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怖い島・いわくつきの村・総合
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戦時中、潜水艦と間違って米軍が爆撃した島
風に吹かれて コブ島
http://blog.livedoor.jp/ayabeda/archives/51788149.htm...
初夏の南九十九島遊覧
http://blog.goo.ne.jp/potesara-2010/e/a5d1fa0292d411...
風に吹かれて コブ島
http://blog.livedoor.jp/ayabeda/archives/51788149.htm...
初夏の南九十九島遊覧
http://blog.goo.ne.jp/potesara-2010/e/a5d1fa0292d411...
追手の追跡を振り切った『おときの一時そば』 久賀島(ひさかじま)
長崎県五島列島にある久賀島は福江島、中通島に次いで3番目に大きい島だ。
海岸線はリアス式になっており、島の北側から中央にかけて久賀港が切れ込んでいるため俯瞰からの眺めが馬蹄形に見えるのだ。
この島には>>196の瓜生島が一夜にして沈んだとされる話に酷似した『高麗島伝説』が残されており大変興味深い。
このような類型説話はいったいどこから発生したものなのだろう?
(件の沈んだとされる島が、久賀島から北上すること60km先にあったと言われる高麗島を指す)
五島列島の島々の例に漏れず、この島もキリシタンの聖地であった。
牢屋の窄(さこ)教会は1868(明治元)年のキリシタン弾圧の際、わずか6坪の独房に信者200人が8ヶ月もの間、幽閉および拷問を受けた場所だという。
現在では記念聖堂や殉教記念碑が建てられ『五島崩れ』の発祥の地とも言われている。キリスト教が解禁になったのは1873(明治6)年のことである。
それにちなみ、久賀島にはこんな民話が残されている。
今から、およそ350年ほど昔。久賀島で侍たちの追手をたくみにかわして逃亡を計っていた1人の宣教師がいた。
宣教師は追手が間近に迫っていることを察知。猪之木町の山奥あった隠れ家から夜が明けると同時に逃げ出し、やっとの思いで深浦地区にたどり着いた。
すでに太陽も東の空から姿を現していた。
近くの畑に目をやると、朝の早くから1人の婦人が畑仕事に精を出していた。どうやらソバの種を蒔いているらしい。
宣教師はこの婦人に挨拶とねぎらいの言葉をかけたあと、急ぎ足にこの場を去った。
それからしばらくもしないうちに追手の一団が深浦地区に乗り込んできた。
頭とおぼしき侍がその婦人に向かって、「この道を1人の男が通らなかったか? 宣教師だ」と聞いた。
「確かに通りましたが、その方が宣教師かどうかまでは……」と、婦人は言った。
「では、いつ時分、ここを通ったか?」
「はい、わたしが畑でソバの種を蒔いているころでしたから……」
畑を見れば、種を蒔いてからまだ2時間と経っていないにもかかわらず、不思議なことにすでに芽吹いて茎が伸び、黄金色の実を実らせていたのだ。
このソバの種を蒔いた時間帯に宣教師が通ったとすれば、さすがにこの島に隠れている可能性は低い。
おそらくすでに島外へ逃げおおせたに違いあるまい。追手たちはそう判断して追跡を諦めたという。
ソバを蒔いていた婦人の名は『おとき』だった。
この不思議な事件以来、『おときの一時そば』と言ってもてはやされ、後世まで語り草になった。
民話 伝説 of 久賀島 - Hisakajima
http://www.hisakajima.com/legend...
島の暮らしって?ー長崎県五島の暮らし(伝説と民話)
http://www.geocities.co.jp/MotorCity/3180/sub1/1205/1205....
牢屋の窄教会
http://www.tanetan.com/TRAVEL/gotoujunrei/rouyanosaku...
牢屋の窄殉教地
http://www1.odn.ne.jp/tomas/rouyaanosako2.ht...
長崎県五島列島にある久賀島は福江島、中通島に次いで3番目に大きい島だ。
海岸線はリアス式になっており、島の北側から中央にかけて久賀港が切れ込んでいるため俯瞰からの眺めが馬蹄形に見えるのだ。
この島には>>196の瓜生島が一夜にして沈んだとされる話に酷似した『高麗島伝説』が残されており大変興味深い。
このような類型説話はいったいどこから発生したものなのだろう?
(件の沈んだとされる島が、久賀島から北上すること60km先にあったと言われる高麗島を指す)
五島列島の島々の例に漏れず、この島もキリシタンの聖地であった。
牢屋の窄(さこ)教会は1868(明治元)年のキリシタン弾圧の際、わずか6坪の独房に信者200人が8ヶ月もの間、幽閉および拷問を受けた場所だという。
現在では記念聖堂や殉教記念碑が建てられ『五島崩れ』の発祥の地とも言われている。キリスト教が解禁になったのは1873(明治6)年のことである。
それにちなみ、久賀島にはこんな民話が残されている。
今から、およそ350年ほど昔。久賀島で侍たちの追手をたくみにかわして逃亡を計っていた1人の宣教師がいた。
宣教師は追手が間近に迫っていることを察知。猪之木町の山奥あった隠れ家から夜が明けると同時に逃げ出し、やっとの思いで深浦地区にたどり着いた。
すでに太陽も東の空から姿を現していた。
近くの畑に目をやると、朝の早くから1人の婦人が畑仕事に精を出していた。どうやらソバの種を蒔いているらしい。
宣教師はこの婦人に挨拶とねぎらいの言葉をかけたあと、急ぎ足にこの場を去った。
それからしばらくもしないうちに追手の一団が深浦地区に乗り込んできた。
頭とおぼしき侍がその婦人に向かって、「この道を1人の男が通らなかったか? 宣教師だ」と聞いた。
「確かに通りましたが、その方が宣教師かどうかまでは……」と、婦人は言った。
「では、いつ時分、ここを通ったか?」
「はい、わたしが畑でソバの種を蒔いているころでしたから……」
畑を見れば、種を蒔いてからまだ2時間と経っていないにもかかわらず、不思議なことにすでに芽吹いて茎が伸び、黄金色の実を実らせていたのだ。
このソバの種を蒔いた時間帯に宣教師が通ったとすれば、さすがにこの島に隠れている可能性は低い。
おそらくすでに島外へ逃げおおせたに違いあるまい。追手たちはそう判断して追跡を諦めたという。
ソバを蒔いていた婦人の名は『おとき』だった。
この不思議な事件以来、『おときの一時そば』と言ってもてはやされ、後世まで語り草になった。
民話 伝説 of 久賀島 - Hisakajima
http://www.hisakajima.com/legend...
島の暮らしって?ー長崎県五島の暮らし(伝説と民話)
http://www.geocities.co.jp/MotorCity/3180/sub1/1205/1205....
牢屋の窄教会
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牢屋の窄殉教地
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削除(by投稿者)
[YouTubeで再生]
夜ごと娘のすすり泣きと琴の音に悩まされる……。 因島(いんのしま)
因島は広島県尾道市に属し、かつては因島市として独立していた。
島名の由来としては、神功皇后を乗せた船が島に立ち寄った際、陸から多くの犬が吠えて困ったので皇后が『犬の島』と名づけ、
それがなまり『インの島』になったとか、あるいは平安時代に島が院領だったことから『院の島』が『因の島』に変遷したとも言われている。
そんな因島には『鼻の地蔵』と呼ばれる名所がある。現在では女性の恋愛成就を叶えてくれるといい重宝がられている。
その地蔵であるが、やはり悲恋伝説が背景にあるようだ。それがこんな内容。
その昔、周防の高橋蔵人の娘が都へ向かっている道中のことだった。
娘は琴の名人であり、都へは修行がてら恋人に会いに行くためであった。結婚を約束した仲だった。
ところが因島を占拠する村上水軍の金山亦兵衛康時に、関所破りの罪で囚われてしまう。
すかさず娘は琴の調べを海賊たちに聞かせたところ、その音に感じ入った海賊たちは心奪われた。
海賊の首領である康時は琴の音だけでなく、娘自身に魅了され、妾になることを要求した。ところが娘には許婚がいるのできっぱり断った。
拒絶されたのを逆恨みした康時は娘を殺害することにした。
娘はせめて最後に一曲奏でさせてくれと頼み、分身たる琴との別れを惜しむ。
琴を弾き終えると、我に返った康時の部下たちは命令に従い、娘を斬り殺した。そのあと琴は康時の館に運ばれた。
ところがそれ以来、怪異が起きる。あの娘のすすり泣く声と、奏者のいないはずの琴が夜な夜な鳴り響いたのである。
気味悪がった康時は琴を壊したが、にもかかわらずその調べは館にこだまし続けた。
人の命などをなんとも思わない康時だったが、琴の音に怯える部下たちとは、別の気持ちに苛まれた。
それは自身も尺八を奏でる康時が、もっとも大切なものを、短気を起こして自ら摘み取ってしまったことへの自責の念であった。
康時は償うべく、自然石を娘の生前の姿の浮き彫りを施した地蔵を建立し、僧侶を呼んで供養したという。
それからというもの怪異はおさまり、かわりに女性の悩みごとや縁結びとしてご利益がある地蔵として今日に至る。
因島三庄町「鼻の地蔵さん」と、参道に並ぶ石地蔵
http://blog.goo.ne.jp/tako_888k/e/0f225949a3343a68fd...
夜ごと娘のすすり泣きと琴の音に悩まされる……。 因島(いんのしま)
因島は広島県尾道市に属し、かつては因島市として独立していた。
島名の由来としては、神功皇后を乗せた船が島に立ち寄った際、陸から多くの犬が吠えて困ったので皇后が『犬の島』と名づけ、
それがなまり『インの島』になったとか、あるいは平安時代に島が院領だったことから『院の島』が『因の島』に変遷したとも言われている。
そんな因島には『鼻の地蔵』と呼ばれる名所がある。現在では女性の恋愛成就を叶えてくれるといい重宝がられている。
その地蔵であるが、やはり悲恋伝説が背景にあるようだ。それがこんな内容。
その昔、周防の高橋蔵人の娘が都へ向かっている道中のことだった。
娘は琴の名人であり、都へは修行がてら恋人に会いに行くためであった。結婚を約束した仲だった。
ところが因島を占拠する村上水軍の金山亦兵衛康時に、関所破りの罪で囚われてしまう。
すかさず娘は琴の調べを海賊たちに聞かせたところ、その音に感じ入った海賊たちは心奪われた。
海賊の首領である康時は琴の音だけでなく、娘自身に魅了され、妾になることを要求した。ところが娘には許婚がいるのできっぱり断った。
拒絶されたのを逆恨みした康時は娘を殺害することにした。
娘はせめて最後に一曲奏でさせてくれと頼み、分身たる琴との別れを惜しむ。
琴を弾き終えると、我に返った康時の部下たちは命令に従い、娘を斬り殺した。そのあと琴は康時の館に運ばれた。
ところがそれ以来、怪異が起きる。あの娘のすすり泣く声と、奏者のいないはずの琴が夜な夜な鳴り響いたのである。
気味悪がった康時は琴を壊したが、にもかかわらずその調べは館にこだまし続けた。
人の命などをなんとも思わない康時だったが、琴の音に怯える部下たちとは、別の気持ちに苛まれた。
それは自身も尺八を奏でる康時が、もっとも大切なものを、短気を起こして自ら摘み取ってしまったことへの自責の念であった。
康時は償うべく、自然石を娘の生前の姿の浮き彫りを施した地蔵を建立し、僧侶を呼んで供養したという。
それからというもの怪異はおさまり、かわりに女性の悩みごとや縁結びとしてご利益がある地蔵として今日に至る。
因島三庄町「鼻の地蔵さん」と、参道に並ぶ石地蔵
http://blog.goo.ne.jp/tako_888k/e/0f225949a3343a68fd...
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鬼ノ寝屋嶋 [能登沖にあったという島の伝説]
http://noto-folktales.blog.so-net.ne.jp/archive/c2300528792-...
舳蔵島の龍宮伝説 [奥能登・舳蔵島の民話・伝説]
http://noto-folktales.blog.so-net.ne.jp/archive/c2300527916-...
http://noto-folktales.blog.so-net.ne.jp/archive/c2300528792-...
舳蔵島の龍宮伝説 [奥能登・舳蔵島の民話・伝説]
http://noto-folktales.blog.so-net.ne.jp/archive/c2300527916-...
横浦島散策・・・
http://blog.goo.ne.jp/221414/e/cf96f6e6bfd9c82dda571...
[平家落人海道] 天草海道 冬フェスタ
http://amakusa-kaido.jp/daikaido/58...
http://blog.goo.ne.jp/221414/e/cf96f6e6bfd9c82dda571...
[平家落人海道] 天草海道 冬フェスタ
http://amakusa-kaido.jp/daikaido/58...
上野島(こうずけじま)の伝説
上野島は栃木県日光市の中禅寺湖に浮かぶ無人島だ。
しかしながら海上保安庁が定める『周囲100m以上を島とする』という定義を満たしていないため、日本の島数6852には含まれていない。
とはいえ中禅寺湖は景勝地として訪れる人も多く、そこに唯一の小島である上野島の名は広く知れ渡っている。
上野島は日光連山を中心にした山岳信仰の開祖、勝道上人の墓所の1つといわれており、島内には宝篋印塔や、勝道上人首骨納塔、
慈眼大師(天海)の墓石などがあり、不定期ながら霊跡を巡拝する遊覧船もある。
昔、下野の国(栃木県)男体の神と上野の国(群馬県)の赤城山の神が領地を争った。
男体山の神は大蛇(オロチ)、赤城の神は百足(ムカデ)に化身して戦った。
そこから戦場ヶ原 の名が付けられたが、戦いの流血で原一面が赤く染められたので一名赤沼ヶ原とも呼ばれるようになった。
その戦いの兵糧を積んで置いた所が戦場ヶ原唯一の丘(糠塚)であり、和議を結んだのが勝負が浜(菖蒲が浜)で、
男体の神が勝利の唄を歌ったのが歌ヶ浜(立木観音)であり記念に残されたのが、この上野島である。
日光讃歌(24)中禅寺湖 「上野島」
http://orimasa2009.seesaa.net/article/309984351.htm...
上野島は栃木県日光市の中禅寺湖に浮かぶ無人島だ。
しかしながら海上保安庁が定める『周囲100m以上を島とする』という定義を満たしていないため、日本の島数6852には含まれていない。
とはいえ中禅寺湖は景勝地として訪れる人も多く、そこに唯一の小島である上野島の名は広く知れ渡っている。
上野島は日光連山を中心にした山岳信仰の開祖、勝道上人の墓所の1つといわれており、島内には宝篋印塔や、勝道上人首骨納塔、
慈眼大師(天海)の墓石などがあり、不定期ながら霊跡を巡拝する遊覧船もある。
昔、下野の国(栃木県)男体の神と上野の国(群馬県)の赤城山の神が領地を争った。
男体山の神は大蛇(オロチ)、赤城の神は百足(ムカデ)に化身して戦った。
そこから戦場ヶ原 の名が付けられたが、戦いの流血で原一面が赤く染められたので一名赤沼ヶ原とも呼ばれるようになった。
その戦いの兵糧を積んで置いた所が戦場ヶ原唯一の丘(糠塚)であり、和議を結んだのが勝負が浜(菖蒲が浜)で、
男体の神が勝利の唄を歌ったのが歌ヶ浜(立木観音)であり記念に残されたのが、この上野島である。
日光讃歌(24)中禅寺湖 「上野島」
http://orimasa2009.seesaa.net/article/309984351.htm...
路傍の昆虫記: 南九州の虫たちを追いかけて (黒毛島)
http://books.google.co.jp/books?id=dDrBeOM7HMoC&pg=PA115...
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NI&sig=7xArgQ0gkYxRwGAbqoGmPNmi3Iw&hl=ja&sa=X&ei=faODUa3QJMfxkAXz44DIBA&ved=0CC8Q6AEwAA#v=onepage&q=%E9%A6%AC%E6%AF%9B
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「奴らを追い払うには、これしかない!」 杓島(しゃくじま)
>>286と同様に船幽霊伝説を、も1ついかが?
倉敷市児島通生の杓島にも類似の伝説が残っているのだ。こちらは話の背景に源平合戦があり、なんだかオドロオドロしい。
……今から800年ほど昔。1183(寿永2)年の源平水島合戦で海原を朱で染めるほどの血が流れ、
瀬戸内の水島灘には幾千もの鎧武者の屍が波間を漂い、やがて海中に没していった。
それから数100年が時が流れた……。
晩秋の静かな夜、水島灘を一隻の千石船が通りかかろうとしていた。潮は穏やかに凪いでいた。
上水島と下水島の間の名もなき島がいくつか連なる場所にさしかかったとき、突然舵が利かなくなったと思ったら、
どころからともなく「杓を貸せ……杓を貸せい……」と、不気味なうめき声が聞こえてきた。
若い舵取りと年老いた船子が船板に耳を付けてみると、どうやらうめき声は船底から響いてくるようだ。
何ごとかと甲板へ上がってきた他の船子たちも、気味の悪い声を耳にして誰もが怯える始末。
なおも「杓を貸せ……柄杓だ……」と恨めしげに続くものだから、「そんなに欲しいのならくれてやる!」と、
若い舵取りが杓を海に投げようとした。
「よせ! 奴らに杓を与えてはならん! 杓で船を沈められる言い伝えを知らんのか!」年老いた船子が舵取りから杓を取り上げようとしたが、
揉み合いになった拍子に杓が海に落ちてしまう。
その杓を海の底から白い腕がにゅっと伸びてきてつかむと一度、水の中に沈んだ。
すると海面のあちこちから、まるで分裂したかのように同じ形の杓を手にした白い腕が海藻のようにクネクネと伸びてきて群がった。
無数の腕は杓で海水を汲み上げ、伸び縮みしながら船の中にこぼした。
1本の腕だけが汲み上げる水の量はたかだか知れていたが、それが何百となると訳が違う。
無数の柄杓で何度も海水をすくい、滝のように水を注ぎ込む。たちまち船は水かさが増えていき、ゆっくり沈み始めた。
船子たちは途方に暮れ、どうすることもできない。中には恐怖でへたり込み、経文を唱える者もいた。
「奴らを追い払うには、これしかない!」と、年老いた船子が言うと、杓を手に取り底をくり抜いた。すかさずそれを海に放り投げた。
「気でも違ったか、爺。底の抜けた杓なぞ、なんになろう」と、若い舵取り。
「見るがいい」
底の抜けた杓をつかんだ白い腕が水中に消え、またぞろ分裂し姿を現わしたはいいが、これでは海水をすくい上げることができない。
白い腕はあきらめたかの様子で、次々と海中に沈み消えていく。
源平合戦で死んだ者たちはいまだに成仏できないのだろう。真水を欲して船に声をかけていたのだ。やり方がいささか婉曲的であったが。
船子たちはこれからこの海域を通るときは供養のための真水を一杯海へ注いでやろうと話し合った。
以来、その海に浮かぶ島の1つを杓島と呼ぶようになった。
舟幽霊
http://kurashikibunka.blog106.fc2.com/blog-date-20090127.htm...
柄杓島の伝説
http://www.geocities.co.jp/HeartLand-Momiji/4698/newpage8...
まんが日本昔ばなし 杓島
http://www.dailymotion.com/video/xqy9v8_mnmb-yy_creatio...
>>286と同様に船幽霊伝説を、も1ついかが?
倉敷市児島通生の杓島にも類似の伝説が残っているのだ。こちらは話の背景に源平合戦があり、なんだかオドロオドロしい。
……今から800年ほど昔。1183(寿永2)年の源平水島合戦で海原を朱で染めるほどの血が流れ、
瀬戸内の水島灘には幾千もの鎧武者の屍が波間を漂い、やがて海中に没していった。
それから数100年が時が流れた……。
晩秋の静かな夜、水島灘を一隻の千石船が通りかかろうとしていた。潮は穏やかに凪いでいた。
上水島と下水島の間の名もなき島がいくつか連なる場所にさしかかったとき、突然舵が利かなくなったと思ったら、
どころからともなく「杓を貸せ……杓を貸せい……」と、不気味なうめき声が聞こえてきた。
若い舵取りと年老いた船子が船板に耳を付けてみると、どうやらうめき声は船底から響いてくるようだ。
何ごとかと甲板へ上がってきた他の船子たちも、気味の悪い声を耳にして誰もが怯える始末。
なおも「杓を貸せ……柄杓だ……」と恨めしげに続くものだから、「そんなに欲しいのならくれてやる!」と、
若い舵取りが杓を海に投げようとした。
「よせ! 奴らに杓を与えてはならん! 杓で船を沈められる言い伝えを知らんのか!」年老いた船子が舵取りから杓を取り上げようとしたが、
揉み合いになった拍子に杓が海に落ちてしまう。
その杓を海の底から白い腕がにゅっと伸びてきてつかむと一度、水の中に沈んだ。
すると海面のあちこちから、まるで分裂したかのように同じ形の杓を手にした白い腕が海藻のようにクネクネと伸びてきて群がった。
無数の腕は杓で海水を汲み上げ、伸び縮みしながら船の中にこぼした。
1本の腕だけが汲み上げる水の量はたかだか知れていたが、それが何百となると訳が違う。
無数の柄杓で何度も海水をすくい、滝のように水を注ぎ込む。たちまち船は水かさが増えていき、ゆっくり沈み始めた。
船子たちは途方に暮れ、どうすることもできない。中には恐怖でへたり込み、経文を唱える者もいた。
「奴らを追い払うには、これしかない!」と、年老いた船子が言うと、杓を手に取り底をくり抜いた。すかさずそれを海に放り投げた。
「気でも違ったか、爺。底の抜けた杓なぞ、なんになろう」と、若い舵取り。
「見るがいい」
底の抜けた杓をつかんだ白い腕が水中に消え、またぞろ分裂し姿を現わしたはいいが、これでは海水をすくい上げることができない。
白い腕はあきらめたかの様子で、次々と海中に沈み消えていく。
源平合戦で死んだ者たちはいまだに成仏できないのだろう。真水を欲して船に声をかけていたのだ。やり方がいささか婉曲的であったが。
船子たちはこれからこの海域を通るときは供養のための真水を一杯海へ注いでやろうと話し合った。
以来、その海に浮かぶ島の1つを杓島と呼ぶようになった。
舟幽霊
http://kurashikibunka.blog106.fc2.com/blog-date-20090127.htm...
柄杓島の伝説
http://www.geocities.co.jp/HeartLand-Momiji/4698/newpage8...
まんが日本昔ばなし 杓島
http://www.dailymotion.com/video/xqy9v8_mnmb-yy_creatio...
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謎の怪音がこだまする……虚空太鼓伝説 周防大島(すおうおおしま)
山口県大島郡周防大島町に属する周防大島。国土地理院が定める正式名では屋代島と称するが、
周防国の大島であったことから単独で周防大島(または単に『大島』)と呼ばれることが多いほか、
周防大島諸島周辺の小島も含めて呼ぶこともある。
古くから瀬戸内海海上交通の要衝とされ、万葉集にもこの島を詠んだ歌があるほどである。
島には虚空太鼓(こくうだいこ)という怪異な現象が起きると伝えられている。
毎年6月ごろになると、どこからともなく太鼓のような音が聞こえてくるという奇妙なものだそうだ。
これは、かつて芸人一座を乗せた船が時化に遭い、太鼓を鳴らして助けを呼びつつ海に没したことがあり、
以来その季節になるとその太鼓の音が海から鳴り出すのだと信じられている。
動画は水前寺清子の歌『虚空太鼓』。そのものズバリのタイトルである。作詞である星野哲郎氏はまさに周防大島出身。
蛇足ながら歌詞を載せておく。この伝説を歌にするとは、なかなかマニアックだなあ……。
「瀬戸の島々 ほのぼの暮れて かもめとろとろ夢見ごろ どこからともなく聞こえくる 虚空太鼓の撥(ばち)の音は
浮かれはじめは面白く やがて悲しい人の世の 夏の花火に似たさだめ 諸行無常と 鳴りわたる
若い命を鳴門の渦に 捨てた一座の物語 宮島祭が近づけば 虚空太鼓に思い出す 西へ響いて母を呼び 北へ戻って父を呼び
波に消えゆく踊り子の 赤い小袖が 目に浮かぶ」
妖怪邸妖堂日記帳 とりあえず、虚空太鼓
http://youkaitama.seesaa.net/article/217564302.htm...
白狼山求道丸について(2)・虚空太鼓
http://ewigleere-memorium.jimdo.com/2013/01/13/%E7%99%BD%E7%8B%BC%...
%E3%81%A4%E3%81%84%E3%81%A6-%EF%BC%92-%E8%99%9A%E7%A9%BA%E5%A4%AA%E9%BC%93/
謎の怪音がこだまする……虚空太鼓伝説 周防大島(すおうおおしま)
山口県大島郡周防大島町に属する周防大島。国土地理院が定める正式名では屋代島と称するが、
周防国の大島であったことから単独で周防大島(または単に『大島』)と呼ばれることが多いほか、
周防大島諸島周辺の小島も含めて呼ぶこともある。
古くから瀬戸内海海上交通の要衝とされ、万葉集にもこの島を詠んだ歌があるほどである。
島には虚空太鼓(こくうだいこ)という怪異な現象が起きると伝えられている。
毎年6月ごろになると、どこからともなく太鼓のような音が聞こえてくるという奇妙なものだそうだ。
これは、かつて芸人一座を乗せた船が時化に遭い、太鼓を鳴らして助けを呼びつつ海に没したことがあり、
以来その季節になるとその太鼓の音が海から鳴り出すのだと信じられている。
動画は水前寺清子の歌『虚空太鼓』。そのものズバリのタイトルである。作詞である星野哲郎氏はまさに周防大島出身。
蛇足ながら歌詞を載せておく。この伝説を歌にするとは、なかなかマニアックだなあ……。
「瀬戸の島々 ほのぼの暮れて かもめとろとろ夢見ごろ どこからともなく聞こえくる 虚空太鼓の撥(ばち)の音は
浮かれはじめは面白く やがて悲しい人の世の 夏の花火に似たさだめ 諸行無常と 鳴りわたる
若い命を鳴門の渦に 捨てた一座の物語 宮島祭が近づけば 虚空太鼓に思い出す 西へ響いて母を呼び 北へ戻って父を呼び
波に消えゆく踊り子の 赤い小袖が 目に浮かぶ」
妖怪邸妖堂日記帳 とりあえず、虚空太鼓
http://youkaitama.seesaa.net/article/217564302.htm...
白狼山求道丸について(2)・虚空太鼓
http://ewigleere-memorium.jimdo.com/2013/01/13/%E7%99%BD%E7%8B%BC%...
%E3%81%A4%E3%81%84%E3%81%A6-%EF%BC%92-%E8%99%9A%E7%A9%BA%E5%A4%AA%E9%BC%93/
今日のニュース『駒大の男女2人死亡…水温5度の野尻湖で水遊び』のTVの映像見てたら島が映ったので、さっそくチェック。
で、こんなん出ましたけど。
樅ヶ崎=上水内郡信濃町大字野尻(長野県)はるかから歴史もみてきたか妙高山 [岬めぐり] 野尻湖・琵琶島
http://dendenmushimushi.blog.so-net.ne.jp/2010-06-1...
で、こんなん出ましたけど。
樅ヶ崎=上水内郡信濃町大字野尻(長野県)はるかから歴史もみてきたか妙高山 [岬めぐり] 野尻湖・琵琶島
http://dendenmushimushi.blog.so-net.ne.jp/2010-06-1...
【特別企画】浦島太郎伝説〜補陀落渡海に見える理想郷とは 1
ゴールデンウィーク最終日にして特別企画をお送りする。本当はだいぶ前から温めていたネタだったが、なかなかうまくまとまらず、
今日まで長引いてしまった。
昔話の定番の1つである『浦島太郎』。この物語にまつわる地域は多い。
京都府与謝郡伊根町をはじめ、香川県三豊市(旧三豊郡詫間町)、広島県尾道市、愛知県武豊町、鹿児島県(長崎鼻、喜界島など)、沖縄、
神奈川県横浜市、長野県上松市……など、離島に限らず市まで及び、とにかく枚挙に暇がない。微妙に話の筋が異なるバージョンもあるのだが、
基本的なプロットはみな一緒である。その数、なんと全国40か所にも及ぶというから驚きである。
今さら『浦島太郎』の話の内容をここに書き連ねることもあるまい。
ただ、『桃太郎』や『鶴の恩返し』『金太郎』の定番モノとは結末が異質であることは誰もがお気づきかと思われる。
このような後味悪い(少なくともカタルシスは得られず、ビターな余韻が残ると言ってもよい)締めくくり方の寓話はめずらしくないにせよ、
賢明なる読者諸兄ならば『浦島太郎』に様々なメタファーが隠されているのが汲み取れよう。
『亀』は何の象徴なのか? そもそも竜などいもしないのになぜ『竜宮城』なのか? なぜ海中にある設定なのか?
玉手箱を開けると、なぜ浦島太郎はたちまち年をとってしまったのか?
ここでは『竜宮城』が何を示唆するのか、焦点を当ててみたい。やや島ネタから脱線するかもしれないので何卒ご寛恕のほどを。
では、いざ長文失礼つかまつる。
浦島の話は、8世紀の文献である『日本書紀』や『丹後国風土記』の逸文に登場するのが最古とされている。
『浦島太郎』は『浦嶋子』、『竜宮城』は『蓬莱山(とこよのくに)』、『玉手箱』は『玉匣(たまくしげ=化粧箱)』と呼ばれているが、
『丹後国風土記』の逸文に記されるあらすじは、現在に伝わる浦島伝説とほぼ同義である。
とはいえ浦嶋子が亀を助けた冒頭部がないことや、乙姫様が亀の化身であり、しかも『亀姫』と呼ばれていたこと、
玉匣を開けると浦嶋子が鶴となって浜から飛び去るなど、いくつか相違点もある。
さらには8世紀に書かれた浦島伝説は、7世紀末の日本の文人、伊預部馬養による創作と考える人がいる一方、実在の人物の実体験に基づく伝説だと
主張する人もいる。それがこんな話だ。
2000年9月に放送されたフジテレビの『奇跡体験!アンビリーバボー』によると、浦島太郎は日本から南東へ3700km離れたミクロネシアの
ポナペ島に潮流で漂着して、そこから帰還した漁師の体験談であるとする説を放送した。
番組によれば、ポナペ島南東の海底に『聖なる都市』という意味の『カーニムエイソ』という海域があり、そこは強烈な磁気のせいで時間の感覚が
なくなってしまうという。
この磁場を取り囲むように、高さ5mほどの丸い石柱19本が海底に建てられており、まるで海底都市の遺跡ような外観を呈している。
奇しくもこの地域には、次のような伝説が残されているのだ。
『昔、ある男が、海を泳いでいると亀に出会い、泳いでついて行くとカーニムエイソの海底都市を発見。
彼は、カーニムエイソでの体験を絶対話してはいけないと言われたにもかかわらず、地上に戻るとまわりの人たちに喋ってしまった。
すると次の瞬間、男は死んでしまった……』
ゴールデンウィーク最終日にして特別企画をお送りする。本当はだいぶ前から温めていたネタだったが、なかなかうまくまとまらず、
今日まで長引いてしまった。
昔話の定番の1つである『浦島太郎』。この物語にまつわる地域は多い。
京都府与謝郡伊根町をはじめ、香川県三豊市(旧三豊郡詫間町)、広島県尾道市、愛知県武豊町、鹿児島県(長崎鼻、喜界島など)、沖縄、
神奈川県横浜市、長野県上松市……など、離島に限らず市まで及び、とにかく枚挙に暇がない。微妙に話の筋が異なるバージョンもあるのだが、
基本的なプロットはみな一緒である。その数、なんと全国40か所にも及ぶというから驚きである。
今さら『浦島太郎』の話の内容をここに書き連ねることもあるまい。
ただ、『桃太郎』や『鶴の恩返し』『金太郎』の定番モノとは結末が異質であることは誰もがお気づきかと思われる。
このような後味悪い(少なくともカタルシスは得られず、ビターな余韻が残ると言ってもよい)締めくくり方の寓話はめずらしくないにせよ、
賢明なる読者諸兄ならば『浦島太郎』に様々なメタファーが隠されているのが汲み取れよう。
『亀』は何の象徴なのか? そもそも竜などいもしないのになぜ『竜宮城』なのか? なぜ海中にある設定なのか?
玉手箱を開けると、なぜ浦島太郎はたちまち年をとってしまったのか?
ここでは『竜宮城』が何を示唆するのか、焦点を当ててみたい。やや島ネタから脱線するかもしれないので何卒ご寛恕のほどを。
では、いざ長文失礼つかまつる。
浦島の話は、8世紀の文献である『日本書紀』や『丹後国風土記』の逸文に登場するのが最古とされている。
『浦島太郎』は『浦嶋子』、『竜宮城』は『蓬莱山(とこよのくに)』、『玉手箱』は『玉匣(たまくしげ=化粧箱)』と呼ばれているが、
『丹後国風土記』の逸文に記されるあらすじは、現在に伝わる浦島伝説とほぼ同義である。
とはいえ浦嶋子が亀を助けた冒頭部がないことや、乙姫様が亀の化身であり、しかも『亀姫』と呼ばれていたこと、
玉匣を開けると浦嶋子が鶴となって浜から飛び去るなど、いくつか相違点もある。
さらには8世紀に書かれた浦島伝説は、7世紀末の日本の文人、伊預部馬養による創作と考える人がいる一方、実在の人物の実体験に基づく伝説だと
主張する人もいる。それがこんな話だ。
2000年9月に放送されたフジテレビの『奇跡体験!アンビリーバボー』によると、浦島太郎は日本から南東へ3700km離れたミクロネシアの
ポナペ島に潮流で漂着して、そこから帰還した漁師の体験談であるとする説を放送した。
番組によれば、ポナペ島南東の海底に『聖なる都市』という意味の『カーニムエイソ』という海域があり、そこは強烈な磁気のせいで時間の感覚が
なくなってしまうという。
この磁場を取り囲むように、高さ5mほどの丸い石柱19本が海底に建てられており、まるで海底都市の遺跡ような外観を呈している。
奇しくもこの地域には、次のような伝説が残されているのだ。
『昔、ある男が、海を泳いでいると亀に出会い、泳いでついて行くとカーニムエイソの海底都市を発見。
彼は、カーニムエイソでの体験を絶対話してはいけないと言われたにもかかわらず、地上に戻るとまわりの人たちに喋ってしまった。
すると次の瞬間、男は死んでしまった……』
【特別企画】浦島太郎伝説〜補陀落渡海に見える理想郷とは 2
……秘密を口外したことは、玉手箱を開けてしまったことと同義であろう。
浦島太郎がミクロネシアの島に漂着したとすれば、現地人となる通過儀礼を受けたのかもしれない。
島国では外種を欲する種族本能があり(近親交配は種を停滞、もしくは劣性遺伝子の発現を伴うため)、アウトサイダーである浦島太郎は
濃密な歓待でもてなされ、神のように崇められたとも考えられる。やがて首長の娘と結婚したとも考えるのは飛躍的だろうか。
もっともポナペ島は日本から遠すぎて、『丹後国風土記』の逸文が示すように、とても3日では漂着できないから物理的に無理があるらしいが。
一方、日本にもっと近いところでは、琉球諸島が伝説発祥の地とする説が自然なようだ。
竜宮城は宮殿のイメージから首里城(沖縄県那覇市)を指し、『竜宮』は『琉球』のなまりから来ているのではないかと言われている。
話を混乱させて悪いが、ポリネシアの古語に『LILUKU』という言葉があるそうだ。LIUは『長期滞在』、KUは『島』を指す。
反対に竜宮は『りゅうく』とも読める。Liuku(リュウク)が本来の音だろう。すなわち『琉球』だと解釈できる。
そして1995年には、竜宮城にふさわしい海底遺跡が与那国島近海で発見された。そういうわけで、竜宮城の在り処は推して知るべしだ。
……ところで、17世紀中ごろから沖縄県の八重山諸島にある波照間島の島民は、琉球政府による重い人頭税制度に苦しめられ、
泣く泣く>>23>>24の与那国島におけるクブラバリや人舛田のような、目も覆わんばかりの口減らしを余儀なくされたと書いた。
過酷な人頭税に苦しめられた島民は島から逃げ出したい一心で、はるか南方洋上の楽園への脱出を夢見たというのだ。
それが『南波照間島』(パイ・パティローマ)だった。八重山の言葉で『パイ』とは『南』を、『パティローマ』は『波照間』を意味する。
伝承では、島の西のはずれにある屋古村(やぐむら)のアカマリという男が中心になり、村人40〜50人を率い、マーラン船(王府の運搬船)を奪って
南の海へ脱出したと伝えられている。
琉球国は明治になって沖縄県となったが、 明治25年1月、島の人たちから「南波照間島へ行った屋古村の者たちに会ってみたい」と、
言われた県知事は海軍省に依頼。その島を探してもらうことにした。ところが海軍省は、沖縄から東南アジアに到る海をくまなく調査したものの、
島を見つけることはできなかった。なぜならば、その島は地図上には存在しない夢想の理想郷にすぎなかったからだ。
とはいえ今でも島の古老たちは、自分たちの住む波照間島の南の彼方に、 同胞たちが平和に暮らしていると信じているそうだ。
とすれば、お次は『ニライカナイ』の出番である。
当スレ『怖い島・いわくつきの村・総合』を続けていくにあたり、ニライカナイは切っても切れない要素であると思う。
何度も言ってきたが、ニライカナイの『ニライ』とは、『根の国、底の国』という意味であり、『カナイ』は空の上のところだと言われている。
根の国、底の国から転じて、海のかなりの楽土、奥底の知れない遠い神の国を指す。
つまり、現世の人間が憧れてやまない理想郷と端的に言い切っても差し支えあるまい。
……秘密を口外したことは、玉手箱を開けてしまったことと同義であろう。
浦島太郎がミクロネシアの島に漂着したとすれば、現地人となる通過儀礼を受けたのかもしれない。
島国では外種を欲する種族本能があり(近親交配は種を停滞、もしくは劣性遺伝子の発現を伴うため)、アウトサイダーである浦島太郎は
濃密な歓待でもてなされ、神のように崇められたとも考えられる。やがて首長の娘と結婚したとも考えるのは飛躍的だろうか。
もっともポナペ島は日本から遠すぎて、『丹後国風土記』の逸文が示すように、とても3日では漂着できないから物理的に無理があるらしいが。
一方、日本にもっと近いところでは、琉球諸島が伝説発祥の地とする説が自然なようだ。
竜宮城は宮殿のイメージから首里城(沖縄県那覇市)を指し、『竜宮』は『琉球』のなまりから来ているのではないかと言われている。
話を混乱させて悪いが、ポリネシアの古語に『LILUKU』という言葉があるそうだ。LIUは『長期滞在』、KUは『島』を指す。
反対に竜宮は『りゅうく』とも読める。Liuku(リュウク)が本来の音だろう。すなわち『琉球』だと解釈できる。
そして1995年には、竜宮城にふさわしい海底遺跡が与那国島近海で発見された。そういうわけで、竜宮城の在り処は推して知るべしだ。
……ところで、17世紀中ごろから沖縄県の八重山諸島にある波照間島の島民は、琉球政府による重い人頭税制度に苦しめられ、
泣く泣く>>23>>24の与那国島におけるクブラバリや人舛田のような、目も覆わんばかりの口減らしを余儀なくされたと書いた。
過酷な人頭税に苦しめられた島民は島から逃げ出したい一心で、はるか南方洋上の楽園への脱出を夢見たというのだ。
それが『南波照間島』(パイ・パティローマ)だった。八重山の言葉で『パイ』とは『南』を、『パティローマ』は『波照間』を意味する。
伝承では、島の西のはずれにある屋古村(やぐむら)のアカマリという男が中心になり、村人40〜50人を率い、マーラン船(王府の運搬船)を奪って
南の海へ脱出したと伝えられている。
琉球国は明治になって沖縄県となったが、 明治25年1月、島の人たちから「南波照間島へ行った屋古村の者たちに会ってみたい」と、
言われた県知事は海軍省に依頼。その島を探してもらうことにした。ところが海軍省は、沖縄から東南アジアに到る海をくまなく調査したものの、
島を見つけることはできなかった。なぜならば、その島は地図上には存在しない夢想の理想郷にすぎなかったからだ。
とはいえ今でも島の古老たちは、自分たちの住む波照間島の南の彼方に、 同胞たちが平和に暮らしていると信じているそうだ。
とすれば、お次は『ニライカナイ』の出番である。
当スレ『怖い島・いわくつきの村・総合』を続けていくにあたり、ニライカナイは切っても切れない要素であると思う。
何度も言ってきたが、ニライカナイの『ニライ』とは、『根の国、底の国』という意味であり、『カナイ』は空の上のところだと言われている。
根の国、底の国から転じて、海のかなりの楽土、奥底の知れない遠い神の国を指す。
つまり、現世の人間が憧れてやまない理想郷と端的に言い切っても差し支えあるまい。
【特別企画】浦島太郎伝説〜補陀落渡海に見える理想郷とは 3
話変わるが、>>73>>186>>200で取り上げた補陀落渡海について舞い戻る。
遅まきながら先日、>>207で紹介した根井教授の著書『観音浄土船出した人々』を読んでみた。興味深い記述があったので紹介しよう。
引用部分にはアンカーをつける。カッコをして※印があるのはわかりづらい表現を補足してみた。
天正遣欧使節団の発案者であり、活字印刷機によるキリシタン版を開始したとしてバリニャーノなる人物がいる。
そのバリニャーノ氏が1583年に著した『日本諸事要録』の第3章に、「日本人と宗教と諸宗派」と題した以下の一節がある。
『補陀落渡海』の現場を目撃した外国人の率直な意見であろう。
>彼ら(日本人)は多くの迷信を有している。彼らのなかには、あるいは聖人の名称を得るため、
>あるいは彼らが空想している天国へ行くために、大げさな儀式によって生きたまま海中に身を投じて溺死する者もいるし、
>また生きたまま地中に埋葬される者もいる。
また、かのルイス・フロイスもまた、補陀落渡海の現場を目の当たりにしている。
フロイスは『日本史』総論第18章に「仏僧らが行う補陀落、および彼らが悪魔に奉献するその他の流儀について」と題する1章を書いていた。
この書簡でもっとも注目に値するのは、「1565年2月20日付・都発・中国印度のイルマン等宛・フロイス書簡」である。
ここでは伊予国(現在の愛媛県)堀江で行われた補陀落渡海を報告している。
話変わるが、>>73>>186>>200で取り上げた補陀落渡海について舞い戻る。
遅まきながら先日、>>207で紹介した根井教授の著書『観音浄土船出した人々』を読んでみた。興味深い記述があったので紹介しよう。
引用部分にはアンカーをつける。カッコをして※印があるのはわかりづらい表現を補足してみた。
天正遣欧使節団の発案者であり、活字印刷機によるキリシタン版を開始したとしてバリニャーノなる人物がいる。
そのバリニャーノ氏が1583年に著した『日本諸事要録』の第3章に、「日本人と宗教と諸宗派」と題した以下の一節がある。
『補陀落渡海』の現場を目撃した外国人の率直な意見であろう。
>彼ら(日本人)は多くの迷信を有している。彼らのなかには、あるいは聖人の名称を得るため、
>あるいは彼らが空想している天国へ行くために、大げさな儀式によって生きたまま海中に身を投じて溺死する者もいるし、
>また生きたまま地中に埋葬される者もいる。
また、かのルイス・フロイスもまた、補陀落渡海の現場を目の当たりにしている。
フロイスは『日本史』総論第18章に「仏僧らが行う補陀落、および彼らが悪魔に奉献するその他の流儀について」と題する1章を書いていた。
この書簡でもっとも注目に値するのは、「1565年2月20日付・都発・中国印度のイルマン等宛・フロイス書簡」である。
ここでは伊予国(現在の愛媛県)堀江で行われた補陀落渡海を報告している。
【特別企画】浦島太郎伝説〜補陀落渡海に見える理想郷とは 4
>1564年12月、都で伝道していたビレラを支援するため、フロイスがアルメイダを伴って豊後を出発し、
>伊予灘を渡って同年28日に伊予国堀江に到着した前後の状況を報告したものである。永禄7年のことであった。
>驚くことに堀江でも補陀落渡海が行われていた。堀江とは現在の愛媛県松山市の北、堀江である。
>伊予国堀江で行われた補陀落渡海は、男性6人と女性2人の集団入水であった。
>彼らは数日前から街々を歩いて喜捨(※惜しむ心なく、喜んで財物を施捨すること)を求め、阿弥陀の西方浄土に往生することを待ちきれず、
>より間近に現存すると認識されていた補陀落浄土での再生を求めたのだという。
>実行にあたり、彼らは人々から受けた金銭を袖に入れ、多くの人々に見送られ、新しい1艘の船に乗り込んで海岸を出た。
>彼らの身体には、顎、腕、足に大きい石が縛りつけられていたという。船出にあたっては歓声に包まれた状況であっただろうし、
>肉親や友人の別離の涙があふれたことであろう。やがて彼らは沖合に押し進み、ここで別船に乗っていた親者や友人と決別することになる。
>そして彼らはさらに沖合に出て、1人1人深い海に投身したのである。
>追従していた人々は、ただちに補陀落渡海船に火をつけた。そして海岸に接して記念の小堂を建てたという。
>堂には、小さな棒に紙の木旗をつけて屋上に立て、各人のため1本の柱を建て、これに多くの文字を記したとあることから、
>日本の葬送儀礼に見られる天蓋・四本幡・五色幡がかけられ、塔婆が建てられたのであろう。
>さらに松を植え(※『待つ』に転じることから)、堂内では渡海した彼らを供養するために読経を行い、
>その後も人々は常にこの堂に参拝するのだという。
>まさに騒然たるできごとであったろう。フロイスはこのような堀江における補陀落渡海を聞きつけ、1565年に書簡をしたため、
>京の都からイエズス会の同志に送ったのである。フロイスは書簡の末尾に海中に身を投げた者の中に、
>長い鎌を手に携えた者(※『通路』を妨げる密林の木を斬るためとされる)があり、また自分から入水するのではなく、
>船に大きな穴を穿ち、この栓を抜いて船もろともに海底に沈む方法があると付け加えている。
>船には薪が積まれていたという。入水のあとに船は燃やされた。同行者は船を漕いで苦行者を海の沖合に導いた。
>そして苦行者は袖や懐に石を抱き、また石を入れた袋を肩にかけ、仏名を唱えて海に飛び込み、海底の藻屑となったのである。
>苦行者が身に付けた石とは経典を書いた『経石』と推断できる。そこで同行者は別の船に乗り移って渡海船に火を放った。
>目の前で行われたこの宗教的自殺には、諸方から多数の人々が見物に集まっていた。そうした1人として90歳、
>また80歳になる老人が前日に信心を起こし、苦行者と同伴して一緒に入水した。感極まった行動に出たのである。
>彼らは「神々の作った文字を一面に書いた紙の白衣」を着ていたというから、経文が書かれた帷子を着ていたのである。
>1564年12月、都で伝道していたビレラを支援するため、フロイスがアルメイダを伴って豊後を出発し、
>伊予灘を渡って同年28日に伊予国堀江に到着した前後の状況を報告したものである。永禄7年のことであった。
>驚くことに堀江でも補陀落渡海が行われていた。堀江とは現在の愛媛県松山市の北、堀江である。
>伊予国堀江で行われた補陀落渡海は、男性6人と女性2人の集団入水であった。
>彼らは数日前から街々を歩いて喜捨(※惜しむ心なく、喜んで財物を施捨すること)を求め、阿弥陀の西方浄土に往生することを待ちきれず、
>より間近に現存すると認識されていた補陀落浄土での再生を求めたのだという。
>実行にあたり、彼らは人々から受けた金銭を袖に入れ、多くの人々に見送られ、新しい1艘の船に乗り込んで海岸を出た。
>彼らの身体には、顎、腕、足に大きい石が縛りつけられていたという。船出にあたっては歓声に包まれた状況であっただろうし、
>肉親や友人の別離の涙があふれたことであろう。やがて彼らは沖合に押し進み、ここで別船に乗っていた親者や友人と決別することになる。
>そして彼らはさらに沖合に出て、1人1人深い海に投身したのである。
>追従していた人々は、ただちに補陀落渡海船に火をつけた。そして海岸に接して記念の小堂を建てたという。
>堂には、小さな棒に紙の木旗をつけて屋上に立て、各人のため1本の柱を建て、これに多くの文字を記したとあることから、
>日本の葬送儀礼に見られる天蓋・四本幡・五色幡がかけられ、塔婆が建てられたのであろう。
>さらに松を植え(※『待つ』に転じることから)、堂内では渡海した彼らを供養するために読経を行い、
>その後も人々は常にこの堂に参拝するのだという。
>まさに騒然たるできごとであったろう。フロイスはこのような堀江における補陀落渡海を聞きつけ、1565年に書簡をしたため、
>京の都からイエズス会の同志に送ったのである。フロイスは書簡の末尾に海中に身を投げた者の中に、
>長い鎌を手に携えた者(※『通路』を妨げる密林の木を斬るためとされる)があり、また自分から入水するのではなく、
>船に大きな穴を穿ち、この栓を抜いて船もろともに海底に沈む方法があると付け加えている。
>船には薪が積まれていたという。入水のあとに船は燃やされた。同行者は船を漕いで苦行者を海の沖合に導いた。
>そして苦行者は袖や懐に石を抱き、また石を入れた袋を肩にかけ、仏名を唱えて海に飛び込み、海底の藻屑となったのである。
>苦行者が身に付けた石とは経典を書いた『経石』と推断できる。そこで同行者は別の船に乗り移って渡海船に火を放った。
>目の前で行われたこの宗教的自殺には、諸方から多数の人々が見物に集まっていた。そうした1人として90歳、
>また80歳になる老人が前日に信心を起こし、苦行者と同伴して一緒に入水した。感極まった行動に出たのである。
>彼らは「神々の作った文字を一面に書いた紙の白衣」を着ていたというから、経文が書かれた帷子を着ていたのである。
【特別企画】浦島太郎伝説〜補陀落渡海に見える理想郷とは 5
……まさに壮絶のひと言に尽きる。
>>73では戸板で封印された渡海船が沖まで流され、漂流するがままと書いたが、文献によると後の時代では入水自殺的に海へ飛び込んだうえ、
無人となった船に火を放ち、船内に水を入れて海底に沈めるという念の入れようであった。
外国人から見た補陀落渡海の現場は、まさしくカルト教団として映ったとしても不思議ではあるまい。
先人たちは信仰の極北を目の当たりにして、さぞかし戦慄(と同時にドン引きしたかも)したことだろう。
それは現代を生きる我々とて同じことのはずだ。
やや趣旨が逸れた。軌道修正する。
声を大にして言いたいのは、渡海人が理想郷と目指した先は、はるか南海の果てや海底そのものだったことだ。
とすれば、まんざら先に述べた竜宮城が海底にあったという不思議な逸話は理解しがたいというほどでもない。
信者はメタファーではなく、心から海底の理想郷を目指したのか、あるいは理想郷へ行き着けると信じて自殺行為に走ったのか判然としないが、
いずれにせよ生きて帰ってくることはないことをわかったうえでの行動であった。
(それにしては松を植えて、渡海人が帰ってくるのを『待つ』というのは不自然なのだが)
くり返すが、常世は南方だと言われ、ニライカナイは遠い東(辰巳の方角)、あるいは地の底にあるとされている。
方角こそ違えど、はるか彼方に生きとし生けるものが憧れてやまない理想郷があると信じられてきた。
我々だって世知辛い社会生活に追われるとき、いつかは白い砂浜とエメラルドグリーンの海が広がる楽園のような離島でのんびり暮らしたいと
現実逃避するのだから、まんざらわからない話でもない。
ちなみに、同著書はこう結んでいる。
>補陀落渡海は日本特有の宗教現象であった。日本人の「この国」からの脱出であり、「この国」からの亡命でもあっただろう。
>どう考えても達成の見通しがない一種の宗教的自殺に等しい自死であったと人は言うだろう。
>その意味においては補陀落渡海は、日本社会に見られた常識を超えた狂騒的な宗教現象であったと言わざるを得ない。
>しかし、ここには強烈な『生』が裏打ちされていた。観音信仰の完結者として補陀落渡海を試みた人々は、
>むしろ捨て身の行為のなかに強い『生』への動機と意識を持っていた。彼らが乗った小さな屋形船は、周囲が釘で打ち付けられた脱出不可能な空間であり、
>日輪・月輪の微小の光さえ遮断された暗黒の箱である。足も自由に伸ばせないまま『渡海人』は膝を両手で抱え込んで身体を丸め、
>まるで赤ん坊が母親の胎内にいるような恰好であったであろう。でもその型は、やがて母親の胎内から飛び出すような『生』を表徴するものであった。
>人間の生涯を科学的にいえば、死に往く一生(往死の一生)であるが、それを現実的な生まれに往く一生(往生の一生)と切り替え、
>阿弥陀浄土の『西方往生』よりもいち早く観音浄土の『南方往生』を企てたのが補陀落渡海であった。
昔から海は生命の母とも言われてきた。
渡海人は狭い船内に胎児のように丸まった格好で船出し、母の子宮、すなわち竜宮の門を目指したのは胎内回帰だともとれよう。
ちなみに『海』という漢字を分解すれば、左の部首であるサンズイはもともと『水』を表し、『毎』は、髪飾りの付いた『母』であるというのは、
なかなか感慨深いものがある。
人は死ぬべくして生まれてくるが、畢竟、『命』は帰郷にこそ真理があるのかもしれない。
そして人の死は案外、そう悲しむべきものでもないはずだと信じたい。
……まさに壮絶のひと言に尽きる。
>>73では戸板で封印された渡海船が沖まで流され、漂流するがままと書いたが、文献によると後の時代では入水自殺的に海へ飛び込んだうえ、
無人となった船に火を放ち、船内に水を入れて海底に沈めるという念の入れようであった。
外国人から見た補陀落渡海の現場は、まさしくカルト教団として映ったとしても不思議ではあるまい。
先人たちは信仰の極北を目の当たりにして、さぞかし戦慄(と同時にドン引きしたかも)したことだろう。
それは現代を生きる我々とて同じことのはずだ。
やや趣旨が逸れた。軌道修正する。
声を大にして言いたいのは、渡海人が理想郷と目指した先は、はるか南海の果てや海底そのものだったことだ。
とすれば、まんざら先に述べた竜宮城が海底にあったという不思議な逸話は理解しがたいというほどでもない。
信者はメタファーではなく、心から海底の理想郷を目指したのか、あるいは理想郷へ行き着けると信じて自殺行為に走ったのか判然としないが、
いずれにせよ生きて帰ってくることはないことをわかったうえでの行動であった。
(それにしては松を植えて、渡海人が帰ってくるのを『待つ』というのは不自然なのだが)
くり返すが、常世は南方だと言われ、ニライカナイは遠い東(辰巳の方角)、あるいは地の底にあるとされている。
方角こそ違えど、はるか彼方に生きとし生けるものが憧れてやまない理想郷があると信じられてきた。
我々だって世知辛い社会生活に追われるとき、いつかは白い砂浜とエメラルドグリーンの海が広がる楽園のような離島でのんびり暮らしたいと
現実逃避するのだから、まんざらわからない話でもない。
ちなみに、同著書はこう結んでいる。
>補陀落渡海は日本特有の宗教現象であった。日本人の「この国」からの脱出であり、「この国」からの亡命でもあっただろう。
>どう考えても達成の見通しがない一種の宗教的自殺に等しい自死であったと人は言うだろう。
>その意味においては補陀落渡海は、日本社会に見られた常識を超えた狂騒的な宗教現象であったと言わざるを得ない。
>しかし、ここには強烈な『生』が裏打ちされていた。観音信仰の完結者として補陀落渡海を試みた人々は、
>むしろ捨て身の行為のなかに強い『生』への動機と意識を持っていた。彼らが乗った小さな屋形船は、周囲が釘で打ち付けられた脱出不可能な空間であり、
>日輪・月輪の微小の光さえ遮断された暗黒の箱である。足も自由に伸ばせないまま『渡海人』は膝を両手で抱え込んで身体を丸め、
>まるで赤ん坊が母親の胎内にいるような恰好であったであろう。でもその型は、やがて母親の胎内から飛び出すような『生』を表徴するものであった。
>人間の生涯を科学的にいえば、死に往く一生(往死の一生)であるが、それを現実的な生まれに往く一生(往生の一生)と切り替え、
>阿弥陀浄土の『西方往生』よりもいち早く観音浄土の『南方往生』を企てたのが補陀落渡海であった。
昔から海は生命の母とも言われてきた。
渡海人は狭い船内に胎児のように丸まった格好で船出し、母の子宮、すなわち竜宮の門を目指したのは胎内回帰だともとれよう。
ちなみに『海』という漢字を分解すれば、左の部首であるサンズイはもともと『水』を表し、『毎』は、髪飾りの付いた『母』であるというのは、
なかなか感慨深いものがある。
人は死ぬべくして生まれてくるが、畢竟、『命』は帰郷にこそ真理があるのかもしれない。
そして人の死は案外、そう悲しむべきものでもないはずだと信じたい。
伝説の扉 浦島太郎伝説
http://www.densetsu-tobira.com/urashima/index.htm...
見るなのタブー wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A6%8B%E3%82%8B%E3%81%...
桃太郎と浦島太郎〜なぜ浦島太郎はバッドエンドなのか〜
http://chaos2ch.com/archives/2632570.htm...
YAHOO!知恵袋 なぜ乙姫様は浦島太郎に玉手箱をあげたのですか?
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1449299224...
奇跡体験アンビリーバボー!100回記念スペシャル 浦島太郎伝説の真実 第一章 浦島伝説の真実
http://web.archive.org/web/20030818044056/http://www....
奇跡体験アンビリーバボー!100回記念スペシャル 第二章 語られることのない伝説
http://web.archive.org/web/20030822182705/http://www....
奇跡体験アンビリーバボー!100回記念スペシャル 浦島太郎伝説の真実 第三章 開けてはいけなかったもの
http://web.archive.org/web/20030822181836/http://www....
浦島伝説の謎を解く
http://www.systemicsarchive.com/ja/b/urashima...
戦国厭世の補陀落(ふだらく)渡海— 宣教師が見た堺港沖での集団自殺 —
http://toursakai.jp/igaishi/vol02.htm...
補陀洛に向って‥(2) - Ayiva
http://ayiva.sakura.ne.jp/doc/buddh/kannon/ps-tokai2.htm...
http://www.densetsu-tobira.com/urashima/index.htm...
見るなのタブー wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A6%8B%E3%82%8B%E3%81%...
桃太郎と浦島太郎〜なぜ浦島太郎はバッドエンドなのか〜
http://chaos2ch.com/archives/2632570.htm...
YAHOO!知恵袋 なぜ乙姫様は浦島太郎に玉手箱をあげたのですか?
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1449299224...
奇跡体験アンビリーバボー!100回記念スペシャル 浦島太郎伝説の真実 第一章 浦島伝説の真実
http://web.archive.org/web/20030818044056/http://www....
奇跡体験アンビリーバボー!100回記念スペシャル 第二章 語られることのない伝説
http://web.archive.org/web/20030822182705/http://www....
奇跡体験アンビリーバボー!100回記念スペシャル 浦島太郎伝説の真実 第三章 開けてはいけなかったもの
http://web.archive.org/web/20030822181836/http://www....
浦島伝説の謎を解く
http://www.systemicsarchive.com/ja/b/urashima...
戦国厭世の補陀落(ふだらく)渡海— 宣教師が見た堺港沖での集団自殺 —
http://toursakai.jp/igaishi/vol02.htm...
補陀洛に向って‥(2) - Ayiva
http://ayiva.sakura.ne.jp/doc/buddh/kannon/ps-tokai2.htm...
青森県の最北端・無人島巡り……大魚島(おおよしま)
http://blog.goo.ne.jp/tabitomosensan/e/d19bf1b2d52f2...
大三島へ「義経の鎧が現存してる」こりゃ、行ってみにゃぁいけん。(しまなみ海道:愛媛県)
http://4travel.jp/domestic/area/shikoku/ehime/im...
http://blog.goo.ne.jp/tabitomosensan/e/d19bf1b2d52f2...
大三島へ「義経の鎧が現存してる」こりゃ、行ってみにゃぁいけん。(しまなみ海道:愛媛県)
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タコはスケベオヤジのメタファーか 日間賀島(ひまかじま)
日間賀島は三河湾に浮かぶ島で、知多半島寄りに位置し、愛知県知多郡南知多町に属する。
海産物が名産として名を馳せ、とりわけトラフグとタコは島の名物になっている。
日間賀島にはそんなタコにまつわる伝説が語り継がれている。それが『千代取り岩伝説』である。
豊浜墓所の海の千代取り岩についての物語だ。
その昔、須佐の荒磯松の近くの粗末な家に、千代という若い娘とその母が住んでいた。千代は評判の美人で知られ、村の若者たちの憧れの的だった。
春の引潮のとき、千代は沖の磯まで出かけて、日課である潮干狩りに精を出していた。
貝や海藻を拾うのに夢中になっていたとき、何かが足に絡みついた感触を憶えた。
足元を見れば大きなタコだった。浅瀬に取り残されたのであろうタコは、千代の脚を這いのぼり、たちまち白い太腿まで触腕を伸ばしてきた。
千代は鎌を振り回し、その一撃でタコの足が1本切れた。
タコはあわてて岩陰に逃げ、千代は事なきを得た。残されたタコ足は太く、カゴに収まりきらぬほどであった。ともかく大収穫であった。
翌日も昨日と同じところに行くと、やはりあの大ダコがいた。千代はまた狙うことにした。
赤い腰巻から白い腿を差し出して誘ってみる。案の定、タコは足を伸ばしてきて千代に抱きつこうとした。
千代はそうはさせまいと、鎌で一閃。タコ足1本をゲットした。
次の日も例の場所に行ってみたが、あいにく大ダコはいなかった。15日経ってから行ってみると、タコはまるで待ち侘びていたかのようにいた。
千代は味を占めていた。なにせタコ足は食べ甲斐があり、しかも美味ときている。
彼女はさらにタコ足を3本切り落とした。タコに残された足はあと3本となってしまった。
季節はすぎ、初夏を迎えた。千代は磯へ出かけ、またしても例のタコを見つけた。千代は1本頂戴した。
明くる日も出かけた。タコに残された足はあと2本。千代はそのうち1本をこれまでと同じように巧みに切ったつもりだった。
ところが大ダコはひるむことなく、最後の1本を彼女に白い腿から腰に絡ませて動きを封じると、千代の顔に墨を吐きつけて目潰しを食らわせた。
これがタコにとって乾坤一擲の一撃となる。千代を抱きすくめると、そのまま海の中に引きずり込んでしまったのだ。
こうして美しい盛りの千代は処女のまま、あろうことかタコに抱かれて海の藻屑と消えた。
残された母は渚を駆けめぐっては、「お千代! お千代!」と叫んだが、後の祭りだった。磯では油断してはいけないと言い聞かせるべきだった。
村の若者たちも麗しの千代をなくして言葉を失うばかりであった。
それ以来、大ダコの潜んでいた磯の一部を『千代取り岩』と呼ぶようになった。
「千代取り岩」伝説
http://blog.goo.ne.jp/tomotubby/e/e532892c301135e28f...
吉岡実「タコ」から
http://blog.goo.ne.jp/tomotubby/e/f498ad9cb53d7fb044...
日間賀島は三河湾に浮かぶ島で、知多半島寄りに位置し、愛知県知多郡南知多町に属する。
海産物が名産として名を馳せ、とりわけトラフグとタコは島の名物になっている。
日間賀島にはそんなタコにまつわる伝説が語り継がれている。それが『千代取り岩伝説』である。
豊浜墓所の海の千代取り岩についての物語だ。
その昔、須佐の荒磯松の近くの粗末な家に、千代という若い娘とその母が住んでいた。千代は評判の美人で知られ、村の若者たちの憧れの的だった。
春の引潮のとき、千代は沖の磯まで出かけて、日課である潮干狩りに精を出していた。
貝や海藻を拾うのに夢中になっていたとき、何かが足に絡みついた感触を憶えた。
足元を見れば大きなタコだった。浅瀬に取り残されたのであろうタコは、千代の脚を這いのぼり、たちまち白い太腿まで触腕を伸ばしてきた。
千代は鎌を振り回し、その一撃でタコの足が1本切れた。
タコはあわてて岩陰に逃げ、千代は事なきを得た。残されたタコ足は太く、カゴに収まりきらぬほどであった。ともかく大収穫であった。
翌日も昨日と同じところに行くと、やはりあの大ダコがいた。千代はまた狙うことにした。
赤い腰巻から白い腿を差し出して誘ってみる。案の定、タコは足を伸ばしてきて千代に抱きつこうとした。
千代はそうはさせまいと、鎌で一閃。タコ足1本をゲットした。
次の日も例の場所に行ってみたが、あいにく大ダコはいなかった。15日経ってから行ってみると、タコはまるで待ち侘びていたかのようにいた。
千代は味を占めていた。なにせタコ足は食べ甲斐があり、しかも美味ときている。
彼女はさらにタコ足を3本切り落とした。タコに残された足はあと3本となってしまった。
季節はすぎ、初夏を迎えた。千代は磯へ出かけ、またしても例のタコを見つけた。千代は1本頂戴した。
明くる日も出かけた。タコに残された足はあと2本。千代はそのうち1本をこれまでと同じように巧みに切ったつもりだった。
ところが大ダコはひるむことなく、最後の1本を彼女に白い腿から腰に絡ませて動きを封じると、千代の顔に墨を吐きつけて目潰しを食らわせた。
これがタコにとって乾坤一擲の一撃となる。千代を抱きすくめると、そのまま海の中に引きずり込んでしまったのだ。
こうして美しい盛りの千代は処女のまま、あろうことかタコに抱かれて海の藻屑と消えた。
残された母は渚を駆けめぐっては、「お千代! お千代!」と叫んだが、後の祭りだった。磯では油断してはいけないと言い聞かせるべきだった。
村の若者たちも麗しの千代をなくして言葉を失うばかりであった。
それ以来、大ダコの潜んでいた磯の一部を『千代取り岩』と呼ぶようになった。
「千代取り岩」伝説
http://blog.goo.ne.jp/tomotubby/e/e532892c301135e28f...
吉岡実「タコ」から
http://blog.goo.ne.jp/tomotubby/e/f498ad9cb53d7fb044...
タコによる人さらいの変形版? おりん島
ついでだからタコ伝説をもう1つ。愛知県知多の沖合には、知る人ぞ知る『おりん島』という小島があるという。
その伝説のあらましは>>344とほぼ同じであるが、決定的に主人公の世代が違う。
こういった類型の説話は大元のAで始まったはいいが、BとCに分岐するにしたがって好き勝手にアレンジされていることがよくある。
ちょうど伝言ゲームが、まったく別の話に書き換えられているように。
かつて、須佐の浜に『おりん』という名の老婆がいて、海女のような生業をしながら暮らしていた。
僻地で1人でいるぐらいだから、よほどの変わり者に違いあるまい。そう決めてかかり、村の者は決して近づかなかった。
ある日、どういった風の吹き回しか、そのおりんが村の網元のもとへひょっこり顔を出し、不思議な話を語って聞かせた。
昨日のことだった。舟で漁に出ていると、大きなタコが舟に張り付いてきて、足を1本伸ばしてきたと思ったら、
彼女を海に引きずり込もうとするのだと。
おりんは臆することなく、その足を鎌で断ち切ると、タコは海中へ逃げていった。
今日になってまた舟を出すと、同じタコと出くわし、同じように襲ってきたものだから、またぞろ足を切り落とし撃退したという。
切断したタコ足は、いつまでもウネウネと身をよじらせ気味が悪いし、そもそも邪魔なので、浜に埋めてしまったと語り、
おりんは豪快に呵々大笑した。
どうもイヤな予感がする。心配した網元は明日は漁を控えてみてはどうかと忠告した。
が、おりんはどこ吹く風といった様子で笑い飛ばし、いつもと変わらず漁を続けた。
7日目まで同じようなタコの襲撃がくり返され、そのたびにタコ足を切り落として事なきを得たおりんだったが、
ついに運命の8日目、沖合で足が1本しか残されていないタコが舟に取り付くや、今度こそがっちりおりんをつかまえると、
瞬く間に海に引きずり込んでしまった。
遠巻きに心配していた村人は急いでおりんの行方を捜索したものの、かんざしの1本たりとも見つけることができなかった。
そのおりんが漁場にしていた島を、のちに人は『おりん島』と呼ぶようになった。
今でもこの伝説を知る古老は、この近くでタコだけは獲らないという。
暗くなるころあの海で 63.オリントウ
http://harapeko.que.jp/darksea/archives/001719.htm...
ついでだからタコ伝説をもう1つ。愛知県知多の沖合には、知る人ぞ知る『おりん島』という小島があるという。
その伝説のあらましは>>344とほぼ同じであるが、決定的に主人公の世代が違う。
こういった類型の説話は大元のAで始まったはいいが、BとCに分岐するにしたがって好き勝手にアレンジされていることがよくある。
ちょうど伝言ゲームが、まったく別の話に書き換えられているように。
かつて、須佐の浜に『おりん』という名の老婆がいて、海女のような生業をしながら暮らしていた。
僻地で1人でいるぐらいだから、よほどの変わり者に違いあるまい。そう決めてかかり、村の者は決して近づかなかった。
ある日、どういった風の吹き回しか、そのおりんが村の網元のもとへひょっこり顔を出し、不思議な話を語って聞かせた。
昨日のことだった。舟で漁に出ていると、大きなタコが舟に張り付いてきて、足を1本伸ばしてきたと思ったら、
彼女を海に引きずり込もうとするのだと。
おりんは臆することなく、その足を鎌で断ち切ると、タコは海中へ逃げていった。
今日になってまた舟を出すと、同じタコと出くわし、同じように襲ってきたものだから、またぞろ足を切り落とし撃退したという。
切断したタコ足は、いつまでもウネウネと身をよじらせ気味が悪いし、そもそも邪魔なので、浜に埋めてしまったと語り、
おりんは豪快に呵々大笑した。
どうもイヤな予感がする。心配した網元は明日は漁を控えてみてはどうかと忠告した。
が、おりんはどこ吹く風といった様子で笑い飛ばし、いつもと変わらず漁を続けた。
7日目まで同じようなタコの襲撃がくり返され、そのたびにタコ足を切り落として事なきを得たおりんだったが、
ついに運命の8日目、沖合で足が1本しか残されていないタコが舟に取り付くや、今度こそがっちりおりんをつかまえると、
瞬く間に海に引きずり込んでしまった。
遠巻きに心配していた村人は急いでおりんの行方を捜索したものの、かんざしの1本たりとも見つけることができなかった。
そのおりんが漁場にしていた島を、のちに人は『おりん島』と呼ぶようになった。
今でもこの伝説を知る古老は、この近くでタコだけは獲らないという。
暗くなるころあの海で 63.オリントウ
http://harapeko.que.jp/darksea/archives/001719.htm...
鴎島:江差町 | 歴史・伝説 | 遊ぶべ!道南探検隊
http://donan.org/history-legend/kamomejima-2.ht...
※画像は鴎島にある奇岩、瓶子岩(へいしいわ)
http://donan.org/history-legend/kamomejima-2.ht...
※画像は鴎島にある奇岩、瓶子岩(へいしいわ)
千島アイヌの聖地 宇志知島(うししるとう)
北海道本島の東、根室海峡からカムチャツカ半島の南、千島海峡までの間に連なる列島を千島列島といい、
列島の中ほどに浮かぶ島が宇志知島である。ロシア名も同じくウシシル島(o.Ушишир)。
島名の由来は、アイヌ語の「ウセイ・シル(温泉・大地。つまり温泉のある大地)」から来ているとされる。
この海域はオホーツク海と太平洋の潮がぶつかるため、非常に危険である。
正保元(1644)年、『正保御国絵図』が作成された際、幕命により松前藩が提出した自藩領地図には、
『クナシリ』『エトロホ』『ウルフ』など39の島々が描かれていた。
正徳5(1715)年、松前藩主は幕府に対し、『北海道本島、樺太、千島列島、勘察加』は松前藩領と報告。
1769年、この地を探検したイワン・チョールヌイが本島にて千島アイヌが行う儀式を目撃したとのこと。
それによると、島は千島アイヌにとっての聖地であるという。また、『雷神カンナカムイ』の子孫が千島アイヌであるとされ、
本島こそ発祥であるとの伝説が残されている。
アイヌにとって雷神カンナカムイは神の中でもとりわけ重要な存在である。アイヌが危機に瀕したときは幣を捧げて祈っていた。
イワンの記述によれば、硫黄の噴出孔の上に設けた祭壇でガスと熱に耐えながら3日3晩祈り続け、
その試練に耐えた者だけが「自分たちを悪魔の手から守ることのできる全知全能のアイヌとして生まれ変わる」と信じられたという。
宇志知島wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%87%E5%BF%97%E7%9F%...
北海道本島の東、根室海峡からカムチャツカ半島の南、千島海峡までの間に連なる列島を千島列島といい、
列島の中ほどに浮かぶ島が宇志知島である。ロシア名も同じくウシシル島(o.Ушишир)。
島名の由来は、アイヌ語の「ウセイ・シル(温泉・大地。つまり温泉のある大地)」から来ているとされる。
この海域はオホーツク海と太平洋の潮がぶつかるため、非常に危険である。
正保元(1644)年、『正保御国絵図』が作成された際、幕命により松前藩が提出した自藩領地図には、
『クナシリ』『エトロホ』『ウルフ』など39の島々が描かれていた。
正徳5(1715)年、松前藩主は幕府に対し、『北海道本島、樺太、千島列島、勘察加』は松前藩領と報告。
1769年、この地を探検したイワン・チョールヌイが本島にて千島アイヌが行う儀式を目撃したとのこと。
それによると、島は千島アイヌにとっての聖地であるという。また、『雷神カンナカムイ』の子孫が千島アイヌであるとされ、
本島こそ発祥であるとの伝説が残されている。
アイヌにとって雷神カンナカムイは神の中でもとりわけ重要な存在である。アイヌが危機に瀕したときは幣を捧げて祈っていた。
イワンの記述によれば、硫黄の噴出孔の上に設けた祭壇でガスと熱に耐えながら3日3晩祈り続け、
その試練に耐えた者だけが「自分たちを悪魔の手から守ることのできる全知全能のアイヌとして生まれ変わる」と信じられたという。
宇志知島wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%87%E5%BF%97%E7%9F%...
嫁の亡骸を乗せて浮上した島 嫁ヶ島
島根県松江市嫁島町の西、約200mに位置する宍道湖に浮かぶ唯一の島、嫁ヶ島。
今から1200万年前、第三紀中新世の火山活動により噴出した玄武岩により形成された全長150mの小島である。
どうやらこの嫁ヶ島にも悲しい女の歴史があるようだ。
昔、村で評判だった美しい嫁がいた。ところがなにかにつけて姑に小言を言われ虐められていた。
ある日、日没になったというのに嫁が家に帰ってこない。
家族は方々を手を尽くして探したが、どうにも見つけることができない。気立てのいい嫁だっただけに夫や村人は落胆した。
数日経って不思議なことが起きた。宍道湖の水中から、その嫁の亡骸を乗せた島が浮かび上がったのだ。
姑のいびりを苦に自害していたのだろう。これにちなみ、『嫁ヶ島』と呼ぶようになったという。
あるいはこんなバージョンもある。
里帰りの嫁が凍った湖上を渡る途中、氷が割れて転落、そして水死した。
これを哀れんだ湖の神が、その亡骸を乗せて一夜のうちに浮かび上がらせた話など……。
島ネタを追求してきて常々思うことだが、驚くほど女性の悲話が多い。
とくに悲恋モノは日本人の琴線に触れるんだろうが、ちょっとゲップが出ちゃうね。
嫁が島 - 松江市立図書館
http://www.lib-citymatsue.jp/pdf/chidori_078.pd...
島根県松江市嫁島町の西、約200mに位置する宍道湖に浮かぶ唯一の島、嫁ヶ島。
今から1200万年前、第三紀中新世の火山活動により噴出した玄武岩により形成された全長150mの小島である。
どうやらこの嫁ヶ島にも悲しい女の歴史があるようだ。
昔、村で評判だった美しい嫁がいた。ところがなにかにつけて姑に小言を言われ虐められていた。
ある日、日没になったというのに嫁が家に帰ってこない。
家族は方々を手を尽くして探したが、どうにも見つけることができない。気立てのいい嫁だっただけに夫や村人は落胆した。
数日経って不思議なことが起きた。宍道湖の水中から、その嫁の亡骸を乗せた島が浮かび上がったのだ。
姑のいびりを苦に自害していたのだろう。これにちなみ、『嫁ヶ島』と呼ぶようになったという。
あるいはこんなバージョンもある。
里帰りの嫁が凍った湖上を渡る途中、氷が割れて転落、そして水死した。
これを哀れんだ湖の神が、その亡骸を乗せて一夜のうちに浮かび上がらせた話など……。
島ネタを追求してきて常々思うことだが、驚くほど女性の悲話が多い。
とくに悲恋モノは日本人の琴線に触れるんだろうが、ちょっとゲップが出ちゃうね。
嫁が島 - 松江市立図書館
http://www.lib-citymatsue.jp/pdf/chidori_078.pd...
>>350
500レスを埋め尽くすまでに決まってるでしょ。完走ですよ、完走。
最初のころ資料をまとめてレスしてたんですが、ネタが尽き、インターネッツの恩恵を借りて独自に探しまくってるんですよ。
その努力たるや簡単そうに見えて、実はすっごく大変なんですから。
>自分のサイトなりブログなり〜
見たまえ、『このページへの訪問者数』。個人のプログではここまで到達することができまい。
よってモチベーションが上がらないので、今さら無理。だからここに寄生させてちょ〜だい。
目指せ、驚異の閲覧数30万。数字こそ正義なり。
軍事機密に関わり厚いベールに包まれていた島 金輪島(かなわじま)
広島にある宇品(うじな)港の東、約1kmに位置する金輪島は、今では鄙びてなんの変哲もない小島にすぎない。
しかしながらこの金輪島、明治時代の中ごろより軍都の様相を呈していったのはあまり知られていない。
この島のみならず、周辺の島々は、ことごとく軍関連の施設や工場だった。ウサギ島こと大久野島も然りであろう。
1894(明治27)年、日清戦争が始まると、宇品港は陸軍の軍事基地となる。
陸軍運輸部金輪島工場が敷かれ、島中央の山頂付近には照空灯陣地が置かれるなど軍事機密に関わる島として終戦まで
秘密のベールに包まれていたのだという(太平洋戦争末期には旧陸軍野戦船舶本廠に変遷)。
終戦とともに、旧陸軍船舶司令部(暁部隊)直轄の陸軍野戦船舶本廠の一部であった島の東岸の造船施設は民間への払い下げられ、
その後、現在に至るまで造船業はこの島の基幹産業である。
金輪島(概説)
http://masuda901.web.fc2.com/page5bvc.htm...
四、金輪島に八月六日を尋ねて 山内 幹子
http://www3.famille.ne.jp/‾kodayo/genbaku/genbaku2/dai2kojyo-yamanouti.htm
500レスを埋め尽くすまでに決まってるでしょ。完走ですよ、完走。
最初のころ資料をまとめてレスしてたんですが、ネタが尽き、インターネッツの恩恵を借りて独自に探しまくってるんですよ。
その努力たるや簡単そうに見えて、実はすっごく大変なんですから。
>自分のサイトなりブログなり〜
見たまえ、『このページへの訪問者数』。個人のプログではここまで到達することができまい。
よってモチベーションが上がらないので、今さら無理。だからここに寄生させてちょ〜だい。
目指せ、驚異の閲覧数30万。数字こそ正義なり。
軍事機密に関わり厚いベールに包まれていた島 金輪島(かなわじま)
広島にある宇品(うじな)港の東、約1kmに位置する金輪島は、今では鄙びてなんの変哲もない小島にすぎない。
しかしながらこの金輪島、明治時代の中ごろより軍都の様相を呈していったのはあまり知られていない。
この島のみならず、周辺の島々は、ことごとく軍関連の施設や工場だった。ウサギ島こと大久野島も然りであろう。
1894(明治27)年、日清戦争が始まると、宇品港は陸軍の軍事基地となる。
陸軍運輸部金輪島工場が敷かれ、島中央の山頂付近には照空灯陣地が置かれるなど軍事機密に関わる島として終戦まで
秘密のベールに包まれていたのだという(太平洋戦争末期には旧陸軍野戦船舶本廠に変遷)。
終戦とともに、旧陸軍船舶司令部(暁部隊)直轄の陸軍野戦船舶本廠の一部であった島の東岸の造船施設は民間への払い下げられ、
その後、現在に至るまで造船業はこの島の基幹産業である。
金輪島(概説)
http://masuda901.web.fc2.com/page5bvc.htm...
四、金輪島に八月六日を尋ねて 山内 幹子
http://www3.famille.ne.jp/‾kodayo/genbaku/genbaku2/dai2kojyo-yamanouti.htm
削除(by投稿者)
置き去りにされた女の無念 京の上臈島(きょうのじょうろうじま)
岡山県玉野市、宇野港の約2km西にいわくつきの島を発見。事情を知る者は気味悪がって寄りつきたがらない無人島があるそうだ。
(例外として、知らない観光客は海水浴やキャンプをしに訪れるようだが)
それが京の上臈島である。この島は別名『屍島』ともいう。もう別名からして垂涎ものである。
近辺ではその昔、海賊が出没しては金品を略奪、および殺害された人も多かったこともさることながら、
ある伝説のため、祟りがあると信じられてきた。その伝説とはこうだ。
江戸時代のことである。渋川の依田某という男が数日の間、京に滞在した。
男はたちまち京の都に魅了され、上臈(女官、または女郎の意)といい仲になり、2人は婚約を交わすまでになった。
京を発つ段になると、男は女を渋川につれて帰ることにした。
長い船旅の末、宇野の港が見えるところまでさしかかったとき、男は女にこう言った。
「渋川にはじきに着く。もっとも、いきなりおまえをつれて帰ったとしても、親父たちが驚くに違いあるまい。
まずはおれが説得しに陸に上がるから、しばらくの間、この島で待っててくれないか? ともに暮らすのはそれが済んでからだ」
と言いくるめ、女を名もなき無人島に残し、先に渋川に行ってしまった。
それから何日かして、渋川海岸にその女の死体が流れ着いた。村人たちはこの水死体を引き上げては哀れに思い、
「こんな若いのに命を落とさずともよいものものを。せめて死後はいいところに行きなされ……」と、その死体を沖へ押しやった。
ところが翌日になると、同じ浜辺に、昨日と同じ女の死体が流れ着いているではないか。
村人は気味悪がり、今度こそと、さらに沖の向こうまでと押し流したのだが、明くる日になるとまたしても同じように戻ってきている。
そうこうするうちに女の素性が発覚。女は依田某が京から連れて帰った上臈だったのだ。
どうせ女に飽きたので無人島に置き去りにしたクチだろう。一向に迎えに来ない男に痺れを切らしたうえ、
離れ小島に1人残された寂しさ、飢えと渇きに耐えかねて自害したに違いあるまい。
村人たちは渋川の松林の中に埋葬してやり、祠を建てて祀った。
さすがの依田某も後悔し、社や鳥居の建立から祭りまで心を入れ替え奉仕し、その菩提を弔った。
今も人々から『浜の神さん』と呼ばれ、松林の中にひっそりと佇んでいる。
そしていつしか、女が置き去りにされた島を京の上臈島と呼ぶようになった。
Vol.002 宇野港 - 日本船舶海洋工学会
http://www.jasnaoe.or.jp/series/minatono/002/index.htm...
第63話 島のお話【1】 京の上臈島
http://pebblegravel.blog.fc2.com/blog-entry-69.htm...
岡山県玉野市、宇野港の約2km西にいわくつきの島を発見。事情を知る者は気味悪がって寄りつきたがらない無人島があるそうだ。
(例外として、知らない観光客は海水浴やキャンプをしに訪れるようだが)
それが京の上臈島である。この島は別名『屍島』ともいう。もう別名からして垂涎ものである。
近辺ではその昔、海賊が出没しては金品を略奪、および殺害された人も多かったこともさることながら、
ある伝説のため、祟りがあると信じられてきた。その伝説とはこうだ。
江戸時代のことである。渋川の依田某という男が数日の間、京に滞在した。
男はたちまち京の都に魅了され、上臈(女官、または女郎の意)といい仲になり、2人は婚約を交わすまでになった。
京を発つ段になると、男は女を渋川につれて帰ることにした。
長い船旅の末、宇野の港が見えるところまでさしかかったとき、男は女にこう言った。
「渋川にはじきに着く。もっとも、いきなりおまえをつれて帰ったとしても、親父たちが驚くに違いあるまい。
まずはおれが説得しに陸に上がるから、しばらくの間、この島で待っててくれないか? ともに暮らすのはそれが済んでからだ」
と言いくるめ、女を名もなき無人島に残し、先に渋川に行ってしまった。
それから何日かして、渋川海岸にその女の死体が流れ着いた。村人たちはこの水死体を引き上げては哀れに思い、
「こんな若いのに命を落とさずともよいものものを。せめて死後はいいところに行きなされ……」と、その死体を沖へ押しやった。
ところが翌日になると、同じ浜辺に、昨日と同じ女の死体が流れ着いているではないか。
村人は気味悪がり、今度こそと、さらに沖の向こうまでと押し流したのだが、明くる日になるとまたしても同じように戻ってきている。
そうこうするうちに女の素性が発覚。女は依田某が京から連れて帰った上臈だったのだ。
どうせ女に飽きたので無人島に置き去りにしたクチだろう。一向に迎えに来ない男に痺れを切らしたうえ、
離れ小島に1人残された寂しさ、飢えと渇きに耐えかねて自害したに違いあるまい。
村人たちは渋川の松林の中に埋葬してやり、祠を建てて祀った。
さすがの依田某も後悔し、社や鳥居の建立から祭りまで心を入れ替え奉仕し、その菩提を弔った。
今も人々から『浜の神さん』と呼ばれ、松林の中にひっそりと佇んでいる。
そしていつしか、女が置き去りにされた島を京の上臈島と呼ぶようになった。
Vol.002 宇野港 - 日本船舶海洋工学会
http://www.jasnaoe.or.jp/series/minatono/002/index.htm...
第63話 島のお話【1】 京の上臈島
http://pebblegravel.blog.fc2.com/blog-entry-69.htm...
5人の座頭が海の藻屑と化す 五人宗谷(ごにんぞわい)
引き続き、宇野港の沖合に注目。
>>355の京の上靗島と鳥島の間には無数の岩礁がある。『五人宗谷』と呼ばれているらしい。
満潮時は完全に海中に没しているが、潮が引くと点々と黒い岩が姿を現すだけだから、島の定義からすれば島ではないのだが……。
その岩礁はごく近年までは、漁師さえ気味悪がって近づかなかったというのだ。
座礁するのが怖いせいもあるが、ここにも置き去り伝説が残されているからだという。
いつのころか判然としない。昔、備後の鞆(とも・福山市)の回船問屋に5人の旅人が訪れた。一行は大阪行きの船便を待っていた。
5人はいずれも盲(めしい)の座頭だった。眼こそ見えないが、旅装も人柄も上品で、裕福そうに見えた。
座頭たちは検校(けんぎょう・盲人の最高官位)の位をもらい受けるため、都にのぼっている道中だった。
そこへ1人の船頭が声をかけた。「座頭さんたちや、よかったら私が都まで乗せてあげますぜ。
なに、船賃さえ奮発してくれれば、さっそく今からでも」
5人の座頭にとっては、まさに渡りに舟。言葉に甘え、船頭の船に乗り込むことにした。その場で船賃をたっぷり弾んだ。
鞆の港を出発し、船は帆に風を受け、東に向かって進んだ。
やがて日没が迫った。座頭たちは眼が見えずとも、肌に伝わる五感で察することができる。
しばらくすると、風も凪ぎ、船を操る櫓の音だけが聞こえてきた。そのうち船が揺れるたび水の音がピチャピチャとする。
そのとき、船頭が声をかけてきた。「座頭さん、たいへん申し訳ない。船のアカ(船内にたまった水)をかえるから、その間、
近くの島に上がって作業が終わるのを待っていてくれんか」
座頭たちはそれに従い、船頭に手を引かれて、その島に上陸した。もとより急ぐ旅ではない。島に上がった5人は静かに打ち寄せる波の音を楽しんだ。
ところが待てど暮らせど、一向に船頭は迎えに来ない。
「船頭さん、まだかね?」と、声をかけてみたが返事がない。「船頭さん、船頭さんよ!」と叫んでいるうちに、潮が足元を濡らし始めた。
すでに船の気配は消えていた。だまされたと知った5人は声を涸らして助けを求めた。
潮は満ちてきて水位はどんどん上がってくる。おたがい離れまいとして座頭たちは抱き合ったが、悲しき抵抗だった。
ほどなく5人は海の藻屑と消えた……。
この海域では今でも雨の夜になると、海の底から話し声やすすり泣きの声がすると言って、地元の漁師たちは忌避するという。
一説によると、この5人のうちの1人だけは田井の海岸に打ち上げられ、親切な村人の介抱によって息を吹き返したとも伝えられている。
その後、高野山に入り、犠牲となった4人の墓を建て、その菩提を弔ったともいう。
また、この置き去り伝説を証明するかのように、直島の漁師がこの宗谷に潜ってみたことがあるらしい。すると岩の間に数体の白骨が折り重なっていたとか……。
どうやら置き去りにされた者はいずれも魑魅魍魎と化すのが通説のようだ。
五人宗谷(ぞわい):玉野の伝説
http://tamano.imawamukashi.com/umi/umi-6.htm...
検校wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A4%9C%E6%A0%A...
引き続き、宇野港の沖合に注目。
>>355の京の上靗島と鳥島の間には無数の岩礁がある。『五人宗谷』と呼ばれているらしい。
満潮時は完全に海中に没しているが、潮が引くと点々と黒い岩が姿を現すだけだから、島の定義からすれば島ではないのだが……。
その岩礁はごく近年までは、漁師さえ気味悪がって近づかなかったというのだ。
座礁するのが怖いせいもあるが、ここにも置き去り伝説が残されているからだという。
いつのころか判然としない。昔、備後の鞆(とも・福山市)の回船問屋に5人の旅人が訪れた。一行は大阪行きの船便を待っていた。
5人はいずれも盲(めしい)の座頭だった。眼こそ見えないが、旅装も人柄も上品で、裕福そうに見えた。
座頭たちは検校(けんぎょう・盲人の最高官位)の位をもらい受けるため、都にのぼっている道中だった。
そこへ1人の船頭が声をかけた。「座頭さんたちや、よかったら私が都まで乗せてあげますぜ。
なに、船賃さえ奮発してくれれば、さっそく今からでも」
5人の座頭にとっては、まさに渡りに舟。言葉に甘え、船頭の船に乗り込むことにした。その場で船賃をたっぷり弾んだ。
鞆の港を出発し、船は帆に風を受け、東に向かって進んだ。
やがて日没が迫った。座頭たちは眼が見えずとも、肌に伝わる五感で察することができる。
しばらくすると、風も凪ぎ、船を操る櫓の音だけが聞こえてきた。そのうち船が揺れるたび水の音がピチャピチャとする。
そのとき、船頭が声をかけてきた。「座頭さん、たいへん申し訳ない。船のアカ(船内にたまった水)をかえるから、その間、
近くの島に上がって作業が終わるのを待っていてくれんか」
座頭たちはそれに従い、船頭に手を引かれて、その島に上陸した。もとより急ぐ旅ではない。島に上がった5人は静かに打ち寄せる波の音を楽しんだ。
ところが待てど暮らせど、一向に船頭は迎えに来ない。
「船頭さん、まだかね?」と、声をかけてみたが返事がない。「船頭さん、船頭さんよ!」と叫んでいるうちに、潮が足元を濡らし始めた。
すでに船の気配は消えていた。だまされたと知った5人は声を涸らして助けを求めた。
潮は満ちてきて水位はどんどん上がってくる。おたがい離れまいとして座頭たちは抱き合ったが、悲しき抵抗だった。
ほどなく5人は海の藻屑と消えた……。
この海域では今でも雨の夜になると、海の底から話し声やすすり泣きの声がすると言って、地元の漁師たちは忌避するという。
一説によると、この5人のうちの1人だけは田井の海岸に打ち上げられ、親切な村人の介抱によって息を吹き返したとも伝えられている。
その後、高野山に入り、犠牲となった4人の墓を建て、その菩提を弔ったともいう。
また、この置き去り伝説を証明するかのように、直島の漁師がこの宗谷に潜ってみたことがあるらしい。すると岩の間に数体の白骨が折り重なっていたとか……。
どうやら置き去りにされた者はいずれも魑魅魍魎と化すのが通説のようだ。
五人宗谷(ぞわい):玉野の伝説
http://tamano.imawamukashi.com/umi/umi-6.htm...
検校wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A4%9C%E6%A0%A...
インターバルの岩礁で力尽きた女の悲話 高島と伊勢島
島根県益田市北部の沖、約12km先に浮かぶ高島。最盛期の1960(昭和35)年には125人の島民が暮らしていた。
しかし過疎化の進行と、1972年の集中豪雨災害などで大打撃を受けた。
そのため1975年3月にすべての住民が対岸の益田市土田町に集団移住して無人島となってしまった。
現在は磯釣りのスポットとして賑わいを見せている。そんな高島にも悲しき女の伝説が残されている。
かつて、対岸の津田からお伊勢という美しい娘が高島に嫁いできた。
新婚のころは島の生活も楽しく夫ともうまくやってきたつもりだったが、やがて荒涼たる孤島の生活にも飽き、
津田へ残してきた親のことを考える日々が続いた。
実家は村1、2を争うほど貧しかった。とりわけ母のことを想うと胸が張り裂けそうになった。
対岸までの距離が3里であることを知り、高島の周囲が1里であることから3周泳げるようになれば津田に達するに違いない、
と単純に考え、毎晩泳ぎの練習をした。そしてある日、3周泳ぎきったお伊勢は、ついに実践に移す。
しかしながらそれは浅はかな考えであった。安全な高島の周囲とはうって変わって、津田までの道のりは狂ったような荒波の海。
何度も波に揉まれながら、本土まであと半里までさしかかったとき、小さな岩礁が見えた。
どうにかそこにたどり着いて体力を回復させようと一息ついた。
あまりの望郷の念と疲労困憊したためか、手を伸ばせば届く対岸に両親のシルエットを見たような気がした。
張りつめていた神経が途切れ、安堵してしまったのが運の尽き。ふっと意識を失い、そのまま命を落としてしまったのだ。
それからというもの、この岩礁を『伊勢島』と呼び、月夜の晩にはお伊勢の声が聞こえてくるという言い伝えがある。
浜田海上保安部沿岸域情報提供システム 高島灯台
http://www6.kaiho.mlit.go.jp/hamada/03_service_page/service...
島根県益田市北部の沖、約12km先に浮かぶ高島。最盛期の1960(昭和35)年には125人の島民が暮らしていた。
しかし過疎化の進行と、1972年の集中豪雨災害などで大打撃を受けた。
そのため1975年3月にすべての住民が対岸の益田市土田町に集団移住して無人島となってしまった。
現在は磯釣りのスポットとして賑わいを見せている。そんな高島にも悲しき女の伝説が残されている。
かつて、対岸の津田からお伊勢という美しい娘が高島に嫁いできた。
新婚のころは島の生活も楽しく夫ともうまくやってきたつもりだったが、やがて荒涼たる孤島の生活にも飽き、
津田へ残してきた親のことを考える日々が続いた。
実家は村1、2を争うほど貧しかった。とりわけ母のことを想うと胸が張り裂けそうになった。
対岸までの距離が3里であることを知り、高島の周囲が1里であることから3周泳げるようになれば津田に達するに違いない、
と単純に考え、毎晩泳ぎの練習をした。そしてある日、3周泳ぎきったお伊勢は、ついに実践に移す。
しかしながらそれは浅はかな考えであった。安全な高島の周囲とはうって変わって、津田までの道のりは狂ったような荒波の海。
何度も波に揉まれながら、本土まであと半里までさしかかったとき、小さな岩礁が見えた。
どうにかそこにたどり着いて体力を回復させようと一息ついた。
あまりの望郷の念と疲労困憊したためか、手を伸ばせば届く対岸に両親のシルエットを見たような気がした。
張りつめていた神経が途切れ、安堵してしまったのが運の尽き。ふっと意識を失い、そのまま命を落としてしまったのだ。
それからというもの、この岩礁を『伊勢島』と呼び、月夜の晩にはお伊勢の声が聞こえてくるという言い伝えがある。
浜田海上保安部沿岸域情報提供システム 高島灯台
http://www6.kaiho.mlit.go.jp/hamada/03_service_page/service...
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森の奥には血を吸う山姫がいる 屋久島
1993(平成5)年、日本発のユネスコ、世界自然遺産に登録された鹿児島県の屋久島。
島全体に広がる大自然の『癒し』を求めて多くの観光客が集まり、スピリチュアルスポットとしても人気が高いのは今さら言うまでもない。
また、屋久島には九州一高い宮之浦岳(標高1936m)をはじめとする1800m級の山々がそびえ立っている。ガイドブックには『洋上のアルプス』と銘打っており、
それに相応しく、山頂付近の年間平均気温は約5℃と凍えるほど。なんと屋久島は、積雪が観測される日本最南端の場所でもあるのだ。
そんな神秘の屋久島にも、調査したところ、不思議な伝説が残されていることがわかった。
屋久島の大部分は山が占め、林業を生業とする者は毎月15日を『ヤマイエの日』として、この日は仕事を休んで山へ立ち入らないという。
なぜなら、この日は神々が行列をなし山を見て歩く日とされ、人が入るのを極度に嫌うためだとされているのだ。
これを与太話ととった者がいた。掟を守らず山へ入ったはいいが、白鹿に乗った神と遭遇。まわりを警護していた野鹿に角で突かれたらしい。
明くる日、村人が探していると谷底で死んでいたそうだ。また、ヤマイエの日に山に入ると神隠しにあうともいう。
極めつけは『山姫伝説』である。
森の奥深くには、美しい姫がいると信じられている。女を山姫と呼ぶ。
まるで洗ったばかりのように艶やかな長い髪を背中に垂らし、十二単姿で赤い袴を穿いているとも、半裸でシダの葉で作った腰ミノをまとっているだけともいう。
いずれにせよ、その素肌は雪のように白いんだとか。
山姫は木の精霊であり、旧正月、5月、9月に行われる山の神祭りの日、山に降りてくるともいわれる。
この日、山姫は祭りの潮水を汲みに、木の桶を持って降りてくるらしい。そのため、祭りの日に入山するのはタブーとされているのだ。
山姫は見た目は美しい。しかしその艶姿に惑わされてはいけない。
よしんば山姫に出会ってしまい、山姫が笑ったのにつられて笑うと血を吸われて殺されてしまう。
山姫が笑う前にこちらが先に笑うか、さもなくば山姫が笑ってもじっと目を見据えていれば助かる、笑わずに睨みつけてやれば何もせず去っていく。
草鞋の鼻緒を切って唾を吐きかけたものを投げつけるか、サカキの枝を振れば難を逃れられる、と回避方法はいくらかあるようだ。
山姫が怒っているときの方がかえって安全だという。
子供が山奥へ入らないための戒めとしてこの伝説は伝えられていると思いがちだが、屋久島の古老たちは実際に山姫と出くわしたことがあると力説する。
こんな事例が残されている。かつて屋久島吉田集落の者が麦の初穂を供えるべく、旧暦8月のある日に18人で連れ立って御岳に登った。
途中で日が暮れたので山小屋に一泊。翌朝の早朝、飯炊きの人間が早く起床して朝食の準備をしていたところ、妙な女が出現。
眠る一同の上に跨って何かしたというのだ。結局、物陰に隠れていた飯炊き以外、全員が血を吸われて死んでいたとのこと……。
近年の事例としては、『小学生が筍取りに行った際、白装束姿の髪の長い女に笑いかけられた』『雨の夜、宮之浦集落の運転手が紫色の着物の女に出会った。
車に乗せてやろうかと声をかけたが、そのまま行ってしまった』などと実話も少なくなく、妖怪探訪家、村上健司いわく、屋久島に限らず、
各地に伝播する山姫の目撃談は、近隣の村の娘が正気をなくし、山へ迷い込んでしまってこのような姿に変わり果て、
奇行を重ねているうちに伝説化したのではないかと言及している。
屋久島REALWAVE 島を知る
http://www.realwave-corp.com/02learn/08/index.ht...
屋久島旅行記
http://homepage1.nifty.com/udagawa_home/mt_yakushima.htm...
山姫伝承
http://blogs.yahoo.co.jp/cjkkb976/30701180.htm...
山姫wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E5%A7%A...
森の奥には血を吸う山姫がいる 屋久島
1993(平成5)年、日本発のユネスコ、世界自然遺産に登録された鹿児島県の屋久島。
島全体に広がる大自然の『癒し』を求めて多くの観光客が集まり、スピリチュアルスポットとしても人気が高いのは今さら言うまでもない。
また、屋久島には九州一高い宮之浦岳(標高1936m)をはじめとする1800m級の山々がそびえ立っている。ガイドブックには『洋上のアルプス』と銘打っており、
それに相応しく、山頂付近の年間平均気温は約5℃と凍えるほど。なんと屋久島は、積雪が観測される日本最南端の場所でもあるのだ。
そんな神秘の屋久島にも、調査したところ、不思議な伝説が残されていることがわかった。
屋久島の大部分は山が占め、林業を生業とする者は毎月15日を『ヤマイエの日』として、この日は仕事を休んで山へ立ち入らないという。
なぜなら、この日は神々が行列をなし山を見て歩く日とされ、人が入るのを極度に嫌うためだとされているのだ。
これを与太話ととった者がいた。掟を守らず山へ入ったはいいが、白鹿に乗った神と遭遇。まわりを警護していた野鹿に角で突かれたらしい。
明くる日、村人が探していると谷底で死んでいたそうだ。また、ヤマイエの日に山に入ると神隠しにあうともいう。
極めつけは『山姫伝説』である。
森の奥深くには、美しい姫がいると信じられている。女を山姫と呼ぶ。
まるで洗ったばかりのように艶やかな長い髪を背中に垂らし、十二単姿で赤い袴を穿いているとも、半裸でシダの葉で作った腰ミノをまとっているだけともいう。
いずれにせよ、その素肌は雪のように白いんだとか。
山姫は木の精霊であり、旧正月、5月、9月に行われる山の神祭りの日、山に降りてくるともいわれる。
この日、山姫は祭りの潮水を汲みに、木の桶を持って降りてくるらしい。そのため、祭りの日に入山するのはタブーとされているのだ。
山姫は見た目は美しい。しかしその艶姿に惑わされてはいけない。
よしんば山姫に出会ってしまい、山姫が笑ったのにつられて笑うと血を吸われて殺されてしまう。
山姫が笑う前にこちらが先に笑うか、さもなくば山姫が笑ってもじっと目を見据えていれば助かる、笑わずに睨みつけてやれば何もせず去っていく。
草鞋の鼻緒を切って唾を吐きかけたものを投げつけるか、サカキの枝を振れば難を逃れられる、と回避方法はいくらかあるようだ。
山姫が怒っているときの方がかえって安全だという。
子供が山奥へ入らないための戒めとしてこの伝説は伝えられていると思いがちだが、屋久島の古老たちは実際に山姫と出くわしたことがあると力説する。
こんな事例が残されている。かつて屋久島吉田集落の者が麦の初穂を供えるべく、旧暦8月のある日に18人で連れ立って御岳に登った。
途中で日が暮れたので山小屋に一泊。翌朝の早朝、飯炊きの人間が早く起床して朝食の準備をしていたところ、妙な女が出現。
眠る一同の上に跨って何かしたというのだ。結局、物陰に隠れていた飯炊き以外、全員が血を吸われて死んでいたとのこと……。
近年の事例としては、『小学生が筍取りに行った際、白装束姿の髪の長い女に笑いかけられた』『雨の夜、宮之浦集落の運転手が紫色の着物の女に出会った。
車に乗せてやろうかと声をかけたが、そのまま行ってしまった』などと実話も少なくなく、妖怪探訪家、村上健司いわく、屋久島に限らず、
各地に伝播する山姫の目撃談は、近隣の村の娘が正気をなくし、山へ迷い込んでしまってこのような姿に変わり果て、
奇行を重ねているうちに伝説化したのではないかと言及している。
屋久島REALWAVE 島を知る
http://www.realwave-corp.com/02learn/08/index.ht...
屋久島旅行記
http://homepage1.nifty.com/udagawa_home/mt_yakushima.htm...
山姫伝承
http://blogs.yahoo.co.jp/cjkkb976/30701180.htm...
山姫wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E5%A7%A...
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波照間版浦島太郎『エイ女房』 波照間島 1
沖縄本島から南西に400km、さらに八重山群島の中心の石垣島から南西に63kmにある波照間島は、隆起珊瑚礁の島であり、
そして日本最南端の有人島でもある。
波照間島には怖いわけではないが、ファンタジックで牧歌的でありながら、なぜかリアルな伝説が残されているのだが、
これが浦島太郎の話と符合する点が見受けられ、たいへん興味深いのだ。
昔、ある漁師が夜の海へ漁に出ていた。ところがあいにくの不漁。
そろそろ竿を片づけようかと思ったとき、急に当たりがきた。引き揚げてみると大きなマンタだった。
そのマンタを舟底に座らせてみると、愛くるしい眼で漁師を見つめてくるので、そのうち男は変な気持ちになった。
男には陸に上がれば妻が待っている身。なにも性生活に不自由しているわけではないが、どうにも人間の女そっくりの目つきに映り、
ついムラムラッと……催してしまったのだ。漁師はマンタを抱きしめると……いたしてしまった。
(下世話な薀蓄だが、マンタのソレの締まり具合は人間の女性のアソコと遜色ないそうな)
行為を終えた男。これからどうしよう。いくらマンタが愛らしいとはいえ、まさか家に連れて帰り、飼うわけにはいかない。
ましてや食べる気にもならないので、結局、舟べりから海へ逃がしてやった。
それから何年か経った。すっかりマンタとの熱い一夜など忘れてしまっていた。
また例のごとく夜の海に出て、釣り糸を垂れていたときのこと。
奇妙なことに海の中からマンタの子供が顔を覗かせ、こう喋ったではないか。「お父さん、お父さん」
「なんと、マンタが口を利いた。しかしおまえに、お父さんと呼ばれる筋合いはないのだが……」
「なにをおっしゃる、お父さん。会えてうれしいです。今夜、私の家においでになりませんか? 母も会いたがっておりますよ」
「母さん?」男は仰天した。瞬時に『やっちまった一夜』を思い出す。「ひょっとして、あのときエッチしたマンタか!」
「左様です。あの夜、母と契を結ばれ、私が生を授かったのでございます」
沖縄本島から南西に400km、さらに八重山群島の中心の石垣島から南西に63kmにある波照間島は、隆起珊瑚礁の島であり、
そして日本最南端の有人島でもある。
波照間島には怖いわけではないが、ファンタジックで牧歌的でありながら、なぜかリアルな伝説が残されているのだが、
これが浦島太郎の話と符合する点が見受けられ、たいへん興味深いのだ。
昔、ある漁師が夜の海へ漁に出ていた。ところがあいにくの不漁。
そろそろ竿を片づけようかと思ったとき、急に当たりがきた。引き揚げてみると大きなマンタだった。
そのマンタを舟底に座らせてみると、愛くるしい眼で漁師を見つめてくるので、そのうち男は変な気持ちになった。
男には陸に上がれば妻が待っている身。なにも性生活に不自由しているわけではないが、どうにも人間の女そっくりの目つきに映り、
ついムラムラッと……催してしまったのだ。漁師はマンタを抱きしめると……いたしてしまった。
(下世話な薀蓄だが、マンタのソレの締まり具合は人間の女性のアソコと遜色ないそうな)
行為を終えた男。これからどうしよう。いくらマンタが愛らしいとはいえ、まさか家に連れて帰り、飼うわけにはいかない。
ましてや食べる気にもならないので、結局、舟べりから海へ逃がしてやった。
それから何年か経った。すっかりマンタとの熱い一夜など忘れてしまっていた。
また例のごとく夜の海に出て、釣り糸を垂れていたときのこと。
奇妙なことに海の中からマンタの子供が顔を覗かせ、こう喋ったではないか。「お父さん、お父さん」
「なんと、マンタが口を利いた。しかしおまえに、お父さんと呼ばれる筋合いはないのだが……」
「なにをおっしゃる、お父さん。会えてうれしいです。今夜、私の家においでになりませんか? 母も会いたがっておりますよ」
「母さん?」男は仰天した。瞬時に『やっちまった一夜』を思い出す。「ひょっとして、あのときエッチしたマンタか!」
「左様です。あの夜、母と契を結ばれ、私が生を授かったのでございます」
波照間版浦島太郎『エイ女房』 波照間島 2
息子マンタが言うには、海中の中にある御殿へ招待したいから、今から参りましょうと誘う。男は逆らえず行くことにした。
マンタの背に捕まり、海中にと潜った。なぜか呼吸は大丈夫だった。
そしてたどり着いたのがきらびやかな海中の御殿であった。あのメスマンタが微笑みながら出迎えてくれた。
まさしく竜宮城の浦島太郎のごとく、タイやヒラメの踊りに山海の珍味を振舞われ、至り尽くせりの歓待を受けた。
その間、男は甲斐甲斐しいメスマンタのもてなしを受けた。陸へ置いてきた妻のことなど忘れ、毎日のようにご馳走を食べ、楽しくすごした。
人は贅沢な生き物である。そんな夢うつつの暮らしを続けていると、いずれ飽きがくる。
ある日、マンタに別れを切り出した。
マンタ親子は必死に引き止めたが、男の気持ちは変わらない。「残念です。せめて手土産を差し上げます。
これは竜宮の壺。中に向かって、欲しいものを願うと、何でも出してくれる魔法の壺でございます」
「それは便利な品物だな。せっかくだからもらっておくよ。では、これにて失敬」
帰りも息子マンタに捕まって浮上し、はるばる故郷に帰ってきた(浦島太郎とは違い、世界は元のままであった)。
家に帰ると、壺のことは内緒にし、なんのかんの言い訳をして妻に平謝りした。
竜宮の壺は畑に隠しておいた。昼になると、畑仕事に出かけると言って家を出た。
男は壺を取り出すと、壺の中に向かって自身の好物を願った。まさにそれは魔法の壺で、次から次へとご馳走を出してくれた。
それ以来、男は畑仕事が日課になった。しかしそんな夢のような日は長続きしない。
せっかく作った妻の弁当に箸もつけず持ち帰ってくるものだから、妻は不審に思った。
例のごとく畑に出かけた夫を追って、物陰からこっそり様子を窺った。
なんと夫は、畑の真ん中でご馳走を並べて、それをガツガツたいらげているではないか。
「アンタ! なによ、その豪華な食べ物は!」と、妻は大声を出して飛び出した。
男はあわてて壺を取られまいとしてアブ(排水口)に隠した。そして弁解しているうちに、なくしてしまったという。
……いまだにこの魔法の壺がどこにあるのか、どこのアブに入っているのか、見当がつかない。
波照間の島民にとって謎になっており、憧れのアイテムとして語り継がれている。
[日本の民話・妖怪 語りおろし]エイ女房(沖縄県、波照間島)
http://www.rg-youkai.com/tales/ja/47_okinawa/18_einyoub...
息子マンタが言うには、海中の中にある御殿へ招待したいから、今から参りましょうと誘う。男は逆らえず行くことにした。
マンタの背に捕まり、海中にと潜った。なぜか呼吸は大丈夫だった。
そしてたどり着いたのがきらびやかな海中の御殿であった。あのメスマンタが微笑みながら出迎えてくれた。
まさしく竜宮城の浦島太郎のごとく、タイやヒラメの踊りに山海の珍味を振舞われ、至り尽くせりの歓待を受けた。
その間、男は甲斐甲斐しいメスマンタのもてなしを受けた。陸へ置いてきた妻のことなど忘れ、毎日のようにご馳走を食べ、楽しくすごした。
人は贅沢な生き物である。そんな夢うつつの暮らしを続けていると、いずれ飽きがくる。
ある日、マンタに別れを切り出した。
マンタ親子は必死に引き止めたが、男の気持ちは変わらない。「残念です。せめて手土産を差し上げます。
これは竜宮の壺。中に向かって、欲しいものを願うと、何でも出してくれる魔法の壺でございます」
「それは便利な品物だな。せっかくだからもらっておくよ。では、これにて失敬」
帰りも息子マンタに捕まって浮上し、はるばる故郷に帰ってきた(浦島太郎とは違い、世界は元のままであった)。
家に帰ると、壺のことは内緒にし、なんのかんの言い訳をして妻に平謝りした。
竜宮の壺は畑に隠しておいた。昼になると、畑仕事に出かけると言って家を出た。
男は壺を取り出すと、壺の中に向かって自身の好物を願った。まさにそれは魔法の壺で、次から次へとご馳走を出してくれた。
それ以来、男は畑仕事が日課になった。しかしそんな夢のような日は長続きしない。
せっかく作った妻の弁当に箸もつけず持ち帰ってくるものだから、妻は不審に思った。
例のごとく畑に出かけた夫を追って、物陰からこっそり様子を窺った。
なんと夫は、畑の真ん中でご馳走を並べて、それをガツガツたいらげているではないか。
「アンタ! なによ、その豪華な食べ物は!」と、妻は大声を出して飛び出した。
男はあわてて壺を取られまいとしてアブ(排水口)に隠した。そして弁解しているうちに、なくしてしまったという。
……いまだにこの魔法の壺がどこにあるのか、どこのアブに入っているのか、見当がつかない。
波照間の島民にとって謎になっており、憧れのアイテムとして語り継がれている。
[日本の民話・妖怪 語りおろし]エイ女房(沖縄県、波照間島)
http://www.rg-youkai.com/tales/ja/47_okinawa/18_einyoub...
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鬼の一瞬のスキを見逃さずワンショット・ワンキル 魔見ヶ島(まみるがしま)
……なんたる失態ッ!
それは盲点。僕の住んでる地元の、ほんの近くにナイスネーミングな島があったとは、今の今まで気づかなかったのだ。
その名も『魔見ヶ島』。字面からしてオドロオドロしい。『魔性の者を見る島』とは厨二病そこのけではないか。
しかもその名を裏切らず、グッドな伝承が残されていた。ますらおぶりな島名にはそれに釣り合う由来があるべきである。
>>228で紹介した三重県熊野市の名勝奇岩『獅子岩』の近くには、天然記念物に選ばれ、ユネスコ世界遺産『紀伊山地の霊場と参詣道』の一部である『鬼ヶ城』
(こちらも奇岩)があり、さらにその沖合1.5kmのところに問題の魔見ヶ島はあるのだ。
国道42号線を車で通るたび、「あの3つコブのある島はなんなんだ……あの島の名前はなんていうんだろう……しかし、なぜか惹きつけられる島だなあ」
と、つねづね運転そっちのけで思っていたら、ある日その謎が氷解したわけである。
魔見ヶ島のふだんの顔は釣り人にとって絶好の漁場である。
イシダイ、ヒラマサをはじめ、マダイは最大90cm、クエも1m超えという記録がある熊野を代表する磯だそうだ。
しかしながら釣り人は撒き餌のオキアミでグチャグチャに汚してしまうその島に、まさか鬼にまつわる伝説が残されていたとは夢にも思うまい。
その伝説とは以下のとおりである。
今を遡ること1200年前。桓武天皇は坂上田村麻呂を将軍に命じ、伊勢・鈴鹿の悪鬼どもを征伐させに向かわせた。
そのとき鬼ヶ城をねぐらとし、悪行を重ね、熊野一帯を荒らしていた鬼たちがいた。田村麻呂はこれを討つべく熊野に馬を走らせたのだった。
(※言うまでもなく鬼とはメタファーである。一般的に鬼や土蜘蛛と称される怪物伝説は『まつろわぬ者(もしくは民)』を指す。
そして中央政権に反発する者は悪として描かれているのが常である。ここでは海の民、すなわち海賊の多我丸とその一族が鬼として祭り上げられたのだ)
その鬼たちは深山幽谷へ飛行して姿をくらませていた。田村麻呂は追討ちをかけるべく烏帽子山にのぼり、救いを求め観音の名を唱えた。
すると大馬(おおま)権現の天女が忽然と現われ、こう助言したのだ。
「あなたが追う鬼賊の隠れ家は海辺の岩屋(鬼ヶ城)に隠れています。ですが、岩がそびえ立ったうえ磯は波が激しく、
容易に近づくことはできないでしょう。けれども諦めてはいけません。辛抱強く待ち伏せするのです。そして神通の矢を放ちなさい」
天女はそれだけ告げると、白馬に乗って飛び去ったという。
その言葉に従い、田村麻呂は鬼ヶ城から離れた場所に身をひそめた。そしていよいよ決戦のとき。
夜が訪れ、不思議な現象が起きた。沖の魔見ヶ島がなんだか騒がしい。見れば島に童子が現れたと思うと、唄って舞っているではないか。
童子だけにとどまらず、軍勢も加わり大騒ぎしている。
外の騒々しさを何事かと思ったのであろう、鬼の大将が鬼ヶ城の岩戸を開けているところだった。
田村麻呂はその一瞬を見逃さなかった。すかさず弓に神通の矢をつがえ、引きしぼった。鬼大将の胸板を狙い、そして放った。
こうして鬼は一矢でしとめられたのだ。鬼も気高き誇りのなせる技か、仁王立ちのまま死んだという。
田村麻呂にとって大将を欠いた鬼の残党など、もはや敵ではなかった。
魔見ヶ島……それは鬼を征伐するのに、奇跡を起こした島だったのだ。
鬼ヶ城・魔見ヶ島 - 東紀州ほっとネットくまどこ
http://www.kumadoco.net/special/03_sea/kumano/04.htm...
坂上田村麻呂
http://www.geocities.jp/baronhiro2000/rekisi/tamura.ht...
鬼の国、異界日本
http://homepage2.nifty.com/sukecial/oni/index.ht...
……なんたる失態ッ!
それは盲点。僕の住んでる地元の、ほんの近くにナイスネーミングな島があったとは、今の今まで気づかなかったのだ。
その名も『魔見ヶ島』。字面からしてオドロオドロしい。『魔性の者を見る島』とは厨二病そこのけではないか。
しかもその名を裏切らず、グッドな伝承が残されていた。ますらおぶりな島名にはそれに釣り合う由来があるべきである。
>>228で紹介した三重県熊野市の名勝奇岩『獅子岩』の近くには、天然記念物に選ばれ、ユネスコ世界遺産『紀伊山地の霊場と参詣道』の一部である『鬼ヶ城』
(こちらも奇岩)があり、さらにその沖合1.5kmのところに問題の魔見ヶ島はあるのだ。
国道42号線を車で通るたび、「あの3つコブのある島はなんなんだ……あの島の名前はなんていうんだろう……しかし、なぜか惹きつけられる島だなあ」
と、つねづね運転そっちのけで思っていたら、ある日その謎が氷解したわけである。
魔見ヶ島のふだんの顔は釣り人にとって絶好の漁場である。
イシダイ、ヒラマサをはじめ、マダイは最大90cm、クエも1m超えという記録がある熊野を代表する磯だそうだ。
しかしながら釣り人は撒き餌のオキアミでグチャグチャに汚してしまうその島に、まさか鬼にまつわる伝説が残されていたとは夢にも思うまい。
その伝説とは以下のとおりである。
今を遡ること1200年前。桓武天皇は坂上田村麻呂を将軍に命じ、伊勢・鈴鹿の悪鬼どもを征伐させに向かわせた。
そのとき鬼ヶ城をねぐらとし、悪行を重ね、熊野一帯を荒らしていた鬼たちがいた。田村麻呂はこれを討つべく熊野に馬を走らせたのだった。
(※言うまでもなく鬼とはメタファーである。一般的に鬼や土蜘蛛と称される怪物伝説は『まつろわぬ者(もしくは民)』を指す。
そして中央政権に反発する者は悪として描かれているのが常である。ここでは海の民、すなわち海賊の多我丸とその一族が鬼として祭り上げられたのだ)
その鬼たちは深山幽谷へ飛行して姿をくらませていた。田村麻呂は追討ちをかけるべく烏帽子山にのぼり、救いを求め観音の名を唱えた。
すると大馬(おおま)権現の天女が忽然と現われ、こう助言したのだ。
「あなたが追う鬼賊の隠れ家は海辺の岩屋(鬼ヶ城)に隠れています。ですが、岩がそびえ立ったうえ磯は波が激しく、
容易に近づくことはできないでしょう。けれども諦めてはいけません。辛抱強く待ち伏せするのです。そして神通の矢を放ちなさい」
天女はそれだけ告げると、白馬に乗って飛び去ったという。
その言葉に従い、田村麻呂は鬼ヶ城から離れた場所に身をひそめた。そしていよいよ決戦のとき。
夜が訪れ、不思議な現象が起きた。沖の魔見ヶ島がなんだか騒がしい。見れば島に童子が現れたと思うと、唄って舞っているではないか。
童子だけにとどまらず、軍勢も加わり大騒ぎしている。
外の騒々しさを何事かと思ったのであろう、鬼の大将が鬼ヶ城の岩戸を開けているところだった。
田村麻呂はその一瞬を見逃さなかった。すかさず弓に神通の矢をつがえ、引きしぼった。鬼大将の胸板を狙い、そして放った。
こうして鬼は一矢でしとめられたのだ。鬼も気高き誇りのなせる技か、仁王立ちのまま死んだという。
田村麻呂にとって大将を欠いた鬼の残党など、もはや敵ではなかった。
魔見ヶ島……それは鬼を征伐するのに、奇跡を起こした島だったのだ。
鬼ヶ城・魔見ヶ島 - 東紀州ほっとネットくまどこ
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坂上田村麻呂
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鬼の国、異界日本
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龍神の化身、夜ごと行者の話を聞きに現る 舳倉島(へぐらじま)
石川県能登半島より北上すること約50km、紺碧の日本海上に突如姿を現すのが舳倉島である。
島の南端に近い字高見には延喜式内社奥津比迠(おくつひめ)神社が座り、近くからは重層遺跡『シラスナ遺跡』が発見されている。
これは5世紀半ばから8世紀後半にかけての複合遺跡であり、古い層からは貝塚やアシカの骨、8世紀頃の遺跡からは製塩土器や牛の骨が発掘され、
ここで『殺牛祭神の儀礼』が行われていた可能性も指摘されている。
さらに舳倉島では石積み(ケルン)の多さに驚かされる。島内には70あまりのケルンがあり、石を積むことが龍神の供養となると同時に、
エゴ草がたくさん採れるようになると言い伝えられている。
もしくは江戸時代に起きた海難事故のあと、低い島を少しでも高く見せて海上からの標識になるよう積み上げたという説もある。
島の中央より北の海岸近くに『龍神池』と呼ばれる池がある。別名を『蛇池』ともいうらしい。
その昔、この島に一旭(いっきょく)という名の高徳の行者が訪れた。行者は池のかたわらに草庵を結び、毎晩、漁師や海女などの島民を招き、
ありがたい法話を語って聞かせていた。
やがて、その座に1人の若くて美しい女が参加するようになった。
しかし奇妙なことに、その女は修行を積んだ行者に姿は見えても、ほかの島民には見えないらしい。
行者は不思議に思いつつも、ある晩、法話が終わったあと、声をかけてみることにした。
「もし……あなたは毎夜、熱心に話を聞いてくださっているようだが、どこにお住まいですか? あまり見かけない顔ですな」
「さすがですわね、私の姿がお見えになられるとは。実は私、人間ではございません。古くから舳倉島に住んでいた龍でございます。
年老いて死んでからというもの、亡骸は池の底に沈んでいるのです」
これも悲しき業か。龍は生前に犯した数多の罪ゆえ成仏できず、子供の龍とともに苦界をさまよっているのだという。
そんな折、奇しくも行者が島へ来てからというもの、ありがたい法話を聞かせてくれるので、人間の姿に身を変えて末席に加わっていた次第。
以来、何度もここへ足を運び、心の苦しみも幾分和らいだ気がする。それほどまでに行者の話は龍の悶絶する魂を癒すのだと。
「願わくば、行者様。なにとぞ……なにとぞ池をさらって我が亡骸を引き揚げてくださらぬか。そして弔い、その法力で成仏させてくださいますよう
お願い申し上げます」と、涙ながらに訴えた。行者は承知すると、女は何度も頭を下げ、闇に溶け込んでいった……。
翌朝、行者は村の人々を集めて、池の水を汲み出させ、底にたまった泥をさらった。
すると頭を北に向けた大小2つの龍の骨が見つかった。おびただしい数の骨は四斗樽に4杯分に及んだ。
頭蓋骨を輪島の法蔵へ運んでねんごろに法要し、残りの遺骨は法蔵寺分院に分骨した。
行者はそのあとも舳倉島に住みつづけ、法話を続けたが、成仏を果たしたものか、例の女は現われることはなかった。
それ以来、法蔵寺では、今では寺の宝物となっているその龍の骨を、毎年1月15日にご開帳して『龍法要』が行われるという。
なお行者である一旭は、弘化4年(1847)に亡くなったといわれ、島の中央台地には『行者の碑』が建てられて昔を偲んでいる。
島の概要・島遺跡・伝説など
http://www.geocities.co.jp/une_genzaburo/HeguraIsland.ht...
東アジアにおける殺牛祭祀の系譜
http://archives.bukkyo-u.ac.jp/rp-contents/RO/0001/RO00010L01...
石川県能登半島より北上すること約50km、紺碧の日本海上に突如姿を現すのが舳倉島である。
島の南端に近い字高見には延喜式内社奥津比迠(おくつひめ)神社が座り、近くからは重層遺跡『シラスナ遺跡』が発見されている。
これは5世紀半ばから8世紀後半にかけての複合遺跡であり、古い層からは貝塚やアシカの骨、8世紀頃の遺跡からは製塩土器や牛の骨が発掘され、
ここで『殺牛祭神の儀礼』が行われていた可能性も指摘されている。
さらに舳倉島では石積み(ケルン)の多さに驚かされる。島内には70あまりのケルンがあり、石を積むことが龍神の供養となると同時に、
エゴ草がたくさん採れるようになると言い伝えられている。
もしくは江戸時代に起きた海難事故のあと、低い島を少しでも高く見せて海上からの標識になるよう積み上げたという説もある。
島の中央より北の海岸近くに『龍神池』と呼ばれる池がある。別名を『蛇池』ともいうらしい。
その昔、この島に一旭(いっきょく)という名の高徳の行者が訪れた。行者は池のかたわらに草庵を結び、毎晩、漁師や海女などの島民を招き、
ありがたい法話を語って聞かせていた。
やがて、その座に1人の若くて美しい女が参加するようになった。
しかし奇妙なことに、その女は修行を積んだ行者に姿は見えても、ほかの島民には見えないらしい。
行者は不思議に思いつつも、ある晩、法話が終わったあと、声をかけてみることにした。
「もし……あなたは毎夜、熱心に話を聞いてくださっているようだが、どこにお住まいですか? あまり見かけない顔ですな」
「さすがですわね、私の姿がお見えになられるとは。実は私、人間ではございません。古くから舳倉島に住んでいた龍でございます。
年老いて死んでからというもの、亡骸は池の底に沈んでいるのです」
これも悲しき業か。龍は生前に犯した数多の罪ゆえ成仏できず、子供の龍とともに苦界をさまよっているのだという。
そんな折、奇しくも行者が島へ来てからというもの、ありがたい法話を聞かせてくれるので、人間の姿に身を変えて末席に加わっていた次第。
以来、何度もここへ足を運び、心の苦しみも幾分和らいだ気がする。それほどまでに行者の話は龍の悶絶する魂を癒すのだと。
「願わくば、行者様。なにとぞ……なにとぞ池をさらって我が亡骸を引き揚げてくださらぬか。そして弔い、その法力で成仏させてくださいますよう
お願い申し上げます」と、涙ながらに訴えた。行者は承知すると、女は何度も頭を下げ、闇に溶け込んでいった……。
翌朝、行者は村の人々を集めて、池の水を汲み出させ、底にたまった泥をさらった。
すると頭を北に向けた大小2つの龍の骨が見つかった。おびただしい数の骨は四斗樽に4杯分に及んだ。
頭蓋骨を輪島の法蔵へ運んでねんごろに法要し、残りの遺骨は法蔵寺分院に分骨した。
行者はそのあとも舳倉島に住みつづけ、法話を続けたが、成仏を果たしたものか、例の女は現われることはなかった。
それ以来、法蔵寺では、今では寺の宝物となっているその龍の骨を、毎年1月15日にご開帳して『龍法要』が行われるという。
なお行者である一旭は、弘化4年(1847)に亡くなったといわれ、島の中央台地には『行者の碑』が建てられて昔を偲んでいる。
島の概要・島遺跡・伝説など
http://www.geocities.co.jp/une_genzaburo/HeguraIsland.ht...
東アジアにおける殺牛祭祀の系譜
http://archives.bukkyo-u.ac.jp/rp-contents/RO/0001/RO00010L01...
素っ裸の娘が腰かけ、長い黒髪をといている 髪とき島
和歌山県串本町にある自然景勝地である『海金剛』。紀伊大島鷹ノ巣岬の断崖下の海面から切り立った巨岩が連なる海岸線を指す。
この海金剛にはピラミッド型の島があり、地元では別名『髪とき島』と言われている。
この島(というより岩塊だが)には、またもや悲しき女にまつわる伝説が残されている。
それにしてもどうして島の歴史は、こうも女性が犠牲となるのだろう……。
かつて樫野の村にお浪(なみ)という名の美しい娘がいた。黒くて長い髪が自慢だった。
村の庄屋の子息である善兵衛はお浪を好いており、お浪も心根の優しい善兵衛のことを愛していた。
相思相愛であるにもかかわらず、お浪の家柄は貧しく、相手が庄屋の跡取りであるがゆえに身分の差が許されなかった。
善兵衛はお浪を愛する気持ちに変わりはなかったものの、親の勧める縁談を断りきれず、古座の村の娘と結婚することになってしまった。
婚礼の日、悲しみに打ちのめされたお浪は泣きながら姿をくらませた。
お浪の行方を案じた村人が捜索するも、どこにも見当たらない。
いつしか年を越し、春を迎えた。善兵衛が友人と樫野崎の道を通りかかったとき、眼下の海金剛に眼をやった彼は声を失った。
三角に尖った岩場に、全裸の娘が腰をかけ、しずしずと長い黒髪をといでいるのだ。うつむいた姿に見憶えがある。
娘は動揺する善兵衛たちに気づき、2人に向かって見上げるとにっこりほほえんだ。
それは間違いなく彼女だった。「お浪! お浪ではないか!」と、善兵衛は叫んだが、次の瞬間にはお浪の姿はかき消すようにいなくなった。
それからも一度たりともお浪の姿を見た者はいない。
村の人たちは海金剛の三角岩をお浪の『髪とき岩』と呼んで長く語り継いだ。
月夜の晩、海の底の竜宮に行ってしまったお浪が岩の上で黒髪をといでいるのだと。
伝説〜髪とき島
http://blog.hiramaru.com/?eid=73405...
和歌山県串本町にある自然景勝地である『海金剛』。紀伊大島鷹ノ巣岬の断崖下の海面から切り立った巨岩が連なる海岸線を指す。
この海金剛にはピラミッド型の島があり、地元では別名『髪とき島』と言われている。
この島(というより岩塊だが)には、またもや悲しき女にまつわる伝説が残されている。
それにしてもどうして島の歴史は、こうも女性が犠牲となるのだろう……。
かつて樫野の村にお浪(なみ)という名の美しい娘がいた。黒くて長い髪が自慢だった。
村の庄屋の子息である善兵衛はお浪を好いており、お浪も心根の優しい善兵衛のことを愛していた。
相思相愛であるにもかかわらず、お浪の家柄は貧しく、相手が庄屋の跡取りであるがゆえに身分の差が許されなかった。
善兵衛はお浪を愛する気持ちに変わりはなかったものの、親の勧める縁談を断りきれず、古座の村の娘と結婚することになってしまった。
婚礼の日、悲しみに打ちのめされたお浪は泣きながら姿をくらませた。
お浪の行方を案じた村人が捜索するも、どこにも見当たらない。
いつしか年を越し、春を迎えた。善兵衛が友人と樫野崎の道を通りかかったとき、眼下の海金剛に眼をやった彼は声を失った。
三角に尖った岩場に、全裸の娘が腰をかけ、しずしずと長い黒髪をといでいるのだ。うつむいた姿に見憶えがある。
娘は動揺する善兵衛たちに気づき、2人に向かって見上げるとにっこりほほえんだ。
それは間違いなく彼女だった。「お浪! お浪ではないか!」と、善兵衛は叫んだが、次の瞬間にはお浪の姿はかき消すようにいなくなった。
それからも一度たりともお浪の姿を見た者はいない。
村の人たちは海金剛の三角岩をお浪の『髪とき岩』と呼んで長く語り継いだ。
月夜の晩、海の底の竜宮に行ってしまったお浪が岩の上で黒髪をといでいるのだと。
伝説〜髪とき島
http://blog.hiramaru.com/?eid=73405...
親子鯨は殺すべきではなかった紋九郎鯨物語 宇久島(うくじま)
五島列島北端の宇久島は佐世保市宇久町であり、江戸のころは五島領の島、捕鯨は地元の山田鯨組、平戸領の鯨組、
大村領からの鯨組の出組も盛んな島だった。島には鯨にまつわる不思議な伝説が語り継がれている。
宇久島平住の山田紋九郎は、山田鯨組三代目。かなりの豊漁を誇っていた。
ところが1715(正徳5)年の冬、漁場に入ってくる鯨がいないので船子たちは「正月前に鯨を1本欲しい」と焦っていたが、
なかなか捕らえられずやきもきしていた。年が明けて正徳6年となり、正月も半ばをすぎたにもかかわらず、からきしダメだった。
21日の夜、紋九郎親方は不思議な夢を見た。夢の内容は、子持ちの大鯨が人の言葉を喋るものだった。
鯨いわく、「私は五島の大宝寺(玉之浦、真言宗、西の高野山と称す)に、子鯨をつれて参詣する途中なのです。
どうか参詣を終えるまで、捕らないでいただきたい」とお願いしたところで、紋九郎は眼を覚ました。
紋九郎の胸に期するものがあった。「なるほど今日は弘法さまの縁日。鯨が通っても捕らないようにと、皆に知らせるべきだな」と、
夜が明けて、さっそく昨夜の夢の話を語って聞かせた。
「皆の者、よく聞け。鯨を待ち侘びているのは山々だが、夢のお告げ通り、もし親子鯨を見かけたら今回ばかりは見逃してやってくれ」
「ですがお頭、しょせん夢にすぎないんでしょ。まさか真に受けるつもりですか?」と、船子たちは一笑に付した。
「我々は板子一枚下は地獄の中で仕事をやっている身。勘や予感は見すごせない」
「わかりましたよ。でしたら、頭の片隅に憶えておきますよ」
そのあと一同が一服しているときに鯨発見の一報が届けられた。
すかさず船子たちは立ち上がり、身支度をした。どうやら鯨は親子らしい。まさに紋九郎の夢のとおりだ。
しかし船子たちは言いつけを守ることなど眼中になく、それぞれの船に乗り込むと、沖合の獲物めざして櫓を漕いだ。
「いかん! 引き返すんだ!」と、親方は浜辺で叫んだが、時すでに遅しであった。
「鯨は白長須鯨、長さ33尋の子持ち。逃がすなよ!」と、船子たちは鼻息荒く親子鯨を追いつめた。
網が幾重にも張られたうえ、容赦なく銛が打ち込まれた。大鯨は大暴れした。船子たちは血が騒いだ。
いつしか真っ黒な雲が空一面に広がり、不穏な空気が漂った。風が吹き荒れ、みぞれ混じりの雨が船もろとも海面を叩いた。
そんななか、暴れ狂う鯨はついに網を破り、銛綱を切って逃亡した。
たまらなくなった船子たちの各船は陸に向けてとって返しはじめたが、波が小山のように船に襲いかかり、船団は分断された。
そのうち何隻か、大波に飲み込まれた……。
夜が明けると行方不明者、流れ着いた死体を含め、72人の犠牲者を出してしまった。
生存者の談によると、あの漁のとき、鯨の背中には山田家の紋章が見えたという。
山田組始まって以来のこの大惨事。この事件を契機に、紋九郎は鯨組をやめて造り酒屋となった。
72人の死者は、平の墓地に、『七十二様の墓碑』として祀られている。
宇久島の歴史 | 宇久町観光協会オフィシャルサイト
http://www.ukujima.com/nature_history/history.htm...
鯨の民俗学 長崎『西海の鯨伝説・民話』
http://www.geocities.co.jp/NatureLand-Sky/3011/33kujira-d...
日本の鯨文化:鯨に関わる伝説・逸話(3)
http://www.geocities.co.jp/NatureLand-Sky/3011/33kujira-d...
五島列島北端の宇久島は佐世保市宇久町であり、江戸のころは五島領の島、捕鯨は地元の山田鯨組、平戸領の鯨組、
大村領からの鯨組の出組も盛んな島だった。島には鯨にまつわる不思議な伝説が語り継がれている。
宇久島平住の山田紋九郎は、山田鯨組三代目。かなりの豊漁を誇っていた。
ところが1715(正徳5)年の冬、漁場に入ってくる鯨がいないので船子たちは「正月前に鯨を1本欲しい」と焦っていたが、
なかなか捕らえられずやきもきしていた。年が明けて正徳6年となり、正月も半ばをすぎたにもかかわらず、からきしダメだった。
21日の夜、紋九郎親方は不思議な夢を見た。夢の内容は、子持ちの大鯨が人の言葉を喋るものだった。
鯨いわく、「私は五島の大宝寺(玉之浦、真言宗、西の高野山と称す)に、子鯨をつれて参詣する途中なのです。
どうか参詣を終えるまで、捕らないでいただきたい」とお願いしたところで、紋九郎は眼を覚ました。
紋九郎の胸に期するものがあった。「なるほど今日は弘法さまの縁日。鯨が通っても捕らないようにと、皆に知らせるべきだな」と、
夜が明けて、さっそく昨夜の夢の話を語って聞かせた。
「皆の者、よく聞け。鯨を待ち侘びているのは山々だが、夢のお告げ通り、もし親子鯨を見かけたら今回ばかりは見逃してやってくれ」
「ですがお頭、しょせん夢にすぎないんでしょ。まさか真に受けるつもりですか?」と、船子たちは一笑に付した。
「我々は板子一枚下は地獄の中で仕事をやっている身。勘や予感は見すごせない」
「わかりましたよ。でしたら、頭の片隅に憶えておきますよ」
そのあと一同が一服しているときに鯨発見の一報が届けられた。
すかさず船子たちは立ち上がり、身支度をした。どうやら鯨は親子らしい。まさに紋九郎の夢のとおりだ。
しかし船子たちは言いつけを守ることなど眼中になく、それぞれの船に乗り込むと、沖合の獲物めざして櫓を漕いだ。
「いかん! 引き返すんだ!」と、親方は浜辺で叫んだが、時すでに遅しであった。
「鯨は白長須鯨、長さ33尋の子持ち。逃がすなよ!」と、船子たちは鼻息荒く親子鯨を追いつめた。
網が幾重にも張られたうえ、容赦なく銛が打ち込まれた。大鯨は大暴れした。船子たちは血が騒いだ。
いつしか真っ黒な雲が空一面に広がり、不穏な空気が漂った。風が吹き荒れ、みぞれ混じりの雨が船もろとも海面を叩いた。
そんななか、暴れ狂う鯨はついに網を破り、銛綱を切って逃亡した。
たまらなくなった船子たちの各船は陸に向けてとって返しはじめたが、波が小山のように船に襲いかかり、船団は分断された。
そのうち何隻か、大波に飲み込まれた……。
夜が明けると行方不明者、流れ着いた死体を含め、72人の犠牲者を出してしまった。
生存者の談によると、あの漁のとき、鯨の背中には山田家の紋章が見えたという。
山田組始まって以来のこの大惨事。この事件を契機に、紋九郎は鯨組をやめて造り酒屋となった。
72人の死者は、平の墓地に、『七十二様の墓碑』として祀られている。
宇久島の歴史 | 宇久町観光協会オフィシャルサイト
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鯨の民俗学 長崎『西海の鯨伝説・民話』
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日本の鯨文化:鯨に関わる伝説・逸話(3)
http://www.geocities.co.jp/NatureLand-Sky/3011/33kujira-d...
>>374
おおっと、久々に嬉しい反応。近ごろ明和水産も殺伐としていたところだから、こう感謝されると照れ臭いなあ。
なんにせよ喜んでくれてる人がいるとなると、俄然励みになります。これからも土日限定ながら続けていくので応援よろしく〜。
井伊直弼が暗殺されたとき、題目岩が鮮血で滲んだという…… 多景島(たけしま)
またまた琵琶湖上の島をご紹介。彦根港より西北西へ約6kmのところに浮かんでいるのが多景島である。
周囲約600m、長さ約200mの花崗岩で形成された島は、もとはといえば草木も茂らないような岩塊にすぎなかった。
江戸時代のころ、彦根の荒神山から土が運ばれ木が移植されたことで、現在のような趣のある島になったそうだ。
当時は竹藪が全体を占めていたことから『竹島』と呼ばれていたが、角度によってさまざまな顔を見せることにより、『多景島』という字が当てられた。
画像を見ていただければわかるように、島の頂には高さ20mに達する『誓いの御柱』が立っており、多景島のシンボルとなっている。
これは大正時代に建設されたもので、五角形の柱に『五箇条の御誓文』が刻まれているのだ。
ほのかに宗教臭い気がする……。それもそのはず、この多景島、日蓮宗見塔寺(けんとうじ)の所有となっているのだ。
見塔寺は1655(明暦元)年に長浜・妙法寺僧慈雲院の日靖(にっせい)上人が夢のお告げを受けて開寺されたという。
また巨大な題目岩もこの島の見所らしい。『南無妙法蓮華経』の文字が彫られた大岩は高さ10mを誇る。
1692(元禄5)年、日靖は命綱にぶら下がりながら3年がかりで文字を彫って完成させたというから驚きだ。
実はこの題目岩には奇妙な言い伝えが残されている。かつて桜田門外で井伊直弼が襲撃されたとき、題目岩が鮮血で滲んだというのだ。
井伊直弼は彦根市生まれ。彦根藩主の父を持つことから、このような由縁が生まれたとしても不思議ではない。
多景島 - 琵琶湖観光船 オーミマリン
http://www.ohmitetudo.co.jp/marine/index.php/tour-info/tak...
直弼二十二景 第十五景 多景島の題目岩
http://www.hikone-150th.jp/special/naosuke22/001307.ph...
大津・びわ湖島めぐりの旅 その40 多景島(1) 題目岩と日蓮上人像
http://susono.jugem.jp/?eid=204...
おおっと、久々に嬉しい反応。近ごろ明和水産も殺伐としていたところだから、こう感謝されると照れ臭いなあ。
なんにせよ喜んでくれてる人がいるとなると、俄然励みになります。これからも土日限定ながら続けていくので応援よろしく〜。
井伊直弼が暗殺されたとき、題目岩が鮮血で滲んだという…… 多景島(たけしま)
またまた琵琶湖上の島をご紹介。彦根港より西北西へ約6kmのところに浮かんでいるのが多景島である。
周囲約600m、長さ約200mの花崗岩で形成された島は、もとはといえば草木も茂らないような岩塊にすぎなかった。
江戸時代のころ、彦根の荒神山から土が運ばれ木が移植されたことで、現在のような趣のある島になったそうだ。
当時は竹藪が全体を占めていたことから『竹島』と呼ばれていたが、角度によってさまざまな顔を見せることにより、『多景島』という字が当てられた。
画像を見ていただければわかるように、島の頂には高さ20mに達する『誓いの御柱』が立っており、多景島のシンボルとなっている。
これは大正時代に建設されたもので、五角形の柱に『五箇条の御誓文』が刻まれているのだ。
ほのかに宗教臭い気がする……。それもそのはず、この多景島、日蓮宗見塔寺(けんとうじ)の所有となっているのだ。
見塔寺は1655(明暦元)年に長浜・妙法寺僧慈雲院の日靖(にっせい)上人が夢のお告げを受けて開寺されたという。
また巨大な題目岩もこの島の見所らしい。『南無妙法蓮華経』の文字が彫られた大岩は高さ10mを誇る。
1692(元禄5)年、日靖は命綱にぶら下がりながら3年がかりで文字を彫って完成させたというから驚きだ。
実はこの題目岩には奇妙な言い伝えが残されている。かつて桜田門外で井伊直弼が襲撃されたとき、題目岩が鮮血で滲んだというのだ。
井伊直弼は彦根市生まれ。彦根藩主の父を持つことから、このような由縁が生まれたとしても不思議ではない。
多景島 - 琵琶湖観光船 オーミマリン
http://www.ohmitetudo.co.jp/marine/index.php/tour-info/tak...
直弼二十二景 第十五景 多景島の題目岩
http://www.hikone-150th.jp/special/naosuke22/001307.ph...
大津・びわ湖島めぐりの旅 その40 多景島(1) 題目岩と日蓮上人像
http://susono.jugem.jp/?eid=204...
斧で7人殺しの浅之助 のちに祭神として神格化される 青ヶ島
青ヶ島は>>126で一度やってしまったが、ナニ、重複してしまってもかまうまい。現に八丈島も何度もやってるし。
東京から南下すること358.4km、伊豆諸島南部に浮かぶ青ヶ島は、れっきとした東京都の管轄下である。
島そのものが二重式カルデラ火山構造であるのがあまりにも特徴的だ。火口の中にコロニーを築くのだから、つくづく人間の適応力はたくましいと思う。
余談であるが、2006年に公開された映画『アイランド タイムズ』は、まさに青ヶ島を舞台にしており、この島の魅力を余すところなく描き出している。
機会があれば鑑賞されよ。生粋の島マニアにとって、当時16歳の仲里依紗より、島、である。
話変わるが、集落の南には東台所(とうだいしょ)神社があり、ここにはオカルト板に相応しくいわくがある。
失恋の腹いせに7人を殺傷したのち、入水自殺した男を祟り神として祀っているのだから穏やかではあるまい。
その経緯は以下のとおりである。
1757(宝暦7)年のこと。名主の息子である浅之助はおつなという娘と愛し合っていたが、おつなにはすでに許嫁がいた。
そのことから浅之助は父親から勘当され、おつなも身内から冷たい仕打ちを受けていた。
当時、産婦や月経を迎えた女性は『他火(たび)小屋』という隔離された小屋で煮炊きや機織りなどをする習慣があった。
家族から冷たくされていたおつなは、生理のため小屋に籠るときでさえ、食料を持たせてもらえなかった。
そこで浅之助は自身の弁当を与えてやった。代わりにおつなは恋人のために機を織ることにした。
あるとき、手織り機作業をしているおつなに何を織っているのか聞くと、「あなたの服を織っているのよ」との返事。
それに対し、浅之助は「おれのことはどうだっていい。自分のものを織るべきだ」と、言った。
「どういうこと?」と、彼女は機を織る手をとめた。
男は気が利かない生き物である。女は何気ない男の一言を曲解してしまい、傷つくことも少なくない(逆もまた真なり)。
浅之助は、生理を迎え心身ともにバランスを崩している彼女のためによかれと思って言ったつもりだった。
ところがおつなは、『おれにかまうな』と受け取ってしまった。浅之助が帰ってから、彼女はその日のうちに首を吊って自殺したのだ。
訃報を知った浅之助は泣き叫んだ。とはいえ自殺に至った動機が、まさか自分の何気ない一言だったとは夢にも思わなかった。
そして怒りと狂気に身をゆだね、ついに斧を手にした。
「よくもおれとおつなの仲を引き裂いたな! おまえらが彼女を殺したも同然だ! おまえらに復讐してやる!」
逆上した浅之助は、2人の恋仲に関わった村人を次々と襲撃。7人を斬り殺し、4人に重軽傷を負わせた。
復讐を果たしたあと、浅之助はふと我に返ったのだろう。罪の意識にかられ、入水してこれも命を絶った。
一説によると、浅之助は死にきれず岸まで泳ぎ着き、自首したとも伝えられている。
そして名主である父、七太夫は息子を磔にし、村人全員に一槍ずつ突かせて処刑したというから救われない……。
その後、天明の大噴火を浅之助の霊による『祟り』ではないかと信じられ、島民によって東台所神社に祀り、『新神』として神格化した。
ここには『おつな様』も祭神として浅之助のそばに寄り添っている。今では縁結びの神様として、島民、観光客ともに重宝がられているそうだ。
これが東京都?! 絶海の孤島「青ヶ島」が断崖絶壁すぎて脱出不能に見える
http://japan.digitaldj-network.com/articles/10205.htm...
島旅 伊豆諸島・青ヶ島編 〜初のヘリコプター&ひんぎゃの島〜9位
http://4travel.jp/domestic/area/kanto/tokyo/izus...
第42話 東台所神社の二通りの祭神
http://www.yoyo.ecnet.jp/SUGATA/DE/DE42.htm...
青ヶ島 絶海の孤島 旅日記 もうひとつの東京 月より遠い青ヶ島へ。
http://shooting.travel.coocan.jp/travel-island/2002aogashima...
青ヶ島村ホームページ
http://www.vill.aogashima.tokyo.jp/top.htm...
Amazon.co.jp:アイランドタイムズ [DVD]: 柳沢太介, 仲里依紗, 児島美……
http://www.amazon.co.jp/%E3%82%A2%E3%82%A4%E3%83%A9%E3...
青ヶ島は>>126で一度やってしまったが、ナニ、重複してしまってもかまうまい。現に八丈島も何度もやってるし。
東京から南下すること358.4km、伊豆諸島南部に浮かぶ青ヶ島は、れっきとした東京都の管轄下である。
島そのものが二重式カルデラ火山構造であるのがあまりにも特徴的だ。火口の中にコロニーを築くのだから、つくづく人間の適応力はたくましいと思う。
余談であるが、2006年に公開された映画『アイランド タイムズ』は、まさに青ヶ島を舞台にしており、この島の魅力を余すところなく描き出している。
機会があれば鑑賞されよ。生粋の島マニアにとって、当時16歳の仲里依紗より、島、である。
話変わるが、集落の南には東台所(とうだいしょ)神社があり、ここにはオカルト板に相応しくいわくがある。
失恋の腹いせに7人を殺傷したのち、入水自殺した男を祟り神として祀っているのだから穏やかではあるまい。
その経緯は以下のとおりである。
1757(宝暦7)年のこと。名主の息子である浅之助はおつなという娘と愛し合っていたが、おつなにはすでに許嫁がいた。
そのことから浅之助は父親から勘当され、おつなも身内から冷たい仕打ちを受けていた。
当時、産婦や月経を迎えた女性は『他火(たび)小屋』という隔離された小屋で煮炊きや機織りなどをする習慣があった。
家族から冷たくされていたおつなは、生理のため小屋に籠るときでさえ、食料を持たせてもらえなかった。
そこで浅之助は自身の弁当を与えてやった。代わりにおつなは恋人のために機を織ることにした。
あるとき、手織り機作業をしているおつなに何を織っているのか聞くと、「あなたの服を織っているのよ」との返事。
それに対し、浅之助は「おれのことはどうだっていい。自分のものを織るべきだ」と、言った。
「どういうこと?」と、彼女は機を織る手をとめた。
男は気が利かない生き物である。女は何気ない男の一言を曲解してしまい、傷つくことも少なくない(逆もまた真なり)。
浅之助は、生理を迎え心身ともにバランスを崩している彼女のためによかれと思って言ったつもりだった。
ところがおつなは、『おれにかまうな』と受け取ってしまった。浅之助が帰ってから、彼女はその日のうちに首を吊って自殺したのだ。
訃報を知った浅之助は泣き叫んだ。とはいえ自殺に至った動機が、まさか自分の何気ない一言だったとは夢にも思わなかった。
そして怒りと狂気に身をゆだね、ついに斧を手にした。
「よくもおれとおつなの仲を引き裂いたな! おまえらが彼女を殺したも同然だ! おまえらに復讐してやる!」
逆上した浅之助は、2人の恋仲に関わった村人を次々と襲撃。7人を斬り殺し、4人に重軽傷を負わせた。
復讐を果たしたあと、浅之助はふと我に返ったのだろう。罪の意識にかられ、入水してこれも命を絶った。
一説によると、浅之助は死にきれず岸まで泳ぎ着き、自首したとも伝えられている。
そして名主である父、七太夫は息子を磔にし、村人全員に一槍ずつ突かせて処刑したというから救われない……。
その後、天明の大噴火を浅之助の霊による『祟り』ではないかと信じられ、島民によって東台所神社に祀り、『新神』として神格化した。
ここには『おつな様』も祭神として浅之助のそばに寄り添っている。今では縁結びの神様として、島民、観光客ともに重宝がられているそうだ。
これが東京都?! 絶海の孤島「青ヶ島」が断崖絶壁すぎて脱出不能に見える
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島旅 伊豆諸島・青ヶ島編 〜初のヘリコプター&ひんぎゃの島〜9位
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第42話 東台所神社の二通りの祭神
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青ヶ島 絶海の孤島 旅日記 もうひとつの東京 月より遠い青ヶ島へ。
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削除(by投稿者)
名前負け? 謎多き島 盗人島(ぬすっとじま)
長崎県大村市の玖島崎(くしまざき)の先にある大村湾には、驚くべきことに『盗人島』と冠された無人島が存在する。
通称『どろぼう島』。これまたキナ臭い。チェックすべく、調査を開始したものの……。
ところがそんな好奇心もあえなく打ち砕かれる。島には宗教上の遺物や歴史ある祠はおろか、奇岩の類すら見当たらない。
たった周囲36mほどの、木が数本生えているだけで何の変哲もない小島である。避暑地に利用しようにも、あまりに狭すぎる。
しかしながら湾に張り出した玖島崎の西側から、28個もの石が整然と並んで盗人島まで続いているのだ。これは明らかに人工的な飛び石である。
干潮時ならそれを伝って歩けば、靴を濡らさずして島にたどり着くことができる。その距離24m。さも意味ありげだ。
理由もなく飛び石を設置するだろうか? いつのころに設置されたのか記録が残されていない。少なくとも江戸時代のころには存在しなかったのは確かだ。
では、一番の疑問。なぜこんな奇妙な島名をつける必要があったかだ。盗人島について詳しい方によると、3つの諸説が考えられるという。
①……島に物を置いて3周回ると物がなくなったからという説。
②……大昔、泥棒が閉じ込められた島とする説。
③……海賊の住処だった。つまり海賊の宝物が隠されているかもしれないという説。
①の説は、何か伝説話がありそうなものだが、あいにくとこれも記録が残されていないうえ、いささか信憑性に欠ける。
②にしても、人を閉じ込めたにせよ、そのような施設の痕跡があるとは思えない。そもそも盗人島は一番高いところですら標高3mもあるまい。
潮が満ち、ましてや荒天が重なれば、島はほぼ水没。とても人を収容する場所に適してはいない。
③の海賊の島というのも、周囲36mでは小さすぎて話にならない。②と同様、満潮になれば完全に孤立し、無防備になってしまう。
木々も頼りなげで防風林の役目を果たしていない。よって海賊が根城とするならば、もっと地の利を生かした場所を選ぶはず。
……どうやら名前負けした感が強い。めずらしい島名なばかりに、人々の好奇心を翻弄しただけのようだ。
いつもいつも、>>367の『魔見ヶ島』ばりの伝承を期待するのは野暮なことである。
悲しいかな、今回は島にまつわる伝説が見つからない。物語をとっくりと語るのが好きな僕としては至極残念。
それは抜きにしても、玖島崎から望むこの大村湾と盗人島は、夕暮れ時になると、まるで夢のように美しいと評判だ。
機会があれば散策され、その眼で、しっかと網膜に焼き付けるがよい。
そしてイマジネーションの浮かぶまま、かつて盗人島でどんなドラマがあったのか思いを馳せるのも一興だろう。
それは盆栽を愛でる感性に通ずるかもしれない。盗人島にかぎらず、島とは箱庭である。
その箱庭に未知の世界が詰まっているからこそ我々の想像をかき立て、魅了してやまないのだ(有人島に住んでいる人にとっては余計なお世話だが)。
大村の島シリーズ 盗人島
http://www6.ocn.ne.jp/‾fukusige/oomura-island/nusuttojima.html
長崎県大村市の玖島崎(くしまざき)の先にある大村湾には、驚くべきことに『盗人島』と冠された無人島が存在する。
通称『どろぼう島』。これまたキナ臭い。チェックすべく、調査を開始したものの……。
ところがそんな好奇心もあえなく打ち砕かれる。島には宗教上の遺物や歴史ある祠はおろか、奇岩の類すら見当たらない。
たった周囲36mほどの、木が数本生えているだけで何の変哲もない小島である。避暑地に利用しようにも、あまりに狭すぎる。
しかしながら湾に張り出した玖島崎の西側から、28個もの石が整然と並んで盗人島まで続いているのだ。これは明らかに人工的な飛び石である。
干潮時ならそれを伝って歩けば、靴を濡らさずして島にたどり着くことができる。その距離24m。さも意味ありげだ。
理由もなく飛び石を設置するだろうか? いつのころに設置されたのか記録が残されていない。少なくとも江戸時代のころには存在しなかったのは確かだ。
では、一番の疑問。なぜこんな奇妙な島名をつける必要があったかだ。盗人島について詳しい方によると、3つの諸説が考えられるという。
①……島に物を置いて3周回ると物がなくなったからという説。
②……大昔、泥棒が閉じ込められた島とする説。
③……海賊の住処だった。つまり海賊の宝物が隠されているかもしれないという説。
①の説は、何か伝説話がありそうなものだが、あいにくとこれも記録が残されていないうえ、いささか信憑性に欠ける。
②にしても、人を閉じ込めたにせよ、そのような施設の痕跡があるとは思えない。そもそも盗人島は一番高いところですら標高3mもあるまい。
潮が満ち、ましてや荒天が重なれば、島はほぼ水没。とても人を収容する場所に適してはいない。
③の海賊の島というのも、周囲36mでは小さすぎて話にならない。②と同様、満潮になれば完全に孤立し、無防備になってしまう。
木々も頼りなげで防風林の役目を果たしていない。よって海賊が根城とするならば、もっと地の利を生かした場所を選ぶはず。
……どうやら名前負けした感が強い。めずらしい島名なばかりに、人々の好奇心を翻弄しただけのようだ。
いつもいつも、>>367の『魔見ヶ島』ばりの伝承を期待するのは野暮なことである。
悲しいかな、今回は島にまつわる伝説が見つからない。物語をとっくりと語るのが好きな僕としては至極残念。
それは抜きにしても、玖島崎から望むこの大村湾と盗人島は、夕暮れ時になると、まるで夢のように美しいと評判だ。
機会があれば散策され、その眼で、しっかと網膜に焼き付けるがよい。
そしてイマジネーションの浮かぶまま、かつて盗人島でどんなドラマがあったのか思いを馳せるのも一興だろう。
それは盆栽を愛でる感性に通ずるかもしれない。盗人島にかぎらず、島とは箱庭である。
その箱庭に未知の世界が詰まっているからこそ我々の想像をかき立て、魅了してやまないのだ(有人島に住んでいる人にとっては余計なお世話だが)。
大村の島シリーズ 盗人島
http://www6.ocn.ne.jp/‾fukusige/oomura-island/nusuttojima.html
もの凄いストック数ですね…
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>>379
日本には海岸線の長さが100m以上の島が6852もあり(ちっぽけな岩礁も含めれば、さらに膨大な数)、深く食らい込めば、
なんらかのディープな情報が得られ、探すだけの価値はあります。あくなき探究心が突き動かしているだけです。
それは島限定の伝承伝説であって、当然内地にも目を向ければ星の数ほど様々なネタが転がっています。
本当は取り上げたいネタは他にもあるのですが、いかんせんスレチになるのであえて封印しているものもあるほど。
偉大なる民俗学者、柳田国男も離島を含めた全国に赴き、嬉々として口頭伝承の取材に明け暮れたのがわかろうというもの。
いずれにせよ、日本という土壌はネタの宝庫。こんな奥深い国に生まれて、我々は誇りに思うべきです。
それと、ネタは与えられるものではない。己が探し出し、提供するべきなのです。
>>380
このバカチン、これは小説じゃない。純然たるレポートだよ、君。
登場人物のセリフがあるのは、あくまで余興にすぎん。ちっとはネタを提示してから文句を言いたまえ。
>>381
またしても君は変化球を投げてくる〜。生贄だと? なかなか島で猟奇ネタは見つからないものだよ。
某島では娘を人身御供として捕らえ、逃げられないように手脚を切断してダルマにするとか、堕胎した子供を生贄として捧げる風習があるとか、
2ちゃんねるで目にしたことがあるが、すべてでっちあげであろう。
この際、特別サービス。島ネタではないが、人身御供ならば下記サイトを参考にするといい。ただし高度な論文であるが。要約はしんどいからやめておく。
なかでも六車由実氏の著書『神、人を喰う—人身御供の民俗学』は目からウロコの内容。機会があれば一読されたし。
ちなみに漫画なら、僕は諸星大二郎に多大な影響を受けてるよ。人生に示唆を与えてもらったと言っても過言ではない。
漫画はモロ☆と星野之宣だけ読んでりゃいい。
『人身御供』と祭—尾張大国霊神社の儺追祭をモデルケースにして— 『日本民俗学』220号(1999)発表論文
http://muguyumi.a.la9.jp/minzoku220.htm...
博士論文『人身御供祭祀論』六車由実
http://muguyumi.a.la9.jp/hakaseronbun.ht...
神、人を喰う—人身御供の民俗学 六車由実
http://www.amazon.co.jp/%E7%A5%9E%E3%80%81%E4%BA%BA%E3...
日本には海岸線の長さが100m以上の島が6852もあり(ちっぽけな岩礁も含めれば、さらに膨大な数)、深く食らい込めば、
なんらかのディープな情報が得られ、探すだけの価値はあります。あくなき探究心が突き動かしているだけです。
それは島限定の伝承伝説であって、当然内地にも目を向ければ星の数ほど様々なネタが転がっています。
本当は取り上げたいネタは他にもあるのですが、いかんせんスレチになるのであえて封印しているものもあるほど。
偉大なる民俗学者、柳田国男も離島を含めた全国に赴き、嬉々として口頭伝承の取材に明け暮れたのがわかろうというもの。
いずれにせよ、日本という土壌はネタの宝庫。こんな奥深い国に生まれて、我々は誇りに思うべきです。
それと、ネタは与えられるものではない。己が探し出し、提供するべきなのです。
>>380
このバカチン、これは小説じゃない。純然たるレポートだよ、君。
登場人物のセリフがあるのは、あくまで余興にすぎん。ちっとはネタを提示してから文句を言いたまえ。
>>381
またしても君は変化球を投げてくる〜。生贄だと? なかなか島で猟奇ネタは見つからないものだよ。
某島では娘を人身御供として捕らえ、逃げられないように手脚を切断してダルマにするとか、堕胎した子供を生贄として捧げる風習があるとか、
2ちゃんねるで目にしたことがあるが、すべてでっちあげであろう。
この際、特別サービス。島ネタではないが、人身御供ならば下記サイトを参考にするといい。ただし高度な論文であるが。要約はしんどいからやめておく。
なかでも六車由実氏の著書『神、人を喰う—人身御供の民俗学』は目からウロコの内容。機会があれば一読されたし。
ちなみに漫画なら、僕は諸星大二郎に多大な影響を受けてるよ。人生に示唆を与えてもらったと言っても過言ではない。
漫画はモロ☆と星野之宣だけ読んでりゃいい。
『人身御供』と祭—尾張大国霊神社の儺追祭をモデルケースにして— 『日本民俗学』220号(1999)発表論文
http://muguyumi.a.la9.jp/minzoku220.htm...
博士論文『人身御供祭祀論』六車由実
http://muguyumi.a.la9.jp/hakaseronbun.ht...
神、人を喰う—人身御供の民俗学 六車由実
http://www.amazon.co.jp/%E7%A5%9E%E3%80%81%E4%BA%BA%E3...
淵のヌシの正体は化物蟹 隠岐島
島根県の隠岐島には巨大な蟹が怪異をなす伝承があるとの情報をつかんだ。しかも淵に斧を落としてしまうと女神が現われる話なのだ。
なんだかイソップ童話の『金の斧』を彷彿とさせて面白い。
その昔、隠岐島の元屋なる村に年老いた木こりがいた。
ある日、老人は川をさかのぼって、滝の後ろの山中にて木を伐採していると、どこからともなく妙な音がする。
ガシガシと、硬いものが岩を叩くようにして歩いてくる気配。老人は岩陰に身を隠し、息を殺して成り行きを見守った。
ところが音はすれども姿は見えず。やがて滝つぼにザブンと音がし、巨大な水柱が立った。
見下ろすと、滝つぼの中になにやら大きな物体が動くのを見逃さなかった。
老人は動揺した拍子に、手から斧を滑らせてしまった。斧は一直線に滝つぼに落ちていき、水中で鈍い音がした。
謎の巨大な物体は水の深みに消えたものの、しばらくすると、細長いモノが浮かんできた。見れば大きなハサミのついたトゲだらけの腕。
ハサミは流れに乗り、川下へ流れていった。「……してみると、あやつは蟹の化物なのかもしれん。淵のヌシか」と、老人は思った。
さすがに怖くなり、急いでその場から立ち去ろうと腰を浮かした。
「待ってください。どうか怖がらないで」と、どこからともなく凛とした女の声がした。
振り返ると、そこには世にも美しい着物をまとった若き姫君が佇んでいた。姫君は老人が落とした斧を抱いていた。
「おぬし、何者?」
「私は昔からこの淵に住む安永姫と申します。いつのころからか、この川に大きな蟹が住みつき、我が物顔で川を荒らしたせいで、私は囚われの身となり、
あの魔物に服従されてきたのです。ですが、先ほどあなたがこの斧を投げ入れてくれたおかげで、今や魔物は片方のハサミを失い、
淵の横穴の中で痛みでうめいております。あやつにはもう片方のハサミが残されています。どうかこの斧をふたたび投げ入れ、蟹を退治してくれませぬか?」
老人は怖くてたまらなかったが、この美しい姫君を見捨てることは忍びなく、渋々承知した。
安永姫から斧を受け取ると、ふたたび滝の上で待ち伏せした。太陽が西に傾いたとき、さっきまで吹いていた山風がピタリとやんだ。
老人は斧を片手に身がまえた。大蟹が水面に姿を見せたときこそ好機。
しかし大蟹は老獪である。水面に浮上せず、片方のハサミで何度も水底を叩きつけた。衝撃が滝の上まで伝わってきた。
老人は振り落とされまいと傍らの木にしがみついた。斜面は崩れ、老人は木もろとも落ちかけた。
そのとき、大きな岩が崩れ落ちていった。岩は滝つぼに潜む大蟹に直撃した。大蟹は獰猛な唸り声をあげた。
「今こそ絶好機! 斧を!」と、安永姫の声が響いた。
大蟹めがけ斧を投げた。斧は回転しながら滝つぼに落ち、水の抵抗で失速することなく大蟹の腕に命中した。
しばらくして水面が泡立ったかと思うと、トゲのあるハサミがプカリと浮かんだ。老人は勝利を確信した。
滝のもとまで下りていくと、安永姫が姿を見せ、こう言った。「ありがとうございます。おかげで大蟹を退治することができました。
これで川に平和が訪れるでしょう。ぜひともお礼を致したいと思います。何かお望みのものはありますまいか?」
「ではお言葉に甘えて。この島は日照りが続くと、真水がなくなってしまう小さな島。どうか村の者が困らぬよう水をおつかわしください」
「お安い御用。これにて水の心配はいりませぬ。そしてこれから先、私があなたのお命をお守りしましょう」と、安永姫がにっこり微笑むと姿を消した。
次の日、海に近い河口に3mもの巨大蟹の死骸が腹を見せて浮かんだ。村の者は老人の武勇伝を広め、一躍彼は時の人となった。
以来、川の名を安永川と改め、滝のそばで安永姫を祀り、日照りが続くと安永姫に雨乞いした。すると必ず雨が降ったという。
また滝つぼを蟹淵と呼ぶようになった。
民話の部屋 蟹淵の主
http://kanbenosato.com/minwa/kancho_200702.htm...
島根県 : 隠岐日記2008年12月
http://www.pref.shimane.lg.jp/oki_norin/sogo_shinko/memo/08_...
まんが日本昔ばなし『蟹淵』
http://www.dailymotion.com/video/xl3eeh_mnmb-%E8%9F%B9%E6...
金の斧wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%91%E3%81%AE%E6%96%...
島根県の隠岐島には巨大な蟹が怪異をなす伝承があるとの情報をつかんだ。しかも淵に斧を落としてしまうと女神が現われる話なのだ。
なんだかイソップ童話の『金の斧』を彷彿とさせて面白い。
その昔、隠岐島の元屋なる村に年老いた木こりがいた。
ある日、老人は川をさかのぼって、滝の後ろの山中にて木を伐採していると、どこからともなく妙な音がする。
ガシガシと、硬いものが岩を叩くようにして歩いてくる気配。老人は岩陰に身を隠し、息を殺して成り行きを見守った。
ところが音はすれども姿は見えず。やがて滝つぼにザブンと音がし、巨大な水柱が立った。
見下ろすと、滝つぼの中になにやら大きな物体が動くのを見逃さなかった。
老人は動揺した拍子に、手から斧を滑らせてしまった。斧は一直線に滝つぼに落ちていき、水中で鈍い音がした。
謎の巨大な物体は水の深みに消えたものの、しばらくすると、細長いモノが浮かんできた。見れば大きなハサミのついたトゲだらけの腕。
ハサミは流れに乗り、川下へ流れていった。「……してみると、あやつは蟹の化物なのかもしれん。淵のヌシか」と、老人は思った。
さすがに怖くなり、急いでその場から立ち去ろうと腰を浮かした。
「待ってください。どうか怖がらないで」と、どこからともなく凛とした女の声がした。
振り返ると、そこには世にも美しい着物をまとった若き姫君が佇んでいた。姫君は老人が落とした斧を抱いていた。
「おぬし、何者?」
「私は昔からこの淵に住む安永姫と申します。いつのころからか、この川に大きな蟹が住みつき、我が物顔で川を荒らしたせいで、私は囚われの身となり、
あの魔物に服従されてきたのです。ですが、先ほどあなたがこの斧を投げ入れてくれたおかげで、今や魔物は片方のハサミを失い、
淵の横穴の中で痛みでうめいております。あやつにはもう片方のハサミが残されています。どうかこの斧をふたたび投げ入れ、蟹を退治してくれませぬか?」
老人は怖くてたまらなかったが、この美しい姫君を見捨てることは忍びなく、渋々承知した。
安永姫から斧を受け取ると、ふたたび滝の上で待ち伏せした。太陽が西に傾いたとき、さっきまで吹いていた山風がピタリとやんだ。
老人は斧を片手に身がまえた。大蟹が水面に姿を見せたときこそ好機。
しかし大蟹は老獪である。水面に浮上せず、片方のハサミで何度も水底を叩きつけた。衝撃が滝の上まで伝わってきた。
老人は振り落とされまいと傍らの木にしがみついた。斜面は崩れ、老人は木もろとも落ちかけた。
そのとき、大きな岩が崩れ落ちていった。岩は滝つぼに潜む大蟹に直撃した。大蟹は獰猛な唸り声をあげた。
「今こそ絶好機! 斧を!」と、安永姫の声が響いた。
大蟹めがけ斧を投げた。斧は回転しながら滝つぼに落ち、水の抵抗で失速することなく大蟹の腕に命中した。
しばらくして水面が泡立ったかと思うと、トゲのあるハサミがプカリと浮かんだ。老人は勝利を確信した。
滝のもとまで下りていくと、安永姫が姿を見せ、こう言った。「ありがとうございます。おかげで大蟹を退治することができました。
これで川に平和が訪れるでしょう。ぜひともお礼を致したいと思います。何かお望みのものはありますまいか?」
「ではお言葉に甘えて。この島は日照りが続くと、真水がなくなってしまう小さな島。どうか村の者が困らぬよう水をおつかわしください」
「お安い御用。これにて水の心配はいりませぬ。そしてこれから先、私があなたのお命をお守りしましょう」と、安永姫がにっこり微笑むと姿を消した。
次の日、海に近い河口に3mもの巨大蟹の死骸が腹を見せて浮かんだ。村の者は老人の武勇伝を広め、一躍彼は時の人となった。
以来、川の名を安永川と改め、滝のそばで安永姫を祀り、日照りが続くと安永姫に雨乞いした。すると必ず雨が降ったという。
また滝つぼを蟹淵と呼ぶようになった。
民話の部屋 蟹淵の主
http://kanbenosato.com/minwa/kancho_200702.htm...
島根県 : 隠岐日記2008年12月
http://www.pref.shimane.lg.jp/oki_norin/sogo_shinko/memo/08_...
まんが日本昔ばなし『蟹淵』
http://www.dailymotion.com/video/xl3eeh_mnmb-%E8%9F%B9%E6...
金の斧wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%91%E3%81%AE%E6%96%...
>>384の化物蟹も恐らくオブラートで包んだ伝説だろう。じつは蟹の正体は人間であったはず。
滝つぼに潜むのは無理として、滝の裏に隠された洞窟を住処にした悪党でも意味したのではなかろうか。
悪党はやたら身体が大きく、怪力の持ち主だったのかもしれない。淵に斧を投げ入れると浮いてきたハサミには、
モクズガニ特有の濃い毛が生えていたという描写もあることから、単純に体毛の濃い人物だったことが考えられる。
姫を服従させ夜ごと責め苛むというから、それが何を意味するかおおよそ察しがつく。
ちなみに>>273の牛島の『牛鬼』は、追剥や山賊を指すそうだ。
昔話に登場する鬼を代表とする魑魅魍魎が、すべて古代人の無知と誤認ゆえに生み出された想像の産物とは限らない。
ストレートに話を作ってしまい、それを若い世代に語って聞かせるとなると、時としてどぎつい内容となってしまう。
それを比喩で口当たりよく脚色したのが本当のところだろう。と同時に、日本人の感性の豊かさを再確認させてくれる。
物語の表層だけを追ってはいけない。その内に秘めた『核』を捉えてこそ、真に物語を読み解いたことになるのだ。
※画像は山口県相島の傍らにあるライオン岩。釣りキチが貼り付いていますね。
滝つぼに潜むのは無理として、滝の裏に隠された洞窟を住処にした悪党でも意味したのではなかろうか。
悪党はやたら身体が大きく、怪力の持ち主だったのかもしれない。淵に斧を投げ入れると浮いてきたハサミには、
モクズガニ特有の濃い毛が生えていたという描写もあることから、単純に体毛の濃い人物だったことが考えられる。
姫を服従させ夜ごと責め苛むというから、それが何を意味するかおおよそ察しがつく。
ちなみに>>273の牛島の『牛鬼』は、追剥や山賊を指すそうだ。
昔話に登場する鬼を代表とする魑魅魍魎が、すべて古代人の無知と誤認ゆえに生み出された想像の産物とは限らない。
ストレートに話を作ってしまい、それを若い世代に語って聞かせるとなると、時としてどぎつい内容となってしまう。
それを比喩で口当たりよく脚色したのが本当のところだろう。と同時に、日本人の感性の豊かさを再確認させてくれる。
物語の表層だけを追ってはいけない。その内に秘めた『核』を捉えてこそ、真に物語を読み解いたことになるのだ。
※画像は山口県相島の傍らにあるライオン岩。釣りキチが貼り付いていますね。
恋人を死なせた悔恨、僧侶となり弔いを捧げる 無縁島
1993年7月12日に起きた北海道南西沖地震により、奥尻島は青苗地区を中心に津波の爪痕を残した。
死者は200人余りを数え、当時約4700人ほどあった人口は、被害による転出のせいもあって減少傾向にある。
それでなくとも離島は過疎・高齢化に歯止めが利かないのだが。
奥尻島は北海道南西部の日本海上にある。それに付随する形で岩礁や奇岩が寄り添っている。
その中の1つに周囲500mほどの無人島がある。その名も無縁島。なんとなく『無縁仏』をイメージさせるが、そうではなく、
『無縁』という名の僧侶が由来するのだという。
はるか昔の話……。
奥尻島の南西に位置する神威脇集落に1人の娘がいた。娘は歌子といった。そこへ能登の国から清次郎という若者が流れてくる。
2人はたちまち恋に落ち、しばらくすると歌子は妊娠した。
ところが清次郎の裏切りにより、2人の仲は引き裂かれる。歌子は失意のあまり清次郎の子を身ごもったまま沼に沈み、自殺してしまう。
やがて島に無縁と名乗る僧侶がやってきた。歌子の死を知らされると長い弔いを捧げ、島の最南端、青苗岬から沖合5km先にある室津島へ渡り、
断食座禅を組んだ。
ある日、天気が崩れ、海は荒れに荒れた。怒涛がちっぽけな室津島を襲い、無縁は飲み込まれた。
無縁は板切れにつかまったまま漂流し、なんとか別の無人島に流れ着いた。その島は奥尻島のほぼ西に位置する名もなき島だった。
この僧侶こそ歌子を裏切ったことを悔やみ、仏の道に入り、心を入れ替えた清次郎だったという。
人はのちにこの島を無縁島と呼ぶようになった。
無縁島 奥尻町
http://www.town.okushiri.lg.jp/hotnews/detail/00001046.htm...
無縁島
http://www12.plala.or.jp/k-hirao/kankou/24_05.htm...
1993年7月12日に起きた北海道南西沖地震により、奥尻島は青苗地区を中心に津波の爪痕を残した。
死者は200人余りを数え、当時約4700人ほどあった人口は、被害による転出のせいもあって減少傾向にある。
それでなくとも離島は過疎・高齢化に歯止めが利かないのだが。
奥尻島は北海道南西部の日本海上にある。それに付随する形で岩礁や奇岩が寄り添っている。
その中の1つに周囲500mほどの無人島がある。その名も無縁島。なんとなく『無縁仏』をイメージさせるが、そうではなく、
『無縁』という名の僧侶が由来するのだという。
はるか昔の話……。
奥尻島の南西に位置する神威脇集落に1人の娘がいた。娘は歌子といった。そこへ能登の国から清次郎という若者が流れてくる。
2人はたちまち恋に落ち、しばらくすると歌子は妊娠した。
ところが清次郎の裏切りにより、2人の仲は引き裂かれる。歌子は失意のあまり清次郎の子を身ごもったまま沼に沈み、自殺してしまう。
やがて島に無縁と名乗る僧侶がやってきた。歌子の死を知らされると長い弔いを捧げ、島の最南端、青苗岬から沖合5km先にある室津島へ渡り、
断食座禅を組んだ。
ある日、天気が崩れ、海は荒れに荒れた。怒涛がちっぽけな室津島を襲い、無縁は飲み込まれた。
無縁は板切れにつかまったまま漂流し、なんとか別の無人島に流れ着いた。その島は奥尻島のほぼ西に位置する名もなき島だった。
この僧侶こそ歌子を裏切ったことを悔やみ、仏の道に入り、心を入れ替えた清次郎だったという。
人はのちにこの島を無縁島と呼ぶようになった。
無縁島 奥尻町
http://www.town.okushiri.lg.jp/hotnews/detail/00001046.htm...
無縁島
http://www12.plala.or.jp/k-hirao/kankou/24_05.htm...
削除(by投稿者)
未亡人、欲情して命名 モッ立岩
奇岩は自然が生んだアートである。引き続き、奥尻島の南西岸の奇岩を紹介。
画像をご覧いただきたい。これがモッ立岩だ。ナニに見えるだろうか? モッコリしたナニに見えたとしても短かすぎるような気がする。
かつて1人の未亡人がこの磯に岩海苔を採りにきて、この岩を見つけるなり思い『立った』。
亡くなった亭主の『持ち物』とあまりにも似ていたので、感激すると同時に懐かしく思い、はじめは『一物立岩』と名づけていた。
……が、さすがに声に出して言うのは恥ずかしい。というわけで上の一文字だけを抜いて、『モッ立岩』と呼ぶようにした。ずいぶんスケベな奥さんである。
未亡人=欲求不満という、いかにもスレテオタイプな伝説はいかがなものかと思うが、まあこんな奇岩の1つぐらいあってもバチは当たるまい。
モッ立岩
http://www12.plala.or.jp/k-hirao/kankou/24_06.htm...
北海道ツーリング2009
http://www.medianetjapan.com/2/20/sport/macky1664/touring/2...
奇岩は自然が生んだアートである。引き続き、奥尻島の南西岸の奇岩を紹介。
画像をご覧いただきたい。これがモッ立岩だ。ナニに見えるだろうか? モッコリしたナニに見えたとしても短かすぎるような気がする。
かつて1人の未亡人がこの磯に岩海苔を採りにきて、この岩を見つけるなり思い『立った』。
亡くなった亭主の『持ち物』とあまりにも似ていたので、感激すると同時に懐かしく思い、はじめは『一物立岩』と名づけていた。
……が、さすがに声に出して言うのは恥ずかしい。というわけで上の一文字だけを抜いて、『モッ立岩』と呼ぶようにした。ずいぶんスケベな奥さんである。
未亡人=欲求不満という、いかにもスレテオタイプな伝説はいかがなものかと思うが、まあこんな奇岩の1つぐらいあってもバチは当たるまい。
モッ立岩
http://www12.plala.or.jp/k-hirao/kankou/24_06.htm...
北海道ツーリング2009
http://www.medianetjapan.com/2/20/sport/macky1664/touring/2...
実録!!ほんとにあった(と思う)怖い話 「八丈島の忌み話」
http://blogs.yahoo.co.jp/to7002/20399112.htm...
七人ミサキwikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%83%E4%BA%BA%E3%83%...
http://blogs.yahoo.co.jp/to7002/20399112.htm...
七人ミサキwikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%83%E4%BA%BA%E3%83%...
武士の太刀を拾うために勇敢な若者が命を落とす 百貫島(弁天島)
広島県福山市の鞆の浦に無人島がある。正式名は百貫島というが、島の高いところに鎮座する弁天堂がシンボルとなっていることから、
一般的に弁天島とも呼ばれている。
そのほか『文永八年(1271)六月十五日』の銘が刻まれた広島県下最古の石塔婆(弁天島塔婆として広島県指定文化財)が有名である。
どれたけ古いかというと、現在からその年号を差し引けば、今からおよそ740年前のものということになる。
この石塔にはある伝説が関係している。それがこんな話。
その昔、この島のそばを船で通った武士が家伝の太刀を海に落としてしまった。
武士はどうしてもあきらめきれない。浦の者に向かって銭百貫を褒美として出すから、どうか海に潜って太刀を見つけ出してくれと頼んだ。
ところがこの海域は鱶(ふか)の巣窟となっており、誰もが恐れをなして名乗り出ない。
「なんとなんと……。この浦には臆病者しかいないのか! この腑抜け者どもめ!」と、武士はしまいに罵る始末。
こう言われ、屈辱と感じた1人の若者が前に進み出て、こう言った。「そこまで言われちゃ、おめおめと引き下がるわけにはいかない。
故郷の名誉のため、私がその役、引き受けましょう」
武士は満面の笑みを浮かべた。「よくぞ言った、若い衆。おぬしに任せたぞ」
さっそく若者は海に潜り海底に沈んだ太刀を回収した。そして船上で待つ武士に手渡した。
ところが無事任務を遂げ、頬を緩めていた若者の顔が突如として歪んだ。海面が見る見る朱の染みで広がっていく。
1匹の鱶が若者の片脚を食いちぎったのだ。若者はすぐ船に引き上げられたが、失血のため、間もなく命を落とした。
武士は申し訳なく思い、その若者の魂を弔うため、銭百貫を投げ打ってこの島に十一重の石塔を建立させたとのこと。
当初は十一重石塔として建立されたものであったが、五層と六層がなくなり(欠損したらしい)、現在は九重である。
【弁天島】鞆の浦「仙酔島」情報 | 鞆物語
http://tomomonogatari.com/%E8%A6%B3%E5%85%89%E3%82%B9%E3...
平成いろは丸から弁天島(百貫島)を望む - 寮管理人の呟き - Gooブログ
http://blog.goo.ne.jp/tanezaka/e/92685e1222e18aebd2d...
広島県福山市の鞆の浦に無人島がある。正式名は百貫島というが、島の高いところに鎮座する弁天堂がシンボルとなっていることから、
一般的に弁天島とも呼ばれている。
そのほか『文永八年(1271)六月十五日』の銘が刻まれた広島県下最古の石塔婆(弁天島塔婆として広島県指定文化財)が有名である。
どれたけ古いかというと、現在からその年号を差し引けば、今からおよそ740年前のものということになる。
この石塔にはある伝説が関係している。それがこんな話。
その昔、この島のそばを船で通った武士が家伝の太刀を海に落としてしまった。
武士はどうしてもあきらめきれない。浦の者に向かって銭百貫を褒美として出すから、どうか海に潜って太刀を見つけ出してくれと頼んだ。
ところがこの海域は鱶(ふか)の巣窟となっており、誰もが恐れをなして名乗り出ない。
「なんとなんと……。この浦には臆病者しかいないのか! この腑抜け者どもめ!」と、武士はしまいに罵る始末。
こう言われ、屈辱と感じた1人の若者が前に進み出て、こう言った。「そこまで言われちゃ、おめおめと引き下がるわけにはいかない。
故郷の名誉のため、私がその役、引き受けましょう」
武士は満面の笑みを浮かべた。「よくぞ言った、若い衆。おぬしに任せたぞ」
さっそく若者は海に潜り海底に沈んだ太刀を回収した。そして船上で待つ武士に手渡した。
ところが無事任務を遂げ、頬を緩めていた若者の顔が突如として歪んだ。海面が見る見る朱の染みで広がっていく。
1匹の鱶が若者の片脚を食いちぎったのだ。若者はすぐ船に引き上げられたが、失血のため、間もなく命を落とした。
武士は申し訳なく思い、その若者の魂を弔うため、銭百貫を投げ打ってこの島に十一重の石塔を建立させたとのこと。
当初は十一重石塔として建立されたものであったが、五層と六層がなくなり(欠損したらしい)、現在は九重である。
【弁天島】鞆の浦「仙酔島」情報 | 鞆物語
http://tomomonogatari.com/%E8%A6%B3%E5%85%89%E3%82%B9%E3...
平成いろは丸から弁天島(百貫島)を望む - 寮管理人の呟き - Gooブログ
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1月24日の夜は決して外を見てはいけない『海難法師の日』 伊豆七島 1
伊豆七島(伊豆大島・利島・新島・神津島・三宅島・御蔵島・八丈島)は、離島とはいえ紛れもない東京都の管轄。
そんな島々に今どき物忌の日があるなんて俄かに信じがたい。その日は沈黙を貫き、決して外出してはならないという風習だというから、
つくづく日本は不思議な国である。……そう、海難法師だ。
なぜだか今日まで海難法師伝説は避けてきた。せいぜいURLを貼るだけにとどめた。どうしてもオカルト色が強すぎて抵抗があったためだ。
が、個人的に伝承伝説はヨダレが出そうなぐらい大好物なので、このスレも途中からソッチ系のネタで意図的に染めてきたつもりだ。
機は熟せり。今こそ恐るべき海難法師伝説を繙くときがきた。充分ホラーチックな話も揃ってきたことだし、真打で彩りを添えるべきだろう。
地元の漁師たちは口をそろえてこう言う。
「1月24日の晩は絶対に外を見ちゃならねえ。ましてや海を見るなんてもってのほかだ。声はおろか物音すら立てず、早く寝るに限る。
うっかり外の便所にも行けねえぞ。用を足したきゃ、家の中におまるを持ち込んで、そこでするしかない。
いいか、その夜は絶対外だけは見るな。これは島の掟なんだ。玄関や戸口を完全にふさぎ、『トベラの枝』をさして災難よけをしなきゃならない」
「もし見てしまったらどうなるんです?」と、観光客は素朴な疑問をぶつけると、漁師は血相を変えて怒る。
「バカ言っちゃいけねえ! 日忌様(ひいみさま)の罰が当たるぞ。悪いこたあ言わねえ。よけいな詮索はするな。
昔、この話を信じず外を見ちまった男がいた。そいつは顔中血だらけになり、眼が見えなくなったんだ……」
伊豆七島に言い伝えられている海難法師の発祥は、伊豆大島の泉津(せんづ)地区にあると伝えられている。
ここでは『日忌様』と呼ばれ、この現代も崇められているのだ。その海難法師=日忌様の由来とは以下のとおりである。
江戸時代、寛永5年のこと。泉津村に伊豆の下田から豊島忠松という代官がやってきた。年貢の塩作りが始まった時代のことである。
山の仕事を生業とするこの村で大規模な山火事が発生。それに伴い、島では過酷な食料飢饉に見舞われる。
そんな最中であっても、代官による年貢の取立ては厳しさを増す。島民の唯一の食料である芋さえ取り上げられ、それだけにとどまらず、
若い女の供出を迫るまでエスカレートした。人々の生活は困窮し、精神状態まで極限に追いつめられた。
この事態を重く見た村の若者25人は、1月24日に代官と直談判することを決意。
ところが代官は聞く耳持たない態度をとったため、若者たちは殴る蹴るの暴行を加え代官を殺害した(あるいは伊豆大島から新島へ渡る途中、
同行した25人の若者たちは船の栓を抜いて沈没させ、代官もろとも溺死したという説、またはわざと海が時化る日に年貢の取立てに行くよう
そそのかし、溺死させた諸説がある)。
若者たちは直談判が聞き容れてもらえない場合も想定して、あらかじめ殺害計画も視野に入れていた。
だから代官に会いに行く直前、「今夜は絶対に外を見てはいけない、海も見てはいけない、声すら出してもいけない」と、
村人に言い残して出かけていったのだ。自分たちの犯行を見られないように……。
諸説はどうあれ、代官、豊島忠松は死に、最悪の結果となったわけだ。
とばっちりが村に及ばぬよう、25人の若者たちは島から去ることにした。
深夜、村外れである波治加麻(はぢかま)神社で杉の木を切り、夜明け前に丸木舟を作り上げた。若者たちは西に舳先を向けて逃避行することになる。
丸木舟は大島から南下。利島、新島、神津島まで経由したものの、どの島でも代官殺害の火の粉が降りかかるのを恐れかくまってくれなかった。
せっかく村のためによかれと思って天誅を与えたというのに、神津島の沖合で大波に飲み込まれ、海の藻屑と消えたという。
それからというもの、毎年1月24日の日から25日にかけて、その25人の亡霊(あるいは豊島忠松率いる代官一行?)が迷い戻ってくるとされている。
海難法師とはこの亡霊のことを指すのだ。
伊豆七島(伊豆大島・利島・新島・神津島・三宅島・御蔵島・八丈島)は、離島とはいえ紛れもない東京都の管轄。
そんな島々に今どき物忌の日があるなんて俄かに信じがたい。その日は沈黙を貫き、決して外出してはならないという風習だというから、
つくづく日本は不思議な国である。……そう、海難法師だ。
なぜだか今日まで海難法師伝説は避けてきた。せいぜいURLを貼るだけにとどめた。どうしてもオカルト色が強すぎて抵抗があったためだ。
が、個人的に伝承伝説はヨダレが出そうなぐらい大好物なので、このスレも途中からソッチ系のネタで意図的に染めてきたつもりだ。
機は熟せり。今こそ恐るべき海難法師伝説を繙くときがきた。充分ホラーチックな話も揃ってきたことだし、真打で彩りを添えるべきだろう。
地元の漁師たちは口をそろえてこう言う。
「1月24日の晩は絶対に外を見ちゃならねえ。ましてや海を見るなんてもってのほかだ。声はおろか物音すら立てず、早く寝るに限る。
うっかり外の便所にも行けねえぞ。用を足したきゃ、家の中におまるを持ち込んで、そこでするしかない。
いいか、その夜は絶対外だけは見るな。これは島の掟なんだ。玄関や戸口を完全にふさぎ、『トベラの枝』をさして災難よけをしなきゃならない」
「もし見てしまったらどうなるんです?」と、観光客は素朴な疑問をぶつけると、漁師は血相を変えて怒る。
「バカ言っちゃいけねえ! 日忌様(ひいみさま)の罰が当たるぞ。悪いこたあ言わねえ。よけいな詮索はするな。
昔、この話を信じず外を見ちまった男がいた。そいつは顔中血だらけになり、眼が見えなくなったんだ……」
伊豆七島に言い伝えられている海難法師の発祥は、伊豆大島の泉津(せんづ)地区にあると伝えられている。
ここでは『日忌様』と呼ばれ、この現代も崇められているのだ。その海難法師=日忌様の由来とは以下のとおりである。
江戸時代、寛永5年のこと。泉津村に伊豆の下田から豊島忠松という代官がやってきた。年貢の塩作りが始まった時代のことである。
山の仕事を生業とするこの村で大規模な山火事が発生。それに伴い、島では過酷な食料飢饉に見舞われる。
そんな最中であっても、代官による年貢の取立ては厳しさを増す。島民の唯一の食料である芋さえ取り上げられ、それだけにとどまらず、
若い女の供出を迫るまでエスカレートした。人々の生活は困窮し、精神状態まで極限に追いつめられた。
この事態を重く見た村の若者25人は、1月24日に代官と直談判することを決意。
ところが代官は聞く耳持たない態度をとったため、若者たちは殴る蹴るの暴行を加え代官を殺害した(あるいは伊豆大島から新島へ渡る途中、
同行した25人の若者たちは船の栓を抜いて沈没させ、代官もろとも溺死したという説、またはわざと海が時化る日に年貢の取立てに行くよう
そそのかし、溺死させた諸説がある)。
若者たちは直談判が聞き容れてもらえない場合も想定して、あらかじめ殺害計画も視野に入れていた。
だから代官に会いに行く直前、「今夜は絶対に外を見てはいけない、海も見てはいけない、声すら出してもいけない」と、
村人に言い残して出かけていったのだ。自分たちの犯行を見られないように……。
諸説はどうあれ、代官、豊島忠松は死に、最悪の結果となったわけだ。
とばっちりが村に及ばぬよう、25人の若者たちは島から去ることにした。
深夜、村外れである波治加麻(はぢかま)神社で杉の木を切り、夜明け前に丸木舟を作り上げた。若者たちは西に舳先を向けて逃避行することになる。
丸木舟は大島から南下。利島、新島、神津島まで経由したものの、どの島でも代官殺害の火の粉が降りかかるのを恐れかくまってくれなかった。
せっかく村のためによかれと思って天誅を与えたというのに、神津島の沖合で大波に飲み込まれ、海の藻屑と消えたという。
それからというもの、毎年1月24日の日から25日にかけて、その25人の亡霊(あるいは豊島忠松率いる代官一行?)が迷い戻ってくるとされている。
海難法師とはこの亡霊のことを指すのだ。
1月24日の夜は決して外を見てはいけない『海難法師の日』 伊豆七島 2
島ではこの夜、明かりが外に漏れないよう玄関や戸口を厳重に戸締まりし、『トベラの枝』をさして災難避けの細工をする。
トベラなる植物の枝は折ると悪臭を放つため、魔除けの効果があると信じられている。あるいは臭いのきついノビルや刺のある柊で代用も可能だそうだ。
そして物音を立てず、声もあげず、できるだけ早く床についてやりすごすのだという。そのとき、自分たちの家が海難法師の目にとまらぬよう、
ひたすら祈るそうだ。
新島では24日の日を『親黙り』と呼び、翌25日を『子黙り』という。『親黙り』の日など、学校は放課後、児童を早急に帰宅させ、
会社業務も定時退社どころか早退が許される。役所でさえ職員に定時の退庁を勧めるほどだから驚きである。
旅館などを除き、ほとんどの商店は営業を控えるというから、正真正銘、島ぐるみで物忌が行われるのだ。
もっとも1945(昭和20)年ごろまで厳格に執り行われていたこの風習も、現在では簡素化され、当然ながら島外から越してきた人は信じない者もおり、
気にせず外出する者も増えてきたようだ。それがいいことなのか悪いことなのか、なんとも言い難い。
くり返すが、24日の夜にやってくるとされる『モノ』の正体は、島によって25人の若者であったり、悪代官だともいわれ定まっていない。
いずれにせよタブーを破り、海難法師に会ってしまい、その姿を見てしまうと凶事が降りかかると頑なに信じられてきた。
義憤のために代官を殺害したというのに、どの島も彼らの受け入れを拒んだ恨み、あるいは直談判に向かう前に残した言いつけを守らぬ者に、
災厄と死をもたらしに戻ってくるのだという。
ところがそんな物忌の日であっても、特別に例外の人間が存在する。反対に、泉津地区の浜辺に座り続けなくてはならない家系の者がいるというのだ。
この日やってくるとされる25人の亡霊を迎え入れる役目を仰せつかった門井という旧家がそれだ。
彼は海岸にゴザを敷き、白装束姿で1人座る。寒風吹きすさぶなか、波をかぶっても身じろぎせず、夜が明けるまで亡霊たちの帰りを待つという。
(※諸星大二郎の『妖怪ハンター』の一篇、『海竜祭の夜』の『彦ジイ』の役どころと行事そのものは、ここからインスピレーションを得たに違いない)
門井某家とは別に、24日に日忌様=海難法師を祀る行事がある。行事にあたりその日の夕方、海難法師にお供えする海藻や塩を採るために、
集落の男7人が海辺に集合する。
その際、家を出たときから絶対に口を利いてはいけない、出会った人がいたとしても言葉を交わしてはならない、どんなに海が時化ていても、
全員がふんどし姿になり、真冬の海で海藻を採る。それを祭壇に供えたうえで、夜を迎えるのだという。
儀式は夜の21時から始まり、日付の変わる0時から2時ぐらいまでの真夜中に最高潮に達するそうだ。儀式の詳細な内容は明らかにされていない。
ただ、わずかながら知られているのは以下の4点。
①行事はごく近しい親族と氏子に選ばれている者だけで行われる(代官が泊まったとされる宿の主、前田七兵衛氏および山下仁左衛門氏宅の末裔であろう)。
②行事に参加する者は、口に木の葉をくわえ(誤って喋ってしまわないため)、衣服は紋付羽織、新しい麻のたすきをかけた恰好で行う。
③行事中は一切無言を貫き、合図は手真似でやる。行事の詳細を他人に話してはならない禁忌がある。
④行事を終えると、盃を回して無事終了したことを告げる。午前3時になると一同帰宅し、幼い子がいる家には、「カンナンボーシの行事が終わりました」と、
親が起こして告げる。
……なんとも恐ろしく、不可思議な行事である。21世紀に入り情報化社会は浸透し、人々の考えから古臭い価値観は一掃されたかのように思える。
しかしながら離島とは四方を海で隔絶された独立した国。人間が生活していくためには、最低限の食料と水の確保が不可欠で、小さい島になればなるほど、
その確保は困難になる。人口減少などでインフラが絶たれてしまっては生きていけず、人々は島を離れるしかない。
そんな不安を抱えているからこそ人々の思考は閉鎖的、排他的、保守的になり、内向していく。昔ながらの『ムラ社会』(シマ社会)は消えることはない。
さらに島の平和を脅かすのは、いつも外部からの部外者だ。そんなアウトサイダーが、八丈島に流されてくる罪人のように発展をもたらせてくれれば良いが、
必ずしもそうとは限らない。この海難法師のように、時としてアウトサイダーは禍津神(マガツカミ)として祭り上げられ、同時に畏れられるのかもしれない。
島ではこの夜、明かりが外に漏れないよう玄関や戸口を厳重に戸締まりし、『トベラの枝』をさして災難避けの細工をする。
トベラなる植物の枝は折ると悪臭を放つため、魔除けの効果があると信じられている。あるいは臭いのきついノビルや刺のある柊で代用も可能だそうだ。
そして物音を立てず、声もあげず、できるだけ早く床についてやりすごすのだという。そのとき、自分たちの家が海難法師の目にとまらぬよう、
ひたすら祈るそうだ。
新島では24日の日を『親黙り』と呼び、翌25日を『子黙り』という。『親黙り』の日など、学校は放課後、児童を早急に帰宅させ、
会社業務も定時退社どころか早退が許される。役所でさえ職員に定時の退庁を勧めるほどだから驚きである。
旅館などを除き、ほとんどの商店は営業を控えるというから、正真正銘、島ぐるみで物忌が行われるのだ。
もっとも1945(昭和20)年ごろまで厳格に執り行われていたこの風習も、現在では簡素化され、当然ながら島外から越してきた人は信じない者もおり、
気にせず外出する者も増えてきたようだ。それがいいことなのか悪いことなのか、なんとも言い難い。
くり返すが、24日の夜にやってくるとされる『モノ』の正体は、島によって25人の若者であったり、悪代官だともいわれ定まっていない。
いずれにせよタブーを破り、海難法師に会ってしまい、その姿を見てしまうと凶事が降りかかると頑なに信じられてきた。
義憤のために代官を殺害したというのに、どの島も彼らの受け入れを拒んだ恨み、あるいは直談判に向かう前に残した言いつけを守らぬ者に、
災厄と死をもたらしに戻ってくるのだという。
ところがそんな物忌の日であっても、特別に例外の人間が存在する。反対に、泉津地区の浜辺に座り続けなくてはならない家系の者がいるというのだ。
この日やってくるとされる25人の亡霊を迎え入れる役目を仰せつかった門井という旧家がそれだ。
彼は海岸にゴザを敷き、白装束姿で1人座る。寒風吹きすさぶなか、波をかぶっても身じろぎせず、夜が明けるまで亡霊たちの帰りを待つという。
(※諸星大二郎の『妖怪ハンター』の一篇、『海竜祭の夜』の『彦ジイ』の役どころと行事そのものは、ここからインスピレーションを得たに違いない)
門井某家とは別に、24日に日忌様=海難法師を祀る行事がある。行事にあたりその日の夕方、海難法師にお供えする海藻や塩を採るために、
集落の男7人が海辺に集合する。
その際、家を出たときから絶対に口を利いてはいけない、出会った人がいたとしても言葉を交わしてはならない、どんなに海が時化ていても、
全員がふんどし姿になり、真冬の海で海藻を採る。それを祭壇に供えたうえで、夜を迎えるのだという。
儀式は夜の21時から始まり、日付の変わる0時から2時ぐらいまでの真夜中に最高潮に達するそうだ。儀式の詳細な内容は明らかにされていない。
ただ、わずかながら知られているのは以下の4点。
①行事はごく近しい親族と氏子に選ばれている者だけで行われる(代官が泊まったとされる宿の主、前田七兵衛氏および山下仁左衛門氏宅の末裔であろう)。
②行事に参加する者は、口に木の葉をくわえ(誤って喋ってしまわないため)、衣服は紋付羽織、新しい麻のたすきをかけた恰好で行う。
③行事中は一切無言を貫き、合図は手真似でやる。行事の詳細を他人に話してはならない禁忌がある。
④行事を終えると、盃を回して無事終了したことを告げる。午前3時になると一同帰宅し、幼い子がいる家には、「カンナンボーシの行事が終わりました」と、
親が起こして告げる。
……なんとも恐ろしく、不可思議な行事である。21世紀に入り情報化社会は浸透し、人々の考えから古臭い価値観は一掃されたかのように思える。
しかしながら離島とは四方を海で隔絶された独立した国。人間が生活していくためには、最低限の食料と水の確保が不可欠で、小さい島になればなるほど、
その確保は困難になる。人口減少などでインフラが絶たれてしまっては生きていけず、人々は島を離れるしかない。
そんな不安を抱えているからこそ人々の思考は閉鎖的、排他的、保守的になり、内向していく。昔ながらの『ムラ社会』(シマ社会)は消えることはない。
さらに島の平和を脅かすのは、いつも外部からの部外者だ。そんなアウトサイダーが、八丈島に流されてくる罪人のように発展をもたらせてくれれば良いが、
必ずしもそうとは限らない。この海難法師のように、時としてアウトサイダーは禍津神(マガツカミ)として祭り上げられ、同時に畏れられるのかもしれない。
[YouTubeで再生]
1月24日の夜は決して外を見てはいけない『海難法師の日』 伊豆七島 3
……以下、参考文献。
くさや新島みや藤から、新島四方山話を”海難法師(かんなんぼうし)
http://www.miyatou.com/ht/kainan.htm...
実は都市伝説 海難法師
http://urban55.o-oi.net/%E6%80%AA%E7%95%B0%E4%BC%9D%E8...
ばんがいだより 寒い夜に怪談話でさらに寒く。
http://blogs.yahoo.co.jp/shikine_nakamuraya/31789860.ht...
都民だけど、島民です。島の伝承
http://crescentia.seesaa.net/article/80637894.htm...
【怖い話】現在にまで伝わる怪異譚【伊豆七島の海難法師】
http://matome.naver.jp/odai/213515815563191940...
伊豆七島のばぁちゃんが教えてくれた話
http://ehc.jpn.com/archives/story/%E4%BC%8A%E8%B1...
神津島の伝説 風習 習慣
http://www6.ocn.ne.jp/‾nangoku1/kozudensetu.html
『国文学春秋』増補「見るなの禁忌」
http://home.s00.itscom.net/haruo/sub7.htm...
民族学伝承ひろいあげ辞典 日本人のタブー1 見たなあ〜〜
http://blogs.yahoo.co.jp/kawakatu_1205/41688929.htm...
祀龜洞雑録 blog 「ヒイミさま 〜正月下弦の来訪神〜」 祀龜洞襍考
http://blue.ap.teacup.com/hibikoregotobi/1620.htm...
祀龜洞雑録 blog 「正月下弦の…」 祀龜洞襍考
http://blue.ap.teacup.com/hibikoregotobi/1902.htm...
祀龜洞雑録 blog 「ヒイミサマとパイパティローマ」 祀龜洞襍考
http://blue.ap.teacup.com/hibikoregotobi/1766.htm...
祀龜洞雑録 blog 「ヒイミさま」考 祀龜洞襍考
http://blue.ap.teacup.com/hibikoregotobi/1628.htm...
祀龜洞雑録 blog 「ヒイミさま」考(2) 祀龜洞襍考
http://blue.ap.teacup.com/hibikoregotobi/1629.htm...
祀龜洞雑録 blog 「ヒイミさま」考(3) 祀龜洞襍考
http://blue.ap.teacup.com/hibikoregotobi/1632.htm...
祀龜洞雑録 blog 「ヒイミさま」考(4) 祀龜洞襍考
http://blue.ap.teacup.com/hibikoregotobi/1635.htm...
祀龜洞雑録 blog 「ヒイミさま」考(5) 祀龜洞襍考
http://blue.ap.teacup.com/hibikoregotobi/1642.htm...
祀龜洞雑録 blog 「ヒイミさま」考(6) 祀龜洞襍考
http://blue.ap.teacup.com/hibikoregotobi/1643.htm...
邪神とは何か - 邪神大神宮禍津神(マガツカミ)
http://jyashin.net/evilshrine/teigi.htm...
1月24日の夜は決して外を見てはいけない『海難法師の日』 伊豆七島 3
……以下、参考文献。
くさや新島みや藤から、新島四方山話を”海難法師(かんなんぼうし)
http://www.miyatou.com/ht/kainan.htm...
実は都市伝説 海難法師
http://urban55.o-oi.net/%E6%80%AA%E7%95%B0%E4%BC%9D%E8...
ばんがいだより 寒い夜に怪談話でさらに寒く。
http://blogs.yahoo.co.jp/shikine_nakamuraya/31789860.ht...
都民だけど、島民です。島の伝承
http://crescentia.seesaa.net/article/80637894.htm...
【怖い話】現在にまで伝わる怪異譚【伊豆七島の海難法師】
http://matome.naver.jp/odai/213515815563191940...
伊豆七島のばぁちゃんが教えてくれた話
http://ehc.jpn.com/archives/story/%E4%BC%8A%E8%B1...
神津島の伝説 風習 習慣
http://www6.ocn.ne.jp/‾nangoku1/kozudensetu.html
『国文学春秋』増補「見るなの禁忌」
http://home.s00.itscom.net/haruo/sub7.htm...
民族学伝承ひろいあげ辞典 日本人のタブー1 見たなあ〜〜
http://blogs.yahoo.co.jp/kawakatu_1205/41688929.htm...
祀龜洞雑録 blog 「ヒイミさま 〜正月下弦の来訪神〜」 祀龜洞襍考
http://blue.ap.teacup.com/hibikoregotobi/1620.htm...
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http://blue.ap.teacup.com/hibikoregotobi/1902.htm...
祀龜洞雑録 blog 「ヒイミサマとパイパティローマ」 祀龜洞襍考
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祀龜洞雑録 blog 「ヒイミさま」考(2) 祀龜洞襍考
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祀龜洞雑録 blog 「ヒイミさま」考(6) 祀龜洞襍考
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邪神とは何か - 邪神大神宮禍津神(マガツカミ)
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>>399
ワオ、嬉しいお言葉。たまにでいいのでその調子で褒めてくだされい。それが明日への活力となります。
土日に更新したいのは山々なのですが、先週はなんとなくネタが見つかりませんでした。たまにはそんな冴えない日もありますって。
個人的にはレスを重ねるにつれ、怖いネタ、あるいは妙なネタの劣化は避けたいと思っております。
せめて現状維持、願わくば、より興味深いネタを提示できれば御の字なのですが、現実はなかなかうまくいきませんね……。
いくら日本の島が6800以上あるとはいえ、取り上げるに値するものばかり転がっているわけではありません。
このスレも400を超えるにあたり、産みの苦しみみたいなものを感じております。踏ん張ってもなかなか出づらくなったというか。
その対策として、以前取り上げた島ネタを深く掘り下げることにより、よりディープに突っ込むのも悪くないと考え、そういうわけで海難法師だったのです。
今後もこのパターンを踏襲していこうかと。
いつになるかまだわかりませんが、渾身の長文レスの予定としては、>>21で紹介した下甑島のクロ宗について深く切り込んでいくつもりです。
題して、『クロ宗の死の儀式は存在したのか? その考察(仮題)』。クロ宗の恐るべき儀式の真相に迫るべく検証します。乞うご期待。
それにしても、こんな場末の掲示板で、高いハードルを課してしまう僕は真性のマゾですね。この際、誤字脱字は脳内補完で許してチョ〜ダイ。
ちなみにクロ宗はモロ☆的には、『生命の木』ですかね? 恐らく博学の氏のことですから、ずっと昔からクロについては存じ上げていたと思いますよ。
ワオ、嬉しいお言葉。たまにでいいのでその調子で褒めてくだされい。それが明日への活力となります。
土日に更新したいのは山々なのですが、先週はなんとなくネタが見つかりませんでした。たまにはそんな冴えない日もありますって。
個人的にはレスを重ねるにつれ、怖いネタ、あるいは妙なネタの劣化は避けたいと思っております。
せめて現状維持、願わくば、より興味深いネタを提示できれば御の字なのですが、現実はなかなかうまくいきませんね……。
いくら日本の島が6800以上あるとはいえ、取り上げるに値するものばかり転がっているわけではありません。
このスレも400を超えるにあたり、産みの苦しみみたいなものを感じております。踏ん張ってもなかなか出づらくなったというか。
その対策として、以前取り上げた島ネタを深く掘り下げることにより、よりディープに突っ込むのも悪くないと考え、そういうわけで海難法師だったのです。
今後もこのパターンを踏襲していこうかと。
いつになるかまだわかりませんが、渾身の長文レスの予定としては、>>21で紹介した下甑島のクロ宗について深く切り込んでいくつもりです。
題して、『クロ宗の死の儀式は存在したのか? その考察(仮題)』。クロ宗の恐るべき儀式の真相に迫るべく検証します。乞うご期待。
それにしても、こんな場末の掲示板で、高いハードルを課してしまう僕は真性のマゾですね。この際、誤字脱字は脳内補完で許してチョ〜ダイ。
ちなみにクロ宗はモロ☆的には、『生命の木』ですかね? 恐らく博学の氏のことですから、ずっと昔からクロについては存じ上げていたと思いますよ。
龍神様の怒りを鎮めるべく娘が犠牲に 坊勢島(ぼうぜじま)
兵庫県の姫路市沖には約40もの島が点在する。これを家島諸島といい、その中に坊勢島と呼ばれる風変わりな島名の有人島がある。
言い伝えによれば、883(元慶7)年、比叡山西塔実相院の高僧・覚円が武家に背いた咎(とが)でこの島に流された際、師である覚円を慕って弟子の数10人が
島に移り住んだことにちなんで島名がつけられたという。
そのほか、この島にはこんな伝承が残されている。
その昔、無鉄砲な漁ばかりする型破りな漁師と、対照的に心優しく美しい娘がいた。
ある日、父は船を出すと大漁に恵まれた。大喜びしながら魚を船に揚げ、気分よく港を目指して帰ってきたものの、
どうやらその獲物の中には龍神の使いが紛れていたらしい。
船が港の入り口にさしかかったころ、時ならぬ黒雲が空を覆い隠し雷鳴が響いたかと思うと、殴りつけるような暴風雨が船を襲った。
たちまち転覆しそうになるが、荒くれの父はどうにか持ちこたえた。
心配していた娘は浜辺で待っていた。イヤな予感が胸を締め付けていた。きっとこれは父の日ごろの無作法な漁を龍神様がお怒りになっているのだと思う。
どうにか島までたどり着いた船に向かって、「父さん、魚を海に返してあげて!」と、叫んで知らせた。
ところが、「バカ言え! せっかくの獲物を逃してなるものか!」と、父は言った。その返事に呼応するかのように海はますます荒れた。
こうなっては取り返しがつかない。娘は龍神の怒りを鎮めるべく、とっさに己が身を海に投げ出した。こうするよりほかに父の命を救う方法はなかった。
すると天にも達するがごとき水柱が立ったかと思うと嵐はピタリとおさまり、そこに娘の化身かのような小島が忽然と現われたのであった。
それ以来、父は襟を正し、島に龍神を祀り、島の安全と大漁を祈るようにした。
今でも坊勢島では正月の4日に神海祭(神権祭り)が行われている。
坊勢漁業協同組合
http://boze.or.jp/index.htm...
兵庫県の姫路市沖には約40もの島が点在する。これを家島諸島といい、その中に坊勢島と呼ばれる風変わりな島名の有人島がある。
言い伝えによれば、883(元慶7)年、比叡山西塔実相院の高僧・覚円が武家に背いた咎(とが)でこの島に流された際、師である覚円を慕って弟子の数10人が
島に移り住んだことにちなんで島名がつけられたという。
そのほか、この島にはこんな伝承が残されている。
その昔、無鉄砲な漁ばかりする型破りな漁師と、対照的に心優しく美しい娘がいた。
ある日、父は船を出すと大漁に恵まれた。大喜びしながら魚を船に揚げ、気分よく港を目指して帰ってきたものの、
どうやらその獲物の中には龍神の使いが紛れていたらしい。
船が港の入り口にさしかかったころ、時ならぬ黒雲が空を覆い隠し雷鳴が響いたかと思うと、殴りつけるような暴風雨が船を襲った。
たちまち転覆しそうになるが、荒くれの父はどうにか持ちこたえた。
心配していた娘は浜辺で待っていた。イヤな予感が胸を締め付けていた。きっとこれは父の日ごろの無作法な漁を龍神様がお怒りになっているのだと思う。
どうにか島までたどり着いた船に向かって、「父さん、魚を海に返してあげて!」と、叫んで知らせた。
ところが、「バカ言え! せっかくの獲物を逃してなるものか!」と、父は言った。その返事に呼応するかのように海はますます荒れた。
こうなっては取り返しがつかない。娘は龍神の怒りを鎮めるべく、とっさに己が身を海に投げ出した。こうするよりほかに父の命を救う方法はなかった。
すると天にも達するがごとき水柱が立ったかと思うと嵐はピタリとおさまり、そこに娘の化身かのような小島が忽然と現われたのであった。
それ以来、父は襟を正し、島に龍神を祀り、島の安全と大漁を祈るようにした。
今でも坊勢島では正月の4日に神海祭(神権祭り)が行われている。
坊勢漁業協同組合
http://boze.or.jp/index.htm...
>>402
もしかして『文藝別冊・諸星大二郎』の132ページ目の中段のことですかね?
たしかDVD『奇談・プレミアムエディション』の特典ディスクに、氏へのインタビューがあり、同じことを言及していたような気もする……。
資料とは『キリシタン・排耶書』に収録されている『天地始之事』のことですね。何年か前、せっかく僕も手に入れたというのに積ん読状態ですが。
長崎県の五島列島に伝わる聖書異伝だから、当然クロ宗の間で流布していたとしても不思議ではないと思われ。
いずれにせよ、クロについてはもうちょっと先で。
ちなみに>>400の画像はこの手のスレで拾っただけ。元はどこで使用されたのかまでは知る由もない。
【閲覧注意】諸星大二郎の意味不明さは異常 駅から出られらないやつの恐怖感は異常
http://narcissu.doorblog.jp/archives/21164103.htm...
『天地始之事』について
http://www.geocities.co.jp/Playtown-Knight/7829/texts/ten...
もしかして『文藝別冊・諸星大二郎』の132ページ目の中段のことですかね?
たしかDVD『奇談・プレミアムエディション』の特典ディスクに、氏へのインタビューがあり、同じことを言及していたような気もする……。
資料とは『キリシタン・排耶書』に収録されている『天地始之事』のことですね。何年か前、せっかく僕も手に入れたというのに積ん読状態ですが。
長崎県の五島列島に伝わる聖書異伝だから、当然クロ宗の間で流布していたとしても不思議ではないと思われ。
いずれにせよ、クロについてはもうちょっと先で。
ちなみに>>400の画像はこの手のスレで拾っただけ。元はどこで使用されたのかまでは知る由もない。
【閲覧注意】諸星大二郎の意味不明さは異常 駅から出られらないやつの恐怖感は異常
http://narcissu.doorblog.jp/archives/21164103.htm...
『天地始之事』について
http://www.geocities.co.jp/Playtown-Knight/7829/texts/ten...
犬祖伝説は中国大陸から渡り琉球にも伝わった? 与那国島
沖縄県与那国島の祖納(そない)集落には、高さ70mを誇る隆起珊瑚の岩塊『ティンダハナタ』がある。
そこにはイヌガンと呼ばれる洞窟が口を開けており、そばには湧水もあることから人が住めそうなロケーションであり、
案の定こんな伝説が残されていた。
はるかな昔のことである。久米島から中山王府への貢納船が出帆。ところが船は荒天に遭い、やっとのことで与那国島へ漂着した。
その一行は男が複数に、女1人、犬1匹だったのだが、犬はとても凶暴な性質で、日に日に男たちを1人、また1人と噛み殺してしまうほどであった。
ある夜、犬は最後の1人を仕留めると、ついに女を獲得した。そしてともに岩屋で同棲するようになったのだ。
奇しくもそのころ、小浜島の漁師が同じく荒天に襲われ、与那国島にたどり着いた。
島を探索していると、先の女と出会う。女は驚くほどの美貌の持ち主であった。男はたちまち惹かれた。
「この島は危険です。凶暴な犬の連れがいるのです。早く立ち去らないと命を落とすことになりましょう」と女は言い、今までの経緯を語って聞かせた。
「犬が人間と暮らしているとな。不思議な話よのう。その呪縛から解かねばあんたは一生奴隷だぞ」
「それでもかまいませぬ。さ、早く犬が来ないうちに」と、女はしきりに島から出ていくよう促すが、男は逆にティンダハナタに潜む犬のもとへ行き、
女がいないうちに犬に挑み、激闘の末退治してしまった。そして離れた場所に埋めてしまい、女には犬の死を内緒にした。
こうして2人は夫婦となり、5男2女をもうけ、島はこの7人によって栄えていった。
秘密は墓場まで持っていくべきである。平和な日が長く続いたというのに、ある日、魔が差したのか男は犬を殺し、埋めた場所を女に漏らしてしまう。
それを知った女は激しく絶望した。死骸を掘り起こすと、それを抱いたまま命を絶ったという。
……言わずもがな、滝沢馬琴の『南総里見八犬伝』を彷彿とさせるが、それもそのはず、馬琴は中国大陸の犬祖伝説を伏姫と八房の下敷きにしたらしい。
とすれば犬祖伝説は大陸から与那国島に渡ってきたのだろう。それだけにとどまらず、この手の説話は西日本にも延びており、
とりわけ奄美大島から長崎、佐賀、対馬、四国中国地方を経て関西に分布している。
異類婚姻譚wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%95%B0%E9%A1%9E%E5%A9%...
与那国島紀行〜その9:ティンダハナタのサンアイイソバ
http://oumonhagebudai.ti-da.net/e3917717.htm...
民俗学伝承ひろいあげ辞典 沖縄〜日本列島の「犬聟入(いぬむこいり)伝説」
http://blogs.yahoo.co.jp/kawakatu_1205/1648428.htm...
民俗学伝承ひろいあげ辞典 奄美大島の犬婿入り伝説
http://blogs.yahoo.co.jp/kawakatu_1205/4610253.htm...
第840回C - 日本民俗学会 / The Folklore Society of Japan
http://www.fsjnet.jp/regular_meeting/abstract/840c....
沖縄県与那国島の祖納(そない)集落には、高さ70mを誇る隆起珊瑚の岩塊『ティンダハナタ』がある。
そこにはイヌガンと呼ばれる洞窟が口を開けており、そばには湧水もあることから人が住めそうなロケーションであり、
案の定こんな伝説が残されていた。
はるかな昔のことである。久米島から中山王府への貢納船が出帆。ところが船は荒天に遭い、やっとのことで与那国島へ漂着した。
その一行は男が複数に、女1人、犬1匹だったのだが、犬はとても凶暴な性質で、日に日に男たちを1人、また1人と噛み殺してしまうほどであった。
ある夜、犬は最後の1人を仕留めると、ついに女を獲得した。そしてともに岩屋で同棲するようになったのだ。
奇しくもそのころ、小浜島の漁師が同じく荒天に襲われ、与那国島にたどり着いた。
島を探索していると、先の女と出会う。女は驚くほどの美貌の持ち主であった。男はたちまち惹かれた。
「この島は危険です。凶暴な犬の連れがいるのです。早く立ち去らないと命を落とすことになりましょう」と女は言い、今までの経緯を語って聞かせた。
「犬が人間と暮らしているとな。不思議な話よのう。その呪縛から解かねばあんたは一生奴隷だぞ」
「それでもかまいませぬ。さ、早く犬が来ないうちに」と、女はしきりに島から出ていくよう促すが、男は逆にティンダハナタに潜む犬のもとへ行き、
女がいないうちに犬に挑み、激闘の末退治してしまった。そして離れた場所に埋めてしまい、女には犬の死を内緒にした。
こうして2人は夫婦となり、5男2女をもうけ、島はこの7人によって栄えていった。
秘密は墓場まで持っていくべきである。平和な日が長く続いたというのに、ある日、魔が差したのか男は犬を殺し、埋めた場所を女に漏らしてしまう。
それを知った女は激しく絶望した。死骸を掘り起こすと、それを抱いたまま命を絶ったという。
……言わずもがな、滝沢馬琴の『南総里見八犬伝』を彷彿とさせるが、それもそのはず、馬琴は中国大陸の犬祖伝説を伏姫と八房の下敷きにしたらしい。
とすれば犬祖伝説は大陸から与那国島に渡ってきたのだろう。それだけにとどまらず、この手の説話は西日本にも延びており、
とりわけ奄美大島から長崎、佐賀、対馬、四国中国地方を経て関西に分布している。
異類婚姻譚wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%95%B0%E9%A1%9E%E5%A9%...
与那国島紀行〜その9:ティンダハナタのサンアイイソバ
http://oumonhagebudai.ti-da.net/e3917717.htm...
民俗学伝承ひろいあげ辞典 沖縄〜日本列島の「犬聟入(いぬむこいり)伝説」
http://blogs.yahoo.co.jp/kawakatu_1205/1648428.htm...
民俗学伝承ひろいあげ辞典 奄美大島の犬婿入り伝説
http://blogs.yahoo.co.jp/kawakatu_1205/4610253.htm...
第840回C - 日本民俗学会 / The Folklore Society of Japan
http://www.fsjnet.jp/regular_meeting/abstract/840c....
>>406
どういたしまして。まったく殺人的な猛暑でどうにかなってしまいそうですね。そちらこそ無理なさらぬよう。
悲劇を今に伝える『おすみ与吉の比翼塚』 神子元島(みこもとしま)
静岡県の下田港から南へ約11km沖、石廊崎からは東南東へ約9km離れた太平洋上にある無人島を神子元島と呼ぶ。
古い時代より、何度か神社の祠などが鎮座させては強風や波により消失させた。流刑者や灯台の関係者を除けば人が定住していたとの記録は残されていない。
島というより岩礁で形成され、植物の繁茂は極めて少なく、風や波をもろに受けるため、水源もないことからそこでのキャンプは困難である。
定期船の運航はしておらず、上陸するなら周辺の港で渡船をチャーターしなければならない。
マグロやカンパチなどの大物が揚がる釣り場として人気を集め、またハンマーヘッドシャーク(シュモクザメ)の大群が見られるダイビングポイントとしても有名。
夏から秋にかけて、ときに数100匹の群れと遭遇することもめずらしくないという。
その神子元島には1基の墓石が佇んでいる。これを『おすみ与吉の比翼塚』といい、こんな悲話が残されていた。
昔、紀州の若き船人である与吉が、新妻のおすみとともに航海していた。神子元島のそばにさしかかったとき、急な天気の崩れと潮の変化が起きた。
海は荒れ、まるで巨人の手の平のごとき怒涛が船を覆い隠し、次の瞬間には握りつぶしたかのように大破してしまった。
与吉とおすみは命からがら島に這い上がった。
島の上から見渡せば、視界はかすみ、下田港は見当たらない。これでは当分助けは来そうにもない。
とにかく望みを捨てず、生き延びねばなるまい。とはいえ神子元島は植物がなく、口にできるものといえば浅瀬の海藻か貝ぐらい。
初めのうちはそれで飢えを凌いでいたが、日が経つにつれ、それすら心もとなくなってきた。あらかた採り尽くしてしまったのだ。
いまだ波は荒れ狂い、助けの船も来ず、食料が底をつくのも時間の問題。
「このままでは共倒れだ。かくなるうえは、おれが無理を承知で助けを呼びに行くしかなかろう」と、与吉は独り言のように言った。
「きっともうしばらく待ち続ければ、行方知れずとなった私たちを心配した両親が助けにきてくれるはずよ」と、おすみはその意見に反対した。
「さすがにこの島にいるとは予想もつくまい。幸いここに打ち上げられたときより、体力は残されている。今挑戦しなければ、ますます体力は衰える一方だ。
だったらこれしか方法はない。おまえだってあとどれほど持つか」
「……わかったわ。気をつけて、あなた」
「しばらく辛抱して待っててくれ。必ず迎えをよこす。おすみ、そのときこそまた会おう!」
与吉はそう言うと、荒れる海に飛び込んで泳ぎ出した。はるかな下田港をめざして。
ところが2日がすぎ、3日経とうとも与吉の助けは来なかった。黒潮の流れは速く、気ばかり焦る与吉を無情にも飲み込んでしまったのだ。
夫を信じ、一日千秋の思いで待ち続けていたおすみも、ついには飢えと絶望の末、「与吉! 与吉よ!」と連呼しながら底知れぬ海に身を投じ、
夫のあとを追ったのであった。
株式会社ティアクルーズ公式ページ 伊豆の民話/孤島の比翼塚
http://www.t-crews.com/pg258.htm...
山風景とデジタルコラボ+α もうひとつの悲話
http://blog.goo.ne.jp/kazubouchan_june/m/201203/...
どういたしまして。まったく殺人的な猛暑でどうにかなってしまいそうですね。そちらこそ無理なさらぬよう。
悲劇を今に伝える『おすみ与吉の比翼塚』 神子元島(みこもとしま)
静岡県の下田港から南へ約11km沖、石廊崎からは東南東へ約9km離れた太平洋上にある無人島を神子元島と呼ぶ。
古い時代より、何度か神社の祠などが鎮座させては強風や波により消失させた。流刑者や灯台の関係者を除けば人が定住していたとの記録は残されていない。
島というより岩礁で形成され、植物の繁茂は極めて少なく、風や波をもろに受けるため、水源もないことからそこでのキャンプは困難である。
定期船の運航はしておらず、上陸するなら周辺の港で渡船をチャーターしなければならない。
マグロやカンパチなどの大物が揚がる釣り場として人気を集め、またハンマーヘッドシャーク(シュモクザメ)の大群が見られるダイビングポイントとしても有名。
夏から秋にかけて、ときに数100匹の群れと遭遇することもめずらしくないという。
その神子元島には1基の墓石が佇んでいる。これを『おすみ与吉の比翼塚』といい、こんな悲話が残されていた。
昔、紀州の若き船人である与吉が、新妻のおすみとともに航海していた。神子元島のそばにさしかかったとき、急な天気の崩れと潮の変化が起きた。
海は荒れ、まるで巨人の手の平のごとき怒涛が船を覆い隠し、次の瞬間には握りつぶしたかのように大破してしまった。
与吉とおすみは命からがら島に這い上がった。
島の上から見渡せば、視界はかすみ、下田港は見当たらない。これでは当分助けは来そうにもない。
とにかく望みを捨てず、生き延びねばなるまい。とはいえ神子元島は植物がなく、口にできるものといえば浅瀬の海藻か貝ぐらい。
初めのうちはそれで飢えを凌いでいたが、日が経つにつれ、それすら心もとなくなってきた。あらかた採り尽くしてしまったのだ。
いまだ波は荒れ狂い、助けの船も来ず、食料が底をつくのも時間の問題。
「このままでは共倒れだ。かくなるうえは、おれが無理を承知で助けを呼びに行くしかなかろう」と、与吉は独り言のように言った。
「きっともうしばらく待ち続ければ、行方知れずとなった私たちを心配した両親が助けにきてくれるはずよ」と、おすみはその意見に反対した。
「さすがにこの島にいるとは予想もつくまい。幸いここに打ち上げられたときより、体力は残されている。今挑戦しなければ、ますます体力は衰える一方だ。
だったらこれしか方法はない。おまえだってあとどれほど持つか」
「……わかったわ。気をつけて、あなた」
「しばらく辛抱して待っててくれ。必ず迎えをよこす。おすみ、そのときこそまた会おう!」
与吉はそう言うと、荒れる海に飛び込んで泳ぎ出した。はるかな下田港をめざして。
ところが2日がすぎ、3日経とうとも与吉の助けは来なかった。黒潮の流れは速く、気ばかり焦る与吉を無情にも飲み込んでしまったのだ。
夫を信じ、一日千秋の思いで待ち続けていたおすみも、ついには飢えと絶望の末、「与吉! 与吉よ!」と連呼しながら底知れぬ海に身を投じ、
夫のあとを追ったのであった。
株式会社ティアクルーズ公式ページ 伊豆の民話/孤島の比翼塚
http://www.t-crews.com/pg258.htm...
山風景とデジタルコラボ+α もうひとつの悲話
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悲劇の八人岩伝説 小豆島(しょうどしま)
香川県の高浜港の北、約18kmの瀬戸内海にある小豆島。古事記の国生み伝説では10番目に生まれたとされている。
歴史に登場する時期も古くから散見され、いかにこの島が古来より瀬戸内海の要衝であったか伺えよう。
テレビ朝日系列の『痛快!ビッグダディ』で、一時期あの親子が移住した島として話題になったので、思い出す人も多いのでは?
小豆島には多くの民俗・伝統行事が残されており、奥深い島だ。
さて、今回は島の北東に位置する『岩が谷(いわがたに)』という村の『八人岩伝説』をご紹介。
ある日、9人の石工たちが岩が谷の石切場で、崖の上の大岩を切り出す仕事をしていた。
そのメンバーの中の1人は常日ごろ般若心経を信じている男で、暇があれば経を唱えているほどだった。
昼食の時間になったので作業を中断し、休憩することになった。
石工たちは日陰を求めて割りかけの大岩の下で休むことにした(この軽率な行動から、この後どんな事故が発生するか、
賢明なる読者諸兄なら予想がつくであろう)。
「観自在菩薩行深般若波羅蜜多時、照見五蘊皆空、度一切苦厄。舎利子。色不異空、空不異色……」と、男は休憩中もこの調子。
「しかしやっこさんは熱心な男だのう。石切職人にしとくのはもったいないほどじゃ」「ハハッ! 仕事選びを誤ったにちがいあるめえ」
と、ほかの職人にからかわれるほどだった。経を唱えるのに余念がない男を尻目に、8人はだらしない恰好で寝そべり、昼寝に興じた。
そのとき、般若経を唱えていた男はハッキリと耳にした。男は大岩のもとから這い出て、頂上を見上げた。
確かに「……ハンニャ、ハンニャ」という声が大岩の上から聞こえたのだ。
次の瞬間、轟音とともに大岩が崩れ、8人の職人を下敷きにした。
この事故以来、この大岩は八人岩と呼ばれ、今も灯篭が祀られている。
1620年、大坂城の石垣修復の際、良質の花崗岩の産地であるこの近辺からも数多く切り出されて、船で運ばれた。
硬い石も職人にかかると、石の目にノミを入れるとパカリと割れ、その断面は鋭利な刃物で断ち切ったかのように鮮やかだ。
重機がなかった江戸時代のこと。巨石を人力で運べるはずもなく、山の斜面から転がり落として海岸沿いまで運んだというから豪快だ。
ところが築城が完了すると小豆島産の石は無用の長物とされ、すでに切り出され海岸沿いで待機していたものは『残石』あるいは『残念石』と呼ばれた。
以来、ほかに有効利用されることなく300年以上もその姿を風雨に晒している。
[日本の民話・妖怪 語りおろし]八人岩(香川県小豆島)
http://www.rg-youkai.com/tales/ja/37_kagawa/01_hachinin...
小豆島町岩谷の八人岩の遺跡 - JA5NXT
http://ja5nxt.lolipop.jp/8niniwa.ht...
小豆島の風景 - So-net
http://www009.upp.so-net.ne.jp/therese/view.ht...
香川県の高浜港の北、約18kmの瀬戸内海にある小豆島。古事記の国生み伝説では10番目に生まれたとされている。
歴史に登場する時期も古くから散見され、いかにこの島が古来より瀬戸内海の要衝であったか伺えよう。
テレビ朝日系列の『痛快!ビッグダディ』で、一時期あの親子が移住した島として話題になったので、思い出す人も多いのでは?
小豆島には多くの民俗・伝統行事が残されており、奥深い島だ。
さて、今回は島の北東に位置する『岩が谷(いわがたに)』という村の『八人岩伝説』をご紹介。
ある日、9人の石工たちが岩が谷の石切場で、崖の上の大岩を切り出す仕事をしていた。
そのメンバーの中の1人は常日ごろ般若心経を信じている男で、暇があれば経を唱えているほどだった。
昼食の時間になったので作業を中断し、休憩することになった。
石工たちは日陰を求めて割りかけの大岩の下で休むことにした(この軽率な行動から、この後どんな事故が発生するか、
賢明なる読者諸兄なら予想がつくであろう)。
「観自在菩薩行深般若波羅蜜多時、照見五蘊皆空、度一切苦厄。舎利子。色不異空、空不異色……」と、男は休憩中もこの調子。
「しかしやっこさんは熱心な男だのう。石切職人にしとくのはもったいないほどじゃ」「ハハッ! 仕事選びを誤ったにちがいあるめえ」
と、ほかの職人にからかわれるほどだった。経を唱えるのに余念がない男を尻目に、8人はだらしない恰好で寝そべり、昼寝に興じた。
そのとき、般若経を唱えていた男はハッキリと耳にした。男は大岩のもとから這い出て、頂上を見上げた。
確かに「……ハンニャ、ハンニャ」という声が大岩の上から聞こえたのだ。
次の瞬間、轟音とともに大岩が崩れ、8人の職人を下敷きにした。
この事故以来、この大岩は八人岩と呼ばれ、今も灯篭が祀られている。
1620年、大坂城の石垣修復の際、良質の花崗岩の産地であるこの近辺からも数多く切り出されて、船で運ばれた。
硬い石も職人にかかると、石の目にノミを入れるとパカリと割れ、その断面は鋭利な刃物で断ち切ったかのように鮮やかだ。
重機がなかった江戸時代のこと。巨石を人力で運べるはずもなく、山の斜面から転がり落として海岸沿いまで運んだというから豪快だ。
ところが築城が完了すると小豆島産の石は無用の長物とされ、すでに切り出され海岸沿いで待機していたものは『残石』あるいは『残念石』と呼ばれた。
以来、ほかに有効利用されることなく300年以上もその姿を風雨に晒している。
[日本の民話・妖怪 語りおろし]八人岩(香川県小豆島)
http://www.rg-youkai.com/tales/ja/37_kagawa/01_hachinin...
小豆島町岩谷の八人岩の遺跡 - JA5NXT
http://ja5nxt.lolipop.jp/8niniwa.ht...
小豆島の風景 - So-net
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ネズミに乗っ取られた島 戸島
愛媛県宇和島市に属する戸島は、その他の離島の例に漏れず基幹産業が漁業であり、なかでもハマチの養殖が盛んである。
その戸島であるが、昔から戸島のみならず宇和海地方はネズミが多い地域と知られ、江戸時代の記録にも残っているのだ。
ネズミ除けの念仏が行われたほど。下波湾の沖に浮かぶ黒島では、ネズミの被害に屈し開墾をあきらめたと伝えられている。
昭和24年夏、戸島にネズミが大量発生し、日振島がそれにつぎ、昭和26年11月には戸島の対岸の蒋渕(こもぶち)に飛び火。
ネズミの群れは半島を東に進み、昭和27年には宇和島周辺にまで達した。ちなみに昭和26年11月の日振島・戸島の推定生息数は80万匹だと言われている。
発生の主な原因は、戦後、食糧難により段々畑での芋作りと煮干しイリコの製造が急速に増えたことで、ネズミの食料が豊富となったためであるという。
温暖な気候のうえ、ヨシの防風垣に芋壺があり、ネズミにとって格好の棲家であった。島を上げての駆除により昭和28年は平穏であったが、
翌29年は、ふたたび大発生。駆除には薬剤、パチンコ、天敵の放逐などあらゆる手を使ったものの完全に滅ぼすまでには至らなかった。
1匹につき5円〜10円で買い上げたこともあり、子供たちは賞金稼ぎのごとく血眼になって捕まえた。
ちなみに放逐した天敵は、蛇191匹、イタチ156匹、猫4392匹。三間小学校では、猫の出陣式が行われたほど歓迎された。
駆除したネズミ数は、11年間で86万1871匹に及んだ。
ネズミがいなくなるときは、段々畑での耕作をやめて元の山林に還るときであろうという予言どおり、昭和36年に終わりを迎える。
住民たちはしだいに島での生活をあきらめ、畑を放棄し始めた。因果なことにそれゆえネズミの食料が乏しくなり、共食いをする。
そして数が激減し、残ったネズミも戸島を占拠するのをやめ、海を渡ってどこかへ消えてしまったという。
愛媛の伝承文化 −大本敬久のブログ− ネズミ騒動
http://blog.goo.ne.jp/uchikonotemae/e/dc5974ffacdd36...
愛媛県宇和島市に属する戸島は、その他の離島の例に漏れず基幹産業が漁業であり、なかでもハマチの養殖が盛んである。
その戸島であるが、昔から戸島のみならず宇和海地方はネズミが多い地域と知られ、江戸時代の記録にも残っているのだ。
ネズミ除けの念仏が行われたほど。下波湾の沖に浮かぶ黒島では、ネズミの被害に屈し開墾をあきらめたと伝えられている。
昭和24年夏、戸島にネズミが大量発生し、日振島がそれにつぎ、昭和26年11月には戸島の対岸の蒋渕(こもぶち)に飛び火。
ネズミの群れは半島を東に進み、昭和27年には宇和島周辺にまで達した。ちなみに昭和26年11月の日振島・戸島の推定生息数は80万匹だと言われている。
発生の主な原因は、戦後、食糧難により段々畑での芋作りと煮干しイリコの製造が急速に増えたことで、ネズミの食料が豊富となったためであるという。
温暖な気候のうえ、ヨシの防風垣に芋壺があり、ネズミにとって格好の棲家であった。島を上げての駆除により昭和28年は平穏であったが、
翌29年は、ふたたび大発生。駆除には薬剤、パチンコ、天敵の放逐などあらゆる手を使ったものの完全に滅ぼすまでには至らなかった。
1匹につき5円〜10円で買い上げたこともあり、子供たちは賞金稼ぎのごとく血眼になって捕まえた。
ちなみに放逐した天敵は、蛇191匹、イタチ156匹、猫4392匹。三間小学校では、猫の出陣式が行われたほど歓迎された。
駆除したネズミ数は、11年間で86万1871匹に及んだ。
ネズミがいなくなるときは、段々畑での耕作をやめて元の山林に還るときであろうという予言どおり、昭和36年に終わりを迎える。
住民たちはしだいに島での生活をあきらめ、畑を放棄し始めた。因果なことにそれゆえネズミの食料が乏しくなり、共食いをする。
そして数が激減し、残ったネズミも戸島を占拠するのをやめ、海を渡ってどこかへ消えてしまったという。
愛媛の伝承文化 −大本敬久のブログ− ネズミ騒動
http://blog.goo.ne.jp/uchikonotemae/e/dc5974ffacdd36...
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猫の復讐、ここに極まれり『猫島異聞』 猫島
鳥取県鳥取市の北部には湖山池(こやまいけ)という汽水湖がある。汽水湖とは湖水に海水が混じっている湖のことを指す。
『池』とつく湖沼の中では日本最大規模の広さを誇るらしい。その湖山池には大小合わせて5つの島あり、なかでも『猫島』と呼ばれる小島には
猫にまつわる伝承、その名も『猫島異聞』が残されている。この話は猫好きなら思わず膝を叩いてしまうこと請け合い。
昔、伏野長者の家に1匹の猫が飼われていた。女中はその猫をいたく可愛がっていた。ところが長者の奥方は大の猫嫌い。
猫がそばに寄り付こうものなら蹴り飛ばしてしまうほど毛嫌いしていた。
ある日、奥方は女中にこう言った。「あなたはどうしてあの猫を可愛がるのです? 私がどれほど忌々しいと思っているか、わからないのですか?
亭主にも言って聞かせます。さっさとこの家から追い出してしまいなさい。一刻も早くです!」
そのことで胸を痛めた女中は陰で泣いていると、当の猫は察したものか、その日を境に姿を見せなくなった。
別の日、旅僧が家を訪ねてきた。女中がそれとなく猫の話をすると、「その猫なら因幡山で見かけた」と、思いもよらぬ返事。
女中は暇をもらい、奥方には内緒で、因幡山へ猫を探しに出かけることにした。
とはいえ山中は広く、そう簡単に猫は見つかるはずもない。じきに日が暮れてしまった。
泊まれる場所はないか方々を探していると、1軒の立派な屋敷を見つけた。女中はさっそく門を叩いた。
戸を開けて出てきたのは美しいけれど、どこか険のある顔立ちの娘。
「あなたも食い殺されにきたクチですか? ようこそ屋敷にお出で下さいました」娘は言うと、ニタリと笑い舌なめずりした。
女中は腰が抜けそうになった。どうやら尋常ならざるところに足を踏み入れてしまったらしい。
すると屋敷の奥から、「いけません! せっかく訪ねてきた人間を怯えさせるとは何事ですか!」という叱責の声が響いた。
奥から現われたのは上品な着物姿の老婆。「使いの者が失礼をしたようです。さぞかしお疲れでしょう。どうぞ中へお入りなさい」と、言った。
その晩、床についた女中が眼を醒ますと、隣の部屋からなにやらヒソヒソ話が聞こえてくる。
女中は壁に耳を押し付けた。「……猫嫌いなら人となりでわかる。あの女は猫を可愛がっていた娘じゃ。噛み付くことは許しませんよ」と、聞こえた。
逃げ出そうとしたとき、顔が猫で身体が人間の娘が部屋に入ってきた。その猫女はよく見れば、長者の家で大事にしていたあの猫ではないか。
女中はおまえに会いたかったんだと思いの丈をぶつけると、「よくぞ会いにきてくださいました。私も長年あなたをお慕いしておりました。
しかしあの家には戻ることはできません。私は二度と帰るまいと誓ったのです」
女中はどうにか説得しようとしたものの、猫の心は頑として変わらなかった。
あきらめた女中が帰る際、猫女は1枚の白い紙袋を渡した。「これは猫屋敷の呪いから身を守るためのものです。困ったらお振りなさい」
屋敷を出ようとしたとき、なるほど外はおびただしい数の猫で埋め尽くされている。猫女にもらった紙袋を振ると、猫たちは道を開けてくれた。
家に帰り、その白い紙袋を開けてみると、中には犬の絵が描かれており、なんと本物の小判10両を咥えていた。
これを見た奥方は感嘆の声をあげた。「女中ごとき身分のおまえで小判10両……。私なら100両はくだるまい。これは行ってみる価値がありますね」
と、奥方は単身、因幡山の猫屋敷へと足を運んだ。
そしてその晩、明かりがついている部屋の障子戸を開けてみると、大きな猫が殺意をみなぎらせて奥方を睨んでいた。
「まさか、旦那が可愛がってた、あの猫……」奥方はあまりの恐怖で腰が抜けてしまった。
「みずから猫屋敷にお出で下さるとは、飛んで火に入るなんとやら。今までよくも虐めてくれましたね。今夜こそ復讐するとき」と、猫は言うと、
電光石火の動きで奥方の喉笛に噛み付いた。
湖山池遊景のりなんせ〜屋形船 湖山池の島々
http://www5.hp-ez.com/hp/kasuminosato/page...
湖山池研究所
http://www.city.tottori.lg.jp/koyamaike/index.htm...
鳥取県鳥取市の北部には湖山池(こやまいけ)という汽水湖がある。汽水湖とは湖水に海水が混じっている湖のことを指す。
『池』とつく湖沼の中では日本最大規模の広さを誇るらしい。その湖山池には大小合わせて5つの島あり、なかでも『猫島』と呼ばれる小島には
猫にまつわる伝承、その名も『猫島異聞』が残されている。この話は猫好きなら思わず膝を叩いてしまうこと請け合い。
昔、伏野長者の家に1匹の猫が飼われていた。女中はその猫をいたく可愛がっていた。ところが長者の奥方は大の猫嫌い。
猫がそばに寄り付こうものなら蹴り飛ばしてしまうほど毛嫌いしていた。
ある日、奥方は女中にこう言った。「あなたはどうしてあの猫を可愛がるのです? 私がどれほど忌々しいと思っているか、わからないのですか?
亭主にも言って聞かせます。さっさとこの家から追い出してしまいなさい。一刻も早くです!」
そのことで胸を痛めた女中は陰で泣いていると、当の猫は察したものか、その日を境に姿を見せなくなった。
別の日、旅僧が家を訪ねてきた。女中がそれとなく猫の話をすると、「その猫なら因幡山で見かけた」と、思いもよらぬ返事。
女中は暇をもらい、奥方には内緒で、因幡山へ猫を探しに出かけることにした。
とはいえ山中は広く、そう簡単に猫は見つかるはずもない。じきに日が暮れてしまった。
泊まれる場所はないか方々を探していると、1軒の立派な屋敷を見つけた。女中はさっそく門を叩いた。
戸を開けて出てきたのは美しいけれど、どこか険のある顔立ちの娘。
「あなたも食い殺されにきたクチですか? ようこそ屋敷にお出で下さいました」娘は言うと、ニタリと笑い舌なめずりした。
女中は腰が抜けそうになった。どうやら尋常ならざるところに足を踏み入れてしまったらしい。
すると屋敷の奥から、「いけません! せっかく訪ねてきた人間を怯えさせるとは何事ですか!」という叱責の声が響いた。
奥から現われたのは上品な着物姿の老婆。「使いの者が失礼をしたようです。さぞかしお疲れでしょう。どうぞ中へお入りなさい」と、言った。
その晩、床についた女中が眼を醒ますと、隣の部屋からなにやらヒソヒソ話が聞こえてくる。
女中は壁に耳を押し付けた。「……猫嫌いなら人となりでわかる。あの女は猫を可愛がっていた娘じゃ。噛み付くことは許しませんよ」と、聞こえた。
逃げ出そうとしたとき、顔が猫で身体が人間の娘が部屋に入ってきた。その猫女はよく見れば、長者の家で大事にしていたあの猫ではないか。
女中はおまえに会いたかったんだと思いの丈をぶつけると、「よくぞ会いにきてくださいました。私も長年あなたをお慕いしておりました。
しかしあの家には戻ることはできません。私は二度と帰るまいと誓ったのです」
女中はどうにか説得しようとしたものの、猫の心は頑として変わらなかった。
あきらめた女中が帰る際、猫女は1枚の白い紙袋を渡した。「これは猫屋敷の呪いから身を守るためのものです。困ったらお振りなさい」
屋敷を出ようとしたとき、なるほど外はおびただしい数の猫で埋め尽くされている。猫女にもらった紙袋を振ると、猫たちは道を開けてくれた。
家に帰り、その白い紙袋を開けてみると、中には犬の絵が描かれており、なんと本物の小判10両を咥えていた。
これを見た奥方は感嘆の声をあげた。「女中ごとき身分のおまえで小判10両……。私なら100両はくだるまい。これは行ってみる価値がありますね」
と、奥方は単身、因幡山の猫屋敷へと足を運んだ。
そしてその晩、明かりがついている部屋の障子戸を開けてみると、大きな猫が殺意をみなぎらせて奥方を睨んでいた。
「まさか、旦那が可愛がってた、あの猫……」奥方はあまりの恐怖で腰が抜けてしまった。
「みずから猫屋敷にお出で下さるとは、飛んで火に入るなんとやら。今までよくも虐めてくれましたね。今夜こそ復讐するとき」と、猫は言うと、
電光石火の動きで奥方の喉笛に噛み付いた。
湖山池遊景のりなんせ〜屋形船 湖山池の島々
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人類創世異伝3 降神島(うるがみじま)
神が降臨する島と書いて降神島である。降神島とは沖縄本島北西部に広がる伊平屋伊是名諸島の無人島。
沖縄県島尻郡伊是名村に属する。伊是名島の東、仲田港から約1.2kmの東シナ海上に浮かぶ珊瑚礁が隆起した岩礁といった方が正確か。
島名のとおり天地開闢に際し、神々が初めに降り立った場所であることに由来するとされ、5か所もの御嶽(うたき)が存在する。
なかでもアカラ御嶽には日本神話の天の岩戸に酷似した伝承が残されており、いかに信仰の島なのかわかろう。
太古の昔、人類がまだ誕生していないころ、世界は暗黒に閉ざされていた。この降神島に天より神が降臨した。
そこからアラハ御獄に降りたので世界は明るくなった。
ところが神々の間でなんらかの問題が起こり、クマヤ洞窟に行き、そこで籠ってしまった。するとふたたび世界は元の闇に戻ってしまう。
やはり世界には灯火が必要だと、7人の神が諭して
神を洞窟より連れ出した。そういうわけでクマヤ洞窟から世が明けたという話である。
徳川時代の史学者、藤井貞幹は、神武天皇は琉球の恵平屋島(伊平屋列島)に誕生したと提唱し、国学者、本居宣長を憤慨させたという。
琉球沖縄を学びながら、いろいろ考えていきたいな〜 降神島
http://totoro820.ti-da.net/e3354738.htm...
神々のお嶽 | 伊是名村役場
http://vill.izena.okinawa.jp/izena/novel/story...
沖縄 伊是名島に石と龍を訪ねて ③アハラ御嶽
http://blogs.yahoo.co.jp/nao31n31n/14108289.htm...
神が降臨する島と書いて降神島である。降神島とは沖縄本島北西部に広がる伊平屋伊是名諸島の無人島。
沖縄県島尻郡伊是名村に属する。伊是名島の東、仲田港から約1.2kmの東シナ海上に浮かぶ珊瑚礁が隆起した岩礁といった方が正確か。
島名のとおり天地開闢に際し、神々が初めに降り立った場所であることに由来するとされ、5か所もの御嶽(うたき)が存在する。
なかでもアカラ御嶽には日本神話の天の岩戸に酷似した伝承が残されており、いかに信仰の島なのかわかろう。
太古の昔、人類がまだ誕生していないころ、世界は暗黒に閉ざされていた。この降神島に天より神が降臨した。
そこからアラハ御獄に降りたので世界は明るくなった。
ところが神々の間でなんらかの問題が起こり、クマヤ洞窟に行き、そこで籠ってしまった。するとふたたび世界は元の闇に戻ってしまう。
やはり世界には灯火が必要だと、7人の神が諭して
神を洞窟より連れ出した。そういうわけでクマヤ洞窟から世が明けたという話である。
徳川時代の史学者、藤井貞幹は、神武天皇は琉球の恵平屋島(伊平屋列島)に誕生したと提唱し、国学者、本居宣長を憤慨させたという。
琉球沖縄を学びながら、いろいろ考えていきたいな〜 降神島
http://totoro820.ti-da.net/e3354738.htm...
神々のお嶽 | 伊是名村役場
http://vill.izena.okinawa.jp/izena/novel/story...
沖縄 伊是名島に石と龍を訪ねて ③アハラ御嶽
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サバイバルの姫、男神を想うも報われず 枇榔島(びろうじま)
宮崎県東臼杵郡門川町に属する、日向灘に浮かぶ枇榔島という無人島がある。島名の由来はその名のとおり、
枇榔(ヤシ科)の木が繁茂していたことから冠せられた。この枇榔島には不思議な神通力をもった姫のサバイバル話が残されているのだが、
>>225の和歌山県串本町の橋杭岩に伝わる弘法大師伝説と共通点が見られ、発祥がなんなのか気になるところ。それがこんな話。
はるかな昔、天智天皇が皇女をつれて志布志市を訪れた。娘の名を乙姫といった。
この乙姫、泣く子も黙る男勝りのじゃじゃ馬で、周囲を振り回すことしばしばであった。
神通力をもって荒地を水田に作り代えるという善行もする一方、集落の真ん中に池を掘ったり、逆に必要な池を埋めてしまったり、
挙句の果ては小島を海に沈めてしまうなど、村人たちを困らせることも少なくなかった。
嘆願された天皇もついに堪忍袋の緒が切れ、乙姫を小舟に乗せると海へ押し流してしまった。
はるかな沖へ流されたさすがの姫も、涙こそ見せなかったが、陸が恋しくてたまらない。
前向きな姫は自身の『力』を使って、島をこしらえてしまえばよいと考えた。なんと1夜のうちに有明湾の真ん中に島を造ってしまう。
そしてこの島に女帝として君臨し、思うがまま生きて父の鼻を明かしてやろう。……これが枇榔島の誕生由来である。
朝になって有明湾の沖を眺めるなり、村人たちは眼を丸くした。「なんじゃ、あの島は? まさか晩のうちに浮かんできたのか?」
「きっと乙姫が造られた島に違いねえ。姫のことだからやりかねない。またトラブルを起こさなきゃいいが……」と、みんなは噂しあった。
枇榔島から志布志までは、たいした距離ではなかったので乙姫は孤独感に悩まされずに済んだ。
しかしいつまでも島に篭っていても飽きるだけ。やがて好きな男のことを思い出すと、頭から離れなくなった。
志布志の浜には権現山が聳えており、山には乙姫が恋してやまない男の神さまが住んでいたのだ。
やっぱり島から出て、男神に会いに行こう。なんとかできないものかと、海の神にお伺いを立てることにした。
海の神さまが現れてこう言った。「だったら一番鶏が鳴くまでに、海に権現山まで続く道を造ればよい。そなたならできるであろう。
見事完成したならば会わせてやろう」
俄然やる気が出た乙姫は腕まくりし、その賭けに乗った。よーいドンを合図に岩の道を造り始めた。権現山へ向かけて、岩の道が造られていく。
ところがあと少しというときになって、狡猾なアマノジャクに岩の道造りのことがバレてしまう。
アマノジャクは乙姫の邪魔をするように鶏に言いつけ、「コケコッコー」と鳴かせた。
あまりに早く鶏が鳴いたため、乙姫の道造りは途中で頓挫せざるをえなかった。海の神さまとの約束は守れなかった。
それ以降、姫の半生は島で1人寂しくすごすしかなかった。こうして姫の夢は絶たれた。
枇榔島神社は、この島で孤独の乙姫を祀るために村人たちが建てたものだそうだ。
大隅の昔話 枇榔島
http://www.b-post.com/oosumi/story/story_05.htm...
日本書紀の罠 渡辺豊和 第1章 美女を追う天皇
http://www5.ocn.ne.jp/‾toyokazu/jpn/nswana/nsw-01.html
宮崎県東臼杵郡門川町に属する、日向灘に浮かぶ枇榔島という無人島がある。島名の由来はその名のとおり、
枇榔(ヤシ科)の木が繁茂していたことから冠せられた。この枇榔島には不思議な神通力をもった姫のサバイバル話が残されているのだが、
>>225の和歌山県串本町の橋杭岩に伝わる弘法大師伝説と共通点が見られ、発祥がなんなのか気になるところ。それがこんな話。
はるかな昔、天智天皇が皇女をつれて志布志市を訪れた。娘の名を乙姫といった。
この乙姫、泣く子も黙る男勝りのじゃじゃ馬で、周囲を振り回すことしばしばであった。
神通力をもって荒地を水田に作り代えるという善行もする一方、集落の真ん中に池を掘ったり、逆に必要な池を埋めてしまったり、
挙句の果ては小島を海に沈めてしまうなど、村人たちを困らせることも少なくなかった。
嘆願された天皇もついに堪忍袋の緒が切れ、乙姫を小舟に乗せると海へ押し流してしまった。
はるかな沖へ流されたさすがの姫も、涙こそ見せなかったが、陸が恋しくてたまらない。
前向きな姫は自身の『力』を使って、島をこしらえてしまえばよいと考えた。なんと1夜のうちに有明湾の真ん中に島を造ってしまう。
そしてこの島に女帝として君臨し、思うがまま生きて父の鼻を明かしてやろう。……これが枇榔島の誕生由来である。
朝になって有明湾の沖を眺めるなり、村人たちは眼を丸くした。「なんじゃ、あの島は? まさか晩のうちに浮かんできたのか?」
「きっと乙姫が造られた島に違いねえ。姫のことだからやりかねない。またトラブルを起こさなきゃいいが……」と、みんなは噂しあった。
枇榔島から志布志までは、たいした距離ではなかったので乙姫は孤独感に悩まされずに済んだ。
しかしいつまでも島に篭っていても飽きるだけ。やがて好きな男のことを思い出すと、頭から離れなくなった。
志布志の浜には権現山が聳えており、山には乙姫が恋してやまない男の神さまが住んでいたのだ。
やっぱり島から出て、男神に会いに行こう。なんとかできないものかと、海の神にお伺いを立てることにした。
海の神さまが現れてこう言った。「だったら一番鶏が鳴くまでに、海に権現山まで続く道を造ればよい。そなたならできるであろう。
見事完成したならば会わせてやろう」
俄然やる気が出た乙姫は腕まくりし、その賭けに乗った。よーいドンを合図に岩の道を造り始めた。権現山へ向かけて、岩の道が造られていく。
ところがあと少しというときになって、狡猾なアマノジャクに岩の道造りのことがバレてしまう。
アマノジャクは乙姫の邪魔をするように鶏に言いつけ、「コケコッコー」と鳴かせた。
あまりに早く鶏が鳴いたため、乙姫の道造りは途中で頓挫せざるをえなかった。海の神さまとの約束は守れなかった。
それ以降、姫の半生は島で1人寂しくすごすしかなかった。こうして姫の夢は絶たれた。
枇榔島神社は、この島で孤独の乙姫を祀るために村人たちが建てたものだそうだ。
大隅の昔話 枇榔島
http://www.b-post.com/oosumi/story/story_05.htm...
日本書紀の罠 渡辺豊和 第1章 美女を追う天皇
http://www5.ocn.ne.jp/‾toyokazu/jpn/nswana/nsw-01.html
闇より生まれ闇に帰っていく神『マユンガナシ』 石垣島川平(かびら)
八重山諸島の石垣島にある川平地区には不思議な行事が今も続けられている。それが節祭(しつまつり)だ。
節祭は農業暦のうえで稲作における1年の終わりと翌年の始まりとなる収穫を終えた旧暦の9月に行われる。その際、マユンガナシなる神が登場するのだ。
これも男鹿半島のナマハゲや悪石島のボゼ、宮古島のパーントゥ同様のいわゆる仮面神で、村の者が神の役を演じている。
画像をご覧いただければわかるように、その恰好は手拭いで顔を隠してクバ笠をかぶり、蓑を着て長い棒を持った妖怪じみた姿だが、
れっきとしたありがたい神の具現である。ちなみに、マユンガナシの『マユ』とは『豊かな真の世』のことであり、『ガナシ』は敬称。
合体させると『真世の皆様』という意味だ。マユンガナシは海の彼方、ニライ・カナイからやってきたとされている。
ではマユンガナシの発祥はなんであろうか? それがこんなお話。
遠い昔の、ある年の大晦日の夜のことである。舟で遭難した旅人が助けを求めるようにして川平に訪れた。その旅人はまさにクバ笠をかぶり、全身蓑だらけ。
旅人は家々を廻って1晩の宿を頼むのだが、大晦日を控え正月の準備に忙しいので、それどころではないと断る家ばかりだった。
そんななか村の南端に住む、一番貧しかった南風野家(パイヌヤ)の老夫婦だけが快く受け入れ、客人としてもてなした。
実はこの旅人の正体は神であるマユンガナシの仮の姿だったのだ。神は南風野家にだけ祝福の言葉を残し、来年も訪れると約束して立ち去った。
これを機に南風野家は次々と幸福が舞い込み、やがて豊かな家となった。
村人たちは南風野家の繁栄の理由を知り、神に大変な失礼なことをしてしまったと反省し、自分たちの家にも神が来てくれるよう願った。
そこでその年の大晦日、神が南風野家を訪ねてきたとき、老夫婦は村人たちの家々にも行ってやってもらえないかと尋ねた。
すると神は、たっての望みとあれば、名代の人に神の言葉を唱えさせよとして、『祝福の言葉(カンフツ)』を伝授させる。
さらに神は、自分は戌年の生まれであるから、戌年生まれの者に私の役目をさせるがよいと告げた。以来、マユンガナシは神の名代である村人が扮し、
行われるようになった(※おかしなことに、>>234>>235でも書いた話とほぼ同義である。どうもこの手の逸話は全国にいくらでも転がっているようだ。
なぜ類似の民間伝承や伝説が拡散したのか、またの機会で検証したい)。
祭りに際し、村の若者、それも戌年生まれの者はマユンガナシに扮してから、『ムトゥ(本神)』と『トウム(供神)』の2者1組(このペアが複数存在する)は
マユンガナシの長である『フームトゥ』(大元)の家から出立し、空き地に集まり、そこから事前に練ったスケジュールに沿って各家に向かう。
訪問を受けた家の家主は2人組の神を座敷に招き入れ、酒を振る舞い、ご馳走を出してもてなす。
神は祝言『カンフツ』を唱え『五福』の言葉を授ける。五福とは富貴・繁栄・長寿・健康・豊作。マユンガナシの言葉『カンフツ』は不明瞭すぎて聞き取りがたい。
『カンフツ』は実に1時間前後にも及ぶ。対する家人はマユンガナシに礼の口上を述べ、最後にはお土産まで手渡して送り出す。
その間、マンガナシの返答はつねに「ンー!」だけである。
こういった一連の流れを、夜明け前の一番鶏が鳴き終わるまでに家々を廻り、おつとめを済ませたあとニライ・カナイへと去っていくという設定だ。
さらに祭りを終えて衣装を脱ぐとき、男たちは鶏の鳴き真似をする。これを『カムスディル』(神孵)という。あの世の神から、この世の人間に孵化することを
意味している。それと、この儀式だけは絶対に人に見せてはならない秘事とされている。ここにも見るなのタブーがつきまとうわけだ。
祭りはその晩だけで終わらず5日間続く。戊戌の日のマユンガナシの祭り(初日)に次いで、井戸での祈願(2日目)、芸能の表演、獅子舞などがある(3日目)。
4日目は以前は獅子舞を踊らせたが、現在は省いたらしい。5日目は『神(カン)ニガイ』で、この日、ニライ・カナイからきたマユンガナシの上位神と言われる大神
『ニランタフヤン』を送り返すという。……おそらく読んでて理解しかねると思うが、書いてる方もワケワカメである。
基本的に写真・ビデオは禁止の秘祭ながら、以下のサイトにはバッチリ記録が残されていたりして。
八重山諸島の石垣島にある川平地区には不思議な行事が今も続けられている。それが節祭(しつまつり)だ。
節祭は農業暦のうえで稲作における1年の終わりと翌年の始まりとなる収穫を終えた旧暦の9月に行われる。その際、マユンガナシなる神が登場するのだ。
これも男鹿半島のナマハゲや悪石島のボゼ、宮古島のパーントゥ同様のいわゆる仮面神で、村の者が神の役を演じている。
画像をご覧いただければわかるように、その恰好は手拭いで顔を隠してクバ笠をかぶり、蓑を着て長い棒を持った妖怪じみた姿だが、
れっきとしたありがたい神の具現である。ちなみに、マユンガナシの『マユ』とは『豊かな真の世』のことであり、『ガナシ』は敬称。
合体させると『真世の皆様』という意味だ。マユンガナシは海の彼方、ニライ・カナイからやってきたとされている。
ではマユンガナシの発祥はなんであろうか? それがこんなお話。
遠い昔の、ある年の大晦日の夜のことである。舟で遭難した旅人が助けを求めるようにして川平に訪れた。その旅人はまさにクバ笠をかぶり、全身蓑だらけ。
旅人は家々を廻って1晩の宿を頼むのだが、大晦日を控え正月の準備に忙しいので、それどころではないと断る家ばかりだった。
そんななか村の南端に住む、一番貧しかった南風野家(パイヌヤ)の老夫婦だけが快く受け入れ、客人としてもてなした。
実はこの旅人の正体は神であるマユンガナシの仮の姿だったのだ。神は南風野家にだけ祝福の言葉を残し、来年も訪れると約束して立ち去った。
これを機に南風野家は次々と幸福が舞い込み、やがて豊かな家となった。
村人たちは南風野家の繁栄の理由を知り、神に大変な失礼なことをしてしまったと反省し、自分たちの家にも神が来てくれるよう願った。
そこでその年の大晦日、神が南風野家を訪ねてきたとき、老夫婦は村人たちの家々にも行ってやってもらえないかと尋ねた。
すると神は、たっての望みとあれば、名代の人に神の言葉を唱えさせよとして、『祝福の言葉(カンフツ)』を伝授させる。
さらに神は、自分は戌年の生まれであるから、戌年生まれの者に私の役目をさせるがよいと告げた。以来、マユンガナシは神の名代である村人が扮し、
行われるようになった(※おかしなことに、>>234>>235でも書いた話とほぼ同義である。どうもこの手の逸話は全国にいくらでも転がっているようだ。
なぜ類似の民間伝承や伝説が拡散したのか、またの機会で検証したい)。
祭りに際し、村の若者、それも戌年生まれの者はマユンガナシに扮してから、『ムトゥ(本神)』と『トウム(供神)』の2者1組(このペアが複数存在する)は
マユンガナシの長である『フームトゥ』(大元)の家から出立し、空き地に集まり、そこから事前に練ったスケジュールに沿って各家に向かう。
訪問を受けた家の家主は2人組の神を座敷に招き入れ、酒を振る舞い、ご馳走を出してもてなす。
神は祝言『カンフツ』を唱え『五福』の言葉を授ける。五福とは富貴・繁栄・長寿・健康・豊作。マユンガナシの言葉『カンフツ』は不明瞭すぎて聞き取りがたい。
『カンフツ』は実に1時間前後にも及ぶ。対する家人はマユンガナシに礼の口上を述べ、最後にはお土産まで手渡して送り出す。
その間、マンガナシの返答はつねに「ンー!」だけである。
こういった一連の流れを、夜明け前の一番鶏が鳴き終わるまでに家々を廻り、おつとめを済ませたあとニライ・カナイへと去っていくという設定だ。
さらに祭りを終えて衣装を脱ぐとき、男たちは鶏の鳴き真似をする。これを『カムスディル』(神孵)という。あの世の神から、この世の人間に孵化することを
意味している。それと、この儀式だけは絶対に人に見せてはならない秘事とされている。ここにも見るなのタブーがつきまとうわけだ。
祭りはその晩だけで終わらず5日間続く。戊戌の日のマユンガナシの祭り(初日)に次いで、井戸での祈願(2日目)、芸能の表演、獅子舞などがある(3日目)。
4日目は以前は獅子舞を踊らせたが、現在は省いたらしい。5日目は『神(カン)ニガイ』で、この日、ニライ・カナイからきたマユンガナシの上位神と言われる大神
『ニランタフヤン』を送り返すという。……おそらく読んでて理解しかねると思うが、書いてる方もワケワカメである。
基本的に写真・ビデオは禁止の秘祭ながら、以下のサイトにはバッチリ記録が残されていたりして。
シンポジウム7特別編 「異界とのダイアローグ--実践としての写真」
http://www.mizu-tsuchi.jp/wp/wp-content/uploads/2013/03/...
民族学伝承ひろいあげ辞典 マユンガナシ、アカマタ・クロマタ 八重山諸島
http://blogs.yahoo.co.jp/kawakatu_1205/50647516.htm...
民族学伝承ひろいあげ辞典 奇祭4/マユンガナシ
http://blogs.yahoo.co.jp/kawakatu_1205/55762785.htm...
民族学伝承ひろいあげ辞典 世界のまれびと・仮面の精霊一覧 シロマタ
http://blogs.yahoo.co.jp/kawakatu_1205/54977298.html?vi...
マユンガナシの映像(1994年の記録)補遺
http://www.flet.keio.ac.jp/‾shnomura/mayun/mayunganashi.html
NPO法人 科学映像館 石垣島川平のマユンガナシ
http://www.kagakueizo.org/2009/04/post-97.htm...
沖縄格安 生活プレイガイド ヒューマンリレーション
http://www.playguide.org/festival/index.cgi?mode=list&c...
http://www.mizu-tsuchi.jp/wp/wp-content/uploads/2013/03/...
民族学伝承ひろいあげ辞典 マユンガナシ、アカマタ・クロマタ 八重山諸島
http://blogs.yahoo.co.jp/kawakatu_1205/50647516.htm...
民族学伝承ひろいあげ辞典 奇祭4/マユンガナシ
http://blogs.yahoo.co.jp/kawakatu_1205/55762785.htm...
民族学伝承ひろいあげ辞典 世界のまれびと・仮面の精霊一覧 シロマタ
http://blogs.yahoo.co.jp/kawakatu_1205/54977298.html?vi...
マユンガナシの映像(1994年の記録)補遺
http://www.flet.keio.ac.jp/‾shnomura/mayun/mayunganashi.html
NPO法人 科学映像館 石垣島川平のマユンガナシ
http://www.kagakueizo.org/2009/04/post-97.htm...
沖縄格安 生活プレイガイド ヒューマンリレーション
http://www.playguide.org/festival/index.cgi?mode=list&c...
その実、ペニスとは無縁 珍小島(ちんこじま)
北海道の洞爺湖に浮かぶ陸繋島(砂州によって陸続きになった島のこと。神奈川県藤沢市の江の島もこれにあたる)の島名は、
こっ恥ずかしい名で知られる。珍小島である。また、周辺を珍小島地区または珍小島周辺地区と呼ぶことがある。
名前の由来は、ズルむけペニス伝説があるわけではない。
湖の水量によって島までの砂州が出たり消えたりする陸繋島ならではのトンボロ現象から、『珍しい』+『小島』= 『珍小島』となったようだ。
珍小島(北海道虻田郡虻田町)
http://ankyo.rulez.jp/chinmei/chinkojima/chinko.htm...
隅っこ男子同好会 オー・チン・チン/ハニー・ナイツ
http://blog.goo.ne.jp/enyo_1975/e/dc04da650c8e845b01...
珍地名wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8F%8D%E5%9C%B0%E5%90%...
北海道の洞爺湖に浮かぶ陸繋島(砂州によって陸続きになった島のこと。神奈川県藤沢市の江の島もこれにあたる)の島名は、
こっ恥ずかしい名で知られる。珍小島である。また、周辺を珍小島地区または珍小島周辺地区と呼ぶことがある。
名前の由来は、ズルむけペニス伝説があるわけではない。
湖の水量によって島までの砂州が出たり消えたりする陸繋島ならではのトンボロ現象から、『珍しい』+『小島』= 『珍小島』となったようだ。
珍小島(北海道虻田郡虻田町)
http://ankyo.rulez.jp/chinmei/chinkojima/chinko.htm...
隅っこ男子同好会 オー・チン・チン/ハニー・ナイツ
http://blog.goo.ne.jp/enyo_1975/e/dc04da650c8e845b01...
珍地名wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8F%8D%E5%9C%B0%E5%90%...
触ればご利益があるかも? おっぱい岩
熊本の天草、苓北町には、これまた人体の部位にちなんだ奇岩がある。その名もおっぱい岩である。しっかりビーチクまでついている。
時として自然の力はしょーもない奇跡を起こす。
大昔、雲仙岳の噴火の際、飛んできた岩が、長い年月をかけて、海蝕作用という名の彫刻家によって形取られた変形岩だ。直径は約1.5m。
じかに触れば『乳房が大きくなる』とか『母乳がたくさん出るようになる』などのご利益もあることから女性が訪れることで、地味に有名らしい。
干潮時にしか姿を現さないので、見学したければ前もって潮汐の時間帯確認が必須。
おっぱい岩(熊本県天草郡苓北町)
http://ankyo.rulez.jp/chinmei/oppaiiwa/oppaiiwa.htm...
ダル杏 おっぱい岩と通詞島 [天草]
http://dal-anz.blog.so-net.ne.jp/2009-05-0...
熊本の天草、苓北町には、これまた人体の部位にちなんだ奇岩がある。その名もおっぱい岩である。しっかりビーチクまでついている。
時として自然の力はしょーもない奇跡を起こす。
大昔、雲仙岳の噴火の際、飛んできた岩が、長い年月をかけて、海蝕作用という名の彫刻家によって形取られた変形岩だ。直径は約1.5m。
じかに触れば『乳房が大きくなる』とか『母乳がたくさん出るようになる』などのご利益もあることから女性が訪れることで、地味に有名らしい。
干潮時にしか姿を現さないので、見学したければ前もって潮汐の時間帯確認が必須。
おっぱい岩(熊本県天草郡苓北町)
http://ankyo.rulez.jp/chinmei/oppaiiwa/oppaiiwa.htm...
ダル杏 おっぱい岩と通詞島 [天草]
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「一生餅を絶ちますから。どうかお助け〜!」 陰田『花魁(おいらん)島』
宮城県塩竈市浦戸には浦戸諸島あり、そのなかに野々島という有人島がある。
その野々島の東の端には、『陰田』(もしくは掛田と表記する場合もある)なる無人島があり、別名『花魁島』とも呼ばれている。
島には『野々島のかげ田と一升餅』という民話が今も語り継がれている。
昔、村の若者たちが集まって、みんなで他愛もない話をしていた。そのうち1人のお調子者が花魁島を指差し、こう言った。
「あの島のてっぺんに大木があり、枝にはミサゴ(鷹の一種)の巣が組まれてるそうなんだ。その巣には雛っ子がいるはず。
その雛を生け捕りにした者は、みんなで銭出し合って田んぼ1反与えるってことにしねえか?」
「賭けか? そいつは面白え。乗ってやら」
「上等じゃねえか。田んぼ1反、必ずだからな!」
……とは言ったものの、若者たちはいざ島の真下までとり着き、上を見あげるなり言葉を失った。
島の周囲は垂直の岩壁で、真下はゴツゴツした岩場があり、いつも波が砕けているような恐ろしい場所。
万一、壁をよじ登っているときに足を滑らせたなら命の保証はない。おたがいの顔を見合わせた。
「誰がいの1番に挑戦するんだ?」
「おまえこそ行けよ!」
「いやいや、言いだしっぺのおまえが!」
そのとき、1人の若者が言った。「おれが行くぞ」そして頭に鍋をかぶり、腰に荒縄を巻いて絶壁をよじ登り始めた。
若者はどうにか島の頂上にたどり着き、次に問題の松の大木に挑んだ。腰に巻いた縄のもう片方の端を枝にかけ、1枝1枝慎重に登っていき、
ついに手を伸ばせばミサゴの巣に届くところまで来た。案の定、生後間もない雛がピイピイ鳴いていた。
雛に触れようとしたとき、突如どこからともなく、親鳥が数十羽の仲間を従えて襲いかかってきた。
若者はあまりの恐ろしさに雛を取るどころの騒ぎではない。雛をあきらめ、木から降りようとするも、手足が痺れて進退窮まる。
顔色が失せた若者は一心に神に祈った。
「南無三宝……八百万の神さま、どうか無事におろさせてください。無事おりることができたなら、一生餅を絶ちますから。どうかお助け〜!」と、
願掛けしながらちょっとずつ木をおり、絶壁にしがみつきながらやっとのことで真下まで戻り、生還することができた。
若者はその後、『一升餅』は口にしなかったものの、『二升餅』を食べたということだ(『一生』ではなく『一升』餅を食べないというオチ)。
こんな騒動以来、この無人島を田んぼを賭けたことから『かけ田』と呼ぶようなり、それが訛って『陰田』になったという。
……それにしても、なぜ『餅』なのか? 餅を食べることを禁忌とする風習は各地に転がっており、謎が深まるばかり。
民話万象 第百七十五話 野々島のかげ田と一升餅
http://melma.com/backnumber_54358_3112791...
宮城県塩竈市浦戸には浦戸諸島あり、そのなかに野々島という有人島がある。
その野々島の東の端には、『陰田』(もしくは掛田と表記する場合もある)なる無人島があり、別名『花魁島』とも呼ばれている。
島には『野々島のかげ田と一升餅』という民話が今も語り継がれている。
昔、村の若者たちが集まって、みんなで他愛もない話をしていた。そのうち1人のお調子者が花魁島を指差し、こう言った。
「あの島のてっぺんに大木があり、枝にはミサゴ(鷹の一種)の巣が組まれてるそうなんだ。その巣には雛っ子がいるはず。
その雛を生け捕りにした者は、みんなで銭出し合って田んぼ1反与えるってことにしねえか?」
「賭けか? そいつは面白え。乗ってやら」
「上等じゃねえか。田んぼ1反、必ずだからな!」
……とは言ったものの、若者たちはいざ島の真下までとり着き、上を見あげるなり言葉を失った。
島の周囲は垂直の岩壁で、真下はゴツゴツした岩場があり、いつも波が砕けているような恐ろしい場所。
万一、壁をよじ登っているときに足を滑らせたなら命の保証はない。おたがいの顔を見合わせた。
「誰がいの1番に挑戦するんだ?」
「おまえこそ行けよ!」
「いやいや、言いだしっぺのおまえが!」
そのとき、1人の若者が言った。「おれが行くぞ」そして頭に鍋をかぶり、腰に荒縄を巻いて絶壁をよじ登り始めた。
若者はどうにか島の頂上にたどり着き、次に問題の松の大木に挑んだ。腰に巻いた縄のもう片方の端を枝にかけ、1枝1枝慎重に登っていき、
ついに手を伸ばせばミサゴの巣に届くところまで来た。案の定、生後間もない雛がピイピイ鳴いていた。
雛に触れようとしたとき、突如どこからともなく、親鳥が数十羽の仲間を従えて襲いかかってきた。
若者はあまりの恐ろしさに雛を取るどころの騒ぎではない。雛をあきらめ、木から降りようとするも、手足が痺れて進退窮まる。
顔色が失せた若者は一心に神に祈った。
「南無三宝……八百万の神さま、どうか無事におろさせてください。無事おりることができたなら、一生餅を絶ちますから。どうかお助け〜!」と、
願掛けしながらちょっとずつ木をおり、絶壁にしがみつきながらやっとのことで真下まで戻り、生還することができた。
若者はその後、『一升餅』は口にしなかったものの、『二升餅』を食べたということだ(『一生』ではなく『一升』餅を食べないというオチ)。
こんな騒動以来、この無人島を田んぼを賭けたことから『かけ田』と呼ぶようなり、それが訛って『陰田』になったという。
……それにしても、なぜ『餅』なのか? 餅を食べることを禁忌とする風習は各地に転がっており、謎が深まるばかり。
民話万象 第百七十五話 野々島のかげ田と一升餅
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