1月24日の夜は決して外を見てはいけない『海難法師の日』 伊豆七島 2
島ではこの夜、明かりが外に漏れないよう玄関や戸口を厳重に戸締まりし、『トベラの枝』をさして災難避けの細工をする。
トベラなる植物の枝は折ると悪臭を放つため、魔除けの効果があると信じられている。あるいは臭いのきついノビルや刺のある柊で代用も可能だそうだ。
そして物音を立てず、声もあげず、できるだけ早く床についてやりすごすのだという。そのとき、自分たちの家が海難法師の目にとまらぬよう、
ひたすら祈るそうだ。
新島では24日の日を『親黙り』と呼び、翌25日を『子黙り』という。『親黙り』の日など、学校は放課後、児童を早急に帰宅させ、
会社業務も定時退社どころか早退が許される。役所でさえ職員に定時の退庁を勧めるほどだから驚きである。
旅館などを除き、ほとんどの商店は営業を控えるというから、正真正銘、島ぐるみで物忌が行われるのだ。
もっとも1945(昭和20)年ごろまで厳格に執り行われていたこの風習も、現在では簡素化され、当然ながら島外から越してきた人は信じない者もおり、
気にせず外出する者も増えてきたようだ。それがいいことなのか悪いことなのか、なんとも言い難い。
くり返すが、24日の夜にやってくるとされる『モノ』の正体は、島によって25人の若者であったり、悪代官だともいわれ定まっていない。
いずれにせよタブーを破り、海難法師に会ってしまい、その姿を見てしまうと凶事が降りかかると頑なに信じられてきた。
義憤のために代官を殺害したというのに、どの島も彼らの受け入れを拒んだ恨み、あるいは直談判に向かう前に残した言いつけを守らぬ者に、
災厄と死をもたらしに戻ってくるのだという。
ところがそんな物忌の日であっても、特別に例外の人間が存在する。反対に、泉津地区の浜辺に座り続けなくてはならない家系の者がいるというのだ。
この日やってくるとされる25人の亡霊を迎え入れる役目を仰せつかった門井という旧家がそれだ。
彼は海岸にゴザを敷き、白装束姿で1人座る。寒風吹きすさぶなか、波をかぶっても身じろぎせず、夜が明けるまで亡霊たちの帰りを待つという。
(※諸星大二郎の『妖怪ハンター』の一篇、『海竜祭の夜』の『彦ジイ』の役どころと行事そのものは、ここからインスピレーションを得たに違いない)
門井某家とは別に、24日に日忌様=海難法師を祀る行事がある。行事にあたりその日の夕方、海難法師にお供えする海藻や塩を採るために、
集落の男7人が海辺に集合する。
その際、家を出たときから絶対に口を利いてはいけない、出会った人がいたとしても言葉を交わしてはならない、どんなに海が時化ていても、
全員がふんどし姿になり、真冬の海で海藻を採る。それを祭壇に供えたうえで、夜を迎えるのだという。
儀式は夜の21時から始まり、日付の変わる0時から2時ぐらいまでの真夜中に最高潮に達するそうだ。儀式の詳細な内容は明らかにされていない。
ただ、わずかながら知られているのは以下の4点。
①行事はごく近しい親族と氏子に選ばれている者だけで行われる(代官が泊まったとされる宿の主、前田七兵衛氏および山下仁左衛門氏宅の末裔であろう)。
②行事に参加する者は、口に木の葉をくわえ(誤って喋ってしまわないため)、衣服は紋付羽織、新しい麻のたすきをかけた恰好で行う。
③行事中は一切無言を貫き、合図は手真似でやる。行事の詳細を他人に話してはならない禁忌がある。
④行事を終えると、盃を回して無事終了したことを告げる。午前3時になると一同帰宅し、幼い子がいる家には、「カンナンボーシの行事が終わりました」と、
親が起こして告げる。
……なんとも恐ろしく、不可思議な行事である。21世紀に入り情報化社会は浸透し、人々の考えから古臭い価値観は一掃されたかのように思える。
しかしながら離島とは四方を海で隔絶された独立した国。人間が生活していくためには、最低限の食料と水の確保が不可欠で、小さい島になればなるほど、
その確保は困難になる。人口減少などでインフラが絶たれてしまっては生きていけず、人々は島を離れるしかない。
そんな不安を抱えているからこそ人々の思考は閉鎖的、排他的、保守的になり、内向していく。昔ながらの『ムラ社会』(シマ社会)は消えることはない。
さらに島の平和を脅かすのは、いつも外部からの部外者だ。そんなアウトサイダーが、八丈島に流されてくる罪人のように発展をもたらせてくれれば良いが、
必ずしもそうとは限らない。この海難法師のように、時としてアウトサイダーは禍津神(マガツカミ)として祭り上げられ、同時に畏れられるのかもしれない。
返信する