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続・怖い島・いわくつきの村


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001 2013/10/13(日) 18:57:55 ID:/PiSTRs3Ps
全国に散らばる、おっかない伝承伝説が伝わる離島専用スレッド第2弾です(若干ながら村ネタもあり)。
もちろん島の奇祭や神秘の風習、島のみならずワケあり岩礁や奇岩なども含み、いかがわしいオカルトにとどまらず、
れっきとした民俗学としての側面を持ち合わせています。島ネタに関して異常に特化したソレを目指すつもりです。

……前スレが500レスに達する前に続編を立てた理由は、サイズが500KBを超過してしまい書き込めなくなったためです。
せっかく満杯になるまで文字で埋め尽くし、有終の美を飾ろうとしたのにカウンターストップとは……。いささか文章がボリューミーすぎたかも。
まあ、めげずにご要望に応え、続・怖い島と行きましょう。

ちなみに……スレ自体を保存し、あとで読む方法をお教えします。
書き込みできなくなったスレは後ろへ流れてしまい、新スレが立ち上がるたび、古いものから消えてしまいます。
そうなる前に貴重なスレは永久保存しておきましょう。前スレはネット世界は広しといえど、近年類を見ない極上の資料スレですぞ。
以下は、その手順。

任意のスレ内の適当な空白で右クリック→プロパティ→アドレスをコピー→画面上部のアドレス直接入力枠にペースト→そのアドレスへ飛ぶ→
このスレが表示される→ファイル→名前を付けて保存。

※スレ画は前スレ>>188で紹介した、愛知県蒲郡市、三河大島にある仏島(島というより岩礁だが)。


癒されたい僕のブログ カヤック編 三河大島へ
http://blog.livedoor.jp/usa_usao5/archives/1697874.htm...

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※省略されてます すべて表示...
102 2014/06/14(土) 14:47:13 ID:9u2W9oArUE
     南方熊楠による海難法師考察 伊豆七島 1

前スレ>>427>>428では和歌山県田辺市の神島にゆかりある人物として南方熊楠の名前を出したが、この方はそれだけにとどまらず、
マルチな才能ぶりと恐るべき知識量には舌を巻かずにはいられないのだ。
実はその南方熊楠も、伊豆七島に伝わる『海難法師』(前スレ>>396>>398を参照)に関する論文の記述を遺していた。昭和26(1951)年発表、
題は『十二支考 蛇に関する民俗と伝説』でのほんの一文であるが、さすが我らが南方熊楠、ネットのない時代によくぞ知悉していたと
尊敬の念を抱かせるに充分である。以下、抜粋してみよう。アンカー部分が引用文。


>『郷土研究』四巻二九六頁、尾佐竹猛氏、伊豆新島の話に、正月二十四日は、大島の泉津村利島神津島とともに日忌で、
>この日海難(またカンナンボウシ)が来るといい、夜は門戸を閉じ、柊またトベラの枝を入口に挿し、その上に笊(ざる)を被せ、
>一切外を覗かず物音せず、外の見えぬようにして夜明けを待つ。
>島の伝説に、昔泉津の代官暴戻(ぼうれい)なりし故、村民これを殺し、利島に逃れしも上陸を許されず。
>神津島に上ったので、その代官の亡霊が襲い来るというのだが、どうも要領を得ぬとある。
(中略)
>1903、4年の間、グリーンランドのエスキモ人の中に棲んだ、デンマルク人ラスムッセンの『極北の人民ゼ・ピープル・オヴ・ゼ・ポラー・ノース』を読むに、
>輓近(ばんきん)エスキモ人がキリスト教に化する事多きより、一代前の事は全く虚誕のごとく聞えるが、遺老に就いて種々調べると、
>欧人が聞いて無残極まり、世にあり得べからずと思われる事や、奇怪千万な行いなどは、彼らに取ってはありふれた事で、
>欧人が聞くに堪えぬと惟(おも)う話のその聞くに堪えぬところが、彼らのもっとも面白がるところである。
>したがって欧人が何とも要領を得ず、拙作極まる小説としか受け取れぬ諸誕は、ことごとく実在した事歴を述べたものだと論じ居る。
>新島の伝説もこの通りで、代官暗殺云々は全く事実であろう。

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103 2014/06/14(土) 14:49:33 ID:9u2W9oArUE
     南方熊楠による海難法師考察 伊豆七島 2

>代官の幽公が来るのを懼れて、戸を閉じ夜を守ったも事実であろう。柊は刺で、トベラは臭気で悪霊を禦ぐは分りやすいが、笊を何故用いるか。
>種彦の『用捨箱(ようしゃばこ)』巻上に、ある島国にていと暗き夜、鬼の遊行するとて戸外へ出でざる事あり。
>その夜去りがたき用あらば、目籠を持ちて出るなり、さすれば禍なしと、かの島人の話なりといえるは、やはり新島辺の事で、
>昔は戸口にも笊を掛け、外出にも持ち歩いたであろう。
>種彦は、江戸で二月八日御事始おことはじめに笊を門口に懸けた旧俗を釈(と)くとて、昔より目籠は鬼の怖るるといい習わせり、
>これは目籠の底の角々は☆如此かく晴明九字(あるいは曰く晴明の判)という物なればなり。
>原来の俗説、ただ古老の伝を記すと言ったが、その俗説こそ大いに研究に用立つなれ。
>すなわちこの星状多角形の辺線は、幾度見廻しても止まるところなきもの故、悪鬼来りて家や人に邪視を加えんとする時、
>まずこの形に見取れ居る内、邪視が利かなくなるの上、この晴明の判がなくとも、すべて籠細工の竹条は、此処ここに没して彼処かしこに出で、
>交互起伏して首尾容易に見極めにくいから、鬼がそれを念入れて数える間に、邪視力を失うので、イタリア人が、無数の星点ある石や沙や穀粒を、
>袋に盛って邪視する者に示し、彼これを算(かぞ)え尽くすの後にあらざれば、その力利かずと信ずると同義である。
>節分の夜、豆撒くなども、鬼が無数の豆を数え拾う内に、邪力衰うべき用意であろう。

>かつて強盗多かった村人に聞いたは、強盗盛んな年は、家に小銭を多く貯え置く、泥的御来臨のみぎり、二、三問答の上、しからばやむをえない、
>貴公らに金を仮りたとあっては相済まぬ、少々ながら有金すっかり進呈しよう、大臣にでもなったら返しくだされ、その節は、子供を引き立てくだされなど、
>いい加減に述べて、引き出しを抽いて、たちまち彼奴の眼前へ打ち覆かえすと、無数の小銭が八方へ転がり走る。
>泥公一心これを手早く掻き込むに取り忙ぎ、銭の多寡を論じたり、凶器を弄ぶに暇なく、集めおわりてヘイさようならで慌あわて去るものだ。
>強盗に逢ったら僕の名を言いたまえ、毎度逢って善い顧客だから麁略(そりゃく)にすまい、貴下のような文なしには、
>少々置いて行くかも知れぬと教えくれたが、まだ一度も逢わぬから、折角の妙案も実試せぬ。
>全体予の事を、人々が女に眉毛を読まれやすいと言うを、いかにも眉毛が鮮かなと讃めてくれると思うたが、拙妻聞いて更に懌ばぬから、奇妙と惟いいた。
>ところが『郷土研究』四の四三三頁に、林魁一君が、美濃の俗伝を報じた内に、眉毛に唾を塗ると毛が付き合うて、狐その数を読む能わず、
>したがって魅ばかす事がならぬとあるを読んで大いに解り、〈人書を読まざればそれなお夜行のごとし〉と嘆じた。
>マアこんな訳故、新島の一条も、もと目籠を以て邪視を避くる風が、エジプト、インド、東京、イタリア等同様、日本にもありしが、
>新島ごとき辺土に永く留まった。

>そこへ代官暗殺されその幽霊の来襲を惧るる事甚だしくなりて、今更盛んに目籠を以てこれを禦ぎしより、ついに専ら代官殺しが、
>日忌の夜笊を出す唯一つの起りのよう、訛伝(かでん)したのであろう。


十二支考 蛇に関する民俗と伝説 南方熊楠
http://www.aozora.gr.jp/cards/000093/files/2536_20184....
※なお、南方熊楠の他の論文を閲覧したくばここで取得されたし。
青空文庫 南方熊楠
http://www.aozora.gr.jp/index_pages/person93.html#saku...

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104 2014/06/14(土) 15:01:32 ID:1qv/H9M08Q
     江戸時代では禁則地、それ以前は死者の埋葬地だった島? 青島 1

宮崎市の日南海岸のすぐ目の前には、美しい海岸と200mもの長さの弥生橋がかかり、その先の平べったい青島が見える。
橋を渡れば、その景観に感嘆せずにはいられない。島の周囲には『鬼の洗濯板』と称される奇岩風景が広がっているのだ。
これは約1000万年から800万年前の地層(硬さの違う砂岩と泥岩)が、侵食によって規則正しい凹凸で形成されたことから名付けられたもの。
干潮時には沖合100mにも達し、他の島とは一線を画する趣を醸している。
島の周囲はわずか860m、鬼の洗濯板部分を含めても1.5kmほど。最高6m程度の平坦な島ながら、鬱蒼と生い茂った亜熱帯植物の森が広がり、
植物の種類も220種を超え、原始の森がほぼ手付かずの状態を保っている。
というのも手付かずであったには理由がある。この島は江戸時代中期までは禁則地とされ、一般人が足を踏み入れてはならない聖域だったからだ。

弥生橋を渡り青島に降り立つと、御影石の灯籠が参道の両脇に立っている。100mばかり突っ切ると、大鳥居が迎えてくれ、
それをくぐると左方に朱色の鮮やかな青島神社が見えてくる。いかにも南国っぽいビロウやソテツの密林に囲まれる形で鎮座する、
神道の社殿というミスマッチ感がたまらない。
青島神社の祭神は『天津彦火火出見命(あまつひこほほでみのみこと)』『豊玉姫命(とよたまひめのみこと)』『塩筒大神(しおつつのおおかみ)』の3神が
祀られており、縁結び・安産・航海・交通安全のご利益があると信じられ、昔から多くの参詣者を集めてきた。

その天津彦火火出見命であるが、記紀神話のエピソードの1つ、『海幸彦・山幸彦』の山幸彦で知られている。あらましはこうだ。
その昔、海で漁をして暮らす兄の海幸彦と、山で獣を狩って生活する山幸彦の兄弟がいた。
あるとき生活に飽きた山幸彦は、「いちど、お互いの道具を取り替えてみよう」と提案。しかし得意分野から外れたことをすべきではない。
まったく魚はかからず、むしろ兄に借りた釣り針を海でなくしてしまう。
釣り針を失ったことを兄に告げれば、大目玉を食うのは必至。途方に暮れ、海辺でオイオイ泣いていると、そこに塩筒大神のじい様がやってきて、
「そんなあなたのために、私めが力を貸してさしあげましょう」と、言った。
じい様は竹で編んだ小舟を作り、それに山幸彦を乗せてワダツミの棲む海中の神殿へと導いた。
神殿に着くと、ワダツミの娘である豊玉姫が出てきて、たちまち彼女にひと目惚れ。ワダツミも山幸彦の人柄を気に入り、豊玉姫と結婚させた。
山幸彦はご馳走を食べ、優雅な踊りで歓待されるがままに3年の間、ワダツミの国で人生の春を謳歌する。

そしてフト我に返る。そろそろ地上へ帰りたくなった。豊玉姫は止めたが、山幸彦の気持ちは変わらない。
「それはそうと、海でなくした釣り針を捜しにきたんだが、どこにあるか知らないか?」と、本来の目的を思い出し聞いてみた。
豊玉姫を介し、ワダツミの耳に届くと、ワダツミは海にいるすべての魚を呼び集め、釣り針を捜させた。
するとタイの喉に引っかかっていたことが明らかになり、これを抜いてを返した。
その際、ワダツミは釣り針の他に、『潮満珠(しおみつたま)』『潮干珠(しおひのたま)』の、2つの不思議な珠を与え、帰らせることにした。

フカ(サメ)の背中にまたがった山幸彦は、地上に送り届けてもらう。
陸に戻った山幸彦は、釣り針を兄に返すも、その後、しだいに貧しくなった海幸彦は、トントン拍子に暮らしが豊かになる弟を羨み、
ついに亡き者にしてやろうと殺しにくる。山幸彦はここぞとばかりに潮満珠を掲げると、その霊力でたちまち潮が満ちてきて、兄を溺れさせた。
観念した海幸彦は弟に一生忠誠を誓うと言って詫びた。ちなみに海幸彦は隼人族の祖であるという。
その山幸彦が地上に戻って暮らしたとされる場所こそ、現在の青島神社だというのだ。

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105 2014/06/14(土) 15:10:36 ID:9u2W9oArUE
     江戸時代では禁則地、それ以前は死者の埋葬地だった島? 青島 2

言うまでもなく、亀に乗り竜宮城に行った浦島太郎のルーツは、この話が元になったのは明白。
さて、その青島であるが、古来、全島が霊地として神聖視され、藩の島奉行と神職だけが常に入島し、
一般人は旧暦3月16日の『島開きの祭』から、同月末日の『島どめの祭』まで入島を許されていたが、元文2(1737)年、
当時の宮司・長友肥後が一般の参拝者がいつでも島に渡れるよう藩主に申し出た甲斐あって、以後入島が自由になった。
ところで民俗学者、折口信夫はこう言及している。
「海の彼方あるいは海底にニライカナイという異郷の浄土があって、そこからマレビトが現れ、現世の地上の人々を訪れるという信仰が琉球諸島にある。」
と同時に、浦島太郎がたどり着いた竜宮のことをソレとするならば、竜宮は時間さえも超越した世界であり、『死後の世界』とも解釈できるという。
同じく民俗学者の谷川健一が発表した『列島縦断地名逍遥』によると、こんな興味深い記述がある。ちょっと長いが抜粋してみよう。
アンカー部分を引用文とする。

 >青海(あおみ)……渚の埋葬地

>沖縄には死者を葬る青(おう)の島という地先の小島がある。私が『青』は死者と由縁の色ではないかと考え、日本本土でも『青』のつく海岸地名に関心を抱いた。
>それを探して対馬の『青海』を訪ねたことがある。青海は木坂のとなりの集落で、埋葬地は水平線を一望に眺める海ぎわにあった。
>そこは埋め墓で、波に引かれて海の沖に流されてしまうこともしばしばであった。
>詣り墓は寺(慈眼寺)の裏山にあり、埋め墓に参るのは77日の忌までであった。以後埋め墓には、当分の間の記憶としてかんたんな墓標が立てられたが、
>いつか忘れられるのが常であった。供養は拝み墓で行い、渚の埋め墓は捨て墓であった。

>山1つ越した木坂には産小屋があった。その産小屋は人家から離れた川の向こうに作った。そして死者は保利(ほり)の山に葬った。
>保利は葬り(ほふり)である。そこはもと埋め墓であった。
>青海や木坂で聞いたところでは、他部落へ行くことを、それがとなり部落であっても「世の中へ行く」とか「旅に行く」という言い方をする。
>部落をひとたび出ると、そこはもはや他郷であり、他界であった。
>対馬ではかつては、結婚も部落の中だけで行われたという。部落は宇宙であった。
>青海や木坂に、死と生をむき出しにする埋め墓や産小屋があるのも至極当然な風景であった。

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106 2014/06/14(土) 15:16:22 ID:9u2W9oArUE
     江戸時代では禁則地、それ以前は死者の埋葬地だった島? 青島 3

 >青(おう)の島……死者を葬った地先の小島

>田畑英勝(※奄美大島出身の民俗学者)は『奄美の民俗』の中で、名瀬の年寄りたちは、空間的もしくは時間的な距離とか間隔、
>つまり『間』の意味にアヲという言葉を使っていると述べている。たとえば、「アヲヌ トウーサン(距離が遠い)」とか、
>「マダ アヲヌ アッカサ(まだ時間的な間があるではないか)」とか、「アヲヌ チキャサ(距離が近い)」とか、
>「ナリ アヲヌ イティ シレイ(もう少し間をおいてやれ)」などという言い方をする。
>これはもともとどうした観念に基づいているのか私にはつかめないが、こうしたアヲという語の使い方には、何か極めて古い語感がこめられているように思われる。
>青は地名にも使われる。奄美大島では瀬戸内町の嘉徳や住用村の市にそれぞれ青久という地名がある。また『青の花』とか『青ン原ケ』という地名が喜界島にある。

>こうした青という土地の名は、『あやまる』という地名の『あや』と同じように、何かはっきりしないとか、漠然としたとか、はるかな、
>という意味がこめられているのではないか、と田畑は言う。田畑の念頭にはおそらく、『青』という色のもつ漠然さがあるのであろう。
>古代には色は、赤、白、黒、青の4色しかなかった。これは日本全土でも沖縄でも同じである。
>その中で、青色の領域がもっとも広く、緑色も黄色も青色中に含まれていた。したがって青というと、それらの漠然とした感じを伝える色と思われてきたのである。
>これが仲松弥秀(※民俗学者・沖縄における村落研究の第一人者)の『青の世界』の仮説ともつながっていく。
>仲松は沖縄本島およびその属島に奥武という名のつく小島が7つほどあることに注目した。久米島に奥武島があり、慶良間島にもある。
>また沖縄本島の南部に奥武島(おうじま)があり、北中城に奥武岬、那覇市に奥武山公園がある。これらの岬や公園ももとは小島であったにちがいない。

>奥武島は『琉球国由来紀』や『琉球国旧紀』にアフ、アウ、アホと表記されていて、漢字では一部、阿鳥、阿符の字が宛てられているが、
>青という字を宛てる場合がもっとも多い。そこで奥武の島は、もとは青の島ではないか、という考えが成り立つ。
>仲松が調べてみると奥武島は昔、死体を運んで葬った島であった。沖縄では本土とはちがって洞窟墓の中に死体を運んで風葬にする。
>洞窟墓には外部からぼんやりとした黄色な光が入り込んで、死体を照らし出す。このぼんやりとした黄色い光を、南島の古代人は『青』と呼んだと仲松は考えた。
>つまり青の島は死者の島でもあったのだ。

>南島の基層文化が日本列島に渡来したとき、南島の葬制も当然日本に伝わったと思われる。
>もしそうだとするならば南方の人たちが黒潮に乗って渡来した日本本土の海辺部に埋葬の場所として、青という地名が見つかるのではないかと私は考えた。
>たとえば日向の青島がそうである。青島が埋葬地であったという証拠はないが、青島の対岸には青島古墳群がある。
>対馬には青海という海村がある。私もそこを訪れたことがある。波打ち際に今は石の墓碑も立っている。もとはそこは死体を捨てるところで、
>すぐ近くの寺の境内に『詣り墓』が集中していた。
>志摩の的矢湾の奥にそびえる青の峯は、全国の漁師の尊崇を集めるところであるが、そこは南方とのつながりの濃厚に見られるところであった。
>美濃の青墓は美濃で前方後円墳の集中するところである。このようにして、本土に見られる青を冠した地名も、そこが墓地と関係の深いことに気づくのである。
>ただそれが、沖縄の『青の島』の青と、どのように具体的に関連をもつかは今もってはっきりとつかめない。

……以上のことから、『おう(Ou)』という言葉は、古代において死者の埋葬場所を示した。とすればこの宮崎県の青島も例外ではあるまい。
かつては一般人の立ち入りを禁じたほどだから、よほどの権力をもった人間が埋葬されていたのかも……。

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107 2014/06/14(土) 16:08:15 ID:vFg/LgylVI
     江戸時代では禁則地、それ以前は死者の埋葬地だった島? 青島 4


山幸彦と海幸彦wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E5%B9%B8%E5%BD%...
青島神社
http://www9.ocn.ne.jp/‾aosima/
[PDF]青島ご由来
http://www9.ocn.ne.jp/‾aosima/yuisyo.pdf
玄松子の記憶 青島神社
http://www.genbu.net/data/hyuga/aosima_title.ht...
目からウロコの地名由来 「青」の地名
http://baba72885.exblog.jp/872503...
隆慶一郎わーるど 隆慶一郎公式サイト 歴史のこぼれ話(一)死者にちなむ地名
http://yoshiok26.p1.bindsite.jp/bekkan/koborebanashi...
犬の鼻先におなら 金井典美著『湿原祭祀』を読んだ(その2)
http://plaza.rakuten.co.jp/inunohanasaki/diary/2010101000...

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108 2014/06/22(日) 13:18:44 ID:vVsr/8KmDk
     置き去り伝説と船幽霊のブレンド 小市島(おいちじま)

愛媛県松山市の防予諸島の一部、忽那諸島に属する瀬戸内海に、小市島というお椀を伏せたような小島がある。
島の東側には小市島灯台が佇む無人島である。
『おいち』という島名とはずいぶん女性的だ。探ればやはり『小市』という娘が島に置き去りにされて死んだ話が伝えられていることから、
こう冠されたのだという。それがこんなお話。

帆掛船がたくさんの荷を積んで瀬戸内海を往来していた時代のこと。芳造というある船乗りがいた。
芳造は風待ちした港にて、実家に帰れば妻子がいるにもかかわらず、地元の娘、小市にちょっかいを出す。
小市もおぼこ娘だったのか、そんな芳造を相手に恋にのぼせてしまう。
男も話の流れで、「嫁にしちゃるから、おれの故郷へ行って祝言をあげような」と、言ってしまったが後の祭り。
小市を乗せて船が出発してしまった。まさか本当につれて帰るわけにはいかない。いっそのこと、無人島に置き去りにしてしまおうと考えついた。
「船乗りなのにだらしない話だが、いささか酔っちまった。あの島につけるから一緒に小休止といこう」と、芳造は言い、小市をつれて島に上陸した。
小市は、芳造との婚約を前に胸躍らせながら横になり、わずかの間まどろんだ。
はっと気づくと、いとしの芳造はおろか、船が見当たらない。声を限りに叫べども、瀬戸内の海は狭いように見えて助けは望むべくもない。
食べ物すらなく水も沸かない島だったので、小市はしだいに衰弱していき、だました芳造を恨み、己が運命を呪ってしだいに狂気に捉われ、ついには悶死した。

それ以来、島の近くを船が通りかかると、恨めしそうな女の声で、「水を……水をください……」と訴え、船のあとを追ってくる『船幽霊』が出没するようになった。
船乗りが恐慌をきたし柄杓で水を汲み、それごと渡せば、女はニタリと笑った。柄杓を取り上げ、相手の船に海水を注ぎ、船が沈没するまでやめなかった。
そんな女幽霊が出たら、決まって船乗りたちは底を抜いた柄杓を渡してやりすごしていたが、いつしか誰かがこの島に祠を建て、小市の霊を慰めた。
以降、『船幽霊』は出なくなり、誰が言うことなくこの無人島を小市島と呼ぶようになった。

……前スレから愛読してくれている方なら、既視感を憶えたに違いない。
前スレ>>355の京の上臈島の置き去り伝説に酷似していながら、船幽霊の話と一緒くたになってしまっているのだから。
これもなんらかの形で話が伝播したにすぎないのだろう。もっとも、京の上臈島の伝説でさえ最初の発生源なのかどうかも疑わしいのだが。


伊予歴史文化探訪 よもだ堂日記 松山沖の無人島(10)「小市島」
http://yomodado.blog46.fc2.com/blog-entry-1238.htm...
松山の伝説 一覧
http://home.e-catv.ne.jp/naka/mukasi-hanasi/densetu/1-i...

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109 2014/06/22(日) 13:25:55 ID:vVsr/8KmDk
     なぜ特定の島では犬を飼ってはいけないのか? 続き1

以前から気になっていて、>>78では『なぜ特定の島では犬を飼ってはいけないのか?』と独自に考察してみた。その続きに触れたい。
>>28で長崎県松浦市の『青島』を取り上げたのは記憶に新しい。この島も犬を飼うのがタブーであった。
>>104>>107で言及したように、古来より『青島』と冠する島は死者の埋葬地として機能していたというのが通説のようだ。
だとすれば遺体を掘り返される恐れから、犬を飼うのは忌み嫌われたというのもこれで合点がいく。
同じようにこの題目に言及した論文を見つけた。それが野地恒有氏という民俗学者が発表した『移住開拓島の民俗学ノート(一)』である。
僕とは異なる発想だが、うなずける部分もある。その部分を引用してみよう。アンカー部分がソレ。


>犬をつれて行くことを禁忌とする島がある。柳田国男はその本源的な理由として、猫の敵だとする以前にその島が葬地だったからと推測した(猫の島)。
>私は犬をつれていくというのは移住と土地占有を示す行為であったため、特別なとき以外には島に犬をつれて行ってはいけなかったのだろうと推測する。
>柳田国男の『猫の島』という一編を見てみよう。犬をつれて渡ると祟りがあるという島がみられる。
>猫のもつ神秘性ゆえに、猫の敵となる犬を忌むと説明されているが、猫の神秘性を持ち出す以前に犬を忌む戒めがあった。
>かつて島を葬地とした慣習があり、犬が葬地と人里を行き来するため、死の穢れに触れる犬を島に入れるのを忌み嫌ったのだろうと柳田は解釈している。

>たとえば宮崎県石巻市の田代島では、「犬を牽いて渡ってはならぬという戒めが前にあって、その理由がやや不明になってのちに、犬を敵とするものが島に入る、
>それは猫だという説が起こり、その猫には違反を罰するだけの、恐るべき威力があるように考えた」。
>しかし、田代島を猫の島とする以前には、島を葬地とする歴史があった。「島を開きにあとから入った人々」は島を葬地とした慣習を知らず、
>ただ犬をつれて行ってはいけないという戒めだけが伝えられて、その理由が猫に求められるようになったというのである。
>田代島の開拓前史に、島を葬地とする民俗事例があったかどうかはわからない。私は民俗として捉えられないだろうと考えている。
>ただ、柳田の『猫の島』の中で、田代島以外で犬をつれて行ってはならない島としてあげられている他の2例が2例とも、
>近代以降に移住開拓される無人島である点は興味深い。それは式根島(東京都伊豆七島)と大黒神島(広島県江田島市)である。

>柳田があげている式根島の例を見てみよう。
>式根島は「今(昭和14年ごろ)から45年前までは、まったくの無人島であった」。(式根島は明治20年代以降の移住により形成された移住開拓島である)
>無人島であったころには、「わずかな畠地があって隣の島から、ときどき耕作や木草を刈りに渡るだけだった」。
>式根島でも「猫が住んでいるために犬の行くことを忌む」と説明されていた。
>柳田は、「人家がないのに猫のいるのも怪しく、それに遠慮して犬を連れ込まぬというのはなおさら合点がいかない」として、
>「犬を嫌うという方が元で、その理由を知る者が少なくなった結果、新たにこんな単純な想像が生まれたのかもと考えられる」と解釈している。


※本文と画像は無関係です。

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111 2014/06/22(日) 13:39:24 ID:5kWaFLw7Xk
     なぜ特定の島では犬を飼ってはいけないのか? 続き2

>式根島は無人島で、隣の新島から耕作や木草を刈りに渡ってきていた。そのころに、島で犬を連れていってはならないというのは、
>かつてその島が葬地であったからでも、犬が猫の敵だからでもない、と私は考えている。
>犬を連れていってはならないというのは、それが特別な意思表明の行為だったからである。新島の共有地である無人島で犬を飼うということは、
>島の土地の占有、あるいは移住定着の意思の表明であったのではないか。
>その土地や島を共同管理する村では移住が認められたときに犬を連れていってもよかったのであろう。
>だから、むやみに犬を共有地である無人島へ連れていってはならなかったのである。

>塚本学(※日本近世史を専門とする歴史学者。国立歴史民俗博物館名誉教授)の研究によると、江戸時代、犬を飼うことを禁止する村の申し合わせがあり、
>その理由には、狂犬病の流行に対する措置、犬が畑を荒らすことに対する防御、倹約の3つがあげられる。
>第3の理由を見ると、犬を飼うというのは経済的に余裕のある人の行為である。その行為を禁止するというのは単純にいえば倹約のためであるが、
>倹約を禁止する根底には「ある社会のなかで一般のメンバーに対する優越者の地位を顕示する動きをおさえる役割をもつものであった」と、塚本は捉えている。
>また、犬を飼うというのは一種の武力行使でもある。
>「犬を飼うことによって、一般村民とはちがった、一般村民に対してなんらかの力を奮おうとする者が出現することへの警戒が、この規定を生んだ」のであり、
>「村中の申し合わせとして犬飼育をおさえるのは、村内特定家の武力独占を排除するという意味で、つきつめて言えば小農自立傾向と相応ずる面をもつかにも
>見えるのである」とまとめている。

>村の特定の家が犬を飼うということに、野獣や盗賊に対する番犬としての役割だけでなく、その奥に、経済力や武力の顕示と支配関係の創出が捉えられる。
>犬を飼うということに権利や支配の示威行為を見出したのは塚本の卓見である。
>犬を飼うことは他者に対する何らかの示威行為である。それでは、近代の移住開拓島ではどのような示威行為になるのであろうか。
>移住開拓島の飼い犬はワタクシ(私有)の象徴である。移住開拓島に犬を連れていくというのは移住定着と土地占有の意思を表している。
>ゆえに、むやみに犬を連れ込むことは禁止されるのである。村の共有地になっているような島へ渡るときには土地占有の示威行為となるため、
>犬の持ち込みは禁止されたのである。


移住開拓島の民俗学ノート(一) 野地恒有 
http://repository.aichi-edu.ac.jp/dspace/bitstream/10424/3650/1/...

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112 2014/06/29(日) 08:45:57 ID:4qfD/LvSRk
113 2014/06/29(日) 08:49:49 ID:ldjZLPw7Rg
阿久根市ホームページ 阿久根市: 市の歴史(七不思議)
http://www.city.akune.kagoshima.jp/rekisi/nana.htm...
鹿児島の自然と食 光礁
http://blog.goo.ne.jp/sizen2_2006/e/0882d4f6dcda5650...

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114 2014/06/29(日) 08:53:02 ID:awrCz3ta6Q
115 2014/06/29(日) 08:58:01 ID:./jhkIKsCY
みんなで楽しもう! 〜琉球沖縄の、先祖から伝わってきたお話〜 奄美・沖縄本島・沖縄先島の伝説より、第91話。大蛇おろち/だいじゃクチフラチャー退治
http://totoro820.ti-da.net/e3251135.htm...

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116 2014/06/29(日) 09:07:40 ID:./jhkIKsCY
愛媛の伝承文化 トカラ列島の七島正月
http://blog.goo.ne.jp/uchikonotemae/e/7632eb9d3251fe...
トカラ列島 小宝島日記 七島正月
http://jijiragi.blog105.fc2.com/blog-entry-674.htm...
第26巻 七島正月とヒチゲー —鹿児島県十島村悪石島—
http://www31.ocn.ne.jp/‾minneiken/sugata_htm/026sugata.htm

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117 2014/06/29(日) 09:15:09 ID:awrCz3ta6Q
     火伏せの神・蛸神を祀った島 能登島(のとじま)

石川県七尾市には七尾湾を塞ぐ形で能登島が佇む。
島は能登島大橋と『ツインブリッジのと』の2つの橋で行き来でき、能登半島のリゾートアイランドとして注目されている。
その能登島町(2004年10月1日合併により七尾市の一部となる)には、クトゥルー神ならぬ蛸神なる守護神を祀り、
『蛸祭』まであるというからちょっとした驚きである。その起源については、『石川縣鹿島郡誌』によると以下のとおり。

昭和3年から数えて、3代ばかり古い時代のことである。
祖母ヶ浦(ばがうら・能登島の1集落)の人々は、もとは内地の梅木谷内なる地域に住んでいた者たちだった。
かの地を引き払って現在地に移住したとき、大事な村の氏神(火結命・ほむすびのみこと)を置き去りにしてきたことを思い出す。
折りしも11月3日の夜、向田地区に住む農家の三郎助が眠っていると、不思議な夢のお告げを受けた。
そのお告げとは、件の氏神が蛸にまたがり、ようやく島の浜に着いたので、おまえに迎えにきてほしいとのこと。
三郎助が早朝浜へ出かけると、たしかに大きな蛸が流れ着いてうねくっており、頭にご神体を乗せているではないか。
さっそく彼は蛸を海に逃がし、ご神体を家で祀った。
言い伝えでは、氏神が土間のかまどの手洗い場を使ったことにより、三郎助の子孫の中屋家では、かまどで火を焚く男に限り、
ふんどしで腹を温めるなどの不作法は禁じ戒めるという。

のちに祠を建て、氏神をあらためて祀り、毎年11月3日を祭日とした。また10月17日は蛸の飯と称して神職の者が大きな握り飯を作って中屋家に送り、
中屋家ではこれを近隣に分け与える習わしが続けられている。また同家においては蛸の捕獲を禁じ、たとえ他家から分けられることがあっても、
主人はこれを食べることは許されないという。
余談であるが向田地区では過去に何度か火災があり、中屋家の隣まで延焼したことがあるが、同家ではかろうじて一度も被害にあったことがない。
これを蛸神の守護のおかげだと口伝され、今ではこの蛸神は向田地区の鎮火守護神として崇められている。


能登島の蛸祭
http://www.geocities.co.jp/CollegeLife-Labo/6989/TaccoFes...
能登の民話伝説(中能登地区-No.4)
http://www.geocities.co.jp/HeartLand-Ayame/5161/LegendsIn...
FAAVO石川 語り部 in 能登島
https://faavo.jp/ishikawa/report/183/63...
YAHOO知恵袋 アメリカンはなぜタコがキライなんですか?
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1211474723...
食のタブーwikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A3%9F%E3%81%AE%E3%82%...

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118 2014/07/12(土) 23:50:45 ID:FQy2ycAIYs
119 2014/07/13(日) 07:46:30 ID:gVib.r06yE
     イカ寄せの伝説が残された島 西ノ島

島根県は隠岐諸島のうち、西側の有人3島及び周辺の無人島により構成された群島を島前(どうぜん)といい、
東側の主島を島後(どうご)と呼ぶことから、対をなしている。 
隠岐は遠流(おんる)の島として有名で、元弘2(1332)年、鎌倉幕府打倒計画が失敗し、捕らえられた事件『元弘の変』の際、
後醍醐天皇が西ノ島に流されるも、翌年に島を抜け出し、鎌倉幕府倒幕に成功。別府港の近くには同天皇を祭る黒木神社や資料館・碧風館がある。
どうでもよいことだが、女優・田中美佐子の故郷だそうだ。

また浦郷地区にある由良湾は、昔から冬になると何万とも知れぬスルメイカの大群が押し寄せることから、『イカ寄せの浜』と呼ばれている。
そこにはイカ寄せの伝説なる話まで残されており、なかなか興味をソソられる。
湾に面した由良姫神社の祭神・由良姫様が、その昔、オケに乗り日本海を渡って隠岐に向かう道中であった。
海中から1匹の雄イカが腕をするすると伸ばし、姫様の脚に絡みつきイタズラをした。イカの大将はそのイカを罰し、姫様に詫びを入れて許してもらったという。
以来、毎年この浜へ、イカの群れが謝罪のために集まってくるため、手づかみで捕れるんだとか。全国的に見ても類を見ない、イカにまつわる伝説である。
そもそも、なぜこのような現象が起こるのか。昭和35年ごろに発表された水産研究所の調査結果、単なるイカの交接行動であることが判明。
時として伝説はこのような肩透かしのオチにとどまる……。

イカが押し寄せるのは暖かい穏やかな夜だが、いつイカがやってくるかわからないため、島民は浜に30軒もの番小屋を建てて待ちかまえたらしい。
西ノ島の町誌『西ノ島今昔』によると、『12月から1月にかけて南風の良い凪で片月夜の晩にはよく押し寄せるので「今夜は来るぞ!」とおおよその見当はついた。
こんな晩には浜辺の小屋に数10人が陣取り、また赤ノ江方面からは多いときは30隻ほどの船が湾内を埋め、源平合戦さながらの様相で海と陸からイカを待ち受けた』と、
当時の様子が記されている。
そしてイカの大群がやってくるや、燃やしていた焚火を消し、『イカすくいカゴ』を使って、海中に飛び込んですくい上げたとのこと。
昭和初期から昭和40年代前半にかけては、すくい上げたイカで大もうけして『イカ御殿』を建てた者もいたほど。
とはいえこの大量イカの到来も、昭和40年代後半になると、ほぼ見られなくなる。
最近では平成4年に約1,000匹の群れが押し寄せたという記録がある。それが20年ぶりのことで、今後いつくるのか、島民は首を長くして待っているという。


隠岐広域観光情報提供サイト e-oki.net shimane,JAPAN 由良比女神社(ゆらひめじんじゃ)
http://www.e-oki.net/KankoDetail.aspx?id=1...
島根県 イカ寄せの浜
http://www.pref.shimane.lg.jp/industry/suisan/shinkou/umi_sa...

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120 2014/07/20(日) 17:19:56 ID:AgUPEsJBV6
     責任を感じた姥が必死の追跡をするも力尽き……。 姥島(うばしま)

神奈川県茅ヶ崎市の沖合1.6kmのところに広がる大小30個もの岩礁をひっくるめて姥島と呼ぶ。
東西約600m、南北約400mにわたる岩礁群で形成され、なかでもそそり最大の岩礁は高さ14mにも及び、
烏帽子の形をしていることから烏帽子岩と称されている。
昔から絶好の漁場として知られ、茅ヶ崎漁港から渡船で釣りに行くことができる。
その後、太平洋戦争が始まると、辻堂から茅ヶ崎の海岸は米軍による本土攻略の主上陸地点の候補地となった。
終戦を迎えると、海岸沿いの土地は接収。米軍演習場となる。そして朝鮮戦争や日本が東側諸国に占領された場合の奪還を想定し、
上陸作戦の訓練が行われた。

それはともかく、姥島にはこんな伝説が残されている。
昔、鎌倉長谷堂に住む長者に1人娘がいた。ある日、にわかに空が曇ったかと思うと一陣の突風とともに、3mを超える大鷲が飛来。
巨大な爪で娘をさらってしまった……。
娘の姥は責任を感じ、死に物狂いで行方を捜した。その末、沖の岩礁の上で大鷲が娘を寝かせているのを発見する。
姥はこれを救わんと海に飛び込み、岩礁まで泳ごうと努力するも力尽き、波間に姿を消してしまう。それ以来、この島を姥島と呼ぶようになった。
今昔物語に酷似した挿話があり、なんらかの形で伝播したのであろう。


姥島物語り
http://homepage2.nifty.com/_akiyama_/yamada/ebosi-2/monog...
湘南散策
http://members.jcom.home.ne.jp/yoh-suzuki/index.htm...
茅ヶ崎市公式ホームページ えぼし岩あれこれ
http://www.city.chigasaki.kanagawa.jp/kankou/koen/003929.htm...
はまれぽ.com
http://hamarepo.com/story.php?page_no=1&story_id=8...

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122 2014/07/20(日) 17:35:12 ID:AgUPEsJBV6
     佐波賀(さばか)集落を上下に分けるに至った大蛇伝説 蛇島(じゃじま)

京都の舞鶴港といえば、関西の北の玄関口として、また軍港色の強い港として栄えた。
とりわけ東港は明治期より日本海軍の重要港湾としての地位を確立。日露戦争の日本海における海戦時には多くの軍艦がここから出航した。
今回紹介する蛇島はその舞鶴湾の中央部に位置し、鬱蒼たる樹林で覆われ、周囲585m、標高40mの無人島である。
ちなみに蛇島の隣りには仲良く烏島が寄り添っている(※蛇島といえば、>>17の長崎県佐世保市のソレも同名であった)。
島には天正年間(1573〜1592)に若狭の武将逸見駿河守(へんみするがのかみ)の居城が設けられ、『ヘンミ』が『へビ(蛇)』と変遷し、
さらに『ジャ』と発音させてこの島名になったと、『丹後旧語集』に記されている。

蛇島と冠されるならば、大蛇伝説があって然るべきである。案の定、『舞鶴市史』『舞鶴の民話1』には、こんな話が伝えられている。
昔、佐波賀集落が子ナギと呼ばれる谷あいにあった時代のこと。
いつのころからか、港の無人島に大蛇が居ついてからというもの、夜な夜な海を渡ってきては集落を襲い、村人たちを苦しめていた。
困り果てた村人たちは、なんとか被害を食い止めようと額を寄せ合い、知恵をしぼった。
その結果、対岸にある余部(あまるべ)村の雲門寺の和尚・開山普明国師に意見を仰ごうということになった。

和尚いわく、「……ならば谷を境に、村を上下に分けて住むがよろしい。蛇めは日のささぬ谷間を好む習性がある。
子ナギにおびき寄せ、入ったところをとっちめてやるとするか」と、重い腰をあげて、さっそく準備にとりかかった。
ある夜、大蛇が巨体をくねらせて子ナギの村へ侵入したはいいが、そこは完全に無人と化している。大蛇が好む食料とてありはしない。
あきらめて島に帰ろうと身体をひねったら、退路を断つ形で和尚が立ち塞がっている。
「そなたの悪行ここまでじゃ。さんざん村人を苦しめたからには、ちと灸を据えねばなるまい」と言うと、錫杖を振るって大蛇の胴体を打った。
さすがの大蛇も参り、すごすごと退散していった。
「これで懲りてくれればよいが……」と、和尚は島へ去り行く大蛇を見ながら言った。

こんな事件があってから、大蛇は姿を現さなくなり、現在の『上佐波賀』『下佐波賀』に至り、大蛇が棲んでいた島を蛇島と呼ぶようになった。
一説によると、大蛇は雄島(福井県)へ逃げたともいわれる。


丹後の伝説27
http://www.geocities.jp/k_saito_site/bunkn27.htm...
丹後の地名資料編 佐波賀(さばか)京都府舞鶴市佐波賀
http://www.geocities.jp/k_saito_site/doc/tango/sabaka....
丹後の地名資料編 蛇島(じゃじま)京都府舞鶴市佐波賀
http://www.geocities.jp/k_saito_site/doc/tango/jyasima...
舞鶴市民新聞社の運営する舞鶴市近郊ローカルニュースサイトWeb みなと舞鶴  NO.86「蛇島」と「烏島」
http://www.maipress.co.jp/menu/rensai/86.htm...

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123 2014/07/27(日) 14:16:23 ID:0URx9C/Q6c
     猪頭を供え奉納する銀鏡神楽(しろみかぐら) 宮崎県西都市銀鏡 1

久々に村ネタを投入。くり返し念を押すが、学術的に興味深い風習や奇祭が継承されるソレをピックアップする。
宮崎県西都市には『銀鏡』と書いて、『しろみ』と読ませる山間部の集落がある。西都原(さいとばる)古墳で知られる西都市の中心地から、
さらに車で1時間ほど米良山に分け入り、一ツ瀬川の支流の銀鏡川と登内川の合流点に位置する。
集落には銀鏡神社があり、ここでは西之宮大明神(懐良親王・主神)などを祭る銀鏡神社例大祭が毎年12月12日から16日にかけて執り行われ、
なかでも最大の見物である『銀鏡神楽』が14日夜から15日の午前中にかけて、33番が夜を徹して舞われるのだ。
宮崎は神楽がいまだに盛んな土地柄で、350ヵ所余りも催される場所があるそうだ。県内の神楽をくまなく見て回ろうとしたら、
なんと50年はかかるとも言われる。
神楽といえば高千穂神楽や椎葉神楽が有名だが、銀鏡神楽では狩猟文化を今に伝えるとして、神社の境内に設けられた神屋(こうや)と呼ばれる祭壇に
地元猟師が奉納した猪の生首(!)を供えることで知られているのだ。
他の神楽が一般受けを狙って変遷していくなか、伝統を失うことは過疎地で『精神の過疎化』を生むとして神屋の飾りつけや、
神楽における足の運び方1つにも頑なに伝統を貫いており、1977年5月17日、国の重要無形民俗文化財に指定されたほど優れた催しなのだ。

神楽の終盤には猪と山の神の遊びであり、古風な狩りの所作事『シシとぎり』などの演目が披露される。
また最終日である16日の朝、集落の中心を流れる銀鏡川の中州に鎮座する神石の前で、1年間に獲った鳥獣の霊を祀り送る『シシバ祭り』が行われる。
奉納された猪頭を火で焼き、左耳を7切りにして竹串にさして供えるという。これはその年の作物の収穫祭であるとともに、冬の狩りの始まりを告げる意味がある。
例祭の幟旗には菊の御紋が描かれているのは、南北朝時代、肥後の豪族の菊池氏は南朝方に頼られるも敗れて一門は散り散りになった際、
菊池一族の誰かが銀鏡に逃れ、姓を変えて潜んだらしく、その南朝方と菊池氏を象徴するものなのだ。
銀鏡神楽は優雅な京の舞と、イワナガヒメの日向神話にまつわる土着の舞が融合して発達したとされる。
祭壇に供えられた猪頭は、神楽が終わるまでに解体され、その肉はシシズーシー(猪雑炊)として見物客にも振舞われる。
猪は田畑を荒らす害獣だが、一方で山の民にとって貴重なタンパク源でもあった。銀鏡神楽の本来の目的は山の幸を恵んでくれる山の神に
畏敬の念をもって舞い奉納し、さらなる恵みを願うというわけである。

この奉納される猪頭は、決して生贄という位置づけではなく、『御神格』という意味なのだ。
神道における例祭では時として、この平成の世ですら血なまぐさいものが現存する。銀鏡神社の場合、数十頭にも及ぶ猪頭が血を滴らせ供えられている光景は、
かなりインパクトがあり、現代人なら暴力的で野蛮ともとれるかもしれない。
なにも銀鏡だけが特別ではない。千葉の香取神社で行われる大饗祭には、聖護院大根の上に鴨を飛び立つ姿に飾りつけた『鴨羽盛(かもはもり)』が供えられる。
下準備は神職たちが手を血で染めながら鴨を解体するのだが、骨を砕く際のバキバキッという音が部屋に響きわたるほど。
または信州諏訪上社の前宮では、毎年4月15日に『御頭祭(おんとうさい)』という神事がある。
今でこそ剥製の鹿頭を用いているが、かつては祭殿に各地から奉納された75頭もの鹿の生首がズラリと並べられたのだ。
詳細は下記サイトで。

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124 2014/07/27(日) 14:22:27 ID:fBYZc5SqZA
     猪頭を供え奉納する銀鏡神楽(しろみかぐら) 宮崎県西都市銀鏡 2


元気な集落づくりみやざき 銀鏡(しろみ)・上揚(かみあげ)地区
http://www.chusankan.net/genki/saito...
宮崎の神楽2 米良神楽(銀鏡神楽・しろみかぐら)の写真 
http://kagura2.hujibakama.com/siromi...
独立行政法人 日本芸術文化振興会 平成23年6月民俗芸能公演「銀鏡神楽」現地レポート
http://www.ntj.jac.go.jp/member/pertopics/eve110331_2.h...
アジア基層文化研究会 - The reports of Asian Basic Culture 銀鏡神楽
http://www.flet.keio.ac.jp/‾shnomura/siromi/siromi0.htm
インターネット空想の森美術館 森の空想ミュージアム/九州民俗仮美術館 宮崎の神楽を語る
http://www2.ocn.ne.jp/‾yufuin/kagurakou.html
浜砂伴海の《伴海日記》 銀鏡神楽
http://blog.goo.ne.jp/tokyoctv/c/e8edcb60ec697e41f13...
浜砂伴海の《伴海日記》 宮崎(2012/04/16)宿神三宝稲荷神社
http://blog.goo.ne.jp/tokyoctv/e/b7771e2172ab6e05399...
宮崎の神楽 宮崎県に伝承される神楽(一部を掲載)
http://www.pmiyazaki.com/db/kagura.ht...
イワナガヒメwikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%83%AF%E3%83%...
民族学伝承ひろいあげ辞典 鴨羽盛・舞鶴の捌き
http://blogs.yahoo.co.jp/kawakatu_1205/53335540.htm...
諏訪大社と諏訪神社 御頭祭(酉の祭)
http://yatsu-genjin.jp/suwataisya/sinji/ontou.ht...

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125 2014/09/20(土) 08:37:17 ID:N82jvpBh0o
「もののけ姫」の関連テーマを考える 「業病」ことハンセン病について 
http://www.asahi-net.or.jp/‾hn7y-mur/mononoke/monolink04.htm#book1
「緑」がつく地名は危険?地名に隠された自然災害の危険性
http://matome.naver.jp/odai/213320531025766540...
坂本馨の組長と呼ばれる愛隣保育園長 本当は怖い無人島の話・・・血塚島
http://blog.livedoor.jp/airin5/archives/66156150.htm...

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126 2014/09/20(土) 09:00:03 ID:N82jvpBh0o
127 2014/09/20(土) 10:37:38 ID:N82jvpBh0o
     伊豆諸島の大蛇伝説はヤマタノオロチ伝説に酷似 三宅島

三宅島は、近年ではおよそ20年おきの火山噴火により、島民は避難したり、帰島したりと忙しない生活を強いられている。
平成12(2000)年、7月の噴火では全島民が避難してから、平成17年2月1日に帰島できるまでの4年半の間、
関係者以外立ち入ることのできない無人の島になっていたが、現在ではなんとか観光客も自由に出入りできるようになった。
しかしながら依然として雄山では火山ガスの放出が続いており、入島時はガスマスクの携帯が義務づけられているほど。

そんな三宅島にもヤマタノオロチ伝説にも酷似した大蛇伝説が語り継がれていた。それがこんなお話。
昔、箱根の芦ノ湖の畔に年老いた漁夫が住んでいた。この漁夫には3人の娘がおり、ある日、あまりに不漁だったので、
ほんの戯言のつもりで、大漁にしてくれたら娘を1人くれてやってもよい、と独り言を呟いてしまう。
それを湖底のヌシである大蛇が聞きつけ、姿を現した。戯言とはいえ、大蛇は三女、『佐岐多麻の姫』を嫁にくれるよう約束させる。

約束の日、三女は鳩の姿にかえて富士山頂へ逃げ、ここで事代主命に出会い、事情を話し助けてもらう。
残った2人の娘は大島・三宅島へと飛び、王子や家来を集めさせ、追ってくる大蛇を迎え討つべく、大穴を2つ掘り、そこへ飯と酒で満たした。
さらに火之迦土命に命じて霊剣を鍛えさせ、これを差出命に託し、大蛇の来襲を待った。
泳いでやってきた大蛇に、大穴に満たした飯と酒を勧めると、いやしくも大蛇は大口をあけて飲み食いした挙句、ぐっすり眠ってしまった。
これ幸いと、差出命が霊剣を抜き放つと、大蛇の白い腹を切り裂いてあっさり退治。
大蛇の血が流れたところを『血走りの原』と呼ぶそうだ。また大蛇を3つに分断させた際、尾は大島に飛び、頭は遙か八丈島へ放物線を描いて飛び去った。
それゆえ八丈島にはマムシが多く、大島にはアオダイショウばかりだという。

大蛇討伐後、事代主命がいくら探しても三女を見つけることができなかった。小蛇を恐れてツツジの中に隠れていたのだ。
それで神はこの島のツツジは花を咲かせないように、蛇は棲むな、と命じた。今も三宅島に蛇を持ち込んでも1時間もせずに死んでしまうという言い伝えがある。
三女は現在も佐伎多麻比売として祀られ、ここに霊剣も奉納されている。


三宅村役場
http://www.miyakemura.com/databankrekisi.htm...
龍学 伊豆諸島の竜蛇
http://www.hunterslog.net/dragonology/ryujatan/sagami/iz...
伊豆諸島の大蛇伝説(一) 東京都三宅村
http://www.hunterslog.net/dragonology/S/13381a.htm...

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128 2014/09/20(土) 14:02:00 ID:BYQe5tMlTI
お久しぶりです

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129 2014/09/23(火) 12:37:58 ID:MuuY/PbXCY
>>128
PC壊してしまい、しばらくお休みしてました。さすがにケータイで長文打とうとは思わないw
まあなんにせよ、すでにネタ切れのままダラダラ続けているだけですから、あんまり期待しないでください。


     またしても置き去り伝説・玉姫の受難 母島(もしま)のそばの姫島

高知県宿毛市沖の島町母島は宿毛湾の入り口、太平洋上の沖の島の北部に位置する有人島である。
標高404mの妹背山(いもせやま)を中心に、高い山並が海岸線まで迫り、数百年に及ぶ大事業によって積まれた石段の上に民家がひしめいている。
その景観は2009年に鵜来島(>>65を参照)とともに『石垣・石段とともにある暮らし』で『島の宝100景』に選出されている。
集落は北側の母島地区と、南側の弘瀬地区を中心に古屋野、谷尻、久保浦などの小集落が点在。

その母島には元久2(1205)年に鎌倉から訪れた山伏が住み着いたという伝説や、弘瀬には咎(とが)を受け鎌倉を追放された三浦則久一族が
この島に移り住んだという話が伝わっている。
集落の上にはコンクリ製の建造物が建てられており、道路の下に大穴があいている。これは太平洋戦争末期に開発された人間魚雷・回天基地の遺構らしい。
それとは別に、母島にはまたしても置き去り伝説が残されていた。すでに辟易ぎみだが、いっそのこと、コンプリートを目指そう。

その昔、母島の男が京にのぼって暮らすうち、高貴な出の姫君と深い仲になった。姫の名を玉姫といい、まるで輝く珠のように美しい娘だった。
あるとき、男は母島へ帰らねばならなくなった。玉姫との別れが惜しく一緒に帰ることにしたのだが、ご多分に漏れず男には郷里に妻も子もいた。
えげつないことに、男は船が母島の近くまできたとき、その事実を打ち明けた。玉姫がヒステリーに駆られるのは必定。
男は平謝りし、なんとか宥め、すぐに迎えにくるからと言いくるめて、むごいことにシクシク泣く姫を、母島より沖にある名もなき無人島に置き去りにして、
自分だけ帰ってしまった。

男が母島に帰ってみると、妻や親族につかまり離してくれない。約束どおり、早く玉姫を救いたいのはヤマヤマなのだが、日は3、4日とすぎてしまう。
やっとのことで玉姫の待つ無人島へ船を走らせたのだが、時すでにお寿司。
玉姫は荒磯の上で、孤独死していた。その磯から母島は目と鼻の先なのに、思いが届くには遠すぎた。
島民は姫を哀れに思い、姫の名を冠してこの島を『姫島』と呼ぶようになった。


宿毛市沖ノ島町母島の町並み 沖ノ島町母島
http://matinami.o.oo7.jp/sikoku/sukumo-okinosima-mosima...
田舎旅゛イナ旅゛ライフスタイル day 50.4 高知県 鎌倉とつながっている石造りの『沖の島』
http://iku203.blogspot.jp/2010/12/day-504.htm...
沖の島 母島(もしま)
http://outdoor.geocities.jp/ksjjr840/okinosima-mosima.htm...
宿毛市 宿毛歴史館/宿毛の民話 恋に死した玉姫
http://www.city.sukumo.kochi.jp/sbc/history/minnwa/m021.htm...

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130 2014/09/28(日) 11:21:13 ID:4JAMv5c/K6
三宅村指定有形文化財(絵画・彫刻・工芸品)御笏神社御刀
http://okachan.blue.coocan.jp/bunkazai/0121/0121.htm...
東京都指定無形民俗文化財(民俗芸能) 御祭神社の神事
http://okachan.blue.coocan.jp/bunkazai/0126/0126.htm...
伊豆諸島の大蛇伝説(二)東京都三宅村坪田
http://www.hunterslog.net/dragonology/S/13381b.htm...

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131 2014/09/28(日) 11:52:39 ID:4JAMv5c/K6
やまちゃネット サザエ観光案内所でごさいま〜す! サザエさんオープニング訪問地紹介(鹿児島県・後編)
http://www.yamachanet.jp/kagoshima2.htm...

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132 2014/09/28(日) 12:00:23 ID:4JAMv5c/K6
     谷間でうごめく亡者 倉橋島

広島県呉市の倉橋島は、瀬戸内海の芸予諸島に属する島の1つ。
音戸大橋は本州と、早瀬大橋は江田島市、そして鹿島大橋は鹿島と行き来できるが、これは車での交通ルートとして利用される。
徒歩で渡るには、海峡の渡船を利用するのが好ましい。音戸渡船は航路がわずか100mほどしかないことから、
『日本一短い定期船』というキャッチフレーズで、毎朝5時半から夜の9時まで随時運航している。
また古来より造船が盛んな土地柄で、とりわけ倉橋島には多くの船大工がいたとされ、この島で遣唐使船が造られた可能性が高いという。
話変わるが、倉橋島には不気味な民話が語り継がれている。それがこんな話だったりして……。

昔、渡子島(とのこじま)の村はずれの丘には、粗末なお寺があり、年老いた和尚が管理していた。
寺の裏手は竹藪が茂って急な谷間となり、わずかながら水が流れていた。
谷間の間には細い坂道が続いており、夜半、村人が通ると決まって、「ギャギャッ!」と、人や獣ともつかぬ声が聞こえたものだ。
それゆえ村人は気味悪がって、その道を避けるようになった。

ある朝、寺での説教が済んだあと、村の者が、このことを和尚に告げた。あの調子では、谷間を通るのも怖くてかなわない。
和尚は思うところがあり、亡くなった人たちの供養になればと、長い経を唱えるのを日課とした。
月日が経って、雷が轟き大雨が降りしきるある夜。裏の谷間ではたいへんな騒ぎとなっていた。
あばら骨がむき出し、骸骨のように痩せ細った裸の人間たちが、ひしめきながら何かを食いあさり、耳を覆いたくなるような奇声をあげていた。
これは寺の人が食べ残した飯粒が谷間に流れ出たのを、我先にと争って拾いおうとしている餓鬼の姿だったのだ。

ところが餓鬼が食べ物に手をつけようとすると、たちまち炎がついて燃えあがり、うかつに手が出せない。
飢えて、食べたくても口にすることができない、あさましい者たちの悶々たる悲鳴であった。
たちまち寝床から飛び起きた和尚であったが、外を見れば、そんなおぞましい光景はない。なんてことはない、和尚の悪夢だったのだ。
和尚はこの夢に、意味があるのではないか、と考えてみた。
人が生きていくには、動植物の命をいただいているからであり、それによって生かされているのだ。
にもかかわらず、食べ物を残したり、粗末にしては、ろくに感謝もしないから、亡くなるとああして餓鬼道に堕ちて、苦しんでいる者がいるに違いない。

和尚は熱心に供養するよう努めた。法話の中でも、我々の口に入るもののありがたさを強調し、日々感謝の念を忘れないよう、村人に説いた。
やがて谷間にこだまする餓鬼のうめき声も聞こえなくなったという。


JR西日本Blue Signal 西日本の万葉の旅 海の廊下を渡る
https://www.westjr.co.jp/company/issue/bsignal/10_vol_1...
呉の民話 谷間の声
http://homepage2.nifty.com/buchaneko/kure/minwa/taninokoe...

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133 2014/10/05(日) 10:51:53 ID:GTSrn39I1M
徳之島伝説めぐり
http://www16.ocn.ne.jp/‾shiokaze/index.html

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134 2014/10/05(日) 10:56:44 ID:GTSrn39I1M
「石見畳ヶ浦」の犬島・猫島・穴観音の景観
http://blog.goo.ne.jp/tako_888k/e/11f479a9cc89067f11...

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135 2014/10/05(日) 11:02:40 ID:GTSrn39I1M
     六部が追いつめられ斬り殺されて転落した穴 紀伊大島

前スレ>>225にて、和歌山県は串本町の橋杭岩を取り上げた。
その沖合約1.8kmの海上には、面積およそ9.68km2、周囲28kmを誇る和歌山最大の島、紀伊大島(地元の人は単に大島と呼ぶ)があり、
土日ともなれば釣りやダイビングで賑わうことで有名だ。人口は約2,000人。和歌山で唯一の離島振興対策実施地域に指定されている。
また、世界初のクロマグロの完全養殖に成功した近畿大学の養殖実験所があることでも一躍有名になった。

その紀伊大島須江地区の海岸の森の中には、『地獄のガバ(釜)』なる巨大な縦穴がぽっかり口を開けているのだ。
上部口の直径約70m、深さ約40mにも及び、火成岩からなる海食洞窟の天井が崩落したものと考えられており、底部は海と繋がっているため、
満潮時や高波のときには海水が入ってくるようだ。
ここでは昔、どんな理由があってか定かでないが、六部(六十六カ国の霊場にお経を納めて廻る行者)が2人の武士に追いかけられ、
このガバの淵まで追いつめられて斬り殺された挙句、穴の底に転落したという悲惨な伝説が残されている。


きのくに風景讃歌 地獄のガバ
http://www.kinokuni-sanka.jp/modules/landscape/index.php?li...
『ほっと!和歌山県』 〜和歌山県広報リレーブログ〜 ジオパーク目指して、『地獄の釜』の大掃除【串本町】 
http://wakayamapr.ikora.tv/e966172.htm...

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136 2014/10/05(日) 11:07:16 ID:GTSrn39I1M
     隠れキリシタンの処刑の島にして聖地 中江ノ島

長崎県平戸市に属する中江ノ島は、平戸島北西岸の沖合2kmに浮かぶちっぽけな無人島だ。
中江ノ島では禁教時代初期に平戸藩によるキリシタン処刑が行われた記録があり、また現在の生月の隠れキリシタンにとって
聖水を採取する『お水取り』の聖地として『サンジュワン様』などと形容されている。

慶長18(1613)年、徳川幕府が全国に禁教令を出し、翌年キリシタンは国外追放となるが、その後何人もの宣教師が国内への潜入と布教を開始。 
カミロ・コンスタンツォ神父もその1人で、元和8(1622)年に平戸・生月で布教を行ったのち、五島に渡ったところで五島藩の役人に捕らえられ、
9月15日、平戸瀬戸に面した田平側の岬で火あぶりの刑に処された。
神父は柱に縛りつけられながらも日本語、ポルトガル語、フランドル語で説教し、火がつけられても説教をやめず、聖歌を唄いながら絶命。 
このカミロ神父の布教に協力した多くの信徒も処刑されたが、その多くは生月出身者だった。

神父を泊めたヨハネ坂本左衛門と、船を用意したダミヤン出口は、翌年5月27日にこの中江ノ島で処刑されたが、
ダミヤンなど船中で漕ぎ手を手伝い、賛美歌を唄いながら櫓を漕いだという。
また6月3日には船頭で堺目出身のヨアキム川窪庫兵衛が、6月8日にはヨハネ次郎右衛門が同島で処刑された。
次郎右衛門は棄教の印に異教の札を呑むことを拒み、中江ノ島に渡る船の中で「ここから天国は、そう遠くない」と発言した。 

さらに寛永元(1624)年3月5日には、ダミヤン出口とヨハネ坂本の家族たちが、中江ノ島の『地獄』という場所で殺されたが、
坂本の年長の子供たち3人は一緒に昇天できるよう、俵につめられた状態で縛ってもらい、首に袋を被せられて海に投げ込まれた。
隠れキリシタン信仰の中でも中江ノ島は、上述した『サンジュワン様』の他に、『お中江様』『お迎え様』『御三体様』と呼ばれ、
御神体に匹敵する最高の信仰対象とされ、聖水を取る『お水取り』の行事が行われている。 
島の断崖には岩の割れ目があり、オラショを唱えると、乾燥したときでも水が染み出てくるとされている。それを聖水として使うわけである。

平戸市生月町博物館『島の館』の資料によれば、昭和初期、『黒瀬の辻』と呼ばれる丘の上に 『ガルパス様の松』なる大松が生えていたという。
その根元には古い積石墓があり、これこそガスパル様の墓と言われ、隠れキリシタンにとって特別な場所となっていた。
松は戦後の松枯れで倒れたが、信徒はそれを材料に十字架を作り配布。『黒瀬』は十字架、クルスの訛りからきており、
かつてそこには大十字架が立っていたことから由来するのではないか、とする説もある。


長崎から世界遺産を 長崎の教会群とキリスト教関連遺産 長崎のキリスト教の歴史
https://www.pref.nagasaki.jp/s_isan/outline/02.htm...
74. 生月島と平戸の観光
http://www.asahi-net.or.jp/‾rk7j-kndu/bijutu/bi74.html
「知られざるキリシタン王国、光と影。」 第8話 聖地として語り継がれた地
http://christian-nagasaki.jp/stories/8.htm...
オセンタルカの太陽帝国 『さん・じゅあん様の歌』『だんじく様の歌』。
http://blog.goo.ne.jp/ryuzojiryuzoji/e/95c30f10d87a9...

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137 2014/10/06(月) 19:38:45 ID:DtlUIHcOyE
     泥神、現代のクレーマーに怯える 宮古島 

>宮古島の国の重要無形民俗文化財「パーントゥ」が、クレームに悩まされている。
>厄払いの意味を込め、仮面を着けた神様が人々に容赦なく泥を塗る伝統的な手法が、その意味合いを知らない観光客に受け入れられず、
>不幸な衝突が生まれている。

>■「汚された」と苦情・暴行も
>3、4日の夕方、宮古島の平良島尻地区。仮面を着けた青年3人が扮(ふん)するパーントゥが現れた。
>ツル草を巻き付けた体は泥まみれで、鼻を突く異臭が漂う。逃げ惑う人々を追い回し泥を塗るたび、悲鳴が上がる。
>改装したての住宅や乗用車内にも荒々しく上がり込んだ。
>「怒る人はおらんよ。ちゃんと厄よけして、健康を願ってくれてるんだから」集落のお年寄りの男性は誇らしげに言う。
>地元の住民は泥をつけられても笑顔。「ありがとう」と声を掛け、お酒やおすしを振る舞う姿も見られた。

>一方、花柄のワンピースとカメラを泥だらけにされた観光客の若い女性は「ここまでとは思わなかった」とショックを受けた様子。
>近くにいた中年の男性も泥を塗られ、「本気で怒っている」と不満げだった。
>関係者によると近年、観光客から苦情が寄せられ、対応に苦慮しているという。「服を汚された」「抱きつかれた」といった女性のクレームに加え、
>数年前には、怒った男性にパーントゥが暴行される事態になった。「中止も検討した」と、地元の男性は語る。

>トラブルを防ぐため、パーントゥの周囲には複数の付添人を配置。不勉強な観光客が大挙して押し掛けないよう開催日を直前まで知らせない工夫もした。
>島の観光資源としてアピールしてきた宮古島観光協会も地元の意向を受け、大々的に宣伝するのを控えている。
>ホームページ上には日程を載せず、直接問い合わせがあった場合のみ伝える対応に変えた。
>担当者は「必ず汚れてもいい服で来てください、と念を押しています」と話す。

>■「神様尊重して」須藤沖大教授
>パーントゥに類似した行事は全国にある。鬼のような仮面を着け荒々しい言動で集落を練り歩く秋田県の「ナマハゲ」(国指定重要無形民俗文化財)も、
>観光客への対応に苦慮している。
>「泣く子はいねがあ」とすごむ姿で知られるが、近年は幼児虐待との批判が絶えない。
>泥酔したナマハゲが2007年、観光客が泊まるホテルの女湯で暴れる事件も起きた。再発を防止するため荒々しさは影を潜め、
>弱々しい言動の『草食系ナマハゲ』が増え、魅力が失われたとの声もある。
>沖縄大学の須藤義人准教授=映像民俗学=は「こうした祭りはお化け屋敷のアトラクションではない。訪れる側は事前に意味合いを調べ、
>地元の人が大切にする神様として尊重する必要がある。迎える側はパンフレットに明記するなどの注意喚起をしてほしい」と指摘している。

>[ことば]パーントゥ 災厄を払い福をもたらす3体の神様が旧暦9月初旬に現れる。約30kgのツル草を身につけ、お酒を振る舞われながら、
>数時間も集落内を暴れ回る。数百年前に島尻の浜に恐ろしい形相の仮面が流れ着いたことが起源とされる。1993年に国の重要無形民俗文化財に指定された。


沖縄タイムス 神様も苦悩?泥塗り行事に苦情
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20141005-00000014-okinawa...

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138 2014/10/13(月) 19:11:07 ID:bmOnFiTr.A
初秋の肥前歴史短訪 ⑨隠れキリシタンの馬渡島
http://eritokyo.jp/independent/aoyama-col37019.ht...

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139 2014/10/13(月) 19:26:54 ID:bmOnFiTr.A
     天然痘患者を隔離した悲嘆の島 下馬刀島(しもまてじま) 1

今回はまさに島マニアの探査能力の面目躍如である。まだまだsageるには早すぎるのだ、はにゃ〜ん♪
前スレではハンセン病患者を隔離した香川県の大島や岡山県の長島を扱ったが、驚くべきことに熊本には、
かつて天然痘患者を閉じ込めた孤島があったそうだ。エボラウイルスが懸念されている今日、ちょっとタイムリーなのだ。
天草諸島に属する牛深市深海町にある下馬刀島がソレだ。こう書いて『てもまてじま』と読む。
もしくは『まて島』とも呼んだらしい(地図によって『馬丁島』『的島』と表記名が異なる場合もある)。

『地名の探求・松尾俊郎・(新人物往来社)』によれば、海峡の中間の島に『馬』を当て字にすることは多く、
『まて島』とは『海峡の島』であることが明記され、『馬』は『間』が当てられていることも少なくないのだとか。
島はもと深海本郷地区と下平地区の区有財産であったが、大正12年11月2日、深海村へ寄付。昭和45年4月21日の合併により、現在の所有者は牛深市となった。
本来は無人島であった。そこへ天然痘に罹った者を島流しにしたというのだから、先人は非情なことをしたものだ。
我が国のこういう負の歴史を白日の下にさらしてしまうのは、いかがなものかと時々思うが、島マニアの探求心は遠慮というものを知らない。

そもそも天然痘とはどんな病気か? 
痘瘡(とうそう)ウイルスを病原体とする感染症のことを指し、強い感染力をもち、罹患すれば全身に膿疱(水疱の内容物が膿の集合体)を生じる。
仮に治癒しても醜いあばたを残すことから、世界中で不治の病、悪魔の病気と恐れられてきた。同時に世界初の、撲滅に成功した感染症事例でもある。
爆発的な感染力、高い致死率(諸説があるが40%前後を誇った)のため、時に国や民族が滅ぶ要因となった。
天然痘に罹ればどんな顔面様相になるか、各自で画像検索されるがよい。画像を貼るのも憚られるほどひどいありさまとなる。

もともと痘瘡ウイルスは日本に存在しなかった。6世紀半ば、中国・朝鮮半島からの渡来人の移動が盛んになったときに、日本初の感染者が現れたとされている。
おりしも新羅から弥勒菩薩像が送られ、敏達天皇が仏教の普及を認めた矢先であったため、神道の神を蔑ろにした神罰ではないかという考えが広まり、
仏教を支持していた蘇我氏の影響力が低下したほどであった。皮肉にも585年、敏達天皇本人も天然痘で崩御したのではないかとも言われている。
『日本書紀』(完成は720年)にはこう記されている。「瘡(かさ)発(い)でて死(みまか)る者、身焼かれ、打たれ、砕かるるが如し」とあり、瘡を発し、
激しい苦痛と高熱を伴うという意味で、天然痘の初めての記録と考えられる。また奈良の大仏造営のきっかけの1つがこの天然痘流行であるとされている。
かの伊達政宗が隻眼なのも、幼少期に罹った天然痘のせいで失明したからだ。このように日本の歴史は、至るところに天然痘の暗い影を落としているのだ。

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140 2014/10/13(月) 19:33:09 ID:bmOnFiTr.A
     天然痘患者を隔離した悲嘆の島 下馬刀島(しもまてじま) 2

では下馬刀島の件に戻ろう。
江戸時代になっても、予防や有効な治療法が確立されず、感染の拡大を防ぐには感染者を隔離するしかなかった。
江戸後期である天保年間(1830〜1843)、深海でも天然痘は猛威をふるった。当初は内地の裏山に小屋を作って、
そこに患者を押し込めていたものの、裏山では脱走する恐れがあったので、現在の深海町下平地区から沖合にある周囲2kmの無人島・
下馬刀島を隔離場所と定めた。

島に隔離された患者たちは筵(むしろ)をもらい、自分たちで茅で屋根を葺いた小屋に住み、飯を炊いて食べた。
水がなくなると松葉を焼いて狼煙をあげて合図し、内地から物資を届けてもらって生をつないだ。
米や麦を要求するときは中火で炊き、死人が出たときの知らせも松葉を焼いて狼煙で知らせた。
やがて患者は息も絶え絶えになり、狼煙をあげる気力もなく死んでいくのが常であった。
離れ離れになった家族や、恋人に会いたい思いを募らせながら息を引き取ったことだろう。彼らの病苦の悲嘆は、海を超えて内地まで届いたという。

こんな話がある。
下平村で1人の若い妻が天然痘に罹ってしまった。夫の必死の土下座も聞き入れてもらえるはずもない。子供を生んで間もないというのに……。
村人たちは容赦なく下馬刀島にやれと、夫を責めたてる。たった1人の感染者のために村が滅ぶこともあり得るのだ。
妻は察し、簡単な荷物をまとめると、我が子を夫に託し、衰弱した身体を鞭打って下馬刀島めざして舟を漕いだ。
島の海岸に着くと、内地で飢えて泣いているであろう赤ん坊を思い、舟を押し流した。これで島抜けすることもできない。

一方、夫は泣きじゃくる赤ん坊を抱いたまま、妻の姿を見つけようと舟で島のまわりをグルグル回り続けた。
妻がまだ生きているのなら、腹一杯飯を食べさせてやりたい。我が子に乳を与え、腕に抱かせてやりたいのに……。
内地には地蔵が至るところにあった。夫は寝食を忘れ、願掛けをするが、神仏は答えてくれない。
やがて赤ん坊は乳をもらえなかったので死んだ。夫は己が無力さと、いくらすがったところで救済してくれない神を呪った。

天然痘患者を隔離した悲劇を今に伝えるものとして、『もんつき唄』と呼ばれる労働歌が残されている。
江戸時代のころより、下馬刀島の対岸にあたる下平地区あたりで知られた歌だ。『もんつき』とは『穀物つき』の意味で、米・麦・粟などの主食を
杵でつくときの拍子をとるときに歌われていたもの。穀物を臼と杵でつく様子が思い浮かぶ牧歌的な労働歌ながら、歌詞の中にはこんな一節がある。
「夫(さま)の墓所の馬刀島松が 早うけ早うけと手を招く」(あなたが眠っている馬刀島の松が、早くこっちにおいでよと呼んでいるようだ)
「つるぎ崎から身を投げましょか 夫の墓までひと流れ」(つるぎ崎から身投げして死んでしまおうか。そうすればあなたが眠る島の墓まで行けるのに)

ちなみに民俗学においては、赤色には『魔除け』の意味があるとされ、神社の鳥居や、地蔵の前掛けも同義とされる(諸説あり)。
さらに郷土玩具には、飛騨高山市の『猿ぼぼ』など赤いものが多い。これは子供への疫病除けの願掛けがこめられている。
現在でも還暦の際、赤いちゃんちゃんこや赤い帽子、座布団が使用されるのも同義である。
江戸時代、天然痘よけとして赤い達磨が置かれたという。痘瘡神が嫌いとされる赤を集め、患者も家族も赤をまとい、赤い布団をかぶり、赤い玩具、
赤い達磨、赤い春駒、赤い犬張子、赤飯、赤鯛、赤い幔幕、赤い注連縄、赤い屏風、赤色の多い痘瘡絵などを掲げるという迷信が流布した。
用が済んだら燃やすか、川に流した。この風習の発祥は、神聖ローマ帝国カール5世(16世紀)で、幼少時に罹患したときに、赤い衣類を着、
部屋の装飾品など一切を赤色にし、赤い光で部屋を充たしたところきれいに治ったので、この風習はヨーロッパでも長く残ったという。
沖縄では病人に赤を着せ、痘瘡神を喜ばせるために歌、三味線で、痘瘡神をほめたたえ、病人に付き添ったそうだ。

※画像は猿ぼぼ

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141 2014/10/13(月) 19:37:41 ID:bmOnFiTr.A
     天然痘患者を隔離した悲嘆の島 下馬刀島(しもまてじま) 3

避病院(ひびょういん)wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%81%BF%E7%97%85%E9%99%...
M&M News 天然痘について
http://www.machida2.co.jp/topics/tanso/tennento1.htm...
熊本県 地域発ふるさとの自然と文化 下馬刀島ともんつき唄 天草市
http://www.pref.kumamoto.jp/site/arinomama/shimomate.htm...
どんくのつぶやき
http://www.shinkaigyo.jp/index.htm...
飛騨高山のかたりべばあちやん 飛騨のサルボボ(猿ぼぼ)の話
http://www.geocities.co.jp/HeartLand-Suzuran/2463/saru.ht...
還暦祝い.net 赤いちゃんちゃんこの由来について
http://going-going.net/246/247/000592.htm...
[PDF]東アジアの天然痘常在地域における流行メカニズムに関する史的研究
http://www.mishima-kaiun.or.jp/assist/report_pdf/2011c/c_h23_...
[PDF]中央学院大学 中国と日本における色彩語の対照
http://www.cgu.ac.jp/Portals/0/data1/cguwww/06/31/0...
ためいき色のブックレビュー 破船/吉村昭著
http://tameikiiro.net/%E6%9B%B8%E8%A9%95/%E7%A0%B4%E...
忘郷クオリア 【廃墟】かつては人がいた名残りを残す放置された無人の島9選【ミステリ】
http://bokyo-qualia.com/archives/247...

※画像は外国奉行支配組頭、塩田三郎。南原清隆ではない。少年時代に天然痘に罹り、顔中にあばたが残っている。

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142 2014/10/26(日) 08:08:30 ID:g2ieX4GoiY
歴史・芸術・魚・びゃくしんの島「二神島」
http://www.matsuyama-edu.ed.jp/‾s-futaga/hutagamisima/hutagamisyoukai.html
武家家伝_豊田氏
http://www2.harimaya.com/sengoku/html/toyota_kz.htm...
神奈川大学 日本常民文化研究所 共同研究「瀬戸内海の歴史民俗研究」 9月上旬に調査を実施しました
http://jominken.kanagawa-u.ac.jp/cgi-bin/system/special/index.c...

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143 2014/10/26(日) 08:39:30 ID:g2ieX4GoiY
     天然痘に罹った息子をかくまった島 馬島

長崎の佐世保市、平戸市にかけての北松浦半島西岸に連なるリアス式海岸の群島をまとめて九十九島(くじゅうくしま)と呼ぶ。
島数99どころか、公式には208もあるとされている。
その中の1つ、馬島は文字通り島の形が馬に似ていることからこう冠されたという。実はここにも天然痘患者を閉じ込めた歴史があった。

昔、庄屋の一人息子が魔の病と恐れられる天然痘に罹り、見る間に醜い人相に変わり果てた。
庄屋は泣く泣く息子を小舟に乗せて九十九島の島々をさまよった。どこか無人島にでもかくまわなければ、藩に見つかれば即刻殺されるのは明白。
人々が魔の島と呼んで寄りつかない馬島へ舟をつけると、岩陰に小屋を作って息子をそこに隠した。
庄屋は対岸の俵ヶ浦の寺に寄宿し、夜になると人目を避けて食料と水を馬島の小屋へ運んだ。

何ヶ月かすぎたあと、庄屋の切なる祈りが神仏に届いたか、息子の病状は痕も残らず、すっかり完治した。
庄屋親子はこの奇跡に喜び、郷里に帰ることができた。


九十九島パールシーリゾート 西海国立公園 九十九島の紹介
http://www.pearlsea.jp/99islands/island.htm...
ニゴロブナ子は里山(さと)に帰らせていただきます! 岡山 「次は、ないかもしれない」長島愛生園
http://ameblo.jp/25627-ko/entry-10759318222.htm...
モグネット ハンセン病の歴史:フィリピン・クリオン島
http://www.mognet.org/hansen/overseas/culion01.htm...

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144 2014/11/03(月) 13:51:15 ID:wo6HNIuvfQ
天草楊貴妃伝説 天草によみがえる楊貴妃伝説
http://www.geocities.jp/kankyo119/youkihi.htm...
楊貴妃は天草に流れ着いたか - 楊貴妃天草漂着伝説 -
http://www.geocities.jp/flowercities/youkihi...

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145 2014/11/03(月) 14:11:04 ID:wo6HNIuvfQ
[YouTubeで再生]
NAVERまとめ 現在進行形で軍艦島化している九州の孤島「池島」
http://matome.naver.jp/odai/213626458627101700...
池島炭鉱 施設編(1/6)
http://allxa.web.fc2.com/a-map/jp_nagasaki/ikeshima1/ik...
ようこそ炭鉱体験「池島」へ
http://ikeshima.info/
長崎県長崎市 池島
https://sites.google.com/site/ikeshima20...

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146 2014/11/03(月) 17:20:22 ID:wo6HNIuvfQ
     ルイス・フロイスたちが目印に入港した島 八ノ子島

長崎県西海市の横瀬浦港から約300m沖合にある八ノ子島。こんもり盛り上がった頂上に屹立する十字架が目を惹く。
なぜ島に十字架が立てられたのか。
永禄5(1562)年、当時の領主で、日本で初めて洗礼を受けたキリシタン大名・大村純忠により、南蛮貿易港として世界に開かれた横瀬浦。
かつてその付近で、3晩続けて十字架の幻が出現するという奇跡が起き、その翌日、ナウ船(南蛮船)のペーロ・パレット船長が、
十字架を立てるよう命じた(同年10月25日付横瀬浦発信修道士ルイス・デ・アルメイダの書簡より)。
現在の十字架は1962年、南蛮船来航400年を記念して再建され、2009年に復元された。

船は八ノ子島の十字架を目印に入港し、港は全国から集まった貿易商人やキリスト教徒、そしてポルトガル人たちで賑わったという。
のちに織田信長や豊臣秀吉と会見し、戦国時代の貴重な資料となる『日本史』を記したポルトガル人宣教師、ルイス・フロイスも、
この港から日本に上陸した。


ふらり。旅する長崎 第4回 「西海市 八ノ子島」
http://www.nagasaki-press.com/event_travel/furaritabi/furari...
言語文化学科日本語文化コース 肥前研修⑦横瀬浦・虚空蔵算展望台編—西彼杵半島に上陸—
http://blog.hijiyama-u.ac.jp/nb/2013/02...
ミカエル大山のブログ
http://blog.kurosakiparish.holy.jp/?month=20130...

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147 2014/11/16(日) 16:14:11 ID:.ndw6fT8so
東京DEEP案内 【江戸川区】東京23区唯一の島「妙見島」上陸記(1)
http://tokyodeep.info/2009/12/25/215209.htm...

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148 2014/11/16(日) 17:41:36 ID:.ndw6fT8so
能登の民話伝説(中能登地区-No.4)
http://www.geocities.jp/une_gen/LegendsInNoto-4.ht...

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149 2014/11/23(日) 15:01:22 ID:DkVfUW3g3A
歴ログ -世界史専門ブログ- 【日本のアトランティス?】日本の伝説の島5選【ミステリー】
http://reki.hatenablog.com/entry/2014/08/21/12202...

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150 2014/11/23(日) 15:23:39 ID:DkVfUW3g3A
長崎遠めがね 高鉾島
http://hoshinabe.ojaru.jp/209_takahoko/takahoko.htm...
ながさき歴史の旅 第16回 神ノ島 巡礼の旅
http://tabinaga.jp/history/view.php?category=3&hi...
Les Voyages 神の島
http://lesvoyages.fc2web.com/nagasaki/nagasaki12.htm...

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151 2014/11/23(日) 15:55:22 ID:DkVfUW3g3A
     25年ぶりの雨乞いの儀式・本当に雨をもたらす 小浜島

>【小浜島=竹富】少雨の影響で八重山地域の水不足が深刻化する中、竹富町小浜島で約25年ぶりとなる雨乞いの儀式が行われた。
>神司(かんづかさ)7人が雨乞いの唄を歌い始めると小雨が降り出し、祈りを見守っていた島民に期待感で笑みがこぼれた。

>雨乞いの儀式は同島の嘉保根(かぼね)御嶽の敷地内に置かれている「ガンドゥラ(雷)石」に、神司が雨が降るよう祈りをささげた後、
>ガンドゥラ石を集落の中央に位置する道路に運び、島の青年らが石を担いで力比べを楽しんだ。
>ガンドゥラ石は古くから雨乞いの儀式に使われてきたもので、担いで落とすと「ごろごろ」という音が響くことから、
>雷を呼び雨をもたらすと伝えられているという。

>続いて、神司が雨を呼ぶ唄を歌ったり、願いの口上を述べたりして祈願した。
>小浜公民館の浦底透館長は「まとまった雨が降らない。サトウキビは枯れて深刻な状況だ。祈りが天に届くことを願っている」と期待した。
>雨が降らなかった場合はさらに次の儀式を進めていくことになるという。


毎日新聞 2014年11月23日(日) 小浜島:25年ぶりに雨乞い 祈りの最中に小雨
http://mainichi.jp/area/okinawa/news/20141119rky0...

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152 2014/11/29(土) 10:03:36 ID:Ax/u6DeYWQ
まんが日本昔ばなし 愛知『仏島』
http://nipponmukasibanasi.seesaa.net/article/384053118.htm...

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153 2014/11/30(日) 08:15:39 ID:vZ68rXqJS.
[PDF]公開シンポジウム基調講演1 いざなぎ流研究の新時代へいざなぎ流とはなにか 小松和彦
https://www.wako.ac.jp/_static/page/university/images...

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154 2014/11/30(日) 08:55:50 ID:vZ68rXqJS.
[YouTubeで再生]
     追手の襲撃に備えて弓の稽古を怠らなかった島 百島(ももしま)

広島県尾道市の備後灘に浮かぶ、百島と書いて『ももしま』と読む有人島がある。
昔、多くの桃の木が生えていたから桃島と呼ばれていたが、周囲に無数の島があったり、『百』の方が縁起が良いだろうということで、
いつしか百島に改めたとする説、もしくは古くは五十島と呼ばれたこともあり、潮満になると2つに分かれていたものが
間に砂が溜まって1つになったので、合わせて百島と呼ばれるようになった説など、名前の由来はいくつかあるが、いずれも決定打に欠くようだ。

その百島には、菅原道真が大宰府に向かう途中に立ち寄ったという伝説や、室町幕府6代将軍・足利義教を暗殺した赤松満祐一族が
隠れ住んだという逸話が残されている。
その赤松満祐一族にちなみ、福田地区の八幡神社に伝わる『お弓神事』は、嘉吉元(1441)年、嘉吉の乱で敗れた赤松満祐ほか一族7人が
百島に逃れて住み着き、敵の追討襲撃に備えて弓の稽古に励んだのが始まりとされており、毎年1月11日に厄祓いと無病息災を願って催される伝統行事である。
射手には島内の3地区から計15名が選ばれ、15m先の直径60cmの的に向け、太鼓の合図とともに次々と矢を放たれる。
的の中心には『瓦け』と呼ばれる丸い素焼きがつけられ、命中すると祝儀(10円)がもらえる。


百島Net
http://www.momoshima.net/
百島八幡神社お弓神事 尾道市百島2008.1.11
http://www.tamatele.ne.jp/‾onotoshi/momosimaoyumisinzi08.html
赤松満祐wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B5%A4%E6%9D%BE%E6%BA%...
嘉吉の乱wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%98%89%E5%90%89%E3%81%...
尾道 百島物語〜From/For Momoshima〜人生航海 蜃気楼 百の伝結び 百島 旗伝説
http://blog.goo.ne.jp/100-is-land/e/30ef849437c43535...

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155 2014/11/30(日) 10:18:40 ID:vZ68rXqJS.
     弁天様の目玉をえぐり取ろうとして神罰がくだった? 佐久島(筒島)

愛知の三河湾には佐久島の他に、篠島、日間賀島が浮かび(いずれも有人島)、これらを愛知3島として呼び、釣りや観光に賑わいを見せている。
ちなみに篠島は前スレの>>289にて、日間賀島は>>344で紹介した。とすれば、佐久島もやらずにはいられない。
佐久島は中新世に海中で堆積した島とされ、2500万年前と推定される貝の化石が島の各所で発見されている。
島には紀元前3000年ごろから人が住み始め、縄文・弥生式の土器片などが多く出土している。
『佐久島旧記』によれば、崇神天皇(紀元前97年〜紀元前30年、第10代天皇)の時代に、斎宮の郷にいた佐久彦命が移住して農業を始めたことが
島名の由来とされている。

また海を生業の場として地域間の文化交流の橋渡し役を担っていた海部(あまべ)族の生活が、のちに海運業として受け継がれ、江戸時代に繁栄を築いた。
その1つである松本家の屋敷周辺(西港)では、現在も当時の隆盛ぶりを偲ぶことができる。昭和29年に市町村合併し、佐久島村は一色町に編入。
平成23年4月1日、西尾市と幡豆3町が合併し、佐久島は西尾市一色町佐久島となった。

その佐久島であるが(正確には堤防で結ばれた属島である筒島)、弁天様にまつわる不思議な言い伝えが残されている。
広く知れ渡っているふつうの弁天様は琵琶を手にしているが、佐久島のそれは他とは異なり、8本の腕に剣や弓矢、鉄の輪などを持って、
パッと見こそ優しそうな顔立ちだが、凜々しい佇まい。
これは奈良時代の初め、諸国に国分寺を造ったときの古いお経『金光明最勝王経』に描かれた古い姿で、お経によると四天王と弁天様を尊べ、と説いている。
全国にある弁天島10カ所の1つで、異彩を放つ弁天様なのだ。

もとは筒井家初代が僧の姿で紀州から佐久島に渡り、この小島を筒島と名付け、弁天様を筒井城のある大和国より運び祀ったとされている。
昔、この筒島に、渋谷九郎という甲州武田の家臣が戦に敗れて落ち延びてきた。
救いを求めて弁天様を拝み続けるうち、しだいにあまりの美しさに心を奪われるようになった。九郎は弁天様を独り占めするべく、
キラキラと輝く目をえぐり取ろうとした。そのとき弁天様の右目から血がほとばしり、九郎は急に胸がしめつけられ、悶絶したという。
今でも弁天様の右目には、血の涙を流した痕が残されている。
また筒島の石などの物を持って帰ると、必ず胸が痛くなるなどの祟りがあると信じられており、地元の人は頑なに言い伝えを守って、
小石1つたりとも持ち出すことはない。


癒しとアートの島 ようこそ佐久島へ
http://sakushima.com/
angle 筒井カメラマンのブログ 島の古い伝説
http://ameblo.jp/angle1/entry-11441635112.htm...
愛知県地域振興課 あいちの離島振興
http://www.pref.aichi.jp/0000029829.htm...

※>血の涙を流した痕が残されている。と書いたが、画像を見るかぎり残っていない気がするw

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156 2014/12/07(日) 18:15:33 ID:sX4b1JFxnU
与那国町役場 与那国島の祭事・祭場
http://www.town.yonaguni.okinawa.jp/donan-bunka/program2...
[PDF]与那国島の祭場と儀礼 大城學(沖縄県立博物館)
http://www.museums.pref.okinawa.jp/museum/issue/report/image/6-6....

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157 2014/12/07(日) 18:22:59 ID:sX4b1JFxnU
     猿の楽園に平家の落ち武者による神使伝承あり 幸島

宮崎県串間市の石波海岸から200m沖合にある幸島は、周囲約3.5km、標高113mと、一応、無人島のカテゴリーに入るが、
島内には京都大学の霊長類研究施設が設けられ、施設研究員が常駐している。
その研究員、幸島に棲息する野生猿を研究対象としている。なかでも海水で芋を洗う猿は、日本で最初に学術研究がなされたことで知られる。
現在およそ100頭の野生猿が海に囲まれ、隔離された恰好で暮らしている。天敵のいない幸島は、猿たちにとってまさに楽園であろう。
幸島は古くから猿が住んでいたといわれ、大正時代にも旧東北帝国大学などが調査を行っており、90頭もの個体が確認されている。
なぜ人里離れた小島に野生猿が棲息していたかは不明であるが、人為的に持ち込まれたという説が有力視されている。

とりわけ有名なのが、平家の落ち武者が小島に隠匿したとき、猿を神使として飼い始めたというが、伝承の域を出ない。
もっとも、後の研究では本土との行き来が少数例ながら観察されているので、自然分布の可能性も捨てきれない。
串間市地元では幸島の猿を『和子様(わこさま)』と呼び、神の使いと見なして大切にしてきた。
しかしながら、戦後、米軍の統治下にあったころ、米軍司令官にペットとして献上するために子猿が狩られ、個体数は激減。
京都大学の研究員らがこの島を訪れたとき、わずか9頭しか確認できなかった。本格的な研究を始めたのは京都大学の今西錦司と伊谷純一郎らその門下生たちで、
戦後間もないころだった。当初、都井岬の半野生馬『岬馬』を対象とするため、調査に来ていた。幸島に野生猿が棲息していることを知ると、
「馬では複雑な家族関係や社会が成り立っていない」と、物足りなくなったため、 幸島のニホンザルに注目された。

その結果、島での研究から「人間以外の動物にも文化がある」という説が初めて打ち出されることとなる。
1952年に野生猿の餌付けに成功。より綿密な観察が可能となった。そのうち、若猿がもらった芋を海水で汚れを落とし食べるようになり、
この『芋洗い行動』は、初め同年代の仲間に、次には上の年代へと広がりを見せるようになる。さらには子や孫が継いだ。
従来、「文化は人間固有のものであり、動物にはない」と考えられていた。世代と時代を越えても伝達されることは、
『芋洗い行動』を文化であるとする根拠の1つとなっている。

また、多くの猿が芋2つを両手に持って走る様子が撮影され、一時的にではあるが自然に二足歩行することが知られるようになった。
猿1匹ずつすべて名前を付ける(個体識別法)、親子・兄弟関係を記録し家系図も作るといった手法もここで始められ、
京都岩田山のニホンザルやアフリカでのチンパンジーなど他所の研究でも広く取り入れられるようになる。幸島でこの手法に貢献したのは三戸サツヱである。

霊長類研究が欧米人ではなく、京都大学を中心とした日本人によってリードされた理由の1つに、宗教観の違いが挙げられている。
キリスト教では人間は動物の頂点に立つ存在で、人間と他の動物の間には歴然たる壁があり、『動物にも文化がある』という考え方は、
人間も動物の仲間の1つと考える仏教の世界観の方が受け入れやすかったといえよう。
現在、幸島の猿および生息地は『幸島猿生息地』として国の天然記念物に指定されており、文化財保護法によって保護されている。


旅行記・幸島を訪ねて − 宮崎県串間市  2012.10 幸島
http://washimo-web.jp/Trip/Koujima/koujima.ht...
edge-life 幸島に住むボス猿がホタテからカバに変わったという話
http://edge-life.jp/archives/398...
平成16年度牛の博物館友の会シンポジウム 牛馬の守護神 厠猿信仰
http://www.isop.ne.jp/atrui/ushi/07_tomo/mayazaru/ma...
神使wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E4%BD%B...

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158 2014/12/13(土) 08:11:41 ID:NWUiJL1mKI
(瓜生島考)豊府聞書記載の地名位置
http://www9.plala.or.jp/chietaku/uryuu.ht...

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159 2014/12/13(土) 08:40:47 ID:NWUiJL1mKI
     与論島の洗骨儀礼

与論島を当『怖い島』スレに挙げ、あまつさえ洗骨の習俗を面白おかしく語るつもりは毛頭ない。
日本にはこんな葬祭文化があるということを知っておいて損はない。


改装の手順と基礎知識〜お墓の引越しってどうするの?〜 改葬で行う洗骨とは
http://grave-move.net/entry7.htm...
飛耳長耳 国際紛争の心理 九州沖縄スペシャル与論島の洗骨儀礼 とうとがなしばあちゃん与論島 死者を弔う洗骨儀礼 
http://blogs.yahoo.co.jp/nakamushyh/32394070.htm...
[PDF]与論島の洗骨儀礼に関する事例報告
http://ir.kagoshima-u.ac.jp/bitstream/10232/16673/1/AA1195...
[PDF]与論島における洗骨習俗の現状
http://karn.lib.kagoshima-u.ac.jp/bitstream/123456789/14474/3/AA...

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160 2014/12/13(土) 08:56:33 ID:NWUiJL1mKI
↓これは貴重な映像。

与論島の洗骨儀礼
https://www.youtube.com/watch?v=PmYqwiVzPc...

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161 2014/12/13(土) 09:15:09 ID:NWUiJL1mKI
     トンボロで渡った島に疱瘡墓6基あり 前島

>>139に引き続き、またしても天然痘にまつわる島を発見した。ただし、こちらは天然痘に罹って亡くなり、その遺体を葬ったとされる島だ。
長崎県五島市にある奈留島の南西部、奈留島港から約2kmのところに件の前島がある。0.47k㎡、周囲は5.6kmと小島ながら、
人口は35人ほど暮らしている。その前島から400m離れた位置に末津島があるのだが、干潮になるとこの2島の間に砂州が現れ、陸続きとなる。
そう、トンボロ現象だ。

前島は北側にある笠松地区と、西側にある江ノ浦地区の2集落からなる。その江ノ浦集落には、奈留代官山口家の次男・山口倫十郎の墓が残されている。
倫十郎は江戸後期、五島藩に謀反する者と誤解され、家運の傾いた山口家を再興した人物と言われる。
墓石の側面には『疱瘡而庵死』の文字が。当時、奈留島で疱瘡(天然痘)が流行し、感染が広がらないよう、疱瘡で亡くなった者の遺体を、
当時は無人島であった前島に運び、葬ったとされている。倫十郎もその1人だった。

倫十郎の墓石を取り囲むように6基の小さな墓石が並んでいる。全部が疱瘡墓だったと指摘されている。
また倫十郎の墓石の隣には、『尼妙道信女位』と記された墓碑が佇む。これは疱瘡でなくなった夫である倫十郎を、尼となって弔った妻のものだという。
死してなお、夫に寄り添いたいと願ったのだろう。
これらの疱瘡墓は、近くに住む江上長之助氏が管理をしている。誰かに頼まれて世話をしているわけではなく、自身の親が周辺の雑草を抜いたり、
清掃したりしている姿を見て育ったせいで、おのずと江上氏もそれに倣うようになったという。


五島・前島
http://www.hanachann.net/gotou/gotou.htm...
疱瘡神wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%96%B1%E7%98%A1%E7%A5%...
長崎県五島市公式サイト gotouまるごとう よかよか五島百景〜前島〜
http://www3.city.goto.nagasaki.jp/contents/sightseeing/column_de...
Travel:shiomi116 五島・前島
http://shiomi116.blog.fc2.com/blog-date-201303.htm...

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162 2014/12/15(月) 18:12:15 ID:TUypo3/bGM
     日本武尊の叔母・倭姫が渡ってきた島 姫島

愛知の三河湾に浮かぶ田原市唯一の島、姫島。島に平地はほとんどなく、高さは62.1m、島の周囲は約4m。
九州には同名の島があるばかりか、日本各地にも同じ地名が点在している。
三河湾のソレがいつから姫島と呼ばれるようになったのか定かではない。
姫島と冠されるのであればこそ、いろんな伝説も残されているもので、その1つがダイダラボッチ伝説。
とはいえ、これは>>26>>32と、さんざんやったため食傷気味なので却下。かわりに倭姫(やまとひめ)伝説を紹介しよう。

今から2000年ほど前、当時流行した疾病を鎮めるべく、倭姫は天照大神を祀る地を探し、諸国をめぐっていた。
船旅の途中、島に立ち寄り、倭姫はここに滞在した。蚕を飼い、その飼育方法を村人に伝えたという。
後年、姫は島で死去した。今でも蚕の餌となる桑の木や井戸、お墓があると伝えられている。
おそらくこの伝説を契機に、姫島と呼ばれるようになったのだろう。

お供だった伊勢の山田氏や小林氏らが片浜集落に住む人たちの祖先にあたり、姫島に山田と小林姓が多いのはこのためだと言われている。
ちなみに、倭姫は嵐で流され、姫島に流れ着いたとされる諸説もある。一行を乗せた舟は伊良湖水道で暴風雨にあい、梶が折れて流されたが、
ある岬の陰で風をしのぎ、命拾いをした。この岬のことを梶ヶ崎(野田町馬草港の小山)と呼ぶ。
さらに一行は潮に流され、ようやく姫島に漂着した。しばらくここに滞在し、舟を直し仁崎に渡った。
これは天照大神をお祭りする場所の候補地として目をつけたからである。
しかし適当な場所ではなかったため、世話になった村人たちへのお礼に村の中を流れる川の名として、伊勢神宮の内宮前を流れる神聖な川、
五十鈴川の名前を贈ったと言われている。

倭姫は垂仁天皇の第4皇女で、日本武尊の叔母にあたり、伊勢の地に皇大神宮を祭った人とされる伝説上の人物。
また姫島は、江戸時代の地理書には、源頼朝が奉納した御馬の神社(豊川市御津町)の神馬が逃げ出して海を泳ぎ、この島にきたという話から、
飛馬島とも呼ばれるそうだ。


倭姫命wikipedia.
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%80%AD%E5%A7%AB%E5%91%...
こらむ 阿曇連(あずみのむらじ)とサクヤヒメ
http://ascc-style.com/column/2003/11/post-29.htm...
[PDF]歴史探訪クラブ 伝説の島 姫島
http://www.city.tahara.aichi.jp/promotion/koho23/0715/tahara11...

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163 2014/12/21(日) 16:49:26 ID:XvTxHIrGKY
     カナ表記の珍しい島の由来とは? アンジャ島

舞鶴市には珍しい島名の島がある。それがアンジャ(アンジア)島だ。もっとも、現在沖から陸続きになってしまっているのだが。
三浜峠から眼下の小橋の海を見渡すと、アンジャ島を筆頭に、磯葛島、沖葛島の3島が並び、遠方に冠島、沓島を従えている。
このうち、なぜアンジャ島だけがカナ表記なのか? その経緯がこうだ。

どれぐらい昔のことか定かではない。小橋の村に、漁へ行くにも田へ行くにも、一緒に出かけるほど仲のいい兄弟がいた。
ところが当時、流行り病が猛威を振るい、村にも被害がおよんだ。現代なら抗生物質の注射1本で完治する病にすぎないのだが……。
そうなると、>>139>>143>>161のように、感染病患者は離島に隔離するしかない。
当時のまだ名前のついていなかったアンジャ島の前身である無人島に小屋を建て、兄を移り住まわせた。
弟は泣きながら毎日朝夕、小舟で食料を運んだ。しかし日を追うにつれて兄は衰弱し、弟の懸命の看護もむなしく、やがて息を引き取った。

1人残された弟は、毎朝、毎夕、島まで小舟で漕ぎつけ、在りし日の兄を思い、「兄者ー! 兄者ぁ!」と叫ぶのだった。 
この弟の切なる叫びがアンジャ島の由来なのだという。
※もしくは南北朝の争いの時代、南朝ゆかりの姫君が落ち延びて、この島に渡り、行在所(あんざいしょ)を建てて隠れていたので、
『行在島』と呼ばれるようになり、それが訛ってアンジャ島に変遷したのではないかとの諸説もある。


舞鶴市民新聞社の運営する舞鶴市近郊ローカルニュースサイト Webみなと舞鶴 NO.90 「アンジャ島」(三浜・小橋)
http://www.maipress.co.jp/menu/rensai/90.htm...

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164 2014/12/31(水) 23:18:04 ID:XFvrM/xcpY
     クロ宗の死の儀式は存在したのか? その考察1

「クロ宗のもんはな、人間の生肝をとって食(た)もッちいわるッと。病人が死にかかるとな、
夜中に家族のもんも医者もみな人払いをしてな、クロのサカヤと病人と2人だけになってな、何かすると。
それでな、人を病人の部屋へ入れてきたときにはな、病人の身体は白い布でぐるぐる巻きになっとって、
必ずもう息はひきとっておって、床下は血だらけじゃッどよ。
そいで、今度は部屋の灯を消してよ、クロ宗の連中が集まって真っ暗ななかでお通夜みたいなもんがあるんじゃが、
どんから(けれども)そのお通夜みたいなもんは並普通のとは違うて、生魚が出るんじゃッど。
山部落じゃ病人が重くなるというと、大きな魚を買いに出らんならんと。その魚のワタでもとって床下の血をどうとかしてしまう話もあッがよ。
またな、水を沢山使うし死人の身体を洗うとか、水で血を流すとかちゅう話もあッど。
御透視役ちゅうのは、死人を天国とかへ連れて行く役だとかで、剃刀役ちゅうのは、死人の頭を剃ッとか、
生肝を切りとッとかちゅう話もあッど。真っ暗なお通夜みたいなもんに集まるクロの連中の下駄は、みんな裏返してあッと。
その下駄の返し方にも、二段三段の仕掛けがあると。それで朝が来りゃ、真宗のお寺でもういっぺん、立派な葬式をやると。
その仏式のはな、盛大じゃとも、クロを隠すための恰好つけだけじゃと。クロのもんはな、年の暮頃に肉で酒盛りをやると。
子供が生まれると、水で洗ってな、生肉を口に押しつけてやると」

                             ……『鬼無鬼島』より抜粋 太平次が早子に語って聞かせたクロの噂

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165 2014/12/31(水) 23:22:42 ID:XFvrM/xcpY
     クロ宗の死の儀式は存在したのか? その考察2

……前スレ>>21で問題のクロ宗の話を書いた。今一度、コピペ(および改良)しておこう。


     『クロ宗』の鉄の掟 下甑島(しもこしきじま)

今から400年前(注1)、キリスト教徒が江戸幕府によって迫害されていたころの話。
島原の乱に敗れたあと、彼らは幕府からの厳しい弾圧を逃れるべく、鹿児島県、下甑島に流れ着いた。
離島であるがゆえに幕府の追及も届かない。ようやく安住の地を得た彼らはこの島に片野浦地区をもうけ、なおもキリスト教を信仰し続けた。
とはいえ世間から孤立することにより、キリスト教本来の教えとは異なる独自の宗教を編み出すに至る。それが『クロ宗』だった。
クロス(十字架)が語源といわれ、外部との接触を完全に拒んだ秘密結社的な概念。
驚くべきことに、隠れキリシタンの末裔たちによって今もなお受け継がれているそうだ。

クロ宗の最たる特徴は、死の儀式にある。
信者が生命の危機に瀕した場合、『サカヤ』と呼ばれる司祭のもとに運ばれ、まだ息があるにもかかわらず、生き血と生き胆を摘出するというのだ。
信じ難い話だが、その取り出したるモノを信者全員で食べ、飲み干すという……。
ある大学の民俗学教授は言う。「宗教儀式の中には、死者の魂を取り込むため、身体の一部を食するというものは存在します。
ですが、生きているうちから血と肝を抜くというのは稀ではないでしょうか。サカヤ(司祭)の家から出される遺体は白い布でグルグル巻きにされ、
その布には血が滲んでいるというのですから、恐ろしい儀式ですよね」

とはいうものの、この禁断の儀式の詳細はいまだ明らかにされていない。
クロ宗を信仰する片野浦でも、とりわけ『岡集落』の住人は、よそ者を完全に拒み、取材にも一切応じない姿勢を貫いている。
家屋は全部で20戸ほどの小集落にすぎない。しかもそれぞれの家が、3m前後ものブロック塀で囲まれており、異様な雰囲気を醸し出している。
クロ宗信者には集落内での出来事を一切口外してはならないという鉄の掟があり、それを破った者は命を取られるのではないかとも噂されている。

注1……狭義の意味での禁教令は、慶長17(1612)年、及び翌年に江戸幕府が発令したものであるが、広義の意味では天正15(1587)年の豊臣秀吉に
よるバテレン追放令や明治政府による五榜の掲示が含まれる。
※明治時代まで肝食いをやっていただの、集落に近づけさせないためのデマにすぎないとの諸説がある。あまり真に受けないように。

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166 2014/12/31(水) 23:28:52 ID:XFvrM/xcpY
     クロ宗の死の儀式は存在したのか? その考察3

……この文がいろんなサイトや掲示板でコピペされ、正直困惑している。もろに現地名を書き込んでしまった罪は大きいからだ。
名指ししてるのは当スレだけではなく、それ以前に指摘していたサイトやHP、れっきとした民俗学の報告書もあるのだが、
いずれにせよ、島民と島そのものを貶めることは変わらない。甑島出身の者がこの文を読んで気分を害され、お叱りを受けても致仕方ない。
もはや覆水盆に返らず。だったらこのまま深く切り込み、いっそ事の真偽を見極めるべきではないか。
贖罪の意味を込めて火消しというわけでもないが、こんなデマじみた話をとっとと真相究明し、島の名誉を守らねばなるまい。
そして流布の根絶に努めるべきである。

そもそも冷静なる読者諸兄ならば、「隠れキリシタンの集落はあるにせよ、肝食いなんて都市伝説だろw」と、笑い飛ばして片付けてくれよう。
幼稚な都市伝説だったらいい。しかしながら、なぜこんな奇怪な噂が広がったのか長年検証してみたいと思っていた。
前スレを立ててから4年近く経ったことだし、白状してもよかろう。僕が初めてクロ宗の存在を知ったのは、某コンビニで売っていた宙出版
『実録 怖い島 伝説の奇祭編』(¥550・主に漫画で構成されている)の紙面上でだった。
いかにも下世話でインチキ臭がプンプンしているのは否めないが、暇つぶしにエンターテイメントでも楽しむつもりで読んでみたのだ。
この安っぽい本には、当怖い島スレに取り上げてきたエッセンスがすべて詰まっていた。クロ宗の下甑島をはじめ、悪石島のボゼ、新城島の秘祭、
ハンセン病を隔離した大島、海賊の財宝が眠ると噂される大神島、渡鹿野島、新島の海難法師……あとはありがちで低俗な幽霊ネタである。
同時に多彩な『怖い島』(真贋はさておき)に惹き込まれていき、今では独自に探しまくって、この手のスレでは随一との自負を持っているつもりだ。
それはさておき、クロ宗に関してはオカルト研究家である山口敏太郎氏のサイトにも紹介されているぐらいだから、胡散臭いと言えば胡散臭いのだが。

前置きが長くなった。さっさと検証に入ろう。
とは言っても、フィールドワークによる現地取材を行いたいところだが、こちとらそんな経済的・物理的余裕はない。
しょせんは机上の研究なのだから信憑性に欠けてしまう。まあ、それは仕方ない。
それと、この際だから大胆に結論から言っておこう。さんざん長文で引っ張った挙句、尻切れトンボ的なウヤムヤな締めくくり方はしたくないので、
結論から先に出しておくのも良心的ではないか。それに長文がお嫌いな御仁も少なくない。

……では、クロの死の儀式(血を飲み、肝を食う)はあったか否かと問われれば、「ない」と思われる。
いや、「デマはデマでしかない。もしあったとしても、過去に極々稀にあった」かもしれない。
なんとも歯切れの悪い結論だが、そこに至る過程をこれから述べていこうと思う。


山口敏太郎の妖怪・都市伝説・UMAワールド「ブログ妖怪王」 クロ宗・隠れキリシタン
http://blog.goo.ne.jp/youkaiou/e/3c99c80df48e0430427...
実録 怖い島 伝説の奇祭編
http://www.amazon.co.jp/%E5%AE%9F%E9%8C%B2-%E6%80%96%E...
知られざる 怖い!怪奇村の話
http://www.amazon.co.jp/%E7%9F%A5%E3%82%89%E3%82%8C%E3...

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167 2014/12/31(水) 23:36:03 ID:XFvrM/xcpY
     クロ宗の死の儀式は存在したのか? その考察4

まずそれには1冊の著書を参考に真相に迫りたい。が、しょせん著書は著書。
いくら作者が入念に取材して得た情報を元に描かれているとはいえフィクションにすぎないので、あらかじめご了承願いたい。
フィクションだとしても、そこから抽出できる『真実』もあるはずだ。
その著書こそ、芥川賞作家、堀田善衛氏の『鬼無鬼島(きぶきじま)』である。
『鬼無鬼島』は堀田氏が昭和32(1957)年に発表した長編小説。内容はまさしくクロ宗をめぐる、ある離島での奇妙な因習の話。
断っておくが、エキセントリックなカルト教団をモチーフにした悪趣味な怪奇小説ではない。
運命に抗う純然たるヒューマンドラマでもあり、同時に青春ものの側面を併せ持ち、理不尽な境遇におかれた若者の葛藤を描いた意欲作である。
舞台は『鬼無鬼島』という架空の島だが、明らかに下甑島がモデルだ。

発表の前年である昭和31(1956)年、堀田氏は鹿児県立図書館の当時の館長、久保田彦穂氏と会談した。
その際、執筆のネタになるものはないかと持ちかけ、久保田氏はすぐさま下甑島のクロ宗こそふさわしいと教示した。
久保田氏は何度か下甑島を訪れており、島の事情に明るかった。そのときにクロ宗について取材しており、
自身では描ききれないこの土俗信仰の世界を勧めたわけだ。
俄然興味を示した堀田氏(この芥川賞作家にして、クロ宗はソソるネタだった)はすぐに下甑島に渡り、1ヶ月滞在。
念入りに取材して『鬼無鬼島』を書き上げたというのだ。

とにもかくにも著書を手に入れ、読んでみることにしたのは言うまでもない。そして読了した結果……。
個人的主観で言わせてもらえば、「面白い、面白くない」という単純な定義からすれば、ハッキリ言って面白いとは言い難い。
拙い読書生活で、好きな本を10指挙げよと問われたならば、僕はノミネートしまい。とはいえ奇妙な余韻が残る印象的な話であったことは確かだ。
あらすじをここに書き連ねるのは無粋だ。以下のリンク先(女おいどん日記 大山昇子 [本]鬼無鬼島)でだいだいの流れがわかるので(もっとも、
中盤あたりまでだが)、そっちでつかむことを勧める。未読の方は面倒でもまずは目を通されよ。
でないと、これから先の話がチンプンカンプンになる。この後のレスにて、物語の後半を暴露していくつもりだ。
もしも興味を持たれ、自分で読んでみたいというならばネタバレにつながる。残念ながらこれ以降のレスは読むべきではない。


女おいどん日記 大山昇子 [本]鬼無鬼島
http://d.hatena.ne.jp/oyama_noboruko/20060810/p...
堀田善衛wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A0%80%E7%94%B0%E5%96%...
椋鳩十(むくはとじゅう・久保田彦穂のペンネーム)wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A4%8B%E9%B3%A9%E5%8D%...

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168 2015/01/01(木) 07:15:25 ID:ZG/mlLfMb2
     クロ宗の死の儀式は存在したのか? その考察5

物語の時代は戦後間もない昭和20年初秋。敗戦でいまだ深手の傷を負い、未来に対する息苦しい閉塞感が文脈から伝わってくる。
舞台は上述したように『鬼無鬼島』。モデルとなった甑島同様、上鬼無鬼島、中鬼無鬼島、下鬼無鬼島の3島からなり、物語の舞台は下鬼無鬼島だ。
作中、クロ宗の信者がいるとされるのが『山部落』という小集落だ。『山部落』には『サカヤ』なる指導者が共同体の上に立っている。
サカヤとは司祭、または昔でいう庄屋か区長を指す。呼び名の語源は『サクラメント』であるとされている。つまり神思を信徒に分け与える役職。

『クロ』『クロ宗』というのは、クロス、すなわち十字架、磔刑から来たことであって、古い隠れキリシタンの一派だろうということだった。
また甑島島民の出自は平家の落人が多いとされている。鬼無鬼島では平家どころか、楠正成や淀君、木村重成、真田幸村の一派が流れてきたと言及。
それに島原の乱で負けて落ちのびてきた隠れキリシタンの末裔が加わり、血はますます渾然一体となったと描かれている。

ところでサカヤの下には2人の忠実な側近がいる。1人は『御透視役(みとおしやく)』、もう1人は『剃刀役(かみそりやく)』なる役職の男たちである。
この2人も、いわゆるクロの死の儀式『秘蹟』で立ち会うのだという。
>>166で上記した儀式は、『実録 怖い島 伝説の奇祭編』によればこうだ(『鬼無鬼島』作中では、ここまでハッキリと言及されていない)。
……クロの信者が生命の危機に瀕したら、サカヤの屋敷に運ばれ、まず完全に外界からシャットアウトされる。
信者を寝台に横え、サカヤと御透視役、剃刀役の4人のみになる。サカヤが祝詞を唱え、次に御透視役が『施術』の実行を告げ、
それを合図に剃刀役が手にした刃物で信者の腹を切り裂く。まだ生きているにもかかわらずである。
したたる血を器に垂らし、裂いた腹に手を突っ込んで『生き胆』を取り出し、それも器に盛る。それを少量ずつ信者らに振る舞うのだという。

本来、御透視役は子供が生まれたときの相談役にすぎず、剃刀役は信者に死人が出たときに遺体の頭に剃刀をあてて、髪の毛を少し剃って取る、
それだけの役でしかなかった。それが迫害されているうちに、イビツに変容してしまったのだとか。
キリシタンは長年、お上から迫害されては耐え忍んできた。その昔、『ゲド(外道)』と蔑まれた信者たちが、自由を求めて方々の離れ島に、
今日でいえば開拓民のようにして逃げ込み、そこで『ヒラキ(開き・開拓者の意)』とか、『イツキ(居付・移住者の意)』とか地元民に蔑まれながらも
信仰を守った。
ところが、世間一般と隔絶した生活を送ってきたために信仰そのものが土俗化。明治5年以後、信仰の自由を得て公教会に戻ろうとしても、
もはや原型をとどめぬほどに変容してしまい、病気平癒や災難よけの加持祈祷の類となったものが、現に五島列島にあるのだという。


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169 2015/01/01(木) 07:20:51 ID:ZG/mlLfMb2
     クロ宗の死の儀式は存在したのか? その考察6

ところで、ここで指す『生き肝』とは『肝臓』を表すのか、それとも『肝を冷やす・肝をつぶす』という慣用句があるように、
『心臓』を指すのか、いまいち判然としない。
我々が魚や焼肉の『キモ』を食べる際、店で注文して出される部位は『肝臓』で間違いない。
ところがクロにとってのソレは『心臓』を示唆するのではないかとの見方もあり、一概に決め付けるのは性急すぎる。
そもそもなぜ『生き肝』なのか? 個人的に『生き肝』というキーワードで真っ先に思い浮かぶのは『安達ヶ原の鬼婆』だ。
福島県二本松市の有名な伝説『安達ヶ原の鬼婆』では、乳母・岩手が理由あって旅人を襲い、生き胆を取り出すくだりがあるが、
やはりこの生き胆は心臓のことを示すようだ。
生き胆を取り出し、それを食するという話は古代中国でも散見されるらしい。
生体から取り出したナマに臓器に、そんな難病を治癒するほどの効能・栄養価があるのだろうか?

肝臓か心臓か。いずれにせよ、『信者の核となる肉片』というシンボルと解釈すればよいはずだから、これ以上追求せずともよかろう。
別資料によれば、他の信者らがその生き血を飲むことで、死にゆく人と一心同体となる意味で体内に取り込むのだという。
肝を少しずつ切り分け、みんなが一口ずつ食べる行為とは、生き血を飲むという倫理に反する事実を運命共同体としての『口封じ』の意味合いが
込められていると考えられる。なんともグロテスクなイニシエーションだ。こんなカルト教団が現存する(した)とは俄かに信じ難い。

誤解を招くといけないので念を押すが、『鬼無鬼島』の猟奇的な部分ばかりをクローズアップしてしまったが、内容は極めて誠実な文学作品である。
古臭く頑迷な現状を変革しようとする者(作中ではサカヤである用賀家成が対応)と、若者特有の、理不尽な物事を変革どころか、
打ち壊して無に帰してやりたいと思う主人公を対比させる物語であって、シチュエーションが特異なだけで俗っぽいウケを狙ったものではない。


サクラメントwikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%82%AF%E3%83%...
安達ヶ原・観世寺
http://home.s01.itscom.net/sahara/stone/s_tohoku/fu_kanze...
ヒトに由来する生薬wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%92%E3%83%88%E3%81%...
屍体と民俗 中山太郎
http://www.aozora.gr.jp/cards/001420/files/50270_47671...

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170 2015/01/01(木) 07:29:41 ID:ZG/mlLfMb2
     クロ宗の死の儀式は存在したのか? その考察7

サカヤである用賀家成は60にも届こうかと思える男で、井の中の蛙が村落の長に居座っているのではない。
彼自身、若き日には大阪の私立大学に通い、学生運動に明け暮れ、若気の至りで、世の中を変えてみせるという自負を抱いていた。
そして父であり、先代であるサカヤに反抗して、こんなクロ宗のような得体の知れない信仰をいずれ終わらせてやると鼻息を荒くしていた。
父が勝手に決めた許嫁を拒否し、鹿児島の芸者と一緒になって満州へ渡り20年をすごすも、戦時下、父が老衰で死ぬと同時に帰島。
彼はサカヤのたった1人の世継ぎだったので、懇願に根負けしてその役を引き継いだのだった。
若いころ、法律書生であった彼は人生の無常さを見てきた。いつしか諦念だけが彼を支配した。信じられるものと、信じられないもの隔たり。
友則もまた、数奇な出自と信仰の在り方に怒りを憶えている。サカヤはそんな友則を自身の青年時代と重ね、時に激情をぶつけ合うのだが、
同時に親近感を感じている。

サカヤは信者を集め、「らおらてどのみの、ぜんてらおらて、いよみず、ぱるとり……」(※『主の祈り』が変容した祝詞か?)と、
呪文めいた言葉を呟きながら、錫器に満たした水に手を浸し、その飛沫を信者らに浴びせる。
その行為になんの意味があるのか、もはやサカヤにはわからない。先代の親から受け継いだ盲目的に続けてきた信仰にすぎない。
これが古くから継いできた『伝統』なのだ。
山部落での信者らの暮らしは貧しかったが、用賀家成だけはサカヤの特権で悠々自適の生活を送っていた。
基本的な役目も、台風がすぎたあと畑の被害状況を巡視しては、村人にねぎらいの言葉をかけるような共同体の世話役でしかない。

そんなサカヤ自身も葛藤を抱いている。サカヤ、または『山ノ天皇』と呼ばれ尊敬されていても、しょせんは張子の虎にすぎず空虚だ。
クロ宗とて、中身のつまった権威らしい権威は存在しない。仏教のような拝むべき本尊もなければ神道のように御幣があるわけではなく、
切支丹であるにもかかわらず十字架すら持たない。読んで心が洗われる教典さえないのが実情なのだ。
サカヤは思う。「確たる実権すらないのに、ただ役者のように、サカヤの役を演じているにすぎない。おれはピエロだ」
いつしかサカヤは思考停止させてしまう。いずれおれが死んだら、サカヤなんぞ、おれ1代で終わりにしてしまおうと考える。

昔、西洋からキリスト教と文明が入り込んできた。それが日本の風土に根付くためには、土俗化しなければならなかった。
日本の原始宗教や神仏となじまなければ迫害された。土俗化の過程で、長く厳しい禁圧があったがために、本体はいつの間にか変容した。
その変わり果てたシンボルの1つがサカヤなのだろう。
いっそのことサカヤなど、いやクロ宗という過去の遺物を叩き壊し、きれいさっぱり廃止してもいい頃合なのだ。
なのに村落の連中ときたら古い習俗にしがみつき、サカヤを引き立て秘密の会合を続け、あまつさえ『秘蹟』をしろとそそのかす。

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171 2015/01/01(木) 07:37:42 ID:ZG/mlLfMb2
     クロ宗の死の儀式は存在したのか? その考察8

友則もまた悩んでいる。
彼は兄、元一が死ねば(あるいは、息があるうちに)サカヤが生き肝を取るのではないかと怖れている。
むしろ熱心な信者である母がそれを願ってさえいる。元一は病気がちで、波乱の生涯だった。せめてサカヤに取ってもらうことより、
あの世で幸せになってくれればと盲目的に願っているのだ。
友則は、生き肝を取る行為とはなんの意味があるのか、憎みつつも知りたい。そして宗教が幅を利かせ、その実うつろなこの現実を壊し、
いつかは鬼無鬼島から恋人の早子とともに出ていくのだ。
物語は元一が死ぬ騒動により、展開がめまぐるしくなるのだが、結局、元一の生き肝は取られることはない。血も飲み干すシーンもない。
てっきり友則はサカヤが兄を殺し、秘蹟をやろうとしたのかと早合点し、激しくつめ寄る。対するサカヤは、こんな真実を明らかにする。

「厳しい禁制の間に文書も印も失い、何がクロ宗に残ったと思う? 一言でいえば本体がなくなってしまい、
キリシタンの妖術だとか魔法だとか呪術だとかと言われたもの。信仰とは何も関係のない、外部の人間どもが垂れ流した噂だけが残った。
肝心の本体がいつの間にか人の心、信仰の中から消えてしまった。そこで今度は自分たちがクロスの信者だということを証明するために、
外部の人間が魔法だの妖術だのと言いふらしていたことを、逆に信者同士でやらねばならなくなった。これが悲劇の始まりだ。
すべては偏見と差別から始まった。たとえば明治初期、『電線が作物の出来を妨げる』だとか、『電線は処女の血を銅線に塗って音信を流す』だとか、
『写真機は人の魂を吸い取る』とか言ったもんだ。
それと同じで、『宣教師は子供の生き肝を食べる』だの、『瀕死の人の眼球をえぐり取る』だなんて、馬鹿げた嘘も流された。
生き肝を取る、生き血を吸うなんて話は、何も宣教師に限ったことじゃない。日本に仏教が入ってきたときでさえ、そんな悪い噂が広まったものだ。

そんな仏教が落ち着いて、いざ今度は切支丹が入ってくると『宣教師は人間を食う』などと、仏教の坊主どもが切支丹信者に信じ込ませようとして、
血に染まった布を宣教師の家の門口に投げ込んだそうだ。すべては浅はかな迷信と、信者を増やさまいとする卑劣なデマだ。
クロの信者は悲惨だった。信仰の対象を失ったうえ、他人に押し付けられた迷信じみた噂を自分たちで実践して、
自分たちの信仰心を試さねばならぬところまで追いつめられたのだ。
『瀕死の信者の生き肝を取る』というのは、おれの推測では、切支丹では死ぬ前に家人を遠ざけてバテレンと2人きりになって懺悔をする、
その家人を遠ざけることから出た妄想じみた推測にすぎない。おれはクロが追いつめられた、と言ったが、追いつめられただけじゃない。
追いつめられて先祖帰りしたのだ。生き肝取りの件は部落の結束が危うくなったときに、サカヤの一生では一度やるだけの『切り札』だった。
現におれがサカヤになってからというもの、一度たりともやっていない」
 
……と、このように、共同体としてのアイデンティティーの維持が難しくなったとき、彼らは他人(主に薩摩藩が意図的に流したとも)に
後ろ指さされたデマをあえて実行し、信仰心と結束を試したというのだ。日本人特有の負の感情である閉鎖的排他的な『ムラ意識』(シマ意識)なら、
忌み嫌うと同時に怖れるあまり、偏見や悪質なデマを流布させるだろうし、窮地に立たされた被害者側の共同体がそれを受け容れるのも、
なんだか充分に考えられうる話だと思う。


バテレン追放令wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%90%E3%83%86%E3%83%...
日本キリスト教史wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%82%...
幕末物語 Topic15 異人は若い日本女性の生き血を吸うらしい
http://onjweb.com/netbakumaz/jshoda/essay/topic1...
神様の教会世界福音宣教協会 聖書に関する質疑応答
http://japanese.watv.org/truth/qna/content.asp?idx=2147...
都市伝説という謎 都市伝説概要
http://yosicomic.jugem.jp/?cid=...

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172 2015/01/01(木) 12:48:12 ID:pH.7IML5.E
     クロ宗の死の儀式は存在したのか? その考察9

それにしても、心ない近隣住人による誤解と悪質なデマ『宣教師は子供の生き胆を食べる・生き血を吸う』は、なぜ派生したのか?
意外にも、生き胆云々の答えを解くヒントは身近にあるではないか。……それがアンパンマンだ。
なぜアンパンマン、と言うなかれ。
アンパンマンが空腹の者に『顔の一部を分け与える』ことで、パワーダウンするとわかっていても、困っている人を見捨てることはしない。
その自己犠牲の精神とヒーロー性こそ、イエス・キリストのソレと同義ではないか。キリストがカリカチュアされた姿と言っても過言ではない。
2013年10月、原作者やなせ氏が死去の翌日、東京新聞の追悼記事にて「ダンディーで信仰篤いクリスチャンだった」と報じられていたが、
後日、同誌上において「やなせさんをクリスチャンとしたのは誤りでした」との訂正記事を載せている。
クリスチャンであろうがなかろうが、キリスト教となんらかの接点があったはずで、この主人公はキリストを投影しているのは間違いあるまい。

そのアンパンマンが自身のパンを分け与えるということは、『聖体拝領(せいたいはいりょう)』を体現していると見てよい。
カトリックでは、司祭が司式するミサの際、キリストの言葉と聖霊の働きにより、パンと葡萄酒はキリストの肉体と血に聖変化するとされている。
聖変化とは、『パン・葡萄酒という形色のうちに、実体として聖体となる』という意味。
この聖体は父なる神への聖なる捧げものであり、キリストの受難と復活の記念であり、その拝領はイエスとの同義でもありながら、
イエスの神秘体である教会共同体としての一致を表している。
ちなみに、資料『キリシタン書 排耶書』に収録された『サカラメンタ提要付録』にはこうある。アンカー部分が引用文。

>ミサは、イエスの「最後の晩餐」に由来する集いです。イエスは十字架での死の前夜、弟子たちとともに晩餐を行い、
>その席で、「これは私のからだ、私の血である」と言われ、パンと葡萄酒を弟子たちに与えられました。
>そして、「これを私の記念として行いなさい」と、弟子たちに命じました。
>それ以来2000年の間、教会は、イエスの死と復活を記念し、命じられたとおりパンとぶどう酒の中におられるイエスをいただいて、
>イエスと一つに結ばれるミサをおこなっています。ミサの最後には、聖体拝領がおこなわれます。
>信徒は、丸いパンの中におられるキリスト(聖体)をいただきます。(中略)聖体拝領はカトリックの洗礼を受けた信徒に限られますが、
>洗礼をまだ受けておられない方は、代わりに祝福を受けることができます。
>信者と同じように列に並び、司祭または奉仕者の前で「祝福をお願いします」と言って小さく頭を下げてください。
>祝福が終わりましたら「アーメン」と唱え、元の席へお戻りください。

恐らくこのカトリックの『聖体拝領』が、誤解や悪意によって歪められ伝播されたのは明白。伝言ゲームが徐々に曲解された内容になるような
効果も手伝ったかもしれない。だからこそクロ宗に限らず、キリスト教自体が日本に入ってきた直後、いわれなき中傷を浴びた。


宗教のときめき 22. アンパンマンとキリスト教
http://www42.tok2.com/home/yasuiyutaka/tokimeki/22an...
Laudate 第86回 秘跡的いけにえにおける感謝、記念、現存
http://www.pauline.or.jp/catechism/catechism086.ph...
Laudate 第87回 キリストとそのからだである教会の、いけにえによる記念
http://www.pauline.or.jp/catechism/catechism087.ph...
Laudate 第88回 キリストのことばとその霊の力とによるキリストの現存
http://www.pauline.or.jp/catechism/catechism088.ph...

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174 2015/01/01(木) 12:58:17 ID:pH.7IML5.E
[YouTubeで再生]
     クロ宗の死の儀式は存在したのか? その考察10

肝食い・生血を飲む、といった秘蹟の正体はこれで合点がいったと思う。
くり返すが、『鬼無鬼島』は堀田氏が綿密に取材したうえでの作品ながら、サクヤ・用賀家成の独白はリアリティがあるものの、
あくまでフィクションにすぎない。それをどこまで鵜呑みしていいか読み手に委ねられるが、いずれにせよ、
信仰を続けていくことの苦悩と心の叫びは真に迫るものがあろう。
現実的に岡集落内で、過去に秘蹟をやったか否かまでは知る由がない。
やったことがあるかもしれないし、周囲の人間が畏怖するあまり、デマだけが1人歩きしているだけなのかもしれない。
おそらく今はそんな歪んだ信仰も廃れ、秘蹟などもちろん、サカヤそのものも存在するまい。

……あと、ついでに付け加えておく。クロ宗信徒が集るとされる岡集落を取り巻くブロック塀の件である。
3mにも届こうかと思われる高い塀で家を囲み(……が、>>165の画像を見る限り、いくらなんでも『3m』は誇張しすぎだ)、
いかにも閉鎖的な雰囲気を醸す集落の風景は、単に風よけの説が有力だ。
冬になれば谷になった集落に強風が流れ込まぬための防衛策だったともいうが、本当のところはどうだろうか?

『家』そのものと、それを囲う『庭』は、実は人間の潜在意識が働くものである。やたらと窓や玄関を開放して空気を入れ替える家人は、
開放的な性分の人だし、「動物好きに悪い人はいない」と言う人もいるが、過剰な数を飼ってる家人の場合、近隣住人に対し、
吠え声や糞尿の臭いの迷惑も顧みないとなるとエゴイスティックな人と取られかねない。
庭いっぱいに花を作っている人は朗らかで、心に余裕がある人が多い(下世話だが経済的にも余裕がある場合が多い)。
それとは逆に、高い塀や生垣で囲い、玄関には監視カメラを取り付けてある家人は、逆に言えば開放的なはずがない。
自分たちの信仰を誰にも邪魔されたくないからこそ、隠したい心理が働いたのではなかろうか?
まあ、塀の話はこれぐらいにしておこう。塀もまた、しょせん塀でしかない。

……とにかく、クロ宗の死の儀式はこんなカラクリだったわけだ。島という小世界では、習俗や価値観が純粋培養し、長時間を経て熟成され、
時には内地とはかけ離れてしまうことがしばしばある。その変容事例の極北と言えよう。
だからあれほど『※明治まで肝食いをやっていただの、集落に近づけさせないためのデマにすぎないとの諸説がある。真に受けないように』と、
補足しておいたのに、誰かさんがこんな動画作っちゃうんだから……。
今回はいささかレスが長すぎた。検証はこのへんで幕引きしよう。
肝食いや生血飲みを恐れるのではない。それを悪意で歪めてしまう我々の心の闇を恐れるべきなのである。


隠れキリシタン
http://www.geocities.co.jp/Playtown-Knight/7829/texts/kak...
[PDF]2012 年度早稲田大学教育学部講義「日本史研究Ⅳ」22.近世人とキリシタン(2)—異端的宗教活動と潜伏キリシタン 2012.11.20. 大橋幸泰
http://www.f.waseda.jp/yohashi/nihonsikenkyuu/1120.pd...
崖っぷちの一歩 隠れキリシタンについて。
http://blogs.yahoo.co.jp/amat_aya/32169192.htm...
南勢出版 22.キリシタン殉教の地に想う
http://www.nansei-shuppan.com/wp/honda/past-aic/2079...
1995年11月号/第71号 [ずいそう] 古本の話 木村 雅信(きむら まさのぶ ・ 札幌大谷短大教授)
http://kamuimintara.net/detail.php?rskey=71199511z0...
teratown.com@journey » 2009 » 11月 » 11 - 寺町健
http://teratown.com/blog/2009/11/11...
50年ぶりの疑問が解けた! - 河童の川流れ - Yahoo!ブログ
http://blogs.yahoo.co.jp/nakam1866/51965253.htm...
『男の隠れ家』Bohken-Dankichi 鹿児島の旅④…下甑島③
http://blogs.yahoo.co.jp/olivin_kanranseki7/folder/5340...
[PDF]五島列島・椛島における点在集落の歴史 脱カクレキリシタン史の視点 佐藤智敬
http://journal.seijo.ac.jp/gslit/student/jomin/pdf/jpn-02...

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175 2015/01/10(土) 07:56:43 ID:5B68EYvsbo
     クロ宗の死の儀式は存在したのか? その考察11

>>166で『れっきとした民俗学の報告書』と書いたが、1例を紹介しておこう。
昭和11年に出版された『川内地方を中心とせる郷土史と伝説』(著者・鹿児島県立川内中学校編、出版者・鹿児島県立川内中学校より)
の101頁目(サイトの『コマ番号』は『69』)にはクロ宗に関する記述が見られる。全文抜粋しちゃおう。平易な漢字で書きなおしてみた。
アンカー部分がソレ。


>甑島のクロ宗

>甑島、下甑村の片ノ浦には「クロ宗」と称せらるるカトリックに属する一種の密教が現存している。
>片ノ浦海岸を隔たる十町、谷間の山間部落にして八十余戸が密集し、平和な農村部落を形成している。
>部落民の結束極めて固く、すべて秘密主義をとっているため、このクロ宗の本体もまた判然となっていない。
>最近県当局の調査によれば、クロ宗のクロとはキリストのクロスから転化した語と見られている。
>付近の古老の言によれば、今を去る約三百年前、島原の乱に敗れた信徒の一部が信仰の自由を求めて海を渡ってひそかにここに転住したものと言われ、
>したがって現在ではクロ宗に関するよるべき確実な資料は発見されず、ただ部落には十字架を彫り付けた三基の墓碑が遺っているのみである。
>部落民の特殊な風俗について見るに、部落民は極端にクロという言葉を嫌悪し、便所も十字を踏まぬ構造となっている。
>祭礼の行事は年一回深夜、極秘裏に催される。
>この深夜、祭事を行うのは、イエス・キリストの誕生日にヤソ(キリスト)教徒が深夜に祭りを行うという古い習慣があるのを、
>部落民が襲行?しているものと考えられ、信徒死亡の祭りは、まずクロ宗による祭りが行われてあと、喪を発して真宗による葬儀を執行すると言われている。
>同部落の素封家(財産家)大毛示氏は、クロ宗の本家と称せられ祭事を握っているものと言われているが、氏は京都中学を経て中央大学出身の人格者である。
>同氏を中心とする部落民の信仰生活はまた恵まれたものであろう。


近代デジタルライブラリー 川内地方を中心とせる郷土史と伝説
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/125597...

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176 2015/02/01(日) 09:13:15 ID:nSv/dix3aA
     津久見島からきた大蛇、娘を憑り殺す 津久見島(つくみじま)

>>38で『臼杵城を鬼や邪から守るための鬼門封じの島』として大分県臼杵市の津久見島を取り上げたが、さらに追加。
この島にも大蛇伝説が残されていたので。ここで登場する大蛇もなんらかの暗喩だろうね。

永禄5(1562)年5月、戦国大名・大友義鎮は臼杵の丹生島(にうじま・現在の臼杵公園)に城を築いて隠棲した。
島の周囲は切り立った絶壁になっており、居城とするには絶好のロケーションだった。義鎮はのちに剃髪し、宗鱗と名乗ったときの話。
宗麟は多くの一族や家老たちを引き連れ、城のまわりに住まわせた。この家老のうちの1人に人目を惹く娘がいた。
幼少より抜きん出て美形だったが、年ごろになって美しさに磨きがかかり、いつしか臼杵城下一の美人と噂されるようになった。
縁談があちこちから持ちかけられた。そのたびに娘は首を横に振り、両親も彼女を手放したくない思いから自宅に閉じ込め、
虫が寄り付かないようにするほどの可愛がりようだった。
ついに娘は18歳の春を迎える。そのころから塞ぎがちになり、木々は緑の芽をふき花が咲き乱れ、誰もが心浮き立つというのに、
表情は日ごと暗い影を落とし、思いつめる日が続くようになった。

時同じくそのころ、臼杵城下町では奇怪な噂が人々の耳目に触れた。臼杵湾内にある津久見島から丹生島城にかけて、
毎夜、銀のさざ波が走ったかと思うと、生臭い一陣の風を伴い、ギラギラ光る怪物が海を渡ってくるという。目撃した者は3日3晩うなされるらしい。
そんななか、娘の病状は日増しに重くなるばかり。父母は娘に問うた。もしや恋の熱病ではあるまいか。
娘は打ち明けた。「毎夜、子の刻(午前零時)をすぎるころ、美しい男性がいずこからともなく通ってくるようになったのです。
すると私は気を失い、その後のことはなにも憶えていないのです。ですがいまでは、その男性のことが忘れられなくなっているありさま。
正直言うと、待ち侘びてさえいるのです」
両親は顔を見合わせた。まさか津久見島から城に渡ってくるという怪物と因果関係があるのではないか。

家来のなかから腕に憶えありの若侍を選び、「怪物の正体を見極めよ。場合によっては斬れ」と宿直を命じた。
真夜中。若侍が寝ずの番をしていると、不意に庭の繁みから若い男の姿が現れ、娘の部屋に入っていった。
若侍は刀に手をかけたまま、金縛りにあったように身動きができない。しばらくすると、件の男が部屋から出てきた。
若侍は裂帛の気迫をふりしぼって抜刀し、「曲者めが!」と叫んで一閃。ところが影を切ったかのごとく手応えはなく、
平然と男は去っていこうとする。
追いすがって今度こそと刀を振るったが、やはり実体がないかのよう。やがて城壁の端に出たかと思うと、ザブンと海に身を躍らせた。
若侍が駆け寄って海をのぞき込み絶句した。男の姿はなく、そこには10mほどもある大蛇が銀色の光を放ち波間をわけていくではないか。
その一件以来、娘のもとに男が通うことはなくなった。
しかしながら娘は日ごと衰弱し、ついには全身の血が枯れ、数日のうちに朽ち木のように見るも無残な姿となり、短い一生を終えたという。


大友義鎮wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%8F%8B%E7%BE%...
豊後水道の奇岩と奇石 豊後水道・津久見市周辺海域で佳丸撮影
http://www.hyper-tsukumi.jp/‾amadai/kiseki.html
パノラマ写真で見る大分県 民話や伝説 大分県の民話や伝説
http://www.d-b.ne.jp/siga/tokusen/minwa.htm...

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177 2015/02/14(土) 10:41:19 ID:3Ak4X4jl6E
     姫島婿島物語 向島

山口県防府市南部の瀬戸内海上にはタヌキの島として知られている向島がある。大正15(1926)年2月24日に『向島タヌキ生息地』として
国の天然記念物に指定されてから、指定当初はおよそ2万頭もの個体数を誇っていたが、錦橋の開通にともない近年は野犬が増加。
その食害によって数は激減している。

向島は遥かな昔、神代のころ、豊後国の国東半島の沖合にある姫島に対し、婿島と呼ばれていた。
婿島と称されていた時代、こんな悲恋の物語が残されている。
そのころ、周防国の佐波志那都命(さばしなつのみこと)に、牟礼香来比古(むれかくひこ)という嫡男がいた。
身の丈6尺(1.8m)あまりで筋骨たくましく眉目秀麗ばかりか、たいへんな働き者。
佐波川の荒野を開拓して美田とし、財をたくわえ豊かに暮らしていた。周防国きっての評判の若者であった。

一方、海を隔てた豊後国の国東には、加奈古志比売(かなこしひめ)という、これまた類稀な美貌と、諸芸に秀で誉れ高い姫君がいた。
父の佐伯速阿岐命(さえきのはやあきのみこと)のもとには国中の多くの若者が、ぜひとも婿にと申し込みが殺到したが、美姫と釣り合う若者は見当たらなかった。
姫の縁談に気をもんでいた父のもとへ、ある日、塩土老翁(しおつちのおじ・当スレ>>104を参照)が訪ねてきた。
話を聞いた塩土老翁は、姫にふさわしい若者をあれこれ思案したのち、周防国の牟礼香来比古のことを父君に紹介した。
さっそく佐伯速阿岐命は、老翁に仲介を頼んだすえ、晴れて牟礼香来比古と加奈古志比売は契りを交わした。

しかしながら当時の結婚生活は特殊なものだった。夫婦は一緒に暮らさず、夫も妻も以前と同じく、それぞれの実家に住むのが通例であった。
夫が妻の実家に夜ごと通い、夜のうちだけ妻子と団欒をともにする、週末婚ならぬ半日婚である。
牟礼香来比古は日中を周防国で働き、夜になってから舟ではるばる国東の加奈古志比売のもとに通い、夜明けにまた佐波の浦へ出かけるという、
涙ぐましいハードスケジュールの生活を強いられた。

とはいえ牟礼香来比古は働き者なだけでなはなく、妻思いの若者だったので、夫婦愛はいっそう深まった。
ところが日が経つにつれ、さすがの牟礼香来比古も疲労が重なって健康を損ない、労働意欲までなくしてしまう。佐波川の美田も荒らしてしまう始末。
不憫に思った父、佐波志那都命は、妻のもとへの通うのをやめるよう諭した。それに反し、牟礼香来比古は家人の目をかすめて国東へ通い続けた。
堪忍袋の緒が切れた父の命は、息子の舟に鎖をかけて、舟が出せないようにした。このままでは息子は早晩、命を落としてしまう。
例のごとく家人の目を盗んで牟礼香来比古は、舟に乗り込み櫓を漕ぐが、櫓はきしむばかりで舟は前に進まない。
若者は灯台下暗しを地で行ったことに気づかなかった。「加奈古志比売、加奈古志比売よ……」と、暗い海に向かって叫んだ。
悲しいかな若者は、夜明けとともに舟ごと島へと姿を変えてしまった。いつしか人はその島を婿島と呼ぶようになった。
のちにそれが今日の向島へと変遷するわけである。

一方、夫を待ち侘びた姫も、国東の沖まで舟を出して夫を迎えにいったが、ついに夫が来ないまま夜が明けてしまった。
同じく加奈古志比売も、舟ともども島へと変化した。これが大分の姫島の誕生だった。
このように恋い慕う夫婦の仲が引き裂かれて離島となり、海を隔てて向かい合って、現在もたがいに会いたがっているというのだ。


向島公民館(出張所) 向島探訪
http://www.city.hofu.yamaguchi.jp/site/mukoushima-kom/mukokom-ta...
豊徳園ライブラリー
http://www14.plala.or.jp/hotokuenhp/libraryind.ht...
^^冬 銀 河^^のブログ 銀河通信 島に渡るには遮断機に注意
http://ameblo.jp/gingayamato/entry-11928923605....

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178 2015/02/22(日) 06:30:13 ID:LKbB/E8UC.
前スレもスレッド5ページ以降に流れてしまっても、ちゃんと検索すれば生存が確認できます。
あいにくサイズ500KBを超過をしてしまい、レスできませんが。


怖い島・いわくつきの村・総合
http://bbs50.meiwasuisan.com/kaiki/1303097760...

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179 2015/02/22(日) 06:33:53 ID:LKbB/E8UC.
     堂ヶ島のゆるぎ橋伝説 三四郎島

前スレ>>246で取り上げた静岡県は三四郎島の悲恋伝説は、個人的にお気に入りだった。
恋が成就する話よりも、想いが届かない悲恋の方がいつまでも余韻を響かせるからだろう。
おさらいしよう。三四郎島は静岡県賀茂郡西伊豆町に属する景勝地・堂ヶ島海岸に点在する象島、中ノ島、沖ノ瀬島、高島の4島の総称だ。
その景色の美しさから『伊豆の松島』とも称えられている。
駿河湾上より伊豆半島の沖合約200mに位置し、干潮時には半島に近い象島まで、幅30mほどの浅瀬が現れる。
沖ノ瀬島は潮が引くと完全に中ノ島とつながってしまい、沖ノ瀬島と中ノ島を1島として数えられることもあり、
また見る角度によって3つに見えたり4つに見えたりすることから、三四郎島と名付けられたとも言われている。
いずれにせよ観光客はその砂の回廊を歩いて渡り、中ノ島で逢瀬を重ねていた源氏の若武者・三四郎と小雪たちに思いを馳せるのも一興だろう。

それはそうと、堂ヶ島海岸には伊豆七不思議の1つとして、こんな伝説が語り継がれていた。
天平年間(729〜749年)、伊豆ノ国田方郡の堂ヶ島に海賊の一団が悪事を重ねていた。これは紀伊国熊野から流れてきたと伝えられている。
頭目の名は墨丸。多くの仲間を従え、沖を行き交う船を襲い、近隣の村も略奪の憂き目に遭っていた。
村々では都へ献上する年貢として、特産の鰹節や砂金を収めるのが習わしであった。
ところがある年、墨丸率いる海賊の一味が砂金欲しさに押し入ってくる。村人は懸命に応戦するも、いかんせん多勢に無勢。
ついに砂金はごっそり奪い取られてしまった。

たっぷり戦利品を得た海賊たちが薬師堂の前の橋にさしかかったとき、奇跡が起きる。
橋は直下型地震のように激しく揺れ、海賊たちは立ち往生してしまう。橋から川の中に転落してしまう者もいるほど。
砂金の袋を離してなるまいと抱えて渡ろうとした墨丸だったが、どこからともなく仁王さまが現れて、墨丸をヒョイとつまみ上げ、
薬師如来さまの前に差し出されてしまったという。
とっくり薬師如来さまに人の道を説教された墨丸は、それまでの悪行を悔い改め、以後このお堂の守護に尽力した。

このあと薬師堂の前の橋は、心の汚れた者が渡ると揺れる『ゆるぎ橋』と呼ばれるようになった。
月経中の女性が渡ると揺れるともいい、橋を削り取った木片を焚き、その火を見せると夜尿が治るとさえ伝えられる。
現在では橋と薬師堂は、長年の風雨による浸食により撤去されてしまい、由来を書いた石碑だけが唯一の名残りとなっているだけである。


一人暮らし老人のサバイバル・ゲーム 伊豆半島の旅〜その十
http://blogs.yahoo.co.jp/jdreamr/45256385.htm...
旧:伊豆ネイチャーガイドの独り言 揺るぎ橋、隠れ名所堂が島
http://nature.i-ra.jp/e362842.htm...
彷徨私事記 今日の観光−堂ヶ島園地@土肥港−
http://blog.livedoor.jp/styling21p/archives/3758577.ht...

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180 2015/03/01(日) 11:35:51 ID:vbRJjZmjbY
     9人の女を餅つきの杵で撲殺・殺人祭『手杵祭』 小浜市矢代区 1

興味深い奇祭を見つけたので、強引に村ネタで1つ。重ねて言いますが、決して共同体を貶めるつもりではありません……。
福井県小浜市は畿内色の濃厚な港町で、律令時代より前から大和王権の日本海側の玄関口として盛えてきた歴史がある。
小京都と呼ばれることも多く、全国京都会議にも加盟しているほど。市内には国宝や国指定の重要文化財が数多く立地し、
『海のある奈良』と呼ばれる所以である。そして小浜といえば、オバマ大統領と……(以下略)。

ところで、その小浜市でも日本海岸の若狭湾を臨む集落の1つに矢代区がある。
矢代には不定期ながら4月3日に矢代観音で行われる祭りがある。それが『手杵祭』で、県無形民俗文化財に指定されている。
この祭の発祥が血なま臭くてムラムラしてしまいそうな垂涎ネタである。それがこんなお話。

天平宝字3(759)年、矢代の浜に、不思議な形状をした1艙の船が漂着した。
乗っていたのは見目麗しい9人の女たち。言葉は通じなかったが、どうやら唐の国から漂流してきたらしく、
王女を中心に付き添いの女靗衆8人を従えていた(※2人の船頭と6人の女靗衆との説もある)。
深い事情があり長い船旅を続けていたのだろう。食糧も底をつき、身も心も疲れ果れ、ただ憐れみを乞うばかりであった。
村人たちは物珍しそうに女たちを眺めていたが、ふと船内を覗くと、金銀財宝と神々しい観音像が積み込まれているではないか。
よからぬ悪心が働いた者がいた。つい金に目がくらみ、女たちを殺害してしまう。奇しくもその日は3月の節句の日。
村では家ごとに餅をついていたが、その杵で1人残らずつき殺してしまったのだ……。

その日を境に悪病が流行り出した。祈祷をしても病はますます猛威をふるい、死人が続出。村人たちは額を突き合わせて相談した。
「唐の国の女たちを殺したのがマズかったのだ。そういや、一緒に奪った観音像はどうした? まさか祟りじゃあるめえな?」
「そうじゃの。観音様にお詫びしなければなるまい」と言って、女たちが乗ってきた船を解体し、船材で堂を建てて観音像を祀った。
そのうち悪病も収まった。現在ある観音像は当時のままのもので、お堂も手を加えられていないと伝えられている。
この悲劇があってからというもの、村人は殺戮を戒め、女たちの霊を慰み、天罰を恐れて手杵祭を行なうようになった。
平安初期以来、不定期ながら途絶えることなく受け継いで行事を守ってきたという。
手杵祭をまとめる人物は大禰宜(おおねぎ)といって、正月元旦より水垢離と潔斎精進を重ね、この1年間を区の祭礼、物忌み、
宗教的諸事の責任者としてすごさねばならない。

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181 2015/03/01(日) 11:43:33 ID:vbRJjZmjbY
     9人の女を餅つきの杵で撲殺・殺人祭『手杵祭』 小浜市矢代区 2

祭行列の役者には5種あるが、手杵棒振りと2人の弓矢持ち、そして女靗衆とが独特な雰囲気を醸し出して悲劇の役を演じる。
編笠にシダ葉を挿し、顔には墨で隈取りをした異様な姿に扮した手杵棒振りと弓矢持ちは惨殺シーンを再現する。
これに反して穢れを知らぬ女児たちの女靗役は、金袋に擬した頭巾をかぶって登場。
禰宜・若者組・女児は、矢代区の戸主、長男、娘に限り、区の成員になるにはこの役割を必ずこなさなければならない通過儀礼としてきた。
集落の過疎化・少子化により祭の参加者(女靗役の女児)が集まらなくなったため存続が危ぶまれており、開催年も不定期ながらと書いたが、
昨年2014年にはつつがなく開催されたようだ。

……当スレ>>55でも興居島(ごごしま)の、壷に入れられ唐国から流された和気姫の話を書いたのは記憶に新しい。
この類話の真相は天然痘などの感染者を追放したか、もしくはソレで絶滅する共同体から健康体を救うために放逐したのではなかろうか?
9人の女たちは感染者だった。だからフタを開けた途端、細菌をまき散らし、村人も罹患したと考えるのが自然ではないか。
もしかしたらオカルトとしてたびたび取り上げられる『虚ろ舟』の正体も、案外こんな事情があったのかもしれない。


福井県小浜市矢代観光協会
http://wakasa-yashiro.com/
オバマを勝手に応援する会wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AA%E3%83%90%E3%83%...
福井県の文化財 手杵祭
http://info.pref.fukui.jp/bunka/bunkazai/sitei/mukeimin/...
祭りのあとで… 手杵まつり
http://maturinoatode.web.fc2.com/festival/tekine_maturi/tekine_...
Beachcomber's Logbook 手杵祭復活!
http://beachcomb.exblog.jp/21958875...
[PDF]祭りの参詣者による伝承と記録 -福井県小浜市矢代の手杵祭から- 橘弘文
http://library.tourism.ac.jp/no.7HirofumiTachibana.pd...
六部殺しwikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AD%E9%83%A8%E6%AE%...

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182 2015/03/01(日) 18:55:04 ID:vbRJjZmjbY
……実は>>180と似たような話が僕の地元にもあったりする。もっとも、感染症をまき散らした話ではないけれど。

熊野古道で知られている三重県熊野市のお隣、御浜町阿田和地区の小高い丘に『稚子塚』と呼ばれる小さな祠がある。
その由来は以下のとおりである。
正徳年間(1711〜1716年)に小舟に乗った美姫が流れ着いた。これを市木村の庄屋・翁了が介抱した。
聞くところによると、姫は阿波(徳島県)の国の大名の娘で、名を乙姫といった。
姫は萩内地区の街道筋に茶屋を開き、生計を立てた。あまりの美人っぷりに茶屋は繁盛した。

信心深い人柄で生涯独身を貫いた。いつしか病床についたとき、臨終の間際、世話になった翁了に礼を述べて財産を託し、
「私が死んだら七里御浜が一目で見える高い山の上に葬ってほしいのです。いつまでも村の人の平和を祈りたい」と遺言を残し息を引き取った。
翁了は乙姫の遺体を近くの飛波山に葬り、稚子塚と呼ぶようにした。のちに大正10(1921)年、祠を建て、乙姫大明神として祀った。
お参りすれば美人が生まれ、無病息災が授かるといって若い女性が押しかけるようだ。4月3日が乙姫の命日にあたり、毎年同日に賑やかな祭礼が行われている。

……この姫の場合も、おそらく感染症に罹り共同体から放たれたか(とすれば漂流中、病から奇跡的に完治したのかも)、
その逆もありうるだろう。


山行の記録 浅間山
http://noyamaumi.web.fc2.com/kiroku/1005_sengensan100207/10...
はなきん 2014年9月アーカイブ
http://www.fmmie.jp/program/hanakin/2014/09...
MIE御浜町商工会 観光の案内 市木(いちぎ)地区
http://www.mie-shokokai.or.jp/mihama/kankou/ichigi_index.htm...
熊野古道伊勢路霊場めぐりモデルウォーク ①風伝・通り峠コース〈平成25年11月9日(土)・10日(日)〉
http://www.pref.mie.lg.jp/HKISHU/HP/4fuudentori2.pd...

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183 2015/03/07(土) 14:39:18 ID:1gRq6t5g.c
     いまも5人の座頭の怨嗟が聞こえる……。 五人宗谷(ごにんぞわい) 1

個人的に、『板子一枚下は地獄』を体現する豪胆な漁師が、気味悪がって近寄らない島がいちばんソソられる。
コレに鑑みれば、前スレ>>356の5人の座頭が海の藻屑と消えた伝説の『五人宗谷』(定義的に言えば、『島』ではなく『岩礁』なのだが)は理想的。
このたびググりまくった甲斐あって、五人宗谷に関する資料を見つけた。タイトルは『島の伝説』。著者・三宅勝太郎、出版社・著琴弾地海水浴場、
昭和11年出版。貴重な資料はとどめておくべきである。若干、前スレで書いた内容と異なる部分もあるが許せる範囲だ。平易な漢字で書きなおしてみた。

いまから5、600年ほど昔の話。安芸の国に按摩を生業としている5人の同業の盲人がいた(以後、『座頭』とする)。
その座頭たちは全国のあちこちから集まった年齢もバラバラの者だったが、同じ境遇であるがため、いつしか血をわけた肉親のように仲良くなった。
ある年の木枯しすさぶ正月、5人は一堂に会し、宴会を開いた。
酒の酔いが回るにつれ、よも山話に花が咲く。1人が、「どうだ、死ぬまで一度は信濃の善光寺さんへ、お詣りしてみたいものじゃな」と、言った。
他の4人の座頭も口をそろえて、「人の一心ほど強いものはない。諺に『精神一到何事か成らざらん』と言うではないか。盲(めしい)であっても、
善光寺さんへお詣りできないことはない。金さえあればどこへでも行けよう」
「そうとも、金だ。金があれば世間様に遠慮することはあるまい」「だったら貯めるべきだ。金があればどんな遠出だって許されよう」

こうして5人は相談の結果、座頭にとって一生の夢である、善光寺へ詣りに行くことを決めた。
それには信濃までの旅費や諸々の費用を蓄えねばならない。1年をそれに費やし、明くる年の正月の新年会でまた会おうと約束した。
昼夜のべつ幕なしに働いた。おかげで5人の親睦会も少なくなったが、夢を実現するには致し方ない。
こうして1年はめくるめく速さですぎ、翌年の正月がやってきた。
祝いの宴の前に、年長の座頭が音頭を取りながら「いかがですみなさん、お金は貯まりましたか。例の約束は果たせますかな?」と、言うと、
各人は自身の貯金額を発表した。
合わせると100両もの大金になる。5人は、「これだけあれば、充分善光寺詣りができるな!」と、小躍りして喜んだ。
その勢いで、正月3日の祝いをすませたら、さっそく出立することにした。

4日目、一般の帆船を雇った。5人の座頭はそれぞれ旅の用意を整えて船に乗り込んだ。
彼ら5人の喜びを乗せた船は、艪を漕ぐ音も勇ましく鞆の浦(現・福山市)の港を出帆。
風はベタ凪に近く快晴。まるで前途に対する不穏さは微塵もない。5人は早、善光寺に行ったような気持ちになり、子供のようにはしゃいだ。
そんな様子を船頭は異様な眼つきで見守り、苦笑をこぼしていた……。

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184 2015/03/07(土) 14:42:30 ID:1gRq6t5g.c
     いまも5人の座頭の怨嗟が聞こえる……。 五人宗谷(ごにんぞわい) 2

座頭にとっては甲板から広がる周囲の景色は見えないのだが、波音や艪のきしむ音、かもめの声などは耳に心地よく響いた。
日が暮れ、やがて夜が明け、出発してから5日目の夕方、船は直島の北方へさしかかった。
そのころになると、船頭の胸中は悪心が支配していた。5人の座頭はたんまりと金を持っているのは身なりのみならず、
後生大事そうに抱えている荷物から察することができる。あとはどのタイミングで罠に落とすかだけである。
『そわい、金! そわい、金! そわい、金!』と、船頭の思考は渦巻いていた。いよいよ彼は決行する……。

突然船を停め、「シマッタ!」と、迫真の演技に打って出た。座頭たちは船頭に、「どうなさったのですか?」と聞いた。
船頭は軽薄そうな笑みを浮かべながら、「船がそわい(※岩礁・小豆島の東から広島湾までの海域での岩礁を指す)に当たっちまい、
船底から水漏れがするようです。このまま船旅を続けるわけにはいかない。ちょっと時間はかかりますが、座頭さんたちは修理が終わるまで、
陸に下りて待っていてくれませんか。おあつらえ向きに、そばに島があるんです」と、5人を陸へ上げるや否や、5人が盲であるのをいいことに、
舌を出して急いで船を沖へ出した。

5人は急かされたものだから、たくさん金を入れた財布も荷物も、船に置き忘れてしまった。
せっかく汗水流して働いて貯めた金。気もそぞろになる。「船頭さん、荷物が濡れては困りますから、そろそろ上げてください」と言った。
いくら呼べど叫べども返事はあろうはずもない。5人はようやく計られたことに気づいたが、時すでに遅し。
善光寺詣りの夢消えて、いまは狂人のように取り乱し、走り回っては岩の凹凸につまずいては転んだが、盲の悲しさ。もはやどうにもなるものではない。
座頭が上げられた陸は、海上のほんのちっぽけな岩礁にすぎなかった。時間が経つにつれ、潮が満ちれば小さな陸は海に沈む。
足に海水がつかり出した。潮が徐々に高くなるにしたがい、悲鳴をあげて1人流され、2人流され、5人の仲の良い座頭たちは散り散りにされ、
怨嗟の呪詛をまき散らしながら海の藻屑と消えた……。

その事件以来、夕方その付近を船が通ると、5つの火の玉がそろって岩礁の上をふわふわ飛ぶようになったという。
雨の日などは、悲しい泣き叫ぶ声さえ聞こえたとされている。地元の人は誰言うとなく、その岩礁を五人宗谷と呼ぶようになった。
宇野港の沖合、鳥島と京の上靗島の間にある岩礁がソレであるとされている。潮が満ちると海中に隠れるが、潮が引けばゴツゴツとした黒い岩が姿を現す。
いまでは秋の夜長の、古老の昔話となっている。


岡山県玉野市に伝わる海や島の伝説 五人宗谷(ぞわい):玉野の伝説
http://tamano.imawamukashi.com/umi/umi-6.htm...
近代デジタルライブラリー 島の伝説 三宅勝太郎(コマ番号は『13』にすべし)
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/145598...
瀬戸内海の浅瀬名について
http://www1.kaiho.mlit.go.jp/KAN6/5_sodan/mame/topic-asase....

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185 2015/03/14(土) 10:28:58 ID:2Oo7iMGRg.
     出産シーンを覗かれ、ナマズ姫おおいに怒る 鵜ノ島

山梨県は内陸部にあって、島とは縁がなさそうだが、富士山の北麓に広がる河口湖には2つの島がある。
六角堂が建つ小島(定義的には島ではない)と、もう1つが河口湖の中央にある鵜ノ島。であるからして、鵜ノ島こそ山梨唯一の島といえる。
河口湖畔には弥生時代の遺跡が点在しているが、島にも縄文時代早期から弥生時代早期からの土器や石器類が出土する『鵜の島遺跡』がある。
同遺跡からは西日本由来で東日本においても遠賀川式土器が出土しており、縄文から弥生への移行期にあたる遺跡として注目され、文化財になっている。
『勝山記』によれば、永正13(1516)年には湖岸の住民が合戦から逃れ、一時は島へ避難した歴史がある。
また天文23(1554)年10月、武田晴信(信玄)が信州下伊那の神之峰城を攻め、捕らえた知久頼元親子を鵜ノ島に幽閉したという。
ほかに島内には鵜ノ島神社の赤い鳥居と『島の弁天』と呼ばれる弁天堂が祀られ、毎年4月25日に例祭日が開かれる。
『甲斐国志』神社部によると、例祭日に湖辺の住人が小舟で島へと参詣したことが記されている。
この弁天堂には豊玉姫が弁天様として祀られているのだが、またしても『見るなのタブー』が絡む伝説が残されていた。それがこんなお話。

神々の時代のある日のこと。彦火々出見尊(ひこほほでみのみこと)は河口湖で釣り糸を垂れていると、そばを娘が通りかかった。
尊は娘の美しさに眼を奪われ、思わず声をかけた。娘は鵜ノ島に住む豊玉姫。若い2人はたちまち恋に落ち、結婚しようと誓い合った。
2人は豊玉姫の住む島に渡り、新婚生活をはじめた。やがて姫は身ごもり、出産の支度をすることに。
その際、姫は「お願いがあります。どうか島から離れたところに産屋を作ってほしいんです」と、提案。
「よかろう。だったら島の鵜に相談し、その羽毛をもらって産屋の屋根を葺いてあげるよ」と、尊は言った。
「ただし約束してほしいのです。その産屋には決して近寄らないでください。ましてや覗くなど暴挙はなさらぬように」
「なんじゃそら?」
「産気づいてイキんでる姿なんて、お見せするわけにはいかないでしょう?」
「ま、それもそうだな」

そうこうするうちに、出産のときを迎えた。尊はソワソワしてきた。姫は半日近く産屋にこもったきりで一向に出産したと返事がない。
まさか難産のすえ、やや子と一緒に命を落としたのではあるまいか?
尊は産屋の扉に手をかけた。約束を忘れたわけではない。むしろ「決して覗いてくれるな」と言ったときの姫の怖い眼といったら……。
「ええい、ままよ!」尊は姫の言いつけを破り、ついに産屋を覗いてしまった。
屋内には姫の姿はなく、かわりに1匹の大ナマズがのたうち回り、まさに出産しているところだった。
驚いた尊。その気配にナマズは振り返り、怒りの表情を見せ、「よくも私の姿を見ましたわね……。正体を知られたからには、
国中の人間を湖中に引きずり込んで、たっぷり苦しめてやるから覚悟おし!」と捨て台詞を吐くと、鵜ノ島に渡り、人前から姿を消したという。

一般的に弁天様は嫉妬深く、美人に災いをもたらすといわれる。江戸時代にはこんな逸話も残されている。
鵜ノ島へ花摘みにきた12人の娘が、弁天様のご尊顔を腐した。すると黒雲が現れ、波が荒れ、帰りの船を転覆させてしまい、
娘たちは湖底に沈んでしまったとか……。


ホオリ(彦火火出見尊)wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9B%E3%82%AA%E3%83%...
トヨタマヒメ(豊玉姫神)wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%88%E3%83%A8%E3%82%...
とある歴史好きオヤジの戯言 『見るな!』のタブーと日本神話
http://blog.livedoor.jp/archon_x/archives/7122091.htm...
神社人 黄泉の国のおはなし 日本神話の見るなのタブー
http://jinjajin.jp/modules/contents/index.php?con...
パワースポット研究所 河口湖のご利益
http://ookuni.info/15_yamanasi/015.ph...
富士山と河口湖周辺ふるさと探訪 鵜の島の弁天様
http://www.fujigoko.tv/furusato/mukashi/act10.htm...

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186 2015/03/21(土) 18:01:59 ID:PXdPRQVgIk
     アイヌの『洞爺湖の神と中島伝説』 中島 1

北海道虻田郡洞爺湖町と有珠郡壮瞥町にまたがる洞爺湖(とうやこ)にも島があるのはご存知だろうか?
湖の中央に大島、観音島、弁天島、饅頭島の4島があり、これらを総称して、中央の島だけに中島と呼んでいるのだ。
中島は約5万年前の火山噴火に伴って形成された溶岩ドームと火砕丘の集合体とされているが、アイヌは神の意志により造られたと信じている。

昔、松前の殿様に仕える文武両道に通じた人物がおり、2人の男子がいた。
幼いころより武士になるべく剣術や学問の英才教育を受けるものの、兄はソツなくこなしていくのに対し、
弟は懸命に努力するにもかかわらず、算盤も剣の腕もからきし上達せず、それどころか読み書きすらままならなかった。
父はそれを憂い、息子の将来のため、よかれと思って手をさし伸べるのだが、なかなか期待に応えてくれない。
歯がゆさに時には癇癪を起し、算盤や刀の鞘で頭を殴られることもあり、母や姉は不憫がって、陰で泣くことも少なくなかった。

ある日、父親は弟を呼びつけ、こう言った。「おまえは立派な体格をもち容貌もいいのに、どうして物憶えが悪いのか、さっぱり解せぬ。
役立たずをいつまでも家においていくことは、我が家の恥辱であり、主君に対しても申し訳が立たぬ。
このうえにおいてはわしが腹を切って詫びを入れるか、さもなくばおまえが家を出ていくか、2つに1つをとらねばなるまい」

まさか父に切腹を強要するわけにもいかない。
「父上たちに迷惑をかけるのは心苦しい。ですから私が家を去って他国へ移り、背水の陣で臨めば、新しい道が開けるかもしれない」と、
答えると、家中の者が涙した。
母は泣きながら小袋に薬をおさめ、父は長い太刀と短い脇差を弟の腰に差してやり、金の編み笠をかぶり、みんなに送られて家を出立した。

……さりとて行くあてなどあるはずもなく、泣きながら歩いていると、名も知れぬ大きな川の畔にさしかかった。川岸には先客が座っていた。
同い年ほどの美しい若者である。同じような荷物をまとった旅装で、やはり長い太刀と脇差を差した姿まで一致している。
その若者が弟を見るなり、まるで旧知の仲のように微笑みながら会釈し、懐中から手紙を取り出して、それをよこした。
『読み書きができないから追い出されたというのに、どこの誰だか知らぬが、人を侮辱するにもほどがある!』と、弟は顔を紅潮させ、
腹立ちまぎれに太刀を抜き、青眼の構えから若者に斬りかかった。

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187 2015/03/21(土) 18:05:09 ID:PXdPRQVgIk
     アイヌの『洞爺湖の神と中島伝説』 中島 2

「いきなりのご挨拶ですね」と若者は言うと、木の葉のように舞い上がって一閃をかわし、川向うの岸まで飛んだ。
その優雅な動きのこと。弟は刀を持ったまま、悔しさのあまり真似て跳躍してみると、なんと若者と同じくバッタのごとく舞うことができた。
その力でもって対岸へ飛び、斬りかかった。若者も鞘から抜き放つと応戦。
電撃のような鍔迫り合いをくり返し、たまらず弟は川の対岸に退くと、負けじと若者も跳躍し、上段の構えから振り下ろしてきた。

……数え切れぬほど斬り合ったが勝負がつかなかった。やがて若者は爽やかな笑みを浮かべながら、手で制した。
「待ちたまえ。もう気は済んだだろう。刀をおさめて、しばし話をしようじゃないか」
「何を言うか」
「貴殿は松前の真中に住む藩士の次男とお見受けする。私は松前の東のはずれに住む藩士の末子。私も貴殿と同じように、
幼少のころより剣道や読み書きを習ったが、どうしても憶えられず、それゆえ家から放逐され、この川の畔まできた。
この川の名をサンピタラというそうだ。ここにきて川の神様に出会うことができた。川の神が言うには、神の国からサンピタラの神に便りがきて、
人間の国にアブタ(虻田)なる場所があり、そこに大きな湖があるとおっしゃるのだ。湖には守護する者がいないため懸念の材料となっている。
神の国から誰かを派遣しようとするのだが、どの神も行きたがらないので、いっそのこと人間界の者から選ぶことにした」

「まさか私たちが選ばれたと言うのではあるまいな?」
「そうだ。条件は身体が丈夫で、正直で賢い若者であること。しかし初めからその任務をまかせるとなると、親兄弟が反対するのは必定。
神の力により、私たちを無能者に見せ、自然に家から放逐されるよう仕向けたということだ」
「私をダメ人間にさせたのは、神の意志だと?」
「つらい雌伏を強いられたが、これも守護者になるための試練と思えば合点がいく。にわかには信じ難い話だろうが、気を取り直し、
まずはこの手紙に目を通してみたまえ」と、言うと先ほどの手紙を突き出してくるので、弟は半信半疑のまま手紙を目で追ってみた。
どうしても判読できなかった文字が淀みなく読めて、まるで乾いた水田に水が浸透していくよう明快に理解できた。
文面はまさに若者が話した内容と同じことが書かれていた。

2人は一緒にアブタの湖に向かって出立し、6日6夜歩きづめで目的地にたどり着いた。
「神酒の入った徳利が神の国より届けられている。これを酌み交わそう。さすれば私たちは神の眷属となれる」
2人は湖畔に腰をおろして徳利を傾け、神酒を口に含んだ。すると神通力が現れて、人間界も神の国も千里眼のように見渡せるようになった。
飲み終えて空になった徳利を湖の真ん中に投げ入れると、たちまち水底から2つの小山がせり上がってきて島となった。
舟で島に渡ってみると、2つの黄金造りの家があり、屋内には目も眩まんばかりの宝物が積まれ、絹の着物を着た2人の娘が刺繍をしながら待っていた。
そこで2人の若者はそれぞれの家に落ち着き、島と湖を守ることに努めた。


一般社団法人・洞爺湖温泉観光協会 洞爺湖温泉トリビア洞爺湖温泉を「知る」
http://www.laketoya.com/point/knowledge...
洞爺湖 ジオレンジャー
http://toya.lohasin.net/index.htm...
龍学 北海道洞爺湖などオヤウカムイ
http://www.hunterslog.net/dragonology/ryujatan/hokkaidou...
ソノトキガ クレバ ワカルコト トドマラズニ アイヌ伝説より「洞爺湖の神と中島」
http://lucky2zacky.jugem.jp/?eid=73...

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188 2015/03/21(土) 18:56:53 ID:PXdPRQVgIk
手前の、ほんのわずかなスペースの岩礁が>>183の五人宗谷だそうです……。

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189 2015/03/22(日) 09:47:17 ID:7.Km5DyTBQ
     ペストに感染した患者、生死を問わず隔離・遺棄した狂気島 ポヴェリア島 1

これまで国内に限定した島ばかり偏執的なまでにこだわってきたが、たまには外国の『怖い島』を取り上げても罰は当たるまい。
と言っても、あえてメキシコの『人形島』はやらない、ひねくれ者の僕であった。アレはいささかケレン味が強すぎる。
そこでイタリアのポヴェリア島を紹介しようと思う。

これまで前スレでは>>44のハンセン病患者を隔離した大島、>>274の同じく長島、当スレにおいては>>139で天然痘患者を隔離した下馬刀島、
>>143の馬島、>>161の前島、>>163のアンジャ島と、伝染病に感染した者を隔離した歴史のある島を取り上げてきた。
離島という天然の閉鎖空間は、同時に合理的な隔離施設となり得ることから、我が国のみならずこのポヴェリア島をはじめ、
フィリピンのクリオン島(ハンセン)、ハワイ州のモロカイ島(ハンセン)、ニューヨークのノースブラザー島(天然痘)、南太平洋の環礁ナウル(ハンセン)と、
世界中に分布しているのだ。

水の都として知られるベネチアの市街地近くに問題の無人島・ポヴェリア島がある。これが『狂気の島』の異名をもつというから食いつかぬ方がおかしい。
英紙『デイリー・テレグラフ』やイタリアニュースサイト『ザ・ローカル』によると、中世から数々の悲劇的な出来事がくり返されてきたという触れ込みがソソる。
というのも、14世紀、都市国家間として関係が悪化したベネチアとジェノバの争いの舞台となったのを皮切りに、
ヴェニスでペストが大流行した際には拡大を防ぐため、数千人規模の感染者の生死を問わず島へ送って隔離、または放置したというから驚きを禁じ得ない。

古代ローマ時代には墓地として使用され、ペスト流行のときは検疫センターという名目を掲げ、大量埋葬地としてフル回転の働きを示す。
累計16万人もの人間の屍が眠っているとされており、島の土壌の50%以上が人間の遺灰ではないかとも噂されている。
また20世紀に入り1922年になると、検疫所の跡地では、ある医師によって精神病院が運営された。
ところがこの医師は、いわゆるマッドサイエンティストを地でいくような男だった。患者にノミやハンマー、ドリルなどを用いてロボトミー手術を行っていたらしく、
鬼畜の実験をくり返した挙句、医師自身も「幽霊のせいで気が狂いそうだ」と口走り、病院の塔の上から投身自殺してしまった……。
1968年に病院が閉鎖されてからは、しばらく農業用地として使用されたものの、やがて完全に放置。
そして、今では島へのアクセスは国有地化したイタリア政府によって制限され、地元漁師をはじめとして近づこうとする者はいない。
漁師が嫌がるのは、周辺海域で網を投じると大量の人骨がかかるからだ。
島周辺の地元では、『邪悪な人が死ぬと、ポヴェーリア島で目を覚ます』という不吉な諺もあるぐらいだ。

もっともこのヘヴィー級の『怖い島』も、所有するイタリア政府の資金捻出策の一環で、昨年2014年5月7日に競売へかけられる運びとなった。
ただ、実際に国の所有権を売却するわけではなく、『99年間のリース権』を与える形となるそうで、政府側としては島に残されている城や修道院跡も含めて、
『高級ホテル』を建て、観光地として開発してくれる業者の参加を希望しているという。
さまざまな噂が取り巻く島が果たして売れるのか、欧米メディアも広く注目しているイタリア政府の売却策だが、これに待ったの声をかけているのが島と
海を挟んだベネチア・ジュデッカ地区の住民たち。
「私たちは島が公共のものであり続けて欲しい」と話す男性は、島が開発されるのではなく、現状維持のまま保存されることを望んでいるという。
そこで住民たちは、「Poveglia per tutti(みんなのポヴェリア)」というFacebookページを立ち上げ、自分たちが競売に参加してリース権を得ようとする運動を開始。
目標額の2万ユーロ(約280万円)の調達に向け、参加者に99ユーロ(約1万4,000円)の寄付を呼びかけているそうだ。

……『世界一幽霊の出る島』などと下衆な側面を併せ持っており、『サイレント・ヒル』や『SIREN』も真っ青の舞台装置がよくも揃ったものだと感心する。
個人的に廃墟マニアの不法侵入ぶりはいかがなものかと首をひねる方だが、この島に限り精神病院跡に潜入し、当時を偲ばせる狂気の空気を伝えるのもアリかと思う。

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190 2015/03/22(日) 09:50:23 ID:7.Km5DyTBQ
[YouTubeで再生]
     ペストに感染した患者、生死を問わず隔離・遺棄した狂気島 ポヴェリア島 2

ペストwikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9A%E3%82%B9%E3%83%...
中世の血塗られた史実 黒死病の大流行〜ヨーロッパ全人口の1/2が死に絶えた!〜
http://www.cosmos.zaq.jp/t_rex/fusigi_3/works/works_4_a...
NAVERまとめ ロボトミー殺人事件とは【ロボトミー手術】
http://matome.naver.jp/odai/213862353069521690...
NAVERまとめ 実在した“マッドサイエンティスト”の恐ろしすぎる実験内容
http://matome.naver.jp/odai/213538971391061950...
超魔界帝国の逆襲 超トンデモ通信 【閲覧注意】ベネチアの世界一幽霊が出る島がオークションへ
http://daimaohgun.web.fc2.com/fushigi/tondemo/14_04_19.htm...
コトダマ系ニュースサイト ナリナリドットコム 「世界一幽霊が出る島」競売へ、財政難イタリア政府の決定に反発も。
http://www.narinari.com/Nd/20140425548.htm...
カラパイア不思議と謎の大冒険 時を止めて過去にたたずむ、世界9の放棄された島
http://karapaia.livedoor.biz/archives/52090994.htm...
モグネット ハンセン病の歴史:フィリピン・クリオン島
http://www.mognet.org/hansen/overseas/culion01.htm...
芭蕉blog ニューヨークのど真ん中にある廃墟、ノースブラザー島 41P 1V
http://bashoh.com/2013/06/%E3%83%8B%E3%83%A5%E3%...

%E3%81%82%E3%82%8B%E5%BB%83%E5%A2%9F%E3%80%81%E3%83%8E%E3%83%BC%E3%82%B9%E3%83%96%E3%83%A9/
[PDF]太平洋の島々におけるハンセン病 後藤 正道 鹿児島大学医学部病理学第二講座
http://cpi.kagoshima-u.ac.jp/publications/occasionalpapers/...

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191 2015/03/28(土) 18:26:32 ID:zbASLxutGc
     地球最後の魔境か、近づくものは弓で威嚇される未開の島 北センチネル島 1

>>189に続き、世界の怖い島をピックアップするのも悪くあるまい。ていうか、国内における島ネタが枯渇しつつあるからね……。
今回紹介するのは北センチネル島。インド領アンダマン諸島中の島で、インド洋東部ベンガル湾内にあり、アンダマン諸島の南西部、
南アンダマン島の西、約30kmに位置し、行政面では連邦直轄のアンダマン・ニコバル諸島に属する。
島の形状は約72平方kmのほぼ正方形であり、周囲はサンゴ礁が取り巻いている。狭い砂浜の先ですぐ先で標高20mほどになり、
その後も徐々に標高が高くなり、最高地点で標高98mに達する。島の内部は鬱蒼たる森林で覆われ、上空からは見通しできない。

……地球上には、いまだ現代文明と接触せず暮らしている民族が100以上もある。これを『未接触部族』という。
21世紀に入って15年目だというのに、携帯電話、インターネットはおろかラジオや車を見たこともなく、その存在さえも知らない無垢の集団もいるのだ。
彼らは長年にわたり森の奥地や高山などに住んでいたため、やむを得ず進歩を止めてしまった。ましてや離島となると世界と隔絶したも同然。
上述した北センチネル島は、地理的に行くのはたやすい。しかしながら近づくのは危険すぎる。上陸を試みるとなると、命の保証はない。

というのも、島には先住民であるセンチネル族が50ないし400人ほど居住しているらしいのだが、彼らは文明の恩恵を享受していないだけでなく、
他民族との接触を一切拒否しており、アンダマン・ニコバル諸島自治政府も干渉するのに手を焼き、もはや放置しているのが現状なのだ。
島で暮らすセンチネル族は、アフリカ大陸から移り住んできた直系の子孫だと考えられている。
この小さな島に約6万年前から住んでおり、その生活様式から文化までまったく進歩していないというのだ。
外部との接触の拒否ぶりは徹底しており、2004年にスマトラ島沖地震が発生した際、生存者のために救援物資を届けに島を訪れたヘリコプターに向かって、
矢を放って抵抗したほどである。

島を所有するインド政府は1964年から数回に渡りセンチネル族との接触を試みたが、すべて失敗に終わっている。
専門家は船に乗り食料や贈り物を持って島を訪れ、敵ではないことを示したが、やはり弓矢で威嚇され上陸は果たせなかった。
ついにはインド政府も住民と接触することを諦め、島へ近づくことを禁じた。
島の住民が拒むのは、島に上陸しようとする意志を持った人間ばかりではない。
時として、海難事故により北センチネル島に漂着してしまう者もいる。が、ほとんどの場合、大怪我をして戻ってくるか、最悪殺されることもめずらしくない。
2006年には、周辺海域でカニの密漁をしていた漁師2人のボートが寝ている間に島へ漂着してしまい、2人とも島の住民に殺害された事例があった。
政府はせめて2人の遺体だけでもと回収を試みたが、やはり住民から矢の雨を降らされて上陸を断念。

こうした背景から、北センチネル島の民族の言語はもちろん、生態そのものも謎に包まれたままなのだ。
島全体がジャングルで覆われているため、ヘリコプターから観察することも限度がある。
彼らの生活様式で唯一明らかにされているのは、どうやら狩猟で生活しており、少なくとも農業は行っていないようなのだ。
野生の果物や根菜類、ブタ、トカゲ、蜂蜜を採取して生活しているのではないかと、専門家は言う。
とにかく独自の生活様式を守り続け、いかなるときでも助けは必要としていないらしい。
手つかずのエリアに、プリミティヴかつ未知の文化が息づいているのは、なんとも知的好奇心をソソられるが、土足で入り込むこともまた傲慢な話である。

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192 2015/03/28(土) 18:30:04 ID:zbASLxutGc
[YouTubeで再生]
     地球最後の魔境か、近づくものは弓で威嚇される未開の島 北センチネル島 2

忘郷クォリア 世界の驚きとワクワクを探訪 【青い海】世界で最も危険なビーチのランキング:トップ10【白い砂浜】
http://bokyo-qualia.com/archives/275...
NAVERまとめ 【未開の地】石器時代の生活を送るセンチネル族とは【インド洋の弧島】
http://matome.naver.jp/odai/213762121606793460...
世界の凄い場所を調べるお 現代文明を拒否する島「北センチネル島」
http://terribleplace.omaww.net/Category/0...
ギークでなくナード [日記]北センチネル島の生活CommentsAdd Star
http://d.hatena.ne.jp/imakitasangyo/2013040...
未接触部族wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%AA%E6%8E%A5%E8%A7%...
ジャラワ族wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%83%...
ヤノマミ族wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A4%E3%83%8E%E3%83%...
ドゴン族wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%89%E3%82%B4%E3%83%...
ドゴン族の神話wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%89%E3%82%B4%E3%83%...

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193 2015/04/05(日) 13:54:49 ID:Macpbf8Sqk
     所有者は怪死を遂げる?呪われた島 ガイオラ島

イタリア、ナポリの海岸からわずか30mしか離れていないところに2つの島があり、これをガイオラ島という。
画像をご覧になれば一目瞭然、2島は橋でつながれており自由に行き来ができ、小島ながら別荘が建ち、洞窟まで揃っているという念の入れよう。
子供のころに描いた秘密基地がそのまま島となったような佇まいが素敵だ。

……とはいえこんな景観の裏に、まさかキナ臭い歴史が隠されていようとは。
というのも、ガイオラ島の所有者が次々と不審の死を遂げていることから、地元では『呪われた島』と囁かれているのだという。
コトの発端は1920年に島を所有していたスイス人のハンス・ブラウン氏がラグ(カーペット)に包まれた状態で遺体となって発見された事件。
その後、彼の妻も夫を追うかのように海で溺死したのをはじめ、次に島の所有者になったドイツ人のオットー・グランバック氏も心臓発作で死亡。
所有権はドイツの鉄鋼事業家、カール・ポール・ラングハイム男爵に移るが、間もなく事業が失敗し、経済破綻した。

次なる島の所有者は医療品の実業家であったモーリス・イヴ・サンド氏もスイスの精神病院で自殺を遂げている。
果てはイタリア、トリノの有名車メーカー『フィアット』の元名誉会長であるジャンニ・アニェッリ氏の手に渡るが、息子は自殺、甥も癌で死亡。
億万長者のポールゲッティは島を購入したあと、孫が誘拐され耳を切られる事件に遭う。
そして2009年、島の反対側に別荘を持っていたフランコ・アンブロジオ氏と妻のジョヴァンナ・サッコが殺害されたことで、
地元の人が久しく忘れていた島の忌まわしき歴史を思い出し、ふたたび話題となる。
さらには島の最後の所有者、Gianpasquale Grapponeの保険会社が倒産し、投獄。現在、ガイオラ島は国が管理しているという。

……『呪われた島』というタイトルとは、全盛期のスティーヴン・キングならば食いつきそうなネタだが、いささか荒唐無稽な気もする。
癌で死ぬのも呪いと結び付けられたらたまったものではあるまい。
人は死ぬべきときに死ぬが、土地の因縁云々が災いをもたらしているとは思考停止もいいところであろう。

なにかと不幸がつきまとう島だが、幸せを謳歌した家族がいないわけではない。
イギリスの作家アーサー・コナン・ドイルの妹であるアイダは、1895年に母親のメアリーの従兄弟、船舶技師のネルソン・フォリー氏と結婚した。
このときネルソン氏は前妻アグネス・ジェーンを5年前に結核で亡くしている。
その前妻のとき、ネルソン氏はイタリア海軍をサポートする仕事のためガイオラ島で生活しており、アグネスとの子供、クレアの思い出話や、
島に数ヶ月間だけ滞在したというドイルの長女マリーの回想録によると、ネルソン夫婦は島での暮らしを大いに楽しんでいたとのことだ。


世界の謎を小一時間問い詰めるQUESTION ARCHIVE なぜ所有者が次々と死に見舞われる島があるのか?
http://questionarchive.blog.jp/archives/15328527.htm...
小太郎ぶろぐ 呪われた島「ガイオラ島」所有者が次々と不幸に見舞われるイタリア、ナポリの小さな島
http://www.kotaro269.com/articles/31812.htm...
ホームズ・ドイル研究ブログ ネルソン・フォリーとイタリア海軍(1)
http://h-doyle.cocolog-nifty.com/blog/2013/11/post-442b.htm...

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194 2015/04/11(土) 21:55:15 ID:7iltj3IZoI
     恐るべき破獄テクニックで難攻不落の監獄島を陥落させた男たち アルカトラズ島 1

『破獄』とは囚人が独房を破って脱獄すること。また『流罪の刑』で離島に送られた罪人が島外へ脱走することを『島抜け』という。
カリフォルニア州サンフランシスコ湾内にあるアルカトラズ島。ここにはかつて、脱獄不可能の謳い文句で悪名高いアルカトラズ連邦刑務所があった。
鉄壁の守りを誇るその刑務所は、囚人たちの肉体、精神、思想、感情をくじくため、1934年に開設された。
そんなアルカトラズ島には全米から矯正不可能とみなされた凶悪犯ばかりが収容された。
シカゴのゴッドファーザーことアル・カポネを筆頭に、誘拐強盗殺人犯のアルヴィン・カーピス、禁酒法時代を代表する銀行強盗ジョージ・ケリー、
服役中に鳥類学者になったという変わり種のロバート・フランクリン・ストラウドなど、錚々たるメンバーが揃っていた。

コンクリで固められた壁、8本の鉄筋を束ねた鉄格子、厚さ8cmの鉄扉、1日に12回も行われる点呼、無数の見張り台では常時、
警備員がライフルを構え監視の眼を光らせている。周囲は峻険な断崖。サンフランシスコの町の灯りがたった3km先できらめていおり手を伸ばせば届きそうなのに、
仮に島を抜け出したとしても海にはサメがウヨウヨ泳いでいるうえ潮流が速く、おまけに水温は10℃前後。
泳いで渡った場合、短時間のうちに低体温症に陥り死に至る。ゆえに生還率は0%と言われた。

その苛酷な環境と脱獄の難しさから、『ザ・ロック』『悪魔島』と呼ばれ、収容された囚人たちに「この世の地獄」と言わしめた。
にもかかわらず人は自由を求めるものである。難攻不落の要塞に閉じ込められたのなら、それを攻略してみせるという気概をもった男たちが名乗り出る。
過去に脱獄者は34人を数える。うち7人が射殺、2人が溺死、5人が行方不明(公式記録上は死亡扱い)、残りはすべて再捕獲された。

元囚人の証言によると、当時200人ほどいた囚人のうち、50〜80人は脱獄を企てた。
1939年には、全米を震え上がらせたバーカーギャング団の一味、ドック・バーカーが、1943年には映画『俺たちに明日はない』で知られたボニー&クライドの一味、
フロイド・ハミルトンが脱獄にチャレンジするも、いずれも失敗。
1946年にはバーナード・コイが軍隊まで巻き込んでの大銃撃戦に発展し、あと一歩のところで手榴弾で爆死を遂げる。

そして1962年6月11日、運命のときを迎える。のちにクリント・イーストウッド出演、ドン・シーゲル作の映画『アルカトラズからの脱出』で描かれた
フランク・モリスとジョン・エングリン、クラレンス・エングリンの兄弟による伝説の脱獄劇である。
アルカトラズ連邦刑務所史上、脱獄を計画し、5人の行方不明者のうちの3人は、このモリスとエングリン兄弟を指しているのだ。

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195 2015/04/11(土) 21:59:04 ID:7iltj3IZoI
     恐るべき破獄テクニックで難攻不落の監獄島を陥落させた男たち アルカトラズ島 2

映画のイーストウッドが扮したフランク・モリス(1926年9月1日〜1962年6月11日失踪)は、ワシントンD.C.生まれのアメリカ人。
幼いころから里親に育てられ、13歳で犯罪に手を染め、10代後半に麻薬所持や強盗の罪で逮捕された。IQは133だった。
1960年1月20日、モリスはアルカトラズ連邦刑務所に護送される。彼はアルカトラズに着いて間もなく脱獄を計画。
これには、アレン・ウェストと、先のジョン・エングリン、クラレンス・エングリンの兄弟が加わった。
計画はウェストにより立案されたものの、彼は脱獄時、独房内の換気口の格子が切断できなかったため、島からの脱出には参加できなかった。

アルカトラズからの脱獄は困難を極めた。約2年に渡ってモリスとエングリン兄弟は、いかだと自分たちに似せた人形を工作。
いかだは、長細い浮き袋を三角形に組み合わせて縫い、その間にシートを貼り付けたものだった。
人形は、紙くずと粘土や木の削り屑を合わせ、散髪した髪を頭部に盛り付け、油絵の具で肌の色をつけた。
脱獄時、このダミー人形をベッドに忍ばせておき、巡回の眼をごまかし、時間稼ぎをさせるわけだ。
また作業場から道具を盗み出し、独房の壁に穴を掘ることを地道に続けた。そして1962年3月、ようやく独房の裏手へと続く穴を開通させる。
小型扇風機を細工した手製のドリルで通気孔を広げ、3人は監視の包囲網をかいくぐり、いかだを使ってアルカトラズ島から抜け出したとされている。
ダミー人形のリアルさも功を奏し、看守が3人の脱獄に気づいたのは翌朝のことだった。

連邦捜査局(FBI)による現場検証の結果、いかだで海に出たあとは生死が確認されておらず、行方不明扱いとなった。
連邦刑務所側は死亡したに違いないとする見解を示しているが、鉄壁の監視体制を敷いた刑務所の自尊心を回復するための希望的観測も含まれているだろう。
現に3人の遺体は見つかっていないのに、死亡と決めつけるのはいかがなものか。
その脱獄事件から1年足らず、1963年3月21日、財政的理由によりアルカトラズ刑務所は閉鎖された。
修繕・維持費用だけで300万ドルから500万ドルかかったとされ、さらに日々の運営費用も他の連邦刑務所と比べ高額だったためと言われている。

最近、オランダ人科学者が最先端のコンピュータシミュレーションソフトを使って検証した結果、3人が脱獄に成功したのではないか?という説を唱えた。
脱獄当時の1962年6月11日、夜11時30分に彼らのいかだがアルカトラズを離れたとすれば、ゴールデンゲートブリッジの北に漂着した可能性が高いというのだ。
この時間は当時考えられていた時間よりも1時間30分遅いのだが、シミュレーションではアルカトラズ島の北にあるエンジェル島に打ち上げられたと表示された。
しかもエンジェル島では実際に、いかだのパドルの1つや所持品が発見されている。とはいえ、夜11時30分前にアルカトラズ島を出ていれば、
強い海流に襲われて生存の可能性はほぼないとしている。
しかしながら関係者は「コンピュータが出した結果は100%事実ではない」としながらも、「いかだで逃げるのに成功した可能性もゼロではない」とコメント。

現在、アルカトラズ島は国が管理する観光名所となっており、貴重な野鳥や植物などが生息している。
セルフガイドのオーディオツアーキット(テープとヘッドフォン)を渡され、それに従って施設内を練り歩けるのだ。
英語で語られたらチンプンカンプンなのでは?と心配するなかれ。ちゃんと日本語も選択できるので、ご安心を。
テープには刑務所内の説明や、刑務所の看守だった人物や受刑者の声も収録されている。映画で描写されていた脱獄の説明も聞くことができるので、
イーストウッドファンにはたまらないかもしれない。
なんと階下の売店では、モリスたちが通気口を掘り進んだ食事用のスプーンが売られているので、お土産に最適。

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196 2015/04/11(土) 22:09:44 ID:7iltj3IZoI
     恐るべき破獄テクニックで難攻不落の監獄島を陥落させた男たち アルカトラズ島 3

ところで日本国内においても、伝説の脱獄囚がいる。最後にその恐るべき破獄テクニックを紹介して締めくくりたい。
もしかしたらそのサバイバル術は、この世知辛い現代社会において、何らかの役に立つかもしれないからだ。
それが白鳥由栄(しらとりよしえ)である。

白鳥由栄は明治40年に青森県生まれ。25歳のとき強盗殺人を犯し2年後に逮捕され、拘置中の昭和11年に青森刑務所柳町支所を脱獄(1回目)、3日後に逮捕される。
無期懲役の刑が確定して収監されたあと、34歳で秋田刑務所(2回目)、37歳のときに網走刑務所(3回目)をそれぞれ脱獄。
脱獄中の昭和21年に北海道砂川町(現砂川市)で、殺人を犯して逮捕される。
逮捕後、札幌刑務所に収監されたものの、ふたたび脱獄(4回目)し北海道山中で300日間生活したが、札幌に戻ったところを逮捕、東京の府中刑務所に移送された。
府中刑務所で13年すごしたあと模範囚として認められ、昭和36年に仮釈放を許される。それから16年後の昭和52年、71歳で死去。

白鳥の4度にわたる脱獄を可能にしたのは、超人的な身体能力(1日に120kmもの距離を走破し、手錠の鎖を引きちぎったという怪力、
身体の関節を自在に外せる特異体質)と、脱獄に向けた知恵、シャバに生還しようとする執念が抜きん出て優れていた点だろう。
そして手ひどい仕打ちを与える看守に対する反抗心だった。その心理を逆手にとったブラッフ(はったり)から、知能の高さが窺えよう。
箇条書きだが、ざっと羅列してみる。

①脱獄における合鍵作り……白鳥は入浴時、手桶にはめられていた金属製のタガをはずして独房内に持ち帰る。
次の入浴後、房にもどると、湯でふやけた掌を錠の鍵穴に強く押し付けて型をとっておく。次回の入浴時、身体を洗うふりをしてタガを床のコンクリート面で摩擦し、
合鍵を作ったとされている。
②手錠をかけられていても、看守が眼を離したスキに、手錠をはずしてくつろいでいるという引田天功そこのけの特殊能力を持っていた。
③合鍵は身体のなかに隠した。身体検査をすると、舌の下に細い金属板が差し込まれ、肛門のなかからはパラフィン紙に包まれた、これも細い金属板が見つかった。
いずれかが見つかった場合、即検査は打ち切られてしまうが、これもブラッフ。よほど慎重な看守でない限り、片方の隠し場所は見落としてしまう。

④このような問題囚人であることから、特製の手錠で拘束される。分厚い鋼でつくられた重さ15kgもある代物で、両環の継ぎ目に太いナットが埋め込まれており、
ハンマーでナットの頭を平たく叩き潰していた(入浴時は看守が1時間かけて、ヤスリがけして手錠を解かねばならなかった)。
にもかかわらず、ナットをはずして破獄。捜査課刑事による現場検証によって明らかになったのは、ナットの腐食だった。
ナットを腐食させた要因は意外にも味噌汁だった。
食事のたびに味噌汁を口に含んだまま房に戻り、看守の眼を盗んでは手錠のナットに垂らすことをくり返した。味噌汁に含まれた塩分が鋼鉄を酸化させ、
やがて腐食してゆるみ、引き抜くことができたのだと結論付けた。

⑤視察窓の鉄枠を外して、その狭い隙間から関節を脱臼させ、忍者かタコのように破獄した。
⑥便所のタガをはずして釘で刻みをつけ、手製のノコギリを工作。それを使い、2日かけて床板をひき切った。床下に潜り込み、食器で土を掘って獄舎の外に脱出。
⑦山中へ逃亡すると、無人の民家から虫眼鏡を入手。それを使って日光で火をおこし、煮炊きをおこなった。
⑧床板などの釘を抜き取るテクニックは、指を釘の頭に強く押し付けて回転させることをくり返せば容易であるという。
⑨監獄から脱獄したあと、高い塀を越えるコツは、塀沿いに斜めに走れば駆け上がれるらしい。

これはまだ戦前戦中、戦後間もない、監視・管理が行き届いていない当時なら可能だったろうが、徹底的に計算させた、現代では至難の業であろう。
しかしながら窮地に落とされてなお、生還しようとする人間の知恵と叡智は学べるものがある。
白鳥には自分のための脱獄はしないという信念があった。刑務所や裁判の矛盾、理不尽さと身をもって戦った人なのだ。
くわえて「人間の作ったものは、人間が壊せないわけはない」というのが白鳥の哲学だった。

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197 2015/04/12(日) 05:57:48 ID:nYYv2e9lcQ
[YouTubeで再生]
     恐るべき破獄テクニックで難攻不落の監獄島を陥落させた男たち アルカトラズ島 4

アル・カポネwikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%AB%E3%83%...
フランク・モリスwikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%83%A9%E3%83%...
怪しい伝説wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%80%AA%E3%81%97%E3%81%...
Aol News 映画『アルカトラズからの脱出』のモデルとなった脱獄犯に生存の可能性
http://news.aol.jp/2014/12/24/big-escape...
NAVERまとめ これは心ざわつく…。。脱出不可能の監獄島『アルカトラズ島』を観光してみたい!
http://matome.naver.jp/odai/214125116673301390...
我家のIT化 フランシスコ、ロサンゼルスの旅紀行(4)−アルカトラズ島
http://homenet.seesaa.net/article/121868160.htm...
AllAbout 元は刑務所の観光名所、アルカトラズ島
http://allabout.co.jp/gm/gc/380224...
Category:刑務所を舞台とした作品wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/Category:%E5%88%91%E5%8B%...
Hatena blog beyond the border 【1563冊目】吉村昭『破獄』
http://hachiro86.hatenablog.com/entries/2013/06/0...
白鳥由栄wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%99%BD%E9%B3%A5%E7%94%...
脱獄王「白鳥由栄」「白鳥由栄物語」
http://www.h3.dion.ne.jp/‾oyama/boukenn-folder/bouken-siratori.htm
博物館網走監獄 監獄秘話「五寸釘 寅吉」
http://www.kangoku.jp/data7.htm...

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198 2015/04/18(土) 08:56:21 ID:3eWMJpEGo2
     放浪の民が旅立つ前に住んでいた約束の地 メスカルティタン

すでに>>109でこの島の画像を貼ったが、今回はそれにツッコんでみよう。島の歴史が他に類を見ないパターンなので取り上げるに値する。
メキシコ合衆国のナヤリット州の湖に、世にも奇妙な人工島が存在する。これがメスカルティタンだ。直径が約400m。
俯瞰からのアングルだとシンメトリーの街並が、まるで太陽の石・アステカのカレンダーのように美しいではないか。
近隣のラ・バタンガから6km、エル・マタデロから2kmの位置にあり、いずれの町からも船で渡航が可能で、観光地として栄えており、
2001年にはプエブロ・マヒコに真っ先に選出されたほどの賑わいを見せる。人口は800人超。

メスカルティタンという名前の由来は、ナワトル語で『メスカルの土地』または『メシーカの家』の意。
アステカ族がもともと住んでいた伝説の地『アストラン(白鷺の地)』の起源こそ、現在のメスカルティタンではないかと言われているのだ(諸説あり)。
アステカ神話によれば、1091年、アストランに住んでいた7部族は、神のお告げにより理想郷を求めて鷲を追って旅に出た。
神託はこうだ。「蛇を咥えた鷲が止まるサボテンがある土地を都とせよ」。この言葉を信じ、200年以上にも及ぶ長旅となった。
1325年、ついに『石の上に生えたサボテン』に鷲がとまっているのを見つけたメシカ族は、テスココ湖の小島に都市・テノチティトランを築いた。
これが後のアステカ大帝国の興りであった。のちにスペインの侵略者(コンキスタドールの侵略)によって埋め立てられ、
現在のメキシコの首都・メキシコシティができたわけである。


DNA ディリィ・ニュウス・エィジェンシィ めいっぱい住宅が建ち並んだ、人口密度が高そうな島10選
http://dailynewsagency.com/2010/12/13/island-cities-aroun...
アステカwikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%82%B9%E3%83%...
芭蕉blog メスカルティタン、メキシコの湖に浮かぶアステカ文化の古代水上都市 23P2V
http://bashoh.com/2013/10/%E3%83%A1%E3%82%B9%E3%...
メキシコからの隠遁者通信 メキシコ中西部、夏の旅 Ⅱ−メスカルティタン−1
http://teacapan.cocolog-nifty.com/blog/2012/08/post-02be.htm...
太陽の石アステックカレンダーを解読する
http://www8.plala.or.jp/KgnosisAC/sub3-Jinrui-astec.ht...
テノチティトランwikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%86%E3%83%8E%E3%83%...
コンキスタドールwikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B3%E3%83%B3%E3%82%...

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199 2015/04/18(土) 21:22:41 ID:AlzfNXg5VA
今拡大進行中の西ノ島が今より更5倍を超えてに拡大していくことになったら中国や韓国が黙っていないという戦略的で戦争勃発の要因となる可能性を秘めているという恐ろしい島だといわれている

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200 2015/04/26(日) 06:23:55 ID:6eJm/nRTvY
     謎だらけの遺跡島の正体は古代ウイグル城塞跡か? ポル=バジン

島マニアの眼は節穴ではないッ!
さすが偉大なるサイト(ブログ?)『カラパイア不思議と謎の大冒険』。いつ閲覧しても、我々の知的好奇心を掻き立ててくれる記事が目白押しだ。
先日、『いったい誰が?何の目的で?謎に包まれたシベリアの孤島にある1300年前の遺跡「ポル=バジン」』と題され、
実にワクワクするような記事が紹介された。かっさらって、ここに追加する形で載せてみようではないか。

謎の島『ポル=バジン』へ行くにはトゥバ共和国の首都キジルからヘリコプターで3時間を要する。
陸路は存在せず、モンゴルとの国境近くにあるため、国境から25km以内は立ち入り禁止エリアに指定されているほど、島へ行くには困難を極める。
シベリア南部の山間の湖『テレ=ホリ』に問題の孤島が浮かんでいるのだが、明らかに人の手が加えられた長方形の外観が印象的。
しかもその『箱庭』の中は升目に壁が仕切られ、まるで平安京のミニチュアのような古代遺跡が佇んでいるのだからたまらない。
ちなみに『ポル=バジン』はトゥバ語で、『土の家』を意味するらしいので、まさに言い得て妙。

最初に遺跡が発見されたのは1891年。のちの1957年にサンクト・ペテルブルクの考古学者ヴァインシュテインによって発掘調査が進められ、
2007年にも大規模な発掘調査が行われたが、現在は終了している。
調査により、人間の背丈ほどの粘土製の平板、漆喰の壁に描かれた絵画、巨大な門、木の燃え跡が発見され、およそ1300年前に造られたと推測された。
しかしながら誰が建築し、なんの用途に使われたのか、なぜ放棄されたのか、謎のベールに包まれたままなのだ。
歴史家と科学者の見解は意見が分かれている。城塞か監獄ではないかとする説、あるいは人を収容・隔離するのではなく、人を呼び込むための施設との説、
はたまた離宮、修道院、天文観測所ではないかと考える専門家もいるが、どうやらウイグルの城跡の線が濃厚のようだ。

もっともテュルク系遊牧民族による遊牧国家、ウイグル(西暦744〜840)と同時期に建設されたとはいえ、居住地や交易ルートから遠く離れた不便な僻地に
城塞を築いた目的は明らかにされていない。
敷地は密集し、利用されている建材とともに、中国の伝統的な建築様式を思わせる。1300年前のものとは信じられぬほど、壁の大部分は保存状態が良好だ。
また、2区画に分割されている中庭の主要構造物は、瓦屋根の通路を持っていたらしく、石の基礎上に立てられた36本の木製柱に支えられていた跡が見られる。
不思議なことに、厳しいシベリアの気候、しかも海抜2.3kmという条件を耐えたにもかかわらず、暖房設備の痕跡が見られない疑問点も残る。
いずれにせよ、クフ王のピラミッドに比肩しうるミステリアスな島兼遺跡である。

2007年、プーチン大統領がアルベール2世モナコ大公と一緒に訪れた際、「これまで色々な場所を訪れ、多くの物を目にしてきたが、こんな場所は初めてだ」と、
困惑しながら言わしめたほど。
今後の調査報告が楽しみな島だ。


カラパイア不思議と謎の大冒険 いったい誰が?何の目的で?謎に包まれたシベリアの孤島にある1300年前の遺跡「ポル=バジン」
http://karapaia.livedoor.biz/archives/52189969.htm...
クラスノヤルスク滞在記と滞在後記 トゥヴァ(トゥバ)紀行
http://homepage2.nifty.com/enisei2580/2012tuva0.htm...
Googleマップ Por-Bażyn
https://www.google.co.jp/maps/place/Por-Ba%C5%BCyn/@50....
泰弘さんの【追憶の記】です・・・ 21・満州の名刹と風光・・承徳の夏の離宮・・絵葉書・・
http://blogs.yahoo.co.jp/y294maself/32170334.htm...
四神相応wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%9B%E7%A5%9E%E7%9B%...

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