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続・怖い島・いわくつきの村
▼ページ最下部
全国に散らばる、おっかない伝承伝説が伝わる離島専用スレッド第2弾です(若干ながら村ネタもあり)。
もちろん島の奇祭や神秘の風習、島のみならずワケあり岩礁や奇岩なども含み、いかがわしいオカルトにとどまらず、
れっきとした民俗学としての側面を持ち合わせています。島ネタに関して異常に特化したソレを目指すつもりです。
……前スレが500レスに達する前に続編を立てた理由は、サイズが500KBを超過してしまい書き込めなくなったためです。
せっかく満杯になるまで文字で埋め尽くし、有終の美を飾ろうとしたのにカウンターストップとは……。いささか文章がボリューミーすぎたかも。
まあ、めげずにご要望に応え、続・怖い島と行きましょう。
ちなみに……スレ自体を保存し、あとで読む方法をお教えします。
書き込みできなくなったスレは後ろへ流れてしまい、新スレが立ち上がるたび、古いものから消えてしまいます。
そうなる前に貴重なスレは永久保存しておきましょう。前スレはネット世界は広しといえど、近年類を見ない極上の資料スレですぞ。
以下は、その手順。
任意のスレ内の適当な空白で右クリック→プロパティ→アドレスをコピー→画面上部のアドレス直接入力枠にペースト→そのアドレスへ飛ぶ→
このスレが表示される→ファイル→名前を付けて保存。
※スレ画は前スレ>>188で紹介した、愛知県蒲郡市、三河大島にある仏島(島というより岩礁だが)。
癒されたい僕のブログ カヤック編 三河大島へ
http://blog.livedoor.jp/usa_usao5/archives/1697874.htm...
もちろん島の奇祭や神秘の風習、島のみならずワケあり岩礁や奇岩なども含み、いかがわしいオカルトにとどまらず、
れっきとした民俗学としての側面を持ち合わせています。島ネタに関して異常に特化したソレを目指すつもりです。
……前スレが500レスに達する前に続編を立てた理由は、サイズが500KBを超過してしまい書き込めなくなったためです。
せっかく満杯になるまで文字で埋め尽くし、有終の美を飾ろうとしたのにカウンターストップとは……。いささか文章がボリューミーすぎたかも。
まあ、めげずにご要望に応え、続・怖い島と行きましょう。
ちなみに……スレ自体を保存し、あとで読む方法をお教えします。
書き込みできなくなったスレは後ろへ流れてしまい、新スレが立ち上がるたび、古いものから消えてしまいます。
そうなる前に貴重なスレは永久保存しておきましょう。前スレはネット世界は広しといえど、近年類を見ない極上の資料スレですぞ。
以下は、その手順。
任意のスレ内の適当な空白で右クリック→プロパティ→アドレスをコピー→画面上部のアドレス直接入力枠にペースト→そのアドレスへ飛ぶ→
このスレが表示される→ファイル→名前を付けて保存。
※スレ画は前スレ>>188で紹介した、愛知県蒲郡市、三河大島にある仏島(島というより岩礁だが)。
癒されたい僕のブログ カヤック編 三河大島へ
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※省略されてます すべて表示...
加唐島の自然
http://www.surpz.net/‾shige-happy1228/island-shizen.htm
風葬wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A2%A8%E8%91%A...
洗骨wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B4%97%E9%AA%A...
飛耳長目 国際紛争の心理 (九州沖縄スペシャル 与論島の洗骨儀礼 とうとがなしばあちゃん与論島 死者を弔う洗骨儀礼
http://blogs.yahoo.co.jp/nakamushyh/32394070.htm...
fuyuさんの日記 久高島の風葬
http://kayama.cocolog-nifty.com/fuyu/2008/03/post_2fda.htm...
[PDF]女が男を守る島 —オナリ神信仰と久高島—
http://repository.seikei.ac.jp/dspace/bitstream/10928/197/1/a...
養和の飢饉
http://www.ne.jp/asahi/kibono/sumika/kibo/note/...
ブログ版 ティラキタ駱駝通信 死体が野ざらしに!? インドネシアの風葬の村
http://blog.tirakita.com/2011/10/%E6%AD%BB%E4%BD%93%E3%...
気楽にバイクライフ こころ旅トレース2013〜奈良県編〜130727
http://nmtr220.blog66.fc2.com/blog-entry-278.htm...
狼神話 吉野・犬塚(いぬづか)
http://www.raifuku.net/special/wolf/map/area/kinki/sh...
世界遺産の吉水神社から「ニコニコ顔で、命がけ!」 吉野には一匹も犬を飼わない村があるのです。
http://blogs.yahoo.co.jp/yoshimizushrine/53432375.htm...
http://www.surpz.net/‾shige-happy1228/island-shizen.htm
風葬wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A2%A8%E8%91%A...
洗骨wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B4%97%E9%AA%A...
飛耳長目 国際紛争の心理 (九州沖縄スペシャル 与論島の洗骨儀礼 とうとがなしばあちゃん与論島 死者を弔う洗骨儀礼
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fuyuさんの日記 久高島の風葬
http://kayama.cocolog-nifty.com/fuyu/2008/03/post_2fda.htm...
[PDF]女が男を守る島 —オナリ神信仰と久高島—
http://repository.seikei.ac.jp/dspace/bitstream/10928/197/1/a...
養和の飢饉
http://www.ne.jp/asahi/kibono/sumika/kibo/note/...
ブログ版 ティラキタ駱駝通信 死体が野ざらしに!? インドネシアの風葬の村
http://blog.tirakita.com/2011/10/%E6%AD%BB%E4%BD%93%E3%...
気楽にバイクライフ こころ旅トレース2013〜奈良県編〜130727
http://nmtr220.blog66.fc2.com/blog-entry-278.htm...
狼神話 吉野・犬塚(いぬづか)
http://www.raifuku.net/special/wolf/map/area/kinki/sh...
世界遺産の吉水神社から「ニコニコ顔で、命がけ!」 吉野には一匹も犬を飼わない村があるのです。
http://blogs.yahoo.co.jp/yoshimizushrine/53432375.htm...
海賊どもを成敗しに、いざ鬼ヶ島に乗り込まん! 女木島(めぎじま) 1
4月現在、小栗旬扮するハードボイルドタッチな桃太郎のペプシのCMがひそかな話題を呼んでいるので、
それにまつわる島を紹介しよう。
どうせ前スレ>>334で浦島太郎にちなんだレスもしたことだし、いずれ桃太郎に関する島の話をせねばなるまいと
思っていたところだった。
映画板でも専用スレッドが立っているが、僕も徹底的にシブいノリで映画化して欲しいと願う1人だったりする。
原作のもつイメージをブッ壊して、パワーみなぎるエンターテイメントにアレンジするのもアリだと思う。
それはそうと、言うまでもなく桃太郎は『昔話』にカテゴライズされる(もしくは童話か)。
ちなみに『昔話』は誰が決めたか、『桃太郎』『猿蟹合戦』『舌切り雀』『花咲か爺』『浦島太郎』を、俗に5大昔話と呼んでいる。
なかでも桃太郎は定番中のド定番。それに勧善懲悪モノは日本人に受け容れやすい。これは儒教的な精神が絡んでいる。
子は親に、女は男に忠を尽くすことが大切で、その努力の結果として「善ヲ勧メ悪ヲ懲ラシム」ということにつながっていくのだ。
その桃太郎にはモデルがあったのをご存知だろうか?
いくつか諸説があるが、まずは岡山県岡山市にある吉備津神社。そこに祀られている吉備津彦命(きびつひこのみこと)こそ、その1人だという。
吉備津彦命は第7代の天皇・孝霊(こうれい)天皇の子であり、弥生時代後半から古墳時代前半の間に実在し、岡山の吉備地方を支配していた。
そもそも岡山は桃の産地としても有名で、物語中、キーアイテムとして扱われるキビ団子の原料、キビの名産地でもあった。
この地方で採れるキビは良質で、人々は昔から団子にしたり酒に加工していた。それにキビ=吉備という発音の共通性も見られ、
以上のことから、桃太郎は岡山県出身である説が有力なのだと推す学者も多い。その鬼退治の元となった物語が吉備津彦命による『温羅伝説』である。
その昔、異国から流れてきた鬼が吉備国に住み着いた。鬼とは名ばかりで、温羅(ウラ)と呼ばれ、もとは百済の王子だったという。
温羅は赤髪の巨漢の持ち主で、人相・性格はきわめて凶暴なり。現在の吉備津神社から西北へ10kmのところの片岡山に築いた『鬼の城』を拠点に、
暴虐の限りを尽くして人々を絶望の淵に立たせていた。
それを征伐すべく、朝廷から派遣されたのが吉備津彦命であった。
吉備津彦命には3人の精鋭の部下がいた。それが犬飼健(いぬかいたける)、楽々森彦(ささもりひこ)、留玉臣(とめたまおみ)である。
現在の吉備津神社近くにある『吉備の中山』に陣を張った吉備津彦命は、温羅とその軍勢との死闘の末、からくも勝利をもぎ取った。
吉備津彦命は降伏した温羅の首を刎ねたにもかかわらず、首は不気味にも吠え続け、地中深く埋めてもやまなかった。
そこで首の上に御釜殿を建築し祀るとなんとか静まり、釜を鳴らして吉凶を占う霊となったという。
これが吉備津彦神社の始まりであり、鳴釜神事(なるかましんじ)の由来でもある。
鳴釜神事とは、釜の上にセイロを置いて中に米を入れ、蓋を乗せた状態で釜を焚いたときに鳴る音の強弱・長短で吉凶を占う行事。
この伝説より吉備津彦命は本来土着の神だったが、神話や系譜を整える際に天皇家の系譜に組み込まれたものとする説がある。
また、部下であった犬飼健を犬、楽々森彦を猿、留玉臣を雉と見立て、この温羅伝説が桃太郎の物語に昇華したといわれ、
岡山県では自県を『桃太郎発祥の地』として宣伝している。
ちなみに、吉備津彦命の部下の1人、犬飼健は犬養氏の始祖で、5・15事件で暗殺された犬養毅首相の祖先であるとされている。
さらに温羅は吉備津彦命以前に吉備国を支配していた旧勢力であり、製鉄技術を供与していた渡来人乃至は地来の豪族であり、
旧勢力に義理立てするために吉備津彦命(つまりヤマト王権)と戦った、と言う見方がある。これが鬼の正体だった。
4月現在、小栗旬扮するハードボイルドタッチな桃太郎のペプシのCMがひそかな話題を呼んでいるので、
それにまつわる島を紹介しよう。
どうせ前スレ>>334で浦島太郎にちなんだレスもしたことだし、いずれ桃太郎に関する島の話をせねばなるまいと
思っていたところだった。
映画板でも専用スレッドが立っているが、僕も徹底的にシブいノリで映画化して欲しいと願う1人だったりする。
原作のもつイメージをブッ壊して、パワーみなぎるエンターテイメントにアレンジするのもアリだと思う。
それはそうと、言うまでもなく桃太郎は『昔話』にカテゴライズされる(もしくは童話か)。
ちなみに『昔話』は誰が決めたか、『桃太郎』『猿蟹合戦』『舌切り雀』『花咲か爺』『浦島太郎』を、俗に5大昔話と呼んでいる。
なかでも桃太郎は定番中のド定番。それに勧善懲悪モノは日本人に受け容れやすい。これは儒教的な精神が絡んでいる。
子は親に、女は男に忠を尽くすことが大切で、その努力の結果として「善ヲ勧メ悪ヲ懲ラシム」ということにつながっていくのだ。
その桃太郎にはモデルがあったのをご存知だろうか?
いくつか諸説があるが、まずは岡山県岡山市にある吉備津神社。そこに祀られている吉備津彦命(きびつひこのみこと)こそ、その1人だという。
吉備津彦命は第7代の天皇・孝霊(こうれい)天皇の子であり、弥生時代後半から古墳時代前半の間に実在し、岡山の吉備地方を支配していた。
そもそも岡山は桃の産地としても有名で、物語中、キーアイテムとして扱われるキビ団子の原料、キビの名産地でもあった。
この地方で採れるキビは良質で、人々は昔から団子にしたり酒に加工していた。それにキビ=吉備という発音の共通性も見られ、
以上のことから、桃太郎は岡山県出身である説が有力なのだと推す学者も多い。その鬼退治の元となった物語が吉備津彦命による『温羅伝説』である。
その昔、異国から流れてきた鬼が吉備国に住み着いた。鬼とは名ばかりで、温羅(ウラ)と呼ばれ、もとは百済の王子だったという。
温羅は赤髪の巨漢の持ち主で、人相・性格はきわめて凶暴なり。現在の吉備津神社から西北へ10kmのところの片岡山に築いた『鬼の城』を拠点に、
暴虐の限りを尽くして人々を絶望の淵に立たせていた。
それを征伐すべく、朝廷から派遣されたのが吉備津彦命であった。
吉備津彦命には3人の精鋭の部下がいた。それが犬飼健(いぬかいたける)、楽々森彦(ささもりひこ)、留玉臣(とめたまおみ)である。
現在の吉備津神社近くにある『吉備の中山』に陣を張った吉備津彦命は、温羅とその軍勢との死闘の末、からくも勝利をもぎ取った。
吉備津彦命は降伏した温羅の首を刎ねたにもかかわらず、首は不気味にも吠え続け、地中深く埋めてもやまなかった。
そこで首の上に御釜殿を建築し祀るとなんとか静まり、釜を鳴らして吉凶を占う霊となったという。
これが吉備津彦神社の始まりであり、鳴釜神事(なるかましんじ)の由来でもある。
鳴釜神事とは、釜の上にセイロを置いて中に米を入れ、蓋を乗せた状態で釜を焚いたときに鳴る音の強弱・長短で吉凶を占う行事。
この伝説より吉備津彦命は本来土着の神だったが、神話や系譜を整える際に天皇家の系譜に組み込まれたものとする説がある。
また、部下であった犬飼健を犬、楽々森彦を猿、留玉臣を雉と見立て、この温羅伝説が桃太郎の物語に昇華したといわれ、
岡山県では自県を『桃太郎発祥の地』として宣伝している。
ちなみに、吉備津彦命の部下の1人、犬飼健は犬養氏の始祖で、5・15事件で暗殺された犬養毅首相の祖先であるとされている。
さらに温羅は吉備津彦命以前に吉備国を支配していた旧勢力であり、製鉄技術を供与していた渡来人乃至は地来の豪族であり、
旧勢力に義理立てするために吉備津彦命(つまりヤマト王権)と戦った、と言う見方がある。これが鬼の正体だった。
海賊どもを成敗しに、いざ鬼ヶ島に乗り込まん! 女木島(めぎじま) 2
ところが桃太郎はこの岡山版だけではない。
瀬戸内海を挟んで、対岸の香川県にも異なるモデルが存在するのだ。
香川の桃太郎は、まさに吉備津彦命の弟・稚武彦命(わかたけひこのみこと)である。
ここでの鬼は、瀬戸内海を股にかける海賊を指す。
そう言えば前者、岡山版桃太郎には、片岡山に築いた城であって肝心の鬼ヶ島のモデルが言及されていなかったが、
香川版ではちゃんと存在する。
瀬戸内海の直島諸島に含まれる女木島は、高松港から北沖合へ約4kmのところにある有人島。この女木島こそ、
桃太郎が攻め入った鬼ヶ島そのものだという。
島名の由来には諸説の1つとして、源平合戦で那須与一が射落とした扇の一部が流れ着いたことから『メギ』という名が冠されたとされている。
この地方の方言で、『壊れる』ことを『めげる』ということからだそうだ。
香川版桃太郎である稚武彦命による鬼退治の話の概要はざっとこんな感じである。
讃岐国一帯の不穏な情勢を鎮めるため朝廷から派遣されてきた稚武彦命。船に乗って、まずは河口から本津川を遡っていた。
その途中、川で洗濯をしていた老女と出会う。老女は稚武彦命を夫に紹介し会話した。聞けば、子宝に恵まれなかった老夫婦は、
いたく稚武彦命を気に入り、養子になってくれと懇願する。稚武彦命は快諾した。老夫婦の家を拠点に行動しても支障はあるまいと思ったのだろう。
当時、この讃岐国に住む住民は、女木島を根城にする海賊の被害に遭っていた。
事情を聞かされた稚武彦命はさっそく身支度を整え、女木島へ海賊討伐に向かうことにした。
その前に、敵戦力と数を鑑みたら、いささか心もとない。まずは備前の犬島(岡山・前スレ>>208を参照されたし)、
陶の猿王(香川・綾南町)、雉ヶ谷(香川・鬼無町)に住む3勇士を仲間に加えた。いずれも戦闘に長けた男たちであった。
これで準備は整った。いざ女木島へ!
島に上陸した4人のパーティは、海賊がひそむダンジョンの奥に攻め込み、壮絶な死闘の末、みごと海賊たちを討ち倒した。
洞窟内部には海賊たちが村人から略奪した宝物が山と積まれており、一行はそれらを回収して讃岐に帰還したのだった。
後日、海賊の残党どもが讃岐国の村(現在の高松市北西部)までお礼参りにやってきた。
しかしまたしても稚武彦命たちに返り討ちにされる。今度ばかりは1人残さず全滅させた。その屍を埋めたのが高松市鬼無町に残る『鬼ヶ塚』だという。
それ以来、讃岐国には海賊がいなくなり、平和を取り戻すことができた。また鬼と最後に戦ったこの村を『鬼無』と呼ぶようになった。
鬼無にある熊野権現、別名桃太郎神社は稚武彦命が祀られている。ここには桃太郎ばかりか、犬、猿、雉の墓石が揃っている。
なんと老夫婦の墓まであるらしいが、やや演出過多とも言えよう。
海賊たちは女木島の洞窟を住処としていたのはすでに述べた。件の洞窟は、島中央にある鷲ヶ峰という標高188mの山にあり、全長約400mを誇る。
大正3(1914)年、高松市中間町出身の郷土史家・橋本仙太郎氏により発見されたこの洞窟は、『鬼ヶ島洞窟』と名づけられた。
昭和6(1931)年より一般公開され、現在に至る。2010年には瀬戸内国際芸術祭の会場の1つに選ばれ、期間中は国内はもとより、
海外からも多数の観光客が渡島した。
この洞窟は天井にノミ痕が見られることから、明らかに人工的な産物だそうだ。およそ紀元前100年ごろに造られたものらしい。
洞窟中央付近にある『宝庫』は一見行き止まりのように見えるが、その実、下には穴が掘られており、ここに財宝が隠されていたという。
また、洞窟内で唯一の水源地『鬼の力水』、海賊たちが捕らえてきた婦女子を監禁したと思われる『監禁室』なども存在する。
洞窟の中間には、周囲30mの開けた空間があり、おそらく海賊たちはこの広間で飲めや歌えやの宴会をしていたに違いあるまい。
ところが桃太郎はこの岡山版だけではない。
瀬戸内海を挟んで、対岸の香川県にも異なるモデルが存在するのだ。
香川の桃太郎は、まさに吉備津彦命の弟・稚武彦命(わかたけひこのみこと)である。
ここでの鬼は、瀬戸内海を股にかける海賊を指す。
そう言えば前者、岡山版桃太郎には、片岡山に築いた城であって肝心の鬼ヶ島のモデルが言及されていなかったが、
香川版ではちゃんと存在する。
瀬戸内海の直島諸島に含まれる女木島は、高松港から北沖合へ約4kmのところにある有人島。この女木島こそ、
桃太郎が攻め入った鬼ヶ島そのものだという。
島名の由来には諸説の1つとして、源平合戦で那須与一が射落とした扇の一部が流れ着いたことから『メギ』という名が冠されたとされている。
この地方の方言で、『壊れる』ことを『めげる』ということからだそうだ。
香川版桃太郎である稚武彦命による鬼退治の話の概要はざっとこんな感じである。
讃岐国一帯の不穏な情勢を鎮めるため朝廷から派遣されてきた稚武彦命。船に乗って、まずは河口から本津川を遡っていた。
その途中、川で洗濯をしていた老女と出会う。老女は稚武彦命を夫に紹介し会話した。聞けば、子宝に恵まれなかった老夫婦は、
いたく稚武彦命を気に入り、養子になってくれと懇願する。稚武彦命は快諾した。老夫婦の家を拠点に行動しても支障はあるまいと思ったのだろう。
当時、この讃岐国に住む住民は、女木島を根城にする海賊の被害に遭っていた。
事情を聞かされた稚武彦命はさっそく身支度を整え、女木島へ海賊討伐に向かうことにした。
その前に、敵戦力と数を鑑みたら、いささか心もとない。まずは備前の犬島(岡山・前スレ>>208を参照されたし)、
陶の猿王(香川・綾南町)、雉ヶ谷(香川・鬼無町)に住む3勇士を仲間に加えた。いずれも戦闘に長けた男たちであった。
これで準備は整った。いざ女木島へ!
島に上陸した4人のパーティは、海賊がひそむダンジョンの奥に攻め込み、壮絶な死闘の末、みごと海賊たちを討ち倒した。
洞窟内部には海賊たちが村人から略奪した宝物が山と積まれており、一行はそれらを回収して讃岐に帰還したのだった。
後日、海賊の残党どもが讃岐国の村(現在の高松市北西部)までお礼参りにやってきた。
しかしまたしても稚武彦命たちに返り討ちにされる。今度ばかりは1人残さず全滅させた。その屍を埋めたのが高松市鬼無町に残る『鬼ヶ塚』だという。
それ以来、讃岐国には海賊がいなくなり、平和を取り戻すことができた。また鬼と最後に戦ったこの村を『鬼無』と呼ぶようになった。
鬼無にある熊野権現、別名桃太郎神社は稚武彦命が祀られている。ここには桃太郎ばかりか、犬、猿、雉の墓石が揃っている。
なんと老夫婦の墓まであるらしいが、やや演出過多とも言えよう。
海賊たちは女木島の洞窟を住処としていたのはすでに述べた。件の洞窟は、島中央にある鷲ヶ峰という標高188mの山にあり、全長約400mを誇る。
大正3(1914)年、高松市中間町出身の郷土史家・橋本仙太郎氏により発見されたこの洞窟は、『鬼ヶ島洞窟』と名づけられた。
昭和6(1931)年より一般公開され、現在に至る。2010年には瀬戸内国際芸術祭の会場の1つに選ばれ、期間中は国内はもとより、
海外からも多数の観光客が渡島した。
この洞窟は天井にノミ痕が見られることから、明らかに人工的な産物だそうだ。およそ紀元前100年ごろに造られたものらしい。
洞窟中央付近にある『宝庫』は一見行き止まりのように見えるが、その実、下には穴が掘られており、ここに財宝が隠されていたという。
また、洞窟内で唯一の水源地『鬼の力水』、海賊たちが捕らえてきた婦女子を監禁したと思われる『監禁室』なども存在する。
洞窟の中間には、周囲30mの開けた空間があり、おそらく海賊たちはこの広間で飲めや歌えやの宴会をしていたに違いあるまい。
[YouTubeで再生]
海賊どもを成敗しに、いざ鬼ヶ島に乗り込まん! 女木島(めぎじま) 3
吉備津彦命wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%89%E5%82%99%E6%B4%...
温羅wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B8%A9%E7%BE%8...
鳴釜神事wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B3%B4%E9%87%9C%E7%A5%...
Blue Signal西日本の美しい風土 特集 桃太郎伝説をたずねて、吉備路へ
https://www.westjr.co.jp/company/issue/bsignal/05_vol_1...
高松みなと散歩 女木島(鬼ヶ島)・男木島
https://www.city.takamatsu.kagawa.jp/kankou/meisyo/megi.ht...
たびねす 桃太郎伝説ならここ!!香川・女木島の大洞窟で鬼を探索
http://guide.travel.co.jp/article/1063...
yahoo!知恵袋 桃太郎の鬼について質問します。岡山のウラ伝説と女木島(鬼が島)の海賊説は同一人物がモデルですか?
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q106862565...
チョコバナナch 日本の先端技術で再現された「桃太郎」これ映画化されたら絶対観に行くわwwwwww
http://blog.livedoor.jp/koj2323/archives/1000499069.ht...
海賊どもを成敗しに、いざ鬼ヶ島に乗り込まん! 女木島(めぎじま) 3
吉備津彦命wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%89%E5%82%99%E6%B4%...
温羅wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B8%A9%E7%BE%8...
鳴釜神事wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B3%B4%E9%87%9C%E7%A5%...
Blue Signal西日本の美しい風土 特集 桃太郎伝説をたずねて、吉備路へ
https://www.westjr.co.jp/company/issue/bsignal/05_vol_1...
高松みなと散歩 女木島(鬼ヶ島)・男木島
https://www.city.takamatsu.kagawa.jp/kankou/meisyo/megi.ht...
たびねす 桃太郎伝説ならここ!!香川・女木島の大洞窟で鬼を探索
http://guide.travel.co.jp/article/1063...
yahoo!知恵袋 桃太郎の鬼について質問します。岡山のウラ伝説と女木島(鬼が島)の海賊説は同一人物がモデルですか?
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q106862565...
チョコバナナch 日本の先端技術で再現された「桃太郎」これ映画化されたら絶対観に行くわwwwwww
http://blog.livedoor.jp/koj2323/archives/1000499069.ht...
加地藤左衛門による大蛇退治伝説 大槌島(おおづちしま)
岡山県玉野市の宇野港からすぐのそばに、標高150mほどの三角錐の形をした無人島がある。それが大槌島だ。
島の周りは鯛や鰆が育つ漁場になっている。かつて備前と讃岐両藩が漁場をめぐって騒動を起こしたため、大槌島から樽を流し、
両藩の領海を決めた『樽流し』の説話として知られ、江戸で裁定を下した裁判官の1人に、あの大岡越前守忠相も含まれていたという。
他にも大槌島には、またしても大蛇伝説が語り継がれている。それがこんな話。
昔、大槌島には大蛇が住み着いており、島から対岸の日比村に渡ってきては人々を苦しめていた。
日比村には加地藤左衛門という人物がいた。藤左衛門は武術に長け、勇猛果敢で腕っぷしも強く、さらに弓の達人でもあった。
ある日、そんな藤左衛門を見込んでか、枕元に神が立ち、こう告げるのだ。
「おぬしに頼みたいことがある。大槌島から大蛇が泳いできては、村人を長年悩まして困っている。どうかこの脅威から救ってやってくれぬか。
おぬしならできる……」
藤左衛門が夢から醒めると、枕元に弓と一矢が残されていた。男ならやらないわけにはいくまい。その弓を手に取り、感触を確かめた。
翌日、彼が海辺に出向くと、大蛇はすでに島に渡ってきていた。大蛇は松の幹に巻きついて眼を輝かせ、口から二股の舌をチラつかせていた。
大蛇と藤左衛門との距離は100mあまり離れたが、命中させる技量と自信があった。すかさず膝撃ちの構えをとると、満月の形になるまで弓を引き絞った。
放たれた一矢は狙いを違わず大蛇の喉に突き刺さった。松の木から大蛇の巨体が崩れ落ちた。
そばまで駆けつけると、大蛇は最後の力のなせる業か、毒息を藤左衛門に浴びせかけると事切れた。
とっさに顔をかばったつもりだったが、たちまち毒気は体内を蝕み、しだいに意識がかすんで倒れてしまった。
藤左衛門の命運、ここに尽きるのか。しばらくすると時ならぬ雨が降り出した。仰向けになった藤左衛門の口から喉に雨水が流れ込む。
それが毒を癒したか、彼は意識を取り戻した。
村人は神と助けと藤左衛門の勇敢さを称えた。大蛇を退治した矢(『大雁』なる矢の名前)は享保のころまで伝えられ、
大蛇のウロコは現在も御前八幡宮に残されているという。
一説にはそのとき、日比港に入っていた難波の米船が、死んだ大蛇と米とを交換して持って帰ったとも伝えられている。
日比の八幡宮は当時、日比の宮山の頂上にあったものを文明年間に麓に移したが、昭和18年に現在の御前八幡宮に合祀されている。
……それにしても、日本には驚くほど大蛇伝説が転がっている。この大蛇も何らかの比喩なんだろうね。
樽流し伝説
http://www6.plala.or.jp/mori-ben/taru.htm...
山陰百貨店—日常を観光する— 【龍宮城伝説】備讃瀬戸に浮かぶおにぎり【大槌島・小槌島】
http://ameblo.jp/sanin-department-store/entry-1...
玉野の伝説 岡山県県南の街、玉野市の伝説 大槌・小槌・大蛇退治:玉野の伝説
http://tamano.imawamukashi.com/umi/umi-3.htm...
[PDF]玉野市観光協会 海のまち 玉野にいらっしゃ〜い !!
http://www.tamanokankou.com/pdf/23.11.27walking.pd...
岡山県玉野市の宇野港からすぐのそばに、標高150mほどの三角錐の形をした無人島がある。それが大槌島だ。
島の周りは鯛や鰆が育つ漁場になっている。かつて備前と讃岐両藩が漁場をめぐって騒動を起こしたため、大槌島から樽を流し、
両藩の領海を決めた『樽流し』の説話として知られ、江戸で裁定を下した裁判官の1人に、あの大岡越前守忠相も含まれていたという。
他にも大槌島には、またしても大蛇伝説が語り継がれている。それがこんな話。
昔、大槌島には大蛇が住み着いており、島から対岸の日比村に渡ってきては人々を苦しめていた。
日比村には加地藤左衛門という人物がいた。藤左衛門は武術に長け、勇猛果敢で腕っぷしも強く、さらに弓の達人でもあった。
ある日、そんな藤左衛門を見込んでか、枕元に神が立ち、こう告げるのだ。
「おぬしに頼みたいことがある。大槌島から大蛇が泳いできては、村人を長年悩まして困っている。どうかこの脅威から救ってやってくれぬか。
おぬしならできる……」
藤左衛門が夢から醒めると、枕元に弓と一矢が残されていた。男ならやらないわけにはいくまい。その弓を手に取り、感触を確かめた。
翌日、彼が海辺に出向くと、大蛇はすでに島に渡ってきていた。大蛇は松の幹に巻きついて眼を輝かせ、口から二股の舌をチラつかせていた。
大蛇と藤左衛門との距離は100mあまり離れたが、命中させる技量と自信があった。すかさず膝撃ちの構えをとると、満月の形になるまで弓を引き絞った。
放たれた一矢は狙いを違わず大蛇の喉に突き刺さった。松の木から大蛇の巨体が崩れ落ちた。
そばまで駆けつけると、大蛇は最後の力のなせる業か、毒息を藤左衛門に浴びせかけると事切れた。
とっさに顔をかばったつもりだったが、たちまち毒気は体内を蝕み、しだいに意識がかすんで倒れてしまった。
藤左衛門の命運、ここに尽きるのか。しばらくすると時ならぬ雨が降り出した。仰向けになった藤左衛門の口から喉に雨水が流れ込む。
それが毒を癒したか、彼は意識を取り戻した。
村人は神と助けと藤左衛門の勇敢さを称えた。大蛇を退治した矢(『大雁』なる矢の名前)は享保のころまで伝えられ、
大蛇のウロコは現在も御前八幡宮に残されているという。
一説にはそのとき、日比港に入っていた難波の米船が、死んだ大蛇と米とを交換して持って帰ったとも伝えられている。
日比の八幡宮は当時、日比の宮山の頂上にあったものを文明年間に麓に移したが、昭和18年に現在の御前八幡宮に合祀されている。
……それにしても、日本には驚くほど大蛇伝説が転がっている。この大蛇も何らかの比喩なんだろうね。
樽流し伝説
http://www6.plala.or.jp/mori-ben/taru.htm...
山陰百貨店—日常を観光する— 【龍宮城伝説】備讃瀬戸に浮かぶおにぎり【大槌島・小槌島】
http://ameblo.jp/sanin-department-store/entry-1...
玉野の伝説 岡山県県南の街、玉野市の伝説 大槌・小槌・大蛇退治:玉野の伝説
http://tamano.imawamukashi.com/umi/umi-3.htm...
[PDF]玉野市観光協会 海のまち 玉野にいらっしゃ〜い !!
http://www.tamanokankou.com/pdf/23.11.27walking.pd...
>>83
韓国の旅客船セウォル号沈没事故に関連した海神神社の件ね。今回は見送り。
実は同じ対馬でも、その海神神社の近くに、『白鬚明神』なるモノを祀った謎の祠があるとの情報をつかんでいる。
個人的にはそっちの方に好奇心が動く。またの機会に書くわ。今日は海難事故に関した話をば1つ……。
漂流者にとって島の先住者・長平は鬼として映ったか? 鳥島(伊豆鳥島) 1
あなたが乗っていた船が大時化に遭い、あてどもなく漂流したものと仮定する。
風雨が荒れ狂い、波頭が艫(とも)にぶつかり、潮の飛沫で船内が水浸しになる。船の機能の大半が破壊された。もはや舵は利かない。
食料や飲料水も波にさらわれるか、数日もすればあなたの胃袋に消え、蓄えが底を尽く。
猛烈な渇きを憶え海水を飲もうとするも、あまりの塩辛さに嘔吐する。それでものどを潤したくて、しまいには自身の小便を飲むようになる。
10日間、漂流し続けた。船がどこへ向かっているのか知る由もない。
死にたくない。とにかく飢えと渇きを解消しなくては。
船が進むにつれ、お椀を伏せたような青い島影が見えてきた。あなたは飛び上がらんばかりに歓喜するに違いない。
当然、島に上陸したいと思うはず。潮流の影響か、徐々に島に近づく。これはラッキーだ。
やがて島のなだらかな丘稜がはっきりと見えてきた。その丘に、なんと1人の人間が立っているのがわかった。
あなたは俄然喜ぶだろう。どうやらその島は有人島で、人が住んでいるのならば、インフラの設備が整っているに違いないと踏む。
とすれば食べ物と水にありつける。
船はさらに島に迫る。
あなたは眼を凝らす。おかしい……。それもそのはず、その人間は異様な姿をしているのだ。
それは男であるのは確かだ。ただし、ざんばら髪がだらしなく風になびき、ヒゲが伸び放題、皮膚は赤黒く日焼けし、
白い羽で編んだ蓑(みの)のようなものをまとっている。しかも目つきが尋常でない。ギラギラとした険しい光を放っている。
腰には毛をむしって乾燥した鶏みたいな物体がぶら下がっており、手首には貝をつなぎ合わせて作った数珠のようなものが巻かれている。
まるで野蛮人だ……いや、あれこそ鬼かもしれないと、あなたは直感するだろう。
男は片手で拝むポーズをとり、眼をつむって何やら念仏のようなものを唱えている。
……東京都直轄である伊豆諸島の1つである鳥島(国内には無数の『鳥島』があり、他と差別化するため『伊豆鳥島』とも呼ばれる)は、
八丈島の南約300km、小笠原諸島聟島列島の北約370kmに浮かんでいる。過去に何度も噴火した火山島でもあり、水源なども皆無に等しい。
よって、およそ人が住むには適していない。
島は現在でこそ無人島だが、かつての遺構が風雨にさらされたまま佇んでいる。それが気象庁鳥島気象観測所である。
観測所は昭和22(1947)年に開設され、島に生息する特別天然記念物に指定されているアホウドリの保護プロジェクトが行われてきた。
昭和40(1965)年の群発地震による避難まで、18年間、職員が駐在していた。あまりのアホウドリの数から、鳥島と冠されたのはムベなるかなであろう。
その後も昭和56(1981)年から、環境庁(現・環境省)によるアホウドリの生息状況調査および繁殖地の維持・保全事業が復活し、
現在でも年数回の上陸調査が実施されている。平成6(1994)年の調査で約159つがいが確認されている。先日その様子を、BS・NHKで放送していた。
韓国の旅客船セウォル号沈没事故に関連した海神神社の件ね。今回は見送り。
実は同じ対馬でも、その海神神社の近くに、『白鬚明神』なるモノを祀った謎の祠があるとの情報をつかんでいる。
個人的にはそっちの方に好奇心が動く。またの機会に書くわ。今日は海難事故に関した話をば1つ……。
漂流者にとって島の先住者・長平は鬼として映ったか? 鳥島(伊豆鳥島) 1
あなたが乗っていた船が大時化に遭い、あてどもなく漂流したものと仮定する。
風雨が荒れ狂い、波頭が艫(とも)にぶつかり、潮の飛沫で船内が水浸しになる。船の機能の大半が破壊された。もはや舵は利かない。
食料や飲料水も波にさらわれるか、数日もすればあなたの胃袋に消え、蓄えが底を尽く。
猛烈な渇きを憶え海水を飲もうとするも、あまりの塩辛さに嘔吐する。それでものどを潤したくて、しまいには自身の小便を飲むようになる。
10日間、漂流し続けた。船がどこへ向かっているのか知る由もない。
死にたくない。とにかく飢えと渇きを解消しなくては。
船が進むにつれ、お椀を伏せたような青い島影が見えてきた。あなたは飛び上がらんばかりに歓喜するに違いない。
当然、島に上陸したいと思うはず。潮流の影響か、徐々に島に近づく。これはラッキーだ。
やがて島のなだらかな丘稜がはっきりと見えてきた。その丘に、なんと1人の人間が立っているのがわかった。
あなたは俄然喜ぶだろう。どうやらその島は有人島で、人が住んでいるのならば、インフラの設備が整っているに違いないと踏む。
とすれば食べ物と水にありつける。
船はさらに島に迫る。
あなたは眼を凝らす。おかしい……。それもそのはず、その人間は異様な姿をしているのだ。
それは男であるのは確かだ。ただし、ざんばら髪がだらしなく風になびき、ヒゲが伸び放題、皮膚は赤黒く日焼けし、
白い羽で編んだ蓑(みの)のようなものをまとっている。しかも目つきが尋常でない。ギラギラとした険しい光を放っている。
腰には毛をむしって乾燥した鶏みたいな物体がぶら下がっており、手首には貝をつなぎ合わせて作った数珠のようなものが巻かれている。
まるで野蛮人だ……いや、あれこそ鬼かもしれないと、あなたは直感するだろう。
男は片手で拝むポーズをとり、眼をつむって何やら念仏のようなものを唱えている。
……東京都直轄である伊豆諸島の1つである鳥島(国内には無数の『鳥島』があり、他と差別化するため『伊豆鳥島』とも呼ばれる)は、
八丈島の南約300km、小笠原諸島聟島列島の北約370kmに浮かんでいる。過去に何度も噴火した火山島でもあり、水源なども皆無に等しい。
よって、およそ人が住むには適していない。
島は現在でこそ無人島だが、かつての遺構が風雨にさらされたまま佇んでいる。それが気象庁鳥島気象観測所である。
観測所は昭和22(1947)年に開設され、島に生息する特別天然記念物に指定されているアホウドリの保護プロジェクトが行われてきた。
昭和40(1965)年の群発地震による避難まで、18年間、職員が駐在していた。あまりのアホウドリの数から、鳥島と冠されたのはムベなるかなであろう。
その後も昭和56(1981)年から、環境庁(現・環境省)によるアホウドリの生息状況調査および繁殖地の維持・保全事業が復活し、
現在でも年数回の上陸調査が実施されている。平成6(1994)年の調査で約159つがいが確認されている。先日その様子を、BS・NHKで放送していた。
漂流者にとって島の先住者・長平は鬼として映ったか? 鳥島(伊豆鳥島) 2
その伊豆鳥島であるが、位置を見ても日本の最果てにある。絶海の孤島とはまさしく青ヶ島やこの鳥島を指す。
実は昔、ふだん船が立ち寄らないこんな不毛の無人島に、海流の影響で難破船が流れ着くことが少なくなかった。
海難事故は江戸時代に集中している。当時は千石船という運搬船がさかんに使われていた。経済的には積載能力にすぐれ、
それ以前まで帆走と櫓で漕ぐことを併用していた船と異なり、帆走能力に秀でていた。
反面、千石船にはシケに対する致命的な欠陥があった。主として甲板が水密式でなかったことに起因する。胴の間といわれる船の中央部の甲板は、
ただ揚げ板式になっているだけなので、荒天になり高波が襲ってくると海水がどんどん入ってくる。たちまち船は水浸しになり、沈没のリスクが高くなる。
また舵が壊れやすい難点も秘めていた。当時の各港は河口にあるものが多く、水深は浅い。それゆえ千石船の舵は水底に引っかからないよう、
引き上げ式になっていた。構造上計算された造りであったにもかかわらず、固定された西洋の船の舵にくらべ脆弱であった。舵の羽板は大きすぎて、
激しい波に叩かれ破壊されたら最後、航行不能となる。
こうした構造上の欠点があるうえに、鎖国政策によって西洋の進歩した航行術を取り入れることもできず、千石船は沿岸航海のみに制限されていた。
江戸幕府は千石船を使用することを推奨していたが、それは鎖国政策に絡んでいた。外洋を自由に行き来できるような船が作られるようになれば、
それに乗って異国へ行く者も出てくるし、西洋の文物を持ち込むことにつながる。それは鎖国政策をとる幕府にとっては脅威であり、
なんとしても防がなくてはならないことだった。
以上の理由から幕府は、外洋の航海に適さない千石船の使用を勧め、皮肉にも多くの海難事故を促すことになったのである。
ほとんどの船は沈没し、さもなくば船は航行不能になったまま漂流した。シケにあい海岸から沖に流され、加えて舵を失うことは死が必定であった。
さらに日本列島は潮の流れが複雑であることも漂流事故を誘発させる原因としてあげられる。
とりわけ黒潮の流れは、九州、四国、本州と列島沿いに流れ、場所によっては時速10kmにも達するほど速いことで知られている。
黒潮は幅も広く、遭難して沿岸から離れてしまった船が潮流に乗ってしまうと、たちまち遠方に押し流され帰れなくなる。
遭難位置によって行き先はさまざまで、伊豆七島、小笠原諸島方面、最悪、太平洋の真っ只中へ流され、北アメリカ方面、アラスカ方面、
反転すればフィリピンまで流されることもあったとされている。いずれにせよこの海流は離岸流となり、多くの悲劇を生んだ。
中には何とか無人島にたどり着いて、助けを待った人たちも数知れない。
無人島とサバイバル……このシチュエーションの燃えること。健全なる男子であるならば嫌いな御仁はいまい。
だからこそテレ朝の『よゐこの無人島0円生活』や、日テレのDASH島が、そこそこ数字を取るわけだ。
かつてそんな漂流者の1人に、長平という土佐の船乗りがいた。長平は漂流し、無人島で12年生き抜いて、無事生還した実在の人物。
吉村昭という作家が書いた『漂流』というドキュメンタリー小説がある。日本版ロビンソンクルーソーともいうべき名著だ。
この吉村氏の『漂流』こそ、長平の壮絶な生還劇を克明に描いた話なのだ。そして舞台となった無人島こそ今回の鳥島である。
ざっくり話の筋を書こう。以下、ネタバレになるのでお嫌いなら目を通すべきではない。
その伊豆鳥島であるが、位置を見ても日本の最果てにある。絶海の孤島とはまさしく青ヶ島やこの鳥島を指す。
実は昔、ふだん船が立ち寄らないこんな不毛の無人島に、海流の影響で難破船が流れ着くことが少なくなかった。
海難事故は江戸時代に集中している。当時は千石船という運搬船がさかんに使われていた。経済的には積載能力にすぐれ、
それ以前まで帆走と櫓で漕ぐことを併用していた船と異なり、帆走能力に秀でていた。
反面、千石船にはシケに対する致命的な欠陥があった。主として甲板が水密式でなかったことに起因する。胴の間といわれる船の中央部の甲板は、
ただ揚げ板式になっているだけなので、荒天になり高波が襲ってくると海水がどんどん入ってくる。たちまち船は水浸しになり、沈没のリスクが高くなる。
また舵が壊れやすい難点も秘めていた。当時の各港は河口にあるものが多く、水深は浅い。それゆえ千石船の舵は水底に引っかからないよう、
引き上げ式になっていた。構造上計算された造りであったにもかかわらず、固定された西洋の船の舵にくらべ脆弱であった。舵の羽板は大きすぎて、
激しい波に叩かれ破壊されたら最後、航行不能となる。
こうした構造上の欠点があるうえに、鎖国政策によって西洋の進歩した航行術を取り入れることもできず、千石船は沿岸航海のみに制限されていた。
江戸幕府は千石船を使用することを推奨していたが、それは鎖国政策に絡んでいた。外洋を自由に行き来できるような船が作られるようになれば、
それに乗って異国へ行く者も出てくるし、西洋の文物を持ち込むことにつながる。それは鎖国政策をとる幕府にとっては脅威であり、
なんとしても防がなくてはならないことだった。
以上の理由から幕府は、外洋の航海に適さない千石船の使用を勧め、皮肉にも多くの海難事故を促すことになったのである。
ほとんどの船は沈没し、さもなくば船は航行不能になったまま漂流した。シケにあい海岸から沖に流され、加えて舵を失うことは死が必定であった。
さらに日本列島は潮の流れが複雑であることも漂流事故を誘発させる原因としてあげられる。
とりわけ黒潮の流れは、九州、四国、本州と列島沿いに流れ、場所によっては時速10kmにも達するほど速いことで知られている。
黒潮は幅も広く、遭難して沿岸から離れてしまった船が潮流に乗ってしまうと、たちまち遠方に押し流され帰れなくなる。
遭難位置によって行き先はさまざまで、伊豆七島、小笠原諸島方面、最悪、太平洋の真っ只中へ流され、北アメリカ方面、アラスカ方面、
反転すればフィリピンまで流されることもあったとされている。いずれにせよこの海流は離岸流となり、多くの悲劇を生んだ。
中には何とか無人島にたどり着いて、助けを待った人たちも数知れない。
無人島とサバイバル……このシチュエーションの燃えること。健全なる男子であるならば嫌いな御仁はいまい。
だからこそテレ朝の『よゐこの無人島0円生活』や、日テレのDASH島が、そこそこ数字を取るわけだ。
かつてそんな漂流者の1人に、長平という土佐の船乗りがいた。長平は漂流し、無人島で12年生き抜いて、無事生還した実在の人物。
吉村昭という作家が書いた『漂流』というドキュメンタリー小説がある。日本版ロビンソンクルーソーともいうべき名著だ。
この吉村氏の『漂流』こそ、長平の壮絶な生還劇を克明に描いた話なのだ。そして舞台となった無人島こそ今回の鳥島である。
ざっくり話の筋を書こう。以下、ネタバレになるのでお嫌いなら目を通すべきではない。
漂流者にとって島の先住者・長平は鬼として映ったか? 鳥島(伊豆鳥島) 3
天明5(1785)年の2月某日。片道わずか7里半(30km)の短い航海になるはずだった。
仕事を終えた帰り道、にわかに北西の風が吹き始めて、24歳の長平以下船乗り4人が乗った船は、たちまち沖へ流される。
自然の猛威を前に、なす術がない。次から次へと襲いくる激浪に揉まれて船が壊されていく。もはや浮いているのが奇跡なぐらいの有様であった。
10日間の漂流の末、命からがら未知の島に上陸。そこは岩だらけの不毛の土地で、およそ樹木が見当たらない。植物はせいぜい萱(かや=ススキなどのイネ科・
カヤツリグサ科の植物)が自生している程度。
驚くべきことに平坦部にはおびただしい数のアホウドリがいた。広げた翼の長さが8尺(2.42m)、重さ2貫匁(7.5kg)、クチバシの長さも5寸(15cm)以上
もある巨大な鳥だ。
長平たちは初め、アホウドリを棒で撲殺し、それを海水で揉み洗いして生で食べていたのだが、4月下旬から5月上旬になるとアホウドリの習性として
島から渡ってしまう恐れが浮上した。そして9月に入るまで帰ってくることはない。アホウドリは古くから地球上に棲息している最大の海鳥で、
冬期に鳥島でヒナを育てると遠くカリフォルニアの沿岸へ渡る。そして反転すると、赤道の北側を西に飛び、秋に鳥島へ帰ってくるわけである。
当初はアホウドリの卵と肉ばかり食べ、たまに釣り糸(船材から抜いた釘で作った)にかかる魚を刺身にしたり、磯で貝や海草を採ったりして
食に変化をつけていた。
湧き水すら湧かない島だったので、飲料水はアホウドリの比較的大きな空の卵を容器とし、雨水を溜めた。定期的に雨が降る島だったので、
渇きに苦しめられることはなかった。卵1つにつき3合の水が蓄えることができる。それをズラリと並べ、貯水池とした。
アホウドリが渡ってしまう前に干し肉を作って、これを貯蔵。また鳥の脂肪は塗り薬として使えば化膿止めの効果があり、それもかき集めた。
数日を要して島を探索した結果、人が住んでいない無人島であることが判明した。とすれば、自分たちの力で命をつなぐより他ない。
とはいえ単調で目的意識の見出せない生活から、いつしか移住拠点である洞穴で日がな1日寝転んだまますごすようになる。するとたちまち健康を害した。
原因は運動不足と栄養の偏り(ビタミン不足)。その間、健康状態をどうチェックするかというと、爪の付け根に現れる白い半月があるか否かで知り得る。
爪に半月が現れれば身体に栄養が行き渡っていることを示し、それが消えれば状態が芳しくない証拠だという(……と、作中では語られているが、
医学的に必ずしもそうとは限らないらしい)。
メンバーが1人、また1人と死んでしまい、長平のみが生き残る。悶絶しそうな孤独に打ちのめされ、彼は激しく取り乱す。
死んだはずの仲間の声が幻聴となって聞こえたり、鳥を蹴飛ばして罵声を浴びせたり、そうかと思うと石塊で殴り殺した鳥を抱きしめて泣くこともあった。
眠ると夢の中では好きだった娘が現れ、そのたびに性欲をもてあました彼は娘を押し倒すものの、コトに及ぼうとした瞬間、夢から醒めてしまう。
ついに自殺を決意し、入水しようとするのだが、なまじ幼少のころより泳ぎに長けていただけに死にきれない。
いつしか長平は神仏にすがるようになる。長平は常に念仏を唱えるようにした。すると精神統一され、心が乱されることもなくなった。
さんざん苦しんだ挙句、ふんぎりがつく。いっそ生き続けてみるか……。それは諦観だった。
長平が漂着して奇しくもちょうど3年後の2月、大坂北堀江の船が漂着する。さらに2年後、今度は薩摩国の船が流れ着く。
そのファースト・コンタクトの際、漂流者たちは鳥島の先住者をひと目見るなり、ギクリとする。
その姿こそ>>85の冒頭で描写したように、髪やヒゲはボーボー、身体にはアホウドリの白い羽で作った蓑(みの)をまとい、
皮膚は赤黒く日焼けしており、何より過酷な無人島生活では生への執念が不可欠で、おのずと眼はギラギラしているのだ。
そんな異様な姿を見た遭難者は、思わず鬼に出くわしてしまったと錯覚し、恐慌をきたして逃げようとする。
それを呼び止めようとする長平の姿は哀切と言えるし、不謹慎だが滑稽ともとれる。
天明5(1785)年の2月某日。片道わずか7里半(30km)の短い航海になるはずだった。
仕事を終えた帰り道、にわかに北西の風が吹き始めて、24歳の長平以下船乗り4人が乗った船は、たちまち沖へ流される。
自然の猛威を前に、なす術がない。次から次へと襲いくる激浪に揉まれて船が壊されていく。もはや浮いているのが奇跡なぐらいの有様であった。
10日間の漂流の末、命からがら未知の島に上陸。そこは岩だらけの不毛の土地で、およそ樹木が見当たらない。植物はせいぜい萱(かや=ススキなどのイネ科・
カヤツリグサ科の植物)が自生している程度。
驚くべきことに平坦部にはおびただしい数のアホウドリがいた。広げた翼の長さが8尺(2.42m)、重さ2貫匁(7.5kg)、クチバシの長さも5寸(15cm)以上
もある巨大な鳥だ。
長平たちは初め、アホウドリを棒で撲殺し、それを海水で揉み洗いして生で食べていたのだが、4月下旬から5月上旬になるとアホウドリの習性として
島から渡ってしまう恐れが浮上した。そして9月に入るまで帰ってくることはない。アホウドリは古くから地球上に棲息している最大の海鳥で、
冬期に鳥島でヒナを育てると遠くカリフォルニアの沿岸へ渡る。そして反転すると、赤道の北側を西に飛び、秋に鳥島へ帰ってくるわけである。
当初はアホウドリの卵と肉ばかり食べ、たまに釣り糸(船材から抜いた釘で作った)にかかる魚を刺身にしたり、磯で貝や海草を採ったりして
食に変化をつけていた。
湧き水すら湧かない島だったので、飲料水はアホウドリの比較的大きな空の卵を容器とし、雨水を溜めた。定期的に雨が降る島だったので、
渇きに苦しめられることはなかった。卵1つにつき3合の水が蓄えることができる。それをズラリと並べ、貯水池とした。
アホウドリが渡ってしまう前に干し肉を作って、これを貯蔵。また鳥の脂肪は塗り薬として使えば化膿止めの効果があり、それもかき集めた。
数日を要して島を探索した結果、人が住んでいない無人島であることが判明した。とすれば、自分たちの力で命をつなぐより他ない。
とはいえ単調で目的意識の見出せない生活から、いつしか移住拠点である洞穴で日がな1日寝転んだまますごすようになる。するとたちまち健康を害した。
原因は運動不足と栄養の偏り(ビタミン不足)。その間、健康状態をどうチェックするかというと、爪の付け根に現れる白い半月があるか否かで知り得る。
爪に半月が現れれば身体に栄養が行き渡っていることを示し、それが消えれば状態が芳しくない証拠だという(……と、作中では語られているが、
医学的に必ずしもそうとは限らないらしい)。
メンバーが1人、また1人と死んでしまい、長平のみが生き残る。悶絶しそうな孤独に打ちのめされ、彼は激しく取り乱す。
死んだはずの仲間の声が幻聴となって聞こえたり、鳥を蹴飛ばして罵声を浴びせたり、そうかと思うと石塊で殴り殺した鳥を抱きしめて泣くこともあった。
眠ると夢の中では好きだった娘が現れ、そのたびに性欲をもてあました彼は娘を押し倒すものの、コトに及ぼうとした瞬間、夢から醒めてしまう。
ついに自殺を決意し、入水しようとするのだが、なまじ幼少のころより泳ぎに長けていただけに死にきれない。
いつしか長平は神仏にすがるようになる。長平は常に念仏を唱えるようにした。すると精神統一され、心が乱されることもなくなった。
さんざん苦しんだ挙句、ふんぎりがつく。いっそ生き続けてみるか……。それは諦観だった。
長平が漂着して奇しくもちょうど3年後の2月、大坂北堀江の船が漂着する。さらに2年後、今度は薩摩国の船が流れ着く。
そのファースト・コンタクトの際、漂流者たちは鳥島の先住者をひと目見るなり、ギクリとする。
その姿こそ>>85の冒頭で描写したように、髪やヒゲはボーボー、身体にはアホウドリの白い羽で作った蓑(みの)をまとい、
皮膚は赤黒く日焼けしており、何より過酷な無人島生活では生への執念が不可欠で、おのずと眼はギラギラしているのだ。
そんな異様な姿を見た遭難者は、思わず鬼に出くわしてしまったと錯覚し、恐慌をきたして逃げようとする。
それを呼び止めようとする長平の姿は哀切と言えるし、不謹慎だが滑稽ともとれる。
漂流者にとって島の先住者・長平は鬼として映ったか? 鳥島(伊豆鳥島) 4
長平は、他に2度にわたる漂流者たちを仲間に加え、途中数人が病死・自殺等で命を落とすものの、合計14人の男たちとともに生き延びた。
鳥島近辺は航路がなく、島を横切る船影は皆無だった。したがって、通りかかる船に救難信号を示して救ってもらうのも諦めなくてはならない。
故国へ帰るには他力本願にすがるより、自力で帰るしかない。
船をこしらえるべきだ。若干の大工道具は揃っているが、肝心の船材がほとんど見当たらない。座礁した船のわずかな残骸や流木が流れ着くことも稀にあったが、あまりに少なすぎた。
結局3年にわたり船材をかき集め、拾った碇を炉で溶かして釘を作り、折れそうな心を奮い起こして、つぎはぎだらけの異様な姿の伝馬船を完成させた。
そして島からの脱出である。
来るべき出帆の日と、船を進ませる方向をおみくじを引いて占った。もはや神頼みの世界で、運悪くあさっての方向に船出したくらいなら、
あの世行きは確定であった。紙一重で北西のくじを引いた長平は、その方角へと一行とともに船出し、当時から有人であった青ヶ島にたどり着くことができる。
青ヶ島に着いたら八丈島は目と鼻の先だ。それは奇跡とも言える生還だった。実に長平にとって12年4ヶ月ぶりの故国の土だった……。
……これは故国に帰ってきた長平をはじめ、生還者の証言を、幕府の役人が事情聴取して記録としている。この内容に異常な興味をもった吉村氏が、
せいぜい20ページ足らずの調書と情報収集により、想像力をフルに使って物語に仕立てた。途中経過はともかく、結果は歴然たる事実である。
吉村氏によると鳥島に漂着し、脱出できた者の記録は15例以上にのぼるという。
長平たちの不屈の闘いから人間の可能性と叡智を見ることができる。作中、物理的に無理がある設定やご都合主義などのツッコミどころも散見されるが、
笑って許してやろうじゃないか。後半は涙なくして読めない。無人島とサバイバルというキーワードが好きならば必読の書であること請け合い。
個人的にいたく感銘を受け、新潮文庫の単行本500弱のページを読了後、すぐ頭から読み直したほどだ。
同時に思ったのだが……古来より、日本の昔話・伝説で『鬼』が出てくる話は数知れない。
鬼とは白人が漂流してきて山に住み着いたり海賊を鬼と見立てた説も考えられるが、案外、長平たちのように漂流した日本人が見間違えられたケースだって
なきにしもあらずだったかもしれない。いずれにせよ、人が生きるということは鬼気迫るほどの力が要るのだ。
公益財団法人 山階鳥類研究所 アホウドリ 復活への展望 鳥島ウォーカー
http://www.yamashina.or.jp/hp/yomimono/albatross/06walker...
珍鳥の繁殖を目指す島 伊豆鳥島
http://tonesan.fc2web.com/torishima.ht...
ジョン万次郎wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A7%E3%83%...
野村長平wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%8E%E6%9D%91%E9%95%...
漂流ものがたり
http://www.nansenhokubasha.com/essay/hyoryu.htm...
江戸時代漂流記「出雲国清蔵の鳥島奇談」
http://www.otenki.co.jp/com/list/ch_hokuso_torishima1....
緇井鶏子
http://shiikeiko.blog.so-net.ne.jp/2009-02-1...
NAVER まとめ “爪を見る”だけで精神状態が分かる!
http://matome.naver.jp/odai/213773204823484070...
爪で病気まるわかり 爪半月
http://tsu.eulbblue.com/001/post_2.htm...
アナタハンの女王事件wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%8A%E3%82%...
現代事件簿 No.064 孤島に女1人と男32人。アナタハン島で起こった、女をめぐっての殺し合い
http://ww5.tiki.ne.jp/‾qyoshida/jikenbo/064anatahan.htm
無人島に生きる十六人 須川邦彦
http://www.aozora.gr.jp/cards/001120/files/42767_15618...
amazon.co.jp 漂流 (新潮文庫) [文庫] 吉村 昭 (著)
http://www.amazon.co.jp/%E6%BC%82%E6%B5%81-%E6%96%B0%E...
※画像は高知県香南市香我美町にある『無人島長平』の像
長平は、他に2度にわたる漂流者たちを仲間に加え、途中数人が病死・自殺等で命を落とすものの、合計14人の男たちとともに生き延びた。
鳥島近辺は航路がなく、島を横切る船影は皆無だった。したがって、通りかかる船に救難信号を示して救ってもらうのも諦めなくてはならない。
故国へ帰るには他力本願にすがるより、自力で帰るしかない。
船をこしらえるべきだ。若干の大工道具は揃っているが、肝心の船材がほとんど見当たらない。座礁した船のわずかな残骸や流木が流れ着くことも稀にあったが、あまりに少なすぎた。
結局3年にわたり船材をかき集め、拾った碇を炉で溶かして釘を作り、折れそうな心を奮い起こして、つぎはぎだらけの異様な姿の伝馬船を完成させた。
そして島からの脱出である。
来るべき出帆の日と、船を進ませる方向をおみくじを引いて占った。もはや神頼みの世界で、運悪くあさっての方向に船出したくらいなら、
あの世行きは確定であった。紙一重で北西のくじを引いた長平は、その方角へと一行とともに船出し、当時から有人であった青ヶ島にたどり着くことができる。
青ヶ島に着いたら八丈島は目と鼻の先だ。それは奇跡とも言える生還だった。実に長平にとって12年4ヶ月ぶりの故国の土だった……。
……これは故国に帰ってきた長平をはじめ、生還者の証言を、幕府の役人が事情聴取して記録としている。この内容に異常な興味をもった吉村氏が、
せいぜい20ページ足らずの調書と情報収集により、想像力をフルに使って物語に仕立てた。途中経過はともかく、結果は歴然たる事実である。
吉村氏によると鳥島に漂着し、脱出できた者の記録は15例以上にのぼるという。
長平たちの不屈の闘いから人間の可能性と叡智を見ることができる。作中、物理的に無理がある設定やご都合主義などのツッコミどころも散見されるが、
笑って許してやろうじゃないか。後半は涙なくして読めない。無人島とサバイバルというキーワードが好きならば必読の書であること請け合い。
個人的にいたく感銘を受け、新潮文庫の単行本500弱のページを読了後、すぐ頭から読み直したほどだ。
同時に思ったのだが……古来より、日本の昔話・伝説で『鬼』が出てくる話は数知れない。
鬼とは白人が漂流してきて山に住み着いたり海賊を鬼と見立てた説も考えられるが、案外、長平たちのように漂流した日本人が見間違えられたケースだって
なきにしもあらずだったかもしれない。いずれにせよ、人が生きるということは鬼気迫るほどの力が要るのだ。
公益財団法人 山階鳥類研究所 アホウドリ 復活への展望 鳥島ウォーカー
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珍鳥の繁殖を目指す島 伊豆鳥島
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ジョン万次郎wikipedia
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野村長平wikipedia
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漂流ものがたり
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江戸時代漂流記「出雲国清蔵の鳥島奇談」
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緇井鶏子
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爪で病気まるわかり 爪半月
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アナタハンの女王事件wikipedia
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現代事件簿 No.064 孤島に女1人と男32人。アナタハン島で起こった、女をめぐっての殺し合い
http://ww5.tiki.ne.jp/‾qyoshida/jikenbo/064anatahan.htm
無人島に生きる十六人 須川邦彦
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※画像は高知県香南市香我美町にある『無人島長平』の像
前スレ>>209〜>>212で、物部村の秘祭『いざなぎ流』を取り上げた。
いざなぎ流は物部でも、ごく小さな共同体でのみ伝承されてきた激レアな民間信仰。学者がこぞって取材に訪れるほど、地味に人気が高い。
下記の動画などは極めてめずらしい、貴重な資料になり得る。興味があれば覗いてみるとよい。
イキイキテレビ いざなぎ流日月祭
http://ikiiki.tv/index.php/pc/video?id=00000000...
Dear安倍晴明さん 陰陽道民間伝承・いざなぎ流 [陰陽道]
http://blog.so-net.ne.jp/dear_seimei_san/2008-07-3...
鷹陵の栞 いざなぎ流への〈旅〉その3 花をいさみて寄りござれ
http://www.bunet.jp/world/html/16_10/469_ouryou...
Y`S GEAR CLUB WEB 地球元気村といざなぎ流の和合の極意
https://www.ysgear.co.jp/mc/ysgearclub/kazama/02/index....
HIROKO YAMAMOTO WEB OFFICE 特別企画——物部・いざなぎ流関連小論 その2
http://office-hiroko.jugem.jp/?eid=3...
いざなぎ流は物部でも、ごく小さな共同体でのみ伝承されてきた激レアな民間信仰。学者がこぞって取材に訪れるほど、地味に人気が高い。
下記の動画などは極めてめずらしい、貴重な資料になり得る。興味があれば覗いてみるとよい。
イキイキテレビ いざなぎ流日月祭
http://ikiiki.tv/index.php/pc/video?id=00000000...
Dear安倍晴明さん 陰陽道民間伝承・いざなぎ流 [陰陽道]
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鷹陵の栞 いざなぎ流への〈旅〉その3 花をいさみて寄りござれ
http://www.bunet.jp/world/html/16_10/469_ouryou...
Y`S GEAR CLUB WEB 地球元気村といざなぎ流の和合の極意
https://www.ysgear.co.jp/mc/ysgearclub/kazama/02/index....
HIROKO YAMAMOTO WEB OFFICE 特別企画——物部・いざなぎ流関連小論 その2
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弥九郎とマンの紀州犬発祥の伝説 阪本集落
三重県御浜町は主に海岸線に広がる町だが、なかでも尾呂志(おろし)地区は内陸部に入り、
さらに山間に抱かれるような隠れたところに阪本集落がある。
この阪本こそ昭和9年に天然記念物に指定された歴史ある紀州犬の発祥の地と知られており、
それにまつわる伝説を後世に伝えている。
江戸時代のころの話である。阪本には弥九郎という鉄砲撃ちの名人がいた。
ある日、弥九郎が山中で口の中に骨が刺さって苦しんでいる1匹の狼を助けた。後日、出かけようとすると、家の前には1匹の子犬がうずくまっていた。
弥九郎はハタと思い当たった。「これはこないだ助けた狼の子に違いない」
子犬を授かったことをいたく喜び、その犬を『マン』と名付けた。
弥九郎に大切に育てられたマンは、新宮の殿様を襲った手負いのイノシシを撃退し、褒美をもらうほどの勇敢なそれへと成長した。
ところがある日、弥九郎のもとに訪ねてきた叔母がこう言った。
「狼は生き物を千匹食べると次に飼い主を襲うと言われておる。イナゴ1匹でも生き物のうち。あんなに育ってきてることだし、
そろそろ千匹目になるかもしれない。おまえも寝込みを襲われんように用心した方がええ」
そのやりとりを外で聞いていたマン。人間の言葉を理解したものか、悲しげに夜空に向かって3回吠えてたのち、以来、姿を消してしまった。
マンがいなくなったあと、夜になると鷲ノ巣山から哀切を帯びた狼の遠吠えが聞こえるようになり、
阪本の住民たちは「あれはマンの鳴き声だ……」と、噂した。
坂本の紀州犬は、弥九郎が育てたマンの血を引いていると言われている。
御浜町 峰弥九郎ものがたり
http://www.bunka.pref.mie.lg.jp/minwa/kishu/mihama/index.ht...
MIE御浜町商工会 尾呂志(おろし)地区
http://www.mie-shokokai.or.jp/mihama/kankou/oroshi_index.htm...
三重県御浜町は主に海岸線に広がる町だが、なかでも尾呂志(おろし)地区は内陸部に入り、
さらに山間に抱かれるような隠れたところに阪本集落がある。
この阪本こそ昭和9年に天然記念物に指定された歴史ある紀州犬の発祥の地と知られており、
それにまつわる伝説を後世に伝えている。
江戸時代のころの話である。阪本には弥九郎という鉄砲撃ちの名人がいた。
ある日、弥九郎が山中で口の中に骨が刺さって苦しんでいる1匹の狼を助けた。後日、出かけようとすると、家の前には1匹の子犬がうずくまっていた。
弥九郎はハタと思い当たった。「これはこないだ助けた狼の子に違いない」
子犬を授かったことをいたく喜び、その犬を『マン』と名付けた。
弥九郎に大切に育てられたマンは、新宮の殿様を襲った手負いのイノシシを撃退し、褒美をもらうほどの勇敢なそれへと成長した。
ところがある日、弥九郎のもとに訪ねてきた叔母がこう言った。
「狼は生き物を千匹食べると次に飼い主を襲うと言われておる。イナゴ1匹でも生き物のうち。あんなに育ってきてることだし、
そろそろ千匹目になるかもしれない。おまえも寝込みを襲われんように用心した方がええ」
そのやりとりを外で聞いていたマン。人間の言葉を理解したものか、悲しげに夜空に向かって3回吠えてたのち、以来、姿を消してしまった。
マンがいなくなったあと、夜になると鷲ノ巣山から哀切を帯びた狼の遠吠えが聞こえるようになり、
阪本の住民たちは「あれはマンの鳴き声だ……」と、噂した。
坂本の紀州犬は、弥九郎が育てたマンの血を引いていると言われている。
御浜町 峰弥九郎ものがたり
http://www.bunka.pref.mie.lg.jp/minwa/kishu/mihama/index.ht...
MIE御浜町商工会 尾呂志(おろし)地区
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糞を浴びてまで美白を得たかった娘の末路 海猫島(弁天島)
和歌山県日高郡美浜町三尾にある日ノ岬灯台へのぼる途中で、海辺にはちっぽけな無人島が見下ろせる。
それを海猫島と呼んだり、弁天島とも称したりする。ご多分に洩れず、島にはまたしても女の悲しい話が残されている。
昔々のできごと。三尾に色の黒い娘が住んでいた。娘は海にもぐって魚介を採ってそれを売ったり、破れた網を繕ったりしながら暮らしていた。
娘はその素肌の色に劣等感を抱いていた。できることなら色白の美肌になりたいと思い、毎日御崎の神にお祈りをかかさなかった。
ある夜のことである。枕元にまばゆい光をまとった神が現れ、こう言うのだ。「願いを叶えたくば、21日間、水乞いをとりなさい」
娘はお告げのとおり、冷たい水を頭からかぶって身を清め、無心で祈りを捧げた。
ついに悲願の21日目を迎え、浜辺に出た。するとどこからともなく羽音が聞こえてくるではないか。
それはおびただしい数の音で、頭上に気配を感じたとたん、頭頂部に、べちゃりと何か生暖かいものが降り注ぎ、やにわに顔まで垂れてきた。
娘はもしやと思い、頬を伝う粘液を手にとってみた。紛れもない。ウミネコの白い糞だったのだ。
はじめは嫌悪した娘だったが、糞は奇跡をもたらした。不思議なことにあれほど黒かった肌が、真っ白になっていたのだ。
娘はそれ以来、毎日浜に来てはウミネコが飛来するのを待ち侘び、糞を浴び続けた。日増しに白くて美肌に変じていくさまを嬉々としてすごしていた。
しかし女の欲望は際限がない。より美しくなりたいと願う娘の執念がこりかたまり、しだいに娘の姿は峨々たる岩山の様相を呈し、
ついには1個の島になってしまったのだ。
いつしか人はこの島を海猫島と呼ぶようになった。漁師たちは島の頂上に弁天様を祀り、娘の魂をなぐさめた。
今でも島にはウミネコが寝床にしており、糞で岩肌が白くなっている。
癒しの和歌山☆彡 ☆ 三穂の浦のウミネコ島 ☆
http://ameblo.jp/968-910/entry-10409356681.htm...
声なきに聴き 形なきに視る〜ためによりも 立場にたって〜 弁天島になった娘(美浜町に伝わる話)=ひだかむかしばなし
http://blog.goo.ne.jp/xkxpd325/e/43b151b676f5d495238...
関西自然に親しむ風景100選90番 煙樹ヶ浜と日の岬
http://www.global-kansai.or.jp/kansai100sen/fukei090.ht...
和歌山県日高郡美浜町三尾にある日ノ岬灯台へのぼる途中で、海辺にはちっぽけな無人島が見下ろせる。
それを海猫島と呼んだり、弁天島とも称したりする。ご多分に洩れず、島にはまたしても女の悲しい話が残されている。
昔々のできごと。三尾に色の黒い娘が住んでいた。娘は海にもぐって魚介を採ってそれを売ったり、破れた網を繕ったりしながら暮らしていた。
娘はその素肌の色に劣等感を抱いていた。できることなら色白の美肌になりたいと思い、毎日御崎の神にお祈りをかかさなかった。
ある夜のことである。枕元にまばゆい光をまとった神が現れ、こう言うのだ。「願いを叶えたくば、21日間、水乞いをとりなさい」
娘はお告げのとおり、冷たい水を頭からかぶって身を清め、無心で祈りを捧げた。
ついに悲願の21日目を迎え、浜辺に出た。するとどこからともなく羽音が聞こえてくるではないか。
それはおびただしい数の音で、頭上に気配を感じたとたん、頭頂部に、べちゃりと何か生暖かいものが降り注ぎ、やにわに顔まで垂れてきた。
娘はもしやと思い、頬を伝う粘液を手にとってみた。紛れもない。ウミネコの白い糞だったのだ。
はじめは嫌悪した娘だったが、糞は奇跡をもたらした。不思議なことにあれほど黒かった肌が、真っ白になっていたのだ。
娘はそれ以来、毎日浜に来てはウミネコが飛来するのを待ち侘び、糞を浴び続けた。日増しに白くて美肌に変じていくさまを嬉々としてすごしていた。
しかし女の欲望は際限がない。より美しくなりたいと願う娘の執念がこりかたまり、しだいに娘の姿は峨々たる岩山の様相を呈し、
ついには1個の島になってしまったのだ。
いつしか人はこの島を海猫島と呼ぶようになった。漁師たちは島の頂上に弁天様を祀り、娘の魂をなぐさめた。
今でも島にはウミネコが寝床にしており、糞で岩肌が白くなっている。
癒しの和歌山☆彡 ☆ 三穂の浦のウミネコ島 ☆
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声なきに聴き 形なきに視る〜ためによりも 立場にたって〜 弁天島になった娘(美浜町に伝わる話)=ひだかむかしばなし
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関西自然に親しむ風景100選90番 煙樹ヶ浜と日の岬
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リア充しか渡れない恋人の聖地にキリシタン伝説あり 余島
香川県の高浜港の北にある小豆島。小豆島に関しては前スレ>>409で一度やったが、ふたたび違うネタで。
島の南西部・土庄町総合会館のほぼ真南には、弁天島と中余島、小余島、大余島(この4島を総称して『余島』)が点在している。
これらの島へは1日2回干潮時に、いわゆるトンボロ現象によって海岸に砂州が現れ、歩いて渡ることができる。
地元ではこの陸繋砂州を『エンジェルロード(天使の道)』と呼び、観光客の誘致、ひいては恋人たちが手をつないで渡ると幸せをつかむことが
できるという噂が口コミで広がり、願掛けの絵馬や貝殻を中余島の樹木に結びつけていくことで注目を浴びている。
意中のお相手がいない者が1人で渡るのは、いたたまれない心境になろう。
エンジェルロードの名前は伊達で付けたわけではない。それにまつわるキリシタン伝説があったのだ。
そもそも小豆島にキリスト教を伝えたのは、大坂城築城の石を切り出すため派遣されたキリシタン大名・小西行長であった。
小西行長はこの島を日本のキリスト教の本拠地にすべく、宣教師グレゴリオ・デ・セレベデスを送り込んで熱心に布教した。
しかし天正15(1587)年、豊臣秀吉はキリスト教禁止令を発し、厳しく取締りを始める。
隠れキリシタンであった島の娘タエは、逃れてきたキリシタン大名・高山右近のぞはに仕えていた。
やがて船で長崎に逃れる手はずを整えるため、セミナリオの神学生・小平太がやってきた。いつしか小平太とタエは恋に落ちるのである。
ある日の追っ手の襲撃。なんとか難を逃れた右近と小平太は、入り江の向こうに4つ並んだ余島に渡り、九州行きの船を待っていた。
夜、隣村から戻って事情を知ったタエは、小平太を追って入り江まで来たはいいが、暗いうえに流れの速い海を渡れるはずもない。
手を合わせていたタエは小平太から聞いた願いごとが叶うというおまじないを思い出した。
砂浜に貝殻を5個、十字架の形に並べ、夜空に向かって無心で祈ったのである。
すると奇跡が起きた。空から星が1つ降りてきたかと思うと、愛らしい天使になったのだ。
天使は竪琴を弾きながら海の上をゆっくりと羽ばたき、タエは魅了されたかのごとくその導きを追った。
不思議なことに、タエが踏み出した足もとには波間から白い砂の道が現れ、光輝きながら島に向かって伸びていった。
タエはついに3つの島を渡りきり、対岸で待ついとしい小平太の胸に飛び込んだ。
この様子を見ていた村人たちはそれ以後、愛の力で海の中にできる砂州を『エンジェルロード』と呼ぶようになったという。
小西行長wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E8%A5%BF%E8%A1%...
高山右近wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E5%B1%B1%E5%8F%...
小豆島国際ホテル エンジェルロード
http://www.shodoshima-kh.jp/angel/index.ph...
[PDF]エンジェルロード
http://doboku7.sakura.ne.jp/kikou/dobokukikou78.pd...
函館無限1UP エンジェルロード 天使の散歩道
http://blogs.yahoo.co.jp/authortalentfactor/archive/201...
香川県の高浜港の北にある小豆島。小豆島に関しては前スレ>>409で一度やったが、ふたたび違うネタで。
島の南西部・土庄町総合会館のほぼ真南には、弁天島と中余島、小余島、大余島(この4島を総称して『余島』)が点在している。
これらの島へは1日2回干潮時に、いわゆるトンボロ現象によって海岸に砂州が現れ、歩いて渡ることができる。
地元ではこの陸繋砂州を『エンジェルロード(天使の道)』と呼び、観光客の誘致、ひいては恋人たちが手をつないで渡ると幸せをつかむことが
できるという噂が口コミで広がり、願掛けの絵馬や貝殻を中余島の樹木に結びつけていくことで注目を浴びている。
意中のお相手がいない者が1人で渡るのは、いたたまれない心境になろう。
エンジェルロードの名前は伊達で付けたわけではない。それにまつわるキリシタン伝説があったのだ。
そもそも小豆島にキリスト教を伝えたのは、大坂城築城の石を切り出すため派遣されたキリシタン大名・小西行長であった。
小西行長はこの島を日本のキリスト教の本拠地にすべく、宣教師グレゴリオ・デ・セレベデスを送り込んで熱心に布教した。
しかし天正15(1587)年、豊臣秀吉はキリスト教禁止令を発し、厳しく取締りを始める。
隠れキリシタンであった島の娘タエは、逃れてきたキリシタン大名・高山右近のぞはに仕えていた。
やがて船で長崎に逃れる手はずを整えるため、セミナリオの神学生・小平太がやってきた。いつしか小平太とタエは恋に落ちるのである。
ある日の追っ手の襲撃。なんとか難を逃れた右近と小平太は、入り江の向こうに4つ並んだ余島に渡り、九州行きの船を待っていた。
夜、隣村から戻って事情を知ったタエは、小平太を追って入り江まで来たはいいが、暗いうえに流れの速い海を渡れるはずもない。
手を合わせていたタエは小平太から聞いた願いごとが叶うというおまじないを思い出した。
砂浜に貝殻を5個、十字架の形に並べ、夜空に向かって無心で祈ったのである。
すると奇跡が起きた。空から星が1つ降りてきたかと思うと、愛らしい天使になったのだ。
天使は竪琴を弾きながら海の上をゆっくりと羽ばたき、タエは魅了されたかのごとくその導きを追った。
不思議なことに、タエが踏み出した足もとには波間から白い砂の道が現れ、光輝きながら島に向かって伸びていった。
タエはついに3つの島を渡りきり、対岸で待ついとしい小平太の胸に飛び込んだ。
この様子を見ていた村人たちはそれ以後、愛の力で海の中にできる砂州を『エンジェルロード』と呼ぶようになったという。
小西行長wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E8%A5%BF%E8%A1%...
高山右近wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E5%B1%B1%E5%8F%...
小豆島国際ホテル エンジェルロード
http://www.shodoshima-kh.jp/angel/index.ph...
[PDF]エンジェルロード
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函館無限1UP エンジェルロード 天使の散歩道
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>>66の無足明神『ムスッドン』について追加。
[PDF]いぶすきまるごと博物館(第95回)ムスッドンの無足舞と不思議な石像
http://www.city.ibusuki.lg.jp/modules/xfsection/cache/upload...
[PDF]いぶすきまるごと博物館(第95回)ムスッドンの無足舞と不思議な石像
http://www.city.ibusuki.lg.jp/modules/xfsection/cache/upload...
人類創生異伝4 沖の島
沖ノ島といえば、真っ先に前スレ>>10の玄界灘の『海の正倉院』を思い浮かべるが、今回は高知県宿毛(すくも)市の方の『沖の島』だ。
四国の最南端である足摺岬の西、約40km、宿毛港から南西へ約25kmの距離にある有人島である。
およそ数百年にわたって積み上げられた石段の上に民家が軒を連ねており、その景観は2009年、『石垣・石段とともにある暮らし』として
『島の宝100景』に選出されたほどである。
集落は北側の母島(もしま)地区と、南側の弘瀬地区を中心に古屋野、谷尻、久保浦などの小集落が点在しており、
なかでも母島には元久2(1205)年に鎌倉から訪れた山伏が住み着いたという伝説をはじめ、鎌倉幕府の重臣であった三浦大助の孫、
三浦新助則久という人物が何かの事情では咎(とが)を受け、その一族とともに今の弘瀬を開墾して農耕をし、海岸では漁業を行い、
島の祖となったと言われている。
その他に、沖の島には沖縄あたりから兄妹始祖神話が伝播して生まれたであろう人類創生伝説の文献があるというから驚きだ。
太古のころ、沖の島は別名、妹背(いもせ)島と呼ばれていた。
その昔、土佐国に1人の農民が住んでいた。あるとき、その男が食物や農作業用の鋤・鍬・鎌などの道具、それに稲の苗を舟に積み込んだあと、
14、5歳の男の子と、12、3のその妹に舟番をしてもらい、陸に上がった。
2人の兄妹は船底で横になり寝息を立てていたが、いつしか潮が満ちてきて舟は流され、沖へ出てしまう。
兄妹は泣きながら必死の思いで妹背島に上陸した。さんざん島を調べ回ったものの、まったく人気がない。
食料が尽きると、舟に積んであった稲苗を水のあるところに植えて田を作ってみた。それから斧やのこぎりで木を切り倒して家を建て、
木の実を食べて飢えをしのいでいるうちに季節は秋になった。田には稲がよく実ったので、それを刈り取って備蓄した。
やがて歳月が経ち、兄妹は年頃になったので契りを結び、男の子と女の子をもうけた。
その子供たちがまた夫婦になって子孫がふえ、おかげで島は栄え、田を多く作り広げて今日に至っているという。
宿毛市 沖の島
http://www.city.sukumo.kochi.jp/kankou/okinoshima.htm...
古代、中世の沖の島 妹背島伝説
http://www.city.sukumo.kochi.jp/sbc/history/sisi/009901.htm...
【兄妹婚】物語要素事典
http://www.aichi-gakuin.ac.jp/‾kamiyama/ki2.htm#kyokon
[PDF]
兄妹始祖神話再考 〜生まれ出ずるものを中心として
http://journal.seijo.ac.jp/gslit/student/jomin/pdf/jpn-03...
大阪の史跡好きライター「醸工房」 妹背と洪水
http://blog.livedoor.jp/writer_norichan/archives/cat_5...
Myth is Mystery Mazes 兄妹始祖神話について
http://blog.livedoor.jp/eastasian/archives/1578003.htm...
沖ノ島といえば、真っ先に前スレ>>10の玄界灘の『海の正倉院』を思い浮かべるが、今回は高知県宿毛(すくも)市の方の『沖の島』だ。
四国の最南端である足摺岬の西、約40km、宿毛港から南西へ約25kmの距離にある有人島である。
およそ数百年にわたって積み上げられた石段の上に民家が軒を連ねており、その景観は2009年、『石垣・石段とともにある暮らし』として
『島の宝100景』に選出されたほどである。
集落は北側の母島(もしま)地区と、南側の弘瀬地区を中心に古屋野、谷尻、久保浦などの小集落が点在しており、
なかでも母島には元久2(1205)年に鎌倉から訪れた山伏が住み着いたという伝説をはじめ、鎌倉幕府の重臣であった三浦大助の孫、
三浦新助則久という人物が何かの事情では咎(とが)を受け、その一族とともに今の弘瀬を開墾して農耕をし、海岸では漁業を行い、
島の祖となったと言われている。
その他に、沖の島には沖縄あたりから兄妹始祖神話が伝播して生まれたであろう人類創生伝説の文献があるというから驚きだ。
太古のころ、沖の島は別名、妹背(いもせ)島と呼ばれていた。
その昔、土佐国に1人の農民が住んでいた。あるとき、その男が食物や農作業用の鋤・鍬・鎌などの道具、それに稲の苗を舟に積み込んだあと、
14、5歳の男の子と、12、3のその妹に舟番をしてもらい、陸に上がった。
2人の兄妹は船底で横になり寝息を立てていたが、いつしか潮が満ちてきて舟は流され、沖へ出てしまう。
兄妹は泣きながら必死の思いで妹背島に上陸した。さんざん島を調べ回ったものの、まったく人気がない。
食料が尽きると、舟に積んであった稲苗を水のあるところに植えて田を作ってみた。それから斧やのこぎりで木を切り倒して家を建て、
木の実を食べて飢えをしのいでいるうちに季節は秋になった。田には稲がよく実ったので、それを刈り取って備蓄した。
やがて歳月が経ち、兄妹は年頃になったので契りを結び、男の子と女の子をもうけた。
その子供たちがまた夫婦になって子孫がふえ、おかげで島は栄え、田を多く作り広げて今日に至っているという。
宿毛市 沖の島
http://www.city.sukumo.kochi.jp/kankou/okinoshima.htm...
古代、中世の沖の島 妹背島伝説
http://www.city.sukumo.kochi.jp/sbc/history/sisi/009901.htm...
【兄妹婚】物語要素事典
http://www.aichi-gakuin.ac.jp/‾kamiyama/ki2.htm#kyokon
[PDF]
兄妹始祖神話再考 〜生まれ出ずるものを中心として
http://journal.seijo.ac.jp/gslit/student/jomin/pdf/jpn-03...
大阪の史跡好きライター「醸工房」 妹背と洪水
http://blog.livedoor.jp/writer_norichan/archives/cat_5...
Myth is Mystery Mazes 兄妹始祖神話について
http://blog.livedoor.jp/eastasian/archives/1578003.htm...
白鬚明神なる祭神を祀った謎の祠・白鬚=新羅? 対馬島 1
旅客船セウォル号沈没事故を受けて、掲示板の類では下世話にも、「韓国はワダツミの神の逆鱗に触れているのではないか?」と、
まことしやかに囁かれているが、単に危機管理能力の杜撰さがここにきて断続的に露呈しているだけだと思うが……。
その海神神社は対馬の一宮で上島に鎮座する。
主神に海の女神豊玉姫命を据え、彦火火出見尊、宗像神、道主貴神、鵜茅草葺不合命を祀っている。
社伝によると、神功皇后が三韓征伐からの帰還する際、新羅を鎮めた証として旗八流を上県、郡峰町に納めたことに由来するという。
旗はのちに現在地の木板山(伊豆山)に移され、木坂八幡宮と称された。
また、仁徳天皇の時代、木坂山に起こった奇雲烈風が日本に攻めてきた異国の軍艦を沈めたとの胸躍る伝承も残されている。
明治3(1870)年、『延喜式神名帳』に見える和多都美神社へと改めた。翌明治4年5月、国幣中社に列格するとき、祭神を八幡神から豊玉姫命に改め、
同年6月に現在の海神神社へと変遷した。
……さて、天邪鬼な僕としては、海神神社よりも別の神社が気になってしかたがないのだ。
対馬の北端には2つの『白鬚(しらひげ)神社』があり、問題の『白鬚明神』が祀られているのだ。白鬚明神とは耳慣れない祭神であろう。
実はこの白鬚神社こそが、この神の原初の形態をとどめているのではないかと示唆されている。
周知のとおり、対馬は本土と朝鮮半島の中央……どちらかと言うとやや半島寄りに位置し、わずか53kmの距離にある。
古来より日本と韓国からの文物が行き来し、日本にとっては良くも悪くも異国との文化的・経済的交流の橋渡しの役を担ってきた。
ところで、最北端にある上対馬町の『豊』という集落にはこんな伝承がある。
対馬の沖合に椎根島なる無人島があり、別名『通らずが浜』と村人は呼んでいた。
江戸時代、他国の船頭が島にやってきて、薪を拾うために島の山に登った。花が咲き乱れ、白い水が流れているところがあったので、
ぼんやり眺めていたら、どこからともなく白髪の老翁が現れた。謎の老翁はニベもなく「何をしに来た? 早々帰れ」と、言った。
船頭は臆して引き返そうとすると、「よいか、この水を見たことを誰かに喋ると命がないぞ」と、警告。
「す、すっかり忘れた……お助け」と、船頭が言って逃げたが、老翁の言いつけを守らなかったのか、ほどなく死んだという。
旅客船セウォル号沈没事故を受けて、掲示板の類では下世話にも、「韓国はワダツミの神の逆鱗に触れているのではないか?」と、
まことしやかに囁かれているが、単に危機管理能力の杜撰さがここにきて断続的に露呈しているだけだと思うが……。
その海神神社は対馬の一宮で上島に鎮座する。
主神に海の女神豊玉姫命を据え、彦火火出見尊、宗像神、道主貴神、鵜茅草葺不合命を祀っている。
社伝によると、神功皇后が三韓征伐からの帰還する際、新羅を鎮めた証として旗八流を上県、郡峰町に納めたことに由来するという。
旗はのちに現在地の木板山(伊豆山)に移され、木坂八幡宮と称された。
また、仁徳天皇の時代、木坂山に起こった奇雲烈風が日本に攻めてきた異国の軍艦を沈めたとの胸躍る伝承も残されている。
明治3(1870)年、『延喜式神名帳』に見える和多都美神社へと改めた。翌明治4年5月、国幣中社に列格するとき、祭神を八幡神から豊玉姫命に改め、
同年6月に現在の海神神社へと変遷した。
……さて、天邪鬼な僕としては、海神神社よりも別の神社が気になってしかたがないのだ。
対馬の北端には2つの『白鬚(しらひげ)神社』があり、問題の『白鬚明神』が祀られているのだ。白鬚明神とは耳慣れない祭神であろう。
実はこの白鬚神社こそが、この神の原初の形態をとどめているのではないかと示唆されている。
周知のとおり、対馬は本土と朝鮮半島の中央……どちらかと言うとやや半島寄りに位置し、わずか53kmの距離にある。
古来より日本と韓国からの文物が行き来し、日本にとっては良くも悪くも異国との文化的・経済的交流の橋渡しの役を担ってきた。
ところで、最北端にある上対馬町の『豊』という集落にはこんな伝承がある。
対馬の沖合に椎根島なる無人島があり、別名『通らずが浜』と村人は呼んでいた。
江戸時代、他国の船頭が島にやってきて、薪を拾うために島の山に登った。花が咲き乱れ、白い水が流れているところがあったので、
ぼんやり眺めていたら、どこからともなく白髪の老翁が現れた。謎の老翁はニベもなく「何をしに来た? 早々帰れ」と、言った。
船頭は臆して引き返そうとすると、「よいか、この水を見たことを誰かに喋ると命がないぞ」と、警告。
「す、すっかり忘れた……お助け」と、船頭が言って逃げたが、老翁の言いつけを守らなかったのか、ほどなく死んだという。
白鬚明神なる祭神を祀った謎の祠・白鬚=新羅? 対馬島 2
この話では、『白い水』と『白髪の老翁』が何なのか気になる。
郷土史の第一人者、永留久恵氏によると、椎根島にはかつて式内社があり、江戸時代には祠があったとされている。
もっとも、現在はただの岩礁にすぎない。
また、『上対馬 ものごつ・いいつたえ』によると、『白い水溜り』の池には『白蛇』と『白髪の老人』が棲んでいたそうだ。
これらを含めて、『白い水』『白髪の老人』『白蛇』が意味するものは何か?
どうやらこの地域の広範に分布する海神・安曇の祖先『安曇磯良(あずみいそら)』が浮かび上がるのである。
上対馬町のやや下である峰町に海神神社があるが、その近くに、やはり白鬚明神の祠があったと言われている。祭神は、まさしく安曇磯良。
『津島記事』によると、「磯良が白髪の老翁となって猿田彦とともに現れ、神功皇后に奉仕した」との記述が見受けられる。
「池(水)から出てきた老翁が海神の様相をとどめている」という考えは、古代朝鮮でも裏付けられるそうだ。
現代の韓国の寺院でさえ、壁面や堂内には白髪白鬚の老人が配置されており、『山神』とか『竜神』と呼ばれている。
古来より朝鮮では、神は白髪白鬚の老人として描かれ、『山神』『竜神』が主流であったという。
しかしながら竜神の場合、女性として描かれることも多々あるが。
古代朝鮮の『三国遺事』の新羅王の条をみると、老人が池や海と関連し、また竜と交渉をもつ伝承が記載してある。
日本にも椎根島のように老翁と池(水)の絡む伝承が各地に伝播していることから、これは古代朝鮮から日本に連なるものではなかろうかと推測される。
しかもこれらが海神、安曇氏の拠点と結びつくことが注目に値する。
知らなかったが類似の白鬚神社は全国に、なんと300社前後もあるらしい。有名どころでは琵琶湖西岸にも同様の神社がある。
すべてを羅列すると長くなりすぎるし、いささか冗長である。それはまたの機会に語られるべきであろう。
対馬市
http://www.city.tsushima.nagasaki.jp/
ぶらり寺社めぐり 海神神社・対馬国一之宮(長崎)
http://www.geocities.jp/flow_and_stock/jisya-kyuusyuu/...
神人写楽・中野英治 秋の祭り
http://sinjinsyaraku.jimdo.com/%E7%A5%AD%E3%82%8A%E3%82%AE%E3...
玄松子の記憶 安曇磯良
http://www.genbu.net/saijin/isora.ht...
玄松子の記憶 海神神社 (対馬)
http://www.genbu.net/data/tusima/kaijin_title.ht...
第68話 日本は祟り神のおかげで守られている
http://www11.plala.or.jp/yamamotokenta/column.files/shi...
【おやこ新聞】まめちしき「対馬の仏像」なぜ返ってこないの?
http://sankei.jp.msn.com/world/news/140503/kor140503084...
※画像は海神神社
この話では、『白い水』と『白髪の老翁』が何なのか気になる。
郷土史の第一人者、永留久恵氏によると、椎根島にはかつて式内社があり、江戸時代には祠があったとされている。
もっとも、現在はただの岩礁にすぎない。
また、『上対馬 ものごつ・いいつたえ』によると、『白い水溜り』の池には『白蛇』と『白髪の老人』が棲んでいたそうだ。
これらを含めて、『白い水』『白髪の老人』『白蛇』が意味するものは何か?
どうやらこの地域の広範に分布する海神・安曇の祖先『安曇磯良(あずみいそら)』が浮かび上がるのである。
上対馬町のやや下である峰町に海神神社があるが、その近くに、やはり白鬚明神の祠があったと言われている。祭神は、まさしく安曇磯良。
『津島記事』によると、「磯良が白髪の老翁となって猿田彦とともに現れ、神功皇后に奉仕した」との記述が見受けられる。
「池(水)から出てきた老翁が海神の様相をとどめている」という考えは、古代朝鮮でも裏付けられるそうだ。
現代の韓国の寺院でさえ、壁面や堂内には白髪白鬚の老人が配置されており、『山神』とか『竜神』と呼ばれている。
古来より朝鮮では、神は白髪白鬚の老人として描かれ、『山神』『竜神』が主流であったという。
しかしながら竜神の場合、女性として描かれることも多々あるが。
古代朝鮮の『三国遺事』の新羅王の条をみると、老人が池や海と関連し、また竜と交渉をもつ伝承が記載してある。
日本にも椎根島のように老翁と池(水)の絡む伝承が各地に伝播していることから、これは古代朝鮮から日本に連なるものではなかろうかと推測される。
しかもこれらが海神、安曇氏の拠点と結びつくことが注目に値する。
知らなかったが類似の白鬚神社は全国に、なんと300社前後もあるらしい。有名どころでは琵琶湖西岸にも同様の神社がある。
すべてを羅列すると長くなりすぎるし、いささか冗長である。それはまたの機会に語られるべきであろう。
対馬市
http://www.city.tsushima.nagasaki.jp/
ぶらり寺社めぐり 海神神社・対馬国一之宮(長崎)
http://www.geocities.jp/flow_and_stock/jisya-kyuusyuu/...
神人写楽・中野英治 秋の祭り
http://sinjinsyaraku.jimdo.com/%E7%A5%AD%E3%82%8A%E3%82%AE%E3...
玄松子の記憶 安曇磯良
http://www.genbu.net/saijin/isora.ht...
玄松子の記憶 海神神社 (対馬)
http://www.genbu.net/data/tusima/kaijin_title.ht...
第68話 日本は祟り神のおかげで守られている
http://www11.plala.or.jp/yamamotokenta/column.files/shi...
【おやこ新聞】まめちしき「対馬の仏像」なぜ返ってこないの?
http://sankei.jp.msn.com/world/news/140503/kor140503084...
※画像は海神神社
巨石で人工的に組まれた? 謎の鳥居・王位石(おえいし) 野崎島
長崎県五島列島の北東部に位置する野崎島。旧石器時代から戦国時代にかけての遺跡などが多数出土しているおり、
太古より人が住んでいたとされる。
島北部にある沖神嶋(おきのこうじま)神社は遣唐使の航海安全を願って慶雲元(704)年に創建されたもので、
五島列島の中では随一の古社として知られている。
その社殿背後の山腹上部には意味ありげな巨石が、まるで鳥居でも組み合わせたかのようにそびえ立っている。
神域を思わせる佇まいである。奇岩とひと括りするのは無礼だろう。
それもそのはず、巨石群を『王位石』と呼んでおり、沖神嶋神社の御神体とされているのだ。
高さ24m、幅12mにいくつかの岩が形よく嵌め込まれ、頂上の天板の石は5m×3mの広さを誇る。
故意につくられたものか自然にできたものなのか判明しておらず、その用途もメンヒルの一種、古代の祭祀場跡、天板上で神楽を奉納したとか、
遣唐使船航行の目印だった、あるいは遥か太古に巨石の上に神島明神が現れたという伝説もあり、いずれにせよ古来から崇拝されてきたという。
神島明神が現れた伝説というのは興味深く、いろいろ探ったのだが詳細はつかめなかった。無念……。
奇蹟の島 野崎島 長崎県五島列島北端 小値賀町
http://nozakijima.jp/midokoro.htm...
島作家 斉藤潤の島紀行 王位石探索行 — 14年前の野崎島(1)
http://www.japan-island.info/portal/essay/100/60...
西彼杵半島日和 野崎島 王位石・沖の神嶋神社 編
http://who-ta.seesaa.net/article/221187721.htm...
長崎県五島列島の北東部に位置する野崎島。旧石器時代から戦国時代にかけての遺跡などが多数出土しているおり、
太古より人が住んでいたとされる。
島北部にある沖神嶋(おきのこうじま)神社は遣唐使の航海安全を願って慶雲元(704)年に創建されたもので、
五島列島の中では随一の古社として知られている。
その社殿背後の山腹上部には意味ありげな巨石が、まるで鳥居でも組み合わせたかのようにそびえ立っている。
神域を思わせる佇まいである。奇岩とひと括りするのは無礼だろう。
それもそのはず、巨石群を『王位石』と呼んでおり、沖神嶋神社の御神体とされているのだ。
高さ24m、幅12mにいくつかの岩が形よく嵌め込まれ、頂上の天板の石は5m×3mの広さを誇る。
故意につくられたものか自然にできたものなのか判明しておらず、その用途もメンヒルの一種、古代の祭祀場跡、天板上で神楽を奉納したとか、
遣唐使船航行の目印だった、あるいは遥か太古に巨石の上に神島明神が現れたという伝説もあり、いずれにせよ古来から崇拝されてきたという。
神島明神が現れた伝説というのは興味深く、いろいろ探ったのだが詳細はつかめなかった。無念……。
奇蹟の島 野崎島 長崎県五島列島北端 小値賀町
http://nozakijima.jp/midokoro.htm...
島作家 斉藤潤の島紀行 王位石探索行 — 14年前の野崎島(1)
http://www.japan-island.info/portal/essay/100/60...
西彼杵半島日和 野崎島 王位石・沖の神嶋神社 編
http://who-ta.seesaa.net/article/221187721.htm...
忽那(つくな)水軍の城塞島 クダコ島
クダコ島は愛媛県松山市に属する怒和島(前スレ>>231を参照されたし)と中島本島の中間に位置する、周囲1.8kmの無人島だ。
この海域をクダコ水道といい、大物のタイやブリが狙える好漁場で釣り人にはたまらないだろうが、潮流が速く危険を伴うエリアでもある。
『クダコ』という名とは奇妙な響きだ。
これはおよそ鎌倉時代から安土・桃山時代までといわれる中世のころ、この島を拠点にしていた水軍の呼び名であり、
忽那家文書には『久田子衆』や『九多児衆』と記されている。
言うまでもなく水軍は、海上における組織的な戦闘力・行動力・情報収集力を活用してテリトリーを掌握した。
水軍の基本的な性格は、瀬戸内海の島々や沿岸の半農半漁の海人たちを母胎とした海上武士団・海上交易商人団・海上交通支配団ともいうべき
機動的武装集団であり、海に生きる海人の本領を遺憾なく発揮した。
また水軍は海賊衆・警固(けいご)衆とも呼ばれ、いずれも島々や沿岸の要害の地に堅固な水軍城(海城)を築き、水軍独特の情報ネットワークを駆使して
各瀬戸に睨みを利かせた。
彼らは、瀬戸内海の要地を航行する船舶から帆別銭(ほべつせん=帆の広さによる税金)、荷駄別役銭(にだべつやくせん=積荷の多少による税金)、
櫓別銭(ろべつせん=櫓の数による税金)など、通行税を徴収し、水先案内や警備保障費にあたる警固料を取得して、
それぞれの水軍の領地支配と経済基盤を強固なものにした。
忽那水軍も例に洩れず中島に本拠を設置。各所に砦を設け、往時は西瀬戸一帯を牛耳ってきたといわれている。
クダコ島はまさにそのうちの1つであり、今も島内に名残りをとどめているのだ。
島からは南北朝時代(1336〜1392年)のものと思われる城塞跡が見つかっていることから、島がまるごと城という威容を誇っていた。
城郭は頂上の地形を巧みに利用して第1、2、3郭に区切られ、第1郭は50m×22m、第2郭は50m×25m、第3郭は44m×33mの長方形であったとされる。
第1郭と第2郭の段差は5m、第2、3郭は2.5mの段差があり、段ごとに幅3m、深さ50cmの堅堀によって連携。
島の南側は絶壁であることから自然の城壁とし、船着場跡にはピットが残されている。
もっともその城塞の島も、天正13(1585)年、忽那水軍の滅亡とともに役割を終え、江戸時代には草刈り・採藻の入会地と変わり果てた……。
全盛期のクダコ島には常時、見張りの兵士を立て厳重な警備をしていた。
あるときには弓の名人が、許可なくクダコ水道を横切ろうとする船の帆柱を射ち、なんば(帆を巻き上げる滑車)を壊して船が進めないようにしたり、
またあるときには、そろばん自慢の兵士が潮の流れを計算して、水道を通っていく船を自然に引き寄せたりして、作為的に通行税を徴収していたとも
言われている。
愛媛県 しまの詳細:怒和島(ぬわじま)
http://www.pref.ehime.jp/chu52109/navi/shima/nuwajima/i...
はっしのオレ物語 クダコ釣行 『瀬戸内モンスター』ブリGET!!
http://d.hatena.ne.jp/k-pac/20131101/p...
52回の週末 7/17 忽那諸島シーカヤックツーリング
http://quickturn.jp/archives/2010/07/17/%E5%BF%BD%...
[PDF]しまの情報紙 2012春号 愛ランドまつやま 松山離島振興協会
http://island-matsuyama.com/h24spring.pd...
クダコ島は愛媛県松山市に属する怒和島(前スレ>>231を参照されたし)と中島本島の中間に位置する、周囲1.8kmの無人島だ。
この海域をクダコ水道といい、大物のタイやブリが狙える好漁場で釣り人にはたまらないだろうが、潮流が速く危険を伴うエリアでもある。
『クダコ』という名とは奇妙な響きだ。
これはおよそ鎌倉時代から安土・桃山時代までといわれる中世のころ、この島を拠点にしていた水軍の呼び名であり、
忽那家文書には『久田子衆』や『九多児衆』と記されている。
言うまでもなく水軍は、海上における組織的な戦闘力・行動力・情報収集力を活用してテリトリーを掌握した。
水軍の基本的な性格は、瀬戸内海の島々や沿岸の半農半漁の海人たちを母胎とした海上武士団・海上交易商人団・海上交通支配団ともいうべき
機動的武装集団であり、海に生きる海人の本領を遺憾なく発揮した。
また水軍は海賊衆・警固(けいご)衆とも呼ばれ、いずれも島々や沿岸の要害の地に堅固な水軍城(海城)を築き、水軍独特の情報ネットワークを駆使して
各瀬戸に睨みを利かせた。
彼らは、瀬戸内海の要地を航行する船舶から帆別銭(ほべつせん=帆の広さによる税金)、荷駄別役銭(にだべつやくせん=積荷の多少による税金)、
櫓別銭(ろべつせん=櫓の数による税金)など、通行税を徴収し、水先案内や警備保障費にあたる警固料を取得して、
それぞれの水軍の領地支配と経済基盤を強固なものにした。
忽那水軍も例に洩れず中島に本拠を設置。各所に砦を設け、往時は西瀬戸一帯を牛耳ってきたといわれている。
クダコ島はまさにそのうちの1つであり、今も島内に名残りをとどめているのだ。
島からは南北朝時代(1336〜1392年)のものと思われる城塞跡が見つかっていることから、島がまるごと城という威容を誇っていた。
城郭は頂上の地形を巧みに利用して第1、2、3郭に区切られ、第1郭は50m×22m、第2郭は50m×25m、第3郭は44m×33mの長方形であったとされる。
第1郭と第2郭の段差は5m、第2、3郭は2.5mの段差があり、段ごとに幅3m、深さ50cmの堅堀によって連携。
島の南側は絶壁であることから自然の城壁とし、船着場跡にはピットが残されている。
もっともその城塞の島も、天正13(1585)年、忽那水軍の滅亡とともに役割を終え、江戸時代には草刈り・採藻の入会地と変わり果てた……。
全盛期のクダコ島には常時、見張りの兵士を立て厳重な警備をしていた。
あるときには弓の名人が、許可なくクダコ水道を横切ろうとする船の帆柱を射ち、なんば(帆を巻き上げる滑車)を壊して船が進めないようにしたり、
またあるときには、そろばん自慢の兵士が潮の流れを計算して、水道を通っていく船を自然に引き寄せたりして、作為的に通行税を徴収していたとも
言われている。
愛媛県 しまの詳細:怒和島(ぬわじま)
http://www.pref.ehime.jp/chu52109/navi/shima/nuwajima/i...
はっしのオレ物語 クダコ釣行 『瀬戸内モンスター』ブリGET!!
http://d.hatena.ne.jp/k-pac/20131101/p...
52回の週末 7/17 忽那諸島シーカヤックツーリング
http://quickturn.jp/archives/2010/07/17/%E5%BF%BD%...
[PDF]しまの情報紙 2012春号 愛ランドまつやま 松山離島振興協会
http://island-matsuyama.com/h24spring.pd...
虚空蔵菩薩を祀った霊域の島 虚空蔵島(こくうじぞうじま)
宮崎県日南市南郷町の目井津港入り口には小さな無人島がポツンと浮かんでいる。
寛永3(1626)年、飫肥城主・伊藤修理大夫祐慶公の慈母なる慶因(松寿院殿)が、住持比丘昌悦團禅師に命じ御堂を建立。
その際、霊験あらたかな虚空蔵菩薩を奉納した。のちに松寿院殿の菩堤のため、併せて海上安全・大魚満足・国家豊饒・下繁栄のために
奉られるようになった。
虚空蔵菩薩とは、天のように広く大きな福徳と智慧をもち、生きとし生けるものの、あらゆる願いを適えてくれるという仏である。
以来、いつしかこの島を虚空蔵島と呼ぶようになった。虚空蔵菩薩をお堂に安置し、八大龍王、船玉大神など水の神・海の神を迎えて、
虚空蔵島全体を霊域として崇めた。
信仰の篤い地元の人々は、島の草木をはじめ、小石や貝殻に至るまで、神仏の目に見えない力が宿っていると信じた。
70年ほど前にはカラスが3000羽も住みつき、朝、餌を求めて飛び立つものの、夕方には大堂津の海岸で足を洗ってから虚空蔵島の森へ帰っていく姿が
見られたという。
当時、戦地へ出征する若者に、島の小石や貝殻をお守り袋に入れて持たせ、武運長久を祈る親や身内もめずらしくなかった。
現在でも島周囲の貝を採ると腹痛に襲われると言われ、タブー化されている。毎年、旧暦6月12日、13日には、町を上げて祭りが開かれる。
古代文化研究所 虚空蔵島
http://blogs.yahoo.co.jp/yan1123jp/9810295.htm...
Miranka パワースポット日南市虚空蔵島(こくぞうじま)
http://ameblo.jp/taniyanhp/entry-11613133415.ht...
宮崎県日南市南郷町の目井津港入り口には小さな無人島がポツンと浮かんでいる。
寛永3(1626)年、飫肥城主・伊藤修理大夫祐慶公の慈母なる慶因(松寿院殿)が、住持比丘昌悦團禅師に命じ御堂を建立。
その際、霊験あらたかな虚空蔵菩薩を奉納した。のちに松寿院殿の菩堤のため、併せて海上安全・大魚満足・国家豊饒・下繁栄のために
奉られるようになった。
虚空蔵菩薩とは、天のように広く大きな福徳と智慧をもち、生きとし生けるものの、あらゆる願いを適えてくれるという仏である。
以来、いつしかこの島を虚空蔵島と呼ぶようになった。虚空蔵菩薩をお堂に安置し、八大龍王、船玉大神など水の神・海の神を迎えて、
虚空蔵島全体を霊域として崇めた。
信仰の篤い地元の人々は、島の草木をはじめ、小石や貝殻に至るまで、神仏の目に見えない力が宿っていると信じた。
70年ほど前にはカラスが3000羽も住みつき、朝、餌を求めて飛び立つものの、夕方には大堂津の海岸で足を洗ってから虚空蔵島の森へ帰っていく姿が
見られたという。
当時、戦地へ出征する若者に、島の小石や貝殻をお守り袋に入れて持たせ、武運長久を祈る親や身内もめずらしくなかった。
現在でも島周囲の貝を採ると腹痛に襲われると言われ、タブー化されている。毎年、旧暦6月12日、13日には、町を上げて祭りが開かれる。
古代文化研究所 虚空蔵島
http://blogs.yahoo.co.jp/yan1123jp/9810295.htm...
Miranka パワースポット日南市虚空蔵島(こくぞうじま)
http://ameblo.jp/taniyanhp/entry-11613133415.ht...
犬猫を連れ込んではいけない島 江島(えのしま)
宮城県牡鹿郡女川町の沖合には江島が浮かんでいるが、神奈川県の江の島やその他の江島と差別化するため『陸前江島』とも呼ばれる。
女川町から見て南東の女川原子力発電所の正面に位置し、牡鹿半島から伸びる江島列島の中で、最大の島でありながら唯一の有人島である。
この江島には、またしても犬……のみならず、猫までも連れ込んではいけないタブーがあるそうだ。これは金鶏の天敵全般を指すという。
その伝承がこうだ。
文治5(1189)年、源義経をかくまった罪で源頼朝に追われた奥州藤原氏の家臣にして、日詰(現紫波町)を領していた桶爪五郎季衝が
この島に落ち延びたとされている。
そのとき、季衝は家宝である金鶏を連れていったが、鳴き声で追っ手に露見してしまうことを恐れ、海洞の中に閉じ込めて隠した。
ところがある日、嵐によって洞窟ごと吹き飛ばされてしまう。
季衝は、「なんとも惜しいことをしてしまった……」と悔いたが、しかしこれも神仏の意思だと思い直し、以来、
鶏を供養する意味で島には犬猫を連れ込まないというしきたりを作り、これを守った。
江島は江戸時代、重罪人が流される流刑地であった。江島自然活動センター裏の東岸の岩場は、『流人転がし』と言われ、
かつては罪人を突き落とす仕置場であった。仙台藩で貴族階級に属する流刑人も多かったため、風流を愛でる気風が残されているという。
その1人に、豊臣家の家臣筋であった修験者、栄存法印がおり、死後は島民によって手厚く葬られたものの、
埋葬場所はその後、農地として開墾されてしまったようで現在はない。
キンケイ(金鶏)
http://www.kagiken.co.jp/new/kojimachi/bird-kinkei_larg...
伝承之蔵 桶爪五郎季衝と金鶏
http://legend.main.jp/50-onagawa-003-hizumegoroutoki...
宮城県牡鹿郡女川町の沖合には江島が浮かんでいるが、神奈川県の江の島やその他の江島と差別化するため『陸前江島』とも呼ばれる。
女川町から見て南東の女川原子力発電所の正面に位置し、牡鹿半島から伸びる江島列島の中で、最大の島でありながら唯一の有人島である。
この江島には、またしても犬……のみならず、猫までも連れ込んではいけないタブーがあるそうだ。これは金鶏の天敵全般を指すという。
その伝承がこうだ。
文治5(1189)年、源義経をかくまった罪で源頼朝に追われた奥州藤原氏の家臣にして、日詰(現紫波町)を領していた桶爪五郎季衝が
この島に落ち延びたとされている。
そのとき、季衝は家宝である金鶏を連れていったが、鳴き声で追っ手に露見してしまうことを恐れ、海洞の中に閉じ込めて隠した。
ところがある日、嵐によって洞窟ごと吹き飛ばされてしまう。
季衝は、「なんとも惜しいことをしてしまった……」と悔いたが、しかしこれも神仏の意思だと思い直し、以来、
鶏を供養する意味で島には犬猫を連れ込まないというしきたりを作り、これを守った。
江島は江戸時代、重罪人が流される流刑地であった。江島自然活動センター裏の東岸の岩場は、『流人転がし』と言われ、
かつては罪人を突き落とす仕置場であった。仙台藩で貴族階級に属する流刑人も多かったため、風流を愛でる気風が残されているという。
その1人に、豊臣家の家臣筋であった修験者、栄存法印がおり、死後は島民によって手厚く葬られたものの、
埋葬場所はその後、農地として開墾されてしまったようで現在はない。
キンケイ(金鶏)
http://www.kagiken.co.jp/new/kojimachi/bird-kinkei_larg...
伝承之蔵 桶爪五郎季衝と金鶏
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日本最北の悲恋伝説?久種湖が生まれた悲話 礼文島(れぶんとう)
北海道の北部にある稚内の西60kmの日本海側に位置する礼文郡礼文町に属する島が礼文島である。
地名語源はアイヌ語のレプン・シリ(沖の島)から来ている。人口は平成26(2013)年4月1日の調べで2,760人。
礼文島には日本最北の淡水湖といわれる久種湖(くしゅこ)がある。湖畔の湿原には4月中旬にミズバショウが観賞でき、
またキャンプ場やスキー場も揃っており、アウトドア派の誘致に一役買っている。久種湖の語源はアイヌ語で『山越えする沼』の意である。
そんな久種湖には、またしても悲恋伝説が残されていた。日本各地には何かと昭和の歌謡曲ばりに恋人が結ばれる話より、
悲しい別離のソレの方が圧倒的に多く、風土らしさを感じさせる。それでいながらこの手の話は、やはり印象深いのも否めないのだが。
……昔、礼文島のあるコタン(集落)に、イコッポとフプリという若者が住んでいた。
2人は仲が良く、漁をして暮らしていたが、年頃になると酋長の娘、エリアに恋心を抱くようになる。
エリアは聡明なうえに目を瞠るような美人で、2人の憧れの的であった。
イコッポとフプリとて例外ではなく、身体が丈夫でなかなかの好男子。エリアは2人に言い寄られてもどちらか決めかねた。
酋長オテナは腕組みしながら、「娘もそろそろ嫁に行かさねばなるまい。見たところ、どうやらイコッポの方が漁の腕がいいようだ。
奴ならエリアを幸せにしてくれるに違いない」と、言った。
この言葉に気を良くしたイコッポに対し、フプリの心中たるや穏やかなはずがない。いつしか2人の友情にすき間風が吹く。
エリアをめぐる対立は漁場争いへとつながり、他人の迷惑にもなりかねない。困ったエリアはある決断を下した。
「いっそのこと2人で決闘なさい。戦い、勝ち残った者にすべてを許します」
「エリア、約束だぞ。酋長がなんと言おうと、勝ったらおまえを頂く」と、フプリ。
「決闘か。受けて立つ。どんなにあがいてもおれに勝てっこないことを証明してやる」と、イコッポが言った。
武器を持つことを許された2人は砂浜で対峙した。こうして1個の雌をめぐる雄同士の、原始的でありながら純然たる雄間闘争へと転じた。
激闘の末、フプリの執念がイコッポのそれより勝った。ついにフプリは恋敵を仕留めたのだ。
イコッポは息を引き取る寸前、「エリア……おれを愛してくれ」と言い残し果てた。
すると、時ならぬ暴風が吹き荒れ、目の前の漁場がたちまち砂に埋もれてしまった。
「なんてことだ……おれたちの漁場が!」フプリは絶句し、その現象が平手打ちであったかのように我に返った。
いくら憧れの女を手に入れるため熱に浮かされていたとはいえ、大切な友を手にかけてしまった。身悶えるような良心の呵責に耐えきれず、
その場で彼は自害した。
一部始終を見ていたエリアはこの世の終わりを迎えたかのように慟哭した。ほんの戯言のような口約束から、2人の若者を死なせてしまった……。
「ごめんなさい! あたしがバカだった!」と、エリアも刃物で自身の首を掻き切り、あとを追った。
3人の遺体が折り重なるように倒れた場所に、やがて水がたまり、久種湖ができたと言われている。
……オチこそ違えど、なんとなく前スレ>>286で書いた、八丈島の船幽霊こと『佐吉舟』の筋に似ているね。
いずれにせよ、この手の話は報われないケースばかりだ。悲惨。
礼文島観光協会
http://www.rebun-island.jp/
久種湖 北海道礼文町 悲恋が生んだ最果ての湖
http://www.harubow.com/album/koshonodensetu/KOSHO/01....
道北の釣りと旅 礼文町の昔話とアイヌ伝説・創作はあるかも?
http://www.kitakaido.com/soya/rebun/rebun-17.htm...
NPO法人国際朗読ことば協会
http://www.kageyama.jp/sanpo...
アイヌ語一覧wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%82%A4%E3%83%...
性淘汰wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%80%A7%E6%B7%98%E6%B1%...
まんが日本昔ばなし動画 佐吉舟
http://nipponmukasibanasi.seesaa.net/article/383709456.htm...
北海道の北部にある稚内の西60kmの日本海側に位置する礼文郡礼文町に属する島が礼文島である。
地名語源はアイヌ語のレプン・シリ(沖の島)から来ている。人口は平成26(2013)年4月1日の調べで2,760人。
礼文島には日本最北の淡水湖といわれる久種湖(くしゅこ)がある。湖畔の湿原には4月中旬にミズバショウが観賞でき、
またキャンプ場やスキー場も揃っており、アウトドア派の誘致に一役買っている。久種湖の語源はアイヌ語で『山越えする沼』の意である。
そんな久種湖には、またしても悲恋伝説が残されていた。日本各地には何かと昭和の歌謡曲ばりに恋人が結ばれる話より、
悲しい別離のソレの方が圧倒的に多く、風土らしさを感じさせる。それでいながらこの手の話は、やはり印象深いのも否めないのだが。
……昔、礼文島のあるコタン(集落)に、イコッポとフプリという若者が住んでいた。
2人は仲が良く、漁をして暮らしていたが、年頃になると酋長の娘、エリアに恋心を抱くようになる。
エリアは聡明なうえに目を瞠るような美人で、2人の憧れの的であった。
イコッポとフプリとて例外ではなく、身体が丈夫でなかなかの好男子。エリアは2人に言い寄られてもどちらか決めかねた。
酋長オテナは腕組みしながら、「娘もそろそろ嫁に行かさねばなるまい。見たところ、どうやらイコッポの方が漁の腕がいいようだ。
奴ならエリアを幸せにしてくれるに違いない」と、言った。
この言葉に気を良くしたイコッポに対し、フプリの心中たるや穏やかなはずがない。いつしか2人の友情にすき間風が吹く。
エリアをめぐる対立は漁場争いへとつながり、他人の迷惑にもなりかねない。困ったエリアはある決断を下した。
「いっそのこと2人で決闘なさい。戦い、勝ち残った者にすべてを許します」
「エリア、約束だぞ。酋長がなんと言おうと、勝ったらおまえを頂く」と、フプリ。
「決闘か。受けて立つ。どんなにあがいてもおれに勝てっこないことを証明してやる」と、イコッポが言った。
武器を持つことを許された2人は砂浜で対峙した。こうして1個の雌をめぐる雄同士の、原始的でありながら純然たる雄間闘争へと転じた。
激闘の末、フプリの執念がイコッポのそれより勝った。ついにフプリは恋敵を仕留めたのだ。
イコッポは息を引き取る寸前、「エリア……おれを愛してくれ」と言い残し果てた。
すると、時ならぬ暴風が吹き荒れ、目の前の漁場がたちまち砂に埋もれてしまった。
「なんてことだ……おれたちの漁場が!」フプリは絶句し、その現象が平手打ちであったかのように我に返った。
いくら憧れの女を手に入れるため熱に浮かされていたとはいえ、大切な友を手にかけてしまった。身悶えるような良心の呵責に耐えきれず、
その場で彼は自害した。
一部始終を見ていたエリアはこの世の終わりを迎えたかのように慟哭した。ほんの戯言のような口約束から、2人の若者を死なせてしまった……。
「ごめんなさい! あたしがバカだった!」と、エリアも刃物で自身の首を掻き切り、あとを追った。
3人の遺体が折り重なるように倒れた場所に、やがて水がたまり、久種湖ができたと言われている。
……オチこそ違えど、なんとなく前スレ>>286で書いた、八丈島の船幽霊こと『佐吉舟』の筋に似ているね。
いずれにせよ、この手の話は報われないケースばかりだ。悲惨。
礼文島観光協会
http://www.rebun-island.jp/
久種湖 北海道礼文町 悲恋が生んだ最果ての湖
http://www.harubow.com/album/koshonodensetu/KOSHO/01....
道北の釣りと旅 礼文町の昔話とアイヌ伝説・創作はあるかも?
http://www.kitakaido.com/soya/rebun/rebun-17.htm...
NPO法人国際朗読ことば協会
http://www.kageyama.jp/sanpo...
アイヌ語一覧wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%82%A4%E3%83%...
性淘汰wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%80%A7%E6%B7%98%E6%B1%...
まんが日本昔ばなし動画 佐吉舟
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南方熊楠による海難法師考察 伊豆七島 1
前スレ>>427>>428では和歌山県田辺市の神島にゆかりある人物として南方熊楠の名前を出したが、この方はそれだけにとどまらず、
マルチな才能ぶりと恐るべき知識量には舌を巻かずにはいられないのだ。
実はその南方熊楠も、伊豆七島に伝わる『海難法師』(前スレ>>396〜>>398を参照)に関する論文の記述を遺していた。昭和26(1951)年発表、
題は『十二支考 蛇に関する民俗と伝説』でのほんの一文であるが、さすが我らが南方熊楠、ネットのない時代によくぞ知悉していたと
尊敬の念を抱かせるに充分である。以下、抜粋してみよう。アンカー部分が引用文。
>『郷土研究』四巻二九六頁、尾佐竹猛氏、伊豆新島の話に、正月二十四日は、大島の泉津村利島神津島とともに日忌で、
>この日海難(またカンナンボウシ)が来るといい、夜は門戸を閉じ、柊またトベラの枝を入口に挿し、その上に笊(ざる)を被せ、
>一切外を覗かず物音せず、外の見えぬようにして夜明けを待つ。
>島の伝説に、昔泉津の代官暴戻(ぼうれい)なりし故、村民これを殺し、利島に逃れしも上陸を許されず。
>神津島に上ったので、その代官の亡霊が襲い来るというのだが、どうも要領を得ぬとある。
(中略)
>1903、4年の間、グリーンランドのエスキモ人の中に棲んだ、デンマルク人ラスムッセンの『極北の人民ゼ・ピープル・オヴ・ゼ・ポラー・ノース』を読むに、
>輓近(ばんきん)エスキモ人がキリスト教に化する事多きより、一代前の事は全く虚誕のごとく聞えるが、遺老に就いて種々調べると、
>欧人が聞いて無残極まり、世にあり得べからずと思われる事や、奇怪千万な行いなどは、彼らに取ってはありふれた事で、
>欧人が聞くに堪えぬと惟(おも)う話のその聞くに堪えぬところが、彼らのもっとも面白がるところである。
>したがって欧人が何とも要領を得ず、拙作極まる小説としか受け取れぬ諸誕は、ことごとく実在した事歴を述べたものだと論じ居る。
>新島の伝説もこの通りで、代官暗殺云々は全く事実であろう。
前スレ>>427>>428では和歌山県田辺市の神島にゆかりある人物として南方熊楠の名前を出したが、この方はそれだけにとどまらず、
マルチな才能ぶりと恐るべき知識量には舌を巻かずにはいられないのだ。
実はその南方熊楠も、伊豆七島に伝わる『海難法師』(前スレ>>396〜>>398を参照)に関する論文の記述を遺していた。昭和26(1951)年発表、
題は『十二支考 蛇に関する民俗と伝説』でのほんの一文であるが、さすが我らが南方熊楠、ネットのない時代によくぞ知悉していたと
尊敬の念を抱かせるに充分である。以下、抜粋してみよう。アンカー部分が引用文。
>『郷土研究』四巻二九六頁、尾佐竹猛氏、伊豆新島の話に、正月二十四日は、大島の泉津村利島神津島とともに日忌で、
>この日海難(またカンナンボウシ)が来るといい、夜は門戸を閉じ、柊またトベラの枝を入口に挿し、その上に笊(ざる)を被せ、
>一切外を覗かず物音せず、外の見えぬようにして夜明けを待つ。
>島の伝説に、昔泉津の代官暴戻(ぼうれい)なりし故、村民これを殺し、利島に逃れしも上陸を許されず。
>神津島に上ったので、その代官の亡霊が襲い来るというのだが、どうも要領を得ぬとある。
(中略)
>1903、4年の間、グリーンランドのエスキモ人の中に棲んだ、デンマルク人ラスムッセンの『極北の人民ゼ・ピープル・オヴ・ゼ・ポラー・ノース』を読むに、
>輓近(ばんきん)エスキモ人がキリスト教に化する事多きより、一代前の事は全く虚誕のごとく聞えるが、遺老に就いて種々調べると、
>欧人が聞いて無残極まり、世にあり得べからずと思われる事や、奇怪千万な行いなどは、彼らに取ってはありふれた事で、
>欧人が聞くに堪えぬと惟(おも)う話のその聞くに堪えぬところが、彼らのもっとも面白がるところである。
>したがって欧人が何とも要領を得ず、拙作極まる小説としか受け取れぬ諸誕は、ことごとく実在した事歴を述べたものだと論じ居る。
>新島の伝説もこの通りで、代官暗殺云々は全く事実であろう。
南方熊楠による海難法師考察 伊豆七島 2
>代官の幽公が来るのを懼れて、戸を閉じ夜を守ったも事実であろう。柊は刺で、トベラは臭気で悪霊を禦ぐは分りやすいが、笊を何故用いるか。
>種彦の『用捨箱(ようしゃばこ)』巻上に、ある島国にていと暗き夜、鬼の遊行するとて戸外へ出でざる事あり。
>その夜去りがたき用あらば、目籠を持ちて出るなり、さすれば禍なしと、かの島人の話なりといえるは、やはり新島辺の事で、
>昔は戸口にも笊を掛け、外出にも持ち歩いたであろう。
>種彦は、江戸で二月八日御事始おことはじめに笊を門口に懸けた旧俗を釈(と)くとて、昔より目籠は鬼の怖るるといい習わせり、
>これは目籠の底の角々は☆如此かく晴明九字(あるいは曰く晴明の判)という物なればなり。
>原来の俗説、ただ古老の伝を記すと言ったが、その俗説こそ大いに研究に用立つなれ。
>すなわちこの星状多角形の辺線は、幾度見廻しても止まるところなきもの故、悪鬼来りて家や人に邪視を加えんとする時、
>まずこの形に見取れ居る内、邪視が利かなくなるの上、この晴明の判がなくとも、すべて籠細工の竹条は、此処ここに没して彼処かしこに出で、
>交互起伏して首尾容易に見極めにくいから、鬼がそれを念入れて数える間に、邪視力を失うので、イタリア人が、無数の星点ある石や沙や穀粒を、
>袋に盛って邪視する者に示し、彼これを算(かぞ)え尽くすの後にあらざれば、その力利かずと信ずると同義である。
>節分の夜、豆撒くなども、鬼が無数の豆を数え拾う内に、邪力衰うべき用意であろう。
>かつて強盗多かった村人に聞いたは、強盗盛んな年は、家に小銭を多く貯え置く、泥的御来臨のみぎり、二、三問答の上、しからばやむをえない、
>貴公らに金を仮りたとあっては相済まぬ、少々ながら有金すっかり進呈しよう、大臣にでもなったら返しくだされ、その節は、子供を引き立てくだされなど、
>いい加減に述べて、引き出しを抽いて、たちまち彼奴の眼前へ打ち覆かえすと、無数の小銭が八方へ転がり走る。
>泥公一心これを手早く掻き込むに取り忙ぎ、銭の多寡を論じたり、凶器を弄ぶに暇なく、集めおわりてヘイさようならで慌あわて去るものだ。
>強盗に逢ったら僕の名を言いたまえ、毎度逢って善い顧客だから麁略(そりゃく)にすまい、貴下のような文なしには、
>少々置いて行くかも知れぬと教えくれたが、まだ一度も逢わぬから、折角の妙案も実試せぬ。
>全体予の事を、人々が女に眉毛を読まれやすいと言うを、いかにも眉毛が鮮かなと讃めてくれると思うたが、拙妻聞いて更に懌ばぬから、奇妙と惟いいた。
>ところが『郷土研究』四の四三三頁に、林魁一君が、美濃の俗伝を報じた内に、眉毛に唾を塗ると毛が付き合うて、狐その数を読む能わず、
>したがって魅ばかす事がならぬとあるを読んで大いに解り、〈人書を読まざればそれなお夜行のごとし〉と嘆じた。
>マアこんな訳故、新島の一条も、もと目籠を以て邪視を避くる風が、エジプト、インド、東京、イタリア等同様、日本にもありしが、
>新島ごとき辺土に永く留まった。
>そこへ代官暗殺されその幽霊の来襲を惧るる事甚だしくなりて、今更盛んに目籠を以てこれを禦ぎしより、ついに専ら代官殺しが、
>日忌の夜笊を出す唯一つの起りのよう、訛伝(かでん)したのであろう。
十二支考 蛇に関する民俗と伝説 南方熊楠
http://www.aozora.gr.jp/cards/000093/files/2536_20184....
※なお、南方熊楠の他の論文を閲覧したくばここで取得されたし。
青空文庫 南方熊楠
http://www.aozora.gr.jp/index_pages/person93.html#saku...
>代官の幽公が来るのを懼れて、戸を閉じ夜を守ったも事実であろう。柊は刺で、トベラは臭気で悪霊を禦ぐは分りやすいが、笊を何故用いるか。
>種彦の『用捨箱(ようしゃばこ)』巻上に、ある島国にていと暗き夜、鬼の遊行するとて戸外へ出でざる事あり。
>その夜去りがたき用あらば、目籠を持ちて出るなり、さすれば禍なしと、かの島人の話なりといえるは、やはり新島辺の事で、
>昔は戸口にも笊を掛け、外出にも持ち歩いたであろう。
>種彦は、江戸で二月八日御事始おことはじめに笊を門口に懸けた旧俗を釈(と)くとて、昔より目籠は鬼の怖るるといい習わせり、
>これは目籠の底の角々は☆如此かく晴明九字(あるいは曰く晴明の判)という物なればなり。
>原来の俗説、ただ古老の伝を記すと言ったが、その俗説こそ大いに研究に用立つなれ。
>すなわちこの星状多角形の辺線は、幾度見廻しても止まるところなきもの故、悪鬼来りて家や人に邪視を加えんとする時、
>まずこの形に見取れ居る内、邪視が利かなくなるの上、この晴明の判がなくとも、すべて籠細工の竹条は、此処ここに没して彼処かしこに出で、
>交互起伏して首尾容易に見極めにくいから、鬼がそれを念入れて数える間に、邪視力を失うので、イタリア人が、無数の星点ある石や沙や穀粒を、
>袋に盛って邪視する者に示し、彼これを算(かぞ)え尽くすの後にあらざれば、その力利かずと信ずると同義である。
>節分の夜、豆撒くなども、鬼が無数の豆を数え拾う内に、邪力衰うべき用意であろう。
>かつて強盗多かった村人に聞いたは、強盗盛んな年は、家に小銭を多く貯え置く、泥的御来臨のみぎり、二、三問答の上、しからばやむをえない、
>貴公らに金を仮りたとあっては相済まぬ、少々ながら有金すっかり進呈しよう、大臣にでもなったら返しくだされ、その節は、子供を引き立てくだされなど、
>いい加減に述べて、引き出しを抽いて、たちまち彼奴の眼前へ打ち覆かえすと、無数の小銭が八方へ転がり走る。
>泥公一心これを手早く掻き込むに取り忙ぎ、銭の多寡を論じたり、凶器を弄ぶに暇なく、集めおわりてヘイさようならで慌あわて去るものだ。
>強盗に逢ったら僕の名を言いたまえ、毎度逢って善い顧客だから麁略(そりゃく)にすまい、貴下のような文なしには、
>少々置いて行くかも知れぬと教えくれたが、まだ一度も逢わぬから、折角の妙案も実試せぬ。
>全体予の事を、人々が女に眉毛を読まれやすいと言うを、いかにも眉毛が鮮かなと讃めてくれると思うたが、拙妻聞いて更に懌ばぬから、奇妙と惟いいた。
>ところが『郷土研究』四の四三三頁に、林魁一君が、美濃の俗伝を報じた内に、眉毛に唾を塗ると毛が付き合うて、狐その数を読む能わず、
>したがって魅ばかす事がならぬとあるを読んで大いに解り、〈人書を読まざればそれなお夜行のごとし〉と嘆じた。
>マアこんな訳故、新島の一条も、もと目籠を以て邪視を避くる風が、エジプト、インド、東京、イタリア等同様、日本にもありしが、
>新島ごとき辺土に永く留まった。
>そこへ代官暗殺されその幽霊の来襲を惧るる事甚だしくなりて、今更盛んに目籠を以てこれを禦ぎしより、ついに専ら代官殺しが、
>日忌の夜笊を出す唯一つの起りのよう、訛伝(かでん)したのであろう。
十二支考 蛇に関する民俗と伝説 南方熊楠
http://www.aozora.gr.jp/cards/000093/files/2536_20184....
※なお、南方熊楠の他の論文を閲覧したくばここで取得されたし。
青空文庫 南方熊楠
http://www.aozora.gr.jp/index_pages/person93.html#saku...
江戸時代では禁則地、それ以前は死者の埋葬地だった島? 青島 1
宮崎市の日南海岸のすぐ目の前には、美しい海岸と200mもの長さの弥生橋がかかり、その先の平べったい青島が見える。
橋を渡れば、その景観に感嘆せずにはいられない。島の周囲には『鬼の洗濯板』と称される奇岩風景が広がっているのだ。
これは約1000万年から800万年前の地層(硬さの違う砂岩と泥岩)が、侵食によって規則正しい凹凸で形成されたことから名付けられたもの。
干潮時には沖合100mにも達し、他の島とは一線を画する趣を醸している。
島の周囲はわずか860m、鬼の洗濯板部分を含めても1.5kmほど。最高6m程度の平坦な島ながら、鬱蒼と生い茂った亜熱帯植物の森が広がり、
植物の種類も220種を超え、原始の森がほぼ手付かずの状態を保っている。
というのも手付かずであったには理由がある。この島は江戸時代中期までは禁則地とされ、一般人が足を踏み入れてはならない聖域だったからだ。
弥生橋を渡り青島に降り立つと、御影石の灯籠が参道の両脇に立っている。100mばかり突っ切ると、大鳥居が迎えてくれ、
それをくぐると左方に朱色の鮮やかな青島神社が見えてくる。いかにも南国っぽいビロウやソテツの密林に囲まれる形で鎮座する、
神道の社殿というミスマッチ感がたまらない。
青島神社の祭神は『天津彦火火出見命(あまつひこほほでみのみこと)』『豊玉姫命(とよたまひめのみこと)』『塩筒大神(しおつつのおおかみ)』の3神が
祀られており、縁結び・安産・航海・交通安全のご利益があると信じられ、昔から多くの参詣者を集めてきた。
その天津彦火火出見命であるが、記紀神話のエピソードの1つ、『海幸彦・山幸彦』の山幸彦で知られている。あらましはこうだ。
その昔、海で漁をして暮らす兄の海幸彦と、山で獣を狩って生活する山幸彦の兄弟がいた。
あるとき生活に飽きた山幸彦は、「いちど、お互いの道具を取り替えてみよう」と提案。しかし得意分野から外れたことをすべきではない。
まったく魚はかからず、むしろ兄に借りた釣り針を海でなくしてしまう。
釣り針を失ったことを兄に告げれば、大目玉を食うのは必至。途方に暮れ、海辺でオイオイ泣いていると、そこに塩筒大神のじい様がやってきて、
「そんなあなたのために、私めが力を貸してさしあげましょう」と、言った。
じい様は竹で編んだ小舟を作り、それに山幸彦を乗せてワダツミの棲む海中の神殿へと導いた。
神殿に着くと、ワダツミの娘である豊玉姫が出てきて、たちまち彼女にひと目惚れ。ワダツミも山幸彦の人柄を気に入り、豊玉姫と結婚させた。
山幸彦はご馳走を食べ、優雅な踊りで歓待されるがままに3年の間、ワダツミの国で人生の春を謳歌する。
そしてフト我に返る。そろそろ地上へ帰りたくなった。豊玉姫は止めたが、山幸彦の気持ちは変わらない。
「それはそうと、海でなくした釣り針を捜しにきたんだが、どこにあるか知らないか?」と、本来の目的を思い出し聞いてみた。
豊玉姫を介し、ワダツミの耳に届くと、ワダツミは海にいるすべての魚を呼び集め、釣り針を捜させた。
するとタイの喉に引っかかっていたことが明らかになり、これを抜いてを返した。
その際、ワダツミは釣り針の他に、『潮満珠(しおみつたま)』『潮干珠(しおひのたま)』の、2つの不思議な珠を与え、帰らせることにした。
フカ(サメ)の背中にまたがった山幸彦は、地上に送り届けてもらう。
陸に戻った山幸彦は、釣り針を兄に返すも、その後、しだいに貧しくなった海幸彦は、トントン拍子に暮らしが豊かになる弟を羨み、
ついに亡き者にしてやろうと殺しにくる。山幸彦はここぞとばかりに潮満珠を掲げると、その霊力でたちまち潮が満ちてきて、兄を溺れさせた。
観念した海幸彦は弟に一生忠誠を誓うと言って詫びた。ちなみに海幸彦は隼人族の祖であるという。
その山幸彦が地上に戻って暮らしたとされる場所こそ、現在の青島神社だというのだ。
宮崎市の日南海岸のすぐ目の前には、美しい海岸と200mもの長さの弥生橋がかかり、その先の平べったい青島が見える。
橋を渡れば、その景観に感嘆せずにはいられない。島の周囲には『鬼の洗濯板』と称される奇岩風景が広がっているのだ。
これは約1000万年から800万年前の地層(硬さの違う砂岩と泥岩)が、侵食によって規則正しい凹凸で形成されたことから名付けられたもの。
干潮時には沖合100mにも達し、他の島とは一線を画する趣を醸している。
島の周囲はわずか860m、鬼の洗濯板部分を含めても1.5kmほど。最高6m程度の平坦な島ながら、鬱蒼と生い茂った亜熱帯植物の森が広がり、
植物の種類も220種を超え、原始の森がほぼ手付かずの状態を保っている。
というのも手付かずであったには理由がある。この島は江戸時代中期までは禁則地とされ、一般人が足を踏み入れてはならない聖域だったからだ。
弥生橋を渡り青島に降り立つと、御影石の灯籠が参道の両脇に立っている。100mばかり突っ切ると、大鳥居が迎えてくれ、
それをくぐると左方に朱色の鮮やかな青島神社が見えてくる。いかにも南国っぽいビロウやソテツの密林に囲まれる形で鎮座する、
神道の社殿というミスマッチ感がたまらない。
青島神社の祭神は『天津彦火火出見命(あまつひこほほでみのみこと)』『豊玉姫命(とよたまひめのみこと)』『塩筒大神(しおつつのおおかみ)』の3神が
祀られており、縁結び・安産・航海・交通安全のご利益があると信じられ、昔から多くの参詣者を集めてきた。
その天津彦火火出見命であるが、記紀神話のエピソードの1つ、『海幸彦・山幸彦』の山幸彦で知られている。あらましはこうだ。
その昔、海で漁をして暮らす兄の海幸彦と、山で獣を狩って生活する山幸彦の兄弟がいた。
あるとき生活に飽きた山幸彦は、「いちど、お互いの道具を取り替えてみよう」と提案。しかし得意分野から外れたことをすべきではない。
まったく魚はかからず、むしろ兄に借りた釣り針を海でなくしてしまう。
釣り針を失ったことを兄に告げれば、大目玉を食うのは必至。途方に暮れ、海辺でオイオイ泣いていると、そこに塩筒大神のじい様がやってきて、
「そんなあなたのために、私めが力を貸してさしあげましょう」と、言った。
じい様は竹で編んだ小舟を作り、それに山幸彦を乗せてワダツミの棲む海中の神殿へと導いた。
神殿に着くと、ワダツミの娘である豊玉姫が出てきて、たちまち彼女にひと目惚れ。ワダツミも山幸彦の人柄を気に入り、豊玉姫と結婚させた。
山幸彦はご馳走を食べ、優雅な踊りで歓待されるがままに3年の間、ワダツミの国で人生の春を謳歌する。
そしてフト我に返る。そろそろ地上へ帰りたくなった。豊玉姫は止めたが、山幸彦の気持ちは変わらない。
「それはそうと、海でなくした釣り針を捜しにきたんだが、どこにあるか知らないか?」と、本来の目的を思い出し聞いてみた。
豊玉姫を介し、ワダツミの耳に届くと、ワダツミは海にいるすべての魚を呼び集め、釣り針を捜させた。
するとタイの喉に引っかかっていたことが明らかになり、これを抜いてを返した。
その際、ワダツミは釣り針の他に、『潮満珠(しおみつたま)』『潮干珠(しおひのたま)』の、2つの不思議な珠を与え、帰らせることにした。
フカ(サメ)の背中にまたがった山幸彦は、地上に送り届けてもらう。
陸に戻った山幸彦は、釣り針を兄に返すも、その後、しだいに貧しくなった海幸彦は、トントン拍子に暮らしが豊かになる弟を羨み、
ついに亡き者にしてやろうと殺しにくる。山幸彦はここぞとばかりに潮満珠を掲げると、その霊力でたちまち潮が満ちてきて、兄を溺れさせた。
観念した海幸彦は弟に一生忠誠を誓うと言って詫びた。ちなみに海幸彦は隼人族の祖であるという。
その山幸彦が地上に戻って暮らしたとされる場所こそ、現在の青島神社だというのだ。
江戸時代では禁則地、それ以前は死者の埋葬地だった島? 青島 2
言うまでもなく、亀に乗り竜宮城に行った浦島太郎のルーツは、この話が元になったのは明白。
さて、その青島であるが、古来、全島が霊地として神聖視され、藩の島奉行と神職だけが常に入島し、
一般人は旧暦3月16日の『島開きの祭』から、同月末日の『島どめの祭』まで入島を許されていたが、元文2(1737)年、
当時の宮司・長友肥後が一般の参拝者がいつでも島に渡れるよう藩主に申し出た甲斐あって、以後入島が自由になった。
ところで民俗学者、折口信夫はこう言及している。
「海の彼方あるいは海底にニライカナイという異郷の浄土があって、そこからマレビトが現れ、現世の地上の人々を訪れるという信仰が琉球諸島にある。」
と同時に、浦島太郎がたどり着いた竜宮のことをソレとするならば、竜宮は時間さえも超越した世界であり、『死後の世界』とも解釈できるという。
同じく民俗学者の谷川健一が発表した『列島縦断地名逍遥』によると、こんな興味深い記述がある。ちょっと長いが抜粋してみよう。
アンカー部分を引用文とする。
>青海(あおみ)……渚の埋葬地
>沖縄には死者を葬る青(おう)の島という地先の小島がある。私が『青』は死者と由縁の色ではないかと考え、日本本土でも『青』のつく海岸地名に関心を抱いた。
>それを探して対馬の『青海』を訪ねたことがある。青海は木坂のとなりの集落で、埋葬地は水平線を一望に眺める海ぎわにあった。
>そこは埋め墓で、波に引かれて海の沖に流されてしまうこともしばしばであった。
>詣り墓は寺(慈眼寺)の裏山にあり、埋め墓に参るのは77日の忌までであった。以後埋め墓には、当分の間の記憶としてかんたんな墓標が立てられたが、
>いつか忘れられるのが常であった。供養は拝み墓で行い、渚の埋め墓は捨て墓であった。
>山1つ越した木坂には産小屋があった。その産小屋は人家から離れた川の向こうに作った。そして死者は保利(ほり)の山に葬った。
>保利は葬り(ほふり)である。そこはもと埋め墓であった。
>青海や木坂で聞いたところでは、他部落へ行くことを、それがとなり部落であっても「世の中へ行く」とか「旅に行く」という言い方をする。
>部落をひとたび出ると、そこはもはや他郷であり、他界であった。
>対馬ではかつては、結婚も部落の中だけで行われたという。部落は宇宙であった。
>青海や木坂に、死と生をむき出しにする埋め墓や産小屋があるのも至極当然な風景であった。
言うまでもなく、亀に乗り竜宮城に行った浦島太郎のルーツは、この話が元になったのは明白。
さて、その青島であるが、古来、全島が霊地として神聖視され、藩の島奉行と神職だけが常に入島し、
一般人は旧暦3月16日の『島開きの祭』から、同月末日の『島どめの祭』まで入島を許されていたが、元文2(1737)年、
当時の宮司・長友肥後が一般の参拝者がいつでも島に渡れるよう藩主に申し出た甲斐あって、以後入島が自由になった。
ところで民俗学者、折口信夫はこう言及している。
「海の彼方あるいは海底にニライカナイという異郷の浄土があって、そこからマレビトが現れ、現世の地上の人々を訪れるという信仰が琉球諸島にある。」
と同時に、浦島太郎がたどり着いた竜宮のことをソレとするならば、竜宮は時間さえも超越した世界であり、『死後の世界』とも解釈できるという。
同じく民俗学者の谷川健一が発表した『列島縦断地名逍遥』によると、こんな興味深い記述がある。ちょっと長いが抜粋してみよう。
アンカー部分を引用文とする。
>青海(あおみ)……渚の埋葬地
>沖縄には死者を葬る青(おう)の島という地先の小島がある。私が『青』は死者と由縁の色ではないかと考え、日本本土でも『青』のつく海岸地名に関心を抱いた。
>それを探して対馬の『青海』を訪ねたことがある。青海は木坂のとなりの集落で、埋葬地は水平線を一望に眺める海ぎわにあった。
>そこは埋め墓で、波に引かれて海の沖に流されてしまうこともしばしばであった。
>詣り墓は寺(慈眼寺)の裏山にあり、埋め墓に参るのは77日の忌までであった。以後埋め墓には、当分の間の記憶としてかんたんな墓標が立てられたが、
>いつか忘れられるのが常であった。供養は拝み墓で行い、渚の埋め墓は捨て墓であった。
>山1つ越した木坂には産小屋があった。その産小屋は人家から離れた川の向こうに作った。そして死者は保利(ほり)の山に葬った。
>保利は葬り(ほふり)である。そこはもと埋め墓であった。
>青海や木坂で聞いたところでは、他部落へ行くことを、それがとなり部落であっても「世の中へ行く」とか「旅に行く」という言い方をする。
>部落をひとたび出ると、そこはもはや他郷であり、他界であった。
>対馬ではかつては、結婚も部落の中だけで行われたという。部落は宇宙であった。
>青海や木坂に、死と生をむき出しにする埋め墓や産小屋があるのも至極当然な風景であった。
江戸時代では禁則地、それ以前は死者の埋葬地だった島? 青島 3
>青(おう)の島……死者を葬った地先の小島
>田畑英勝(※奄美大島出身の民俗学者)は『奄美の民俗』の中で、名瀬の年寄りたちは、空間的もしくは時間的な距離とか間隔、
>つまり『間』の意味にアヲという言葉を使っていると述べている。たとえば、「アヲヌ トウーサン(距離が遠い)」とか、
>「マダ アヲヌ アッカサ(まだ時間的な間があるではないか)」とか、「アヲヌ チキャサ(距離が近い)」とか、
>「ナリ アヲヌ イティ シレイ(もう少し間をおいてやれ)」などという言い方をする。
>これはもともとどうした観念に基づいているのか私にはつかめないが、こうしたアヲという語の使い方には、何か極めて古い語感がこめられているように思われる。
>青は地名にも使われる。奄美大島では瀬戸内町の嘉徳や住用村の市にそれぞれ青久という地名がある。また『青の花』とか『青ン原ケ』という地名が喜界島にある。
>こうした青という土地の名は、『あやまる』という地名の『あや』と同じように、何かはっきりしないとか、漠然としたとか、はるかな、
>という意味がこめられているのではないか、と田畑は言う。田畑の念頭にはおそらく、『青』という色のもつ漠然さがあるのであろう。
>古代には色は、赤、白、黒、青の4色しかなかった。これは日本全土でも沖縄でも同じである。
>その中で、青色の領域がもっとも広く、緑色も黄色も青色中に含まれていた。したがって青というと、それらの漠然とした感じを伝える色と思われてきたのである。
>これが仲松弥秀(※民俗学者・沖縄における村落研究の第一人者)の『青の世界』の仮説ともつながっていく。
>仲松は沖縄本島およびその属島に奥武という名のつく小島が7つほどあることに注目した。久米島に奥武島があり、慶良間島にもある。
>また沖縄本島の南部に奥武島(おうじま)があり、北中城に奥武岬、那覇市に奥武山公園がある。これらの岬や公園ももとは小島であったにちがいない。
>奥武島は『琉球国由来紀』や『琉球国旧紀』にアフ、アウ、アホと表記されていて、漢字では一部、阿鳥、阿符の字が宛てられているが、
>青という字を宛てる場合がもっとも多い。そこで奥武の島は、もとは青の島ではないか、という考えが成り立つ。
>仲松が調べてみると奥武島は昔、死体を運んで葬った島であった。沖縄では本土とはちがって洞窟墓の中に死体を運んで風葬にする。
>洞窟墓には外部からぼんやりとした黄色な光が入り込んで、死体を照らし出す。このぼんやりとした黄色い光を、南島の古代人は『青』と呼んだと仲松は考えた。
>つまり青の島は死者の島でもあったのだ。
>南島の基層文化が日本列島に渡来したとき、南島の葬制も当然日本に伝わったと思われる。
>もしそうだとするならば南方の人たちが黒潮に乗って渡来した日本本土の海辺部に埋葬の場所として、青という地名が見つかるのではないかと私は考えた。
>たとえば日向の青島がそうである。青島が埋葬地であったという証拠はないが、青島の対岸には青島古墳群がある。
>対馬には青海という海村がある。私もそこを訪れたことがある。波打ち際に今は石の墓碑も立っている。もとはそこは死体を捨てるところで、
>すぐ近くの寺の境内に『詣り墓』が集中していた。
>志摩の的矢湾の奥にそびえる青の峯は、全国の漁師の尊崇を集めるところであるが、そこは南方とのつながりの濃厚に見られるところであった。
>美濃の青墓は美濃で前方後円墳の集中するところである。このようにして、本土に見られる青を冠した地名も、そこが墓地と関係の深いことに気づくのである。
>ただそれが、沖縄の『青の島』の青と、どのように具体的に関連をもつかは今もってはっきりとつかめない。
……以上のことから、『おう(Ou)』という言葉は、古代において死者の埋葬場所を示した。とすればこの宮崎県の青島も例外ではあるまい。
かつては一般人の立ち入りを禁じたほどだから、よほどの権力をもった人間が埋葬されていたのかも……。
>青(おう)の島……死者を葬った地先の小島
>田畑英勝(※奄美大島出身の民俗学者)は『奄美の民俗』の中で、名瀬の年寄りたちは、空間的もしくは時間的な距離とか間隔、
>つまり『間』の意味にアヲという言葉を使っていると述べている。たとえば、「アヲヌ トウーサン(距離が遠い)」とか、
>「マダ アヲヌ アッカサ(まだ時間的な間があるではないか)」とか、「アヲヌ チキャサ(距離が近い)」とか、
>「ナリ アヲヌ イティ シレイ(もう少し間をおいてやれ)」などという言い方をする。
>これはもともとどうした観念に基づいているのか私にはつかめないが、こうしたアヲという語の使い方には、何か極めて古い語感がこめられているように思われる。
>青は地名にも使われる。奄美大島では瀬戸内町の嘉徳や住用村の市にそれぞれ青久という地名がある。また『青の花』とか『青ン原ケ』という地名が喜界島にある。
>こうした青という土地の名は、『あやまる』という地名の『あや』と同じように、何かはっきりしないとか、漠然としたとか、はるかな、
>という意味がこめられているのではないか、と田畑は言う。田畑の念頭にはおそらく、『青』という色のもつ漠然さがあるのであろう。
>古代には色は、赤、白、黒、青の4色しかなかった。これは日本全土でも沖縄でも同じである。
>その中で、青色の領域がもっとも広く、緑色も黄色も青色中に含まれていた。したがって青というと、それらの漠然とした感じを伝える色と思われてきたのである。
>これが仲松弥秀(※民俗学者・沖縄における村落研究の第一人者)の『青の世界』の仮説ともつながっていく。
>仲松は沖縄本島およびその属島に奥武という名のつく小島が7つほどあることに注目した。久米島に奥武島があり、慶良間島にもある。
>また沖縄本島の南部に奥武島(おうじま)があり、北中城に奥武岬、那覇市に奥武山公園がある。これらの岬や公園ももとは小島であったにちがいない。
>奥武島は『琉球国由来紀』や『琉球国旧紀』にアフ、アウ、アホと表記されていて、漢字では一部、阿鳥、阿符の字が宛てられているが、
>青という字を宛てる場合がもっとも多い。そこで奥武の島は、もとは青の島ではないか、という考えが成り立つ。
>仲松が調べてみると奥武島は昔、死体を運んで葬った島であった。沖縄では本土とはちがって洞窟墓の中に死体を運んで風葬にする。
>洞窟墓には外部からぼんやりとした黄色な光が入り込んで、死体を照らし出す。このぼんやりとした黄色い光を、南島の古代人は『青』と呼んだと仲松は考えた。
>つまり青の島は死者の島でもあったのだ。
>南島の基層文化が日本列島に渡来したとき、南島の葬制も当然日本に伝わったと思われる。
>もしそうだとするならば南方の人たちが黒潮に乗って渡来した日本本土の海辺部に埋葬の場所として、青という地名が見つかるのではないかと私は考えた。
>たとえば日向の青島がそうである。青島が埋葬地であったという証拠はないが、青島の対岸には青島古墳群がある。
>対馬には青海という海村がある。私もそこを訪れたことがある。波打ち際に今は石の墓碑も立っている。もとはそこは死体を捨てるところで、
>すぐ近くの寺の境内に『詣り墓』が集中していた。
>志摩の的矢湾の奥にそびえる青の峯は、全国の漁師の尊崇を集めるところであるが、そこは南方とのつながりの濃厚に見られるところであった。
>美濃の青墓は美濃で前方後円墳の集中するところである。このようにして、本土に見られる青を冠した地名も、そこが墓地と関係の深いことに気づくのである。
>ただそれが、沖縄の『青の島』の青と、どのように具体的に関連をもつかは今もってはっきりとつかめない。
……以上のことから、『おう(Ou)』という言葉は、古代において死者の埋葬場所を示した。とすればこの宮崎県の青島も例外ではあるまい。
かつては一般人の立ち入りを禁じたほどだから、よほどの権力をもった人間が埋葬されていたのかも……。
江戸時代では禁則地、それ以前は死者の埋葬地だった島? 青島 4
山幸彦と海幸彦wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E5%B9%B8%E5%BD%...
青島神社
http://www9.ocn.ne.jp/‾aosima/
[PDF]青島ご由来
http://www9.ocn.ne.jp/‾aosima/yuisyo.pdf
玄松子の記憶 青島神社
http://www.genbu.net/data/hyuga/aosima_title.ht...
目からウロコの地名由来 「青」の地名
http://baba72885.exblog.jp/872503...
隆慶一郎わーるど 隆慶一郎公式サイト 歴史のこぼれ話(一)死者にちなむ地名
http://yoshiok26.p1.bindsite.jp/bekkan/koborebanashi...
犬の鼻先におなら 金井典美著『湿原祭祀』を読んだ(その2)
http://plaza.rakuten.co.jp/inunohanasaki/diary/2010101000...
山幸彦と海幸彦wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E5%B9%B8%E5%BD%...
青島神社
http://www9.ocn.ne.jp/‾aosima/
[PDF]青島ご由来
http://www9.ocn.ne.jp/‾aosima/yuisyo.pdf
玄松子の記憶 青島神社
http://www.genbu.net/data/hyuga/aosima_title.ht...
目からウロコの地名由来 「青」の地名
http://baba72885.exblog.jp/872503...
隆慶一郎わーるど 隆慶一郎公式サイト 歴史のこぼれ話(一)死者にちなむ地名
http://yoshiok26.p1.bindsite.jp/bekkan/koborebanashi...
犬の鼻先におなら 金井典美著『湿原祭祀』を読んだ(その2)
http://plaza.rakuten.co.jp/inunohanasaki/diary/2010101000...
置き去り伝説と船幽霊のブレンド 小市島(おいちじま)
愛媛県松山市の防予諸島の一部、忽那諸島に属する瀬戸内海に、小市島というお椀を伏せたような小島がある。
島の東側には小市島灯台が佇む無人島である。
『おいち』という島名とはずいぶん女性的だ。探ればやはり『小市』という娘が島に置き去りにされて死んだ話が伝えられていることから、
こう冠されたのだという。それがこんなお話。
帆掛船がたくさんの荷を積んで瀬戸内海を往来していた時代のこと。芳造というある船乗りがいた。
芳造は風待ちした港にて、実家に帰れば妻子がいるにもかかわらず、地元の娘、小市にちょっかいを出す。
小市もおぼこ娘だったのか、そんな芳造を相手に恋にのぼせてしまう。
男も話の流れで、「嫁にしちゃるから、おれの故郷へ行って祝言をあげような」と、言ってしまったが後の祭り。
小市を乗せて船が出発してしまった。まさか本当につれて帰るわけにはいかない。いっそのこと、無人島に置き去りにしてしまおうと考えついた。
「船乗りなのにだらしない話だが、いささか酔っちまった。あの島につけるから一緒に小休止といこう」と、芳造は言い、小市をつれて島に上陸した。
小市は、芳造との婚約を前に胸躍らせながら横になり、わずかの間まどろんだ。
はっと気づくと、いとしの芳造はおろか、船が見当たらない。声を限りに叫べども、瀬戸内の海は狭いように見えて助けは望むべくもない。
食べ物すらなく水も沸かない島だったので、小市はしだいに衰弱していき、だました芳造を恨み、己が運命を呪ってしだいに狂気に捉われ、ついには悶死した。
それ以来、島の近くを船が通りかかると、恨めしそうな女の声で、「水を……水をください……」と訴え、船のあとを追ってくる『船幽霊』が出没するようになった。
船乗りが恐慌をきたし柄杓で水を汲み、それごと渡せば、女はニタリと笑った。柄杓を取り上げ、相手の船に海水を注ぎ、船が沈没するまでやめなかった。
そんな女幽霊が出たら、決まって船乗りたちは底を抜いた柄杓を渡してやりすごしていたが、いつしか誰かがこの島に祠を建て、小市の霊を慰めた。
以降、『船幽霊』は出なくなり、誰が言うことなくこの無人島を小市島と呼ぶようになった。
……前スレから愛読してくれている方なら、既視感を憶えたに違いない。
前スレ>>355の京の上臈島の置き去り伝説に酷似していながら、船幽霊の話と一緒くたになってしまっているのだから。
これもなんらかの形で話が伝播したにすぎないのだろう。もっとも、京の上臈島の伝説でさえ最初の発生源なのかどうかも疑わしいのだが。
伊予歴史文化探訪 よもだ堂日記 松山沖の無人島(10)「小市島」
http://yomodado.blog46.fc2.com/blog-entry-1238.htm...
松山の伝説 一覧
http://home.e-catv.ne.jp/naka/mukasi-hanasi/densetu/1-i...
愛媛県松山市の防予諸島の一部、忽那諸島に属する瀬戸内海に、小市島というお椀を伏せたような小島がある。
島の東側には小市島灯台が佇む無人島である。
『おいち』という島名とはずいぶん女性的だ。探ればやはり『小市』という娘が島に置き去りにされて死んだ話が伝えられていることから、
こう冠されたのだという。それがこんなお話。
帆掛船がたくさんの荷を積んで瀬戸内海を往来していた時代のこと。芳造というある船乗りがいた。
芳造は風待ちした港にて、実家に帰れば妻子がいるにもかかわらず、地元の娘、小市にちょっかいを出す。
小市もおぼこ娘だったのか、そんな芳造を相手に恋にのぼせてしまう。
男も話の流れで、「嫁にしちゃるから、おれの故郷へ行って祝言をあげような」と、言ってしまったが後の祭り。
小市を乗せて船が出発してしまった。まさか本当につれて帰るわけにはいかない。いっそのこと、無人島に置き去りにしてしまおうと考えついた。
「船乗りなのにだらしない話だが、いささか酔っちまった。あの島につけるから一緒に小休止といこう」と、芳造は言い、小市をつれて島に上陸した。
小市は、芳造との婚約を前に胸躍らせながら横になり、わずかの間まどろんだ。
はっと気づくと、いとしの芳造はおろか、船が見当たらない。声を限りに叫べども、瀬戸内の海は狭いように見えて助けは望むべくもない。
食べ物すらなく水も沸かない島だったので、小市はしだいに衰弱していき、だました芳造を恨み、己が運命を呪ってしだいに狂気に捉われ、ついには悶死した。
それ以来、島の近くを船が通りかかると、恨めしそうな女の声で、「水を……水をください……」と訴え、船のあとを追ってくる『船幽霊』が出没するようになった。
船乗りが恐慌をきたし柄杓で水を汲み、それごと渡せば、女はニタリと笑った。柄杓を取り上げ、相手の船に海水を注ぎ、船が沈没するまでやめなかった。
そんな女幽霊が出たら、決まって船乗りたちは底を抜いた柄杓を渡してやりすごしていたが、いつしか誰かがこの島に祠を建て、小市の霊を慰めた。
以降、『船幽霊』は出なくなり、誰が言うことなくこの無人島を小市島と呼ぶようになった。
……前スレから愛読してくれている方なら、既視感を憶えたに違いない。
前スレ>>355の京の上臈島の置き去り伝説に酷似していながら、船幽霊の話と一緒くたになってしまっているのだから。
これもなんらかの形で話が伝播したにすぎないのだろう。もっとも、京の上臈島の伝説でさえ最初の発生源なのかどうかも疑わしいのだが。
伊予歴史文化探訪 よもだ堂日記 松山沖の無人島(10)「小市島」
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松山の伝説 一覧
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なぜ特定の島では犬を飼ってはいけないのか? 続き1
以前から気になっていて、>>78では『なぜ特定の島では犬を飼ってはいけないのか?』と独自に考察してみた。その続きに触れたい。
>>28で長崎県松浦市の『青島』を取り上げたのは記憶に新しい。この島も犬を飼うのがタブーであった。
>>104〜>>107で言及したように、古来より『青島』と冠する島は死者の埋葬地として機能していたというのが通説のようだ。
だとすれば遺体を掘り返される恐れから、犬を飼うのは忌み嫌われたというのもこれで合点がいく。
同じようにこの題目に言及した論文を見つけた。それが野地恒有氏という民俗学者が発表した『移住開拓島の民俗学ノート(一)』である。
僕とは異なる発想だが、うなずける部分もある。その部分を引用してみよう。アンカー部分がソレ。
>犬をつれて行くことを禁忌とする島がある。柳田国男はその本源的な理由として、猫の敵だとする以前にその島が葬地だったからと推測した(猫の島)。
>私は犬をつれていくというのは移住と土地占有を示す行為であったため、特別なとき以外には島に犬をつれて行ってはいけなかったのだろうと推測する。
>柳田国男の『猫の島』という一編を見てみよう。犬をつれて渡ると祟りがあるという島がみられる。
>猫のもつ神秘性ゆえに、猫の敵となる犬を忌むと説明されているが、猫の神秘性を持ち出す以前に犬を忌む戒めがあった。
>かつて島を葬地とした慣習があり、犬が葬地と人里を行き来するため、死の穢れに触れる犬を島に入れるのを忌み嫌ったのだろうと柳田は解釈している。
>たとえば宮崎県石巻市の田代島では、「犬を牽いて渡ってはならぬという戒めが前にあって、その理由がやや不明になってのちに、犬を敵とするものが島に入る、
>それは猫だという説が起こり、その猫には違反を罰するだけの、恐るべき威力があるように考えた」。
>しかし、田代島を猫の島とする以前には、島を葬地とする歴史があった。「島を開きにあとから入った人々」は島を葬地とした慣習を知らず、
>ただ犬をつれて行ってはいけないという戒めだけが伝えられて、その理由が猫に求められるようになったというのである。
>田代島の開拓前史に、島を葬地とする民俗事例があったかどうかはわからない。私は民俗として捉えられないだろうと考えている。
>ただ、柳田の『猫の島』の中で、田代島以外で犬をつれて行ってはならない島としてあげられている他の2例が2例とも、
>近代以降に移住開拓される無人島である点は興味深い。それは式根島(東京都伊豆七島)と大黒神島(広島県江田島市)である。
>柳田があげている式根島の例を見てみよう。
>式根島は「今(昭和14年ごろ)から45年前までは、まったくの無人島であった」。(式根島は明治20年代以降の移住により形成された移住開拓島である)
>無人島であったころには、「わずかな畠地があって隣の島から、ときどき耕作や木草を刈りに渡るだけだった」。
>式根島でも「猫が住んでいるために犬の行くことを忌む」と説明されていた。
>柳田は、「人家がないのに猫のいるのも怪しく、それに遠慮して犬を連れ込まぬというのはなおさら合点がいかない」として、
>「犬を嫌うという方が元で、その理由を知る者が少なくなった結果、新たにこんな単純な想像が生まれたのかもと考えられる」と解釈している。
※本文と画像は無関係です。
以前から気になっていて、>>78では『なぜ特定の島では犬を飼ってはいけないのか?』と独自に考察してみた。その続きに触れたい。
>>28で長崎県松浦市の『青島』を取り上げたのは記憶に新しい。この島も犬を飼うのがタブーであった。
>>104〜>>107で言及したように、古来より『青島』と冠する島は死者の埋葬地として機能していたというのが通説のようだ。
だとすれば遺体を掘り返される恐れから、犬を飼うのは忌み嫌われたというのもこれで合点がいく。
同じようにこの題目に言及した論文を見つけた。それが野地恒有氏という民俗学者が発表した『移住開拓島の民俗学ノート(一)』である。
僕とは異なる発想だが、うなずける部分もある。その部分を引用してみよう。アンカー部分がソレ。
>犬をつれて行くことを禁忌とする島がある。柳田国男はその本源的な理由として、猫の敵だとする以前にその島が葬地だったからと推測した(猫の島)。
>私は犬をつれていくというのは移住と土地占有を示す行為であったため、特別なとき以外には島に犬をつれて行ってはいけなかったのだろうと推測する。
>柳田国男の『猫の島』という一編を見てみよう。犬をつれて渡ると祟りがあるという島がみられる。
>猫のもつ神秘性ゆえに、猫の敵となる犬を忌むと説明されているが、猫の神秘性を持ち出す以前に犬を忌む戒めがあった。
>かつて島を葬地とした慣習があり、犬が葬地と人里を行き来するため、死の穢れに触れる犬を島に入れるのを忌み嫌ったのだろうと柳田は解釈している。
>たとえば宮崎県石巻市の田代島では、「犬を牽いて渡ってはならぬという戒めが前にあって、その理由がやや不明になってのちに、犬を敵とするものが島に入る、
>それは猫だという説が起こり、その猫には違反を罰するだけの、恐るべき威力があるように考えた」。
>しかし、田代島を猫の島とする以前には、島を葬地とする歴史があった。「島を開きにあとから入った人々」は島を葬地とした慣習を知らず、
>ただ犬をつれて行ってはいけないという戒めだけが伝えられて、その理由が猫に求められるようになったというのである。
>田代島の開拓前史に、島を葬地とする民俗事例があったかどうかはわからない。私は民俗として捉えられないだろうと考えている。
>ただ、柳田の『猫の島』の中で、田代島以外で犬をつれて行ってはならない島としてあげられている他の2例が2例とも、
>近代以降に移住開拓される無人島である点は興味深い。それは式根島(東京都伊豆七島)と大黒神島(広島県江田島市)である。
>柳田があげている式根島の例を見てみよう。
>式根島は「今(昭和14年ごろ)から45年前までは、まったくの無人島であった」。(式根島は明治20年代以降の移住により形成された移住開拓島である)
>無人島であったころには、「わずかな畠地があって隣の島から、ときどき耕作や木草を刈りに渡るだけだった」。
>式根島でも「猫が住んでいるために犬の行くことを忌む」と説明されていた。
>柳田は、「人家がないのに猫のいるのも怪しく、それに遠慮して犬を連れ込まぬというのはなおさら合点がいかない」として、
>「犬を嫌うという方が元で、その理由を知る者が少なくなった結果、新たにこんな単純な想像が生まれたのかもと考えられる」と解釈している。
※本文と画像は無関係です。
なぜ特定の島では犬を飼ってはいけないのか? 続き2
>式根島は無人島で、隣の新島から耕作や木草を刈りに渡ってきていた。そのころに、島で犬を連れていってはならないというのは、
>かつてその島が葬地であったからでも、犬が猫の敵だからでもない、と私は考えている。
>犬を連れていってはならないというのは、それが特別な意思表明の行為だったからである。新島の共有地である無人島で犬を飼うということは、
>島の土地の占有、あるいは移住定着の意思の表明であったのではないか。
>その土地や島を共同管理する村では移住が認められたときに犬を連れていってもよかったのであろう。
>だから、むやみに犬を共有地である無人島へ連れていってはならなかったのである。
>塚本学(※日本近世史を専門とする歴史学者。国立歴史民俗博物館名誉教授)の研究によると、江戸時代、犬を飼うことを禁止する村の申し合わせがあり、
>その理由には、狂犬病の流行に対する措置、犬が畑を荒らすことに対する防御、倹約の3つがあげられる。
>第3の理由を見ると、犬を飼うというのは経済的に余裕のある人の行為である。その行為を禁止するというのは単純にいえば倹約のためであるが、
>倹約を禁止する根底には「ある社会のなかで一般のメンバーに対する優越者の地位を顕示する動きをおさえる役割をもつものであった」と、塚本は捉えている。
>また、犬を飼うというのは一種の武力行使でもある。
>「犬を飼うことによって、一般村民とはちがった、一般村民に対してなんらかの力を奮おうとする者が出現することへの警戒が、この規定を生んだ」のであり、
>「村中の申し合わせとして犬飼育をおさえるのは、村内特定家の武力独占を排除するという意味で、つきつめて言えば小農自立傾向と相応ずる面をもつかにも
>見えるのである」とまとめている。
>村の特定の家が犬を飼うということに、野獣や盗賊に対する番犬としての役割だけでなく、その奥に、経済力や武力の顕示と支配関係の創出が捉えられる。
>犬を飼うということに権利や支配の示威行為を見出したのは塚本の卓見である。
>犬を飼うことは他者に対する何らかの示威行為である。それでは、近代の移住開拓島ではどのような示威行為になるのであろうか。
>移住開拓島の飼い犬はワタクシ(私有)の象徴である。移住開拓島に犬を連れていくというのは移住定着と土地占有の意思を表している。
>ゆえに、むやみに犬を連れ込むことは禁止されるのである。村の共有地になっているような島へ渡るときには土地占有の示威行為となるため、
>犬の持ち込みは禁止されたのである。
移住開拓島の民俗学ノート(一) 野地恒有
http://repository.aichi-edu.ac.jp/dspace/bitstream/10424/3650/1/...
>式根島は無人島で、隣の新島から耕作や木草を刈りに渡ってきていた。そのころに、島で犬を連れていってはならないというのは、
>かつてその島が葬地であったからでも、犬が猫の敵だからでもない、と私は考えている。
>犬を連れていってはならないというのは、それが特別な意思表明の行為だったからである。新島の共有地である無人島で犬を飼うということは、
>島の土地の占有、あるいは移住定着の意思の表明であったのではないか。
>その土地や島を共同管理する村では移住が認められたときに犬を連れていってもよかったのであろう。
>だから、むやみに犬を共有地である無人島へ連れていってはならなかったのである。
>塚本学(※日本近世史を専門とする歴史学者。国立歴史民俗博物館名誉教授)の研究によると、江戸時代、犬を飼うことを禁止する村の申し合わせがあり、
>その理由には、狂犬病の流行に対する措置、犬が畑を荒らすことに対する防御、倹約の3つがあげられる。
>第3の理由を見ると、犬を飼うというのは経済的に余裕のある人の行為である。その行為を禁止するというのは単純にいえば倹約のためであるが、
>倹約を禁止する根底には「ある社会のなかで一般のメンバーに対する優越者の地位を顕示する動きをおさえる役割をもつものであった」と、塚本は捉えている。
>また、犬を飼うというのは一種の武力行使でもある。
>「犬を飼うことによって、一般村民とはちがった、一般村民に対してなんらかの力を奮おうとする者が出現することへの警戒が、この規定を生んだ」のであり、
>「村中の申し合わせとして犬飼育をおさえるのは、村内特定家の武力独占を排除するという意味で、つきつめて言えば小農自立傾向と相応ずる面をもつかにも
>見えるのである」とまとめている。
>村の特定の家が犬を飼うということに、野獣や盗賊に対する番犬としての役割だけでなく、その奥に、経済力や武力の顕示と支配関係の創出が捉えられる。
>犬を飼うということに権利や支配の示威行為を見出したのは塚本の卓見である。
>犬を飼うことは他者に対する何らかの示威行為である。それでは、近代の移住開拓島ではどのような示威行為になるのであろうか。
>移住開拓島の飼い犬はワタクシ(私有)の象徴である。移住開拓島に犬を連れていくというのは移住定着と土地占有の意思を表している。
>ゆえに、むやみに犬を連れ込むことは禁止されるのである。村の共有地になっているような島へ渡るときには土地占有の示威行為となるため、
>犬の持ち込みは禁止されたのである。
移住開拓島の民俗学ノート(一) 野地恒有
http://repository.aichi-edu.ac.jp/dspace/bitstream/10424/3650/1/...
浦戸諸島 寒風沢島 Sabusawa-jima Island
http://www.city.shiogama.miyagi.jp/urato/midokoro/sabusawajima/mu...
http://www.city.shiogama.miyagi.jp/urato/midokoro/sabusawajima/mu...
阿久根市ホームページ 阿久根市: 市の歴史(七不思議)
http://www.city.akune.kagoshima.jp/rekisi/nana.htm...
鹿児島の自然と食 光礁
http://blog.goo.ne.jp/sizen2_2006/e/0882d4f6dcda5650...
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みんなで楽しもう! 〜琉球沖縄の、先祖から伝わってきたお話〜 奄美・沖縄本島・沖縄先島の伝説より、第91話。大蛇おろち/だいじゃクチフラチャー退治
http://totoro820.ti-da.net/e3251135.htm...
http://totoro820.ti-da.net/e3251135.htm...
愛媛の伝承文化 トカラ列島の七島正月
http://blog.goo.ne.jp/uchikonotemae/e/7632eb9d3251fe...
トカラ列島 小宝島日記 七島正月
http://jijiragi.blog105.fc2.com/blog-entry-674.htm...
第26巻 七島正月とヒチゲー —鹿児島県十島村悪石島—
http://www31.ocn.ne.jp/‾minneiken/sugata_htm/026sugata.htm
http://blog.goo.ne.jp/uchikonotemae/e/7632eb9d3251fe...
トカラ列島 小宝島日記 七島正月
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第26巻 七島正月とヒチゲー —鹿児島県十島村悪石島—
http://www31.ocn.ne.jp/‾minneiken/sugata_htm/026sugata.htm
火伏せの神・蛸神を祀った島 能登島(のとじま)
石川県七尾市には七尾湾を塞ぐ形で能登島が佇む。
島は能登島大橋と『ツインブリッジのと』の2つの橋で行き来でき、能登半島のリゾートアイランドとして注目されている。
その能登島町(2004年10月1日合併により七尾市の一部となる)には、クトゥルー神ならぬ蛸神なる守護神を祀り、
『蛸祭』まであるというからちょっとした驚きである。その起源については、『石川縣鹿島郡誌』によると以下のとおり。
昭和3年から数えて、3代ばかり古い時代のことである。
祖母ヶ浦(ばがうら・能登島の1集落)の人々は、もとは内地の梅木谷内なる地域に住んでいた者たちだった。
かの地を引き払って現在地に移住したとき、大事な村の氏神(火結命・ほむすびのみこと)を置き去りにしてきたことを思い出す。
折りしも11月3日の夜、向田地区に住む農家の三郎助が眠っていると、不思議な夢のお告げを受けた。
そのお告げとは、件の氏神が蛸にまたがり、ようやく島の浜に着いたので、おまえに迎えにきてほしいとのこと。
三郎助が早朝浜へ出かけると、たしかに大きな蛸が流れ着いてうねくっており、頭にご神体を乗せているではないか。
さっそく彼は蛸を海に逃がし、ご神体を家で祀った。
言い伝えでは、氏神が土間のかまどの手洗い場を使ったことにより、三郎助の子孫の中屋家では、かまどで火を焚く男に限り、
ふんどしで腹を温めるなどの不作法は禁じ戒めるという。
のちに祠を建て、氏神をあらためて祀り、毎年11月3日を祭日とした。また10月17日は蛸の飯と称して神職の者が大きな握り飯を作って中屋家に送り、
中屋家ではこれを近隣に分け与える習わしが続けられている。また同家においては蛸の捕獲を禁じ、たとえ他家から分けられることがあっても、
主人はこれを食べることは許されないという。
余談であるが向田地区では過去に何度か火災があり、中屋家の隣まで延焼したことがあるが、同家ではかろうじて一度も被害にあったことがない。
これを蛸神の守護のおかげだと口伝され、今ではこの蛸神は向田地区の鎮火守護神として崇められている。
能登島の蛸祭
http://www.geocities.co.jp/CollegeLife-Labo/6989/TaccoFes...
能登の民話伝説(中能登地区-No.4)
http://www.geocities.co.jp/HeartLand-Ayame/5161/LegendsIn...
FAAVO石川 語り部 in 能登島
https://faavo.jp/ishikawa/report/183/63...
YAHOO知恵袋 アメリカンはなぜタコがキライなんですか?
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1211474723...
食のタブーwikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A3%9F%E3%81%AE%E3%82%...
石川県七尾市には七尾湾を塞ぐ形で能登島が佇む。
島は能登島大橋と『ツインブリッジのと』の2つの橋で行き来でき、能登半島のリゾートアイランドとして注目されている。
その能登島町(2004年10月1日合併により七尾市の一部となる)には、クトゥルー神ならぬ蛸神なる守護神を祀り、
『蛸祭』まであるというからちょっとした驚きである。その起源については、『石川縣鹿島郡誌』によると以下のとおり。
昭和3年から数えて、3代ばかり古い時代のことである。
祖母ヶ浦(ばがうら・能登島の1集落)の人々は、もとは内地の梅木谷内なる地域に住んでいた者たちだった。
かの地を引き払って現在地に移住したとき、大事な村の氏神(火結命・ほむすびのみこと)を置き去りにしてきたことを思い出す。
折りしも11月3日の夜、向田地区に住む農家の三郎助が眠っていると、不思議な夢のお告げを受けた。
そのお告げとは、件の氏神が蛸にまたがり、ようやく島の浜に着いたので、おまえに迎えにきてほしいとのこと。
三郎助が早朝浜へ出かけると、たしかに大きな蛸が流れ着いてうねくっており、頭にご神体を乗せているではないか。
さっそく彼は蛸を海に逃がし、ご神体を家で祀った。
言い伝えでは、氏神が土間のかまどの手洗い場を使ったことにより、三郎助の子孫の中屋家では、かまどで火を焚く男に限り、
ふんどしで腹を温めるなどの不作法は禁じ戒めるという。
のちに祠を建て、氏神をあらためて祀り、毎年11月3日を祭日とした。また10月17日は蛸の飯と称して神職の者が大きな握り飯を作って中屋家に送り、
中屋家ではこれを近隣に分け与える習わしが続けられている。また同家においては蛸の捕獲を禁じ、たとえ他家から分けられることがあっても、
主人はこれを食べることは許されないという。
余談であるが向田地区では過去に何度か火災があり、中屋家の隣まで延焼したことがあるが、同家ではかろうじて一度も被害にあったことがない。
これを蛸神の守護のおかげだと口伝され、今ではこの蛸神は向田地区の鎮火守護神として崇められている。
能登島の蛸祭
http://www.geocities.co.jp/CollegeLife-Labo/6989/TaccoFes...
能登の民話伝説(中能登地区-No.4)
http://www.geocities.co.jp/HeartLand-Ayame/5161/LegendsIn...
FAAVO石川 語り部 in 能登島
https://faavo.jp/ishikawa/report/183/63...
YAHOO知恵袋 アメリカンはなぜタコがキライなんですか?
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1211474723...
食のタブーwikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A3%9F%E3%81%AE%E3%82%...
イカ寄せの伝説が残された島 西ノ島
島根県は隠岐諸島のうち、西側の有人3島及び周辺の無人島により構成された群島を島前(どうぜん)といい、
東側の主島を島後(どうご)と呼ぶことから、対をなしている。
隠岐は遠流(おんる)の島として有名で、元弘2(1332)年、鎌倉幕府打倒計画が失敗し、捕らえられた事件『元弘の変』の際、
後醍醐天皇が西ノ島に流されるも、翌年に島を抜け出し、鎌倉幕府倒幕に成功。別府港の近くには同天皇を祭る黒木神社や資料館・碧風館がある。
どうでもよいことだが、女優・田中美佐子の故郷だそうだ。
また浦郷地区にある由良湾は、昔から冬になると何万とも知れぬスルメイカの大群が押し寄せることから、『イカ寄せの浜』と呼ばれている。
そこにはイカ寄せの伝説なる話まで残されており、なかなか興味をソソられる。
湾に面した由良姫神社の祭神・由良姫様が、その昔、オケに乗り日本海を渡って隠岐に向かう道中であった。
海中から1匹の雄イカが腕をするすると伸ばし、姫様の脚に絡みつきイタズラをした。イカの大将はそのイカを罰し、姫様に詫びを入れて許してもらったという。
以来、毎年この浜へ、イカの群れが謝罪のために集まってくるため、手づかみで捕れるんだとか。全国的に見ても類を見ない、イカにまつわる伝説である。
そもそも、なぜこのような現象が起こるのか。昭和35年ごろに発表された水産研究所の調査結果、単なるイカの交接行動であることが判明。
時として伝説はこのような肩透かしのオチにとどまる……。
イカが押し寄せるのは暖かい穏やかな夜だが、いつイカがやってくるかわからないため、島民は浜に30軒もの番小屋を建てて待ちかまえたらしい。
西ノ島の町誌『西ノ島今昔』によると、『12月から1月にかけて南風の良い凪で片月夜の晩にはよく押し寄せるので「今夜は来るぞ!」とおおよその見当はついた。
こんな晩には浜辺の小屋に数10人が陣取り、また赤ノ江方面からは多いときは30隻ほどの船が湾内を埋め、源平合戦さながらの様相で海と陸からイカを待ち受けた』と、
当時の様子が記されている。
そしてイカの大群がやってくるや、燃やしていた焚火を消し、『イカすくいカゴ』を使って、海中に飛び込んですくい上げたとのこと。
昭和初期から昭和40年代前半にかけては、すくい上げたイカで大もうけして『イカ御殿』を建てた者もいたほど。
とはいえこの大量イカの到来も、昭和40年代後半になると、ほぼ見られなくなる。
最近では平成4年に約1,000匹の群れが押し寄せたという記録がある。それが20年ぶりのことで、今後いつくるのか、島民は首を長くして待っているという。
隠岐広域観光情報提供サイト e-oki.net shimane,JAPAN 由良比女神社(ゆらひめじんじゃ)
http://www.e-oki.net/KankoDetail.aspx?id=1...
島根県 イカ寄せの浜
http://www.pref.shimane.lg.jp/industry/suisan/shinkou/umi_sa...
島根県は隠岐諸島のうち、西側の有人3島及び周辺の無人島により構成された群島を島前(どうぜん)といい、
東側の主島を島後(どうご)と呼ぶことから、対をなしている。
隠岐は遠流(おんる)の島として有名で、元弘2(1332)年、鎌倉幕府打倒計画が失敗し、捕らえられた事件『元弘の変』の際、
後醍醐天皇が西ノ島に流されるも、翌年に島を抜け出し、鎌倉幕府倒幕に成功。別府港の近くには同天皇を祭る黒木神社や資料館・碧風館がある。
どうでもよいことだが、女優・田中美佐子の故郷だそうだ。
また浦郷地区にある由良湾は、昔から冬になると何万とも知れぬスルメイカの大群が押し寄せることから、『イカ寄せの浜』と呼ばれている。
そこにはイカ寄せの伝説なる話まで残されており、なかなか興味をソソられる。
湾に面した由良姫神社の祭神・由良姫様が、その昔、オケに乗り日本海を渡って隠岐に向かう道中であった。
海中から1匹の雄イカが腕をするすると伸ばし、姫様の脚に絡みつきイタズラをした。イカの大将はそのイカを罰し、姫様に詫びを入れて許してもらったという。
以来、毎年この浜へ、イカの群れが謝罪のために集まってくるため、手づかみで捕れるんだとか。全国的に見ても類を見ない、イカにまつわる伝説である。
そもそも、なぜこのような現象が起こるのか。昭和35年ごろに発表された水産研究所の調査結果、単なるイカの交接行動であることが判明。
時として伝説はこのような肩透かしのオチにとどまる……。
イカが押し寄せるのは暖かい穏やかな夜だが、いつイカがやってくるかわからないため、島民は浜に30軒もの番小屋を建てて待ちかまえたらしい。
西ノ島の町誌『西ノ島今昔』によると、『12月から1月にかけて南風の良い凪で片月夜の晩にはよく押し寄せるので「今夜は来るぞ!」とおおよその見当はついた。
こんな晩には浜辺の小屋に数10人が陣取り、また赤ノ江方面からは多いときは30隻ほどの船が湾内を埋め、源平合戦さながらの様相で海と陸からイカを待ち受けた』と、
当時の様子が記されている。
そしてイカの大群がやってくるや、燃やしていた焚火を消し、『イカすくいカゴ』を使って、海中に飛び込んですくい上げたとのこと。
昭和初期から昭和40年代前半にかけては、すくい上げたイカで大もうけして『イカ御殿』を建てた者もいたほど。
とはいえこの大量イカの到来も、昭和40年代後半になると、ほぼ見られなくなる。
最近では平成4年に約1,000匹の群れが押し寄せたという記録がある。それが20年ぶりのことで、今後いつくるのか、島民は首を長くして待っているという。
隠岐広域観光情報提供サイト e-oki.net shimane,JAPAN 由良比女神社(ゆらひめじんじゃ)
http://www.e-oki.net/KankoDetail.aspx?id=1...
島根県 イカ寄せの浜
http://www.pref.shimane.lg.jp/industry/suisan/shinkou/umi_sa...
責任を感じた姥が必死の追跡をするも力尽き……。 姥島(うばしま)
神奈川県茅ヶ崎市の沖合1.6kmのところに広がる大小30個もの岩礁をひっくるめて姥島と呼ぶ。
東西約600m、南北約400mにわたる岩礁群で形成され、なかでもそそり最大の岩礁は高さ14mにも及び、
烏帽子の形をしていることから烏帽子岩と称されている。
昔から絶好の漁場として知られ、茅ヶ崎漁港から渡船で釣りに行くことができる。
その後、太平洋戦争が始まると、辻堂から茅ヶ崎の海岸は米軍による本土攻略の主上陸地点の候補地となった。
終戦を迎えると、海岸沿いの土地は接収。米軍演習場となる。そして朝鮮戦争や日本が東側諸国に占領された場合の奪還を想定し、
上陸作戦の訓練が行われた。
それはともかく、姥島にはこんな伝説が残されている。
昔、鎌倉長谷堂に住む長者に1人娘がいた。ある日、にわかに空が曇ったかと思うと一陣の突風とともに、3mを超える大鷲が飛来。
巨大な爪で娘をさらってしまった……。
娘の姥は責任を感じ、死に物狂いで行方を捜した。その末、沖の岩礁の上で大鷲が娘を寝かせているのを発見する。
姥はこれを救わんと海に飛び込み、岩礁まで泳ごうと努力するも力尽き、波間に姿を消してしまう。それ以来、この島を姥島と呼ぶようになった。
今昔物語に酷似した挿話があり、なんらかの形で伝播したのであろう。
姥島物語り
http://homepage2.nifty.com/_akiyama_/yamada/ebosi-2/monog...
湘南散策
http://members.jcom.home.ne.jp/yoh-suzuki/index.htm...
茅ヶ崎市公式ホームページ えぼし岩あれこれ
http://www.city.chigasaki.kanagawa.jp/kankou/koen/003929.htm...
はまれぽ.com
http://hamarepo.com/story.php?page_no=1&story_id=8...
神奈川県茅ヶ崎市の沖合1.6kmのところに広がる大小30個もの岩礁をひっくるめて姥島と呼ぶ。
東西約600m、南北約400mにわたる岩礁群で形成され、なかでもそそり最大の岩礁は高さ14mにも及び、
烏帽子の形をしていることから烏帽子岩と称されている。
昔から絶好の漁場として知られ、茅ヶ崎漁港から渡船で釣りに行くことができる。
その後、太平洋戦争が始まると、辻堂から茅ヶ崎の海岸は米軍による本土攻略の主上陸地点の候補地となった。
終戦を迎えると、海岸沿いの土地は接収。米軍演習場となる。そして朝鮮戦争や日本が東側諸国に占領された場合の奪還を想定し、
上陸作戦の訓練が行われた。
それはともかく、姥島にはこんな伝説が残されている。
昔、鎌倉長谷堂に住む長者に1人娘がいた。ある日、にわかに空が曇ったかと思うと一陣の突風とともに、3mを超える大鷲が飛来。
巨大な爪で娘をさらってしまった……。
娘の姥は責任を感じ、死に物狂いで行方を捜した。その末、沖の岩礁の上で大鷲が娘を寝かせているのを発見する。
姥はこれを救わんと海に飛び込み、岩礁まで泳ごうと努力するも力尽き、波間に姿を消してしまう。それ以来、この島を姥島と呼ぶようになった。
今昔物語に酷似した挿話があり、なんらかの形で伝播したのであろう。
姥島物語り
http://homepage2.nifty.com/_akiyama_/yamada/ebosi-2/monog...
湘南散策
http://members.jcom.home.ne.jp/yoh-suzuki/index.htm...
茅ヶ崎市公式ホームページ えぼし岩あれこれ
http://www.city.chigasaki.kanagawa.jp/kankou/koen/003929.htm...
はまれぽ.com
http://hamarepo.com/story.php?page_no=1&story_id=8...
佐波賀(さばか)集落を上下に分けるに至った大蛇伝説 蛇島(じゃじま)
京都の舞鶴港といえば、関西の北の玄関口として、また軍港色の強い港として栄えた。
とりわけ東港は明治期より日本海軍の重要港湾としての地位を確立。日露戦争の日本海における海戦時には多くの軍艦がここから出航した。
今回紹介する蛇島はその舞鶴湾の中央部に位置し、鬱蒼たる樹林で覆われ、周囲585m、標高40mの無人島である。
ちなみに蛇島の隣りには仲良く烏島が寄り添っている(※蛇島といえば、>>17の長崎県佐世保市のソレも同名であった)。
島には天正年間(1573〜1592)に若狭の武将逸見駿河守(へんみするがのかみ)の居城が設けられ、『ヘンミ』が『へビ(蛇)』と変遷し、
さらに『ジャ』と発音させてこの島名になったと、『丹後旧語集』に記されている。
蛇島と冠されるならば、大蛇伝説があって然るべきである。案の定、『舞鶴市史』『舞鶴の民話1』には、こんな話が伝えられている。
昔、佐波賀集落が子ナギと呼ばれる谷あいにあった時代のこと。
いつのころからか、港の無人島に大蛇が居ついてからというもの、夜な夜な海を渡ってきては集落を襲い、村人たちを苦しめていた。
困り果てた村人たちは、なんとか被害を食い止めようと額を寄せ合い、知恵をしぼった。
その結果、対岸にある余部(あまるべ)村の雲門寺の和尚・開山普明国師に意見を仰ごうということになった。
和尚いわく、「……ならば谷を境に、村を上下に分けて住むがよろしい。蛇めは日のささぬ谷間を好む習性がある。
子ナギにおびき寄せ、入ったところをとっちめてやるとするか」と、重い腰をあげて、さっそく準備にとりかかった。
ある夜、大蛇が巨体をくねらせて子ナギの村へ侵入したはいいが、そこは完全に無人と化している。大蛇が好む食料とてありはしない。
あきらめて島に帰ろうと身体をひねったら、退路を断つ形で和尚が立ち塞がっている。
「そなたの悪行ここまでじゃ。さんざん村人を苦しめたからには、ちと灸を据えねばなるまい」と言うと、錫杖を振るって大蛇の胴体を打った。
さすがの大蛇も参り、すごすごと退散していった。
「これで懲りてくれればよいが……」と、和尚は島へ去り行く大蛇を見ながら言った。
こんな事件があってから、大蛇は姿を現さなくなり、現在の『上佐波賀』『下佐波賀』に至り、大蛇が棲んでいた島を蛇島と呼ぶようになった。
一説によると、大蛇は雄島(福井県)へ逃げたともいわれる。
丹後の伝説27
http://www.geocities.jp/k_saito_site/bunkn27.htm...
丹後の地名資料編 佐波賀(さばか)京都府舞鶴市佐波賀
http://www.geocities.jp/k_saito_site/doc/tango/sabaka....
丹後の地名資料編 蛇島(じゃじま)京都府舞鶴市佐波賀
http://www.geocities.jp/k_saito_site/doc/tango/jyasima...
舞鶴市民新聞社の運営する舞鶴市近郊ローカルニュースサイトWeb みなと舞鶴 NO.86「蛇島」と「烏島」
http://www.maipress.co.jp/menu/rensai/86.htm...
京都の舞鶴港といえば、関西の北の玄関口として、また軍港色の強い港として栄えた。
とりわけ東港は明治期より日本海軍の重要港湾としての地位を確立。日露戦争の日本海における海戦時には多くの軍艦がここから出航した。
今回紹介する蛇島はその舞鶴湾の中央部に位置し、鬱蒼たる樹林で覆われ、周囲585m、標高40mの無人島である。
ちなみに蛇島の隣りには仲良く烏島が寄り添っている(※蛇島といえば、>>17の長崎県佐世保市のソレも同名であった)。
島には天正年間(1573〜1592)に若狭の武将逸見駿河守(へんみするがのかみ)の居城が設けられ、『ヘンミ』が『へビ(蛇)』と変遷し、
さらに『ジャ』と発音させてこの島名になったと、『丹後旧語集』に記されている。
蛇島と冠されるならば、大蛇伝説があって然るべきである。案の定、『舞鶴市史』『舞鶴の民話1』には、こんな話が伝えられている。
昔、佐波賀集落が子ナギと呼ばれる谷あいにあった時代のこと。
いつのころからか、港の無人島に大蛇が居ついてからというもの、夜な夜な海を渡ってきては集落を襲い、村人たちを苦しめていた。
困り果てた村人たちは、なんとか被害を食い止めようと額を寄せ合い、知恵をしぼった。
その結果、対岸にある余部(あまるべ)村の雲門寺の和尚・開山普明国師に意見を仰ごうということになった。
和尚いわく、「……ならば谷を境に、村を上下に分けて住むがよろしい。蛇めは日のささぬ谷間を好む習性がある。
子ナギにおびき寄せ、入ったところをとっちめてやるとするか」と、重い腰をあげて、さっそく準備にとりかかった。
ある夜、大蛇が巨体をくねらせて子ナギの村へ侵入したはいいが、そこは完全に無人と化している。大蛇が好む食料とてありはしない。
あきらめて島に帰ろうと身体をひねったら、退路を断つ形で和尚が立ち塞がっている。
「そなたの悪行ここまでじゃ。さんざん村人を苦しめたからには、ちと灸を据えねばなるまい」と言うと、錫杖を振るって大蛇の胴体を打った。
さすがの大蛇も参り、すごすごと退散していった。
「これで懲りてくれればよいが……」と、和尚は島へ去り行く大蛇を見ながら言った。
こんな事件があってから、大蛇は姿を現さなくなり、現在の『上佐波賀』『下佐波賀』に至り、大蛇が棲んでいた島を蛇島と呼ぶようになった。
一説によると、大蛇は雄島(福井県)へ逃げたともいわれる。
丹後の伝説27
http://www.geocities.jp/k_saito_site/bunkn27.htm...
丹後の地名資料編 佐波賀(さばか)京都府舞鶴市佐波賀
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丹後の地名資料編 蛇島(じゃじま)京都府舞鶴市佐波賀
http://www.geocities.jp/k_saito_site/doc/tango/jyasima...
舞鶴市民新聞社の運営する舞鶴市近郊ローカルニュースサイトWeb みなと舞鶴 NO.86「蛇島」と「烏島」
http://www.maipress.co.jp/menu/rensai/86.htm...
猪頭を供え奉納する銀鏡神楽(しろみかぐら) 宮崎県西都市銀鏡 1
久々に村ネタを投入。くり返し念を押すが、学術的に興味深い風習や奇祭が継承されるソレをピックアップする。
宮崎県西都市には『銀鏡』と書いて、『しろみ』と読ませる山間部の集落がある。西都原(さいとばる)古墳で知られる西都市の中心地から、
さらに車で1時間ほど米良山に分け入り、一ツ瀬川の支流の銀鏡川と登内川の合流点に位置する。
集落には銀鏡神社があり、ここでは西之宮大明神(懐良親王・主神)などを祭る銀鏡神社例大祭が毎年12月12日から16日にかけて執り行われ、
なかでも最大の見物である『銀鏡神楽』が14日夜から15日の午前中にかけて、33番が夜を徹して舞われるのだ。
宮崎は神楽がいまだに盛んな土地柄で、350ヵ所余りも催される場所があるそうだ。県内の神楽をくまなく見て回ろうとしたら、
なんと50年はかかるとも言われる。
神楽といえば高千穂神楽や椎葉神楽が有名だが、銀鏡神楽では狩猟文化を今に伝えるとして、神社の境内に設けられた神屋(こうや)と呼ばれる祭壇に
地元猟師が奉納した猪の生首(!)を供えることで知られているのだ。
他の神楽が一般受けを狙って変遷していくなか、伝統を失うことは過疎地で『精神の過疎化』を生むとして神屋の飾りつけや、
神楽における足の運び方1つにも頑なに伝統を貫いており、1977年5月17日、国の重要無形民俗文化財に指定されたほど優れた催しなのだ。
神楽の終盤には猪と山の神の遊びであり、古風な狩りの所作事『シシとぎり』などの演目が披露される。
また最終日である16日の朝、集落の中心を流れる銀鏡川の中州に鎮座する神石の前で、1年間に獲った鳥獣の霊を祀り送る『シシバ祭り』が行われる。
奉納された猪頭を火で焼き、左耳を7切りにして竹串にさして供えるという。これはその年の作物の収穫祭であるとともに、冬の狩りの始まりを告げる意味がある。
例祭の幟旗には菊の御紋が描かれているのは、南北朝時代、肥後の豪族の菊池氏は南朝方に頼られるも敗れて一門は散り散りになった際、
菊池一族の誰かが銀鏡に逃れ、姓を変えて潜んだらしく、その南朝方と菊池氏を象徴するものなのだ。
銀鏡神楽は優雅な京の舞と、イワナガヒメの日向神話にまつわる土着の舞が融合して発達したとされる。
祭壇に供えられた猪頭は、神楽が終わるまでに解体され、その肉はシシズーシー(猪雑炊)として見物客にも振舞われる。
猪は田畑を荒らす害獣だが、一方で山の民にとって貴重なタンパク源でもあった。銀鏡神楽の本来の目的は山の幸を恵んでくれる山の神に
畏敬の念をもって舞い奉納し、さらなる恵みを願うというわけである。
この奉納される猪頭は、決して生贄という位置づけではなく、『御神格』という意味なのだ。
神道における例祭では時として、この平成の世ですら血なまぐさいものが現存する。銀鏡神社の場合、数十頭にも及ぶ猪頭が血を滴らせ供えられている光景は、
かなりインパクトがあり、現代人なら暴力的で野蛮ともとれるかもしれない。
なにも銀鏡だけが特別ではない。千葉の香取神社で行われる大饗祭には、聖護院大根の上に鴨を飛び立つ姿に飾りつけた『鴨羽盛(かもはもり)』が供えられる。
下準備は神職たちが手を血で染めながら鴨を解体するのだが、骨を砕く際のバキバキッという音が部屋に響きわたるほど。
または信州諏訪上社の前宮では、毎年4月15日に『御頭祭(おんとうさい)』という神事がある。
今でこそ剥製の鹿頭を用いているが、かつては祭殿に各地から奉納された75頭もの鹿の生首がズラリと並べられたのだ。
詳細は下記サイトで。
久々に村ネタを投入。くり返し念を押すが、学術的に興味深い風習や奇祭が継承されるソレをピックアップする。
宮崎県西都市には『銀鏡』と書いて、『しろみ』と読ませる山間部の集落がある。西都原(さいとばる)古墳で知られる西都市の中心地から、
さらに車で1時間ほど米良山に分け入り、一ツ瀬川の支流の銀鏡川と登内川の合流点に位置する。
集落には銀鏡神社があり、ここでは西之宮大明神(懐良親王・主神)などを祭る銀鏡神社例大祭が毎年12月12日から16日にかけて執り行われ、
なかでも最大の見物である『銀鏡神楽』が14日夜から15日の午前中にかけて、33番が夜を徹して舞われるのだ。
宮崎は神楽がいまだに盛んな土地柄で、350ヵ所余りも催される場所があるそうだ。県内の神楽をくまなく見て回ろうとしたら、
なんと50年はかかるとも言われる。
神楽といえば高千穂神楽や椎葉神楽が有名だが、銀鏡神楽では狩猟文化を今に伝えるとして、神社の境内に設けられた神屋(こうや)と呼ばれる祭壇に
地元猟師が奉納した猪の生首(!)を供えることで知られているのだ。
他の神楽が一般受けを狙って変遷していくなか、伝統を失うことは過疎地で『精神の過疎化』を生むとして神屋の飾りつけや、
神楽における足の運び方1つにも頑なに伝統を貫いており、1977年5月17日、国の重要無形民俗文化財に指定されたほど優れた催しなのだ。
神楽の終盤には猪と山の神の遊びであり、古風な狩りの所作事『シシとぎり』などの演目が披露される。
また最終日である16日の朝、集落の中心を流れる銀鏡川の中州に鎮座する神石の前で、1年間に獲った鳥獣の霊を祀り送る『シシバ祭り』が行われる。
奉納された猪頭を火で焼き、左耳を7切りにして竹串にさして供えるという。これはその年の作物の収穫祭であるとともに、冬の狩りの始まりを告げる意味がある。
例祭の幟旗には菊の御紋が描かれているのは、南北朝時代、肥後の豪族の菊池氏は南朝方に頼られるも敗れて一門は散り散りになった際、
菊池一族の誰かが銀鏡に逃れ、姓を変えて潜んだらしく、その南朝方と菊池氏を象徴するものなのだ。
銀鏡神楽は優雅な京の舞と、イワナガヒメの日向神話にまつわる土着の舞が融合して発達したとされる。
祭壇に供えられた猪頭は、神楽が終わるまでに解体され、その肉はシシズーシー(猪雑炊)として見物客にも振舞われる。
猪は田畑を荒らす害獣だが、一方で山の民にとって貴重なタンパク源でもあった。銀鏡神楽の本来の目的は山の幸を恵んでくれる山の神に
畏敬の念をもって舞い奉納し、さらなる恵みを願うというわけである。
この奉納される猪頭は、決して生贄という位置づけではなく、『御神格』という意味なのだ。
神道における例祭では時として、この平成の世ですら血なまぐさいものが現存する。銀鏡神社の場合、数十頭にも及ぶ猪頭が血を滴らせ供えられている光景は、
かなりインパクトがあり、現代人なら暴力的で野蛮ともとれるかもしれない。
なにも銀鏡だけが特別ではない。千葉の香取神社で行われる大饗祭には、聖護院大根の上に鴨を飛び立つ姿に飾りつけた『鴨羽盛(かもはもり)』が供えられる。
下準備は神職たちが手を血で染めながら鴨を解体するのだが、骨を砕く際のバキバキッという音が部屋に響きわたるほど。
または信州諏訪上社の前宮では、毎年4月15日に『御頭祭(おんとうさい)』という神事がある。
今でこそ剥製の鹿頭を用いているが、かつては祭殿に各地から奉納された75頭もの鹿の生首がズラリと並べられたのだ。
詳細は下記サイトで。
猪頭を供え奉納する銀鏡神楽(しろみかぐら) 宮崎県西都市銀鏡 2
元気な集落づくりみやざき 銀鏡(しろみ)・上揚(かみあげ)地区
http://www.chusankan.net/genki/saito...
宮崎の神楽2 米良神楽(銀鏡神楽・しろみかぐら)の写真
http://kagura2.hujibakama.com/siromi...
独立行政法人 日本芸術文化振興会 平成23年6月民俗芸能公演「銀鏡神楽」現地レポート
http://www.ntj.jac.go.jp/member/pertopics/eve110331_2.h...
アジア基層文化研究会 - The reports of Asian Basic Culture 銀鏡神楽
http://www.flet.keio.ac.jp/‾shnomura/siromi/siromi0.htm
インターネット空想の森美術館 森の空想ミュージアム/九州民俗仮美術館 宮崎の神楽を語る
http://www2.ocn.ne.jp/‾yufuin/kagurakou.html
浜砂伴海の《伴海日記》 銀鏡神楽
http://blog.goo.ne.jp/tokyoctv/c/e8edcb60ec697e41f13...
浜砂伴海の《伴海日記》 宮崎(2012/04/16)宿神三宝稲荷神社
http://blog.goo.ne.jp/tokyoctv/e/b7771e2172ab6e05399...
宮崎の神楽 宮崎県に伝承される神楽(一部を掲載)
http://www.pmiyazaki.com/db/kagura.ht...
イワナガヒメwikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%83%AF%E3%83%...
民族学伝承ひろいあげ辞典 鴨羽盛・舞鶴の捌き
http://blogs.yahoo.co.jp/kawakatu_1205/53335540.htm...
諏訪大社と諏訪神社 御頭祭(酉の祭)
http://yatsu-genjin.jp/suwataisya/sinji/ontou.ht...
元気な集落づくりみやざき 銀鏡(しろみ)・上揚(かみあげ)地区
http://www.chusankan.net/genki/saito...
宮崎の神楽2 米良神楽(銀鏡神楽・しろみかぐら)の写真
http://kagura2.hujibakama.com/siromi...
独立行政法人 日本芸術文化振興会 平成23年6月民俗芸能公演「銀鏡神楽」現地レポート
http://www.ntj.jac.go.jp/member/pertopics/eve110331_2.h...
アジア基層文化研究会 - The reports of Asian Basic Culture 銀鏡神楽
http://www.flet.keio.ac.jp/‾shnomura/siromi/siromi0.htm
インターネット空想の森美術館 森の空想ミュージアム/九州民俗仮美術館 宮崎の神楽を語る
http://www2.ocn.ne.jp/‾yufuin/kagurakou.html
浜砂伴海の《伴海日記》 銀鏡神楽
http://blog.goo.ne.jp/tokyoctv/c/e8edcb60ec697e41f13...
浜砂伴海の《伴海日記》 宮崎(2012/04/16)宿神三宝稲荷神社
http://blog.goo.ne.jp/tokyoctv/e/b7771e2172ab6e05399...
宮崎の神楽 宮崎県に伝承される神楽(一部を掲載)
http://www.pmiyazaki.com/db/kagura.ht...
イワナガヒメwikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%83%AF%E3%83%...
民族学伝承ひろいあげ辞典 鴨羽盛・舞鶴の捌き
http://blogs.yahoo.co.jp/kawakatu_1205/53335540.htm...
諏訪大社と諏訪神社 御頭祭(酉の祭)
http://yatsu-genjin.jp/suwataisya/sinji/ontou.ht...
「もののけ姫」の関連テーマを考える 「業病」ことハンセン病について
http://www.asahi-net.or.jp/‾hn7y-mur/mononoke/monolink04.htm#book1
「緑」がつく地名は危険?地名に隠された自然災害の危険性
http://matome.naver.jp/odai/213320531025766540...
坂本馨の組長と呼ばれる愛隣保育園長 本当は怖い無人島の話・・・血塚島
http://blog.livedoor.jp/airin5/archives/66156150.htm...
http://www.asahi-net.or.jp/‾hn7y-mur/mononoke/monolink04.htm#book1
「緑」がつく地名は危険?地名に隠された自然災害の危険性
http://matome.naver.jp/odai/213320531025766540...
坂本馨の組長と呼ばれる愛隣保育園長 本当は怖い無人島の話・・・血塚島
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源哲宰-iha 宮古島の大神島
http://takenoya.blogspot.jp/2008/06/blog-post_799.htm...
ある旅人の〇〇な日々 大神島
http://blog.goo.ne.jp/gooeichan/e/4db07970b5886dbe30...
NPO法人エコロジーカフェ 宮古島視察レポート
http://ecology-cafe.sblo.jp/article/40164585.htm...
河村只雄
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B2%B3%E6%9D%91%E5%8F%...
源哲宰-iha 宮古島の大神島
http://takenoya.blogspot.jp/2008/06/blog-post_799.htm...
ある旅人の〇〇な日々 大神島
http://blog.goo.ne.jp/gooeichan/e/4db07970b5886dbe30...
NPO法人エコロジーカフェ 宮古島視察レポート
http://ecology-cafe.sblo.jp/article/40164585.htm...
河村只雄
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伊豆諸島の大蛇伝説はヤマタノオロチ伝説に酷似 三宅島
三宅島は、近年ではおよそ20年おきの火山噴火により、島民は避難したり、帰島したりと忙しない生活を強いられている。
平成12(2000)年、7月の噴火では全島民が避難してから、平成17年2月1日に帰島できるまでの4年半の間、
関係者以外立ち入ることのできない無人の島になっていたが、現在ではなんとか観光客も自由に出入りできるようになった。
しかしながら依然として雄山では火山ガスの放出が続いており、入島時はガスマスクの携帯が義務づけられているほど。
そんな三宅島にもヤマタノオロチ伝説にも酷似した大蛇伝説が語り継がれていた。それがこんなお話。
昔、箱根の芦ノ湖の畔に年老いた漁夫が住んでいた。この漁夫には3人の娘がおり、ある日、あまりに不漁だったので、
ほんの戯言のつもりで、大漁にしてくれたら娘を1人くれてやってもよい、と独り言を呟いてしまう。
それを湖底のヌシである大蛇が聞きつけ、姿を現した。戯言とはいえ、大蛇は三女、『佐岐多麻の姫』を嫁にくれるよう約束させる。
約束の日、三女は鳩の姿にかえて富士山頂へ逃げ、ここで事代主命に出会い、事情を話し助けてもらう。
残った2人の娘は大島・三宅島へと飛び、王子や家来を集めさせ、追ってくる大蛇を迎え討つべく、大穴を2つ掘り、そこへ飯と酒で満たした。
さらに火之迦土命に命じて霊剣を鍛えさせ、これを差出命に託し、大蛇の来襲を待った。
泳いでやってきた大蛇に、大穴に満たした飯と酒を勧めると、いやしくも大蛇は大口をあけて飲み食いした挙句、ぐっすり眠ってしまった。
これ幸いと、差出命が霊剣を抜き放つと、大蛇の白い腹を切り裂いてあっさり退治。
大蛇の血が流れたところを『血走りの原』と呼ぶそうだ。また大蛇を3つに分断させた際、尾は大島に飛び、頭は遙か八丈島へ放物線を描いて飛び去った。
それゆえ八丈島にはマムシが多く、大島にはアオダイショウばかりだという。
大蛇討伐後、事代主命がいくら探しても三女を見つけることができなかった。小蛇を恐れてツツジの中に隠れていたのだ。
それで神はこの島のツツジは花を咲かせないように、蛇は棲むな、と命じた。今も三宅島に蛇を持ち込んでも1時間もせずに死んでしまうという言い伝えがある。
三女は現在も佐伎多麻比売として祀られ、ここに霊剣も奉納されている。
三宅村役場
http://www.miyakemura.com/databankrekisi.htm...
龍学 伊豆諸島の竜蛇
http://www.hunterslog.net/dragonology/ryujatan/sagami/iz...
伊豆諸島の大蛇伝説(一) 東京都三宅村
http://www.hunterslog.net/dragonology/S/13381a.htm...
三宅島は、近年ではおよそ20年おきの火山噴火により、島民は避難したり、帰島したりと忙しない生活を強いられている。
平成12(2000)年、7月の噴火では全島民が避難してから、平成17年2月1日に帰島できるまでの4年半の間、
関係者以外立ち入ることのできない無人の島になっていたが、現在ではなんとか観光客も自由に出入りできるようになった。
しかしながら依然として雄山では火山ガスの放出が続いており、入島時はガスマスクの携帯が義務づけられているほど。
そんな三宅島にもヤマタノオロチ伝説にも酷似した大蛇伝説が語り継がれていた。それがこんなお話。
昔、箱根の芦ノ湖の畔に年老いた漁夫が住んでいた。この漁夫には3人の娘がおり、ある日、あまりに不漁だったので、
ほんの戯言のつもりで、大漁にしてくれたら娘を1人くれてやってもよい、と独り言を呟いてしまう。
それを湖底のヌシである大蛇が聞きつけ、姿を現した。戯言とはいえ、大蛇は三女、『佐岐多麻の姫』を嫁にくれるよう約束させる。
約束の日、三女は鳩の姿にかえて富士山頂へ逃げ、ここで事代主命に出会い、事情を話し助けてもらう。
残った2人の娘は大島・三宅島へと飛び、王子や家来を集めさせ、追ってくる大蛇を迎え討つべく、大穴を2つ掘り、そこへ飯と酒で満たした。
さらに火之迦土命に命じて霊剣を鍛えさせ、これを差出命に託し、大蛇の来襲を待った。
泳いでやってきた大蛇に、大穴に満たした飯と酒を勧めると、いやしくも大蛇は大口をあけて飲み食いした挙句、ぐっすり眠ってしまった。
これ幸いと、差出命が霊剣を抜き放つと、大蛇の白い腹を切り裂いてあっさり退治。
大蛇の血が流れたところを『血走りの原』と呼ぶそうだ。また大蛇を3つに分断させた際、尾は大島に飛び、頭は遙か八丈島へ放物線を描いて飛び去った。
それゆえ八丈島にはマムシが多く、大島にはアオダイショウばかりだという。
大蛇討伐後、事代主命がいくら探しても三女を見つけることができなかった。小蛇を恐れてツツジの中に隠れていたのだ。
それで神はこの島のツツジは花を咲かせないように、蛇は棲むな、と命じた。今も三宅島に蛇を持ち込んでも1時間もせずに死んでしまうという言い伝えがある。
三女は現在も佐伎多麻比売として祀られ、ここに霊剣も奉納されている。
三宅村役場
http://www.miyakemura.com/databankrekisi.htm...
龍学 伊豆諸島の竜蛇
http://www.hunterslog.net/dragonology/ryujatan/sagami/iz...
伊豆諸島の大蛇伝説(一) 東京都三宅村
http://www.hunterslog.net/dragonology/S/13381a.htm...
お久しぶりです
>>128
PC壊してしまい、しばらくお休みしてました。さすがにケータイで長文打とうとは思わないw
まあなんにせよ、すでにネタ切れのままダラダラ続けているだけですから、あんまり期待しないでください。
またしても置き去り伝説・玉姫の受難 母島(もしま)のそばの姫島
高知県宿毛市沖の島町母島は宿毛湾の入り口、太平洋上の沖の島の北部に位置する有人島である。
標高404mの妹背山(いもせやま)を中心に、高い山並が海岸線まで迫り、数百年に及ぶ大事業によって積まれた石段の上に民家がひしめいている。
その景観は2009年に鵜来島(>>65を参照)とともに『石垣・石段とともにある暮らし』で『島の宝100景』に選出されている。
集落は北側の母島地区と、南側の弘瀬地区を中心に古屋野、谷尻、久保浦などの小集落が点在。
その母島には元久2(1205)年に鎌倉から訪れた山伏が住み着いたという伝説や、弘瀬には咎(とが)を受け鎌倉を追放された三浦則久一族が
この島に移り住んだという話が伝わっている。
集落の上にはコンクリ製の建造物が建てられており、道路の下に大穴があいている。これは太平洋戦争末期に開発された人間魚雷・回天基地の遺構らしい。
それとは別に、母島にはまたしても置き去り伝説が残されていた。すでに辟易ぎみだが、いっそのこと、コンプリートを目指そう。
その昔、母島の男が京にのぼって暮らすうち、高貴な出の姫君と深い仲になった。姫の名を玉姫といい、まるで輝く珠のように美しい娘だった。
あるとき、男は母島へ帰らねばならなくなった。玉姫との別れが惜しく一緒に帰ることにしたのだが、ご多分に漏れず男には郷里に妻も子もいた。
えげつないことに、男は船が母島の近くまできたとき、その事実を打ち明けた。玉姫がヒステリーに駆られるのは必定。
男は平謝りし、なんとか宥め、すぐに迎えにくるからと言いくるめて、むごいことにシクシク泣く姫を、母島より沖にある名もなき無人島に置き去りにして、
自分だけ帰ってしまった。
男が母島に帰ってみると、妻や親族につかまり離してくれない。約束どおり、早く玉姫を救いたいのはヤマヤマなのだが、日は3、4日とすぎてしまう。
やっとのことで玉姫の待つ無人島へ船を走らせたのだが、時すでにお寿司。
玉姫は荒磯の上で、孤独死していた。その磯から母島は目と鼻の先なのに、思いが届くには遠すぎた。
島民は姫を哀れに思い、姫の名を冠してこの島を『姫島』と呼ぶようになった。
宿毛市沖ノ島町母島の町並み 沖ノ島町母島
http://matinami.o.oo7.jp/sikoku/sukumo-okinosima-mosima...
田舎旅゛イナ旅゛ライフスタイル day 50.4 高知県 鎌倉とつながっている石造りの『沖の島』
http://iku203.blogspot.jp/2010/12/day-504.htm...
沖の島 母島(もしま)
http://outdoor.geocities.jp/ksjjr840/okinosima-mosima.htm...
宿毛市 宿毛歴史館/宿毛の民話 恋に死した玉姫
http://www.city.sukumo.kochi.jp/sbc/history/minnwa/m021.htm...
PC壊してしまい、しばらくお休みしてました。さすがにケータイで長文打とうとは思わないw
まあなんにせよ、すでにネタ切れのままダラダラ続けているだけですから、あんまり期待しないでください。
またしても置き去り伝説・玉姫の受難 母島(もしま)のそばの姫島
高知県宿毛市沖の島町母島は宿毛湾の入り口、太平洋上の沖の島の北部に位置する有人島である。
標高404mの妹背山(いもせやま)を中心に、高い山並が海岸線まで迫り、数百年に及ぶ大事業によって積まれた石段の上に民家がひしめいている。
その景観は2009年に鵜来島(>>65を参照)とともに『石垣・石段とともにある暮らし』で『島の宝100景』に選出されている。
集落は北側の母島地区と、南側の弘瀬地区を中心に古屋野、谷尻、久保浦などの小集落が点在。
その母島には元久2(1205)年に鎌倉から訪れた山伏が住み着いたという伝説や、弘瀬には咎(とが)を受け鎌倉を追放された三浦則久一族が
この島に移り住んだという話が伝わっている。
集落の上にはコンクリ製の建造物が建てられており、道路の下に大穴があいている。これは太平洋戦争末期に開発された人間魚雷・回天基地の遺構らしい。
それとは別に、母島にはまたしても置き去り伝説が残されていた。すでに辟易ぎみだが、いっそのこと、コンプリートを目指そう。
その昔、母島の男が京にのぼって暮らすうち、高貴な出の姫君と深い仲になった。姫の名を玉姫といい、まるで輝く珠のように美しい娘だった。
あるとき、男は母島へ帰らねばならなくなった。玉姫との別れが惜しく一緒に帰ることにしたのだが、ご多分に漏れず男には郷里に妻も子もいた。
えげつないことに、男は船が母島の近くまできたとき、その事実を打ち明けた。玉姫がヒステリーに駆られるのは必定。
男は平謝りし、なんとか宥め、すぐに迎えにくるからと言いくるめて、むごいことにシクシク泣く姫を、母島より沖にある名もなき無人島に置き去りにして、
自分だけ帰ってしまった。
男が母島に帰ってみると、妻や親族につかまり離してくれない。約束どおり、早く玉姫を救いたいのはヤマヤマなのだが、日は3、4日とすぎてしまう。
やっとのことで玉姫の待つ無人島へ船を走らせたのだが、時すでにお寿司。
玉姫は荒磯の上で、孤独死していた。その磯から母島は目と鼻の先なのに、思いが届くには遠すぎた。
島民は姫を哀れに思い、姫の名を冠してこの島を『姫島』と呼ぶようになった。
宿毛市沖ノ島町母島の町並み 沖ノ島町母島
http://matinami.o.oo7.jp/sikoku/sukumo-okinosima-mosima...
田舎旅゛イナ旅゛ライフスタイル day 50.4 高知県 鎌倉とつながっている石造りの『沖の島』
http://iku203.blogspot.jp/2010/12/day-504.htm...
沖の島 母島(もしま)
http://outdoor.geocities.jp/ksjjr840/okinosima-mosima.htm...
宿毛市 宿毛歴史館/宿毛の民話 恋に死した玉姫
http://www.city.sukumo.kochi.jp/sbc/history/minnwa/m021.htm...
三宅村指定有形文化財(絵画・彫刻・工芸品)御笏神社御刀
http://okachan.blue.coocan.jp/bunkazai/0121/0121.htm...
東京都指定無形民俗文化財(民俗芸能) 御祭神社の神事
http://okachan.blue.coocan.jp/bunkazai/0126/0126.htm...
伊豆諸島の大蛇伝説(二)東京都三宅村坪田
http://www.hunterslog.net/dragonology/S/13381b.htm...
http://okachan.blue.coocan.jp/bunkazai/0121/0121.htm...
東京都指定無形民俗文化財(民俗芸能) 御祭神社の神事
http://okachan.blue.coocan.jp/bunkazai/0126/0126.htm...
伊豆諸島の大蛇伝説(二)東京都三宅村坪田
http://www.hunterslog.net/dragonology/S/13381b.htm...
谷間でうごめく亡者 倉橋島
広島県呉市の倉橋島は、瀬戸内海の芸予諸島に属する島の1つ。
音戸大橋は本州と、早瀬大橋は江田島市、そして鹿島大橋は鹿島と行き来できるが、これは車での交通ルートとして利用される。
徒歩で渡るには、海峡の渡船を利用するのが好ましい。音戸渡船は航路がわずか100mほどしかないことから、
『日本一短い定期船』というキャッチフレーズで、毎朝5時半から夜の9時まで随時運航している。
また古来より造船が盛んな土地柄で、とりわけ倉橋島には多くの船大工がいたとされ、この島で遣唐使船が造られた可能性が高いという。
話変わるが、倉橋島には不気味な民話が語り継がれている。それがこんな話だったりして……。
昔、渡子島(とのこじま)の村はずれの丘には、粗末なお寺があり、年老いた和尚が管理していた。
寺の裏手は竹藪が茂って急な谷間となり、わずかながら水が流れていた。
谷間の間には細い坂道が続いており、夜半、村人が通ると決まって、「ギャギャッ!」と、人や獣ともつかぬ声が聞こえたものだ。
それゆえ村人は気味悪がって、その道を避けるようになった。
ある朝、寺での説教が済んだあと、村の者が、このことを和尚に告げた。あの調子では、谷間を通るのも怖くてかなわない。
和尚は思うところがあり、亡くなった人たちの供養になればと、長い経を唱えるのを日課とした。
月日が経って、雷が轟き大雨が降りしきるある夜。裏の谷間ではたいへんな騒ぎとなっていた。
あばら骨がむき出し、骸骨のように痩せ細った裸の人間たちが、ひしめきながら何かを食いあさり、耳を覆いたくなるような奇声をあげていた。
これは寺の人が食べ残した飯粒が谷間に流れ出たのを、我先にと争って拾いおうとしている餓鬼の姿だったのだ。
ところが餓鬼が食べ物に手をつけようとすると、たちまち炎がついて燃えあがり、うかつに手が出せない。
飢えて、食べたくても口にすることができない、あさましい者たちの悶々たる悲鳴であった。
たちまち寝床から飛び起きた和尚であったが、外を見れば、そんなおぞましい光景はない。なんてことはない、和尚の悪夢だったのだ。
和尚はこの夢に、意味があるのではないか、と考えてみた。
人が生きていくには、動植物の命をいただいているからであり、それによって生かされているのだ。
にもかかわらず、食べ物を残したり、粗末にしては、ろくに感謝もしないから、亡くなるとああして餓鬼道に堕ちて、苦しんでいる者がいるに違いない。
和尚は熱心に供養するよう努めた。法話の中でも、我々の口に入るもののありがたさを強調し、日々感謝の念を忘れないよう、村人に説いた。
やがて谷間にこだまする餓鬼のうめき声も聞こえなくなったという。
JR西日本Blue Signal 西日本の万葉の旅 海の廊下を渡る
https://www.westjr.co.jp/company/issue/bsignal/10_vol_1...
呉の民話 谷間の声
http://homepage2.nifty.com/buchaneko/kure/minwa/taninokoe...
広島県呉市の倉橋島は、瀬戸内海の芸予諸島に属する島の1つ。
音戸大橋は本州と、早瀬大橋は江田島市、そして鹿島大橋は鹿島と行き来できるが、これは車での交通ルートとして利用される。
徒歩で渡るには、海峡の渡船を利用するのが好ましい。音戸渡船は航路がわずか100mほどしかないことから、
『日本一短い定期船』というキャッチフレーズで、毎朝5時半から夜の9時まで随時運航している。
また古来より造船が盛んな土地柄で、とりわけ倉橋島には多くの船大工がいたとされ、この島で遣唐使船が造られた可能性が高いという。
話変わるが、倉橋島には不気味な民話が語り継がれている。それがこんな話だったりして……。
昔、渡子島(とのこじま)の村はずれの丘には、粗末なお寺があり、年老いた和尚が管理していた。
寺の裏手は竹藪が茂って急な谷間となり、わずかながら水が流れていた。
谷間の間には細い坂道が続いており、夜半、村人が通ると決まって、「ギャギャッ!」と、人や獣ともつかぬ声が聞こえたものだ。
それゆえ村人は気味悪がって、その道を避けるようになった。
ある朝、寺での説教が済んだあと、村の者が、このことを和尚に告げた。あの調子では、谷間を通るのも怖くてかなわない。
和尚は思うところがあり、亡くなった人たちの供養になればと、長い経を唱えるのを日課とした。
月日が経って、雷が轟き大雨が降りしきるある夜。裏の谷間ではたいへんな騒ぎとなっていた。
あばら骨がむき出し、骸骨のように痩せ細った裸の人間たちが、ひしめきながら何かを食いあさり、耳を覆いたくなるような奇声をあげていた。
これは寺の人が食べ残した飯粒が谷間に流れ出たのを、我先にと争って拾いおうとしている餓鬼の姿だったのだ。
ところが餓鬼が食べ物に手をつけようとすると、たちまち炎がついて燃えあがり、うかつに手が出せない。
飢えて、食べたくても口にすることができない、あさましい者たちの悶々たる悲鳴であった。
たちまち寝床から飛び起きた和尚であったが、外を見れば、そんなおぞましい光景はない。なんてことはない、和尚の悪夢だったのだ。
和尚はこの夢に、意味があるのではないか、と考えてみた。
人が生きていくには、動植物の命をいただいているからであり、それによって生かされているのだ。
にもかかわらず、食べ物を残したり、粗末にしては、ろくに感謝もしないから、亡くなるとああして餓鬼道に堕ちて、苦しんでいる者がいるに違いない。
和尚は熱心に供養するよう努めた。法話の中でも、我々の口に入るもののありがたさを強調し、日々感謝の念を忘れないよう、村人に説いた。
やがて谷間にこだまする餓鬼のうめき声も聞こえなくなったという。
JR西日本Blue Signal 西日本の万葉の旅 海の廊下を渡る
https://www.westjr.co.jp/company/issue/bsignal/10_vol_1...
呉の民話 谷間の声
http://homepage2.nifty.com/buchaneko/kure/minwa/taninokoe...
徳之島伝説めぐり
http://www16.ocn.ne.jp/‾shiokaze/index.html
http://www16.ocn.ne.jp/‾shiokaze/index.html
六部が追いつめられ斬り殺されて転落した穴 紀伊大島
前スレ>>225にて、和歌山県は串本町の橋杭岩を取り上げた。
その沖合約1.8kmの海上には、面積およそ9.68km2、周囲28kmを誇る和歌山最大の島、紀伊大島(地元の人は単に大島と呼ぶ)があり、
土日ともなれば釣りやダイビングで賑わうことで有名だ。人口は約2,000人。和歌山で唯一の離島振興対策実施地域に指定されている。
また、世界初のクロマグロの完全養殖に成功した近畿大学の養殖実験所があることでも一躍有名になった。
その紀伊大島須江地区の海岸の森の中には、『地獄のガバ(釜)』なる巨大な縦穴がぽっかり口を開けているのだ。
上部口の直径約70m、深さ約40mにも及び、火成岩からなる海食洞窟の天井が崩落したものと考えられており、底部は海と繋がっているため、
満潮時や高波のときには海水が入ってくるようだ。
ここでは昔、どんな理由があってか定かでないが、六部(六十六カ国の霊場にお経を納めて廻る行者)が2人の武士に追いかけられ、
このガバの淵まで追いつめられて斬り殺された挙句、穴の底に転落したという悲惨な伝説が残されている。
きのくに風景讃歌 地獄のガバ
http://www.kinokuni-sanka.jp/modules/landscape/index.php?li...
『ほっと!和歌山県』 〜和歌山県広報リレーブログ〜 ジオパーク目指して、『地獄の釜』の大掃除【串本町】
http://wakayamapr.ikora.tv/e966172.htm...
前スレ>>225にて、和歌山県は串本町の橋杭岩を取り上げた。
その沖合約1.8kmの海上には、面積およそ9.68km2、周囲28kmを誇る和歌山最大の島、紀伊大島(地元の人は単に大島と呼ぶ)があり、
土日ともなれば釣りやダイビングで賑わうことで有名だ。人口は約2,000人。和歌山で唯一の離島振興対策実施地域に指定されている。
また、世界初のクロマグロの完全養殖に成功した近畿大学の養殖実験所があることでも一躍有名になった。
その紀伊大島須江地区の海岸の森の中には、『地獄のガバ(釜)』なる巨大な縦穴がぽっかり口を開けているのだ。
上部口の直径約70m、深さ約40mにも及び、火成岩からなる海食洞窟の天井が崩落したものと考えられており、底部は海と繋がっているため、
満潮時や高波のときには海水が入ってくるようだ。
ここでは昔、どんな理由があってか定かでないが、六部(六十六カ国の霊場にお経を納めて廻る行者)が2人の武士に追いかけられ、
このガバの淵まで追いつめられて斬り殺された挙句、穴の底に転落したという悲惨な伝説が残されている。
きのくに風景讃歌 地獄のガバ
http://www.kinokuni-sanka.jp/modules/landscape/index.php?li...
『ほっと!和歌山県』 〜和歌山県広報リレーブログ〜 ジオパーク目指して、『地獄の釜』の大掃除【串本町】
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隠れキリシタンの処刑の島にして聖地 中江ノ島
長崎県平戸市に属する中江ノ島は、平戸島北西岸の沖合2kmに浮かぶちっぽけな無人島だ。
中江ノ島では禁教時代初期に平戸藩によるキリシタン処刑が行われた記録があり、また現在の生月の隠れキリシタンにとって
聖水を採取する『お水取り』の聖地として『サンジュワン様』などと形容されている。
慶長18(1613)年、徳川幕府が全国に禁教令を出し、翌年キリシタンは国外追放となるが、その後何人もの宣教師が国内への潜入と布教を開始。
カミロ・コンスタンツォ神父もその1人で、元和8(1622)年に平戸・生月で布教を行ったのち、五島に渡ったところで五島藩の役人に捕らえられ、
9月15日、平戸瀬戸に面した田平側の岬で火あぶりの刑に処された。
神父は柱に縛りつけられながらも日本語、ポルトガル語、フランドル語で説教し、火がつけられても説教をやめず、聖歌を唄いながら絶命。
このカミロ神父の布教に協力した多くの信徒も処刑されたが、その多くは生月出身者だった。
神父を泊めたヨハネ坂本左衛門と、船を用意したダミヤン出口は、翌年5月27日にこの中江ノ島で処刑されたが、
ダミヤンなど船中で漕ぎ手を手伝い、賛美歌を唄いながら櫓を漕いだという。
また6月3日には船頭で堺目出身のヨアキム川窪庫兵衛が、6月8日にはヨハネ次郎右衛門が同島で処刑された。
次郎右衛門は棄教の印に異教の札を呑むことを拒み、中江ノ島に渡る船の中で「ここから天国は、そう遠くない」と発言した。
さらに寛永元(1624)年3月5日には、ダミヤン出口とヨハネ坂本の家族たちが、中江ノ島の『地獄』という場所で殺されたが、
坂本の年長の子供たち3人は一緒に昇天できるよう、俵につめられた状態で縛ってもらい、首に袋を被せられて海に投げ込まれた。
隠れキリシタン信仰の中でも中江ノ島は、上述した『サンジュワン様』の他に、『お中江様』『お迎え様』『御三体様』と呼ばれ、
御神体に匹敵する最高の信仰対象とされ、聖水を取る『お水取り』の行事が行われている。
島の断崖には岩の割れ目があり、オラショを唱えると、乾燥したときでも水が染み出てくるとされている。それを聖水として使うわけである。
平戸市生月町博物館『島の館』の資料によれば、昭和初期、『黒瀬の辻』と呼ばれる丘の上に 『ガルパス様の松』なる大松が生えていたという。
その根元には古い積石墓があり、これこそガスパル様の墓と言われ、隠れキリシタンにとって特別な場所となっていた。
松は戦後の松枯れで倒れたが、信徒はそれを材料に十字架を作り配布。『黒瀬』は十字架、クルスの訛りからきており、
かつてそこには大十字架が立っていたことから由来するのではないか、とする説もある。
長崎から世界遺産を 長崎の教会群とキリスト教関連遺産 長崎のキリスト教の歴史
https://www.pref.nagasaki.jp/s_isan/outline/02.htm...
74. 生月島と平戸の観光
http://www.asahi-net.or.jp/‾rk7j-kndu/bijutu/bi74.html
「知られざるキリシタン王国、光と影。」 第8話 聖地として語り継がれた地
http://christian-nagasaki.jp/stories/8.htm...
オセンタルカの太陽帝国 『さん・じゅあん様の歌』『だんじく様の歌』。
http://blog.goo.ne.jp/ryuzojiryuzoji/e/95c30f10d87a9...
長崎県平戸市に属する中江ノ島は、平戸島北西岸の沖合2kmに浮かぶちっぽけな無人島だ。
中江ノ島では禁教時代初期に平戸藩によるキリシタン処刑が行われた記録があり、また現在の生月の隠れキリシタンにとって
聖水を採取する『お水取り』の聖地として『サンジュワン様』などと形容されている。
慶長18(1613)年、徳川幕府が全国に禁教令を出し、翌年キリシタンは国外追放となるが、その後何人もの宣教師が国内への潜入と布教を開始。
カミロ・コンスタンツォ神父もその1人で、元和8(1622)年に平戸・生月で布教を行ったのち、五島に渡ったところで五島藩の役人に捕らえられ、
9月15日、平戸瀬戸に面した田平側の岬で火あぶりの刑に処された。
神父は柱に縛りつけられながらも日本語、ポルトガル語、フランドル語で説教し、火がつけられても説教をやめず、聖歌を唄いながら絶命。
このカミロ神父の布教に協力した多くの信徒も処刑されたが、その多くは生月出身者だった。
神父を泊めたヨハネ坂本左衛門と、船を用意したダミヤン出口は、翌年5月27日にこの中江ノ島で処刑されたが、
ダミヤンなど船中で漕ぎ手を手伝い、賛美歌を唄いながら櫓を漕いだという。
また6月3日には船頭で堺目出身のヨアキム川窪庫兵衛が、6月8日にはヨハネ次郎右衛門が同島で処刑された。
次郎右衛門は棄教の印に異教の札を呑むことを拒み、中江ノ島に渡る船の中で「ここから天国は、そう遠くない」と発言した。
さらに寛永元(1624)年3月5日には、ダミヤン出口とヨハネ坂本の家族たちが、中江ノ島の『地獄』という場所で殺されたが、
坂本の年長の子供たち3人は一緒に昇天できるよう、俵につめられた状態で縛ってもらい、首に袋を被せられて海に投げ込まれた。
隠れキリシタン信仰の中でも中江ノ島は、上述した『サンジュワン様』の他に、『お中江様』『お迎え様』『御三体様』と呼ばれ、
御神体に匹敵する最高の信仰対象とされ、聖水を取る『お水取り』の行事が行われている。
島の断崖には岩の割れ目があり、オラショを唱えると、乾燥したときでも水が染み出てくるとされている。それを聖水として使うわけである。
平戸市生月町博物館『島の館』の資料によれば、昭和初期、『黒瀬の辻』と呼ばれる丘の上に 『ガルパス様の松』なる大松が生えていたという。
その根元には古い積石墓があり、これこそガスパル様の墓と言われ、隠れキリシタンにとって特別な場所となっていた。
松は戦後の松枯れで倒れたが、信徒はそれを材料に十字架を作り配布。『黒瀬』は十字架、クルスの訛りからきており、
かつてそこには大十字架が立っていたことから由来するのではないか、とする説もある。
長崎から世界遺産を 長崎の教会群とキリスト教関連遺産 長崎のキリスト教の歴史
https://www.pref.nagasaki.jp/s_isan/outline/02.htm...
74. 生月島と平戸の観光
http://www.asahi-net.or.jp/‾rk7j-kndu/bijutu/bi74.html
「知られざるキリシタン王国、光と影。」 第8話 聖地として語り継がれた地
http://christian-nagasaki.jp/stories/8.htm...
オセンタルカの太陽帝国 『さん・じゅあん様の歌』『だんじく様の歌』。
http://blog.goo.ne.jp/ryuzojiryuzoji/e/95c30f10d87a9...
泥神、現代のクレーマーに怯える 宮古島
>宮古島の国の重要無形民俗文化財「パーントゥ」が、クレームに悩まされている。
>厄払いの意味を込め、仮面を着けた神様が人々に容赦なく泥を塗る伝統的な手法が、その意味合いを知らない観光客に受け入れられず、
>不幸な衝突が生まれている。
>■「汚された」と苦情・暴行も
>3、4日の夕方、宮古島の平良島尻地区。仮面を着けた青年3人が扮(ふん)するパーントゥが現れた。
>ツル草を巻き付けた体は泥まみれで、鼻を突く異臭が漂う。逃げ惑う人々を追い回し泥を塗るたび、悲鳴が上がる。
>改装したての住宅や乗用車内にも荒々しく上がり込んだ。
>「怒る人はおらんよ。ちゃんと厄よけして、健康を願ってくれてるんだから」集落のお年寄りの男性は誇らしげに言う。
>地元の住民は泥をつけられても笑顔。「ありがとう」と声を掛け、お酒やおすしを振る舞う姿も見られた。
>一方、花柄のワンピースとカメラを泥だらけにされた観光客の若い女性は「ここまでとは思わなかった」とショックを受けた様子。
>近くにいた中年の男性も泥を塗られ、「本気で怒っている」と不満げだった。
>関係者によると近年、観光客から苦情が寄せられ、対応に苦慮しているという。「服を汚された」「抱きつかれた」といった女性のクレームに加え、
>数年前には、怒った男性にパーントゥが暴行される事態になった。「中止も検討した」と、地元の男性は語る。
>トラブルを防ぐため、パーントゥの周囲には複数の付添人を配置。不勉強な観光客が大挙して押し掛けないよう開催日を直前まで知らせない工夫もした。
>島の観光資源としてアピールしてきた宮古島観光協会も地元の意向を受け、大々的に宣伝するのを控えている。
>ホームページ上には日程を載せず、直接問い合わせがあった場合のみ伝える対応に変えた。
>担当者は「必ず汚れてもいい服で来てください、と念を押しています」と話す。
>■「神様尊重して」須藤沖大教授
>パーントゥに類似した行事は全国にある。鬼のような仮面を着け荒々しい言動で集落を練り歩く秋田県の「ナマハゲ」(国指定重要無形民俗文化財)も、
>観光客への対応に苦慮している。
>「泣く子はいねがあ」とすごむ姿で知られるが、近年は幼児虐待との批判が絶えない。
>泥酔したナマハゲが2007年、観光客が泊まるホテルの女湯で暴れる事件も起きた。再発を防止するため荒々しさは影を潜め、
>弱々しい言動の『草食系ナマハゲ』が増え、魅力が失われたとの声もある。
>沖縄大学の須藤義人准教授=映像民俗学=は「こうした祭りはお化け屋敷のアトラクションではない。訪れる側は事前に意味合いを調べ、
>地元の人が大切にする神様として尊重する必要がある。迎える側はパンフレットに明記するなどの注意喚起をしてほしい」と指摘している。
>[ことば]パーントゥ 災厄を払い福をもたらす3体の神様が旧暦9月初旬に現れる。約30kgのツル草を身につけ、お酒を振る舞われながら、
>数時間も集落内を暴れ回る。数百年前に島尻の浜に恐ろしい形相の仮面が流れ着いたことが起源とされる。1993年に国の重要無形民俗文化財に指定された。
沖縄タイムス 神様も苦悩?泥塗り行事に苦情
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20141005-00000014-okinawa...
>宮古島の国の重要無形民俗文化財「パーントゥ」が、クレームに悩まされている。
>厄払いの意味を込め、仮面を着けた神様が人々に容赦なく泥を塗る伝統的な手法が、その意味合いを知らない観光客に受け入れられず、
>不幸な衝突が生まれている。
>■「汚された」と苦情・暴行も
>3、4日の夕方、宮古島の平良島尻地区。仮面を着けた青年3人が扮(ふん)するパーントゥが現れた。
>ツル草を巻き付けた体は泥まみれで、鼻を突く異臭が漂う。逃げ惑う人々を追い回し泥を塗るたび、悲鳴が上がる。
>改装したての住宅や乗用車内にも荒々しく上がり込んだ。
>「怒る人はおらんよ。ちゃんと厄よけして、健康を願ってくれてるんだから」集落のお年寄りの男性は誇らしげに言う。
>地元の住民は泥をつけられても笑顔。「ありがとう」と声を掛け、お酒やおすしを振る舞う姿も見られた。
>一方、花柄のワンピースとカメラを泥だらけにされた観光客の若い女性は「ここまでとは思わなかった」とショックを受けた様子。
>近くにいた中年の男性も泥を塗られ、「本気で怒っている」と不満げだった。
>関係者によると近年、観光客から苦情が寄せられ、対応に苦慮しているという。「服を汚された」「抱きつかれた」といった女性のクレームに加え、
>数年前には、怒った男性にパーントゥが暴行される事態になった。「中止も検討した」と、地元の男性は語る。
>トラブルを防ぐため、パーントゥの周囲には複数の付添人を配置。不勉強な観光客が大挙して押し掛けないよう開催日を直前まで知らせない工夫もした。
>島の観光資源としてアピールしてきた宮古島観光協会も地元の意向を受け、大々的に宣伝するのを控えている。
>ホームページ上には日程を載せず、直接問い合わせがあった場合のみ伝える対応に変えた。
>担当者は「必ず汚れてもいい服で来てください、と念を押しています」と話す。
>■「神様尊重して」須藤沖大教授
>パーントゥに類似した行事は全国にある。鬼のような仮面を着け荒々しい言動で集落を練り歩く秋田県の「ナマハゲ」(国指定重要無形民俗文化財)も、
>観光客への対応に苦慮している。
>「泣く子はいねがあ」とすごむ姿で知られるが、近年は幼児虐待との批判が絶えない。
>泥酔したナマハゲが2007年、観光客が泊まるホテルの女湯で暴れる事件も起きた。再発を防止するため荒々しさは影を潜め、
>弱々しい言動の『草食系ナマハゲ』が増え、魅力が失われたとの声もある。
>沖縄大学の須藤義人准教授=映像民俗学=は「こうした祭りはお化け屋敷のアトラクションではない。訪れる側は事前に意味合いを調べ、
>地元の人が大切にする神様として尊重する必要がある。迎える側はパンフレットに明記するなどの注意喚起をしてほしい」と指摘している。
>[ことば]パーントゥ 災厄を払い福をもたらす3体の神様が旧暦9月初旬に現れる。約30kgのツル草を身につけ、お酒を振る舞われながら、
>数時間も集落内を暴れ回る。数百年前に島尻の浜に恐ろしい形相の仮面が流れ着いたことが起源とされる。1993年に国の重要無形民俗文化財に指定された。
沖縄タイムス 神様も苦悩?泥塗り行事に苦情
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20141005-00000014-okinawa...
天然痘患者を隔離した悲嘆の島 下馬刀島(しもまてじま) 1
今回はまさに島マニアの探査能力の面目躍如である。まだまだsageるには早すぎるのだ、はにゃ〜ん♪
前スレではハンセン病患者を隔離した香川県の大島や岡山県の長島を扱ったが、驚くべきことに熊本には、
かつて天然痘患者を閉じ込めた孤島があったそうだ。エボラウイルスが懸念されている今日、ちょっとタイムリーなのだ。
天草諸島に属する牛深市深海町にある下馬刀島がソレだ。こう書いて『てもまてじま』と読む。
もしくは『まて島』とも呼んだらしい(地図によって『馬丁島』『的島』と表記名が異なる場合もある)。
『地名の探求・松尾俊郎・(新人物往来社)』によれば、海峡の中間の島に『馬』を当て字にすることは多く、
『まて島』とは『海峡の島』であることが明記され、『馬』は『間』が当てられていることも少なくないのだとか。
島はもと深海本郷地区と下平地区の区有財産であったが、大正12年11月2日、深海村へ寄付。昭和45年4月21日の合併により、現在の所有者は牛深市となった。
本来は無人島であった。そこへ天然痘に罹った者を島流しにしたというのだから、先人は非情なことをしたものだ。
我が国のこういう負の歴史を白日の下にさらしてしまうのは、いかがなものかと時々思うが、島マニアの探求心は遠慮というものを知らない。
そもそも天然痘とはどんな病気か?
痘瘡(とうそう)ウイルスを病原体とする感染症のことを指し、強い感染力をもち、罹患すれば全身に膿疱(水疱の内容物が膿の集合体)を生じる。
仮に治癒しても醜いあばたを残すことから、世界中で不治の病、悪魔の病気と恐れられてきた。同時に世界初の、撲滅に成功した感染症事例でもある。
爆発的な感染力、高い致死率(諸説があるが40%前後を誇った)のため、時に国や民族が滅ぶ要因となった。
天然痘に罹ればどんな顔面様相になるか、各自で画像検索されるがよい。画像を貼るのも憚られるほどひどいありさまとなる。
もともと痘瘡ウイルスは日本に存在しなかった。6世紀半ば、中国・朝鮮半島からの渡来人の移動が盛んになったときに、日本初の感染者が現れたとされている。
おりしも新羅から弥勒菩薩像が送られ、敏達天皇が仏教の普及を認めた矢先であったため、神道の神を蔑ろにした神罰ではないかという考えが広まり、
仏教を支持していた蘇我氏の影響力が低下したほどであった。皮肉にも585年、敏達天皇本人も天然痘で崩御したのではないかとも言われている。
『日本書紀』(完成は720年)にはこう記されている。「瘡(かさ)発(い)でて死(みまか)る者、身焼かれ、打たれ、砕かるるが如し」とあり、瘡を発し、
激しい苦痛と高熱を伴うという意味で、天然痘の初めての記録と考えられる。また奈良の大仏造営のきっかけの1つがこの天然痘流行であるとされている。
かの伊達政宗が隻眼なのも、幼少期に罹った天然痘のせいで失明したからだ。このように日本の歴史は、至るところに天然痘の暗い影を落としているのだ。
今回はまさに島マニアの探査能力の面目躍如である。まだまだsageるには早すぎるのだ、はにゃ〜ん♪
前スレではハンセン病患者を隔離した香川県の大島や岡山県の長島を扱ったが、驚くべきことに熊本には、
かつて天然痘患者を閉じ込めた孤島があったそうだ。エボラウイルスが懸念されている今日、ちょっとタイムリーなのだ。
天草諸島に属する牛深市深海町にある下馬刀島がソレだ。こう書いて『てもまてじま』と読む。
もしくは『まて島』とも呼んだらしい(地図によって『馬丁島』『的島』と表記名が異なる場合もある)。
『地名の探求・松尾俊郎・(新人物往来社)』によれば、海峡の中間の島に『馬』を当て字にすることは多く、
『まて島』とは『海峡の島』であることが明記され、『馬』は『間』が当てられていることも少なくないのだとか。
島はもと深海本郷地区と下平地区の区有財産であったが、大正12年11月2日、深海村へ寄付。昭和45年4月21日の合併により、現在の所有者は牛深市となった。
本来は無人島であった。そこへ天然痘に罹った者を島流しにしたというのだから、先人は非情なことをしたものだ。
我が国のこういう負の歴史を白日の下にさらしてしまうのは、いかがなものかと時々思うが、島マニアの探求心は遠慮というものを知らない。
そもそも天然痘とはどんな病気か?
痘瘡(とうそう)ウイルスを病原体とする感染症のことを指し、強い感染力をもち、罹患すれば全身に膿疱(水疱の内容物が膿の集合体)を生じる。
仮に治癒しても醜いあばたを残すことから、世界中で不治の病、悪魔の病気と恐れられてきた。同時に世界初の、撲滅に成功した感染症事例でもある。
爆発的な感染力、高い致死率(諸説があるが40%前後を誇った)のため、時に国や民族が滅ぶ要因となった。
天然痘に罹ればどんな顔面様相になるか、各自で画像検索されるがよい。画像を貼るのも憚られるほどひどいありさまとなる。
もともと痘瘡ウイルスは日本に存在しなかった。6世紀半ば、中国・朝鮮半島からの渡来人の移動が盛んになったときに、日本初の感染者が現れたとされている。
おりしも新羅から弥勒菩薩像が送られ、敏達天皇が仏教の普及を認めた矢先であったため、神道の神を蔑ろにした神罰ではないかという考えが広まり、
仏教を支持していた蘇我氏の影響力が低下したほどであった。皮肉にも585年、敏達天皇本人も天然痘で崩御したのではないかとも言われている。
『日本書紀』(完成は720年)にはこう記されている。「瘡(かさ)発(い)でて死(みまか)る者、身焼かれ、打たれ、砕かるるが如し」とあり、瘡を発し、
激しい苦痛と高熱を伴うという意味で、天然痘の初めての記録と考えられる。また奈良の大仏造営のきっかけの1つがこの天然痘流行であるとされている。
かの伊達政宗が隻眼なのも、幼少期に罹った天然痘のせいで失明したからだ。このように日本の歴史は、至るところに天然痘の暗い影を落としているのだ。
天然痘患者を隔離した悲嘆の島 下馬刀島(しもまてじま) 2
では下馬刀島の件に戻ろう。
江戸時代になっても、予防や有効な治療法が確立されず、感染の拡大を防ぐには感染者を隔離するしかなかった。
江戸後期である天保年間(1830〜1843)、深海でも天然痘は猛威をふるった。当初は内地の裏山に小屋を作って、
そこに患者を押し込めていたものの、裏山では脱走する恐れがあったので、現在の深海町下平地区から沖合にある周囲2kmの無人島・
下馬刀島を隔離場所と定めた。
島に隔離された患者たちは筵(むしろ)をもらい、自分たちで茅で屋根を葺いた小屋に住み、飯を炊いて食べた。
水がなくなると松葉を焼いて狼煙をあげて合図し、内地から物資を届けてもらって生をつないだ。
米や麦を要求するときは中火で炊き、死人が出たときの知らせも松葉を焼いて狼煙で知らせた。
やがて患者は息も絶え絶えになり、狼煙をあげる気力もなく死んでいくのが常であった。
離れ離れになった家族や、恋人に会いたい思いを募らせながら息を引き取ったことだろう。彼らの病苦の悲嘆は、海を超えて内地まで届いたという。
こんな話がある。
下平村で1人の若い妻が天然痘に罹ってしまった。夫の必死の土下座も聞き入れてもらえるはずもない。子供を生んで間もないというのに……。
村人たちは容赦なく下馬刀島にやれと、夫を責めたてる。たった1人の感染者のために村が滅ぶこともあり得るのだ。
妻は察し、簡単な荷物をまとめると、我が子を夫に託し、衰弱した身体を鞭打って下馬刀島めざして舟を漕いだ。
島の海岸に着くと、内地で飢えて泣いているであろう赤ん坊を思い、舟を押し流した。これで島抜けすることもできない。
一方、夫は泣きじゃくる赤ん坊を抱いたまま、妻の姿を見つけようと舟で島のまわりをグルグル回り続けた。
妻がまだ生きているのなら、腹一杯飯を食べさせてやりたい。我が子に乳を与え、腕に抱かせてやりたいのに……。
内地には地蔵が至るところにあった。夫は寝食を忘れ、願掛けをするが、神仏は答えてくれない。
やがて赤ん坊は乳をもらえなかったので死んだ。夫は己が無力さと、いくらすがったところで救済してくれない神を呪った。
天然痘患者を隔離した悲劇を今に伝えるものとして、『もんつき唄』と呼ばれる労働歌が残されている。
江戸時代のころより、下馬刀島の対岸にあたる下平地区あたりで知られた歌だ。『もんつき』とは『穀物つき』の意味で、米・麦・粟などの主食を
杵でつくときの拍子をとるときに歌われていたもの。穀物を臼と杵でつく様子が思い浮かぶ牧歌的な労働歌ながら、歌詞の中にはこんな一節がある。
「夫(さま)の墓所の馬刀島松が 早うけ早うけと手を招く」(あなたが眠っている馬刀島の松が、早くこっちにおいでよと呼んでいるようだ)
「つるぎ崎から身を投げましょか 夫の墓までひと流れ」(つるぎ崎から身投げして死んでしまおうか。そうすればあなたが眠る島の墓まで行けるのに)
ちなみに民俗学においては、赤色には『魔除け』の意味があるとされ、神社の鳥居や、地蔵の前掛けも同義とされる(諸説あり)。
さらに郷土玩具には、飛騨高山市の『猿ぼぼ』など赤いものが多い。これは子供への疫病除けの願掛けがこめられている。
現在でも還暦の際、赤いちゃんちゃんこや赤い帽子、座布団が使用されるのも同義である。
江戸時代、天然痘よけとして赤い達磨が置かれたという。痘瘡神が嫌いとされる赤を集め、患者も家族も赤をまとい、赤い布団をかぶり、赤い玩具、
赤い達磨、赤い春駒、赤い犬張子、赤飯、赤鯛、赤い幔幕、赤い注連縄、赤い屏風、赤色の多い痘瘡絵などを掲げるという迷信が流布した。
用が済んだら燃やすか、川に流した。この風習の発祥は、神聖ローマ帝国カール5世(16世紀)で、幼少時に罹患したときに、赤い衣類を着、
部屋の装飾品など一切を赤色にし、赤い光で部屋を充たしたところきれいに治ったので、この風習はヨーロッパでも長く残ったという。
沖縄では病人に赤を着せ、痘瘡神を喜ばせるために歌、三味線で、痘瘡神をほめたたえ、病人に付き添ったそうだ。
※画像は猿ぼぼ
では下馬刀島の件に戻ろう。
江戸時代になっても、予防や有効な治療法が確立されず、感染の拡大を防ぐには感染者を隔離するしかなかった。
江戸後期である天保年間(1830〜1843)、深海でも天然痘は猛威をふるった。当初は内地の裏山に小屋を作って、
そこに患者を押し込めていたものの、裏山では脱走する恐れがあったので、現在の深海町下平地区から沖合にある周囲2kmの無人島・
下馬刀島を隔離場所と定めた。
島に隔離された患者たちは筵(むしろ)をもらい、自分たちで茅で屋根を葺いた小屋に住み、飯を炊いて食べた。
水がなくなると松葉を焼いて狼煙をあげて合図し、内地から物資を届けてもらって生をつないだ。
米や麦を要求するときは中火で炊き、死人が出たときの知らせも松葉を焼いて狼煙で知らせた。
やがて患者は息も絶え絶えになり、狼煙をあげる気力もなく死んでいくのが常であった。
離れ離れになった家族や、恋人に会いたい思いを募らせながら息を引き取ったことだろう。彼らの病苦の悲嘆は、海を超えて内地まで届いたという。
こんな話がある。
下平村で1人の若い妻が天然痘に罹ってしまった。夫の必死の土下座も聞き入れてもらえるはずもない。子供を生んで間もないというのに……。
村人たちは容赦なく下馬刀島にやれと、夫を責めたてる。たった1人の感染者のために村が滅ぶこともあり得るのだ。
妻は察し、簡単な荷物をまとめると、我が子を夫に託し、衰弱した身体を鞭打って下馬刀島めざして舟を漕いだ。
島の海岸に着くと、内地で飢えて泣いているであろう赤ん坊を思い、舟を押し流した。これで島抜けすることもできない。
一方、夫は泣きじゃくる赤ん坊を抱いたまま、妻の姿を見つけようと舟で島のまわりをグルグル回り続けた。
妻がまだ生きているのなら、腹一杯飯を食べさせてやりたい。我が子に乳を与え、腕に抱かせてやりたいのに……。
内地には地蔵が至るところにあった。夫は寝食を忘れ、願掛けをするが、神仏は答えてくれない。
やがて赤ん坊は乳をもらえなかったので死んだ。夫は己が無力さと、いくらすがったところで救済してくれない神を呪った。
天然痘患者を隔離した悲劇を今に伝えるものとして、『もんつき唄』と呼ばれる労働歌が残されている。
江戸時代のころより、下馬刀島の対岸にあたる下平地区あたりで知られた歌だ。『もんつき』とは『穀物つき』の意味で、米・麦・粟などの主食を
杵でつくときの拍子をとるときに歌われていたもの。穀物を臼と杵でつく様子が思い浮かぶ牧歌的な労働歌ながら、歌詞の中にはこんな一節がある。
「夫(さま)の墓所の馬刀島松が 早うけ早うけと手を招く」(あなたが眠っている馬刀島の松が、早くこっちにおいでよと呼んでいるようだ)
「つるぎ崎から身を投げましょか 夫の墓までひと流れ」(つるぎ崎から身投げして死んでしまおうか。そうすればあなたが眠る島の墓まで行けるのに)
ちなみに民俗学においては、赤色には『魔除け』の意味があるとされ、神社の鳥居や、地蔵の前掛けも同義とされる(諸説あり)。
さらに郷土玩具には、飛騨高山市の『猿ぼぼ』など赤いものが多い。これは子供への疫病除けの願掛けがこめられている。
現在でも還暦の際、赤いちゃんちゃんこや赤い帽子、座布団が使用されるのも同義である。
江戸時代、天然痘よけとして赤い達磨が置かれたという。痘瘡神が嫌いとされる赤を集め、患者も家族も赤をまとい、赤い布団をかぶり、赤い玩具、
赤い達磨、赤い春駒、赤い犬張子、赤飯、赤鯛、赤い幔幕、赤い注連縄、赤い屏風、赤色の多い痘瘡絵などを掲げるという迷信が流布した。
用が済んだら燃やすか、川に流した。この風習の発祥は、神聖ローマ帝国カール5世(16世紀)で、幼少時に罹患したときに、赤い衣類を着、
部屋の装飾品など一切を赤色にし、赤い光で部屋を充たしたところきれいに治ったので、この風習はヨーロッパでも長く残ったという。
沖縄では病人に赤を着せ、痘瘡神を喜ばせるために歌、三味線で、痘瘡神をほめたたえ、病人に付き添ったそうだ。
※画像は猿ぼぼ
天然痘患者を隔離した悲嘆の島 下馬刀島(しもまてじま) 3
避病院(ひびょういん)wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%81%BF%E7%97%85%E9%99%...
M&M News 天然痘について
http://www.machida2.co.jp/topics/tanso/tennento1.htm...
熊本県 地域発ふるさとの自然と文化 下馬刀島ともんつき唄 天草市
http://www.pref.kumamoto.jp/site/arinomama/shimomate.htm...
どんくのつぶやき
http://www.shinkaigyo.jp/index.htm...
飛騨高山のかたりべばあちやん 飛騨のサルボボ(猿ぼぼ)の話
http://www.geocities.co.jp/HeartLand-Suzuran/2463/saru.ht...
還暦祝い.net 赤いちゃんちゃんこの由来について
http://going-going.net/246/247/000592.htm...
[PDF]東アジアの天然痘常在地域における流行メカニズムに関する史的研究
http://www.mishima-kaiun.or.jp/assist/report_pdf/2011c/c_h23_...
[PDF]中央学院大学 中国と日本における色彩語の対照
http://www.cgu.ac.jp/Portals/0/data1/cguwww/06/31/0...
ためいき色のブックレビュー 破船/吉村昭著
http://tameikiiro.net/%E6%9B%B8%E8%A9%95/%E7%A0%B4%E...
忘郷クオリア 【廃墟】かつては人がいた名残りを残す放置された無人の島9選【ミステリ】
http://bokyo-qualia.com/archives/247...
※画像は外国奉行支配組頭、塩田三郎。南原清隆ではない。少年時代に天然痘に罹り、顔中にあばたが残っている。
避病院(ひびょういん)wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%81%BF%E7%97%85%E9%99%...
M&M News 天然痘について
http://www.machida2.co.jp/topics/tanso/tennento1.htm...
熊本県 地域発ふるさとの自然と文化 下馬刀島ともんつき唄 天草市
http://www.pref.kumamoto.jp/site/arinomama/shimomate.htm...
どんくのつぶやき
http://www.shinkaigyo.jp/index.htm...
飛騨高山のかたりべばあちやん 飛騨のサルボボ(猿ぼぼ)の話
http://www.geocities.co.jp/HeartLand-Suzuran/2463/saru.ht...
還暦祝い.net 赤いちゃんちゃんこの由来について
http://going-going.net/246/247/000592.htm...
[PDF]東アジアの天然痘常在地域における流行メカニズムに関する史的研究
http://www.mishima-kaiun.or.jp/assist/report_pdf/2011c/c_h23_...
[PDF]中央学院大学 中国と日本における色彩語の対照
http://www.cgu.ac.jp/Portals/0/data1/cguwww/06/31/0...
ためいき色のブックレビュー 破船/吉村昭著
http://tameikiiro.net/%E6%9B%B8%E8%A9%95/%E7%A0%B4%E...
忘郷クオリア 【廃墟】かつては人がいた名残りを残す放置された無人の島9選【ミステリ】
http://bokyo-qualia.com/archives/247...
※画像は外国奉行支配組頭、塩田三郎。南原清隆ではない。少年時代に天然痘に罹り、顔中にあばたが残っている。
歴史・芸術・魚・びゃくしんの島「二神島」
http://www.matsuyama-edu.ed.jp/‾s-futaga/hutagamisima/hutagamisyoukai.html
武家家伝_豊田氏
http://www2.harimaya.com/sengoku/html/toyota_kz.htm...
神奈川大学 日本常民文化研究所 共同研究「瀬戸内海の歴史民俗研究」 9月上旬に調査を実施しました
http://jominken.kanagawa-u.ac.jp/cgi-bin/system/special/index.c...
http://www.matsuyama-edu.ed.jp/‾s-futaga/hutagamisima/hutagamisyoukai.html
武家家伝_豊田氏
http://www2.harimaya.com/sengoku/html/toyota_kz.htm...
神奈川大学 日本常民文化研究所 共同研究「瀬戸内海の歴史民俗研究」 9月上旬に調査を実施しました
http://jominken.kanagawa-u.ac.jp/cgi-bin/system/special/index.c...
天然痘に罹った息子をかくまった島 馬島
長崎の佐世保市、平戸市にかけての北松浦半島西岸に連なるリアス式海岸の群島をまとめて九十九島(くじゅうくしま)と呼ぶ。
島数99どころか、公式には208もあるとされている。
その中の1つ、馬島は文字通り島の形が馬に似ていることからこう冠されたという。実はここにも天然痘患者を閉じ込めた歴史があった。
昔、庄屋の一人息子が魔の病と恐れられる天然痘に罹り、見る間に醜い人相に変わり果てた。
庄屋は泣く泣く息子を小舟に乗せて九十九島の島々をさまよった。どこか無人島にでもかくまわなければ、藩に見つかれば即刻殺されるのは明白。
人々が魔の島と呼んで寄りつかない馬島へ舟をつけると、岩陰に小屋を作って息子をそこに隠した。
庄屋は対岸の俵ヶ浦の寺に寄宿し、夜になると人目を避けて食料と水を馬島の小屋へ運んだ。
何ヶ月かすぎたあと、庄屋の切なる祈りが神仏に届いたか、息子の病状は痕も残らず、すっかり完治した。
庄屋親子はこの奇跡に喜び、郷里に帰ることができた。
九十九島パールシーリゾート 西海国立公園 九十九島の紹介
http://www.pearlsea.jp/99islands/island.htm...
ニゴロブナ子は里山(さと)に帰らせていただきます! 岡山 「次は、ないかもしれない」長島愛生園
http://ameblo.jp/25627-ko/entry-10759318222.htm...
モグネット ハンセン病の歴史:フィリピン・クリオン島
http://www.mognet.org/hansen/overseas/culion01.htm...
長崎の佐世保市、平戸市にかけての北松浦半島西岸に連なるリアス式海岸の群島をまとめて九十九島(くじゅうくしま)と呼ぶ。
島数99どころか、公式には208もあるとされている。
その中の1つ、馬島は文字通り島の形が馬に似ていることからこう冠されたという。実はここにも天然痘患者を閉じ込めた歴史があった。
昔、庄屋の一人息子が魔の病と恐れられる天然痘に罹り、見る間に醜い人相に変わり果てた。
庄屋は泣く泣く息子を小舟に乗せて九十九島の島々をさまよった。どこか無人島にでもかくまわなければ、藩に見つかれば即刻殺されるのは明白。
人々が魔の島と呼んで寄りつかない馬島へ舟をつけると、岩陰に小屋を作って息子をそこに隠した。
庄屋は対岸の俵ヶ浦の寺に寄宿し、夜になると人目を避けて食料と水を馬島の小屋へ運んだ。
何ヶ月かすぎたあと、庄屋の切なる祈りが神仏に届いたか、息子の病状は痕も残らず、すっかり完治した。
庄屋親子はこの奇跡に喜び、郷里に帰ることができた。
九十九島パールシーリゾート 西海国立公園 九十九島の紹介
http://www.pearlsea.jp/99islands/island.htm...
ニゴロブナ子は里山(さと)に帰らせていただきます! 岡山 「次は、ないかもしれない」長島愛生園
http://ameblo.jp/25627-ko/entry-10759318222.htm...
モグネット ハンセン病の歴史:フィリピン・クリオン島
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天草楊貴妃伝説 天草によみがえる楊貴妃伝説
http://www.geocities.jp/kankyo119/youkihi.htm...
楊貴妃は天草に流れ着いたか - 楊貴妃天草漂着伝説 -
http://www.geocities.jp/flowercities/youkihi...
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楊貴妃は天草に流れ着いたか - 楊貴妃天草漂着伝説 -
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[YouTubeで再生]
NAVERまとめ 現在進行形で軍艦島化している九州の孤島「池島」
http://matome.naver.jp/odai/213626458627101700...
池島炭鉱 施設編(1/6)
http://allxa.web.fc2.com/a-map/jp_nagasaki/ikeshima1/ik...
ようこそ炭鉱体験「池島」へ
http://ikeshima.info/
長崎県長崎市 池島
https://sites.google.com/site/ikeshima20...
NAVERまとめ 現在進行形で軍艦島化している九州の孤島「池島」
http://matome.naver.jp/odai/213626458627101700...
池島炭鉱 施設編(1/6)
http://allxa.web.fc2.com/a-map/jp_nagasaki/ikeshima1/ik...
ようこそ炭鉱体験「池島」へ
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長崎県長崎市 池島
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ルイス・フロイスたちが目印に入港した島 八ノ子島
長崎県西海市の横瀬浦港から約300m沖合にある八ノ子島。こんもり盛り上がった頂上に屹立する十字架が目を惹く。
なぜ島に十字架が立てられたのか。
永禄5(1562)年、当時の領主で、日本で初めて洗礼を受けたキリシタン大名・大村純忠により、南蛮貿易港として世界に開かれた横瀬浦。
かつてその付近で、3晩続けて十字架の幻が出現するという奇跡が起き、その翌日、ナウ船(南蛮船)のペーロ・パレット船長が、
十字架を立てるよう命じた(同年10月25日付横瀬浦発信修道士ルイス・デ・アルメイダの書簡より)。
現在の十字架は1962年、南蛮船来航400年を記念して再建され、2009年に復元された。
船は八ノ子島の十字架を目印に入港し、港は全国から集まった貿易商人やキリスト教徒、そしてポルトガル人たちで賑わったという。
のちに織田信長や豊臣秀吉と会見し、戦国時代の貴重な資料となる『日本史』を記したポルトガル人宣教師、ルイス・フロイスも、
この港から日本に上陸した。
ふらり。旅する長崎 第4回 「西海市 八ノ子島」
http://www.nagasaki-press.com/event_travel/furaritabi/furari...
言語文化学科日本語文化コース 肥前研修⑦横瀬浦・虚空蔵算展望台編—西彼杵半島に上陸—
http://blog.hijiyama-u.ac.jp/nb/2013/02...
ミカエル大山のブログ
http://blog.kurosakiparish.holy.jp/?month=20130...
長崎県西海市の横瀬浦港から約300m沖合にある八ノ子島。こんもり盛り上がった頂上に屹立する十字架が目を惹く。
なぜ島に十字架が立てられたのか。
永禄5(1562)年、当時の領主で、日本で初めて洗礼を受けたキリシタン大名・大村純忠により、南蛮貿易港として世界に開かれた横瀬浦。
かつてその付近で、3晩続けて十字架の幻が出現するという奇跡が起き、その翌日、ナウ船(南蛮船)のペーロ・パレット船長が、
十字架を立てるよう命じた(同年10月25日付横瀬浦発信修道士ルイス・デ・アルメイダの書簡より)。
現在の十字架は1962年、南蛮船来航400年を記念して再建され、2009年に復元された。
船は八ノ子島の十字架を目印に入港し、港は全国から集まった貿易商人やキリスト教徒、そしてポルトガル人たちで賑わったという。
のちに織田信長や豊臣秀吉と会見し、戦国時代の貴重な資料となる『日本史』を記したポルトガル人宣教師、ルイス・フロイスも、
この港から日本に上陸した。
ふらり。旅する長崎 第4回 「西海市 八ノ子島」
http://www.nagasaki-press.com/event_travel/furaritabi/furari...
言語文化学科日本語文化コース 肥前研修⑦横瀬浦・虚空蔵算展望台編—西彼杵半島に上陸—
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ミカエル大山のブログ
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歴ログ -世界史専門ブログ- 【日本のアトランティス?】日本の伝説の島5選【ミステリー】
http://reki.hatenablog.com/entry/2014/08/21/12202...
http://reki.hatenablog.com/entry/2014/08/21/12202...
長崎遠めがね 高鉾島
http://hoshinabe.ojaru.jp/209_takahoko/takahoko.htm...
ながさき歴史の旅 第16回 神ノ島 巡礼の旅
http://tabinaga.jp/history/view.php?category=3&hi...
Les Voyages 神の島
http://lesvoyages.fc2web.com/nagasaki/nagasaki12.htm...
http://hoshinabe.ojaru.jp/209_takahoko/takahoko.htm...
ながさき歴史の旅 第16回 神ノ島 巡礼の旅
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Les Voyages 神の島
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25年ぶりの雨乞いの儀式・本当に雨をもたらす 小浜島
>【小浜島=竹富】少雨の影響で八重山地域の水不足が深刻化する中、竹富町小浜島で約25年ぶりとなる雨乞いの儀式が行われた。
>神司(かんづかさ)7人が雨乞いの唄を歌い始めると小雨が降り出し、祈りを見守っていた島民に期待感で笑みがこぼれた。
>雨乞いの儀式は同島の嘉保根(かぼね)御嶽の敷地内に置かれている「ガンドゥラ(雷)石」に、神司が雨が降るよう祈りをささげた後、
>ガンドゥラ石を集落の中央に位置する道路に運び、島の青年らが石を担いで力比べを楽しんだ。
>ガンドゥラ石は古くから雨乞いの儀式に使われてきたもので、担いで落とすと「ごろごろ」という音が響くことから、
>雷を呼び雨をもたらすと伝えられているという。
>続いて、神司が雨を呼ぶ唄を歌ったり、願いの口上を述べたりして祈願した。
>小浜公民館の浦底透館長は「まとまった雨が降らない。サトウキビは枯れて深刻な状況だ。祈りが天に届くことを願っている」と期待した。
>雨が降らなかった場合はさらに次の儀式を進めていくことになるという。
毎日新聞 2014年11月23日(日) 小浜島:25年ぶりに雨乞い 祈りの最中に小雨
http://mainichi.jp/area/okinawa/news/20141119rky0...
>【小浜島=竹富】少雨の影響で八重山地域の水不足が深刻化する中、竹富町小浜島で約25年ぶりとなる雨乞いの儀式が行われた。
>神司(かんづかさ)7人が雨乞いの唄を歌い始めると小雨が降り出し、祈りを見守っていた島民に期待感で笑みがこぼれた。
>雨乞いの儀式は同島の嘉保根(かぼね)御嶽の敷地内に置かれている「ガンドゥラ(雷)石」に、神司が雨が降るよう祈りをささげた後、
>ガンドゥラ石を集落の中央に位置する道路に運び、島の青年らが石を担いで力比べを楽しんだ。
>ガンドゥラ石は古くから雨乞いの儀式に使われてきたもので、担いで落とすと「ごろごろ」という音が響くことから、
>雷を呼び雨をもたらすと伝えられているという。
>続いて、神司が雨を呼ぶ唄を歌ったり、願いの口上を述べたりして祈願した。
>小浜公民館の浦底透館長は「まとまった雨が降らない。サトウキビは枯れて深刻な状況だ。祈りが天に届くことを願っている」と期待した。
>雨が降らなかった場合はさらに次の儀式を進めていくことになるという。
毎日新聞 2014年11月23日(日) 小浜島:25年ぶりに雨乞い 祈りの最中に小雨
http://mainichi.jp/area/okinawa/news/20141119rky0...
[PDF]公開シンポジウム基調講演1 いざなぎ流研究の新時代へいざなぎ流とはなにか 小松和彦
https://www.wako.ac.jp/_static/page/university/images...
https://www.wako.ac.jp/_static/page/university/images...
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追手の襲撃に備えて弓の稽古を怠らなかった島 百島(ももしま)
広島県尾道市の備後灘に浮かぶ、百島と書いて『ももしま』と読む有人島がある。
昔、多くの桃の木が生えていたから桃島と呼ばれていたが、周囲に無数の島があったり、『百』の方が縁起が良いだろうということで、
いつしか百島に改めたとする説、もしくは古くは五十島と呼ばれたこともあり、潮満になると2つに分かれていたものが
間に砂が溜まって1つになったので、合わせて百島と呼ばれるようになった説など、名前の由来はいくつかあるが、いずれも決定打に欠くようだ。
その百島には、菅原道真が大宰府に向かう途中に立ち寄ったという伝説や、室町幕府6代将軍・足利義教を暗殺した赤松満祐一族が
隠れ住んだという逸話が残されている。
その赤松満祐一族にちなみ、福田地区の八幡神社に伝わる『お弓神事』は、嘉吉元(1441)年、嘉吉の乱で敗れた赤松満祐ほか一族7人が
百島に逃れて住み着き、敵の追討襲撃に備えて弓の稽古に励んだのが始まりとされており、毎年1月11日に厄祓いと無病息災を願って催される伝統行事である。
射手には島内の3地区から計15名が選ばれ、15m先の直径60cmの的に向け、太鼓の合図とともに次々と矢を放たれる。
的の中心には『瓦け』と呼ばれる丸い素焼きがつけられ、命中すると祝儀(10円)がもらえる。
百島Net
http://www.momoshima.net/
百島八幡神社お弓神事 尾道市百島2008.1.11
http://www.tamatele.ne.jp/‾onotoshi/momosimaoyumisinzi08.html
赤松満祐wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B5%A4%E6%9D%BE%E6%BA%...
嘉吉の乱wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%98%89%E5%90%89%E3%81%...
尾道 百島物語〜From/For Momoshima〜人生航海 蜃気楼 百の伝結び 百島 旗伝説
http://blog.goo.ne.jp/100-is-land/e/30ef849437c43535...
追手の襲撃に備えて弓の稽古を怠らなかった島 百島(ももしま)
広島県尾道市の備後灘に浮かぶ、百島と書いて『ももしま』と読む有人島がある。
昔、多くの桃の木が生えていたから桃島と呼ばれていたが、周囲に無数の島があったり、『百』の方が縁起が良いだろうということで、
いつしか百島に改めたとする説、もしくは古くは五十島と呼ばれたこともあり、潮満になると2つに分かれていたものが
間に砂が溜まって1つになったので、合わせて百島と呼ばれるようになった説など、名前の由来はいくつかあるが、いずれも決定打に欠くようだ。
その百島には、菅原道真が大宰府に向かう途中に立ち寄ったという伝説や、室町幕府6代将軍・足利義教を暗殺した赤松満祐一族が
隠れ住んだという逸話が残されている。
その赤松満祐一族にちなみ、福田地区の八幡神社に伝わる『お弓神事』は、嘉吉元(1441)年、嘉吉の乱で敗れた赤松満祐ほか一族7人が
百島に逃れて住み着き、敵の追討襲撃に備えて弓の稽古に励んだのが始まりとされており、毎年1月11日に厄祓いと無病息災を願って催される伝統行事である。
射手には島内の3地区から計15名が選ばれ、15m先の直径60cmの的に向け、太鼓の合図とともに次々と矢を放たれる。
的の中心には『瓦け』と呼ばれる丸い素焼きがつけられ、命中すると祝儀(10円)がもらえる。
百島Net
http://www.momoshima.net/
百島八幡神社お弓神事 尾道市百島2008.1.11
http://www.tamatele.ne.jp/‾onotoshi/momosimaoyumisinzi08.html
赤松満祐wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B5%A4%E6%9D%BE%E6%BA%...
嘉吉の乱wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%98%89%E5%90%89%E3%81%...
尾道 百島物語〜From/For Momoshima〜人生航海 蜃気楼 百の伝結び 百島 旗伝説
http://blog.goo.ne.jp/100-is-land/e/30ef849437c43535...
弁天様の目玉をえぐり取ろうとして神罰がくだった? 佐久島(筒島)
愛知の三河湾には佐久島の他に、篠島、日間賀島が浮かび(いずれも有人島)、これらを愛知3島として呼び、釣りや観光に賑わいを見せている。
ちなみに篠島は前スレの>>289にて、日間賀島は>>344で紹介した。とすれば、佐久島もやらずにはいられない。
佐久島は中新世に海中で堆積した島とされ、2500万年前と推定される貝の化石が島の各所で発見されている。
島には紀元前3000年ごろから人が住み始め、縄文・弥生式の土器片などが多く出土している。
『佐久島旧記』によれば、崇神天皇(紀元前97年〜紀元前30年、第10代天皇)の時代に、斎宮の郷にいた佐久彦命が移住して農業を始めたことが
島名の由来とされている。
また海を生業の場として地域間の文化交流の橋渡し役を担っていた海部(あまべ)族の生活が、のちに海運業として受け継がれ、江戸時代に繁栄を築いた。
その1つである松本家の屋敷周辺(西港)では、現在も当時の隆盛ぶりを偲ぶことができる。昭和29年に市町村合併し、佐久島村は一色町に編入。
平成23年4月1日、西尾市と幡豆3町が合併し、佐久島は西尾市一色町佐久島となった。
その佐久島であるが(正確には堤防で結ばれた属島である筒島)、弁天様にまつわる不思議な言い伝えが残されている。
広く知れ渡っているふつうの弁天様は琵琶を手にしているが、佐久島のそれは他とは異なり、8本の腕に剣や弓矢、鉄の輪などを持って、
パッと見こそ優しそうな顔立ちだが、凜々しい佇まい。
これは奈良時代の初め、諸国に国分寺を造ったときの古いお経『金光明最勝王経』に描かれた古い姿で、お経によると四天王と弁天様を尊べ、と説いている。
全国にある弁天島10カ所の1つで、異彩を放つ弁天様なのだ。
もとは筒井家初代が僧の姿で紀州から佐久島に渡り、この小島を筒島と名付け、弁天様を筒井城のある大和国より運び祀ったとされている。
昔、この筒島に、渋谷九郎という甲州武田の家臣が戦に敗れて落ち延びてきた。
救いを求めて弁天様を拝み続けるうち、しだいにあまりの美しさに心を奪われるようになった。九郎は弁天様を独り占めするべく、
キラキラと輝く目をえぐり取ろうとした。そのとき弁天様の右目から血がほとばしり、九郎は急に胸がしめつけられ、悶絶したという。
今でも弁天様の右目には、血の涙を流した痕が残されている。
また筒島の石などの物を持って帰ると、必ず胸が痛くなるなどの祟りがあると信じられており、地元の人は頑なに言い伝えを守って、
小石1つたりとも持ち出すことはない。
癒しとアートの島 ようこそ佐久島へ
http://sakushima.com/
angle 筒井カメラマンのブログ 島の古い伝説
http://ameblo.jp/angle1/entry-11441635112.htm...
愛知県地域振興課 あいちの離島振興
http://www.pref.aichi.jp/0000029829.htm...
※>血の涙を流した痕が残されている。と書いたが、画像を見るかぎり残っていない気がするw
愛知の三河湾には佐久島の他に、篠島、日間賀島が浮かび(いずれも有人島)、これらを愛知3島として呼び、釣りや観光に賑わいを見せている。
ちなみに篠島は前スレの>>289にて、日間賀島は>>344で紹介した。とすれば、佐久島もやらずにはいられない。
佐久島は中新世に海中で堆積した島とされ、2500万年前と推定される貝の化石が島の各所で発見されている。
島には紀元前3000年ごろから人が住み始め、縄文・弥生式の土器片などが多く出土している。
『佐久島旧記』によれば、崇神天皇(紀元前97年〜紀元前30年、第10代天皇)の時代に、斎宮の郷にいた佐久彦命が移住して農業を始めたことが
島名の由来とされている。
また海を生業の場として地域間の文化交流の橋渡し役を担っていた海部(あまべ)族の生活が、のちに海運業として受け継がれ、江戸時代に繁栄を築いた。
その1つである松本家の屋敷周辺(西港)では、現在も当時の隆盛ぶりを偲ぶことができる。昭和29年に市町村合併し、佐久島村は一色町に編入。
平成23年4月1日、西尾市と幡豆3町が合併し、佐久島は西尾市一色町佐久島となった。
その佐久島であるが(正確には堤防で結ばれた属島である筒島)、弁天様にまつわる不思議な言い伝えが残されている。
広く知れ渡っているふつうの弁天様は琵琶を手にしているが、佐久島のそれは他とは異なり、8本の腕に剣や弓矢、鉄の輪などを持って、
パッと見こそ優しそうな顔立ちだが、凜々しい佇まい。
これは奈良時代の初め、諸国に国分寺を造ったときの古いお経『金光明最勝王経』に描かれた古い姿で、お経によると四天王と弁天様を尊べ、と説いている。
全国にある弁天島10カ所の1つで、異彩を放つ弁天様なのだ。
もとは筒井家初代が僧の姿で紀州から佐久島に渡り、この小島を筒島と名付け、弁天様を筒井城のある大和国より運び祀ったとされている。
昔、この筒島に、渋谷九郎という甲州武田の家臣が戦に敗れて落ち延びてきた。
救いを求めて弁天様を拝み続けるうち、しだいにあまりの美しさに心を奪われるようになった。九郎は弁天様を独り占めするべく、
キラキラと輝く目をえぐり取ろうとした。そのとき弁天様の右目から血がほとばしり、九郎は急に胸がしめつけられ、悶絶したという。
今でも弁天様の右目には、血の涙を流した痕が残されている。
また筒島の石などの物を持って帰ると、必ず胸が痛くなるなどの祟りがあると信じられており、地元の人は頑なに言い伝えを守って、
小石1つたりとも持ち出すことはない。
癒しとアートの島 ようこそ佐久島へ
http://sakushima.com/
angle 筒井カメラマンのブログ 島の古い伝説
http://ameblo.jp/angle1/entry-11441635112.htm...
愛知県地域振興課 あいちの離島振興
http://www.pref.aichi.jp/0000029829.htm...
※>血の涙を流した痕が残されている。と書いたが、画像を見るかぎり残っていない気がするw
与那国町役場 与那国島の祭事・祭場
http://www.town.yonaguni.okinawa.jp/donan-bunka/program2...
[PDF]与那国島の祭場と儀礼 大城學(沖縄県立博物館)
http://www.museums.pref.okinawa.jp/museum/issue/report/image/6-6....
http://www.town.yonaguni.okinawa.jp/donan-bunka/program2...
[PDF]与那国島の祭場と儀礼 大城學(沖縄県立博物館)
http://www.museums.pref.okinawa.jp/museum/issue/report/image/6-6....
猿の楽園に平家の落ち武者による神使伝承あり 幸島
宮崎県串間市の石波海岸から200m沖合にある幸島は、周囲約3.5km、標高113mと、一応、無人島のカテゴリーに入るが、
島内には京都大学の霊長類研究施設が設けられ、施設研究員が常駐している。
その研究員、幸島に棲息する野生猿を研究対象としている。なかでも海水で芋を洗う猿は、日本で最初に学術研究がなされたことで知られる。
現在およそ100頭の野生猿が海に囲まれ、隔離された恰好で暮らしている。天敵のいない幸島は、猿たちにとってまさに楽園であろう。
幸島は古くから猿が住んでいたといわれ、大正時代にも旧東北帝国大学などが調査を行っており、90頭もの個体が確認されている。
なぜ人里離れた小島に野生猿が棲息していたかは不明であるが、人為的に持ち込まれたという説が有力視されている。
とりわけ有名なのが、平家の落ち武者が小島に隠匿したとき、猿を神使として飼い始めたというが、伝承の域を出ない。
もっとも、後の研究では本土との行き来が少数例ながら観察されているので、自然分布の可能性も捨てきれない。
串間市地元では幸島の猿を『和子様(わこさま)』と呼び、神の使いと見なして大切にしてきた。
しかしながら、戦後、米軍の統治下にあったころ、米軍司令官にペットとして献上するために子猿が狩られ、個体数は激減。
京都大学の研究員らがこの島を訪れたとき、わずか9頭しか確認できなかった。本格的な研究を始めたのは京都大学の今西錦司と伊谷純一郎らその門下生たちで、
戦後間もないころだった。当初、都井岬の半野生馬『岬馬』を対象とするため、調査に来ていた。幸島に野生猿が棲息していることを知ると、
「馬では複雑な家族関係や社会が成り立っていない」と、物足りなくなったため、 幸島のニホンザルに注目された。
その結果、島での研究から「人間以外の動物にも文化がある」という説が初めて打ち出されることとなる。
1952年に野生猿の餌付けに成功。より綿密な観察が可能となった。そのうち、若猿がもらった芋を海水で汚れを落とし食べるようになり、
この『芋洗い行動』は、初め同年代の仲間に、次には上の年代へと広がりを見せるようになる。さらには子や孫が継いだ。
従来、「文化は人間固有のものであり、動物にはない」と考えられていた。世代と時代を越えても伝達されることは、
『芋洗い行動』を文化であるとする根拠の1つとなっている。
また、多くの猿が芋2つを両手に持って走る様子が撮影され、一時的にではあるが自然に二足歩行することが知られるようになった。
猿1匹ずつすべて名前を付ける(個体識別法)、親子・兄弟関係を記録し家系図も作るといった手法もここで始められ、
京都岩田山のニホンザルやアフリカでのチンパンジーなど他所の研究でも広く取り入れられるようになる。幸島でこの手法に貢献したのは三戸サツヱである。
霊長類研究が欧米人ではなく、京都大学を中心とした日本人によってリードされた理由の1つに、宗教観の違いが挙げられている。
キリスト教では人間は動物の頂点に立つ存在で、人間と他の動物の間には歴然たる壁があり、『動物にも文化がある』という考え方は、
人間も動物の仲間の1つと考える仏教の世界観の方が受け入れやすかったといえよう。
現在、幸島の猿および生息地は『幸島猿生息地』として国の天然記念物に指定されており、文化財保護法によって保護されている。
旅行記・幸島を訪ねて − 宮崎県串間市 2012.10 幸島
http://washimo-web.jp/Trip/Koujima/koujima.ht...
edge-life 幸島に住むボス猿がホタテからカバに変わったという話
http://edge-life.jp/archives/398...
平成16年度牛の博物館友の会シンポジウム 牛馬の守護神 厠猿信仰
http://www.isop.ne.jp/atrui/ushi/07_tomo/mayazaru/ma...
神使wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E4%BD%B...
宮崎県串間市の石波海岸から200m沖合にある幸島は、周囲約3.5km、標高113mと、一応、無人島のカテゴリーに入るが、
島内には京都大学の霊長類研究施設が設けられ、施設研究員が常駐している。
その研究員、幸島に棲息する野生猿を研究対象としている。なかでも海水で芋を洗う猿は、日本で最初に学術研究がなされたことで知られる。
現在およそ100頭の野生猿が海に囲まれ、隔離された恰好で暮らしている。天敵のいない幸島は、猿たちにとってまさに楽園であろう。
幸島は古くから猿が住んでいたといわれ、大正時代にも旧東北帝国大学などが調査を行っており、90頭もの個体が確認されている。
なぜ人里離れた小島に野生猿が棲息していたかは不明であるが、人為的に持ち込まれたという説が有力視されている。
とりわけ有名なのが、平家の落ち武者が小島に隠匿したとき、猿を神使として飼い始めたというが、伝承の域を出ない。
もっとも、後の研究では本土との行き来が少数例ながら観察されているので、自然分布の可能性も捨てきれない。
串間市地元では幸島の猿を『和子様(わこさま)』と呼び、神の使いと見なして大切にしてきた。
しかしながら、戦後、米軍の統治下にあったころ、米軍司令官にペットとして献上するために子猿が狩られ、個体数は激減。
京都大学の研究員らがこの島を訪れたとき、わずか9頭しか確認できなかった。本格的な研究を始めたのは京都大学の今西錦司と伊谷純一郎らその門下生たちで、
戦後間もないころだった。当初、都井岬の半野生馬『岬馬』を対象とするため、調査に来ていた。幸島に野生猿が棲息していることを知ると、
「馬では複雑な家族関係や社会が成り立っていない」と、物足りなくなったため、 幸島のニホンザルに注目された。
その結果、島での研究から「人間以外の動物にも文化がある」という説が初めて打ち出されることとなる。
1952年に野生猿の餌付けに成功。より綿密な観察が可能となった。そのうち、若猿がもらった芋を海水で汚れを落とし食べるようになり、
この『芋洗い行動』は、初め同年代の仲間に、次には上の年代へと広がりを見せるようになる。さらには子や孫が継いだ。
従来、「文化は人間固有のものであり、動物にはない」と考えられていた。世代と時代を越えても伝達されることは、
『芋洗い行動』を文化であるとする根拠の1つとなっている。
また、多くの猿が芋2つを両手に持って走る様子が撮影され、一時的にではあるが自然に二足歩行することが知られるようになった。
猿1匹ずつすべて名前を付ける(個体識別法)、親子・兄弟関係を記録し家系図も作るといった手法もここで始められ、
京都岩田山のニホンザルやアフリカでのチンパンジーなど他所の研究でも広く取り入れられるようになる。幸島でこの手法に貢献したのは三戸サツヱである。
霊長類研究が欧米人ではなく、京都大学を中心とした日本人によってリードされた理由の1つに、宗教観の違いが挙げられている。
キリスト教では人間は動物の頂点に立つ存在で、人間と他の動物の間には歴然たる壁があり、『動物にも文化がある』という考え方は、
人間も動物の仲間の1つと考える仏教の世界観の方が受け入れやすかったといえよう。
現在、幸島の猿および生息地は『幸島猿生息地』として国の天然記念物に指定されており、文化財保護法によって保護されている。
旅行記・幸島を訪ねて − 宮崎県串間市 2012.10 幸島
http://washimo-web.jp/Trip/Koujima/koujima.ht...
edge-life 幸島に住むボス猿がホタテからカバに変わったという話
http://edge-life.jp/archives/398...
平成16年度牛の博物館友の会シンポジウム 牛馬の守護神 厠猿信仰
http://www.isop.ne.jp/atrui/ushi/07_tomo/mayazaru/ma...
神使wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E4%BD%B...
与論島の洗骨儀礼
与論島を当『怖い島』スレに挙げ、あまつさえ洗骨の習俗を面白おかしく語るつもりは毛頭ない。
日本にはこんな葬祭文化があるということを知っておいて損はない。
改装の手順と基礎知識〜お墓の引越しってどうするの?〜 改葬で行う洗骨とは
http://grave-move.net/entry7.htm...
飛耳長耳 国際紛争の心理 九州沖縄スペシャル与論島の洗骨儀礼 とうとがなしばあちゃん与論島 死者を弔う洗骨儀礼
http://blogs.yahoo.co.jp/nakamushyh/32394070.htm...
[PDF]与論島の洗骨儀礼に関する事例報告
http://ir.kagoshima-u.ac.jp/bitstream/10232/16673/1/AA1195...
[PDF]与論島における洗骨習俗の現状
http://karn.lib.kagoshima-u.ac.jp/bitstream/123456789/14474/3/AA...
与論島を当『怖い島』スレに挙げ、あまつさえ洗骨の習俗を面白おかしく語るつもりは毛頭ない。
日本にはこんな葬祭文化があるということを知っておいて損はない。
改装の手順と基礎知識〜お墓の引越しってどうするの?〜 改葬で行う洗骨とは
http://grave-move.net/entry7.htm...
飛耳長耳 国際紛争の心理 九州沖縄スペシャル与論島の洗骨儀礼 とうとがなしばあちゃん与論島 死者を弔う洗骨儀礼
http://blogs.yahoo.co.jp/nakamushyh/32394070.htm...
[PDF]与論島の洗骨儀礼に関する事例報告
http://ir.kagoshima-u.ac.jp/bitstream/10232/16673/1/AA1195...
[PDF]与論島における洗骨習俗の現状
http://karn.lib.kagoshima-u.ac.jp/bitstream/123456789/14474/3/AA...
トンボロで渡った島に疱瘡墓6基あり 前島
>>139に引き続き、またしても天然痘にまつわる島を発見した。ただし、こちらは天然痘に罹って亡くなり、その遺体を葬ったとされる島だ。
長崎県五島市にある奈留島の南西部、奈留島港から約2kmのところに件の前島がある。0.47k㎡、周囲は5.6kmと小島ながら、
人口は35人ほど暮らしている。その前島から400m離れた位置に末津島があるのだが、干潮になるとこの2島の間に砂州が現れ、陸続きとなる。
そう、トンボロ現象だ。
前島は北側にある笠松地区と、西側にある江ノ浦地区の2集落からなる。その江ノ浦集落には、奈留代官山口家の次男・山口倫十郎の墓が残されている。
倫十郎は江戸後期、五島藩に謀反する者と誤解され、家運の傾いた山口家を再興した人物と言われる。
墓石の側面には『疱瘡而庵死』の文字が。当時、奈留島で疱瘡(天然痘)が流行し、感染が広がらないよう、疱瘡で亡くなった者の遺体を、
当時は無人島であった前島に運び、葬ったとされている。倫十郎もその1人だった。
倫十郎の墓石を取り囲むように6基の小さな墓石が並んでいる。全部が疱瘡墓だったと指摘されている。
また倫十郎の墓石の隣には、『尼妙道信女位』と記された墓碑が佇む。これは疱瘡でなくなった夫である倫十郎を、尼となって弔った妻のものだという。
死してなお、夫に寄り添いたいと願ったのだろう。
これらの疱瘡墓は、近くに住む江上長之助氏が管理をしている。誰かに頼まれて世話をしているわけではなく、自身の親が周辺の雑草を抜いたり、
清掃したりしている姿を見て育ったせいで、おのずと江上氏もそれに倣うようになったという。
五島・前島
http://www.hanachann.net/gotou/gotou.htm...
疱瘡神wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%96%B1%E7%98%A1%E7%A5%...
長崎県五島市公式サイト gotouまるごとう よかよか五島百景〜前島〜
http://www3.city.goto.nagasaki.jp/contents/sightseeing/column_de...
Travel:shiomi116 五島・前島
http://shiomi116.blog.fc2.com/blog-date-201303.htm...
>>139に引き続き、またしても天然痘にまつわる島を発見した。ただし、こちらは天然痘に罹って亡くなり、その遺体を葬ったとされる島だ。
長崎県五島市にある奈留島の南西部、奈留島港から約2kmのところに件の前島がある。0.47k㎡、周囲は5.6kmと小島ながら、
人口は35人ほど暮らしている。その前島から400m離れた位置に末津島があるのだが、干潮になるとこの2島の間に砂州が現れ、陸続きとなる。
そう、トンボロ現象だ。
前島は北側にある笠松地区と、西側にある江ノ浦地区の2集落からなる。その江ノ浦集落には、奈留代官山口家の次男・山口倫十郎の墓が残されている。
倫十郎は江戸後期、五島藩に謀反する者と誤解され、家運の傾いた山口家を再興した人物と言われる。
墓石の側面には『疱瘡而庵死』の文字が。当時、奈留島で疱瘡(天然痘)が流行し、感染が広がらないよう、疱瘡で亡くなった者の遺体を、
当時は無人島であった前島に運び、葬ったとされている。倫十郎もその1人だった。
倫十郎の墓石を取り囲むように6基の小さな墓石が並んでいる。全部が疱瘡墓だったと指摘されている。
また倫十郎の墓石の隣には、『尼妙道信女位』と記された墓碑が佇む。これは疱瘡でなくなった夫である倫十郎を、尼となって弔った妻のものだという。
死してなお、夫に寄り添いたいと願ったのだろう。
これらの疱瘡墓は、近くに住む江上長之助氏が管理をしている。誰かに頼まれて世話をしているわけではなく、自身の親が周辺の雑草を抜いたり、
清掃したりしている姿を見て育ったせいで、おのずと江上氏もそれに倣うようになったという。
五島・前島
http://www.hanachann.net/gotou/gotou.htm...
疱瘡神wikipedia
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長崎県五島市公式サイト gotouまるごとう よかよか五島百景〜前島〜
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日本武尊の叔母・倭姫が渡ってきた島 姫島
愛知の三河湾に浮かぶ田原市唯一の島、姫島。島に平地はほとんどなく、高さは62.1m、島の周囲は約4m。
九州には同名の島があるばかりか、日本各地にも同じ地名が点在している。
三河湾のソレがいつから姫島と呼ばれるようになったのか定かではない。
姫島と冠されるのであればこそ、いろんな伝説も残されているもので、その1つがダイダラボッチ伝説。
とはいえ、これは>>26>>32と、さんざんやったため食傷気味なので却下。かわりに倭姫(やまとひめ)伝説を紹介しよう。
今から2000年ほど前、当時流行した疾病を鎮めるべく、倭姫は天照大神を祀る地を探し、諸国をめぐっていた。
船旅の途中、島に立ち寄り、倭姫はここに滞在した。蚕を飼い、その飼育方法を村人に伝えたという。
後年、姫は島で死去した。今でも蚕の餌となる桑の木や井戸、お墓があると伝えられている。
おそらくこの伝説を契機に、姫島と呼ばれるようになったのだろう。
お供だった伊勢の山田氏や小林氏らが片浜集落に住む人たちの祖先にあたり、姫島に山田と小林姓が多いのはこのためだと言われている。
ちなみに、倭姫は嵐で流され、姫島に流れ着いたとされる諸説もある。一行を乗せた舟は伊良湖水道で暴風雨にあい、梶が折れて流されたが、
ある岬の陰で風をしのぎ、命拾いをした。この岬のことを梶ヶ崎(野田町馬草港の小山)と呼ぶ。
さらに一行は潮に流され、ようやく姫島に漂着した。しばらくここに滞在し、舟を直し仁崎に渡った。
これは天照大神をお祭りする場所の候補地として目をつけたからである。
しかし適当な場所ではなかったため、世話になった村人たちへのお礼に村の中を流れる川の名として、伊勢神宮の内宮前を流れる神聖な川、
五十鈴川の名前を贈ったと言われている。
倭姫は垂仁天皇の第4皇女で、日本武尊の叔母にあたり、伊勢の地に皇大神宮を祭った人とされる伝説上の人物。
また姫島は、江戸時代の地理書には、源頼朝が奉納した御馬の神社(豊川市御津町)の神馬が逃げ出して海を泳ぎ、この島にきたという話から、
飛馬島とも呼ばれるそうだ。
倭姫命wikipedia.
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%80%AD%E5%A7%AB%E5%91%...
こらむ 阿曇連(あずみのむらじ)とサクヤヒメ
http://ascc-style.com/column/2003/11/post-29.htm...
[PDF]歴史探訪クラブ 伝説の島 姫島
http://www.city.tahara.aichi.jp/promotion/koho23/0715/tahara11...
愛知の三河湾に浮かぶ田原市唯一の島、姫島。島に平地はほとんどなく、高さは62.1m、島の周囲は約4m。
九州には同名の島があるばかりか、日本各地にも同じ地名が点在している。
三河湾のソレがいつから姫島と呼ばれるようになったのか定かではない。
姫島と冠されるのであればこそ、いろんな伝説も残されているもので、その1つがダイダラボッチ伝説。
とはいえ、これは>>26>>32と、さんざんやったため食傷気味なので却下。かわりに倭姫(やまとひめ)伝説を紹介しよう。
今から2000年ほど前、当時流行した疾病を鎮めるべく、倭姫は天照大神を祀る地を探し、諸国をめぐっていた。
船旅の途中、島に立ち寄り、倭姫はここに滞在した。蚕を飼い、その飼育方法を村人に伝えたという。
後年、姫は島で死去した。今でも蚕の餌となる桑の木や井戸、お墓があると伝えられている。
おそらくこの伝説を契機に、姫島と呼ばれるようになったのだろう。
お供だった伊勢の山田氏や小林氏らが片浜集落に住む人たちの祖先にあたり、姫島に山田と小林姓が多いのはこのためだと言われている。
ちなみに、倭姫は嵐で流され、姫島に流れ着いたとされる諸説もある。一行を乗せた舟は伊良湖水道で暴風雨にあい、梶が折れて流されたが、
ある岬の陰で風をしのぎ、命拾いをした。この岬のことを梶ヶ崎(野田町馬草港の小山)と呼ぶ。
さらに一行は潮に流され、ようやく姫島に漂着した。しばらくここに滞在し、舟を直し仁崎に渡った。
これは天照大神をお祭りする場所の候補地として目をつけたからである。
しかし適当な場所ではなかったため、世話になった村人たちへのお礼に村の中を流れる川の名として、伊勢神宮の内宮前を流れる神聖な川、
五十鈴川の名前を贈ったと言われている。
倭姫は垂仁天皇の第4皇女で、日本武尊の叔母にあたり、伊勢の地に皇大神宮を祭った人とされる伝説上の人物。
また姫島は、江戸時代の地理書には、源頼朝が奉納した御馬の神社(豊川市御津町)の神馬が逃げ出して海を泳ぎ、この島にきたという話から、
飛馬島とも呼ばれるそうだ。
倭姫命wikipedia.
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%80%AD%E5%A7%AB%E5%91%...
こらむ 阿曇連(あずみのむらじ)とサクヤヒメ
http://ascc-style.com/column/2003/11/post-29.htm...
[PDF]歴史探訪クラブ 伝説の島 姫島
http://www.city.tahara.aichi.jp/promotion/koho23/0715/tahara11...
カナ表記の珍しい島の由来とは? アンジャ島
舞鶴市には珍しい島名の島がある。それがアンジャ(アンジア)島だ。もっとも、現在沖から陸続きになってしまっているのだが。
三浜峠から眼下の小橋の海を見渡すと、アンジャ島を筆頭に、磯葛島、沖葛島の3島が並び、遠方に冠島、沓島を従えている。
このうち、なぜアンジャ島だけがカナ表記なのか? その経緯がこうだ。
どれぐらい昔のことか定かではない。小橋の村に、漁へ行くにも田へ行くにも、一緒に出かけるほど仲のいい兄弟がいた。
ところが当時、流行り病が猛威を振るい、村にも被害がおよんだ。現代なら抗生物質の注射1本で完治する病にすぎないのだが……。
そうなると、>>139>>143>>161のように、感染病患者は離島に隔離するしかない。
当時のまだ名前のついていなかったアンジャ島の前身である無人島に小屋を建て、兄を移り住まわせた。
弟は泣きながら毎日朝夕、小舟で食料を運んだ。しかし日を追うにつれて兄は衰弱し、弟の懸命の看護もむなしく、やがて息を引き取った。
1人残された弟は、毎朝、毎夕、島まで小舟で漕ぎつけ、在りし日の兄を思い、「兄者ー! 兄者ぁ!」と叫ぶのだった。
この弟の切なる叫びがアンジャ島の由来なのだという。
※もしくは南北朝の争いの時代、南朝ゆかりの姫君が落ち延びて、この島に渡り、行在所(あんざいしょ)を建てて隠れていたので、
『行在島』と呼ばれるようになり、それが訛ってアンジャ島に変遷したのではないかとの諸説もある。
舞鶴市民新聞社の運営する舞鶴市近郊ローカルニュースサイト Webみなと舞鶴 NO.90 「アンジャ島」(三浜・小橋)
http://www.maipress.co.jp/menu/rensai/90.htm...
舞鶴市には珍しい島名の島がある。それがアンジャ(アンジア)島だ。もっとも、現在沖から陸続きになってしまっているのだが。
三浜峠から眼下の小橋の海を見渡すと、アンジャ島を筆頭に、磯葛島、沖葛島の3島が並び、遠方に冠島、沓島を従えている。
このうち、なぜアンジャ島だけがカナ表記なのか? その経緯がこうだ。
どれぐらい昔のことか定かではない。小橋の村に、漁へ行くにも田へ行くにも、一緒に出かけるほど仲のいい兄弟がいた。
ところが当時、流行り病が猛威を振るい、村にも被害がおよんだ。現代なら抗生物質の注射1本で完治する病にすぎないのだが……。
そうなると、>>139>>143>>161のように、感染病患者は離島に隔離するしかない。
当時のまだ名前のついていなかったアンジャ島の前身である無人島に小屋を建て、兄を移り住まわせた。
弟は泣きながら毎日朝夕、小舟で食料を運んだ。しかし日を追うにつれて兄は衰弱し、弟の懸命の看護もむなしく、やがて息を引き取った。
1人残された弟は、毎朝、毎夕、島まで小舟で漕ぎつけ、在りし日の兄を思い、「兄者ー! 兄者ぁ!」と叫ぶのだった。
この弟の切なる叫びがアンジャ島の由来なのだという。
※もしくは南北朝の争いの時代、南朝ゆかりの姫君が落ち延びて、この島に渡り、行在所(あんざいしょ)を建てて隠れていたので、
『行在島』と呼ばれるようになり、それが訛ってアンジャ島に変遷したのではないかとの諸説もある。
舞鶴市民新聞社の運営する舞鶴市近郊ローカルニュースサイト Webみなと舞鶴 NO.90 「アンジャ島」(三浜・小橋)
http://www.maipress.co.jp/menu/rensai/90.htm...
クロ宗の死の儀式は存在したのか? その考察1
「クロ宗のもんはな、人間の生肝をとって食(た)もッちいわるッと。病人が死にかかるとな、
夜中に家族のもんも医者もみな人払いをしてな、クロのサカヤと病人と2人だけになってな、何かすると。
それでな、人を病人の部屋へ入れてきたときにはな、病人の身体は白い布でぐるぐる巻きになっとって、
必ずもう息はひきとっておって、床下は血だらけじゃッどよ。
そいで、今度は部屋の灯を消してよ、クロ宗の連中が集まって真っ暗ななかでお通夜みたいなもんがあるんじゃが、
どんから(けれども)そのお通夜みたいなもんは並普通のとは違うて、生魚が出るんじゃッど。
山部落じゃ病人が重くなるというと、大きな魚を買いに出らんならんと。その魚のワタでもとって床下の血をどうとかしてしまう話もあッがよ。
またな、水を沢山使うし死人の身体を洗うとか、水で血を流すとかちゅう話もあッど。
御透視役ちゅうのは、死人を天国とかへ連れて行く役だとかで、剃刀役ちゅうのは、死人の頭を剃ッとか、
生肝を切りとッとかちゅう話もあッど。真っ暗なお通夜みたいなもんに集まるクロの連中の下駄は、みんな裏返してあッと。
その下駄の返し方にも、二段三段の仕掛けがあると。それで朝が来りゃ、真宗のお寺でもういっぺん、立派な葬式をやると。
その仏式のはな、盛大じゃとも、クロを隠すための恰好つけだけじゃと。クロのもんはな、年の暮頃に肉で酒盛りをやると。
子供が生まれると、水で洗ってな、生肉を口に押しつけてやると」
……『鬼無鬼島』より抜粋 太平次が早子に語って聞かせたクロの噂
「クロ宗のもんはな、人間の生肝をとって食(た)もッちいわるッと。病人が死にかかるとな、
夜中に家族のもんも医者もみな人払いをしてな、クロのサカヤと病人と2人だけになってな、何かすると。
それでな、人を病人の部屋へ入れてきたときにはな、病人の身体は白い布でぐるぐる巻きになっとって、
必ずもう息はひきとっておって、床下は血だらけじゃッどよ。
そいで、今度は部屋の灯を消してよ、クロ宗の連中が集まって真っ暗ななかでお通夜みたいなもんがあるんじゃが、
どんから(けれども)そのお通夜みたいなもんは並普通のとは違うて、生魚が出るんじゃッど。
山部落じゃ病人が重くなるというと、大きな魚を買いに出らんならんと。その魚のワタでもとって床下の血をどうとかしてしまう話もあッがよ。
またな、水を沢山使うし死人の身体を洗うとか、水で血を流すとかちゅう話もあッど。
御透視役ちゅうのは、死人を天国とかへ連れて行く役だとかで、剃刀役ちゅうのは、死人の頭を剃ッとか、
生肝を切りとッとかちゅう話もあッど。真っ暗なお通夜みたいなもんに集まるクロの連中の下駄は、みんな裏返してあッと。
その下駄の返し方にも、二段三段の仕掛けがあると。それで朝が来りゃ、真宗のお寺でもういっぺん、立派な葬式をやると。
その仏式のはな、盛大じゃとも、クロを隠すための恰好つけだけじゃと。クロのもんはな、年の暮頃に肉で酒盛りをやると。
子供が生まれると、水で洗ってな、生肉を口に押しつけてやると」
……『鬼無鬼島』より抜粋 太平次が早子に語って聞かせたクロの噂
クロ宗の死の儀式は存在したのか? その考察2
……前スレ>>21で問題のクロ宗の話を書いた。今一度、コピペ(および改良)しておこう。
『クロ宗』の鉄の掟 下甑島(しもこしきじま)
今から400年前(注1)、キリスト教徒が江戸幕府によって迫害されていたころの話。
島原の乱に敗れたあと、彼らは幕府からの厳しい弾圧を逃れるべく、鹿児島県、下甑島に流れ着いた。
離島であるがゆえに幕府の追及も届かない。ようやく安住の地を得た彼らはこの島に片野浦地区をもうけ、なおもキリスト教を信仰し続けた。
とはいえ世間から孤立することにより、キリスト教本来の教えとは異なる独自の宗教を編み出すに至る。それが『クロ宗』だった。
クロス(十字架)が語源といわれ、外部との接触を完全に拒んだ秘密結社的な概念。
驚くべきことに、隠れキリシタンの末裔たちによって今もなお受け継がれているそうだ。
クロ宗の最たる特徴は、死の儀式にある。
信者が生命の危機に瀕した場合、『サカヤ』と呼ばれる司祭のもとに運ばれ、まだ息があるにもかかわらず、生き血と生き胆を摘出するというのだ。
信じ難い話だが、その取り出したるモノを信者全員で食べ、飲み干すという……。
ある大学の民俗学教授は言う。「宗教儀式の中には、死者の魂を取り込むため、身体の一部を食するというものは存在します。
ですが、生きているうちから血と肝を抜くというのは稀ではないでしょうか。サカヤ(司祭)の家から出される遺体は白い布でグルグル巻きにされ、
その布には血が滲んでいるというのですから、恐ろしい儀式ですよね」
とはいうものの、この禁断の儀式の詳細はいまだ明らかにされていない。
クロ宗を信仰する片野浦でも、とりわけ『岡集落』の住人は、よそ者を完全に拒み、取材にも一切応じない姿勢を貫いている。
家屋は全部で20戸ほどの小集落にすぎない。しかもそれぞれの家が、3m前後ものブロック塀で囲まれており、異様な雰囲気を醸し出している。
クロ宗信者には集落内での出来事を一切口外してはならないという鉄の掟があり、それを破った者は命を取られるのではないかとも噂されている。
注1……狭義の意味での禁教令は、慶長17(1612)年、及び翌年に江戸幕府が発令したものであるが、広義の意味では天正15(1587)年の豊臣秀吉に
よるバテレン追放令や明治政府による五榜の掲示が含まれる。
※明治時代まで肝食いをやっていただの、集落に近づけさせないためのデマにすぎないとの諸説がある。あまり真に受けないように。
……前スレ>>21で問題のクロ宗の話を書いた。今一度、コピペ(および改良)しておこう。
『クロ宗』の鉄の掟 下甑島(しもこしきじま)
今から400年前(注1)、キリスト教徒が江戸幕府によって迫害されていたころの話。
島原の乱に敗れたあと、彼らは幕府からの厳しい弾圧を逃れるべく、鹿児島県、下甑島に流れ着いた。
離島であるがゆえに幕府の追及も届かない。ようやく安住の地を得た彼らはこの島に片野浦地区をもうけ、なおもキリスト教を信仰し続けた。
とはいえ世間から孤立することにより、キリスト教本来の教えとは異なる独自の宗教を編み出すに至る。それが『クロ宗』だった。
クロス(十字架)が語源といわれ、外部との接触を完全に拒んだ秘密結社的な概念。
驚くべきことに、隠れキリシタンの末裔たちによって今もなお受け継がれているそうだ。
クロ宗の最たる特徴は、死の儀式にある。
信者が生命の危機に瀕した場合、『サカヤ』と呼ばれる司祭のもとに運ばれ、まだ息があるにもかかわらず、生き血と生き胆を摘出するというのだ。
信じ難い話だが、その取り出したるモノを信者全員で食べ、飲み干すという……。
ある大学の民俗学教授は言う。「宗教儀式の中には、死者の魂を取り込むため、身体の一部を食するというものは存在します。
ですが、生きているうちから血と肝を抜くというのは稀ではないでしょうか。サカヤ(司祭)の家から出される遺体は白い布でグルグル巻きにされ、
その布には血が滲んでいるというのですから、恐ろしい儀式ですよね」
とはいうものの、この禁断の儀式の詳細はいまだ明らかにされていない。
クロ宗を信仰する片野浦でも、とりわけ『岡集落』の住人は、よそ者を完全に拒み、取材にも一切応じない姿勢を貫いている。
家屋は全部で20戸ほどの小集落にすぎない。しかもそれぞれの家が、3m前後ものブロック塀で囲まれており、異様な雰囲気を醸し出している。
クロ宗信者には集落内での出来事を一切口外してはならないという鉄の掟があり、それを破った者は命を取られるのではないかとも噂されている。
注1……狭義の意味での禁教令は、慶長17(1612)年、及び翌年に江戸幕府が発令したものであるが、広義の意味では天正15(1587)年の豊臣秀吉に
よるバテレン追放令や明治政府による五榜の掲示が含まれる。
※明治時代まで肝食いをやっていただの、集落に近づけさせないためのデマにすぎないとの諸説がある。あまり真に受けないように。
クロ宗の死の儀式は存在したのか? その考察3
……この文がいろんなサイトや掲示板でコピペされ、正直困惑している。もろに現地名を書き込んでしまった罪は大きいからだ。
名指ししてるのは当スレだけではなく、それ以前に指摘していたサイトやHP、れっきとした民俗学の報告書もあるのだが、
いずれにせよ、島民と島そのものを貶めることは変わらない。甑島出身の者がこの文を読んで気分を害され、お叱りを受けても致仕方ない。
もはや覆水盆に返らず。だったらこのまま深く切り込み、いっそ事の真偽を見極めるべきではないか。
贖罪の意味を込めて火消しというわけでもないが、こんなデマじみた話をとっとと真相究明し、島の名誉を守らねばなるまい。
そして流布の根絶に努めるべきである。
そもそも冷静なる読者諸兄ならば、「隠れキリシタンの集落はあるにせよ、肝食いなんて都市伝説だろw」と、笑い飛ばして片付けてくれよう。
幼稚な都市伝説だったらいい。しかしながら、なぜこんな奇怪な噂が広がったのか長年検証してみたいと思っていた。
前スレを立ててから4年近く経ったことだし、白状してもよかろう。僕が初めてクロ宗の存在を知ったのは、某コンビニで売っていた宙出版
『実録 怖い島 伝説の奇祭編』(¥550・主に漫画で構成されている)の紙面上でだった。
いかにも下世話でインチキ臭がプンプンしているのは否めないが、暇つぶしにエンターテイメントでも楽しむつもりで読んでみたのだ。
この安っぽい本には、当怖い島スレに取り上げてきたエッセンスがすべて詰まっていた。クロ宗の下甑島をはじめ、悪石島のボゼ、新城島の秘祭、
ハンセン病を隔離した大島、海賊の財宝が眠ると噂される大神島、渡鹿野島、新島の海難法師……あとはありがちで低俗な幽霊ネタである。
同時に多彩な『怖い島』(真贋はさておき)に惹き込まれていき、今では独自に探しまくって、この手のスレでは随一との自負を持っているつもりだ。
それはさておき、クロ宗に関してはオカルト研究家である山口敏太郎氏のサイトにも紹介されているぐらいだから、胡散臭いと言えば胡散臭いのだが。
前置きが長くなった。さっさと検証に入ろう。
とは言っても、フィールドワークによる現地取材を行いたいところだが、こちとらそんな経済的・物理的余裕はない。
しょせんは机上の研究なのだから信憑性に欠けてしまう。まあ、それは仕方ない。
それと、この際だから大胆に結論から言っておこう。さんざん長文で引っ張った挙句、尻切れトンボ的なウヤムヤな締めくくり方はしたくないので、
結論から先に出しておくのも良心的ではないか。それに長文がお嫌いな御仁も少なくない。
……では、クロの死の儀式(血を飲み、肝を食う)はあったか否かと問われれば、「ない」と思われる。
いや、「デマはデマでしかない。もしあったとしても、過去に極々稀にあった」かもしれない。
なんとも歯切れの悪い結論だが、そこに至る過程をこれから述べていこうと思う。
山口敏太郎の妖怪・都市伝説・UMAワールド「ブログ妖怪王」 クロ宗・隠れキリシタン
http://blog.goo.ne.jp/youkaiou/e/3c99c80df48e0430427...
実録 怖い島 伝説の奇祭編
http://www.amazon.co.jp/%E5%AE%9F%E9%8C%B2-%E6%80%96%E...
知られざる 怖い!怪奇村の話
http://www.amazon.co.jp/%E7%9F%A5%E3%82%89%E3%82%8C%E3...
……この文がいろんなサイトや掲示板でコピペされ、正直困惑している。もろに現地名を書き込んでしまった罪は大きいからだ。
名指ししてるのは当スレだけではなく、それ以前に指摘していたサイトやHP、れっきとした民俗学の報告書もあるのだが、
いずれにせよ、島民と島そのものを貶めることは変わらない。甑島出身の者がこの文を読んで気分を害され、お叱りを受けても致仕方ない。
もはや覆水盆に返らず。だったらこのまま深く切り込み、いっそ事の真偽を見極めるべきではないか。
贖罪の意味を込めて火消しというわけでもないが、こんなデマじみた話をとっとと真相究明し、島の名誉を守らねばなるまい。
そして流布の根絶に努めるべきである。
そもそも冷静なる読者諸兄ならば、「隠れキリシタンの集落はあるにせよ、肝食いなんて都市伝説だろw」と、笑い飛ばして片付けてくれよう。
幼稚な都市伝説だったらいい。しかしながら、なぜこんな奇怪な噂が広がったのか長年検証してみたいと思っていた。
前スレを立ててから4年近く経ったことだし、白状してもよかろう。僕が初めてクロ宗の存在を知ったのは、某コンビニで売っていた宙出版
『実録 怖い島 伝説の奇祭編』(¥550・主に漫画で構成されている)の紙面上でだった。
いかにも下世話でインチキ臭がプンプンしているのは否めないが、暇つぶしにエンターテイメントでも楽しむつもりで読んでみたのだ。
この安っぽい本には、当怖い島スレに取り上げてきたエッセンスがすべて詰まっていた。クロ宗の下甑島をはじめ、悪石島のボゼ、新城島の秘祭、
ハンセン病を隔離した大島、海賊の財宝が眠ると噂される大神島、渡鹿野島、新島の海難法師……あとはありがちで低俗な幽霊ネタである。
同時に多彩な『怖い島』(真贋はさておき)に惹き込まれていき、今では独自に探しまくって、この手のスレでは随一との自負を持っているつもりだ。
それはさておき、クロ宗に関してはオカルト研究家である山口敏太郎氏のサイトにも紹介されているぐらいだから、胡散臭いと言えば胡散臭いのだが。
前置きが長くなった。さっさと検証に入ろう。
とは言っても、フィールドワークによる現地取材を行いたいところだが、こちとらそんな経済的・物理的余裕はない。
しょせんは机上の研究なのだから信憑性に欠けてしまう。まあ、それは仕方ない。
それと、この際だから大胆に結論から言っておこう。さんざん長文で引っ張った挙句、尻切れトンボ的なウヤムヤな締めくくり方はしたくないので、
結論から先に出しておくのも良心的ではないか。それに長文がお嫌いな御仁も少なくない。
……では、クロの死の儀式(血を飲み、肝を食う)はあったか否かと問われれば、「ない」と思われる。
いや、「デマはデマでしかない。もしあったとしても、過去に極々稀にあった」かもしれない。
なんとも歯切れの悪い結論だが、そこに至る過程をこれから述べていこうと思う。
山口敏太郎の妖怪・都市伝説・UMAワールド「ブログ妖怪王」 クロ宗・隠れキリシタン
http://blog.goo.ne.jp/youkaiou/e/3c99c80df48e0430427...
実録 怖い島 伝説の奇祭編
http://www.amazon.co.jp/%E5%AE%9F%E9%8C%B2-%E6%80%96%E...
知られざる 怖い!怪奇村の話
http://www.amazon.co.jp/%E7%9F%A5%E3%82%89%E3%82%8C%E3...
クロ宗の死の儀式は存在したのか? その考察4
まずそれには1冊の著書を参考に真相に迫りたい。が、しょせん著書は著書。
いくら作者が入念に取材して得た情報を元に描かれているとはいえフィクションにすぎないので、あらかじめご了承願いたい。
フィクションだとしても、そこから抽出できる『真実』もあるはずだ。
その著書こそ、芥川賞作家、堀田善衛氏の『鬼無鬼島(きぶきじま)』である。
『鬼無鬼島』は堀田氏が昭和32(1957)年に発表した長編小説。内容はまさしくクロ宗をめぐる、ある離島での奇妙な因習の話。
断っておくが、エキセントリックなカルト教団をモチーフにした悪趣味な怪奇小説ではない。
運命に抗う純然たるヒューマンドラマでもあり、同時に青春ものの側面を併せ持ち、理不尽な境遇におかれた若者の葛藤を描いた意欲作である。
舞台は『鬼無鬼島』という架空の島だが、明らかに下甑島がモデルだ。
発表の前年である昭和31(1956)年、堀田氏は鹿児県立図書館の当時の館長、久保田彦穂氏と会談した。
その際、執筆のネタになるものはないかと持ちかけ、久保田氏はすぐさま下甑島のクロ宗こそふさわしいと教示した。
久保田氏は何度か下甑島を訪れており、島の事情に明るかった。そのときにクロ宗について取材しており、
自身では描ききれないこの土俗信仰の世界を勧めたわけだ。
俄然興味を示した堀田氏(この芥川賞作家にして、クロ宗はソソるネタだった)はすぐに下甑島に渡り、1ヶ月滞在。
念入りに取材して『鬼無鬼島』を書き上げたというのだ。
とにもかくにも著書を手に入れ、読んでみることにしたのは言うまでもない。そして読了した結果……。
個人的主観で言わせてもらえば、「面白い、面白くない」という単純な定義からすれば、ハッキリ言って面白いとは言い難い。
拙い読書生活で、好きな本を10指挙げよと問われたならば、僕はノミネートしまい。とはいえ奇妙な余韻が残る印象的な話であったことは確かだ。
あらすじをここに書き連ねるのは無粋だ。以下のリンク先(女おいどん日記 大山昇子 [本]鬼無鬼島)でだいだいの流れがわかるので(もっとも、
中盤あたりまでだが)、そっちでつかむことを勧める。未読の方は面倒でもまずは目を通されよ。
でないと、これから先の話がチンプンカンプンになる。この後のレスにて、物語の後半を暴露していくつもりだ。
もしも興味を持たれ、自分で読んでみたいというならばネタバレにつながる。残念ながらこれ以降のレスは読むべきではない。
女おいどん日記 大山昇子 [本]鬼無鬼島
http://d.hatena.ne.jp/oyama_noboruko/20060810/p...
堀田善衛wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A0%80%E7%94%B0%E5%96%...
椋鳩十(むくはとじゅう・久保田彦穂のペンネーム)wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A4%8B%E9%B3%A9%E5%8D%...
まずそれには1冊の著書を参考に真相に迫りたい。が、しょせん著書は著書。
いくら作者が入念に取材して得た情報を元に描かれているとはいえフィクションにすぎないので、あらかじめご了承願いたい。
フィクションだとしても、そこから抽出できる『真実』もあるはずだ。
その著書こそ、芥川賞作家、堀田善衛氏の『鬼無鬼島(きぶきじま)』である。
『鬼無鬼島』は堀田氏が昭和32(1957)年に発表した長編小説。内容はまさしくクロ宗をめぐる、ある離島での奇妙な因習の話。
断っておくが、エキセントリックなカルト教団をモチーフにした悪趣味な怪奇小説ではない。
運命に抗う純然たるヒューマンドラマでもあり、同時に青春ものの側面を併せ持ち、理不尽な境遇におかれた若者の葛藤を描いた意欲作である。
舞台は『鬼無鬼島』という架空の島だが、明らかに下甑島がモデルだ。
発表の前年である昭和31(1956)年、堀田氏は鹿児県立図書館の当時の館長、久保田彦穂氏と会談した。
その際、執筆のネタになるものはないかと持ちかけ、久保田氏はすぐさま下甑島のクロ宗こそふさわしいと教示した。
久保田氏は何度か下甑島を訪れており、島の事情に明るかった。そのときにクロ宗について取材しており、
自身では描ききれないこの土俗信仰の世界を勧めたわけだ。
俄然興味を示した堀田氏(この芥川賞作家にして、クロ宗はソソるネタだった)はすぐに下甑島に渡り、1ヶ月滞在。
念入りに取材して『鬼無鬼島』を書き上げたというのだ。
とにもかくにも著書を手に入れ、読んでみることにしたのは言うまでもない。そして読了した結果……。
個人的主観で言わせてもらえば、「面白い、面白くない」という単純な定義からすれば、ハッキリ言って面白いとは言い難い。
拙い読書生活で、好きな本を10指挙げよと問われたならば、僕はノミネートしまい。とはいえ奇妙な余韻が残る印象的な話であったことは確かだ。
あらすじをここに書き連ねるのは無粋だ。以下のリンク先(女おいどん日記 大山昇子 [本]鬼無鬼島)でだいだいの流れがわかるので(もっとも、
中盤あたりまでだが)、そっちでつかむことを勧める。未読の方は面倒でもまずは目を通されよ。
でないと、これから先の話がチンプンカンプンになる。この後のレスにて、物語の後半を暴露していくつもりだ。
もしも興味を持たれ、自分で読んでみたいというならばネタバレにつながる。残念ながらこれ以降のレスは読むべきではない。
女おいどん日記 大山昇子 [本]鬼無鬼島
http://d.hatena.ne.jp/oyama_noboruko/20060810/p...
堀田善衛wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A0%80%E7%94%B0%E5%96%...
椋鳩十(むくはとじゅう・久保田彦穂のペンネーム)wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A4%8B%E9%B3%A9%E5%8D%...
クロ宗の死の儀式は存在したのか? その考察5
物語の時代は戦後間もない昭和20年初秋。敗戦でいまだ深手の傷を負い、未来に対する息苦しい閉塞感が文脈から伝わってくる。
舞台は上述したように『鬼無鬼島』。モデルとなった甑島同様、上鬼無鬼島、中鬼無鬼島、下鬼無鬼島の3島からなり、物語の舞台は下鬼無鬼島だ。
作中、クロ宗の信者がいるとされるのが『山部落』という小集落だ。『山部落』には『サカヤ』なる指導者が共同体の上に立っている。
サカヤとは司祭、または昔でいう庄屋か区長を指す。呼び名の語源は『サクラメント』であるとされている。つまり神思を信徒に分け与える役職。
『クロ』『クロ宗』というのは、クロス、すなわち十字架、磔刑から来たことであって、古い隠れキリシタンの一派だろうということだった。
また甑島島民の出自は平家の落人が多いとされている。鬼無鬼島では平家どころか、楠正成や淀君、木村重成、真田幸村の一派が流れてきたと言及。
それに島原の乱で負けて落ちのびてきた隠れキリシタンの末裔が加わり、血はますます渾然一体となったと描かれている。
ところでサカヤの下には2人の忠実な側近がいる。1人は『御透視役(みとおしやく)』、もう1人は『剃刀役(かみそりやく)』なる役職の男たちである。
この2人も、いわゆるクロの死の儀式『秘蹟』で立ち会うのだという。
>>166で上記した儀式は、『実録 怖い島 伝説の奇祭編』によればこうだ(『鬼無鬼島』作中では、ここまでハッキリと言及されていない)。
……クロの信者が生命の危機に瀕したら、サカヤの屋敷に運ばれ、まず完全に外界からシャットアウトされる。
信者を寝台に横え、サカヤと御透視役、剃刀役の4人のみになる。サカヤが祝詞を唱え、次に御透視役が『施術』の実行を告げ、
それを合図に剃刀役が手にした刃物で信者の腹を切り裂く。まだ生きているにもかかわらずである。
したたる血を器に垂らし、裂いた腹に手を突っ込んで『生き胆』を取り出し、それも器に盛る。それを少量ずつ信者らに振る舞うのだという。
本来、御透視役は子供が生まれたときの相談役にすぎず、剃刀役は信者に死人が出たときに遺体の頭に剃刀をあてて、髪の毛を少し剃って取る、
それだけの役でしかなかった。それが迫害されているうちに、イビツに変容してしまったのだとか。
キリシタンは長年、お上から迫害されては耐え忍んできた。その昔、『ゲド(外道)』と蔑まれた信者たちが、自由を求めて方々の離れ島に、
今日でいえば開拓民のようにして逃げ込み、そこで『ヒラキ(開き・開拓者の意)』とか、『イツキ(居付・移住者の意)』とか地元民に蔑まれながらも
信仰を守った。
ところが、世間一般と隔絶した生活を送ってきたために信仰そのものが土俗化。明治5年以後、信仰の自由を得て公教会に戻ろうとしても、
もはや原型をとどめぬほどに変容してしまい、病気平癒や災難よけの加持祈祷の類となったものが、現に五島列島にあるのだという。
amazon.co.jp 潜入!ニッポン不思議島 (宝島社文庫)
http://www.amazon.co.jp/gp/product/4796658262/ref=pd_l...
ニッポン「奇怪島」異聞 (別冊宝島1636 ノンフィクション)
http://www.amazon.co.jp/%E3%83%8B%E3%83%83%E3%83%9D%E3...
ニッポン「神々の島」異聞 (別冊宝島 2065)
http://www.amazon.co.jp/%E3%83%8B%E3%83%83%E3%83%9D%E3...
物語の時代は戦後間もない昭和20年初秋。敗戦でいまだ深手の傷を負い、未来に対する息苦しい閉塞感が文脈から伝わってくる。
舞台は上述したように『鬼無鬼島』。モデルとなった甑島同様、上鬼無鬼島、中鬼無鬼島、下鬼無鬼島の3島からなり、物語の舞台は下鬼無鬼島だ。
作中、クロ宗の信者がいるとされるのが『山部落』という小集落だ。『山部落』には『サカヤ』なる指導者が共同体の上に立っている。
サカヤとは司祭、または昔でいう庄屋か区長を指す。呼び名の語源は『サクラメント』であるとされている。つまり神思を信徒に分け与える役職。
『クロ』『クロ宗』というのは、クロス、すなわち十字架、磔刑から来たことであって、古い隠れキリシタンの一派だろうということだった。
また甑島島民の出自は平家の落人が多いとされている。鬼無鬼島では平家どころか、楠正成や淀君、木村重成、真田幸村の一派が流れてきたと言及。
それに島原の乱で負けて落ちのびてきた隠れキリシタンの末裔が加わり、血はますます渾然一体となったと描かれている。
ところでサカヤの下には2人の忠実な側近がいる。1人は『御透視役(みとおしやく)』、もう1人は『剃刀役(かみそりやく)』なる役職の男たちである。
この2人も、いわゆるクロの死の儀式『秘蹟』で立ち会うのだという。
>>166で上記した儀式は、『実録 怖い島 伝説の奇祭編』によればこうだ(『鬼無鬼島』作中では、ここまでハッキリと言及されていない)。
……クロの信者が生命の危機に瀕したら、サカヤの屋敷に運ばれ、まず完全に外界からシャットアウトされる。
信者を寝台に横え、サカヤと御透視役、剃刀役の4人のみになる。サカヤが祝詞を唱え、次に御透視役が『施術』の実行を告げ、
それを合図に剃刀役が手にした刃物で信者の腹を切り裂く。まだ生きているにもかかわらずである。
したたる血を器に垂らし、裂いた腹に手を突っ込んで『生き胆』を取り出し、それも器に盛る。それを少量ずつ信者らに振る舞うのだという。
本来、御透視役は子供が生まれたときの相談役にすぎず、剃刀役は信者に死人が出たときに遺体の頭に剃刀をあてて、髪の毛を少し剃って取る、
それだけの役でしかなかった。それが迫害されているうちに、イビツに変容してしまったのだとか。
キリシタンは長年、お上から迫害されては耐え忍んできた。その昔、『ゲド(外道)』と蔑まれた信者たちが、自由を求めて方々の離れ島に、
今日でいえば開拓民のようにして逃げ込み、そこで『ヒラキ(開き・開拓者の意)』とか、『イツキ(居付・移住者の意)』とか地元民に蔑まれながらも
信仰を守った。
ところが、世間一般と隔絶した生活を送ってきたために信仰そのものが土俗化。明治5年以後、信仰の自由を得て公教会に戻ろうとしても、
もはや原型をとどめぬほどに変容してしまい、病気平癒や災難よけの加持祈祷の類となったものが、現に五島列島にあるのだという。
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クロ宗の死の儀式は存在したのか? その考察6
ところで、ここで指す『生き肝』とは『肝臓』を表すのか、それとも『肝を冷やす・肝をつぶす』という慣用句があるように、
『心臓』を指すのか、いまいち判然としない。
我々が魚や焼肉の『キモ』を食べる際、店で注文して出される部位は『肝臓』で間違いない。
ところがクロにとってのソレは『心臓』を示唆するのではないかとの見方もあり、一概に決め付けるのは性急すぎる。
そもそもなぜ『生き肝』なのか? 個人的に『生き肝』というキーワードで真っ先に思い浮かぶのは『安達ヶ原の鬼婆』だ。
福島県二本松市の有名な伝説『安達ヶ原の鬼婆』では、乳母・岩手が理由あって旅人を襲い、生き胆を取り出すくだりがあるが、
やはりこの生き胆は心臓のことを示すようだ。
生き胆を取り出し、それを食するという話は古代中国でも散見されるらしい。
生体から取り出したナマに臓器に、そんな難病を治癒するほどの効能・栄養価があるのだろうか?
肝臓か心臓か。いずれにせよ、『信者の核となる肉片』というシンボルと解釈すればよいはずだから、これ以上追求せずともよかろう。
別資料によれば、他の信者らがその生き血を飲むことで、死にゆく人と一心同体となる意味で体内に取り込むのだという。
肝を少しずつ切り分け、みんなが一口ずつ食べる行為とは、生き血を飲むという倫理に反する事実を運命共同体としての『口封じ』の意味合いが
込められていると考えられる。なんともグロテスクなイニシエーションだ。こんなカルト教団が現存する(した)とは俄かに信じ難い。
誤解を招くといけないので念を押すが、『鬼無鬼島』の猟奇的な部分ばかりをクローズアップしてしまったが、内容は極めて誠実な文学作品である。
古臭く頑迷な現状を変革しようとする者(作中ではサカヤである用賀家成が対応)と、若者特有の、理不尽な物事を変革どころか、
打ち壊して無に帰してやりたいと思う主人公を対比させる物語であって、シチュエーションが特異なだけで俗っぽいウケを狙ったものではない。
サクラメントwikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%82%AF%E3%83%...
安達ヶ原・観世寺
http://home.s01.itscom.net/sahara/stone/s_tohoku/fu_kanze...
ヒトに由来する生薬wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%92%E3%83%88%E3%81%...
屍体と民俗 中山太郎
http://www.aozora.gr.jp/cards/001420/files/50270_47671...
ところで、ここで指す『生き肝』とは『肝臓』を表すのか、それとも『肝を冷やす・肝をつぶす』という慣用句があるように、
『心臓』を指すのか、いまいち判然としない。
我々が魚や焼肉の『キモ』を食べる際、店で注文して出される部位は『肝臓』で間違いない。
ところがクロにとってのソレは『心臓』を示唆するのではないかとの見方もあり、一概に決め付けるのは性急すぎる。
そもそもなぜ『生き肝』なのか? 個人的に『生き肝』というキーワードで真っ先に思い浮かぶのは『安達ヶ原の鬼婆』だ。
福島県二本松市の有名な伝説『安達ヶ原の鬼婆』では、乳母・岩手が理由あって旅人を襲い、生き胆を取り出すくだりがあるが、
やはりこの生き胆は心臓のことを示すようだ。
生き胆を取り出し、それを食するという話は古代中国でも散見されるらしい。
生体から取り出したナマに臓器に、そんな難病を治癒するほどの効能・栄養価があるのだろうか?
肝臓か心臓か。いずれにせよ、『信者の核となる肉片』というシンボルと解釈すればよいはずだから、これ以上追求せずともよかろう。
別資料によれば、他の信者らがその生き血を飲むことで、死にゆく人と一心同体となる意味で体内に取り込むのだという。
肝を少しずつ切り分け、みんなが一口ずつ食べる行為とは、生き血を飲むという倫理に反する事実を運命共同体としての『口封じ』の意味合いが
込められていると考えられる。なんともグロテスクなイニシエーションだ。こんなカルト教団が現存する(した)とは俄かに信じ難い。
誤解を招くといけないので念を押すが、『鬼無鬼島』の猟奇的な部分ばかりをクローズアップしてしまったが、内容は極めて誠実な文学作品である。
古臭く頑迷な現状を変革しようとする者(作中ではサカヤである用賀家成が対応)と、若者特有の、理不尽な物事を変革どころか、
打ち壊して無に帰してやりたいと思う主人公を対比させる物語であって、シチュエーションが特異なだけで俗っぽいウケを狙ったものではない。
サクラメントwikipedia
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安達ヶ原・観世寺
http://home.s01.itscom.net/sahara/stone/s_tohoku/fu_kanze...
ヒトに由来する生薬wikipedia
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屍体と民俗 中山太郎
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クロ宗の死の儀式は存在したのか? その考察7
サカヤである用賀家成は60にも届こうかと思える男で、井の中の蛙が村落の長に居座っているのではない。
彼自身、若き日には大阪の私立大学に通い、学生運動に明け暮れ、若気の至りで、世の中を変えてみせるという自負を抱いていた。
そして父であり、先代であるサカヤに反抗して、こんなクロ宗のような得体の知れない信仰をいずれ終わらせてやると鼻息を荒くしていた。
父が勝手に決めた許嫁を拒否し、鹿児島の芸者と一緒になって満州へ渡り20年をすごすも、戦時下、父が老衰で死ぬと同時に帰島。
彼はサカヤのたった1人の世継ぎだったので、懇願に根負けしてその役を引き継いだのだった。
若いころ、法律書生であった彼は人生の無常さを見てきた。いつしか諦念だけが彼を支配した。信じられるものと、信じられないもの隔たり。
友則もまた、数奇な出自と信仰の在り方に怒りを憶えている。サカヤはそんな友則を自身の青年時代と重ね、時に激情をぶつけ合うのだが、
同時に親近感を感じている。
サカヤは信者を集め、「らおらてどのみの、ぜんてらおらて、いよみず、ぱるとり……」(※『主の祈り』が変容した祝詞か?)と、
呪文めいた言葉を呟きながら、錫器に満たした水に手を浸し、その飛沫を信者らに浴びせる。
その行為になんの意味があるのか、もはやサカヤにはわからない。先代の親から受け継いだ盲目的に続けてきた信仰にすぎない。
これが古くから継いできた『伝統』なのだ。
山部落での信者らの暮らしは貧しかったが、用賀家成だけはサカヤの特権で悠々自適の生活を送っていた。
基本的な役目も、台風がすぎたあと畑の被害状況を巡視しては、村人にねぎらいの言葉をかけるような共同体の世話役でしかない。
そんなサカヤ自身も葛藤を抱いている。サカヤ、または『山ノ天皇』と呼ばれ尊敬されていても、しょせんは張子の虎にすぎず空虚だ。
クロ宗とて、中身のつまった権威らしい権威は存在しない。仏教のような拝むべき本尊もなければ神道のように御幣があるわけではなく、
切支丹であるにもかかわらず十字架すら持たない。読んで心が洗われる教典さえないのが実情なのだ。
サカヤは思う。「確たる実権すらないのに、ただ役者のように、サカヤの役を演じているにすぎない。おれはピエロだ」
いつしかサカヤは思考停止させてしまう。いずれおれが死んだら、サカヤなんぞ、おれ1代で終わりにしてしまおうと考える。
昔、西洋からキリスト教と文明が入り込んできた。それが日本の風土に根付くためには、土俗化しなければならなかった。
日本の原始宗教や神仏となじまなければ迫害された。土俗化の過程で、長く厳しい禁圧があったがために、本体はいつの間にか変容した。
その変わり果てたシンボルの1つがサカヤなのだろう。
いっそのことサカヤなど、いやクロ宗という過去の遺物を叩き壊し、きれいさっぱり廃止してもいい頃合なのだ。
なのに村落の連中ときたら古い習俗にしがみつき、サカヤを引き立て秘密の会合を続け、あまつさえ『秘蹟』をしろとそそのかす。
サカヤである用賀家成は60にも届こうかと思える男で、井の中の蛙が村落の長に居座っているのではない。
彼自身、若き日には大阪の私立大学に通い、学生運動に明け暮れ、若気の至りで、世の中を変えてみせるという自負を抱いていた。
そして父であり、先代であるサカヤに反抗して、こんなクロ宗のような得体の知れない信仰をいずれ終わらせてやると鼻息を荒くしていた。
父が勝手に決めた許嫁を拒否し、鹿児島の芸者と一緒になって満州へ渡り20年をすごすも、戦時下、父が老衰で死ぬと同時に帰島。
彼はサカヤのたった1人の世継ぎだったので、懇願に根負けしてその役を引き継いだのだった。
若いころ、法律書生であった彼は人生の無常さを見てきた。いつしか諦念だけが彼を支配した。信じられるものと、信じられないもの隔たり。
友則もまた、数奇な出自と信仰の在り方に怒りを憶えている。サカヤはそんな友則を自身の青年時代と重ね、時に激情をぶつけ合うのだが、
同時に親近感を感じている。
サカヤは信者を集め、「らおらてどのみの、ぜんてらおらて、いよみず、ぱるとり……」(※『主の祈り』が変容した祝詞か?)と、
呪文めいた言葉を呟きながら、錫器に満たした水に手を浸し、その飛沫を信者らに浴びせる。
その行為になんの意味があるのか、もはやサカヤにはわからない。先代の親から受け継いだ盲目的に続けてきた信仰にすぎない。
これが古くから継いできた『伝統』なのだ。
山部落での信者らの暮らしは貧しかったが、用賀家成だけはサカヤの特権で悠々自適の生活を送っていた。
基本的な役目も、台風がすぎたあと畑の被害状況を巡視しては、村人にねぎらいの言葉をかけるような共同体の世話役でしかない。
そんなサカヤ自身も葛藤を抱いている。サカヤ、または『山ノ天皇』と呼ばれ尊敬されていても、しょせんは張子の虎にすぎず空虚だ。
クロ宗とて、中身のつまった権威らしい権威は存在しない。仏教のような拝むべき本尊もなければ神道のように御幣があるわけではなく、
切支丹であるにもかかわらず十字架すら持たない。読んで心が洗われる教典さえないのが実情なのだ。
サカヤは思う。「確たる実権すらないのに、ただ役者のように、サカヤの役を演じているにすぎない。おれはピエロだ」
いつしかサカヤは思考停止させてしまう。いずれおれが死んだら、サカヤなんぞ、おれ1代で終わりにしてしまおうと考える。
昔、西洋からキリスト教と文明が入り込んできた。それが日本の風土に根付くためには、土俗化しなければならなかった。
日本の原始宗教や神仏となじまなければ迫害された。土俗化の過程で、長く厳しい禁圧があったがために、本体はいつの間にか変容した。
その変わり果てたシンボルの1つがサカヤなのだろう。
いっそのことサカヤなど、いやクロ宗という過去の遺物を叩き壊し、きれいさっぱり廃止してもいい頃合なのだ。
なのに村落の連中ときたら古い習俗にしがみつき、サカヤを引き立て秘密の会合を続け、あまつさえ『秘蹟』をしろとそそのかす。
クロ宗の死の儀式は存在したのか? その考察8
友則もまた悩んでいる。
彼は兄、元一が死ねば(あるいは、息があるうちに)サカヤが生き肝を取るのではないかと怖れている。
むしろ熱心な信者である母がそれを願ってさえいる。元一は病気がちで、波乱の生涯だった。せめてサカヤに取ってもらうことより、
あの世で幸せになってくれればと盲目的に願っているのだ。
友則は、生き肝を取る行為とはなんの意味があるのか、憎みつつも知りたい。そして宗教が幅を利かせ、その実うつろなこの現実を壊し、
いつかは鬼無鬼島から恋人の早子とともに出ていくのだ。
物語は元一が死ぬ騒動により、展開がめまぐるしくなるのだが、結局、元一の生き肝は取られることはない。血も飲み干すシーンもない。
てっきり友則はサカヤが兄を殺し、秘蹟をやろうとしたのかと早合点し、激しくつめ寄る。対するサカヤは、こんな真実を明らかにする。
「厳しい禁制の間に文書も印も失い、何がクロ宗に残ったと思う? 一言でいえば本体がなくなってしまい、
キリシタンの妖術だとか魔法だとか呪術だとかと言われたもの。信仰とは何も関係のない、外部の人間どもが垂れ流した噂だけが残った。
肝心の本体がいつの間にか人の心、信仰の中から消えてしまった。そこで今度は自分たちがクロスの信者だということを証明するために、
外部の人間が魔法だの妖術だのと言いふらしていたことを、逆に信者同士でやらねばならなくなった。これが悲劇の始まりだ。
すべては偏見と差別から始まった。たとえば明治初期、『電線が作物の出来を妨げる』だとか、『電線は処女の血を銅線に塗って音信を流す』だとか、
『写真機は人の魂を吸い取る』とか言ったもんだ。
それと同じで、『宣教師は子供の生き肝を食べる』だの、『瀕死の人の眼球をえぐり取る』だなんて、馬鹿げた嘘も流された。
生き肝を取る、生き血を吸うなんて話は、何も宣教師に限ったことじゃない。日本に仏教が入ってきたときでさえ、そんな悪い噂が広まったものだ。
そんな仏教が落ち着いて、いざ今度は切支丹が入ってくると『宣教師は人間を食う』などと、仏教の坊主どもが切支丹信者に信じ込ませようとして、
血に染まった布を宣教師の家の門口に投げ込んだそうだ。すべては浅はかな迷信と、信者を増やさまいとする卑劣なデマだ。
クロの信者は悲惨だった。信仰の対象を失ったうえ、他人に押し付けられた迷信じみた噂を自分たちで実践して、
自分たちの信仰心を試さねばならぬところまで追いつめられたのだ。
『瀕死の信者の生き肝を取る』というのは、おれの推測では、切支丹では死ぬ前に家人を遠ざけてバテレンと2人きりになって懺悔をする、
その家人を遠ざけることから出た妄想じみた推測にすぎない。おれはクロが追いつめられた、と言ったが、追いつめられただけじゃない。
追いつめられて先祖帰りしたのだ。生き肝取りの件は部落の結束が危うくなったときに、サカヤの一生では一度やるだけの『切り札』だった。
現におれがサカヤになってからというもの、一度たりともやっていない」
……と、このように、共同体としてのアイデンティティーの維持が難しくなったとき、彼らは他人(主に薩摩藩が意図的に流したとも)に
後ろ指さされたデマをあえて実行し、信仰心と結束を試したというのだ。日本人特有の負の感情である閉鎖的排他的な『ムラ意識』(シマ意識)なら、
忌み嫌うと同時に怖れるあまり、偏見や悪質なデマを流布させるだろうし、窮地に立たされた被害者側の共同体がそれを受け容れるのも、
なんだか充分に考えられうる話だと思う。
バテレン追放令wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%90%E3%83%86%E3%83%...
日本キリスト教史wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%82%...
幕末物語 Topic15 異人は若い日本女性の生き血を吸うらしい
http://onjweb.com/netbakumaz/jshoda/essay/topic1...
神様の教会世界福音宣教協会 聖書に関する質疑応答
http://japanese.watv.org/truth/qna/content.asp?idx=2147...
都市伝説という謎 都市伝説概要
http://yosicomic.jugem.jp/?cid=...
友則もまた悩んでいる。
彼は兄、元一が死ねば(あるいは、息があるうちに)サカヤが生き肝を取るのではないかと怖れている。
むしろ熱心な信者である母がそれを願ってさえいる。元一は病気がちで、波乱の生涯だった。せめてサカヤに取ってもらうことより、
あの世で幸せになってくれればと盲目的に願っているのだ。
友則は、生き肝を取る行為とはなんの意味があるのか、憎みつつも知りたい。そして宗教が幅を利かせ、その実うつろなこの現実を壊し、
いつかは鬼無鬼島から恋人の早子とともに出ていくのだ。
物語は元一が死ぬ騒動により、展開がめまぐるしくなるのだが、結局、元一の生き肝は取られることはない。血も飲み干すシーンもない。
てっきり友則はサカヤが兄を殺し、秘蹟をやろうとしたのかと早合点し、激しくつめ寄る。対するサカヤは、こんな真実を明らかにする。
「厳しい禁制の間に文書も印も失い、何がクロ宗に残ったと思う? 一言でいえば本体がなくなってしまい、
キリシタンの妖術だとか魔法だとか呪術だとかと言われたもの。信仰とは何も関係のない、外部の人間どもが垂れ流した噂だけが残った。
肝心の本体がいつの間にか人の心、信仰の中から消えてしまった。そこで今度は自分たちがクロスの信者だということを証明するために、
外部の人間が魔法だの妖術だのと言いふらしていたことを、逆に信者同士でやらねばならなくなった。これが悲劇の始まりだ。
すべては偏見と差別から始まった。たとえば明治初期、『電線が作物の出来を妨げる』だとか、『電線は処女の血を銅線に塗って音信を流す』だとか、
『写真機は人の魂を吸い取る』とか言ったもんだ。
それと同じで、『宣教師は子供の生き肝を食べる』だの、『瀕死の人の眼球をえぐり取る』だなんて、馬鹿げた嘘も流された。
生き肝を取る、生き血を吸うなんて話は、何も宣教師に限ったことじゃない。日本に仏教が入ってきたときでさえ、そんな悪い噂が広まったものだ。
そんな仏教が落ち着いて、いざ今度は切支丹が入ってくると『宣教師は人間を食う』などと、仏教の坊主どもが切支丹信者に信じ込ませようとして、
血に染まった布を宣教師の家の門口に投げ込んだそうだ。すべては浅はかな迷信と、信者を増やさまいとする卑劣なデマだ。
クロの信者は悲惨だった。信仰の対象を失ったうえ、他人に押し付けられた迷信じみた噂を自分たちで実践して、
自分たちの信仰心を試さねばならぬところまで追いつめられたのだ。
『瀕死の信者の生き肝を取る』というのは、おれの推測では、切支丹では死ぬ前に家人を遠ざけてバテレンと2人きりになって懺悔をする、
その家人を遠ざけることから出た妄想じみた推測にすぎない。おれはクロが追いつめられた、と言ったが、追いつめられただけじゃない。
追いつめられて先祖帰りしたのだ。生き肝取りの件は部落の結束が危うくなったときに、サカヤの一生では一度やるだけの『切り札』だった。
現におれがサカヤになってからというもの、一度たりともやっていない」
……と、このように、共同体としてのアイデンティティーの維持が難しくなったとき、彼らは他人(主に薩摩藩が意図的に流したとも)に
後ろ指さされたデマをあえて実行し、信仰心と結束を試したというのだ。日本人特有の負の感情である閉鎖的排他的な『ムラ意識』(シマ意識)なら、
忌み嫌うと同時に怖れるあまり、偏見や悪質なデマを流布させるだろうし、窮地に立たされた被害者側の共同体がそれを受け容れるのも、
なんだか充分に考えられうる話だと思う。
バテレン追放令wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%90%E3%83%86%E3%83%...
日本キリスト教史wikipedia
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幕末物語 Topic15 異人は若い日本女性の生き血を吸うらしい
http://onjweb.com/netbakumaz/jshoda/essay/topic1...
神様の教会世界福音宣教協会 聖書に関する質疑応答
http://japanese.watv.org/truth/qna/content.asp?idx=2147...
都市伝説という謎 都市伝説概要
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クロ宗の死の儀式は存在したのか? その考察9
それにしても、心ない近隣住人による誤解と悪質なデマ『宣教師は子供の生き胆を食べる・生き血を吸う』は、なぜ派生したのか?
意外にも、生き胆云々の答えを解くヒントは身近にあるではないか。……それがアンパンマンだ。
なぜアンパンマン、と言うなかれ。
アンパンマンが空腹の者に『顔の一部を分け与える』ことで、パワーダウンするとわかっていても、困っている人を見捨てることはしない。
その自己犠牲の精神とヒーロー性こそ、イエス・キリストのソレと同義ではないか。キリストがカリカチュアされた姿と言っても過言ではない。
2013年10月、原作者やなせ氏が死去の翌日、東京新聞の追悼記事にて「ダンディーで信仰篤いクリスチャンだった」と報じられていたが、
後日、同誌上において「やなせさんをクリスチャンとしたのは誤りでした」との訂正記事を載せている。
クリスチャンであろうがなかろうが、キリスト教となんらかの接点があったはずで、この主人公はキリストを投影しているのは間違いあるまい。
そのアンパンマンが自身のパンを分け与えるということは、『聖体拝領(せいたいはいりょう)』を体現していると見てよい。
カトリックでは、司祭が司式するミサの際、キリストの言葉と聖霊の働きにより、パンと葡萄酒はキリストの肉体と血に聖変化するとされている。
聖変化とは、『パン・葡萄酒という形色のうちに、実体として聖体となる』という意味。
この聖体は父なる神への聖なる捧げものであり、キリストの受難と復活の記念であり、その拝領はイエスとの同義でもありながら、
イエスの神秘体である教会共同体としての一致を表している。
ちなみに、資料『キリシタン書 排耶書』に収録された『サカラメンタ提要付録』にはこうある。アンカー部分が引用文。
>ミサは、イエスの「最後の晩餐」に由来する集いです。イエスは十字架での死の前夜、弟子たちとともに晩餐を行い、
>その席で、「これは私のからだ、私の血である」と言われ、パンと葡萄酒を弟子たちに与えられました。
>そして、「これを私の記念として行いなさい」と、弟子たちに命じました。
>それ以来2000年の間、教会は、イエスの死と復活を記念し、命じられたとおりパンとぶどう酒の中におられるイエスをいただいて、
>イエスと一つに結ばれるミサをおこなっています。ミサの最後には、聖体拝領がおこなわれます。
>信徒は、丸いパンの中におられるキリスト(聖体)をいただきます。(中略)聖体拝領はカトリックの洗礼を受けた信徒に限られますが、
>洗礼をまだ受けておられない方は、代わりに祝福を受けることができます。
>信者と同じように列に並び、司祭または奉仕者の前で「祝福をお願いします」と言って小さく頭を下げてください。
>祝福が終わりましたら「アーメン」と唱え、元の席へお戻りください。
恐らくこのカトリックの『聖体拝領』が、誤解や悪意によって歪められ伝播されたのは明白。伝言ゲームが徐々に曲解された内容になるような
効果も手伝ったかもしれない。だからこそクロ宗に限らず、キリスト教自体が日本に入ってきた直後、いわれなき中傷を浴びた。
宗教のときめき 22. アンパンマンとキリスト教
http://www42.tok2.com/home/yasuiyutaka/tokimeki/22an...
Laudate 第86回 秘跡的いけにえにおける感謝、記念、現存
http://www.pauline.or.jp/catechism/catechism086.ph...
Laudate 第87回 キリストとそのからだである教会の、いけにえによる記念
http://www.pauline.or.jp/catechism/catechism087.ph...
Laudate 第88回 キリストのことばとその霊の力とによるキリストの現存
http://www.pauline.or.jp/catechism/catechism088.ph...
それにしても、心ない近隣住人による誤解と悪質なデマ『宣教師は子供の生き胆を食べる・生き血を吸う』は、なぜ派生したのか?
意外にも、生き胆云々の答えを解くヒントは身近にあるではないか。……それがアンパンマンだ。
なぜアンパンマン、と言うなかれ。
アンパンマンが空腹の者に『顔の一部を分け与える』ことで、パワーダウンするとわかっていても、困っている人を見捨てることはしない。
その自己犠牲の精神とヒーロー性こそ、イエス・キリストのソレと同義ではないか。キリストがカリカチュアされた姿と言っても過言ではない。
2013年10月、原作者やなせ氏が死去の翌日、東京新聞の追悼記事にて「ダンディーで信仰篤いクリスチャンだった」と報じられていたが、
後日、同誌上において「やなせさんをクリスチャンとしたのは誤りでした」との訂正記事を載せている。
クリスチャンであろうがなかろうが、キリスト教となんらかの接点があったはずで、この主人公はキリストを投影しているのは間違いあるまい。
そのアンパンマンが自身のパンを分け与えるということは、『聖体拝領(せいたいはいりょう)』を体現していると見てよい。
カトリックでは、司祭が司式するミサの際、キリストの言葉と聖霊の働きにより、パンと葡萄酒はキリストの肉体と血に聖変化するとされている。
聖変化とは、『パン・葡萄酒という形色のうちに、実体として聖体となる』という意味。
この聖体は父なる神への聖なる捧げものであり、キリストの受難と復活の記念であり、その拝領はイエスとの同義でもありながら、
イエスの神秘体である教会共同体としての一致を表している。
ちなみに、資料『キリシタン書 排耶書』に収録された『サカラメンタ提要付録』にはこうある。アンカー部分が引用文。
>ミサは、イエスの「最後の晩餐」に由来する集いです。イエスは十字架での死の前夜、弟子たちとともに晩餐を行い、
>その席で、「これは私のからだ、私の血である」と言われ、パンと葡萄酒を弟子たちに与えられました。
>そして、「これを私の記念として行いなさい」と、弟子たちに命じました。
>それ以来2000年の間、教会は、イエスの死と復活を記念し、命じられたとおりパンとぶどう酒の中におられるイエスをいただいて、
>イエスと一つに結ばれるミサをおこなっています。ミサの最後には、聖体拝領がおこなわれます。
>信徒は、丸いパンの中におられるキリスト(聖体)をいただきます。(中略)聖体拝領はカトリックの洗礼を受けた信徒に限られますが、
>洗礼をまだ受けておられない方は、代わりに祝福を受けることができます。
>信者と同じように列に並び、司祭または奉仕者の前で「祝福をお願いします」と言って小さく頭を下げてください。
>祝福が終わりましたら「アーメン」と唱え、元の席へお戻りください。
恐らくこのカトリックの『聖体拝領』が、誤解や悪意によって歪められ伝播されたのは明白。伝言ゲームが徐々に曲解された内容になるような
効果も手伝ったかもしれない。だからこそクロ宗に限らず、キリスト教自体が日本に入ってきた直後、いわれなき中傷を浴びた。
宗教のときめき 22. アンパンマンとキリスト教
http://www42.tok2.com/home/yasuiyutaka/tokimeki/22an...
Laudate 第86回 秘跡的いけにえにおける感謝、記念、現存
http://www.pauline.or.jp/catechism/catechism086.ph...
Laudate 第87回 キリストとそのからだである教会の、いけにえによる記念
http://www.pauline.or.jp/catechism/catechism087.ph...
Laudate 第88回 キリストのことばとその霊の力とによるキリストの現存
http://www.pauline.or.jp/catechism/catechism088.ph...
[YouTubeで再生]
クロ宗の死の儀式は存在したのか? その考察10
肝食い・生血を飲む、といった秘蹟の正体はこれで合点がいったと思う。
くり返すが、『鬼無鬼島』は堀田氏が綿密に取材したうえでの作品ながら、サクヤ・用賀家成の独白はリアリティがあるものの、
あくまでフィクションにすぎない。それをどこまで鵜呑みしていいか読み手に委ねられるが、いずれにせよ、
信仰を続けていくことの苦悩と心の叫びは真に迫るものがあろう。
現実的に岡集落内で、過去に秘蹟をやったか否かまでは知る由がない。
やったことがあるかもしれないし、周囲の人間が畏怖するあまり、デマだけが1人歩きしているだけなのかもしれない。
おそらく今はそんな歪んだ信仰も廃れ、秘蹟などもちろん、サカヤそのものも存在するまい。
……あと、ついでに付け加えておく。クロ宗信徒が集るとされる岡集落を取り巻くブロック塀の件である。
3mにも届こうかと思われる高い塀で家を囲み(……が、>>165の画像を見る限り、いくらなんでも『3m』は誇張しすぎだ)、
いかにも閉鎖的な雰囲気を醸す集落の風景は、単に風よけの説が有力だ。
冬になれば谷になった集落に強風が流れ込まぬための防衛策だったともいうが、本当のところはどうだろうか?
『家』そのものと、それを囲う『庭』は、実は人間の潜在意識が働くものである。やたらと窓や玄関を開放して空気を入れ替える家人は、
開放的な性分の人だし、「動物好きに悪い人はいない」と言う人もいるが、過剰な数を飼ってる家人の場合、近隣住人に対し、
吠え声や糞尿の臭いの迷惑も顧みないとなるとエゴイスティックな人と取られかねない。
庭いっぱいに花を作っている人は朗らかで、心に余裕がある人が多い(下世話だが経済的にも余裕がある場合が多い)。
それとは逆に、高い塀や生垣で囲い、玄関には監視カメラを取り付けてある家人は、逆に言えば開放的なはずがない。
自分たちの信仰を誰にも邪魔されたくないからこそ、隠したい心理が働いたのではなかろうか?
まあ、塀の話はこれぐらいにしておこう。塀もまた、しょせん塀でしかない。
……とにかく、クロ宗の死の儀式はこんなカラクリだったわけだ。島という小世界では、習俗や価値観が純粋培養し、長時間を経て熟成され、
時には内地とはかけ離れてしまうことがしばしばある。その変容事例の極北と言えよう。
だからあれほど『※明治まで肝食いをやっていただの、集落に近づけさせないためのデマにすぎないとの諸説がある。真に受けないように』と、
補足しておいたのに、誰かさんがこんな動画作っちゃうんだから……。
今回はいささかレスが長すぎた。検証はこのへんで幕引きしよう。
肝食いや生血飲みを恐れるのではない。それを悪意で歪めてしまう我々の心の闇を恐れるべきなのである。
隠れキリシタン
http://www.geocities.co.jp/Playtown-Knight/7829/texts/kak...
[PDF]2012 年度早稲田大学教育学部講義「日本史研究Ⅳ」22.近世人とキリシタン(2)—異端的宗教活動と潜伏キリシタン 2012.11.20. 大橋幸泰
http://www.f.waseda.jp/yohashi/nihonsikenkyuu/1120.pd...
崖っぷちの一歩 隠れキリシタンについて。
http://blogs.yahoo.co.jp/amat_aya/32169192.htm...
南勢出版 22.キリシタン殉教の地に想う
http://www.nansei-shuppan.com/wp/honda/past-aic/2079...
1995年11月号/第71号 [ずいそう] 古本の話 木村 雅信(きむら まさのぶ ・ 札幌大谷短大教授)
http://kamuimintara.net/detail.php?rskey=71199511z0...
teratown.com@journey » 2009 » 11月 » 11 - 寺町健
http://teratown.com/blog/2009/11/11...
50年ぶりの疑問が解けた! - 河童の川流れ - Yahoo!ブログ
http://blogs.yahoo.co.jp/nakam1866/51965253.htm...
『男の隠れ家』Bohken-Dankichi 鹿児島の旅④…下甑島③
http://blogs.yahoo.co.jp/olivin_kanranseki7/folder/5340...
[PDF]五島列島・椛島における点在集落の歴史 脱カクレキリシタン史の視点 佐藤智敬
http://journal.seijo.ac.jp/gslit/student/jomin/pdf/jpn-02...
クロ宗の死の儀式は存在したのか? その考察10
肝食い・生血を飲む、といった秘蹟の正体はこれで合点がいったと思う。
くり返すが、『鬼無鬼島』は堀田氏が綿密に取材したうえでの作品ながら、サクヤ・用賀家成の独白はリアリティがあるものの、
あくまでフィクションにすぎない。それをどこまで鵜呑みしていいか読み手に委ねられるが、いずれにせよ、
信仰を続けていくことの苦悩と心の叫びは真に迫るものがあろう。
現実的に岡集落内で、過去に秘蹟をやったか否かまでは知る由がない。
やったことがあるかもしれないし、周囲の人間が畏怖するあまり、デマだけが1人歩きしているだけなのかもしれない。
おそらく今はそんな歪んだ信仰も廃れ、秘蹟などもちろん、サカヤそのものも存在するまい。
……あと、ついでに付け加えておく。クロ宗信徒が集るとされる岡集落を取り巻くブロック塀の件である。
3mにも届こうかと思われる高い塀で家を囲み(……が、>>165の画像を見る限り、いくらなんでも『3m』は誇張しすぎだ)、
いかにも閉鎖的な雰囲気を醸す集落の風景は、単に風よけの説が有力だ。
冬になれば谷になった集落に強風が流れ込まぬための防衛策だったともいうが、本当のところはどうだろうか?
『家』そのものと、それを囲う『庭』は、実は人間の潜在意識が働くものである。やたらと窓や玄関を開放して空気を入れ替える家人は、
開放的な性分の人だし、「動物好きに悪い人はいない」と言う人もいるが、過剰な数を飼ってる家人の場合、近隣住人に対し、
吠え声や糞尿の臭いの迷惑も顧みないとなるとエゴイスティックな人と取られかねない。
庭いっぱいに花を作っている人は朗らかで、心に余裕がある人が多い(下世話だが経済的にも余裕がある場合が多い)。
それとは逆に、高い塀や生垣で囲い、玄関には監視カメラを取り付けてある家人は、逆に言えば開放的なはずがない。
自分たちの信仰を誰にも邪魔されたくないからこそ、隠したい心理が働いたのではなかろうか?
まあ、塀の話はこれぐらいにしておこう。塀もまた、しょせん塀でしかない。
……とにかく、クロ宗の死の儀式はこんなカラクリだったわけだ。島という小世界では、習俗や価値観が純粋培養し、長時間を経て熟成され、
時には内地とはかけ離れてしまうことがしばしばある。その変容事例の極北と言えよう。
だからあれほど『※明治まで肝食いをやっていただの、集落に近づけさせないためのデマにすぎないとの諸説がある。真に受けないように』と、
補足しておいたのに、誰かさんがこんな動画作っちゃうんだから……。
今回はいささかレスが長すぎた。検証はこのへんで幕引きしよう。
肝食いや生血飲みを恐れるのではない。それを悪意で歪めてしまう我々の心の闇を恐れるべきなのである。
隠れキリシタン
http://www.geocities.co.jp/Playtown-Knight/7829/texts/kak...
[PDF]2012 年度早稲田大学教育学部講義「日本史研究Ⅳ」22.近世人とキリシタン(2)—異端的宗教活動と潜伏キリシタン 2012.11.20. 大橋幸泰
http://www.f.waseda.jp/yohashi/nihonsikenkyuu/1120.pd...
崖っぷちの一歩 隠れキリシタンについて。
http://blogs.yahoo.co.jp/amat_aya/32169192.htm...
南勢出版 22.キリシタン殉教の地に想う
http://www.nansei-shuppan.com/wp/honda/past-aic/2079...
1995年11月号/第71号 [ずいそう] 古本の話 木村 雅信(きむら まさのぶ ・ 札幌大谷短大教授)
http://kamuimintara.net/detail.php?rskey=71199511z0...
teratown.com@journey » 2009 » 11月 » 11 - 寺町健
http://teratown.com/blog/2009/11/11...
50年ぶりの疑問が解けた! - 河童の川流れ - Yahoo!ブログ
http://blogs.yahoo.co.jp/nakam1866/51965253.htm...
『男の隠れ家』Bohken-Dankichi 鹿児島の旅④…下甑島③
http://blogs.yahoo.co.jp/olivin_kanranseki7/folder/5340...
[PDF]五島列島・椛島における点在集落の歴史 脱カクレキリシタン史の視点 佐藤智敬
http://journal.seijo.ac.jp/gslit/student/jomin/pdf/jpn-02...
クロ宗の死の儀式は存在したのか? その考察11
>>166で『れっきとした民俗学の報告書』と書いたが、1例を紹介しておこう。
昭和11年に出版された『川内地方を中心とせる郷土史と伝説』(著者・鹿児島県立川内中学校編、出版者・鹿児島県立川内中学校より)
の101頁目(サイトの『コマ番号』は『69』)にはクロ宗に関する記述が見られる。全文抜粋しちゃおう。平易な漢字で書きなおしてみた。
アンカー部分がソレ。
>甑島のクロ宗
>甑島、下甑村の片ノ浦には「クロ宗」と称せらるるカトリックに属する一種の密教が現存している。
>片ノ浦海岸を隔たる十町、谷間の山間部落にして八十余戸が密集し、平和な農村部落を形成している。
>部落民の結束極めて固く、すべて秘密主義をとっているため、このクロ宗の本体もまた判然となっていない。
>最近県当局の調査によれば、クロ宗のクロとはキリストのクロスから転化した語と見られている。
>付近の古老の言によれば、今を去る約三百年前、島原の乱に敗れた信徒の一部が信仰の自由を求めて海を渡ってひそかにここに転住したものと言われ、
>したがって現在ではクロ宗に関するよるべき確実な資料は発見されず、ただ部落には十字架を彫り付けた三基の墓碑が遺っているのみである。
>部落民の特殊な風俗について見るに、部落民は極端にクロという言葉を嫌悪し、便所も十字を踏まぬ構造となっている。
>祭礼の行事は年一回深夜、極秘裏に催される。
>この深夜、祭事を行うのは、イエス・キリストの誕生日にヤソ(キリスト)教徒が深夜に祭りを行うという古い習慣があるのを、
>部落民が襲行?しているものと考えられ、信徒死亡の祭りは、まずクロ宗による祭りが行われてあと、喪を発して真宗による葬儀を執行すると言われている。
>同部落の素封家(財産家)大毛示氏は、クロ宗の本家と称せられ祭事を握っているものと言われているが、氏は京都中学を経て中央大学出身の人格者である。
>同氏を中心とする部落民の信仰生活はまた恵まれたものであろう。
近代デジタルライブラリー 川内地方を中心とせる郷土史と伝説
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/125597...
>>166で『れっきとした民俗学の報告書』と書いたが、1例を紹介しておこう。
昭和11年に出版された『川内地方を中心とせる郷土史と伝説』(著者・鹿児島県立川内中学校編、出版者・鹿児島県立川内中学校より)
の101頁目(サイトの『コマ番号』は『69』)にはクロ宗に関する記述が見られる。全文抜粋しちゃおう。平易な漢字で書きなおしてみた。
アンカー部分がソレ。
>甑島のクロ宗
>甑島、下甑村の片ノ浦には「クロ宗」と称せらるるカトリックに属する一種の密教が現存している。
>片ノ浦海岸を隔たる十町、谷間の山間部落にして八十余戸が密集し、平和な農村部落を形成している。
>部落民の結束極めて固く、すべて秘密主義をとっているため、このクロ宗の本体もまた判然となっていない。
>最近県当局の調査によれば、クロ宗のクロとはキリストのクロスから転化した語と見られている。
>付近の古老の言によれば、今を去る約三百年前、島原の乱に敗れた信徒の一部が信仰の自由を求めて海を渡ってひそかにここに転住したものと言われ、
>したがって現在ではクロ宗に関するよるべき確実な資料は発見されず、ただ部落には十字架を彫り付けた三基の墓碑が遺っているのみである。
>部落民の特殊な風俗について見るに、部落民は極端にクロという言葉を嫌悪し、便所も十字を踏まぬ構造となっている。
>祭礼の行事は年一回深夜、極秘裏に催される。
>この深夜、祭事を行うのは、イエス・キリストの誕生日にヤソ(キリスト)教徒が深夜に祭りを行うという古い習慣があるのを、
>部落民が襲行?しているものと考えられ、信徒死亡の祭りは、まずクロ宗による祭りが行われてあと、喪を発して真宗による葬儀を執行すると言われている。
>同部落の素封家(財産家)大毛示氏は、クロ宗の本家と称せられ祭事を握っているものと言われているが、氏は京都中学を経て中央大学出身の人格者である。
>同氏を中心とする部落民の信仰生活はまた恵まれたものであろう。
近代デジタルライブラリー 川内地方を中心とせる郷土史と伝説
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/125597...
津久見島からきた大蛇、娘を憑り殺す 津久見島(つくみじま)
>>38で『臼杵城を鬼や邪から守るための鬼門封じの島』として大分県臼杵市の津久見島を取り上げたが、さらに追加。
この島にも大蛇伝説が残されていたので。ここで登場する大蛇もなんらかの暗喩だろうね。
永禄5(1562)年5月、戦国大名・大友義鎮は臼杵の丹生島(にうじま・現在の臼杵公園)に城を築いて隠棲した。
島の周囲は切り立った絶壁になっており、居城とするには絶好のロケーションだった。義鎮はのちに剃髪し、宗鱗と名乗ったときの話。
宗麟は多くの一族や家老たちを引き連れ、城のまわりに住まわせた。この家老のうちの1人に人目を惹く娘がいた。
幼少より抜きん出て美形だったが、年ごろになって美しさに磨きがかかり、いつしか臼杵城下一の美人と噂されるようになった。
縁談があちこちから持ちかけられた。そのたびに娘は首を横に振り、両親も彼女を手放したくない思いから自宅に閉じ込め、
虫が寄り付かないようにするほどの可愛がりようだった。
ついに娘は18歳の春を迎える。そのころから塞ぎがちになり、木々は緑の芽をふき花が咲き乱れ、誰もが心浮き立つというのに、
表情は日ごと暗い影を落とし、思いつめる日が続くようになった。
時同じくそのころ、臼杵城下町では奇怪な噂が人々の耳目に触れた。臼杵湾内にある津久見島から丹生島城にかけて、
毎夜、銀のさざ波が走ったかと思うと、生臭い一陣の風を伴い、ギラギラ光る怪物が海を渡ってくるという。目撃した者は3日3晩うなされるらしい。
そんななか、娘の病状は日増しに重くなるばかり。父母は娘に問うた。もしや恋の熱病ではあるまいか。
娘は打ち明けた。「毎夜、子の刻(午前零時)をすぎるころ、美しい男性がいずこからともなく通ってくるようになったのです。
すると私は気を失い、その後のことはなにも憶えていないのです。ですがいまでは、その男性のことが忘れられなくなっているありさま。
正直言うと、待ち侘びてさえいるのです」
両親は顔を見合わせた。まさか津久見島から城に渡ってくるという怪物と因果関係があるのではないか。
家来のなかから腕に憶えありの若侍を選び、「怪物の正体を見極めよ。場合によっては斬れ」と宿直を命じた。
真夜中。若侍が寝ずの番をしていると、不意に庭の繁みから若い男の姿が現れ、娘の部屋に入っていった。
若侍は刀に手をかけたまま、金縛りにあったように身動きができない。しばらくすると、件の男が部屋から出てきた。
若侍は裂帛の気迫をふりしぼって抜刀し、「曲者めが!」と叫んで一閃。ところが影を切ったかのごとく手応えはなく、
平然と男は去っていこうとする。
追いすがって今度こそと刀を振るったが、やはり実体がないかのよう。やがて城壁の端に出たかと思うと、ザブンと海に身を躍らせた。
若侍が駆け寄って海をのぞき込み絶句した。男の姿はなく、そこには10mほどもある大蛇が銀色の光を放ち波間をわけていくではないか。
その一件以来、娘のもとに男が通うことはなくなった。
しかしながら娘は日ごと衰弱し、ついには全身の血が枯れ、数日のうちに朽ち木のように見るも無残な姿となり、短い一生を終えたという。
大友義鎮wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%8F%8B%E7%BE%...
豊後水道の奇岩と奇石 豊後水道・津久見市周辺海域で佳丸撮影
http://www.hyper-tsukumi.jp/‾amadai/kiseki.html
パノラマ写真で見る大分県 民話や伝説 大分県の民話や伝説
http://www.d-b.ne.jp/siga/tokusen/minwa.htm...
>>38で『臼杵城を鬼や邪から守るための鬼門封じの島』として大分県臼杵市の津久見島を取り上げたが、さらに追加。
この島にも大蛇伝説が残されていたので。ここで登場する大蛇もなんらかの暗喩だろうね。
永禄5(1562)年5月、戦国大名・大友義鎮は臼杵の丹生島(にうじま・現在の臼杵公園)に城を築いて隠棲した。
島の周囲は切り立った絶壁になっており、居城とするには絶好のロケーションだった。義鎮はのちに剃髪し、宗鱗と名乗ったときの話。
宗麟は多くの一族や家老たちを引き連れ、城のまわりに住まわせた。この家老のうちの1人に人目を惹く娘がいた。
幼少より抜きん出て美形だったが、年ごろになって美しさに磨きがかかり、いつしか臼杵城下一の美人と噂されるようになった。
縁談があちこちから持ちかけられた。そのたびに娘は首を横に振り、両親も彼女を手放したくない思いから自宅に閉じ込め、
虫が寄り付かないようにするほどの可愛がりようだった。
ついに娘は18歳の春を迎える。そのころから塞ぎがちになり、木々は緑の芽をふき花が咲き乱れ、誰もが心浮き立つというのに、
表情は日ごと暗い影を落とし、思いつめる日が続くようになった。
時同じくそのころ、臼杵城下町では奇怪な噂が人々の耳目に触れた。臼杵湾内にある津久見島から丹生島城にかけて、
毎夜、銀のさざ波が走ったかと思うと、生臭い一陣の風を伴い、ギラギラ光る怪物が海を渡ってくるという。目撃した者は3日3晩うなされるらしい。
そんななか、娘の病状は日増しに重くなるばかり。父母は娘に問うた。もしや恋の熱病ではあるまいか。
娘は打ち明けた。「毎夜、子の刻(午前零時)をすぎるころ、美しい男性がいずこからともなく通ってくるようになったのです。
すると私は気を失い、その後のことはなにも憶えていないのです。ですがいまでは、その男性のことが忘れられなくなっているありさま。
正直言うと、待ち侘びてさえいるのです」
両親は顔を見合わせた。まさか津久見島から城に渡ってくるという怪物と因果関係があるのではないか。
家来のなかから腕に憶えありの若侍を選び、「怪物の正体を見極めよ。場合によっては斬れ」と宿直を命じた。
真夜中。若侍が寝ずの番をしていると、不意に庭の繁みから若い男の姿が現れ、娘の部屋に入っていった。
若侍は刀に手をかけたまま、金縛りにあったように身動きができない。しばらくすると、件の男が部屋から出てきた。
若侍は裂帛の気迫をふりしぼって抜刀し、「曲者めが!」と叫んで一閃。ところが影を切ったかのごとく手応えはなく、
平然と男は去っていこうとする。
追いすがって今度こそと刀を振るったが、やはり実体がないかのよう。やがて城壁の端に出たかと思うと、ザブンと海に身を躍らせた。
若侍が駆け寄って海をのぞき込み絶句した。男の姿はなく、そこには10mほどもある大蛇が銀色の光を放ち波間をわけていくではないか。
その一件以来、娘のもとに男が通うことはなくなった。
しかしながら娘は日ごと衰弱し、ついには全身の血が枯れ、数日のうちに朽ち木のように見るも無残な姿となり、短い一生を終えたという。
大友義鎮wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%8F%8B%E7%BE%...
豊後水道の奇岩と奇石 豊後水道・津久見市周辺海域で佳丸撮影
http://www.hyper-tsukumi.jp/‾amadai/kiseki.html
パノラマ写真で見る大分県 民話や伝説 大分県の民話や伝説
http://www.d-b.ne.jp/siga/tokusen/minwa.htm...
姫島婿島物語 向島
山口県防府市南部の瀬戸内海上にはタヌキの島として知られている向島がある。大正15(1926)年2月24日に『向島タヌキ生息地』として
国の天然記念物に指定されてから、指定当初はおよそ2万頭もの個体数を誇っていたが、錦橋の開通にともない近年は野犬が増加。
その食害によって数は激減している。
向島は遥かな昔、神代のころ、豊後国の国東半島の沖合にある姫島に対し、婿島と呼ばれていた。
婿島と称されていた時代、こんな悲恋の物語が残されている。
そのころ、周防国の佐波志那都命(さばしなつのみこと)に、牟礼香来比古(むれかくひこ)という嫡男がいた。
身の丈6尺(1.8m)あまりで筋骨たくましく眉目秀麗ばかりか、たいへんな働き者。
佐波川の荒野を開拓して美田とし、財をたくわえ豊かに暮らしていた。周防国きっての評判の若者であった。
一方、海を隔てた豊後国の国東には、加奈古志比売(かなこしひめ)という、これまた類稀な美貌と、諸芸に秀で誉れ高い姫君がいた。
父の佐伯速阿岐命(さえきのはやあきのみこと)のもとには国中の多くの若者が、ぜひとも婿にと申し込みが殺到したが、美姫と釣り合う若者は見当たらなかった。
姫の縁談に気をもんでいた父のもとへ、ある日、塩土老翁(しおつちのおじ・当スレ>>104を参照)が訪ねてきた。
話を聞いた塩土老翁は、姫にふさわしい若者をあれこれ思案したのち、周防国の牟礼香来比古のことを父君に紹介した。
さっそく佐伯速阿岐命は、老翁に仲介を頼んだすえ、晴れて牟礼香来比古と加奈古志比売は契りを交わした。
しかしながら当時の結婚生活は特殊なものだった。夫婦は一緒に暮らさず、夫も妻も以前と同じく、それぞれの実家に住むのが通例であった。
夫が妻の実家に夜ごと通い、夜のうちだけ妻子と団欒をともにする、週末婚ならぬ半日婚である。
牟礼香来比古は日中を周防国で働き、夜になってから舟ではるばる国東の加奈古志比売のもとに通い、夜明けにまた佐波の浦へ出かけるという、
涙ぐましいハードスケジュールの生活を強いられた。
とはいえ牟礼香来比古は働き者なだけでなはなく、妻思いの若者だったので、夫婦愛はいっそう深まった。
ところが日が経つにつれ、さすがの牟礼香来比古も疲労が重なって健康を損ない、労働意欲までなくしてしまう。佐波川の美田も荒らしてしまう始末。
不憫に思った父、佐波志那都命は、妻のもとへの通うのをやめるよう諭した。それに反し、牟礼香来比古は家人の目をかすめて国東へ通い続けた。
堪忍袋の緒が切れた父の命は、息子の舟に鎖をかけて、舟が出せないようにした。このままでは息子は早晩、命を落としてしまう。
例のごとく家人の目を盗んで牟礼香来比古は、舟に乗り込み櫓を漕ぐが、櫓はきしむばかりで舟は前に進まない。
若者は灯台下暗しを地で行ったことに気づかなかった。「加奈古志比売、加奈古志比売よ……」と、暗い海に向かって叫んだ。
悲しいかな若者は、夜明けとともに舟ごと島へと姿を変えてしまった。いつしか人はその島を婿島と呼ぶようになった。
のちにそれが今日の向島へと変遷するわけである。
一方、夫を待ち侘びた姫も、国東の沖まで舟を出して夫を迎えにいったが、ついに夫が来ないまま夜が明けてしまった。
同じく加奈古志比売も、舟ともども島へと変化した。これが大分の姫島の誕生だった。
このように恋い慕う夫婦の仲が引き裂かれて離島となり、海を隔てて向かい合って、現在もたがいに会いたがっているというのだ。
向島公民館(出張所) 向島探訪
http://www.city.hofu.yamaguchi.jp/site/mukoushima-kom/mukokom-ta...
豊徳園ライブラリー
http://www14.plala.or.jp/hotokuenhp/libraryind.ht...
^^冬 銀 河^^のブログ 銀河通信 島に渡るには遮断機に注意
http://ameblo.jp/gingayamato/entry-11928923605....
山口県防府市南部の瀬戸内海上にはタヌキの島として知られている向島がある。大正15(1926)年2月24日に『向島タヌキ生息地』として
国の天然記念物に指定されてから、指定当初はおよそ2万頭もの個体数を誇っていたが、錦橋の開通にともない近年は野犬が増加。
その食害によって数は激減している。
向島は遥かな昔、神代のころ、豊後国の国東半島の沖合にある姫島に対し、婿島と呼ばれていた。
婿島と称されていた時代、こんな悲恋の物語が残されている。
そのころ、周防国の佐波志那都命(さばしなつのみこと)に、牟礼香来比古(むれかくひこ)という嫡男がいた。
身の丈6尺(1.8m)あまりで筋骨たくましく眉目秀麗ばかりか、たいへんな働き者。
佐波川の荒野を開拓して美田とし、財をたくわえ豊かに暮らしていた。周防国きっての評判の若者であった。
一方、海を隔てた豊後国の国東には、加奈古志比売(かなこしひめ)という、これまた類稀な美貌と、諸芸に秀で誉れ高い姫君がいた。
父の佐伯速阿岐命(さえきのはやあきのみこと)のもとには国中の多くの若者が、ぜひとも婿にと申し込みが殺到したが、美姫と釣り合う若者は見当たらなかった。
姫の縁談に気をもんでいた父のもとへ、ある日、塩土老翁(しおつちのおじ・当スレ>>104を参照)が訪ねてきた。
話を聞いた塩土老翁は、姫にふさわしい若者をあれこれ思案したのち、周防国の牟礼香来比古のことを父君に紹介した。
さっそく佐伯速阿岐命は、老翁に仲介を頼んだすえ、晴れて牟礼香来比古と加奈古志比売は契りを交わした。
しかしながら当時の結婚生活は特殊なものだった。夫婦は一緒に暮らさず、夫も妻も以前と同じく、それぞれの実家に住むのが通例であった。
夫が妻の実家に夜ごと通い、夜のうちだけ妻子と団欒をともにする、週末婚ならぬ半日婚である。
牟礼香来比古は日中を周防国で働き、夜になってから舟ではるばる国東の加奈古志比売のもとに通い、夜明けにまた佐波の浦へ出かけるという、
涙ぐましいハードスケジュールの生活を強いられた。
とはいえ牟礼香来比古は働き者なだけでなはなく、妻思いの若者だったので、夫婦愛はいっそう深まった。
ところが日が経つにつれ、さすがの牟礼香来比古も疲労が重なって健康を損ない、労働意欲までなくしてしまう。佐波川の美田も荒らしてしまう始末。
不憫に思った父、佐波志那都命は、妻のもとへの通うのをやめるよう諭した。それに反し、牟礼香来比古は家人の目をかすめて国東へ通い続けた。
堪忍袋の緒が切れた父の命は、息子の舟に鎖をかけて、舟が出せないようにした。このままでは息子は早晩、命を落としてしまう。
例のごとく家人の目を盗んで牟礼香来比古は、舟に乗り込み櫓を漕ぐが、櫓はきしむばかりで舟は前に進まない。
若者は灯台下暗しを地で行ったことに気づかなかった。「加奈古志比売、加奈古志比売よ……」と、暗い海に向かって叫んだ。
悲しいかな若者は、夜明けとともに舟ごと島へと姿を変えてしまった。いつしか人はその島を婿島と呼ぶようになった。
のちにそれが今日の向島へと変遷するわけである。
一方、夫を待ち侘びた姫も、国東の沖まで舟を出して夫を迎えにいったが、ついに夫が来ないまま夜が明けてしまった。
同じく加奈古志比売も、舟ともども島へと変化した。これが大分の姫島の誕生だった。
このように恋い慕う夫婦の仲が引き裂かれて離島となり、海を隔てて向かい合って、現在もたがいに会いたがっているというのだ。
向島公民館(出張所) 向島探訪
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前スレもスレッド5ページ以降に流れてしまっても、ちゃんと検索すれば生存が確認できます。
あいにくサイズ500KBを超過をしてしまい、レスできませんが。
怖い島・いわくつきの村・総合
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