【胡波國堂】 犬島へ
http://kobakuni.at.webry.info/201105/article_3.html

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209 2012/10/06(土) 17:08:32 ID:6rE9RaXFWo
     秘祭『いざなぎ流』 物部村 1

このところ島ネタばかりやってきたから、たまには『村』にスポットを当てるか……では物部村(ものべそん)を。
最初に念を押しておく。なにも物部をオカルトとして捉えるつもりは毛頭ない。
ただ、この村で現存する民間信仰はあまりにも特殊であるため、民俗学的興味が尽きることがない。
その研究の虜となる人は少なくないのだ。

高知県香美郡物部村。高知県の北東部、徳島県との県境の山間に抱かれた集落は、例に漏れず過疎と高齢化が進んでいる。
村の起源は平安時代以前といわれ、平家落人の末裔がこの地方の豪族として繁栄した。
戦国時代の長宗我部氏の支配を経て、1600年からは山内氏の藩政時代が続き、明治に入ってから上韮生(かみにろう)村と槇山村が生まれた。
この2村が昭和31年合併して物部村となり現在に至っているわけだ。

物部には古来より、陰陽道系の呪術祈祷を中心とした『いざなぎ流』と呼ばれる祭祀(家全体を祓い清める家祈祷や病人祈祷、
場合によっては他人を呪うのそれも含む)が、現在もなお続いている。およそ800年以上もの昔から。

いざなぎ流という祭りとはいかなるものか。
『太夫』(たゆう)と呼ばれる宗教者(端的に言えば呪術者)らによって、家単位、コミュニティー単位で、
隔絶された山岳地帯ゆえに、ごく限定的ながら命脈を保ってきたのだ。

安倍晴明で知られるあの陰陽道が純粋な形で生き抜いてきたわけではない。
あくまで陰陽道を骨格として、修験道、密教、神道、恵比寿信仰、大黒信仰などの様式が複雑に絡みあっており、
さらには神楽舞などの民間芸能も同時に息づいていることから、長い年月を経て変遷した結果、土着化した姿こそ『いざなぎ流』であり、
もう1つの陰陽道の到達地点でもあるのだ。

『イザナギ』といえば、国産みの神話に描かれる男神をすぐ思い浮かべるが、ここでは祭文によると、
『天竺にいるいざなぎの神様』なる一登場人物であるという(一説によると、平家が壇ノ浦から敗走したあと、
守り神として隠し祭っていたのが『いざなぎ』、いわゆる『みこがみ』ともいわれる)。

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210 2012/10/06(土) 17:10:46 ID:6rE9RaXFWo
     秘祭『いざなぎ流』 物部村 2

併せて、いざなぎ流の祭文を載せておく(需要があるとは思えんが)。

「もえん不動明王 火炎不動王 波切り不動王 大山不動王吟伽羅不動王 吉祥妙不動王 天竺不動王
天竺山坂不動王逆しに行ふぞ 逆しに行ひ下せば 向かふわ 血花に咲かすぞ 味塵と 破れや 妙婆訶
もえ行け 絶え行け 枯れ行け 生霊 狗神 猿神 水官 長縄 飛火 変火 其の身の胸元 四方さんざら
味塵と乱れや 妙婆訶 向かふわ知るまいこちらわ 知り取る 向かふわ 青血 黒血 赤血 真血を吐け
血を吐け 泡を吐け 息座味塵に まらべや天竺 七段国へ行なへば 七つの石を集めて 七つの墓を付き
七つの石の外羽を建て 七つの石の 錠鍵下して 味塵 すいぞん 阿毘羅吽 妙婆詞と行ふ 打ち式 返し式
まかだんごく 計反国と 七つの 地獄へ 打ち落す うんあびらうんけんそばか」


いざなぎ流の流派はいくつか存在し、太夫が複数の師匠の下で学ぶことや、師匠の教えに独自の方法を付け加えアレンジすることもあり、
同じ流派内にさえ差異が生じている。
とはいえ、いくらカオス的信仰形態の中核を成しているのは陰陽道であることに変わりない。
たとえ密教や修験道の影響があったとしても、祭りの進行は陰陽道らしく、占術にかかっているからだ。

太夫は祭りに関わる人間や、家の穢れや不浄、悪霊の障りなど、マイナス要素のすべてのものである『呪詛』(本来は『じゅそ』と発音するが、
ここでは『すそ』と読む)を残らず『ヒナゴ幣』(和紙で作られた御幣)に念じ集め、清浄な状態に戻す役目を担う。
呪詛のついたヒナゴ幣は、呪詛林という専用の捨て場に埋めたり、川に流したり、河原の岩陰に鎮められる。

それは祭りを執り行う上において、不可欠な儀式なのだ。と同時に、家の内外を清める湯神楽、塩祓い、
太夫自身の身を清める『穢らい消しの唱文』、神々の穢れを祓う『祓いの唱文』、しめ縄による結界の造営など、
祭りを成功させるために、幾重にもの霊的防御網を敷く。
しかしながらこの祭りは太夫にとって全身全霊の戦いなのだ。家の災厄を祓う祈祷も、その家で祀る神の種類に応じて祀り方が異なり、
丹念に祀らないと祟るともいわれているのだ。

※画像の、『花笠』と呼ばれるものをかぶった者が太夫。

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211 2012/10/06(土) 17:20:16 ID:gCjP8i.FF2
     秘祭『いざなぎ流』 物部村 3

いざなぎ流には『表』もあれば『裏』もある。
裏とはすなわち、人を呪うためのものだが、それは『悪いこと』であるとして、太夫は原則的に手を染めないのが常だ。
だが、太夫たるもの、表はもちろん、裏も知らなければ本物ではないともいわれている。
毒も微量なら薬となるように、表の世界の鎮めの儀式に活かせられるからだ。

太夫は人を呪うことを『式を打つ』と表現する。式は言うまでもなく式神を指す。
いざなぎ流には呪いの法文があり、修行の浅い新米の太夫ですら、それを唱えるだけで強力な式神を飛ばせることができるとされる。
だが、裏専門だと悲惨な末路しか待っていない。法力があれば自分の身は守れるにせよ、その家系に悪影響が及び、
家そのものも断絶すると信じられているのだ。
もっともそのような太夫は必ず露見するらしい。霊力の強い太夫ならば、誰が式を打ったかお見通しになるという。

余談だが、こんなエピソードが残されている。
山深い物部では、近世以来、伐木は重要な生業であり、その職人を杣(そま)といった。
昔、杣の中に式法を知る者がいた。仕事のために使うナタなどの道具を山へ行くたび持ち帰るのが面倒だったため、
山中に放置して帰るのだが、その際、盗難を防ぐために道具に式を打った。
掛けた本人以外の者が式を打った道具を触ろうとすると、その場で身動きができなくなったといわれている。

それに対抗して、呪詛を防ぐ面もあったとされている。『シキ食い面』と呼ばれる面がこれで、打たれた式を食うことによって、
相手の呪詛を無力化するのだという。
この面は角のついた鬼面で、家の中では主人しか触れることができず、家族は肉食せず精進しなくてはならない『やっかいな面』とのこと。


※画像は『シキ食いの面』ではない。『十二のヒナゴ面』の1つ、『男面』。
問題の面は、もっと鬼のような顔をしている。それはそれで不気味なのだが、こちらの方がデスマスクっぽくて、
なにか禍々しさを感じさせ、個人的に怖い。面に関しては下記のサイトを参照されたし。


館蔵 物部の仮面といざなぎ流
http://www.rekihaku.ac.jp/publication/rekihaku/146witness.html

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212 2012/10/06(土) 17:24:05 ID:gCjP8i.FF2
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     秘祭『いざなぎ流』 物部村 4

以上のように、非科学的で原始的ともいえる思考がこの現代社会に残っている物部だが、
根底にあるのは「山のものは山へ、川のものは川へ戻すべし」「山や川には精霊が宿る」という『いざなぎ流の掟』である。
すなわち自然の摂理であり、シャーマニズム本来の本質が現存していることになる。

高知県の山間部の一集落。人口3000人強ほどで過疎高齢化が進み、その民間信仰は滅び行く運命に思われがちだが、
地元高校の生徒らが部活で舞神楽を教わり、太夫にならんと決意する人も稀にいることから、
その存続は細々ながら継承していくようである。
我々は温かい目で見守ろうではないか。


土佐・物部村 神々のかたち
http://inax.lixil.co.jp/Culture/1999/09word.html
いざなぎ流とは
http://www011.upp.so-net.ne.jp/dhistory/sei_0vi.htm
いざなぎ流への〈旅〉中尾計佐清さんのこと 斎藤 英喜
http://www.bunet.jp/world/html/16_7/466_ouryou/index.html#top
『剣山』と『いざなぎ流』
http://tsukioto2011.blog65.fc2.com/blog-entry-56.html
物部FW「いざなぎ流」体験記
http://office-hiroko.jugem.jp/?eid=39#sequel

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213 2012/10/13(土) 08:34:07 ID:rhGS10XPOM
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     迫真の演技? 奇祭・エア相撲 大三島(おおみしま)

愛媛県今治市にある芸予諸島の中の1つの有人島、大三島。
別名『神の島』と呼ばれ、創建1400年以上と伝えられる大山祇神社(おおやまずみ)神社が社殿を構える由緒ある島なのだ。
古来より皇室や貴族の崇拝を集めており、平安時代には朝廷から『日本総鎮守』の号を授けられているほどで、
宝物も多く、国宝8件、重要文化財75件を収蔵。なかでも源氏や平家などの武将が武運長久を願って武具を奉納したおかげで、
国宝や重文の指定を受けた甲冑の4割がこの神社に集中しているのだ。

この神社では、春の御田植祭(旧暦5月5日)と秋の抜穂(ぬいぼ)祭(旧暦9月9日)の年2回にわたり、珍妙な奇祭が行われる。
それが見えざる神様を相手にした『一人角力』(ひとりずもう)なのだ。
田んぼの神様(稲の精霊とされる)と3本勝負を行い、必ず一勝一敗で3戦目を迎えるも、最後は神様が勝利をつかむ。
人間の力士は豪快に投げ飛ばされ、神様にはかないませんというオチがつくエンターテイメントぶり。
神様が勝つことで、春には豊作が約束され、秋には人々の収穫への感謝の意が表されるわけだ。

元はといえば、相撲という国技は、健康的な男性が神前で力を尽くすことで、神々に敬意と感謝を示す儀式としての意味合いがあった。
つまりは、この一人角士こそ、相撲の原点を現代に伝える神事だったりするのだ。


大三島ツアーPART 2 〜一人相撲編〜
http://tsubakky.exblog.jp/15456709/
(1)精霊と競う? - 生涯学習情報提供システム、<えひめの記憶>
http://ilove.manabi-ehime.jp/system/regional/index.asp?P_MOD=2&P_ECD=1&P_SNO=9&P_FLG1=3&P_FLG2=5&P_FLG3=2&P_FLG4=1

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214 2012/10/14(日) 08:08:54 ID:zhqd2Lbcb6
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215 2012/10/14(日) 08:22:09 ID:zhqd2Lbcb6
     天草四郎埋蔵金伝説はどこまで信憑性があるのか? 下島

熊本県の天草諸島にある下島には、時価数十億もの天草四郎の財宝が眠っているという(……と信じている人がいる)。
天草四郎時貞といえば、寛永14(1637)年、島原の乱の際に原城に立て籠もった一揆軍の先導者として有名だから、
今さら説明するまでもあるまい。

原城での篭城戦に限界を憶えた四郎は女子供、老人らを逃がすことにして、のちの再起に託すべく莫大な軍資金を埋蔵したとされているのだ。
もっとも、資金といっても大判小判ではなく、重さ6キロの黄金の十字架をはじめ、金銀の燭台20基、南蛮塗りの宝石をちりばめた王冠など、
キリシタン関係の宝器類と伝えられている(これらの財宝は小判よりも時価では高価で、30億円に相当するといわれる)。

この財宝を埋める場所として天草下島が選ばれ、その役目は重臣、小山田慶信と決まった。
いよいよ原城が落城とするや、小山田はひそかに財宝を舟で運び出した。
ところが、のちに小山田は埋蔵地を表すと思われる書き付けを残し失踪。
書き付けには目印となる三角形の池が描かれていた。

時代はすぎ、昭和10年代のこと。
天草上島の老岳山麓で、ある人物が金の十字架を発見した。しかも奇妙な文句が刻まれていたので、
これは天草四郎の埋蔵金伝説を裏付ける手がかりではないかと色めき立った。
それがこんな内容だ。

『さんしゃる二、こんたろす五、くさぐさのでうすのたからしずめしずむる』

この文句の後半は漢字に当てはめると、『……種々の天主(デウス)の宝沈め鎮むる』となり、いやが上にも期待は高まろうというもの。
天草地方の古地図によると、三角形(正確には二等辺三角形)の沼沢地帯『カラ池』こそ、『さんしゃる』なる地名と位置とが一致。
しかも『カラ池』はかつて、疫病で死んだ多くの死体を捨てた場所として、村人たちに決して近づくなと伝えられてきたのだ。
>>79のウイリアム・キッドの件に関してもそうだが、財宝の隠し場所というものは、人が近づきたくない忌避されるような場所が選ばれるものだ。

ところが日本を代表するトレジャーハンター、八重野充弘氏の発掘調査も空振りに終わる。
八重野氏の弁によると、『さんしゃる』とは『カラ池』である三角池を指すと同時に、キリスト像の後光の意味でもあるとのこと。
『こんたろす』とは十字架そのものを示す。数字の2と5の暗号は、三角池の2つの地点から十字架に結ぶ5間(9メートル)の地点ではないかと
八重野氏は推理したが……。

余計なお世話だが、人生を宝探しに捧げる人は借金まみれの生活を送り、悲壮感に満ちているという。
夢追い人は夢を追っている過程が楽しいはずだと信じたい。


埋蔵金伝説 天草四郎の埋蔵金
http://maizoukin.k-server.org/maizoukin09.html
これが宝探しの現場 【天草編】天草四郎軍の秘宝を求めて
http://home.f01.itscom.net/yaeno/fields.htm

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216 2012/10/21(日) 13:25:04 ID:6Jvh.GuVng
     隠し念仏 1

『隠し念仏』。この板で取り上げてしまうとどうしても、
オカルティックかつエキセントリックな扱いになってしまう恐れがあるため、
気が引けるのだが……やむを得まい。

一山村にとどまらず、岩手県南部、宮城県北部には民間信仰である隠し念仏というものがある。
『隠し念仏』と『隠れ念仏』という概念があるが、2つは似て非なる信仰である。今回は前者に焦点を絞ってみる。

『隠し念仏』とは端的に言えば、農民たちが江戸幕府に迎合した本願寺を堕落したものとみなして、
親鸞を開祖とする浄土真宗をひそかに行い、長きにわたり呪術的要素が強く熟成、土着化したものである。
起源は、浄土真宗の開祖である親鸞の長男である善鸞が浄土真宗の東国布教に遣わされた際、現地で信じたと言われ、
邪教を布教したとして、以来、善鸞は父から絶縁、追放されている。
生きるのが困難だった時代、 どうにか仏のご加護を受けたいという一心から編み出されたものだと考えられよう。

隠し念仏とは通り名であって本来の名称ではない。正式には『浄土真宗御内法』、あるいは縮めて『御内法』という。
つまり寺を通して伝える『表法』に対する『内法』を意味する。
かつて隠れキリシタンを弾圧した仙台藩は、御内法を『犬切支丹』『秘事法門』『外道邪法』と罵り迫害、
キリスト教につぐ厳しさで弾圧した。明治政府からも公序良俗を乱すとして厳しく取り締まった。
とはいえ人々の信仰心はたくましい。その激烈な弾圧があったからこそ、この秘密宗教はより奥深くに潜伏し、
土着化して、今日まで隠し念仏として生き残ってきたのだ。

ちなみに、『隠し〜』ではなく、『隠れ』念仏は主に九州に分布した。
九州薩摩藩ではキリシタン禁制にも劣らぬ弾圧が真宗の念仏者に対して敷かれており、真宗門徒が地下に潜り、
強い信念のもと、危険を冒してまで独自の信仰形態を作りあげた。
このことから既成の宗教を隠れミノとし、ある程度習合するなど、隠れキリシタンと同義と見てよい。
薩摩藩の門徒信者は、藩への年貢納税よりも、本願寺への納付を優先しようとした。
それゆえ藩は真宗禁制を厳くした。だから門徒が隠れて信仰を守ろうとしたのが『隠れ念仏』。
したがって本願寺から見ると、東北の『隠し念仏』は異端であり、九州の『隠れ念仏』が正統ということになるそうだ。

隠し念仏はあくまで総称であり、地域や流儀などによって呪術的儀式は異なる。
さらに排他的秘密主義のために、その儀式の全貌はいまだ明らかにされていないが、
『隠れ念仏と隠し念仏―日本人のこころ九州・東北』の著者、五木寛之によると、
最近では少しずつではあるが、秘密儀式の一部などを公開する軟化の動きも見られるという。

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217 2012/10/21(日) 13:44:20 ID:X3Ad7GqgfE
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     隠し念仏 2

おかしな話、秘匿性の高い隠し念仏は、柳田国男の名著『遠野物語』にすら登場するほどポピュラーだったりする。
もっとも、それは佐々木喜善の嗅覚と柳田の探究心があったからこそかもしれない。
全文引用してみよう。

>此話をしたる老女は熱心なる念仏者なれど、世の常の念仏者とは様かはり、一種邪宗らしき信仰あり。
>信者に道を伝ふることはあれども、互に厳重なる秘密を守り、其作法に就きては親にも子にも聊か(いささか)たりとも知らしめず。
>又寺とも僧とも少しも関係はなくて、在家の物のみの集まりなり。其人の数も多からず。
>辷石(すべりいし)たにえと云ふ婦人などは同じ仲間なり。阿弥陀仏の斎日には、夜中人の静まるを待ちて会合し、
>隠れたる室にて祈祷す。魔法まじなひを善くする故に、郷党に対して一種の権威あり。

隠し念仏は江戸時代ごろ、貧しい農民の間で広まった。
葬儀のたび坊さんを呼ぶとなると、お布施などの経費がかかってしまう。したがって、農民たちで念仏を唱えた方が安価である。
さらに唱えるお経は簡略化されたものなので、学がなくとも暗唱しやすい。
また特別な会場を必要とせず、道具も用意しなくてよかった。せいぜい長い数珠と木札だけで事足りた。
唱えた数が多いほど死後、極楽浄土へ早く行けるとして、爆発的に地域に広まったわけだ。

人の死後だけではない。隠し念仏では、生後1週間以内の赤ん坊にも『オモトヅケ』をと呼ばれる儀式を行う。
これは五島列島などで潜伏時代のキリシタンの間で行われた『お水受け』『御元附け』と同義。
さらに隠し念仏では、子どもが6、7歳のころに『オトリアゲ』の儀式をやる。
とすればこれは、キリスト教徒の洗礼に相当するのだろう。
この儀式に落第した子供は、石臼に乗せられるとか。石臼はキリストのメタファーであるという。
秋田藩主佐竹義宣の文書に『大ウス宗の者』という語句があり、大ウスはデウスを指す。

この通過儀礼を受けた者は、一連の内容を部外者には喋ってはならない。漏らせば血を吐いて死ぬと脅されることもある。
それゆえ、信者は堅く口を閉ざしたのだ。

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218 2012/10/21(日) 13:47:33 ID:X3Ad7GqgfE
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     隠し念仏 3

隠し念仏の主な秘儀であるオトリアゲやオモトズケとは別に、『百万遍念仏』という儀式があるが、
あくまで混成した行事にすぎず、本来は隠し念仏とは切り離して考えるべきだそうだ。
この動画がその様子を撮影したもの。3分45秒から。

補陀落渡海といい、スレチではないかと言うなかれ。我が国、日本も地球規模で言えば、全面積約37.8万km²のちっぽけな離島である。
島という隔離エリアでは独自の生産が行われ、独自の価値観を育み、独自の葬送儀礼で送り出す。
日本には、まだまだ日の当たらない歴史や文化が埋もれており、我々の知的好奇心をかき立て、また、信仰とはなんなのか、考えさせてくれる。
と同時に、あらためて日本の魅力を再確認することにもつながる。

しかしながら秘匿したものを土足で踏み荒らし、すべてを白日のもとに晒そうと穴をほじくり返すのもまた傲慢である。
節度を心がけようと肝に銘じなければならない。


隠し念仏 wikipedia 
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9A%A0%E3%81%97%E5%BF%B5%E4%BB%8F
水沢聖書バプテスト教会 隠れキリシタンと隠し念仏
http://blogs.yahoo.co.jp/mizusawa_church/61092917.html
アグリコ日記 隠し念仏
http://blog.goo.ne.jp/agrico1/e/71d917403262d0a4508a3f1f17823038
百万遍念仏 wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%99%BE%E4%B8%87%E9%81%8D%E5%BF%B5%E4%BB%8F
清崎の百万遍念仏
http://sitarakankou.on.arena.ne.jp/hyakumanbenenbutu.htm
発言小町発ホラー「真っ黒い手紙」(未完) 2010.10.17追記
http://haniwafactory.blog28.fc2.com/?mode=m&no=3133
オカ板で暇つぶし(仮) 東北地方の密教「隠し念仏」について語る
http://occult24.blog10.fc2.com/blog-entry-14.html

※あれほどオカルト色を控えたいと言いながら、2ちゃんねる系掲示板のURLを貼ってしまう僕はいけない子です……。

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219 2012/10/27(土) 23:50:30 ID:3egI.zkV6U
     死人返りと三日の墓参り 竹富島

八重山諸島にある竹富島(たけとみじま)は、石垣島からは約6km離れた面積5.42 km²の小島である。
沖縄特有の赤瓦屋根の家(カーラヤー)で形成された町並は、重要伝統的建造物群保存地区として指定されており、
そのまま観光資源として生かされている。
また、数多くの歌謡(民謡、古謡、わらべうた)、芸能、伝承、風習などの伝統文化が引き継がれている文化遺産の島でもある。
そんな竹富島には、奇妙な昔話が残されている。その話を契機に、独自の行事が生まれたほどだ。

弘化元年(1844年)のこと、竹富島の新田マハツという女が田福家に嫁いだ。
しかし月日が経てど、マハツは子供を授からなかった。
それゆえ臨終の間際には、私が死んだら田福家の墓には入れずともよいと言い残し亡くなった。
遺言に従い、実家である新田家の墓へ埋葬することに。
(※亀甲墓はなかったはず。琉球王府時代には庶民が墓を造るのは禁止されており、一般的に流行したのは明治中頃以降。
とすれば入口を扉で塞いだ共同使用の大きな墓所であろう。遺体を白骨化させる場所(シルヒラシ)があり、新しく死者が出た場合、
墓口に近い砂利敷きの場所に棺箱を安置したらしい)

そのころ、里の新田家には妊娠して臨月の嫁女がいた。
実は島の習慣で、妊婦のいる家に死人が出たら墓を開けることは禁じられていたのだ。
とはいえ遺言を無下にすることもできず、新田家の墓にマハツを葬った。

不思議なことに、墓の中でマツンーメという新田家の祖先の霊が現われ、こう言った。
「いいですか、田福家の嫁として嫁いだからには、子供ができずとも田福家の墓に入るのが道理です。
新田家には近日中に嫁がお産をひかえているのに、その墓を開けたことは許されない行為。
早く戻って嫁の安産をすませて来るのです」と言い聞かせて、マハツを生き返らせたのだ。
死んでいたはずのマハツは息を吹き返し、棺桶のフタを開け、暗い墓の中で3日の間生きていた。

ちょうどそのころ、墓所の地主であるカイシが、墓のそばで農作業をしていた。
墓の中から人の声がするではないか。恐る恐る入口の扉に耳を当てた。
「カイシ……カイシよ、どうか墓を開けておくれ」それはマハツの声だった。
カイシは仰天して村に帰り、村人や親族に事情を話した。
人々は松明を掲げ、墓の入口を開けると、蘇ったマハツと対面した。

村に帰ったマハツは祖先の霊の伝えを親族に言って聞かせた。
4日目に嫁が無事、子供を生むと、その子にカナシと名づけたのち、7日目にマハツは今度こそ死んだ。
それからというもの、竹富島では3日目のお墓見舞いという行事が行われ、墓では死人の名前を3回呼ぶようになったという。                          


全国竹富島文化協会
http://www.napcoti.com/index.htm

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220 2012/10/28(日) 07:52:05 ID:19m2dTgbvU
     死人島

その昔、丹後路では、沖合の名もなき小島に死人を捨てた風習があったとされている。
人が死ぬと、馬の飼葉桶(馬の飼料を入れる楕円形の容器)のような木をくりぬいた棺に収め、親族とともに船に乗って島へ渡った。
型どおりの葬儀を執り行ったあと、死体と故人の持ち物は島に放置された。

幡(『ばん』、もしくは『はた』。目印や装飾を意味する布製の仏具)や天蓋などが満潮時の波にさらわれ、
本土に流れ着くことはあっても、死骸だけが戻ってくることはなかった。
人はそこを死人島と呼んだ。


あやしい古典文学の壺
http://home.att.ne.jp/red/sronin/kotenlist1a.htm
http://home.att.ne.jp/red/sronin/_koten/0660sininjima.htm

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221 2012/10/28(日) 07:55:14 ID:19m2dTgbvU
     現代版死の島? 散骨専用のカズラ島

島根半島から北へ50kmのところに位置する隠岐諸島。
そこには180もの無人島が点在しており、そのうちの1島を散骨場所にする試みが2008年8月からスタートした。
もともとは個人所有だった島を、東京都の葬儀社など8社が出資する株式会社カズラ(隠岐郡海士町)が買い取った。

言うまでもなく、散骨とはお骨を粉状にして撒くこと。
焼骨のままでは撒くことは遺骨遺棄罪に触れるので、必ずmm単位まで砕かなければならない。
規定では一応2mmになっているが、1mmが理想だそうだ。

さらに撒く場所はどこでもいいわけではない。生前、山好きだったからとはいえ、山には所有者がいるし、
海にせよ、海岸で撒くのは他人からすれば気持ちのいいものではない。
まして撒いたあとに土をかけるのは埋葬扱いになり、墓地埋葬法に触れるため安易に行うべきではない。

カズラ島に上陸できるのは5月と9月の各4日間だけだ。最初の2日間は見学者、あとの2日間は散骨者のためのもの。
それ以外は立入り禁止になっているそうだ。
散骨場所は1区画100人分の遺骨を撒ける形となっている。10区画作られているようで、1年に1区画を利用し、10年で一巡する予定。
10年経ったころには、骨は完全に土に還っているとのこと。
墓参り際は、他島からカズラ島を望む位置に慰霊所が設けられており、そこから手を合わせるらしい。


隠岐の島のご紹介|自然散骨カズラ島
http://www.kazurajima.jp/oki/index.html
大自然の中で静かに眠る 「散骨」専用島が隠岐に誕生
http://www.j-cast.com/2008/08/24025401.html?p=all

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222 2012/11/02(金) 07:23:48 ID:/PiSTRs3Ps
【マジキチ】アオシマ、1/1400スケール「軍艦島」の模型を発売
http://gahalog.2chblog.jp/archives/51864659.html

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223 2012/11/03(土) 10:39:10 ID:bNBe..D2lA
削除(by投稿者)

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224 2012/11/03(土) 10:49:19 ID:bNBe..D2lA
     人身御供によって完成した人工島 経ヶ島(きょうがしま)

平安時代のころ、神戸港は『大輪田泊』と呼ばれた。
現在の兵庫区南部の地域であったといわれ、南東からの風波をまともに受けて停泊が危険だった。
福原に別荘を構えていた平清盛は日宋貿易の拠点として大輪田泊を重視し、承安3(1173)年に私財を投じて改修をした。
泊(とまり)の前面に防波堤となる人工島を築き、風から船を守ろうとしたのだ。

塩槌山を切り崩した土で海を埋め立てるものの、難工事が続き、ついには貴族たちの間で、
「これは海神様がお怒りだからではないか。とすれば人身御供を捧げ、お怒りを鎮めねばなるまい」と、迷信が流布するほどであった。
さすがの平清盛も人柱を立てるのは人道的ではないと考え、代わりに石の1つ1つに『一切経』を書いて埋め立てに使った。これを経石という。
その後、事故などもなく無事に工事が終わり、お経を広げたような扇の形をしたこの島を経ヶ島と名づけた。

……もっとも、この伝承も時代が経つにつれて変容していく。
一説には、やはり人身御供(人柱)を立て、工事が終わったともされているのだ。
『摂津名所図会』には、松王小児(松王健児(こんでい)、松王丸ともいわれる)について次のように書かれている。

「埋め立てても大波が土石をゆり流してしまう。龍神の怒りをなだめるため30人の人柱と経石を海底におさめよとの占いが出た。
平相国(清盛)は生田の森に関を据えて往還の旅人を捕らえさせたが、近隣の村民が嘆いて訴えるので兵庫の者はこの難を免れた。
今のことわざに『兵庫の者なり御免あれ』というのはこの由縁である。3ヶ月かけて30人を虜(とりこ)にしたが、
親族が群れ来てその悲嘆は尋常ではなかった。清盛はこれを悼んで延期すること5ヶ月に及んだ。
そこへ讃州香川城主、大井民部の嫡子、松王小児17歳が進み出て、身代わりに自分ひとりを沈めるように願い出た。
清盛は大いに心を動かされる。ついに、経石と松王小児を海に沈めて島は成った。沈めた所に建てられたのが築島寺(来迎寺)である」

平家物語では清盛の没後、円實という僧によって経ヶ島に埋葬されたと記述されている。
この経ヶ島を造ることによって、大輪田泊を日本一の港として名を馳させ、今日の神戸港の繁栄へとつながるのである。


松王丸法要祭に清盛茶屋出張 よみがえる兵庫津 〜平清盛プロジェクト〜
http://www.kiyomori.org/?p=954
淡路の昔話
http://www.awaji-is.or.jp/otasuke/mukasi/matu.html

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225 2012/11/04(日) 11:41:14 ID:1QUzT4IRic
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     ズラリと並んだ奇岩が壮観 橋杭岩(はしくいいわ・はしぐいいわ)

和歌山県串本町のそそり立つ奇岩群。それが名勝、橋杭岩。
海岸から紀伊大島方面へ向けて、大小約40の個性的な石柱が一列に、およそ850メートルもの長さにわたり並んでいるのだ。
まるで橋桁を失った橋脚を思わせることから橋杭岩と呼ばれている。
干潮時には岩の列の中ほどに位置する弁天島まで渡り、磯遊びに興じることもできる。

奇岩マニアにはたまらない奇跡のような光景だが、カラクリは単純。
泥岩層の間に火成活動によって石英斑岩が貫入してできた岩脈が、地殻変動で地表付近にあらわれ、
侵食に強い岩が残ったものにすぎない。
そんな壮観な眺めから、先人は橋杭岩にまつわる伝説を生み出した。
  
昔々、弘法大師と天の邪鬼(子鬼のこと)が熊野地方を旅したときのこと。
天の邪鬼は弘法大師と話をしているうちに、大師の偉大さが鼻につくようになる。
切れ者であると自負する天の邪鬼は、なんとか大師をギャフンと言わせたいと思った末、よからぬ案を考えた。

「弘法さん、あの紀伊大島は海中の離れ島で、天気の悪い日にゃあ、地元民は内地との行き来が難儀してるそうですぜ。
ひとつあなたのお力で、大島と陸地との間に橋を架けてやったらどうです?」と、ハッタリをかけた。
「なるほど、それはいい案だ。ならばひと肌脱ぐとするか」と、弘法大師は誘いに乗った。
「けど、ただ仕事するのもつまらない。あなたが一晩で橋を架けられるかどうか、賭けをしやせんか?」
「よかろう。では太陽が沈んでから、仕事に取りかかるか」
いかに弘法大師の力をもってさえ、まさか一夜にして橋を完成させることはできまい。
根負けした大師の姿を想像すると、天の邪鬼は無性にニヤけてくる。

日が暮れて弘法大師が動き出した。どうやって橋を架けるのだろうと、天の邪鬼は草むらの陰から様子を窺うと、
驚くべきことに、なんと大師は山から巨岩を束にして担いできては、ヒョイヒョイと海中に立てているではないか。
たった2、3時間のうちに橋杭が並んでしまった。

「こいつぁ大変だ……このままでは夜明けまでに立派な橋ができあがっちまう!」と、天の邪鬼は呆気にとられ、
なんとか邪魔する手はないか考えた。それで苦し紛れに、「コケコッコー!」と、鶏の鳴き真似をした。
弘法大師は、「なんと、もう夜が明けたのか?」と思い、仕事を中断してしまった。

そのときの橋を造る途中の名残りが橋杭岩だとされているのだ。
弘法大師よ、仕事を中途半端に放置してはいけませんよ……。


ふるさと元気風ネット 橋杭岩
http://www.osumi.or.jp/sakata/nanki/hasigui.html
悪神が作った橋!?「奇岩(3)橋杭岩」【和歌山】 :日本珍スポット100景
http://b-spot.seesaa.net/article/27690710.html
橋杭岩|自然・景観|和歌山県フォト博物館
http://www.pref.wakayama.lg.jp/prefg/000200/photomuseum/096.html

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226 2012/11/10(土) 17:58:25 ID:GzyZKo9QhA
     四阪島専用の火葬地 鼠島(ねずみじま)

軍艦島こと端島に付随する形で火葬場や納骨堂が設けられた『中ノ島』(>>61)があるのに対し、
>>199で触れた銅山の工業島、四阪島にも同様の島があった。 

もう一度おさらいしよう。
四阪島は瀬戸内海の燧灘(ひうちなだ)、大島の南東約10km、愛媛県新居浜市の北約20kmに浮かぶ島だが、
正確には『家ノ島』『美濃島』『明神島』『鼠島』『梶島』の5島で構成され、まとめて『四阪島』と呼ばれることが多い。
まさにその『鼠島』こそ火葬兼納骨堂の島だった。四阪島で働く身寄りのない精錬所関係者が亡くなると、ここで焼かれ埋葬された。

鼠島は5島の中で一番小さい島。この島は干潮になると南側に細長い尻尾のような陸があらわれる。
その姿は美濃島から見れば、まるで鼠のように見えるため、この島名がつけられたのではないかと言われている。

製錬所建設当時、病死事故死した親類縁者不明の人々を葬った無縁仏墓地が、島の北側に存在した。
また、大正中期に火葬場と納骨堂が完成し使われていたが、昭和40年に宮窪町営の火葬場が勝浦療養所跡に新設されてからは、
鼠島で火葬が行われることはなくなった。
四阪島製錬所建設から100年が経とうとしている現在も殉職者供養は続けられている。


日本の島へ行こう 四阪島 
http://imagic.qee.jp/sima3/ehime/shisakajima.html

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227 2012/11/18(日) 08:08:34 ID:rlVCp92HBg
     ドクロのような奇岩島 柱島(はしらじま)

瀬戸内海西部の安芸灘に位置する柱島群島の1つ、柱島は山口県岩国市に属する。
名前の由来は、島内に多くの神社(柱)が祭られていることだったとされている。
かつては島の近海が海軍連合艦隊の停泊地になっていた。
昭和18年には柱島沖合で戦艦『陸奥』が謎の爆発で沈没する事件が発生して以来、
毎年慰霊祭が行われているとのことである。

ドクロを思わせる奇怪な島の形だが、残念ながら他にいわくがあるわけではない。
基幹産業は農、水産業で、新鮮な魚や野菜、ミカンなどが出荷されている平和な島だ。
磯は良好の釣り場らしく、夏から秋にかけてタイ、チヌを狙いにフカセ釣りに興じる人が大勢つめかけるそうだ。


多島海に浮かぶ緑の島-柱島群島- 岩国市
http://www.pref.yamaguchi.lg.jp/cms/a123003/island/hashirajima.html

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228 2012/11/18(日) 08:12:33 ID:rlVCp92HBg
     獅子岩の反対側はドクロに見える 1

ドクロつながりで紹介したく、布石として>>227にて柱島を挙げた。
実は僕の地元、三重は熊野の国道42号線沿いには、名勝『獅子岩』と呼ばれる奇岩がある。
和歌山側から見ると、文字通り獅子がカッと口を開け、大海原に向かって咆哮している姿に映るので、
ちょっとした観光地として賑わいを見せているのだ。

そんな獅子岩だが、驚くべきことに左横顔(尾鷲側から見た反対側)は、虚空に向かってあんぐり口をあけたシャレコウベに見えるのだ。
まさしくさらし首にされ、朽ち果てた人骨の頭部のように……。
獅子岩は世界文化遺産にも登録された奇岩でありながら、まさかこんな暗黒面を持っているとはあまり知られていない。

それと因果関係があるかどうか、この獅子岩のすぐ隣にも奇岩、『人面岩』が立ち並んでいるのだ。
もっとも、人面と謳いながらゴリラの横顔に見えるのだが(これも和歌山側から見た場合)。
というのも、この獅子岩と人面岩は、熊野市井戸町にある大馬神社の狛犬に見立てられており、
2つで阿吽を表しているそうなのだ。

余談だが、人面岩はまたの名を『神仙洞』と呼ばれ、いわくつきの祠があるのだ。
今では厳重にフェンスが張られ、施錠付きの扉で塞がれている。
ここはかつて『北山一揆』の処刑場になっていたという。そういった血塗られた経緯があるからか、
獅子岩と人面岩で挟まれる格好で位置する喫茶店では、夜になるとナニが出るとかでひそかに有名だったり……。


北山一揆 wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E5%B1%B1%E4%B8%80%E6%8F%86

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229 2012/11/18(日) 08:18:28 ID:rlVCp92HBg
     獅子岩の反対側はドクロに見える 2

とくと見るがいい、全国6000万の奇岩ファンよ、これが問題のドクロ奇岩だ。正真正銘、獅子岩の反対側。
右側面が獅子にして、反対側がドクロ……こんなアイロニー、他に類を見るまい。
ちなみにネットで検索しても、誰ひとりとして指摘している者はいない。もちろんこの画像もおそらく本邦初公開。
(こんな獅子岩の裏の顔が見られるのは明和水産の当スレだけ!)

国道沿いからでも展望することができるが、撮影にあたっては浜に降り、うんと近くでデジカメにおさめてきた。
ちょっと立ち位置を変えるだけで、このドクロの表情も微妙に変化する。
ちなみに真正面からだと、なんの変哲もない岩にしか映らないと思う。真下からのアングルも同様だった。
曇天の日に撮影していたが、この後、時ならぬ雨に祟られた。
不気味なドクロの横顔に見えるでしょ?

……でもこれ、島ネタじゃないね。まあ、奇岩つながりということでご容赦を。


獅子岩|ずっともっと - 熊野の観光情報サイト|ずっともっと
http://www.mottokumano.jp/spot/shishi.html
JAPAN WEB MAGAZINE 獅子岩
http://japan-web-magazine.com/japanese/japan-mie-shishiiwa1-japanese.html

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230 2012/11/18(日) 08:22:01 ID:rlVCp92HBg
     鯛島の悲しい恋の話

鯛島(たいじま)は、青森県むつ市脇野沢の牛ノ首岬沖約800mの陸奥湾上にある無人島だ。
名の通り鯛に似ているから名付けられたといわれ、頭部は弁天島、尾の部分は立岩とも呼ばれている。
ところが実際の見た目はマンガチックな鯨に酷似しており、弁天島に設置されている灯台が鯨が潮を吹いているように見えて
ユーモラスな外観だ。
そんな鯛島であるが、弁天島の背中にある弁財天には悲恋伝説が残されている。

今から約1200年前、征夷大将軍である坂上田村麻呂が蝦夷征伐のために脇野沢村に訪れたとき、
村人である美しい娘と恋に落ちた。
娘はすぐに身ごもった。
けれども将軍は都に帰るとき、無情にも娘を置き去りにしてしまったため、彼女は恋しがり泣き続けた。
将軍の子を産んですぐ、自ら命を絶ってしまったのだ。
村人たちは娘を哀れみ、亡骸を少しでも都に近づけるようと鯛島に埋葬した。
ところがその後に船の難破事故が相次いだ。
人々はそれを、成仏できぬ娘の祟りだとして恐れるようになった。

そして500年後の南北朝時代、都落ちした藤原藤房がその話を聞き、鎮魂のために自らの天女の像を彫って弁財天を祀ったところ、
祟りがおさまったとされている。
しかし現代でも鯛島近辺のワカメは娘の髪の毛といわれ、漁を避けるなど、この悲恋伝説はもなお地元の人々の心に深く刻み込まれている。


美知の国あおもり“癒し”スポット一覧
http://www.pref.aomori.lg.jp/kensei/seisaku/tk_10_power.html

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231 2012/11/18(日) 17:29:13 ID:rlVCp92HBg
     丸子姫の亡霊伝説 怒和島(ぬわじま)

怒和島は松山市の北西海域に点在する忽那(くつな)諸島の有人島の1つで、津和地島と中島の間に位置する。
産業はレモンやみかんなどの柑橘類の栽培と漁業が主で、周囲の海は釣りのポイントとして知られており、
入り江を利用したヒラメやアワビの養殖も行われている、ごく牧歌的な島だ。
そんな怒和島にも秘められた伝説がある。それが丸子姫伝説だ。

昔々、大晦日の晩のこと。
西国の大名を乗せた船が暴風に遭い、潮に流されて丸子鼻の沖合で沈没した。
船には丸子姫という美しい姫が乗っていたが、船とともに海の藻屑と消えた。

以来、丸子姫の無念がそうさせるのか、旧暦の大晦日、深夜12時になると、沖合に怪しい火が灯ったり、
姫の亡霊が出没するという伝説が語られているのだ。
もっともこれは周辺海域の潮の流れが速いため、警告する意味で語られてきたのではなかろうか。


怒和島・上怒和
http://yomodado.blog46.fc2.com/blog-entry-837.html
忽那諸島の見所・過ごし方 忽那諸島
http://www.nakajimakisen.co.jp/contents/kutsuna-midokoro.html

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232 2012/11/23(金) 10:02:34 ID:gneS2N2li.
     人類創世異伝 古宇利島(こうりじま)

沖縄県国頭群今帰仁(なきじん)村にある『古宇利島』。半径約1Km、周囲が約8kmの小島である。
島にはサトウキビ畑が広がり、昔ながらの沖縄の家屋が建ち並んでいる。
古宇利大橋が開通して以来、観光客もアクセスしやすくなり、週末ともなると島内は賑やかになる。

古宇利島のことを、昔はフィまたはクィ島と呼んだ。その流れで現在では別名『恋島』とも言われるらしい。
その恋島にちなんだかどうか、古宇利島には人類創世伝説が残されているのだが、これまた奇妙奇天烈。
それも旧約聖書『創世紀』に酷似していながら、沖縄らしい牧歌的なアレンジが施されており、たいへん興味深い内容なのだ。

『創世紀』では、人類最初の人間であるアダムとイヴがエデンの園で蛇にそそのかされ、禁断の果実を口にしてしまう。
そのことにより、裸でいることに恥じらいを憶え、イチジクの葉で秘所を隠す。
さらに果実に手を出した罰として、男は労働の苦痛を、女は妊娠に伴う苦痛を与えられてエデンの園を追放される話だ。
それに対し、古宇利島に伝わる人類創世伝説はこうだ。

昔々、古宇利島に、空から男女2人の子供が降ってきた。
彼らは無垢の裸のまますごし、毎日天から落ちてくる餅を食べて幸福に暮らしていた。

はじめはそれに疑問を抱かなかったのだが、あるとき、もしも餅が降らなくなったら……と、不安が頭をかすめた。
以来、毎日少しずつ食べ残すようにした。
ところが2人が貯え始めて直後、ついに餅は降ってこなくなったのだ。
たがいに天の月に向かって声を嗄らして歌ったが、餅は二度と降ることはなかった。

それからというもの2人は浜に出て魚や貝を捕り、働くことの苦しさを学んだ。
さらにある日のこと、海の中でジュゴンが交尾しているのを見つけた。
そこで男女の違いに気づき、恥部を蒲(がま)の葉で隠し、子作りを理解したのだった。
この2人こそ、琉球人のご先祖様にあたるのである。

……沖縄のキリスト教伝来は1622年、石垣島に寄港した南蛮船によってもたらされたと言われている。
琉球とキリスト教はあまりつながりがないように思われがちだが、どこからともなく聖書の話が伝わり、
古宇利島の古い歴史とミックスして、こんな奇妙な人類発祥伝説が生まれたのかもしれない。


アダムとイヴとウニの島 古宇利島
http://www.okitour.net/Column/akKouri/

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233 2012/12/01(土) 21:39:25 ID:tyP0b4f/jU
[YouTubeで再生]
     ソロモン大王のトンデモ秘宝伝説 江の島

正気か? あの江の島にはソロモン大王の秘宝(時価にして数百億円)が眠っているとされるウワサがあったのをご存知だろうか?
江の島には全部で3つの洞窟があるが、いずれも鍾乳洞ではなく、海水浸水作用によるものだ。
一番大きい穴は第一洞窟で、島の入口の桟橋から約1km、岩屋と呼ばれる島の西南端の断崖の下にあって、その名を金窟、
霊窟とも蓬莱洞ともいわれている。
財宝のある場所と推定されるのは、第一洞窟の奥宮の神壇が祀られているところ。

洞窟の入口は高さ20mと、とにかく巨大。大きな鳥居と祭壇があり、洞窟の奥の神壇裏には直径1mほどの竪穴が空いている。
その穴は深さ78mにも達しているという。
昭和32年ごろ、この竪穴に縄梯子をかけて降りた人の話によれば、穴の底は8畳間ほどの石の部屋で、岩壁には経文や仏像画が刻まれており、
判読できない暗号文字を記した石仏や、岩室の奥には女性器そっくりのものが掘られてあったらしい。

鎌倉時代、源頼朝は家臣の仁田四郎に命じて、富士山麓の風穴を調査させたことがあるが、その理由が「富士山の風穴洞窟のひとつは、
遠く鎌倉から江の島まで人工トンネルで結ばれている」という古文書の記録を確認するためだった。
また、江島神社の由来によれば、552年(仏教伝来の年)のころまでには、この洞窟は『御窟』もしくは『金窟』と呼ばれ、
洞窟のなかからは目もくらむばかりの金色の光を放っていたという。

昭和29年12月5日、その日の産経新聞朝刊に、江の島にてソロモン大王の秘宝を発掘している人物の記事が掲載されている。
その人物こそ、横浜市在住の高根正教氏(当時74歳)。
氏の話によると、ソロモンの財宝が日本にも埋蔵されている結論を得たのは、長年研究を続けていたヨハネ黙示録からだった。
16章の「また天より100金ほどの大いなるヒョウ、人々の上にふりしかば」と、第7章「イスラエルの子らのもろもろの族のなかにて
印せられるものはあわせて14万4千あり」とあることから、「ヘブライ大国のソロモン王の民、十二支族、
14万4千人がそれぞれ100金ずつを持って日本の四国に亡命、持ち運んだ黄金を徳島の剣山に隠した」ということを割り出したというから驚きである。

昭和11年、高根氏たちは剣山の発掘に取りかかったが、終戦直前、当局からにらまれ、工事は中止。
戦後になって、黙示録16章13節の「竜の口より……」から『竜の口』とは、江の島にある滝口寺を指し、つまり財宝は江の島に秘められていると結論づけ、
高根氏は3人の同志とともに、ひそかに江の島の発掘にとりかかった。
そこで黙示録から見当をつけたのは、第一洞窟の突き当たりの『天照大神』『須佐之男命』の二神を祀る祠の真後ろだった。
2mほど岩盤を掘り下げてみると、案の定、竪穴の下にポッカリと空洞が現われたではないか。
この空洞の壁面はきれいに磨かれ、意味ありげな装飾が施されていたという。その後、壁面にあった矢印を頼りに、さらに発掘を続けたものの、
新聞に記事が出てしまったため、またしても宝探しは中断を余儀なくされた。

ほかの資料によれば、高根氏たちが掘り当てた空洞の横壁には、もう1つの横穴があり、地下水の排水路が木材と石を組み合わせて作られており、
その木材には防腐剤が塗布されてあった。その材質を検査した結果、2000年以上の歳月が経ったものと判定された。
とすれば、この空洞は2000年以前に異国人の手によって作られたものとなると主張しているわけだ。

ソロモン大王が死んだのは、今から約3000年前。なんの目的もなく、こんな地底に空洞の石室を作る必要性があるだろうか?
洞窟の奥の小さな横穴は、その後何度か調査されたが、その行き先がどこまで続いているのか、見当もつかないという。
昭和46年の大落石事故があってから、この洞窟は立ち入り禁止になっている。かつて発掘調査した人も、口をつぐんだままである。
しかしながらこの後、洞窟から黄金製のL字形やU字形の破片を拾った人も少なくないのだ。

……財宝はあるかもしれないし、ないかもしれない。いや、あると信じたいものである。


イスラエル王国
http://www.vivonet.co.jp/rekisi/b01_create/israel.html
【ソロモン王】江の島岩屋【財宝】
http://blognoakuma.at.webry.info/200510/article_6.html

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234 2012/12/01(土) 23:29:49 ID:tyP0b4f/jU
     善行した家だけが残された 翁島(おきなじま)

福島県の猪苗代湖の西北部に位置する湖上の無人島。それが翁島である。
気になるのは翁島という名前の由来。長年、この地に老夫婦が住んでいたことから名付けられたとも言われている。
19世紀のはじめに編纂された『新編会津風土記』には、この島に長年老人が住んでおり、『翁明神』という祠があったことや、
重想なる真言宗の僧が『室生寺』を建てたという話、元和年間に興海という僧がこの島に暮らしたことなどが記されている。
それ以外にも、こんな伝承が残されている。

ある日、このあたりに住む機織りの娘の家に、旅の僧(一説によると、弘法大師だったとも言われる)が立ち寄った。
「あまりの暑さに難儀しております。どうか一杯の水をめぐんでくださらんか」と言った。
しかし機織り女は、「このへんは水不足で、とてもあんたみたいな旅人に飲ませるほど余裕はないね」と、愛想ない返事。
しかたなく旅僧は別の民家を求め、重い足取りで歩いた。しかし訪ねた先の村人に、ことごとく拒まれてしまう。

村はずれにさしかかると、身なりの貧しい女が小川のそばで米をといでいた。
「米のとぎ汁でもかまいません。どうか水を一杯おめぐみください」と、旅僧は声をかけた。
女は快く、「さあ、お飲みください」と言って、自分の大切な飲み水を飲ませてくれた。
「思いやりの心を忘れないあなたには、きっと幸運が訪れるだろう」僧はこう言い残して村を去っていった。

僧が去って3日後、磐梯山が噴火し、大地震が村を襲った。
最初に意地悪した女の家をはじめ、村が湖の底深く沈んでしまった。ただ1軒、貧しい女の家は沈むことなく島として残った。
娘の名を『おきな』といい、これが今の翁島となったのである。


翁島の由来
http://www.kuniomi.gr.jp/togen/iwai/okinasim.html

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235 2012/12/02(日) 02:25:38 ID:L/I18NMB4E
>村はずれにさしかかると、身なりの貧しい女が小川のそばで米をといでいた。
>「米のとぎ汁でもかまいません。どうか水を一杯おめぐみください」と、旅僧は声をかけた。




小川の水を飲めwww

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236 2012/12/02(日) 10:13:06 ID:fOW3StfJbQ
>>235
あ〜、やっぱりそうきましたか。これはツッコミどころあるなあと思ってたんです。

それは抜きにして、この手の類型説話はわりと各地に点在するみたい。
僕の地元の、ごく限定された狭いエリア(オカンの実家のある地域)では似たような伝承があります。それがこんな内容。

……昔々、村に身なりの汚い乞食が流れてきた。乞食は各家に飯をめぐんでもらおうと声をかけるも、
つれなく追い返す村人と、快く飯を分け与えた村人にわかれた。

実は乞食の正体は神様であったという(これは単にメタファーだろう)。あえてそんな格好をして村人を試したとか。ココが肝でしょう。
それ以来、なぜか理由は忘れたが、乞食に飯を与えなかった家では正月前に餅をついてはならないというペナルティーを課せられた。
その家の見分け方は、苗字に濁点のつく家がそうだともされる。例えば、『まつだ』『うえじ』『どい』……とか。

幸いにして、その家系が衰退するような罰は受けていないはず。現に濁点つきの家系はいくらでも存続してるし。
そんな伝承を鼻で笑う人もいれば、頑なに言いつけを守り、餅つきはしない家も確かに存在するみたいです。

しかし、なぜに餅つきはタブー?

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237 2012/12/02(日) 10:15:32 ID:fOW3StfJbQ
     長崎浦上キリシタンの殉教地 鶴島

1867(慶応3)年、長崎奉行の報告を受けた江戸幕府が密偵に命じて浦上のカトリック信徒組織を調査。
7月14日の深夜、秘密の教会堂を幕吏が急襲したのを皮切りに、高木仙右衛門ら信徒ら68人を捕えた。
新しく発足した明治政府は、1868(明治元)年から翌年にかけて信仰を公にして棄教を拒否した信徒を、富山以西の21ヶ所に流罪とした。
この日本史上最大規模のキリシタン弾圧を『浦上四番崩れ』という。

1869(明治2)年、捕らえられたキリシタンのうち117人が備前岡山藩に預けられ、翌年9月に和気郡日生村(現備前市日生)の鶴島に移送された。
鶴島で彼らを待ち受けていたのは、改宗という名の重労働と拷問のリンチだった。
彼らは明治6年のキリスト教解禁令により信教の自由が認められ、同年4月に長崎県浦上に送還されるまで3年間を鶴島ですごすことになる。
島に移されてすぐ、狭い長屋にすしづめに押しこまれ、厳しい開拓に従事させられたが、空腹と拷問に耐えかね半数以上が教えを捨てた。
明治6年に禁教令が解かれたが、それまでに18人が鶴島で命を散らした。

鶴島は岡山城下から50?、日生の港から8?に位置する周囲約2?の小さな無人島である。
岡山藩は島の西側に信徒たちの流人長屋と監視役人の番所を建てた。
島の中央に『改宗の祠』をつくり、週に2回ほど信徒たちを集めて神官による説教が行われ、神道への改宗を迫ったという。
信仰を捨てなかった者もいるが、説教や激烈な拷問により約半数が改宗したと言われる。

鶴島では開墾により大豆や麦、サツマイモ、綿花や胡麻などが栽培されたが、収穫物が信徒たちの口に入ることなく、県を通じて国へと納入された。
現在の鶴島には、今も亡くなった信徒18人の墓地や長屋跡、古井戸が残されている。


鶴島(つるしま)岡山県備前市
http://www.city.bizen.okayama.jp/kankou/guide/hinase/spot/tsuru/index.jsp
鶴島にて 赤波江豊神父
http://www.sumiyoshi.catholic.ne.jp/sumiyoshi_kaze/contents/kaze0911.pdf

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238 2012/12/08(土) 07:04:56 ID:grJ/Zk5taM
     神の首が切り落とされ、それが島となる 竹生島(ちくぶしま)

琵琶湖にも神秘の島がある。都久夫須麻神社(竹生島神社)、宝厳寺を擁する、神の住む島とも言われる竹生島だ。
年間来島者が10万人を超える信仰、そして観光の島でもある。最近ではパワースポットとしても人気を博している。
船着場には土産物屋などの店舗が軒を連ねるが、寺社関係者ならびに店の従業員は島外からの通勤しているため、無人島ということになる。

竹生島神社は明治の神仏分離令に際して弁才天社から改めた。
島は神仏一体の聖地であったことから、分離するにあたって少なからず混乱があったようだ。
補足すれば、竹生島弁才天は相模の江島神社、安芸の厳島神社と並んで日本三大弁天のひとつに数えられる。

島名の由来は、島に竹が生えているからという説、島の形が雅楽で使われる笛、『笙』(しょう)の形状に似ているからという説
(字を分解し、『竹』『生』になったとする説)、あるいは『神の斎く(いつく)住居(すまい)』を意味し、
その中の『つくすまい』が『つくぶすま』と変遷し、『竹生島』となったとも言われている。

この島が生まれた伝説がちょっと乱暴だ。
近江国の文化や風土を記した『近江国風土記』によるとこうだ。

昔々、伊吹山の山の神である多多美比古命(ただみひこのみこと)と、浅井岳の浅井姫命(あざいひめのみこと)という、こちらも同じく山の神がいた。
あるとき、この2人の神様がおたがいの山の背比べをしようと提案した。どちらも自分の持ち山の方が高いと言い張り、譲らない。
では実際に比べてみると、浅井岳の方がわずかに高かったのだ。
負けてしまった伊吹山の多多美比古命は悔しいのなんの。しまいには逆ギレして刀を抜き放つと、あろうことか浅井姫命の首を切り落としてしまった。
その首が琵琶湖に落ちた。この泣き別れした浅井姫命の頭こそ竹生島の誕生であるという。

ちなみに浅井姫命は、上記した島内の都久夫須麻神社に祀られている。本殿は国宝に指定されている。


神の住む島 竹生島
http://nagahamashi.org/chikubushima/

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239 2012/12/09(日) 08:59:54 ID:07piQapdkM
奇祭アカマタ・クロマタ 美女が洞の中で男衆と妖しい儀式
http://sky.ap.teacup.com/f45362/1674.html

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240 2012/12/15(土) 16:05:48 ID:RqeYbl3gG2
削除(by投稿者)

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241 2012/12/15(土) 16:13:40 ID:RqeYbl3gG2
     サバイバル男、フカに乗って生還 黒島

八重山群島の1つ、黒島には妙にリアリティーあふれる伝承が語り継がれている。

かつて黒島には真牛(まうし。『モーシー』とも表記される)という男がいた。妻子持ちだった。
真牛はある日、西表島の水田に苗を植えるため、種モミを舟に積んで黒島を出た。
黒島では米が作れないので、人々はわざわざ舟で西表島に渡り、そこで稲を植えていたのだ。

ところが道中、嵐が真牛の身に降りかかる。舟は転覆し、海の中へ投げ出されてしまった。
真牛は種モミを入れた木箱にしがみつき漂流していたところ、ようやく流木を見つけ、
今度はこの流木にまたがって7日間流されたのち、見憶えのない無人島に流れ着いた。

島にはバナナ、パパイヤなどの南方の果実がたわわに実を結んでいた。
海岸の浅瀬では手づかみで魚を取ることもでき、とりあえず食料の心配はなさそうだった。
気を良くした真牛は木を切り倒して小屋を作り、海に潜って捕ったシャコ貝の殻を鍋代わりにして生活した。
さらに種モミを植えて、稲を育てた。時が経つと白米も口にできるようになった。意外に真牛にとって、無人島での暮らしは快適だった。
ただひとつ、孤独との戦いは苦痛だった。人恋しさのあまり、鳥や魚たちに向かって話しかけて無聊を慰めるしかなかった。
こうして10年の歳月が流れていった。

そんなある日、はるか沖に1艘の帆船が通りかかっているのを発見。真牛は浜辺に出て、声を涸らして叫び、助けを求めた。
しかし無情にも帆船は気がつかず通りすぎてしまった。砂浜にひれ伏しさめざめと泣いた。
さらに3年がすぎた。
そのころになると真牛は神に祈りを捧げるようになっていた。するとある夜、夢枕に白髪の老人が立ち、こうお告げしたのだ。

「真牛よ、聞くがよい。明朝、海に入り、背の届くところまで進むのだ。海の使いがそちを生まれ故郷まで運んでくれるだろう。
夢疑うことなかれ……」
明くる朝、真牛が目を醒ますと、ご託宣に従って海に入り、背の届く辺りまで進んでいった。
すると、3mはあろうかと思えるほどの1匹のフカ(大型のサメ)が不気味な背ビレを見せて現われたではないか。
どうやら襲ってくる様子はない。それどころか真牛を股がらせると、ものすごい勢いで大海原を走り出したのだ。

長い道のりを進んだ。ついに見憶えのある黒島の海岸が見えた。フカは浅瀬に真牛を降ろし、海の彼方へ姿を消した。
こうして真牛は13年ぶりに故郷の地に立ち、妻子と再会することができた。

以来、真牛の子孫や親戚はフカに感謝し、フカの肉は食べないという。


八重山の伝説
http://www.urizn.gr.jp/netmagazine/boruneo42.html
無人島に流された男
http://www.dailymotion.com/video/xkp22r_0151yyyyyyyyy_creation

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242 2012/12/23(日) 08:04:46 ID:xmzLzSlCEs
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243 2012/12/23(日) 08:06:55 ID:xmzLzSlCEs
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244 2012/12/24(月) 05:47:59 ID:93tuidBspY
     女人禁制地 神威(かむい)岬

神威岬は積丹半島に突き出た岬であり、小高い丘の階段を上ると尾根沿いに歩道が整備されており、観光にはもってこいだ。
神威……カムイとはアイヌ語で『神格を有する高位の霊的存在』を指す。アイヌには他に、山や森のカムイがある。

半島の神威岬は、別名『女人禁制の岬』ともされている。
昔、源義経に恋焦がれたアイヌの娘が、義経を追ってこの岬から海に身を投げ、それが岩になった。
「和人の船、婦女を乗せてここを過ぐればすなわち覆沈せん」と恨みの言葉を残し、以来、女人を乗せた船が沖を通ると必ず転覆した。
それゆえ女人禁制となったという。

またはこんなエピソードもある。
周辺海域はかつて、ニシンが大量に押し寄せ、ヤン衆と呼ばれる男たちがニシンを求めて北上した。
北へ漁場を移すにつれ海が荒れるので、女人には容易に近づけない。

とある歌がある。
「忍路 高島 およびもないが せめて 歌棄 磯谷まで」
これはまさしく女人禁制の歌であるとされている。
つまり、ニシン漁で北上する男衆を慕う女たちが、「はるか忍路や高島まではとても無理だけど、
せめて歌棄や磯谷までは一緒についていきたいわ……」という女心を顕した歌なのだ。

※画像は岬から見たカムイ岩。岬のシンボルとなっている。


カムイ岬ガイド
http://homepage3.nifty.com/shakotan/kamui.html
女人禁制の岬・積丹の神威岬
http://blogs.yahoo.co.jp/hokkaido131313/3992478.html

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245 2012/12/24(月) 09:25:45 ID:93tuidBspY
     漢の中の漢! サメを倒した英雄伝説 慶留間島(げるまじま)

那覇に一番近く見える島は前慶良間(めーげらま)と呼ばれて渡嘉敷村に属し、そのうしろに座間味村に属する島々を後慶良間(くしぎらま)という。
その後慶良間には、北から南にかけて人の住む島が座間味島(ざまみしま)、阿嘉島(あかしま)、慶留間島の3つがある。

昔、阿嘉島には上地仁屋(うえちにや)という男がいた。
身体が大きくて、およそ360kgの石を持ち上げることができる怪力の持ち主だった。

そのころ阿嘉港の近海で、巨体を誇る鮫が出没しては船が襲われ、人が食われる騒ぎで島民を悩ませていた。
6月の稲の豊作を祈願する行事のときに、阿嘉のノロ(巫女)が慶留間に渡ろうにも、その鮫のために中断されるほど深刻だった。
仁屋はそれを耳にし、「なるほど、それはお困りだな。よし、おれがその大鮫を退治してやる。万が一おれが食われたとしても、
そいつの腹の中で暴れてやる。我が身を挺して必ずや倒す!」と決意し、刀を手にして舟に乗りこんだ。

港を出て、しばらくすると波を逆立て、例の大鮫が現われた。
仁屋と鮫との格闘が始まった。刀を抜き放ち鮫に斬りつけるも体表は硬く、浅い傷しか負わせることができない。
そのうち波に翻弄され、舟の揺れで仁屋にスキが生じた。鮫が大口をあけ、なんと仁屋を舟ごと飲みこんでしまった。
それでも仁屋はひるまず、鮫の内側の肉を斬りまくった。
たちまち阿嘉島と慶留間島の間の海は、大鮫の血で朱に染まった。

夕暮れ時になると、さしもの大鮫も力尽き、白い腹を見せて浮かんだ。
死んだ大鮫が慶留間島の近くを漂っていたとき、仁屋は鮫の腹を割いて姿を見せたが、仁屋の身体も胃液でただれて泳ぐ力も残されていなかった。
島民は至急、陸に上げて介抱したが、その甲斐なく息を引き取ったという。

当時の中山王はこの話を聞いていたく感銘を受け、亡き仁屋に慶留間大屋子の位を贈った。
慶留間の島人は、上地仁屋を敬って慶留間魂(げるまのしー)と呼んで葬り、その墓を慶留間御嶽(げるまうたき)として祀るようになった。


エメラルド伝説の島
http://blogs.yahoo.co.jp/tkosakai/1766285.html

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246 2012/12/24(月) 13:32:07 ID:2KjXYs9FYI
     小雪の届かぬ想い 三四郎島の悲恋伝説

静岡県の西伊豆町にある景勝地、三四郎島。
同島は堂ヶ島海岸にある象島(またの名を伝兵衛島)、中ノ島、沖ノ瀬島、高島の総称である。
干潮時には浅瀬が現われ、手前にある象島は陸続きになる。こういった現象をトンボロ現象という。

その三四郎島には悲恋伝説が残されている。
昔、伊豆の三四郎という源氏の若武者が、平氏の目を逃れてこの島に隠れ住んでいた。
恋仲である小雪は、引き潮のわずかな時間を利用して島を渡り、逢瀬を重ねていたのだった。

治承4年、源氏の白旗が伊豆に翻り、頼朝の使いが仁科の豪族、瀬尾行信のもとに出陣の書を持ってきた。
行信の娘である小雪はその書状を届けるべく、三四郎の隠れ家に走ることにしたのだ。
ところがあいにくの上げ潮で島が地続きになっていない。
愛する三四郎のため、行かないわけにはいくまい。小雪は意を決し、無理を承知で島へ渡ることにした。
何度も波をかぶりながらも、書状だけは離すまいと胸に抱えていたが、運悪く大きな怒涛が小雪を飲みこんだ。
あろうことか、小雪の姿はかき消されてしまった……。


静岡の旅と歴史 堂ヶ島
http://ogino.digi2.jp/chuubu/shizuoka/nishi_izu_cyou/dougashima/index.html
三四郎島
http://www.shizuwalker.net/Event/izu/openWin/izuB01.html

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247 2012/12/31(月) 07:43:02 ID:JpVdolkAsY
     難工事のためにうら若き娘が人柱に選ばれた 地島(じのしま)

福岡県宗像市の鐘崎港から北西約3km先の沖合に浮かぶ地島。東は響灘、西は玄界灘に挟まれた漁業の島である。
港には一本釣りや定置網の漁船がひしめき、周辺の磯では伝馬船がウニやアワビを水揚げするのに忙しい。

地島はかつて古代海洋豪族である宗像氏の拠点にもなっていた島で、古い歴史がある。
泊港にある厳島神社は宗像氏所縁の宗像三女神を祀る神社で、安芸の宮島の厳島神社より先に分霊された。

また黒田長政が作らせた殿様井戸や殿様波止が残されているのだが、その殿様波止の工事が難航したため、
>>224の経ヶ島と同様、人柱を立てたらしい。ここでは若い娘2人を波止に埋めたというのだ。
真偽のほどは確証がつかめていないようだが……。


地島(9) 泊集落を歩く
http://ameblo.jp/tsurayuki100seiblog/entry-10873181176.html
地島に椿ごはんを買いに行く
http://ameblo.jp/hatiyou/day-20120310.html

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248 2012/12/31(月) 07:51:18 ID:pA/0WBYKcw
     日本の卵生説話 池間島

池間島は宮古島の北西1.5kmに位置し、沖縄県宮古島市平良池間に属する面積2.83km²、周囲10.1kmの島だ。
琉球王国時代の御嶽(うたき)信仰の風習を現在も継承していることで有名である。
大主神社には、池間島民より選出された5人の司(祭祀儀礼を行う女性)を中心とした祭祀集団が形成されている。
そんな池間島にも、世にも奇妙な『卵から生まれた12神』の伝説が残されている。

昔々のことである。裕福な家で住み込みで働いている貧しい家柄の娘がいた。
ある日、娘は森へ薪を拾いに行くことになった。
けれども夕方になっても、薪に使えそうな枯れ枝が集まらない。
こんな仕事では雇い主の家に帰ったところで叱られるのは目に見えている。
森で一夜を明かし、翌朝になったら薪を集めて帰ろう。むしろ手ぶらで帰る方が悪いはずだ。

森の中で横になっていると、かたわらの木の枝に赤くて美しい鳥がとまっているではないか。
なんてきれいな鳥なんだろう。見とれているうちに、娘はウトウトして眠りに落ちた。

朝になった。起き上がりあたりを見回したが、赤い鳥の姿は見当たらなかった。気を取り直して小便することに。
すると驚いたことに、股の間から尿ではなく卵が飛び出したのだ。それも12個も。
奇異なことだと思ったが、自分の身体から生まれたからには我が子のように愛おしい気持ちが強い。
穴を掘ってその卵を埋め、優しく木の枝をかぶせたあと、本来の仕事を済まして何食わぬ顔で雇い主の家に帰った。

それから1年経つか経たないかのうちに、森に行ってみた。
卵を埋めたあたりを探していると、しきりに「母さん、母さん、ここだよ」と呼ぶ声がする。
森の陽だまりのもと、12人の子供が座っていた。まさに12個の卵から生まれた子たちにちがいあるまい。
娘は決心した。わたしはこの子たちの親となろう。

娘は森に家を建てて、そこで12人の子供たちと暮らすことにした。
そのうち生活もしだいに豊かになり、食うにも困らなくなった。
やがてその母親たる娘は、宮古の母神となった。
長男は池間島の大主の神、残りの11人の子供たちは宮古の方々の御嶽の神となったのである。


卵から生まれた池間島の神々
http://yonaha38.ti-da.net/e3202310.html
『古代史ノオト』 「応神帝と卵生説話」 谷川健一
http://geocities.yahoo.co.jp/gl/siroztatsunosuke/view/20101101/1288613864

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249 2012/12/31(月) 20:53:11 ID:aZJhnkZ9.o
     奇想天外、古事記とは異なる八丈島の人類創世伝説  

>>194に紹介した八丈島にも不思議な人類創世伝説が残されている。それが『丹那婆(たなば)伝説』である。
普通、日本の始祖伝説は『古事記』が原典だが、八丈島のそれはノアの方舟やポリネシア的洪水伝説がベースとなっており、
しかも母子相姦の物語なのだ。つまりオカンと息子がデキちゃったのだ。


八丈島の丹那婆伝説 八丈島の丹那婆の伝説は何を意味するのか
http://www.ailab7.com/hachijou.html
始祖伝説 問われる真偽 原本にない丹那婆伝説
http://www.nankaitimes.com/toku_kiji/tanaba.html

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250 2013/01/01(火) 00:23:56 ID:PcA9OVsJeQ
あけおめ〜。今年はへび年だね。てなわけで蛇にまつわる話を。

     海神の化身? 大蛇伝説が残る小呂島(おろのしま)

玄界灘の真っ只中に浮ぶ孤島、それが小呂島。
島の周囲は玄武岩の断崖絶壁で形成され、ところどころ海蝕洞がぽっかり口を開けている。
小呂島の名が文献上に登場するのは鎌倉時代にまで遡る。また、李氏朝鮮の『海東諸国紀』にも『於露島』の名で登場し、
外国船が来るの監視するため国主が島守を置き、その番所が睨みを利かせていたほどで、
いかに中世の小呂島は海上交通の要であったかわかろう。
さらに福岡藩の流刑地でもあり、重罪者の流刑地として選定された。
流人の監視として御常番の名で足軽が配置され、彼らも近代まで小呂島の集落を構成する一部であった。

それにしても『オロノシマ』……なんと奇妙にして、不思議な韻を含んだ島名だろうか。
イザナギ、イザナミの国生み神話で知られる『オノゴロシマ』との関連性を疑わずにはいられないが、
その実、江戸時代には『大蛇島(おろちじま)』と呼ばれていたらしく、島の北にある穴から大蛇が出入りしていたのが名前の由来だそうだ。

北端にある柱状節理の玄武岩にその問題の洞窟がある。この地名を『穴口』(あなぐち)と呼ぶ。
その昔、大蛇がこの穴から巨体をくねらせて這い出て集落を襲い、家畜の鶏を丸呑みしたという。
その大蛇が根こそぎ食い尽くしたため、島には鶏がいなくなったとも伝えられているほどだ。

このような海上孤島はいわば海神の聖地であり、『ヲロ』は『ヲロガム』、つまり『拝む』であり、
島に宗像大神の社があったのは古代信仰の名残りであるわけだ。


小呂島の自然
http://www.fuku-c.ed.jp/schoolhp/eloro/orosimashizenn.html
国生み神話 オノゴロ島
http://www.geocities.jp/shimizu_serai/sub5-4.htm

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251 2013/01/02(水) 07:47:36 ID:t3AfroWhsI
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252 2013/01/05(土) 08:46:14 ID:nNhuogMWaM
     まだまだある大蛇伝説 出羽島(てばじま)

出羽島は徳島県の南東にある牟岐町の沖合約3km先に浮かぶ有人島。
黒潮のせいで温暖な気候に恵まれ、椰子の木やハマユウ、ハイビスカスなどの花が目を引く南国情緒豊かな島だ。

かつて野口雨情(『十五夜お月さん』『シャボン玉』』『赤い靴』』などを手がけた童謡・民謡作詞家)が
牟岐町や出羽島を散策し、作った詩の中に「船で廻れば出羽島一里、島にゃ大池蛇の枕」という一節がある。
  
大池には『蛇の枕』と呼ばれる岩があるのだが、その昔、大池に棲む大蛇がこの岩を枕にして色変わりの松に尾を巻きつけて
寝そべっていた伝説があるという。
当時の殿様がこの大蛇を退治させるべく、弓の名手、船越某を召して弓を射させた。
船越は13本の矢を放ち、大蛇の左目を射抜いたうえ、みごと退治した。
ところがその後なんの因果か、この池の魚はみな片目になったと言われている。


出羽島INDEX
http://tebamaru.jp/TEBAindex.html

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253 2013/01/05(土) 08:48:38 ID:nNhuogMWaM
     大蛇伝説は沼地の島にもあった 浮島の森(うきしまのもり、うきじまのもり)

和歌山県新宮市には世にもめずらしい植物群落がある。 
植物群落といっても、全体が沼地に浮かぶ泥炭でできた島で、地元では『浮島の森』として有名。
文字通り水にプカプカ浮かぶ島なのである。ひと昔は強風で煽られると島全体が移動したとも言われている。
面積は約5000平方mあり、これほどの規模の浮島はおそらく日本随一であろう。
一説では、沼地の地下から湧き水があふれており、水温が低いため植物質の分解が遅くなるため浮島化を助けたらしい。
そんな浮島にも大蛇にまつわる『おいの伝説』が残されており、俗謡として歌われるほど。それがこんな内容だ。

昔、この島のあたりに、おいのという娘が住んでいた。ある日、おいのは父とともに薪を集めに島へ行った。
しばらくしたあと、昼飯を食べようと弁当を開いた父娘だったが、箸を忘れてきたことに気づいた。
おいのはアカメガシワの枝を折って箸の代わりにしようと思いついた。彼女1人で森の奥深くに分け行った。
ところがいくら待てども戻って来ない。
心配した父親が探しに行くと、今しも我が娘が大蛇に飲み込まれようとしているところであった。
父親が助けようとしたものの、蛇は娘をくわえたまま、住処である『蛇の穴』に引きずりこんでしまった……。

……怪異小説の金字塔『雨月物語』の著者で知られる上田秋成はこの伝説をモチーフに、『蛇性の婬』を執筆したといわれる。
(個人的には腐臭漂うカニバリズムの一篇、『青頭巾』の方が好きですが!)


熊野の観光名所 浮島の森
http://www.mikumano.net/meguri/ukijima.html
美女が引きずり込まれる底なし沼「浮島の森」【和歌山】日本珍スポット100景
http://b-spot.seesaa.net/article/29002904.html

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254 2013/01/06(日) 10:49:43 ID:s1e9rXslIE
大蛇伝説は日本全国に唸るほどあり、また類型の話も多い。このまま続けていくのは飽きるだけだ。
興味があれば下記サイトでじっくり堪能されたし。

怪異・妖怪伝承データベース 日本の竜蛇
http://www.hunterslog.net/dragonology/ryujatan/kyusyu_okinawa/okinawaDB.html


話変わるが、端島こと軍艦島や現役の四阪島などの工業島は、探せばいくらでもあるようだ。
軍艦島は離島ファンのみならず、廃墟ファンにも有名すぎるぐらい有名なので、他の工業島が霞んでしまう。
そんな埋もれた工業島を個別にこのスレで紹介してもいいが、明らかにスレタイとはズレているし、
なによりそこで従事している人や企業に対しても失礼にあたる。
そのため、各島ごとにURLを貼るだけにとどめた。詳細を知りたくば以下のリンクで。


契島(ちぎりじま)まるごと東邦亜鉛の工場!まるで軍艦島
http://tabetainjya.com/archives/toyotagun2/post_569/
東邦亜鉛株式会社 ( TOHO ZINC CO.,LTD. )
http://www.toho-zinc.co.jp/profile/chigiri.htm

平安座島の石油基地
http://okinawadailyphotos.com/site/Blog/entori/2012/11/16_ping_an_zuo_daono_shi_you_ji_de.html
沖縄石油基地株式会社|ホームページ
http://octs.co.jp/

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255 2013/01/06(日) 10:55:39 ID:s1e9rXslIE
     島の掟を破ったトメの悲劇 種子島

これは種子島に伝わる民話である。
昔、種子島では山と浜とで生計を立てる村が分けられていた。
たがいの収穫を商人を通して物々交換し、生活するのが慣わしだったのだ。

山の村には年老いた父親と、怪我をして寝込んでしまった夫、その妻トメ、赤子のちよの4人家族が住んでいた。
家族は貧しかった。その日も商人が品物を持ってきたが、交換するものも乏しく、
むしろ滋養のありそうな海の幸を見せつけられ、苦い思いをしただけだった。

「このまま、もがきながら弱っていくなんて我慢ならない。山の収穫では満足にちよのための乳すら
出ないというのに。家族のために私を海に行かせて欲しい。いくら女とはいえ、浜で海藻や貝ぐらいなら
拾えるはずだわ」と、トメは夫に言った。
「ダメだ。これは古くから島の掟なんだ。掟を破っちゃなんねえ」と、夫は反対した。
だが翌朝、トメはその忠告に耳を貸さず、ちよを背負ったまま浜へ向かった。

浜には人の姿はなかった。
ちょうどその日は彼岸であり、浜の村の人間は仕事を休み、墓参りに勤しんでいたのだ。これは願ってもない好機。
トメは思いきって『長浜』(現在の長浜海岸)と呼ばれる、沖の方まで伸びた漁場へ行ってみることにした。
あるわ、あるわ。数えきれぬほどの貝が散らばっているではないか。
その日は奇しくも大潮で潮がすっかり引き、ふだん見せることのない沖の瀬が遠くまで姿をあらわしていた。
トメは背中のちよを乾いた砂浜に置くと、勇んで沖の先まで足を運んだ。これも家族を養うため。トメは必死だった。

すると、沖の先の潮だまりにはとんでもなく大きなシャコ貝が口を開けていた。この貝さえあれば、家族は当分飢えずに済む。
トメは貝に手を伸ばした。その瞬間、シャコ貝の殻がピシャリと閉じ、トメの腕ごと捕らえてしまった。
なんとか逃げようと必死にもがいたが、一度殻を閉ざしたシャコ貝はビクともしない。
大潮の日は潮が引くのも早いが、満ちてくるのも同様である。満ち潮が刻一刻と眼前まで迫った。
声の限りに叫んだ。置いてきたちよのことも気がかりだ。
潮はトメの半身までさしかかり、ちよの身をも濡らしていた。

そのとき異変に気づいた浜の村の長老は、村の若い衆を助けに行かせたが、時すでに遅し。
潮はすっかり満ち、母子の姿は見つからず、トメの着物とおぶい紐だけが海面に浮いているだけだった。


種子島北部観光コース - 種子島あらきホテル
http://araki-hotel.co.jp/assets/files/pdf/kankou_panfu.pdf
まんが日本昔ばなし「子投げ潮」
http://www.youtube.com/watch?v=An9FvQENtGU

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256 2013/01/08(火) 19:07:38 ID:xSznn9DIX6
[YouTubeで再生]
まんが日本昔ばなしと言えば>>188の『仏島』の怖い話がうPされてるぞ。
削除される前に見るべし。

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257 2013/01/12(土) 07:29:28 ID:UUVVYMQw6M
削除(by投稿者)

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258 2013/01/12(土) 07:36:07 ID:UUVVYMQw6M
     神秘の奇岩 観音岩

高知県大月町にある柏島に渡れば、断崖絶壁の向こうに見える威容に誰もが驚きを禁じ得ない。
大海原にそびえ立つ高さ30mの石柱は、まさしく観音様そのものに見えるからだ。
見る人によっては、まるで穏やかな顔立ちの観音菩薩が瞑目し、合掌する姿に映るだろう。衣装の裾まで再現されているかのようだ。
自然が生んだ奇岩は無数にあるが、これほど神聖な岩塊も他に類を見るまい。

こんな不思議な逸話が残されている。
寛永15(1638)年のこと、島原の乱鎮圧団の慰問使であった雨森九太夫が敵弾を受けた。
帰途の船中で重体となり、一条の光を導かれ、たどり着いた柏島で息を引き取ったと伝えられている。
そのとき奇跡の光を放ったものこそ、この観音岩といわれる。

……それにしても、このスレを続けるにつれ、なんと『神』に関わる島の多いことよ。
今でこそ日本人ほど信仰心の薄い民族はあるまい。しかしながら、神の話抜きにして離島や地名は語れないのだ。


光芒を発した観音岩
http://floreta.exblog.jp/17391113/

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259 2013/01/12(土) 07:43:51 ID:eVWIn6mLm2
     能登にゴジラ発見! ゴジラ岩

日本が生んだ怪獣だけに、全国にはゴジラとそっくりな形の奇岩がある。
そのなかで秀でているのは、石川県珠洲市外浦沿岸の、その名も直球ネーミングの『ゴジラ岩』であろう。
マニアによる愉快犯の仕業ではない。日本海の荒波にもまれ、海蝕作用によってできたれっきとした天然の造形である。
見る角度によっては、まさにゴジラが海原に向かって咆吼し、今しも放射能火炎を吐き出さんばかりの迫力ではないか。
そんなゴジラ岩は、奥能登を代表する名所の1つだ。


日本隅々の旅 全国観光名所巡り&グルメ日記 ゴジラ岩(石川県珠洲市)
http://rover.seesaa.net/article/115390122.html
ゴジラ岩と馬緤海岸
http://kimassi.net/noto/kinoura.html

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260 2013/01/12(土) 08:01:27 ID:eVWIn6mLm2
     道遊の割戸(どうゆうのわれと)に伝わる怪奇伝説 佐渡島

言わずと知れた佐渡島は、新潟の西に位置する周囲262.7kmのS型形状の島である。
佐渡は京から配流された文人、政治家などが都の文化を伝播してきたので、現在でも独特の言語や伝統芸能が受け継がれている。
また佐渡金山は有名で、最盛期には国内一の金産出量を誇っていたが、江戸時代の終わりごろから衰退。
1951年に商業採掘は終了した。残された史跡や資料館で当時の様子を垣間見ることができる。
なかでも筆頭なのが、慶長6(1601)年、金山発見の端緒となった大鉱脈の露頭掘跡が『道遊の割戸』である。
山の中央をV字に割った景観は佐渡金山のシンボルと知られ、山壁面にも多くの坑道跡が見ることが可能だ。
その道遊の割戸には、ちょっとゾッとする話が残されている。

道遊の割戸で金銀の鉱脈を掘り出す露天掘りが始まると、対岸の越後からは多くの人夫が佐渡に流れてきた。
江戸時代後期には江戸から約1800人の宿なしの流れ者、罪人が強制連行され過酷な労働を強いられたが、
これは見せしめの意味合いが強かった。実際は鉱山労働者の給与水準は高く、『ヤマ』での職を嗅ぎつけると目の色が変わるほどだった。

そんな人夫のなかに弥吉という男がいた。堅気の職人だった。
故郷の越後に老母と妻を残し、金を貯めていつか一家で豊かな暮らしができるよう、弥吉は毎日のようにノミを振るった。
だが金山に冬が迫ったころ、ろくに休日もとらなかった弥吉は風邪をひいてしまった。
それでも弥吉は無理を押して、なおも仕事を続けた。
ところがノミを打つのもままならなくなり、ついに弥吉は監督役人の目を盗んで岩蔭で休むことにした。
誰かが近づいてきた。用心したつもりだったが、急な悪寒に襲われ、大きなくしゃみを発してしまった。
あわてて口を塞いだが後の祭り。よりによって一番厄介な『鬼甚兵衛』に見つかってしまう。
怖い監督役人が弥吉の襟首をつかみ、岩陰から引きずり出した。弥吉は土下座して謝った。
「問答無用! 一職人ごときが、わしに言い訳するとは不届千万!」甚兵衛は刀を抜き、弥吉の両腕めがけて斬り払った。
こうして弥吉は両手首を失ったのだ。

幸いすぐに治療を受け、失血死はまぬがれた。とはいえいつまでも腕の痛みは癒えず、甚兵衛から受けたトラウマにより、
狂気に侵されるようになったのだ。「鬼の甚兵衛に両手を取られた……鬼の甚兵衛に両手を取られた……」と、
うわ言をくり返すようになった。
ある日の作業中、甚兵衛への恨みつらみを撒き散らしていると、当の甚兵衛の耳に届いてしまった。
監督役人の顔がまさに鬼の剣幕へとなった。刀を静かに抜き放った。

「弥吉……手首を斬り落とされてもまだ足りんのか。ならばその首も取ってくれるわ!」
弥吉が振り向きざま、甚兵衛の刀が一閃。弥吉の首が鮮やかに断ち切られ、地面に転がり落ちた。
ところがどうだ。頚椎を断たれたはずの弥吉の生首は、カッと眼を見開き、甚兵衛をにらみつけた。
さらになおも「鬼の甚兵衛に両手を取られた……」と呟いていたのだ。
恐れをなした甚兵衛がその場から逃げようとすると、闇の奥から2本の手首が飛んできて、甚兵衛の首にまとわりついた。
必死で振り払おうとするが、ますます手首に力が加わり、グイグイと締め上げる。
やがてさすがの甚兵衛も力尽き、弥吉の身体からあふれ出た血の海の中に突っ伏した。
かたわらには弥吉の生首が転がっており、今度は、「鬼の甚兵衛の首を取った……鬼の甚兵衛の首を取った」と、
呪いの言葉を吐き続けるのだった。


佐渡島一周・佐渡金山 道遊の割戸 百足山神社 大野亀 湊まつり
http://www.geocities.jp/narikatsunari/sado_06.htm
産業遺跡訪問記 新潟佐渡・群馬富岡2 
http://miraikoro.3.pro.tok2.com/travels/Niigata_Gunma/Sado_Tomioka02.htm

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261 2013/01/14(月) 19:20:15 ID:uMvUVplFOY
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     悲しき殉教の聖地『だんじく様』 生月島(いきつきしま)

長崎県の平戸島の北西にある島が生月島だ。全島が長崎県平戸市に属する。
島名の由来は、遣隋使・遣唐使の時代に中国から日本へ帰国する旅人が船上からこの島を見つけるや、
無事に帰ってこられたと安堵して息をついたことから、といわれている。

安土桃山時代には、フランシスコ・ザビエル以降、平戸に来たイエズス会宣教師が生月島でもカトリックの布教を行い、
平戸藩の重臣だった籠手田安昌、安経父子をはじめ、多くの島民が洗礼を受けたものの、その後の禁教令によって殉教したり、
隠れキリシタンとして密かに信仰を受け継いでいた者も少なくなかった。
現在は島内に2ヶ所のカトリック教会があるが、明治初期に禁教令が解かれた後もカトリック教会に戻ることなく、
先祖伝来の信仰を伝える隠れキリシタンの信者も数多くいて、いまも受け継がれている。

島の南西部の断崖下にはキリシタンにとって聖地とされる場所がある。それが『だんじく様』だ。
正保2(1645)年、平戸藩は押役を置き、その下に宗門目付、下目付、宗門改め役を置いてキリシタンの取り締まりにあたらせた。
このときに悲劇は起きた。
捕吏に追われた弥市兵衛と妻マリア、その子ジュアンの一家は、海岸の暖竹(だんじく)が生い茂る場所に隠れていた。
ある日、ジュアンが磯へ遊びに行ったところを役人の船に見つかってしまう。そして両親である弥市兵衛とマリアともに処刑された。

それ以来、海上からの参拝は忌み嫌われているという。
現在でも、旧1月16日の命日には地元信者が集まってローソクを灯し、信仰を守りつつも殉教していった人々を偲び、祈りを捧げている。
また信者だけでなく漁業関係者も参拝することから、ここは豊漁の神様にもなっている。


だんじく様(長崎県平戸市生月町)・写真満載九州観光
http://www.yado.co.jp/kankou/nagasaki/ikitukis/danjikusama/index.htm
生月のキリシタン〜伝承編〜
http://www53.tok2.com/home/nasubi/history/kirishitan/densyo1.html

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262 2013/01/14(月) 19:41:26 ID:uMvUVplFOY
     市橋、魚を釣り、ヘビを食って逃亡生活 オーハ島

オーハ島は沖縄県島尻郡久米島町に属する島で、別名、東奥武島(あがりおうじま)とも呼ばれている。
明治時代末期に渡名喜島から2家族が入植、1960(昭和35)年には134人が住んでいたが、これ以降からは沖縄本島への転出が相次ぐ。
2003年には3世帯5人にまで減少し、2011年には人口1人となっている。以前はサトウキビの生産などが行われていた。

オーハ島へは観光へ行けないこともないが、めぼしい名所やリゾート施設があるわけではなく、訪れる人もまばらだ。
そんなオーハ島は意外な出来事で注目を浴びる。
2007年3月、千葉県市川市において、英会話学校講師リンゼイ・アン・ホーカーさんが殺害された事件で、
市橋達也被告(当時28歳)が逃亡中、4度にわたって同島に潜伏していたことが自身の著書『逮捕されるまで 空白の2年7カ月の記録』で明らかにされた。
潜伏していたのは、海岸近くのコンクリートブロック造りの小屋(以前は米軍の監視施設であり、主に訓練時に使用していた)で、
最長3ヶ月間、自給自足の生活を送ったとのこと。夏になればハブが活動するため、危険と隣り合わせだったにちがいない。

また島には水源がないため、決してサバイバルに適した場所とは言い難い。
真水を調達すべく、隣の奥武島へ、大潮の干潮のときに砂浜が現われるのを利用して渡った。
場合によっては泳いで渡ることもあったという。

島に潜伏しているとき、小屋で石を積んでかまどを作り、そこで釣った魚や、時にはヘビさえも解体して煮炊きして食いつないだ。
寝袋やテントまで持ちこみ寝泊まりしていた。押収された遺留品は段ボール7箱分にも及んだというから、そのバイタリティに驚かされる。
この島に関する情報は、逃亡生活の間に図書館やインターネットで知ったらしい。

※画像は手製のかまどの跡。


市橋達也被告が潜伏していたオーハ島って、どんな島?
http://npn.co.jp/article/detail/86362946/
うちなんちゅやまとんちゅ〜沖縄身の丈見聞記〜(2)「緊急潜入特集:オーハ島に市橋達也被告の影を追う!」(前編)
http://npn.co.jp/article/detail/90259337/
うちなんちゅやまとんちゅ〜沖縄身の丈見聞記〜(3)「緊急潜入特集:オーハ島に市橋達也被告の影を追う!」(後編)
http://npn.co.jp/article/detail/48425154/
不定期刊「JPなおブログ」オーハ島ってどこよ???沖縄県離島に逃亡・潜伏か 英会話講師殺害の被告
http://ameblo.jp/jp-nao10/entry-10778661222.html
市橋被告「毒ヘビも食べていた」 手記でロビンソン的逃亡生活を告白
http://www.j-cast.com/2011/01/25086447.html?p=all

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263 2013/01/14(月) 19:50:42 ID:5sdfKSsQi.
     触ると祟られる首塚がある 煙島

兵庫県淡路島の福良漁港から100m先に浮かぶ煙島には厳島神社がある。
厳島神社といえば普通、広島にある安芸の宮島を思い浮かべてしまうが、広島のそれは全国にある厳島神社の総本社であり、
日本にはなんと500社もの厳島神社が点在しているのだ。

その煙島の神社には、平敦盛(1169〜1184)の首塚が祀られている。
敦盛は平安時代末期に朝廷を支配した平清盛の甥にあたり、現在の神戸の生田から須磨の浜に渡って繰り広げられた一ノ谷の戦いで、
源義経と戦うも大敗を喫し、敗走の途中、海辺で討ち死にした平氏の若武者である。享年16歳。

敦盛の首を取ったのが武蔵国の熊谷直実。
一ノ谷の戦いで直実は義経軍の奇襲部隊に加わり、沖の船へ逃げようとした若武者を馬で追いかけ、波打ち際で一騎打ちに持ち込む。
武士は自らの首が敵将に差し出されることを覚悟して、戦時の身だしなみとして薄化粧するのが慣わしだった。
敦盛も例外ではなく、その美貌ぶりは直実に斬首をためらわせるほどであった。

死んだ若武者が平清盛の弟、経盛の末子であると知った直実は、屋島へ向かう途中、福良湾でしばしの休息をとっている経盛と
平氏一門のもとへ敦盛の首と、腰にさしていた横笛を届けさせた。
知らせを聞いた経盛と一門は慟哭し、福良湾の近くの小島で息子の首を荼毘に付した。
そのとき、島からもうもうと煙が上がったことから、煙島と命名されたという。

敦盛の美少年ぶりや命乞いを潔しとしない生き様は歴史ファンを魅了し、訪れる人もいる一方で、
件の首塚に触れると祟られるというウワサがあり、心霊スポットとしての側面があるそうだ。恐ろしや!


平氏伝説の旅 〜大輪田泊と、福原京から煙島まで - 兵庫県立教育研修所
http://www.hyogo-c.ed.jp/~rekihaku-bo/historystation/legend/html/013/013.html
淡路まるごと歩きに挑戦!第2章?
http://jocr.jp/blog/awaji.php?itemid=20405

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264 2013/01/19(土) 08:23:36 ID:fSsY0nhfow
     海賊が住み着いた海の要塞島 怪島(けしま)

愛媛県今治市に属し、瀬戸内海国立公園に指定されている島の1つに、怪島と冠されたオドロオドロしい無人島がある。
島名は、その昔『怪しき者』、すなわち海賊が根城としていたことに由来している。当時の善良な人々にとって、それほど怖い島だったのだろう。
そんな怪島は古くから瀬戸内海や斎灘(いつきなだ)を行き交う船の目印となってきた。

島の周囲は峻険な岩に囲まれており、容易に接岸することはできない。それゆえ人が住むことはなかった。
その地の利を生かし、いつのころからか、島に海賊たちが住み着き、斎灘を渡る船を襲撃するようになった。
戦国時代になると、この島には『怪島城』が建てられる。
当時の伊予を支配していた豪族、河野氏の武将である神野左馬允がその城主であった。
島の背後は断崖絶壁であり、小島であるがため監視しやすく、また周辺海域は潮の流れが速いことから難攻不落の様相を呈していた。

瀬戸内海の制海権を握っていた海賊といえば最強の水軍との呼び声も高い『村上水軍』が挙げられるが、
その村上水軍の分家の1つ『来島水軍』が河野氏に仕えていたことから、怪島は来島水軍にとって西の支城としての役目を担っていた。
しかし後年、伊予地方で勢力を振るった河野氏は1585(天正13)年、豊臣秀吉の四国征伐において命を受けた小早川隆景の軍勢に滅ぼされた。
怪島も戦場となり多くの血が流れたとされている。現在も古井戸や桟橋跡など、怪島城の歴史が残されているのだ。
そんな血なまぐさい歴史がありながら、島周辺はスズキや鯛、カレイの絶好の漁場として釣り人から支持を集めているのが現状だったりする。


Keshima シーカヤックで今治西側:2012/04/23シリーズ 〈No.14〉
http://www.geocities.jp/bladerunner_mori/R/g-b-ph-47/b-ph-20120504.html
怪しい島と書いて「怪島(けしま)」へミステリーシーカヤックツーリング!(シーカヤック)
http://shop.plaza.rakuten.co.jp/kompas/diary/detail/201205270000

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265 2013/01/19(土) 08:28:13 ID:fSsY0nhfow
     沖縄版座敷わらし『キジムナー』が棲む島 ヤガンナ島

ヤガンナ島は沖縄県国頭郡今帰仁村に属し、沖縄海岸国定公園にも含まれている標高30mの無人島。
この島には亀甲墓、横穴堀込墓が無数にあり、数百年前から付近の島の人間が葬られてきた。
島の農地を減らさないために、無人島の1つを墓地専用にしたのであろう。

そんなヤガンナ島では『妖怪キジムナー』が出現すると信じられているのだ。
キジムナーとはいかなるものか?
それは沖縄諸島周辺で言い伝えられてきた伝説上の生物である。樹木、とくにガジュマルの古木の精霊だといわれる。
大きさは人間の子供ほどで、全身が真っ赤、あるいは髪の毛や顔が真っ赤で、腕は木の枝みたいに細く、一見老人のようにも見える。
あるいは古木の精霊だけに、木そのものに見えるという説もある。
人間同様、男女があり、結婚して子供を作り、家庭生活を営むキジムナーもいるとされる。その一方で、人間の家に嫁ぐキジムナーもいる。
人間の手伝いをしたり、かまどの火を借りに来ることもあり、人の暮らしと密着した関係であるといえよう。

主食は魚介類で、とくに魚の左目が好物。なかには人間が漁をしている船に乗り込んでくる場合もある。
キジムナーに乗られた船は、必ず船からあふれるほどに魚が獲れて大量となるが、なぜか左目を食べるので、どの魚にも左目がないらしい。
いずれにせよ、人間に危害を加えるような存在ではない。

ただし、古木を伐採したりすれば、キジムナーは怒って漁船を沈めたり、家畜を殺すなどして徹底的に嫌がらせをする。
またキジムナーに気に入られた家は繁栄し、反対に嫌われた家は衰退し滅びるという話もある。
これは岩手の座敷わらしと酷似している。

余談だが、民俗学者、佐々木喜善(柳田国男の『遠野物語』のネタ提供者)が著した『ザシキワラシの話』によれば、
岩手の座敷わらしはやはり、『赤い顔』の童子姿であるという。マダの木の精霊とする解釈もある。
また佐々木は座敷わらしのことを、圧殺されて家の中に埋葬された子供の霊ではないかと指摘。
東北地方では間引きを『臼殺(うすごろ)』といって、口減らしのために間引くべき子を石臼の下敷きにして殺し、
墓ではなく土間や台所などに埋める風習があったと言及している。
このような間引きとの関連に加え、座敷わらしのいる家が旧家であることや、村外から訪れた六部(巡礼僧)を殺害した家がのちに
没落するという伝承と結び付けられて語られることから、座敷わらしは村落共同体の暗部の象徴と示している。

一方、人間と共存関係のキジムナーは、時に人間の家系をも滅ぼしてしまう怖い一面もあるが、やはり沖縄特有のほのぼのとしたムードがある。
そんなキジムナーは沖縄全体で信じられているものの、ことヤガンナ島に限っては様子が異なるのだ。
ヤガンナ島は先に述べたように、周辺離島の専用の墓として成り立っており、人の立ち入りが禁じられている。
もしそんなタブーを破り島に足を踏み入れようものなら、たちまちキジムナーが襲いかかってくると信じられているのだ。
この島ではキジムナーのことを別名『精魔(セーマ)』と呼び、島に人が入ると、雄のセーマは自らの性器を、雌のセーマは乳房を侵入者の口にねじこみ、
窒息死させるのだという。


キジムナーwikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AD%E3%82%B8%E3%83%A0%E3%83%8A%E3%83%BC
大宜味村のキジムナー
http://santeru.ti-da.net/e2605263.html

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266 2013/01/20(日) 11:56:51 ID:Tgf7Rlqj9U
カラパイア不思議と謎の大冒険 時を止めて過去にたたずむ、世界9の放棄された島
http://karapaia.livedoor.biz/archives/52090994.html

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267 2013/01/20(日) 12:00:11 ID:Tgf7Rlqj9U
     悲しき親子の奇岩物語 人形岩

鹿児島県薩摩川内市の国道3号沿いにある西方海岸には、ある奇岩が寂しげに佇んでいる。
そのシルエットはまさに人の形をしている。それにまつわる伝説は悲しいものだ。

はるか昔のことである。
サンバチと呼ばれる島の洞穴の中に、働き者の若い夫婦が、可愛い赤ん坊とともに住んでいた。
ある日、若い男は丸木舟を操りながら漁をしていた。ところが急な天候の崩れによる一陣の風に襲われ、
一瞬のうちに小舟は転覆。男は水中深く沈んでしまった。遺体も上がらなかった。

若い母親は赤ん坊を抱きかかえて、じっと座ったまま夫の無事を祈り続け、洞穴の中でひたすら待ち続けたが、
悲しいかな、こちらもそのまま息絶えてしまう。
なんと不憫なことか。海の守り神は、死んだ母子を乳飲み子を抱いた母親が座っているような形の岩に変えさせた。
さらに海底に沈んだ夫も、小舟とともに岩塊に変えた。

長い月日が流れて、洞穴の周りは侵食され、乳飲み子を抱いた母親の形の岩が現われた。
いつのころからか定かではないが、人はその岩を『人形岩』と呼ぶようになったのだ。


ロングドライブ#4〜薩摩川内「人形岩」
http://blogs.yahoo.co.jp/jysfk062/31531331.html
西方海岸にある奇岩「人形岩」と夕陽
http://blogs.yahoo.co.jp/kagoshimaboy_2009/19623140.html

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268 2013/01/20(日) 12:08:04 ID:2A.G1eiY9M
     鳳凰(ほうおう)が住む島 朴島(ほおじま)

宮城県塩竈市にある浦戸諸島の北にあるのが朴島だ。周囲2kmと、宮城の有人島のなかでは一番小さい島である。
朴島の周囲にある大森島、鷺島、味噌玉島、烏帽子島などの無人島群は、烏帽子列島と呼ばれている。
朴島では牡蠣の養殖などの水産業と、仙台の伝統野菜『松島白菜』の種を採るための菜の花が栽培が盛んである。

島名の由来は、鳳凰が住んでいたからとも、烽火(狼煙)場があったからともいわれており、
さらに仙台藩にまつわる埋蔵金伝説が残されていることから宝島から来たという話さえある。


鳳凰wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B3%B3%E5%87%B0
浦戸諸島の埋蔵金伝説
http://plaza.rakuten.co.jp/sachibon/diary/201006200000/

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269 2013/01/20(日) 12:12:05 ID:2A.G1eiY9M
削除(by投稿者)

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270 2013/01/20(日) 12:49:09 ID:Tgf7Rlqj9U
     火葬をしていたら遺体が起き上がった話 桂島

こちらも同じく宮城県の浦戸諸島の1つ桂島。
島名の由来は曽良が松島に滞在した時、松島湾に浮かぶ島と月を見て「月桂冠の如し」と詠んだことからとも、
鹽竈神社の嘉津良比祭と関係があるとも言われている。
島には桂島地区、石浜地区2つの集落があり、浦戸諸島の中では最も人口が多い。
そんな石浜には、『おじゃら浜の奇談』という怖い伝承が残されている。それがこんな内容だ。

明治初期。塩竈の外港として、経済文化の中心が石浜港に集まり、貨物船の出入りが盛んになっていた。
船乗りたちも全国から石浜に集中し、『肝煎』(人事や配役などを行う職業)である高橋安吉の世話になっていた。
肝煎は出入船の取締りや船員の雇入れなど、海事のことまで任されていた。

ところで、石浜には『せんちょう浜、おじゃら浜』と呼ばれる、その昔、火葬を行った場所があった。
他国の人間が死ぬと、ここで荼毘に付したというのだ。
あるとき、海幸丸なる船が航海中に、三河出身の仙吉という船乗りが、釜石沖で急死してしまった。
後日、仙吉の遺体を積んだ船が石浜港に入ったという届けが高橋安吉のもとに入ったので手続きを済ませ、
瑞厳寺から和尚を呼んで、葬式の用意をさせた。

船仲間たちで火葬の段取りを終え、親しかった権吉と銀蔵の2人が火葬の世話を買って出た。2人は薪を焚き続けた。
その日は静かな晩だったものの、薪や芝が燃える青白い炎、遺体が焦げる胸のむかつく臭い、その間を黒い煙が渦を巻いて、
あたかも地獄絵図のような光景だった。
それでも2人は、仲のよかった仙吉のために線香を上げ、念仏を唱えながら無心で薪を足し続けた。

時間も経ち深夜になった。権吉と銀蔵は、
「もう十分焼けたんじゃなかろうか。そろそろしまいにするか」
「だな。ずいぶん遅くまでかかっちまった。あとは明日、仙吉のお骨を拾うだけだ」と、話していた。

そのときであった。燃え盛っていた炎の中から、突如、凄絶な形相に歪んだ仙吉の顔がぬっと浮かんだ。
すると仙吉は全身の火の粉を振り払いながら立ち上がり、権吉めがけて覆いかぶさるように抱きついてきたのだ。
あまりの異常事態に権吉はたまげてしまい、口から泡を吹いて腰を抜かしてしまった。
そばの銀蔵も、顔面蒼白になり、身体の震えがとまらない。
2人とも筆舌に尽くし難い恐怖のために気を失ってしまった。

翌朝、仙吉の骨を拾いに来た村人たちは現場を見るなり、肝をつぶした。
あれほど薪をくべ続け、とっくに骨になったはずの仙吉は原型を保ったまま外に投げ出され、
権吉と銀蔵が気絶していたのだから無理もあるまい。
その後、権吉と銀蔵はショックで半年ばかり寝込んでしまった。
地元では、この浜を『おじゃら小沙羅の浜』と呼んでいる。

現代でも火葬場で、釜の中の遺体が筋肉の収縮により半身を起こす現象は一般的に見られるそうだが、
原型を保った状態で起き上がってきたとはどういうことだろう? 
医学も発展していない時代、誤診により、死亡と判断されたケースはよくあったらしいが……。


塩竈の民話「おじゃら浜の奇談」
http://shiomo.jp/archives/1487

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271 2013/01/26(土) 09:30:09 ID:1gRq6t5g.c
     悲しい思いをするのはいつも女ばかり……遊女みどりの悲恋物語 安居島(あいじま)

愛媛県今治市にある高縄半島の西側に広がる海を斎灘(いつきなだ)といい、そのほぼ中央に位置するのが安居島である。
安居島は文化14(1817)年、大内金左衛門なる人物が浅海村(あさなみむら。現在の松山市浅海原周辺)から入植したことを契機に発展した。
金左衛門が港の整備を行ったことで、潮待ち、風待ちで立ち寄る船が増え、幕末から明治期にかけて遊郭ができるほどに賑わった。
つまり、船乗り御用達の遊女たちがひしめく『女郎の島』だったのだ。もっともそれも過去の話であり、過疎化が進んでいる。

港の西側には古びた観音堂がある。その横には『遊女みどり』の墓があるのだが、悲恋話と同時に不思議な言い伝えが残されている。
それを紹介しよう。

みどりはある常連客と恋に落ちた。
男たちは遊女の腕から腕へすり抜けていくのをわかっていながら、気持ちに歯止めをかけることはできなかった。
しょせん、それは叶わぬ恋。みどりは嘆き悲しみ、ついに波止場から身を投げたのだ。
その後、彼女の遺体は島の東の浜の岩に打ち寄せられた。それにちなみ、この岩を『みどり石』と呼ぶようになった。
時代は明治に移った。港の改修工事の際、石工がこの石を割ったところ、石の中から白蛇が出てきたと思ったら、
その石工は病気になってしまったというのだ。
島民はみどりの祟りだと恐れ、以来その岩に手を付けるものはいないという。


愛の島の歴史
http://imag045.exblog.jp/14986262/

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272 2013/01/27(日) 15:21:56 ID:nZw4dA6ROs
     海難の代償もやはり女……般若姫伝説 笠佐島

>>80で山口県の笠佐島には墓がなく、野外で荼毘に付すしきたりがあるのを前回取り上げた。
それとは別に、この島にも女性が犠牲になってしまう伝説が残されていたので追記する。
大分県やこの笠佐島周辺には広範囲にわたり、『般若姫伝説』という話が残されているのだ。

昔々の話である。
筑紫豊後の国、真野の長者には般若姫という子がいた。自慢の美しい娘へと育った。
その噂は遠く都の、三十代欽明天皇の皇子、豊日命(三十一代用明天皇)の耳にも届いた。
皇子は般若姫に一目逢うべく、朝廷を抜け出すことにした。修行者に身をやつして豊後に下り、
ついに般若姫と結ばれる。

しばらく経ったころ、皇子は天皇の命令を受け、都に呼び戻されることになった。
姫はすでに身重だったため、一緒に上洛することはできないので、別れを惜しみながら、先に都へ帰っていった。
皇子19歳、姫17歳のことであった。
やがて 姫は美しい女子を安産。玉絵姫と名付けた。

健康を取り戻したあと、般若姫は赤子を長者に託し、夫のもとへと旅立つことにする。
長者は姫に多くの家来と大船小船120隻を用意して、一行は臼杵(うすき)の浦を出発。
はじめは穏やかだった海も、周防の国の近くにさしかかると急な嵐に見舞われ、船は豊後の国に流されてしまう。
天気が回復し船を出したものの、大畠鳴門の瀬戸にさしかかかったところで、またぞろ暴風に襲われた。
たちまち120隻は散り散りとなり、多くの船が沈んだ。

奇異な現象であった。実は嵐の正体は、かつて長者に池を潰された金龍神の怒りそのものだったのだ。
一行は、そばの浦に船をとどめ、行方不明になった者たちを捜し、多くの遺体を引き上げた。
姫は嘆きは深い。「私は、こんなにまで大勢の人の命を犠牲にしてまで、皇后になりたいとは思いませぬ」
そして覚悟を決めると、渦巻く大畠の瀬戸に身を投げたのである。
侍女たちもあとを追うように飛び込んだ。驚いた船人たちが慌てて救い上げたが、姫の命は風前の灯火であった。
「二度とこの場所で、むごい事故が起こらないよう、私は瀬戸の守り神となります。亡骸は向こうに見えるあの山に葬ってください」と、
遺言を残し、息を引き取ったという。
家来たちは嘆き悲しみ、姫の最期の言葉どおり、今の山口県平生町神峰山の頂上に埋葬した。

訃報を聞いた皇子と、長者の悲しみも同様であった。
言いつけに従い、神峰山に墓を建て、姫の念持仏『金の観音像』を納め、般若寺を建立した。
この出来事のあと、毎年陰暦12月大晦日の夜、大畠の瀬戸から火の玉が3つ舞い上がり、1つは神峰山山頂の『龍灯の松』にとまったあと、
般若寺の観音堂の三光之窓に入っていくという。また別の1つは対岸の大畠の瀬戸の明神様へ、もう1つは大島三蒲の松尾寺に向かって、
飛ぶようになったといわれている。そして、その火の玉を見た人は、大漁・豊作・福徳に恵まれるということである。
ちなみに、溺れる姫に島民が笠を捧げたことから『笠捧げ島』と呼ばれ、やがて縮まり、『笠佐島』と変遷したのが島名の由来だった。


1月7日その2 松尾寺
http://homepage3.nifty.com/GAITEN/page055.html
飯の山(いいのやま) 山口県周防大島町
http://houshizaki.web.fc2.com/iinoyama.htm
般若姫伝説
http://www.hunterslog.net/dragonology/ryujatan/chugoku/hirao/01.html

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273 2013/02/09(土) 21:48:21 ID:ip3wnsDOHI
     牛鬼を退治、その妖怪ハンターの末裔は今も健在 牛島

山口県光市の沖に浮かぶ牛島には血沸き肉踊る『牛鬼伝説』が残されており、牛鬼を倒したとされる英雄の墓まで残されている。

天文年間(1532〜54)、戦国時代のことである。
牛島には牛鬼(うしおに、ぎゅうき)と呼ばれる恐ろしい妖怪が潜んでいた。
牛鬼とは、頭が牛、首から下は鬼の胴体を持つとも、あるいはその逆で、頭が鬼、胴体が牛の場合もあるといわれている。
別の伝承では、牛の首に蜘蛛の胴体をしているともされる。海岸、山間部、森林、川や沼地、湖にも出没するという。
とくに淵に現われることが多いとされ、近畿地方や四国にはこの伝承が伝わる『牛鬼淵』『牛鬼滝』なる地名が残っているほどである。
性質は残忍、獰猛で、毒を吐き、老人や子供をさらい、食らい殺すと恐れられた。

この牛鬼による悪事はあまりにもひどく、島民の悩みの種であった。
それが嵩じて、多くの人々が家や畑を捨てて島外へ逃げ出すほどだった。
折しもそのころ、土佐の長宗我部家の家臣、橘諸兄の末裔に当たるという藤内図書橘道信と、
その弟、御旗三郎左衛門信重の2人が乗った船が時化にあい、漂流したのち牛島に流れ着いた。

ここはなんという島であろう。情報収集すべく道信たちが島を練り歩くものの、人家はあれども肝心の人影が見当たらない。
不思議に思い方々を探してみると、島の出らしい漁師たちと出会えた。
事情を聞くと、それもこれも牛鬼のしわざだと漁師たちは口をそろえて言う。
真相を知った道信たちは、すぐさま刀を差し、牛鬼征伐に向った。
ところが牛鬼は手ごわく、とても太刀打ちできそうにない。2人はひとまず本土の室積の浦へと撤退することにした。

地元の漁師に聞くところによれば、隣の三輪村に、城喜兵衛平朝臣高経とその弟の明兼という弓の名手が住んでいるとの情報をつかんだ。
道信たちは、さっそくその兄弟に会いに行き、弓の教えを乞うた。2人はめきめき上達し、名人の弓の技術を会得した。
十数日が経った。道信たちはふたたび牛島に渡り報復戦に望んだ。そして見事牛鬼を退治したのだった。

この牛鬼征伐の話は、今も橘道信の子孫に当たる牛島の藤内家、御旗信重の末裔だという小川家にそれぞれ記録として保存されており、
尊敬の対象だという。


牛鬼 wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%89%9B%E9%AC%BC
山口県光市牛島の牛鬼伝説
http://blog.goo.ne.jp/uchikonotemae/e/f4b11f9a73dec6f9ab43c47f87a6f934

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274 2013/02/10(日) 17:03:38 ID:MEdAYSpXRc
     ハンセン病患者を隔離した島・2 長島

ハンセン病患者を隔離した島は>>44の香川県高松市の大島だけではない。岡山県瀬戸内市にある長島もそうだった。
長島もまたハンセン病の療養所として、日本の近現代史にその名を残している。
1930年、国立ハンセン病療養所、『長島愛生園(あいせいえん)』が開園して以来、1988年、島と本土とを結ぶ橋が架けられ陸続きになるまで、
終身隔離政策をとる日本のハンセン病政策の象徴であった。

1927年、日本初となる国立ハンセン病療養所である愛生園を同島に設置。
この際、村有地や民有地のほとんどが国に買収され、島民はいなくなる。収容人員400名を目標にして1930年に療養所が完成したが、
予定を超えて1943年には2000人以上が収容されていた。
また1938年には大阪府から公立らい療養所(外島保養院)が長島に移転。1941年に国に移管され国立療養所邑久光明園となっている。
こちらには最盛期で1000名の患者が収容されていた。

初代園長に就いた光田健輔(みつだけんすけ)氏の信念=ハンセン病患者の強制的な終身隔離政策を実現する施設として、離島である長島はうってつけであった。
以後、施設運営維持の名目のもと、患者に重労働を強制し、職員による虐待、堕胎、パイプカットの強要など違法な外科手術を施した。
慢性的な食糧不足、外部との連絡の制限など、戦中から戦後直後をピークに、この隔離島の中では社会に知られることもなく、
数々の人権侵害事件がくり返されていくことになる。
1996年のらい予防法改正によって患者の入所は義務ではなくなったが、長期間の隔離により出所は困難になっており、
2005年時点で計685名がいまだ入所しているという。

我々はこの悲劇を忘れてはならない。


ハンセン病と差別---「岡山県長島愛生園」
http://uemukai.air-nifty.com/blog/2010/05/----18a7.html
「海の壁」の物語 ハンセン病カヤック紀行(1)岡山長島・ハンセン病の島をめぐる
http://www.bfkayaks.com/hedatenoumi.html
国立療養所の名を借りた「収容所」
http://rg4.rg.med.kyoto-u.ac.jp/jdsn/data/hansen.html
心の壁を越えるために「ハンセン病問題」ノート
http://mauer.seesaa.net/category/16334101-1.html

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275 2013/02/11(月) 18:22:38 ID:ZoHtRDKtwk
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276 2013/02/17(日) 17:31:27 ID:nSv/dix3aA
     霧の摩周湖伝説 カムイシュ島

カルデラ状の火山である摩周湖のほぼ中央には、カムイシュ島(中島)という小島がある。
島は比高210mを越える溶岩ドームの頂上部分が湖面上に突出したもので、形状は丸く崖に囲まれている。
『カムイシュ』とはアイヌ語の『カムイ』、つまり神そのもの、または崇高な霊的存在と、『シュ』は老婆の意であるといわれ、
その名はアイヌの口承文学であるユーカラによりアイヌが名づけたものである。その伝説がこうだ。

昔、アイヌの一族はコタンという集落を作り、森で獲物を取って暮らしていた。
ところがあるときを境に、獲物がほとんど取れなくなり、獲物をめぐって別のコタンといさかいが起きるようになった。
ついに、あるイヨマンテ(熊祭)の夜、争いに発展。一方のコタンは敗れ、ほぼ絶滅される。

敗れたコタンの老婆とその孫トンクルは命からがら逃げるが、道中、孫がはぐれてしまう。
老婆はトンクルを探してさまようがどうしても見つからず、そうこうするうちに摩周湖までたどり着いた。
彼女は聖なる摩周岳に一夜の休息を請い、お許しをいただいた。

悲嘆のあまりクタクタになった老婆はそこにとどまり続けた。
来る日も来る日も孫を待ち侘び、ついにはカムイシュ島になってしまった。
今でも摩周湖に人が近付くと、老婆は孫が現われたと喜び、うれし涙を流すのだという。
この涙が雨であり霧であり吹雪なのだ。


摩周湖の夏景色
http://hokkaido.env.go.jp/blog/article.php?blog_id=129

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277 2013/02/17(日) 17:36:37 ID:nSv/dix3aA
     人々が畏れる山羊神伝説 入砂島(いりすなしま)

かつて、唐の国から粟国島へはるばる船が渡ってきた時代があった。ところが島の南西端の筆ん崎(ふでぃんさき)に衝突。
岬の先が折れて流れそうになったので、天人(あーまんちゅ)が天扇(あままーおうじ)で煽ぎ、引き寄せようとした。
それでも漂流していくので、天人は粟国島とその流れ行く岩に足をかけて戻そうとしたのだが、
誤って海にはまり命を落としてしまった。このときの天扇の跡は今も筆ん崎の北側の崖に名残りをとどめているという。
漂流した岩は渡名喜島(となきじま)の真向かいにさしかかった。当時、渡名喜島には首里ぬ主という人物がおり、
「その島は、私のものだ!」と叫ぶと、岩はピタリとそこで止まり、今の入砂島になった。

時代は変わり、その入砂島では不思議なことが起きるようになる。
夜になると入砂の神を祀る中御嶽(なかうたき)から動物が駆け回る足音がするようになった。
ある人が島にタコやアオサを取りに行き一夜を明かし、翌朝、中御嶽の周辺を見ると山羊の足跡が残っているではないか。
それで人々は噂するようになる。入砂島には山羊の姿をした神がいるのだろうと。

だから島では山羊の話をするのはタブーであり、豚や牛は飼えても山羊だけは飼えずにいた。
入砂島は神がいる島なので潮干狩りに行ったら、「神様の島に来ました。無事に潮干狩りをさせて下さい」と、
合掌してから上陸しなければならない。また乱暴な言葉を使ったり、大声を出すのは同様に禁忌とされる。
あるとき追い込み漁で大漁になったので、舞い上がった漁師が「バンザイ!」と叫んだ途端、
舟が引っくり返り、せっかくの収穫がすべて海に流されてしまった逸話が残るという。

入砂島は那覇市の北西約60km、久米島、慶良間諸島、粟国島のほぼ中間に位置し、渡名喜島とともに渡名喜村に属する。
不思議な山羊神の伝説により人々に畏怖される入砂島だが、実は戦後から現在に至るまで米軍の射爆撃の演習地として使用されているのだ。
開放日以外、一般的には立ち入り禁止の島になっている。


エコカーで巡る渡名喜島の旅
http://omoidenotabi.blog41.fc2.com/blog-entry-365.html
渡名喜島(となきじま)
http://imagic.qee.jp/sima4/okinawa/tonakijima.html

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278 2013/02/23(土) 09:29:11 ID:TUnKwC1QNc
     東京湾要塞計画の遺物 海堡(かいほう)

言うまでもなく、東京湾は首都、東京につながる重要な海の玄関口である。
明治のころより、イギリスやアメリカなど欧米列強国が勢力を拡大するためにアフリカやアジアの小国を次々と侵略。
明治政府もその脅威を重く受け止めていた。
幕末に列強国から開国を迫られて明治維新が起こり、以来、近代国家をめざしていた明治政府としては、
なんとしても我が国を侵略から守るために手段を講じる必要があった。そこで立案されたプランが東京湾の海堡建設だった。
東京湾は浦賀水道に抜ける手前に狭まった海域がある。房総半島の藤津岬と三浦半島の観音崎を結ぶラインである。
明治政府は帝都を守るべく、ここに東京湾要塞計画を打ち立てることにしたのだ。

当初は大砲の射程距離を鑑みて2.5kmおきに3つの海堡を建設する予定だった。
まず着手したのは富津岬沖の第一海堡の建設。着工は明治14(1881)年、竣工は明治24(1890)年。
9年の工期を経て、面積23100?の海堡が水深5mの地点に設置されたわけだ。
第二海堡は、第一海堡が竣工する1年前の明治22(1889)年に着工し、その3年後の明治25(1892)年には第三海堡の建設も同時に進行。

ところが第二、第三の海堡の建設は難航する。とくに水深39m地点に建設しようとした第三海堡は襲いくる高波が最大の敵で、
さらに水深の深さと潮の流れの激しさに至難を極めた。
積み上げた石の上にコンクリで造られた堤防は、たび重なる高波で幾度となく破壊され、竣工までになんと29年も費やしてしまう。
当時、埋め立て造成費だけで約250万円(現在の金額に換算すると約140億円に相当)もの巨費を投じることになってしまったのだ。

完成した第三海堡は面積34000?、砲台と兵舎や地下室などの兵備が設けられたが、せっかくの機能はほとんど利用されることなく、
2年後に起きた関東大震災で島全体が崩落し、施設の3分の1が水没してしまう憂き目にあう。
第二海堡も例外ではなく、崩れ落ちたレンガの建造物が今もそのまま放置されている。
現在、第一、第二海堡は国の管理下にあるため立ち入り禁止になっており、その洋上要塞の遺物は遠巻きにしか見学することができない。
第三海堡に至っては、浦賀水道を航行する船の妨げになるため、2007年に撤去された。


東京湾海堡
http://www.geocities.jp/kamosuzu/kaiho.html
東京湾海堡ファンクラブ
http://kaihoufc.com/
旧日本軍の洋上要塞「第二海堡」に行ってきた。
http://kengaku.exblog.jp/1158751

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279 2013/03/02(土) 17:09:57 ID:7/1gl5Yu66
     弁天様がお上に変わっておしおき 江ノ島

鹿児島垂水市は桜島が間近に迫り、大隅半島に位置する漁業と養殖が盛んな港町だ。そんな市にも『江ノ島』がある。
おかしなもので江ノ島とくれば弁財天がつきものである。この島にも弁財天にまつわる不思議な話が語り継がれている。

かつて薩摩では、鱶九郎(ふかくろう)という人さらいが悪さを働いていた。
人さらいたちの居所は不明で、四国の宇和島とも、瀬戸内海の因島とも言われていた。
薩摩はたばこの名産地で、たばこ畑が広がっていた。たばこは大人の背丈よりも高く茂り、鱶九郎とその一味は畑の中で待ち伏せしては、
次々と若い娘をさらうことに成功していた。娘はあちこちの港で売り飛ばされた。いずれ女郎屋行きになるのだろう。

ある日のこと。鱶九郎は上機嫌であった。その日はなにせ12人もの娘をさらってきたのだから。
夜更けになると娘たちを舟に乗せ、港を後にした。
ところが舟が瀬戸海峡を通り抜けようとしたころ、霧が立ち込めはじめた。霧は濃くなるばかりで、方向感覚を失う始末。舟は立ち往生した。

そのときだった。「もし……そこの舟、どこへ行くのですか?」と声がする。
鱶九郎がまわりを見回すと、いつの間にか舳先に娘が立っているではないか。
さらってきた12人の娘のうちの1人ではあるまい。現に12人はひと塊になり、これからの行く末を案じて打ち震えているのだ。
謎の娘は言う。「私はこのあたりの浜育ちです。この海域のことなら目隠しされていても、手に取るようにわかりますよ。
無事に通りたくば、私の言うとおりに進みなさい」と言うものだから、鱶九郎は不審に思いながらも信じることにし、
娘の示す進路方向に舵を取りながら舟を進ませた。

しばらく漕いでいると、娘が言った。「このあたりは岩礁が多いので注意してください」
たしかにあたり一面、小さな岩礁が海面から突き出しており、娘の指し示す方向に進路を変えながらの航行は神経をすり減らす思いだった。
舟はどうにか難所をやりすごした。
「やれやれ、これは骨が折れるわ。ここいらで一息いれよう」鱶九郎が提案すると、舳先の娘はくるりと向き直り、
「では、そこの島に舟を着けましょう。休憩するにはもってこいですわよ」と、指差した。
見れば、霧をすかして目前に小島が迫ってくる。
「ここは弁天の島。島の神様が、きっとお守りしてくれるはずです。それに間もなく霧も晴れましょう。私は先に島の様子を見てまいります」
娘はそう言うと浜に下り、山の中腹へと消えていった。やがて霧も薄れてきた。

すると、6艘の船が包囲する形で、島に向かってくるのに鱶九郎は気づいた。どの船にも、弓矢を引きしぼった役人たちが舳先に立っていた。
「なんでおれたちの所在がわかったんだ?」鱶九郎たちは慌てて舟を漕ぎ出したが、逃げるには遅すぎた。ついに役人のお縄にかかってしまった。
さらわれた娘たちが、島まで先導して消えた娘のことを役人に話すと、役人も、「私どもに人さらいのことを知らせに来たのも娘だった」と言う。

謎の娘の素性を調べるため、手分けして小島を調べていると小さな社が見つかった。
扉を開けてみると、あの娘にそっくりな顔立ちの弁財天の像が祀られていたのだった。
きっと人さらいに捕まった娘たちを不憫に思った弁財天様が助けてくれたに違いあるまい。
それからというもの、薩摩に平和が訪れた。もう人さらいに怯えることもなくなった。
弁財天が祀られているこの島こそ、海潟温泉の目の前にある江ノ島だという。


江ノ島弁財天の話 垂水市
http://kagosimalegend.seesaa.net/category/14103066-1.html

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280 2013/03/07(木) 06:43:55 ID:hMdAT4nujk
     日ごろの善行にお地蔵さんは応えてくれた 沖家室島(おきかむろじま) 

山口県大島郡周防大島町に属する防予諸島の島の1つに沖家室島がある。
面積はたった0.95km²ながら、かつては3000人もの人がひしめいていた。ところが時流の波に逆らえるはずもなく、
今では200人ほどしか住んでいない高齢化率が日本最高水準の小島である。
沖家室島には泊清寺のかたわらに『鱶(ふか)地蔵堂』があり、海の守り神として信仰され、彼岸にはご開帳と祭りが催される。
その鱶地蔵堂にまつわる言い伝えがこうだ。

かつて沖家室島には善右衛門という漁師がいた。泊清寺の地蔵にお参りをかかさない心優しい男だった。
善右衛門には妻がいたのだが、その実、妻は他に男がおり、いつか夫を殺害してやろうと機会を狙っていたのだ。

ある日、妻が沖の『千貝の瀬』へ潮干狩りに行こうと善右衛門に持ちかけた。
その瀬は満潮になると海中に沈んでしまう危険な場所ではあったが、妻の頼みを無下にすることもできず舟を出すことにした。
善右衛門が貝採りに集中している間を見計らって、妻は舟を漕いで瀬から遠ざかり、夫を置き去りにしてしまった。

日は沈み、刻一刻と潮が満ちてくる。泳ぎ渡ろうにも島までは遠すぎた。
善右衛門は腹をくくった。泊清寺に祀られた地蔵の名を唱えながら死のうと思ったのである。
迫りくる潮に身をひたしながら、「南無地蔵大菩薩……」と念仏を唱えていると、なんと目の前に1匹の鱶が現われたではないか。
鱶は黒い眼で善右衛門を見つめ、まるで自分の背に乗れと言わんばかりにおとなしくしている。
善右衛門とて生に未練がある。おずおずとその背中にまたがり奇跡を信じた。途端に鱶は泳ぎ出した。

しかし、鱶はあんまり速く泳ぐものだから背びれにつかまっていた手が滑った。
慌ててつかみなおそうとしたら、手に持っていた小刀で鱶の背中を刺してしまった。
悪いことをしたと思い引き抜こうとしたものの、鱶は痛がるそぶりも見せず泳ぐのをやめない。
そのうち鱶は無事に島まで届けてくれた。善右衛門をおろすと鱶は小刀を刺したまま海の彼方へと消えていった。

次の朝、泊清寺へ足を運んだ善右衛門は驚いた。地蔵の背中に小刀が刺さっていたからだ。
善右衛門は涙を流して地蔵に感謝した。


鱶になった地蔵さん 〜山口県沖家室島〜
http://www.kyosuiren.or.jp/html/page01411.html

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281 2013/03/09(土) 01:55:01 ID:pCYucmQKDM
[YouTubeで再生]
かつてバスの転落事故が起きたいわくつきの峠道

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282 2013/03/09(土) 13:27:53 ID:WvGdMLfzEs
     犬飼村の猿神退治

久しぶりに村ネタすっか。

その昔、沢村(現在の姫路市香寺町犬飼)では、年に1度の氏神祭りに、神への供物と称して人身御供を捧げる悪しき風習があった。
ある年ついに、堤佐助(つつみさすけ)の1人娘に順番がめぐってきてしまう。まだ13歳の子だ。
「いくら氏神様のためとはいえ、我が子を生贄にするなんてできようか……」と、佐助は苦しみ悩んでいた。

そんな折、佐助宅へ伊勢神宮の教えを布教するために、芝左太夫(しばさだゆう)という男が、艶やかな毛並みをした犬を従えて訪ねてきた。
佐助はすがる思いで左太夫に事情を話した。
「人身御供とは野蛮なことを。ならば私が娘の身代わりとなり、氏神の前に行って事の真相をしっかと見届けよう」

左太夫は愛犬を伴い氏神の社へ向かい、社殿の戸を閉めて、中で待ち伏せすることにした。
すると、夜半すぎに突如戸が開け放たれた。
目の前に現われたのは、身の丈、人の背よりも巨体を誇る大猿……狒々(ヒヒ)だった。

狒々は左太夫に食ってかかってきた。
その瞬感、左太夫の愛犬が電光石火の反応を見せ、狒々に飛びかかった。そのまま格闘に持ち込んだ。
愛犬は強かった。ついに狒々を組み伏せ、のど笛に噛み付いてとどめを刺そうとしたとき、狒々はタヌキへと姿を変え、
脱兎のごとく山へと逃げていった。

氏神の正体を知った村人は考えなおし、以来、この村では人身御供の風習はなくなった。
また左太夫が伝えた伊勢の神を氏神として祀ることにした。
さらに村の名前も、沢村をあらため、犬飼村と呼ぶようになったという。


ひょうご伝説紀行−妖怪・自然の世界−
http://www.hyogo-c.ed.jp/~rekihaku-bo/historystation/legend3/html/011/011.html

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283 2013/03/09(土) 13:34:51 ID:WMHONNJ/tA
>>282は、『地域の伝説やまじない・風習』スレでも書いた剣豪、岩見重太郎の狒々退治の話と酷似してるんだよね。
この手の話は全国至るところに似た話が点在している。一応転写しておこう。


     一夜官女祭り 泣き村
     
野里は昔から中津川が氾濫するたびに畑がやられて作物が育たず、村人は悲惨な暮らしを強いられていた。
近隣の人々は野里のことを、『泣き村』と呼んでいた。
あるとき占い師が占ったところ、毎年決まった日に無垢の娘を神に捧げよ、とのご託宣があった。
村人たちはおののきつつも、これで村の難儀が救われるなら、と承知した。
主だった者が夜中に集まり、弓に白羽の矢をつがえて放つと、矢は暗い夜空を飛んで一軒の家に突き刺さった。
矢が突き刺さった家は泣く泣く娘を神のもとへ行かせるしかない。

1月19日の丑三つ時(現在の午前2時)、娘は美しく着飾られて唐櫃(かろうど)に入れられる。
村人たちに担がれて野里の住吉神社境内まで運ばれ、竜の池のそばに放置された。
唐櫃の前には餅、酒、小豆、干し柿、豆腐、ダイコン、それに中津川で獲れたコイ、フナ、ナマズなどが供えられた。
翌朝、村人たちがおそるおそる境内まで行ってみると唐櫃は破られて娘の姿はなく、供え物も食い荒らされていた。       

不思議なことにその年、野里は雨風も少なく中津川も穏やかで、久々に豊作に恵まれた。
村人たちは神が生贄に応えてくれたのだと信じた。
それからというもの野里では、矢の当たった家を『当家』(頭家・頭屋とも表記する場合もある)、
神に供える娘を『一夜官女』と呼び、毎年、娘を神に供えた。

こうして生身の娘を神に捧げ続けて7年目に、1人の武士が現われ、
「おかしな話よのう。ならば拙者が娘の身代わりになって神の正体をたしかめてやろう」と言い、娘の着物をまとって唐櫃に入り込んだ。
村人たちは祟りを恐れながらも、身代わりの武士の入った唐櫃を神社境内の竜の池のほとりまで運び、逃げ帰った。
翌朝、空が白み始めるのを待って村人たちが境内に行ってみると、唐櫃は壊されて周囲に血が飛び散っており武士の姿はなかった。
点々とついている血の跡をたどっていくと、隣の申村のはずれに大きな狒々が深手を負って絶命していた。
村人たちはこれが神の正体だったのかと言って悔しがった。

このときの武士が武者修行中の岩見重太郎だったといわれる。
武士の武勇はあっという間に広まり、以来、野里は悲しい事実を後世に伝える厄除けの祭りとして、
宮座の当番制により娘たちの命日である1月19日に一夜官女祭りを催すことになった。
同時に境内にある竜の池に乙女塚を建てて官女たちの霊をなぐさめた。

野里住吉神社は大阪市西淀川区にあり、600年も続く奇祭の1つだ。


薄田兼相(岩見重太郎)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%96%84%E7%94%B0%E5%85%BC%E7%9B%B8
野里住吉神社 一夜官女祭
http://www.norichan.jp/jinja/shigoto2/nosatosumiyoshi-ichiya.htm

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284 2013/03/10(日) 21:55:18 ID:1XFp/v/Pt.
     死体を見てインスピレーションを得た柿本人麻呂 沙弥島(しゃみじま)

香川県坂出市にあるのが沙弥島である。
以前は瀬戸内海に浮かぶ塩飽諸島の島であったが、1967(昭和42)年、番の州工業地帯の埋め立て造成により地続きとなった。
現在は隣接して瀬戸大橋記念公園が整備されており、沙弥島海水浴場は夏場になると海水浴客で賑わう。

昔、万葉の歌人である柿本人麻呂が旅の途中、潮待ちのため一時この島に避難した。
そこで行き倒れの死体を見つけ不憫に思い、また死者の帰りを待つであろう妻子へ思いやり、歌一首、併せて短歌を詠んだ。

「玉藻よし 讃岐の国は 国からか 見れども飽かぬ 神からか ここだ貴き 天地 日月を共に 足り行かむ 
神の御面と 継ぎ来る 中の湊ゆ舟浮けて 我が漕ぎ来れば 時つ風 雲居に吹くに 沖見れば とゐ波立ち 
辺見れば 白波さわく いさなとり 海を恐み 行く舟の 梶引き折りてをちこちの 島は多けど 名ぐはし 
狭岑の島の 荒磯面に 廬りて見れば 波の音 しげき浜辺を しきたへの 枕になして 荒床に ころ臥す君が
家知らば 行きても告げむ 妻知らば 来も問はましを 玉鉾の 道だに知らず おほほしく 待ちか恋ふらむ 
愛しき妻らは」

柿本人麻呂は一般的に奈良時代の歌人として知られているが生年、没年ともに不明とされている。
孝昭天皇の皇子の子孫ともいわれ、万葉集以外の史料では所伝がなく、晩年は石見国で死去したといわれている。


沙 弥 島 沙弥島に万葉歌人 柿本人麻呂の足跡を訪ねて 
http://www1.ocn.ne.jp/~tokko/samijima/samijima..html

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285 2013/03/10(日) 21:57:21 ID:1XFp/v/Pt.
     柿本人麻呂に瓜二つ? 奇岩、人形岩

島根県益田市飯浦町には>>267と同じく『人形岩』と呼ばれる奇岩が見られる。
もっとも『にんぎょういわ』ではなく、『じんぎょういわ』と読むのが有力のようだが。
この奇岩は柿本人麻呂像(立て膝で右手に筆、左手に短冊を持ち、大海原を眺めて歌を詠む姿像)に
そっくりの岩として知られている。高さは海面から頭の先まで7.8mに及ぶという。

柿本人麻呂に瓜二つとの触れ込みだが、個人的な意見を言わせてもらえば、まるでゴーレムが尻餅を突いたうえ、
むき出しのチンコからおつゆが漏れ出しているかのように見えるけど……。


人形岩の謎(益田市飯浦町)
http://masuda.shimanavi.net/e1607.html

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286 2013/03/10(日) 22:07:04 ID:1XFp/v/Pt.
     「柄杓を貸してくれ……」 八丈島

その昔、八丈島には太兵衛と佐吉という若者が住んでいた。2人は腕が良いとの評判の漁師だった。
佐吉は島一番の男前であり、一方の太兵衛は無類の力持ちとして知られていた。と同時に、2人は無二の友でもあった。
そんな2人はどちらも船主の娘、ヨネのことを好いていた。ヨネもまんざらではなかった。
ヨネの父親が太兵衛と佐吉を呼び出し、こう言った。「わしはどちらか稼ぎの多い方にヨネを嫁にやりたいと思うておる」
それからというもの、仲の良かった2人は敵同士になった。

波の静かな日に、2人は別々の舟に乗り漁に出た。
ところが太兵衛の釣り竿には魚がかからず、なぜか佐吉だけが爆釣した。
佐吉の船底は釣れた魚で一杯になった。さらに釣れるだけ釣って太兵衛をだし抜いてやろうと躍起になっているうちに、
魚の重みに加え、大波をかぶって佐吉の舟は転覆してしまう。

「太兵衛、助けてくれ。舟に乗せてくれ!」溺れそうになる佐吉は叫んだ。
「なら、ヨネをおれに譲れ。ヨネをくれるなら乗せてやる」と、太兵衛。
「汚いぞ。それとこれとは話が別だろうが!」と、佐吉が叫び、かまわず太兵衛の舟の縁に手をかけた。
「だったら死んだらええ!」太兵衛は舵を振りかぶり、佐吉の脳天めがけ殴った。
「ヨネをよこしさえすりゃあ、こんなことにはならなかったんだ……」
太兵衛は何度も殴り、頭が砕け、血に染まった佐吉は海の中に沈んでいった。

何食わぬ顔で島へ帰った太兵衛だったが、やがて罪の意識にさいなまれ、家にこもりがちになった。
こうなると、皮肉なことにヨネのことなど気にかけなくなってしまう。
島民はそうとは知らず、佐吉が漁に出たままいなくなったと大騒ぎしていた。が、いくら探しても佐吉の行方は杳として知れない。

それからしばらく経ったある日。太兵衛はようやく漁に出られるようになった。
沖で1人釣糸を垂れていると、遠くから舟が近づいてきた。舟にはあの佐吉が乗っていた。
「まさか佐吉……死んだはずじゃ?」太兵衛はうろたえた。

頭の砕けた佐吉は恨めしそうにこう言った。「柄杓(ひしゃく)を貸してくれ……柄杓を……」
太兵衛はおそるおそる柄杓を渡すと、佐吉は無言で海水を汲んでは太兵衛の舟に注ぐのをくり返した。
太兵衛は謝るが、佐吉は海水を入れ続け、太兵衛の舟はついに沈んでしまった。

溺れかける太兵衛は佐吉の舟に近づき、乗せてくれと頼むが、佐吉は舟ごと消えてしまう。
太兵衛はしばらくは海に漂っていたが、そのうち大きな波に飲み込まれた。

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287 2013/03/11(月) 00:03:07 ID:Eldj2jcDGQ
>>286
画像のように所謂船幽霊の一種みたいですね。
漁師の船幽霊予防法は底の抜けた柄杓を常備するんだそうですが。

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288 2013/03/16(土) 10:38:39 ID:YuX1KeOrk2
>>287
この手の「柄杓を貸せ」みたいな怪談は上は岩手、福島から始まり、四国や山陰地方、下は九州全域に至るまでそこらじゅうにあるね。

船幽霊のwikipediaには民俗学の切り口による考察もなされ、たいへん興味深い。
なかでも近年の事例として、『1969年には神奈川県の海で、白い人影のようなものが目撃されて「ひしゃくを下さい」と声が聞こえたといわれ、
大学のヨット部の遭難した部員が、沈んだヨットから水を汲み出したがっているといわれた。』というのは面白い。

また、『猛霊八惨(もうれんやっさん)』という祭りもあるね。そういった船幽霊と化した人の魂の鎮魂祭だとか。
猛霊八惨を世に知らしめたのは水木しげるか? 実を申せば僕は最近まで知らず、こないだ古本屋で水木氏の短編集を買ったら、
この一篇があり、初めて知ったクチだったりして。


船幽霊wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%88%B9%E5%B9%BD%E9%9C%8A
3月22日 猛霊八惨大明神祭が開催されました。
http://www.sakaiminato.net/site2/page/suisan/conents/news/2004/mourei/

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289 2013/03/16(土) 10:43:05 ID:YuX1KeOrk2
     犬を飼うのが許されない島 篠島(しのじま)

知多半島と渥美半島の中央に挟まれた三河湾の入り口に位置するは篠島だ。
その昔、伊勢神宮に参拝する旅人は『宮巡り』と称して伊勢から篠島へと渡り、島の伊勢土之宮も併せて参るのが習わしだったというから、
いかに伊勢とゆかりある土地かわかろう。島にある神明神社、八王子社は伊勢神宮で使われた古材を利用して建てられているほどなのだ。

ちなみに篠島では、1月3日4日に正月の祭礼が行われる。
とくに3日の夕方は八王子社から神明神社へ神様が渡るとされ、この間は島中の灯りを消して沈黙を守り、
つつがなく『お渡り』が終わるのを待つ習慣となっている。

その『お渡り』には、不思議な伝承が残されている。
ある年のお渡りのさなか、八王子社の方から荒々しい犬の吠え声が聞こえてきたというのだ。
当時の篠島には1匹の犬もいなかった。犬の声を耳にした島民はみな、悪いことが起こらなければいいが……と一抹の不安を憶えた。

案の定、その年の漁期になると海は大荒れとなり、船の出せない日が続くはめに。
あまりにも荒天が長引くため、漁師たちは八王子社へ出向き、願掛け参りをすることにした。
何日も八王子社へ足を運ぶのだが、行くたびに狛犬が台座から転げ落ちているのに気づく。
誰かのイタズラだろうと思い狛犬をもとの位置に戻すものの、翌日になっても狛犬は台座から落ちて横倒しになっている。

まさか、これは海の神である八王子様が獣を嫌っているからではあるまいか、と漁師たちは顔を見合わせた。
そこで狛犬を山向こうの寺である、医徳院へと移設することにした。
以来、あれほど荒れていた天候はピタリとおさまり、上天気となった。さらに大漁に恵まれ、篠島の人々は豊かな暮らしが送れるようになった。

年月が経ち、島の若者も戦争に駆り出されるようになる。戦局が苦しくなると、島からも戦死者が出るようになった。
狭い篠島で何人もの戦死者が出ることは稀であり、奇異なことでもあった。
ついに8人目の戦死者が出たとき、島民が誰ともなく、「犬を飼う者がいるので、八王子様がお怒りだからじゃなかろうか?」と、言い出した。
調べた結果、当時の篠島には8匹の犬がペットとして飼われているのがわかった。
犬との別れを嘆く者もいたが、若者の命にはかえられない。篠島からすべての犬を追い出すことにした。

それからというもの、篠島では犬を飼うのはタブーとされている。


篠島の祭礼
http://www.shinojima-matsuri.jp/

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290 2013/03/20(水) 18:52:47 ID:Wkzoq9wcPI
     なぜにたばこ島? 風流島

地図上では『風流島』と表記されているが、熊本県宇土市住吉町の地元民には『たばこ島』と呼ばれ親しまれている。
平安時代には『たはれ島(たわれ島)』とも言われていたらしい。

宇土半島にはアジサイの名勝として知られる住吉自然公園が広がり、ここから海を眺めて目につくのがこの風流島だ。
島のてっぺんには『住吉神社』と書かれた高さ1.3mの鳥居が建っており、なんだか可愛い。まるでミニチュアの杜だ。
『たわれ』とは、すなわち『戯れ』であり、『風流』とつながるのはわかるが、なぜこの岩場が『たわれ』なのか?
さらに、地元の人はなぜ『たばこ島』と呼ぶのか? 謎は深まるばかり。

いずれによ1000年も以前から、このちっぽけな岩礁が都まで知られていたのは、当時の交通手段がほとんど船であったということに端を発している。
都から熊本に国司などが派遣され入国する際、瀬戸内海から玄界灘を通って東シナ海に入る海路を通ったと考えられている。
有明海から緑川を通り、熊本に入る航路の目印となったのが緑川河口のこのたはれ島で、海からの玄関口になっていた。
枕草子を詠んだ清少納言の父親、清原基輔は肥後国司として派遣されている。

平安時代につくられた伊勢物語の枕詞として、たはれ島が登場する。男女の色恋に関する話に用いられたもので、
女の返し言葉のなかに『たはれ島』が出てくるのだ。


熊本の山・小岱山(しょうだいさん)
http://blogs.yahoo.co.jp/tcmt_shinichiro/archive/2011/9/13
住吉灯台
http://www.nogamidensetu.co.jp/toudai/kumamoto/sumiyoshi.html

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291 2013/03/20(水) 18:54:54 ID:Wkzoq9wcPI
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     アカマター伝説がある幻の大陸 八重干瀬(やびじ・やえびし)

宮古島の北にある池間島からさらに北上したところに位置する八重干瀬がある。
八重干瀬は大きい8つの干礁(珊瑚の岩礁)があることから命名された。大小合わせると100以上の干礁からなり、
その大きさは東西約8km、南北約12km、周囲約25kmと珊瑚礁群では日本最大級である。
面積は宮古島(面積約159km2)の約10分の1で、海面上に出ることのない暗礁や礁斜面までを加えると約3分の1にも及ぶという。

八重干瀬はほぼ1年中海の中に沈んでいるが、春の大潮の時期にたった3日間だけ海上に姿を現す。まるで幻の大陸のかのように。
旧暦の3月3日(現在の4月上旬)、宮古ではこの日を『サニツ』と呼び、浜におりて厄払いをする伝統行事が行われてきた。
サニツは元来、女性だけが参加できる行事だった。よもぎ餅を神仏に供え、八重干瀬に渡り潮干狩りしをして遊ぶ。
やってきた春を祝い、たっぷりご馳走を詰めた弁当を持参して1日浜ですごすのだ。
以前は島の人たちだけで行われていた行事であったが、近年は観光会社が八重干瀬上陸ツアーを組んでおり、
大勢の観光客が幻の島に上陸し、ともに磯遊びに興じることが可能である。

宮古の伝統行事であるサニツは、アカマター伝説の中にも登場する。それはこんな物語である。
昔々、美しい娘がいた。
いつしか夜ごと美男子が娘の部屋に通うようになる。娘はたちまち恋に落ち、その子供を身ごもってしまった。
とはいえ、相手は素性の知れない男。
娘の母親が、物知りの友人に相談すると、「では、男の着物の裾に糸を通した針を刺しておくといい。
それを後から辿っていけば、どこの誰なのかわかるはず」と言われたので、娘にこのやり方を教えた。

翌朝、母親が糸を辿っていくと、糸は洞窟の中へ続いていた。洞窟の中には、なんと大きなアカマター(蛇)が眠っており、
その尻尾には針が刺さっていた……。
母親はもう一度、物知りの友人に相談した。すると友人は、「では海へ行き、海水でその身を清めるといい」と、助言した。
言われたとおり、娘が海水に身をひたすと、小さな蛇が身体からたくさん出てきて穢れは取れたという。
それが旧暦の3月3日だった。


浜下り&3月あしび
http://uruma.jp/blue/uruma_source/05oki100/04life/hamaori/index.htm
沖縄県-宮古島-幻の島-八重干瀬ツアー
http://www.pusan-okinawa-bali.com/yaebishi.htm

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292 2013/03/21(木) 23:45:41 ID:uMmpyqUxdo
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森の中に謎のポンプ小屋

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293 2013/03/22(金) 17:18:18 ID:ghjYekiagE
かります。
よろしく

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294 2013/03/23(土) 08:33:11 ID:IFLurSRxuI
サスペンス映画『獄門島』

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8D%84%E9%96%80%E5%B3%B6

ロケ地の島、特にいわくが付いていないようですが、映画見てからだとたぶんちょっと怖くて行けない

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295 2013/03/23(土) 09:04:46 ID:FNLGs.rIk6
>>292>>293
ンモ〜、どうコメントしろと。
>>294
モデルは岡山県の六島です。いわくなんか見つからないだろうな……。扱いようがないためスルーしたのよ。
横溝正史は岡山や瀬戸内海の島々を舞台とした作品が多いのは有名だね。


     天邪鬼の息子にほとほと手を焼く 津久根島(つくねじま)

広島市佐伯区五日市港沖の瀬戸内海に浮かぶちっぽけな島が津久根島である。
以前は小さな島ながらフサフサと木が生い茂る姿だったが、近年ではすっかりはげ山となってしまい見る影もなかった。
そこで2007年の11月、見かねた地元の人たちと広島大の学生らの手により、島の植林がなされた。
と同時に、五日市に古くから伝わる民話、『あまんじゃく伝説』にも注目が集まっている。

その昔、安芸の国の海老山には湯蓋道空(ゆぶた・どうくう)なる人物が住んでいた。
道空は壇ノ浦で敗れた平知盛の子孫といわれ、貧しい漁師ながら豊漁の儲けで厳島神社に客人社を建てたり、
五日市に塩田を開いて五日市港を繁栄させたりと、その行いにより人々から尊敬の的であった。

そんな道空の頭痛の種が、1人息子の道裕だった。
道裕は父親の言ったことに何でも反対してしまう天邪鬼な性格だったのだ。
道空は亡くなる直前、その息子に、「道裕よ、わしが死んだら津久根島に葬るがいい」と遺言を残した。
本心は海老山に墓を建ててもらいたかったのだが、ひねくれ者の道裕なら海といえば山に葬ってくれるだろうと考えて、
裏をかいたつもりだった。

ところが父が亡きあと、道裕は、「今まで親父に逆らってばかりいたから、せめて遺言ぐらいは言いつけどおりに従うか」と、
素直に津久根島に埋葬し、墓を建ててしまう。
それを見た村人たちは、「あんな離れ小島に葬るなんて親不孝者だなあ……」と、ポカーン。

ある嵐の日、村人の制止を振り切って島に渡った道裕は、嵐から父の墓を守り抜いたが帰らぬ人となった。
以来、道裕は『あまんじゃく』と呼ばれ、人々に語り継がれるようになった。


津久根島 広島湾の中心の島にある「あまんじゃく伝説」
http://tabetainjya.com/archives/itsukaichi2/post_681/
宮島街道―にぎわい創出プロジェクト
http://l-co.co.jp/times/modules/log/index.php?content_id=2489

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296 2013/03/23(土) 09:10:32 ID:FNLGs.rIk6
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     人類創世異伝2 人類は女神アマミキヨによってもたらされた 久高島(くだかじま) 

このスレに目を通していただければ、驚くほど『神の島』と称する島が多いことに気づかされるだろう。
ただ>>60に紹介した久高島は紛れもなく神の島と冠されることに異論はあるまい。

久高島は沖縄本島東南端に位置する知念岬から東海の沖、5.3km上にある、周囲7.75kmの島だ。人口は200人強。
久高島こそ琉球の創世神アマミキヨが天から降臨し、国づくりを始めたといわれる神話の聖地なのである。
琉球の神話によると、日の大神(天にある最高神・天帝)が女神アマミキヨに島作りを命じた。
(本州での『古事記』『日本書紀』の冒頭で登場する、伊弉諾尊(イザナギノミコト)、伊弉冉尊(イザナミノミコト)の二神に相当)

天地開闢以前の下界は、ただひたすら海原が広がっているだけだった。
そこで女神は日の大神から土石草木を授かり、まず沖縄本島を作り、そこに9つの聖地、7つの森を築いていった。
現在ではこの聖地のうち7つが、琉球開闢七御嶽(うたき)として語り継がれ、琉球の信仰においてもっとも神聖視されている。

続けざま多くの島を作っていったアマミキヨは、天帝に人間の種子を乞うた。天帝はそれに応え、人間の子供2人(兄妹)を大地に下ろした。
やがて兄妹は3人の男と2人の女をもうけた。いつしか長男は天孫氏として沖縄の王となり、次男は諸侯の、三男は農民の、
長女は君々(高位の神)の、次女は祝女(ノロ)の先祖となったのだ。

琉球王朝時代に沖縄本島最高の聖域とされた南城市にある斎場御嶽(せーふぁうたき。『せーふぁ』は『最高位』を指す)は、
この久高島に巡礼する国王が立ち寄った御嶽であり、久高島からの霊力をもっとも集められる場所と考えられていた。
久高島内には御嶽のほか、拝み所(うがんしょ)、殿(とぅん)、井(かー)などの聖地が散らばり、
なかでもクボー御嶽は久高島第一の聖域であると同時に、男子禁制地である。


親田御願〜アマミキヨの神面・奉納の儀
http://ryuqspecial.ti-da.net/e2689393.html
アマミキヨ(琉球人の先祖神)
http://blogs.yahoo.co.jp/nakaauc/2486734.html
斎場御嶽
http://www.norichan.jp/jinja/hitokoto2/seifa.htm

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297 2013/03/23(土) 15:18:57 ID:fLUT2YXzZ2
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     ニライカナイから舞い戻るために神となり鳥となる 久高島

また久高島は、琉球王朝に作られた神女組織『祝女(ノロ)』制度を継承。
12年に一度だけ行われる秘祭『イザイホー』を頂点とした祭事を執り行うなど、女性を守護神とする母性原理の精神文化を伝えており、
民俗学的に貴重な島である。
イザイホーとは12年に一度巡ってくる午(うま)年の旧暦11月15日からの5日間、島の30歳から41歳までの女性が、
ナンチュ(神女)なる地位を授かるための神事。
この通過儀礼を経て一人前の女性として認められ、同時に神聖な力が宿るとされるのだが、近年は後継者不足のために1978年に行われたのを最後に、
1990年、2002年ともに実施されていない。

また久高島は海の彼方の異界ニライカナイにつながる聖地でもあり、穀物がニライカナイからもたらされたといわれている。
『琉球国由来記』(1713年)によると、島の東海岸にある伊敷(イシキ)浜に漂着した壷の中に五穀の種子が入っていたと記載されており、
久高島こそ五穀発祥の地とされるのだ。

沖縄に伝わる信仰、ニライカナイ。それは海の彼方の『あの世』を意味する。
ニライカナイという言葉をアイヌ語で解釈するとこうだ。ニライ……根(地下)の下のところ、カナイ……空の上のところ。
つまり根の下であるとともに、空の上である。根の下と空の上、夜と昼とが交錯し合う地点。なんだか哲学的である。

秘祭イザイホーでは、久高島の女たちが神女になるため、3晩、イザイ山の仮小屋にこもり、4日間にわたって、歌や踊りを伴う神事を行う。
とくに初日の夕方に実施される『七つ橋』を渡る儀式は、女が鳥になるためのそれだという。
鳥になるために女たちは髪を振り乱して七つ橋を命懸けて渡る。その際、「エーファイ、エーファイ!」と、
まるで鶴の鳴き声みたいな掛け声を上げるのだ。このとき、女たちはレトリックではなく、身も心も鳥になっているという。

七つ橋とは、この世とあの世との間に架けられた橋であり、この橋を渡ることで神に近づく。
男たちは亡くなると海の彼方の遠い国、ニライカナイに行ったきり、いつ帰ってくるかわからないが、
神となり、鳥となった女は亡くなりニライカナイに行ってもすぐ、祖先の霊がいる御嶽に舞い戻り、
そこに永久にとどまって末永く故郷の島の子孫たちを守るのだとされている。


ニライカナイwikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8B%E3%83%A9%E3%82%A4%E3%82%AB%E3%83%8A%E3%82%A4
NPO法人久高島振興会
http://www.kudakajima.jp/
神の島、久高島 [沖縄の観光・旅行] All About
http://allabout.co.jp/gm/gc/376116/
沖縄久高島のイザイホー(第一部) - 科学映像館
http://www.kagakueizo.org/2009/04/post-94.html

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298 2013/03/25(月) 22:28:57 ID:gpRt9u2pZg
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前方にありけり山にUFO飛来のうわさありけり。

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299 2013/03/31(日) 20:55:06 ID:WJDNHFLT3I
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心霊スポットの廃トンネル

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300 2013/04/03(水) 22:25:40 ID:SgQEWeFFls
玄界灘の『沖の島』をポリゴンで完全再現。
何人たりとも常人を寄せ付けぬ、島そのものがご神体のバーチャル『神の島』を練り歩こう。

沖の島バーチャルミュージアム
http://www.city.munakata.lg.jp/okinoshima/index2.php

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301 2013/04/06(土) 17:07:55 ID:BwzzoWEV6g
302 2013/04/06(土) 18:56:20 ID:CsYYUVcCHE
あの世への散歩道 第9回『死者に会える島』民俗学者・酒井卯作
http://www.shizensou.net/lib/section/essay/stroll/series-sakai-09.html

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303 2013/04/06(土) 19:05:40 ID:CsYYUVcCHE
宿毛市史【古代編-平安時代の宿毛-】古代、中世の沖の島 妹背島伝説
http://www.city.sukumo.kochi.jp/sbc/history/sisi/009901.html
今昔物語の妹背島伝説
http://www.k5.dion.ne.jp/~blueview/history1.html

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304 2013/04/07(日) 15:03:56 ID:ve9FcpcdYA
淡島信仰と流し雛 〜流し雛は雛人形の源流か〜
http://www.geocities.jp/seijiishizawa/NewFiles/hina-okuri.html#Anchor-35882

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305 2013/04/07(日) 15:08:30 ID:ve9FcpcdYA
306 2013/04/07(日) 16:17:57 ID:sxmuydrcbQ
21世紀へ残したい香川 ミニ八十八カ所(伊吹島など)
http://www.shikoku-np.co.jp/feature/nokoshitai/henro/4/

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307 2013/04/07(日) 16:21:21 ID:sxmuydrcbQ
「埋蔵金伝説」というロマン(3)心ひかれる『埋蔵金伝説BEST5(西日本編)』
http://kari-kari.net/kinme/2011/11/2.html
埋蔵金伝説あれこれ(兵庫県内)郷土史の談話40 成ケ島http://kdskenkyu.saloon.jp/tale40mai.htm

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308 2013/04/09(火) 22:34:10 ID:jA5bGBXiy6
雨晴海岸、義経岩の義経社 ★高岡市
http://beccan.blog56.fc2.com/blog-entry-1354.html
雨晴海岸から 立山連峰 女岩 義経岩 男岩 氷見線の電車 波
http://blog.goo.ne.jp/yamaakmyk/e/2ac1637a87af7c79239e212453ca317f

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309 2013/04/10(水) 06:21:19 ID:jbWFI5/CuQ
310 2013/04/10(水) 18:40:53 ID:lJ9UNegnnk
311 2013/04/13(土) 10:08:35 ID:cGTiVj0OaA
     女人禁制の聖なる島 御積島(おしゃくじま)

>>190の山形県酒田市にある飛島の西には、御積島という無人島がある。
御積島には大きな洞窟があり、その壁面は龍の鱗のような形をした石が硫酸アンモニアの影響でキラキラと輝くのだという。
飛島の人たちはこの壁面を『白龍の鱗紋』として信仰するため、女人禁制地としているそうだ。


飛島賽の河原 − 日本全国賽の河原めぐり
http://sainokawara.fubuki.info/tobishima.html

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312 2013/04/13(土) 21:42:06 ID:cGTiVj0OaA
     海の怪異ウキモノ 粟島(あわしま)

新潟県岩船郡の日本海にある粟島。標高265mの小柴山を中心に島のほとんどが山地で形成されている。

その粟島周辺の海では、謎のベールに包まれた怪異が姿を現すことで知られる。
5月から6月ごろの花曇り(桜の咲くころ、空が薄く曇っている日和)のような日、海上に巨大魚とも陸地ともつかない物体が
浮かんでいるのが見えるのだという。
これが地元の間では『浮き物』(ウキモノ)と呼んでおり、気味悪がられているのだ。
特定の場所に現われるとされ、海面を移動することもあり、人が近づくと消え去ってしまうとか。
魚または海鳥の群れ、未確認の巨大魚などの説があるが、今もなお判明していない。


粟島の概要|粟島浦村
http://www.vill.awashimaura.lg.jp/awashima/
妖怪邸 妖堂日記帳 とりあえず、ウキモノ
http://youkaitama.seesaa.net/article/228607238.html

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313 2013/04/13(土) 21:47:41 ID:6YV2s16Z0c
     若武者、川上左京の慟哭 恋路島(こいじしま)

熊本県水俣の海は1958年8月から1997年10月までの39年もの長きにわたり、漁業を行うことができなかった。
4大公害病の1つである水俣病による被害であることは周知の事実であろう。
メチル水銀に汚染された魚の拡散を防ぐため湾には仕切り網が張りめぐらされ、海底にたまったヘドロを回収したうえ、
さらに臭いものにフタすべく水俣の海は埋め立てられた負の歴史があるのだ。
今では『環境モデル都市』の認定を受けるほどに再生。埋立地の公園は市民の憩いの場と生まれ変わり、かつての悲惨な面影はない。
そんな公園の目の前には恋路島が静かに佇んでいる。

なんだか風情ある島名である。それもそのはず、島には他にも『恋の浦』『妻恋岩』と呼ばれる所があり、
若武者とその妻の悲しい物語が伝えられているのだ。

時は戦国時代の1585(天正12)年3月。九州制覇を目論む肥前の竜造寺氏に対して島原の有馬氏が反旗を翻す。
劣勢を強いられる有馬軍に島津が援軍を差し向けるものの、それは死を覚悟した援軍であった。
その島津軍の中に袋の港(水俣湾南部)から船出する1人の若者とそれを見送る女の姿があった。
若者は27歳の武将、川上左京亮忠堅。見送る女は左京の妻であった。

岸を離れ、沖へと遠のいていく軍船を気丈な面持ちで見送っていた妻だったが、夫を想う気持ちを抑えきれず、
ついに小舟に乗り込み水俣湾に浮かぶ小島(恋路島)に渡った。そこで石室にこもり、海辺で石を積み上げ、夫の武運を祈り続けた。
けれども夫の無事の帰りを待たずして病に倒れ、亡くなってしまう。

一方の左京は……
島津家久の率いる3000人余りの兵に対峙するは竜造寺氏の1万3000の大軍。圧倒的に不利な戦況であった。
沼を前にして丘の上に陣取って戦いに臨み、敵の混乱に乗じて敵中深く切り込んだ左京は、ついに総大将竜造寺隆信の首を討ち取ったのだ。

最高の武勲を立てた左京は待ち侘びているはずの妻のもとに帰ってくるが、すでに亡くなった話を聞かされ、激しく打ちのめされる。
左京は妻が1人待ち続けたという小島に渡り、せめて在りし日の妻の痕跡を探ろうと思った。
島には夫の無事を願った石積みが残されていた。左京は石積みを抱きしめ、妻の名を叫び、そして泣いた。
この石積みを『妻恋岩』と呼び、恋路島という島名の由来になったともいわれている。


みなまたの伝説「恋路島物語」
http://www.city.minamata.lg.jp/794.html
恋路島について
http://www.pref.kumamoto.jp/sec_img/0164/200701104552054.pdf

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314 2013/04/20(土) 10:42:50 ID:UJfC52egJg
弁天様 〜長崎県九十九島〜
http://www.kyosuiren.or.jp/html/page01414.html

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315 2013/04/20(土) 10:46:43 ID:UJfC52egJg
     五頭竜、麗しの弁財天に猛アタック 江の島

湘南海岸から相模湾へと張り出した陸繋島(りくけいとう)である江の島は観光地としてあまりにも有名で、
海岸を含めば年間1000万人以上もの観光客が訪れるそうだ。この江の島であるが、島の誕生にまつわる不思議な伝説が残されている。

昔、鎌倉の深沢には広大な湖が水を湛えていた。湖にはヌシである5つの頭を持った『五頭竜』が住んでいた。
この五頭竜は、ことあるごとに川を氾濫させ、山を崩し、疾病を流行させたりして猛威をふるい、村人を苦しめていた。
竜が相手ではどうすることもできず、さりとて生活が難儀するため、一計を案じた。
それが人身御供だった。村からくじ引きで贄を選び、捧げることにしたのだ。

贄として選ばれた当事者、および残された家族は悲惨である。
親は子を取られ生きる希望をなくし、子は親を失って明日を生きるのもままならなくなり、泣く泣くよその土地へ移っていった。
津村の長者など16人もの子沢山だったが、1人残らず五頭竜のえじきとなり、抜け殻の体となって他村へと逃げていった。
いつしか人は呼ぶようになった。深沢から西へと続く街道のあたりを『子死越(こしごえ)』と。
これが現在の腰越の地名の始まりとされている。

しだいに竜は生贄すらも満足しなくなり、ますます手がつけられないほど暴れるようになった。
抵抗する気力もなくした村人は次々と他村に移り、村は荒れ果ててしまった。

そんなとき天変地異が世界を揺るがせた。時は欽明天皇13(552)年4月12日のことである。
大地震がこの世を攪拌し、なんと10日間も続いた。23日辰の刻にはどうにか揺れはおさまり、人々がほっとして海の方を見たとき、
今まで何もなかったはずの子死越前方の海に忽然として1つの島が現われた。これこそが江の島の誕生であるという。

この天地の動揺を五頭竜は見守っていた。すると天から五色の雲にのった天女が生まれたての島に降り立った。
天女の夢のような美貌と立ち姿に陶然となった竜は求婚を迫った。
地上の人々の幸せを願っている天女としては、悪事を働き、人々を窮地へと追いやっている者の妻になれようか。返事は知れていた。

どうしても天女を娶りたい。竜は今までの行いを反省し、心を入れ替え、これからは人々を助けることに尽力すると誓った。
それからというもの、五頭竜は日照りが続けば雨を降らせ、台風には身を挺してはね返し、押し寄せる大波からは陸地を守った。
やがて竜の気持ちを理解した天女は求婚に応え、人々の幸福のために力を合わせるようになった。

時が経ち、やがて自身の寿命が尽きることを悟った竜は、妻にこう言った。
「私が死んでも、その骸は山となり島と里人を守り続けることを約束しよう」
竜は島の対岸に渡り、江の島に向かって長々と横たわり、1つの山となった。これが片瀬山であり、竜の口があったとされる場所が
今の『竜の口』(たつのくち)であるという。
以来、里人はこの山を竜口山と呼び、五頭竜を祭った社を建てた。これが竜口明神で、五頭竜の木彫りのご神体がおさめられている。
60年に一度の『巳年式年祭』の日にはご開帳と相成り、神輿にのせられ江の島へ渡り、天女である弁財天と久方ぶりの対面を果たすのだ。


藤沢市ホームページ 藤沢を知る「江の島」
http://www.city.fujisawa.kanagawa.jp/kyobun-c/data16353.shtml
江の島マニアック
http://harady.com/enoshima/maniac/sonota.html

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316 2013/04/21(日) 14:46:36 ID:p/BpqzjrmU
三重県鳥羽市神島における通過儀礼の変遷 一難島の少子高齢・過疎化について
http://www.lib.yamagata-u.ac.jp/kiyou/kiyouh/kiyouh-16-4/image/kiyouh-16-4-029to047.pdf

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317 2013/04/21(日) 14:50:15 ID:p/BpqzjrmU
     メチルアルコールで酒盛り……。水晶島(すいしょうじま)

歯舞群島の島の1つである水晶島。ロシア名でタンフィーリエフ島という。
アイヌ語の『シ・ショウ(大きい・裸岩)』が『シイショウ』に変化したことから名付けられた。
江戸時代の初めは無人島であったが、明治のころより珸瑶瑁村(ごようまいむら)の一部となり、のちに歯舞村に属す。
戦前は931人が在住していた。

1945年、ソ連軍の侵攻を受け、占領される。1959年、日本側は根室市の一部に編入するも、1991年、ソ連崩壊後に成立したロシア連邦が実効支配を継承。
現在もロシア連邦が占領、実効支配しているが、日本も領有権を主張している。

以前はロシア国境軍や水産加工会社社員が交代で常駐していた。
ところが2010年12月31日には駐在していた水産加工会社社員らが、年越しパーティーの最中にメチルアルコールを飲酒。
その数23人にのぼり、中毒を起こし、うち4人が死亡する事件が発生している。
現在、水晶島に定住民は存在しないとされている。

そもそもメチルアルコールは飲むに適していない。
誤って飲酒した直後は通常の酒と同じく酩酊するだけだが、その後中枢神経がやられて、頭痛、めまい、不安感、精神不安定、呼吸困難になり、
高濃度のソレを一気に摂取すると、嗜眠、意識混濁、昏睡、けいれん、急性呼吸不全、失明に至る。
以上のことからエチルアルコールは大丈夫で、メチルアルコールはヤバいと憶えておこう。


北方領土・水晶島でメチル酒盛り、露の4人死亡
http://iinoakazonae03.blog77.fc2.com/blog-entry-1993.html

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318 2013/04/28(日) 01:33:44 ID:GazzmgEj6I
319 2013/04/28(日) 10:55:34 ID:w7bziXnzjE
>>318
オイオイ、まったくのスレチだぞ。いい加減にしろ。

「みささぎ島」弟橘媛と「浮島」景行天皇
http://kazusa.jpn.org/b/archives/626
鋸南町の観光案内(勝山の歴史と文化)勝山の伝説
http://www2s.biglobe.ne.jp/~sanyo/kyonanmachi-1/kyonanmachi-3.html

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320 2013/04/28(日) 11:02:38 ID:rV3ds1Fl1w
架橋と石伝説の島 櫃石島(ひついしじま)
http://www.sakaide.ed.jp/hituishi-jh/shiosai/p_02.pdf
櫃石島の岩巡り:その1
http://blogs.yahoo.co.jp/castletraveler/47198758.html
線上に並ぶ巨石・神社の謎を解く
http://blogs.yahoo.co.jp/doctor3044/30588118.html

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321 2013/04/28(日) 11:07:24 ID:trkQW.noG2
戦時中、潜水艦と間違って米軍が爆撃した島

風に吹かれて コブ島
http://blog.livedoor.jp/ayabeda/archives/51788149.html
初夏の南九十九島遊覧
http://blog.goo.ne.jp/potesara-2010/e/a5d1fa0292d4117fb203444ca0a58b75

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322 2013/04/28(日) 11:16:35 ID:rwqnrHM.a2
     追手の追跡を振り切った『おときの一時そば』 久賀島(ひさかじま)

長崎県五島列島にある久賀島は福江島、中通島に次いで3番目に大きい島だ。
海岸線はリアス式になっており、島の北側から中央にかけて久賀港が切れ込んでいるため俯瞰からの眺めが馬蹄形に見えるのだ。
この島には>>196の瓜生島が一夜にして沈んだとされる話に酷似した『高麗島伝説』が残されており大変興味深い。
このような類型説話はいったいどこから発生したものなのだろう?
(件の沈んだとされる島が、久賀島から北上すること60km先にあったと言われる高麗島を指す)

五島列島の島々の例に漏れず、この島もキリシタンの聖地であった。
牢屋の窄(さこ)教会は1868(明治元)年のキリシタン弾圧の際、わずか6坪の独房に信者200人が8ヶ月もの間、幽閉および拷問を受けた場所だという。
現在では記念聖堂や殉教記念碑が建てられ『五島崩れ』の発祥の地とも言われている。キリスト教が解禁になったのは1873(明治6)年のことである。
それにちなみ、久賀島にはこんな民話が残されている。

今から、およそ350年ほど昔。久賀島で侍たちの追手をたくみにかわして逃亡を計っていた1人の宣教師がいた。
宣教師は追手が間近に迫っていることを察知。猪之木町の山奥あった隠れ家から夜が明けると同時に逃げ出し、やっとの思いで深浦地区にたどり着いた。
すでに太陽も東の空から姿を現していた。

近くの畑に目をやると、朝の早くから1人の婦人が畑仕事に精を出していた。どうやらソバの種を蒔いているらしい。
宣教師はこの婦人に挨拶とねぎらいの言葉をかけたあと、急ぎ足にこの場を去った。
それからしばらくもしないうちに追手の一団が深浦地区に乗り込んできた。
頭とおぼしき侍がその婦人に向かって、「この道を1人の男が通らなかったか? 宣教師だ」と聞いた。

「確かに通りましたが、その方が宣教師かどうかまでは……」と、婦人は言った。
「では、いつ時分、ここを通ったか?」
「はい、わたしが畑でソバの種を蒔いているころでしたから……」
畑を見れば、種を蒔いてからまだ2時間と経っていないにもかかわらず、不思議なことにすでに芽吹いて茎が伸び、黄金色の実を実らせていたのだ。
このソバの種を蒔いた時間帯に宣教師が通ったとすれば、さすがにこの島に隠れている可能性は低い。
おそらくすでに島外へ逃げおおせたに違いあるまい。追手たちはそう判断して追跡を諦めたという。

ソバを蒔いていた婦人の名は『おとき』だった。
この不思議な事件以来、『おときの一時そば』と言ってもてはやされ、後世まで語り草になった。


民話 伝説 of 久賀島 - Hisakajima
http://www.hisakajima.com/legend/
島の暮らしって?ー長崎県五島の暮らし(伝説と民話)
http://www.geocities.co.jp/MotorCity/3180/sub1/1205/1205.html
牢屋の窄教会
http://www.tanetan.com/TRAVEL/gotoujunrei/rouyanosaku01.html
牢屋の窄殉教地
http://www1.odn.ne.jp/tomas/rouyaanosako2.htm

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323 2013/04/28(日) 11:22:10 ID:OYGGquQf3E
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324 2013/04/30(火) 19:55:34 ID:ElfhqdQ8H.
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     夜ごと娘のすすり泣きと琴の音に悩まされる……。 因島(いんのしま)

因島は広島県尾道市に属し、かつては因島市として独立していた。
島名の由来としては、神功皇后を乗せた船が島に立ち寄った際、陸から多くの犬が吠えて困ったので皇后が『犬の島』と名づけ、
それがなまり『インの島』になったとか、あるいは平安時代に島が院領だったことから『院の島』が『因の島』に変遷したとも言われている。
そんな因島には『鼻の地蔵』と呼ばれる名所がある。現在では女性の恋愛成就を叶えてくれるといい重宝がられている。
その地蔵であるが、やはり悲恋伝説が背景にあるようだ。それがこんな内容。

その昔、周防の高橋蔵人の娘が都へ向かっている道中のことだった。
娘は琴の名人であり、都へは修行がてら恋人に会いに行くためであった。結婚を約束した仲だった。
ところが因島を占拠する村上水軍の金山亦兵衛康時に、関所破りの罪で囚われてしまう。
すかさず娘は琴の調べを海賊たちに聞かせたところ、その音に感じ入った海賊たちは心奪われた。
海賊の首領である康時は琴の音だけでなく、娘自身に魅了され、妾になることを要求した。ところが娘には許婚がいるのできっぱり断った。

拒絶されたのを逆恨みした康時は娘を殺害することにした。
娘はせめて最後に一曲奏でさせてくれと頼み、分身たる琴との別れを惜しむ。
琴を弾き終えると、我に返った康時の部下たちは命令に従い、娘を斬り殺した。そのあと琴は康時の館に運ばれた。
ところがそれ以来、怪異が起きる。あの娘のすすり泣く声と、奏者のいないはずの琴が夜な夜な鳴り響いたのである。
気味悪がった康時は琴を壊したが、にもかかわらずその調べは館にこだまし続けた。

人の命などをなんとも思わない康時だったが、琴の音に怯える部下たちとは、別の気持ちに苛まれた。
それは自身も尺八を奏でる康時が、もっとも大切なものを、短気を起こして自ら摘み取ってしまったことへの自責の念であった。
康時は償うべく、自然石を娘の生前の姿の浮き彫りを施した地蔵を建立し、僧侶を呼んで供養したという。
それからというもの怪異はおさまり、かわりに女性の悩みごとや縁結びとしてご利益がある地蔵として今日に至る。


因島三庄町「鼻の地蔵さん」と、参道に並ぶ石地蔵
http://blog.goo.ne.jp/tako_888k/e/0f225949a3343a68fd3ac73158435692

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325 2013/05/03(金) 15:21:05 ID:xqwbclxqag
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326 2013/05/03(金) 15:26:04 ID:xqwbclxqag
鬼ノ寝屋嶋 [能登沖にあったという島の伝説]
http://noto-folktales.blog.so-net.ne.jp/archive/c2300528792-1
舳蔵島の龍宮伝説 [奥能登・舳蔵島の民話・伝説]
http://noto-folktales.blog.so-net.ne.jp/archive/c2300527916-1

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327 2013/05/03(金) 15:33:23 ID:A65j5p5wRA
横浦島散策・・・
http://blog.goo.ne.jp/221414/e/cf96f6e6bfd9c82dda5711b9c5f8441e
[平家落人海道] 天草海道 冬フェスタ
http://amakusa-kaido.jp/daikaido/58/

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328 2013/05/03(金) 16:28:06 ID:A65j5p5wRA
     上野島(こうずけじま)の伝説

上野島は栃木県日光市の中禅寺湖に浮かぶ無人島だ。
しかしながら海上保安庁が定める『周囲100m以上を島とする』という定義を満たしていないため、日本の島数6852には含まれていない。
とはいえ中禅寺湖は景勝地として訪れる人も多く、そこに唯一の小島である上野島の名は広く知れ渡っている。
上野島は日光連山を中心にした山岳信仰の開祖、勝道上人の墓所の1つといわれており、島内には宝篋印塔や、勝道上人首骨納塔、
慈眼大師(天海)の墓石などがあり、不定期ながら霊跡を巡拝する遊覧船もある。

昔、下野の国(栃木県)男体の神と上野の国(群馬県)の赤城山の神が領地を争った。
男体山の神は大蛇(オロチ)、赤城の神は百足(ムカデ)に化身して戦った。
そこから戦場ヶ原 の名が付けられたが、戦いの流血で原一面が赤く染められたので一名赤沼ヶ原とも呼ばれるようになった。
その戦いの兵糧を積んで置いた所が戦場ヶ原唯一の丘(糠塚)であり、和議を結んだのが勝負が浜(菖蒲が浜)で、
男体の神が勝利の唄を歌ったのが歌ヶ浜(立木観音)であり記念に残されたのが、この上野島である。


日光讃歌(24)中禅寺湖 「上野島」
http://orimasa2009.seesaa.net/article/309984351.html

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329 2013/05/04(土) 07:25:10 ID:aOKWgChKdg
路傍の昆虫記: 南九州の虫たちを追いかけて (黒毛島)
http://books.google.co.jp/books?id=dDrBeOM7HMoC&pg=PA115&lpg=PA115&dq=%E9%A6%AC%E6%AF%9B%E5%B3%B6+

%E3%83%90%E3%83%83%E3%82%BF&source=bl&ots=OGg5-uV-

NI&sig=7xArgQ0gkYxRwGAbqoGmPNmi3Iw&hl=ja&sa=X&ei=faODUa3QJMfxkAXz44DIBA&ved=0CC8Q6AEwAA#v=onepage&q=%E9%A6%AC%E6%AF%9B

%E5%B3%B6%20%E3%83%90%E3%83%83%E3%82%BF&f=false

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330 2013/05/04(土) 07:28:49 ID:aOKWgChKdg
     「奴らを追い払うには、これしかない!」 杓島(しゃくじま)

>>286と同様に船幽霊伝説を、も1ついかが?
倉敷市児島通生の杓島にも類似の伝説が残っているのだ。こちらは話の背景に源平合戦があり、なんだかオドロオドロしい。

……今から800年ほど昔。1183(寿永2)年の源平水島合戦で海原を朱で染めるほどの血が流れ、
瀬戸内の水島灘には幾千もの鎧武者の屍が波間を漂い、やがて海中に没していった。

それから数100年が時が流れた……。
晩秋の静かな夜、水島灘を一隻の千石船が通りかかろうとしていた。潮は穏やかに凪いでいた。
上水島と下水島の間の名もなき島がいくつか連なる場所にさしかかったとき、突然舵が利かなくなったと思ったら、
どころからともなく「杓を貸せ……杓を貸せい……」と、不気味なうめき声が聞こえてきた。

若い舵取りと年老いた船子が船板に耳を付けてみると、どうやらうめき声は船底から響いてくるようだ。
何ごとかと甲板へ上がってきた他の船子たちも、気味の悪い声を耳にして誰もが怯える始末。
なおも「杓を貸せ……柄杓だ……」と恨めしげに続くものだから、「そんなに欲しいのならくれてやる!」と、
若い舵取りが杓を海に投げようとした。
「よせ! 奴らに杓を与えてはならん! 杓で船を沈められる言い伝えを知らんのか!」年老いた船子が舵取りから杓を取り上げようとしたが、
揉み合いになった拍子に杓が海に落ちてしまう。

その杓を海の底から白い腕がにゅっと伸びてきてつかむと一度、水の中に沈んだ。
すると海面のあちこちから、まるで分裂したかのように同じ形の杓を手にした白い腕が海藻のようにクネクネと伸びてきて群がった。
無数の腕は杓で海水を汲み上げ、伸び縮みしながら船の中にこぼした。
1本の腕だけが汲み上げる水の量はたかだか知れていたが、それが何百となると訳が違う。
無数の柄杓で何度も海水をすくい、滝のように水を注ぎ込む。たちまち船は水かさが増えていき、ゆっくり沈み始めた。
船子たちは途方に暮れ、どうすることもできない。中には恐怖でへたり込み、経文を唱える者もいた。

「奴らを追い払うには、これしかない!」と、年老いた船子が言うと、杓を手に取り底をくり抜いた。すかさずそれを海に放り投げた。
「気でも違ったか、爺。底の抜けた杓なぞ、なんになろう」と、若い舵取り。
「見るがいい」
底の抜けた杓をつかんだ白い腕が水中に消え、またぞろ分裂し姿を現わしたはいいが、これでは海水をすくい上げることができない。
白い腕はあきらめたかの様子で、次々と海中に沈み消えていく。

源平合戦で死んだ者たちはいまだに成仏できないのだろう。真水を欲して船に声をかけていたのだ。やり方がいささか婉曲的であったが。
船子たちはこれからこの海域を通るときは供養のための真水を一杯海へ注いでやろうと話し合った。
以来、その海に浮かぶ島の1つを杓島と呼ぶようになった。

 
舟幽霊
http://kurashikibunka.blog106.fc2.com/blog-date-20090127.html
柄杓島の伝説
http://www.geocities.co.jp/HeartLand-Momiji/4698/newpage83.htm
まんが日本昔ばなし 杓島
http://www.dailymotion.com/video/xqy9v8_mnmb-yy_creation

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331 2013/05/04(土) 08:01:28 ID:Rozh0QX9zw
[YouTubeで再生]
     謎の怪音がこだまする……虚空太鼓伝説 周防大島(すおうおおしま)

山口県大島郡周防大島町に属する周防大島。国土地理院が定める正式名では屋代島と称するが、
周防国の大島であったことから単独で周防大島(または単に『大島』)と呼ばれることが多いほか、
周防大島諸島周辺の小島も含めて呼ぶこともある。
古くから瀬戸内海海上交通の要衝とされ、万葉集にもこの島を詠んだ歌があるほどである。

島には虚空太鼓(こくうだいこ)という怪異な現象が起きると伝えられている。
毎年6月ごろになると、どこからともなく太鼓のような音が聞こえてくるという奇妙なものだそうだ。
これは、かつて芸人一座を乗せた船が時化に遭い、太鼓を鳴らして助けを呼びつつ海に没したことがあり、
以来その季節になるとその太鼓の音が海から鳴り出すのだと信じられている。

動画は水前寺清子の歌『虚空太鼓』。そのものズバリのタイトルである。作詞である星野哲郎氏はまさに周防大島出身。
蛇足ながら歌詞を載せておく。この伝説を歌にするとは、なかなかマニアックだなあ……。

「瀬戸の島々 ほのぼの暮れて かもめとろとろ夢見ごろ どこからともなく聞こえくる 虚空太鼓の撥(ばち)の音は
浮かれはじめは面白く やがて悲しい人の世の 夏の花火に似たさだめ 諸行無常と 鳴りわたる 
若い命を鳴門の渦に 捨てた一座の物語 宮島祭が近づけば 虚空太鼓に思い出す 西へ響いて母を呼び 北へ戻って父を呼び
波に消えゆく踊り子の 赤い小袖が 目に浮かぶ」


妖怪邸妖堂日記帳 とりあえず、虚空太鼓
http://youkaitama.seesaa.net/article/217564302.html
白狼山求道丸について(2)・虚空太鼓
http://ewigleere-memorium.jimdo.com/2013/01/13/%E7%99%BD%E7%8B%BC%E5%B1%B1%E6%B1%82%E9%81%93%E4%B8%B8%E3%81%AB

%E3%81%A4%E3%81%84%E3%81%A6-%EF%BC%92-%E8%99%9A%E7%A9%BA%E5%A4%AA%E9%BC%93/

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333 2013/05/04(土) 17:04:04 ID:/U7q3r7uNg
今日のニュース『駒大の男女2人死亡…水温5度の野尻湖で水遊び』のTVの映像見てたら島が映ったので、さっそくチェック。
で、こんなん出ましたけど。

樅ヶ崎=上水内郡信濃町大字野尻(長野県)はるかから歴史もみてきたか妙高山 [岬めぐり] 野尻湖・琵琶島 
http://dendenmushimushi.blog.so-net.ne.jp/2010-06-15

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334 2013/05/06(月) 15:35:50 ID:J2e/z4TqrE
     【特別企画】浦島太郎伝説〜補陀落渡海に見える理想郷とは 1

ゴールデンウィーク最終日にして特別企画をお送りする。本当はだいぶ前から温めていたネタだったが、なかなかうまくまとまらず、
今日まで長引いてしまった。

昔話の定番の1つである『浦島太郎』。この物語にまつわる地域は多い。
京都府与謝郡伊根町をはじめ、香川県三豊市(旧三豊郡詫間町)、広島県尾道市、愛知県武豊町、鹿児島県(長崎鼻、喜界島など)、沖縄、
神奈川県横浜市、長野県上松市……など、離島に限らず市まで及び、とにかく枚挙に暇がない。微妙に話の筋が異なるバージョンもあるのだが、
基本的なプロットはみな一緒である。その数、なんと全国40か所にも及ぶというから驚きである。

今さら『浦島太郎』の話の内容をここに書き連ねることもあるまい。
ただ、『桃太郎』や『鶴の恩返し』『金太郎』の定番モノとは結末が異質であることは誰もがお気づきかと思われる。
このような後味悪い(少なくともカタルシスは得られず、ビターな余韻が残ると言ってもよい)締めくくり方の寓話はめずらしくないにせよ、
賢明なる読者諸兄ならば『浦島太郎』に様々なメタファーが隠されているのが汲み取れよう。
『亀』は何の象徴なのか? そもそも竜などいもしないのになぜ『竜宮城』なのか? なぜ海中にある設定なのか? 
玉手箱を開けると、なぜ浦島太郎はたちまち年をとってしまったのか? 
ここでは『竜宮城』が何を示唆するのか、焦点を当ててみたい。やや島ネタから脱線するかもしれないので何卒ご寛恕のほどを。
では、いざ長文失礼つかまつる。

浦島の話は、8世紀の文献である『日本書紀』や『丹後国風土記』の逸文に登場するのが最古とされている。
『浦島太郎』は『浦嶋子』、『竜宮城』は『蓬莱山(とこよのくに)』、『玉手箱』は『玉匣(たまくしげ=化粧箱)』と呼ばれているが、
『丹後国風土記』の逸文に記されるあらすじは、現在に伝わる浦島伝説とほぼ同義である。
とはいえ浦嶋子が亀を助けた冒頭部がないことや、乙姫様が亀の化身であり、しかも『亀姫』と呼ばれていたこと、
玉匣を開けると浦嶋子が鶴となって浜から飛び去るなど、いくつか相違点もある。

さらには8世紀に書かれた浦島伝説は、7世紀末の日本の文人、伊預部馬養による創作と考える人がいる一方、実在の人物の実体験に基づく伝説だと
主張する人もいる。それがこんな話だ。
2000年9月に放送されたフジテレビの『奇跡体験!アンビリーバボー』によると、浦島太郎は日本から南東へ3700km離れたミクロネシアの
ポナペ島に潮流で漂着して、そこから帰還した漁師の体験談であるとする説を放送した。
番組によれば、ポナペ島南東の海底に『聖なる都市』という意味の『カーニムエイソ』という海域があり、そこは強烈な磁気のせいで時間の感覚が
なくなってしまうという。
この磁場を取り囲むように、高さ5mほどの丸い石柱19本が海底に建てられており、まるで海底都市の遺跡ような外観を呈している。
奇しくもこの地域には、次のような伝説が残されているのだ。

『昔、ある男が、海を泳いでいると亀に出会い、泳いでついて行くとカーニムエイソの海底都市を発見。
彼は、カーニムエイソでの体験を絶対話してはいけないと言われたにもかかわらず、地上に戻るとまわりの人たちに喋ってしまった。
すると次の瞬間、男は死んでしまった……』

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335 2013/05/06(月) 15:41:54 ID:SmGUWQKt1A
     【特別企画】浦島太郎伝説〜補陀落渡海に見える理想郷とは 2

……秘密を口外したことは、玉手箱を開けてしまったことと同義であろう。
浦島太郎がミクロネシアの島に漂着したとすれば、現地人となる通過儀礼を受けたのかもしれない。
島国では外種を欲する種族本能があり(近親交配は種を停滞、もしくは劣性遺伝子の発現を伴うため)、アウトサイダーである浦島太郎は
濃密な歓待でもてなされ、神のように崇められたとも考えられる。やがて首長の娘と結婚したとも考えるのは飛躍的だろうか。
もっともポナペ島は日本から遠すぎて、『丹後国風土記』の逸文が示すように、とても3日では漂着できないから物理的に無理があるらしいが。

一方、日本にもっと近いところでは、琉球諸島が伝説発祥の地とする説が自然なようだ。
竜宮城は宮殿のイメージから首里城(沖縄県那覇市)を指し、『竜宮』は『琉球』のなまりから来ているのではないかと言われている。
話を混乱させて悪いが、ポリネシアの古語に『LILUKU』という言葉があるそうだ。LIUは『長期滞在』、KUは『島』を指す。
反対に竜宮は『りゅうく』とも読める。Liuku(リュウク)が本来の音だろう。すなわち『琉球』だと解釈できる。
そして1995年には、竜宮城にふさわしい海底遺跡が与那国島近海で発見された。そういうわけで、竜宮城の在り処は推して知るべしだ。

……ところで、17世紀中ごろから沖縄県の八重山諸島にある波照間島の島民は、琉球政府による重い人頭税制度に苦しめられ、
泣く泣く>>23>>24の与那国島におけるクブラバリや人舛田のような、目も覆わんばかりの口減らしを余儀なくされたと書いた。
過酷な人頭税に苦しめられた島民は島から逃げ出したい一心で、はるか南方洋上の楽園への脱出を夢見たというのだ。
それが『南波照間島』(パイ・パティローマ)だった。八重山の言葉で『パイ』とは『南』を、『パティローマ』は『波照間』を意味する。

伝承では、島の西のはずれにある屋古村(やぐむら)のアカマリという男が中心になり、村人40〜50人を率い、マーラン船(王府の運搬船)を奪って
南の海へ脱出したと伝えられている。
琉球国は明治になって沖縄県となったが、 明治25年1月、島の人たちから「南波照間島へ行った屋古村の者たちに会ってみたい」と、
言われた県知事は海軍省に依頼。その島を探してもらうことにした。ところが海軍省は、沖縄から東南アジアに到る海をくまなく調査したものの、
島を見つけることはできなかった。なぜならば、その島は地図上には存在しない夢想の理想郷にすぎなかったからだ。
とはいえ今でも島の古老たちは、自分たちの住む波照間島の南の彼方に、 同胞たちが平和に暮らしていると信じているそうだ。

とすれば、お次は『ニライカナイ』の出番である。
当スレ『怖い島・いわくつきの村・総合』を続けていくにあたり、ニライカナイは切っても切れない要素であると思う。
何度も言ってきたが、ニライカナイの『ニライ』とは、『根の国、底の国』という意味であり、『カナイ』は空の上のところだと言われている。
根の国、底の国から転じて、海のかなりの楽土、奥底の知れない遠い神の国を指す。
つまり、現世の人間が憧れてやまない理想郷と端的に言い切っても差し支えあるまい。

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336 2013/05/06(月) 15:47:27 ID:SmGUWQKt1A
     【特別企画】浦島太郎伝説〜補陀落渡海に見える理想郷とは 3

話変わるが、>>73>>186>>200で取り上げた補陀落渡海について舞い戻る。
遅まきながら先日、>>207で紹介した根井教授の著書『観音浄土船出した人々』を読んでみた。興味深い記述があったので紹介しよう。
引用部分にはアンカーをつける。カッコをして※印があるのはわかりづらい表現を補足してみた。

天正遣欧使節団の発案者であり、活字印刷機によるキリシタン版を開始したとしてバリニャーノなる人物がいる。
そのバリニャーノ氏が1583年に著した『日本諸事要録』の第3章に、「日本人と宗教と諸宗派」と題した以下の一節がある。
『補陀落渡海』の現場を目撃した外国人の率直な意見であろう。

 >彼ら(日本人)は多くの迷信を有している。彼らのなかには、あるいは聖人の名称を得るため、
 >あるいは彼らが空想している天国へ行くために、大げさな儀式によって生きたまま海中に身を投じて溺死する者もいるし、
 >また生きたまま地中に埋葬される者もいる。

また、かのルイス・フロイスもまた、補陀落渡海の現場を目の当たりにしている。
フロイスは『日本史』総論第18章に「仏僧らが行う補陀落、および彼らが悪魔に奉献するその他の流儀について」と題する1章を書いていた。
この書簡でもっとも注目に値するのは、「1565年2月20日付・都発・中国印度のイルマン等宛・フロイス書簡」である。
ここでは伊予国(現在の愛媛県)堀江で行われた補陀落渡海を報告している。

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337 2013/05/06(月) 15:52:03 ID:lo8K8tb..6
     【特別企画】浦島太郎伝説〜補陀落渡海に見える理想郷とは 4

 >1564年12月、都で伝道していたビレラを支援するため、フロイスがアルメイダを伴って豊後を出発し、
 >伊予灘を渡って同年28日に伊予国堀江に到着した前後の状況を報告したものである。永禄7年のことであった。
 >驚くことに堀江でも補陀落渡海が行われていた。堀江とは現在の愛媛県松山市の北、堀江である。

 >伊予国堀江で行われた補陀落渡海は、男性6人と女性2人の集団入水であった。
 >彼らは数日前から街々を歩いて喜捨(※惜しむ心なく、喜んで財物を施捨すること)を求め、阿弥陀の西方浄土に往生することを待ちきれず、
 >より間近に現存すると認識されていた補陀落浄土での再生を求めたのだという。
 >実行にあたり、彼らは人々から受けた金銭を袖に入れ、多くの人々に見送られ、新しい1艘の船に乗り込んで海岸を出た。
 >彼らの身体には、顎、腕、足に大きい石が縛りつけられていたという。船出にあたっては歓声に包まれた状況であっただろうし、
 >肉親や友人の別離の涙があふれたことであろう。やがて彼らは沖合に押し進み、ここで別船に乗っていた親者や友人と決別することになる。
 >そして彼らはさらに沖合に出て、1人1人深い海に投身したのである。

 >追従していた人々は、ただちに補陀落渡海船に火をつけた。そして海岸に接して記念の小堂を建てたという。
 >堂には、小さな棒に紙の木旗をつけて屋上に立て、各人のため1本の柱を建て、これに多くの文字を記したとあることから、
 >日本の葬送儀礼に見られる天蓋・四本幡・五色幡がかけられ、塔婆が建てられたのであろう。
 >さらに松を植え(※『待つ』に転じることから)、堂内では渡海した彼らを供養するために読経を行い、
 >その後も人々は常にこの堂に参拝するのだという。

 >まさに騒然たるできごとであったろう。フロイスはこのような堀江における補陀落渡海を聞きつけ、1565年に書簡をしたため、
 >京の都からイエズス会の同志に送ったのである。フロイスは書簡の末尾に海中に身を投げた者の中に、
 >長い鎌を手に携えた者(※『通路』を妨げる密林の木を斬るためとされる)があり、また自分から入水するのではなく、
 >船に大きな穴を穿ち、この栓を抜いて船もろともに海底に沈む方法があると付け加えている。

 >船には薪が積まれていたという。入水のあとに船は燃やされた。同行者は船を漕いで苦行者を海の沖合に導いた。
 >そして苦行者は袖や懐に石を抱き、また石を入れた袋を肩にかけ、仏名を唱えて海に飛び込み、海底の藻屑となったのである。
 >苦行者が身に付けた石とは経典を書いた『経石』と推断できる。そこで同行者は別の船に乗り移って渡海船に火を放った。
 >目の前で行われたこの宗教的自殺には、諸方から多数の人々が見物に集まっていた。そうした1人として90歳、
 >また80歳になる老人が前日に信心を起こし、苦行者と同伴して一緒に入水した。感極まった行動に出たのである。
 >彼らは「神々の作った文字を一面に書いた紙の白衣」を着ていたというから、経文が書かれた帷子を着ていたのである。

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338 2013/05/06(月) 15:57:33 ID:hMdAT4nujk
     【特別企画】浦島太郎伝説〜補陀落渡海に見える理想郷とは 5

……まさに壮絶のひと言に尽きる。
>>73では戸板で封印された渡海船が沖まで流され、漂流するがままと書いたが、文献によると後の時代では入水自殺的に海へ飛び込んだうえ、
無人となった船に火を放ち、船内に水を入れて海底に沈めるという念の入れようであった。
外国人から見た補陀落渡海の現場は、まさしくカルト教団として映ったとしても不思議ではあるまい。
先人たちは信仰の極北を目の当たりにして、さぞかし戦慄(と同時にドン引きしたかも)したことだろう。
それは現代を生きる我々とて同じことのはずだ。

やや趣旨が逸れた。軌道修正する。
声を大にして言いたいのは、渡海人が理想郷と目指した先は、はるか南海の果てや海底そのものだったことだ。
とすれば、まんざら先に述べた竜宮城が海底にあったという不思議な逸話は理解しがたいというほどでもない。
信者はメタファーではなく、心から海底の理想郷を目指したのか、あるいは理想郷へ行き着けると信じて自殺行為に走ったのか判然としないが、
いずれにせよ生きて帰ってくることはないことをわかったうえでの行動であった。
(それにしては松を植えて、渡海人が帰ってくるのを『待つ』というのは不自然なのだが)

くり返すが、常世は南方だと言われ、ニライカナイは遠い東(辰巳の方角)、あるいは地の底にあるとされている。
方角こそ違えど、はるか彼方に生きとし生けるものが憧れてやまない理想郷があると信じられてきた。
我々だって世知辛い社会生活に追われるとき、いつかは白い砂浜とエメラルドグリーンの海が広がる楽園のような離島でのんびり暮らしたいと
現実逃避するのだから、まんざらわからない話でもない。

ちなみに、同著書はこう結んでいる。

 >補陀落渡海は日本特有の宗教現象であった。日本人の「この国」からの脱出であり、「この国」からの亡命でもあっただろう。
 >どう考えても達成の見通しがない一種の宗教的自殺に等しい自死であったと人は言うだろう。
 >その意味においては補陀落渡海は、日本社会に見られた常識を超えた狂騒的な宗教現象であったと言わざるを得ない。
 >しかし、ここには強烈な『生』が裏打ちされていた。観音信仰の完結者として補陀落渡海を試みた人々は、
 >むしろ捨て身の行為のなかに強い『生』への動機と意識を持っていた。彼らが乗った小さな屋形船は、周囲が釘で打ち付けられた脱出不可能な空間であり、
 >日輪・月輪の微小の光さえ遮断された暗黒の箱である。足も自由に伸ばせないまま『渡海人』は膝を両手で抱え込んで身体を丸め、
 >まるで赤ん坊が母親の胎内にいるような恰好であったであろう。でもその型は、やがて母親の胎内から飛び出すような『生』を表徴するものであった。
 >人間の生涯を科学的にいえば、死に往く一生(往死の一生)であるが、それを現実的な生まれに往く一生(往生の一生)と切り替え、
 >阿弥陀浄土の『西方往生』よりもいち早く観音浄土の『南方往生』を企てたのが補陀落渡海であった。


昔から海は生命の母とも言われてきた。
渡海人は狭い船内に胎児のように丸まった格好で船出し、母の子宮、すなわち竜宮の門を目指したのは胎内回帰だともとれよう。
ちなみに『海』という漢字を分解すれば、左の部首であるサンズイはもともと『水』を表し、『毎』は、髪飾りの付いた『母』であるというのは、
なかなか感慨深いものがある。
人は死ぬべくして生まれてくるが、畢竟、『命』は帰郷にこそ真理があるのかもしれない。
そして人の死は案外、そう悲しむべきものでもないはずだと信じたい。

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339 2013/05/06(月) 16:02:11 ID:lo8K8tb..6
伝説の扉 浦島太郎伝説
http://www.densetsu-tobira.com/urashima/index.html
見るなのタブー wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A6%8B%E3%82%8B%E3%81%AA%E3%81%AE%E3%82%BF%E3%83%96%E3%83%BC
桃太郎と浦島太郎〜なぜ浦島太郎はバッドエンドなのか〜
http://chaos2ch.com/archives/2632570.html
YAHOO!知恵袋 なぜ乙姫様は浦島太郎に玉手箱をあげたのですか?
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1449299224?fr=rcmd_chie_detail
奇跡体験アンビリーバボー!100回記念スペシャル 浦島太郎伝説の真実 第一章 浦島伝説の真実
http://web.archive.org/web/20030818044056/http://www.fujitv.co.jp/jp/unb/contents/p103_1.html
奇跡体験アンビリーバボー!100回記念スペシャル 第二章 語られることのない伝説
http://web.archive.org/web/20030822182705/http://www.fujitv.co.jp/jp/unb/contents/p103_2.html
奇跡体験アンビリーバボー!100回記念スペシャル 浦島太郎伝説の真実 第三章 開けてはいけなかったもの
http://web.archive.org/web/20030822181836/http://www.fujitv.co.jp/jp/unb/contents/p103_3.html
浦島伝説の謎を解く
http://www.systemicsarchive.com/ja/b/urashima/
戦国厭世の補陀落(ふだらく)渡海― 宣教師が見た堺港沖での集団自殺 ―
http://toursakai.jp/igaishi/vol02.html
補陀洛に向って‥(2) - Ayiva
http://ayiva.sakura.ne.jp/doc/buddh/kannon/ps-tokai2.html

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340 2013/05/08(水) 00:39:55 ID:1JhwQLeNuk
[YouTubeで再生]
ゴーストタウン

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341 2013/05/11(土) 10:54:14 ID:brnRgQrDtk
342 2013/05/11(土) 10:55:20 ID:brnRgQrDtk
青森県の最北端・無人島巡り……大魚島(おおよしま)
http://blog.goo.ne.jp/tabitomosensan/e/d19bf1b2d52f2655b0e498b1fdee8041
大三島へ「義経の鎧が現存してる」こりゃ、行ってみにゃぁいけん。(しまなみ海道:愛媛県)
http://4travel.jp/domestic/area/shikoku/ehime/imabari/shimanami/travelogue/10753246/

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343 2013/05/11(土) 10:59:49 ID:euktx8ZC2I
あそびーのフクイ 越前海岸 亀島(がめじま)など
http://www.fukui.asovino.net/page/magazine/201105-2.html

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344 2013/05/11(土) 11:03:20 ID:euktx8ZC2I
     タコはスケベオヤジのメタファーか 日間賀島(ひまかじま)

日間賀島は三河湾に浮かぶ島で、知多半島寄りに位置し、愛知県知多郡南知多町に属する。
海産物が名産として名を馳せ、とりわけトラフグとタコは島の名物になっている。

日間賀島にはそんなタコにまつわる伝説が語り継がれている。それが『千代取り岩伝説』である。
豊浜墓所の海の千代取り岩についての物語だ。

その昔、須佐の荒磯松の近くの粗末な家に、千代という若い娘とその母が住んでいた。千代は評判の美人で知られ、村の若者たちの憧れの的だった。
春の引潮のとき、千代は沖の磯まで出かけて、日課である潮干狩りに精を出していた。
貝や海藻を拾うのに夢中になっていたとき、何かが足に絡みついた感触を憶えた。
足元を見れば大きなタコだった。浅瀬に取り残されたのであろうタコは、千代の脚を這いのぼり、たちまち白い太腿まで触腕を伸ばしてきた。
千代は鎌を振り回し、その一撃でタコの足が1本切れた。
タコはあわてて岩陰に逃げ、千代は事なきを得た。残されたタコ足は太く、カゴに収まりきらぬほどであった。ともかく大収穫であった。

翌日も昨日と同じところに行くと、やはりあの大ダコがいた。千代はまた狙うことにした。
赤い腰巻から白い腿を差し出して誘ってみる。案の定、タコは足を伸ばしてきて千代に抱きつこうとした。
千代はそうはさせまいと、鎌で一閃。タコ足1本をゲットした。

次の日も例の場所に行ってみたが、あいにく大ダコはいなかった。15日経ってから行ってみると、タコはまるで待ち侘びていたかのようにいた。
千代は味を占めていた。なにせタコ足は食べ甲斐があり、しかも美味ときている。
彼女はさらにタコ足を3本切り落とした。タコに残された足はあと3本となってしまった。

季節はすぎ、初夏を迎えた。千代は磯へ出かけ、またしても例のタコを見つけた。千代は1本頂戴した。
明くる日も出かけた。タコに残された足はあと2本。千代はそのうち1本をこれまでと同じように巧みに切ったつもりだった。
ところが大ダコはひるむことなく、最後の1本を彼女に白い腿から腰に絡ませて動きを封じると、千代の顔に墨を吐きつけて目潰しを食らわせた。
これがタコにとって乾坤一擲の一撃となる。千代を抱きすくめると、そのまま海の中に引きずり込んでしまったのだ。
 
こうして美しい盛りの千代は処女のまま、あろうことかタコに抱かれて海の藻屑と消えた。
残された母は渚を駆けめぐっては、「お千代! お千代!」と叫んだが、後の祭りだった。磯では油断してはいけないと言い聞かせるべきだった。
村の若者たちも麗しの千代をなくして言葉を失うばかりであった。
それ以来、大ダコの潜んでいた磯の一部を『千代取り岩』と呼ぶようになった。


「千代取り岩」伝説
http://blog.goo.ne.jp/tomotubby/e/e532892c301135e28f64682c233b6825
吉岡実「タコ」から
http://blog.goo.ne.jp/tomotubby/e/f498ad9cb53d7fb0448dcd12ca6af8e3

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345 2013/05/12(日) 15:25:52 ID:8gYsPLjTH2
     タコによる人さらいの変形版? おりん島

ついでだからタコ伝説をもう1つ。愛知県知多の沖合には、知る人ぞ知る『おりん島』という小島があるという。
その伝説のあらましは>>344とほぼ同じであるが、決定的に主人公の世代が違う。
こういった類型の説話は大元のAで始まったはいいが、BとCに分岐するにしたがって好き勝手にアレンジされていることがよくある。
ちょうど伝言ゲームが、まったく別の話に書き換えられているように。

かつて、須佐の浜に『おりん』という名の老婆がいて、海女のような生業をしながら暮らしていた。
僻地で1人でいるぐらいだから、よほどの変わり者に違いあるまい。そう決めてかかり、村の者は決して近づかなかった。

ある日、どういった風の吹き回しか、そのおりんが村の網元のもとへひょっこり顔を出し、不思議な話を語って聞かせた。
昨日のことだった。舟で漁に出ていると、大きなタコが舟に張り付いてきて、足を1本伸ばしてきたと思ったら、
彼女を海に引きずり込もうとするのだと。
おりんは臆することなく、その足を鎌で断ち切ると、タコは海中へ逃げていった。

今日になってまた舟を出すと、同じタコと出くわし、同じように襲ってきたものだから、またぞろ足を切り落とし撃退したという。
切断したタコ足は、いつまでもウネウネと身をよじらせ気味が悪いし、そもそも邪魔なので、浜に埋めてしまったと語り、
おりんは豪快に呵々大笑した。

どうもイヤな予感がする。心配した網元は明日は漁を控えてみてはどうかと忠告した。
が、おりんはどこ吹く風といった様子で笑い飛ばし、いつもと変わらず漁を続けた。
7日目まで同じようなタコの襲撃がくり返され、そのたびにタコ足を切り落として事なきを得たおりんだったが、
ついに運命の8日目、沖合で足が1本しか残されていないタコが舟に取り付くや、今度こそがっちりおりんをつかまえると、
瞬く間に海に引きずり込んでしまった。
遠巻きに心配していた村人は急いでおりんの行方を捜索したものの、かんざしの1本たりとも見つけることができなかった。

そのおりんが漁場にしていた島を、のちに人は『おりん島』と呼ぶようになった。
今でもこの伝説を知る古老は、この近くでタコだけは獲らないという。


暗くなるころあの海で 63.オリントウ
http://harapeko.que.jp/darksea/archives/001719.html

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346 2013/05/18(土) 22:12:22 ID:Q.BH1qbqZ2
鴎島:江差町 | 歴史・伝説 | 遊ぶべ!道南探検隊
http://donan.org/history-legend/kamomejima-2.html

※画像は鴎島にある奇岩、瓶子岩(へいしいわ)

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347 2013/05/18(土) 22:14:15 ID:Q.BH1qbqZ2
若狭不老不死伝説ツアー 御神島(おんがみじま)
http://www.pamco-net.com/asobo-ya/as-event/event-ippan-furouhusi-11112501.html

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348 2013/05/18(土) 22:20:01 ID:tkK9Vr8MYI
     千島アイヌの聖地 宇志知島(うししるとう)

北海道本島の東、根室海峡からカムチャツカ半島の南、千島海峡までの間に連なる列島を千島列島といい、
列島の中ほどに浮かぶ島が宇志知島である。ロシア名も同じくウシシル島(o.Ушишир)。
島名の由来は、アイヌ語の「ウセイ・シル(温泉・大地。つまり温泉のある大地)」から来ているとされる。
この海域はオホーツク海と太平洋の潮がぶつかるため、非常に危険である。

正保元(1644)年、『正保御国絵図』が作成された際、幕命により松前藩が提出した自藩領地図には、
『クナシリ』『エトロホ』『ウルフ』など39の島々が描かれていた。
正徳5(1715)年、松前藩主は幕府に対し、『北海道本島、樺太、千島列島、勘察加』は松前藩領と報告。
1769年、この地を探検したイワン・チョールヌイが本島にて千島アイヌが行う儀式を目撃したとのこと。
それによると、島は千島アイヌにとっての聖地であるという。また、『雷神カンナカムイ』の子孫が千島アイヌであるとされ、
本島こそ発祥であるとの伝説が残されている。

アイヌにとって雷神カンナカムイは神の中でもとりわけ重要な存在である。アイヌが危機に瀕したときは幣を捧げて祈っていた。
イワンの記述によれば、硫黄の噴出孔の上に設けた祭壇でガスと熱に耐えながら3日3晩祈り続け、
その試練に耐えた者だけが「自分たちを悪魔の手から守ることのできる全知全能のアイヌとして生まれ変わる」と信じられたという。


宇志知島wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%87%E5%BF%97%E7%9F%A5%E5%B3%B6

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349 2013/05/18(土) 22:24:42 ID:tkK9Vr8MYI
     嫁の亡骸を乗せて浮上した島 嫁ヶ島

島根県松江市嫁島町の西、約200mに位置する宍道湖に浮かぶ唯一の島、嫁ヶ島。
今から1200万年前、第三紀中新世の火山活動により噴出した玄武岩により形成された全長150mの小島である。

どうやらこの嫁ヶ島にも悲しい女の歴史があるようだ。
昔、村で評判だった美しい嫁がいた。ところがなにかにつけて姑に小言を言われ虐められていた。
ある日、日没になったというのに嫁が家に帰ってこない。
家族は方々を手を尽くして探したが、どうにも見つけることができない。気立てのいい嫁だっただけに夫や村人は落胆した。

数日経って不思議なことが起きた。宍道湖の水中から、その嫁の亡骸を乗せた島が浮かび上がったのだ。
姑のいびりを苦に自害していたのだろう。これにちなみ、『嫁ヶ島』と呼ぶようになったという。

あるいはこんなバージョンもある。
里帰りの嫁が凍った湖上を渡る途中、氷が割れて転落、そして水死した。
これを哀れんだ湖の神が、その亡骸を乗せて一夜のうちに浮かび上がらせた話など……。

島ネタを追求してきて常々思うことだが、驚くほど女性の悲話が多い。
とくに悲恋モノは日本人の琴線に触れるんだろうが、ちょっとゲップが出ちゃうね。


嫁が島 - 松江市立図書館
http://www.lib-citymatsue.jp/pdf/chidori_078.pdf

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350 2013/05/24(金) 07:44:22 ID:Yo8j/72k.6
   オナニーレスはいつまで続くのか?

自分のサイトなりブログなりでやったほうがいいんじゃあるまいか!?

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351 2013/05/25(土) 08:25:18 ID:j8WwFdIbmg
祝島(いわいじま)ホームページ 祝島の伝説「太郎万・次郎万」
http://www.iwaishima.jp/

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352 2013/05/25(土) 08:33:02 ID:j8WwFdIbmg
>>350
500レスを埋め尽くすまでに決まってるでしょ。完走ですよ、完走。
最初のころ資料をまとめてレスしてたんですが、ネタが尽き、インターネッツの恩恵を借りて独自に探しまくってるんですよ。
その努力たるや簡単そうに見えて、実はすっごく大変なんですから。

>自分のサイトなりブログなり〜

見たまえ、『このページへの訪問者数』。個人のプログではここまで到達することができまい。
よってモチベーションが上がらないので、今さら無理。だからここに寄生させてちょ〜だい。
目指せ、驚異の閲覧数30万。数字こそ正義なり。


     軍事機密に関わり厚いベールに包まれていた島 金輪島(かなわじま) 

広島にある宇品(うじな)港の東、約1kmに位置する金輪島は、今では鄙びてなんの変哲もない小島にすぎない。
しかしながらこの金輪島、明治時代の中ごろより軍都の様相を呈していったのはあまり知られていない。
この島のみならず、周辺の島々は、ことごとく軍関連の施設や工場だった。ウサギ島こと大久野島も然りであろう。

1894(明治27)年、日清戦争が始まると、宇品港は陸軍の軍事基地となる。
陸軍運輸部金輪島工場が敷かれ、島中央の山頂付近には照空灯陣地が置かれるなど軍事機密に関わる島として終戦まで
秘密のベールに包まれていたのだという(太平洋戦争末期には旧陸軍野戦船舶本廠に変遷)。

終戦とともに、旧陸軍船舶司令部(暁部隊)直轄の陸軍野戦船舶本廠の一部であった島の東岸の造船施設は民間への払い下げられ、
その後、現在に至るまで造船業はこの島の基幹産業である。


金輪島(概説)
http://masuda901.web.fc2.com/page5bvc.html
四、金輪島に八月六日を尋ねて 山内 幹子
http://www3.famille.ne.jp/~kodayo/genbaku/genbaku2/dai2kojyo-yamanouti.htm

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353 2013/05/27(月) 00:15:25 ID:LipE/i9CGA:au
削除(by投稿者)

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354 2013/05/30(木) 06:15:50 ID:JJRFSMq1UA
>>353
>千葉の南の方で因縁めいた話しを知っていますが〜

せっかくだから、通りすぎる前に語って行きなされ。

返信する

355 2013/06/01(土) 09:52:03 ID:kIjR1sKRMU
     置き去りにされた女の無念 京の上臈島(きょうのじょうろうじま)

岡山県玉野市、宇野港の約2km西にいわくつきの島を発見。事情を知る者は気味悪がって寄りつきたがらない無人島があるそうだ。
(例外として、知らない観光客は海水浴やキャンプをしに訪れるようだが)

それが京の上臈島である。この島は別名『屍島』ともいう。もう別名からして垂涎ものである。
近辺ではその昔、海賊が出没しては金品を略奪、および殺害された人も多かったこともさることながら、
ある伝説のため、祟りがあると信じられてきた。その伝説とはこうだ。

江戸時代のことである。渋川の依田某という男が数日の間、京に滞在した。
男はたちまち京の都に魅了され、上臈(女官、または女郎の意)といい仲になり、2人は婚約を交わすまでになった。
京を発つ段になると、男は女を渋川につれて帰ることにした。
長い船旅の末、宇野の港が見えるところまでさしかかったとき、男は女にこう言った。

「渋川にはじきに着く。もっとも、いきなりおまえをつれて帰ったとしても、親父たちが驚くに違いあるまい。
まずはおれが説得しに陸に上がるから、しばらくの間、この島で待っててくれないか? ともに暮らすのはそれが済んでからだ」
と言いくるめ、女を名もなき無人島に残し、先に渋川に行ってしまった。

それから何日かして、渋川海岸にその女の死体が流れ着いた。村人たちはこの水死体を引き上げては哀れに思い、
「こんな若いのに命を落とさずともよいものものを。せめて死後はいいところに行きなされ……」と、その死体を沖へ押しやった。
ところが翌日になると、同じ浜辺に、昨日と同じ女の死体が流れ着いているではないか。
村人は気味悪がり、今度こそと、さらに沖の向こうまでと押し流したのだが、明くる日になるとまたしても同じように戻ってきている。
そうこうするうちに女の素性が発覚。女は依田某が京から連れて帰った上臈だったのだ。

どうせ女に飽きたので無人島に置き去りにしたクチだろう。一向に迎えに来ない男に痺れを切らしたうえ、
離れ小島に1人残された寂しさ、飢えと渇きに耐えかねて自害したに違いあるまい。
村人たちは渋川の松林の中に埋葬してやり、祠を建てて祀った。
さすがの依田某も後悔し、社や鳥居の建立から祭りまで心を入れ替え奉仕し、その菩提を弔った。
今も人々から『浜の神さん』と呼ばれ、松林の中にひっそりと佇んでいる。
そしていつしか、女が置き去りにされた島を京の上臈島と呼ぶようになった。


Vol.002 宇野港 - 日本船舶海洋工学会
http://www.jasnaoe.or.jp/series/minatono/002/index.html
第63話 島のお話【1】 京の上臈島
http://pebblegravel.blog.fc2.com/blog-entry-69.html

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356 2013/06/01(土) 09:56:50 ID:kIjR1sKRMU
     5人の座頭が海の藻屑と化す 五人宗谷(ごにんぞわい)

引き続き、宇野港の沖合に注目。
>>355の京の上?島と鳥島の間には無数の岩礁がある。『五人宗谷』と呼ばれているらしい。
満潮時は完全に海中に没しているが、潮が引くと点々と黒い岩が姿を現すだけだから、島の定義からすれば島ではないのだが……。
その岩礁はごく近年までは、漁師さえ気味悪がって近づかなかったというのだ。
座礁するのが怖いせいもあるが、ここにも置き去り伝説が残されているからだという。

いつのころか判然としない。昔、備後の鞆(とも・福山市)の回船問屋に5人の旅人が訪れた。一行は大阪行きの船便を待っていた。
5人はいずれも盲(めしい)の座頭だった。眼こそ見えないが、旅装も人柄も上品で、裕福そうに見えた。
座頭たちは検校(けんぎょう・盲人の最高官位)の位をもらい受けるため、都にのぼっている道中だった。

そこへ1人の船頭が声をかけた。「座頭さんたちや、よかったら私が都まで乗せてあげますぜ。
なに、船賃さえ奮発してくれれば、さっそく今からでも」
5人の座頭にとっては、まさに渡りに舟。言葉に甘え、船頭の船に乗り込むことにした。その場で船賃をたっぷり弾んだ。
鞆の港を出発し、船は帆に風を受け、東に向かって進んだ。

やがて日没が迫った。座頭たちは眼が見えずとも、肌に伝わる五感で察することができる。
しばらくすると、風も凪ぎ、船を操る櫓の音だけが聞こえてきた。そのうち船が揺れるたび水の音がピチャピチャとする。
そのとき、船頭が声をかけてきた。「座頭さん、たいへん申し訳ない。船のアカ(船内にたまった水)をかえるから、その間、
近くの島に上がって作業が終わるのを待っていてくれんか」
座頭たちはそれに従い、船頭に手を引かれて、その島に上陸した。もとより急ぐ旅ではない。島に上がった5人は静かに打ち寄せる波の音を楽しんだ。

ところが待てど暮らせど、一向に船頭は迎えに来ない。
「船頭さん、まだかね?」と、声をかけてみたが返事がない。「船頭さん、船頭さんよ!」と叫んでいるうちに、潮が足元を濡らし始めた。
すでに船の気配は消えていた。だまされたと知った5人は声を涸らして助けを求めた。
潮は満ちてきて水位はどんどん上がってくる。おたがい離れまいとして座頭たちは抱き合ったが、悲しき抵抗だった。
ほどなく5人は海の藻屑と消えた……。

この海域では今でも雨の夜になると、海の底から話し声やすすり泣きの声がすると言って、地元の漁師たちは忌避するという。
一説によると、この5人のうちの1人だけは田井の海岸に打ち上げられ、親切な村人の介抱によって息を吹き返したとも伝えられている。
その後、高野山に入り、犠牲となった4人の墓を建て、その菩提を弔ったともいう。
また、この置き去り伝説を証明するかのように、直島の漁師がこの宗谷に潜ってみたことがあるらしい。すると岩の間に数体の白骨が折り重なっていたとか……。

どうやら置き去りにされた者はいずれも魑魅魍魎と化すのが通説のようだ。


五人宗谷(ぞわい):玉野の伝説
http://tamano.imawamukashi.com/umi/umi-6.html
検校wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A4%9C%E6%A0%A1

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357 2013/06/05(水) 18:20:01 ID:Zh6IYT1xqk
     インターバルの岩礁で力尽きた女の悲話 高島と伊勢島

島根県益田市北部の沖、約12km先に浮かぶ高島。最盛期の1960(昭和35)年には125人の島民が暮らしていた。
しかし過疎化の進行と、1972年の集中豪雨災害などで大打撃を受けた。
そのため1975年3月にすべての住民が対岸の益田市土田町に集団移住して無人島となってしまった。
現在は磯釣りのスポットとして賑わいを見せている。そんな高島にも悲しき女の伝説が残されている。

かつて、対岸の津田からお伊勢という美しい娘が高島に嫁いできた。
新婚のころは島の生活も楽しく夫ともうまくやってきたつもりだったが、やがて荒涼たる孤島の生活にも飽き、
津田へ残してきた親のことを考える日々が続いた。
実家は村1、2を争うほど貧しかった。とりわけ母のことを想うと胸が張り裂けそうになった。

対岸までの距離が3里であることを知り、高島の周囲が1里であることから3周泳げるようになれば津田に達するに違いない、
と単純に考え、毎晩泳ぎの練習をした。そしてある日、3周泳ぎきったお伊勢は、ついに実践に移す。
しかしながらそれは浅はかな考えであった。安全な高島の周囲とはうって変わって、津田までの道のりは狂ったような荒波の海。

何度も波に揉まれながら、本土まであと半里までさしかかったとき、小さな岩礁が見えた。
どうにかそこにたどり着いて体力を回復させようと一息ついた。
あまりの望郷の念と疲労困憊したためか、手を伸ばせば届く対岸に両親のシルエットを見たような気がした。
張りつめていた神経が途切れ、安堵してしまったのが運の尽き。ふっと意識を失い、そのまま命を落としてしまったのだ。

それからというもの、この岩礁を『伊勢島』と呼び、月夜の晩にはお伊勢の声が聞こえてくるという言い伝えがある。


浜田海上保安部沿岸域情報提供システム 高島灯台
http://www6.kaiho.mlit.go.jp/hamada/03_service_page/service_107.htm

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358 2013/06/05(水) 20:48:22 ID:Zh6IYT1xqk
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     森の奥には血を吸う山姫がいる 屋久島

1993(平成5)年、日本発のユネスコ、世界自然遺産に登録された鹿児島県の屋久島。
島全体に広がる大自然の『癒し』を求めて多くの観光客が集まり、スピリチュアルスポットとしても人気が高いのは今さら言うまでもない。
また、屋久島には九州一高い宮之浦岳(標高1936m)をはじめとする1800m級の山々がそびえ立っている。ガイドブックには『洋上のアルプス』と銘打っており、
それに相応しく、山頂付近の年間平均気温は約5℃と凍えるほど。なんと屋久島は、積雪が観測される日本最南端の場所でもあるのだ。

そんな神秘の屋久島にも、調査したところ、不思議な伝説が残されていることがわかった。
屋久島の大部分は山が占め、林業を生業とする者は毎月15日を『ヤマイエの日』として、この日は仕事を休んで山へ立ち入らないという。
なぜなら、この日は神々が行列をなし山を見て歩く日とされ、人が入るのを極度に嫌うためだとされているのだ。
これを与太話ととった者がいた。掟を守らず山へ入ったはいいが、白鹿に乗った神と遭遇。まわりを警護していた野鹿に角で突かれたらしい。
明くる日、村人が探していると谷底で死んでいたそうだ。また、ヤマイエの日に山に入ると神隠しにあうともいう。

極めつけは『山姫伝説』である。
森の奥深くには、美しい姫がいると信じられている。女を山姫と呼ぶ。
まるで洗ったばかりのように艶やかな長い髪を背中に垂らし、十二単姿で赤い袴を穿いているとも、半裸でシダの葉で作った腰ミノをまとっているだけともいう。
いずれにせよ、その素肌は雪のように白いんだとか。
山姫は木の精霊であり、旧正月、5月、9月に行われる山の神祭りの日、山に降りてくるともいわれる。
この日、山姫は祭りの潮水を汲みに、木の桶を持って降りてくるらしい。そのため、祭りの日に入山するのはタブーとされているのだ。

山姫は見た目は美しい。しかしその艶姿に惑わされてはいけない。
よしんば山姫に出会ってしまい、山姫が笑ったのにつられて笑うと血を吸われて殺されてしまう。
山姫が笑う前にこちらが先に笑うか、さもなくば山姫が笑ってもじっと目を見据えていれば助かる、笑わずに睨みつけてやれば何もせず去っていく。
草鞋の鼻緒を切って唾を吐きかけたものを投げつけるか、サカキの枝を振れば難を逃れられる、と回避方法はいくらかあるようだ。
山姫が怒っているときの方がかえって安全だという。

子供が山奥へ入らないための戒めとしてこの伝説は伝えられていると思いがちだが、屋久島の古老たちは実際に山姫と出くわしたことがあると力説する。
こんな事例が残されている。かつて屋久島吉田集落の者が麦の初穂を供えるべく、旧暦8月のある日に18人で連れ立って御岳に登った。
途中で日が暮れたので山小屋に一泊。翌朝の早朝、飯炊きの人間が早く起床して朝食の準備をしていたところ、妙な女が出現。
眠る一同の上に跨って何かしたというのだ。結局、物陰に隠れていた飯炊き以外、全員が血を吸われて死んでいたとのこと……。

近年の事例としては、『小学生が筍取りに行った際、白装束姿の髪の長い女に笑いかけられた』『雨の夜、宮之浦集落の運転手が紫色の着物の女に出会った。
車に乗せてやろうかと声をかけたが、そのまま行ってしまった』などと実話も少なくなく、妖怪探訪家、村上健司いわく、屋久島に限らず、
各地に伝播する山姫の目撃談は、近隣の村の娘が正気をなくし、山へ迷い込んでしまってこのような姿に変わり果て、
奇行を重ねているうちに伝説化したのではないかと言及している。


屋久島REALWAVE 島を知る 
http://www.realwave-corp.com/02learn/08/index.htm
屋久島旅行記
http://homepage1.nifty.com/udagawa_home/mt_yakushima.html
山姫伝承
http://blogs.yahoo.co.jp/cjkkb976/30701180.html
山姫wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E5%A7%AB

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359 2013/06/09(日) 09:33:22 ID:XDprmBexfk:au
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360 2013/06/09(日) 14:33:30 ID:XDprmBexfk:au
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361 2013/06/09(日) 22:01:45 ID:51N5rQ3MCU
>>359
ウ〜ム……その手のネタは、詳しくないなあ。どちらかというと、『地域の伝説やまじない・風習』のスレ寄りだね。
あっちの板で、どっかの掲示板の女系家族しか続かないってコピペ貼ったんだが、似てなくもない。

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362 2013/06/09(日) 22:16:23 ID:YGLqs3icdY
     波照間版浦島太郎『エイ女房』 波照間島 1

沖縄本島から南西に400km、さらに八重山群島の中心の石垣島から南西に63kmにある波照間島は、隆起珊瑚礁の島であり、
そして日本最南端の有人島でもある。
波照間島には怖いわけではないが、ファンタジックで牧歌的でありながら、なぜかリアルな伝説が残されているのだが、
これが浦島太郎の話と符合する点が見受けられ、たいへん興味深いのだ。

昔、ある漁師が夜の海へ漁に出ていた。ところがあいにくの不漁。
そろそろ竿を片づけようかと思ったとき、急に当たりがきた。引き揚げてみると大きなマンタだった。
そのマンタを舟底に座らせてみると、愛くるしい眼で漁師を見つめてくるので、そのうち男は変な気持ちになった。
男には陸に上がれば妻が待っている身。なにも性生活に不自由しているわけではないが、どうにも人間の女そっくりの目つきに映り、
ついムラムラッと……催してしまったのだ。漁師はマンタを抱きしめると……いたしてしまった。
(下世話な薀蓄だが、マンタのソレの締まり具合は人間の女性のアソコと遜色ないそうな)

行為を終えた男。これからどうしよう。いくらマンタが愛らしいとはいえ、まさか家に連れて帰り、飼うわけにはいかない。
ましてや食べる気にもならないので、結局、舟べりから海へ逃がしてやった。

それから何年か経った。すっかりマンタとの熱い一夜など忘れてしまっていた。
また例のごとく夜の海に出て、釣り糸を垂れていたときのこと。
奇妙なことに海の中からマンタの子供が顔を覗かせ、こう喋ったではないか。「お父さん、お父さん」
「なんと、マンタが口を利いた。しかしおまえに、お父さんと呼ばれる筋合いはないのだが……」
「なにをおっしゃる、お父さん。会えてうれしいです。今夜、私の家においでになりませんか? 母も会いたがっておりますよ」
「母さん?」男は仰天した。瞬時に『やっちまった一夜』を思い出す。「ひょっとして、あのときエッチしたマンタか!」
「左様です。あの夜、母と契を結ばれ、私が生を授かったのでございます」

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363 2013/06/09(日) 22:17:31 ID:YGLqs3icdY
     波照間版浦島太郎『エイ女房』 波照間島 2

息子マンタが言うには、海中の中にある御殿へ招待したいから、今から参りましょうと誘う。男は逆らえず行くことにした。
マンタの背に捕まり、海中にと潜った。なぜか呼吸は大丈夫だった。
そしてたどり着いたのがきらびやかな海中の御殿であった。あのメスマンタが微笑みながら出迎えてくれた。
まさしく竜宮城の浦島太郎のごとく、タイやヒラメの踊りに山海の珍味を振舞われ、至り尽くせりの歓待を受けた。
その間、男は甲斐甲斐しいメスマンタのもてなしを受けた。陸へ置いてきた妻のことなど忘れ、毎日のようにご馳走を食べ、楽しくすごした。

人は贅沢な生き物である。そんな夢うつつの暮らしを続けていると、いずれ飽きがくる。
ある日、マンタに別れを切り出した。
マンタ親子は必死に引き止めたが、男の気持ちは変わらない。「残念です。せめて手土産を差し上げます。
これは竜宮の壺。中に向かって、欲しいものを願うと、何でも出してくれる魔法の壺でございます」
「それは便利な品物だな。せっかくだからもらっておくよ。では、これにて失敬」

帰りも息子マンタに捕まって浮上し、はるばる故郷に帰ってきた(浦島太郎とは違い、世界は元のままであった)。
家に帰ると、壺のことは内緒にし、なんのかんの言い訳をして妻に平謝りした。
竜宮の壺は畑に隠しておいた。昼になると、畑仕事に出かけると言って家を出た。

男は壺を取り出すと、壺の中に向かって自身の好物を願った。まさにそれは魔法の壺で、次から次へとご馳走を出してくれた。
それ以来、男は畑仕事が日課になった。しかしそんな夢のような日は長続きしない。
せっかく作った妻の弁当に箸もつけず持ち帰ってくるものだから、妻は不審に思った。
例のごとく畑に出かけた夫を追って、物陰からこっそり様子を窺った。
なんと夫は、畑の真ん中でご馳走を並べて、それをガツガツたいらげているではないか。
「アンタ! なによ、その豪華な食べ物は!」と、妻は大声を出して飛び出した。
男はあわてて壺を取られまいとしてアブ(排水口)に隠した。そして弁解しているうちに、なくしてしまったという。

……いまだにこの魔法の壺がどこにあるのか、どこのアブに入っているのか、見当がつかない。
波照間の島民にとって謎になっており、憧れのアイテムとして語り継がれている。


[日本の民話・妖怪 語りおろし]エイ女房(沖縄県、波照間島)
http://www.rg-youkai.com/tales/ja/47_okinawa/18_einyoubou.html

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364 2013/06/09(日) 23:13:53 ID:gPrndsxyyE
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しょんべん横丁

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365 2013/06/10(月) 06:09:58 ID:9ijcNzbIa6
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366 2013/06/15(土) 10:27:20 ID:YQIgvgMn/s
367 2013/06/15(土) 10:31:43 ID:YQIgvgMn/s
     鬼の一瞬のスキを見逃さずワンショット・ワンキル 魔見ヶ島(まみるがしま)

……なんたる失態ッ! 
それは盲点。僕の住んでる地元の、ほんの近くにナイスネーミングな島があったとは、今の今まで気づかなかったのだ。
その名も『魔見ヶ島』。字面からしてオドロオドロしい。『魔性の者を見る島』とは厨二病そこのけではないか。

しかもその名を裏切らず、グッドな伝承が残されていた。ますらおぶりな島名にはそれに釣り合う由来があるべきである。
>>228で紹介した三重県熊野市の名勝奇岩『獅子岩』の近くには、天然記念物に選ばれ、ユネスコ世界遺産『紀伊山地の霊場と参詣道』の一部である『鬼ヶ城』
(こちらも奇岩)があり、さらにその沖合1.5kmのところに問題の魔見ヶ島はあるのだ。
国道42号線を車で通るたび、「あの3つコブのある島はなんなんだ……あの島の名前はなんていうんだろう……しかし、なぜか惹きつけられる島だなあ」
と、つねづね運転そっちのけで思っていたら、ある日その謎が氷解したわけである。

魔見ヶ島のふだんの顔は釣り人にとって絶好の漁場である。
イシダイ、ヒラマサをはじめ、マダイは最大90cm、クエも1m超えという記録がある熊野を代表する磯だそうだ。
しかしながら釣り人は撒き餌のオキアミでグチャグチャに汚してしまうその島に、まさか鬼にまつわる伝説が残されていたとは夢にも思うまい。
その伝説とは以下のとおりである。

今を遡ること1200年前。桓武天皇は坂上田村麻呂を将軍に命じ、伊勢・鈴鹿の悪鬼どもを征伐させに向かわせた。
そのとき鬼ヶ城をねぐらとし、悪行を重ね、熊野一帯を荒らしていた鬼たちがいた。田村麻呂はこれを討つべく熊野に馬を走らせたのだった。
(※言うまでもなく鬼とはメタファーである。一般的に鬼や土蜘蛛と称される怪物伝説は『まつろわぬ者(もしくは民)』を指す。
そして中央政権に反発する者は悪として描かれているのが常である。ここでは海の民、すなわち海賊の多我丸とその一族が鬼として祭り上げられたのだ)

その鬼たちは深山幽谷へ飛行して姿をくらませていた。田村麻呂は追討ちをかけるべく烏帽子山にのぼり、救いを求め観音の名を唱えた。
すると大馬(おおま)権現の天女が忽然と現われ、こう助言したのだ。
「あなたが追う鬼賊の隠れ家は海辺の岩屋(鬼ヶ城)に隠れています。ですが、岩がそびえ立ったうえ磯は波が激しく、
容易に近づくことはできないでしょう。けれども諦めてはいけません。辛抱強く待ち伏せするのです。そして神通の矢を放ちなさい」
天女はそれだけ告げると、白馬に乗って飛び去ったという。

その言葉に従い、田村麻呂は鬼ヶ城から離れた場所に身をひそめた。そしていよいよ決戦のとき。
夜が訪れ、不思議な現象が起きた。沖の魔見ヶ島がなんだか騒がしい。見れば島に童子が現れたと思うと、唄って舞っているではないか。
童子だけにとどまらず、軍勢も加わり大騒ぎしている。
外の騒々しさを何事かと思ったのであろう、鬼の大将が鬼ヶ城の岩戸を開けているところだった。

田村麻呂はその一瞬を見逃さなかった。すかさず弓に神通の矢をつがえ、引きしぼった。鬼大将の胸板を狙い、そして放った。
こうして鬼は一矢でしとめられたのだ。鬼も気高き誇りのなせる技か、仁王立ちのまま死んだという。
田村麻呂にとって大将を欠いた鬼の残党など、もはや敵ではなかった。

魔見ヶ島……それは鬼を征伐するのに、奇跡を起こした島だったのだ。


鬼ヶ城・魔見ヶ島 - 東紀州ほっとネットくまどこ
http://www.kumadoco.net/special/03_sea/kumano/04.html
坂上田村麻呂
http://www.geocities.jp/baronhiro2000/rekisi/tamura.htm
鬼の国、異界日本
http://homepage2.nifty.com/sukecial/oni/index.htm

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368 2013/06/22(土) 05:53:18 ID:mf6Y9rja3k
【文化財】大崎上島最古の伝説『福島伝説』
http://blog.livedoor.jp/hiroyukikamijima/archives/19384605.html

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369 2013/06/22(土) 06:28:36 ID:mf6Y9rja3k
     龍神の化身、夜ごと行者の話を聞きに現る 舳倉島(へぐらじま)

石川県能登半島より北上すること約50km、紺碧の日本海上に突如姿を現すのが舳倉島である。
島の南端に近い字高見には延喜式内社奥津比?(おくつひめ)神社が座り、近くからは重層遺跡『シラスナ遺跡』が発見されている。
これは5世紀半ばから8世紀後半にかけての複合遺跡であり、古い層からは貝塚やアシカの骨、8世紀頃の遺跡からは製塩土器や牛の骨が発掘され、
ここで『殺牛祭神の儀礼』が行われていた可能性も指摘されている。
さらに舳倉島では石積み(ケルン)の多さに驚かされる。島内には70あまりのケルンがあり、石を積むことが龍神の供養となると同時に、
エゴ草がたくさん採れるようになると言い伝えられている。
もしくは江戸時代に起きた海難事故のあと、低い島を少しでも高く見せて海上からの標識になるよう積み上げたという説もある。

島の中央より北の海岸近くに『龍神池』と呼ばれる池がある。別名を『蛇池』ともいうらしい。
その昔、この島に一旭(いっきょく)という名の高徳の行者が訪れた。行者は池のかたわらに草庵を結び、毎晩、漁師や海女などの島民を招き、
ありがたい法話を語って聞かせていた。
やがて、その座に1人の若くて美しい女が参加するようになった。
しかし奇妙なことに、その女は修行を積んだ行者に姿は見えても、ほかの島民には見えないらしい。
行者は不思議に思いつつも、ある晩、法話が終わったあと、声をかけてみることにした。
「もし……あなたは毎夜、熱心に話を聞いてくださっているようだが、どこにお住まいですか? あまり見かけない顔ですな」
「さすがですわね、私の姿がお見えになられるとは。実は私、人間ではございません。古くから舳倉島に住んでいた龍でございます。
年老いて死んでからというもの、亡骸は池の底に沈んでいるのです」

これも悲しき業か。龍は生前に犯した数多の罪ゆえ成仏できず、子供の龍とともに苦界をさまよっているのだという。
そんな折、奇しくも行者が島へ来てからというもの、ありがたい法話を聞かせてくれるので、人間の姿に身を変えて末席に加わっていた次第。
以来、何度もここへ足を運び、心の苦しみも幾分和らいだ気がする。それほどまでに行者の話は龍の悶絶する魂を癒すのだと。
「願わくば、行者様。なにとぞ……なにとぞ池をさらって我が亡骸を引き揚げてくださらぬか。そして弔い、その法力で成仏させてくださいますよう
お願い申し上げます」と、涙ながらに訴えた。行者は承知すると、女は何度も頭を下げ、闇に溶け込んでいった……。

翌朝、行者は村の人々を集めて、池の水を汲み出させ、底にたまった泥をさらった。
すると頭を北に向けた大小2つの龍の骨が見つかった。おびただしい数の骨は四斗樽に4杯分に及んだ。
頭蓋骨を輪島の法蔵へ運んでねんごろに法要し、残りの遺骨は法蔵寺分院に分骨した。

行者はそのあとも舳倉島に住みつづけ、法話を続けたが、成仏を果たしたものか、例の女は現われることはなかった。
それ以来、法蔵寺では、今では寺の宝物となっているその龍の骨を、毎年1月15日にご開帳して『龍法要』が行われるという。
なお行者である一旭は、弘化4年(1847)に亡くなったといわれ、島の中央台地には『行者の碑』が建てられて昔を偲んでいる。


島の概要・島遺跡・伝説など
http://www.geocities.co.jp/une_genzaburo/HeguraIsland.htm
東アジアにおける殺牛祭祀の系譜
http://archives.bukkyo-u.ac.jp/rp-contents/RO/0001/RO00010L015.pdf

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370 2013/06/23(日) 06:11:02 ID:ZZY3T0Q/5c
371 2013/06/23(日) 06:18:36 ID:ZZY3T0Q/5c
     素っ裸の娘が腰かけ、長い黒髪をといている 髪とき島 

和歌山県串本町にある自然景勝地である『海金剛』。紀伊大島鷹ノ巣岬の断崖下の海面から切り立った巨岩が連なる海岸線を指す。
この海金剛にはピラミッド型の島があり、地元では別名『髪とき島』と言われている。
この島(というより岩塊だが)には、またもや悲しき女にまつわる伝説が残されている。
それにしてもどうして島の歴史は、こうも女性が犠牲となるのだろう……。

かつて樫野の村にお浪(なみ)という名の美しい娘がいた。黒くて長い髪が自慢だった。
村の庄屋の子息である善兵衛はお浪を好いており、お浪も心根の優しい善兵衛のことを愛していた。
相思相愛であるにもかかわらず、お浪の家柄は貧しく、相手が庄屋の跡取りであるがゆえに身分の差が許されなかった。

善兵衛はお浪を愛する気持ちに変わりはなかったものの、親の勧める縁談を断りきれず、古座の村の娘と結婚することになってしまった。
婚礼の日、悲しみに打ちのめされたお浪は泣きながら姿をくらませた。
お浪の行方を案じた村人が捜索するも、どこにも見当たらない。

いつしか年を越し、春を迎えた。善兵衛が友人と樫野崎の道を通りかかったとき、眼下の海金剛に眼をやった彼は声を失った。
三角に尖った岩場に、全裸の娘が腰をかけ、しずしずと長い黒髪をといでいるのだ。うつむいた姿に見憶えがある。
娘は動揺する善兵衛たちに気づき、2人に向かって見上げるとにっこりほほえんだ。
それは間違いなく彼女だった。「お浪! お浪ではないか!」と、善兵衛は叫んだが、次の瞬間にはお浪の姿はかき消すようにいなくなった。

それからも一度たりともお浪の姿を見た者はいない。
村の人たちは海金剛の三角岩をお浪の『髪とき岩』と呼んで長く語り継いだ。
月夜の晩、海の底の竜宮に行ってしまったお浪が岩の上で黒髪をといでいるのだと。


伝説〜髪とき島
http://blog.hiramaru.com/?eid=734053

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372 2013/06/23(日) 10:02:17 ID:III6yJBm6c
373 2013/06/23(日) 10:05:36 ID:III6yJBm6c
     親子鯨は殺すべきではなかった紋九郎鯨物語 宇久島(うくじま) 
 
五島列島北端の宇久島は佐世保市宇久町であり、江戸のころは五島領の島、捕鯨は地元の山田鯨組、平戸領の鯨組、
大村領からの鯨組の出組も盛んな島だった。島には鯨にまつわる不思議な伝説が語り継がれている。

宇久島平住の山田紋九郎は、山田鯨組三代目。かなりの豊漁を誇っていた。
ところが1715(正徳5)年の冬、漁場に入ってくる鯨がいないので船子たちは「正月前に鯨を1本欲しい」と焦っていたが、
なかなか捕らえられずやきもきしていた。年が明けて正徳6年となり、正月も半ばをすぎたにもかかわらず、からきしダメだった。
21日の夜、紋九郎親方は不思議な夢を見た。夢の内容は、子持ちの大鯨が人の言葉を喋るものだった。

鯨いわく、「私は五島の大宝寺(玉之浦、真言宗、西の高野山と称す)に、子鯨をつれて参詣する途中なのです。
どうか参詣を終えるまで、捕らないでいただきたい」とお願いしたところで、紋九郎は眼を覚ました。

紋九郎の胸に期するものがあった。「なるほど今日は弘法さまの縁日。鯨が通っても捕らないようにと、皆に知らせるべきだな」と、
夜が明けて、さっそく昨夜の夢の話を語って聞かせた。
「皆の者、よく聞け。鯨を待ち侘びているのは山々だが、夢のお告げ通り、もし親子鯨を見かけたら今回ばかりは見逃してやってくれ」
「ですがお頭、しょせん夢にすぎないんでしょ。まさか真に受けるつもりですか?」と、船子たちは一笑に付した。
「我々は板子一枚下は地獄の中で仕事をやっている身。勘や予感は見すごせない」
「わかりましたよ。でしたら、頭の片隅に憶えておきますよ」

そのあと一同が一服しているときに鯨発見の一報が届けられた。
すかさず船子たちは立ち上がり、身支度をした。どうやら鯨は親子らしい。まさに紋九郎の夢のとおりだ。
しかし船子たちは言いつけを守ることなど眼中になく、それぞれの船に乗り込むと、沖合の獲物めざして櫓を漕いだ。
「いかん! 引き返すんだ!」と、親方は浜辺で叫んだが、時すでに遅しであった。

「鯨は白長須鯨、長さ33尋の子持ち。逃がすなよ!」と、船子たちは鼻息荒く親子鯨を追いつめた。
網が幾重にも張られたうえ、容赦なく銛が打ち込まれた。大鯨は大暴れした。船子たちは血が騒いだ。

いつしか真っ黒な雲が空一面に広がり、不穏な空気が漂った。風が吹き荒れ、みぞれ混じりの雨が船もろとも海面を叩いた。
そんななか、暴れ狂う鯨はついに網を破り、銛綱を切って逃亡した。
たまらなくなった船子たちの各船は陸に向けてとって返しはじめたが、波が小山のように船に襲いかかり、船団は分断された。
そのうち何隻か、大波に飲み込まれた……。

夜が明けると行方不明者、流れ着いた死体を含め、72人の犠牲者を出してしまった。
生存者の談によると、あの漁のとき、鯨の背中には山田家の紋章が見えたという。
山田組始まって以来のこの大惨事。この事件を契機に、紋九郎は鯨組をやめて造り酒屋となった。
72人の死者は、平の墓地に、『七十二様の墓碑』として祀られている。


宇久島の歴史 | 宇久町観光協会オフィシャルサイト
http://www.ukujima.com/nature_history/history.html
鯨の民俗学 長崎『西海の鯨伝説・民話』
http://www.geocities.co.jp/NatureLand-Sky/3011/33kujira-densetu4.html
日本の鯨文化:鯨に関わる伝説・逸話(3)
http://www.geocities.co.jp/NatureLand-Sky/3011/33kujira-densetu3.html

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374 2013/06/25(火) 09:51:34 ID:mh.BIf4H7Y
エイ女房→ええ女房→良い女房 ってオチかと思ったw

>>1 楽しく読んでますよ、ありがとうね〜。

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375 2013/06/29(土) 18:57:32 ID:nue8jtWy2w
>>374
おおっと、久々に嬉しい反応。近ごろ明和水産も殺伐としていたところだから、こう感謝されると照れ臭いなあ。
なんにせよ喜んでくれてる人がいるとなると、俄然励みになります。これからも土日限定ながら続けていくので応援よろしく〜。


     井伊直弼が暗殺されたとき、題目岩が鮮血で滲んだという…… 多景島(たけしま)

またまた琵琶湖上の島をご紹介。彦根港より西北西へ約6kmのところに浮かんでいるのが多景島である。
周囲約600m、長さ約200mの花崗岩で形成された島は、もとはといえば草木も茂らないような岩塊にすぎなかった。
江戸時代のころ、彦根の荒神山から土が運ばれ木が移植されたことで、現在のような趣のある島になったそうだ。
当時は竹藪が全体を占めていたことから『竹島』と呼ばれていたが、角度によってさまざまな顔を見せることにより、『多景島』という字が当てられた。

画像を見ていただければわかるように、島の頂には高さ20mに達する『誓いの御柱』が立っており、多景島のシンボルとなっている。
これは大正時代に建設されたもので、五角形の柱に『五箇条の御誓文』が刻まれているのだ。
ほのかに宗教臭い気がする……。それもそのはず、この多景島、日蓮宗見塔寺(けんとうじ)の所有となっているのだ。
見塔寺は1655(明暦元)年に長浜・妙法寺僧慈雲院の日靖(にっせい)上人が夢のお告げを受けて開寺されたという。

また巨大な題目岩もこの島の見所らしい。『南無妙法蓮華経』の文字が彫られた大岩は高さ10mを誇る。
1692(元禄5)年、日靖は命綱にぶら下がりながら3年がかりで文字を彫って完成させたというから驚きだ。
実はこの題目岩には奇妙な言い伝えが残されている。かつて桜田門外で井伊直弼が襲撃されたとき、題目岩が鮮血で滲んだというのだ。
井伊直弼は彦根市生まれ。彦根藩主の父を持つことから、このような由縁が生まれたとしても不思議ではない。


多景島 - 琵琶湖観光船 オーミマリン
http://www.ohmitetudo.co.jp/marine/index.php/tour-info/takeshima.html
直弼二十二景 第十五景 多景島の題目岩
http://www.hikone-150th.jp/special/naosuke22/001307.php
大津・びわ湖島めぐりの旅 その40 多景島(1) 題目岩と日蓮上人像
http://susono.jugem.jp/?eid=2042

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376 2013/06/29(土) 19:06:56 ID:nue8jtWy2w
     斧で7人殺しの浅之助 のちに祭神として神格化される 青ヶ島

青ヶ島は>>126で一度やってしまったが、ナニ、重複してしまってもかまうまい。現に八丈島も何度もやってるし。
東京から南下すること358.4km、伊豆諸島南部に浮かぶ青ヶ島は、れっきとした東京都の管轄下である。
島そのものが二重式カルデラ火山構造であるのがあまりにも特徴的だ。火口の中にコロニーを築くのだから、つくづく人間の適応力はたくましいと思う。
余談であるが、2006年に公開された映画『アイランド タイムズ』は、まさに青ヶ島を舞台にしており、この島の魅力を余すところなく描き出している。
機会があれば鑑賞されよ。生粋の島マニアにとって、当時16歳の仲里依紗より、島、である。

話変わるが、集落の南には東台所(とうだいしょ)神社があり、ここにはオカルト板に相応しくいわくがある。
失恋の腹いせに7人を殺傷したのち、入水自殺した男を祟り神として祀っているのだから穏やかではあるまい。
その経緯は以下のとおりである。

1757(宝暦7)年のこと。名主の息子である浅之助はおつなという娘と愛し合っていたが、おつなにはすでに許嫁がいた。
そのことから浅之助は父親から勘当され、おつなも身内から冷たい仕打ちを受けていた。
当時、産婦や月経を迎えた女性は『他火(たび)小屋』という隔離された小屋で煮炊きや機織りなどをする習慣があった。
家族から冷たくされていたおつなは、生理のため小屋に籠るときでさえ、食料を持たせてもらえなかった。
そこで浅之助は自身の弁当を与えてやった。代わりにおつなは恋人のために機を織ることにした。

あるとき、手織り機作業をしているおつなに何を織っているのか聞くと、「あなたの服を織っているのよ」との返事。
それに対し、浅之助は「おれのことはどうだっていい。自分のものを織るべきだ」と、言った。
「どういうこと?」と、彼女は機を織る手をとめた。

男は気が利かない生き物である。女は何気ない男の一言を曲解してしまい、傷つくことも少なくない(逆もまた真なり)。
浅之助は、生理を迎え心身ともにバランスを崩している彼女のためによかれと思って言ったつもりだった。
ところがおつなは、『おれにかまうな』と受け取ってしまった。浅之助が帰ってから、彼女はその日のうちに首を吊って自殺したのだ。
訃報を知った浅之助は泣き叫んだ。とはいえ自殺に至った動機が、まさか自分の何気ない一言だったとは夢にも思わなかった。
そして怒りと狂気に身をゆだね、ついに斧を手にした。
「よくもおれとおつなの仲を引き裂いたな! おまえらが彼女を殺したも同然だ! おまえらに復讐してやる!」
逆上した浅之助は、2人の恋仲に関わった村人を次々と襲撃。7人を斬り殺し、4人に重軽傷を負わせた。

復讐を果たしたあと、浅之助はふと我に返ったのだろう。罪の意識にかられ、入水してこれも命を絶った。
一説によると、浅之助は死にきれず岸まで泳ぎ着き、自首したとも伝えられている。
そして名主である父、七太夫は息子を磔にし、村人全員に一槍ずつ突かせて処刑したというから救われない……。

その後、天明の大噴火を浅之助の霊による『祟り』ではないかと信じられ、島民によって東台所神社に祀り、『新神』として神格化した。
ここには『おつな様』も祭神として浅之助のそばに寄り添っている。今では縁結びの神様として、島民、観光客ともに重宝がられているそうだ。


これが東京都?! 絶海の孤島「青ヶ島」が断崖絶壁すぎて脱出不能に見える
http://japan.digitaldj-network.com/articles/10205.html
島旅 伊豆諸島・青ヶ島編 〜初のヘリコプター&ひんぎゃの島〜9位
http://4travel.jp/domestic/area/kanto/tokyo/izushoto/mikurajima/travelogue/10703164/
第42話 東台所神社の二通りの祭神
http://www.yoyo.ecnet.jp/SUGATA/DE/DE42.html
青ヶ島 絶海の孤島 旅日記 もうひとつの東京 月より遠い青ヶ島へ。
http://shooting.travel.coocan.jp/travel-island/2002aogashima/
青ヶ島村ホームページ
http://www.vill.aogashima.tokyo.jp/top.html
Amazon.co.jp:アイランドタイムズ [DVD]: 柳沢太介, 仲里依紗, 児島美……
http://www.amazon.co.jp/%E3%82%A2%E3%82%A4%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%89%E3%82%BF%E3%82%A4%E3%83%A0%E3%82%BA-DVD-%E6%9F%B3%E6%B2%A2%E5%A4%AA%E4%BB%8B/dp/B000KQGN8M

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377 2013/07/03(水) 17:38:04 ID:SRm0qNqneo
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378 2013/07/03(水) 19:06:14 ID:SRm0qNqneo
     名前負け? 謎多き島 盗人島(ぬすっとじま)

長崎県大村市の玖島崎(くしまざき)の先にある大村湾には、驚くべきことに『盗人島』と冠された無人島が存在する。
通称『どろぼう島』。これまたキナ臭い。チェックすべく、調査を開始したものの……。
ところがそんな好奇心もあえなく打ち砕かれる。島には宗教上の遺物や歴史ある祠はおろか、奇岩の類すら見当たらない。
たった周囲36mほどの、木が数本生えているだけで何の変哲もない小島である。避暑地に利用しようにも、あまりに狭すぎる。

しかしながら湾に張り出した玖島崎の西側から、28個もの石が整然と並んで盗人島まで続いているのだ。これは明らかに人工的な飛び石である。
干潮時ならそれを伝って歩けば、靴を濡らさずして島にたどり着くことができる。その距離24m。さも意味ありげだ。
理由もなく飛び石を設置するだろうか? いつのころに設置されたのか記録が残されていない。少なくとも江戸時代のころには存在しなかったのは確かだ。
では、一番の疑問。なぜこんな奇妙な島名をつける必要があったかだ。盗人島について詳しい方によると、3つの諸説が考えられるという。

?……島に物を置いて3周回ると物がなくなったからという説。
?……大昔、泥棒が閉じ込められた島とする説。
?……海賊の住処だった。つまり海賊の宝物が隠されているかもしれないという説。

?の説は、何か伝説話がありそうなものだが、あいにくとこれも記録が残されていないうえ、いささか信憑性に欠ける。
?にしても、人を閉じ込めたにせよ、そのような施設の痕跡があるとは思えない。そもそも盗人島は一番高いところですら標高3mもあるまい。
潮が満ち、ましてや荒天が重なれば、島はほぼ水没。とても人を収容する場所に適してはいない。
?の海賊の島というのも、周囲36mでは小さすぎて話にならない。?と同様、満潮になれば完全に孤立し、無防備になってしまう。
木々も頼りなげで防風林の役目を果たしていない。よって海賊が根城とするならば、もっと地の利を生かした場所を選ぶはず。

……どうやら名前負けした感が強い。めずらしい島名なばかりに、人々の好奇心を翻弄しただけのようだ。
いつもいつも、>>367の『魔見ヶ島』ばりの伝承を期待するのは野暮なことである。

悲しいかな、今回は島にまつわる伝説が見つからない。物語をとっくりと語るのが好きな僕としては至極残念。
それは抜きにしても、玖島崎から望むこの大村湾と盗人島は、夕暮れ時になると、まるで夢のように美しいと評判だ。 
機会があれば散策され、その眼で、しっかと網膜に焼き付けるがよい。
そしてイマジネーションの浮かぶまま、かつて盗人島でどんなドラマがあったのか思いを馳せるのも一興だろう。

それは盆栽を愛でる感性に通ずるかもしれない。盗人島にかぎらず、島とは箱庭である。
その箱庭に未知の世界が詰まっているからこそ我々の想像をかき立て、魅了してやまないのだ(有人島に住んでいる人にとっては余計なお世話だが)。


大村の島シリーズ 盗人島
http://www6.ocn.ne.jp/~fukusige/oomura-island/nusuttojima.html

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379 2013/07/03(水) 23:38:50 ID:OxPInVguXI
もの凄いストック数ですね…

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380 2013/07/04(木) 21:47:32 ID:KHos8i70oQ
ブックoffで100円出しても読みたくない小説を読んでるようで

恐い・・・・

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381 2013/07/05(金) 21:09:37 ID:L9117nlGG6
「ノノノノ」に出て来るライバルチームで、ある島の出身者は島の生け贄の習慣で殺される事になっていたと言う話が出て来る、、、(>_<)
実際にそれに近い怖い風習とかも残っているかもしれない、、、、、(>_<)
「ノノノノ」は、岡本倫による日本のスポーツ漫画作品

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382 2013/07/07(日) 06:29:48 ID:BJf1wLs4jY
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383 2013/07/07(日) 06:36:54 ID:8ssD1IxtOY
>>379
日本には海岸線の長さが100m以上の島が6852もあり(ちっぽけな岩礁も含めれば、さらに膨大な数)、深く食らい込めば、
なんらかのディープな情報が得られ、探すだけの価値はあります。あくなき探究心が突き動かしているだけです。
それは島限定の伝承伝説であって、当然内地にも目を向ければ星の数ほど様々なネタが転がっています。
本当は取り上げたいネタは他にもあるのですが、いかんせんスレチになるのであえて封印しているものもあるほど。

偉大なる民俗学者、柳田国男も離島を含めた全国に赴き、嬉々として口頭伝承の取材に明け暮れたのがわかろうというもの。
いずれにせよ、日本という土壌はネタの宝庫。こんな奥深い国に生まれて、我々は誇りに思うべきです。
それと、ネタは与えられるものではない。己が探し出し、提供するべきなのです。

>>380
このバカチン、これは小説じゃない。純然たるレポートだよ、君。 
登場人物のセリフがあるのは、あくまで余興にすぎん。ちっとはネタを提示してから文句を言いたまえ。

>>381
またしても君は変化球を投げてくる〜。生贄だと? なかなか島で猟奇ネタは見つからないものだよ。
某島では娘を人身御供として捕らえ、逃げられないように手脚を切断してダルマにするとか、堕胎した子供を生贄として捧げる風習があるとか、
2ちゃんねるで目にしたことがあるが、すべてでっちあげであろう。

この際、特別サービス。島ネタではないが、人身御供ならば下記サイトを参考にするといい。ただし高度な論文であるが。要約はしんどいからやめておく。
なかでも六車由実氏の著書『神、人を喰う―人身御供の民俗学』は目からウロコの内容。機会があれば一読されたし。

ちなみに漫画なら、僕は諸星大二郎に多大な影響を受けてるよ。人生に示唆を与えてもらったと言っても過言ではない。
漫画はモロ☆と星野之宣だけ読んでりゃいい。


『人身御供』と祭―尾張大国霊神社の儺追祭をモデルケースにして― 『日本民俗学』220号(1999)発表論文
http://muguyumi.a.la9.jp/minzoku220.html
博士論文『人身御供祭祀論』六車由実
http://muguyumi.a.la9.jp/hakaseronbun.htm
神、人を喰う―人身御供の民俗学 六車由実 
http://www.amazon.co.jp/%E7%A5%9E%E3%80%81%E4%BA%BA%E3%82%92%E5%96%B0%E3%81%86%E2%80%95%E4%BA%BA%E8%BA%AB%E5%BE%A1%E4%BE%9B%E3%81%AE%E6%B0%91%E4%BF97%E5%AD%A6-%E5%85%AD%E8%BB%8A-%E7%94%B1%E5%AE%9F/dp/4788508427

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384 2013/07/07(日) 07:14:45 ID:BJf1wLs4jY
     淵のヌシの正体は化物蟹 隠岐島

島根県の隠岐島には巨大な蟹が怪異をなす伝承があるとの情報をつかんだ。しかも淵に斧を落としてしまうと女神が現われる話なのだ。
なんだかイソップ童話の『金の斧』を彷彿とさせて面白い。

その昔、隠岐島の元屋なる村に年老いた木こりがいた。
ある日、老人は川をさかのぼって、滝の後ろの山中にて木を伐採していると、どこからともなく妙な音がする。
ガシガシと、硬いものが岩を叩くようにして歩いてくる気配。老人は岩陰に身を隠し、息を殺して成り行きを見守った。
ところが音はすれども姿は見えず。やがて滝つぼにザブンと音がし、巨大な水柱が立った。
見下ろすと、滝つぼの中になにやら大きな物体が動くのを見逃さなかった。
老人は動揺した拍子に、手から斧を滑らせてしまった。斧は一直線に滝つぼに落ちていき、水中で鈍い音がした。
謎の巨大な物体は水の深みに消えたものの、しばらくすると、細長いモノが浮かんできた。見れば大きなハサミのついたトゲだらけの腕。
ハサミは流れに乗り、川下へ流れていった。「……してみると、あやつは蟹の化物なのかもしれん。淵のヌシか」と、老人は思った。

さすがに怖くなり、急いでその場から立ち去ろうと腰を浮かした。
「待ってください。どうか怖がらないで」と、どこからともなく凛とした女の声がした。
振り返ると、そこには世にも美しい着物をまとった若き姫君が佇んでいた。姫君は老人が落とした斧を抱いていた。
「おぬし、何者?」
「私は昔からこの淵に住む安永姫と申します。いつのころからか、この川に大きな蟹が住みつき、我が物顔で川を荒らしたせいで、私は囚われの身となり、
あの魔物に服従されてきたのです。ですが、先ほどあなたがこの斧を投げ入れてくれたおかげで、今や魔物は片方のハサミを失い、
淵の横穴の中で痛みでうめいております。あやつにはもう片方のハサミが残されています。どうかこの斧をふたたび投げ入れ、蟹を退治してくれませぬか?」

老人は怖くてたまらなかったが、この美しい姫君を見捨てることは忍びなく、渋々承知した。
安永姫から斧を受け取ると、ふたたび滝の上で待ち伏せした。太陽が西に傾いたとき、さっきまで吹いていた山風がピタリとやんだ。
老人は斧を片手に身がまえた。大蟹が水面に姿を見せたときこそ好機。
しかし大蟹は老獪である。水面に浮上せず、片方のハサミで何度も水底を叩きつけた。衝撃が滝の上まで伝わってきた。
老人は振り落とされまいと傍らの木にしがみついた。斜面は崩れ、老人は木もろとも落ちかけた。
そのとき、大きな岩が崩れ落ちていった。岩は滝つぼに潜む大蟹に直撃した。大蟹は獰猛な唸り声をあげた。
「今こそ絶好機! 斧を!」と、安永姫の声が響いた。
大蟹めがけ斧を投げた。斧は回転しながら滝つぼに落ち、水の抵抗で失速することなく大蟹の腕に命中した。
しばらくして水面が泡立ったかと思うと、トゲのあるハサミがプカリと浮かんだ。老人は勝利を確信した。

滝のもとまで下りていくと、安永姫が姿を見せ、こう言った。「ありがとうございます。おかげで大蟹を退治することができました。
これで川に平和が訪れるでしょう。ぜひともお礼を致したいと思います。何かお望みのものはありますまいか?」
「ではお言葉に甘えて。この島は日照りが続くと、真水がなくなってしまう小さな島。どうか村の者が困らぬよう水をおつかわしください」
「お安い御用。これにて水の心配はいりませぬ。そしてこれから先、私があなたのお命をお守りしましょう」と、安永姫がにっこり微笑むと姿を消した。
次の日、海に近い河口に3mもの巨大蟹の死骸が腹を見せて浮かんだ。村の者は老人の武勇伝を広め、一躍彼は時の人となった。
以来、川の名を安永川と改め、滝のそばで安永姫を祀り、日照りが続くと安永姫に雨乞いした。すると必ず雨が降ったという。
また滝つぼを蟹淵と呼ぶようになった。


民話の部屋 蟹淵の主
http://kanbenosato.com/minwa/kancho_200702.html
島根県 : 隠岐日記2008年12月
http://www.pref.shimane.lg.jp/oki_norin/sogo_shinko/memo/08_december.html
まんが日本昔ばなし『蟹淵』
http://www.dailymotion.com/video/xl3eeh_mnmb-%E8%9F%B9%E6%B7%B5_creation#.UdfXyaWCjIV
金の斧wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%91%E3%81%AE%E6%96%A7

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385 2013/07/07(日) 18:29:22 ID:aswOx7WBWo
>>383
?!
いつ来ても興味深い話ばかり有り難う御座います、、、(>_<)

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386 2013/07/09(火) 06:10:52 ID:Kw.h7S92IY
[YouTubeで再生]
己斐峠は道路がきれいになって怖くなくなった

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387 2013/07/09(火) 14:39:59 ID:UxfFJ4FFcQ
>>384
蟹、自滅じゃんw

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388 2013/07/09(火) 23:08:50 ID:JYgatH4lqo
>>383
研鑽と探究心の積み重ねなんですね、素晴らしいスレな訳です。
読ませて頂き感謝感謝です。

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389 2013/07/13(土) 15:08:33 ID:XrQlJbBZfc
>>384の化物蟹も恐らくオブラートで包んだ伝説だろう。じつは蟹の正体は人間であったはず。
滝つぼに潜むのは無理として、滝の裏に隠された洞窟を住処にした悪党でも意味したのではなかろうか。
悪党はやたら身体が大きく、怪力の持ち主だったのかもしれない。淵に斧を投げ入れると浮いてきたハサミには、
モクズガニ特有の濃い毛が生えていたという描写もあることから、単純に体毛の濃い人物だったことが考えられる。
姫を服従させ夜ごと責め苛むというから、それが何を意味するかおおよそ察しがつく。
ちなみに>>273の牛島の『牛鬼』は、追剥や山賊を指すそうだ。

昔話に登場する鬼を代表とする魑魅魍魎が、すべて古代人の無知と誤認ゆえに生み出された想像の産物とは限らない。
ストレートに話を作ってしまい、それを若い世代に語って聞かせるとなると、時としてどぎつい内容となってしまう。
それを比喩で口当たりよく脚色したのが本当のところだろう。と同時に、日本人の感性の豊かさを再確認させてくれる。
物語の表層だけを追ってはいけない。その内に秘めた『核』を捉えてこそ、真に物語を読み解いたことになるのだ。

※画像は山口県相島の傍らにあるライオン岩。釣りキチが貼り付いていますね。

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390 2013/07/13(土) 15:10:51 ID:XrQlJbBZfc
     恋人を死なせた悔恨、僧侶となり弔いを捧げる 無縁島

1993年7月12日に起きた北海道南西沖地震により、奥尻島は青苗地区を中心に津波の爪痕を残した。
死者は200人余りを数え、当時約4700人ほどあった人口は、被害による転出のせいもあって減少傾向にある。
それでなくとも離島は過疎・高齢化に歯止めが利かないのだが。

奥尻島は北海道南西部の日本海上にある。それに付随する形で岩礁や奇岩が寄り添っている。
その中の1つに周囲500mほどの無人島がある。その名も無縁島。なんとなく『無縁仏』をイメージさせるが、そうではなく、
『無縁』という名の僧侶が由来するのだという。

はるか昔の話……。
奥尻島の南西に位置する神威脇集落に1人の娘がいた。娘は歌子といった。そこへ能登の国から清次郎という若者が流れてくる。
2人はたちまち恋に落ち、しばらくすると歌子は妊娠した。
ところが清次郎の裏切りにより、2人の仲は引き裂かれる。歌子は失意のあまり清次郎の子を身ごもったまま沼に沈み、自殺してしまう。

やがて島に無縁と名乗る僧侶がやってきた。歌子の死を知らされると長い弔いを捧げ、島の最南端、青苗岬から沖合5km先にある室津島へ渡り、
断食座禅を組んだ。
ある日、天気が崩れ、海は荒れに荒れた。怒涛がちっぽけな室津島を襲い、無縁は飲み込まれた。
無縁は板切れにつかまったまま漂流し、なんとか別の無人島に流れ着いた。その島は奥尻島のほぼ西に位置する名もなき島だった。
この僧侶こそ歌子を裏切ったことを悔やみ、仏の道に入り、心を入れ替えた清次郎だったという。
人はのちにこの島を無縁島と呼ぶようになった。


無縁島 奥尻町
http://www.town.okushiri.lg.jp/hotnews/detail/00001046.html
無縁島
http://www12.plala.or.jp/k-hirao/kankou/24_05.html

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391 2013/07/13(土) 15:20:01 ID:dcX1c/ibB.
削除(by投稿者)

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392 2013/07/15(月) 20:52:02 ID:Br8.oDY/Ms
     未亡人、欲情して命名 モッ立岩

奇岩は自然が生んだアートである。引き続き、奥尻島の南西岸の奇岩を紹介。
画像をご覧いただきたい。これがモッ立岩だ。ナニに見えるだろうか? モッコリしたナニに見えたとしても短かすぎるような気がする。

かつて1人の未亡人がこの磯に岩海苔を採りにきて、この岩を見つけるなり思い『立った』。
亡くなった亭主の『持ち物』とあまりにも似ていたので、感激すると同時に懐かしく思い、はじめは『一物立岩』と名づけていた。
……が、さすがに声に出して言うのは恥ずかしい。というわけで上の一文字だけを抜いて、『モッ立岩』と呼ぶようにした。ずいぶんスケベな奥さんである。
未亡人=欲求不満という、いかにもスレテオタイプな伝説はいかがなものかと思うが、まあこんな奇岩の1つぐらいあってもバチは当たるまい。


モッ立岩
http://www12.plala.or.jp/k-hirao/kankou/24_06.html
北海道ツーリング2009
http://www.medianetjapan.com/2/20/sport/macky1664/touring/210814/03.htm

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393 2013/07/15(月) 20:55:00 ID:Br8.oDY/Ms
実録!!ほんとにあった(と思う)怖い話 「八丈島の忌み話」
http://blogs.yahoo.co.jp/to7002/20399112.html
七人ミサキwikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%83%E4%BA%BA%E3%83%9F%E3%82%B5%E3%82%AD

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394 2013/07/17(水) 23:24:17 ID:7NMoL7TCK2
395 2013/07/18(木) 05:58:19 ID:TZtxG7P1LA
     武士の太刀を拾うために勇敢な若者が命を落とす 百貫島(弁天島)

広島県福山市の鞆の浦に無人島がある。正式名は百貫島というが、島の高いところに鎮座する弁天堂がシンボルとなっていることから、
一般的に弁天島とも呼ばれている。
そのほか『文永八年(1271)六月十五日』の銘が刻まれた広島県下最古の石塔婆(弁天島塔婆として広島県指定文化財)が有名である。
どれたけ古いかというと、現在からその年号を差し引けば、今からおよそ740年前のものということになる。
この石塔にはある伝説が関係している。それがこんな話。

その昔、この島のそばを船で通った武士が家伝の太刀を海に落としてしまった。
武士はどうしてもあきらめきれない。浦の者に向かって銭百貫を褒美として出すから、どうか海に潜って太刀を見つけ出してくれと頼んだ。
ところがこの海域は鱶(ふか)の巣窟となっており、誰もが恐れをなして名乗り出ない。
「なんとなんと……。この浦には臆病者しかいないのか! この腑抜け者どもめ!」と、武士はしまいに罵る始末。

こう言われ、屈辱と感じた1人の若者が前に進み出て、こう言った。「そこまで言われちゃ、おめおめと引き下がるわけにはいかない。
故郷の名誉のため、私がその役、引き受けましょう」
武士は満面の笑みを浮かべた。「よくぞ言った、若い衆。おぬしに任せたぞ」

さっそく若者は海に潜り海底に沈んだ太刀を回収した。そして船上で待つ武士に手渡した。
ところが無事任務を遂げ、頬を緩めていた若者の顔が突如として歪んだ。海面が見る見る朱の染みで広がっていく。
1匹の鱶が若者の片脚を食いちぎったのだ。若者はすぐ船に引き上げられたが、失血のため、間もなく命を落とした。
武士は申し訳なく思い、その若者の魂を弔うため、銭百貫を投げ打ってこの島に十一重の石塔を建立させたとのこと。

当初は十一重石塔として建立されたものであったが、五層と六層がなくなり(欠損したらしい)、現在は九重である。


【弁天島】鞆の浦「仙酔島」情報 | 鞆物語
http://tomomonogatari.com/%E8%A6%B3%E5%85%89%E3%82%B9%E3%83%9D%E3%83%83%E3%83%88/%E4%BB%99%E9%85%94%E5%B3%B6/%E5%BC%81%E5%A4%A9%E5%B3%B6.html
平成いろは丸から弁天島(百貫島)を望む - 寮管理人の呟き - Gooブログ
http://blog.goo.ne.jp/tanezaka/e/92685e1222e18aebd2d7d4d64674175f

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396 2013/07/21(日) 16:45:16 ID:gRPEDQcH9E
     1月24日の夜は決して外を見てはいけない『海難法師の日』 伊豆七島 1

伊豆七島(伊豆大島・利島・新島・神津島・三宅島・御蔵島・八丈島)は、離島とはいえ紛れもない東京都の管轄。
そんな島々に今どき物忌の日があるなんて俄かに信じがたい。その日は沈黙を貫き、決して外出してはならないという風習だというから、
つくづく日本は不思議な国である。……そう、海難法師だ。

なぜだか今日まで海難法師伝説は避けてきた。せいぜいURLを貼るだけにとどめた。どうしてもオカルト色が強すぎて抵抗があったためだ。
が、個人的に伝承伝説はヨダレが出そうなぐらい大好物なので、このスレも途中からソッチ系のネタで意図的に染めてきたつもりだ。
機は熟せり。今こそ恐るべき海難法師伝説を繙くときがきた。充分ホラーチックな話も揃ってきたことだし、真打で彩りを添えるべきだろう。

地元の漁師たちは口をそろえてこう言う。
「1月24日の晩は絶対に外を見ちゃならねえ。ましてや海を見るなんてもってのほかだ。声はおろか物音すら立てず、早く寝るに限る。
うっかり外の便所にも行けねえぞ。用を足したきゃ、家の中におまるを持ち込んで、そこでするしかない。
いいか、その夜は絶対外だけは見るな。これは島の掟なんだ。玄関や戸口を完全にふさぎ、『トベラの枝』をさして災難よけをしなきゃならない」
「もし見てしまったらどうなるんです?」と、観光客は素朴な疑問をぶつけると、漁師は血相を変えて怒る。
「バカ言っちゃいけねえ! 日忌様(ひいみさま)の罰が当たるぞ。悪いこたあ言わねえ。よけいな詮索はするな。
昔、この話を信じず外を見ちまった男がいた。そいつは顔中血だらけになり、眼が見えなくなったんだ……」

伊豆七島に言い伝えられている海難法師の発祥は、伊豆大島の泉津(せんづ)地区にあると伝えられている。
ここでは『日忌様』と呼ばれ、この現代も崇められているのだ。その海難法師=日忌様の由来とは以下のとおりである。
江戸時代、寛永5年のこと。泉津村に伊豆の下田から豊島忠松という代官がやってきた。年貢の塩作りが始まった時代のことである。
山の仕事を生業とするこの村で大規模な山火事が発生。それに伴い、島では過酷な食料飢饉に見舞われる。
そんな最中であっても、代官による年貢の取立ては厳しさを増す。島民の唯一の食料である芋さえ取り上げられ、それだけにとどまらず、
若い女の供出を迫るまでエスカレートした。人々の生活は困窮し、精神状態まで極限に追いつめられた。

この事態を重く見た村の若者25人は、1月24日に代官と直談判することを決意。
ところが代官は聞く耳持たない態度をとったため、若者たちは殴る蹴るの暴行を加え代官を殺害した(あるいは伊豆大島から新島へ渡る途中、
同行した25人の若者たちは船の栓を抜いて沈没させ、代官もろとも溺死したという説、またはわざと海が時化る日に年貢の取立てに行くよう
そそのかし、溺死させた諸説がある)。

若者たちは直談判が聞き容れてもらえない場合も想定して、あらかじめ殺害計画も視野に入れていた。
だから代官に会いに行く直前、「今夜は絶対に外を見てはいけない、海も見てはいけない、声すら出してもいけない」と、
村人に言い残して出かけていったのだ。自分たちの犯行を見られないように……。

諸説はどうあれ、代官、豊島忠松は死に、最悪の結果となったわけだ。
とばっちりが村に及ばぬよう、25人の若者たちは島から去ることにした。
深夜、村外れである波治加麻(はぢかま)神社で杉の木を切り、夜明け前に丸木舟を作り上げた。若者たちは西に舳先を向けて逃避行することになる。
丸木舟は大島から南下。利島、新島、神津島まで経由したものの、どの島でも代官殺害の火の粉が降りかかるのを恐れかくまってくれなかった。
せっかく村のためによかれと思って天誅を与えたというのに、神津島の沖合で大波に飲み込まれ、海の藻屑と消えたという。
それからというもの、毎年1月24日の日から25日にかけて、その25人の亡霊(あるいは豊島忠松率いる代官一行?)が迷い戻ってくるとされている。
海難法師とはこの亡霊のことを指すのだ。

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397 2013/07/21(日) 16:48:42 ID:gRPEDQcH9E
     1月24日の夜は決して外を見てはいけない『海難法師の日』 伊豆七島 2

島ではこの夜、明かりが外に漏れないよう玄関や戸口を厳重に戸締まりし、『トベラの枝』をさして災難避けの細工をする。
トベラなる植物の枝は折ると悪臭を放つため、魔除けの効果があると信じられている。あるいは臭いのきついノビルや刺のある柊で代用も可能だそうだ。
そして物音を立てず、声もあげず、できるだけ早く床についてやりすごすのだという。そのとき、自分たちの家が海難法師の目にとまらぬよう、
ひたすら祈るそうだ。
新島では24日の日を『親黙り』と呼び、翌25日を『子黙り』という。『親黙り』の日など、学校は放課後、児童を早急に帰宅させ、
会社業務も定時退社どころか早退が許される。役所でさえ職員に定時の退庁を勧めるほどだから驚きである。
旅館などを除き、ほとんどの商店は営業を控えるというから、正真正銘、島ぐるみで物忌が行われるのだ。

もっとも1945(昭和20)年ごろまで厳格に執り行われていたこの風習も、現在では簡素化され、当然ながら島外から越してきた人は信じない者もおり、
気にせず外出する者も増えてきたようだ。それがいいことなのか悪いことなのか、なんとも言い難い。
くり返すが、24日の夜にやってくるとされる『モノ』の正体は、島によって25人の若者であったり、悪代官だともいわれ定まっていない。
いずれにせよタブーを破り、海難法師に会ってしまい、その姿を見てしまうと凶事が降りかかると頑なに信じられてきた。
義憤のために代官を殺害したというのに、どの島も彼らの受け入れを拒んだ恨み、あるいは直談判に向かう前に残した言いつけを守らぬ者に、
災厄と死をもたらしに戻ってくるのだという。

ところがそんな物忌の日であっても、特別に例外の人間が存在する。反対に、泉津地区の浜辺に座り続けなくてはならない家系の者がいるというのだ。
この日やってくるとされる25人の亡霊を迎え入れる役目を仰せつかった門井という旧家がそれだ。
彼は海岸にゴザを敷き、白装束姿で1人座る。寒風吹きすさぶなか、波をかぶっても身じろぎせず、夜が明けるまで亡霊たちの帰りを待つという。
(※諸星大二郎の『妖怪ハンター』の一篇、『海竜祭の夜』の『彦ジイ』の役どころと行事そのものは、ここからインスピレーションを得たに違いない)

門井某家とは別に、24日に日忌様=海難法師を祀る行事がある。行事にあたりその日の夕方、海難法師にお供えする海藻や塩を採るために、
集落の男7人が海辺に集合する。
その際、家を出たときから絶対に口を利いてはいけない、出会った人がいたとしても言葉を交わしてはならない、どんなに海が時化ていても、
全員がふんどし姿になり、真冬の海で海藻を採る。それを祭壇に供えたうえで、夜を迎えるのだという。
儀式は夜の21時から始まり、日付の変わる0時から2時ぐらいまでの真夜中に最高潮に達するそうだ。儀式の詳細な内容は明らかにされていない。
ただ、わずかながら知られているのは以下の4点。

?行事はごく近しい親族と氏子に選ばれている者だけで行われる(代官が泊まったとされる宿の主、前田七兵衛氏および山下仁左衛門氏宅の末裔であろう)。
?行事に参加する者は、口に木の葉をくわえ(誤って喋ってしまわないため)、衣服は紋付羽織、新しい麻のたすきをかけた恰好で行う。
?行事中は一切無言を貫き、合図は手真似でやる。行事の詳細を他人に話してはならない禁忌がある。
?行事を終えると、盃を回して無事終了したことを告げる。午前3時になると一同帰宅し、幼い子がいる家には、「カンナンボーシの行事が終わりました」と、
親が起こして告げる。

……なんとも恐ろしく、不可思議な行事である。21世紀に入り情報化社会は浸透し、人々の考えから古臭い価値観は一掃されたかのように思える。
しかしながら離島とは四方を海で隔絶された独立した国。人間が生活していくためには、最低限の食料と水の確保が不可欠で、小さい島になればなるほど、
その確保は困難になる。人口減少などでインフラが絶たれてしまっては生きていけず、人々は島を離れるしかない。
そんな不安を抱えているからこそ人々の思考は閉鎖的、排他的、保守的になり、内向していく。昔ながらの『ムラ社会』(シマ社会)は消えることはない。
さらに島の平和を脅かすのは、いつも外部からの部外者だ。そんなアウトサイダーが、八丈島に流されてくる罪人のように発展をもたらせてくれれば良いが、
必ずしもそうとは限らない。この海難法師のように、時としてアウトサイダーは禍津神(マガツカミ)として祭り上げられ、同時に畏れられるのかもしれない。

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398 2013/07/21(日) 16:55:24 ID:bdt5l9kq0E
[YouTubeで再生]
     1月24日の夜は決して外を見てはいけない『海難法師の日』 伊豆七島 3

……以下、参考文献。

くさや新島みや藤から、新島四方山話を”海難法師(かんなんぼうし) 
http://www.miyatou.com/ht/kainan.html
実は都市伝説 海難法師
http://urban55.o-oi.net/%E6%80%AA%E7%95%B0%E4%BC%9D%E8%AA%AC/%E6%B5%B7%E9%9B%A3%E6%B3%95%E5%B8%AB
ばんがいだより 寒い夜に怪談話でさらに寒く。
http://blogs.yahoo.co.jp/shikine_nakamuraya/31789860.html
都民だけど、島民です。島の伝承
http://crescentia.seesaa.net/article/80637894.html
【怖い話】現在にまで伝わる怪異譚【伊豆七島の海難法師】
http://matome.naver.jp/odai/2135158155631919401
伊豆七島のばぁちゃんが教えてくれた話
http://ehc.jpn.com/archives/story/%E4%BC%8A%E8%B1%86%E4%B8%83%E5%B3%B6%E3%81%AE%E3%81%B0%E3%81%81%E3%81%A1%E3%82%83%E3%82%93%E3%81%8C%E6%95%99%E3%81%88%E3%81%A6%E3%81%8F%E3%82%8C%E3%81%9F%E8%A9%B1
神津島の伝説 風習 習慣
http://www6.ocn.ne.jp/~nangoku1/kozudensetu.html
『国文学春秋』増補「見るなの禁忌」
http://home.s00.itscom.net/haruo/sub7.html
民族学伝承ひろいあげ辞典 日本人のタブー1 見たなあ〜〜
http://blogs.yahoo.co.jp/kawakatu_1205/41688929.html
祀龜洞雑録 blog 「ヒイミさま 〜正月下弦の来訪神〜」 祀龜洞襍考
http://blue.ap.teacup.com/hibikoregotobi/1620.html
祀龜洞雑録 blog 「正月下弦の…」 祀龜洞襍考
http://blue.ap.teacup.com/hibikoregotobi/1902.html
祀龜洞雑録 blog 「ヒイミサマとパイパティローマ」 祀龜洞襍考
http://blue.ap.teacup.com/hibikoregotobi/1766.html
祀龜洞雑録 blog 「ヒイミさま」考 祀龜洞襍考
http://blue.ap.teacup.com/hibikoregotobi/1628.html
祀龜洞雑録 blog 「ヒイミさま」考(2) 祀龜洞襍考
http://blue.ap.teacup.com/hibikoregotobi/1629.html
祀龜洞雑録 blog 「ヒイミさま」考(3) 祀龜洞襍考
http://blue.ap.teacup.com/hibikoregotobi/1632.html
祀龜洞雑録 blog 「ヒイミさま」考(4) 祀龜洞襍考
http://blue.ap.teacup.com/hibikoregotobi/1635.html
祀龜洞雑録 blog 「ヒイミさま」考(5) 祀龜洞襍考
http://blue.ap.teacup.com/hibikoregotobi/1642.html
祀龜洞雑録 blog 「ヒイミさま」考(6) 祀龜洞襍考
http://blue.ap.teacup.com/hibikoregotobi/1643.html
邪神とは何か - 邪神大神宮禍津神(マガツカミ)
http://jyashin.net/evilshrine/teigi.html

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399 2013/07/29(月) 14:05:37 ID:.fDNxaHSc.
>>397

文の最後のところ、妖怪ハンターの大鳥居の話を思い出しちまったぜ。
393の七人ミサキwikiは六福神のモチーフかいな。

このスレ面白いのでよく見ている。

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400 2013/07/30(火) 21:33:38 ID:8MFQsRObqE
>>399
ワオ、嬉しいお言葉。たまにでいいのでその調子で褒めてくだされい。それが明日への活力となります。
土日に更新したいのは山々なのですが、先週はなんとなくネタが見つかりませんでした。たまにはそんな冴えない日もありますって。
個人的にはレスを重ねるにつれ、怖いネタ、あるいは妙なネタの劣化は避けたいと思っております。
せめて現状維持、願わくば、より興味深いネタを提示できれば御の字なのですが、現実はなかなかうまくいきませんね……。

いくら日本の島が6800以上あるとはいえ、取り上げるに値するものばかり転がっているわけではありません。
このスレも400を超えるにあたり、産みの苦しみみたいなものを感じております。踏ん張ってもなかなか出づらくなったというか。
その対策として、以前取り上げた島ネタを深く掘り下げることにより、よりディープに突っ込むのも悪くないと考え、そういうわけで海難法師だったのです。
今後もこのパターンを踏襲していこうかと。

いつになるかまだわかりませんが、渾身の長文レスの予定としては、>>21で紹介した下甑島のクロ宗について深く切り込んでいくつもりです。
題して、『クロ宗の死の儀式は存在したのか? その考察(仮題)』。クロ宗の恐るべき儀式の真相に迫るべく検証します。乞うご期待。
それにしても、こんな場末の掲示板で、高いハードルを課してしまう僕は真性のマゾですね。この際、誤字脱字は脳内補完で許してチョ〜ダイ。

ちなみにクロ宗はモロ☆的には、『生命の木』ですかね? 恐らく博学の氏のことですから、ずっと昔からクロについては存じ上げていたと思いますよ。

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401 2013/07/30(火) 21:37:30 ID:8MFQsRObqE
     龍神様の怒りを鎮めるべく娘が犠牲に 坊勢島(ぼうぜじま)

兵庫県の姫路市沖には約40もの島が点在する。これを家島諸島といい、その中に坊勢島と呼ばれる風変わりな島名の有人島がある。
言い伝えによれば、883(元慶7)年、比叡山西塔実相院の高僧・覚円が武家に背いた咎(とが)でこの島に流された際、師である覚円を慕って弟子の数10人が
島に移り住んだことにちなんで島名がつけられたという。
そのほか、この島にはこんな伝承が残されている。

その昔、無鉄砲な漁ばかりする型破りな漁師と、対照的に心優しく美しい娘がいた。
ある日、父は船を出すと大漁に恵まれた。大喜びしながら魚を船に揚げ、気分よく港を目指して帰ってきたものの、
どうやらその獲物の中には龍神の使いが紛れていたらしい。

船が港の入り口にさしかかったころ、時ならぬ黒雲が空を覆い隠し雷鳴が響いたかと思うと、殴りつけるような暴風雨が船を襲った。
たちまち転覆しそうになるが、荒くれの父はどうにか持ちこたえた。
心配していた娘は浜辺で待っていた。イヤな予感が胸を締め付けていた。きっとこれは父の日ごろの無作法な漁を龍神様がお怒りになっているのだと思う。
どうにか島までたどり着いた船に向かって、「父さん、魚を海に返してあげて!」と、叫んで知らせた。
ところが、「バカ言え! せっかくの獲物を逃してなるものか!」と、父は言った。その返事に呼応するかのように海はますます荒れた。

こうなっては取り返しがつかない。娘は龍神の怒りを鎮めるべく、とっさに己が身を海に投げ出した。こうするよりほかに父の命を救う方法はなかった。
すると天にも達するがごとき水柱が立ったかと思うと嵐はピタリとおさまり、そこに娘の化身かのような小島が忽然と現われたのであった。
それ以来、父は襟を正し、島に龍神を祀り、島の安全と大漁を祈るようにした。
今でも坊勢島では正月の4日に神海祭(神権祭り)が行われている。


坊勢漁業協同組合
http://boze.or.jp/index.html

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402 2013/08/01(木) 01:24:55 ID:vvMKfszr3I
>>400

399です。
「文藝別冊・諸星大二郎」によると、隠れキリシタンの模倣資料をでっち上げ、架空の
キリスト伝説を作り上げたとか。
其処にはクロ的な要素(カニバリズム)は無いけど、このモチーフを取り入れたモロ氏の
作品を見てみたい。
こう言った話は、食べた側がメリットを得る物が多いけれど、生きてるうちに食べられる事によって、自らの細胞が他者の中で生きながらえる。
そんでもって、食べたヤツの顔形が食べられたヤツに似てくる。
狭い集団で何百年も続いた結果、みんな同じような顔容になる。
ッテ、インスマウスかよ。

そのイラスト初めて見た。
詳細希望。

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403 2013/08/01(木) 20:57:28 ID:10O2igAgP6
三重県  ワタガノ島・・・・・現在進行形のいわくつき島です・・・・・

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404 2013/08/04(日) 06:05:39 ID:PO4T8AWPvo
>>402
もしかして『文藝別冊・諸星大二郎』の132ページ目の中段のことですかね?
たしかDVD『奇談・プレミアムエディション』の特典ディスクに、氏へのインタビューがあり、同じことを言及していたような気もする……。
資料とは『キリシタン・排耶書』に収録されている『天地始之事』のことですね。何年か前、せっかく僕も手に入れたというのに積ん読状態ですが。
長崎県の五島列島に伝わる聖書異伝だから、当然クロ宗の間で流布していたとしても不思議ではないと思われ。
いずれにせよ、クロについてはもうちょっと先で。

ちなみに>>400の画像はこの手のスレで拾っただけ。元はどこで使用されたのかまでは知る由もない。


【閲覧注意】諸星大二郎の意味不明さは異常 駅から出られらないやつの恐怖感は異常
http://narcissu.doorblog.jp/archives/21164103.html
『天地始之事』について
http://www.geocities.co.jp/Playtown-Knight/7829/texts/tenchi.html

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405 2013/08/04(日) 06:10:23 ID:PO4T8AWPvo
     犬祖伝説は中国大陸から渡り琉球にも伝わった? 与那国島

沖縄県与那国島の祖納(そない)集落には、高さ70mを誇る隆起珊瑚の岩塊『ティンダハナタ』がある。
そこにはイヌガンと呼ばれる洞窟が口を開けており、そばには湧水もあることから人が住めそうなロケーションであり、
案の定こんな伝説が残されていた。

はるかな昔のことである。久米島から中山王府への貢納船が出帆。ところが船は荒天に遭い、やっとのことで与那国島へ漂着した。
その一行は男が複数に、女1人、犬1匹だったのだが、犬はとても凶暴な性質で、日に日に男たちを1人、また1人と噛み殺してしまうほどであった。
ある夜、犬は最後の1人を仕留めると、ついに女を獲得した。そしてともに岩屋で同棲するようになったのだ。

奇しくもそのころ、小浜島の漁師が同じく荒天に襲われ、与那国島にたどり着いた。
島を探索していると、先の女と出会う。女は驚くほどの美貌の持ち主であった。男はたちまち惹かれた。
「この島は危険です。凶暴な犬の連れがいるのです。早く立ち去らないと命を落とすことになりましょう」と女は言い、今までの経緯を語って聞かせた。
「犬が人間と暮らしているとな。不思議な話よのう。その呪縛から解かねばあんたは一生奴隷だぞ」
「それでもかまいませぬ。さ、早く犬が来ないうちに」と、女はしきりに島から出ていくよう促すが、男は逆にティンダハナタに潜む犬のもとへ行き、
女がいないうちに犬に挑み、激闘の末退治してしまった。そして離れた場所に埋めてしまい、女には犬の死を内緒にした。

こうして2人は夫婦となり、5男2女をもうけ、島はこの7人によって栄えていった。
秘密は墓場まで持っていくべきである。平和な日が長く続いたというのに、ある日、魔が差したのか男は犬を殺し、埋めた場所を女に漏らしてしまう。
それを知った女は激しく絶望した。死骸を掘り起こすと、それを抱いたまま命を絶ったという。

……言わずもがな、滝沢馬琴の『南総里見八犬伝』を彷彿とさせるが、それもそのはず、馬琴は中国大陸の犬祖伝説を伏姫と八房の下敷きにしたらしい。
とすれば犬祖伝説は大陸から与那国島に渡ってきたのだろう。それだけにとどまらず、この手の説話は西日本にも延びており、
とりわけ奄美大島から長崎、佐賀、対馬、四国中国地方を経て関西に分布している。


異類婚姻譚wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%95%B0%E9%A1%9E%E5%A9%9A%E5%A7%BB%E8%AD%9A
与那国島紀行〜その9:ティンダハナタのサンアイイソバ
http://oumonhagebudai.ti-da.net/e3917717.html
民俗学伝承ひろいあげ辞典 沖縄〜日本列島の「犬聟入(いぬむこいり)伝説」
http://blogs.yahoo.co.jp/kawakatu_1205/1648428.html
民俗学伝承ひろいあげ辞典 奄美大島の犬婿入り伝説
http://blogs.yahoo.co.jp/kawakatu_1205/4610253.html
第840回C - 日本民俗学会 / The Folklore Society of Japan
http://www.fsjnet.jp/regular_meeting/abstract/840c.html

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406 2013/08/09(金) 23:52:24 ID:A8aU9WP.ZU
>>404
>もしかして『文藝別冊・諸星大二郎』の132ページ目の中段のことですかね?
 そのとうりです。

2つのページ、紹介ありがとう。
‘マサン‘がポルトガル語で林檎だったとは。
例のマンガの冒頭の文章で、‘あだん‘とか‘いんへるの‘は解るが、このマサンという言葉だけが長年よく解らなかった。 スッキリした。

「奇談」、地味だけど中々良かった。
毎年この時期になると、「ヒルコ」を見たくなる、と言うか見ている。

猛暑の中、お身体に気をつけて。 

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407 2013/08/10(土) 07:21:56 ID:xk5tBIDmcI
>>406
どういたしまして。まったく殺人的な猛暑でどうにかなってしまいそうですね。そちらこそ無理なさらぬよう。


     悲劇を今に伝える『おすみ与吉の比翼塚』 神子元島(みこもとしま)

静岡県の下田港から南へ約11km沖、石廊崎からは東南東へ約9km離れた太平洋上にある無人島を神子元島と呼ぶ。
古い時代より、何度か神社の祠などが鎮座させては強風や波により消失させた。流刑者や灯台の関係者を除けば人が定住していたとの記録は残されていない。
島というより岩礁で形成され、植物の繁茂は極めて少なく、風や波をもろに受けるため、水源もないことからそこでのキャンプは困難である。
定期船の運航はしておらず、上陸するなら周辺の港で渡船をチャーターしなければならない。
マグロやカンパチなどの大物が揚がる釣り場として人気を集め、またハンマーヘッドシャーク(シュモクザメ)の大群が見られるダイビングポイントとしても有名。
夏から秋にかけて、ときに数100匹の群れと遭遇することもめずらしくないという。

その神子元島には1基の墓石が佇んでいる。これを『おすみ与吉の比翼塚』といい、こんな悲話が残されていた。
昔、紀州の若き船人である与吉が、新妻のおすみとともに航海していた。神子元島のそばにさしかかったとき、急な天気の崩れと潮の変化が起きた。
海は荒れ、まるで巨人の手の平のごとき怒涛が船を覆い隠し、次の瞬間には握りつぶしたかのように大破してしまった。
与吉とおすみは命からがら島に這い上がった。

島の上から見渡せば、視界はかすみ、下田港は見当たらない。これでは当分助けは来そうにもない。
とにかく望みを捨てず、生き延びねばなるまい。とはいえ神子元島は植物がなく、口にできるものといえば浅瀬の海藻か貝ぐらい。
初めのうちはそれで飢えを凌いでいたが、日が経つにつれ、それすら心もとなくなってきた。あらかた採り尽くしてしまったのだ。
いまだ波は荒れ狂い、助けの船も来ず、食料が底をつくのも時間の問題。

「このままでは共倒れだ。かくなるうえは、おれが無理を承知で助けを呼びに行くしかなかろう」と、与吉は独り言のように言った。
「きっともうしばらく待ち続ければ、行方知れずとなった私たちを心配した両親が助けにきてくれるはずよ」と、おすみはその意見に反対した。
「さすがにこの島にいるとは予想もつくまい。幸いここに打ち上げられたときより、体力は残されている。今挑戦しなければ、ますます体力は衰える一方だ。
だったらこれしか方法はない。おまえだってあとどれほど持つか」
「……わかったわ。気をつけて、あなた」
「しばらく辛抱して待っててくれ。必ず迎えをよこす。おすみ、そのときこそまた会おう!」
与吉はそう言うと、荒れる海に飛び込んで泳ぎ出した。はるかな下田港をめざして。

ところが2日がすぎ、3日経とうとも与吉の助けは来なかった。黒潮の流れは速く、気ばかり焦る与吉を無情にも飲み込んでしまったのだ。
夫を信じ、一日千秋の思いで待ち続けていたおすみも、ついには飢えと絶望の末、「与吉! 与吉よ!」と連呼しながら底知れぬ海に身を投じ、
夫のあとを追ったのであった。


株式会社ティアクルーズ公式ページ 伊豆の民話/孤島の比翼塚
http://www.t-crews.com/pg258.html
山風景とデジタルコラボ+α もうひとつの悲話
http://blog.goo.ne.jp/kazubouchan_june/m/201203/1

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408 2013/08/11(日) 14:09:20 ID:1lTsuHvgmA
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409 2013/08/12(月) 06:06:07 ID:Nm0smGgMng
     悲劇の八人岩伝説 小豆島(しょうどしま)

香川県の高浜港の北、約18kmの瀬戸内海にある小豆島。古事記の国生み伝説では10番目に生まれたとされている。
歴史に登場する時期も古くから散見され、いかにこの島が古来より瀬戸内海の要衝であったか伺えよう。
テレビ朝日系列の『痛快!ビッグダディ』で、一時期あの親子が移住した島として話題になったので、思い出す人も多いのでは?
小豆島には多くの民俗・伝統行事が残されており、奥深い島だ。
さて、今回は島の北東に位置する『岩が谷(いわがたに)』という村の『八人岩伝説』をご紹介。

ある日、9人の石工たちが岩が谷の石切場で、崖の上の大岩を切り出す仕事をしていた。
そのメンバーの中の1人は常日ごろ般若心経を信じている男で、暇があれば経を唱えているほどだった。
昼食の時間になったので作業を中断し、休憩することになった。
石工たちは日陰を求めて割りかけの大岩の下で休むことにした(この軽率な行動から、この後どんな事故が発生するか、
賢明なる読者諸兄なら予想がつくであろう)。

「観自在菩薩行深般若波羅蜜多時、照見五蘊皆空、度一切苦厄。舎利子。色不異空、空不異色……」と、男は休憩中もこの調子。
「しかしやっこさんは熱心な男だのう。石切職人にしとくのはもったいないほどじゃ」「ハハッ! 仕事選びを誤ったにちがいあるめえ」
と、ほかの職人にからかわれるほどだった。経を唱えるのに余念がない男を尻目に、8人はだらしない恰好で寝そべり、昼寝に興じた。

そのとき、般若経を唱えていた男はハッキリと耳にした。男は大岩のもとから這い出て、頂上を見上げた。
確かに「……ハンニャ、ハンニャ」という声が大岩の上から聞こえたのだ。
次の瞬間、轟音とともに大岩が崩れ、8人の職人を下敷きにした。
この事故以来、この大岩は八人岩と呼ばれ、今も灯篭が祀られている。

1620年、大坂城の石垣修復の際、良質の花崗岩の産地であるこの近辺からも数多く切り出されて、船で運ばれた。
硬い石も職人にかかると、石の目にノミを入れるとパカリと割れ、その断面は鋭利な刃物で断ち切ったかのように鮮やかだ。
重機がなかった江戸時代のこと。巨石を人力で運べるはずもなく、山の斜面から転がり落として海岸沿いまで運んだというから豪快だ。
ところが築城が完了すると小豆島産の石は無用の長物とされ、すでに切り出され海岸沿いで待機していたものは『残石』あるいは『残念石』と呼ばれた。
以来、ほかに有効利用されることなく300年以上もその姿を風雨に晒している。


[日本の民話・妖怪 語りおろし]八人岩(香川県小豆島)
http://www.rg-youkai.com/tales/ja/37_kagawa/01_hachininiwa.html
小豆島町岩谷の八人岩の遺跡 - JA5NXT
http://ja5nxt.lolipop.jp/8niniwa.htm
小豆島の風景 - So-net
http://www009.upp.so-net.ne.jp/therese/view.htm

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410 2013/08/21(水) 20:41:55 ID:VfN1IZO0OI
     ネズミに乗っ取られた島 戸島

愛媛県宇和島市に属する戸島は、その他の離島の例に漏れず基幹産業が漁業であり、なかでもハマチの養殖が盛んである。
その戸島であるが、昔から戸島のみならず宇和海地方はネズミが多い地域と知られ、江戸時代の記録にも残っているのだ。
ネズミ除けの念仏が行われたほど。下波湾の沖に浮かぶ黒島では、ネズミの被害に屈し開墾をあきらめたと伝えられている。

昭和24年夏、戸島にネズミが大量発生し、日振島がそれにつぎ、昭和26年11月には戸島の対岸の蒋渕(こもぶち)に飛び火。
ネズミの群れは半島を東に進み、昭和27年には宇和島周辺にまで達した。ちなみに昭和26年11月の日振島・戸島の推定生息数は80万匹だと言われている。
発生の主な原因は、戦後、食糧難により段々畑での芋作りと煮干しイリコの製造が急速に増えたことで、ネズミの食料が豊富となったためであるという。
温暖な気候のうえ、ヨシの防風垣に芋壺があり、ネズミにとって格好の棲家であった。島を上げての駆除により昭和28年は平穏であったが、
翌29年は、ふたたび大発生。駆除には薬剤、パチンコ、天敵の放逐などあらゆる手を使ったものの完全に滅ぼすまでには至らなかった。
1匹につき5円〜10円で買い上げたこともあり、子供たちは賞金稼ぎのごとく血眼になって捕まえた。

ちなみに放逐した天敵は、蛇191匹、イタチ156匹、猫4392匹。三間小学校では、猫の出陣式が行われたほど歓迎された。
駆除したネズミ数は、11年間で86万1871匹に及んだ。
ネズミがいなくなるときは、段々畑での耕作をやめて元の山林に還るときであろうという予言どおり、昭和36年に終わりを迎える。
住民たちはしだいに島での生活をあきらめ、畑を放棄し始めた。因果なことにそれゆえネズミの食料が乏しくなり、共食いをする。
そして数が激減し、残ったネズミも戸島を占拠するのをやめ、海を渡ってどこかへ消えてしまったという。


愛媛の伝承文化 −大本敬久のブログ− ネズミ騒動
http://blog.goo.ne.jp/uchikonotemae/e/dc5974ffacdd368ec63217139496f8ca

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411 2013/08/21(水) 20:50:05 ID:VfN1IZO0OI
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412 2013/08/24(土) 08:25:30 ID:fslL5gUTDw
     猫の復讐、ここに極まれり『猫島異聞』 猫島

鳥取県鳥取市の北部には湖山池(こやまいけ)という汽水湖がある。汽水湖とは湖水に海水が混じっている湖のことを指す。
『池』とつく湖沼の中では日本最大規模の広さを誇るらしい。その湖山池には大小合わせて5つの島あり、なかでも『猫島』と呼ばれる小島には
猫にまつわる伝承、その名も『猫島異聞』が残されている。この話は猫好きなら思わず膝を叩いてしまうこと請け合い。

昔、伏野長者の家に1匹の猫が飼われていた。女中はその猫をいたく可愛がっていた。ところが長者の奥方は大の猫嫌い。
猫がそばに寄り付こうものなら蹴り飛ばしてしまうほど毛嫌いしていた。
ある日、奥方は女中にこう言った。「あなたはどうしてあの猫を可愛がるのです? 私がどれほど忌々しいと思っているか、わからないのですか?
亭主にも言って聞かせます。さっさとこの家から追い出してしまいなさい。一刻も早くです!」
そのことで胸を痛めた女中は陰で泣いていると、当の猫は察したものか、その日を境に姿を見せなくなった。

別の日、旅僧が家を訪ねてきた。女中がそれとなく猫の話をすると、「その猫なら因幡山で見かけた」と、思いもよらぬ返事。
女中は暇をもらい、奥方には内緒で、因幡山へ猫を探しに出かけることにした。
とはいえ山中は広く、そう簡単に猫は見つかるはずもない。じきに日が暮れてしまった。
泊まれる場所はないか方々を探していると、1軒の立派な屋敷を見つけた。女中はさっそく門を叩いた。

戸を開けて出てきたのは美しいけれど、どこか険のある顔立ちの娘。
「あなたも食い殺されにきたクチですか? ようこそ屋敷にお出で下さいました」娘は言うと、ニタリと笑い舌なめずりした。
女中は腰が抜けそうになった。どうやら尋常ならざるところに足を踏み入れてしまったらしい。
すると屋敷の奥から、「いけません! せっかく訪ねてきた人間を怯えさせるとは何事ですか!」という叱責の声が響いた。
奥から現われたのは上品な着物姿の老婆。「使いの者が失礼をしたようです。さぞかしお疲れでしょう。どうぞ中へお入りなさい」と、言った。

その晩、床についた女中が眼を醒ますと、隣の部屋からなにやらヒソヒソ話が聞こえてくる。
女中は壁に耳を押し付けた。「……猫嫌いなら人となりでわかる。あの女は猫を可愛がっていた娘じゃ。噛み付くことは許しませんよ」と、聞こえた。
逃げ出そうとしたとき、顔が猫で身体が人間の娘が部屋に入ってきた。その猫女はよく見れば、長者の家で大事にしていたあの猫ではないか。
女中はおまえに会いたかったんだと思いの丈をぶつけると、「よくぞ会いにきてくださいました。私も長年あなたをお慕いしておりました。
しかしあの家には戻ることはできません。私は二度と帰るまいと誓ったのです」

女中はどうにか説得しようとしたものの、猫の心は頑として変わらなかった。
あきらめた女中が帰る際、猫女は1枚の白い紙袋を渡した。「これは猫屋敷の呪いから身を守るためのものです。困ったらお振りなさい」
屋敷を出ようとしたとき、なるほど外はおびただしい数の猫で埋め尽くされている。猫女にもらった紙袋を振ると、猫たちは道を開けてくれた。

家に帰り、その白い紙袋を開けてみると、中には犬の絵が描かれており、なんと本物の小判10両を咥えていた。
これを見た奥方は感嘆の声をあげた。「女中ごとき身分のおまえで小判10両……。私なら100両はくだるまい。これは行ってみる価値がありますね」
と、奥方は単身、因幡山の猫屋敷へと足を運んだ。

そしてその晩、明かりがついている部屋の障子戸を開けてみると、大きな猫が殺意をみなぎらせて奥方を睨んでいた。
「まさか、旦那が可愛がってた、あの猫……」奥方はあまりの恐怖で腰が抜けてしまった。
「みずから猫屋敷にお出で下さるとは、飛んで火に入るなんとやら。今までよくも虐めてくれましたね。今夜こそ復讐するとき」と、猫は言うと、
電光石火の動きで奥方の喉笛に噛み付いた。


湖山池遊景のりなんせ〜屋形船 湖山池の島々
http://www5.hp-ez.com/hp/kasuminosato/page9
湖山池研究所
http://www.city.tottori.lg.jp/koyamaike/index.html

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413 2013/08/24(土) 08:46:21 ID:Zik6tzzwMY
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414 2013/08/24(土) 08:53:21 ID:Zik6tzzwMY
     人類創世異伝3 降神島(うるがみじま)

神が降臨する島と書いて降神島である。降神島とは沖縄本島北西部に広がる伊平屋伊是名諸島の無人島。
沖縄県島尻郡伊是名村に属する。伊是名島の東、仲田港から約1.2kmの東シナ海上に浮かぶ珊瑚礁が隆起した岩礁といった方が正確か。
島名のとおり天地開闢に際し、神々が初めに降り立った場所であることに由来するとされ、5か所もの御嶽(うたき)が存在する。
なかでもアカラ御嶽には日本神話の天の岩戸に酷似した伝承が残されており、いかに信仰の島なのかわかろう。

太古の昔、人類がまだ誕生していないころ、世界は暗黒に閉ざされていた。この降神島に天より神が降臨した。
そこからアラハ御獄に降りたので世界は明るくなった。
ところが神々の間でなんらかの問題が起こり、クマヤ洞窟に行き、そこで籠ってしまった。するとふたたび世界は元の闇に戻ってしまう。
やはり世界には灯火が必要だと、7人の神が諭して
神を洞窟より連れ出した。そういうわけでクマヤ洞窟から世が明けたという話である。

徳川時代の史学者、藤井貞幹は、神武天皇は琉球の恵平屋島(伊平屋列島)に誕生したと提唱し、国学者、本居宣長を憤慨させたという。


琉球沖縄を学びながら、いろいろ考えていきたいな〜 降神島
http://totoro820.ti-da.net/e3354738.html
神々のお嶽 | 伊是名村役場
http://vill.izena.okinawa.jp/izena/novel/story1
沖縄 伊是名島に石と龍を訪ねて ?アハラ御嶽
http://blogs.yahoo.co.jp/nao31n31n/14108289.html

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415 2013/08/25(日) 10:04:36 ID:vQNkKC3nm.
     サバイバルの姫、男神を想うも報われず 枇榔島(びろうじま)

宮崎県東臼杵郡門川町に属する、日向灘に浮かぶ枇榔島という無人島がある。島名の由来はその名のとおり、
枇榔(ヤシ科)の木が繁茂していたことから冠せられた。この枇榔島には不思議な神通力をもった姫のサバイバル話が残されているのだが、
>>225の和歌山県串本町の橋杭岩に伝わる弘法大師伝説と共通点が見られ、発祥がなんなのか気になるところ。それがこんな話。

はるかな昔、天智天皇が皇女をつれて志布志市を訪れた。娘の名を乙姫といった。
この乙姫、泣く子も黙る男勝りのじゃじゃ馬で、周囲を振り回すことしばしばであった。
神通力をもって荒地を水田に作り代えるという善行もする一方、集落の真ん中に池を掘ったり、逆に必要な池を埋めてしまったり、
挙句の果ては小島を海に沈めてしまうなど、村人たちを困らせることも少なくなかった。
嘆願された天皇もついに堪忍袋の緒が切れ、乙姫を小舟に乗せると海へ押し流してしまった。

はるかな沖へ流されたさすがの姫も、涙こそ見せなかったが、陸が恋しくてたまらない。
前向きな姫は自身の『力』を使って、島をこしらえてしまえばよいと考えた。なんと1夜のうちに有明湾の真ん中に島を造ってしまう。
そしてこの島に女帝として君臨し、思うがまま生きて父の鼻を明かしてやろう。……これが枇榔島の誕生由来である。
朝になって有明湾の沖を眺めるなり、村人たちは眼を丸くした。「なんじゃ、あの島は? まさか晩のうちに浮かんできたのか?」
「きっと乙姫が造られた島に違いねえ。姫のことだからやりかねない。またトラブルを起こさなきゃいいが……」と、みんなは噂しあった。

枇榔島から志布志までは、たいした距離ではなかったので乙姫は孤独感に悩まされずに済んだ。
しかしいつまでも島に篭っていても飽きるだけ。やがて好きな男のことを思い出すと、頭から離れなくなった。
志布志の浜には権現山が聳えており、山には乙姫が恋してやまない男の神さまが住んでいたのだ。
やっぱり島から出て、男神に会いに行こう。なんとかできないものかと、海の神にお伺いを立てることにした。
海の神さまが現れてこう言った。「だったら一番鶏が鳴くまでに、海に権現山まで続く道を造ればよい。そなたならできるであろう。
見事完成したならば会わせてやろう」

俄然やる気が出た乙姫は腕まくりし、その賭けに乗った。よーいドンを合図に岩の道を造り始めた。権現山へ向かけて、岩の道が造られていく。
ところがあと少しというときになって、狡猾なアマノジャクに岩の道造りのことがバレてしまう。
アマノジャクは乙姫の邪魔をするように鶏に言いつけ、「コケコッコー」と鳴かせた。
あまりに早く鶏が鳴いたため、乙姫の道造りは途中で頓挫せざるをえなかった。海の神さまとの約束は守れなかった。
それ以降、姫の半生は島で1人寂しくすごすしかなかった。こうして姫の夢は絶たれた。
枇榔島神社は、この島で孤独の乙姫を祀るために村人たちが建てたものだそうだ。


大隅の昔話 枇榔島
http://www.b-post.com/oosumi/story/story_05.html
日本書紀の罠 渡辺豊和 第1章 美女を追う天皇
http://www5.ocn.ne.jp/~toyokazu/jpn/nswana/nsw-01.html

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416 2013/08/31(土) 06:56:36 ID:h9Z4Es8ioU
     闇より生まれ闇に帰っていく神『マユンガナシ』 石垣島川平(かびら)

八重山諸島の石垣島にある川平地区には不思議な行事が今も続けられている。それが節祭(しつまつり)だ。
節祭は農業暦のうえで稲作における1年の終わりと翌年の始まりとなる収穫を終えた旧暦の9月に行われる。その際、マユンガナシなる神が登場するのだ。
これも男鹿半島のナマハゲや悪石島のボゼ、宮古島のパーントゥ同様のいわゆる仮面神で、村の者が神の役を演じている。
画像をご覧いただければわかるように、その恰好は手拭いで顔を隠してクバ笠をかぶり、蓑を着て長い棒を持った妖怪じみた姿だが、
れっきとしたありがたい神の具現である。ちなみに、マユンガナシの『マユ』とは『豊かな真の世』のことであり、『ガナシ』は敬称。
合体させると『真世の皆様』という意味だ。マユンガナシは海の彼方、ニライ・カナイからやってきたとされている。
ではマユンガナシの発祥はなんであろうか? それがこんなお話。

遠い昔の、ある年の大晦日の夜のことである。舟で遭難した旅人が助けを求めるようにして川平に訪れた。その旅人はまさにクバ笠をかぶり、全身蓑だらけ。
旅人は家々を廻って1晩の宿を頼むのだが、大晦日を控え正月の準備に忙しいので、それどころではないと断る家ばかりだった。
そんななか村の南端に住む、一番貧しかった南風野家(パイヌヤ)の老夫婦だけが快く受け入れ、客人としてもてなした。
実はこの旅人の正体は神であるマユンガナシの仮の姿だったのだ。神は南風野家にだけ祝福の言葉を残し、来年も訪れると約束して立ち去った。
これを機に南風野家は次々と幸福が舞い込み、やがて豊かな家となった。
村人たちは南風野家の繁栄の理由を知り、神に大変な失礼なことをしてしまったと反省し、自分たちの家にも神が来てくれるよう願った。
そこでその年の大晦日、神が南風野家を訪ねてきたとき、老夫婦は村人たちの家々にも行ってやってもらえないかと尋ねた。
すると神は、たっての望みとあれば、名代の人に神の言葉を唱えさせよとして、『祝福の言葉(カンフツ)』を伝授させる。
さらに神は、自分は戌年の生まれであるから、戌年生まれの者に私の役目をさせるがよいと告げた。以来、マユンガナシは神の名代である村人が扮し、
行われるようになった(※おかしなことに、>>234>>235でも書いた話とほぼ同義である。どうもこの手の逸話は全国にいくらでも転がっているようだ。
なぜ類似の民間伝承や伝説が拡散したのか、またの機会で検証したい)。

祭りに際し、村の若者、それも戌年生まれの者はマユンガナシに扮してから、『ムトゥ(本神)』と『トウム(供神)』の2者1組(このペアが複数存在する)は
マユンガナシの長である『フームトゥ』(大元)の家から出立し、空き地に集まり、そこから事前に練ったスケジュールに沿って各家に向かう。
訪問を受けた家の家主は2人組の神を座敷に招き入れ、酒を振る舞い、ご馳走を出してもてなす。
神は祝言『カンフツ』を唱え『五福』の言葉を授ける。五福とは富貴・繁栄・長寿・健康・豊作。マユンガナシの言葉『カンフツ』は不明瞭すぎて聞き取りがたい。
『カンフツ』は実に1時間前後にも及ぶ。対する家人はマユンガナシに礼の口上を述べ、最後にはお土産まで手渡して送り出す。
その間、マンガナシの返答はつねに「ンー!」だけである。
こういった一連の流れを、夜明け前の一番鶏が鳴き終わるまでに家々を廻り、おつとめを済ませたあとニライ・カナイへと去っていくという設定だ。
さらに祭りを終えて衣装を脱ぐとき、男たちは鶏の鳴き真似をする。これを『カムスディル』(神孵)という。あの世の神から、この世の人間に孵化することを
意味している。それと、この儀式だけは絶対に人に見せてはならない秘事とされている。ここにも見るなのタブーがつきまとうわけだ。
祭りはその晩だけで終わらず5日間続く。戊戌の日のマユンガナシの祭り(初日)に次いで、井戸での祈願(2日目)、芸能の表演、獅子舞などがある(3日目)。
4日目は以前は獅子舞を踊らせたが、現在は省いたらしい。5日目は『神(カン)ニガイ』で、この日、ニライ・カナイからきたマユンガナシの上位神と言われる大神
『ニランタフヤン』を送り返すという。……おそらく読んでて理解しかねると思うが、書いてる方もワケワカメである。
基本的に写真・ビデオは禁止の秘祭ながら、以下のサイトにはバッチリ記録が残されていたりして。

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417 2013/08/31(土) 07:00:51 ID:h9Z4Es8ioU
シンポジウム7特別編 「異界とのダイアローグ--実践としての写真」
http://www.mizu-tsuchi.jp/wp/wp-content/uploads/2013/03/1611a08dc49ff4733fd2c0feda0c71ae.pdf
民族学伝承ひろいあげ辞典 マユンガナシ、アカマタ・クロマタ 八重山諸島
http://blogs.yahoo.co.jp/kawakatu_1205/50647516.html
民族学伝承ひろいあげ辞典 奇祭4/マユンガナシ
http://blogs.yahoo.co.jp/kawakatu_1205/55762785.html
民族学伝承ひろいあげ辞典 世界のまれびと・仮面の精霊一覧 シロマタ
http://blogs.yahoo.co.jp/kawakatu_1205/54977298.html?vitality
マユンガナシの映像(1994年の記録)補遺
http://www.flet.keio.ac.jp/~shnomura/mayun/mayunganashi.html
NPO法人 科学映像館 石垣島川平のマユンガナシ
http://www.kagakueizo.org/2009/04/post-97.html
沖縄格安 生活プレイガイド ヒューマンリレーション
http://www.playguide.org/festival/index.cgi?mode=list&cat=500

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418 2013/09/08(日) 09:22:56 ID:.QjPHEF1jM
     その実、ペニスとは無縁 珍小島(ちんこじま)

北海道の洞爺湖に浮かぶ陸繋島(砂州によって陸続きになった島のこと。神奈川県藤沢市の江の島もこれにあたる)の島名は、
こっ恥ずかしい名で知られる。珍小島である。また、周辺を珍小島地区または珍小島周辺地区と呼ぶことがある。
名前の由来は、ズルむけペニス伝説があるわけではない。
湖の水量によって島までの砂州が出たり消えたりする陸繋島ならではのトンボロ現象から、『珍しい』+『小島』= 『珍小島』となったようだ。


珍小島(北海道虻田郡虻田町)
http://ankyo.rulez.jp/chinmei/chinkojima/chinko.html
隅っこ男子同好会 オー・チン・チン/ハニー・ナイツ
http://blog.goo.ne.jp/enyo_1975/e/dc04da650c8e845b01f0cc7910da2106
珍地名wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8F%8D%E5%9C%B0%E5%90%8D

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419 2013/09/08(日) 09:26:17 ID:.QjPHEF1jM
     触ればご利益があるかも? おっぱい岩

熊本の天草、苓北町には、これまた人体の部位にちなんだ奇岩がある。その名もおっぱい岩である。しっかりビーチクまでついている。
時として自然の力はしょーもない奇跡を起こす。
大昔、雲仙岳の噴火の際、飛んできた岩が、長い年月をかけて、海蝕作用という名の彫刻家によって形取られた変形岩だ。直径は約1.5m。
じかに触れば『乳房が大きくなる』とか『母乳がたくさん出るようになる』などのご利益もあることから女性が訪れることで、地味に有名らしい。
干潮時にしか姿を現さないので、見学したければ前もって潮汐の時間帯確認が必須。


おっぱい岩(熊本県天草郡苓北町)
http://ankyo.rulez.jp/chinmei/oppaiiwa/oppaiiwa.html
ダル杏 おっぱい岩と通詞島 [天草]
http://dal-anz.blog.so-net.ne.jp/2009-05-05

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420 2013/09/08(日) 12:16:39 ID:VILoQVelaA
     「一生餅を絶ちますから。どうかお助け〜!」 陰田『花魁(おいらん)島』

宮城県塩竈市浦戸には浦戸諸島あり、そのなかに野々島という有人島がある。
その野々島の東の端には、『陰田』(もしくは掛田と表記する場合もある)なる無人島があり、別名『花魁島』とも呼ばれている。
島には『野々島のかげ田と一升餅』という民話が今も語り継がれている。

昔、村の若者たちが集まって、みんなで他愛もない話をしていた。そのうち1人のお調子者が花魁島を指差し、こう言った。
「あの島のてっぺんに大木があり、枝にはミサゴ(鷹の一種)の巣が組まれてるそうなんだ。その巣には雛っ子がいるはず。
その雛を生け捕りにした者は、みんなで銭出し合って田んぼ1反与えるってことにしねえか?」
「賭けか? そいつは面白え。乗ってやら」
「上等じゃねえか。田んぼ1反、必ずだからな!」

……とは言ったものの、若者たちはいざ島の真下までとり着き、上を見あげるなり言葉を失った。
島の周囲は垂直の岩壁で、真下はゴツゴツした岩場があり、いつも波が砕けているような恐ろしい場所。
万一、壁をよじ登っているときに足を滑らせたなら命の保証はない。おたがいの顔を見合わせた。
「誰がいの1番に挑戦するんだ?」
「おまえこそ行けよ!」
「いやいや、言いだしっぺのおまえが!」
そのとき、1人の若者が言った。「おれが行くぞ」そして頭に鍋をかぶり、腰に荒縄を巻いて絶壁をよじ登り始めた。

若者はどうにか島の頂上にたどり着き、次に問題の松の大木に挑んだ。腰に巻いた縄のもう片方の端を枝にかけ、1枝1枝慎重に登っていき、
ついに手を伸ばせばミサゴの巣に届くところまで来た。案の定、生後間もない雛がピイピイ鳴いていた。
雛に触れようとしたとき、突如どこからともなく、親鳥が数十羽の仲間を従えて襲いかかってきた。
若者はあまりの恐ろしさに雛を取るどころの騒ぎではない。雛をあきらめ、木から降りようとするも、手足が痺れて進退窮まる。
顔色が失せた若者は一心に神に祈った。
「南無三宝……八百万の神さま、どうか無事におろさせてください。無事おりることができたなら、一生餅を絶ちますから。どうかお助け〜!」と、
願掛けしながらちょっとずつ木をおり、絶壁にしがみつきながらやっとのことで真下まで戻り、生還することができた。

若者はその後、『一升餅』は口にしなかったものの、『二升餅』を食べたということだ(『一生』ではなく『一升』餅を食べないというオチ)。
こんな騒動以来、この無人島を田んぼを賭けたことから『かけ田』と呼ぶようなり、それが訛って『陰田』になったという。
……それにしても、なぜ『餅』なのか? 餅を食べることを禁忌とする風習は各地に転がっており、謎が深まるばかり。


民話万象 第百七十五話 野々島のかげ田と一升餅
http://melma.com/backnumber_54358_3112791/

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421 2013/09/08(日) 18:21:58 ID:525LnydpNg
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422 2013/09/08(日) 18:25:00 ID:525LnydpNg
     殺された海賊の呪い 牧の島

長崎の佐世保市、平戸市にかけての北松浦半島西岸に連なるリアス式海岸の群島をまとめて九十九島(くじゅうくしま)と呼ぶ。
島数99どころか、公式には208もあるとされている(これは佐世保市等の『九十九島の数調査研究会』の見解によるものであるが、
島の定義を満たしていないものも含まれるので、必ずしも208が正確な数ではない)。こんなにあればさぞかしネタの宝庫であろう。

今回は九十九島の1つ、牧の島をご紹介。松浦藩時代に放牧場であったのが島名の由来とされている。
天然・養殖ともに牡蠣の生産地であり、冬場には地元漁協によるイベントも行われる。
そんな牧の島は海賊にまつわる話が残されている。島の東側にある小さな入り江は昔、海賊船の集合地であったという。
あるとき、地元の者がここに潜伏していた1隻の海賊船を奪取し、金銀財宝を強奪したうえ、海賊たちに石の重しをつけて海中に投じた。
その際、海賊の1人がもがき苦しみながら海面に顔を出し、「よくもやってくれたな……。この恨み、7代のあとまで祟ってやる」と、言い残し沈んでいった。

本来、海賊とは心身ともに頑強そうだが、襲撃した方がさらに上を行く猛者だったのだろう。特殊部隊そこのけである。
皮肉にもその呪詛のとおり、海賊を襲った者の家系には身体の不自由な子が生まれたという。
一説では、この伝説における人物は『「地の者』『海賊』ではなく源平合戦の、平家に加担していた松浦水軍が落ち延びてきたとき、
源氏に寝返った者が、財宝の警護をしていた平家の武士を襲ったとの説がある。
またそれとは別に、夜間にこの付近の海上を通ると舟幽霊につけられて遭難したとも噂されている。それゆえ船頭たちはここを『魔の浦』と呼んで恐れるという。


西海パールシーリゾート 西海国立公園九十九島の紹介
http://www.pearlsea.jp/99islands/island.html
揺りかごから酒場まで☆少額微動隊 長崎(6)南九十九島でやんす
http://okab.exblog.jp/13301797/

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423 2013/09/14(土) 16:51:55 ID:0kuEBQesDg
     姉弟神のいつく島 フデ岩

>>291でアカマター伝説がある八重干瀬(やびじ・やえびし) を紹介したが、それより東へ約9.5kmに無人島がある。それがフデ岩だ。
宮古列島に属する。周辺はカツオの漁場だ。
このフデ岩には姉弟の神が一帯を守っているという神話が伝えられている。それがこんなお話。

八重干瀬には渡賀殿(とうがどぅね)という男神がいて、対する東の洋上に佇むフデ岩には美雅真良(みがほら)という美しい女神がいた。
渡賀殿が弟にあたり、美雅真良が姉だった。

八重干瀬は広大な珊瑚礁であり、豊富な魚介類、海藻が採れる漁場として知られ、『海の畑(インヌパリ)』と呼ばれていた。
水産資源を求めて人間たちが漁をしに訪れた。しかし弟の男神は、人間の船が近づくたび、お冠になる。
「私のニラ畑(神の畑)を狙って、黒牛が荒らしに来たに違いあるまい!」と言って、神通力をもって船を暗礁に叩きつけようとする。
「まあ! あなたと来たら気が短すぎます。暴力はいけませんよ」と、姉はなだめ、どうにか気を引こうと知恵を働かせた。
姉は機に織りかけてあるプス(カスリ模様の布)をわざと織りそこねた。そして弟に向かって言った。「弟よ、機織りをしくじってしまったようです。
私の力では手直しできませんから、あなたの助けがいります。早くこっちへ来なさい」

日ごろ粗野な弟でも、姉の願いとあるならばと、大至急フデ岩に駆けつけた。その間に船は難破を逃れて無事航海できるというもの。
それで船乗りはこの難所にさしかかったら、『プナリサズ』なる布を鉢巻きにし、旅栄の歌を歌って女神に感謝したとのこと。


宮古島観光ツーリスト 池間の由来と歴史
http://mikatatourist.com/ikemajima.html

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424 2013/09/14(土) 16:54:18 ID:0kuEBQesDg
     雨乞いの神事が行われた島 星神島(ほしのかみしま)

島根県の日本海側沖には隠岐諸島が点在しており、島前(どうぜん)に属する無人島が星神島である。
ホシノカミシマと読む。なにやら意味ありげな島名だ。それに関連してか、かつて島には星神神社が設けられ、祭神は鹿賀瀬雄命が祀られていたのだ。
鹿賀瀬雄命とは、香香背男(かがせお)ともいわれ日本神話に登場する天津甕星(あまつみかぼし)のこと。
つまり星の神様だ。島名もそれに倣ったにちがいあるまい。
もっとも、星神神社は明治39年12月に原内相の下で出された通達『神社合祀』で比奈麻治比売神社に統合され、これを機に島の星神神社は幕を下ろしたという。

それとは別に、星神島は『雨乞いの島』として信仰を集め、島全体を御神体として崇めているのだ。
島の頂上には何人たりとも見てはいけないという小さな池があり、日照りが続くときには、宇賀地区の『宮前』なる家の当主が1人参詣するのが慣わしだった。
当主は羽織、袴姿で正装し、手にした柄杓で池の水をくみ上げて祈れば、明くる日には必ず雨が降ったそうだ。
言い伝えでは、竜が天に昇るのにこの池の水がないと困るので、代わりに雨を降らせるのだという。

雨乞いの神事は実際に昭和の中ごろまで行われていた。
当時を知る人の談によると、男は船に乗って島の近くまで行って船上から祈願し、女は済(すみ・星神島の南にある西ノ島の西北端)にある比奈麻治比売命神社跡
(星神神社はここから移設した)へ行き、そこから祈った。この神様に祈願すると、遅くても2〜3日後には必ず雨が降ったらしい。
雨乞いは地区だけでなく、物井地区では集落の上の山頂へ行き、星神島が見渡せる場所から願かけした。その周辺を『雨乞い山』と呼んだ。
雨を降らせる池と星神(これは悪神だという)の取り合わせ。なんだか近寄りがたい島である。


牧畑と運河のあるまち 星の神探検
http://blogs.yahoo.co.jp/kakuichi23/folder/927080.html?m=lc&p=6
古代史の謎を解く ヒナ族と比奈麻治比売命神社(1)
http://blogs.yahoo.co.jp/bebz2006/7574289.html
天津甕星(あまつみかぼし)wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E6%B4%A5%E7%94%95%E6%98%9F
天文古玩 「宿曜経」の話(2)…参(しん)は猛悪にして血を好むか?天文古玩
http://mononoke.asablo.jp/blog/2012/07/18/6515128

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425 2013/09/16(月) 09:48:20 ID:.CL6tkImOk
     ハニートラップで鬼退治? 鬼餅(ウニムーチー)の由来 那覇市(旧・大里村) 1

昔、首里金城にある兄妹がいて、やがて兄だけが大里村に移り住むようになった。
兄は夜な夜な村を襲撃し、鶏や山羊、牛を盗み、挙句の果てには人間までも食らう『大里鬼』と変貌し、洞窟に住み着いているとの噂が広まった。
妹としては、まさか兄が鬼に変わり果てているなど信じられず、真相を確かめるべく大里の洞窟に足を運ぶことにした。

「兄さん、私です。いれば答えて」と、洞窟の入口で叫んだ。声はむなしく反響するだけ。どうやら兄は不在のようだ。
とにかく兄の寝床だけでもこの眼で確かめておこうと、洞窟の中に入っていった。
奥に行くにしたがい、鼻をつく異臭。奥の部屋には家畜の、まだ肉のこびりついた死骸が散乱していた。
部屋の一端には大鍋がグツグツ煮えたぎっていた。恐る恐る鍋を覗き込んでみると、ブツ切りにした人間の手足やワタが茹であがっていた。
やはりあの優しかった兄が鬼と落ちぶれて