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続・怖い島・いわくつきの村
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全国に散らばる、おっかない伝承伝説が伝わる離島専用スレッド第2弾です(若干ながら村ネタもあり)。
もちろん島の奇祭や神秘の風習、島のみならずワケあり岩礁や奇岩なども含み、いかがわしいオカルトにとどまらず、
れっきとした民俗学としての側面を持ち合わせています。島ネタに関して異常に特化したソレを目指すつもりです。
……前スレが500レスに達する前に続編を立てた理由は、サイズが500KBを超過してしまい書き込めなくなったためです。
せっかく満杯になるまで文字で埋め尽くし、有終の美を飾ろうとしたのにカウンターストップとは……。いささか文章がボリューミーすぎたかも。
まあ、めげずにご要望に応え、続・怖い島と行きましょう。
ちなみに……スレ自体を保存し、あとで読む方法をお教えします。
書き込みできなくなったスレは後ろへ流れてしまい、新スレが立ち上がるたび、古いものから消えてしまいます。
そうなる前に貴重なスレは永久保存しておきましょう。前スレはネット世界は広しといえど、近年類を見ない極上の資料スレですぞ。
以下は、その手順。
任意のスレ内の適当な空白で右クリック→プロパティ→アドレスをコピー→画面上部のアドレス直接入力枠にペースト→そのアドレスへ飛ぶ→
このスレが表示される→ファイル→名前を付けて保存。
※スレ画は前スレ>>188で紹介した、愛知県蒲郡市、三河大島にある仏島(島というより岩礁だが)。
癒されたい僕のブログ カヤック編 三河大島へ
http://blog.livedoor.jp/usa_usao5/archives/1697874.htm...
もちろん島の奇祭や神秘の風習、島のみならずワケあり岩礁や奇岩なども含み、いかがわしいオカルトにとどまらず、
れっきとした民俗学としての側面を持ち合わせています。島ネタに関して異常に特化したソレを目指すつもりです。
……前スレが500レスに達する前に続編を立てた理由は、サイズが500KBを超過してしまい書き込めなくなったためです。
せっかく満杯になるまで文字で埋め尽くし、有終の美を飾ろうとしたのにカウンターストップとは……。いささか文章がボリューミーすぎたかも。
まあ、めげずにご要望に応え、続・怖い島と行きましょう。
ちなみに……スレ自体を保存し、あとで読む方法をお教えします。
書き込みできなくなったスレは後ろへ流れてしまい、新スレが立ち上がるたび、古いものから消えてしまいます。
そうなる前に貴重なスレは永久保存しておきましょう。前スレはネット世界は広しといえど、近年類を見ない極上の資料スレですぞ。
以下は、その手順。
任意のスレ内の適当な空白で右クリック→プロパティ→アドレスをコピー→画面上部のアドレス直接入力枠にペースト→そのアドレスへ飛ぶ→
このスレが表示される→ファイル→名前を付けて保存。
※スレ画は前スレ>>188で紹介した、愛知県蒲郡市、三河大島にある仏島(島というより岩礁だが)。
癒されたい僕のブログ カヤック編 三河大島へ
http://blog.livedoor.jp/usa_usao5/archives/1697874.htm...
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日本武尊の叔母・倭姫が渡ってきた島 姫島
愛知の三河湾に浮かぶ田原市唯一の島、姫島。島に平地はほとんどなく、高さは62.1m、島の周囲は約4m。
九州には同名の島があるばかりか、日本各地にも同じ地名が点在している。
三河湾のソレがいつから姫島と呼ばれるようになったのか定かではない。
姫島と冠されるのであればこそ、いろんな伝説も残されているもので、その1つがダイダラボッチ伝説。
とはいえ、これは>>26>>32と、さんざんやったため食傷気味なので却下。かわりに倭姫(やまとひめ)伝説を紹介しよう。
今から2000年ほど前、当時流行した疾病を鎮めるべく、倭姫は天照大神を祀る地を探し、諸国をめぐっていた。
船旅の途中、島に立ち寄り、倭姫はここに滞在した。蚕を飼い、その飼育方法を村人に伝えたという。
後年、姫は島で死去した。今でも蚕の餌となる桑の木や井戸、お墓があると伝えられている。
おそらくこの伝説を契機に、姫島と呼ばれるようになったのだろう。
お供だった伊勢の山田氏や小林氏らが片浜集落に住む人たちの祖先にあたり、姫島に山田と小林姓が多いのはこのためだと言われている。
ちなみに、倭姫は嵐で流され、姫島に流れ着いたとされる諸説もある。一行を乗せた舟は伊良湖水道で暴風雨にあい、梶が折れて流されたが、
ある岬の陰で風をしのぎ、命拾いをした。この岬のことを梶ヶ崎(野田町馬草港の小山)と呼ぶ。
さらに一行は潮に流され、ようやく姫島に漂着した。しばらくここに滞在し、舟を直し仁崎に渡った。
これは天照大神をお祭りする場所の候補地として目をつけたからである。
しかし適当な場所ではなかったため、世話になった村人たちへのお礼に村の中を流れる川の名として、伊勢神宮の内宮前を流れる神聖な川、
五十鈴川の名前を贈ったと言われている。
倭姫は垂仁天皇の第4皇女で、日本武尊の叔母にあたり、伊勢の地に皇大神宮を祭った人とされる伝説上の人物。
また姫島は、江戸時代の地理書には、源頼朝が奉納した御馬の神社(豊川市御津町)の神馬が逃げ出して海を泳ぎ、この島にきたという話から、
飛馬島とも呼ばれるそうだ。
倭姫命wikipedia.
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%80%AD%E5%A7%AB%E5%91%...
こらむ 阿曇連(あずみのむらじ)とサクヤヒメ
http://ascc-style.com/column/2003/11/post-29.htm...
[PDF]歴史探訪クラブ 伝説の島 姫島
http://www.city.tahara.aichi.jp/promotion/koho23/0715/tahara11...
愛知の三河湾に浮かぶ田原市唯一の島、姫島。島に平地はほとんどなく、高さは62.1m、島の周囲は約4m。
九州には同名の島があるばかりか、日本各地にも同じ地名が点在している。
三河湾のソレがいつから姫島と呼ばれるようになったのか定かではない。
姫島と冠されるのであればこそ、いろんな伝説も残されているもので、その1つがダイダラボッチ伝説。
とはいえ、これは>>26>>32と、さんざんやったため食傷気味なので却下。かわりに倭姫(やまとひめ)伝説を紹介しよう。
今から2000年ほど前、当時流行した疾病を鎮めるべく、倭姫は天照大神を祀る地を探し、諸国をめぐっていた。
船旅の途中、島に立ち寄り、倭姫はここに滞在した。蚕を飼い、その飼育方法を村人に伝えたという。
後年、姫は島で死去した。今でも蚕の餌となる桑の木や井戸、お墓があると伝えられている。
おそらくこの伝説を契機に、姫島と呼ばれるようになったのだろう。
お供だった伊勢の山田氏や小林氏らが片浜集落に住む人たちの祖先にあたり、姫島に山田と小林姓が多いのはこのためだと言われている。
ちなみに、倭姫は嵐で流され、姫島に流れ着いたとされる諸説もある。一行を乗せた舟は伊良湖水道で暴風雨にあい、梶が折れて流されたが、
ある岬の陰で風をしのぎ、命拾いをした。この岬のことを梶ヶ崎(野田町馬草港の小山)と呼ぶ。
さらに一行は潮に流され、ようやく姫島に漂着した。しばらくここに滞在し、舟を直し仁崎に渡った。
これは天照大神をお祭りする場所の候補地として目をつけたからである。
しかし適当な場所ではなかったため、世話になった村人たちへのお礼に村の中を流れる川の名として、伊勢神宮の内宮前を流れる神聖な川、
五十鈴川の名前を贈ったと言われている。
倭姫は垂仁天皇の第4皇女で、日本武尊の叔母にあたり、伊勢の地に皇大神宮を祭った人とされる伝説上の人物。
また姫島は、江戸時代の地理書には、源頼朝が奉納した御馬の神社(豊川市御津町)の神馬が逃げ出して海を泳ぎ、この島にきたという話から、
飛馬島とも呼ばれるそうだ。
倭姫命wikipedia.
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%80%AD%E5%A7%AB%E5%91%...
こらむ 阿曇連(あずみのむらじ)とサクヤヒメ
http://ascc-style.com/column/2003/11/post-29.htm...
[PDF]歴史探訪クラブ 伝説の島 姫島
http://www.city.tahara.aichi.jp/promotion/koho23/0715/tahara11...
カナ表記の珍しい島の由来とは? アンジャ島
舞鶴市には珍しい島名の島がある。それがアンジャ(アンジア)島だ。もっとも、現在沖から陸続きになってしまっているのだが。
三浜峠から眼下の小橋の海を見渡すと、アンジャ島を筆頭に、磯葛島、沖葛島の3島が並び、遠方に冠島、沓島を従えている。
このうち、なぜアンジャ島だけがカナ表記なのか? その経緯がこうだ。
どれぐらい昔のことか定かではない。小橋の村に、漁へ行くにも田へ行くにも、一緒に出かけるほど仲のいい兄弟がいた。
ところが当時、流行り病が猛威を振るい、村にも被害がおよんだ。現代なら抗生物質の注射1本で完治する病にすぎないのだが……。
そうなると、>>139>>143>>161のように、感染病患者は離島に隔離するしかない。
当時のまだ名前のついていなかったアンジャ島の前身である無人島に小屋を建て、兄を移り住まわせた。
弟は泣きながら毎日朝夕、小舟で食料を運んだ。しかし日を追うにつれて兄は衰弱し、弟の懸命の看護もむなしく、やがて息を引き取った。
1人残された弟は、毎朝、毎夕、島まで小舟で漕ぎつけ、在りし日の兄を思い、「兄者ー! 兄者ぁ!」と叫ぶのだった。
この弟の切なる叫びがアンジャ島の由来なのだという。
※もしくは南北朝の争いの時代、南朝ゆかりの姫君が落ち延びて、この島に渡り、行在所(あんざいしょ)を建てて隠れていたので、
『行在島』と呼ばれるようになり、それが訛ってアンジャ島に変遷したのではないかとの諸説もある。
舞鶴市民新聞社の運営する舞鶴市近郊ローカルニュースサイト Webみなと舞鶴 NO.90 「アンジャ島」(三浜・小橋)
http://www.maipress.co.jp/menu/rensai/90.htm...
舞鶴市には珍しい島名の島がある。それがアンジャ(アンジア)島だ。もっとも、現在沖から陸続きになってしまっているのだが。
三浜峠から眼下の小橋の海を見渡すと、アンジャ島を筆頭に、磯葛島、沖葛島の3島が並び、遠方に冠島、沓島を従えている。
このうち、なぜアンジャ島だけがカナ表記なのか? その経緯がこうだ。
どれぐらい昔のことか定かではない。小橋の村に、漁へ行くにも田へ行くにも、一緒に出かけるほど仲のいい兄弟がいた。
ところが当時、流行り病が猛威を振るい、村にも被害がおよんだ。現代なら抗生物質の注射1本で完治する病にすぎないのだが……。
そうなると、>>139>>143>>161のように、感染病患者は離島に隔離するしかない。
当時のまだ名前のついていなかったアンジャ島の前身である無人島に小屋を建て、兄を移り住まわせた。
弟は泣きながら毎日朝夕、小舟で食料を運んだ。しかし日を追うにつれて兄は衰弱し、弟の懸命の看護もむなしく、やがて息を引き取った。
1人残された弟は、毎朝、毎夕、島まで小舟で漕ぎつけ、在りし日の兄を思い、「兄者ー! 兄者ぁ!」と叫ぶのだった。
この弟の切なる叫びがアンジャ島の由来なのだという。
※もしくは南北朝の争いの時代、南朝ゆかりの姫君が落ち延びて、この島に渡り、行在所(あんざいしょ)を建てて隠れていたので、
『行在島』と呼ばれるようになり、それが訛ってアンジャ島に変遷したのではないかとの諸説もある。
舞鶴市民新聞社の運営する舞鶴市近郊ローカルニュースサイト Webみなと舞鶴 NO.90 「アンジャ島」(三浜・小橋)
http://www.maipress.co.jp/menu/rensai/90.htm...
クロ宗の死の儀式は存在したのか? その考察1
「クロ宗のもんはな、人間の生肝をとって食(た)もッちいわるッと。病人が死にかかるとな、
夜中に家族のもんも医者もみな人払いをしてな、クロのサカヤと病人と2人だけになってな、何かすると。
それでな、人を病人の部屋へ入れてきたときにはな、病人の身体は白い布でぐるぐる巻きになっとって、
必ずもう息はひきとっておって、床下は血だらけじゃッどよ。
そいで、今度は部屋の灯を消してよ、クロ宗の連中が集まって真っ暗ななかでお通夜みたいなもんがあるんじゃが、
どんから(けれども)そのお通夜みたいなもんは並普通のとは違うて、生魚が出るんじゃッど。
山部落じゃ病人が重くなるというと、大きな魚を買いに出らんならんと。その魚のワタでもとって床下の血をどうとかしてしまう話もあッがよ。
またな、水を沢山使うし死人の身体を洗うとか、水で血を流すとかちゅう話もあッど。
御透視役ちゅうのは、死人を天国とかへ連れて行く役だとかで、剃刀役ちゅうのは、死人の頭を剃ッとか、
生肝を切りとッとかちゅう話もあッど。真っ暗なお通夜みたいなもんに集まるクロの連中の下駄は、みんな裏返してあッと。
その下駄の返し方にも、二段三段の仕掛けがあると。それで朝が来りゃ、真宗のお寺でもういっぺん、立派な葬式をやると。
その仏式のはな、盛大じゃとも、クロを隠すための恰好つけだけじゃと。クロのもんはな、年の暮頃に肉で酒盛りをやると。
子供が生まれると、水で洗ってな、生肉を口に押しつけてやると」
……『鬼無鬼島』より抜粋 太平次が早子に語って聞かせたクロの噂
「クロ宗のもんはな、人間の生肝をとって食(た)もッちいわるッと。病人が死にかかるとな、
夜中に家族のもんも医者もみな人払いをしてな、クロのサカヤと病人と2人だけになってな、何かすると。
それでな、人を病人の部屋へ入れてきたときにはな、病人の身体は白い布でぐるぐる巻きになっとって、
必ずもう息はひきとっておって、床下は血だらけじゃッどよ。
そいで、今度は部屋の灯を消してよ、クロ宗の連中が集まって真っ暗ななかでお通夜みたいなもんがあるんじゃが、
どんから(けれども)そのお通夜みたいなもんは並普通のとは違うて、生魚が出るんじゃッど。
山部落じゃ病人が重くなるというと、大きな魚を買いに出らんならんと。その魚のワタでもとって床下の血をどうとかしてしまう話もあッがよ。
またな、水を沢山使うし死人の身体を洗うとか、水で血を流すとかちゅう話もあッど。
御透視役ちゅうのは、死人を天国とかへ連れて行く役だとかで、剃刀役ちゅうのは、死人の頭を剃ッとか、
生肝を切りとッとかちゅう話もあッど。真っ暗なお通夜みたいなもんに集まるクロの連中の下駄は、みんな裏返してあッと。
その下駄の返し方にも、二段三段の仕掛けがあると。それで朝が来りゃ、真宗のお寺でもういっぺん、立派な葬式をやると。
その仏式のはな、盛大じゃとも、クロを隠すための恰好つけだけじゃと。クロのもんはな、年の暮頃に肉で酒盛りをやると。
子供が生まれると、水で洗ってな、生肉を口に押しつけてやると」
……『鬼無鬼島』より抜粋 太平次が早子に語って聞かせたクロの噂
クロ宗の死の儀式は存在したのか? その考察2
……前スレ>>21で問題のクロ宗の話を書いた。今一度、コピペ(および改良)しておこう。
『クロ宗』の鉄の掟 下甑島(しもこしきじま)
今から400年前(注1)、キリスト教徒が江戸幕府によって迫害されていたころの話。
島原の乱に敗れたあと、彼らは幕府からの厳しい弾圧を逃れるべく、鹿児島県、下甑島に流れ着いた。
離島であるがゆえに幕府の追及も届かない。ようやく安住の地を得た彼らはこの島に片野浦地区をもうけ、なおもキリスト教を信仰し続けた。
とはいえ世間から孤立することにより、キリスト教本来の教えとは異なる独自の宗教を編み出すに至る。それが『クロ宗』だった。
クロス(十字架)が語源といわれ、外部との接触を完全に拒んだ秘密結社的な概念。
驚くべきことに、隠れキリシタンの末裔たちによって今もなお受け継がれているそうだ。
クロ宗の最たる特徴は、死の儀式にある。
信者が生命の危機に瀕した場合、『サカヤ』と呼ばれる司祭のもとに運ばれ、まだ息があるにもかかわらず、生き血と生き胆を摘出するというのだ。
信じ難い話だが、その取り出したるモノを信者全員で食べ、飲み干すという……。
ある大学の民俗学教授は言う。「宗教儀式の中には、死者の魂を取り込むため、身体の一部を食するというものは存在します。
ですが、生きているうちから血と肝を抜くというのは稀ではないでしょうか。サカヤ(司祭)の家から出される遺体は白い布でグルグル巻きにされ、
その布には血が滲んでいるというのですから、恐ろしい儀式ですよね」
とはいうものの、この禁断の儀式の詳細はいまだ明らかにされていない。
クロ宗を信仰する片野浦でも、とりわけ『岡集落』の住人は、よそ者を完全に拒み、取材にも一切応じない姿勢を貫いている。
家屋は全部で20戸ほどの小集落にすぎない。しかもそれぞれの家が、3m前後ものブロック塀で囲まれており、異様な雰囲気を醸し出している。
クロ宗信者には集落内での出来事を一切口外してはならないという鉄の掟があり、それを破った者は命を取られるのではないかとも噂されている。
注1……狭義の意味での禁教令は、慶長17(1612)年、及び翌年に江戸幕府が発令したものであるが、広義の意味では天正15(1587)年の豊臣秀吉に
よるバテレン追放令や明治政府による五榜の掲示が含まれる。
※明治時代まで肝食いをやっていただの、集落に近づけさせないためのデマにすぎないとの諸説がある。あまり真に受けないように。
……前スレ>>21で問題のクロ宗の話を書いた。今一度、コピペ(および改良)しておこう。
『クロ宗』の鉄の掟 下甑島(しもこしきじま)
今から400年前(注1)、キリスト教徒が江戸幕府によって迫害されていたころの話。
島原の乱に敗れたあと、彼らは幕府からの厳しい弾圧を逃れるべく、鹿児島県、下甑島に流れ着いた。
離島であるがゆえに幕府の追及も届かない。ようやく安住の地を得た彼らはこの島に片野浦地区をもうけ、なおもキリスト教を信仰し続けた。
とはいえ世間から孤立することにより、キリスト教本来の教えとは異なる独自の宗教を編み出すに至る。それが『クロ宗』だった。
クロス(十字架)が語源といわれ、外部との接触を完全に拒んだ秘密結社的な概念。
驚くべきことに、隠れキリシタンの末裔たちによって今もなお受け継がれているそうだ。
クロ宗の最たる特徴は、死の儀式にある。
信者が生命の危機に瀕した場合、『サカヤ』と呼ばれる司祭のもとに運ばれ、まだ息があるにもかかわらず、生き血と生き胆を摘出するというのだ。
信じ難い話だが、その取り出したるモノを信者全員で食べ、飲み干すという……。
ある大学の民俗学教授は言う。「宗教儀式の中には、死者の魂を取り込むため、身体の一部を食するというものは存在します。
ですが、生きているうちから血と肝を抜くというのは稀ではないでしょうか。サカヤ(司祭)の家から出される遺体は白い布でグルグル巻きにされ、
その布には血が滲んでいるというのですから、恐ろしい儀式ですよね」
とはいうものの、この禁断の儀式の詳細はいまだ明らかにされていない。
クロ宗を信仰する片野浦でも、とりわけ『岡集落』の住人は、よそ者を完全に拒み、取材にも一切応じない姿勢を貫いている。
家屋は全部で20戸ほどの小集落にすぎない。しかもそれぞれの家が、3m前後ものブロック塀で囲まれており、異様な雰囲気を醸し出している。
クロ宗信者には集落内での出来事を一切口外してはならないという鉄の掟があり、それを破った者は命を取られるのではないかとも噂されている。
注1……狭義の意味での禁教令は、慶長17(1612)年、及び翌年に江戸幕府が発令したものであるが、広義の意味では天正15(1587)年の豊臣秀吉に
よるバテレン追放令や明治政府による五榜の掲示が含まれる。
※明治時代まで肝食いをやっていただの、集落に近づけさせないためのデマにすぎないとの諸説がある。あまり真に受けないように。
クロ宗の死の儀式は存在したのか? その考察3
……この文がいろんなサイトや掲示板でコピペされ、正直困惑している。もろに現地名を書き込んでしまった罪は大きいからだ。
名指ししてるのは当スレだけではなく、それ以前に指摘していたサイトやHP、れっきとした民俗学の報告書もあるのだが、
いずれにせよ、島民と島そのものを貶めることは変わらない。甑島出身の者がこの文を読んで気分を害され、お叱りを受けても致仕方ない。
もはや覆水盆に返らず。だったらこのまま深く切り込み、いっそ事の真偽を見極めるべきではないか。
贖罪の意味を込めて火消しというわけでもないが、こんなデマじみた話をとっとと真相究明し、島の名誉を守らねばなるまい。
そして流布の根絶に努めるべきである。
そもそも冷静なる読者諸兄ならば、「隠れキリシタンの集落はあるにせよ、肝食いなんて都市伝説だろw」と、笑い飛ばして片付けてくれよう。
幼稚な都市伝説だったらいい。しかしながら、なぜこんな奇怪な噂が広がったのか長年検証してみたいと思っていた。
前スレを立ててから4年近く経ったことだし、白状してもよかろう。僕が初めてクロ宗の存在を知ったのは、某コンビニで売っていた宙出版
『実録 怖い島 伝説の奇祭編』(¥550・主に漫画で構成されている)の紙面上でだった。
いかにも下世話でインチキ臭がプンプンしているのは否めないが、暇つぶしにエンターテイメントでも楽しむつもりで読んでみたのだ。
この安っぽい本には、当怖い島スレに取り上げてきたエッセンスがすべて詰まっていた。クロ宗の下甑島をはじめ、悪石島のボゼ、新城島の秘祭、
ハンセン病を隔離した大島、海賊の財宝が眠ると噂される大神島、渡鹿野島、新島の海難法師……あとはありがちで低俗な幽霊ネタである。
同時に多彩な『怖い島』(真贋はさておき)に惹き込まれていき、今では独自に探しまくって、この手のスレでは随一との自負を持っているつもりだ。
それはさておき、クロ宗に関してはオカルト研究家である山口敏太郎氏のサイトにも紹介されているぐらいだから、胡散臭いと言えば胡散臭いのだが。
前置きが長くなった。さっさと検証に入ろう。
とは言っても、フィールドワークによる現地取材を行いたいところだが、こちとらそんな経済的・物理的余裕はない。
しょせんは机上の研究なのだから信憑性に欠けてしまう。まあ、それは仕方ない。
それと、この際だから大胆に結論から言っておこう。さんざん長文で引っ張った挙句、尻切れトンボ的なウヤムヤな締めくくり方はしたくないので、
結論から先に出しておくのも良心的ではないか。それに長文がお嫌いな御仁も少なくない。
……では、クロの死の儀式(血を飲み、肝を食う)はあったか否かと問われれば、「ない」と思われる。
いや、「デマはデマでしかない。もしあったとしても、過去に極々稀にあった」かもしれない。
なんとも歯切れの悪い結論だが、そこに至る過程をこれから述べていこうと思う。
山口敏太郎の妖怪・都市伝説・UMAワールド「ブログ妖怪王」 クロ宗・隠れキリシタン
http://blog.goo.ne.jp/youkaiou/e/3c99c80df48e0430427...
実録 怖い島 伝説の奇祭編
http://www.amazon.co.jp/%E5%AE%9F%E9%8C%B2-%E6%80%96%E...
知られざる 怖い!怪奇村の話
http://www.amazon.co.jp/%E7%9F%A5%E3%82%89%E3%82%8C%E3...
……この文がいろんなサイトや掲示板でコピペされ、正直困惑している。もろに現地名を書き込んでしまった罪は大きいからだ。
名指ししてるのは当スレだけではなく、それ以前に指摘していたサイトやHP、れっきとした民俗学の報告書もあるのだが、
いずれにせよ、島民と島そのものを貶めることは変わらない。甑島出身の者がこの文を読んで気分を害され、お叱りを受けても致仕方ない。
もはや覆水盆に返らず。だったらこのまま深く切り込み、いっそ事の真偽を見極めるべきではないか。
贖罪の意味を込めて火消しというわけでもないが、こんなデマじみた話をとっとと真相究明し、島の名誉を守らねばなるまい。
そして流布の根絶に努めるべきである。
そもそも冷静なる読者諸兄ならば、「隠れキリシタンの集落はあるにせよ、肝食いなんて都市伝説だろw」と、笑い飛ばして片付けてくれよう。
幼稚な都市伝説だったらいい。しかしながら、なぜこんな奇怪な噂が広がったのか長年検証してみたいと思っていた。
前スレを立ててから4年近く経ったことだし、白状してもよかろう。僕が初めてクロ宗の存在を知ったのは、某コンビニで売っていた宙出版
『実録 怖い島 伝説の奇祭編』(¥550・主に漫画で構成されている)の紙面上でだった。
いかにも下世話でインチキ臭がプンプンしているのは否めないが、暇つぶしにエンターテイメントでも楽しむつもりで読んでみたのだ。
この安っぽい本には、当怖い島スレに取り上げてきたエッセンスがすべて詰まっていた。クロ宗の下甑島をはじめ、悪石島のボゼ、新城島の秘祭、
ハンセン病を隔離した大島、海賊の財宝が眠ると噂される大神島、渡鹿野島、新島の海難法師……あとはありがちで低俗な幽霊ネタである。
同時に多彩な『怖い島』(真贋はさておき)に惹き込まれていき、今では独自に探しまくって、この手のスレでは随一との自負を持っているつもりだ。
それはさておき、クロ宗に関してはオカルト研究家である山口敏太郎氏のサイトにも紹介されているぐらいだから、胡散臭いと言えば胡散臭いのだが。
前置きが長くなった。さっさと検証に入ろう。
とは言っても、フィールドワークによる現地取材を行いたいところだが、こちとらそんな経済的・物理的余裕はない。
しょせんは机上の研究なのだから信憑性に欠けてしまう。まあ、それは仕方ない。
それと、この際だから大胆に結論から言っておこう。さんざん長文で引っ張った挙句、尻切れトンボ的なウヤムヤな締めくくり方はしたくないので、
結論から先に出しておくのも良心的ではないか。それに長文がお嫌いな御仁も少なくない。
……では、クロの死の儀式(血を飲み、肝を食う)はあったか否かと問われれば、「ない」と思われる。
いや、「デマはデマでしかない。もしあったとしても、過去に極々稀にあった」かもしれない。
なんとも歯切れの悪い結論だが、そこに至る過程をこれから述べていこうと思う。
山口敏太郎の妖怪・都市伝説・UMAワールド「ブログ妖怪王」 クロ宗・隠れキリシタン
http://blog.goo.ne.jp/youkaiou/e/3c99c80df48e0430427...
実録 怖い島 伝説の奇祭編
http://www.amazon.co.jp/%E5%AE%9F%E9%8C%B2-%E6%80%96%E...
知られざる 怖い!怪奇村の話
http://www.amazon.co.jp/%E7%9F%A5%E3%82%89%E3%82%8C%E3...
クロ宗の死の儀式は存在したのか? その考察4
まずそれには1冊の著書を参考に真相に迫りたい。が、しょせん著書は著書。
いくら作者が入念に取材して得た情報を元に描かれているとはいえフィクションにすぎないので、あらかじめご了承願いたい。
フィクションだとしても、そこから抽出できる『真実』もあるはずだ。
その著書こそ、芥川賞作家、堀田善衛氏の『鬼無鬼島(きぶきじま)』である。
『鬼無鬼島』は堀田氏が昭和32(1957)年に発表した長編小説。内容はまさしくクロ宗をめぐる、ある離島での奇妙な因習の話。
断っておくが、エキセントリックなカルト教団をモチーフにした悪趣味な怪奇小説ではない。
運命に抗う純然たるヒューマンドラマでもあり、同時に青春ものの側面を併せ持ち、理不尽な境遇におかれた若者の葛藤を描いた意欲作である。
舞台は『鬼無鬼島』という架空の島だが、明らかに下甑島がモデルだ。
発表の前年である昭和31(1956)年、堀田氏は鹿児県立図書館の当時の館長、久保田彦穂氏と会談した。
その際、執筆のネタになるものはないかと持ちかけ、久保田氏はすぐさま下甑島のクロ宗こそふさわしいと教示した。
久保田氏は何度か下甑島を訪れており、島の事情に明るかった。そのときにクロ宗について取材しており、
自身では描ききれないこの土俗信仰の世界を勧めたわけだ。
俄然興味を示した堀田氏(この芥川賞作家にして、クロ宗はソソるネタだった)はすぐに下甑島に渡り、1ヶ月滞在。
念入りに取材して『鬼無鬼島』を書き上げたというのだ。
とにもかくにも著書を手に入れ、読んでみることにしたのは言うまでもない。そして読了した結果……。
個人的主観で言わせてもらえば、「面白い、面白くない」という単純な定義からすれば、ハッキリ言って面白いとは言い難い。
拙い読書生活で、好きな本を10指挙げよと問われたならば、僕はノミネートしまい。とはいえ奇妙な余韻が残る印象的な話であったことは確かだ。
あらすじをここに書き連ねるのは無粋だ。以下のリンク先(女おいどん日記 大山昇子 [本]鬼無鬼島)でだいだいの流れがわかるので(もっとも、
中盤あたりまでだが)、そっちでつかむことを勧める。未読の方は面倒でもまずは目を通されよ。
でないと、これから先の話がチンプンカンプンになる。この後のレスにて、物語の後半を暴露していくつもりだ。
もしも興味を持たれ、自分で読んでみたいというならばネタバレにつながる。残念ながらこれ以降のレスは読むべきではない。
女おいどん日記 大山昇子 [本]鬼無鬼島
http://d.hatena.ne.jp/oyama_noboruko/20060810/p...
堀田善衛wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A0%80%E7%94%B0%E5%96%...
椋鳩十(むくはとじゅう・久保田彦穂のペンネーム)wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A4%8B%E9%B3%A9%E5%8D%...
まずそれには1冊の著書を参考に真相に迫りたい。が、しょせん著書は著書。
いくら作者が入念に取材して得た情報を元に描かれているとはいえフィクションにすぎないので、あらかじめご了承願いたい。
フィクションだとしても、そこから抽出できる『真実』もあるはずだ。
その著書こそ、芥川賞作家、堀田善衛氏の『鬼無鬼島(きぶきじま)』である。
『鬼無鬼島』は堀田氏が昭和32(1957)年に発表した長編小説。内容はまさしくクロ宗をめぐる、ある離島での奇妙な因習の話。
断っておくが、エキセントリックなカルト教団をモチーフにした悪趣味な怪奇小説ではない。
運命に抗う純然たるヒューマンドラマでもあり、同時に青春ものの側面を併せ持ち、理不尽な境遇におかれた若者の葛藤を描いた意欲作である。
舞台は『鬼無鬼島』という架空の島だが、明らかに下甑島がモデルだ。
発表の前年である昭和31(1956)年、堀田氏は鹿児県立図書館の当時の館長、久保田彦穂氏と会談した。
その際、執筆のネタになるものはないかと持ちかけ、久保田氏はすぐさま下甑島のクロ宗こそふさわしいと教示した。
久保田氏は何度か下甑島を訪れており、島の事情に明るかった。そのときにクロ宗について取材しており、
自身では描ききれないこの土俗信仰の世界を勧めたわけだ。
俄然興味を示した堀田氏(この芥川賞作家にして、クロ宗はソソるネタだった)はすぐに下甑島に渡り、1ヶ月滞在。
念入りに取材して『鬼無鬼島』を書き上げたというのだ。
とにもかくにも著書を手に入れ、読んでみることにしたのは言うまでもない。そして読了した結果……。
個人的主観で言わせてもらえば、「面白い、面白くない」という単純な定義からすれば、ハッキリ言って面白いとは言い難い。
拙い読書生活で、好きな本を10指挙げよと問われたならば、僕はノミネートしまい。とはいえ奇妙な余韻が残る印象的な話であったことは確かだ。
あらすじをここに書き連ねるのは無粋だ。以下のリンク先(女おいどん日記 大山昇子 [本]鬼無鬼島)でだいだいの流れがわかるので(もっとも、
中盤あたりまでだが)、そっちでつかむことを勧める。未読の方は面倒でもまずは目を通されよ。
でないと、これから先の話がチンプンカンプンになる。この後のレスにて、物語の後半を暴露していくつもりだ。
もしも興味を持たれ、自分で読んでみたいというならばネタバレにつながる。残念ながらこれ以降のレスは読むべきではない。
女おいどん日記 大山昇子 [本]鬼無鬼島
http://d.hatena.ne.jp/oyama_noboruko/20060810/p...
堀田善衛wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A0%80%E7%94%B0%E5%96%...
椋鳩十(むくはとじゅう・久保田彦穂のペンネーム)wikipedia
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クロ宗の死の儀式は存在したのか? その考察5
物語の時代は戦後間もない昭和20年初秋。敗戦でいまだ深手の傷を負い、未来に対する息苦しい閉塞感が文脈から伝わってくる。
舞台は上述したように『鬼無鬼島』。モデルとなった甑島同様、上鬼無鬼島、中鬼無鬼島、下鬼無鬼島の3島からなり、物語の舞台は下鬼無鬼島だ。
作中、クロ宗の信者がいるとされるのが『山部落』という小集落だ。『山部落』には『サカヤ』なる指導者が共同体の上に立っている。
サカヤとは司祭、または昔でいう庄屋か区長を指す。呼び名の語源は『サクラメント』であるとされている。つまり神思を信徒に分け与える役職。
『クロ』『クロ宗』というのは、クロス、すなわち十字架、磔刑から来たことであって、古い隠れキリシタンの一派だろうということだった。
また甑島島民の出自は平家の落人が多いとされている。鬼無鬼島では平家どころか、楠正成や淀君、木村重成、真田幸村の一派が流れてきたと言及。
それに島原の乱で負けて落ちのびてきた隠れキリシタンの末裔が加わり、血はますます渾然一体となったと描かれている。
ところでサカヤの下には2人の忠実な側近がいる。1人は『御透視役(みとおしやく)』、もう1人は『剃刀役(かみそりやく)』なる役職の男たちである。
この2人も、いわゆるクロの死の儀式『秘蹟』で立ち会うのだという。
>>166で上記した儀式は、『実録 怖い島 伝説の奇祭編』によればこうだ(『鬼無鬼島』作中では、ここまでハッキリと言及されていない)。
……クロの信者が生命の危機に瀕したら、サカヤの屋敷に運ばれ、まず完全に外界からシャットアウトされる。
信者を寝台に横え、サカヤと御透視役、剃刀役の4人のみになる。サカヤが祝詞を唱え、次に御透視役が『施術』の実行を告げ、
それを合図に剃刀役が手にした刃物で信者の腹を切り裂く。まだ生きているにもかかわらずである。
したたる血を器に垂らし、裂いた腹に手を突っ込んで『生き胆』を取り出し、それも器に盛る。それを少量ずつ信者らに振る舞うのだという。
本来、御透視役は子供が生まれたときの相談役にすぎず、剃刀役は信者に死人が出たときに遺体の頭に剃刀をあてて、髪の毛を少し剃って取る、
それだけの役でしかなかった。それが迫害されているうちに、イビツに変容してしまったのだとか。
キリシタンは長年、お上から迫害されては耐え忍んできた。その昔、『ゲド(外道)』と蔑まれた信者たちが、自由を求めて方々の離れ島に、
今日でいえば開拓民のようにして逃げ込み、そこで『ヒラキ(開き・開拓者の意)』とか、『イツキ(居付・移住者の意)』とか地元民に蔑まれながらも
信仰を守った。
ところが、世間一般と隔絶した生活を送ってきたために信仰そのものが土俗化。明治5年以後、信仰の自由を得て公教会に戻ろうとしても、
もはや原型をとどめぬほどに変容してしまい、病気平癒や災難よけの加持祈祷の類となったものが、現に五島列島にあるのだという。
amazon.co.jp 潜入!ニッポン不思議島 (宝島社文庫)
http://www.amazon.co.jp/gp/product/4796658262/ref=pd_l...
ニッポン「奇怪島」異聞 (別冊宝島1636 ノンフィクション)
http://www.amazon.co.jp/%E3%83%8B%E3%83%83%E3%83%9D%E3...
ニッポン「神々の島」異聞 (別冊宝島 2065)
http://www.amazon.co.jp/%E3%83%8B%E3%83%83%E3%83%9D%E3...
物語の時代は戦後間もない昭和20年初秋。敗戦でいまだ深手の傷を負い、未来に対する息苦しい閉塞感が文脈から伝わってくる。
舞台は上述したように『鬼無鬼島』。モデルとなった甑島同様、上鬼無鬼島、中鬼無鬼島、下鬼無鬼島の3島からなり、物語の舞台は下鬼無鬼島だ。
作中、クロ宗の信者がいるとされるのが『山部落』という小集落だ。『山部落』には『サカヤ』なる指導者が共同体の上に立っている。
サカヤとは司祭、または昔でいう庄屋か区長を指す。呼び名の語源は『サクラメント』であるとされている。つまり神思を信徒に分け与える役職。
『クロ』『クロ宗』というのは、クロス、すなわち十字架、磔刑から来たことであって、古い隠れキリシタンの一派だろうということだった。
また甑島島民の出自は平家の落人が多いとされている。鬼無鬼島では平家どころか、楠正成や淀君、木村重成、真田幸村の一派が流れてきたと言及。
それに島原の乱で負けて落ちのびてきた隠れキリシタンの末裔が加わり、血はますます渾然一体となったと描かれている。
ところでサカヤの下には2人の忠実な側近がいる。1人は『御透視役(みとおしやく)』、もう1人は『剃刀役(かみそりやく)』なる役職の男たちである。
この2人も、いわゆるクロの死の儀式『秘蹟』で立ち会うのだという。
>>166で上記した儀式は、『実録 怖い島 伝説の奇祭編』によればこうだ(『鬼無鬼島』作中では、ここまでハッキリと言及されていない)。
……クロの信者が生命の危機に瀕したら、サカヤの屋敷に運ばれ、まず完全に外界からシャットアウトされる。
信者を寝台に横え、サカヤと御透視役、剃刀役の4人のみになる。サカヤが祝詞を唱え、次に御透視役が『施術』の実行を告げ、
それを合図に剃刀役が手にした刃物で信者の腹を切り裂く。まだ生きているにもかかわらずである。
したたる血を器に垂らし、裂いた腹に手を突っ込んで『生き胆』を取り出し、それも器に盛る。それを少量ずつ信者らに振る舞うのだという。
本来、御透視役は子供が生まれたときの相談役にすぎず、剃刀役は信者に死人が出たときに遺体の頭に剃刀をあてて、髪の毛を少し剃って取る、
それだけの役でしかなかった。それが迫害されているうちに、イビツに変容してしまったのだとか。
キリシタンは長年、お上から迫害されては耐え忍んできた。その昔、『ゲド(外道)』と蔑まれた信者たちが、自由を求めて方々の離れ島に、
今日でいえば開拓民のようにして逃げ込み、そこで『ヒラキ(開き・開拓者の意)』とか、『イツキ(居付・移住者の意)』とか地元民に蔑まれながらも
信仰を守った。
ところが、世間一般と隔絶した生活を送ってきたために信仰そのものが土俗化。明治5年以後、信仰の自由を得て公教会に戻ろうとしても、
もはや原型をとどめぬほどに変容してしまい、病気平癒や災難よけの加持祈祷の類となったものが、現に五島列島にあるのだという。
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ニッポン「奇怪島」異聞 (別冊宝島1636 ノンフィクション)
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ニッポン「神々の島」異聞 (別冊宝島 2065)
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クロ宗の死の儀式は存在したのか? その考察6
ところで、ここで指す『生き肝』とは『肝臓』を表すのか、それとも『肝を冷やす・肝をつぶす』という慣用句があるように、
『心臓』を指すのか、いまいち判然としない。
我々が魚や焼肉の『キモ』を食べる際、店で注文して出される部位は『肝臓』で間違いない。
ところがクロにとってのソレは『心臓』を示唆するのではないかとの見方もあり、一概に決め付けるのは性急すぎる。
そもそもなぜ『生き肝』なのか? 個人的に『生き肝』というキーワードで真っ先に思い浮かぶのは『安達ヶ原の鬼婆』だ。
福島県二本松市の有名な伝説『安達ヶ原の鬼婆』では、乳母・岩手が理由あって旅人を襲い、生き胆を取り出すくだりがあるが、
やはりこの生き胆は心臓のことを示すようだ。
生き胆を取り出し、それを食するという話は古代中国でも散見されるらしい。
生体から取り出したナマに臓器に、そんな難病を治癒するほどの効能・栄養価があるのだろうか?
肝臓か心臓か。いずれにせよ、『信者の核となる肉片』というシンボルと解釈すればよいはずだから、これ以上追求せずともよかろう。
別資料によれば、他の信者らがその生き血を飲むことで、死にゆく人と一心同体となる意味で体内に取り込むのだという。
肝を少しずつ切り分け、みんなが一口ずつ食べる行為とは、生き血を飲むという倫理に反する事実を運命共同体としての『口封じ』の意味合いが
込められていると考えられる。なんともグロテスクなイニシエーションだ。こんなカルト教団が現存する(した)とは俄かに信じ難い。
誤解を招くといけないので念を押すが、『鬼無鬼島』の猟奇的な部分ばかりをクローズアップしてしまったが、内容は極めて誠実な文学作品である。
古臭く頑迷な現状を変革しようとする者(作中ではサカヤである用賀家成が対応)と、若者特有の、理不尽な物事を変革どころか、
打ち壊して無に帰してやりたいと思う主人公を対比させる物語であって、シチュエーションが特異なだけで俗っぽいウケを狙ったものではない。
サクラメントwikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%82%AF%E3%83%...
安達ヶ原・観世寺
http://home.s01.itscom.net/sahara/stone/s_tohoku/fu_kanze...
ヒトに由来する生薬wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%92%E3%83%88%E3%81%...
屍体と民俗 中山太郎
http://www.aozora.gr.jp/cards/001420/files/50270_47671...
ところで、ここで指す『生き肝』とは『肝臓』を表すのか、それとも『肝を冷やす・肝をつぶす』という慣用句があるように、
『心臓』を指すのか、いまいち判然としない。
我々が魚や焼肉の『キモ』を食べる際、店で注文して出される部位は『肝臓』で間違いない。
ところがクロにとってのソレは『心臓』を示唆するのではないかとの見方もあり、一概に決め付けるのは性急すぎる。
そもそもなぜ『生き肝』なのか? 個人的に『生き肝』というキーワードで真っ先に思い浮かぶのは『安達ヶ原の鬼婆』だ。
福島県二本松市の有名な伝説『安達ヶ原の鬼婆』では、乳母・岩手が理由あって旅人を襲い、生き胆を取り出すくだりがあるが、
やはりこの生き胆は心臓のことを示すようだ。
生き胆を取り出し、それを食するという話は古代中国でも散見されるらしい。
生体から取り出したナマに臓器に、そんな難病を治癒するほどの効能・栄養価があるのだろうか?
肝臓か心臓か。いずれにせよ、『信者の核となる肉片』というシンボルと解釈すればよいはずだから、これ以上追求せずともよかろう。
別資料によれば、他の信者らがその生き血を飲むことで、死にゆく人と一心同体となる意味で体内に取り込むのだという。
肝を少しずつ切り分け、みんなが一口ずつ食べる行為とは、生き血を飲むという倫理に反する事実を運命共同体としての『口封じ』の意味合いが
込められていると考えられる。なんともグロテスクなイニシエーションだ。こんなカルト教団が現存する(した)とは俄かに信じ難い。
誤解を招くといけないので念を押すが、『鬼無鬼島』の猟奇的な部分ばかりをクローズアップしてしまったが、内容は極めて誠実な文学作品である。
古臭く頑迷な現状を変革しようとする者(作中ではサカヤである用賀家成が対応)と、若者特有の、理不尽な物事を変革どころか、
打ち壊して無に帰してやりたいと思う主人公を対比させる物語であって、シチュエーションが特異なだけで俗っぽいウケを狙ったものではない。
サクラメントwikipedia
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安達ヶ原・観世寺
http://home.s01.itscom.net/sahara/stone/s_tohoku/fu_kanze...
ヒトに由来する生薬wikipedia
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屍体と民俗 中山太郎
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クロ宗の死の儀式は存在したのか? その考察7
サカヤである用賀家成は60にも届こうかと思える男で、井の中の蛙が村落の長に居座っているのではない。
彼自身、若き日には大阪の私立大学に通い、学生運動に明け暮れ、若気の至りで、世の中を変えてみせるという自負を抱いていた。
そして父であり、先代であるサカヤに反抗して、こんなクロ宗のような得体の知れない信仰をいずれ終わらせてやると鼻息を荒くしていた。
父が勝手に決めた許嫁を拒否し、鹿児島の芸者と一緒になって満州へ渡り20年をすごすも、戦時下、父が老衰で死ぬと同時に帰島。
彼はサカヤのたった1人の世継ぎだったので、懇願に根負けしてその役を引き継いだのだった。
若いころ、法律書生であった彼は人生の無常さを見てきた。いつしか諦念だけが彼を支配した。信じられるものと、信じられないもの隔たり。
友則もまた、数奇な出自と信仰の在り方に怒りを憶えている。サカヤはそんな友則を自身の青年時代と重ね、時に激情をぶつけ合うのだが、
同時に親近感を感じている。
サカヤは信者を集め、「らおらてどのみの、ぜんてらおらて、いよみず、ぱるとり……」(※『主の祈り』が変容した祝詞か?)と、
呪文めいた言葉を呟きながら、錫器に満たした水に手を浸し、その飛沫を信者らに浴びせる。
その行為になんの意味があるのか、もはやサカヤにはわからない。先代の親から受け継いだ盲目的に続けてきた信仰にすぎない。
これが古くから継いできた『伝統』なのだ。
山部落での信者らの暮らしは貧しかったが、用賀家成だけはサカヤの特権で悠々自適の生活を送っていた。
基本的な役目も、台風がすぎたあと畑の被害状況を巡視しては、村人にねぎらいの言葉をかけるような共同体の世話役でしかない。
そんなサカヤ自身も葛藤を抱いている。サカヤ、または『山ノ天皇』と呼ばれ尊敬されていても、しょせんは張子の虎にすぎず空虚だ。
クロ宗とて、中身のつまった権威らしい権威は存在しない。仏教のような拝むべき本尊もなければ神道のように御幣があるわけではなく、
切支丹であるにもかかわらず十字架すら持たない。読んで心が洗われる教典さえないのが実情なのだ。
サカヤは思う。「確たる実権すらないのに、ただ役者のように、サカヤの役を演じているにすぎない。おれはピエロだ」
いつしかサカヤは思考停止させてしまう。いずれおれが死んだら、サカヤなんぞ、おれ1代で終わりにしてしまおうと考える。
昔、西洋からキリスト教と文明が入り込んできた。それが日本の風土に根付くためには、土俗化しなければならなかった。
日本の原始宗教や神仏となじまなければ迫害された。土俗化の過程で、長く厳しい禁圧があったがために、本体はいつの間にか変容した。
その変わり果てたシンボルの1つがサカヤなのだろう。
いっそのことサカヤなど、いやクロ宗という過去の遺物を叩き壊し、きれいさっぱり廃止してもいい頃合なのだ。
なのに村落の連中ときたら古い習俗にしがみつき、サカヤを引き立て秘密の会合を続け、あまつさえ『秘蹟』をしろとそそのかす。
サカヤである用賀家成は60にも届こうかと思える男で、井の中の蛙が村落の長に居座っているのではない。
彼自身、若き日には大阪の私立大学に通い、学生運動に明け暮れ、若気の至りで、世の中を変えてみせるという自負を抱いていた。
そして父であり、先代であるサカヤに反抗して、こんなクロ宗のような得体の知れない信仰をいずれ終わらせてやると鼻息を荒くしていた。
父が勝手に決めた許嫁を拒否し、鹿児島の芸者と一緒になって満州へ渡り20年をすごすも、戦時下、父が老衰で死ぬと同時に帰島。
彼はサカヤのたった1人の世継ぎだったので、懇願に根負けしてその役を引き継いだのだった。
若いころ、法律書生であった彼は人生の無常さを見てきた。いつしか諦念だけが彼を支配した。信じられるものと、信じられないもの隔たり。
友則もまた、数奇な出自と信仰の在り方に怒りを憶えている。サカヤはそんな友則を自身の青年時代と重ね、時に激情をぶつけ合うのだが、
同時に親近感を感じている。
サカヤは信者を集め、「らおらてどのみの、ぜんてらおらて、いよみず、ぱるとり……」(※『主の祈り』が変容した祝詞か?)と、
呪文めいた言葉を呟きながら、錫器に満たした水に手を浸し、その飛沫を信者らに浴びせる。
その行為になんの意味があるのか、もはやサカヤにはわからない。先代の親から受け継いだ盲目的に続けてきた信仰にすぎない。
これが古くから継いできた『伝統』なのだ。
山部落での信者らの暮らしは貧しかったが、用賀家成だけはサカヤの特権で悠々自適の生活を送っていた。
基本的な役目も、台風がすぎたあと畑の被害状況を巡視しては、村人にねぎらいの言葉をかけるような共同体の世話役でしかない。
そんなサカヤ自身も葛藤を抱いている。サカヤ、または『山ノ天皇』と呼ばれ尊敬されていても、しょせんは張子の虎にすぎず空虚だ。
クロ宗とて、中身のつまった権威らしい権威は存在しない。仏教のような拝むべき本尊もなければ神道のように御幣があるわけではなく、
切支丹であるにもかかわらず十字架すら持たない。読んで心が洗われる教典さえないのが実情なのだ。
サカヤは思う。「確たる実権すらないのに、ただ役者のように、サカヤの役を演じているにすぎない。おれはピエロだ」
いつしかサカヤは思考停止させてしまう。いずれおれが死んだら、サカヤなんぞ、おれ1代で終わりにしてしまおうと考える。
昔、西洋からキリスト教と文明が入り込んできた。それが日本の風土に根付くためには、土俗化しなければならなかった。
日本の原始宗教や神仏となじまなければ迫害された。土俗化の過程で、長く厳しい禁圧があったがために、本体はいつの間にか変容した。
その変わり果てたシンボルの1つがサカヤなのだろう。
いっそのことサカヤなど、いやクロ宗という過去の遺物を叩き壊し、きれいさっぱり廃止してもいい頃合なのだ。
なのに村落の連中ときたら古い習俗にしがみつき、サカヤを引き立て秘密の会合を続け、あまつさえ『秘蹟』をしろとそそのかす。
クロ宗の死の儀式は存在したのか? その考察8
友則もまた悩んでいる。
彼は兄、元一が死ねば(あるいは、息があるうちに)サカヤが生き肝を取るのではないかと怖れている。
むしろ熱心な信者である母がそれを願ってさえいる。元一は病気がちで、波乱の生涯だった。せめてサカヤに取ってもらうことより、
あの世で幸せになってくれればと盲目的に願っているのだ。
友則は、生き肝を取る行為とはなんの意味があるのか、憎みつつも知りたい。そして宗教が幅を利かせ、その実うつろなこの現実を壊し、
いつかは鬼無鬼島から恋人の早子とともに出ていくのだ。
物語は元一が死ぬ騒動により、展開がめまぐるしくなるのだが、結局、元一の生き肝は取られることはない。血も飲み干すシーンもない。
てっきり友則はサカヤが兄を殺し、秘蹟をやろうとしたのかと早合点し、激しくつめ寄る。対するサカヤは、こんな真実を明らかにする。
「厳しい禁制の間に文書も印も失い、何がクロ宗に残ったと思う? 一言でいえば本体がなくなってしまい、
キリシタンの妖術だとか魔法だとか呪術だとかと言われたもの。信仰とは何も関係のない、外部の人間どもが垂れ流した噂だけが残った。
肝心の本体がいつの間にか人の心、信仰の中から消えてしまった。そこで今度は自分たちがクロスの信者だということを証明するために、
外部の人間が魔法だの妖術だのと言いふらしていたことを、逆に信者同士でやらねばならなくなった。これが悲劇の始まりだ。
すべては偏見と差別から始まった。たとえば明治初期、『電線が作物の出来を妨げる』だとか、『電線は処女の血を銅線に塗って音信を流す』だとか、
『写真機は人の魂を吸い取る』とか言ったもんだ。
それと同じで、『宣教師は子供の生き肝を食べる』だの、『瀕死の人の眼球をえぐり取る』だなんて、馬鹿げた嘘も流された。
生き肝を取る、生き血を吸うなんて話は、何も宣教師に限ったことじゃない。日本に仏教が入ってきたときでさえ、そんな悪い噂が広まったものだ。
そんな仏教が落ち着いて、いざ今度は切支丹が入ってくると『宣教師は人間を食う』などと、仏教の坊主どもが切支丹信者に信じ込ませようとして、
血に染まった布を宣教師の家の門口に投げ込んだそうだ。すべては浅はかな迷信と、信者を増やさまいとする卑劣なデマだ。
クロの信者は悲惨だった。信仰の対象を失ったうえ、他人に押し付けられた迷信じみた噂を自分たちで実践して、
自分たちの信仰心を試さねばならぬところまで追いつめられたのだ。
『瀕死の信者の生き肝を取る』というのは、おれの推測では、切支丹では死ぬ前に家人を遠ざけてバテレンと2人きりになって懺悔をする、
その家人を遠ざけることから出た妄想じみた推測にすぎない。おれはクロが追いつめられた、と言ったが、追いつめられただけじゃない。
追いつめられて先祖帰りしたのだ。生き肝取りの件は部落の結束が危うくなったときに、サカヤの一生では一度やるだけの『切り札』だった。
現におれがサカヤになってからというもの、一度たりともやっていない」
……と、このように、共同体としてのアイデンティティーの維持が難しくなったとき、彼らは他人(主に薩摩藩が意図的に流したとも)に
後ろ指さされたデマをあえて実行し、信仰心と結束を試したというのだ。日本人特有の負の感情である閉鎖的排他的な『ムラ意識』(シマ意識)なら、
忌み嫌うと同時に怖れるあまり、偏見や悪質なデマを流布させるだろうし、窮地に立たされた被害者側の共同体がそれを受け容れるのも、
なんだか充分に考えられうる話だと思う。
バテレン追放令wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%90%E3%83%86%E3%83%...
日本キリスト教史wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%82%...
幕末物語 Topic15 異人は若い日本女性の生き血を吸うらしい
http://onjweb.com/netbakumaz/jshoda/essay/topic1...
神様の教会世界福音宣教協会 聖書に関する質疑応答
http://japanese.watv.org/truth/qna/content.asp?idx=2147...
都市伝説という謎 都市伝説概要
http://yosicomic.jugem.jp/?cid=...
友則もまた悩んでいる。
彼は兄、元一が死ねば(あるいは、息があるうちに)サカヤが生き肝を取るのではないかと怖れている。
むしろ熱心な信者である母がそれを願ってさえいる。元一は病気がちで、波乱の生涯だった。せめてサカヤに取ってもらうことより、
あの世で幸せになってくれればと盲目的に願っているのだ。
友則は、生き肝を取る行為とはなんの意味があるのか、憎みつつも知りたい。そして宗教が幅を利かせ、その実うつろなこの現実を壊し、
いつかは鬼無鬼島から恋人の早子とともに出ていくのだ。
物語は元一が死ぬ騒動により、展開がめまぐるしくなるのだが、結局、元一の生き肝は取られることはない。血も飲み干すシーンもない。
てっきり友則はサカヤが兄を殺し、秘蹟をやろうとしたのかと早合点し、激しくつめ寄る。対するサカヤは、こんな真実を明らかにする。
「厳しい禁制の間に文書も印も失い、何がクロ宗に残ったと思う? 一言でいえば本体がなくなってしまい、
キリシタンの妖術だとか魔法だとか呪術だとかと言われたもの。信仰とは何も関係のない、外部の人間どもが垂れ流した噂だけが残った。
肝心の本体がいつの間にか人の心、信仰の中から消えてしまった。そこで今度は自分たちがクロスの信者だということを証明するために、
外部の人間が魔法だの妖術だのと言いふらしていたことを、逆に信者同士でやらねばならなくなった。これが悲劇の始まりだ。
すべては偏見と差別から始まった。たとえば明治初期、『電線が作物の出来を妨げる』だとか、『電線は処女の血を銅線に塗って音信を流す』だとか、
『写真機は人の魂を吸い取る』とか言ったもんだ。
それと同じで、『宣教師は子供の生き肝を食べる』だの、『瀕死の人の眼球をえぐり取る』だなんて、馬鹿げた嘘も流された。
生き肝を取る、生き血を吸うなんて話は、何も宣教師に限ったことじゃない。日本に仏教が入ってきたときでさえ、そんな悪い噂が広まったものだ。
そんな仏教が落ち着いて、いざ今度は切支丹が入ってくると『宣教師は人間を食う』などと、仏教の坊主どもが切支丹信者に信じ込ませようとして、
血に染まった布を宣教師の家の門口に投げ込んだそうだ。すべては浅はかな迷信と、信者を増やさまいとする卑劣なデマだ。
クロの信者は悲惨だった。信仰の対象を失ったうえ、他人に押し付けられた迷信じみた噂を自分たちで実践して、
自分たちの信仰心を試さねばならぬところまで追いつめられたのだ。
『瀕死の信者の生き肝を取る』というのは、おれの推測では、切支丹では死ぬ前に家人を遠ざけてバテレンと2人きりになって懺悔をする、
その家人を遠ざけることから出た妄想じみた推測にすぎない。おれはクロが追いつめられた、と言ったが、追いつめられただけじゃない。
追いつめられて先祖帰りしたのだ。生き肝取りの件は部落の結束が危うくなったときに、サカヤの一生では一度やるだけの『切り札』だった。
現におれがサカヤになってからというもの、一度たりともやっていない」
……と、このように、共同体としてのアイデンティティーの維持が難しくなったとき、彼らは他人(主に薩摩藩が意図的に流したとも)に
後ろ指さされたデマをあえて実行し、信仰心と結束を試したというのだ。日本人特有の負の感情である閉鎖的排他的な『ムラ意識』(シマ意識)なら、
忌み嫌うと同時に怖れるあまり、偏見や悪質なデマを流布させるだろうし、窮地に立たされた被害者側の共同体がそれを受け容れるのも、
なんだか充分に考えられうる話だと思う。
バテレン追放令wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%90%E3%83%86%E3%83%...
日本キリスト教史wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%82%...
幕末物語 Topic15 異人は若い日本女性の生き血を吸うらしい
http://onjweb.com/netbakumaz/jshoda/essay/topic1...
神様の教会世界福音宣教協会 聖書に関する質疑応答
http://japanese.watv.org/truth/qna/content.asp?idx=2147...
都市伝説という謎 都市伝説概要
http://yosicomic.jugem.jp/?cid=...
クロ宗の死の儀式は存在したのか? その考察9
それにしても、心ない近隣住人による誤解と悪質なデマ『宣教師は子供の生き胆を食べる・生き血を吸う』は、なぜ派生したのか?
意外にも、生き胆云々の答えを解くヒントは身近にあるではないか。……それがアンパンマンだ。
なぜアンパンマン、と言うなかれ。
アンパンマンが空腹の者に『顔の一部を分け与える』ことで、パワーダウンするとわかっていても、困っている人を見捨てることはしない。
その自己犠牲の精神とヒーロー性こそ、イエス・キリストのソレと同義ではないか。キリストがカリカチュアされた姿と言っても過言ではない。
2013年10月、原作者やなせ氏が死去の翌日、東京新聞の追悼記事にて「ダンディーで信仰篤いクリスチャンだった」と報じられていたが、
後日、同誌上において「やなせさんをクリスチャンとしたのは誤りでした」との訂正記事を載せている。
クリスチャンであろうがなかろうが、キリスト教となんらかの接点があったはずで、この主人公はキリストを投影しているのは間違いあるまい。
そのアンパンマンが自身のパンを分け与えるということは、『聖体拝領(せいたいはいりょう)』を体現していると見てよい。
カトリックでは、司祭が司式するミサの際、キリストの言葉と聖霊の働きにより、パンと葡萄酒はキリストの肉体と血に聖変化するとされている。
聖変化とは、『パン・葡萄酒という形色のうちに、実体として聖体となる』という意味。
この聖体は父なる神への聖なる捧げものであり、キリストの受難と復活の記念であり、その拝領はイエスとの同義でもありながら、
イエスの神秘体である教会共同体としての一致を表している。
ちなみに、資料『キリシタン書 排耶書』に収録された『サカラメンタ提要付録』にはこうある。アンカー部分が引用文。
>ミサは、イエスの「最後の晩餐」に由来する集いです。イエスは十字架での死の前夜、弟子たちとともに晩餐を行い、
>その席で、「これは私のからだ、私の血である」と言われ、パンと葡萄酒を弟子たちに与えられました。
>そして、「これを私の記念として行いなさい」と、弟子たちに命じました。
>それ以来2000年の間、教会は、イエスの死と復活を記念し、命じられたとおりパンとぶどう酒の中におられるイエスをいただいて、
>イエスと一つに結ばれるミサをおこなっています。ミサの最後には、聖体拝領がおこなわれます。
>信徒は、丸いパンの中におられるキリスト(聖体)をいただきます。(中略)聖体拝領はカトリックの洗礼を受けた信徒に限られますが、
>洗礼をまだ受けておられない方は、代わりに祝福を受けることができます。
>信者と同じように列に並び、司祭または奉仕者の前で「祝福をお願いします」と言って小さく頭を下げてください。
>祝福が終わりましたら「アーメン」と唱え、元の席へお戻りください。
恐らくこのカトリックの『聖体拝領』が、誤解や悪意によって歪められ伝播されたのは明白。伝言ゲームが徐々に曲解された内容になるような
効果も手伝ったかもしれない。だからこそクロ宗に限らず、キリスト教自体が日本に入ってきた直後、いわれなき中傷を浴びた。
宗教のときめき 22. アンパンマンとキリスト教
http://www42.tok2.com/home/yasuiyutaka/tokimeki/22an...
Laudate 第86回 秘跡的いけにえにおける感謝、記念、現存
http://www.pauline.or.jp/catechism/catechism086.ph...
Laudate 第87回 キリストとそのからだである教会の、いけにえによる記念
http://www.pauline.or.jp/catechism/catechism087.ph...
Laudate 第88回 キリストのことばとその霊の力とによるキリストの現存
http://www.pauline.or.jp/catechism/catechism088.ph...
それにしても、心ない近隣住人による誤解と悪質なデマ『宣教師は子供の生き胆を食べる・生き血を吸う』は、なぜ派生したのか?
意外にも、生き胆云々の答えを解くヒントは身近にあるではないか。……それがアンパンマンだ。
なぜアンパンマン、と言うなかれ。
アンパンマンが空腹の者に『顔の一部を分け与える』ことで、パワーダウンするとわかっていても、困っている人を見捨てることはしない。
その自己犠牲の精神とヒーロー性こそ、イエス・キリストのソレと同義ではないか。キリストがカリカチュアされた姿と言っても過言ではない。
2013年10月、原作者やなせ氏が死去の翌日、東京新聞の追悼記事にて「ダンディーで信仰篤いクリスチャンだった」と報じられていたが、
後日、同誌上において「やなせさんをクリスチャンとしたのは誤りでした」との訂正記事を載せている。
クリスチャンであろうがなかろうが、キリスト教となんらかの接点があったはずで、この主人公はキリストを投影しているのは間違いあるまい。
そのアンパンマンが自身のパンを分け与えるということは、『聖体拝領(せいたいはいりょう)』を体現していると見てよい。
カトリックでは、司祭が司式するミサの際、キリストの言葉と聖霊の働きにより、パンと葡萄酒はキリストの肉体と血に聖変化するとされている。
聖変化とは、『パン・葡萄酒という形色のうちに、実体として聖体となる』という意味。
この聖体は父なる神への聖なる捧げものであり、キリストの受難と復活の記念であり、その拝領はイエスとの同義でもありながら、
イエスの神秘体である教会共同体としての一致を表している。
ちなみに、資料『キリシタン書 排耶書』に収録された『サカラメンタ提要付録』にはこうある。アンカー部分が引用文。
>ミサは、イエスの「最後の晩餐」に由来する集いです。イエスは十字架での死の前夜、弟子たちとともに晩餐を行い、
>その席で、「これは私のからだ、私の血である」と言われ、パンと葡萄酒を弟子たちに与えられました。
>そして、「これを私の記念として行いなさい」と、弟子たちに命じました。
>それ以来2000年の間、教会は、イエスの死と復活を記念し、命じられたとおりパンとぶどう酒の中におられるイエスをいただいて、
>イエスと一つに結ばれるミサをおこなっています。ミサの最後には、聖体拝領がおこなわれます。
>信徒は、丸いパンの中におられるキリスト(聖体)をいただきます。(中略)聖体拝領はカトリックの洗礼を受けた信徒に限られますが、
>洗礼をまだ受けておられない方は、代わりに祝福を受けることができます。
>信者と同じように列に並び、司祭または奉仕者の前で「祝福をお願いします」と言って小さく頭を下げてください。
>祝福が終わりましたら「アーメン」と唱え、元の席へお戻りください。
恐らくこのカトリックの『聖体拝領』が、誤解や悪意によって歪められ伝播されたのは明白。伝言ゲームが徐々に曲解された内容になるような
効果も手伝ったかもしれない。だからこそクロ宗に限らず、キリスト教自体が日本に入ってきた直後、いわれなき中傷を浴びた。
宗教のときめき 22. アンパンマンとキリスト教
http://www42.tok2.com/home/yasuiyutaka/tokimeki/22an...
Laudate 第86回 秘跡的いけにえにおける感謝、記念、現存
http://www.pauline.or.jp/catechism/catechism086.ph...
Laudate 第87回 キリストとそのからだである教会の、いけにえによる記念
http://www.pauline.or.jp/catechism/catechism087.ph...
Laudate 第88回 キリストのことばとその霊の力とによるキリストの現存
http://www.pauline.or.jp/catechism/catechism088.ph...
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クロ宗の死の儀式は存在したのか? その考察10
肝食い・生血を飲む、といった秘蹟の正体はこれで合点がいったと思う。
くり返すが、『鬼無鬼島』は堀田氏が綿密に取材したうえでの作品ながら、サクヤ・用賀家成の独白はリアリティがあるものの、
あくまでフィクションにすぎない。それをどこまで鵜呑みしていいか読み手に委ねられるが、いずれにせよ、
信仰を続けていくことの苦悩と心の叫びは真に迫るものがあろう。
現実的に岡集落内で、過去に秘蹟をやったか否かまでは知る由がない。
やったことがあるかもしれないし、周囲の人間が畏怖するあまり、デマだけが1人歩きしているだけなのかもしれない。
おそらく今はそんな歪んだ信仰も廃れ、秘蹟などもちろん、サカヤそのものも存在するまい。
……あと、ついでに付け加えておく。クロ宗信徒が集るとされる岡集落を取り巻くブロック塀の件である。
3mにも届こうかと思われる高い塀で家を囲み(……が、>>165の画像を見る限り、いくらなんでも『3m』は誇張しすぎだ)、
いかにも閉鎖的な雰囲気を醸す集落の風景は、単に風よけの説が有力だ。
冬になれば谷になった集落に強風が流れ込まぬための防衛策だったともいうが、本当のところはどうだろうか?
『家』そのものと、それを囲う『庭』は、実は人間の潜在意識が働くものである。やたらと窓や玄関を開放して空気を入れ替える家人は、
開放的な性分の人だし、「動物好きに悪い人はいない」と言う人もいるが、過剰な数を飼ってる家人の場合、近隣住人に対し、
吠え声や糞尿の臭いの迷惑も顧みないとなるとエゴイスティックな人と取られかねない。
庭いっぱいに花を作っている人は朗らかで、心に余裕がある人が多い(下世話だが経済的にも余裕がある場合が多い)。
それとは逆に、高い塀や生垣で囲い、玄関には監視カメラを取り付けてある家人は、逆に言えば開放的なはずがない。
自分たちの信仰を誰にも邪魔されたくないからこそ、隠したい心理が働いたのではなかろうか?
まあ、塀の話はこれぐらいにしておこう。塀もまた、しょせん塀でしかない。
……とにかく、クロ宗の死の儀式はこんなカラクリだったわけだ。島という小世界では、習俗や価値観が純粋培養し、長時間を経て熟成され、
時には内地とはかけ離れてしまうことがしばしばある。その変容事例の極北と言えよう。
だからあれほど『※明治まで肝食いをやっていただの、集落に近づけさせないためのデマにすぎないとの諸説がある。真に受けないように』と、
補足しておいたのに、誰かさんがこんな動画作っちゃうんだから……。
今回はいささかレスが長すぎた。検証はこのへんで幕引きしよう。
肝食いや生血飲みを恐れるのではない。それを悪意で歪めてしまう我々の心の闇を恐れるべきなのである。
隠れキリシタン
http://www.geocities.co.jp/Playtown-Knight/7829/texts/kak...
[PDF]2012 年度早稲田大学教育学部講義「日本史研究Ⅳ」22.近世人とキリシタン(2)—異端的宗教活動と潜伏キリシタン 2012.11.20. 大橋幸泰
http://www.f.waseda.jp/yohashi/nihonsikenkyuu/1120.pd...
崖っぷちの一歩 隠れキリシタンについて。
http://blogs.yahoo.co.jp/amat_aya/32169192.htm...
南勢出版 22.キリシタン殉教の地に想う
http://www.nansei-shuppan.com/wp/honda/past-aic/2079...
1995年11月号/第71号 [ずいそう] 古本の話 木村 雅信(きむら まさのぶ ・ 札幌大谷短大教授)
http://kamuimintara.net/detail.php?rskey=71199511z0...
teratown.com@journey » 2009 » 11月 » 11 - 寺町健
http://teratown.com/blog/2009/11/11...
50年ぶりの疑問が解けた! - 河童の川流れ - Yahoo!ブログ
http://blogs.yahoo.co.jp/nakam1866/51965253.htm...
『男の隠れ家』Bohken-Dankichi 鹿児島の旅④…下甑島③
http://blogs.yahoo.co.jp/olivin_kanranseki7/folder/5340...
[PDF]五島列島・椛島における点在集落の歴史 脱カクレキリシタン史の視点 佐藤智敬
http://journal.seijo.ac.jp/gslit/student/jomin/pdf/jpn-02...
クロ宗の死の儀式は存在したのか? その考察10
肝食い・生血を飲む、といった秘蹟の正体はこれで合点がいったと思う。
くり返すが、『鬼無鬼島』は堀田氏が綿密に取材したうえでの作品ながら、サクヤ・用賀家成の独白はリアリティがあるものの、
あくまでフィクションにすぎない。それをどこまで鵜呑みしていいか読み手に委ねられるが、いずれにせよ、
信仰を続けていくことの苦悩と心の叫びは真に迫るものがあろう。
現実的に岡集落内で、過去に秘蹟をやったか否かまでは知る由がない。
やったことがあるかもしれないし、周囲の人間が畏怖するあまり、デマだけが1人歩きしているだけなのかもしれない。
おそらく今はそんな歪んだ信仰も廃れ、秘蹟などもちろん、サカヤそのものも存在するまい。
……あと、ついでに付け加えておく。クロ宗信徒が集るとされる岡集落を取り巻くブロック塀の件である。
3mにも届こうかと思われる高い塀で家を囲み(……が、>>165の画像を見る限り、いくらなんでも『3m』は誇張しすぎだ)、
いかにも閉鎖的な雰囲気を醸す集落の風景は、単に風よけの説が有力だ。
冬になれば谷になった集落に強風が流れ込まぬための防衛策だったともいうが、本当のところはどうだろうか?
『家』そのものと、それを囲う『庭』は、実は人間の潜在意識が働くものである。やたらと窓や玄関を開放して空気を入れ替える家人は、
開放的な性分の人だし、「動物好きに悪い人はいない」と言う人もいるが、過剰な数を飼ってる家人の場合、近隣住人に対し、
吠え声や糞尿の臭いの迷惑も顧みないとなるとエゴイスティックな人と取られかねない。
庭いっぱいに花を作っている人は朗らかで、心に余裕がある人が多い(下世話だが経済的にも余裕がある場合が多い)。
それとは逆に、高い塀や生垣で囲い、玄関には監視カメラを取り付けてある家人は、逆に言えば開放的なはずがない。
自分たちの信仰を誰にも邪魔されたくないからこそ、隠したい心理が働いたのではなかろうか?
まあ、塀の話はこれぐらいにしておこう。塀もまた、しょせん塀でしかない。
……とにかく、クロ宗の死の儀式はこんなカラクリだったわけだ。島という小世界では、習俗や価値観が純粋培養し、長時間を経て熟成され、
時には内地とはかけ離れてしまうことがしばしばある。その変容事例の極北と言えよう。
だからあれほど『※明治まで肝食いをやっていただの、集落に近づけさせないためのデマにすぎないとの諸説がある。真に受けないように』と、
補足しておいたのに、誰かさんがこんな動画作っちゃうんだから……。
今回はいささかレスが長すぎた。検証はこのへんで幕引きしよう。
肝食いや生血飲みを恐れるのではない。それを悪意で歪めてしまう我々の心の闇を恐れるべきなのである。
隠れキリシタン
http://www.geocities.co.jp/Playtown-Knight/7829/texts/kak...
[PDF]2012 年度早稲田大学教育学部講義「日本史研究Ⅳ」22.近世人とキリシタン(2)—異端的宗教活動と潜伏キリシタン 2012.11.20. 大橋幸泰
http://www.f.waseda.jp/yohashi/nihonsikenkyuu/1120.pd...
崖っぷちの一歩 隠れキリシタンについて。
http://blogs.yahoo.co.jp/amat_aya/32169192.htm...
南勢出版 22.キリシタン殉教の地に想う
http://www.nansei-shuppan.com/wp/honda/past-aic/2079...
1995年11月号/第71号 [ずいそう] 古本の話 木村 雅信(きむら まさのぶ ・ 札幌大谷短大教授)
http://kamuimintara.net/detail.php?rskey=71199511z0...
teratown.com@journey » 2009 » 11月 » 11 - 寺町健
http://teratown.com/blog/2009/11/11...
50年ぶりの疑問が解けた! - 河童の川流れ - Yahoo!ブログ
http://blogs.yahoo.co.jp/nakam1866/51965253.htm...
『男の隠れ家』Bohken-Dankichi 鹿児島の旅④…下甑島③
http://blogs.yahoo.co.jp/olivin_kanranseki7/folder/5340...
[PDF]五島列島・椛島における点在集落の歴史 脱カクレキリシタン史の視点 佐藤智敬
http://journal.seijo.ac.jp/gslit/student/jomin/pdf/jpn-02...
クロ宗の死の儀式は存在したのか? その考察11
>>166で『れっきとした民俗学の報告書』と書いたが、1例を紹介しておこう。
昭和11年に出版された『川内地方を中心とせる郷土史と伝説』(著者・鹿児島県立川内中学校編、出版者・鹿児島県立川内中学校より)
の101頁目(サイトの『コマ番号』は『69』)にはクロ宗に関する記述が見られる。全文抜粋しちゃおう。平易な漢字で書きなおしてみた。
アンカー部分がソレ。
>甑島のクロ宗
>甑島、下甑村の片ノ浦には「クロ宗」と称せらるるカトリックに属する一種の密教が現存している。
>片ノ浦海岸を隔たる十町、谷間の山間部落にして八十余戸が密集し、平和な農村部落を形成している。
>部落民の結束極めて固く、すべて秘密主義をとっているため、このクロ宗の本体もまた判然となっていない。
>最近県当局の調査によれば、クロ宗のクロとはキリストのクロスから転化した語と見られている。
>付近の古老の言によれば、今を去る約三百年前、島原の乱に敗れた信徒の一部が信仰の自由を求めて海を渡ってひそかにここに転住したものと言われ、
>したがって現在ではクロ宗に関するよるべき確実な資料は発見されず、ただ部落には十字架を彫り付けた三基の墓碑が遺っているのみである。
>部落民の特殊な風俗について見るに、部落民は極端にクロという言葉を嫌悪し、便所も十字を踏まぬ構造となっている。
>祭礼の行事は年一回深夜、極秘裏に催される。
>この深夜、祭事を行うのは、イエス・キリストの誕生日にヤソ(キリスト)教徒が深夜に祭りを行うという古い習慣があるのを、
>部落民が襲行?しているものと考えられ、信徒死亡の祭りは、まずクロ宗による祭りが行われてあと、喪を発して真宗による葬儀を執行すると言われている。
>同部落の素封家(財産家)大毛示氏は、クロ宗の本家と称せられ祭事を握っているものと言われているが、氏は京都中学を経て中央大学出身の人格者である。
>同氏を中心とする部落民の信仰生活はまた恵まれたものであろう。
近代デジタルライブラリー 川内地方を中心とせる郷土史と伝説
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/125597...
>>166で『れっきとした民俗学の報告書』と書いたが、1例を紹介しておこう。
昭和11年に出版された『川内地方を中心とせる郷土史と伝説』(著者・鹿児島県立川内中学校編、出版者・鹿児島県立川内中学校より)
の101頁目(サイトの『コマ番号』は『69』)にはクロ宗に関する記述が見られる。全文抜粋しちゃおう。平易な漢字で書きなおしてみた。
アンカー部分がソレ。
>甑島のクロ宗
>甑島、下甑村の片ノ浦には「クロ宗」と称せらるるカトリックに属する一種の密教が現存している。
>片ノ浦海岸を隔たる十町、谷間の山間部落にして八十余戸が密集し、平和な農村部落を形成している。
>部落民の結束極めて固く、すべて秘密主義をとっているため、このクロ宗の本体もまた判然となっていない。
>最近県当局の調査によれば、クロ宗のクロとはキリストのクロスから転化した語と見られている。
>付近の古老の言によれば、今を去る約三百年前、島原の乱に敗れた信徒の一部が信仰の自由を求めて海を渡ってひそかにここに転住したものと言われ、
>したがって現在ではクロ宗に関するよるべき確実な資料は発見されず、ただ部落には十字架を彫り付けた三基の墓碑が遺っているのみである。
>部落民の特殊な風俗について見るに、部落民は極端にクロという言葉を嫌悪し、便所も十字を踏まぬ構造となっている。
>祭礼の行事は年一回深夜、極秘裏に催される。
>この深夜、祭事を行うのは、イエス・キリストの誕生日にヤソ(キリスト)教徒が深夜に祭りを行うという古い習慣があるのを、
>部落民が襲行?しているものと考えられ、信徒死亡の祭りは、まずクロ宗による祭りが行われてあと、喪を発して真宗による葬儀を執行すると言われている。
>同部落の素封家(財産家)大毛示氏は、クロ宗の本家と称せられ祭事を握っているものと言われているが、氏は京都中学を経て中央大学出身の人格者である。
>同氏を中心とする部落民の信仰生活はまた恵まれたものであろう。
近代デジタルライブラリー 川内地方を中心とせる郷土史と伝説
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/125597...
津久見島からきた大蛇、娘を憑り殺す 津久見島(つくみじま)
>>38で『臼杵城を鬼や邪から守るための鬼門封じの島』として大分県臼杵市の津久見島を取り上げたが、さらに追加。
この島にも大蛇伝説が残されていたので。ここで登場する大蛇もなんらかの暗喩だろうね。
永禄5(1562)年5月、戦国大名・大友義鎮は臼杵の丹生島(にうじま・現在の臼杵公園)に城を築いて隠棲した。
島の周囲は切り立った絶壁になっており、居城とするには絶好のロケーションだった。義鎮はのちに剃髪し、宗鱗と名乗ったときの話。
宗麟は多くの一族や家老たちを引き連れ、城のまわりに住まわせた。この家老のうちの1人に人目を惹く娘がいた。
幼少より抜きん出て美形だったが、年ごろになって美しさに磨きがかかり、いつしか臼杵城下一の美人と噂されるようになった。
縁談があちこちから持ちかけられた。そのたびに娘は首を横に振り、両親も彼女を手放したくない思いから自宅に閉じ込め、
虫が寄り付かないようにするほどの可愛がりようだった。
ついに娘は18歳の春を迎える。そのころから塞ぎがちになり、木々は緑の芽をふき花が咲き乱れ、誰もが心浮き立つというのに、
表情は日ごと暗い影を落とし、思いつめる日が続くようになった。
時同じくそのころ、臼杵城下町では奇怪な噂が人々の耳目に触れた。臼杵湾内にある津久見島から丹生島城にかけて、
毎夜、銀のさざ波が走ったかと思うと、生臭い一陣の風を伴い、ギラギラ光る怪物が海を渡ってくるという。目撃した者は3日3晩うなされるらしい。
そんななか、娘の病状は日増しに重くなるばかり。父母は娘に問うた。もしや恋の熱病ではあるまいか。
娘は打ち明けた。「毎夜、子の刻(午前零時)をすぎるころ、美しい男性がいずこからともなく通ってくるようになったのです。
すると私は気を失い、その後のことはなにも憶えていないのです。ですがいまでは、その男性のことが忘れられなくなっているありさま。
正直言うと、待ち侘びてさえいるのです」
両親は顔を見合わせた。まさか津久見島から城に渡ってくるという怪物と因果関係があるのではないか。
家来のなかから腕に憶えありの若侍を選び、「怪物の正体を見極めよ。場合によっては斬れ」と宿直を命じた。
真夜中。若侍が寝ずの番をしていると、不意に庭の繁みから若い男の姿が現れ、娘の部屋に入っていった。
若侍は刀に手をかけたまま、金縛りにあったように身動きができない。しばらくすると、件の男が部屋から出てきた。
若侍は裂帛の気迫をふりしぼって抜刀し、「曲者めが!」と叫んで一閃。ところが影を切ったかのごとく手応えはなく、
平然と男は去っていこうとする。
追いすがって今度こそと刀を振るったが、やはり実体がないかのよう。やがて城壁の端に出たかと思うと、ザブンと海に身を躍らせた。
若侍が駆け寄って海をのぞき込み絶句した。男の姿はなく、そこには10mほどもある大蛇が銀色の光を放ち波間をわけていくではないか。
その一件以来、娘のもとに男が通うことはなくなった。
しかしながら娘は日ごと衰弱し、ついには全身の血が枯れ、数日のうちに朽ち木のように見るも無残な姿となり、短い一生を終えたという。
大友義鎮wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%8F%8B%E7%BE%...
豊後水道の奇岩と奇石 豊後水道・津久見市周辺海域で佳丸撮影
http://www.hyper-tsukumi.jp/‾amadai/kiseki.html
パノラマ写真で見る大分県 民話や伝説 大分県の民話や伝説
http://www.d-b.ne.jp/siga/tokusen/minwa.htm...
>>38で『臼杵城を鬼や邪から守るための鬼門封じの島』として大分県臼杵市の津久見島を取り上げたが、さらに追加。
この島にも大蛇伝説が残されていたので。ここで登場する大蛇もなんらかの暗喩だろうね。
永禄5(1562)年5月、戦国大名・大友義鎮は臼杵の丹生島(にうじま・現在の臼杵公園)に城を築いて隠棲した。
島の周囲は切り立った絶壁になっており、居城とするには絶好のロケーションだった。義鎮はのちに剃髪し、宗鱗と名乗ったときの話。
宗麟は多くの一族や家老たちを引き連れ、城のまわりに住まわせた。この家老のうちの1人に人目を惹く娘がいた。
幼少より抜きん出て美形だったが、年ごろになって美しさに磨きがかかり、いつしか臼杵城下一の美人と噂されるようになった。
縁談があちこちから持ちかけられた。そのたびに娘は首を横に振り、両親も彼女を手放したくない思いから自宅に閉じ込め、
虫が寄り付かないようにするほどの可愛がりようだった。
ついに娘は18歳の春を迎える。そのころから塞ぎがちになり、木々は緑の芽をふき花が咲き乱れ、誰もが心浮き立つというのに、
表情は日ごと暗い影を落とし、思いつめる日が続くようになった。
時同じくそのころ、臼杵城下町では奇怪な噂が人々の耳目に触れた。臼杵湾内にある津久見島から丹生島城にかけて、
毎夜、銀のさざ波が走ったかと思うと、生臭い一陣の風を伴い、ギラギラ光る怪物が海を渡ってくるという。目撃した者は3日3晩うなされるらしい。
そんななか、娘の病状は日増しに重くなるばかり。父母は娘に問うた。もしや恋の熱病ではあるまいか。
娘は打ち明けた。「毎夜、子の刻(午前零時)をすぎるころ、美しい男性がいずこからともなく通ってくるようになったのです。
すると私は気を失い、その後のことはなにも憶えていないのです。ですがいまでは、その男性のことが忘れられなくなっているありさま。
正直言うと、待ち侘びてさえいるのです」
両親は顔を見合わせた。まさか津久見島から城に渡ってくるという怪物と因果関係があるのではないか。
家来のなかから腕に憶えありの若侍を選び、「怪物の正体を見極めよ。場合によっては斬れ」と宿直を命じた。
真夜中。若侍が寝ずの番をしていると、不意に庭の繁みから若い男の姿が現れ、娘の部屋に入っていった。
若侍は刀に手をかけたまま、金縛りにあったように身動きができない。しばらくすると、件の男が部屋から出てきた。
若侍は裂帛の気迫をふりしぼって抜刀し、「曲者めが!」と叫んで一閃。ところが影を切ったかのごとく手応えはなく、
平然と男は去っていこうとする。
追いすがって今度こそと刀を振るったが、やはり実体がないかのよう。やがて城壁の端に出たかと思うと、ザブンと海に身を躍らせた。
若侍が駆け寄って海をのぞき込み絶句した。男の姿はなく、そこには10mほどもある大蛇が銀色の光を放ち波間をわけていくではないか。
その一件以来、娘のもとに男が通うことはなくなった。
しかしながら娘は日ごと衰弱し、ついには全身の血が枯れ、数日のうちに朽ち木のように見るも無残な姿となり、短い一生を終えたという。
大友義鎮wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%8F%8B%E7%BE%...
豊後水道の奇岩と奇石 豊後水道・津久見市周辺海域で佳丸撮影
http://www.hyper-tsukumi.jp/‾amadai/kiseki.html
パノラマ写真で見る大分県 民話や伝説 大分県の民話や伝説
http://www.d-b.ne.jp/siga/tokusen/minwa.htm...
姫島婿島物語 向島
山口県防府市南部の瀬戸内海上にはタヌキの島として知られている向島がある。大正15(1926)年2月24日に『向島タヌキ生息地』として
国の天然記念物に指定されてから、指定当初はおよそ2万頭もの個体数を誇っていたが、錦橋の開通にともない近年は野犬が増加。
その食害によって数は激減している。
向島は遥かな昔、神代のころ、豊後国の国東半島の沖合にある姫島に対し、婿島と呼ばれていた。
婿島と称されていた時代、こんな悲恋の物語が残されている。
そのころ、周防国の佐波志那都命(さばしなつのみこと)に、牟礼香来比古(むれかくひこ)という嫡男がいた。
身の丈6尺(1.8m)あまりで筋骨たくましく眉目秀麗ばかりか、たいへんな働き者。
佐波川の荒野を開拓して美田とし、財をたくわえ豊かに暮らしていた。周防国きっての評判の若者であった。
一方、海を隔てた豊後国の国東には、加奈古志比売(かなこしひめ)という、これまた類稀な美貌と、諸芸に秀で誉れ高い姫君がいた。
父の佐伯速阿岐命(さえきのはやあきのみこと)のもとには国中の多くの若者が、ぜひとも婿にと申し込みが殺到したが、美姫と釣り合う若者は見当たらなかった。
姫の縁談に気をもんでいた父のもとへ、ある日、塩土老翁(しおつちのおじ・当スレ>>104を参照)が訪ねてきた。
話を聞いた塩土老翁は、姫にふさわしい若者をあれこれ思案したのち、周防国の牟礼香来比古のことを父君に紹介した。
さっそく佐伯速阿岐命は、老翁に仲介を頼んだすえ、晴れて牟礼香来比古と加奈古志比売は契りを交わした。
しかしながら当時の結婚生活は特殊なものだった。夫婦は一緒に暮らさず、夫も妻も以前と同じく、それぞれの実家に住むのが通例であった。
夫が妻の実家に夜ごと通い、夜のうちだけ妻子と団欒をともにする、週末婚ならぬ半日婚である。
牟礼香来比古は日中を周防国で働き、夜になってから舟ではるばる国東の加奈古志比売のもとに通い、夜明けにまた佐波の浦へ出かけるという、
涙ぐましいハードスケジュールの生活を強いられた。
とはいえ牟礼香来比古は働き者なだけでなはなく、妻思いの若者だったので、夫婦愛はいっそう深まった。
ところが日が経つにつれ、さすがの牟礼香来比古も疲労が重なって健康を損ない、労働意欲までなくしてしまう。佐波川の美田も荒らしてしまう始末。
不憫に思った父、佐波志那都命は、妻のもとへの通うのをやめるよう諭した。それに反し、牟礼香来比古は家人の目をかすめて国東へ通い続けた。
堪忍袋の緒が切れた父の命は、息子の舟に鎖をかけて、舟が出せないようにした。このままでは息子は早晩、命を落としてしまう。
例のごとく家人の目を盗んで牟礼香来比古は、舟に乗り込み櫓を漕ぐが、櫓はきしむばかりで舟は前に進まない。
若者は灯台下暗しを地で行ったことに気づかなかった。「加奈古志比売、加奈古志比売よ……」と、暗い海に向かって叫んだ。
悲しいかな若者は、夜明けとともに舟ごと島へと姿を変えてしまった。いつしか人はその島を婿島と呼ぶようになった。
のちにそれが今日の向島へと変遷するわけである。
一方、夫を待ち侘びた姫も、国東の沖まで舟を出して夫を迎えにいったが、ついに夫が来ないまま夜が明けてしまった。
同じく加奈古志比売も、舟ともども島へと変化した。これが大分の姫島の誕生だった。
このように恋い慕う夫婦の仲が引き裂かれて離島となり、海を隔てて向かい合って、現在もたがいに会いたがっているというのだ。
向島公民館(出張所) 向島探訪
http://www.city.hofu.yamaguchi.jp/site/mukoushima-kom/mukokom-ta...
豊徳園ライブラリー
http://www14.plala.or.jp/hotokuenhp/libraryind.ht...
^^冬 銀 河^^のブログ 銀河通信 島に渡るには遮断機に注意
http://ameblo.jp/gingayamato/entry-11928923605....
山口県防府市南部の瀬戸内海上にはタヌキの島として知られている向島がある。大正15(1926)年2月24日に『向島タヌキ生息地』として
国の天然記念物に指定されてから、指定当初はおよそ2万頭もの個体数を誇っていたが、錦橋の開通にともない近年は野犬が増加。
その食害によって数は激減している。
向島は遥かな昔、神代のころ、豊後国の国東半島の沖合にある姫島に対し、婿島と呼ばれていた。
婿島と称されていた時代、こんな悲恋の物語が残されている。
そのころ、周防国の佐波志那都命(さばしなつのみこと)に、牟礼香来比古(むれかくひこ)という嫡男がいた。
身の丈6尺(1.8m)あまりで筋骨たくましく眉目秀麗ばかりか、たいへんな働き者。
佐波川の荒野を開拓して美田とし、財をたくわえ豊かに暮らしていた。周防国きっての評判の若者であった。
一方、海を隔てた豊後国の国東には、加奈古志比売(かなこしひめ)という、これまた類稀な美貌と、諸芸に秀で誉れ高い姫君がいた。
父の佐伯速阿岐命(さえきのはやあきのみこと)のもとには国中の多くの若者が、ぜひとも婿にと申し込みが殺到したが、美姫と釣り合う若者は見当たらなかった。
姫の縁談に気をもんでいた父のもとへ、ある日、塩土老翁(しおつちのおじ・当スレ>>104を参照)が訪ねてきた。
話を聞いた塩土老翁は、姫にふさわしい若者をあれこれ思案したのち、周防国の牟礼香来比古のことを父君に紹介した。
さっそく佐伯速阿岐命は、老翁に仲介を頼んだすえ、晴れて牟礼香来比古と加奈古志比売は契りを交わした。
しかしながら当時の結婚生活は特殊なものだった。夫婦は一緒に暮らさず、夫も妻も以前と同じく、それぞれの実家に住むのが通例であった。
夫が妻の実家に夜ごと通い、夜のうちだけ妻子と団欒をともにする、週末婚ならぬ半日婚である。
牟礼香来比古は日中を周防国で働き、夜になってから舟ではるばる国東の加奈古志比売のもとに通い、夜明けにまた佐波の浦へ出かけるという、
涙ぐましいハードスケジュールの生活を強いられた。
とはいえ牟礼香来比古は働き者なだけでなはなく、妻思いの若者だったので、夫婦愛はいっそう深まった。
ところが日が経つにつれ、さすがの牟礼香来比古も疲労が重なって健康を損ない、労働意欲までなくしてしまう。佐波川の美田も荒らしてしまう始末。
不憫に思った父、佐波志那都命は、妻のもとへの通うのをやめるよう諭した。それに反し、牟礼香来比古は家人の目をかすめて国東へ通い続けた。
堪忍袋の緒が切れた父の命は、息子の舟に鎖をかけて、舟が出せないようにした。このままでは息子は早晩、命を落としてしまう。
例のごとく家人の目を盗んで牟礼香来比古は、舟に乗り込み櫓を漕ぐが、櫓はきしむばかりで舟は前に進まない。
若者は灯台下暗しを地で行ったことに気づかなかった。「加奈古志比売、加奈古志比売よ……」と、暗い海に向かって叫んだ。
悲しいかな若者は、夜明けとともに舟ごと島へと姿を変えてしまった。いつしか人はその島を婿島と呼ぶようになった。
のちにそれが今日の向島へと変遷するわけである。
一方、夫を待ち侘びた姫も、国東の沖まで舟を出して夫を迎えにいったが、ついに夫が来ないまま夜が明けてしまった。
同じく加奈古志比売も、舟ともども島へと変化した。これが大分の姫島の誕生だった。
このように恋い慕う夫婦の仲が引き裂かれて離島となり、海を隔てて向かい合って、現在もたがいに会いたがっているというのだ。
向島公民館(出張所) 向島探訪
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豊徳園ライブラリー
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前スレもスレッド5ページ以降に流れてしまっても、ちゃんと検索すれば生存が確認できます。
あいにくサイズ500KBを超過をしてしまい、レスできませんが。
怖い島・いわくつきの村・総合
http://bbs50.meiwasuisan.com/kaiki/1303097760...
あいにくサイズ500KBを超過をしてしまい、レスできませんが。
怖い島・いわくつきの村・総合
http://bbs50.meiwasuisan.com/kaiki/1303097760...
堂ヶ島のゆるぎ橋伝説 三四郎島
前スレ>>246で取り上げた静岡県は三四郎島の悲恋伝説は、個人的にお気に入りだった。
恋が成就する話よりも、想いが届かない悲恋の方がいつまでも余韻を響かせるからだろう。
おさらいしよう。三四郎島は静岡県賀茂郡西伊豆町に属する景勝地・堂ヶ島海岸に点在する象島、中ノ島、沖ノ瀬島、高島の4島の総称だ。
その景色の美しさから『伊豆の松島』とも称えられている。
駿河湾上より伊豆半島の沖合約200mに位置し、干潮時には半島に近い象島まで、幅30mほどの浅瀬が現れる。
沖ノ瀬島は潮が引くと完全に中ノ島とつながってしまい、沖ノ瀬島と中ノ島を1島として数えられることもあり、
また見る角度によって3つに見えたり4つに見えたりすることから、三四郎島と名付けられたとも言われている。
いずれにせよ観光客はその砂の回廊を歩いて渡り、中ノ島で逢瀬を重ねていた源氏の若武者・三四郎と小雪たちに思いを馳せるのも一興だろう。
それはそうと、堂ヶ島海岸には伊豆七不思議の1つとして、こんな伝説が語り継がれていた。
天平年間(729〜749年)、伊豆ノ国田方郡の堂ヶ島に海賊の一団が悪事を重ねていた。これは紀伊国熊野から流れてきたと伝えられている。
頭目の名は墨丸。多くの仲間を従え、沖を行き交う船を襲い、近隣の村も略奪の憂き目に遭っていた。
村々では都へ献上する年貢として、特産の鰹節や砂金を収めるのが習わしであった。
ところがある年、墨丸率いる海賊の一味が砂金欲しさに押し入ってくる。村人は懸命に応戦するも、いかんせん多勢に無勢。
ついに砂金はごっそり奪い取られてしまった。
たっぷり戦利品を得た海賊たちが薬師堂の前の橋にさしかかったとき、奇跡が起きる。
橋は直下型地震のように激しく揺れ、海賊たちは立ち往生してしまう。橋から川の中に転落してしまう者もいるほど。
砂金の袋を離してなるまいと抱えて渡ろうとした墨丸だったが、どこからともなく仁王さまが現れて、墨丸をヒョイとつまみ上げ、
薬師如来さまの前に差し出されてしまったという。
とっくり薬師如来さまに人の道を説教された墨丸は、それまでの悪行を悔い改め、以後このお堂の守護に尽力した。
このあと薬師堂の前の橋は、心の汚れた者が渡ると揺れる『ゆるぎ橋』と呼ばれるようになった。
月経中の女性が渡ると揺れるともいい、橋を削り取った木片を焚き、その火を見せると夜尿が治るとさえ伝えられる。
現在では橋と薬師堂は、長年の風雨による浸食により撤去されてしまい、由来を書いた石碑だけが唯一の名残りとなっているだけである。
一人暮らし老人のサバイバル・ゲーム 伊豆半島の旅〜その十
http://blogs.yahoo.co.jp/jdreamr/45256385.htm...
旧:伊豆ネイチャーガイドの独り言 揺るぎ橋、隠れ名所堂が島
http://nature.i-ra.jp/e362842.htm...
彷徨私事記 今日の観光−堂ヶ島園地@土肥港−
http://blog.livedoor.jp/styling21p/archives/3758577.ht...
前スレ>>246で取り上げた静岡県は三四郎島の悲恋伝説は、個人的にお気に入りだった。
恋が成就する話よりも、想いが届かない悲恋の方がいつまでも余韻を響かせるからだろう。
おさらいしよう。三四郎島は静岡県賀茂郡西伊豆町に属する景勝地・堂ヶ島海岸に点在する象島、中ノ島、沖ノ瀬島、高島の4島の総称だ。
その景色の美しさから『伊豆の松島』とも称えられている。
駿河湾上より伊豆半島の沖合約200mに位置し、干潮時には半島に近い象島まで、幅30mほどの浅瀬が現れる。
沖ノ瀬島は潮が引くと完全に中ノ島とつながってしまい、沖ノ瀬島と中ノ島を1島として数えられることもあり、
また見る角度によって3つに見えたり4つに見えたりすることから、三四郎島と名付けられたとも言われている。
いずれにせよ観光客はその砂の回廊を歩いて渡り、中ノ島で逢瀬を重ねていた源氏の若武者・三四郎と小雪たちに思いを馳せるのも一興だろう。
それはそうと、堂ヶ島海岸には伊豆七不思議の1つとして、こんな伝説が語り継がれていた。
天平年間(729〜749年)、伊豆ノ国田方郡の堂ヶ島に海賊の一団が悪事を重ねていた。これは紀伊国熊野から流れてきたと伝えられている。
頭目の名は墨丸。多くの仲間を従え、沖を行き交う船を襲い、近隣の村も略奪の憂き目に遭っていた。
村々では都へ献上する年貢として、特産の鰹節や砂金を収めるのが習わしであった。
ところがある年、墨丸率いる海賊の一味が砂金欲しさに押し入ってくる。村人は懸命に応戦するも、いかんせん多勢に無勢。
ついに砂金はごっそり奪い取られてしまった。
たっぷり戦利品を得た海賊たちが薬師堂の前の橋にさしかかったとき、奇跡が起きる。
橋は直下型地震のように激しく揺れ、海賊たちは立ち往生してしまう。橋から川の中に転落してしまう者もいるほど。
砂金の袋を離してなるまいと抱えて渡ろうとした墨丸だったが、どこからともなく仁王さまが現れて、墨丸をヒョイとつまみ上げ、
薬師如来さまの前に差し出されてしまったという。
とっくり薬師如来さまに人の道を説教された墨丸は、それまでの悪行を悔い改め、以後このお堂の守護に尽力した。
このあと薬師堂の前の橋は、心の汚れた者が渡ると揺れる『ゆるぎ橋』と呼ばれるようになった。
月経中の女性が渡ると揺れるともいい、橋を削り取った木片を焚き、その火を見せると夜尿が治るとさえ伝えられる。
現在では橋と薬師堂は、長年の風雨による浸食により撤去されてしまい、由来を書いた石碑だけが唯一の名残りとなっているだけである。
一人暮らし老人のサバイバル・ゲーム 伊豆半島の旅〜その十
http://blogs.yahoo.co.jp/jdreamr/45256385.htm...
旧:伊豆ネイチャーガイドの独り言 揺るぎ橋、隠れ名所堂が島
http://nature.i-ra.jp/e362842.htm...
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http://blog.livedoor.jp/styling21p/archives/3758577.ht...
9人の女を餅つきの杵で撲殺・殺人祭『手杵祭』 小浜市矢代区 1
興味深い奇祭を見つけたので、強引に村ネタで1つ。重ねて言いますが、決して共同体を貶めるつもりではありません……。
福井県小浜市は畿内色の濃厚な港町で、律令時代より前から大和王権の日本海側の玄関口として盛えてきた歴史がある。
小京都と呼ばれることも多く、全国京都会議にも加盟しているほど。市内には国宝や国指定の重要文化財が数多く立地し、
『海のある奈良』と呼ばれる所以である。そして小浜といえば、オバマ大統領と……(以下略)。
ところで、その小浜市でも日本海岸の若狭湾を臨む集落の1つに矢代区がある。
矢代には不定期ながら4月3日に矢代観音で行われる祭りがある。それが『手杵祭』で、県無形民俗文化財に指定されている。
この祭の発祥が血なま臭くてムラムラしてしまいそうな垂涎ネタである。それがこんなお話。
天平宝字3(759)年、矢代の浜に、不思議な形状をした1艙の船が漂着した。
乗っていたのは見目麗しい9人の女たち。言葉は通じなかったが、どうやら唐の国から漂流してきたらしく、
王女を中心に付き添いの女靗衆8人を従えていた(※2人の船頭と6人の女靗衆との説もある)。
深い事情があり長い船旅を続けていたのだろう。食糧も底をつき、身も心も疲れ果れ、ただ憐れみを乞うばかりであった。
村人たちは物珍しそうに女たちを眺めていたが、ふと船内を覗くと、金銀財宝と神々しい観音像が積み込まれているではないか。
よからぬ悪心が働いた者がいた。つい金に目がくらみ、女たちを殺害してしまう。奇しくもその日は3月の節句の日。
村では家ごとに餅をついていたが、その杵で1人残らずつき殺してしまったのだ……。
その日を境に悪病が流行り出した。祈祷をしても病はますます猛威をふるい、死人が続出。村人たちは額を突き合わせて相談した。
「唐の国の女たちを殺したのがマズかったのだ。そういや、一緒に奪った観音像はどうした? まさか祟りじゃあるめえな?」
「そうじゃの。観音様にお詫びしなければなるまい」と言って、女たちが乗ってきた船を解体し、船材で堂を建てて観音像を祀った。
そのうち悪病も収まった。現在ある観音像は当時のままのもので、お堂も手を加えられていないと伝えられている。
この悲劇があってからというもの、村人は殺戮を戒め、女たちの霊を慰み、天罰を恐れて手杵祭を行なうようになった。
平安初期以来、不定期ながら途絶えることなく受け継いで行事を守ってきたという。
手杵祭をまとめる人物は大禰宜(おおねぎ)といって、正月元旦より水垢離と潔斎精進を重ね、この1年間を区の祭礼、物忌み、
宗教的諸事の責任者としてすごさねばならない。
興味深い奇祭を見つけたので、強引に村ネタで1つ。重ねて言いますが、決して共同体を貶めるつもりではありません……。
福井県小浜市は畿内色の濃厚な港町で、律令時代より前から大和王権の日本海側の玄関口として盛えてきた歴史がある。
小京都と呼ばれることも多く、全国京都会議にも加盟しているほど。市内には国宝や国指定の重要文化財が数多く立地し、
『海のある奈良』と呼ばれる所以である。そして小浜といえば、オバマ大統領と……(以下略)。
ところで、その小浜市でも日本海岸の若狭湾を臨む集落の1つに矢代区がある。
矢代には不定期ながら4月3日に矢代観音で行われる祭りがある。それが『手杵祭』で、県無形民俗文化財に指定されている。
この祭の発祥が血なま臭くてムラムラしてしまいそうな垂涎ネタである。それがこんなお話。
天平宝字3(759)年、矢代の浜に、不思議な形状をした1艙の船が漂着した。
乗っていたのは見目麗しい9人の女たち。言葉は通じなかったが、どうやら唐の国から漂流してきたらしく、
王女を中心に付き添いの女靗衆8人を従えていた(※2人の船頭と6人の女靗衆との説もある)。
深い事情があり長い船旅を続けていたのだろう。食糧も底をつき、身も心も疲れ果れ、ただ憐れみを乞うばかりであった。
村人たちは物珍しそうに女たちを眺めていたが、ふと船内を覗くと、金銀財宝と神々しい観音像が積み込まれているではないか。
よからぬ悪心が働いた者がいた。つい金に目がくらみ、女たちを殺害してしまう。奇しくもその日は3月の節句の日。
村では家ごとに餅をついていたが、その杵で1人残らずつき殺してしまったのだ……。
その日を境に悪病が流行り出した。祈祷をしても病はますます猛威をふるい、死人が続出。村人たちは額を突き合わせて相談した。
「唐の国の女たちを殺したのがマズかったのだ。そういや、一緒に奪った観音像はどうした? まさか祟りじゃあるめえな?」
「そうじゃの。観音様にお詫びしなければなるまい」と言って、女たちが乗ってきた船を解体し、船材で堂を建てて観音像を祀った。
そのうち悪病も収まった。現在ある観音像は当時のままのもので、お堂も手を加えられていないと伝えられている。
この悲劇があってからというもの、村人は殺戮を戒め、女たちの霊を慰み、天罰を恐れて手杵祭を行なうようになった。
平安初期以来、不定期ながら途絶えることなく受け継いで行事を守ってきたという。
手杵祭をまとめる人物は大禰宜(おおねぎ)といって、正月元旦より水垢離と潔斎精進を重ね、この1年間を区の祭礼、物忌み、
宗教的諸事の責任者としてすごさねばならない。
9人の女を餅つきの杵で撲殺・殺人祭『手杵祭』 小浜市矢代区 2
祭行列の役者には5種あるが、手杵棒振りと2人の弓矢持ち、そして女靗衆とが独特な雰囲気を醸し出して悲劇の役を演じる。
編笠にシダ葉を挿し、顔には墨で隈取りをした異様な姿に扮した手杵棒振りと弓矢持ちは惨殺シーンを再現する。
これに反して穢れを知らぬ女児たちの女靗役は、金袋に擬した頭巾をかぶって登場。
禰宜・若者組・女児は、矢代区の戸主、長男、娘に限り、区の成員になるにはこの役割を必ずこなさなければならない通過儀礼としてきた。
集落の過疎化・少子化により祭の参加者(女靗役の女児)が集まらなくなったため存続が危ぶまれており、開催年も不定期ながらと書いたが、
昨年2014年にはつつがなく開催されたようだ。
……当スレ>>55でも興居島(ごごしま)の、壷に入れられ唐国から流された和気姫の話を書いたのは記憶に新しい。
この類話の真相は天然痘などの感染者を追放したか、もしくはソレで絶滅する共同体から健康体を救うために放逐したのではなかろうか?
9人の女たちは感染者だった。だからフタを開けた途端、細菌をまき散らし、村人も罹患したと考えるのが自然ではないか。
もしかしたらオカルトとしてたびたび取り上げられる『虚ろ舟』の正体も、案外こんな事情があったのかもしれない。
福井県小浜市矢代観光協会
http://wakasa-yashiro.com/
オバマを勝手に応援する会wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AA%E3%83%90%E3%83%...
福井県の文化財 手杵祭
http://info.pref.fukui.jp/bunka/bunkazai/sitei/mukeimin/...
祭りのあとで… 手杵まつり
http://maturinoatode.web.fc2.com/festival/tekine_maturi/tekine_...
Beachcomber's Logbook 手杵祭復活!
http://beachcomb.exblog.jp/21958875...
[PDF]祭りの参詣者による伝承と記録 -福井県小浜市矢代の手杵祭から- 橘弘文
http://library.tourism.ac.jp/no.7HirofumiTachibana.pd...
六部殺しwikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AD%E9%83%A8%E6%AE%...
祭行列の役者には5種あるが、手杵棒振りと2人の弓矢持ち、そして女靗衆とが独特な雰囲気を醸し出して悲劇の役を演じる。
編笠にシダ葉を挿し、顔には墨で隈取りをした異様な姿に扮した手杵棒振りと弓矢持ちは惨殺シーンを再現する。
これに反して穢れを知らぬ女児たちの女靗役は、金袋に擬した頭巾をかぶって登場。
禰宜・若者組・女児は、矢代区の戸主、長男、娘に限り、区の成員になるにはこの役割を必ずこなさなければならない通過儀礼としてきた。
集落の過疎化・少子化により祭の参加者(女靗役の女児)が集まらなくなったため存続が危ぶまれており、開催年も不定期ながらと書いたが、
昨年2014年にはつつがなく開催されたようだ。
……当スレ>>55でも興居島(ごごしま)の、壷に入れられ唐国から流された和気姫の話を書いたのは記憶に新しい。
この類話の真相は天然痘などの感染者を追放したか、もしくはソレで絶滅する共同体から健康体を救うために放逐したのではなかろうか?
9人の女たちは感染者だった。だからフタを開けた途端、細菌をまき散らし、村人も罹患したと考えるのが自然ではないか。
もしかしたらオカルトとしてたびたび取り上げられる『虚ろ舟』の正体も、案外こんな事情があったのかもしれない。
福井県小浜市矢代観光協会
http://wakasa-yashiro.com/
オバマを勝手に応援する会wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AA%E3%83%90%E3%83%...
福井県の文化財 手杵祭
http://info.pref.fukui.jp/bunka/bunkazai/sitei/mukeimin/...
祭りのあとで… 手杵まつり
http://maturinoatode.web.fc2.com/festival/tekine_maturi/tekine_...
Beachcomber's Logbook 手杵祭復活!
http://beachcomb.exblog.jp/21958875...
[PDF]祭りの参詣者による伝承と記録 -福井県小浜市矢代の手杵祭から- 橘弘文
http://library.tourism.ac.jp/no.7HirofumiTachibana.pd...
六部殺しwikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AD%E9%83%A8%E6%AE%...
……実は>>180と似たような話が僕の地元にもあったりする。もっとも、感染症をまき散らした話ではないけれど。
熊野古道で知られている三重県熊野市のお隣、御浜町阿田和地区の小高い丘に『稚子塚』と呼ばれる小さな祠がある。
その由来は以下のとおりである。
正徳年間(1711〜1716年)に小舟に乗った美姫が流れ着いた。これを市木村の庄屋・翁了が介抱した。
聞くところによると、姫は阿波(徳島県)の国の大名の娘で、名を乙姫といった。
姫は萩内地区の街道筋に茶屋を開き、生計を立てた。あまりの美人っぷりに茶屋は繁盛した。
信心深い人柄で生涯独身を貫いた。いつしか病床についたとき、臨終の間際、世話になった翁了に礼を述べて財産を託し、
「私が死んだら七里御浜が一目で見える高い山の上に葬ってほしいのです。いつまでも村の人の平和を祈りたい」と遺言を残し息を引き取った。
翁了は乙姫の遺体を近くの飛波山に葬り、稚子塚と呼ぶようにした。のちに大正10(1921)年、祠を建て、乙姫大明神として祀った。
お参りすれば美人が生まれ、無病息災が授かるといって若い女性が押しかけるようだ。4月3日が乙姫の命日にあたり、毎年同日に賑やかな祭礼が行われている。
……この姫の場合も、おそらく感染症に罹り共同体から放たれたか(とすれば漂流中、病から奇跡的に完治したのかも)、
その逆もありうるだろう。
山行の記録 浅間山
http://noyamaumi.web.fc2.com/kiroku/1005_sengensan100207/10...
はなきん 2014年9月アーカイブ
http://www.fmmie.jp/program/hanakin/2014/09...
MIE御浜町商工会 観光の案内 市木(いちぎ)地区
http://www.mie-shokokai.or.jp/mihama/kankou/ichigi_index.htm...
熊野古道伊勢路霊場めぐりモデルウォーク ①風伝・通り峠コース〈平成25年11月9日(土)・10日(日)〉
http://www.pref.mie.lg.jp/HKISHU/HP/4fuudentori2.pd...
熊野古道で知られている三重県熊野市のお隣、御浜町阿田和地区の小高い丘に『稚子塚』と呼ばれる小さな祠がある。
その由来は以下のとおりである。
正徳年間(1711〜1716年)に小舟に乗った美姫が流れ着いた。これを市木村の庄屋・翁了が介抱した。
聞くところによると、姫は阿波(徳島県)の国の大名の娘で、名を乙姫といった。
姫は萩内地区の街道筋に茶屋を開き、生計を立てた。あまりの美人っぷりに茶屋は繁盛した。
信心深い人柄で生涯独身を貫いた。いつしか病床についたとき、臨終の間際、世話になった翁了に礼を述べて財産を託し、
「私が死んだら七里御浜が一目で見える高い山の上に葬ってほしいのです。いつまでも村の人の平和を祈りたい」と遺言を残し息を引き取った。
翁了は乙姫の遺体を近くの飛波山に葬り、稚子塚と呼ぶようにした。のちに大正10(1921)年、祠を建て、乙姫大明神として祀った。
お参りすれば美人が生まれ、無病息災が授かるといって若い女性が押しかけるようだ。4月3日が乙姫の命日にあたり、毎年同日に賑やかな祭礼が行われている。
……この姫の場合も、おそらく感染症に罹り共同体から放たれたか(とすれば漂流中、病から奇跡的に完治したのかも)、
その逆もありうるだろう。
山行の記録 浅間山
http://noyamaumi.web.fc2.com/kiroku/1005_sengensan100207/10...
はなきん 2014年9月アーカイブ
http://www.fmmie.jp/program/hanakin/2014/09...
MIE御浜町商工会 観光の案内 市木(いちぎ)地区
http://www.mie-shokokai.or.jp/mihama/kankou/ichigi_index.htm...
熊野古道伊勢路霊場めぐりモデルウォーク ①風伝・通り峠コース〈平成25年11月9日(土)・10日(日)〉
http://www.pref.mie.lg.jp/HKISHU/HP/4fuudentori2.pd...
いまも5人の座頭の怨嗟が聞こえる……。 五人宗谷(ごにんぞわい) 1
個人的に、『板子一枚下は地獄』を体現する豪胆な漁師が、気味悪がって近寄らない島がいちばんソソられる。
コレに鑑みれば、前スレ>>356の5人の座頭が海の藻屑と消えた伝説の『五人宗谷』(定義的に言えば、『島』ではなく『岩礁』なのだが)は理想的。
このたびググりまくった甲斐あって、五人宗谷に関する資料を見つけた。タイトルは『島の伝説』。著者・三宅勝太郎、出版社・著琴弾地海水浴場、
昭和11年出版。貴重な資料はとどめておくべきである。若干、前スレで書いた内容と異なる部分もあるが許せる範囲だ。平易な漢字で書きなおしてみた。
いまから5、600年ほど昔の話。安芸の国に按摩を生業としている5人の同業の盲人がいた(以後、『座頭』とする)。
その座頭たちは全国のあちこちから集まった年齢もバラバラの者だったが、同じ境遇であるがため、いつしか血をわけた肉親のように仲良くなった。
ある年の木枯しすさぶ正月、5人は一堂に会し、宴会を開いた。
酒の酔いが回るにつれ、よも山話に花が咲く。1人が、「どうだ、死ぬまで一度は信濃の善光寺さんへ、お詣りしてみたいものじゃな」と、言った。
他の4人の座頭も口をそろえて、「人の一心ほど強いものはない。諺に『精神一到何事か成らざらん』と言うではないか。盲(めしい)であっても、
善光寺さんへお詣りできないことはない。金さえあればどこへでも行けよう」
「そうとも、金だ。金があれば世間様に遠慮することはあるまい」「だったら貯めるべきだ。金があればどんな遠出だって許されよう」
こうして5人は相談の結果、座頭にとって一生の夢である、善光寺へ詣りに行くことを決めた。
それには信濃までの旅費や諸々の費用を蓄えねばならない。1年をそれに費やし、明くる年の正月の新年会でまた会おうと約束した。
昼夜のべつ幕なしに働いた。おかげで5人の親睦会も少なくなったが、夢を実現するには致し方ない。
こうして1年はめくるめく速さですぎ、翌年の正月がやってきた。
祝いの宴の前に、年長の座頭が音頭を取りながら「いかがですみなさん、お金は貯まりましたか。例の約束は果たせますかな?」と、言うと、
各人は自身の貯金額を発表した。
合わせると100両もの大金になる。5人は、「これだけあれば、充分善光寺詣りができるな!」と、小躍りして喜んだ。
その勢いで、正月3日の祝いをすませたら、さっそく出立することにした。
4日目、一般の帆船を雇った。5人の座頭はそれぞれ旅の用意を整えて船に乗り込んだ。
彼ら5人の喜びを乗せた船は、艪を漕ぐ音も勇ましく鞆の浦(現・福山市)の港を出帆。
風はベタ凪に近く快晴。まるで前途に対する不穏さは微塵もない。5人は早、善光寺に行ったような気持ちになり、子供のようにはしゃいだ。
そんな様子を船頭は異様な眼つきで見守り、苦笑をこぼしていた……。
個人的に、『板子一枚下は地獄』を体現する豪胆な漁師が、気味悪がって近寄らない島がいちばんソソられる。
コレに鑑みれば、前スレ>>356の5人の座頭が海の藻屑と消えた伝説の『五人宗谷』(定義的に言えば、『島』ではなく『岩礁』なのだが)は理想的。
このたびググりまくった甲斐あって、五人宗谷に関する資料を見つけた。タイトルは『島の伝説』。著者・三宅勝太郎、出版社・著琴弾地海水浴場、
昭和11年出版。貴重な資料はとどめておくべきである。若干、前スレで書いた内容と異なる部分もあるが許せる範囲だ。平易な漢字で書きなおしてみた。
いまから5、600年ほど昔の話。安芸の国に按摩を生業としている5人の同業の盲人がいた(以後、『座頭』とする)。
その座頭たちは全国のあちこちから集まった年齢もバラバラの者だったが、同じ境遇であるがため、いつしか血をわけた肉親のように仲良くなった。
ある年の木枯しすさぶ正月、5人は一堂に会し、宴会を開いた。
酒の酔いが回るにつれ、よも山話に花が咲く。1人が、「どうだ、死ぬまで一度は信濃の善光寺さんへ、お詣りしてみたいものじゃな」と、言った。
他の4人の座頭も口をそろえて、「人の一心ほど強いものはない。諺に『精神一到何事か成らざらん』と言うではないか。盲(めしい)であっても、
善光寺さんへお詣りできないことはない。金さえあればどこへでも行けよう」
「そうとも、金だ。金があれば世間様に遠慮することはあるまい」「だったら貯めるべきだ。金があればどんな遠出だって許されよう」
こうして5人は相談の結果、座頭にとって一生の夢である、善光寺へ詣りに行くことを決めた。
それには信濃までの旅費や諸々の費用を蓄えねばならない。1年をそれに費やし、明くる年の正月の新年会でまた会おうと約束した。
昼夜のべつ幕なしに働いた。おかげで5人の親睦会も少なくなったが、夢を実現するには致し方ない。
こうして1年はめくるめく速さですぎ、翌年の正月がやってきた。
祝いの宴の前に、年長の座頭が音頭を取りながら「いかがですみなさん、お金は貯まりましたか。例の約束は果たせますかな?」と、言うと、
各人は自身の貯金額を発表した。
合わせると100両もの大金になる。5人は、「これだけあれば、充分善光寺詣りができるな!」と、小躍りして喜んだ。
その勢いで、正月3日の祝いをすませたら、さっそく出立することにした。
4日目、一般の帆船を雇った。5人の座頭はそれぞれ旅の用意を整えて船に乗り込んだ。
彼ら5人の喜びを乗せた船は、艪を漕ぐ音も勇ましく鞆の浦(現・福山市)の港を出帆。
風はベタ凪に近く快晴。まるで前途に対する不穏さは微塵もない。5人は早、善光寺に行ったような気持ちになり、子供のようにはしゃいだ。
そんな様子を船頭は異様な眼つきで見守り、苦笑をこぼしていた……。
いまも5人の座頭の怨嗟が聞こえる……。 五人宗谷(ごにんぞわい) 2
座頭にとっては甲板から広がる周囲の景色は見えないのだが、波音や艪のきしむ音、かもめの声などは耳に心地よく響いた。
日が暮れ、やがて夜が明け、出発してから5日目の夕方、船は直島の北方へさしかかった。
そのころになると、船頭の胸中は悪心が支配していた。5人の座頭はたんまりと金を持っているのは身なりのみならず、
後生大事そうに抱えている荷物から察することができる。あとはどのタイミングで罠に落とすかだけである。
『そわい、金! そわい、金! そわい、金!』と、船頭の思考は渦巻いていた。いよいよ彼は決行する……。
突然船を停め、「シマッタ!」と、迫真の演技に打って出た。座頭たちは船頭に、「どうなさったのですか?」と聞いた。
船頭は軽薄そうな笑みを浮かべながら、「船がそわい(※岩礁・小豆島の東から広島湾までの海域での岩礁を指す)に当たっちまい、
船底から水漏れがするようです。このまま船旅を続けるわけにはいかない。ちょっと時間はかかりますが、座頭さんたちは修理が終わるまで、
陸に下りて待っていてくれませんか。おあつらえ向きに、そばに島があるんです」と、5人を陸へ上げるや否や、5人が盲であるのをいいことに、
舌を出して急いで船を沖へ出した。
5人は急かされたものだから、たくさん金を入れた財布も荷物も、船に置き忘れてしまった。
せっかく汗水流して働いて貯めた金。気もそぞろになる。「船頭さん、荷物が濡れては困りますから、そろそろ上げてください」と言った。
いくら呼べど叫べども返事はあろうはずもない。5人はようやく計られたことに気づいたが、時すでに遅し。
善光寺詣りの夢消えて、いまは狂人のように取り乱し、走り回っては岩の凹凸につまずいては転んだが、盲の悲しさ。もはやどうにもなるものではない。
座頭が上げられた陸は、海上のほんのちっぽけな岩礁にすぎなかった。時間が経つにつれ、潮が満ちれば小さな陸は海に沈む。
足に海水がつかり出した。潮が徐々に高くなるにしたがい、悲鳴をあげて1人流され、2人流され、5人の仲の良い座頭たちは散り散りにされ、
怨嗟の呪詛をまき散らしながら海の藻屑と消えた……。
その事件以来、夕方その付近を船が通ると、5つの火の玉がそろって岩礁の上をふわふわ飛ぶようになったという。
雨の日などは、悲しい泣き叫ぶ声さえ聞こえたとされている。地元の人は誰言うとなく、その岩礁を五人宗谷と呼ぶようになった。
宇野港の沖合、鳥島と京の上靗島の間にある岩礁がソレであるとされている。潮が満ちると海中に隠れるが、潮が引けばゴツゴツとした黒い岩が姿を現す。
いまでは秋の夜長の、古老の昔話となっている。
岡山県玉野市に伝わる海や島の伝説 五人宗谷(ぞわい):玉野の伝説
http://tamano.imawamukashi.com/umi/umi-6.htm...
近代デジタルライブラリー 島の伝説 三宅勝太郎(コマ番号は『13』にすべし)
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/145598...
瀬戸内海の浅瀬名について
http://www1.kaiho.mlit.go.jp/KAN6/5_sodan/mame/topic-asase....
座頭にとっては甲板から広がる周囲の景色は見えないのだが、波音や艪のきしむ音、かもめの声などは耳に心地よく響いた。
日が暮れ、やがて夜が明け、出発してから5日目の夕方、船は直島の北方へさしかかった。
そのころになると、船頭の胸中は悪心が支配していた。5人の座頭はたんまりと金を持っているのは身なりのみならず、
後生大事そうに抱えている荷物から察することができる。あとはどのタイミングで罠に落とすかだけである。
『そわい、金! そわい、金! そわい、金!』と、船頭の思考は渦巻いていた。いよいよ彼は決行する……。
突然船を停め、「シマッタ!」と、迫真の演技に打って出た。座頭たちは船頭に、「どうなさったのですか?」と聞いた。
船頭は軽薄そうな笑みを浮かべながら、「船がそわい(※岩礁・小豆島の東から広島湾までの海域での岩礁を指す)に当たっちまい、
船底から水漏れがするようです。このまま船旅を続けるわけにはいかない。ちょっと時間はかかりますが、座頭さんたちは修理が終わるまで、
陸に下りて待っていてくれませんか。おあつらえ向きに、そばに島があるんです」と、5人を陸へ上げるや否や、5人が盲であるのをいいことに、
舌を出して急いで船を沖へ出した。
5人は急かされたものだから、たくさん金を入れた財布も荷物も、船に置き忘れてしまった。
せっかく汗水流して働いて貯めた金。気もそぞろになる。「船頭さん、荷物が濡れては困りますから、そろそろ上げてください」と言った。
いくら呼べど叫べども返事はあろうはずもない。5人はようやく計られたことに気づいたが、時すでに遅し。
善光寺詣りの夢消えて、いまは狂人のように取り乱し、走り回っては岩の凹凸につまずいては転んだが、盲の悲しさ。もはやどうにもなるものではない。
座頭が上げられた陸は、海上のほんのちっぽけな岩礁にすぎなかった。時間が経つにつれ、潮が満ちれば小さな陸は海に沈む。
足に海水がつかり出した。潮が徐々に高くなるにしたがい、悲鳴をあげて1人流され、2人流され、5人の仲の良い座頭たちは散り散りにされ、
怨嗟の呪詛をまき散らしながら海の藻屑と消えた……。
その事件以来、夕方その付近を船が通ると、5つの火の玉がそろって岩礁の上をふわふわ飛ぶようになったという。
雨の日などは、悲しい泣き叫ぶ声さえ聞こえたとされている。地元の人は誰言うとなく、その岩礁を五人宗谷と呼ぶようになった。
宇野港の沖合、鳥島と京の上靗島の間にある岩礁がソレであるとされている。潮が満ちると海中に隠れるが、潮が引けばゴツゴツとした黒い岩が姿を現す。
いまでは秋の夜長の、古老の昔話となっている。
岡山県玉野市に伝わる海や島の伝説 五人宗谷(ぞわい):玉野の伝説
http://tamano.imawamukashi.com/umi/umi-6.htm...
近代デジタルライブラリー 島の伝説 三宅勝太郎(コマ番号は『13』にすべし)
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/145598...
瀬戸内海の浅瀬名について
http://www1.kaiho.mlit.go.jp/KAN6/5_sodan/mame/topic-asase....
出産シーンを覗かれ、ナマズ姫おおいに怒る 鵜ノ島
山梨県は内陸部にあって、島とは縁がなさそうだが、富士山の北麓に広がる河口湖には2つの島がある。
六角堂が建つ小島(定義的には島ではない)と、もう1つが河口湖の中央にある鵜ノ島。であるからして、鵜ノ島こそ山梨唯一の島といえる。
河口湖畔には弥生時代の遺跡が点在しているが、島にも縄文時代早期から弥生時代早期からの土器や石器類が出土する『鵜の島遺跡』がある。
同遺跡からは西日本由来で東日本においても遠賀川式土器が出土しており、縄文から弥生への移行期にあたる遺跡として注目され、文化財になっている。
『勝山記』によれば、永正13(1516)年には湖岸の住民が合戦から逃れ、一時は島へ避難した歴史がある。
また天文23(1554)年10月、武田晴信(信玄)が信州下伊那の神之峰城を攻め、捕らえた知久頼元親子を鵜ノ島に幽閉したという。
ほかに島内には鵜ノ島神社の赤い鳥居と『島の弁天』と呼ばれる弁天堂が祀られ、毎年4月25日に例祭日が開かれる。
『甲斐国志』神社部によると、例祭日に湖辺の住人が小舟で島へと参詣したことが記されている。
この弁天堂には豊玉姫が弁天様として祀られているのだが、またしても『見るなのタブー』が絡む伝説が残されていた。それがこんなお話。
神々の時代のある日のこと。彦火々出見尊(ひこほほでみのみこと)は河口湖で釣り糸を垂れていると、そばを娘が通りかかった。
尊は娘の美しさに眼を奪われ、思わず声をかけた。娘は鵜ノ島に住む豊玉姫。若い2人はたちまち恋に落ち、結婚しようと誓い合った。
2人は豊玉姫の住む島に渡り、新婚生活をはじめた。やがて姫は身ごもり、出産の支度をすることに。
その際、姫は「お願いがあります。どうか島から離れたところに産屋を作ってほしいんです」と、提案。
「よかろう。だったら島の鵜に相談し、その羽毛をもらって産屋の屋根を葺いてあげるよ」と、尊は言った。
「ただし約束してほしいのです。その産屋には決して近寄らないでください。ましてや覗くなど暴挙はなさらぬように」
「なんじゃそら?」
「産気づいてイキんでる姿なんて、お見せするわけにはいかないでしょう?」
「ま、それもそうだな」
そうこうするうちに、出産のときを迎えた。尊はソワソワしてきた。姫は半日近く産屋にこもったきりで一向に出産したと返事がない。
まさか難産のすえ、やや子と一緒に命を落としたのではあるまいか?
尊は産屋の扉に手をかけた。約束を忘れたわけではない。むしろ「決して覗いてくれるな」と言ったときの姫の怖い眼といったら……。
「ええい、ままよ!」尊は姫の言いつけを破り、ついに産屋を覗いてしまった。
屋内には姫の姿はなく、かわりに1匹の大ナマズがのたうち回り、まさに出産しているところだった。
驚いた尊。その気配にナマズは振り返り、怒りの表情を見せ、「よくも私の姿を見ましたわね……。正体を知られたからには、
国中の人間を湖中に引きずり込んで、たっぷり苦しめてやるから覚悟おし!」と捨て台詞を吐くと、鵜ノ島に渡り、人前から姿を消したという。
一般的に弁天様は嫉妬深く、美人に災いをもたらすといわれる。江戸時代にはこんな逸話も残されている。
鵜ノ島へ花摘みにきた12人の娘が、弁天様のご尊顔を腐した。すると黒雲が現れ、波が荒れ、帰りの船を転覆させてしまい、
娘たちは湖底に沈んでしまったとか……。
ホオリ(彦火火出見尊)wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9B%E3%82%AA%E3%83%...
トヨタマヒメ(豊玉姫神)wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%88%E3%83%A8%E3%82%...
とある歴史好きオヤジの戯言 『見るな!』のタブーと日本神話
http://blog.livedoor.jp/archon_x/archives/7122091.htm...
神社人 黄泉の国のおはなし 日本神話の見るなのタブー
http://jinjajin.jp/modules/contents/index.php?con...
パワースポット研究所 河口湖のご利益
http://ookuni.info/15_yamanasi/015.ph...
富士山と河口湖周辺ふるさと探訪 鵜の島の弁天様
http://www.fujigoko.tv/furusato/mukashi/act10.htm...
山梨県は内陸部にあって、島とは縁がなさそうだが、富士山の北麓に広がる河口湖には2つの島がある。
六角堂が建つ小島(定義的には島ではない)と、もう1つが河口湖の中央にある鵜ノ島。であるからして、鵜ノ島こそ山梨唯一の島といえる。
河口湖畔には弥生時代の遺跡が点在しているが、島にも縄文時代早期から弥生時代早期からの土器や石器類が出土する『鵜の島遺跡』がある。
同遺跡からは西日本由来で東日本においても遠賀川式土器が出土しており、縄文から弥生への移行期にあたる遺跡として注目され、文化財になっている。
『勝山記』によれば、永正13(1516)年には湖岸の住民が合戦から逃れ、一時は島へ避難した歴史がある。
また天文23(1554)年10月、武田晴信(信玄)が信州下伊那の神之峰城を攻め、捕らえた知久頼元親子を鵜ノ島に幽閉したという。
ほかに島内には鵜ノ島神社の赤い鳥居と『島の弁天』と呼ばれる弁天堂が祀られ、毎年4月25日に例祭日が開かれる。
『甲斐国志』神社部によると、例祭日に湖辺の住人が小舟で島へと参詣したことが記されている。
この弁天堂には豊玉姫が弁天様として祀られているのだが、またしても『見るなのタブー』が絡む伝説が残されていた。それがこんなお話。
神々の時代のある日のこと。彦火々出見尊(ひこほほでみのみこと)は河口湖で釣り糸を垂れていると、そばを娘が通りかかった。
尊は娘の美しさに眼を奪われ、思わず声をかけた。娘は鵜ノ島に住む豊玉姫。若い2人はたちまち恋に落ち、結婚しようと誓い合った。
2人は豊玉姫の住む島に渡り、新婚生活をはじめた。やがて姫は身ごもり、出産の支度をすることに。
その際、姫は「お願いがあります。どうか島から離れたところに産屋を作ってほしいんです」と、提案。
「よかろう。だったら島の鵜に相談し、その羽毛をもらって産屋の屋根を葺いてあげるよ」と、尊は言った。
「ただし約束してほしいのです。その産屋には決して近寄らないでください。ましてや覗くなど暴挙はなさらぬように」
「なんじゃそら?」
「産気づいてイキんでる姿なんて、お見せするわけにはいかないでしょう?」
「ま、それもそうだな」
そうこうするうちに、出産のときを迎えた。尊はソワソワしてきた。姫は半日近く産屋にこもったきりで一向に出産したと返事がない。
まさか難産のすえ、やや子と一緒に命を落としたのではあるまいか?
尊は産屋の扉に手をかけた。約束を忘れたわけではない。むしろ「決して覗いてくれるな」と言ったときの姫の怖い眼といったら……。
「ええい、ままよ!」尊は姫の言いつけを破り、ついに産屋を覗いてしまった。
屋内には姫の姿はなく、かわりに1匹の大ナマズがのたうち回り、まさに出産しているところだった。
驚いた尊。その気配にナマズは振り返り、怒りの表情を見せ、「よくも私の姿を見ましたわね……。正体を知られたからには、
国中の人間を湖中に引きずり込んで、たっぷり苦しめてやるから覚悟おし!」と捨て台詞を吐くと、鵜ノ島に渡り、人前から姿を消したという。
一般的に弁天様は嫉妬深く、美人に災いをもたらすといわれる。江戸時代にはこんな逸話も残されている。
鵜ノ島へ花摘みにきた12人の娘が、弁天様のご尊顔を腐した。すると黒雲が現れ、波が荒れ、帰りの船を転覆させてしまい、
娘たちは湖底に沈んでしまったとか……。
ホオリ(彦火火出見尊)wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9B%E3%82%AA%E3%83%...
トヨタマヒメ(豊玉姫神)wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%88%E3%83%A8%E3%82%...
とある歴史好きオヤジの戯言 『見るな!』のタブーと日本神話
http://blog.livedoor.jp/archon_x/archives/7122091.htm...
神社人 黄泉の国のおはなし 日本神話の見るなのタブー
http://jinjajin.jp/modules/contents/index.php?con...
パワースポット研究所 河口湖のご利益
http://ookuni.info/15_yamanasi/015.ph...
富士山と河口湖周辺ふるさと探訪 鵜の島の弁天様
http://www.fujigoko.tv/furusato/mukashi/act10.htm...
アイヌの『洞爺湖の神と中島伝説』 中島 1
北海道虻田郡洞爺湖町と有珠郡壮瞥町にまたがる洞爺湖(とうやこ)にも島があるのはご存知だろうか?
湖の中央に大島、観音島、弁天島、饅頭島の4島があり、これらを総称して、中央の島だけに中島と呼んでいるのだ。
中島は約5万年前の火山噴火に伴って形成された溶岩ドームと火砕丘の集合体とされているが、アイヌは神の意志により造られたと信じている。
昔、松前の殿様に仕える文武両道に通じた人物がおり、2人の男子がいた。
幼いころより武士になるべく剣術や学問の英才教育を受けるものの、兄はソツなくこなしていくのに対し、
弟は懸命に努力するにもかかわらず、算盤も剣の腕もからきし上達せず、それどころか読み書きすらままならなかった。
父はそれを憂い、息子の将来のため、よかれと思って手をさし伸べるのだが、なかなか期待に応えてくれない。
歯がゆさに時には癇癪を起し、算盤や刀の鞘で頭を殴られることもあり、母や姉は不憫がって、陰で泣くことも少なくなかった。
ある日、父親は弟を呼びつけ、こう言った。「おまえは立派な体格をもち容貌もいいのに、どうして物憶えが悪いのか、さっぱり解せぬ。
役立たずをいつまでも家においていくことは、我が家の恥辱であり、主君に対しても申し訳が立たぬ。
このうえにおいてはわしが腹を切って詫びを入れるか、さもなくばおまえが家を出ていくか、2つに1つをとらねばなるまい」
まさか父に切腹を強要するわけにもいかない。
「父上たちに迷惑をかけるのは心苦しい。ですから私が家を去って他国へ移り、背水の陣で臨めば、新しい道が開けるかもしれない」と、
答えると、家中の者が涙した。
母は泣きながら小袋に薬をおさめ、父は長い太刀と短い脇差を弟の腰に差してやり、金の編み笠をかぶり、みんなに送られて家を出立した。
……さりとて行くあてなどあるはずもなく、泣きながら歩いていると、名も知れぬ大きな川の畔にさしかかった。川岸には先客が座っていた。
同い年ほどの美しい若者である。同じような荷物をまとった旅装で、やはり長い太刀と脇差を差した姿まで一致している。
その若者が弟を見るなり、まるで旧知の仲のように微笑みながら会釈し、懐中から手紙を取り出して、それをよこした。
『読み書きができないから追い出されたというのに、どこの誰だか知らぬが、人を侮辱するにもほどがある!』と、弟は顔を紅潮させ、
腹立ちまぎれに太刀を抜き、青眼の構えから若者に斬りかかった。
北海道虻田郡洞爺湖町と有珠郡壮瞥町にまたがる洞爺湖(とうやこ)にも島があるのはご存知だろうか?
湖の中央に大島、観音島、弁天島、饅頭島の4島があり、これらを総称して、中央の島だけに中島と呼んでいるのだ。
中島は約5万年前の火山噴火に伴って形成された溶岩ドームと火砕丘の集合体とされているが、アイヌは神の意志により造られたと信じている。
昔、松前の殿様に仕える文武両道に通じた人物がおり、2人の男子がいた。
幼いころより武士になるべく剣術や学問の英才教育を受けるものの、兄はソツなくこなしていくのに対し、
弟は懸命に努力するにもかかわらず、算盤も剣の腕もからきし上達せず、それどころか読み書きすらままならなかった。
父はそれを憂い、息子の将来のため、よかれと思って手をさし伸べるのだが、なかなか期待に応えてくれない。
歯がゆさに時には癇癪を起し、算盤や刀の鞘で頭を殴られることもあり、母や姉は不憫がって、陰で泣くことも少なくなかった。
ある日、父親は弟を呼びつけ、こう言った。「おまえは立派な体格をもち容貌もいいのに、どうして物憶えが悪いのか、さっぱり解せぬ。
役立たずをいつまでも家においていくことは、我が家の恥辱であり、主君に対しても申し訳が立たぬ。
このうえにおいてはわしが腹を切って詫びを入れるか、さもなくばおまえが家を出ていくか、2つに1つをとらねばなるまい」
まさか父に切腹を強要するわけにもいかない。
「父上たちに迷惑をかけるのは心苦しい。ですから私が家を去って他国へ移り、背水の陣で臨めば、新しい道が開けるかもしれない」と、
答えると、家中の者が涙した。
母は泣きながら小袋に薬をおさめ、父は長い太刀と短い脇差を弟の腰に差してやり、金の編み笠をかぶり、みんなに送られて家を出立した。
……さりとて行くあてなどあるはずもなく、泣きながら歩いていると、名も知れぬ大きな川の畔にさしかかった。川岸には先客が座っていた。
同い年ほどの美しい若者である。同じような荷物をまとった旅装で、やはり長い太刀と脇差を差した姿まで一致している。
その若者が弟を見るなり、まるで旧知の仲のように微笑みながら会釈し、懐中から手紙を取り出して、それをよこした。
『読み書きができないから追い出されたというのに、どこの誰だか知らぬが、人を侮辱するにもほどがある!』と、弟は顔を紅潮させ、
腹立ちまぎれに太刀を抜き、青眼の構えから若者に斬りかかった。
アイヌの『洞爺湖の神と中島伝説』 中島 2
「いきなりのご挨拶ですね」と若者は言うと、木の葉のように舞い上がって一閃をかわし、川向うの岸まで飛んだ。
その優雅な動きのこと。弟は刀を持ったまま、悔しさのあまり真似て跳躍してみると、なんと若者と同じくバッタのごとく舞うことができた。
その力でもって対岸へ飛び、斬りかかった。若者も鞘から抜き放つと応戦。
電撃のような鍔迫り合いをくり返し、たまらず弟は川の対岸に退くと、負けじと若者も跳躍し、上段の構えから振り下ろしてきた。
……数え切れぬほど斬り合ったが勝負がつかなかった。やがて若者は爽やかな笑みを浮かべながら、手で制した。
「待ちたまえ。もう気は済んだだろう。刀をおさめて、しばし話をしようじゃないか」
「何を言うか」
「貴殿は松前の真中に住む藩士の次男とお見受けする。私は松前の東のはずれに住む藩士の末子。私も貴殿と同じように、
幼少のころより剣道や読み書きを習ったが、どうしても憶えられず、それゆえ家から放逐され、この川の畔まできた。
この川の名をサンピタラというそうだ。ここにきて川の神様に出会うことができた。川の神が言うには、神の国からサンピタラの神に便りがきて、
人間の国にアブタ(虻田)なる場所があり、そこに大きな湖があるとおっしゃるのだ。湖には守護する者がいないため懸念の材料となっている。
神の国から誰かを派遣しようとするのだが、どの神も行きたがらないので、いっそのこと人間界の者から選ぶことにした」
「まさか私たちが選ばれたと言うのではあるまいな?」
「そうだ。条件は身体が丈夫で、正直で賢い若者であること。しかし初めからその任務をまかせるとなると、親兄弟が反対するのは必定。
神の力により、私たちを無能者に見せ、自然に家から放逐されるよう仕向けたということだ」
「私をダメ人間にさせたのは、神の意志だと?」
「つらい雌伏を強いられたが、これも守護者になるための試練と思えば合点がいく。にわかには信じ難い話だろうが、気を取り直し、
まずはこの手紙に目を通してみたまえ」と、言うと先ほどの手紙を突き出してくるので、弟は半信半疑のまま手紙を目で追ってみた。
どうしても判読できなかった文字が淀みなく読めて、まるで乾いた水田に水が浸透していくよう明快に理解できた。
文面はまさに若者が話した内容と同じことが書かれていた。
2人は一緒にアブタの湖に向かって出立し、6日6夜歩きづめで目的地にたどり着いた。
「神酒の入った徳利が神の国より届けられている。これを酌み交わそう。さすれば私たちは神の眷属となれる」
2人は湖畔に腰をおろして徳利を傾け、神酒を口に含んだ。すると神通力が現れて、人間界も神の国も千里眼のように見渡せるようになった。
飲み終えて空になった徳利を湖の真ん中に投げ入れると、たちまち水底から2つの小山がせり上がってきて島となった。
舟で島に渡ってみると、2つの黄金造りの家があり、屋内には目も眩まんばかりの宝物が積まれ、絹の着物を着た2人の娘が刺繍をしながら待っていた。
そこで2人の若者はそれぞれの家に落ち着き、島と湖を守ることに努めた。
一般社団法人・洞爺湖温泉観光協会 洞爺湖温泉トリビア洞爺湖温泉を「知る」
http://www.laketoya.com/point/knowledge...
洞爺湖 ジオレンジャー
http://toya.lohasin.net/index.htm...
龍学 北海道洞爺湖などオヤウカムイ
http://www.hunterslog.net/dragonology/ryujatan/hokkaidou...
ソノトキガ クレバ ワカルコト トドマラズニ アイヌ伝説より「洞爺湖の神と中島」
http://lucky2zacky.jugem.jp/?eid=73...
「いきなりのご挨拶ですね」と若者は言うと、木の葉のように舞い上がって一閃をかわし、川向うの岸まで飛んだ。
その優雅な動きのこと。弟は刀を持ったまま、悔しさのあまり真似て跳躍してみると、なんと若者と同じくバッタのごとく舞うことができた。
その力でもって対岸へ飛び、斬りかかった。若者も鞘から抜き放つと応戦。
電撃のような鍔迫り合いをくり返し、たまらず弟は川の対岸に退くと、負けじと若者も跳躍し、上段の構えから振り下ろしてきた。
……数え切れぬほど斬り合ったが勝負がつかなかった。やがて若者は爽やかな笑みを浮かべながら、手で制した。
「待ちたまえ。もう気は済んだだろう。刀をおさめて、しばし話をしようじゃないか」
「何を言うか」
「貴殿は松前の真中に住む藩士の次男とお見受けする。私は松前の東のはずれに住む藩士の末子。私も貴殿と同じように、
幼少のころより剣道や読み書きを習ったが、どうしても憶えられず、それゆえ家から放逐され、この川の畔まできた。
この川の名をサンピタラというそうだ。ここにきて川の神様に出会うことができた。川の神が言うには、神の国からサンピタラの神に便りがきて、
人間の国にアブタ(虻田)なる場所があり、そこに大きな湖があるとおっしゃるのだ。湖には守護する者がいないため懸念の材料となっている。
神の国から誰かを派遣しようとするのだが、どの神も行きたがらないので、いっそのこと人間界の者から選ぶことにした」
「まさか私たちが選ばれたと言うのではあるまいな?」
「そうだ。条件は身体が丈夫で、正直で賢い若者であること。しかし初めからその任務をまかせるとなると、親兄弟が反対するのは必定。
神の力により、私たちを無能者に見せ、自然に家から放逐されるよう仕向けたということだ」
「私をダメ人間にさせたのは、神の意志だと?」
「つらい雌伏を強いられたが、これも守護者になるための試練と思えば合点がいく。にわかには信じ難い話だろうが、気を取り直し、
まずはこの手紙に目を通してみたまえ」と、言うと先ほどの手紙を突き出してくるので、弟は半信半疑のまま手紙を目で追ってみた。
どうしても判読できなかった文字が淀みなく読めて、まるで乾いた水田に水が浸透していくよう明快に理解できた。
文面はまさに若者が話した内容と同じことが書かれていた。
2人は一緒にアブタの湖に向かって出立し、6日6夜歩きづめで目的地にたどり着いた。
「神酒の入った徳利が神の国より届けられている。これを酌み交わそう。さすれば私たちは神の眷属となれる」
2人は湖畔に腰をおろして徳利を傾け、神酒を口に含んだ。すると神通力が現れて、人間界も神の国も千里眼のように見渡せるようになった。
飲み終えて空になった徳利を湖の真ん中に投げ入れると、たちまち水底から2つの小山がせり上がってきて島となった。
舟で島に渡ってみると、2つの黄金造りの家があり、屋内には目も眩まんばかりの宝物が積まれ、絹の着物を着た2人の娘が刺繍をしながら待っていた。
そこで2人の若者はそれぞれの家に落ち着き、島と湖を守ることに努めた。
一般社団法人・洞爺湖温泉観光協会 洞爺湖温泉トリビア洞爺湖温泉を「知る」
http://www.laketoya.com/point/knowledge...
洞爺湖 ジオレンジャー
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龍学 北海道洞爺湖などオヤウカムイ
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ソノトキガ クレバ ワカルコト トドマラズニ アイヌ伝説より「洞爺湖の神と中島」
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ペストに感染した患者、生死を問わず隔離・遺棄した狂気島 ポヴェリア島 1
これまで国内に限定した島ばかり偏執的なまでにこだわってきたが、たまには外国の『怖い島』を取り上げても罰は当たるまい。
と言っても、あえてメキシコの『人形島』はやらない、ひねくれ者の僕であった。アレはいささかケレン味が強すぎる。
そこでイタリアのポヴェリア島を紹介しようと思う。
これまで前スレでは>>44のハンセン病患者を隔離した大島、>>274の同じく長島、当スレにおいては>>139で天然痘患者を隔離した下馬刀島、
>>143の馬島、>>161の前島、>>163のアンジャ島と、伝染病に感染した者を隔離した歴史のある島を取り上げてきた。
離島という天然の閉鎖空間は、同時に合理的な隔離施設となり得ることから、我が国のみならずこのポヴェリア島をはじめ、
フィリピンのクリオン島(ハンセン)、ハワイ州のモロカイ島(ハンセン)、ニューヨークのノースブラザー島(天然痘)、南太平洋の環礁ナウル(ハンセン)と、
世界中に分布しているのだ。
水の都として知られるベネチアの市街地近くに問題の無人島・ポヴェリア島がある。これが『狂気の島』の異名をもつというから食いつかぬ方がおかしい。
英紙『デイリー・テレグラフ』やイタリアニュースサイト『ザ・ローカル』によると、中世から数々の悲劇的な出来事がくり返されてきたという触れ込みがソソる。
というのも、14世紀、都市国家間として関係が悪化したベネチアとジェノバの争いの舞台となったのを皮切りに、
ヴェニスでペストが大流行した際には拡大を防ぐため、数千人規模の感染者の生死を問わず島へ送って隔離、または放置したというから驚きを禁じ得ない。
古代ローマ時代には墓地として使用され、ペスト流行のときは検疫センターという名目を掲げ、大量埋葬地としてフル回転の働きを示す。
累計16万人もの人間の屍が眠っているとされており、島の土壌の50%以上が人間の遺灰ではないかとも噂されている。
また20世紀に入り1922年になると、検疫所の跡地では、ある医師によって精神病院が運営された。
ところがこの医師は、いわゆるマッドサイエンティストを地でいくような男だった。患者にノミやハンマー、ドリルなどを用いてロボトミー手術を行っていたらしく、
鬼畜の実験をくり返した挙句、医師自身も「幽霊のせいで気が狂いそうだ」と口走り、病院の塔の上から投身自殺してしまった……。
1968年に病院が閉鎖されてからは、しばらく農業用地として使用されたものの、やがて完全に放置。
そして、今では島へのアクセスは国有地化したイタリア政府によって制限され、地元漁師をはじめとして近づこうとする者はいない。
漁師が嫌がるのは、周辺海域で網を投じると大量の人骨がかかるからだ。
島周辺の地元では、『邪悪な人が死ぬと、ポヴェーリア島で目を覚ます』という不吉な諺もあるぐらいだ。
もっともこのヘヴィー級の『怖い島』も、所有するイタリア政府の資金捻出策の一環で、昨年2014年5月7日に競売へかけられる運びとなった。
ただ、実際に国の所有権を売却するわけではなく、『99年間のリース権』を与える形となるそうで、政府側としては島に残されている城や修道院跡も含めて、
『高級ホテル』を建て、観光地として開発してくれる業者の参加を希望しているという。
さまざまな噂が取り巻く島が果たして売れるのか、欧米メディアも広く注目しているイタリア政府の売却策だが、これに待ったの声をかけているのが島と
海を挟んだベネチア・ジュデッカ地区の住民たち。
「私たちは島が公共のものであり続けて欲しい」と話す男性は、島が開発されるのではなく、現状維持のまま保存されることを望んでいるという。
そこで住民たちは、「Poveglia per tutti(みんなのポヴェリア)」というFacebookページを立ち上げ、自分たちが競売に参加してリース権を得ようとする運動を開始。
目標額の2万ユーロ(約280万円)の調達に向け、参加者に99ユーロ(約1万4,000円)の寄付を呼びかけているそうだ。
……『世界一幽霊の出る島』などと下衆な側面を併せ持っており、『サイレント・ヒル』や『SIREN』も真っ青の舞台装置がよくも揃ったものだと感心する。
個人的に廃墟マニアの不法侵入ぶりはいかがなものかと首をひねる方だが、この島に限り精神病院跡に潜入し、当時を偲ばせる狂気の空気を伝えるのもアリかと思う。
これまで国内に限定した島ばかり偏執的なまでにこだわってきたが、たまには外国の『怖い島』を取り上げても罰は当たるまい。
と言っても、あえてメキシコの『人形島』はやらない、ひねくれ者の僕であった。アレはいささかケレン味が強すぎる。
そこでイタリアのポヴェリア島を紹介しようと思う。
これまで前スレでは>>44のハンセン病患者を隔離した大島、>>274の同じく長島、当スレにおいては>>139で天然痘患者を隔離した下馬刀島、
>>143の馬島、>>161の前島、>>163のアンジャ島と、伝染病に感染した者を隔離した歴史のある島を取り上げてきた。
離島という天然の閉鎖空間は、同時に合理的な隔離施設となり得ることから、我が国のみならずこのポヴェリア島をはじめ、
フィリピンのクリオン島(ハンセン)、ハワイ州のモロカイ島(ハンセン)、ニューヨークのノースブラザー島(天然痘)、南太平洋の環礁ナウル(ハンセン)と、
世界中に分布しているのだ。
水の都として知られるベネチアの市街地近くに問題の無人島・ポヴェリア島がある。これが『狂気の島』の異名をもつというから食いつかぬ方がおかしい。
英紙『デイリー・テレグラフ』やイタリアニュースサイト『ザ・ローカル』によると、中世から数々の悲劇的な出来事がくり返されてきたという触れ込みがソソる。
というのも、14世紀、都市国家間として関係が悪化したベネチアとジェノバの争いの舞台となったのを皮切りに、
ヴェニスでペストが大流行した際には拡大を防ぐため、数千人規模の感染者の生死を問わず島へ送って隔離、または放置したというから驚きを禁じ得ない。
古代ローマ時代には墓地として使用され、ペスト流行のときは検疫センターという名目を掲げ、大量埋葬地としてフル回転の働きを示す。
累計16万人もの人間の屍が眠っているとされており、島の土壌の50%以上が人間の遺灰ではないかとも噂されている。
また20世紀に入り1922年になると、検疫所の跡地では、ある医師によって精神病院が運営された。
ところがこの医師は、いわゆるマッドサイエンティストを地でいくような男だった。患者にノミやハンマー、ドリルなどを用いてロボトミー手術を行っていたらしく、
鬼畜の実験をくり返した挙句、医師自身も「幽霊のせいで気が狂いそうだ」と口走り、病院の塔の上から投身自殺してしまった……。
1968年に病院が閉鎖されてからは、しばらく農業用地として使用されたものの、やがて完全に放置。
そして、今では島へのアクセスは国有地化したイタリア政府によって制限され、地元漁師をはじめとして近づこうとする者はいない。
漁師が嫌がるのは、周辺海域で網を投じると大量の人骨がかかるからだ。
島周辺の地元では、『邪悪な人が死ぬと、ポヴェーリア島で目を覚ます』という不吉な諺もあるぐらいだ。
もっともこのヘヴィー級の『怖い島』も、所有するイタリア政府の資金捻出策の一環で、昨年2014年5月7日に競売へかけられる運びとなった。
ただ、実際に国の所有権を売却するわけではなく、『99年間のリース権』を与える形となるそうで、政府側としては島に残されている城や修道院跡も含めて、
『高級ホテル』を建て、観光地として開発してくれる業者の参加を希望しているという。
さまざまな噂が取り巻く島が果たして売れるのか、欧米メディアも広く注目しているイタリア政府の売却策だが、これに待ったの声をかけているのが島と
海を挟んだベネチア・ジュデッカ地区の住民たち。
「私たちは島が公共のものであり続けて欲しい」と話す男性は、島が開発されるのではなく、現状維持のまま保存されることを望んでいるという。
そこで住民たちは、「Poveglia per tutti(みんなのポヴェリア)」というFacebookページを立ち上げ、自分たちが競売に参加してリース権を得ようとする運動を開始。
目標額の2万ユーロ(約280万円)の調達に向け、参加者に99ユーロ(約1万4,000円)の寄付を呼びかけているそうだ。
……『世界一幽霊の出る島』などと下衆な側面を併せ持っており、『サイレント・ヒル』や『SIREN』も真っ青の舞台装置がよくも揃ったものだと感心する。
個人的に廃墟マニアの不法侵入ぶりはいかがなものかと首をひねる方だが、この島に限り精神病院跡に潜入し、当時を偲ばせる狂気の空気を伝えるのもアリかと思う。
[YouTubeで再生]
ペストに感染した患者、生死を問わず隔離・遺棄した狂気島 ポヴェリア島 2
ペストwikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9A%E3%82%B9%E3%83%...
中世の血塗られた史実 黒死病の大流行〜ヨーロッパ全人口の1/2が死に絶えた!〜
http://www.cosmos.zaq.jp/t_rex/fusigi_3/works/works_4_a...
NAVERまとめ ロボトミー殺人事件とは【ロボトミー手術】
http://matome.naver.jp/odai/213862353069521690...
NAVERまとめ 実在した“マッドサイエンティスト”の恐ろしすぎる実験内容
http://matome.naver.jp/odai/213538971391061950...
超魔界帝国の逆襲 超トンデモ通信 【閲覧注意】ベネチアの世界一幽霊が出る島がオークションへ
http://daimaohgun.web.fc2.com/fushigi/tondemo/14_04_19.htm...
コトダマ系ニュースサイト ナリナリドットコム 「世界一幽霊が出る島」競売へ、財政難イタリア政府の決定に反発も。
http://www.narinari.com/Nd/20140425548.htm...
カラパイア不思議と謎の大冒険 時を止めて過去にたたずむ、世界9の放棄された島
http://karapaia.livedoor.biz/archives/52090994.htm...
モグネット ハンセン病の歴史:フィリピン・クリオン島
http://www.mognet.org/hansen/overseas/culion01.htm...
芭蕉blog ニューヨークのど真ん中にある廃墟、ノースブラザー島 41P 1V
http://bashoh.com/2013/06/%E3%83%8B%E3%83%A5%E3%...
%E3%81%82%E3%82%8B%E5%BB%83%E5%A2%9F%E3%80%81%E3%83%8E%E3%83%BC%E3%82%B9%E3%83%96%E3%83%A9/
[PDF]太平洋の島々におけるハンセン病 後藤 正道 鹿児島大学医学部病理学第二講座
http://cpi.kagoshima-u.ac.jp/publications/occasionalpapers/...
ペストに感染した患者、生死を問わず隔離・遺棄した狂気島 ポヴェリア島 2
ペストwikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9A%E3%82%B9%E3%83%...
中世の血塗られた史実 黒死病の大流行〜ヨーロッパ全人口の1/2が死に絶えた!〜
http://www.cosmos.zaq.jp/t_rex/fusigi_3/works/works_4_a...
NAVERまとめ ロボトミー殺人事件とは【ロボトミー手術】
http://matome.naver.jp/odai/213862353069521690...
NAVERまとめ 実在した“マッドサイエンティスト”の恐ろしすぎる実験内容
http://matome.naver.jp/odai/213538971391061950...
超魔界帝国の逆襲 超トンデモ通信 【閲覧注意】ベネチアの世界一幽霊が出る島がオークションへ
http://daimaohgun.web.fc2.com/fushigi/tondemo/14_04_19.htm...
コトダマ系ニュースサイト ナリナリドットコム 「世界一幽霊が出る島」競売へ、財政難イタリア政府の決定に反発も。
http://www.narinari.com/Nd/20140425548.htm...
カラパイア不思議と謎の大冒険 時を止めて過去にたたずむ、世界9の放棄された島
http://karapaia.livedoor.biz/archives/52090994.htm...
モグネット ハンセン病の歴史:フィリピン・クリオン島
http://www.mognet.org/hansen/overseas/culion01.htm...
芭蕉blog ニューヨークのど真ん中にある廃墟、ノースブラザー島 41P 1V
http://bashoh.com/2013/06/%E3%83%8B%E3%83%A5%E3%...
%E3%81%82%E3%82%8B%E5%BB%83%E5%A2%9F%E3%80%81%E3%83%8E%E3%83%BC%E3%82%B9%E3%83%96%E3%83%A9/
[PDF]太平洋の島々におけるハンセン病 後藤 正道 鹿児島大学医学部病理学第二講座
http://cpi.kagoshima-u.ac.jp/publications/occasionalpapers/...
地球最後の魔境か、近づくものは弓で威嚇される未開の島 北センチネル島 1
>>189に続き、世界の怖い島をピックアップするのも悪くあるまい。ていうか、国内における島ネタが枯渇しつつあるからね……。
今回紹介するのは北センチネル島。インド領アンダマン諸島中の島で、インド洋東部ベンガル湾内にあり、アンダマン諸島の南西部、
南アンダマン島の西、約30kmに位置し、行政面では連邦直轄のアンダマン・ニコバル諸島に属する。
島の形状は約72平方kmのほぼ正方形であり、周囲はサンゴ礁が取り巻いている。狭い砂浜の先ですぐ先で標高20mほどになり、
その後も徐々に標高が高くなり、最高地点で標高98mに達する。島の内部は鬱蒼たる森林で覆われ、上空からは見通しできない。
……地球上には、いまだ現代文明と接触せず暮らしている民族が100以上もある。これを『未接触部族』という。
21世紀に入って15年目だというのに、携帯電話、インターネットはおろかラジオや車を見たこともなく、その存在さえも知らない無垢の集団もいるのだ。
彼らは長年にわたり森の奥地や高山などに住んでいたため、やむを得ず進歩を止めてしまった。ましてや離島となると世界と隔絶したも同然。
上述した北センチネル島は、地理的に行くのはたやすい。しかしながら近づくのは危険すぎる。上陸を試みるとなると、命の保証はない。
というのも、島には先住民であるセンチネル族が50ないし400人ほど居住しているらしいのだが、彼らは文明の恩恵を享受していないだけでなく、
他民族との接触を一切拒否しており、アンダマン・ニコバル諸島自治政府も干渉するのに手を焼き、もはや放置しているのが現状なのだ。
島で暮らすセンチネル族は、アフリカ大陸から移り住んできた直系の子孫だと考えられている。
この小さな島に約6万年前から住んでおり、その生活様式から文化までまったく進歩していないというのだ。
外部との接触の拒否ぶりは徹底しており、2004年にスマトラ島沖地震が発生した際、生存者のために救援物資を届けに島を訪れたヘリコプターに向かって、
矢を放って抵抗したほどである。
島を所有するインド政府は1964年から数回に渡りセンチネル族との接触を試みたが、すべて失敗に終わっている。
専門家は船に乗り食料や贈り物を持って島を訪れ、敵ではないことを示したが、やはり弓矢で威嚇され上陸は果たせなかった。
ついにはインド政府も住民と接触することを諦め、島へ近づくことを禁じた。
島の住民が拒むのは、島に上陸しようとする意志を持った人間ばかりではない。
時として、海難事故により北センチネル島に漂着してしまう者もいる。が、ほとんどの場合、大怪我をして戻ってくるか、最悪殺されることもめずらしくない。
2006年には、周辺海域でカニの密漁をしていた漁師2人のボートが寝ている間に島へ漂着してしまい、2人とも島の住民に殺害された事例があった。
政府はせめて2人の遺体だけでもと回収を試みたが、やはり住民から矢の雨を降らされて上陸を断念。
こうした背景から、北センチネル島の民族の言語はもちろん、生態そのものも謎に包まれたままなのだ。
島全体がジャングルで覆われているため、ヘリコプターから観察することも限度がある。
彼らの生活様式で唯一明らかにされているのは、どうやら狩猟で生活しており、少なくとも農業は行っていないようなのだ。
野生の果物や根菜類、ブタ、トカゲ、蜂蜜を採取して生活しているのではないかと、専門家は言う。
とにかく独自の生活様式を守り続け、いかなるときでも助けは必要としていないらしい。
手つかずのエリアに、プリミティヴかつ未知の文化が息づいているのは、なんとも知的好奇心をソソられるが、土足で入り込むこともまた傲慢な話である。
>>189に続き、世界の怖い島をピックアップするのも悪くあるまい。ていうか、国内における島ネタが枯渇しつつあるからね……。
今回紹介するのは北センチネル島。インド領アンダマン諸島中の島で、インド洋東部ベンガル湾内にあり、アンダマン諸島の南西部、
南アンダマン島の西、約30kmに位置し、行政面では連邦直轄のアンダマン・ニコバル諸島に属する。
島の形状は約72平方kmのほぼ正方形であり、周囲はサンゴ礁が取り巻いている。狭い砂浜の先ですぐ先で標高20mほどになり、
その後も徐々に標高が高くなり、最高地点で標高98mに達する。島の内部は鬱蒼たる森林で覆われ、上空からは見通しできない。
……地球上には、いまだ現代文明と接触せず暮らしている民族が100以上もある。これを『未接触部族』という。
21世紀に入って15年目だというのに、携帯電話、インターネットはおろかラジオや車を見たこともなく、その存在さえも知らない無垢の集団もいるのだ。
彼らは長年にわたり森の奥地や高山などに住んでいたため、やむを得ず進歩を止めてしまった。ましてや離島となると世界と隔絶したも同然。
上述した北センチネル島は、地理的に行くのはたやすい。しかしながら近づくのは危険すぎる。上陸を試みるとなると、命の保証はない。
というのも、島には先住民であるセンチネル族が50ないし400人ほど居住しているらしいのだが、彼らは文明の恩恵を享受していないだけでなく、
他民族との接触を一切拒否しており、アンダマン・ニコバル諸島自治政府も干渉するのに手を焼き、もはや放置しているのが現状なのだ。
島で暮らすセンチネル族は、アフリカ大陸から移り住んできた直系の子孫だと考えられている。
この小さな島に約6万年前から住んでおり、その生活様式から文化までまったく進歩していないというのだ。
外部との接触の拒否ぶりは徹底しており、2004年にスマトラ島沖地震が発生した際、生存者のために救援物資を届けに島を訪れたヘリコプターに向かって、
矢を放って抵抗したほどである。
島を所有するインド政府は1964年から数回に渡りセンチネル族との接触を試みたが、すべて失敗に終わっている。
専門家は船に乗り食料や贈り物を持って島を訪れ、敵ではないことを示したが、やはり弓矢で威嚇され上陸は果たせなかった。
ついにはインド政府も住民と接触することを諦め、島へ近づくことを禁じた。
島の住民が拒むのは、島に上陸しようとする意志を持った人間ばかりではない。
時として、海難事故により北センチネル島に漂着してしまう者もいる。が、ほとんどの場合、大怪我をして戻ってくるか、最悪殺されることもめずらしくない。
2006年には、周辺海域でカニの密漁をしていた漁師2人のボートが寝ている間に島へ漂着してしまい、2人とも島の住民に殺害された事例があった。
政府はせめて2人の遺体だけでもと回収を試みたが、やはり住民から矢の雨を降らされて上陸を断念。
こうした背景から、北センチネル島の民族の言語はもちろん、生態そのものも謎に包まれたままなのだ。
島全体がジャングルで覆われているため、ヘリコプターから観察することも限度がある。
彼らの生活様式で唯一明らかにされているのは、どうやら狩猟で生活しており、少なくとも農業は行っていないようなのだ。
野生の果物や根菜類、ブタ、トカゲ、蜂蜜を採取して生活しているのではないかと、専門家は言う。
とにかく独自の生活様式を守り続け、いかなるときでも助けは必要としていないらしい。
手つかずのエリアに、プリミティヴかつ未知の文化が息づいているのは、なんとも知的好奇心をソソられるが、土足で入り込むこともまた傲慢な話である。
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地球最後の魔境か、近づくものは弓で威嚇される未開の島 北センチネル島 2
忘郷クォリア 世界の驚きとワクワクを探訪 【青い海】世界で最も危険なビーチのランキング:トップ10【白い砂浜】
http://bokyo-qualia.com/archives/275...
NAVERまとめ 【未開の地】石器時代の生活を送るセンチネル族とは【インド洋の弧島】
http://matome.naver.jp/odai/213762121606793460...
世界の凄い場所を調べるお 現代文明を拒否する島「北センチネル島」
http://terribleplace.omaww.net/Category/0...
ギークでなくナード [日記]北センチネル島の生活CommentsAdd Star
http://d.hatena.ne.jp/imakitasangyo/2013040...
未接触部族wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%AA%E6%8E%A5%E8%A7%...
ジャラワ族wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%83%...
ヤノマミ族wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A4%E3%83%8E%E3%83%...
ドゴン族wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%89%E3%82%B4%E3%83%...
ドゴン族の神話wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%89%E3%82%B4%E3%83%...
地球最後の魔境か、近づくものは弓で威嚇される未開の島 北センチネル島 2
忘郷クォリア 世界の驚きとワクワクを探訪 【青い海】世界で最も危険なビーチのランキング:トップ10【白い砂浜】
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NAVERまとめ 【未開の地】石器時代の生活を送るセンチネル族とは【インド洋の弧島】
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世界の凄い場所を調べるお 現代文明を拒否する島「北センチネル島」
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ギークでなくナード [日記]北センチネル島の生活CommentsAdd Star
http://d.hatena.ne.jp/imakitasangyo/2013040...
未接触部族wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%AA%E6%8E%A5%E8%A7%...
ジャラワ族wikipedia
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ヤノマミ族wikipedia
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ドゴン族wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%89%E3%82%B4%E3%83%...
ドゴン族の神話wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%89%E3%82%B4%E3%83%...
所有者は怪死を遂げる?呪われた島 ガイオラ島
イタリア、ナポリの海岸からわずか30mしか離れていないところに2つの島があり、これをガイオラ島という。
画像をご覧になれば一目瞭然、2島は橋でつながれており自由に行き来ができ、小島ながら別荘が建ち、洞窟まで揃っているという念の入れよう。
子供のころに描いた秘密基地がそのまま島となったような佇まいが素敵だ。
……とはいえこんな景観の裏に、まさかキナ臭い歴史が隠されていようとは。
というのも、ガイオラ島の所有者が次々と不審の死を遂げていることから、地元では『呪われた島』と囁かれているのだという。
コトの発端は1920年に島を所有していたスイス人のハンス・ブラウン氏がラグ(カーペット)に包まれた状態で遺体となって発見された事件。
その後、彼の妻も夫を追うかのように海で溺死したのをはじめ、次に島の所有者になったドイツ人のオットー・グランバック氏も心臓発作で死亡。
所有権はドイツの鉄鋼事業家、カール・ポール・ラングハイム男爵に移るが、間もなく事業が失敗し、経済破綻した。
次なる島の所有者は医療品の実業家であったモーリス・イヴ・サンド氏もスイスの精神病院で自殺を遂げている。
果てはイタリア、トリノの有名車メーカー『フィアット』の元名誉会長であるジャンニ・アニェッリ氏の手に渡るが、息子は自殺、甥も癌で死亡。
億万長者のポールゲッティは島を購入したあと、孫が誘拐され耳を切られる事件に遭う。
そして2009年、島の反対側に別荘を持っていたフランコ・アンブロジオ氏と妻のジョヴァンナ・サッコが殺害されたことで、
地元の人が久しく忘れていた島の忌まわしき歴史を思い出し、ふたたび話題となる。
さらには島の最後の所有者、Gianpasquale Grapponeの保険会社が倒産し、投獄。現在、ガイオラ島は国が管理しているという。
……『呪われた島』というタイトルとは、全盛期のスティーヴン・キングならば食いつきそうなネタだが、いささか荒唐無稽な気もする。
癌で死ぬのも呪いと結び付けられたらたまったものではあるまい。
人は死ぬべきときに死ぬが、土地の因縁云々が災いをもたらしているとは思考停止もいいところであろう。
なにかと不幸がつきまとう島だが、幸せを謳歌した家族がいないわけではない。
イギリスの作家アーサー・コナン・ドイルの妹であるアイダは、1895年に母親のメアリーの従兄弟、船舶技師のネルソン・フォリー氏と結婚した。
このときネルソン氏は前妻アグネス・ジェーンを5年前に結核で亡くしている。
その前妻のとき、ネルソン氏はイタリア海軍をサポートする仕事のためガイオラ島で生活しており、アグネスとの子供、クレアの思い出話や、
島に数ヶ月間だけ滞在したというドイルの長女マリーの回想録によると、ネルソン夫婦は島での暮らしを大いに楽しんでいたとのことだ。
世界の謎を小一時間問い詰めるQUESTION ARCHIVE なぜ所有者が次々と死に見舞われる島があるのか?
http://questionarchive.blog.jp/archives/15328527.htm...
小太郎ぶろぐ 呪われた島「ガイオラ島」所有者が次々と不幸に見舞われるイタリア、ナポリの小さな島
http://www.kotaro269.com/articles/31812.htm...
ホームズ・ドイル研究ブログ ネルソン・フォリーとイタリア海軍(1)
http://h-doyle.cocolog-nifty.com/blog/2013/11/post-442b.htm...
イタリア、ナポリの海岸からわずか30mしか離れていないところに2つの島があり、これをガイオラ島という。
画像をご覧になれば一目瞭然、2島は橋でつながれており自由に行き来ができ、小島ながら別荘が建ち、洞窟まで揃っているという念の入れよう。
子供のころに描いた秘密基地がそのまま島となったような佇まいが素敵だ。
……とはいえこんな景観の裏に、まさかキナ臭い歴史が隠されていようとは。
というのも、ガイオラ島の所有者が次々と不審の死を遂げていることから、地元では『呪われた島』と囁かれているのだという。
コトの発端は1920年に島を所有していたスイス人のハンス・ブラウン氏がラグ(カーペット)に包まれた状態で遺体となって発見された事件。
その後、彼の妻も夫を追うかのように海で溺死したのをはじめ、次に島の所有者になったドイツ人のオットー・グランバック氏も心臓発作で死亡。
所有権はドイツの鉄鋼事業家、カール・ポール・ラングハイム男爵に移るが、間もなく事業が失敗し、経済破綻した。
次なる島の所有者は医療品の実業家であったモーリス・イヴ・サンド氏もスイスの精神病院で自殺を遂げている。
果てはイタリア、トリノの有名車メーカー『フィアット』の元名誉会長であるジャンニ・アニェッリ氏の手に渡るが、息子は自殺、甥も癌で死亡。
億万長者のポールゲッティは島を購入したあと、孫が誘拐され耳を切られる事件に遭う。
そして2009年、島の反対側に別荘を持っていたフランコ・アンブロジオ氏と妻のジョヴァンナ・サッコが殺害されたことで、
地元の人が久しく忘れていた島の忌まわしき歴史を思い出し、ふたたび話題となる。
さらには島の最後の所有者、Gianpasquale Grapponeの保険会社が倒産し、投獄。現在、ガイオラ島は国が管理しているという。
……『呪われた島』というタイトルとは、全盛期のスティーヴン・キングならば食いつきそうなネタだが、いささか荒唐無稽な気もする。
癌で死ぬのも呪いと結び付けられたらたまったものではあるまい。
人は死ぬべきときに死ぬが、土地の因縁云々が災いをもたらしているとは思考停止もいいところであろう。
なにかと不幸がつきまとう島だが、幸せを謳歌した家族がいないわけではない。
イギリスの作家アーサー・コナン・ドイルの妹であるアイダは、1895年に母親のメアリーの従兄弟、船舶技師のネルソン・フォリー氏と結婚した。
このときネルソン氏は前妻アグネス・ジェーンを5年前に結核で亡くしている。
その前妻のとき、ネルソン氏はイタリア海軍をサポートする仕事のためガイオラ島で生活しており、アグネスとの子供、クレアの思い出話や、
島に数ヶ月間だけ滞在したというドイルの長女マリーの回想録によると、ネルソン夫婦は島での暮らしを大いに楽しんでいたとのことだ。
世界の謎を小一時間問い詰めるQUESTION ARCHIVE なぜ所有者が次々と死に見舞われる島があるのか?
http://questionarchive.blog.jp/archives/15328527.htm...
小太郎ぶろぐ 呪われた島「ガイオラ島」所有者が次々と不幸に見舞われるイタリア、ナポリの小さな島
http://www.kotaro269.com/articles/31812.htm...
ホームズ・ドイル研究ブログ ネルソン・フォリーとイタリア海軍(1)
http://h-doyle.cocolog-nifty.com/blog/2013/11/post-442b.htm...
恐るべき破獄テクニックで難攻不落の監獄島を陥落させた男たち アルカトラズ島 1
『破獄』とは囚人が独房を破って脱獄すること。また『流罪の刑』で離島に送られた罪人が島外へ脱走することを『島抜け』という。
カリフォルニア州サンフランシスコ湾内にあるアルカトラズ島。ここにはかつて、脱獄不可能の謳い文句で悪名高いアルカトラズ連邦刑務所があった。
鉄壁の守りを誇るその刑務所は、囚人たちの肉体、精神、思想、感情をくじくため、1934年に開設された。
そんなアルカトラズ島には全米から矯正不可能とみなされた凶悪犯ばかりが収容された。
シカゴのゴッドファーザーことアル・カポネを筆頭に、誘拐強盗殺人犯のアルヴィン・カーピス、禁酒法時代を代表する銀行強盗ジョージ・ケリー、
服役中に鳥類学者になったという変わり種のロバート・フランクリン・ストラウドなど、錚々たるメンバーが揃っていた。
コンクリで固められた壁、8本の鉄筋を束ねた鉄格子、厚さ8cmの鉄扉、1日に12回も行われる点呼、無数の見張り台では常時、
警備員がライフルを構え監視の眼を光らせている。周囲は峻険な断崖。サンフランシスコの町の灯りがたった3km先できらめていおり手を伸ばせば届きそうなのに、
仮に島を抜け出したとしても海にはサメがウヨウヨ泳いでいるうえ潮流が速く、おまけに水温は10℃前後。
泳いで渡った場合、短時間のうちに低体温症に陥り死に至る。ゆえに生還率は0%と言われた。
その苛酷な環境と脱獄の難しさから、『ザ・ロック』『悪魔島』と呼ばれ、収容された囚人たちに「この世の地獄」と言わしめた。
にもかかわらず人は自由を求めるものである。難攻不落の要塞に閉じ込められたのなら、それを攻略してみせるという気概をもった男たちが名乗り出る。
過去に脱獄者は34人を数える。うち7人が射殺、2人が溺死、5人が行方不明(公式記録上は死亡扱い)、残りはすべて再捕獲された。
元囚人の証言によると、当時200人ほどいた囚人のうち、50〜80人は脱獄を企てた。
1939年には、全米を震え上がらせたバーカーギャング団の一味、ドック・バーカーが、1943年には映画『俺たちに明日はない』で知られたボニー&クライドの一味、
フロイド・ハミルトンが脱獄にチャレンジするも、いずれも失敗。
1946年にはバーナード・コイが軍隊まで巻き込んでの大銃撃戦に発展し、あと一歩のところで手榴弾で爆死を遂げる。
そして1962年6月11日、運命のときを迎える。のちにクリント・イーストウッド出演、ドン・シーゲル作の映画『アルカトラズからの脱出』で描かれた
フランク・モリスとジョン・エングリン、クラレンス・エングリンの兄弟による伝説の脱獄劇である。
アルカトラズ連邦刑務所史上、脱獄を計画し、5人の行方不明者のうちの3人は、このモリスとエングリン兄弟を指しているのだ。
『破獄』とは囚人が独房を破って脱獄すること。また『流罪の刑』で離島に送られた罪人が島外へ脱走することを『島抜け』という。
カリフォルニア州サンフランシスコ湾内にあるアルカトラズ島。ここにはかつて、脱獄不可能の謳い文句で悪名高いアルカトラズ連邦刑務所があった。
鉄壁の守りを誇るその刑務所は、囚人たちの肉体、精神、思想、感情をくじくため、1934年に開設された。
そんなアルカトラズ島には全米から矯正不可能とみなされた凶悪犯ばかりが収容された。
シカゴのゴッドファーザーことアル・カポネを筆頭に、誘拐強盗殺人犯のアルヴィン・カーピス、禁酒法時代を代表する銀行強盗ジョージ・ケリー、
服役中に鳥類学者になったという変わり種のロバート・フランクリン・ストラウドなど、錚々たるメンバーが揃っていた。
コンクリで固められた壁、8本の鉄筋を束ねた鉄格子、厚さ8cmの鉄扉、1日に12回も行われる点呼、無数の見張り台では常時、
警備員がライフルを構え監視の眼を光らせている。周囲は峻険な断崖。サンフランシスコの町の灯りがたった3km先できらめていおり手を伸ばせば届きそうなのに、
仮に島を抜け出したとしても海にはサメがウヨウヨ泳いでいるうえ潮流が速く、おまけに水温は10℃前後。
泳いで渡った場合、短時間のうちに低体温症に陥り死に至る。ゆえに生還率は0%と言われた。
その苛酷な環境と脱獄の難しさから、『ザ・ロック』『悪魔島』と呼ばれ、収容された囚人たちに「この世の地獄」と言わしめた。
にもかかわらず人は自由を求めるものである。難攻不落の要塞に閉じ込められたのなら、それを攻略してみせるという気概をもった男たちが名乗り出る。
過去に脱獄者は34人を数える。うち7人が射殺、2人が溺死、5人が行方不明(公式記録上は死亡扱い)、残りはすべて再捕獲された。
元囚人の証言によると、当時200人ほどいた囚人のうち、50〜80人は脱獄を企てた。
1939年には、全米を震え上がらせたバーカーギャング団の一味、ドック・バーカーが、1943年には映画『俺たちに明日はない』で知られたボニー&クライドの一味、
フロイド・ハミルトンが脱獄にチャレンジするも、いずれも失敗。
1946年にはバーナード・コイが軍隊まで巻き込んでの大銃撃戦に発展し、あと一歩のところで手榴弾で爆死を遂げる。
そして1962年6月11日、運命のときを迎える。のちにクリント・イーストウッド出演、ドン・シーゲル作の映画『アルカトラズからの脱出』で描かれた
フランク・モリスとジョン・エングリン、クラレンス・エングリンの兄弟による伝説の脱獄劇である。
アルカトラズ連邦刑務所史上、脱獄を計画し、5人の行方不明者のうちの3人は、このモリスとエングリン兄弟を指しているのだ。
恐るべき破獄テクニックで難攻不落の監獄島を陥落させた男たち アルカトラズ島 2
映画のイーストウッドが扮したフランク・モリス(1926年9月1日〜1962年6月11日失踪)は、ワシントンD.C.生まれのアメリカ人。
幼いころから里親に育てられ、13歳で犯罪に手を染め、10代後半に麻薬所持や強盗の罪で逮捕された。IQは133だった。
1960年1月20日、モリスはアルカトラズ連邦刑務所に護送される。彼はアルカトラズに着いて間もなく脱獄を計画。
これには、アレン・ウェストと、先のジョン・エングリン、クラレンス・エングリンの兄弟が加わった。
計画はウェストにより立案されたものの、彼は脱獄時、独房内の換気口の格子が切断できなかったため、島からの脱出には参加できなかった。
アルカトラズからの脱獄は困難を極めた。約2年に渡ってモリスとエングリン兄弟は、いかだと自分たちに似せた人形を工作。
いかだは、長細い浮き袋を三角形に組み合わせて縫い、その間にシートを貼り付けたものだった。
人形は、紙くずと粘土や木の削り屑を合わせ、散髪した髪を頭部に盛り付け、油絵の具で肌の色をつけた。
脱獄時、このダミー人形をベッドに忍ばせておき、巡回の眼をごまかし、時間稼ぎをさせるわけだ。
また作業場から道具を盗み出し、独房の壁に穴を掘ることを地道に続けた。そして1962年3月、ようやく独房の裏手へと続く穴を開通させる。
小型扇風機を細工した手製のドリルで通気孔を広げ、3人は監視の包囲網をかいくぐり、いかだを使ってアルカトラズ島から抜け出したとされている。
ダミー人形のリアルさも功を奏し、看守が3人の脱獄に気づいたのは翌朝のことだった。
連邦捜査局(FBI)による現場検証の結果、いかだで海に出たあとは生死が確認されておらず、行方不明扱いとなった。
連邦刑務所側は死亡したに違いないとする見解を示しているが、鉄壁の監視体制を敷いた刑務所の自尊心を回復するための希望的観測も含まれているだろう。
現に3人の遺体は見つかっていないのに、死亡と決めつけるのはいかがなものか。
その脱獄事件から1年足らず、1963年3月21日、財政的理由によりアルカトラズ刑務所は閉鎖された。
修繕・維持費用だけで300万ドルから500万ドルかかったとされ、さらに日々の運営費用も他の連邦刑務所と比べ高額だったためと言われている。
最近、オランダ人科学者が最先端のコンピュータシミュレーションソフトを使って検証した結果、3人が脱獄に成功したのではないか?という説を唱えた。
脱獄当時の1962年6月11日、夜11時30分に彼らのいかだがアルカトラズを離れたとすれば、ゴールデンゲートブリッジの北に漂着した可能性が高いというのだ。
この時間は当時考えられていた時間よりも1時間30分遅いのだが、シミュレーションではアルカトラズ島の北にあるエンジェル島に打ち上げられたと表示された。
しかもエンジェル島では実際に、いかだのパドルの1つや所持品が発見されている。とはいえ、夜11時30分前にアルカトラズ島を出ていれば、
強い海流に襲われて生存の可能性はほぼないとしている。
しかしながら関係者は「コンピュータが出した結果は100%事実ではない」としながらも、「いかだで逃げるのに成功した可能性もゼロではない」とコメント。
現在、アルカトラズ島は国が管理する観光名所となっており、貴重な野鳥や植物などが生息している。
セルフガイドのオーディオツアーキット(テープとヘッドフォン)を渡され、それに従って施設内を練り歩けるのだ。
英語で語られたらチンプンカンプンなのでは?と心配するなかれ。ちゃんと日本語も選択できるので、ご安心を。
テープには刑務所内の説明や、刑務所の看守だった人物や受刑者の声も収録されている。映画で描写されていた脱獄の説明も聞くことができるので、
イーストウッドファンにはたまらないかもしれない。
なんと階下の売店では、モリスたちが通気口を掘り進んだ食事用のスプーンが売られているので、お土産に最適。
映画のイーストウッドが扮したフランク・モリス(1926年9月1日〜1962年6月11日失踪)は、ワシントンD.C.生まれのアメリカ人。
幼いころから里親に育てられ、13歳で犯罪に手を染め、10代後半に麻薬所持や強盗の罪で逮捕された。IQは133だった。
1960年1月20日、モリスはアルカトラズ連邦刑務所に護送される。彼はアルカトラズに着いて間もなく脱獄を計画。
これには、アレン・ウェストと、先のジョン・エングリン、クラレンス・エングリンの兄弟が加わった。
計画はウェストにより立案されたものの、彼は脱獄時、独房内の換気口の格子が切断できなかったため、島からの脱出には参加できなかった。
アルカトラズからの脱獄は困難を極めた。約2年に渡ってモリスとエングリン兄弟は、いかだと自分たちに似せた人形を工作。
いかだは、長細い浮き袋を三角形に組み合わせて縫い、その間にシートを貼り付けたものだった。
人形は、紙くずと粘土や木の削り屑を合わせ、散髪した髪を頭部に盛り付け、油絵の具で肌の色をつけた。
脱獄時、このダミー人形をベッドに忍ばせておき、巡回の眼をごまかし、時間稼ぎをさせるわけだ。
また作業場から道具を盗み出し、独房の壁に穴を掘ることを地道に続けた。そして1962年3月、ようやく独房の裏手へと続く穴を開通させる。
小型扇風機を細工した手製のドリルで通気孔を広げ、3人は監視の包囲網をかいくぐり、いかだを使ってアルカトラズ島から抜け出したとされている。
ダミー人形のリアルさも功を奏し、看守が3人の脱獄に気づいたのは翌朝のことだった。
連邦捜査局(FBI)による現場検証の結果、いかだで海に出たあとは生死が確認されておらず、行方不明扱いとなった。
連邦刑務所側は死亡したに違いないとする見解を示しているが、鉄壁の監視体制を敷いた刑務所の自尊心を回復するための希望的観測も含まれているだろう。
現に3人の遺体は見つかっていないのに、死亡と決めつけるのはいかがなものか。
その脱獄事件から1年足らず、1963年3月21日、財政的理由によりアルカトラズ刑務所は閉鎖された。
修繕・維持費用だけで300万ドルから500万ドルかかったとされ、さらに日々の運営費用も他の連邦刑務所と比べ高額だったためと言われている。
最近、オランダ人科学者が最先端のコンピュータシミュレーションソフトを使って検証した結果、3人が脱獄に成功したのではないか?という説を唱えた。
脱獄当時の1962年6月11日、夜11時30分に彼らのいかだがアルカトラズを離れたとすれば、ゴールデンゲートブリッジの北に漂着した可能性が高いというのだ。
この時間は当時考えられていた時間よりも1時間30分遅いのだが、シミュレーションではアルカトラズ島の北にあるエンジェル島に打ち上げられたと表示された。
しかもエンジェル島では実際に、いかだのパドルの1つや所持品が発見されている。とはいえ、夜11時30分前にアルカトラズ島を出ていれば、
強い海流に襲われて生存の可能性はほぼないとしている。
しかしながら関係者は「コンピュータが出した結果は100%事実ではない」としながらも、「いかだで逃げるのに成功した可能性もゼロではない」とコメント。
現在、アルカトラズ島は国が管理する観光名所となっており、貴重な野鳥や植物などが生息している。
セルフガイドのオーディオツアーキット(テープとヘッドフォン)を渡され、それに従って施設内を練り歩けるのだ。
英語で語られたらチンプンカンプンなのでは?と心配するなかれ。ちゃんと日本語も選択できるので、ご安心を。
テープには刑務所内の説明や、刑務所の看守だった人物や受刑者の声も収録されている。映画で描写されていた脱獄の説明も聞くことができるので、
イーストウッドファンにはたまらないかもしれない。
なんと階下の売店では、モリスたちが通気口を掘り進んだ食事用のスプーンが売られているので、お土産に最適。
恐るべき破獄テクニックで難攻不落の監獄島を陥落させた男たち アルカトラズ島 3
ところで日本国内においても、伝説の脱獄囚がいる。最後にその恐るべき破獄テクニックを紹介して締めくくりたい。
もしかしたらそのサバイバル術は、この世知辛い現代社会において、何らかの役に立つかもしれないからだ。
それが白鳥由栄(しらとりよしえ)である。
白鳥由栄は明治40年に青森県生まれ。25歳のとき強盗殺人を犯し2年後に逮捕され、拘置中の昭和11年に青森刑務所柳町支所を脱獄(1回目)、3日後に逮捕される。
無期懲役の刑が確定して収監されたあと、34歳で秋田刑務所(2回目)、37歳のときに網走刑務所(3回目)をそれぞれ脱獄。
脱獄中の昭和21年に北海道砂川町(現砂川市)で、殺人を犯して逮捕される。
逮捕後、札幌刑務所に収監されたものの、ふたたび脱獄(4回目)し北海道山中で300日間生活したが、札幌に戻ったところを逮捕、東京の府中刑務所に移送された。
府中刑務所で13年すごしたあと模範囚として認められ、昭和36年に仮釈放を許される。それから16年後の昭和52年、71歳で死去。
白鳥の4度にわたる脱獄を可能にしたのは、超人的な身体能力(1日に120kmもの距離を走破し、手錠の鎖を引きちぎったという怪力、
身体の関節を自在に外せる特異体質)と、脱獄に向けた知恵、シャバに生還しようとする執念が抜きん出て優れていた点だろう。
そして手ひどい仕打ちを与える看守に対する反抗心だった。その心理を逆手にとったブラッフ(はったり)から、知能の高さが窺えよう。
箇条書きだが、ざっと羅列してみる。
①脱獄における合鍵作り……白鳥は入浴時、手桶にはめられていた金属製のタガをはずして独房内に持ち帰る。
次の入浴後、房にもどると、湯でふやけた掌を錠の鍵穴に強く押し付けて型をとっておく。次回の入浴時、身体を洗うふりをしてタガを床のコンクリート面で摩擦し、
合鍵を作ったとされている。
②手錠をかけられていても、看守が眼を離したスキに、手錠をはずしてくつろいでいるという引田天功そこのけの特殊能力を持っていた。
③合鍵は身体のなかに隠した。身体検査をすると、舌の下に細い金属板が差し込まれ、肛門のなかからはパラフィン紙に包まれた、これも細い金属板が見つかった。
いずれかが見つかった場合、即検査は打ち切られてしまうが、これもブラッフ。よほど慎重な看守でない限り、片方の隠し場所は見落としてしまう。
④このような問題囚人であることから、特製の手錠で拘束される。分厚い鋼でつくられた重さ15kgもある代物で、両環の継ぎ目に太いナットが埋め込まれており、
ハンマーでナットの頭を平たく叩き潰していた(入浴時は看守が1時間かけて、ヤスリがけして手錠を解かねばならなかった)。
にもかかわらず、ナットをはずして破獄。捜査課刑事による現場検証によって明らかになったのは、ナットの腐食だった。
ナットを腐食させた要因は意外にも味噌汁だった。
食事のたびに味噌汁を口に含んだまま房に戻り、看守の眼を盗んでは手錠のナットに垂らすことをくり返した。味噌汁に含まれた塩分が鋼鉄を酸化させ、
やがて腐食してゆるみ、引き抜くことができたのだと結論付けた。
⑤視察窓の鉄枠を外して、その狭い隙間から関節を脱臼させ、忍者かタコのように破獄した。
⑥便所のタガをはずして釘で刻みをつけ、手製のノコギリを工作。それを使い、2日かけて床板をひき切った。床下に潜り込み、食器で土を掘って獄舎の外に脱出。
⑦山中へ逃亡すると、無人の民家から虫眼鏡を入手。それを使って日光で火をおこし、煮炊きをおこなった。
⑧床板などの釘を抜き取るテクニックは、指を釘の頭に強く押し付けて回転させることをくり返せば容易であるという。
⑨監獄から脱獄したあと、高い塀を越えるコツは、塀沿いに斜めに走れば駆け上がれるらしい。
これはまだ戦前戦中、戦後間もない、監視・管理が行き届いていない当時なら可能だったろうが、徹底的に計算させた、現代では至難の業であろう。
しかしながら窮地に落とされてなお、生還しようとする人間の知恵と叡智は学べるものがある。
白鳥には自分のための脱獄はしないという信念があった。刑務所や裁判の矛盾、理不尽さと身をもって戦った人なのだ。
くわえて「人間の作ったものは、人間が壊せないわけはない」というのが白鳥の哲学だった。
ところで日本国内においても、伝説の脱獄囚がいる。最後にその恐るべき破獄テクニックを紹介して締めくくりたい。
もしかしたらそのサバイバル術は、この世知辛い現代社会において、何らかの役に立つかもしれないからだ。
それが白鳥由栄(しらとりよしえ)である。
白鳥由栄は明治40年に青森県生まれ。25歳のとき強盗殺人を犯し2年後に逮捕され、拘置中の昭和11年に青森刑務所柳町支所を脱獄(1回目)、3日後に逮捕される。
無期懲役の刑が確定して収監されたあと、34歳で秋田刑務所(2回目)、37歳のときに網走刑務所(3回目)をそれぞれ脱獄。
脱獄中の昭和21年に北海道砂川町(現砂川市)で、殺人を犯して逮捕される。
逮捕後、札幌刑務所に収監されたものの、ふたたび脱獄(4回目)し北海道山中で300日間生活したが、札幌に戻ったところを逮捕、東京の府中刑務所に移送された。
府中刑務所で13年すごしたあと模範囚として認められ、昭和36年に仮釈放を許される。それから16年後の昭和52年、71歳で死去。
白鳥の4度にわたる脱獄を可能にしたのは、超人的な身体能力(1日に120kmもの距離を走破し、手錠の鎖を引きちぎったという怪力、
身体の関節を自在に外せる特異体質)と、脱獄に向けた知恵、シャバに生還しようとする執念が抜きん出て優れていた点だろう。
そして手ひどい仕打ちを与える看守に対する反抗心だった。その心理を逆手にとったブラッフ(はったり)から、知能の高さが窺えよう。
箇条書きだが、ざっと羅列してみる。
①脱獄における合鍵作り……白鳥は入浴時、手桶にはめられていた金属製のタガをはずして独房内に持ち帰る。
次の入浴後、房にもどると、湯でふやけた掌を錠の鍵穴に強く押し付けて型をとっておく。次回の入浴時、身体を洗うふりをしてタガを床のコンクリート面で摩擦し、
合鍵を作ったとされている。
②手錠をかけられていても、看守が眼を離したスキに、手錠をはずしてくつろいでいるという引田天功そこのけの特殊能力を持っていた。
③合鍵は身体のなかに隠した。身体検査をすると、舌の下に細い金属板が差し込まれ、肛門のなかからはパラフィン紙に包まれた、これも細い金属板が見つかった。
いずれかが見つかった場合、即検査は打ち切られてしまうが、これもブラッフ。よほど慎重な看守でない限り、片方の隠し場所は見落としてしまう。
④このような問題囚人であることから、特製の手錠で拘束される。分厚い鋼でつくられた重さ15kgもある代物で、両環の継ぎ目に太いナットが埋め込まれており、
ハンマーでナットの頭を平たく叩き潰していた(入浴時は看守が1時間かけて、ヤスリがけして手錠を解かねばならなかった)。
にもかかわらず、ナットをはずして破獄。捜査課刑事による現場検証によって明らかになったのは、ナットの腐食だった。
ナットを腐食させた要因は意外にも味噌汁だった。
食事のたびに味噌汁を口に含んだまま房に戻り、看守の眼を盗んでは手錠のナットに垂らすことをくり返した。味噌汁に含まれた塩分が鋼鉄を酸化させ、
やがて腐食してゆるみ、引き抜くことができたのだと結論付けた。
⑤視察窓の鉄枠を外して、その狭い隙間から関節を脱臼させ、忍者かタコのように破獄した。
⑥便所のタガをはずして釘で刻みをつけ、手製のノコギリを工作。それを使い、2日かけて床板をひき切った。床下に潜り込み、食器で土を掘って獄舎の外に脱出。
⑦山中へ逃亡すると、無人の民家から虫眼鏡を入手。それを使って日光で火をおこし、煮炊きをおこなった。
⑧床板などの釘を抜き取るテクニックは、指を釘の頭に強く押し付けて回転させることをくり返せば容易であるという。
⑨監獄から脱獄したあと、高い塀を越えるコツは、塀沿いに斜めに走れば駆け上がれるらしい。
これはまだ戦前戦中、戦後間もない、監視・管理が行き届いていない当時なら可能だったろうが、徹底的に計算させた、現代では至難の業であろう。
しかしながら窮地に落とされてなお、生還しようとする人間の知恵と叡智は学べるものがある。
白鳥には自分のための脱獄はしないという信念があった。刑務所や裁判の矛盾、理不尽さと身をもって戦った人なのだ。
くわえて「人間の作ったものは、人間が壊せないわけはない」というのが白鳥の哲学だった。
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恐るべき破獄テクニックで難攻不落の監獄島を陥落させた男たち アルカトラズ島 4
アル・カポネwikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%AB%E3%83%...
フランク・モリスwikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%83%A9%E3%83%...
怪しい伝説wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%80%AA%E3%81%97%E3%81%...
Aol News 映画『アルカトラズからの脱出』のモデルとなった脱獄犯に生存の可能性
http://news.aol.jp/2014/12/24/big-escape...
NAVERまとめ これは心ざわつく…。。脱出不可能の監獄島『アルカトラズ島』を観光してみたい!
http://matome.naver.jp/odai/214125116673301390...
我家のIT化 フランシスコ、ロサンゼルスの旅紀行(4)−アルカトラズ島
http://homenet.seesaa.net/article/121868160.htm...
AllAbout 元は刑務所の観光名所、アルカトラズ島
http://allabout.co.jp/gm/gc/380224...
Category:刑務所を舞台とした作品wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/Category:%E5%88%91%E5%8B%...
Hatena blog beyond the border 【1563冊目】吉村昭『破獄』
http://hachiro86.hatenablog.com/entries/2013/06/0...
白鳥由栄wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%99%BD%E9%B3%A5%E7%94%...
脱獄王「白鳥由栄」「白鳥由栄物語」
http://www.h3.dion.ne.jp/‾oyama/boukenn-folder/bouken-siratori.htm
博物館網走監獄 監獄秘話「五寸釘 寅吉」
http://www.kangoku.jp/data7.htm...
恐るべき破獄テクニックで難攻不落の監獄島を陥落させた男たち アルカトラズ島 4
アル・カポネwikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%AB%E3%83%...
フランク・モリスwikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%83%A9%E3%83%...
怪しい伝説wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%80%AA%E3%81%97%E3%81%...
Aol News 映画『アルカトラズからの脱出』のモデルとなった脱獄犯に生存の可能性
http://news.aol.jp/2014/12/24/big-escape...
NAVERまとめ これは心ざわつく…。。脱出不可能の監獄島『アルカトラズ島』を観光してみたい!
http://matome.naver.jp/odai/214125116673301390...
我家のIT化 フランシスコ、ロサンゼルスの旅紀行(4)−アルカトラズ島
http://homenet.seesaa.net/article/121868160.htm...
AllAbout 元は刑務所の観光名所、アルカトラズ島
http://allabout.co.jp/gm/gc/380224...
Category:刑務所を舞台とした作品wikipedia
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Hatena blog beyond the border 【1563冊目】吉村昭『破獄』
http://hachiro86.hatenablog.com/entries/2013/06/0...
白鳥由栄wikipedia
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脱獄王「白鳥由栄」「白鳥由栄物語」
http://www.h3.dion.ne.jp/‾oyama/boukenn-folder/bouken-siratori.htm
博物館網走監獄 監獄秘話「五寸釘 寅吉」
http://www.kangoku.jp/data7.htm...
放浪の民が旅立つ前に住んでいた約束の地 メスカルティタン
すでに>>109でこの島の画像を貼ったが、今回はそれにツッコんでみよう。島の歴史が他に類を見ないパターンなので取り上げるに値する。
メキシコ合衆国のナヤリット州の湖に、世にも奇妙な人工島が存在する。これがメスカルティタンだ。直径が約400m。
俯瞰からのアングルだとシンメトリーの街並が、まるで太陽の石・アステカのカレンダーのように美しいではないか。
近隣のラ・バタンガから6km、エル・マタデロから2kmの位置にあり、いずれの町からも船で渡航が可能で、観光地として栄えており、
2001年にはプエブロ・マヒコに真っ先に選出されたほどの賑わいを見せる。人口は800人超。
メスカルティタンという名前の由来は、ナワトル語で『メスカルの土地』または『メシーカの家』の意。
アステカ族がもともと住んでいた伝説の地『アストラン(白鷺の地)』の起源こそ、現在のメスカルティタンではないかと言われているのだ(諸説あり)。
アステカ神話によれば、1091年、アストランに住んでいた7部族は、神のお告げにより理想郷を求めて鷲を追って旅に出た。
神託はこうだ。「蛇を咥えた鷲が止まるサボテンがある土地を都とせよ」。この言葉を信じ、200年以上にも及ぶ長旅となった。
1325年、ついに『石の上に生えたサボテン』に鷲がとまっているのを見つけたメシカ族は、テスココ湖の小島に都市・テノチティトランを築いた。
これが後のアステカ大帝国の興りであった。のちにスペインの侵略者(コンキスタドールの侵略)によって埋め立てられ、
現在のメキシコの首都・メキシコシティができたわけである。
DNA ディリィ・ニュウス・エィジェンシィ めいっぱい住宅が建ち並んだ、人口密度が高そうな島10選
http://dailynewsagency.com/2010/12/13/island-cities-aroun...
アステカwikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%82%B9%E3%83%...
芭蕉blog メスカルティタン、メキシコの湖に浮かぶアステカ文化の古代水上都市 23P2V
http://bashoh.com/2013/10/%E3%83%A1%E3%82%B9%E3%...
メキシコからの隠遁者通信 メキシコ中西部、夏の旅 Ⅱ−メスカルティタン−1
http://teacapan.cocolog-nifty.com/blog/2012/08/post-02be.htm...
太陽の石アステックカレンダーを解読する
http://www8.plala.or.jp/KgnosisAC/sub3-Jinrui-astec.ht...
テノチティトランwikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%86%E3%83%8E%E3%83%...
コンキスタドールwikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B3%E3%83%B3%E3%82%...
すでに>>109でこの島の画像を貼ったが、今回はそれにツッコんでみよう。島の歴史が他に類を見ないパターンなので取り上げるに値する。
メキシコ合衆国のナヤリット州の湖に、世にも奇妙な人工島が存在する。これがメスカルティタンだ。直径が約400m。
俯瞰からのアングルだとシンメトリーの街並が、まるで太陽の石・アステカのカレンダーのように美しいではないか。
近隣のラ・バタンガから6km、エル・マタデロから2kmの位置にあり、いずれの町からも船で渡航が可能で、観光地として栄えており、
2001年にはプエブロ・マヒコに真っ先に選出されたほどの賑わいを見せる。人口は800人超。
メスカルティタンという名前の由来は、ナワトル語で『メスカルの土地』または『メシーカの家』の意。
アステカ族がもともと住んでいた伝説の地『アストラン(白鷺の地)』の起源こそ、現在のメスカルティタンではないかと言われているのだ(諸説あり)。
アステカ神話によれば、1091年、アストランに住んでいた7部族は、神のお告げにより理想郷を求めて鷲を追って旅に出た。
神託はこうだ。「蛇を咥えた鷲が止まるサボテンがある土地を都とせよ」。この言葉を信じ、200年以上にも及ぶ長旅となった。
1325年、ついに『石の上に生えたサボテン』に鷲がとまっているのを見つけたメシカ族は、テスココ湖の小島に都市・テノチティトランを築いた。
これが後のアステカ大帝国の興りであった。のちにスペインの侵略者(コンキスタドールの侵略)によって埋め立てられ、
現在のメキシコの首都・メキシコシティができたわけである。
DNA ディリィ・ニュウス・エィジェンシィ めいっぱい住宅が建ち並んだ、人口密度が高そうな島10選
http://dailynewsagency.com/2010/12/13/island-cities-aroun...
アステカwikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%82%B9%E3%83%...
芭蕉blog メスカルティタン、メキシコの湖に浮かぶアステカ文化の古代水上都市 23P2V
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メキシコからの隠遁者通信 メキシコ中西部、夏の旅 Ⅱ−メスカルティタン−1
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太陽の石アステックカレンダーを解読する
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テノチティトランwikipedia
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今拡大進行中の西ノ島が今より更5倍を超えてに拡大していくことになったら中国や韓国が黙っていないという戦略的で戦争勃発の要因となる可能性を秘めているという恐ろしい島だといわれている
謎だらけの遺跡島の正体は古代ウイグル城塞跡か? ポル=バジン
島マニアの眼は節穴ではないッ!
さすが偉大なるサイト(ブログ?)『カラパイア不思議と謎の大冒険』。いつ閲覧しても、我々の知的好奇心を掻き立ててくれる記事が目白押しだ。
先日、『いったい誰が?何の目的で?謎に包まれたシベリアの孤島にある1300年前の遺跡「ポル=バジン」』と題され、
実にワクワクするような記事が紹介された。かっさらって、ここに追加する形で載せてみようではないか。
謎の島『ポル=バジン』へ行くにはトゥバ共和国の首都キジルからヘリコプターで3時間を要する。
陸路は存在せず、モンゴルとの国境近くにあるため、国境から25km以内は立ち入り禁止エリアに指定されているほど、島へ行くには困難を極める。
シベリア南部の山間の湖『テレ=ホリ』に問題の孤島が浮かんでいるのだが、明らかに人の手が加えられた長方形の外観が印象的。
しかもその『箱庭』の中は升目に壁が仕切られ、まるで平安京のミニチュアのような古代遺跡が佇んでいるのだからたまらない。
ちなみに『ポル=バジン』はトゥバ語で、『土の家』を意味するらしいので、まさに言い得て妙。
最初に遺跡が発見されたのは1891年。のちの1957年にサンクト・ペテルブルクの考古学者ヴァインシュテインによって発掘調査が進められ、
2007年にも大規模な発掘調査が行われたが、現在は終了している。
調査により、人間の背丈ほどの粘土製の平板、漆喰の壁に描かれた絵画、巨大な門、木の燃え跡が発見され、およそ1300年前に造られたと推測された。
しかしながら誰が建築し、なんの用途に使われたのか、なぜ放棄されたのか、謎のベールに包まれたままなのだ。
歴史家と科学者の見解は意見が分かれている。城塞か監獄ではないかとする説、あるいは人を収容・隔離するのではなく、人を呼び込むための施設との説、
はたまた離宮、修道院、天文観測所ではないかと考える専門家もいるが、どうやらウイグルの城跡の線が濃厚のようだ。
もっともテュルク系遊牧民族による遊牧国家、ウイグル(西暦744〜840)と同時期に建設されたとはいえ、居住地や交易ルートから遠く離れた不便な僻地に
城塞を築いた目的は明らかにされていない。
敷地は密集し、利用されている建材とともに、中国の伝統的な建築様式を思わせる。1300年前のものとは信じられぬほど、壁の大部分は保存状態が良好だ。
また、2区画に分割されている中庭の主要構造物は、瓦屋根の通路を持っていたらしく、石の基礎上に立てられた36本の木製柱に支えられていた跡が見られる。
不思議なことに、厳しいシベリアの気候、しかも海抜2.3kmという条件を耐えたにもかかわらず、暖房設備の痕跡が見られない疑問点も残る。
いずれにせよ、クフ王のピラミッドに比肩しうるミステリアスな島兼遺跡である。
2007年、プーチン大統領がアルベール2世モナコ大公と一緒に訪れた際、「これまで色々な場所を訪れ、多くの物を目にしてきたが、こんな場所は初めてだ」と、
困惑しながら言わしめたほど。
今後の調査報告が楽しみな島だ。
カラパイア不思議と謎の大冒険 いったい誰が?何の目的で?謎に包まれたシベリアの孤島にある1300年前の遺跡「ポル=バジン」
http://karapaia.livedoor.biz/archives/52189969.htm...
クラスノヤルスク滞在記と滞在後記 トゥヴァ(トゥバ)紀行
http://homepage2.nifty.com/enisei2580/2012tuva0.htm...
Googleマップ Por-Bażyn
https://www.google.co.jp/maps/place/Por-Ba%C5%BCyn/@50....
泰弘さんの【追憶の記】です・・・ 21・満州の名刹と風光・・承徳の夏の離宮・・絵葉書・・
http://blogs.yahoo.co.jp/y294maself/32170334.htm...
四神相応wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%9B%E7%A5%9E%E7%9B%...
島マニアの眼は節穴ではないッ!
さすが偉大なるサイト(ブログ?)『カラパイア不思議と謎の大冒険』。いつ閲覧しても、我々の知的好奇心を掻き立ててくれる記事が目白押しだ。
先日、『いったい誰が?何の目的で?謎に包まれたシベリアの孤島にある1300年前の遺跡「ポル=バジン」』と題され、
実にワクワクするような記事が紹介された。かっさらって、ここに追加する形で載せてみようではないか。
謎の島『ポル=バジン』へ行くにはトゥバ共和国の首都キジルからヘリコプターで3時間を要する。
陸路は存在せず、モンゴルとの国境近くにあるため、国境から25km以内は立ち入り禁止エリアに指定されているほど、島へ行くには困難を極める。
シベリア南部の山間の湖『テレ=ホリ』に問題の孤島が浮かんでいるのだが、明らかに人の手が加えられた長方形の外観が印象的。
しかもその『箱庭』の中は升目に壁が仕切られ、まるで平安京のミニチュアのような古代遺跡が佇んでいるのだからたまらない。
ちなみに『ポル=バジン』はトゥバ語で、『土の家』を意味するらしいので、まさに言い得て妙。
最初に遺跡が発見されたのは1891年。のちの1957年にサンクト・ペテルブルクの考古学者ヴァインシュテインによって発掘調査が進められ、
2007年にも大規模な発掘調査が行われたが、現在は終了している。
調査により、人間の背丈ほどの粘土製の平板、漆喰の壁に描かれた絵画、巨大な門、木の燃え跡が発見され、およそ1300年前に造られたと推測された。
しかしながら誰が建築し、なんの用途に使われたのか、なぜ放棄されたのか、謎のベールに包まれたままなのだ。
歴史家と科学者の見解は意見が分かれている。城塞か監獄ではないかとする説、あるいは人を収容・隔離するのではなく、人を呼び込むための施設との説、
はたまた離宮、修道院、天文観測所ではないかと考える専門家もいるが、どうやらウイグルの城跡の線が濃厚のようだ。
もっともテュルク系遊牧民族による遊牧国家、ウイグル(西暦744〜840)と同時期に建設されたとはいえ、居住地や交易ルートから遠く離れた不便な僻地に
城塞を築いた目的は明らかにされていない。
敷地は密集し、利用されている建材とともに、中国の伝統的な建築様式を思わせる。1300年前のものとは信じられぬほど、壁の大部分は保存状態が良好だ。
また、2区画に分割されている中庭の主要構造物は、瓦屋根の通路を持っていたらしく、石の基礎上に立てられた36本の木製柱に支えられていた跡が見られる。
不思議なことに、厳しいシベリアの気候、しかも海抜2.3kmという条件を耐えたにもかかわらず、暖房設備の痕跡が見られない疑問点も残る。
いずれにせよ、クフ王のピラミッドに比肩しうるミステリアスな島兼遺跡である。
2007年、プーチン大統領がアルベール2世モナコ大公と一緒に訪れた際、「これまで色々な場所を訪れ、多くの物を目にしてきたが、こんな場所は初めてだ」と、
困惑しながら言わしめたほど。
今後の調査報告が楽しみな島だ。
カラパイア不思議と謎の大冒険 いったい誰が?何の目的で?謎に包まれたシベリアの孤島にある1300年前の遺跡「ポル=バジン」
http://karapaia.livedoor.biz/archives/52189969.htm...
クラスノヤルスク滞在記と滞在後記 トゥヴァ(トゥバ)紀行
http://homepage2.nifty.com/enisei2580/2012tuva0.htm...
Googleマップ Por-Bażyn
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泰弘さんの【追憶の記】です・・・ 21・満州の名刹と風光・・承徳の夏の離宮・・絵葉書・・
http://blogs.yahoo.co.jp/y294maself/32170334.htm...
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☆ チン マチクタビレタ〜
マチクタビレタ〜
☆ チン 〃 ∧_∧ / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
ヽ ___\(\・∀・) 新レス、まだ〜?
\_/⊂ ⊂_ ) \_____________
/ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ /|
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| 愛媛みかん |/
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| 愛媛みかん |/
>>202
お待たせ。ご飯ですよ^^
危険すぎる、即死級の猛毒をもつ蛇だらけの島 イーリャ・デ・ケマダ・グランデ島
ブラジルの大都市サンパウロから沖合32kmに、なんと蛇だらけの無人島があるんだとか。
これをイーリャ・デ・ケマダ・グランデ島といい、通称スネーク・アイランドと冠されるだけあって、文字どおり至るところに蛇で埋め尽くされており、
その人口密度ならぬ『蛇密度』たるや、1㎡あたり1匹とまで言われているほど。あまりにも危険なため、ブラジル海軍から立ち入り禁止の指定を受けている。
主に毒蛇ジャララカ(アメリカハブの類の毒蛇で、南米に広く分布)が多くのさばり、島全体で5000〜1万匹棲息していると推測されている。
この蛇は、通常のジャララカの5倍の毒性をもち、実験ではネズミを2秒で即死させる強力なものだという。
島が学術的に知られるようになったのは、1921年にサンパウロのブタンタン毒蛇研究所が実地検査を行い、イーリャ・デ・ケマダ・グランデ島の
毒蛇ジャララカの特異な進化と生態を発見してからだ。
なぜこの蛇は通常のソレよりも猛毒を獲得したのか?
主な餌は渡り鳥とされている。咬みついたはいいが、薬効が足りず鳥が逃げて海にでも落ちたら、せっかくの獲物が無駄になる。
それゆえ即死させるほどの猛毒に進化したのではないかと、研究者は結論付けている。
島の大きさは、奥行き1.5km、幅500mで、海岸はなく、海上より切り立った岸壁が高さ90mの台地までそそり立ち、高さ200mの岩山がそびえている。
島には昔、灯台守が開いた草地がある。かつて灯台の管理人として1家族が住んでいたが、住居の窓から蛇が侵入し、パニックに駆られた家族は屋外へ逃げた。
結局彼らは島の異なる場所で、蛇の毒により遺体で発見された。
それ以来、灯台は海軍が管理しており、現在自動化されて保守と燃料補給のために、ヘリコプターで年に数度、人が降り立つ以外は無人島となった。
北海道ファンマガジン 知られざる洞爺湖の無人島・中島の実態とは
http://pucchi.net/hokkaido/nature/laketoyaisland...
私たちの40年!!あるぜんちな丸同船者寄稿集 麻生悌三のブラジル不思議発見(2)大ケイマーダ島の毒蛇ジャララカ
http://40anos.nikkeybrasil.com.br/jp/biografia.php?cod=145...
NAVERまとめ 蛇だらけの島!?世界で一番危険な場所「スネークアイランド」
http://matome.naver.jp/odai/213966693632618030...
お待たせ。ご飯ですよ^^
危険すぎる、即死級の猛毒をもつ蛇だらけの島 イーリャ・デ・ケマダ・グランデ島
ブラジルの大都市サンパウロから沖合32kmに、なんと蛇だらけの無人島があるんだとか。
これをイーリャ・デ・ケマダ・グランデ島といい、通称スネーク・アイランドと冠されるだけあって、文字どおり至るところに蛇で埋め尽くされており、
その人口密度ならぬ『蛇密度』たるや、1㎡あたり1匹とまで言われているほど。あまりにも危険なため、ブラジル海軍から立ち入り禁止の指定を受けている。
主に毒蛇ジャララカ(アメリカハブの類の毒蛇で、南米に広く分布)が多くのさばり、島全体で5000〜1万匹棲息していると推測されている。
この蛇は、通常のジャララカの5倍の毒性をもち、実験ではネズミを2秒で即死させる強力なものだという。
島が学術的に知られるようになったのは、1921年にサンパウロのブタンタン毒蛇研究所が実地検査を行い、イーリャ・デ・ケマダ・グランデ島の
毒蛇ジャララカの特異な進化と生態を発見してからだ。
なぜこの蛇は通常のソレよりも猛毒を獲得したのか?
主な餌は渡り鳥とされている。咬みついたはいいが、薬効が足りず鳥が逃げて海にでも落ちたら、せっかくの獲物が無駄になる。
それゆえ即死させるほどの猛毒に進化したのではないかと、研究者は結論付けている。
島の大きさは、奥行き1.5km、幅500mで、海岸はなく、海上より切り立った岸壁が高さ90mの台地までそそり立ち、高さ200mの岩山がそびえている。
島には昔、灯台守が開いた草地がある。かつて灯台の管理人として1家族が住んでいたが、住居の窓から蛇が侵入し、パニックに駆られた家族は屋外へ逃げた。
結局彼らは島の異なる場所で、蛇の毒により遺体で発見された。
それ以来、灯台は海軍が管理しており、現在自動化されて保守と燃料補給のために、ヘリコプターで年に数度、人が降り立つ以外は無人島となった。
北海道ファンマガジン 知られざる洞爺湖の無人島・中島の実態とは
http://pucchi.net/hokkaido/nature/laketoyaisland...
私たちの40年!!あるぜんちな丸同船者寄稿集 麻生悌三のブラジル不思議発見(2)大ケイマーダ島の毒蛇ジャララカ
http://40anos.nikkeybrasil.com.br/jp/biografia.php?cod=145...
NAVERまとめ 蛇だらけの島!?世界で一番危険な場所「スネークアイランド」
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科学者以外、立ち入り禁止区域の実験島 スルツェイ島
世界には無数の非公開エリアがある。なかでも島嶼という隔離されたエリアは隠蔽するには好都合であろう。
問題のスルツェイ島はアイスランドの南にある無人島。我が国の西之島と同じく、1963〜67年、海底火山の噴火から新島を形成した典型例である。
なお、『スルツェイ』は、アイスランド語で『スルトの島』を意味するので、正確には『スルツェイ島』では重複表現なのだが……。
この島は一般人の立ち入り禁止を強いており、ごく少数の認可を得た研究者だけしか入島できない。
というのも、人類の影響を排し、生態系がどのように形成されるのか、その過程を記録するために自然保護区に指定された特別な島、
すなわち実験用の島として使用されているのだ。のちにユネスコの世界遺産(自然遺産)にも登録された。面積はわずか2.8k㎡、標高は173m。
火山噴火を示す最初の兆候が顕れたのは1963年11月14日、周辺海域の海水温の変化、噴煙、硫化水素臭が観察された。
噴火は地殻の亀裂に沿って起こり、海上に噴き上がった粉塵や灰の柱は数kmの高さに達した。
わずか1週間で新島が形成され、北欧神話の炎の巨人『スルト』にちなんでスルツェイ島と命名。
新島誕生と同時に海による浸食が始まったが、噴火は収まらず、島の面積は広がり続け、1964年前半には最大直径1300mあまりの規模になった。
アイスランドは直後に新島の領有権を主張、自然保護区とすることを宣言した。
1967年6月に噴火が終息するころには、スルツェイ島は面積2.7k㎡まで成長。約3分の2は火山灰、3分の1が急激に冷えて固まった溶岩でできていた。
火山灰は年々、少しずつ洗い流されていったが、固い溶岩の中心部はかなりの弾性があることがわかった。
スルツェイ島は、地質学的にも生物学的にも進化の過程を研究する貴重な場となった。他の陸地から隔絶されているため、実験に最適なのだ。
1965年に維管束(いかんそく)植物の生育が初めて観察されたが、より複雑で生育条件が厳しい植物形態である灌木が見られるようになるのは、
1998年に入ってからだ。1970年ごろから海鳥が群れはじめ、大量の糞が堆積することによって、島の痩せた土壌が急速に改善。
島に最初に住みついた鳥類はフルマカモメとハジロウミバトと言われる。1983年にはアザラシが繁殖を始めたのが確認された。
学会はアイスランド環境・食品庁に代わり、島におけるすべての活動を監督している。スルツェイ島の海域でのダイビングをはじめ、自然特性の阻害や、
一切の有機物や土、鉱物の島への持ち込み、廃棄物の投棄も認められていない。また沿岸から2km以内での銃器の使用も禁止されている。
人間の居場所として許されているのは、研究者たちの滞在用に設置された、簡素なプレハブ小屋1棟だけ。
設備といえば数台の簡易ベッドと、自家発電用のソーラーパネル、緊急連絡用の無線装置ぐらいだが、せめてもの慰めにダーツ盤も1つ、備えられている。
スルツェイ島で現在までに観察されているほとんどの植物の種は、自然の『運び屋』によって島に持ち込まれたものだが、1970年代に2度、
人間が持ち込んだ農作物が発見されたことがある。もっとも、ただちに取り除かれたが。
最初に持ち込まれたのはトマト。上陸した研究者が弁当を食べたのち、急に便意をもよおして、結果として土に種をまくことになってしまった。
2004年までに多種多様な生き物が島内で記録され、69種類の維管束植物、71種の地衣類、24種の菌類、さらに14種の鳥類と335種の無脊椎動物が確認されている。
2009年には島の広い範囲でムナグロ(チドリの仲間)の営巣が確認され、最初の渉禽(しょうきん)類として報告された。毎年、2〜5種が新たに発見されている。
現在もなお研究は続けられている。0からスタートした島から、どのように動植物が根付いていくのか、研究者が島に伴走して見守っている。
NAVERまとめ 50年前に突如誕生した火山島「スルツェイ」
http://matome.naver.jp/odai/214045422918935160...
NATIONAL GEOGRAPHIC日本版 『絶対に行けない世界の非公開区域99』から紹介する世界の立ち入り禁止区域
http://natgeo.nikkeibp.co.jp/nng/article/20150202/434024...
スルトwikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B9%E3%83%AB%E3%83%...
新しい島wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%B0%E3%81%97%E3%81%...
世界には無数の非公開エリアがある。なかでも島嶼という隔離されたエリアは隠蔽するには好都合であろう。
問題のスルツェイ島はアイスランドの南にある無人島。我が国の西之島と同じく、1963〜67年、海底火山の噴火から新島を形成した典型例である。
なお、『スルツェイ』は、アイスランド語で『スルトの島』を意味するので、正確には『スルツェイ島』では重複表現なのだが……。
この島は一般人の立ち入り禁止を強いており、ごく少数の認可を得た研究者だけしか入島できない。
というのも、人類の影響を排し、生態系がどのように形成されるのか、その過程を記録するために自然保護区に指定された特別な島、
すなわち実験用の島として使用されているのだ。のちにユネスコの世界遺産(自然遺産)にも登録された。面積はわずか2.8k㎡、標高は173m。
火山噴火を示す最初の兆候が顕れたのは1963年11月14日、周辺海域の海水温の変化、噴煙、硫化水素臭が観察された。
噴火は地殻の亀裂に沿って起こり、海上に噴き上がった粉塵や灰の柱は数kmの高さに達した。
わずか1週間で新島が形成され、北欧神話の炎の巨人『スルト』にちなんでスルツェイ島と命名。
新島誕生と同時に海による浸食が始まったが、噴火は収まらず、島の面積は広がり続け、1964年前半には最大直径1300mあまりの規模になった。
アイスランドは直後に新島の領有権を主張、自然保護区とすることを宣言した。
1967年6月に噴火が終息するころには、スルツェイ島は面積2.7k㎡まで成長。約3分の2は火山灰、3分の1が急激に冷えて固まった溶岩でできていた。
火山灰は年々、少しずつ洗い流されていったが、固い溶岩の中心部はかなりの弾性があることがわかった。
スルツェイ島は、地質学的にも生物学的にも進化の過程を研究する貴重な場となった。他の陸地から隔絶されているため、実験に最適なのだ。
1965年に維管束(いかんそく)植物の生育が初めて観察されたが、より複雑で生育条件が厳しい植物形態である灌木が見られるようになるのは、
1998年に入ってからだ。1970年ごろから海鳥が群れはじめ、大量の糞が堆積することによって、島の痩せた土壌が急速に改善。
島に最初に住みついた鳥類はフルマカモメとハジロウミバトと言われる。1983年にはアザラシが繁殖を始めたのが確認された。
学会はアイスランド環境・食品庁に代わり、島におけるすべての活動を監督している。スルツェイ島の海域でのダイビングをはじめ、自然特性の阻害や、
一切の有機物や土、鉱物の島への持ち込み、廃棄物の投棄も認められていない。また沿岸から2km以内での銃器の使用も禁止されている。
人間の居場所として許されているのは、研究者たちの滞在用に設置された、簡素なプレハブ小屋1棟だけ。
設備といえば数台の簡易ベッドと、自家発電用のソーラーパネル、緊急連絡用の無線装置ぐらいだが、せめてもの慰めにダーツ盤も1つ、備えられている。
スルツェイ島で現在までに観察されているほとんどの植物の種は、自然の『運び屋』によって島に持ち込まれたものだが、1970年代に2度、
人間が持ち込んだ農作物が発見されたことがある。もっとも、ただちに取り除かれたが。
最初に持ち込まれたのはトマト。上陸した研究者が弁当を食べたのち、急に便意をもよおして、結果として土に種をまくことになってしまった。
2004年までに多種多様な生き物が島内で記録され、69種類の維管束植物、71種の地衣類、24種の菌類、さらに14種の鳥類と335種の無脊椎動物が確認されている。
2009年には島の広い範囲でムナグロ(チドリの仲間)の営巣が確認され、最初の渉禽(しょうきん)類として報告された。毎年、2〜5種が新たに発見されている。
現在もなお研究は続けられている。0からスタートした島から、どのように動植物が根付いていくのか、研究者が島に伴走して見守っている。
NAVERまとめ 50年前に突如誕生した火山島「スルツェイ」
http://matome.naver.jp/odai/214045422918935160...
NATIONAL GEOGRAPHIC日本版 『絶対に行けない世界の非公開区域99』から紹介する世界の立ち入り禁止区域
http://natgeo.nikkeibp.co.jp/nng/article/20150202/434024...
スルトwikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B9%E3%83%AB%E3%83%...
新しい島wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%B0%E3%81%97%E3%81%...
バンジージャンプの起源の島 ペンテコスト島
オーストラリアの東約1800kmにあるバヌアツ共和国。
そんなバヌアツにペンテコスト島という人口1万の火山島がある。この島では『ナゴール』、または『ランドダイブ』なる儀式が行われている。
儀式の内容は、足首にツルを巻いて、高い櫓の上から飛び降りるという度胸試し。
そう、今や世界各地で行われているバンジージャンプのルーツにあたるのが、このナゴールと言われているのだ。
そもそも、なぜペンテコスト島でこのような儀式が行われているか? それは以下の伝説があるからだという。
およそ1000年ほど昔。暴力的な男がいつものごとく妻に殴りかかった。
高い木に登って身をひそめていた妻だが、夫に見つかってしまう。追ってきた夫から逃れるためにとっさにダイブした。
後を追った夫も飛び降りたが、地面に叩きつけられて死ぬ。かたや妻は足首にツルを巻き付けていたため、一命を取りとめた。
DV夫が後先考えなかったため命を落とすとはツッコミ満載の悲話だが、これを契機に高所から飛び降りる儀式ナゴールが生まれたらしい。
成人の通過儀礼として紹介されることが多いが、本来はヤムイモの豊作を祈る儀式であるとされている。それゆえヤムイモの収穫時期の4〜6月に開催される。
開催日が決まると、参加者たちは1ヶ月以上かけて30mほどの、建築現場にある足場のような櫓を組む。
また肝心の命綱となり得るツルも自身で選ぶのだが、今日のバンジージャンプのソレと異なり、植物のツルは伸縮性に欠けるので、はたから見ていると怖い……。
儀式当日、参加者は櫓のどの高さから跳ぶかは、自分で選択できる。順番があとになるほど高所から跳ぶ傾向にあり、それにしたがい観客もエキサイト。
ツルの長さを誤ったり切れてしまい、地面に激突して首の骨を折り死亡するダイバーもめずらしくないんだとか。仮にうまくいっても、足首を脱臼することも。
元々は南部のブンラップ村周辺でしか行われなかったが、観光化するにつれて、空港からのアクセスの良い南部の数ヶ所で行われているようだ。
2006年、日本のテレビ局が取材を申し込んだようだが、バヌアツ政府文化庁はナゴールが商業主義に走るのを懸念し、伝統文化を正しく子孫に伝えていくべく、
現在、商業テレビの取材は禁止している。
探偵ファイル国境なき探偵団 死亡確定!?恐怖の儀式ランド・ダイブがヤバイ
http://ftp.tanteifile.com/world/2012/05/04_01/body.htm...
BUNGY JAPAN 日本唯一のブリッジバンジーカンパニー バンジージャンプの話
http://www.bungyjapan.com/ja/index.php/bungy/sections/C5...
2014年度 春学期桜美林大学文化人類学 奥野 克巳 【第20回】通過儀礼とは何か?
http://www2.obirin.ac.jp/okuno/CA20.htm...
オーストラリアの東約1800kmにあるバヌアツ共和国。
そんなバヌアツにペンテコスト島という人口1万の火山島がある。この島では『ナゴール』、または『ランドダイブ』なる儀式が行われている。
儀式の内容は、足首にツルを巻いて、高い櫓の上から飛び降りるという度胸試し。
そう、今や世界各地で行われているバンジージャンプのルーツにあたるのが、このナゴールと言われているのだ。
そもそも、なぜペンテコスト島でこのような儀式が行われているか? それは以下の伝説があるからだという。
およそ1000年ほど昔。暴力的な男がいつものごとく妻に殴りかかった。
高い木に登って身をひそめていた妻だが、夫に見つかってしまう。追ってきた夫から逃れるためにとっさにダイブした。
後を追った夫も飛び降りたが、地面に叩きつけられて死ぬ。かたや妻は足首にツルを巻き付けていたため、一命を取りとめた。
DV夫が後先考えなかったため命を落とすとはツッコミ満載の悲話だが、これを契機に高所から飛び降りる儀式ナゴールが生まれたらしい。
成人の通過儀礼として紹介されることが多いが、本来はヤムイモの豊作を祈る儀式であるとされている。それゆえヤムイモの収穫時期の4〜6月に開催される。
開催日が決まると、参加者たちは1ヶ月以上かけて30mほどの、建築現場にある足場のような櫓を組む。
また肝心の命綱となり得るツルも自身で選ぶのだが、今日のバンジージャンプのソレと異なり、植物のツルは伸縮性に欠けるので、はたから見ていると怖い……。
儀式当日、参加者は櫓のどの高さから跳ぶかは、自分で選択できる。順番があとになるほど高所から跳ぶ傾向にあり、それにしたがい観客もエキサイト。
ツルの長さを誤ったり切れてしまい、地面に激突して首の骨を折り死亡するダイバーもめずらしくないんだとか。仮にうまくいっても、足首を脱臼することも。
元々は南部のブンラップ村周辺でしか行われなかったが、観光化するにつれて、空港からのアクセスの良い南部の数ヶ所で行われているようだ。
2006年、日本のテレビ局が取材を申し込んだようだが、バヌアツ政府文化庁はナゴールが商業主義に走るのを懸念し、伝統文化を正しく子孫に伝えていくべく、
現在、商業テレビの取材は禁止している。
探偵ファイル国境なき探偵団 死亡確定!?恐怖の儀式ランド・ダイブがヤバイ
http://ftp.tanteifile.com/world/2012/05/04_01/body.htm...
BUNGY JAPAN 日本唯一のブリッジバンジーカンパニー バンジージャンプの話
http://www.bungyjapan.com/ja/index.php/bungy/sections/C5...
2014年度 春学期桜美林大学文化人類学 奥野 克巳 【第20回】通過儀礼とは何か?
http://www2.obirin.ac.jp/okuno/CA20.htm...
五芒星セーマンの魔除けを信じる海女の島 菅島(すがしま) 1
ちょっとここで日本の島に軌道修正。
2016年に開催されるサミットが、三重県志摩市に選ばれ、同県出身者としてはたいへん誇らしい。
主要会場として賢島(かしこじま)が予定されているので、賢島の話でもできれば御の字なのだが(『怖い島』という括りは失礼?)、
あいにく興味を惹くエピソードは見当たらない。
そこで賢島を抱える志摩半島の反対側、伊勢湾の入り口に位置する菅島を取り上げようと思う。
もっとも賢島は志摩市に対し、菅島は鳥羽市だが。なんという暴投ぎみの変化球……。まあ、同じ三重の離島ではないか。
菅島の主産業は伊勢海老、アワビ、ワカメなどの漁業と、民宿、旅館などの観光業が主。とりわけ海女によるアワビ漁で知られている。
その海女というと、毎年7月11日、白浜(しろんご浜)で行なわれる『しろんご祭り』が、学術的に注目を浴びている。
700年ほど昔、菅島に現れた白蛇を竜神の使いと崇めて、大漁と海上安全を祈願したのが始まりとされている。
朝8時、しろんご浜に磯着姿の海女が集まり、神主によるお祓いを受けたのち、法螺貝の音を合図に海女が海にもぐり、つがいの鮑の初採りを競うもの。
一対の鮑を最初に採った者が海女頭となり、1年中尊敬の対象となる。
ふだん、白浜は禁漁区であり、この日の1時間のみ漁が許され、獲られた鮑は『招き鮑』と言われ、菅島にある白髭神社に奉納される。
この『白髭』も『しろんご様』を指し、すなわち守護神である白髭大明神、竜神大明神のこと。
なお白髭神社に関しては、当スレ>>95>>96で触れたので、気になるようならソチラで。
海は豊な幸を与えてくれるが、反面、天候によっては急に荒れ、人食い鮫が出没する死と隣り合わせの世界。
『板子一枚下は地獄』の船乗りでさえ験を担ぐ。だったら海に潜る海女もしかりであろう。したがって菅島ではこんな伝説が信じられるようになった。
曇った日の海で、海女が1人で鮑採りをしていると、海底で自分とソックリな姿の海女と出会う。息継ぎするべく水面に上がり見回してみたが、誰もいない。
そのドッペルゲンガーは『トモカヅキ』と呼ばれる妖怪だという。もし妖怪が差し出す鮑をもらったり、よい漁場へと誘うのについていったりすると、
潜水時間が長くなり、命を落としてしまうのだとか。
だから海女たちは、手ぬぐいや鮑おこしという道具に『ドーマン』『セーマン』の印をつけ、まじないとした。
とくに陰陽師の安倍晴明で知られる五芒星のセーマンは、一筆書きで元の位置に戻り、始めも終わりもないことから魔物が入り込む余地がないとされ、
同時に一筆書きで元の場所に戻ることから『無事に戻って来られるように』との祈りを込めた。
トモカヅキとは、『同一の潜水者』の意味で、『かづく』(潜く)とは『潜水すること』を意味する方言であるとされている。
他方、海女の亡霊ではないかともいわれるが、医学的見地から見て、過酷で長時間の海中作業による譫妄との見方もある。
そんななか、静岡県賀茂郡南崎村(現・南伊豆町)でも同様の事例が報告されている。ある海女がこれに遭遇し、海面に上がって船を操る夫に言うと、
「バカなことを言うな」と、相手にされずにふたたび潜らされ、そのまま死んでしまったとも……。
なにはともあれ、しろんご祭りは市指定の無形文化財である。
ちなみに三重の『海女操業実態調査』は4年に1度行われる。1996年11月のデータによると、志摩市だと海女は2100人を超える。
昔に比べると減少しているが、それでもこれほど多くの海女を抱えるのは志摩だけであろう。
ちょっとここで日本の島に軌道修正。
2016年に開催されるサミットが、三重県志摩市に選ばれ、同県出身者としてはたいへん誇らしい。
主要会場として賢島(かしこじま)が予定されているので、賢島の話でもできれば御の字なのだが(『怖い島』という括りは失礼?)、
あいにく興味を惹くエピソードは見当たらない。
そこで賢島を抱える志摩半島の反対側、伊勢湾の入り口に位置する菅島を取り上げようと思う。
もっとも賢島は志摩市に対し、菅島は鳥羽市だが。なんという暴投ぎみの変化球……。まあ、同じ三重の離島ではないか。
菅島の主産業は伊勢海老、アワビ、ワカメなどの漁業と、民宿、旅館などの観光業が主。とりわけ海女によるアワビ漁で知られている。
その海女というと、毎年7月11日、白浜(しろんご浜)で行なわれる『しろんご祭り』が、学術的に注目を浴びている。
700年ほど昔、菅島に現れた白蛇を竜神の使いと崇めて、大漁と海上安全を祈願したのが始まりとされている。
朝8時、しろんご浜に磯着姿の海女が集まり、神主によるお祓いを受けたのち、法螺貝の音を合図に海女が海にもぐり、つがいの鮑の初採りを競うもの。
一対の鮑を最初に採った者が海女頭となり、1年中尊敬の対象となる。
ふだん、白浜は禁漁区であり、この日の1時間のみ漁が許され、獲られた鮑は『招き鮑』と言われ、菅島にある白髭神社に奉納される。
この『白髭』も『しろんご様』を指し、すなわち守護神である白髭大明神、竜神大明神のこと。
なお白髭神社に関しては、当スレ>>95>>96で触れたので、気になるようならソチラで。
海は豊な幸を与えてくれるが、反面、天候によっては急に荒れ、人食い鮫が出没する死と隣り合わせの世界。
『板子一枚下は地獄』の船乗りでさえ験を担ぐ。だったら海に潜る海女もしかりであろう。したがって菅島ではこんな伝説が信じられるようになった。
曇った日の海で、海女が1人で鮑採りをしていると、海底で自分とソックリな姿の海女と出会う。息継ぎするべく水面に上がり見回してみたが、誰もいない。
そのドッペルゲンガーは『トモカヅキ』と呼ばれる妖怪だという。もし妖怪が差し出す鮑をもらったり、よい漁場へと誘うのについていったりすると、
潜水時間が長くなり、命を落としてしまうのだとか。
だから海女たちは、手ぬぐいや鮑おこしという道具に『ドーマン』『セーマン』の印をつけ、まじないとした。
とくに陰陽師の安倍晴明で知られる五芒星のセーマンは、一筆書きで元の位置に戻り、始めも終わりもないことから魔物が入り込む余地がないとされ、
同時に一筆書きで元の場所に戻ることから『無事に戻って来られるように』との祈りを込めた。
トモカヅキとは、『同一の潜水者』の意味で、『かづく』(潜く)とは『潜水すること』を意味する方言であるとされている。
他方、海女の亡霊ではないかともいわれるが、医学的見地から見て、過酷で長時間の海中作業による譫妄との見方もある。
そんななか、静岡県賀茂郡南崎村(現・南伊豆町)でも同様の事例が報告されている。ある海女がこれに遭遇し、海面に上がって船を操る夫に言うと、
「バカなことを言うな」と、相手にされずにふたたび潜らされ、そのまま死んでしまったとも……。
なにはともあれ、しろんご祭りは市指定の無形文化財である。
ちなみに三重の『海女操業実態調査』は4年に1度行われる。1996年11月のデータによると、志摩市だと海女は2100人を超える。
昔に比べると減少しているが、それでもこれほど多くの海女を抱えるのは志摩だけであろう。
五芒星セーマンの魔除けを信じる海女の島 菅島(すがしま) 2
伊勢志摩国立公園 鳥羽市観光情報サイト
http://tobakanko.jp/
鳥羽菅島 しろんご祭り
http://16.pro.tok2.com/‾jiyubito193/sirongo/sirongo.html
島の宝100景
http://www.mlit.go.jp/crd/chirit/shimanotakara100kei...
[PDF]島の宝100景 しろんご祭り 菅島
http://www.mlit.go.jp/crd/chirit/image/100kei-suga.p...
伊勢鳥羽志摩 鮑の話
http://www.kintetsu.co.jp/ise_toba_shima/shiru/ama_awabi...
菅島紅つげの会 菅島伝説の謎
http://benitsuge.jp/?p=11...
セーマンドーマンwikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BB%E3%83%BC%E3%83%...
トモカヅキwikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%88%E3%83%A2%E3%82%...
海女文化村
http://amabunka.sakura.ne.jp/index.htm...
伊勢志摩国立公園 鳥羽市観光情報サイト
http://tobakanko.jp/
鳥羽菅島 しろんご祭り
http://16.pro.tok2.com/‾jiyubito193/sirongo/sirongo.html
島の宝100景
http://www.mlit.go.jp/crd/chirit/shimanotakara100kei...
[PDF]島の宝100景 しろんご祭り 菅島
http://www.mlit.go.jp/crd/chirit/image/100kei-suga.p...
伊勢鳥羽志摩 鮑の話
http://www.kintetsu.co.jp/ise_toba_shima/shiru/ama_awabi...
菅島紅つげの会 菅島伝説の謎
http://benitsuge.jp/?p=11...
セーマンドーマンwikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BB%E3%83%BC%E3%83%...
トモカヅキwikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%88%E3%83%A2%E3%82%...
海女文化村
http://amabunka.sakura.ne.jp/index.htm...
ハンギング・コフィン・断崖絶壁に棺桶を吊るす葬法の島 ルソン島
フィリピン、ルソン島北部の山岳地帯にある村サガダにはイゴロットと呼ばれる少数民族がいる。
本来イゴロットは、平地で水田農耕を行っていたが、後からやってきた新マレー人により山岳地帯に追いやられてしまったという。
平地のない山間部で水田農業を行うのは並大抵ではなく、彼らは棚田の技術を向上させ、各地にみごとな棚田を残した。
棚田は地域の重要な文化遺産であり、観光資源にもなっている。
サガダは石灰岩地帯に位置するため、切り立った崖や絶壁が多い。そのなかにエコバレーという切り立った崖がある。
その断崖絶壁を利用した特異な葬送儀礼が伝承されており、観光客も見学することができるのだ。
その埋葬方法とは、断崖に棺桶を吊るすというもの。吊るされた棺の中には、燻製にされた遺体が収められている。
イゴロットは棺を崖に吊るすことで魂が『天』により近く、そして早く着き、転生を信じた。同時に遺体が野生動物に荒らされないという合理的な一面もある。
この葬送儀礼を懸棺葬『ハンギング・コフィン』、あるいは懸崖葬と呼ぶ。広義には『崖墓(自然の洞穴を利用した葬送)』の範疇に含まれるものだ。
このような例は中国の四川盆地周辺でBC500年くらいの時期のものが見られるという。この時期の懸崖葬の特徴としては船形棺、副葬品、岩絵が上げられており、
類似の葬送文化は古代日本、東南アジア島嶼部で広く見られる。
それは中国奥地で誕生した懸崖葬、崖墓の風習が民族の移動とともに拡散していったと考えられるが、伝播ルートははっきりしていない。
エコバレーではいくつもの木棺、十字架、なぜか椅子なども吊るされ、文字がペイントされている。
その様子はさほど恐ろしさもグロテスクさも感じさせず、墓所特有の厳粛さが漂っているだけだ。
もっとも2000年以上も続いたハンギング・コフィンは、2010年秋を最後に終焉を迎えた。
良くも悪くもキリスト教の布教がこの地にも広がり、村には教会も建てられ、イゴロット族はクリスチャンとなった。
キリスト教の慣習に従い、土葬へとその葬送儀礼を変化させてしまった。だから現在、壁に吊るされた棺は祖先のものなのだ。
村の経済的発展も必要だが、彼らは祖先の墓が観光客の好奇の眼に晒されるのはいかがなものかと複雑に思っているようだ。
死ぬまでに一度は行ってみたい場所。 崖にかかる棺桶・ハンギング・コフィン(フィリピン)
http://worldtv.blog.fc2.com/blog-entry-679.htm...
Travel.jp 断崖に棺!不思議な埋葬を見にフィリピン「サガダ」に行こう
http://guide.travel.co.jp/article/6566...
KAZE風の旅行社 添乗報告記●中国貴州省 ヤオ族、スイ族、ミャオ族の暮らしと世界遺産のカルスト地形をたずねる7日間(2011年12月)
http://www.kaze-travel.co.jp/indochina_tenjo008.htm...
集合舎 チベットではなぜ鳥葬が行われるのか
http://www.shukousha.com/essay/ohta/436...
日本一選ばれている定額葬儀ブランド 小さなお葬式 死者が家に戻ってくる!?江戸時代の葬儀における風習やタブーとは
http://www.osohshiki.jp/column/article/21...
フィリピン、ルソン島北部の山岳地帯にある村サガダにはイゴロットと呼ばれる少数民族がいる。
本来イゴロットは、平地で水田農耕を行っていたが、後からやってきた新マレー人により山岳地帯に追いやられてしまったという。
平地のない山間部で水田農業を行うのは並大抵ではなく、彼らは棚田の技術を向上させ、各地にみごとな棚田を残した。
棚田は地域の重要な文化遺産であり、観光資源にもなっている。
サガダは石灰岩地帯に位置するため、切り立った崖や絶壁が多い。そのなかにエコバレーという切り立った崖がある。
その断崖絶壁を利用した特異な葬送儀礼が伝承されており、観光客も見学することができるのだ。
その埋葬方法とは、断崖に棺桶を吊るすというもの。吊るされた棺の中には、燻製にされた遺体が収められている。
イゴロットは棺を崖に吊るすことで魂が『天』により近く、そして早く着き、転生を信じた。同時に遺体が野生動物に荒らされないという合理的な一面もある。
この葬送儀礼を懸棺葬『ハンギング・コフィン』、あるいは懸崖葬と呼ぶ。広義には『崖墓(自然の洞穴を利用した葬送)』の範疇に含まれるものだ。
このような例は中国の四川盆地周辺でBC500年くらいの時期のものが見られるという。この時期の懸崖葬の特徴としては船形棺、副葬品、岩絵が上げられており、
類似の葬送文化は古代日本、東南アジア島嶼部で広く見られる。
それは中国奥地で誕生した懸崖葬、崖墓の風習が民族の移動とともに拡散していったと考えられるが、伝播ルートははっきりしていない。
エコバレーではいくつもの木棺、十字架、なぜか椅子なども吊るされ、文字がペイントされている。
その様子はさほど恐ろしさもグロテスクさも感じさせず、墓所特有の厳粛さが漂っているだけだ。
もっとも2000年以上も続いたハンギング・コフィンは、2010年秋を最後に終焉を迎えた。
良くも悪くもキリスト教の布教がこの地にも広がり、村には教会も建てられ、イゴロット族はクリスチャンとなった。
キリスト教の慣習に従い、土葬へとその葬送儀礼を変化させてしまった。だから現在、壁に吊るされた棺は祖先のものなのだ。
村の経済的発展も必要だが、彼らは祖先の墓が観光客の好奇の眼に晒されるのはいかがなものかと複雑に思っているようだ。
死ぬまでに一度は行ってみたい場所。 崖にかかる棺桶・ハンギング・コフィン(フィリピン)
http://worldtv.blog.fc2.com/blog-entry-679.htm...
Travel.jp 断崖に棺!不思議な埋葬を見にフィリピン「サガダ」に行こう
http://guide.travel.co.jp/article/6566...
KAZE風の旅行社 添乗報告記●中国貴州省 ヤオ族、スイ族、ミャオ族の暮らしと世界遺産のカルスト地形をたずねる7日間(2011年12月)
http://www.kaze-travel.co.jp/indochina_tenjo008.htm...
集合舎 チベットではなぜ鳥葬が行われるのか
http://www.shukousha.com/essay/ohta/436...
日本一選ばれている定額葬儀ブランド 小さなお葬式 死者が家に戻ってくる!?江戸時代の葬儀における風習やタブーとは
http://www.osohshiki.jp/column/article/21...
世捨て人の家が1軒の島? エリデイ島
滑り台のように反り返った崖が印象的な孤島に、ポツンと家が1軒だけ。この画像、実は当スレの>>111でも貼ったが、ソレに言及しよう。
アイスランド南部にはウェストマン諸島が連なり、そのなかの1島がこのエリデイ島だ。
何年ものあいだ、飛行機や船から撮られた島の写真がネット上で様々な憶測を呼び、ひそかに賑わせてきた。
もちろんフォトショップで作られたフェイクではない。
人間嫌いの世捨て人が隠棲しているのではないか、来たるべき黙示録に備えている億万長者ではないか、
あるいはアイルランド政府が歌手のビョーク(ビョーク・グズムンズドッティル)に贈った別荘ではないかと、まことしやかな都市伝説も囁かれた。
……が、どれも誤りだった。
300年ほど前、この島には5世帯が住み、漁業や牧畜、ツノメドリという海鳥の狩猟などをして生計を立てていた。
その後200年が経つ間に、コミュニティの維持が困難になり、徐々に住民が島を離れてしまい、1930年には完全に無人島となる。
とはいえ、海鳥の狩猟に際しては、非常に恵まれた環境であり、放置するには惜しい。
そこで1953年、旧島民で構成するアイスランド狩猟協会の手によって島に猟小屋を建築。
長期の生活には不向きだが、この猟小屋を拠点に再び海鳥を獲るようになった。画像の、ぼっちの別荘と言われているものの正体はこの猟小屋なのだ。
小屋にはインターネットの設備はおろか、電気も引いていなく、配管設備すらない。ただしサウナだけはあるらしい。
料理や飲用水、サウナに使う水は雨水から得ている。現在はそのアイスランド狩猟協会の会員用ロッジとして利用されている。
そもそもなぜビョークの別荘の話題が出たかというと、紛らわしいことにアイスランドには同名の島が2つあるのだ。
この猟小屋が佇むエリデイ島がアイスランドの南部にあるのに対し、別のエリデイ島が西部に位置する。
この西部にある島に件のビョークの別荘があるらしいので、それで勘違いされたようだ。
TravelPress 絶海の孤島にたたずむ一軒の家!こんな場所に建てられた家の正体は?
http://travelpress.jp/iceland-Ellidaey...
満艦飾 アイスランドの幻想の島、エリデイ。三つの島の三つの物語。
http://mankanshoku.blog.jp/archives/2705314.htm...
HYLEにっき ビョークをチラ聴きしたけど良さがわからないって人におすすめしたい名曲まとめ
http://hyle.hateblo.jp/entry/2014/06/09/22470...
滑り台のように反り返った崖が印象的な孤島に、ポツンと家が1軒だけ。この画像、実は当スレの>>111でも貼ったが、ソレに言及しよう。
アイスランド南部にはウェストマン諸島が連なり、そのなかの1島がこのエリデイ島だ。
何年ものあいだ、飛行機や船から撮られた島の写真がネット上で様々な憶測を呼び、ひそかに賑わせてきた。
もちろんフォトショップで作られたフェイクではない。
人間嫌いの世捨て人が隠棲しているのではないか、来たるべき黙示録に備えている億万長者ではないか、
あるいはアイルランド政府が歌手のビョーク(ビョーク・グズムンズドッティル)に贈った別荘ではないかと、まことしやかな都市伝説も囁かれた。
……が、どれも誤りだった。
300年ほど前、この島には5世帯が住み、漁業や牧畜、ツノメドリという海鳥の狩猟などをして生計を立てていた。
その後200年が経つ間に、コミュニティの維持が困難になり、徐々に住民が島を離れてしまい、1930年には完全に無人島となる。
とはいえ、海鳥の狩猟に際しては、非常に恵まれた環境であり、放置するには惜しい。
そこで1953年、旧島民で構成するアイスランド狩猟協会の手によって島に猟小屋を建築。
長期の生活には不向きだが、この猟小屋を拠点に再び海鳥を獲るようになった。画像の、ぼっちの別荘と言われているものの正体はこの猟小屋なのだ。
小屋にはインターネットの設備はおろか、電気も引いていなく、配管設備すらない。ただしサウナだけはあるらしい。
料理や飲用水、サウナに使う水は雨水から得ている。現在はそのアイスランド狩猟協会の会員用ロッジとして利用されている。
そもそもなぜビョークの別荘の話題が出たかというと、紛らわしいことにアイスランドには同名の島が2つあるのだ。
この猟小屋が佇むエリデイ島がアイスランドの南部にあるのに対し、別のエリデイ島が西部に位置する。
この西部にある島に件のビョークの別荘があるらしいので、それで勘違いされたようだ。
TravelPress 絶海の孤島にたたずむ一軒の家!こんな場所に建てられた家の正体は?
http://travelpress.jp/iceland-Ellidaey...
満艦飾 アイスランドの幻想の島、エリデイ。三つの島の三つの物語。
http://mankanshoku.blog.jp/archives/2705314.htm...
HYLEにっき ビョークをチラ聴きしたけど良さがわからないって人におすすめしたい名曲まとめ
http://hyle.hateblo.jp/entry/2014/06/09/22470...
爆発した歴史をもつ廃墟島 ポレペル島
ニューヨークからハドソン川を北上すること100km。そこにポレペル島があり、廃墟マニアが喜びそうな城の廃墟が佇んでいる。
ポレペル(Pollepel)はオランダ語で『柄杓』を意味するように、本来はオランダ人が発見し、開拓した島であった。
アメリカンインディアンに呪われているという伝説があり、新人の水夫は開拓者の船の船員となる通過儀礼の一環として、
このポレペル島に1人置いて行かれるという慣習があった。
独立戦争の際は、イギリス艦隊を迎撃するための砦のような働きをし、川底には当時の弾薬などが沈んでいる。
また1900年に軍の余剰品販売業者(要は武器商人)フランシス・バナーマン氏がこの島を買い付け、自称アマチュア建築家の実業家を謳うだけあって
スコットランドの古城にインスピレーションを得て、バナーマン城が建てられた。
この城は商品の武器庫として使われていた。わざわざ城の形にしたのは宣伝広告効果を狙ってのことだった。
最盛期、この城形武器庫には、3000万もの軍の余剰弾薬が保管されていたという。
バナーマン氏が死去した2年後、200tもの砲弾や火薬が爆破し、城の一部も大きく破損。
その後も倉庫として使われていたが、1950年には島唯一のフェリーボートがハドソン川の川底に沈み、島は放棄されていた。
事故のあと長らく放置されていたが、1967年、ニューヨーク市が観光地として買い付ける。ところがまたしても2年ほどで火災に遭い、
その後放置されたままとなっていた。
2008年より期間限定で観光ツアーが行われているので、ツアーに参加し、島に上陸することも可能のようだ。
ただし、数年後には城は崩壊するだろうと懸念されている。
世界中に広がる知恵を共有するメディアearth [世界の城跡9選] 海外旅行の候補に入れておきたい!!まるで映画のワンシーンで使われそうな奇跡の城跡
http://feelearth.me/nature/castle-ruin...
素晴らしきアウトドア アメリカとは思えない5つの場所
http://outdoors.discoveramerica.jp/amerikatohasi-enai-5-tunochang...
廃墟検索地図
http://haikyo.crap.jp/s/1791.htm...
死ぬまでに一度は行ってみたい場所。 ハドソン川の小島・バナーマン城廃墟(アメリカ)
http://worldtv.blog.fc2.com/blog-entry-371.htm...
テカムセの呪いwikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%86%E3%82%AB%E3%83%...
ニューヨークからハドソン川を北上すること100km。そこにポレペル島があり、廃墟マニアが喜びそうな城の廃墟が佇んでいる。
ポレペル(Pollepel)はオランダ語で『柄杓』を意味するように、本来はオランダ人が発見し、開拓した島であった。
アメリカンインディアンに呪われているという伝説があり、新人の水夫は開拓者の船の船員となる通過儀礼の一環として、
このポレペル島に1人置いて行かれるという慣習があった。
独立戦争の際は、イギリス艦隊を迎撃するための砦のような働きをし、川底には当時の弾薬などが沈んでいる。
また1900年に軍の余剰品販売業者(要は武器商人)フランシス・バナーマン氏がこの島を買い付け、自称アマチュア建築家の実業家を謳うだけあって
スコットランドの古城にインスピレーションを得て、バナーマン城が建てられた。
この城は商品の武器庫として使われていた。わざわざ城の形にしたのは宣伝広告効果を狙ってのことだった。
最盛期、この城形武器庫には、3000万もの軍の余剰弾薬が保管されていたという。
バナーマン氏が死去した2年後、200tもの砲弾や火薬が爆破し、城の一部も大きく破損。
その後も倉庫として使われていたが、1950年には島唯一のフェリーボートがハドソン川の川底に沈み、島は放棄されていた。
事故のあと長らく放置されていたが、1967年、ニューヨーク市が観光地として買い付ける。ところがまたしても2年ほどで火災に遭い、
その後放置されたままとなっていた。
2008年より期間限定で観光ツアーが行われているので、ツアーに参加し、島に上陸することも可能のようだ。
ただし、数年後には城は崩壊するだろうと懸念されている。
世界中に広がる知恵を共有するメディアearth [世界の城跡9選] 海外旅行の候補に入れておきたい!!まるで映画のワンシーンで使われそうな奇跡の城跡
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死ぬまでに一度は行ってみたい場所。 ハドソン川の小島・バナーマン城廃墟(アメリカ)
http://worldtv.blog.fc2.com/blog-entry-371.htm...
テカムセの呪いwikipedia
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怪しき鉄の要塞島に人口4人の国家 シーランド公国
イスラム国ことISISが国家を自称しているように、シーランド公国もイギリス南東部のサフォーク州の10km沖合に浮かぶ鉄骨の構造物を
領土と主張し、国家だと訴えている。人口は身内で固めた、たった4人だけ(最近は27人に増えた?)の、ネタみたいな『なんちゃって国家』だ。
そもそもシーランド公国を『島』として括るのはどうか。この構造物は第二次世界大戦中、イギリス軍が沿岸防衛の拠点として4つの
海上要塞と多数の海上トーチカを建設したのが始まり。1942年、最も北に位置していた海上要塞『フォート・ラフス』が誕生した。
イギリス沖10kmの北海洋上、ラフ・サンズと呼ばれる砂堆の上に、大きな柱が2本ある巨大な構造物を沈め、海上に突き出した柱の上に居住区や
対空砲台などを乗せたものである。大きさは幅約9m、長さ約23mほど、面積は207㎡。テニスコート1面よりも狭い。
戦時中は150〜300人ものイギリス海軍兵員が常時駐留していたが、大戦終了後に要塞島は放棄される。
ところが、1967年9月2日に元イギリス陸軍少佐で海賊放送の運営者パディ・ロイ・ベーツが、イギリス放送法違反で訴えられたため、
当時イギリスの領海外に存在したこの北のフォート・ラフスを占拠し、独立宣言を発表。ここを『シーランド』と命名、自らロイ・ベーツ公と名乗った。
1968年、紆余曲折があり、ベーツ父子は逮捕された。逮捕後、ベーツ父子は不法占拠の罪で訴えられるが、イギリスの裁判所は、
「シーランドはイギリスの領海外であり、かつ、今まで領有権を主張してこなかった」ため、イギリス司法の管轄外として父子を釈放した。
裁判所の判断を受け、ベーツは「イギリスがシーランドの主権を認めた」と主張し、1975年には憲法・国旗・国歌を制定した。
はたして冷静に見て、シーランド公国は独立国と言えるのか?
1933年のモンテビデオ条約によれば、国際法で認められるべき国家の要件は、(1)国民、(2)領土、(3)政府、(4)外交能力の4つとされている。
シーランド公国の場合、国民と領土、政府は存在し、外交能力についても1978年の『西ドイツ政府との交渉』を根拠に、
一応条件を満たしているとされている(ただし、当時の西ドイツ政府は、国家として認めて交渉したわけではないと主張)。
しかしながら1982年に締結された国連の海洋法では、島について『自然に形成された陸地』と定義しているので、人工島は領土として認められず、
人工島だけを支配するシーランド公国は、領土を持たないから国家とは認められないということになる。
こうして世界最小面積の自称国家となったわけだが、シーランド公国を独立国として承認している国は1つも存在しないため、
これを国と呼ぶことは国際法上は不可能なのだ。日本も独立国としては認めておらず、外務省のサイトには記述さえない。
2007年1月8日、英紙報道によると、ベーツ公らがこの国の売却先を探しているとされた。売り主は1000万ポンド(約23億円)以上の値を期待しているとしている。
2009年時点では、これを買った人や国は知られていないが、日丸屋秀和著マンガ作品『axis powers hetalia』(ヘタリア)では、
オークションに出されたシーランド公国を落札したのはスウェーデンという設定になっている。
ちなみに、シーランド公国の主力産業は、なんと爵位の販売。ウェブサイト上で行われており、気軽に購入が可能。ただしイロモノすぎる。
ロイ・ベーツ公の晩年はイギリスに隠棲し、シーランドの管理は摂政公太子のマイケルが引き継いだ(ただし、マイケルもイギリスに在住)。
2012年10月9日、アルツハイマー型認知症を患っていたベーツ公はリー・オン・シーのケアホームで死去。サウスエンド=オン=シーで葬儀が執り行われた。
満91歳だった。
NAVERまとめ 【怪奇!人口4人!?】面白すぎる「シーランド公国」の謎。
http://matome.naver.jp/odai/213545086047943280...
シーランド君ですよ!
http://www.geocities.jp/himaruya/ea.htm...
通信用語の基礎知識 シーランド公国
http://www.wdic.org/w/GEO/%E3%82%B7%E3%83%BC%E3%83...
パディ・ロイ・ベーツwikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%91%E3%83%87%E3%82%...
APPREVIEW これであなたも今日から貴族!ネットで購入した爵位が届いたよ
http://app-review.jp/news/21592...
イスラム国ことISISが国家を自称しているように、シーランド公国もイギリス南東部のサフォーク州の10km沖合に浮かぶ鉄骨の構造物を
領土と主張し、国家だと訴えている。人口は身内で固めた、たった4人だけ(最近は27人に増えた?)の、ネタみたいな『なんちゃって国家』だ。
そもそもシーランド公国を『島』として括るのはどうか。この構造物は第二次世界大戦中、イギリス軍が沿岸防衛の拠点として4つの
海上要塞と多数の海上トーチカを建設したのが始まり。1942年、最も北に位置していた海上要塞『フォート・ラフス』が誕生した。
イギリス沖10kmの北海洋上、ラフ・サンズと呼ばれる砂堆の上に、大きな柱が2本ある巨大な構造物を沈め、海上に突き出した柱の上に居住区や
対空砲台などを乗せたものである。大きさは幅約9m、長さ約23mほど、面積は207㎡。テニスコート1面よりも狭い。
戦時中は150〜300人ものイギリス海軍兵員が常時駐留していたが、大戦終了後に要塞島は放棄される。
ところが、1967年9月2日に元イギリス陸軍少佐で海賊放送の運営者パディ・ロイ・ベーツが、イギリス放送法違反で訴えられたため、
当時イギリスの領海外に存在したこの北のフォート・ラフスを占拠し、独立宣言を発表。ここを『シーランド』と命名、自らロイ・ベーツ公と名乗った。
1968年、紆余曲折があり、ベーツ父子は逮捕された。逮捕後、ベーツ父子は不法占拠の罪で訴えられるが、イギリスの裁判所は、
「シーランドはイギリスの領海外であり、かつ、今まで領有権を主張してこなかった」ため、イギリス司法の管轄外として父子を釈放した。
裁判所の判断を受け、ベーツは「イギリスがシーランドの主権を認めた」と主張し、1975年には憲法・国旗・国歌を制定した。
はたして冷静に見て、シーランド公国は独立国と言えるのか?
1933年のモンテビデオ条約によれば、国際法で認められるべき国家の要件は、(1)国民、(2)領土、(3)政府、(4)外交能力の4つとされている。
シーランド公国の場合、国民と領土、政府は存在し、外交能力についても1978年の『西ドイツ政府との交渉』を根拠に、
一応条件を満たしているとされている(ただし、当時の西ドイツ政府は、国家として認めて交渉したわけではないと主張)。
しかしながら1982年に締結された国連の海洋法では、島について『自然に形成された陸地』と定義しているので、人工島は領土として認められず、
人工島だけを支配するシーランド公国は、領土を持たないから国家とは認められないということになる。
こうして世界最小面積の自称国家となったわけだが、シーランド公国を独立国として承認している国は1つも存在しないため、
これを国と呼ぶことは国際法上は不可能なのだ。日本も独立国としては認めておらず、外務省のサイトには記述さえない。
2007年1月8日、英紙報道によると、ベーツ公らがこの国の売却先を探しているとされた。売り主は1000万ポンド(約23億円)以上の値を期待しているとしている。
2009年時点では、これを買った人や国は知られていないが、日丸屋秀和著マンガ作品『axis powers hetalia』(ヘタリア)では、
オークションに出されたシーランド公国を落札したのはスウェーデンという設定になっている。
ちなみに、シーランド公国の主力産業は、なんと爵位の販売。ウェブサイト上で行われており、気軽に購入が可能。ただしイロモノすぎる。
ロイ・ベーツ公の晩年はイギリスに隠棲し、シーランドの管理は摂政公太子のマイケルが引き継いだ(ただし、マイケルもイギリスに在住)。
2012年10月9日、アルツハイマー型認知症を患っていたベーツ公はリー・オン・シーのケアホームで死去。サウスエンド=オン=シーで葬儀が執り行われた。
満91歳だった。
NAVERまとめ 【怪奇!人口4人!?】面白すぎる「シーランド公国」の謎。
http://matome.naver.jp/odai/213545086047943280...
シーランド君ですよ!
http://www.geocities.jp/himaruya/ea.htm...
通信用語の基礎知識 シーランド公国
http://www.wdic.org/w/GEO/%E3%82%B7%E3%83%BC%E3%83...
パディ・ロイ・ベーツwikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%91%E3%83%87%E3%82%...
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クロ宗の死の儀式は存在したのか? その考察12
ウ〜ム、なんだかわからなくなってきたぞ……。
いきなり嗟嘆を漏らしたのは他でもない。>>164から>>175にかけて長々とクロ宗に関して独自の考察をタレてきて、
一応は結論が出たと勝手に決めつけていた。しかしながらこれで片づけてしまうのは、独善的であり性急すぎるというもの。
実はその後も水面下で執拗に調査を続け、このたび国内日本文化研究センター(大学共同利用機関)のHP内より、
米村竜治氏(筑紫女学園大学・文学部)という教授が執筆した『隠れキリシタンと隠れ念仏』なる資料を発見するに至った。
これが驚愕の内容だった(発表されたのは1997年以降?)。
これまで海外の『怖い島』を取り上げてきたが、流れをブッタ切って緊急速報的な感じで追記せねばなるまい。
話をまぜっ返して悪いが、この報告書によると、どうやら……クロ宗における、瀕死になった信者の生血と生き胆を取り出し、
それを飲み食いする『死の儀式』、すなわち『秘蹟』は、まんざらデマでもなさそうというのだから、その衝撃たるや如何ほどかわかってくれよう。
こんな資料が埋もれているとはまだまだ勉強不足であった。これも不徳の致すところ。
とにかく興味深い個所を引用するので、眼を通していただくのが手っ取り早い。全文を抜粋するのは長すぎるうえ、冗長になる。
クロ宗だけに『肝』となる文をピックアップしてみる。以下、アンカー部分からが引用文。
>日本にはじめてキリスト教を導入したのは、鹿児島の人アンジロウである。(中略)アンジロウの正式な呼び名はヤジロウ(弥次郎)である。
>ヤジロウは鹿児島(薩摩藩)の水軍軍師の1人であったと想像される。その彼が何らかの理由で殺人事件を起し、薩摩を脱藩する。
>勿論、逃げ行く先は海である。ポルトガルの貿易船に便乗しマラッカに流れ着く。
>1547年10月、マラッカでヤジロウはフランシスコ・ザビエルと出会う事になる。ザビエルは初めて見る日本人の容姿に驚き、同時に日本の存在を知る。
>ザビエルはヤジロウの背後に日本という国の高度な文化体系を嗅ぎとり、日本への布教を思い立つ。
>ヤジロウはやがてゴアに移り、自分の犯した殺人の行為を含めて一切の罪の赦しと神の恩寵を与えられ、キリスト教徒として新生する事になる。
(中略)
>実は、ヤジロウが島津藩を脱藩したのは単身ではなく、共に脱藩した同士が2人いた。その2人とも常にヤジロウと行動を共にし入信している。
>筆者の想像だが、この2人は薩摩水軍の軍師であるヤジロウの家来であったと思われる。この2人にはそれぞれ、ジョアン、アントニオの名が与えられている。
>ヤジロウは神を「大日」と通訳した。真言密教の大日如来の「大日」である。これには日本人の方がその誤ちを指摘してくるほどである。
>そこでザビエルはその訳はかえって神を冒漬する置換である事に気付き、以後はすべて「デウス」という言葉を使うようになる。
>同時にザビエルはキリスト教の特殊な用語に関しては日本語としての仏教用語に置換える事をやめ、ラテン語あるいはポルトガル語をそのまま使うようにした。
>扨(さて)、そのヤジロウはその後どうなったか。
>1950年以後、神の恩寵と布教のもとにあったはずの彼の行方はようとして知れない。彼は鹿児島を追われ中国へ渡りそこで死んだという。
>ルイス・フロイスが書いている。
>「信仰を棄ててしまったのか、あるいは、キリシタンであることをやめてしまったのか……」、彼は富を求めて海賊になり「シナへ渡りシナで殺されたという」、
>「しかし、それは確かなことでもなく、また彼の最期についてこれと違ったことを知るよしもない」と。
ウ〜ム、なんだかわからなくなってきたぞ……。
いきなり嗟嘆を漏らしたのは他でもない。>>164から>>175にかけて長々とクロ宗に関して独自の考察をタレてきて、
一応は結論が出たと勝手に決めつけていた。しかしながらこれで片づけてしまうのは、独善的であり性急すぎるというもの。
実はその後も水面下で執拗に調査を続け、このたび国内日本文化研究センター(大学共同利用機関)のHP内より、
米村竜治氏(筑紫女学園大学・文学部)という教授が執筆した『隠れキリシタンと隠れ念仏』なる資料を発見するに至った。
これが驚愕の内容だった(発表されたのは1997年以降?)。
これまで海外の『怖い島』を取り上げてきたが、流れをブッタ切って緊急速報的な感じで追記せねばなるまい。
話をまぜっ返して悪いが、この報告書によると、どうやら……クロ宗における、瀕死になった信者の生血と生き胆を取り出し、
それを飲み食いする『死の儀式』、すなわち『秘蹟』は、まんざらデマでもなさそうというのだから、その衝撃たるや如何ほどかわかってくれよう。
こんな資料が埋もれているとはまだまだ勉強不足であった。これも不徳の致すところ。
とにかく興味深い個所を引用するので、眼を通していただくのが手っ取り早い。全文を抜粋するのは長すぎるうえ、冗長になる。
クロ宗だけに『肝』となる文をピックアップしてみる。以下、アンカー部分からが引用文。
>日本にはじめてキリスト教を導入したのは、鹿児島の人アンジロウである。(中略)アンジロウの正式な呼び名はヤジロウ(弥次郎)である。
>ヤジロウは鹿児島(薩摩藩)の水軍軍師の1人であったと想像される。その彼が何らかの理由で殺人事件を起し、薩摩を脱藩する。
>勿論、逃げ行く先は海である。ポルトガルの貿易船に便乗しマラッカに流れ着く。
>1547年10月、マラッカでヤジロウはフランシスコ・ザビエルと出会う事になる。ザビエルは初めて見る日本人の容姿に驚き、同時に日本の存在を知る。
>ザビエルはヤジロウの背後に日本という国の高度な文化体系を嗅ぎとり、日本への布教を思い立つ。
>ヤジロウはやがてゴアに移り、自分の犯した殺人の行為を含めて一切の罪の赦しと神の恩寵を与えられ、キリスト教徒として新生する事になる。
(中略)
>実は、ヤジロウが島津藩を脱藩したのは単身ではなく、共に脱藩した同士が2人いた。その2人とも常にヤジロウと行動を共にし入信している。
>筆者の想像だが、この2人は薩摩水軍の軍師であるヤジロウの家来であったと思われる。この2人にはそれぞれ、ジョアン、アントニオの名が与えられている。
>ヤジロウは神を「大日」と通訳した。真言密教の大日如来の「大日」である。これには日本人の方がその誤ちを指摘してくるほどである。
>そこでザビエルはその訳はかえって神を冒漬する置換である事に気付き、以後はすべて「デウス」という言葉を使うようになる。
>同時にザビエルはキリスト教の特殊な用語に関しては日本語としての仏教用語に置換える事をやめ、ラテン語あるいはポルトガル語をそのまま使うようにした。
>扨(さて)、そのヤジロウはその後どうなったか。
>1950年以後、神の恩寵と布教のもとにあったはずの彼の行方はようとして知れない。彼は鹿児島を追われ中国へ渡りそこで死んだという。
>ルイス・フロイスが書いている。
>「信仰を棄ててしまったのか、あるいは、キリシタンであることをやめてしまったのか……」、彼は富を求めて海賊になり「シナへ渡りシナで殺されたという」、
>「しかし、それは確かなことでもなく、また彼の最期についてこれと違ったことを知るよしもない」と。
クロ宗の死の儀式は存在したのか? その考察13
>フーベルト・チースリクは書いている。
>「ロドリゲスの『日本教会史』のなかにもヤジロウがシナへ渡り、そこで海賊の手で殺されたと。
>だが、ロドリゲスはメンデス・ピントの『遍歴記』の報告を採り入れたものであり、ピントの書は半分以上作り話であり信憑性は疑わしい」と。
>これらの文脈を浚っていくと、ヤジロウはシナへ渡って殺されたのではなく、日本の何処かに姿を隠し、あるいは匿まわれたのではないかと思えてくる。
>イエズス会という組織の歴とした修道士・宣教師であり、サビエルを日本に連れて来た記念碑的人物が、その三年後には行方不明、
>まして死の記録が教会側に一切ないというのはどう考えても不自然である。
>ところが日本側(鹿児島本土)の基暦にはヤジロウの死を伝える言い伝えが残っていた。ヤジロウは甑島に身を隠しそこで死んだと。
>しかも下甑島の片野浦という山深い集落に、ヤジロウの墓があり、ある秘密集団によってひそかに護り続けられているという。
>早速、甑島に渡ってみる。第1回目の渡島調査が昭和53年2月の事である。この島の手打の港で、片野浦には「テンジョウバカ」と呼ばれるものがあると聞かされた。
>つまり「天上墓」である。(中略)
>昭和53年の調査の当時、天上墓という呼び名が村の墓地のシンボリックな総称であろうと筆者は勘違いをしていた。何よりも観察不充分であった。
>半円形の半ば埋められた卵形の石は、そこに人間の遺体、舎利が埋葬されている標であった筈である。
>天上墓とはシンボリックな呼称ではなく、1人の聖なる人間を埋葬した墓だったのだ。
>平成8年12月、第3回目の調査に赴いた折、ヤジロウ墓は1ヵ所に定着しているのではなく、これまで何度か違う場所に移されて来たと手打の住民から聞かされた。
>片野浦なる村は完全黙秘に沈んでいて、聞き取り調査はいきおい外部の周縁の村から出発せざるを得ない。
>この遷墓は両墓制(※前スレ>>161を参照せよ)に準ずる民俗とも思われない。
>そこで再び、天上墓の聖地を訪れてみる。すると天と地を結ぶヘソでもある、かの如き船形の石は横になぎ倒され掘りくり返されて、
>かつて見た天上墓の荘厳な様子は見る影もなかった。何処へ移されたのか。何故、移すのか。
>これまで片野浦のヤジロウ墓とそれを護り続ける秘密結社の調査にやってきたのは筆者だけではない。それこそ壮大なチームが陸続として乗りこんでいた。
>地元の鹿児島大学をはじめ宮崎大学、大分大学、長崎大学、九州大学等の5大学の民俗調査班、マスコミでは朝日新聞、NHK等々枚挙にいとまがない。
>だが如何なるる調査班であれ片野浦の拒絶にあって彼等は何も掴み得ず素手ぶりで帰ってきた。
>むしろ調査班が村に乗り込んで来るたびに片野浦は秘密の壁を厚くして沈黙した。
>それでも高度経済成長と離島開発の波に乗って、秘密共同体としての村から外へと脱ける人間が出てくる。
>その脱けた村民から周縁の村に少しづつ秘密が洩らされて来たという推移がある。
>それによると、天上墓(ヤジロウ墓)が移されたのは度重なる調査班の侵入から隠すためであるという。聖なるものは匿さなければならない。
>筆者には暴露趣味はない。然し、墓の存在を立証しない限り、筆者の論旨は先に進まない。紆余曲折の果てに墓の新たな場所が判明した。
>平成9年9月10日、第5回目の渡島の折である。日本の村の何処にでも見かける村道脇の竹藪のなかにそれはひそかに荘厳されていた(?)。
(中略)
>村の女性たちにこの墓の事を聞いてみる。「そんなものは知らない」と口々に答える。ただ1人だけ「尊い人の墓だと聞いている」という。
>1981(昭和56年)年2月、ローマ法王ヨハネ・パウロⅡ世が日本にやって来た。その折、随伴した法王庁の使節団から片野浦のヤジロウ墓を、
>訪問墓参したい旨の打診があったという。法王庁でもヤジロウ墓の事は公然の秘密として受けとめられていた模様である。
>だが片野浦はにべもなく断った。彼等の秘匿性は徹底している。
>フーベルト・チースリクは書いている。
>「ロドリゲスの『日本教会史』のなかにもヤジロウがシナへ渡り、そこで海賊の手で殺されたと。
>だが、ロドリゲスはメンデス・ピントの『遍歴記』の報告を採り入れたものであり、ピントの書は半分以上作り話であり信憑性は疑わしい」と。
>これらの文脈を浚っていくと、ヤジロウはシナへ渡って殺されたのではなく、日本の何処かに姿を隠し、あるいは匿まわれたのではないかと思えてくる。
>イエズス会という組織の歴とした修道士・宣教師であり、サビエルを日本に連れて来た記念碑的人物が、その三年後には行方不明、
>まして死の記録が教会側に一切ないというのはどう考えても不自然である。
>ところが日本側(鹿児島本土)の基暦にはヤジロウの死を伝える言い伝えが残っていた。ヤジロウは甑島に身を隠しそこで死んだと。
>しかも下甑島の片野浦という山深い集落に、ヤジロウの墓があり、ある秘密集団によってひそかに護り続けられているという。
>早速、甑島に渡ってみる。第1回目の渡島調査が昭和53年2月の事である。この島の手打の港で、片野浦には「テンジョウバカ」と呼ばれるものがあると聞かされた。
>つまり「天上墓」である。(中略)
>昭和53年の調査の当時、天上墓という呼び名が村の墓地のシンボリックな総称であろうと筆者は勘違いをしていた。何よりも観察不充分であった。
>半円形の半ば埋められた卵形の石は、そこに人間の遺体、舎利が埋葬されている標であった筈である。
>天上墓とはシンボリックな呼称ではなく、1人の聖なる人間を埋葬した墓だったのだ。
>平成8年12月、第3回目の調査に赴いた折、ヤジロウ墓は1ヵ所に定着しているのではなく、これまで何度か違う場所に移されて来たと手打の住民から聞かされた。
>片野浦なる村は完全黙秘に沈んでいて、聞き取り調査はいきおい外部の周縁の村から出発せざるを得ない。
>この遷墓は両墓制(※前スレ>>161を参照せよ)に準ずる民俗とも思われない。
>そこで再び、天上墓の聖地を訪れてみる。すると天と地を結ぶヘソでもある、かの如き船形の石は横になぎ倒され掘りくり返されて、
>かつて見た天上墓の荘厳な様子は見る影もなかった。何処へ移されたのか。何故、移すのか。
>これまで片野浦のヤジロウ墓とそれを護り続ける秘密結社の調査にやってきたのは筆者だけではない。それこそ壮大なチームが陸続として乗りこんでいた。
>地元の鹿児島大学をはじめ宮崎大学、大分大学、長崎大学、九州大学等の5大学の民俗調査班、マスコミでは朝日新聞、NHK等々枚挙にいとまがない。
>だが如何なるる調査班であれ片野浦の拒絶にあって彼等は何も掴み得ず素手ぶりで帰ってきた。
>むしろ調査班が村に乗り込んで来るたびに片野浦は秘密の壁を厚くして沈黙した。
>それでも高度経済成長と離島開発の波に乗って、秘密共同体としての村から外へと脱ける人間が出てくる。
>その脱けた村民から周縁の村に少しづつ秘密が洩らされて来たという推移がある。
>それによると、天上墓(ヤジロウ墓)が移されたのは度重なる調査班の侵入から隠すためであるという。聖なるものは匿さなければならない。
>筆者には暴露趣味はない。然し、墓の存在を立証しない限り、筆者の論旨は先に進まない。紆余曲折の果てに墓の新たな場所が判明した。
>平成9年9月10日、第5回目の渡島の折である。日本の村の何処にでも見かける村道脇の竹藪のなかにそれはひそかに荘厳されていた(?)。
(中略)
>村の女性たちにこの墓の事を聞いてみる。「そんなものは知らない」と口々に答える。ただ1人だけ「尊い人の墓だと聞いている」という。
>1981(昭和56年)年2月、ローマ法王ヨハネ・パウロⅡ世が日本にやって来た。その折、随伴した法王庁の使節団から片野浦のヤジロウ墓を、
>訪問墓参したい旨の打診があったという。法王庁でもヤジロウ墓の事は公然の秘密として受けとめられていた模様である。
>だが片野浦はにべもなく断った。彼等の秘匿性は徹底している。
クロ宗の死の儀式は存在したのか? その考察14
>片野浦は戸数48戸の小さな山中の村落である。その48戸はクロ宗、あるいはクロ教と呼ばれる宗教によって結束している。
>クロ宗のクロとはクロスのクロであるという。つまり隠れキリシタンの末裔であるとされている。
>この事は古来、鹿児島の郷土史に於いては公然の事実として扱われている。但しこのクロは筆者に言わしむればシロに対するクロであり、
>周囲の人間が付けた差別の呼び名であると思える。然しその事はここでは論じない。
(中略)
>片野浦の村落は手打の港からほぼ3キロの距離にある。この片野浦の頂点に立つ人物はサカヤと呼ばれる。
>サカヤとはサクラメントの転訛であり、秘蹟あるいは秘蹟を行う者を意味する。このサカヤに現在は賢家(サカヤ)という文字をあてている。
>サカヤは世襲制度であり大毛家による万世一系によって継承されている。サカヤは、村に対して強大な支配権を握っている。
>このクロ教の村には厳重な掟があり、村以外の人間と結婚する事は許されない。殊に大毛家の場合、この律法は厳しい。
>サカヤの息子としてサカヤを継承しなければならなかった大毛三明氏は、片野浦から北東部へ山一つ越えた青瀬という海岸の青瀬小学校の代用教員を勤めていた。
>そこで女性教師と恋愛し結婚したばかりにサカヤ継承権を奪われ、大毛の名を剥奪されて村を追われた。
>現在、山下姓を名乗っている。山下三明氏(86才)、鹿児島に移住している。
>扨、この山下三明氏などが村を脱けた1つのケースであるが、この脱けによってクロ教の実体が少しずつ外部に漏れてきたのである。
>民俗調査というものは記録史料の不在によって不明な実体とその歴史を聞き取り調査によって明らかにしていく方法を採る。
>その場合、その取材先を公表できない事情もある。筆者の場合、その取材はまずはこの『脱け』に依っている。
>そのなかのもう1つのケースを挙げれば、かつて片野浦の住人であり現在は手打の町でT薬品を営む主人(大毛姓)である。
>もっと大きい取材源もあるが、それは後述する。
>現在のサカヤは女性、大毛久枝さん(年齢推測80才代)である。三明氏が脱けたばかりに男性継承者がいなくなり、姪の久枝さんが継承してサカヤの地位にある。
>いわば、女帝である。(中略)
>ではクロ宗はいかなる秘儀によって成立しているのか。その秘匿性はどこにあるのか。それは「生き胆とり」という秘儀の故であると言われている。
>この場合の生き胆とりとは、人間の臨終に際して即座に胸を切り開いて生き胆(心臓)(※やはり心臓だった!)を取り出すのだという。
>つまり供犠の儀礼である。神に捧げる生贄として心臓を切り取る。この儀礼を村人の死に立ち会うサカヤが執行する。
>この場合、カトリックという表層宗教が地上から隠れ、教会から離れて基層へと埋没していくとき、基層民俗の生贄の祭儀へと帰着していったのか。
>別の言い方をすれば、カトリックの深層に潜む供犠の宗教を帰趨としたのか。
>いろんな要素が重層しているが、もともと、鹿児島の基層土俗には「冷えもん取い」という習俗があった事が『鹿児島の昔話』に伝えられている。
>片野浦は戸数48戸の小さな山中の村落である。その48戸はクロ宗、あるいはクロ教と呼ばれる宗教によって結束している。
>クロ宗のクロとはクロスのクロであるという。つまり隠れキリシタンの末裔であるとされている。
>この事は古来、鹿児島の郷土史に於いては公然の事実として扱われている。但しこのクロは筆者に言わしむればシロに対するクロであり、
>周囲の人間が付けた差別の呼び名であると思える。然しその事はここでは論じない。
(中略)
>片野浦の村落は手打の港からほぼ3キロの距離にある。この片野浦の頂点に立つ人物はサカヤと呼ばれる。
>サカヤとはサクラメントの転訛であり、秘蹟あるいは秘蹟を行う者を意味する。このサカヤに現在は賢家(サカヤ)という文字をあてている。
>サカヤは世襲制度であり大毛家による万世一系によって継承されている。サカヤは、村に対して強大な支配権を握っている。
>このクロ教の村には厳重な掟があり、村以外の人間と結婚する事は許されない。殊に大毛家の場合、この律法は厳しい。
>サカヤの息子としてサカヤを継承しなければならなかった大毛三明氏は、片野浦から北東部へ山一つ越えた青瀬という海岸の青瀬小学校の代用教員を勤めていた。
>そこで女性教師と恋愛し結婚したばかりにサカヤ継承権を奪われ、大毛の名を剥奪されて村を追われた。
>現在、山下姓を名乗っている。山下三明氏(86才)、鹿児島に移住している。
>扨、この山下三明氏などが村を脱けた1つのケースであるが、この脱けによってクロ教の実体が少しずつ外部に漏れてきたのである。
>民俗調査というものは記録史料の不在によって不明な実体とその歴史を聞き取り調査によって明らかにしていく方法を採る。
>その場合、その取材先を公表できない事情もある。筆者の場合、その取材はまずはこの『脱け』に依っている。
>そのなかのもう1つのケースを挙げれば、かつて片野浦の住人であり現在は手打の町でT薬品を営む主人(大毛姓)である。
>もっと大きい取材源もあるが、それは後述する。
>現在のサカヤは女性、大毛久枝さん(年齢推測80才代)である。三明氏が脱けたばかりに男性継承者がいなくなり、姪の久枝さんが継承してサカヤの地位にある。
>いわば、女帝である。(中略)
>ではクロ宗はいかなる秘儀によって成立しているのか。その秘匿性はどこにあるのか。それは「生き胆とり」という秘儀の故であると言われている。
>この場合の生き胆とりとは、人間の臨終に際して即座に胸を切り開いて生き胆(心臓)(※やはり心臓だった!)を取り出すのだという。
>つまり供犠の儀礼である。神に捧げる生贄として心臓を切り取る。この儀礼を村人の死に立ち会うサカヤが執行する。
>この場合、カトリックという表層宗教が地上から隠れ、教会から離れて基層へと埋没していくとき、基層民俗の生贄の祭儀へと帰着していったのか。
>別の言い方をすれば、カトリックの深層に潜む供犠の宗教を帰趨としたのか。
>いろんな要素が重層しているが、もともと、鹿児島の基層土俗には「冷えもん取い」という習俗があった事が『鹿児島の昔話』に伝えられている。
クロ宗の死の儀式は存在したのか? その考察15
>藩政時代の鹿児島では処刑された犯罪人の生き肝を取る事が公認されていた。「冷えもん」とは肝の事である。
>現在の鹿児島市電の二軒茶屋停留所から山に入った所に、「サカセド刑場」があった。
>そこで行われるのが冷えもん取いである。打ち首によって首が刎ね落ちると、刑場をとりまく兵児は一斉に胴体に取りつき短刀で腹部を切り裂き肝を取り合った。
>鹿児島には特産の秘薬「浅山丸」があるが、それが「冷えもん」で作られたという。つまり兵児たちにとってはそれが臨時収入であったのである。
>それは同時に生贄として他人の命を救う秘薬となった。「浅山丸」は今もあるが、今日ではおそらくそれは鹿か何かの動物の肝であろう。
>ではクロ教の場合、供犠として切り出された心蔵はどうなるのか。「六神丸」になるのだと周囲の村はいう。
>何も驚く事はない。死んだ人間の蔵器が他人の病いを癒す。これは現代、正当化され行われている蔵器移植の類型である。
>サカヤは村を支配するほどに財産家であり資金力が豊かである。
>それであってこそサカヤとクロ宗は存続し得たのである。その財力は生き肝にあると言われている。
>こういう話はすべて「脱け」(註:村から追い出された人たちのこと)からの聞き取りである。
>そこで「脱け」以外からの、外の村の人間からの聞き取りも一つだけ挙げておく必要があるだろう。下甑村立の歴史民俗資料館の調査員氏である。
>彼の父親は大工であったという。手打の港から片野浦へ、屡(しばしば)、家を建てに通ったという。
>作業中のある日、死人が出たので棺桶を造ってくれと頼まれ寝棺を造った。
>見ていると入棺の儀式が何と畳を剥いで床下で行われたという。儀礼執行人が床下から這い上って来た時、何故か、全身が血痕で真っ赤に染まっていたという。
>そして一升瓶に詰められた血を見たという。昭和21年の事である。
>扨、この種の聞き取りをどれだけ積み重ねても実証性の保証には届かない。問題は受容された表層宗教が隠れという長い時間のなかで基層土俗へと沈殿する。
>この場合、宗教学の概念では「変容」と呼ばれて来た。だが基層土俗の内容は神秘という皮を一皮めくれば現世利益である。
>だからこの場合、変容ではなくて現世利益への「転換」ないしは「置換」と言える。要するにすり換えである。
>隠れ離れという条件の如何に関わらず、もともと日本人の一般的受容の態度はこの現世利益にある。
>信仰としてでなく文化としてしか受容しなかったとすれば、それは現世利益という現実的功利性の故である。
>生贄という秘儀には罪の贖いというより冷徹な現世利益がより深く絡まっている。
>藩政時代の鹿児島では処刑された犯罪人の生き肝を取る事が公認されていた。「冷えもん」とは肝の事である。
>現在の鹿児島市電の二軒茶屋停留所から山に入った所に、「サカセド刑場」があった。
>そこで行われるのが冷えもん取いである。打ち首によって首が刎ね落ちると、刑場をとりまく兵児は一斉に胴体に取りつき短刀で腹部を切り裂き肝を取り合った。
>鹿児島には特産の秘薬「浅山丸」があるが、それが「冷えもん」で作られたという。つまり兵児たちにとってはそれが臨時収入であったのである。
>それは同時に生贄として他人の命を救う秘薬となった。「浅山丸」は今もあるが、今日ではおそらくそれは鹿か何かの動物の肝であろう。
>ではクロ教の場合、供犠として切り出された心蔵はどうなるのか。「六神丸」になるのだと周囲の村はいう。
>何も驚く事はない。死んだ人間の蔵器が他人の病いを癒す。これは現代、正当化され行われている蔵器移植の類型である。
>サカヤは村を支配するほどに財産家であり資金力が豊かである。
>それであってこそサカヤとクロ宗は存続し得たのである。その財力は生き肝にあると言われている。
>こういう話はすべて「脱け」(註:村から追い出された人たちのこと)からの聞き取りである。
>そこで「脱け」以外からの、外の村の人間からの聞き取りも一つだけ挙げておく必要があるだろう。下甑村立の歴史民俗資料館の調査員氏である。
>彼の父親は大工であったという。手打の港から片野浦へ、屡(しばしば)、家を建てに通ったという。
>作業中のある日、死人が出たので棺桶を造ってくれと頼まれ寝棺を造った。
>見ていると入棺の儀式が何と畳を剥いで床下で行われたという。儀礼執行人が床下から這い上って来た時、何故か、全身が血痕で真っ赤に染まっていたという。
>そして一升瓶に詰められた血を見たという。昭和21年の事である。
>扨、この種の聞き取りをどれだけ積み重ねても実証性の保証には届かない。問題は受容された表層宗教が隠れという長い時間のなかで基層土俗へと沈殿する。
>この場合、宗教学の概念では「変容」と呼ばれて来た。だが基層土俗の内容は神秘という皮を一皮めくれば現世利益である。
>だからこの場合、変容ではなくて現世利益への「転換」ないしは「置換」と言える。要するにすり換えである。
>隠れ離れという条件の如何に関わらず、もともと日本人の一般的受容の態度はこの現世利益にある。
>信仰としてでなく文化としてしか受容しなかったとすれば、それは現世利益という現実的功利性の故である。
>生贄という秘儀には罪の贖いというより冷徹な現世利益がより深く絡まっている。
クロ宗の死の儀式は存在したのか? その考察16
>片野浦のクロ宗の徒は藩政時代は真言宗の檀徒であったという。この真言密教の持つ呪術性、秘儀性との習合も考えられるが、
>彼等はあくまでも隠れキリシタンである。真言宗の檀徒であったという事は寺請制度による強制でもあるが、キリシタンである事を隠す擬装であったと思える。
>ところが、片野浦のかつての天上墓のあった丘に対応する地点の平地に堂々たる浄土真宗本願寺派の本堂がそびえている。
>たった48戸の村にしては立派すぎる真宗寺院である。ここで、キリシタンと真言宗と浄土真宗という3つの重層が一挙に浮かび上がって来た。
>クロ教の村にそびえる浄土真宗の寺院は村の中心に位置する。寺院名は無名である。浄土真宗本願寺派片野浦説教所と称する。
>かつては隣村の青瀬の西楽寺の管轄する寺であったが、離島の小寺では食っていけない。そこで西楽寺住職は甑島を退転し、本土へ移っていった。
>そこで現在は手打の法雲寺が片野浦の依頼によって肩代わりしている。つまり法雲寺住職・井芹大心師がクロ宗の人々の仏事法要、
>更には片野浦の本堂での報恩講を勤めている。
>然し、それは形だけであり、法雲寺住職が彼等の寺の運営や寺の法要スケジュールそのものに口出しする事は頑として拒否される。
>彼等が浄土真宗の門徒であるのは昼の時間だ。夜の時間になればクロ宗という秘儀の世界へ帰って行く。
>では誰がこの寺を建てたのか。
>サカヤの大毛家が土地を提供し、建築資金のすべてを賄ったという。それほどにサカヤには財力がある。
>かつてこの寺を管轄していた青瀬の西楽寺も表向きはクロ教に雇われていたにすぎない。西楽寺の管轄は行政上の名義にすぎない。
>この場合、名義とはクロ宗である事を隠す擬装工作でもある。というより重層体系の典型的な例証がここにはある。
(中略)
>では、隠れキリシタンの末裔であるクロ宗が何故、浄土真宗なのか。
>キリシタンと同時に弾圧を受け続け禁じられて来たのが浄土真宗である。日本列島は地域によって、その禁圧と容認の仕方が可成り違ってくるが、
>鹿児島では1500年代の初めから明治9年に至るまで浄土真宗は禁じられていた。そこで浄土真宗の門徒は隠れキリシタンと同様に、
>隠れ念仏(※前スレ>>216〜218を参照せよ)の徒となって秘密の講のもとに結集し信心を相続した。
>島津藩の採った弾圧の方法は凄惨で、一村丸潰しという藩の経済損失と引換にしてまで敢行された。
>隠れキリシタンと隠れ念仏と、公権力によって同じように禁圧され、隠れざるを得なかった「隠れるもの同士」が歴史の底の何処かで繋がり合う事はなかったろうか。
>片野浦のクロ宗の徒は藩政時代は真言宗の檀徒であったという。この真言密教の持つ呪術性、秘儀性との習合も考えられるが、
>彼等はあくまでも隠れキリシタンである。真言宗の檀徒であったという事は寺請制度による強制でもあるが、キリシタンである事を隠す擬装であったと思える。
>ところが、片野浦のかつての天上墓のあった丘に対応する地点の平地に堂々たる浄土真宗本願寺派の本堂がそびえている。
>たった48戸の村にしては立派すぎる真宗寺院である。ここで、キリシタンと真言宗と浄土真宗という3つの重層が一挙に浮かび上がって来た。
>クロ教の村にそびえる浄土真宗の寺院は村の中心に位置する。寺院名は無名である。浄土真宗本願寺派片野浦説教所と称する。
>かつては隣村の青瀬の西楽寺の管轄する寺であったが、離島の小寺では食っていけない。そこで西楽寺住職は甑島を退転し、本土へ移っていった。
>そこで現在は手打の法雲寺が片野浦の依頼によって肩代わりしている。つまり法雲寺住職・井芹大心師がクロ宗の人々の仏事法要、
>更には片野浦の本堂での報恩講を勤めている。
>然し、それは形だけであり、法雲寺住職が彼等の寺の運営や寺の法要スケジュールそのものに口出しする事は頑として拒否される。
>彼等が浄土真宗の門徒であるのは昼の時間だ。夜の時間になればクロ宗という秘儀の世界へ帰って行く。
>では誰がこの寺を建てたのか。
>サカヤの大毛家が土地を提供し、建築資金のすべてを賄ったという。それほどにサカヤには財力がある。
>かつてこの寺を管轄していた青瀬の西楽寺も表向きはクロ教に雇われていたにすぎない。西楽寺の管轄は行政上の名義にすぎない。
>この場合、名義とはクロ宗である事を隠す擬装工作でもある。というより重層体系の典型的な例証がここにはある。
(中略)
>では、隠れキリシタンの末裔であるクロ宗が何故、浄土真宗なのか。
>キリシタンと同時に弾圧を受け続け禁じられて来たのが浄土真宗である。日本列島は地域によって、その禁圧と容認の仕方が可成り違ってくるが、
>鹿児島では1500年代の初めから明治9年に至るまで浄土真宗は禁じられていた。そこで浄土真宗の門徒は隠れキリシタンと同様に、
>隠れ念仏(※前スレ>>216〜218を参照せよ)の徒となって秘密の講のもとに結集し信心を相続した。
>島津藩の採った弾圧の方法は凄惨で、一村丸潰しという藩の経済損失と引換にしてまで敢行された。
>隠れキリシタンと隠れ念仏と、公権力によって同じように禁圧され、隠れざるを得なかった「隠れるもの同士」が歴史の底の何処かで繋がり合う事はなかったろうか。
クロ宗の死の儀式は存在したのか? その考察17
……引用ここまで。今回はあえて主観を排した形で締めくくる。この報告書がどれほどまで信憑性があるのかわからないが、
荒唐無稽の一言で片づけるにしては迫真性が漲っている。
興味ある方は下記リンクのサイト(●印のところ。[PDF]隠れキリシタンと隠れ念仏 米村竜治)を閲覧されたし。
全文を読むことができる。そこで判断願いたい。
ちなみに、人の胆で作った薬『浅山丸(あさやまがん)』とは、江戸時代に死刑囚の首を切るという職業を代々継いでいた山田浅右衛門が、
内職として作っていた肺病の薬。金2分で売っていたらしい。
その薬は、首を切り落とした死刑囚の体温がまだ暖かいうちに、みぞおちの当たりを切開し、その傷口から手を入れて胆嚢を引き出したあと小刀で切り離し、
胆汁がこぼれないように切り口を糸で固く縛り、それを陰干しにして、乾燥したらケシ粒ほどの丸薬に加工したものだという。
山田家では、別棟で、それ専用の肝蔵(きもぐら)が建ててあり、夜ごと浮かばれぬ幽霊が出たとかどうとかまことしやかに伝えられている。
また、雲霧仁左衛門、鼠小僧次郎吉、日本左衛門などの巨盗を切った時には、「さぞかし肝が強いだろう」といって、買い手が殺到したとか。
なお浅右衛門は、夜寝床に入ると首の化け物に襲われるというので、女どもに三味線などを弾かせて夜を明かし、明け方からようやく寝付く習慣になった。
したがって、家計簿の支出では油代が一番多かったという逸話が残されている。
山田家は他にも、人間の肝臓や脳を原料とし、労咳に効くといわれる丸薬を製造していた。これらは山田丸・浅右衛門丸・人胆などの名で販売され、
山田浅右衛門家は莫大な収入を得ていた。また、遊女の約束用として死体の小指を売却することもあったという。
……これまでくり返し唱えてきたが、離島とは四方を海で閉ざされた空間だ。生産から死まで自己完結される小世界のなかで独自の異質な文化が発生し、
長い時間をかけて発酵していき、内地のソレとかけ離れてしまうことが、ままある。
つくづくこの世は、理性で片づくものばかりではないことを思い知らされる。
……引用ここまで。今回はあえて主観を排した形で締めくくる。この報告書がどれほどまで信憑性があるのかわからないが、
荒唐無稽の一言で片づけるにしては迫真性が漲っている。
興味ある方は下記リンクのサイト(●印のところ。[PDF]隠れキリシタンと隠れ念仏 米村竜治)を閲覧されたし。
全文を読むことができる。そこで判断願いたい。
ちなみに、人の胆で作った薬『浅山丸(あさやまがん)』とは、江戸時代に死刑囚の首を切るという職業を代々継いでいた山田浅右衛門が、
内職として作っていた肺病の薬。金2分で売っていたらしい。
その薬は、首を切り落とした死刑囚の体温がまだ暖かいうちに、みぞおちの当たりを切開し、その傷口から手を入れて胆嚢を引き出したあと小刀で切り離し、
胆汁がこぼれないように切り口を糸で固く縛り、それを陰干しにして、乾燥したらケシ粒ほどの丸薬に加工したものだという。
山田家では、別棟で、それ専用の肝蔵(きもぐら)が建ててあり、夜ごと浮かばれぬ幽霊が出たとかどうとかまことしやかに伝えられている。
また、雲霧仁左衛門、鼠小僧次郎吉、日本左衛門などの巨盗を切った時には、「さぞかし肝が強いだろう」といって、買い手が殺到したとか。
なお浅右衛門は、夜寝床に入ると首の化け物に襲われるというので、女どもに三味線などを弾かせて夜を明かし、明け方からようやく寝付く習慣になった。
したがって、家計簿の支出では油代が一番多かったという逸話が残されている。
山田家は他にも、人間の肝臓や脳を原料とし、労咳に効くといわれる丸薬を製造していた。これらは山田丸・浅右衛門丸・人胆などの名で販売され、
山田浅右衛門家は莫大な収入を得ていた。また、遊女の約束用として死体の小指を売却することもあったという。
……これまでくり返し唱えてきたが、離島とは四方を海で閉ざされた空間だ。生産から死まで自己完結される小世界のなかで独自の異質な文化が発生し、
長い時間をかけて発酵していき、内地のソレとかけ離れてしまうことが、ままある。
つくづくこの世は、理性で片づくものばかりではないことを思い知らされる。
クロ宗の死の儀式は存在したのか? その考察18
N.E.U.T.R.A.L「B級スポット」不覚にも秘密結社の村「クロ宗」に萌えてしまった
http://neutral-neutral.com/archives/187...
excite世界びっくりニュース TVディレクターが語った、鹿児島の離島に伝わる「クロ宗」と"死の儀式"
http://www.excite.co.jp/News/odd/Tocana_201503_post_59...
●[PDF]隠れキリシタンと隠れ念仏 米村竜治
http://publications.nichibun.ac.jp/region/d/NSH/series/niso/1998-...
RAPT イエズス会と真言密教と浄土真宗と人肉食信仰「クロ宗」の奇妙な接点。フランシスコ・ザビエルを日本に招いた「ヤジロウ」から分かる悪魔教の現実。
http://rapt-neo.com/?p=2788...
ヤジロウwikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A4%E3%82%B8%E3%83%...
じじい見習いのアウトドア日記 ヤジロウの墓
http://blogs.yahoo.co.jp/trout2009jp/66867414.htm...
山田浅右衛門wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E7%94%B0%E6%B5%...
読書日記 『落合論文』陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(2)
http://2006530.blog69.fc2.com/blog-entry-81.htm...
六神丸wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AD%E7%A5%9E%E4%B8%...
熊胆wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%86%8A%E8%83%8...
碧い世界 薩摩のひえもんとり
http://aoisekai487.blog7.fc2.com/blog-entry-683.htm...
鹿児島の市電と街その4 涙橋電停〜谷山電停
http://yamamomo02.web.fc2.com/siden/cityview4.htm...
Googleマップ 下甑島・片野浦の集落
http://urx3.nu/lRc...
Googleマップ 下甑島・片野浦の集落
http://urx3.nu/lRd...
※>>166で「島民と島そのものを貶める云々、島の名誉を守らねばなるまい」と書いておきながら、掌を返すようなこんな仕打ちとは鬼畜の所業ですね。
N.E.U.T.R.A.L「B級スポット」不覚にも秘密結社の村「クロ宗」に萌えてしまった
http://neutral-neutral.com/archives/187...
excite世界びっくりニュース TVディレクターが語った、鹿児島の離島に伝わる「クロ宗」と"死の儀式"
http://www.excite.co.jp/News/odd/Tocana_201503_post_59...
●[PDF]隠れキリシタンと隠れ念仏 米村竜治
http://publications.nichibun.ac.jp/region/d/NSH/series/niso/1998-...
RAPT イエズス会と真言密教と浄土真宗と人肉食信仰「クロ宗」の奇妙な接点。フランシスコ・ザビエルを日本に招いた「ヤジロウ」から分かる悪魔教の現実。
http://rapt-neo.com/?p=2788...
ヤジロウwikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A4%E3%82%B8%E3%83%...
じじい見習いのアウトドア日記 ヤジロウの墓
http://blogs.yahoo.co.jp/trout2009jp/66867414.htm...
山田浅右衛門wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E7%94%B0%E6%B5%...
読書日記 『落合論文』陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(2)
http://2006530.blog69.fc2.com/blog-entry-81.htm...
六神丸wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AD%E7%A5%9E%E4%B8%...
熊胆wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%86%8A%E8%83%8...
碧い世界 薩摩のひえもんとり
http://aoisekai487.blog7.fc2.com/blog-entry-683.htm...
鹿児島の市電と街その4 涙橋電停〜谷山電停
http://yamamomo02.web.fc2.com/siden/cityview4.htm...
Googleマップ 下甑島・片野浦の集落
http://urx3.nu/lRc...
Googleマップ 下甑島・片野浦の集落
http://urx3.nu/lRd...
※>>166で「島民と島そのものを貶める云々、島の名誉を守らねばなるまい」と書いておきながら、掌を返すようなこんな仕打ちとは鬼畜の所業ですね。
宗像の沖ノ島が世界文化遺産に登録されるといいですね。端島といい、ついに「島」の時代の到来が来そうな予感。
ある意味、時代を先取りしてたスレだったかも?
だけど沖ノ島は女人禁制で、しかも1年に一度、たった200人しか入島できない制限があるんですよね。
観光客誘致となると、そこをどう解決するかが問題・・・
ある意味、時代を先取りしてたスレだったかも?
だけど沖ノ島は女人禁制で、しかも1年に一度、たった200人しか入島できない制限があるんですよね。
観光客誘致となると、そこをどう解決するかが問題・・・
腐乱死体と隣り合わせ……風葬の村 バリ島トルニャン村
バリ島の東北部にはバトゥール湖があり、その東岸にトルニャン村と呼ばれる小集落がある。
ここではバリ・アガと呼ばれる先住民族が暮らし、彼らはヒンドゥー教徒でありながら遺体を火葬することはなく、
未婚者は土葬にし、既婚者、天寿をまっとうした者は風葬という形で送る葬送儀礼がある。
とくに後者の風葬の場合、遺体は村の郊外の安置所に、野ざらしのまま放置。
遺体には獣が荒らすのを防ぐため、竹と椰子の葉で編んだカゴをかぶせているだけ。手前には故人が生前の愛用品が置かれる。
そして自然にまかせ、やがて肉体が朽ちて白骨化するのを待つ。
遺体置き場のそばには香木が立っており、腐敗臭を打ち消すのだという。その後、骨になると頭蓋骨だけ石段に並べられ、他の部位の骨はひとまとめにされる。
トルニャン村では死後の肉体は大地へと返すべき、という考え方がある。彼らにとって風葬は、自分がきちんと正しく生きた証でもあるのだ。
TOCANA 神秘なる人骨-生と死が共存するバリ島最後の秘境「風葬の村」トルニャン
http://tocana.jp/2013/12/post_3403_entry.htm...
4travel.jp 風葬の村トルニャン
http://4travel.jp/travelogue/1049584...
バリ島の東北部にはバトゥール湖があり、その東岸にトルニャン村と呼ばれる小集落がある。
ここではバリ・アガと呼ばれる先住民族が暮らし、彼らはヒンドゥー教徒でありながら遺体を火葬することはなく、
未婚者は土葬にし、既婚者、天寿をまっとうした者は風葬という形で送る葬送儀礼がある。
とくに後者の風葬の場合、遺体は村の郊外の安置所に、野ざらしのまま放置。
遺体には獣が荒らすのを防ぐため、竹と椰子の葉で編んだカゴをかぶせているだけ。手前には故人が生前の愛用品が置かれる。
そして自然にまかせ、やがて肉体が朽ちて白骨化するのを待つ。
遺体置き場のそばには香木が立っており、腐敗臭を打ち消すのだという。その後、骨になると頭蓋骨だけ石段に並べられ、他の部位の骨はひとまとめにされる。
トルニャン村では死後の肉体は大地へと返すべき、という考え方がある。彼らにとって風葬は、自分がきちんと正しく生きた証でもあるのだ。
TOCANA 神秘なる人骨-生と死が共存するバリ島最後の秘境「風葬の村」トルニャン
http://tocana.jp/2013/12/post_3403_entry.htm...
4travel.jp 風葬の村トルニャン
http://4travel.jp/travelogue/1049584...
ここまでを振り返り、ちょっと補足を。
当スレを象徴する>>1のサムネの仏島って、単に『潮仏』なのか? 潮仏は主として志摩半島に分布し、対する仏島はすぐお隣りの三河湾だし、
伝播しても不思議ではない。潮仏は海中に祀られた石仏であり、満ち潮の際は水中に没し、干潮時にはその姿を現す。
自らが潮に濡れて苦しみを引き受けることにより、腰から下の病気を治すと信仰されており、志摩の海女たちが参るそうだ。
となると、前スレ>>188の伝説は後付けの可能性があるかも? ……詳細はつかめず。
>>207の菅島での海女の話で、海中で出会う怪異『トモカヅキ』は、低酸素症と疲労によるサードマン現象(別スレttp://bbs50.meiwasuisan.com/kaiki/1419652014/l50)
だろうね。
それはそうと、>>213のクロ宗の『秘蹟』から派生した類似の話にも触れておこう。
『カルト』『秘密結社』のキーワードでクロ宗と共通点が見つかったものがあった。それがロシアの異端『フルイストゥイ』派である。
フルイストゥイ派とは、18世紀初頭、ロシアのヴォルガ河上流にある一寒村から発祥し、ロシア全土に拡散したキリスト教系の異端の秘密結社だ。
帝政ロシア末期にあらわれた怪僧ラスプーチンも33歳のときに入信し、熱心に信仰したほど。
彼らは正教会の礼拝式にも出席するが、それとは別に身内で秘密の集会を開き、そこで特殊な宗教的法悦を得ようとする。
フルイストゥイ派の秘密の礼拝は、主として『ラディエニエ』(献身、熱情の意)と称する儀式で、基本的な形式は法悦を得るための狂熱的な一種の舞踊であった。
時としてこの儀式は暗闇のなかで、いかがわしい集団的な性の饗宴にまでに発展。またごく稀に、儀式としての殺人が行われることもあったとされている。
『ボゴロディチャ』(神の母)の地位に昇進した未婚の若い娘が、出産した男子をキリストの再来と見なし、誕生後8日目に殺害するのだという。
その血と心臓を小麦粉と蜜に混ぜ、これで奇怪な聖体拝受のための聖餐のパンを作るのだとか……。
『フルイストゥイ』とは鞭で打つという意味であり、「救済を得るために罪を犯すべし」という意味不明の原理であった。
つまり人は罪を犯せば犯すほど、それだけ深く悔い改めることができる、という人間性のパラドックスの上に立った、奇怪であり、古風な信仰だったという。
いずれにせよ、怪しいカルト宗教は、稀に常軌を逸したことをやることがあるってことが言いたいのだ。
あ痛、>>217で『隠れ念仏(※前スレ>>216〜218を参照せよ)』と書いたが、正確には『隠し念仏』だった。この2つは似て非なると書いておきながら自爆。
>>220既出ではない。どうもその手はいかがわしくてスルーしていただけ。
伊勢志摩きらり千選 御座の潮仏(志摩市志摩町御座)
http://www.kirari1000.com/www.kirari1000.com.base_data.b...
当スレを象徴する>>1のサムネの仏島って、単に『潮仏』なのか? 潮仏は主として志摩半島に分布し、対する仏島はすぐお隣りの三河湾だし、
伝播しても不思議ではない。潮仏は海中に祀られた石仏であり、満ち潮の際は水中に没し、干潮時にはその姿を現す。
自らが潮に濡れて苦しみを引き受けることにより、腰から下の病気を治すと信仰されており、志摩の海女たちが参るそうだ。
となると、前スレ>>188の伝説は後付けの可能性があるかも? ……詳細はつかめず。
>>207の菅島での海女の話で、海中で出会う怪異『トモカヅキ』は、低酸素症と疲労によるサードマン現象(別スレttp://bbs50.meiwasuisan.com/kaiki/1419652014/l50)
だろうね。
それはそうと、>>213のクロ宗の『秘蹟』から派生した類似の話にも触れておこう。
『カルト』『秘密結社』のキーワードでクロ宗と共通点が見つかったものがあった。それがロシアの異端『フルイストゥイ』派である。
フルイストゥイ派とは、18世紀初頭、ロシアのヴォルガ河上流にある一寒村から発祥し、ロシア全土に拡散したキリスト教系の異端の秘密結社だ。
帝政ロシア末期にあらわれた怪僧ラスプーチンも33歳のときに入信し、熱心に信仰したほど。
彼らは正教会の礼拝式にも出席するが、それとは別に身内で秘密の集会を開き、そこで特殊な宗教的法悦を得ようとする。
フルイストゥイ派の秘密の礼拝は、主として『ラディエニエ』(献身、熱情の意)と称する儀式で、基本的な形式は法悦を得るための狂熱的な一種の舞踊であった。
時としてこの儀式は暗闇のなかで、いかがわしい集団的な性の饗宴にまでに発展。またごく稀に、儀式としての殺人が行われることもあったとされている。
『ボゴロディチャ』(神の母)の地位に昇進した未婚の若い娘が、出産した男子をキリストの再来と見なし、誕生後8日目に殺害するのだという。
その血と心臓を小麦粉と蜜に混ぜ、これで奇怪な聖体拝受のための聖餐のパンを作るのだとか……。
『フルイストゥイ』とは鞭で打つという意味であり、「救済を得るために罪を犯すべし」という意味不明の原理であった。
つまり人は罪を犯せば犯すほど、それだけ深く悔い改めることができる、という人間性のパラドックスの上に立った、奇怪であり、古風な信仰だったという。
いずれにせよ、怪しいカルト宗教は、稀に常軌を逸したことをやることがあるってことが言いたいのだ。
あ痛、>>217で『隠れ念仏(※前スレ>>216〜218を参照せよ)』と書いたが、正確には『隠し念仏』だった。この2つは似て非なると書いておきながら自爆。
>>220既出ではない。どうもその手はいかがわしくてスルーしていただけ。
伊勢志摩きらり千選 御座の潮仏(志摩市志摩町御座)
http://www.kirari1000.com/www.kirari1000.com.base_data.b...
>>222
端島に続き、ついに時代が追いついたってか。8月2日の日曜放送の所ジョージ司会の『目がテン!』でも青ヶ島の特集、やってたしね。
沖ノ島については前スレ>>10で早々書いたので、二度も説明するまでもあるまい。強いて言えば、沖ノ島は厳格なしきたりが現在も残され、
世界遺産に登録された暁には観光客が押し寄せると予想されるが、頑なに伝統を守ってほしい。
そのしきたりとは列挙しただけでもこんなにある。①『不言様』(おいわずさま・島で見たり聞いたりしたことを、口外することは許されない)、
②一木一草一石たりとも持ち出せず(ただし島内の湧き水は例外)、③入島する際は、一糸まとわぬ姿になって海水で禊をしなくてはならない、
④女人禁制(島内にある宗像大社沖津宮では、宗像三女神の田心姫神を祀っているが、これが女人に嫉妬するため)、⑤島内での不浄、汚穢(大小便)は一切禁止、
withnews 沖ノ島、女人禁制・裸でみそぎ 本気で守られている「しきたり」
http://withnews.jp/article/f0150729001qq000000000...
「神宿る島」宗像・沖ノ島と関連遺産群を世界遺産に
http://www.okinoshima-heritage.jp/
女人禁制wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A5%B3%E4%BA%BA%E7%A6%...
宗像三女神wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%97%E5%83%8F%E4%B8%...
端島に続き、ついに時代が追いついたってか。8月2日の日曜放送の所ジョージ司会の『目がテン!』でも青ヶ島の特集、やってたしね。
沖ノ島については前スレ>>10で早々書いたので、二度も説明するまでもあるまい。強いて言えば、沖ノ島は厳格なしきたりが現在も残され、
世界遺産に登録された暁には観光客が押し寄せると予想されるが、頑なに伝統を守ってほしい。
そのしきたりとは列挙しただけでもこんなにある。①『不言様』(おいわずさま・島で見たり聞いたりしたことを、口外することは許されない)、
②一木一草一石たりとも持ち出せず(ただし島内の湧き水は例外)、③入島する際は、一糸まとわぬ姿になって海水で禊をしなくてはならない、
④女人禁制(島内にある宗像大社沖津宮では、宗像三女神の田心姫神を祀っているが、これが女人に嫉妬するため)、⑤島内での不浄、汚穢(大小便)は一切禁止、
withnews 沖ノ島、女人禁制・裸でみそぎ 本気で守られている「しきたり」
http://withnews.jp/article/f0150729001qq000000000...
「神宿る島」宗像・沖ノ島と関連遺産群を世界遺産に
http://www.okinoshima-heritage.jp/
女人禁制wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A5%B3%E4%BA%BA%E7%A6%...
宗像三女神wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%97%E5%83%8F%E4%B8%...
日本で1つだけ、『○○島』と名付けるには畏れ多い霊島 金華山
またしても悪い癖でログサイズが500KBに迫りつつあり、そろそろ当スレも終わりを迎えようとしている。
だとすれば、有終の美を飾るにふさわしい島々を紹介せねばなるまい。
福岡県宗像市の沖ノ島が厳格なしきたりを続けているが、実は東北にも多少は緩和されたとはいえ、信仰の篤い『神の島』が存在する。
それが宮城県石巻市の太平洋上に超然と浮かぶ有人島、金華山である。面積10.28km2、周囲17.3km、人口は6人。
島でありながら日本の島の中で『島』と名がつかないのは金華山だけだ。定説はないが、○○島と名付けるには畏れ多い場所で、
信仰の対象となるのはその『山』であるため、呼び名としての位は『島』よりも、『山』の方が格上だったからと言われている。
金華山は島全体が黄金山神社の神域となっており、地場の信仰の対象として知られ、恐山、出羽三山と並ぶ『奥州三霊場』に数えられる。
では黄金山神社は、どんな神を祀ってあるのか?
今からおよそ1260年遡ること天平21(749)年、陸奥国小田郡の金鉱で多くの金が採掘されたことにより、その金が朝廷に献納され、
聖武天皇がみずから奈良東大寺で一大祝賀式を設けた。
そのため金華山には鉱山の神である金山毘古神(かなやまひこのかみ)と金山毘賣神(かなやまひめのかみ)の2神が御祭神として祀られた。
それゆえ金にまつわるというところから、3年続けてこの神社に参拝すると生涯お金には不自由しないで暮らすことができると信じられた。
とはいえ近年の地質調査により「金華山は花崗岩でできた島」ということがわかっており、地質から考えて島で金が採れた可能性は低く、
むしろ金華山近くの、鮎川金山などから産出した金だったのではないかとも推測される。
万葉の歌人・大伴家持が残したこんな歌がある。『天皇(すめろぎ)の 御代(みよ)栄えむ東(あずま)なる 陸奥の山に 黄金花咲く』
この時代は金華山が陸奥の代名詞とされており、混同されたのではないか。いずれにせよ、金華山と直接『金』は関係がなかった。
しかし、牡鹿半島の豪族たちの権力により、あえて黄金のイメージを金華山に託して黄金山神社として祀ったのであろう。
神仏習合の時代になると、金華山は修験道の霊場となる。山全体を御神体とし、その中に鎮座する磐座(いわくら)を祀って聖域としてきたのである。
その後、藤原秀衡により建立された別当寺の金華山大金寺は、弁財天を守護神として明治期の廃仏毀釈で廃寺となるまで多くの信仰を集め、
江戸時代の長きにわたって弁財天の金華山信仰という民間信仰を開花させた。
明治以前まで、金華山は女人禁制の島だった。それを比較すれば、沖ノ島のしきたりはよく頑張っていると思う。
女人禁制の掟が厳しかった昔、牡鹿半島に住む亀という名前の女が禁制を犯して海を泳いで金華山へ渡ったところ、
神の怒りに触れて突然石になってしまったとも伝えられている。その『亀石』は、現在も金華山の港に佇んでいる。
また金華山への参拝を終えて帰るときは、金華山で履いた草履は島に脱ぎ置き、対岸に着くと新しい草履に履き替え、本土の土を踏んだとされている。
神聖なる金華山の神が、島の一木一草一石にいたるまで、たとえ島の土粒たりとも島外に出ていくことを嫌うからこんな因習が生まれたそうだ。
みちのくにやま 黄金花咲く金華山 霊島金華山黄金山神社
http://kinkasan.jp/
白い国の詩 東北の動物たち 金華山信仰と神鹿
http://www.tohoku-epco.co.jp/shiro/08_10/05doubutu/index.ht...
玄松子の祭神記 金山彦神・金山姫神
http://www.genbu.net/saijin/kanayamahiko.ht...
宮城県復興応援ブログ ココロ??プレス 12年に1度の御本殿御開扉巳歳御縁年大祭 前編(石巻市金華山、女川町)
http://kokoropress.blogspot.jp/2013/05/12-1.htm...
またしても悪い癖でログサイズが500KBに迫りつつあり、そろそろ当スレも終わりを迎えようとしている。
だとすれば、有終の美を飾るにふさわしい島々を紹介せねばなるまい。
福岡県宗像市の沖ノ島が厳格なしきたりを続けているが、実は東北にも多少は緩和されたとはいえ、信仰の篤い『神の島』が存在する。
それが宮城県石巻市の太平洋上に超然と浮かぶ有人島、金華山である。面積10.28km2、周囲17.3km、人口は6人。
島でありながら日本の島の中で『島』と名がつかないのは金華山だけだ。定説はないが、○○島と名付けるには畏れ多い場所で、
信仰の対象となるのはその『山』であるため、呼び名としての位は『島』よりも、『山』の方が格上だったからと言われている。
金華山は島全体が黄金山神社の神域となっており、地場の信仰の対象として知られ、恐山、出羽三山と並ぶ『奥州三霊場』に数えられる。
では黄金山神社は、どんな神を祀ってあるのか?
今からおよそ1260年遡ること天平21(749)年、陸奥国小田郡の金鉱で多くの金が採掘されたことにより、その金が朝廷に献納され、
聖武天皇がみずから奈良東大寺で一大祝賀式を設けた。
そのため金華山には鉱山の神である金山毘古神(かなやまひこのかみ)と金山毘賣神(かなやまひめのかみ)の2神が御祭神として祀られた。
それゆえ金にまつわるというところから、3年続けてこの神社に参拝すると生涯お金には不自由しないで暮らすことができると信じられた。
とはいえ近年の地質調査により「金華山は花崗岩でできた島」ということがわかっており、地質から考えて島で金が採れた可能性は低く、
むしろ金華山近くの、鮎川金山などから産出した金だったのではないかとも推測される。
万葉の歌人・大伴家持が残したこんな歌がある。『天皇(すめろぎ)の 御代(みよ)栄えむ東(あずま)なる 陸奥の山に 黄金花咲く』
この時代は金華山が陸奥の代名詞とされており、混同されたのではないか。いずれにせよ、金華山と直接『金』は関係がなかった。
しかし、牡鹿半島の豪族たちの権力により、あえて黄金のイメージを金華山に託して黄金山神社として祀ったのであろう。
神仏習合の時代になると、金華山は修験道の霊場となる。山全体を御神体とし、その中に鎮座する磐座(いわくら)を祀って聖域としてきたのである。
その後、藤原秀衡により建立された別当寺の金華山大金寺は、弁財天を守護神として明治期の廃仏毀釈で廃寺となるまで多くの信仰を集め、
江戸時代の長きにわたって弁財天の金華山信仰という民間信仰を開花させた。
明治以前まで、金華山は女人禁制の島だった。それを比較すれば、沖ノ島のしきたりはよく頑張っていると思う。
女人禁制の掟が厳しかった昔、牡鹿半島に住む亀という名前の女が禁制を犯して海を泳いで金華山へ渡ったところ、
神の怒りに触れて突然石になってしまったとも伝えられている。その『亀石』は、現在も金華山の港に佇んでいる。
また金華山への参拝を終えて帰るときは、金華山で履いた草履は島に脱ぎ置き、対岸に着くと新しい草履に履き替え、本土の土を踏んだとされている。
神聖なる金華山の神が、島の一木一草一石にいたるまで、たとえ島の土粒たりとも島外に出ていくことを嫌うからこんな因習が生まれたそうだ。
みちのくにやま 黄金花咲く金華山 霊島金華山黄金山神社
http://kinkasan.jp/
白い国の詩 東北の動物たち 金華山信仰と神鹿
http://www.tohoku-epco.co.jp/shiro/08_10/05doubutu/index.ht...
玄松子の祭神記 金山彦神・金山姫神
http://www.genbu.net/saijin/kanayamahiko.ht...
宮城県復興応援ブログ ココロ??プレス 12年に1度の御本殿御開扉巳歳御縁年大祭 前編(石巻市金華山、女川町)
http://kokoropress.blogspot.jp/2013/05/12-1.htm...
ヤドカリ葬は実在するのか? その考察1
前スレが産声をあげたのは2011年4月。当スレを合わせると4年と5ヶ月にわたり、スレの私物化も甚だしく、
長らく明和水産管理人様および皆様のお目汚し失礼してきた。この場をお借り、お詫び申し上げる。
当スレも容量の都合上、ついに今回で最終回と相成る。と言っても感傷は不要。粛々と島ネタを提示するのみだ。
さて、前スレ>>133で「ヤドカリ葬に関して鋭意調査中」と軽々しくも書いておきながらずいぶん時間が経ってしまった。
調査中と言ってしまった手前、この課題はきっちりとカタをつけなければなるまい。
島の秘密の風習やタブーを追っていると、必ず突き当たるのが『クロ宗』と『ヤドカリ葬』だった。
クロ宗に関してはさんざっぱら追究したつもりだから、これでよしとしよう。となると、某島で秘密裏に行われているという『ヤドカリ葬』の件である。
ヤドカリ葬とは読んで字のごとく、人間の遺体をチベットの鳥葬みたく、ヤドカリの群れに食べさせる葬送儀礼であろうことは想像できる。
はたして現行法(墓埋法)に触れるような、奇怪かつ野蛮とも思える風習がこの現代日本に存在するというのか?
下世話な某雑誌によると、まことしやかにこの記述が見られ、信じ難いと眉をひそめつつも、むしろ火のないところに煙は立たないはずだ。
某雑誌記者はどこからネタを仕入れたのかと疑問があった。必ずや源泉があるに違いない。
いくらネット世界は広しといえど尻尾をつかめず難航していたが、おぼろげながら輪郭がつかめるようにまでなったので、ざっくり書いてみる。
この検証をするにあたり、ある意味『怖い島』の総決算となろう。ただし容量の関係もあり、いくつもの長文レスを重ねるわけにはいかない。
かなり駆け足の、これまでとは異なる不親切なやり方でアプローチすることになる。せめて★マークをつけたところだけは刮目して欲しい。
ヤドカリ葬の記述が見られる資料は、当スレ>>166で明かした①宙出版『実録 怖い島・伝説の奇祭編』の誌上および、②漫画実話ナックルズ特別編集
『死ぬかと思った絶叫体験SPECIAL』(①②は漫画)、DVD化されている③『恐い動画 投稿&心霊地帯スペシャル2』の1編にすぎない。
これらは似たり寄ったりの情報が羅列しているため、いずれかに触発されて流用されたネタだと思われる。
この3点の、下衆で眉唾モノの媒体を鵜呑みするのは愚かしいことだが(ましてや1つはナックルズw)、異様に興味をソソられる内容ではある。軽くその概略に触れよう。
以下、資料①の要約。
奄美地方の一部集落では風葬以外の『自然葬』も行われていたという報告がある。現行法では法に触れる恐れがあり、現在では行われていないというが、
本土から遠く離れている島々では、今もなお語り継がれている奇習がある。
その奇習が『ヤドカリ葬』と呼ばれるもの。奄美全域で行われた風葬とは異なり、『とある島だけ』に残った信仰と風習が反映された葬儀様式。
『ヤドカリ葬』はチベット仏教やインドのゾロアスター教といった宗教葬儀で行われている鳥葬と様式的に似ている。鳥葬は葬儀後、遺体を郊外の荒地に運び、
それを裁断し断片化しハゲワシなどの鳥類の餌とさせるのだが、ヤドカリ葬もヤドカリが集まるところへ遺体を放置し、ヤドカリに食べさせる葬儀様式である。
この地方のヤドカリは『アマン』と呼ばれ、神聖視された生き物である。わけても岬にそそり立つ岩礁を神の姿に見立て『立神』と呼び、古くから信仰の対象としてきた。
奄美地方だけでなく、トカラ列島、大隅諸島でもこの『立神』を発見することができるが、ヤドカリ葬を行うこの岩礁を神聖なる場所と定めてニャーデバナと呼び、
『天に通じる島』として畏れ敬っていたという。
前スレが産声をあげたのは2011年4月。当スレを合わせると4年と5ヶ月にわたり、スレの私物化も甚だしく、
長らく明和水産管理人様および皆様のお目汚し失礼してきた。この場をお借り、お詫び申し上げる。
当スレも容量の都合上、ついに今回で最終回と相成る。と言っても感傷は不要。粛々と島ネタを提示するのみだ。
さて、前スレ>>133で「ヤドカリ葬に関して鋭意調査中」と軽々しくも書いておきながらずいぶん時間が経ってしまった。
調査中と言ってしまった手前、この課題はきっちりとカタをつけなければなるまい。
島の秘密の風習やタブーを追っていると、必ず突き当たるのが『クロ宗』と『ヤドカリ葬』だった。
クロ宗に関してはさんざっぱら追究したつもりだから、これでよしとしよう。となると、某島で秘密裏に行われているという『ヤドカリ葬』の件である。
ヤドカリ葬とは読んで字のごとく、人間の遺体をチベットの鳥葬みたく、ヤドカリの群れに食べさせる葬送儀礼であろうことは想像できる。
はたして現行法(墓埋法)に触れるような、奇怪かつ野蛮とも思える風習がこの現代日本に存在するというのか?
下世話な某雑誌によると、まことしやかにこの記述が見られ、信じ難いと眉をひそめつつも、むしろ火のないところに煙は立たないはずだ。
某雑誌記者はどこからネタを仕入れたのかと疑問があった。必ずや源泉があるに違いない。
いくらネット世界は広しといえど尻尾をつかめず難航していたが、おぼろげながら輪郭がつかめるようにまでなったので、ざっくり書いてみる。
この検証をするにあたり、ある意味『怖い島』の総決算となろう。ただし容量の関係もあり、いくつもの長文レスを重ねるわけにはいかない。
かなり駆け足の、これまでとは異なる不親切なやり方でアプローチすることになる。せめて★マークをつけたところだけは刮目して欲しい。
ヤドカリ葬の記述が見られる資料は、当スレ>>166で明かした①宙出版『実録 怖い島・伝説の奇祭編』の誌上および、②漫画実話ナックルズ特別編集
『死ぬかと思った絶叫体験SPECIAL』(①②は漫画)、DVD化されている③『恐い動画 投稿&心霊地帯スペシャル2』の1編にすぎない。
これらは似たり寄ったりの情報が羅列しているため、いずれかに触発されて流用されたネタだと思われる。
この3点の、下衆で眉唾モノの媒体を鵜呑みするのは愚かしいことだが(ましてや1つはナックルズw)、異様に興味をソソられる内容ではある。軽くその概略に触れよう。
以下、資料①の要約。
奄美地方の一部集落では風葬以外の『自然葬』も行われていたという報告がある。現行法では法に触れる恐れがあり、現在では行われていないというが、
本土から遠く離れている島々では、今もなお語り継がれている奇習がある。
その奇習が『ヤドカリ葬』と呼ばれるもの。奄美全域で行われた風葬とは異なり、『とある島だけ』に残った信仰と風習が反映された葬儀様式。
『ヤドカリ葬』はチベット仏教やインドのゾロアスター教といった宗教葬儀で行われている鳥葬と様式的に似ている。鳥葬は葬儀後、遺体を郊外の荒地に運び、
それを裁断し断片化しハゲワシなどの鳥類の餌とさせるのだが、ヤドカリ葬もヤドカリが集まるところへ遺体を放置し、ヤドカリに食べさせる葬儀様式である。
この地方のヤドカリは『アマン』と呼ばれ、神聖視された生き物である。わけても岬にそそり立つ岩礁を神の姿に見立て『立神』と呼び、古くから信仰の対象としてきた。
奄美地方だけでなく、トカラ列島、大隅諸島でもこの『立神』を発見することができるが、ヤドカリ葬を行うこの岩礁を神聖なる場所と定めてニャーデバナと呼び、
『天に通じる島』として畏れ敬っていたという。
ヤドカリ葬は実在するのか? その考察2
なかには伝染病の疑いにより、★『生体のまま』(つまり生きたまま)島に放置することもあったとの、俄かに信じ難い記述が見られる。
再現漫画では島民の1人が「この風習は一切口外してはならない」と、発言するシーンがある。口外することは許されないとのことから、
外部に漏れにくい構造になっているようだ。
続いて、資料②『死ぬかと思った絶叫体験SPECIAL』の要約。ほぼ①『実録 怖い島〜』と同じ内容ながら漫画はライトな印象。
江戸時代初期まで遺体をニャーデバナという岩礁に安置し、鳥葬とヤドカリ葬が行われた。ヤドカリはオカヤドカリという別種のもので、奄美方言でアマンと呼ぶ。
アマンは死者の霊を弔うものとされ、食欲旺盛なヤドカリが遺体の肉を吸い取るようにして体内へ取り込み、骨だけをきれいに残した。
また、ニャーデバナは『天に通じる島』とされ、亡くなるとそこから天に昇っていくと考えられていた。
お次は、③『恐い動画 投稿&心霊地帯スペシャル2』(パート14中12番目・南国に伝わる奇習『死者を置く島』)から。
動画は右のリンク。削除される可能性があるので、観るなら今すぐに。2時間3分20秒から開始。https://www.youtube.com/watch?v=hrmYwUy8kD...
観光地としても有名な鹿児島県A市。A島の北部ではトフル(※トウール=とおる=通る=通じるという意味の方言。つまり『天に通じる場所』)と呼ばれる洞穴がいくつも存在。
明治初期までは自然に作られた洞穴や岩陰などに遺体を葬り、風にさらし続け、白骨化するのを待った。
さらに時代を遡ると、江戸時代においては村人が死ぬと、ニャーデバナと呼ばれる小さな島に運ばれた。
その遺体はヤドカリに食べられることによって天に昇っていったという。遺体は切り立っている岩の上に置かれると数日でその姿が見えなくなり、
ヤドカリは遺体にまとわりつくと肉を吸い取るようにして死者を体内に取り込んでいたのである。
……この3点の媒体に共通するのが『ニャーデバナ』=『天に通じる島』と呼ばれる岩礁だ。まとめればこうだ。「ニャーデバナは不思議とオカヤドカリが大量に
集まる神聖な場所で、人死にがあると遺体を船で運び、岩の上に安置した。数日、数ヶ月をかけてヤドカリの群れが骨だけを残して食べ尽すという……。」
『ニャーデ』は奄美方言で何を意味するのかわからないが、『バナ』は『鼻』のことを指し、つまり『岬』を意味する。
では、このニャーデバナの在り処はどこかググったものの、見つからず難航した。往年の番組『水曜スペシャル・川口浩探検シリーズ』の川口隊長じゃあるまいし、
「我々は総力をあげて探索したが、結局、謎の猿人バーゴンを発見するには至らなかった……」みたいな、ホロ苦い結論は出したくない。
当初、資料①にある『奄美大島から連絡船に乗って4時間ほどの島』に力点をおいたせいで、固定観念が生じてしまい惑わされた。
が、こんな資料を真に受けるのがそもそも混乱を招く要因となる。結局は②や、③の動画でもわかるが、面積712.52k㎡を誇る奄美大島のどこかなのだ。
このたび執念の追跡をもってして、ついにソレらしき岩礁を特定した。
追跡にあたり、このネタに限らず、島サイト『日本の島へ行こう』http://imagic.qee.jp/には、長年にわたりお世話になった。
Googleマップやストリートビューの技術も偉大だが、時として傲慢な暴露趣味を満たすことに使われることもある。節度をわきまえるべきだと反省もしている。
……ズバリ言おう。★ニャーデバナは奄美大島の北端、笠利(かさりざき)町のビーチ内にある岩礁ではないかと推測する。
https://www.google.co.jp/maps/place/%EF%BC%88%E6%9C%89%...右の長方形っぽい岩礁がソレではないかと。
なかには伝染病の疑いにより、★『生体のまま』(つまり生きたまま)島に放置することもあったとの、俄かに信じ難い記述が見られる。
再現漫画では島民の1人が「この風習は一切口外してはならない」と、発言するシーンがある。口外することは許されないとのことから、
外部に漏れにくい構造になっているようだ。
続いて、資料②『死ぬかと思った絶叫体験SPECIAL』の要約。ほぼ①『実録 怖い島〜』と同じ内容ながら漫画はライトな印象。
江戸時代初期まで遺体をニャーデバナという岩礁に安置し、鳥葬とヤドカリ葬が行われた。ヤドカリはオカヤドカリという別種のもので、奄美方言でアマンと呼ぶ。
アマンは死者の霊を弔うものとされ、食欲旺盛なヤドカリが遺体の肉を吸い取るようにして体内へ取り込み、骨だけをきれいに残した。
また、ニャーデバナは『天に通じる島』とされ、亡くなるとそこから天に昇っていくと考えられていた。
お次は、③『恐い動画 投稿&心霊地帯スペシャル2』(パート14中12番目・南国に伝わる奇習『死者を置く島』)から。
動画は右のリンク。削除される可能性があるので、観るなら今すぐに。2時間3分20秒から開始。https://www.youtube.com/watch?v=hrmYwUy8kD...
観光地としても有名な鹿児島県A市。A島の北部ではトフル(※トウール=とおる=通る=通じるという意味の方言。つまり『天に通じる場所』)と呼ばれる洞穴がいくつも存在。
明治初期までは自然に作られた洞穴や岩陰などに遺体を葬り、風にさらし続け、白骨化するのを待った。
さらに時代を遡ると、江戸時代においては村人が死ぬと、ニャーデバナと呼ばれる小さな島に運ばれた。
その遺体はヤドカリに食べられることによって天に昇っていったという。遺体は切り立っている岩の上に置かれると数日でその姿が見えなくなり、
ヤドカリは遺体にまとわりつくと肉を吸い取るようにして死者を体内に取り込んでいたのである。
……この3点の媒体に共通するのが『ニャーデバナ』=『天に通じる島』と呼ばれる岩礁だ。まとめればこうだ。「ニャーデバナは不思議とオカヤドカリが大量に
集まる神聖な場所で、人死にがあると遺体を船で運び、岩の上に安置した。数日、数ヶ月をかけてヤドカリの群れが骨だけを残して食べ尽すという……。」
『ニャーデ』は奄美方言で何を意味するのかわからないが、『バナ』は『鼻』のことを指し、つまり『岬』を意味する。
では、このニャーデバナの在り処はどこかググったものの、見つからず難航した。往年の番組『水曜スペシャル・川口浩探検シリーズ』の川口隊長じゃあるまいし、
「我々は総力をあげて探索したが、結局、謎の猿人バーゴンを発見するには至らなかった……」みたいな、ホロ苦い結論は出したくない。
当初、資料①にある『奄美大島から連絡船に乗って4時間ほどの島』に力点をおいたせいで、固定観念が生じてしまい惑わされた。
が、こんな資料を真に受けるのがそもそも混乱を招く要因となる。結局は②や、③の動画でもわかるが、面積712.52k㎡を誇る奄美大島のどこかなのだ。
このたび執念の追跡をもってして、ついにソレらしき岩礁を特定した。
追跡にあたり、このネタに限らず、島サイト『日本の島へ行こう』http://imagic.qee.jp/には、長年にわたりお世話になった。
Googleマップやストリートビューの技術も偉大だが、時として傲慢な暴露趣味を満たすことに使われることもある。節度をわきまえるべきだと反省もしている。
……ズバリ言おう。★ニャーデバナは奄美大島の北端、笠利(かさりざき)町のビーチ内にある岩礁ではないかと推測する。
https://www.google.co.jp/maps/place/%EF%BC%88%E6%9C%89%...右の長方形っぽい岩礁がソレではないかと。
ヤドカリ葬は実在するのか? その考察3
とはいえ、ニャーデバナについての情報は、ほぼ検索に引っかからないのが実情だ。僕の手元にある乏しい文献にもまったく見当たらない。
実際に現地へ行って聞き込みをできたら御の字だが、こちとら経済的物理的な余裕はない。あるいは近隣の自動車整備工に電話で問い合わせるのも手だが……。
この際ニャーデバナは置いておいて、ヤドカリ葬の核心に迫ろう。
聖なるヤドカリに食べられることで天に召されるという構図は、ほぼチベットの鳥葬と同義なのだから理解できなくもないとして、
ヤドカリ=アマンがなぜ神聖視されているのか、本土に住む我々には計り知れないと思う。
ヤドカリに関して、奄美大島の東、約25kmに位置する喜界島の小野津集落では、こんな伝説が存在する。題名は『5つ甕(かめ・ハミンカー)伝説』。
容量の関係で全文を載せられない。下記サイトを参照せよ。リンク切れならば自力で探すしかない。
●奄美の昔話・伝説 №10 上納の機織りで子供を失う悲劇 喜界町 五つ甕
http://www.synapse.ne.jp/‾hellokids/amaminodensetu/amaminodensetu_10.htm
なおアマン神なるものについては下記サイトを参照せよ。沖縄・奄美地方版、人類創成伝説は本土の古事記と似て非なるもので、たいへん興味深い。
ヤドカリ葬を知るうえにおいて、必須の事項であろう。これもリンク切れなら、『沖縄・奄美の神話』などと打ち込んで自力で探すべし。
●かんたん神話学 洞穴の中の兄妹
http://suwa3.web.fc2.com/enkan/kantan/jp_hon/jpr03.htm...
ここでのヤドカリはオカヤドカリ(学名は『ムラサキオカヤドカリ』)を指す。本土で見られる通常サイズのソレよりも大振りで、脚や鋏が太く頑丈。
通常のヤドカリが主に海中で生息するのに対し、オカヤドカリは名前が示すとおり陸上生活をする。
基本的にヤドカリやヤシガニは乾燥に強く、空気中から酸素を取り入れ呼吸ができる特殊なエラを有する。
主に小笠原諸島と南西諸島に分布。本土では九州南部や四国南部、紀伊半島南部の太平洋岸で見られるが、南西諸島以南で繁殖時に放たれた幼生が黒潮に乗って北上し、
偶然定着できたもの。日本に生息するこのオカヤドカリ全種が国の天然記念物に指定されている。
またナキオカヤドカリなどは、その名前のとおり発音することができる。声帯などの発声器官はなく、貝殻の内側を足で引っかくことにより、
ギチギチ、ギュイギュイといった音を出すものの、音を立てる目的については解明されていない。
このオカヤドカリを奄美・沖縄地方ではアマンと呼ぶが、各集落や離島によっては若干の呼び名の差異が見られる。
アーマン、アマム、アマンツァ、アマンブ、アマンザ、アーミンチャーなど。いずれにせよ、ヤドカリは神聖な生き物の扱いを受けている。
とはいえ、ニャーデバナについての情報は、ほぼ検索に引っかからないのが実情だ。僕の手元にある乏しい文献にもまったく見当たらない。
実際に現地へ行って聞き込みをできたら御の字だが、こちとら経済的物理的な余裕はない。あるいは近隣の自動車整備工に電話で問い合わせるのも手だが……。
この際ニャーデバナは置いておいて、ヤドカリ葬の核心に迫ろう。
聖なるヤドカリに食べられることで天に召されるという構図は、ほぼチベットの鳥葬と同義なのだから理解できなくもないとして、
ヤドカリ=アマンがなぜ神聖視されているのか、本土に住む我々には計り知れないと思う。
ヤドカリに関して、奄美大島の東、約25kmに位置する喜界島の小野津集落では、こんな伝説が存在する。題名は『5つ甕(かめ・ハミンカー)伝説』。
容量の関係で全文を載せられない。下記サイトを参照せよ。リンク切れならば自力で探すしかない。
●奄美の昔話・伝説 №10 上納の機織りで子供を失う悲劇 喜界町 五つ甕
http://www.synapse.ne.jp/‾hellokids/amaminodensetu/amaminodensetu_10.htm
なおアマン神なるものについては下記サイトを参照せよ。沖縄・奄美地方版、人類創成伝説は本土の古事記と似て非なるもので、たいへん興味深い。
ヤドカリ葬を知るうえにおいて、必須の事項であろう。これもリンク切れなら、『沖縄・奄美の神話』などと打ち込んで自力で探すべし。
●かんたん神話学 洞穴の中の兄妹
http://suwa3.web.fc2.com/enkan/kantan/jp_hon/jpr03.htm...
ここでのヤドカリはオカヤドカリ(学名は『ムラサキオカヤドカリ』)を指す。本土で見られる通常サイズのソレよりも大振りで、脚や鋏が太く頑丈。
通常のヤドカリが主に海中で生息するのに対し、オカヤドカリは名前が示すとおり陸上生活をする。
基本的にヤドカリやヤシガニは乾燥に強く、空気中から酸素を取り入れ呼吸ができる特殊なエラを有する。
主に小笠原諸島と南西諸島に分布。本土では九州南部や四国南部、紀伊半島南部の太平洋岸で見られるが、南西諸島以南で繁殖時に放たれた幼生が黒潮に乗って北上し、
偶然定着できたもの。日本に生息するこのオカヤドカリ全種が国の天然記念物に指定されている。
またナキオカヤドカリなどは、その名前のとおり発音することができる。声帯などの発声器官はなく、貝殻の内側を足で引っかくことにより、
ギチギチ、ギュイギュイといった音を出すものの、音を立てる目的については解明されていない。
このオカヤドカリを奄美・沖縄地方ではアマンと呼ぶが、各集落や離島によっては若干の呼び名の差異が見られる。
アーマン、アマム、アマンツァ、アマンブ、アマンザ、アーミンチャーなど。いずれにせよ、ヤドカリは神聖な生き物の扱いを受けている。
ヤドカリ葬は実在するのか? その考察4
さて、当山昌直氏という沖縄国際大学南島文化研究所研究員の方がいる(1951年沖縄県那覇市生まれ。動物学専攻・(財)沖縄県文化振興会史料編集室室長)。
この当山氏が書いた報告書に、なんとヤドカリ葬を裏付けるような考察が見られるのだ。タイトルは『沖縄島の古風葬とオカヤドカリ類との関連について』。
それによると、オカヤドカリ類に関する方言、民話、針突(女性の成人の証として、手の甲に入れ墨をする風習)などを調べ、
オカヤドカリ類が民俗学的な面からも極めて興味深い動物と注目し、さらには祖神アマミク神との関連を指摘。
琉球のオカヤドカリ類と人との関わりは、単なる日常生活というより、琉球文化の源流とも深く関わっているとしている。
なかでも人生儀礼の大きな節目となる葬制の面からオカヤドカリ類と人との関わりについて言及しているのだ。
沖縄には古い葬制として、遺体を野外にさらした状態で行う風葬(古い風葬のことを便宜的に『古風葬』と称する) があったのは周知のとおりである。
火葬場が設置される以前の沖縄では、密閉された構造物としての墓内における一次葬も風葬といえるが、古風葬はそれと異なり、より古い時代に行われていたものだ。
多くが海岸およびそれに近い場所のアダン(タコノキ科タコノキ属の常緑小高木)を主とする海岸林や崖などで行われていたものを指す。
実はこれらの古風葬が行われていた場所はオカヤドカリ類の生息地と重なる部分が多く、腐肉食としても知られているオカヤドカリ類が何らかの形で
関わっているのではあるまいかと注目。
オカヤドカリ類は主に海岸付近に生息しているが、オカヤドカリ、ムラサキオカヤドカリの大型個体は、糸満市平和創造の森(海岸までの最短距離約300m) に
おける調査でも多くの個体が多く確認されており、さらに斎場御嶽(標高約120m、海岸までの最短距離約430m)などのように海岸から離れた、
比較的高い場所にも多くの個体が住んでいることが明らかになった。
さらに内陸部になると生息の確認が難しく情報が少なくなるが、オカヤドカリ類は海岸から約500m以内およびその範囲内の崖上までは生息地として見ることができる。
これら古風葬地はいずれも海岸から350m内。つまり古風葬の場所とオカヤドカリ類の生息地がほぼ重なっているのだ。
すなわち、オカヤドカリ類が人間の遺骸に集まり、その遺骸を食したのではないか。
オカヤドカリ類はいわゆる『海の掃除屋』としての側面をもち、海岸に打ち上げられた魚の死骸や海藻などの有機物を食べることが知られている。
筆者は他に、オカヤドカリ取扱商組合関係者の聞き取り調査時に、こんな情報を得ている。
「夜、ヤドカリ類を採取していると、ある場所に多くのオカヤドカリ類が群がっていたので、喜んで捕獲。ふと上を見上げると、頭上に首吊り自殺者の遺体があった」
人間の遺骸をオカヤドカリ類が食することについては文献等でもまだ確認してないが、これまでのオカヤドカリ類の観察から実際に行われる可能性はあると思われる。
風葬の1つとして鳥葬が知られているが、★意図的ではなかったとしても結果的には『オカヤドカリ葬』というのが成り立つのではないか。
それが沖縄島の古風葬の形態として存在したのではないかと思われる。
さて、当山昌直氏という沖縄国際大学南島文化研究所研究員の方がいる(1951年沖縄県那覇市生まれ。動物学専攻・(財)沖縄県文化振興会史料編集室室長)。
この当山氏が書いた報告書に、なんとヤドカリ葬を裏付けるような考察が見られるのだ。タイトルは『沖縄島の古風葬とオカヤドカリ類との関連について』。
それによると、オカヤドカリ類に関する方言、民話、針突(女性の成人の証として、手の甲に入れ墨をする風習)などを調べ、
オカヤドカリ類が民俗学的な面からも極めて興味深い動物と注目し、さらには祖神アマミク神との関連を指摘。
琉球のオカヤドカリ類と人との関わりは、単なる日常生活というより、琉球文化の源流とも深く関わっているとしている。
なかでも人生儀礼の大きな節目となる葬制の面からオカヤドカリ類と人との関わりについて言及しているのだ。
沖縄には古い葬制として、遺体を野外にさらした状態で行う風葬(古い風葬のことを便宜的に『古風葬』と称する) があったのは周知のとおりである。
火葬場が設置される以前の沖縄では、密閉された構造物としての墓内における一次葬も風葬といえるが、古風葬はそれと異なり、より古い時代に行われていたものだ。
多くが海岸およびそれに近い場所のアダン(タコノキ科タコノキ属の常緑小高木)を主とする海岸林や崖などで行われていたものを指す。
実はこれらの古風葬が行われていた場所はオカヤドカリ類の生息地と重なる部分が多く、腐肉食としても知られているオカヤドカリ類が何らかの形で
関わっているのではあるまいかと注目。
オカヤドカリ類は主に海岸付近に生息しているが、オカヤドカリ、ムラサキオカヤドカリの大型個体は、糸満市平和創造の森(海岸までの最短距離約300m) に
おける調査でも多くの個体が多く確認されており、さらに斎場御嶽(標高約120m、海岸までの最短距離約430m)などのように海岸から離れた、
比較的高い場所にも多くの個体が住んでいることが明らかになった。
さらに内陸部になると生息の確認が難しく情報が少なくなるが、オカヤドカリ類は海岸から約500m以内およびその範囲内の崖上までは生息地として見ることができる。
これら古風葬地はいずれも海岸から350m内。つまり古風葬の場所とオカヤドカリ類の生息地がほぼ重なっているのだ。
すなわち、オカヤドカリ類が人間の遺骸に集まり、その遺骸を食したのではないか。
オカヤドカリ類はいわゆる『海の掃除屋』としての側面をもち、海岸に打ち上げられた魚の死骸や海藻などの有機物を食べることが知られている。
筆者は他に、オカヤドカリ取扱商組合関係者の聞き取り調査時に、こんな情報を得ている。
「夜、ヤドカリ類を採取していると、ある場所に多くのオカヤドカリ類が群がっていたので、喜んで捕獲。ふと上を見上げると、頭上に首吊り自殺者の遺体があった」
人間の遺骸をオカヤドカリ類が食することについては文献等でもまだ確認してないが、これまでのオカヤドカリ類の観察から実際に行われる可能性はあると思われる。
風葬の1つとして鳥葬が知られているが、★意図的ではなかったとしても結果的には『オカヤドカリ葬』というのが成り立つのではないか。
それが沖縄島の古風葬の形態として存在したのではないかと思われる。
ヤドカリ葬は実在するのか? その考察5
しかしながらこの考察も、いくつか疑問点が残ると当山氏自身が指摘している。あくまで『可能性がある』と見るべきである。
風葬場あるところにアダン林が近くに繁茂し、アダンの実(直径15〜20cmで、パイナップルに似た外見。熟すと黄色くなり甘い芳香を放つが、
ほぼ繊維質で構成されており人間が食べるには適さない。ヤドカリの好物)が実るところにヤドカリが集まり、そのヤドカリは人の遺体に群がり食べ尽す……という図式は、
極めて自然な成り行きでそうなった。海中での溺死体にシャコ、川でのソレにはモクズガニが群がるように、甲殻類は基本的にスカベンジャーである。
それゆえ風葬を行っていた当時を知る者たちにとっては、ヤドカリは死者の化身として映ったという。
なお、沖縄〜八重山に生息するヤシガニも基本的な生態は同じ。見た目はアレだが、食するとタラバガニと遜色ない味だと言う人もいる。
ヤシガニの行動範囲はさらに広く、海岸線から6km以上も離れたところで発見されたこともある。その習性を知っているので、現地人はあえて食べない。
頭蓋骨がひとりでにトコトコ歩いているので、見れば内側にヤシガニが入っていたという事例はよくある話だった。
さらに、近藤功行氏(沖縄キリスト教学院大学・人文学部、英語コミュニケーション学科)』が書いた『与論島における洗骨習俗の現状』という報告書では、
こんな記述が見られる。
与論島では風葬は明治10年まで続き、明治11年に鹿児島県が風葬禁止令を発令し、土葬に変更され、のちに火葬へと移行していった。
それに伴い、洗骨も激減。消滅の危機を迎えている。近藤氏は与論島において洗骨について現地にて、聞き取り調査を行ったところ、迫真性のある情報を得ている。
箇条書きだが、興味を惹く部分を抜粋してみる。
①明治時代、『ジシ』(死を慈しむと書いて、『慈死』)と呼ばれる洞窟や高い岩場の下にそのまま遺体を置いて、持ち帰らないで捨てたということを古老が言っている。
②明治6年ごろ天然痘が流行り、人口の半分が死に絶えた。あまりの数の死人が出たため葬儀や埋葬が間に合わず、遺体を運んだ人まで感染する恐れがあったので、
筵(むしろ)にくるんで放置した時代がある。
③『シミャー』(風葬地)は昔、獣が入らないから、また遺体を荒らさないためにそういったところを選んだ。昔は与論島には犬がいなかった。
④明治初期の天然痘が流行ったころ、薩摩支配の時代だった。疾病が蔓延し、家族でも骨を触れない時代があった。★生きながらに捨てられたような感じの骨を
『ジシ』の中で見たことがある。
⑤焼かれるのがイヤ。昔は風葬でよかった。天然痘の時代、ゴミを捨てるように人間を処分した。★生きた人までもが、その病気になったら、死んだ人たちと同じところに、
身内の迷惑にならないように行った。
コロコロ話が変わって恐縮だが、2004年に公開された邦画『風音』http://www.cine.co.jp/fuon...では、沖縄を舞台に風葬場の場面が描かれている。
とある事情から特攻隊員の遺体を安置させ、しばらくして副主人公が現場に戻ってくると、ピキピキピキという無機質な音を立てて無数のオカヤドカリが群がるのを目撃し、
思わず怖気を振るって逃げ出すシーンがある。
物語後半にも、ある男が刺殺され、秘密裏に砂浜に埋葬される。その土饅頭の上にはアダンの実が置かれ、さもヤドカリをおびき寄せ、
ついでに埋葬された遺体をも食い尽くし、証拠を隠滅させるような形で締めくくられる。オカヤドカリは砂地なら地面を潜ることができるようだ。
さすがこの原作者(沖縄出身の芥川賞作家・目取真俊氏)、風葬について精通しているだけのことはある。
それと、冒頭と最後のあたりで蝶が舞うシーンが挿入されている。これは『再生・生』のメタファーであろう。
他にも魚を生のシンボルとし、カニ(ヤドカニも同義)は死のソレとして描いているのは注視すべきである。
しかしながらこの考察も、いくつか疑問点が残ると当山氏自身が指摘している。あくまで『可能性がある』と見るべきである。
風葬場あるところにアダン林が近くに繁茂し、アダンの実(直径15〜20cmで、パイナップルに似た外見。熟すと黄色くなり甘い芳香を放つが、
ほぼ繊維質で構成されており人間が食べるには適さない。ヤドカリの好物)が実るところにヤドカリが集まり、そのヤドカリは人の遺体に群がり食べ尽す……という図式は、
極めて自然な成り行きでそうなった。海中での溺死体にシャコ、川でのソレにはモクズガニが群がるように、甲殻類は基本的にスカベンジャーである。
それゆえ風葬を行っていた当時を知る者たちにとっては、ヤドカリは死者の化身として映ったという。
なお、沖縄〜八重山に生息するヤシガニも基本的な生態は同じ。見た目はアレだが、食するとタラバガニと遜色ない味だと言う人もいる。
ヤシガニの行動範囲はさらに広く、海岸線から6km以上も離れたところで発見されたこともある。その習性を知っているので、現地人はあえて食べない。
頭蓋骨がひとりでにトコトコ歩いているので、見れば内側にヤシガニが入っていたという事例はよくある話だった。
さらに、近藤功行氏(沖縄キリスト教学院大学・人文学部、英語コミュニケーション学科)』が書いた『与論島における洗骨習俗の現状』という報告書では、
こんな記述が見られる。
与論島では風葬は明治10年まで続き、明治11年に鹿児島県が風葬禁止令を発令し、土葬に変更され、のちに火葬へと移行していった。
それに伴い、洗骨も激減。消滅の危機を迎えている。近藤氏は与論島において洗骨について現地にて、聞き取り調査を行ったところ、迫真性のある情報を得ている。
箇条書きだが、興味を惹く部分を抜粋してみる。
①明治時代、『ジシ』(死を慈しむと書いて、『慈死』)と呼ばれる洞窟や高い岩場の下にそのまま遺体を置いて、持ち帰らないで捨てたということを古老が言っている。
②明治6年ごろ天然痘が流行り、人口の半分が死に絶えた。あまりの数の死人が出たため葬儀や埋葬が間に合わず、遺体を運んだ人まで感染する恐れがあったので、
筵(むしろ)にくるんで放置した時代がある。
③『シミャー』(風葬地)は昔、獣が入らないから、また遺体を荒らさないためにそういったところを選んだ。昔は与論島には犬がいなかった。
④明治初期の天然痘が流行ったころ、薩摩支配の時代だった。疾病が蔓延し、家族でも骨を触れない時代があった。★生きながらに捨てられたような感じの骨を
『ジシ』の中で見たことがある。
⑤焼かれるのがイヤ。昔は風葬でよかった。天然痘の時代、ゴミを捨てるように人間を処分した。★生きた人までもが、その病気になったら、死んだ人たちと同じところに、
身内の迷惑にならないように行った。
コロコロ話が変わって恐縮だが、2004年に公開された邦画『風音』http://www.cine.co.jp/fuon...では、沖縄を舞台に風葬場の場面が描かれている。
とある事情から特攻隊員の遺体を安置させ、しばらくして副主人公が現場に戻ってくると、ピキピキピキという無機質な音を立てて無数のオカヤドカリが群がるのを目撃し、
思わず怖気を振るって逃げ出すシーンがある。
物語後半にも、ある男が刺殺され、秘密裏に砂浜に埋葬される。その土饅頭の上にはアダンの実が置かれ、さもヤドカリをおびき寄せ、
ついでに埋葬された遺体をも食い尽くし、証拠を隠滅させるような形で締めくくられる。オカヤドカリは砂地なら地面を潜ることができるようだ。
さすがこの原作者(沖縄出身の芥川賞作家・目取真俊氏)、風葬について精通しているだけのことはある。
それと、冒頭と最後のあたりで蝶が舞うシーンが挿入されている。これは『再生・生』のメタファーであろう。
他にも魚を生のシンボルとし、カニ(ヤドカニも同義)は死のソレとして描いているのは注視すべきである。
ヤドカリ葬は実在するのか? その考察6
今回、ニャーデバナ単体のヤドカリ葬に迫ることはできなかったが、奄美・沖縄地方で行われた広範の風葬において、
ヤドカリにたかられる現象は比較的、日常茶飯事な出来事であったことが明らかになった。ニャーデバナでのヤドカリ葬だけが何も特別な風習なのではない。
ところで、酒井卯作氏(1925年長崎県生まれ。民俗学者、南島研究会主宰)による著書『琉球列島における死霊祭祀の構造』のなかの1編、
『死者を置く島』の項目では、風葬する名目で遺体を置いた島として、大島南西部、焼内湾の枝手久島、★大島北端のニャデ(件のニャーデバナのはず)、
今帰仁湧川のヤガンナ島、勝連浜比嘉のクバ島などを挙げている。
枝手久島などは対岸に位置する与路島の住民が、死者を板付け舟で運び、阿室側の海岸の洞窟へ放置し、風葬にしたと言われている(※恥ずかしながら未読)。
やや煩雑で、まとまりに欠ける連投レスになった。あえて決めつけはしないで締めくくろう。
ヤドカリ葬は、最後の戦いにふさわしい手強い相手だった。図らずも実話ナックルズの名誉を守る一方、奄美のタブーを暴いてしまうとは人の業の深さを感じる……。
最後に、>>57で那智勝浦の色川集落へ突撃取材へ敢行すると言っておきながら、果たせなかったのが心残りだった。
なにはともあれ、これにて『怖い島』は完!
きかい蝶の飛び交う隆起珊瑚礁の島 “五つのカメ”陶磁器(三点)を町文化財に指定
http://www.town.kikai.lg.jp/kikai06/kikai36.as...
琉球神道wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%90%89%E7%90%83%E7%A5%...
2000年・沖縄観光学ことはじめ−「墓は女の苦労」について− 奥田尚
http://www.res.otemon.ac.jp/‾okuda/theses/kankougaku02tomb.htm
★[PDF]沖縄島の古風葬とオカヤドカリ類の関連について(予報) 当山 昌直
http://okinawa-repo.lib.u-ryukyu.ac.jp:8080/bitstream/okinawa/8321/1/No31p...
[PDF]【沖縄県教育庁文化財課史料編集班】 琉球のオカヤドカリ類に関する民俗的伝承について(試論2) 当山 昌直
http://okinawa-repo.lib.u-ryukyu.ac.jp:8080/bitstream/okinawa/7797/1/No32p...
与論島クオリア アマム(ヤドカリ)の位相
http://manyu.cocolog-nifty.com/yunnu/2015/05/post-1cac.htm...
ヤシガニwikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A4%E3%82%B7%E3%82%...
沖縄観光記5
http://www.mugyu.biz-web.jp/nikki.kanko24-12.ht...
鹿児島県奄美大島の歴史と文化
http://www.sh.rim.or.jp/‾misshie/amami.htm
自然と文化 御霊を運ぶチョウ
http://homepage2.nifty.com/pie-grieche/insect-goryo.htm...
amazon.co.jpプライム 風音 [DVD]
http://www.amazon.co.jp/%E9%A2%A8%E9%9F%B3-DVD-%E4%B8%...
墓地、埋葬等に関する法律
http://law.e-gov.go.jp/htmldata/S23/S23HO048.htm...
★[PDF]与論島における洗骨習俗の現状 近藤功行
http://karn.lib.kagoshima-u.ac.jp/bitstream/123456789/14474/3/AA...
与論島クオリア 風葬感覚
http://manyu.cocolog-nifty.com/yunnu/2009/04/post-b20e.htm...
youtube 与論島の洗骨儀礼
https://www.youtube.com/watch?v=PmYqwiVzPc...
★奄美大島旅行 クチコミガイド 月の入りと朝日をみながら〜奄美②
http://4travel.jp/travelogue/1104844...
今回、ニャーデバナ単体のヤドカリ葬に迫ることはできなかったが、奄美・沖縄地方で行われた広範の風葬において、
ヤドカリにたかられる現象は比較的、日常茶飯事な出来事であったことが明らかになった。ニャーデバナでのヤドカリ葬だけが何も特別な風習なのではない。
ところで、酒井卯作氏(1925年長崎県生まれ。民俗学者、南島研究会主宰)による著書『琉球列島における死霊祭祀の構造』のなかの1編、
『死者を置く島』の項目では、風葬する名目で遺体を置いた島として、大島南西部、焼内湾の枝手久島、★大島北端のニャデ(件のニャーデバナのはず)、
今帰仁湧川のヤガンナ島、勝連浜比嘉のクバ島などを挙げている。
枝手久島などは対岸に位置する与路島の住民が、死者を板付け舟で運び、阿室側の海岸の洞窟へ放置し、風葬にしたと言われている(※恥ずかしながら未読)。
やや煩雑で、まとまりに欠ける連投レスになった。あえて決めつけはしないで締めくくろう。
ヤドカリ葬は、最後の戦いにふさわしい手強い相手だった。図らずも実話ナックルズの名誉を守る一方、奄美のタブーを暴いてしまうとは人の業の深さを感じる……。
最後に、>>57で那智勝浦の色川集落へ突撃取材へ敢行すると言っておきながら、果たせなかったのが心残りだった。
なにはともあれ、これにて『怖い島』は完!
きかい蝶の飛び交う隆起珊瑚礁の島 “五つのカメ”陶磁器(三点)を町文化財に指定
http://www.town.kikai.lg.jp/kikai06/kikai36.as...
琉球神道wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%90%89%E7%90%83%E7%A5%...
2000年・沖縄観光学ことはじめ−「墓は女の苦労」について− 奥田尚
http://www.res.otemon.ac.jp/‾okuda/theses/kankougaku02tomb.htm
★[PDF]沖縄島の古風葬とオカヤドカリ類の関連について(予報) 当山 昌直
http://okinawa-repo.lib.u-ryukyu.ac.jp:8080/bitstream/okinawa/8321/1/No31p...
[PDF]【沖縄県教育庁文化財課史料編集班】 琉球のオカヤドカリ類に関する民俗的伝承について(試論2) 当山 昌直
http://okinawa-repo.lib.u-ryukyu.ac.jp:8080/bitstream/okinawa/7797/1/No32p...
与論島クオリア アマム(ヤドカリ)の位相
http://manyu.cocolog-nifty.com/yunnu/2015/05/post-1cac.htm...
ヤシガニwikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A4%E3%82%B7%E3%82%...
沖縄観光記5
http://www.mugyu.biz-web.jp/nikki.kanko24-12.ht...
鹿児島県奄美大島の歴史と文化
http://www.sh.rim.or.jp/‾misshie/amami.htm
自然と文化 御霊を運ぶチョウ
http://homepage2.nifty.com/pie-grieche/insect-goryo.htm...
amazon.co.jpプライム 風音 [DVD]
http://www.amazon.co.jp/%E9%A2%A8%E9%9F%B3-DVD-%E4%B8%...
墓地、埋葬等に関する法律
http://law.e-gov.go.jp/htmldata/S23/S23HO048.htm...
★[PDF]与論島における洗骨習俗の現状 近藤功行
http://karn.lib.kagoshima-u.ac.jp/bitstream/123456789/14474/3/AA...
与論島クオリア 風葬感覚
http://manyu.cocolog-nifty.com/yunnu/2009/04/post-b20e.htm...
youtube 与論島の洗骨儀礼
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★奄美大島旅行 クチコミガイド 月の入りと朝日をみながら〜奄美②
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掲示板を完全に私物にしてるなw
ブログでやれ
ブログでやれ
スレ消しとけよ
スレ主の書き込みが終わってからで良かったよ、ウジ虫が湧くの。
こんな神スレを貶めるとは、人としていかがなものかと思いますね。
山伏集落800軒確認 国内最大規模、調査で初確認 九州の英彦山
日本三大修験道場の一つ、福岡、大分県境の英彦山(1199メートル)に800軒超の建物跡があることを、福岡県添田町がレーザー測量で確認した。
英彦山は江戸時代、「英彦山三千 八百坊」とうたわれるほど栄え、その数字は人口3千人、800坊を意味するとされてきたが、詳細は不明だった。
今回の調査で国内最大規模の山伏集落の姿が初めて克明になった。(西日本新聞)
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20151122-00010000-nishinp...
日本三大修験道場の一つ、福岡、大分県境の英彦山(1199メートル)に800軒超の建物跡があることを、福岡県添田町がレーザー測量で確認した。
英彦山は江戸時代、「英彦山三千 八百坊」とうたわれるほど栄え、その数字は人口3千人、800坊を意味するとされてきたが、詳細は不明だった。
今回の調査で国内最大規模の山伏集落の姿が初めて克明になった。(西日本新聞)
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20151122-00010000-nishinp...
こんな過疎スレに、なぜかほぼ同時にスレ主擁護レスが
自演お疲れ様ですww
自演お疲れ様ですww
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