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続・怖い島・いわくつきの村
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全国に散らばる、おっかない伝承伝説が伝わる離島専用スレッド第2弾です(若干ながら村ネタもあり)。
もちろん島の奇祭や神秘の風習、島のみならずワケあり岩礁や奇岩なども含み、いかがわしいオカルトにとどまらず、
れっきとした民俗学としての側面を持ち合わせています。島ネタに関して異常に特化したソレを目指すつもりです。
……前スレが500レスに達する前に続編を立てた理由は、サイズが500KBを超過してしまい書き込めなくなったためです。
せっかく満杯になるまで文字で埋め尽くし、有終の美を飾ろうとしたのにカウンターストップとは……。いささか文章がボリューミーすぎたかも。
まあ、めげずにご要望に応え、続・怖い島と行きましょう。
ちなみに……スレ自体を保存し、あとで読む方法をお教えします。
書き込みできなくなったスレは後ろへ流れてしまい、新スレが立ち上がるたび、古いものから消えてしまいます。
そうなる前に貴重なスレは永久保存しておきましょう。前スレはネット世界は広しといえど、近年類を見ない極上の資料スレですぞ。
以下は、その手順。
任意のスレ内の適当な空白で右クリック→プロパティ→アドレスをコピー→画面上部のアドレス直接入力枠にペースト→そのアドレスへ飛ぶ→
このスレが表示される→ファイル→名前を付けて保存。
※スレ画は前スレ>>188で紹介した、愛知県蒲郡市、三河大島にある仏島(島というより岩礁だが)。
癒されたい僕のブログ カヤック編 三河大島へ
http://blog.livedoor.jp/usa_usao5/archives/1697874.htm...
もちろん島の奇祭や神秘の風習、島のみならずワケあり岩礁や奇岩なども含み、いかがわしいオカルトにとどまらず、
れっきとした民俗学としての側面を持ち合わせています。島ネタに関して異常に特化したソレを目指すつもりです。
……前スレが500レスに達する前に続編を立てた理由は、サイズが500KBを超過してしまい書き込めなくなったためです。
せっかく満杯になるまで文字で埋め尽くし、有終の美を飾ろうとしたのにカウンターストップとは……。いささか文章がボリューミーすぎたかも。
まあ、めげずにご要望に応え、続・怖い島と行きましょう。
ちなみに……スレ自体を保存し、あとで読む方法をお教えします。
書き込みできなくなったスレは後ろへ流れてしまい、新スレが立ち上がるたび、古いものから消えてしまいます。
そうなる前に貴重なスレは永久保存しておきましょう。前スレはネット世界は広しといえど、近年類を見ない極上の資料スレですぞ。
以下は、その手順。
任意のスレ内の適当な空白で右クリック→プロパティ→アドレスをコピー→画面上部のアドレス直接入力枠にペースト→そのアドレスへ飛ぶ→
このスレが表示される→ファイル→名前を付けて保存。
※スレ画は前スレ>>188で紹介した、愛知県蒲郡市、三河大島にある仏島(島というより岩礁だが)。
癒されたい僕のブログ カヤック編 三河大島へ
http://blog.livedoor.jp/usa_usao5/archives/1697874.htm...
※省略されてます すべて表示...
>>13
そう言ってくれて感謝。
サイト立ち上げは考えたことがあるけど、あくまで余興でやってるだけだから勘弁ね。
飽きっぽい性格だから、たぶんモチベーションが持続しないと思う。それに最近はネタも枯渇しつつあるし、
このスレも続編を立てたはいいがどこまで続けることができるかどうか怪しかったり……。
そういう危ういバランスを保ったまま、這うように進んでいくだけです。
罪人を突き落とした処刑場跡・三丁落鼻 与路島(よろしま)
鹿児島県は奄美群島に属する有人島の与路島。島には集落が1つしかない。
家々はサンゴを積み上げた石垣が連なり、南方系特有の景観が広がっている。標高297mの大勝山を中心に、ほとんどが山で形成されている。
そんな与路島には島の南側に『三丁落鼻』と呼ばれるいわくつきの断崖絶壁がある。ここはかつて藩政時代、罪人の処刑場だったのだ。
処刑法は罪人をこの断崖から突き落とすやり方。高さは優に100mを超える。落ちたらひとたまりもあるまい。
あるとき、役人が1人の罪人を引きつれて三丁落鼻に行き、刑を執行することになった。時刻はまさに太陽が東から昇ったばかりの早朝。
刑の執行前、罪人は役人に向かってこう言った。
「あんなきれいな太陽を前にして死んでいくのは忍び難い。どうせこの世から消え去るなら、せめてささやかな頼みを聞いてくれ。
どうか太陽を背にしておれを落としてくれ。そもそも海の方を向いて突き落とされるのは怖い」
「どちらに転んでも、もうすぐおまえは死ぬんだ。……よかろう」と、役人は了解した。
ところが突き落とす瞬間、罪人はとっさに役人の胸ぐらをつかむと抱きしめ、もろとも転落した。怒涛が2人をかき消した。
これ以来、三丁落鼻での処刑は行われなくなったという。
SIESTA 秘島・大島海峡クルージング
http://www.nippon-ocean.jp/plan/kakerom...
徒然なる奄美 与路島・海物語
http://amamiturezure.blog67.fc2.com/blog-entry-440.htm...
奄美ホライゾン日記blog
http://amahorizon.exblog.jp/i5/32...
そう言ってくれて感謝。
サイト立ち上げは考えたことがあるけど、あくまで余興でやってるだけだから勘弁ね。
飽きっぽい性格だから、たぶんモチベーションが持続しないと思う。それに最近はネタも枯渇しつつあるし、
このスレも続編を立てたはいいがどこまで続けることができるかどうか怪しかったり……。
そういう危ういバランスを保ったまま、這うように進んでいくだけです。
罪人を突き落とした処刑場跡・三丁落鼻 与路島(よろしま)
鹿児島県は奄美群島に属する有人島の与路島。島には集落が1つしかない。
家々はサンゴを積み上げた石垣が連なり、南方系特有の景観が広がっている。標高297mの大勝山を中心に、ほとんどが山で形成されている。
そんな与路島には島の南側に『三丁落鼻』と呼ばれるいわくつきの断崖絶壁がある。ここはかつて藩政時代、罪人の処刑場だったのだ。
処刑法は罪人をこの断崖から突き落とすやり方。高さは優に100mを超える。落ちたらひとたまりもあるまい。
あるとき、役人が1人の罪人を引きつれて三丁落鼻に行き、刑を執行することになった。時刻はまさに太陽が東から昇ったばかりの早朝。
刑の執行前、罪人は役人に向かってこう言った。
「あんなきれいな太陽を前にして死んでいくのは忍び難い。どうせこの世から消え去るなら、せめてささやかな頼みを聞いてくれ。
どうか太陽を背にしておれを落としてくれ。そもそも海の方を向いて突き落とされるのは怖い」
「どちらに転んでも、もうすぐおまえは死ぬんだ。……よかろう」と、役人は了解した。
ところが突き落とす瞬間、罪人はとっさに役人の胸ぐらをつかむと抱きしめ、もろとも転落した。怒涛が2人をかき消した。
これ以来、三丁落鼻での処刑は行われなくなったという。
SIESTA 秘島・大島海峡クルージング
http://www.nippon-ocean.jp/plan/kakerom...
徒然なる奄美 与路島・海物語
http://amamiturezure.blog67.fc2.com/blog-entry-440.htm...
奄美ホライゾン日記blog
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サバイバルの殿様、リベンジャーとなり生還を果たす 玄界島(げんかいじま)
玄界島は福岡湾の出入口に浮かぶ離島だ。標高218mの遠見山を中心に斜面が海岸線まで続き、平地はほとんどなく、
港がある南側の斜面に集落が張り付くように軒を並べている。
玄界島には太古より『百合若伝説』が伝えられており、それにまつわる小鷹神社が鎮座している。
百合若伝説は日本八大伝説の1つで、室町時代には幸若舞として脚色され、のちに近松門左衛門の浄瑠璃に影響を与えているという。
その伝説とは以下のとおりである。
昔、豊後の国主である百合若大臣という巨漢の殿様がいた。百合若は唯一、鉄の弓を引くことができる名人でもあった。
あるとき遠征に出かけた際、部下である別府貞澄の裏切りに遭い、当時は無人島であった玄界島に1人取り残されてしまう。
しかし強靭な意志をもつ百合若は、必ず故国に帰ることを誓い、木で作った弓で魚を射ては、それを食って生き抜いた。
とはいえ島での忍従生活は無味乾燥なものだった。耳に入るのは波が打ち寄せる音だけ。目にするものは大海原と空のみ。
夜、寝そべり、夜空の星を数えるでしか無聊を慰めるしかない。いつしか孤独に打ちのめされ、心が折れそうになる。
しだいに着ている服はボロ同然となり、髪もひげも伸び放題、肌は真っ赤に日焼け、さながら赤鬼のように変わり果てた。
かつての地位は見る陰もなかった。
しばらく経ったある日、百合若が獲物を狙っていると、空から1羽の鷹が飛んでくるではないか。
紛れもない。それはかつて百合若が可愛がっていた『緑丸』に相違ない。幾百の孤独の日々に耐え忍んできた百合若にとって、
愛鷹との再会は天にも昇るようであった。
百合若はさっそく着物の端をちぎってそれを紙とし、指を切って血文字で自身の無事をつづり、妻宛にと緑丸の足に手紙をくくりつけた。
あとは緑丸が無事豊後の国に帰り、妻に届けてくれるよう願うしかあるまい。
ところが待てど暮らせど緑丸は戻ってこない。ある日、島を散策していると、波打ち際に緑丸が力尽きて死んでいるのを発見する。
百合若は嘆き悲しんだが、緑丸の足に妻からの伝言が結わえてあるのを見つけると、むさぼるようにそれを読んだ。
手紙によると、裏切り者、貞澄は大臣になっていた。しかも百合若の妻を奪った挙句、牢に閉じ込めたうえ、民衆には重税を課し、
自身を含め権力者たちは贅沢の限りを尽くしていた。民はいま、絶望に打ちひしがれているという。
百合若の身内に沸々とマグマのような怒りがこみ上げてきた。
このまま野垂れ死にしてなるものか。必ずや豊後へ舞い戻り、妻を奪還し、奴に復讐の一矢を突き立ててやる。
その願いが天に届いたか、1艘の難破船が漂着した。百合若はそれを修繕し、ついに玄界島を脱出。一路、故国を目指す。
折しも豊後の国では、貞澄が力自慢の部下を集めて、鉄の弓を引かせる催しに戯れていた。みごと弓を引けた者には褒美を取らすという。
部下はこぞって挑戦するものの、鉄弓はビクともしない。何人束になってかかろうがまるでダメ。
そのとき、屋敷の屋根の上で、呵々大笑する巨漢が現われた。その姿は髪もひげも伸び放題の汚い男。
「その弓はおれにしか引けん。どれ、やらせてみろ」と、男は言った。
時ならぬ狼藉者に貞澄は激怒した。「たわけたことを。だったら引いてみるがよい。もしも引けぬなら打ち首にしてやるぞ!」
巨漢は鉄弓を手にすると、やすやすと引き絞った。そして貞澄に矢を向けてこう言った。「貞澄、待たせたな、地獄の底から這い戻ってきたぞ。
このおれが誰だかわかるか!」
「……ま、まさか百合若? 生きていたのか!」
「貞澄、おれをひと思いに殺さなかったのが運の尽きだ!」百合若は言うと、矢を放った。矢は貞澄の心臓を射抜き、仇は桟敷から転落した。
その後、百合若は妻と再会を果たし、ふたたび大臣と返り咲いた。時間はかかったが国はもとの平穏を取り戻した。
百合若大臣wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%99%BE%E5%90%88%E8%8B%...
日本語と日本文化 幸若舞「百合若大臣」(日本版「オデッセー」の物語)
http://japanese.hix05.com/Performing/kowaka/kowaka02.htm...
Dailymotion動画 0126 百合若大臣
http://www.dailymotion.com/video/xkoef0_0126-%E7%99%BE%E5...
福岡県島めぐり 玄界島
http://www.yado.co.jp/sima/genkai/genkai.ht...
玄界島は福岡湾の出入口に浮かぶ離島だ。標高218mの遠見山を中心に斜面が海岸線まで続き、平地はほとんどなく、
港がある南側の斜面に集落が張り付くように軒を並べている。
玄界島には太古より『百合若伝説』が伝えられており、それにまつわる小鷹神社が鎮座している。
百合若伝説は日本八大伝説の1つで、室町時代には幸若舞として脚色され、のちに近松門左衛門の浄瑠璃に影響を与えているという。
その伝説とは以下のとおりである。
昔、豊後の国主である百合若大臣という巨漢の殿様がいた。百合若は唯一、鉄の弓を引くことができる名人でもあった。
あるとき遠征に出かけた際、部下である別府貞澄の裏切りに遭い、当時は無人島であった玄界島に1人取り残されてしまう。
しかし強靭な意志をもつ百合若は、必ず故国に帰ることを誓い、木で作った弓で魚を射ては、それを食って生き抜いた。
とはいえ島での忍従生活は無味乾燥なものだった。耳に入るのは波が打ち寄せる音だけ。目にするものは大海原と空のみ。
夜、寝そべり、夜空の星を数えるでしか無聊を慰めるしかない。いつしか孤独に打ちのめされ、心が折れそうになる。
しだいに着ている服はボロ同然となり、髪もひげも伸び放題、肌は真っ赤に日焼け、さながら赤鬼のように変わり果てた。
かつての地位は見る陰もなかった。
しばらく経ったある日、百合若が獲物を狙っていると、空から1羽の鷹が飛んでくるではないか。
紛れもない。それはかつて百合若が可愛がっていた『緑丸』に相違ない。幾百の孤独の日々に耐え忍んできた百合若にとって、
愛鷹との再会は天にも昇るようであった。
百合若はさっそく着物の端をちぎってそれを紙とし、指を切って血文字で自身の無事をつづり、妻宛にと緑丸の足に手紙をくくりつけた。
あとは緑丸が無事豊後の国に帰り、妻に届けてくれるよう願うしかあるまい。
ところが待てど暮らせど緑丸は戻ってこない。ある日、島を散策していると、波打ち際に緑丸が力尽きて死んでいるのを発見する。
百合若は嘆き悲しんだが、緑丸の足に妻からの伝言が結わえてあるのを見つけると、むさぼるようにそれを読んだ。
手紙によると、裏切り者、貞澄は大臣になっていた。しかも百合若の妻を奪った挙句、牢に閉じ込めたうえ、民衆には重税を課し、
自身を含め権力者たちは贅沢の限りを尽くしていた。民はいま、絶望に打ちひしがれているという。
百合若の身内に沸々とマグマのような怒りがこみ上げてきた。
このまま野垂れ死にしてなるものか。必ずや豊後へ舞い戻り、妻を奪還し、奴に復讐の一矢を突き立ててやる。
その願いが天に届いたか、1艘の難破船が漂着した。百合若はそれを修繕し、ついに玄界島を脱出。一路、故国を目指す。
折しも豊後の国では、貞澄が力自慢の部下を集めて、鉄の弓を引かせる催しに戯れていた。みごと弓を引けた者には褒美を取らすという。
部下はこぞって挑戦するものの、鉄弓はビクともしない。何人束になってかかろうがまるでダメ。
そのとき、屋敷の屋根の上で、呵々大笑する巨漢が現われた。その姿は髪もひげも伸び放題の汚い男。
「その弓はおれにしか引けん。どれ、やらせてみろ」と、男は言った。
時ならぬ狼藉者に貞澄は激怒した。「たわけたことを。だったら引いてみるがよい。もしも引けぬなら打ち首にしてやるぞ!」
巨漢は鉄弓を手にすると、やすやすと引き絞った。そして貞澄に矢を向けてこう言った。「貞澄、待たせたな、地獄の底から這い戻ってきたぞ。
このおれが誰だかわかるか!」
「……ま、まさか百合若? 生きていたのか!」
「貞澄、おれをひと思いに殺さなかったのが運の尽きだ!」百合若は言うと、矢を放った。矢は貞澄の心臓を射抜き、仇は桟敷から転落した。
その後、百合若は妻と再会を果たし、ふたたび大臣と返り咲いた。時間はかかったが国はもとの平穏を取り戻した。
百合若大臣wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%99%BE%E5%90%88%E8%8B%...
日本語と日本文化 幸若舞「百合若大臣」(日本版「オデッセー」の物語)
http://japanese.hix05.com/Performing/kowaka/kowaka02.htm...
Dailymotion動画 0126 百合若大臣
http://www.dailymotion.com/video/xkoef0_0126-%E7%99%BE%E5...
福岡県島めぐり 玄界島
http://www.yado.co.jp/sima/genkai/genkai.ht...
時間厳守の島 六島(むしま)
長崎県の野崎島から北約1kmにある小島を六島と呼ぶ。人口は年々減り、今では30人ほどしか住んでいない。
小中学校分校はすでに廃校となり、診療所もないどころか1台の車すらないんだとか。
野崎島の東南にある小値賀島の笛吹港から定期船が出ており、六島にも寄るのだが降りる人も乗る人もほとんどいない。
そんな六島であるが、1つだけ他とは異なる『島憲法』がある。というのも、六島は時間厳守の島として知られているのだ。
ここでは自治会長(1年交替制)が決められ、漁業の入金、公共料金の支払いなど、島のお金の出入りはすべて会長が一括して行っており、
いわゆる共和制度を今も残している。
そもそも時間に厳しくなったにはわけがある。明治時代に発生したある事故がきっかけとなったという。
昔から六島の周囲は潮の流れが速く、港の出入りは苦労が絶えなかった。あるとき、1人の島民が船の出発時刻に遅れ、
その間に潮の流れが変わってしまい、船が潮に揉まれるうちに転覆事故を起こした。
以来、六島では時間に遅れることは御法度となったという。
それゆえ、こんなエピソードも生まれた。ある日、葬式をするため別の島へ僧侶を迎えに行ったはいいが、
約束した時刻に僧侶が間に合わなかったので船はそのまま六島に引き返してしまった……。
厳しい自然環境に囲まれているからこそルールは厳格に守る。生きることはかくも真剣なのだ。
上五島・小値賀ポータルサイト 時間厳守の島 島憲法もある時間厳守の島・六島
http://www.japan-island.info/portal/guide?cntnts_id=59&gnre...
五島の歴史(パート7)
http://members3.jcom.home.ne.jp/honnjyo/120rekisi.ht...
長崎県の野崎島から北約1kmにある小島を六島と呼ぶ。人口は年々減り、今では30人ほどしか住んでいない。
小中学校分校はすでに廃校となり、診療所もないどころか1台の車すらないんだとか。
野崎島の東南にある小値賀島の笛吹港から定期船が出ており、六島にも寄るのだが降りる人も乗る人もほとんどいない。
そんな六島であるが、1つだけ他とは異なる『島憲法』がある。というのも、六島は時間厳守の島として知られているのだ。
ここでは自治会長(1年交替制)が決められ、漁業の入金、公共料金の支払いなど、島のお金の出入りはすべて会長が一括して行っており、
いわゆる共和制度を今も残している。
そもそも時間に厳しくなったにはわけがある。明治時代に発生したある事故がきっかけとなったという。
昔から六島の周囲は潮の流れが速く、港の出入りは苦労が絶えなかった。あるとき、1人の島民が船の出発時刻に遅れ、
その間に潮の流れが変わってしまい、船が潮に揉まれるうちに転覆事故を起こした。
以来、六島では時間に遅れることは御法度となったという。
それゆえ、こんなエピソードも生まれた。ある日、葬式をするため別の島へ僧侶を迎えに行ったはいいが、
約束した時刻に僧侶が間に合わなかったので船はそのまま六島に引き返してしまった……。
厳しい自然環境に囲まれているからこそルールは厳格に守る。生きることはかくも真剣なのだ。
上五島・小値賀ポータルサイト 時間厳守の島 島憲法もある時間厳守の島・六島
http://www.japan-island.info/portal/guide?cntnts_id=59&gnre...
五島の歴史(パート7)
http://members3.jcom.home.ne.jp/honnjyo/120rekisi.ht...
哀れ白縫姫、蛇体となりて行方をくらます……『白縫姫伝説』 蛇島(じゃじま)
かつて長崎県佐世保市の九十九島に属する五島灘に、蛇島と呼ばれる無人島があった。
島には悲しくも不思議な伝説が語り継がれているが、今やそれも忘却の彼方に押しやられようとしている。
時は戦国の世。まさに争乱の時代。ここ佐世保城主の遠藤但馬守に白縫姫(しらぬいひめ)という美しい娘がいた。
あるときのこと、主筋にあたる相浦の飯盛城主・松浦丹後守親九郎親が、烏帽子岳の狩りの帰りに、この但馬館の門を叩いた。
他ならぬ丹後守の訪問とあっては歓待せねばなるまい。但馬館では酒席を設け、姫に舞いを披露させもてなした。
このとき、丹後守はあでやかに舞う姫の姿を一目見るなり虜となり、ぜひとも自身の側室にと申し入れた。
さりとて姫には赤崎伊予という婚約者がすでにおり、ましてや間もなく嫁いでいく身。
時の支配者、平戸の松浦鎮信の弟でもある丹後守といえば、遠藤但馬守にとって平伏せざるえない存在であったが、
娘のことを思えばこそ、丹後守のしつこい申し出に首を振り続けた。
丹後守は諦めきれない。どうしても白縫姫を我が物にしたかった。ついには但馬守に対して怒りを憶えた。
やがて横恋慕は、但馬謀叛にかこつけて但馬館を急襲し、姫を力づくで奪おうとまでエスカレートしてしまう。
不意をつかれた但馬館はたちまち炎上。戦闘もあえなく片付き、ついに落ちた。
ところが丹後守は血眼になって館を探すものの、白縫姫の姿は見当たらない。
兵士たちも姫の行方を追って将冠岳の頂上近く来たとき、突然、岩穴の中から白い煙とともに1匹の白い大蛇が這い出た。
そして兵士たちが驚嘆しているのをよそに悠然と山をおり、佐世保浦のあたりから海に入って、赤崎館の方へ向かって泳いでいった。
しかしその蛇体は途中の小島でふっつりと消え、二度と姿を現すことはなかった。
これを目撃した人々は、きっと姫の一念が蛇の姿に変え、愛しい赤崎伊予がいる赤崎館に向かって渡ろうとしたが、
力尽きて無人島で死んでしまったに違いないと思った。それからというもの、誰がともなくこの島を蛇島と呼ぶようになった。
とはいえ1905(明治38)年、この島を利用して大繋船池が作られると、巨大なコンクリート岸壁の下に埋もれて、
蛇島は見る陰もない姿に変わり果てた。そういうわけで、この伝説もいずれ忘れられていくのだろう……。
佐世保人グスタフの熱情と冷静の間 蛇島伝説①
http://sasebodaisuki.blog38.fc2.com/blog-entry-123.htm...
長崎県佐世保市の民話 福娘童話集 きょうの新作昔話 蛇島(じゃじま)
http://hukumusume.com/douwa/new/2014/07/21.ht...
がんばらんば! 佐世保民商 佐世保と、その周辺(15)「島の伝説・昔話」・・・巻さんのコラム
http://sasebominsho.blog123.fc2.com/blog-entry-164.htm...
かつて長崎県佐世保市の九十九島に属する五島灘に、蛇島と呼ばれる無人島があった。
島には悲しくも不思議な伝説が語り継がれているが、今やそれも忘却の彼方に押しやられようとしている。
時は戦国の世。まさに争乱の時代。ここ佐世保城主の遠藤但馬守に白縫姫(しらぬいひめ)という美しい娘がいた。
あるときのこと、主筋にあたる相浦の飯盛城主・松浦丹後守親九郎親が、烏帽子岳の狩りの帰りに、この但馬館の門を叩いた。
他ならぬ丹後守の訪問とあっては歓待せねばなるまい。但馬館では酒席を設け、姫に舞いを披露させもてなした。
このとき、丹後守はあでやかに舞う姫の姿を一目見るなり虜となり、ぜひとも自身の側室にと申し入れた。
さりとて姫には赤崎伊予という婚約者がすでにおり、ましてや間もなく嫁いでいく身。
時の支配者、平戸の松浦鎮信の弟でもある丹後守といえば、遠藤但馬守にとって平伏せざるえない存在であったが、
娘のことを思えばこそ、丹後守のしつこい申し出に首を振り続けた。
丹後守は諦めきれない。どうしても白縫姫を我が物にしたかった。ついには但馬守に対して怒りを憶えた。
やがて横恋慕は、但馬謀叛にかこつけて但馬館を急襲し、姫を力づくで奪おうとまでエスカレートしてしまう。
不意をつかれた但馬館はたちまち炎上。戦闘もあえなく片付き、ついに落ちた。
ところが丹後守は血眼になって館を探すものの、白縫姫の姿は見当たらない。
兵士たちも姫の行方を追って将冠岳の頂上近く来たとき、突然、岩穴の中から白い煙とともに1匹の白い大蛇が這い出た。
そして兵士たちが驚嘆しているのをよそに悠然と山をおり、佐世保浦のあたりから海に入って、赤崎館の方へ向かって泳いでいった。
しかしその蛇体は途中の小島でふっつりと消え、二度と姿を現すことはなかった。
これを目撃した人々は、きっと姫の一念が蛇の姿に変え、愛しい赤崎伊予がいる赤崎館に向かって渡ろうとしたが、
力尽きて無人島で死んでしまったに違いないと思った。それからというもの、誰がともなくこの島を蛇島と呼ぶようになった。
とはいえ1905(明治38)年、この島を利用して大繋船池が作られると、巨大なコンクリート岸壁の下に埋もれて、
蛇島は見る陰もない姿に変わり果てた。そういうわけで、この伝説もいずれ忘れられていくのだろう……。
佐世保人グスタフの熱情と冷静の間 蛇島伝説①
http://sasebodaisuki.blog38.fc2.com/blog-entry-123.htm...
長崎県佐世保市の民話 福娘童話集 きょうの新作昔話 蛇島(じゃじま)
http://hukumusume.com/douwa/new/2014/07/21.ht...
がんばらんば! 佐世保民商 佐世保と、その周辺(15)「島の伝説・昔話」・・・巻さんのコラム
http://sasebominsho.blog123.fc2.com/blog-entry-164.htm...
>>18
あれま……まさかこんなに反響があろうとは。
職場の人にも当スレを紹介すると、同じように勧められることがあるけど(そのたびに島マニアは変人扱いを受ける)、
こんなことより他にやりたいことがあるのになあ……。
確かにこれまで書いたレスも、誤字脱字・蛇足があったりして修正したいとは思ってたんだよね。
ここ最近、必ず土日か祭日のみ更新できるよう鉄の規則を己に課し(平日の夜はしこたま酒が入ってて、マトモに文が書けません)、
なんとか続けられているのは救いだけど、仮にサイトを立ち上げたはいいが、コンスタントにネタがひねり出せるかどうか不安なのよ。
しょっぱい話ばかり続くのはなんとしても避けたいし。
……まあ、前向きに考えておきます。どうせやるなら隙のないものを作りたい。そのためにはさらなる資料の調達が必須。
あれま……まさかこんなに反響があろうとは。
職場の人にも当スレを紹介すると、同じように勧められることがあるけど(そのたびに島マニアは変人扱いを受ける)、
こんなことより他にやりたいことがあるのになあ……。
確かにこれまで書いたレスも、誤字脱字・蛇足があったりして修正したいとは思ってたんだよね。
ここ最近、必ず土日か祭日のみ更新できるよう鉄の規則を己に課し(平日の夜はしこたま酒が入ってて、マトモに文が書けません)、
なんとか続けられているのは救いだけど、仮にサイトを立ち上げたはいいが、コンスタントにネタがひねり出せるかどうか不安なのよ。
しょっぱい話ばかり続くのはなんとしても避けたいし。
……まあ、前向きに考えておきます。どうせやるなら隙のないものを作りたい。そのためにはさらなる資料の調達が必須。
熊野川に御船明神が祀られた島あり 御船島(みふねじま)
我々は『島』をイメージするとき、ほとんどの人が海上に浮かぶシルエットを思い浮かべるにちがいない。
前スレを含め、9割方、海という水域にある島を取り上げてきた。変化球をつけるべく湖中の島もやった。
前スレ>>412の猫島などは巨大な池の中のソレだった。
島の定義によれば、「四方を水に囲まれた小陸地を島と呼ぶ」とある。とすれば、あとは川の中の島も選んで然るべきかもしれない。
実は以前から『川中島』(仮にこう命名する)で狙っていたネタがあった。それもわりと僕の地元近辺にあるのだから、ますます見すごせない。
それが御船島である。三重県南牟婁郡紀宝町に属し、熊野川河口より約2km上流に位置する堆積岩から形成された小島で、当然ながら無人島だ。
実はこの御船島、少し離れた対岸に鎮座する熊野速玉大社(和歌山県新宮市)の社地として指定されており、島には御船明神が祀られているという。
毎年10月15から16日にかけて、熊野速玉大社の例大祭として『熊野速玉祭』という神事が催される。
そのとき15日を『神馬渡御式(しんめとぎょしき)』とし、翌16日を『御船祭(みふねまつり)』が行われる。
速玉大社は『熊野十二所権現』と総称される複数の神を祀るが、本祭礼はその中でも主祭神である速玉大神と夫須美大神に対してのもので、
宗教民俗学的な解釈にしたがえば、常世から来た神霊が熊野川を遡上して御船島に鎮座したあと、乙基河原を経て新宮に遷座したという熊野権現来臨の
ありさまを演じた祭りである。
特筆すべきは16日午後の御船祭。
熊野夫須美大神(くまのふすみのおおかみ)が年に一度、神幸船で御船島に渡り、ふたたび速玉大社の社殿に還ってくるという神事で、
夫須美大神が来臨した様子を再現する祭礼のことだ。
神輿から神霊が諸手船(もろとぶね)に曳かれた神幸船に移されると、雅やかな神楽が奏される。
すると熊野大橋下の川原で艫(とも)を岸につけて一列になっていた9雙の早舟が我先に岸を離れる。
舟を操る男たちは川上を遡り、はるか御船島を目指すのだ。そして御船島を3周して対岸の相筋河原にゴールする上がりの早舟競漕が始まる。
上がりの早舟競漕が終了すると、斎主船に曳かれた諸手船、神幸船が上がってくる。
諸手船の上では女装の演者が櫂を回して、行く手を望遠するしぐさの『ハリハリ踊り』が行われる。
斎主船が相筋河原に着くと、御船島の上に立つ神職の合図で、下りの早舟競漕がスタート。岸で待機していた早舟が御船島を2周して神社裏の河原にゴールする。
神輿に遷された神霊とともに神職ら一行は御旅所へ渡御し、前夜と同様の祭儀を執行したあと、夜中、神霊を奉じて大社に戻り、
神霊を大社の第二殿におさめて、祭は幕を閉じる。
このような緒手船神事のなかで9隻の舟が競漕する船渡御は全国に類例がなく1800年以上の伝統を誇るという。
勇壮な競漕を見せる早舟は古式を保った舟形で鯨船の祖形といわれ、中世に強力な武力をもってその名を知らしめた熊野水軍の面影を偲ばせるもの。
『夫木和歌抄(ふぼくわかしょう)』という鎌倉後期の私撰和歌集に御船島が登場する歌がある。
「三熊野のうらわにみゆるみふね島 神のゆききにこぎめぐるなり」
熊野速玉大社
http://www2.ocn.ne.jp/‾sanzan/NTTcontents/hayatama/index.htm
HBのページ 御船祭り
http://blog.murablo.jp/crushkun/kiji/15587.htm...
熊野ヒーリング 熊野速玉大社例大祭〜御船祭
http://blog.murablo.jp/kumano-healing/kiji/268628.htm...
YOMIURI ONLINE 傷ついた聖地 復興への祈り
http://www.yomiuri.co.jp/zoomup/zo_111031_01.ht...
今日の午前中、外出したついでに熊野川まで足を伸ばし撮影してきた。撮れたてホヤホヤの御船島です。ところがあいにくの天気。
>>19の画像は拾いにすぎない。まさに御船祭の最中を写したものだろう。恐らく結構昔の在りし日の姿だ。
現実は2011年9月に発生した台風12号による紀伊半島豪雨で、周辺一帯のみならず、御船島も甚大な被害を受けた。
熊野川が氾濫し、この島も濁流に飲み込まれたのだ。以前はこんもりと木々が繁茂し、杜御用達の島としての風情を醸していたが、
木々はなぎ倒されてすっかりハゲ山と化し、瓦礫が積み重なった見るも無残な姿をさらしていたものだ。
あれから2年2ヶ月。瓦礫は撤去され、島はどうにか以前の面影を取り戻しつつある。
>>19の画像は拾いにすぎない。まさに御船祭の最中を写したものだろう。恐らく結構昔の在りし日の姿だ。
現実は2011年9月に発生した台風12号による紀伊半島豪雨で、周辺一帯のみならず、御船島も甚大な被害を受けた。
熊野川が氾濫し、この島も濁流に飲み込まれたのだ。以前はこんもりと木々が繁茂し、杜御用達の島としての風情を醸していたが、
木々はなぎ倒されてすっかりハゲ山と化し、瓦礫が積み重なった見るも無残な姿をさらしていたものだ。
あれから2年2ヶ月。瓦礫は撤去され、島はどうにか以前の面影を取り戻しつつある。
日本が誇る3大景勝地の1つに神秘の7不思議あり 宮島(厳島) 1
言うまでもなく厳島神社の社が鎮座する宮島は、広島県廿日市市宮島町、広島湾の北西部の海上に佇む朱塗りの大鳥居が印象的な島だ。
この大鳥居は高さ16mもあり、海底に固定されておらず自重だけで立っている。日本が誇る松島・天橋立と並び、3大景勝地の1つとして有名である。
現在では人口1800人あまりの島に、国内外から年間300万人を超える参拝客および観光客が訪れており、2011年には、世界最大の旅行クチコミサイト
『TripAdvisor(R)』の日本法人・トリップアドバイザーが『外国人に人気の日本の観光スポット』のトップ20の堂々1位に輝いた。
前スレを含め、当スレでは『神の島』の異名をもつ島をくり返し紹介してきたが、宮島はその名に恥じぬ最たる例であろう。
宮島が太古より神の斎(いつ)く島として崇められるようになってからの歴史は古く、史実に名を連ねる多くの人物が崇敬してきた。
とりわけ平家清盛・平家一門の宮島崇拝は有名で、舞楽、清盛の保元の乱、平治の乱の勝利や官位昇進につれ、その信仰は年ごとに篤くなり、
仁安3年(1168)には、神社の造営まで行っている。
また平安朝の建造物から江戸時代にかけての美術品など国宝や重要文化財などを含め、多くのものが収蔵されている。
平成8年には厳島神社が世界遺産に登録を果たした。
宮島は島自体がご神体であり神域とされるため、血や死といったケガレの忌避は顕著であるという。
島で死人が出た場合、すぐに対岸の赤崎の地に移して葬るとされている。赤崎は現在のJR宮島口駅のやや西にあり、
かつては遺族は喪が明けるまで島に戻ることができなかった。この風習は第二次世界大戦ごろまで続いていたという。
それにともない、島には墓地がないそうだ。墓そのものを築いてはならず、それは現在とて1基もないほど。
また島の女性に出産が迫ると、対岸に渡って出産後、100日を経て島に戻るしきたりであった。女性は生理の時期には、町衆が設けた小屋ですごした。
……あの有名な宮島を、当スレに載せてしまうのはいささか暴挙とも言えるかもしれない。
しかしながら厳島神社特有の7不思議(実際は7つどころではない)の神秘は、あながちスレチとも言えまい。
もっとも、あまりにも多いため列挙するだけにとどめるが。
1.宮うつし貝……大鳥居の根潟にいる白い貝の殻には、鳥居や神社の形をした模様が入っているという。採るのはおろか食すると罰が当たるとされる。
2.猿の口どめ……毎年10月の初申祭で『口どめ』の行事が行われる。この日は、島で大きな声や物音を立ててはならない。
3.つもごり山伏……大晦日に行われる鎮火祭は、元は大聖院の祭りだった。大聖院から厳島神社拝殿まで山伏が松明を持ってほら貝を吹き、
火の粉をまき散らしながら走り抜ける行事。不思議なことに、この火が原因で火事になったことは一度もない。残り火は火事よけのお守りになるとされている。
4.多賀江念仏……毎年旧暦7月16日、17日は『厳島おどり』の日。昔々、多賀江兵衛なる大将が、厳島おどりの夜、戦船で沖を通りかかった。
島じゅうの人間が浜で踊っていたのを見て、激怒した兵衛。「兵たちが戦をやっているというのに、不謹慎ではないか!」と、船上から怒鳴った。
とたんに神罰がくだり、兵衛は船もろともに沈没。その後、死んだ兵衛の亡霊が夜な夜な沖を通る船に悪さをするので、厳島おどりの夜、
念仏百万遍を唱えて兵衛の霊を鎮めるようにした。これが多賀江念仏の始まりだという。
5.そとば石……昔、平康頼という人物が、薩摩の鬼界ヶ島に流罪になった。都に1人残した母を思い、康頼は墓に立てる卒塔婆に、
「薩摩潟 沖の小島に われありと 親につげよ 八重の潮風」という和歌を千枚書いて海に流した。
その卒塔婆の1枚が厳島に漂着し、たまたまお参りにきていた康頼縁者の坊さんが見つけて都の母に届けた。
康頼の母は70を超える高齢で、息子の流した卒塔婆をかき抱いて泣いた。やがて康頼は罪を許されると、無事に母のもとに帰ることができた。
康頼はこれも平家一門を日ごろからお守りくださる厳島明神のおかげと、大きな灯篭を神社に寄進したという。
言うまでもなく厳島神社の社が鎮座する宮島は、広島県廿日市市宮島町、広島湾の北西部の海上に佇む朱塗りの大鳥居が印象的な島だ。
この大鳥居は高さ16mもあり、海底に固定されておらず自重だけで立っている。日本が誇る松島・天橋立と並び、3大景勝地の1つとして有名である。
現在では人口1800人あまりの島に、国内外から年間300万人を超える参拝客および観光客が訪れており、2011年には、世界最大の旅行クチコミサイト
『TripAdvisor(R)』の日本法人・トリップアドバイザーが『外国人に人気の日本の観光スポット』のトップ20の堂々1位に輝いた。
前スレを含め、当スレでは『神の島』の異名をもつ島をくり返し紹介してきたが、宮島はその名に恥じぬ最たる例であろう。
宮島が太古より神の斎(いつ)く島として崇められるようになってからの歴史は古く、史実に名を連ねる多くの人物が崇敬してきた。
とりわけ平家清盛・平家一門の宮島崇拝は有名で、舞楽、清盛の保元の乱、平治の乱の勝利や官位昇進につれ、その信仰は年ごとに篤くなり、
仁安3年(1168)には、神社の造営まで行っている。
また平安朝の建造物から江戸時代にかけての美術品など国宝や重要文化財などを含め、多くのものが収蔵されている。
平成8年には厳島神社が世界遺産に登録を果たした。
宮島は島自体がご神体であり神域とされるため、血や死といったケガレの忌避は顕著であるという。
島で死人が出た場合、すぐに対岸の赤崎の地に移して葬るとされている。赤崎は現在のJR宮島口駅のやや西にあり、
かつては遺族は喪が明けるまで島に戻ることができなかった。この風習は第二次世界大戦ごろまで続いていたという。
それにともない、島には墓地がないそうだ。墓そのものを築いてはならず、それは現在とて1基もないほど。
また島の女性に出産が迫ると、対岸に渡って出産後、100日を経て島に戻るしきたりであった。女性は生理の時期には、町衆が設けた小屋ですごした。
……あの有名な宮島を、当スレに載せてしまうのはいささか暴挙とも言えるかもしれない。
しかしながら厳島神社特有の7不思議(実際は7つどころではない)の神秘は、あながちスレチとも言えまい。
もっとも、あまりにも多いため列挙するだけにとどめるが。
1.宮うつし貝……大鳥居の根潟にいる白い貝の殻には、鳥居や神社の形をした模様が入っているという。採るのはおろか食すると罰が当たるとされる。
2.猿の口どめ……毎年10月の初申祭で『口どめ』の行事が行われる。この日は、島で大きな声や物音を立ててはならない。
3.つもごり山伏……大晦日に行われる鎮火祭は、元は大聖院の祭りだった。大聖院から厳島神社拝殿まで山伏が松明を持ってほら貝を吹き、
火の粉をまき散らしながら走り抜ける行事。不思議なことに、この火が原因で火事になったことは一度もない。残り火は火事よけのお守りになるとされている。
4.多賀江念仏……毎年旧暦7月16日、17日は『厳島おどり』の日。昔々、多賀江兵衛なる大将が、厳島おどりの夜、戦船で沖を通りかかった。
島じゅうの人間が浜で踊っていたのを見て、激怒した兵衛。「兵たちが戦をやっているというのに、不謹慎ではないか!」と、船上から怒鳴った。
とたんに神罰がくだり、兵衛は船もろともに沈没。その後、死んだ兵衛の亡霊が夜な夜な沖を通る船に悪さをするので、厳島おどりの夜、
念仏百万遍を唱えて兵衛の霊を鎮めるようにした。これが多賀江念仏の始まりだという。
5.そとば石……昔、平康頼という人物が、薩摩の鬼界ヶ島に流罪になった。都に1人残した母を思い、康頼は墓に立てる卒塔婆に、
「薩摩潟 沖の小島に われありと 親につげよ 八重の潮風」という和歌を千枚書いて海に流した。
その卒塔婆の1枚が厳島に漂着し、たまたまお参りにきていた康頼縁者の坊さんが見つけて都の母に届けた。
康頼の母は70を超える高齢で、息子の流した卒塔婆をかき抱いて泣いた。やがて康頼は罪を許されると、無事に母のもとに帰ることができた。
康頼はこれも平家一門を日ごろからお守りくださる厳島明神のおかげと、大きな灯篭を神社に寄進したという。
日本が誇る3大景勝地の1つに神秘の7不思議あり 宮島(厳島) 2
6.干満岩……弥山の8合目にある目洗薬師のそばの干満岩には、1mもない浅い穴が口を開けている。
穴には水がたまり、海の満ち干にあわせて増減する。塩分を含んだ水で、この水で眼を洗うと眼病が治ると言われている。
岩穴は標高約500mの地点にあり、いまだ科学的証明がなされていない奇現象らしい。
7.宮島の神馬……厳島神社に献上された馬は、ふつうの毛並みの馬も、4、5年も経つとみな白馬に変わる。
8.消えずの火……弥山には1200年間、絶えることなく燃え続けている霊火がある。
大同元年(806年)、弘法大師が弥山山頂で100日間に及ぶ求聞持(ぐもんじ)の秘法を修して以来、今日まで途絶えることなく燃え続ける霊火だという。
この火で沸かした霊水は万病に効くと言われている。また、明治34年(1901年)に操業を始めた八幡製鉄所の溶鉱炉の種火や、
広島市の平和記念公園の『平和の灯』の元火にもなった。
9.拍子木の音……深夜、人の気配のないところから拍子木の音が響き渡るとされている。
10.龍燈の火……旧正月の初旬の夜になると島周辺の海面に出没する謎の灯りを龍燈という。
この龍燈がもっともよく見える弥山頂上の大杉は『龍燈の杉』と呼ばれた。現在この杉は枯れてしまったが、それらしき根株が残されている。
11.錫杖の梅……弥山本堂のすぐ西の脇にある八重咲きの紅梅。弘法大師が立てかけた錫杖が根をはり、ついには梅の木になったという伝説が残っている。
毎年美しい花を咲かせるが、山内に不吉な兆しがあると咲かないらしい。
12.しぐれ桜……どんな晴天の日でも時雨のように露が落ち、地面は通り雨がすぎ去ったように濡れる不思議な桜。
江戸時代に発行された『厳島図会』にもその奇妙な現象が記されているとか。現在は伐採され、切り株だけが残っている。
13.曼荼羅岩……弘法大師が石面に梵字と真字で、「三世諸仏天照大神宮正八幡三所三千七百余神云々」と刻んだ数十畳の大岩がある。
14.誓真井戸……誓真氏は宮島杓子の考案者として知られており、宮島では数々の公共事業を行った。なかでも飲料水の不足に苦しむ島民のため、
各所に井戸を掘った。その井戸はどんな干ばつのときにも枯れることがないという。
15.奥の院の迷い道……上述したように島には墓地はなく、対岸の宮島口に埋葬する。しかし死後50年経つと仏が神になり、宮島に帰ることができると
言い伝えられている。50回忌を済ませると宮島の奥の院に卒塔婆を立て供養する。奥の院に卒塔婆を立てに行った多くの人が不思議な体験をしている。
奥の院に行こうとしても、なぜか元の道に帰ってしまう迷い道があるという。
16.暗い山……宮島の山中には日中でも日の差さない暗い山がある。宮島の山は神域なので、奥は手付かずの原生林そのままなのだから無理もあるまい。
宮島観光公式サイト 人と神々が共に生きる島〜宮島 嚴島神社
http://www.miyajima-wch.jp/jp/itsukushima/index.htm...
一般社団法人 宮島観光協会
http://www.miyajima.or.jp/index.htm...
御山神社
http://www.7kamado.net/misen.htm...
キャンピングカーで放浪の旅 世界遺産の島、宮島を歩く 〜厳島神社、千畳閣、大聖院 他〜 他(2010/4/8)
http://akkamui21.blog39.fc2.com/blog-entry-926.htm...
下川友子オフィシャルブログ「あなたに神様の光がとどきますように・・・☆」 厳島神社のパワーの元は・・・??奥宮〜☆ 御山神社
http://ameblo.jp/tomo-chupi/entry-10462001265.h...
6.干満岩……弥山の8合目にある目洗薬師のそばの干満岩には、1mもない浅い穴が口を開けている。
穴には水がたまり、海の満ち干にあわせて増減する。塩分を含んだ水で、この水で眼を洗うと眼病が治ると言われている。
岩穴は標高約500mの地点にあり、いまだ科学的証明がなされていない奇現象らしい。
7.宮島の神馬……厳島神社に献上された馬は、ふつうの毛並みの馬も、4、5年も経つとみな白馬に変わる。
8.消えずの火……弥山には1200年間、絶えることなく燃え続けている霊火がある。
大同元年(806年)、弘法大師が弥山山頂で100日間に及ぶ求聞持(ぐもんじ)の秘法を修して以来、今日まで途絶えることなく燃え続ける霊火だという。
この火で沸かした霊水は万病に効くと言われている。また、明治34年(1901年)に操業を始めた八幡製鉄所の溶鉱炉の種火や、
広島市の平和記念公園の『平和の灯』の元火にもなった。
9.拍子木の音……深夜、人の気配のないところから拍子木の音が響き渡るとされている。
10.龍燈の火……旧正月の初旬の夜になると島周辺の海面に出没する謎の灯りを龍燈という。
この龍燈がもっともよく見える弥山頂上の大杉は『龍燈の杉』と呼ばれた。現在この杉は枯れてしまったが、それらしき根株が残されている。
11.錫杖の梅……弥山本堂のすぐ西の脇にある八重咲きの紅梅。弘法大師が立てかけた錫杖が根をはり、ついには梅の木になったという伝説が残っている。
毎年美しい花を咲かせるが、山内に不吉な兆しがあると咲かないらしい。
12.しぐれ桜……どんな晴天の日でも時雨のように露が落ち、地面は通り雨がすぎ去ったように濡れる不思議な桜。
江戸時代に発行された『厳島図会』にもその奇妙な現象が記されているとか。現在は伐採され、切り株だけが残っている。
13.曼荼羅岩……弘法大師が石面に梵字と真字で、「三世諸仏天照大神宮正八幡三所三千七百余神云々」と刻んだ数十畳の大岩がある。
14.誓真井戸……誓真氏は宮島杓子の考案者として知られており、宮島では数々の公共事業を行った。なかでも飲料水の不足に苦しむ島民のため、
各所に井戸を掘った。その井戸はどんな干ばつのときにも枯れることがないという。
15.奥の院の迷い道……上述したように島には墓地はなく、対岸の宮島口に埋葬する。しかし死後50年経つと仏が神になり、宮島に帰ることができると
言い伝えられている。50回忌を済ませると宮島の奥の院に卒塔婆を立て供養する。奥の院に卒塔婆を立てに行った多くの人が不思議な体験をしている。
奥の院に行こうとしても、なぜか元の道に帰ってしまう迷い道があるという。
16.暗い山……宮島の山中には日中でも日の差さない暗い山がある。宮島の山は神域なので、奥は手付かずの原生林そのままなのだから無理もあるまい。
宮島観光公式サイト 人と神々が共に生きる島〜宮島 嚴島神社
http://www.miyajima-wch.jp/jp/itsukushima/index.htm...
一般社団法人 宮島観光協会
http://www.miyajima.or.jp/index.htm...
御山神社
http://www.7kamado.net/misen.htm...
キャンピングカーで放浪の旅 世界遺産の島、宮島を歩く 〜厳島神社、千畳閣、大聖院 他〜 他(2010/4/8)
http://akkamui21.blog39.fc2.com/blog-entry-926.htm...
下川友子オフィシャルブログ「あなたに神様の光がとどきますように・・・☆」 厳島神社のパワーの元は・・・??奥宮〜☆ 御山神社
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ダイダラボッチが作った島 礫島(つぶてじま)
静岡県浜松市の浜名湖には唯一の島である礫島が浮かんでいる。松に覆われた、ほんの200㎡の無人島にすぎない。
島には鳥居があり、その先には1617(天和3)年に琵琶湖の竹生島から移設した市杵島姫と弁財天を祀った礫石神社がある。
竹生島の成り立ちは前スレ>>238で紹介したとおりだが、この浜名湖の礫島の誕生もなかなか味わい深い説話が語り継がれている。
というのも、ダイダラボッチ伝説がかかわっているからだ。ダイダラボッチといえば伝説上の巨人のことだが、
なぜか日本にはこの手の話がよく転がっており、彼らの正体がなんであったのか食指が動くところ。
その礫島の誕生の話がこうだ。
かつてこの地に住むダイダラボッチは、富士山が地元の秋葉山より高いことに腹を立て、秋葉山に土を盛ろうとした。
土を掘った窪地こそ、のちに浜名湖となったという(あるいは転んだ拍子に地面に手をつき、手の平の跡が浜名湖になったという説もある)。
またダイダラボッチは作業の途中で疲れ、浜名湖のそばで腰をおろして握り飯にかじりついていた。
その握り飯の中に小石が混じっていたのを発見。ダイダラボッチはそれをつまんで放り投げた。そのときの小石が礫島だと伝えられている。
浜名湖周辺には他にもダイダラボッチにまつわる伝説が点在している。
下気賀の北にある姫街道沿いに小さな池があり『ダイダラボッチの足跡』と言われるし、石巻山の中腹にも同様の足跡がある。
ダイダラボッチwikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%80%E3%82%A4%E3%83%...
礫島
http://homepage3.nifty.com/y-iwata/densetu/tubutejima.ht...
eしずおかブログ 静岡 新“十”不思議第8話 ダイダラボッチ伝説
http://shin10fushigi.eshizuoka.jp/e947892.htm...
ナルキッソスの黄昏 歴史雑学と世界的ニュースまとめ ダイダラボッチの正体は?
http://narcissu.doorblog.jp/archives/31660273.htm...
アプリ学園 【重要まとめ】「進撃の巨人」がブームだから世界中の巨人についてまとめてみた【進撃の巨人 デジタルフォトステッカー】
http://appgaku.com/iphone-pickup/2013/06/20130619...
わらじ祭り公式ホームページ
http://www.warajimatsuri.jp/
静岡県浜松市の浜名湖には唯一の島である礫島が浮かんでいる。松に覆われた、ほんの200㎡の無人島にすぎない。
島には鳥居があり、その先には1617(天和3)年に琵琶湖の竹生島から移設した市杵島姫と弁財天を祀った礫石神社がある。
竹生島の成り立ちは前スレ>>238で紹介したとおりだが、この浜名湖の礫島の誕生もなかなか味わい深い説話が語り継がれている。
というのも、ダイダラボッチ伝説がかかわっているからだ。ダイダラボッチといえば伝説上の巨人のことだが、
なぜか日本にはこの手の話がよく転がっており、彼らの正体がなんであったのか食指が動くところ。
その礫島の誕生の話がこうだ。
かつてこの地に住むダイダラボッチは、富士山が地元の秋葉山より高いことに腹を立て、秋葉山に土を盛ろうとした。
土を掘った窪地こそ、のちに浜名湖となったという(あるいは転んだ拍子に地面に手をつき、手の平の跡が浜名湖になったという説もある)。
またダイダラボッチは作業の途中で疲れ、浜名湖のそばで腰をおろして握り飯にかじりついていた。
その握り飯の中に小石が混じっていたのを発見。ダイダラボッチはそれをつまんで放り投げた。そのときの小石が礫島だと伝えられている。
浜名湖周辺には他にもダイダラボッチにまつわる伝説が点在している。
下気賀の北にある姫街道沿いに小さな池があり『ダイダラボッチの足跡』と言われるし、石巻山の中腹にも同様の足跡がある。
ダイダラボッチwikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%80%E3%82%A4%E3%83%...
礫島
http://homepage3.nifty.com/y-iwata/densetu/tubutejima.ht...
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島のヌシたる大蛇に相対し、潮垢離を済ませ正装し口上を述べる 比岐島(ひきじま)
愛媛県今治市桜井港沖、約6kmにある有人島である比岐島。
桜井地区の漁業者が移住して開拓した島で、もっとも多いときには70人を超える人口があったが、それも昔の話。
平成22年の国勢調査では1世帯人口3人まで減り、今や風前の灯となっている。だからこそ島の話をこのスレにとどめておきたい。
比岐島は慶長年間(1596〜1615年)に松の造林がなされ、最初の島民となる『守役人』が置かれた記録がある。
阿部家所蔵の古文書『当島言伝控書』にはその歴史が克明に記され、同時に不思議な大蛇伝説が添えられているのだ。
その経緯が以下のとおりである。
昔、玉川町の法界寺に利右衛門(りえもん)という農民がいた。ある日、利右衛門はもののはずみで大罪を犯してしまう。
打ち首にはされたくない。利右衛門は罪を償うため、比岐島に松の木を1万本植えることにより島を開拓してみせるので、
どうか命だけは助けてくれるよう、藩主をはじめ役人に願い出た。
当時の比岐島といえば、人が分け入ることができないほど雑草が生い茂り、樹木すら生えていない荒地だった。
利右衛門の必死の訴えが通じ、島での開拓作業が言い渡された。それからというもの利右衛門は島に入ると死に物狂いで働き、
3年がけで松の造林をやってのけた。
利右衛門はこうして放免され島から引き上げていった。それからあとは島に渡る者がなく、せっかくの造林も荒れてしまい、
たまりかねた今治藩主は、お触れを出して守役人を募った。
ところが名乗り出る者はいない。そこへ誰もいかぬなら私が行こうと、阿部孫左衛門(大庄屋曾我部三郎衛門の次男)が藩主に申し出た。
生来、豪胆で名が通っている孫左衛門は、松の木1万本を10万本に増やしてみせると誓ったほどであった。
この男、決断は早い。自身の3.6haほどの土地を売り払うと島へ渡り、さっそく住居の建築にとりかかった。
ところが比岐島開拓に暗雲が垂れこめる事件が起きる。
大工や左官を呼んで家を建てている最中に、突如草むらがガサガサと音がしたかと思うと、大蛇が姿を現わしたではないか。
その大きさたるや頭が3升樽なみ、長さ4.5mにも及ぶ巨大サイズ。その大蛇が家の棟に長々と巻き付いたうえ居座ったからたまらない。
大工と左官はあまりの恐ろしさに島から逃げ出すほどであった。
孫左衛門は腹を決めた。衣服を脱ぎ、海に入って身を清め、袴に袖を通した。
そして棟に居座る大蛇の前に平伏してこう言った。「あなたはこの島の主とお見受けします。私はこの島の開拓者として、
同時に見守り役として任命された者でございます。どうか私の仕事を無事完遂させていただきたい。
まずはあなた様がこの場から立ち退いてくれるようお願いします。その際には後日、祠を建て、
この島の産土神(うぶすながみ)として祀ることを約束いたします」
大蛇は孫左衛門の口上を理解したらしく、棟から巨体をすべらせると東の山へ去っていった。
後日、約束通り祠を建ててこの大蛇を祀り、これを氏神とした。
そのあとも例の大蛇が出たとの話が残っているが、やはり孫左衛門同様、みそぎをして拝むと、いずこともなく消え去ったという。
現代の比岐島では大蛇のことを『長い人』『あの人』『巳さん』というふうに人格化した呼び方をしており、大蛇の祠を丁重に祀り、
好物の卵やあずき飯が供えられるという。
旅、島、ときどき、不思議 今日は、人口6人の比岐島を紹介
http://ameblo.jp/tokaraushi/entry-10459814355.h...
日本の島々 日本の島、比岐島(日本に残された電気のない有人島)
http://islands.cocolog-nifty.com/blog/2007/05/post_22aa.htm...
今治商工会議所 六、動物に関するもの
http://www.imabaricci.or.jp/contentscci.php?prm=densetsu_...
教えて!goo 大蛇のいない日本で大蛇伝説が多いのはなぜ?
http://oshiete.goo.ne.jp/qa/2425223.htm...
愛媛県今治市桜井港沖、約6kmにある有人島である比岐島。
桜井地区の漁業者が移住して開拓した島で、もっとも多いときには70人を超える人口があったが、それも昔の話。
平成22年の国勢調査では1世帯人口3人まで減り、今や風前の灯となっている。だからこそ島の話をこのスレにとどめておきたい。
比岐島は慶長年間(1596〜1615年)に松の造林がなされ、最初の島民となる『守役人』が置かれた記録がある。
阿部家所蔵の古文書『当島言伝控書』にはその歴史が克明に記され、同時に不思議な大蛇伝説が添えられているのだ。
その経緯が以下のとおりである。
昔、玉川町の法界寺に利右衛門(りえもん)という農民がいた。ある日、利右衛門はもののはずみで大罪を犯してしまう。
打ち首にはされたくない。利右衛門は罪を償うため、比岐島に松の木を1万本植えることにより島を開拓してみせるので、
どうか命だけは助けてくれるよう、藩主をはじめ役人に願い出た。
当時の比岐島といえば、人が分け入ることができないほど雑草が生い茂り、樹木すら生えていない荒地だった。
利右衛門の必死の訴えが通じ、島での開拓作業が言い渡された。それからというもの利右衛門は島に入ると死に物狂いで働き、
3年がけで松の造林をやってのけた。
利右衛門はこうして放免され島から引き上げていった。それからあとは島に渡る者がなく、せっかくの造林も荒れてしまい、
たまりかねた今治藩主は、お触れを出して守役人を募った。
ところが名乗り出る者はいない。そこへ誰もいかぬなら私が行こうと、阿部孫左衛門(大庄屋曾我部三郎衛門の次男)が藩主に申し出た。
生来、豪胆で名が通っている孫左衛門は、松の木1万本を10万本に増やしてみせると誓ったほどであった。
この男、決断は早い。自身の3.6haほどの土地を売り払うと島へ渡り、さっそく住居の建築にとりかかった。
ところが比岐島開拓に暗雲が垂れこめる事件が起きる。
大工や左官を呼んで家を建てている最中に、突如草むらがガサガサと音がしたかと思うと、大蛇が姿を現わしたではないか。
その大きさたるや頭が3升樽なみ、長さ4.5mにも及ぶ巨大サイズ。その大蛇が家の棟に長々と巻き付いたうえ居座ったからたまらない。
大工と左官はあまりの恐ろしさに島から逃げ出すほどであった。
孫左衛門は腹を決めた。衣服を脱ぎ、海に入って身を清め、袴に袖を通した。
そして棟に居座る大蛇の前に平伏してこう言った。「あなたはこの島の主とお見受けします。私はこの島の開拓者として、
同時に見守り役として任命された者でございます。どうか私の仕事を無事完遂させていただきたい。
まずはあなた様がこの場から立ち退いてくれるようお願いします。その際には後日、祠を建て、
この島の産土神(うぶすながみ)として祀ることを約束いたします」
大蛇は孫左衛門の口上を理解したらしく、棟から巨体をすべらせると東の山へ去っていった。
後日、約束通り祠を建ててこの大蛇を祀り、これを氏神とした。
そのあとも例の大蛇が出たとの話が残っているが、やはり孫左衛門同様、みそぎをして拝むと、いずこともなく消え去ったという。
現代の比岐島では大蛇のことを『長い人』『あの人』『巳さん』というふうに人格化した呼び方をしており、大蛇の祠を丁重に祀り、
好物の卵やあずき飯が供えられるという。
旅、島、ときどき、不思議 今日は、人口6人の比岐島を紹介
http://ameblo.jp/tokaraushi/entry-10459814355.h...
日本の島々 日本の島、比岐島(日本に残された電気のない有人島)
http://islands.cocolog-nifty.com/blog/2007/05/post_22aa.htm...
今治商工会議所 六、動物に関するもの
http://www.imabaricci.or.jp/contentscci.php?prm=densetsu_...
教えて!goo 大蛇のいない日本で大蛇伝説が多いのはなぜ?
http://oshiete.goo.ne.jp/qa/2425223.htm...
干拓事業の際、人柱ならぬ犬柱を立てた歴史 青島
青島と呼ばれるごくありふれた島名は全国に星の数ほどあるが、最近は愛媛県大洲市の青島が猫好きの間で話題となっているのは、
こちとら先刻承知である。
島民たったの15人に対し、猫は優に100匹を超えており、『猫密度』は今や宮城県石巻市の田代島をも上回っているらしい。
だが今回紹介する青島は別の青島だ。猫の楽園ではなく、犬がいない島の方だ。
愛猫家御用達の島はスレタイに反しているので今回は見送らざるを得ない。
長崎県松浦市の北松浦半島の先端から北東へ1.3kmの位置にその青島は浮かんでいる。
昔は満潮になると低い部分は海に沈み、3つの島に分かれていた。北から『崎の島』、『中の島』、『南島』と呼ばれ、
島民と河童の河太郎(がたろう)一族が一致団結して1つの島にしたという民話『長者と河太郎』が残されている。
また江戸時代の干拓事業の際には、難工事を成功させるため人柱ならぬ犬柱を立て、神に祈願したという伝承も伝えられている。
それ以来、犬は神の眷属として尊ばれ、飼うのは御法度とされたという。
前スレ>>87の田代島や>>289の篠島、加えてこの青島のように、なぜか犬を飼うのがダメという島が多く、大変興味深い。
もっともそんな青島だが、最近はこのタブーも古臭く思われるようになったのか、犬を飼う人も増えてきたらしいが。
FUJIKAZEのちょっとピンボケな日々 生まれた島へ!(生家は何処・・・)
http://fujikaze.cocolog-nifty.com/blog/2013/05/index.htm...
山野草図鑑歳時記2
http://blogs.yahoo.co.jp/ryujumihouchida/61221213.htm...
長者と河太郎(がたろう)
http://www.eonet.ne.jp/‾nagasaki/kappa/aosima.htm
青島と呼ばれるごくありふれた島名は全国に星の数ほどあるが、最近は愛媛県大洲市の青島が猫好きの間で話題となっているのは、
こちとら先刻承知である。
島民たったの15人に対し、猫は優に100匹を超えており、『猫密度』は今や宮城県石巻市の田代島をも上回っているらしい。
だが今回紹介する青島は別の青島だ。猫の楽園ではなく、犬がいない島の方だ。
愛猫家御用達の島はスレタイに反しているので今回は見送らざるを得ない。
長崎県松浦市の北松浦半島の先端から北東へ1.3kmの位置にその青島は浮かんでいる。
昔は満潮になると低い部分は海に沈み、3つの島に分かれていた。北から『崎の島』、『中の島』、『南島』と呼ばれ、
島民と河童の河太郎(がたろう)一族が一致団結して1つの島にしたという民話『長者と河太郎』が残されている。
また江戸時代の干拓事業の際には、難工事を成功させるため人柱ならぬ犬柱を立て、神に祈願したという伝承も伝えられている。
それ以来、犬は神の眷属として尊ばれ、飼うのは御法度とされたという。
前スレ>>87の田代島や>>289の篠島、加えてこの青島のように、なぜか犬を飼うのがダメという島が多く、大変興味深い。
もっともそんな青島だが、最近はこのタブーも古臭く思われるようになったのか、犬を飼う人も増えてきたらしいが。
FUJIKAZEのちょっとピンボケな日々 生まれた島へ!(生家は何処・・・)
http://fujikaze.cocolog-nifty.com/blog/2013/05/index.htm...
山野草図鑑歳時記2
http://blogs.yahoo.co.jp/ryujumihouchida/61221213.htm...
長者と河太郎(がたろう)
http://www.eonet.ne.jp/‾nagasaki/kappa/aosima.htm
寄磯兄弟獅子 網地島(あじしま)
宮城県牡鹿半島の寄磯浜では、ある獅子舞にまつわる不思議な伝承が残されている。
文永3(1266)年建立の神石碑が鈴木寛也氏宅の角にある。その背後の東森山頂上には、住民が海上安全を祈願した『安波大明神』が祀られている。
『安波大明神』は関東から東北地方にかけての太平洋側の漁村で信仰されている神様であり、女神やお船霊様であるとされている。
寛永18(1641)年ごろには寄磯集落の人口は30人以上になり平和な日々を謳歌していたが、天保4(1835)年に大飢饉が起こり、
人々は食料を確保するため時化であるにもかかわらず出漁しなくてはならないほど困窮していた。
そんな綱渡りのような生活をしていたある日のこと、渡辺平五郎なる人物が漁に出ているとき、急な天候の悪化に遭遇。
波浪高く荒れ狂い、小船はたちまち大破して船子たちは絶体絶命に陥った。そこで船子たちは藁にもすがる思いで安波大明神を念じた。
安波大明神のご利益があったのか、小船はなんとか海岸にたどり着き、命拾いすることができた。
渡辺平五郎はこの海難事故から生還できた報恩御礼として、安波様を一層信仰するために天保6(1837)年、新たに安波大杉大明神の石宮を建立。
みずから神主となり、若者に呼びかけ『神風講(じんぷうこう)』という団体を組織し、毎年旧正月16日を祭日と定め、祈願するに至った。
時同じくして、他の地域では正月の行事として獅子舞が盛んに行われていた。寄磯においても先に述べた天保4年の大飢饉に続き、
大暴風、大洪水などが相次いで起こり、加えて悪病が流行。生活苦の辛酸を舐めていた神風講においても、
天下太平・五穀豊穣・家内安全・海上安全・大漁満足を祈願するべく獅子舞を舞わせることにしたのだ。
しかしながら、これほどの困窮を救えるのは霊験あらたかな獅子であり、よほどの名作でなければなるまい。
方々を探していると、網地島から来た遠藤英助信近という人物が興味深い話を語るのだ。
ちなみに網地島は宮城県牡鹿半島の最南端に位置する有人島。大きさは周囲20.7km、広さ6.43k㎡。細長い形をしており、
島のほとんどが南三陸国定公園特別地域に指定されている。この網地島もまた猫がたくさんいる島として知られている。
遠藤氏いわく、「網地島に獅子が2振りあり、時折その箱の中から不思議な音がする。
何度開けても箱の中には獅子しか入ってなかったが、ためしに別々に収めたところ、音はそれっきりしなくなった。
もしや元気な2振りの獅子が追いかけっこでもして暴れていたのではないか」
これを聞いた神風講は、これほどの不思議な力をもつ獅子であればご利益があるかもしれないと信じ、ただちに網地島へ向かい交渉した。
すると獅子1振りと、付属品として天狗の面、大小の木刀を譲り受けることとなったわけである(この獅子は天保6年の作と伝えられている)。
これを受けて神風講では獅子舞の唄を作り、笛太鼓の囃子をもって旧正月の16日、安波大明神の祭礼にて行うことになった。
以来、悪病の流行もおさまり、牡鹿半島の人々は平和な年月を送ることができた。
もっとも慶応年間の大火災に遭遇した際には、この獅子を燃やしてなるものかと、神主の井戸に入れて守り、
明治13年の大火災のときは渡辺松雄氏宅の井戸に入れてどうにか消失は免れたものの、度重なる火災で汚損が著しく、獅子舞ができなくなってしまう。
その後、遠藤栄四郎氏が東京で獅子を購入し寄付してくれたので、ふたたび獅子舞を始めることができるようになったが、
獅子を振るたびになぜか雨天が続き、困り果てた末、結局網地島から譲り受けた獅子を修理して行うようになったという。
網地島ラインホームページ
http://www12.ocn.ne.jp/‾ajishima/
石巻百景: 石巻観光案内(4)網地島・田代島
http://ishinomaki-photo.blogspot.jp/p/blog-page_13.htm...
宮城県牡鹿半島寄磯浜のアンバサンに見られる里海の記憶
http://archive.is/VlI4...
あじ島冒険楽校 「昔の子供たち」から「未来の大人たち」へ 「島の夏休み」体験 宮城県 石巻 牡鹿
http://plaza.rakuten.co.jp/ajisima/diary/200608040000...
宮城県牡鹿半島の寄磯浜では、ある獅子舞にまつわる不思議な伝承が残されている。
文永3(1266)年建立の神石碑が鈴木寛也氏宅の角にある。その背後の東森山頂上には、住民が海上安全を祈願した『安波大明神』が祀られている。
『安波大明神』は関東から東北地方にかけての太平洋側の漁村で信仰されている神様であり、女神やお船霊様であるとされている。
寛永18(1641)年ごろには寄磯集落の人口は30人以上になり平和な日々を謳歌していたが、天保4(1835)年に大飢饉が起こり、
人々は食料を確保するため時化であるにもかかわらず出漁しなくてはならないほど困窮していた。
そんな綱渡りのような生活をしていたある日のこと、渡辺平五郎なる人物が漁に出ているとき、急な天候の悪化に遭遇。
波浪高く荒れ狂い、小船はたちまち大破して船子たちは絶体絶命に陥った。そこで船子たちは藁にもすがる思いで安波大明神を念じた。
安波大明神のご利益があったのか、小船はなんとか海岸にたどり着き、命拾いすることができた。
渡辺平五郎はこの海難事故から生還できた報恩御礼として、安波様を一層信仰するために天保6(1837)年、新たに安波大杉大明神の石宮を建立。
みずから神主となり、若者に呼びかけ『神風講(じんぷうこう)』という団体を組織し、毎年旧正月16日を祭日と定め、祈願するに至った。
時同じくして、他の地域では正月の行事として獅子舞が盛んに行われていた。寄磯においても先に述べた天保4年の大飢饉に続き、
大暴風、大洪水などが相次いで起こり、加えて悪病が流行。生活苦の辛酸を舐めていた神風講においても、
天下太平・五穀豊穣・家内安全・海上安全・大漁満足を祈願するべく獅子舞を舞わせることにしたのだ。
しかしながら、これほどの困窮を救えるのは霊験あらたかな獅子であり、よほどの名作でなければなるまい。
方々を探していると、網地島から来た遠藤英助信近という人物が興味深い話を語るのだ。
ちなみに網地島は宮城県牡鹿半島の最南端に位置する有人島。大きさは周囲20.7km、広さ6.43k㎡。細長い形をしており、
島のほとんどが南三陸国定公園特別地域に指定されている。この網地島もまた猫がたくさんいる島として知られている。
遠藤氏いわく、「網地島に獅子が2振りあり、時折その箱の中から不思議な音がする。
何度開けても箱の中には獅子しか入ってなかったが、ためしに別々に収めたところ、音はそれっきりしなくなった。
もしや元気な2振りの獅子が追いかけっこでもして暴れていたのではないか」
これを聞いた神風講は、これほどの不思議な力をもつ獅子であればご利益があるかもしれないと信じ、ただちに網地島へ向かい交渉した。
すると獅子1振りと、付属品として天狗の面、大小の木刀を譲り受けることとなったわけである(この獅子は天保6年の作と伝えられている)。
これを受けて神風講では獅子舞の唄を作り、笛太鼓の囃子をもって旧正月の16日、安波大明神の祭礼にて行うことになった。
以来、悪病の流行もおさまり、牡鹿半島の人々は平和な年月を送ることができた。
もっとも慶応年間の大火災に遭遇した際には、この獅子を燃やしてなるものかと、神主の井戸に入れて守り、
明治13年の大火災のときは渡辺松雄氏宅の井戸に入れてどうにか消失は免れたものの、度重なる火災で汚損が著しく、獅子舞ができなくなってしまう。
その後、遠藤栄四郎氏が東京で獅子を購入し寄付してくれたので、ふたたび獅子舞を始めることができるようになったが、
獅子を振るたびになぜか雨天が続き、困り果てた末、結局網地島から譲り受けた獅子を修理して行うようになったという。
網地島ラインホームページ
http://www12.ocn.ne.jp/‾ajishima/
石巻百景: 石巻観光案内(4)網地島・田代島
http://ishinomaki-photo.blogspot.jp/p/blog-page_13.htm...
宮城県牡鹿半島寄磯浜のアンバサンに見られる里海の記憶
http://archive.is/VlI4...
あじ島冒険楽校 「昔の子供たち」から「未来の大人たち」へ 「島の夏休み」体験 宮城県 石巻 牡鹿
http://plaza.rakuten.co.jp/ajisima/diary/200608040000...
友は鳥となり相棒を助ける頓石物語 与那国島
おおッ……この画像は、まさしく前スレの顔になっていた与那国島の立神岩ではないか。
スレ画に選ばれていたのだから、なんらかのいわくがあるに相違ない。
このような立神岩は、古くから神が佇んでいる姿と見立てられ、信仰の対象とされてきた。
与那国島のソレも例外ではなく、別名『頓石・トゥンガン』と呼ばれ、案の定こんな伝説が語り継がれているのだ。
その昔、与那国島には2人の仲良しの若者がいた。1人は屈強な身体つきの乱暴者、もう1人は美しい顔立ちをした華奢で心優しい若者だ。
島の娘たちのお目当てはもちろん優しい若者の方。優しい若者が歩けば、娘たちが列をなしてついてくるほどだった。
しかしそんなにモテながら優しい若者は娘たちに詫びて、1人ぼっちになっている乱暴者のところへ行くのが常だった。
そして2人で寝転びながらクユ(与那国島の言葉で『月』)を眺めては肩を並べて家路に着くのだった。
島の南側は断崖絶壁になっている。絶壁には冬になると海鳥が巣作りをする。島民たちはこの時期に卵取りをするのが楽しみになっていた。
ある日のこと、乱暴者が優しい若者の家を訪ねて、一緒にトゥンガンに登って、平久保大鳥(アホウドリとの説もある)の卵を取ってこようと
誘う。優しい若者は危ないからやめろと止めるが、乱暴者は頑として引かない。結局2人してトゥンガンへ足を運ぶことにした。
崖の下から海へ50歩のところにトゥンガンは直立不動の姿勢で佇んでいる。見上げると天を衝くごとき高さである。
怖気づく優しい若者を尻目に、乱暴者はどんどん上へよじ登っていく。
ためらっていた優しい若者も、勇気を振り絞ると岩にかじりつくようにして登った。そして2人はどうにかてっぺんにたどり着いた。
2人は手を取り合って喜び、平久保大鳥の卵を取れるだけ取って、さあ帰ろうとしたとき、突然足元の岩が崩れて、
うっかりアングインナ(縄)を落としてしまう。
乱暴者は心配するなと言って相方を慰め、岩を降り始めた。ところが乱暴者は途中で手を滑らせ、真っ逆さまに落ちてしまう。
落下しながらも彼はこう叫んだ。「大丈夫だ。きっと助けがくるから待っていろ!」
自身の命よりも友の身を案じたこの言葉に、優しい若者は岩の上で泣き叫んだ。
幼少のころ、ひ弱だった優しい若者は、いつも他の子供たちにいじめられていた。そんなときはいつも乱暴者が助けてくれたものだ。
大人になると乱暴者は島民から嫌われ、逆に彼は娘の注目の的となった。
とはいえ、子供のころから優しい若者のことを気にかけてくれた真の友人は、実は乱暴者だけだったのだ。
泣き疲れて眠ってしまった若者は夢を見た。夢の中では大きな平久保大鳥が優しい若者の頭上を飛んでいた。
平久保大鳥は旋回しながら叫んだ。「待ってろ、今助けてやるからな」
そして若者が眼を覚ますと、そこはトゥンガンの頂上ではなく、地面の上だったのだ。不思議にもかすり傷の1つもついていない。
若者は大いに喜び、友と神様に感謝した。
このできごとがあってから、人々はこの岩を立神岩と崇めている。岩の前を行き来するときは、被り物を脱いで通るという。
美ら島物語 立神岩
http://www.churashima.net/shima/yonaguni/l_20010508_2...
琉球沖縄を学びながら、いろいろ考えていきたいな〜 与那国の頓岩の由来〜新『球陽外卷・遺老說傳』第44話
http://totoro820.ti-da.net/e4393811.htm...
おおッ……この画像は、まさしく前スレの顔になっていた与那国島の立神岩ではないか。
スレ画に選ばれていたのだから、なんらかのいわくがあるに相違ない。
このような立神岩は、古くから神が佇んでいる姿と見立てられ、信仰の対象とされてきた。
与那国島のソレも例外ではなく、別名『頓石・トゥンガン』と呼ばれ、案の定こんな伝説が語り継がれているのだ。
その昔、与那国島には2人の仲良しの若者がいた。1人は屈強な身体つきの乱暴者、もう1人は美しい顔立ちをした華奢で心優しい若者だ。
島の娘たちのお目当てはもちろん優しい若者の方。優しい若者が歩けば、娘たちが列をなしてついてくるほどだった。
しかしそんなにモテながら優しい若者は娘たちに詫びて、1人ぼっちになっている乱暴者のところへ行くのが常だった。
そして2人で寝転びながらクユ(与那国島の言葉で『月』)を眺めては肩を並べて家路に着くのだった。
島の南側は断崖絶壁になっている。絶壁には冬になると海鳥が巣作りをする。島民たちはこの時期に卵取りをするのが楽しみになっていた。
ある日のこと、乱暴者が優しい若者の家を訪ねて、一緒にトゥンガンに登って、平久保大鳥(アホウドリとの説もある)の卵を取ってこようと
誘う。優しい若者は危ないからやめろと止めるが、乱暴者は頑として引かない。結局2人してトゥンガンへ足を運ぶことにした。
崖の下から海へ50歩のところにトゥンガンは直立不動の姿勢で佇んでいる。見上げると天を衝くごとき高さである。
怖気づく優しい若者を尻目に、乱暴者はどんどん上へよじ登っていく。
ためらっていた優しい若者も、勇気を振り絞ると岩にかじりつくようにして登った。そして2人はどうにかてっぺんにたどり着いた。
2人は手を取り合って喜び、平久保大鳥の卵を取れるだけ取って、さあ帰ろうとしたとき、突然足元の岩が崩れて、
うっかりアングインナ(縄)を落としてしまう。
乱暴者は心配するなと言って相方を慰め、岩を降り始めた。ところが乱暴者は途中で手を滑らせ、真っ逆さまに落ちてしまう。
落下しながらも彼はこう叫んだ。「大丈夫だ。きっと助けがくるから待っていろ!」
自身の命よりも友の身を案じたこの言葉に、優しい若者は岩の上で泣き叫んだ。
幼少のころ、ひ弱だった優しい若者は、いつも他の子供たちにいじめられていた。そんなときはいつも乱暴者が助けてくれたものだ。
大人になると乱暴者は島民から嫌われ、逆に彼は娘の注目の的となった。
とはいえ、子供のころから優しい若者のことを気にかけてくれた真の友人は、実は乱暴者だけだったのだ。
泣き疲れて眠ってしまった若者は夢を見た。夢の中では大きな平久保大鳥が優しい若者の頭上を飛んでいた。
平久保大鳥は旋回しながら叫んだ。「待ってろ、今助けてやるからな」
そして若者が眼を覚ますと、そこはトゥンガンの頂上ではなく、地面の上だったのだ。不思議にもかすり傷の1つもついていない。
若者は大いに喜び、友と神様に感謝した。
このできごとがあってから、人々はこの岩を立神岩と崇めている。岩の前を行き来するときは、被り物を脱いで通るという。
美ら島物語 立神岩
http://www.churashima.net/shima/yonaguni/l_20010508_2...
琉球沖縄を学びながら、いろいろ考えていきたいな〜 与那国の頓岩の由来〜新『球陽外卷・遺老說傳』第44話
http://totoro820.ti-da.net/e4393811.htm...
沖縄にも巨人伝説あり……その正体は? 伊江島
>>26の礫島でダイダラボッチ伝説を取り上げたが、沖縄にも類似の話が残されているようだ。
舞台は沖縄本島北部、本部半島の北西9kmの海上にある伊江島。
伊江島は俯瞰から見下ろせば中央がくぼんだ楕円形状をしている。東西8.4km、南北3km、総面積は22.77k㎡であり、
島の中央は標高172mの城山(ぐすくやま・通称『イージマ・タッチュー』)がそびえているのが印象的だ。
その山の頂上に、これまた『巨人の足跡』が残されているのだ。伊江島には古くから『力(ちから)タンナーバ』という大男が住んでいて、
彼にまつわるものだという。
隣村との戦いでタンナーバはタッチューに登り、迫り来る軍勢に岩を持ち上げて投げつけ、敵を追い払ったと伝えられている。
その際、踏ん張った地面にこの足跡ができたとのことだ。
……そもそもこれらの巨人伝説とはなにを意味するのだろう?
前スレ>>277の入砂島でも言及した『天人(あーまんちゅ)』も開闢の神であり巨人であるし(これは史実に基づかれたとは言えないが)、
同じく前スレ>>122の与那国島の女傑『サンアイ・イソバ』も身の丈180cmを超え、牛や馬よりも大きな身体をしていたという逸話がある。
人類学の分野でいえば『港川人』から1万年以上、人骨は発見されていなかったそうだ。
しかし近年、港川の近くのガルマンドゥ洞窟からは、縄文後期のものと思われる7体の人骨が発見される。
この人骨を調査した結果、これまで出土した人骨よりも骨のサイズが大きいことが判明。
身長にすると約160cmほど。現在の沖縄の人々につながる南西諸島弥生人と、『港川人』は身長が極端に低かったことを考えると、
その間を埋めるガルマンドゥ洞人に代表される沖縄の縄文人だけが大きかったことは一体なにを意味するのだろうか?
当時の沖縄の人より背の高かった巨人たちは、漂流してきたフェニキア人ではなかったのではないかとの説もある。
ハイヌミカゼHome 伊江島タッチュー(城山)
http://www.hainumikaze.com/iejima/iejima-tacchuu.htm...
沖縄に行く前に! 伊江島の伝説
http://okimae.higepapa.com/?eid=34799...
巨人 (伝説の生物)wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B7%A8%E4%BA%BA_(%E4%B...
港川人wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B8%AF%E5%B7%9D%E4%BA%...
>>26の礫島でダイダラボッチ伝説を取り上げたが、沖縄にも類似の話が残されているようだ。
舞台は沖縄本島北部、本部半島の北西9kmの海上にある伊江島。
伊江島は俯瞰から見下ろせば中央がくぼんだ楕円形状をしている。東西8.4km、南北3km、総面積は22.77k㎡であり、
島の中央は標高172mの城山(ぐすくやま・通称『イージマ・タッチュー』)がそびえているのが印象的だ。
その山の頂上に、これまた『巨人の足跡』が残されているのだ。伊江島には古くから『力(ちから)タンナーバ』という大男が住んでいて、
彼にまつわるものだという。
隣村との戦いでタンナーバはタッチューに登り、迫り来る軍勢に岩を持ち上げて投げつけ、敵を追い払ったと伝えられている。
その際、踏ん張った地面にこの足跡ができたとのことだ。
……そもそもこれらの巨人伝説とはなにを意味するのだろう?
前スレ>>277の入砂島でも言及した『天人(あーまんちゅ)』も開闢の神であり巨人であるし(これは史実に基づかれたとは言えないが)、
同じく前スレ>>122の与那国島の女傑『サンアイ・イソバ』も身の丈180cmを超え、牛や馬よりも大きな身体をしていたという逸話がある。
人類学の分野でいえば『港川人』から1万年以上、人骨は発見されていなかったそうだ。
しかし近年、港川の近くのガルマンドゥ洞窟からは、縄文後期のものと思われる7体の人骨が発見される。
この人骨を調査した結果、これまで出土した人骨よりも骨のサイズが大きいことが判明。
身長にすると約160cmほど。現在の沖縄の人々につながる南西諸島弥生人と、『港川人』は身長が極端に低かったことを考えると、
その間を埋めるガルマンドゥ洞人に代表される沖縄の縄文人だけが大きかったことは一体なにを意味するのだろうか?
当時の沖縄の人より背の高かった巨人たちは、漂流してきたフェニキア人ではなかったのではないかとの説もある。
ハイヌミカゼHome 伊江島タッチュー(城山)
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巨人 (伝説の生物)wikipedia
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実在した伝説の巨漢力士・生月鯨太左衛門 生月島(いきつきしま) 1
長崎県の平戸島の北西にある島、生月島は前スレ>>261で『だんじく様』を取り上げてしまい重複になってしまうが、
そんなことは知ったことか、である。巨人つながりで偶然ネタを見つけたので、併せて紹介しておくべきだと思ったからだ。
それが『生月鯨太左衛門(いきつきげいたざえもん)伝説』だ。
生月島の英雄力士、生月鯨太左衛門は記録によると、江戸時代の終わりごろである文政10(1827)年の3月21日、舘浦に生まれ、
天保15(1844)年に18歳で大坂場所に姿を見せ、翌年には江戸相撲に進出して大いに江戸を賑わせたのの、嘉永3(1850)年、
24歳の若さでこの世を去った。
江戸相撲に登場した弘化2(1845)年と翌年にかけての鯨太左衛門ブームで多数の錦絵が印刷されたため、それにより彼の顔立ちや、
身長七尺五寸(なんと227cm!体重は169kg。日本一の巨漢力士としての記録保持者)など体格についても知り得ることが可能だ。
生月島には鯨太左衛門の幼少から青年期にかけての規格外の伝説が無数に存在する。
そもそも誕生についてもこんな秘話がある。長年子宝に恵まれなかった鯨漁師の多七・ハル夫婦が、志自岐大菩薩に詣って男子を授かるよう
祈願したところ、夢に子持ち鯨が現れ、自分を捕らずに逃がしてくれたら子供を授けようと言った。
漁師仲間はそれを信じ、漁場に入った親子鯨を逃がしてやった。するとお告げどおりハルは子供を身ごもった。
生まれてみると、鯨のように大きな赤ん坊だったという。
また別の話では、夢で現れた鯨が大宝寺にお詣りに行くので、行きがけには捕ってくれるなと言ったが、結局捕獲されてしまい、
しばらくして要作(鯨太左衛門の幼名)が生まれたため、周囲の人々は、あの鯨の生まれ変わりだに違いないと噂したとか(勤勉なる読者ならば、
前スレ>>373で書いた宇久島の『紋九郎鯨物語』の夢のお告げと同義であることにお気づきになられるであろう。
これはあくまで後付けの『伝説』だろうが)。
幼少時における鯨太左衛門のこんな力自慢もある。重いものを抱える話では、3歳のときひき臼を抱え上げただの、
5歳のときは造り酒屋の近藤家で一厘銭百貫五〇把をやすやすと抱えただの、7歳時には同じ近藤家から米俵を持ち帰ったなどの武勇伝があるほか、
先般志自伎神社の宮司いわく、同神社の上宮の石祠を山頂まで抱え上げたというから恐れ入る。
または船と綱引きした話。ある話では、要作は体重が重すぎて父の漁船に乗せてもらえなかったので、出漁の際、
もやい綱を引っ張り、なんと船を引き揚げたという怪力を見せた。
その一方で父親の船が帰ると1人で船を引き揚げ、いとも簡単に船をひっくり返してアカ水を出すといった孝行話もある。
14歳になると、1人で鯨を仕留めて『鯨の要作』『鯨吉』と呼ばれるようになったと、まさに生きる伝説そのものである。
長崎県の平戸島の北西にある島、生月島は前スレ>>261で『だんじく様』を取り上げてしまい重複になってしまうが、
そんなことは知ったことか、である。巨人つながりで偶然ネタを見つけたので、併せて紹介しておくべきだと思ったからだ。
それが『生月鯨太左衛門(いきつきげいたざえもん)伝説』だ。
生月島の英雄力士、生月鯨太左衛門は記録によると、江戸時代の終わりごろである文政10(1827)年の3月21日、舘浦に生まれ、
天保15(1844)年に18歳で大坂場所に姿を見せ、翌年には江戸相撲に進出して大いに江戸を賑わせたのの、嘉永3(1850)年、
24歳の若さでこの世を去った。
江戸相撲に登場した弘化2(1845)年と翌年にかけての鯨太左衛門ブームで多数の錦絵が印刷されたため、それにより彼の顔立ちや、
身長七尺五寸(なんと227cm!体重は169kg。日本一の巨漢力士としての記録保持者)など体格についても知り得ることが可能だ。
生月島には鯨太左衛門の幼少から青年期にかけての規格外の伝説が無数に存在する。
そもそも誕生についてもこんな秘話がある。長年子宝に恵まれなかった鯨漁師の多七・ハル夫婦が、志自岐大菩薩に詣って男子を授かるよう
祈願したところ、夢に子持ち鯨が現れ、自分を捕らずに逃がしてくれたら子供を授けようと言った。
漁師仲間はそれを信じ、漁場に入った親子鯨を逃がしてやった。するとお告げどおりハルは子供を身ごもった。
生まれてみると、鯨のように大きな赤ん坊だったという。
また別の話では、夢で現れた鯨が大宝寺にお詣りに行くので、行きがけには捕ってくれるなと言ったが、結局捕獲されてしまい、
しばらくして要作(鯨太左衛門の幼名)が生まれたため、周囲の人々は、あの鯨の生まれ変わりだに違いないと噂したとか(勤勉なる読者ならば、
前スレ>>373で書いた宇久島の『紋九郎鯨物語』の夢のお告げと同義であることにお気づきになられるであろう。
これはあくまで後付けの『伝説』だろうが)。
幼少時における鯨太左衛門のこんな力自慢もある。重いものを抱える話では、3歳のときひき臼を抱え上げただの、
5歳のときは造り酒屋の近藤家で一厘銭百貫五〇把をやすやすと抱えただの、7歳時には同じ近藤家から米俵を持ち帰ったなどの武勇伝があるほか、
先般志自伎神社の宮司いわく、同神社の上宮の石祠を山頂まで抱え上げたというから恐れ入る。
または船と綱引きした話。ある話では、要作は体重が重すぎて父の漁船に乗せてもらえなかったので、出漁の際、
もやい綱を引っ張り、なんと船を引き揚げたという怪力を見せた。
その一方で父親の船が帰ると1人で船を引き揚げ、いとも簡単に船をひっくり返してアカ水を出すといった孝行話もある。
14歳になると、1人で鯨を仕留めて『鯨の要作』『鯨吉』と呼ばれるようになったと、まさに生きる伝説そのものである。
実在した伝説の巨漢力士・生月鯨太左衛門 生月島(いきつきしま) 2
その後、大阪の小野川嘉平次(小野川部屋)に入門。18歳で初土俵、翌年天保15(1844)年に江戸相撲の玉垣額之助(玉垣部屋)門下に入った。
生月鯨太左衛門の人気は高く、一陽斎豊国ら著名な作家の手による錦絵も多数残されている。巨体から繰り出される技は豪快で、
張り手と突っ張りに威力を発揮したとされているが、巨体お披露目的な興行が多く、番付に張り出されて以降の6年12場所間、
ほとんど土俵入りのみの出場であった。なおその巨体だけでなく、顔も人気であったらしい。
江戸では女遊びを覚えたようで、両国の水茶屋の評判娘に振られたので、腹いせに水茶屋の近くの見世物小屋に出ていた一寸玉之助という
身長1m程度の女性を妻にしたエピソードも伝わっている。度がすぎたのか、晩年の約5年間は瘡毒を患っていた。
平戸藩主の松浦熈は鯨太左衛門を、松浦家の江戸での菩提寺である天祥寺の長屋の2階に住まわせていた。嘉永3年に鯨太左衛門が24歳で死去した際、
遺体を運び出すのに、長屋の天井を切り開いて搬出したと伝わる。越後での巡業に出立の際、脚気にて病死とする資料あり。
また、瘡毒で死んだとする資料も残っている。 死してもなお「地獄で鬼があきれる」(その体格に)という題の絵が発行された。
幕内在位:12場所(1844年10月場所-1850年3月場所。但し実際に相撲を取ったのは1846年11月場所のみ)
幕内通算成績:3勝2敗115休 勝率.600(休場の大半は土俵入りのみの出場)
現役在位:12場所
昔に出会う旅 長崎旅行-16 「平戸市生月町博物館・島の館」江戸時代最大の捕鯨
http://blog.goo.ne.jp/tako_888k/e/620c24e65390a5d1b7...
珍スポット探訪・普通の旅に飽きたあなたへ キリシタンと捕鯨の島・生月
http://b-spot.iza.ne.jp/blog/entry/531558...
紀行歴史遊学 伝説の巨人力士
http://gyokuzan.typepad.jp/blog/2013/02/%E9%95%B7%E8%BA%A...
相撲人名鑑 生月 鯨太左エ門(いけづき げいたざえもん)
http://www.fsinet.or.jp/‾sumo/profile/1/18441003.htm
ロバート・ワドロー(ギネスブックに載ったもっとも身長が高い人間)wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AD%E3%83%90%E3%83%...
金太郎wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%91%E5%A4%AA%E9%83%...
その後、大阪の小野川嘉平次(小野川部屋)に入門。18歳で初土俵、翌年天保15(1844)年に江戸相撲の玉垣額之助(玉垣部屋)門下に入った。
生月鯨太左衛門の人気は高く、一陽斎豊国ら著名な作家の手による錦絵も多数残されている。巨体から繰り出される技は豪快で、
張り手と突っ張りに威力を発揮したとされているが、巨体お披露目的な興行が多く、番付に張り出されて以降の6年12場所間、
ほとんど土俵入りのみの出場であった。なおその巨体だけでなく、顔も人気であったらしい。
江戸では女遊びを覚えたようで、両国の水茶屋の評判娘に振られたので、腹いせに水茶屋の近くの見世物小屋に出ていた一寸玉之助という
身長1m程度の女性を妻にしたエピソードも伝わっている。度がすぎたのか、晩年の約5年間は瘡毒を患っていた。
平戸藩主の松浦熈は鯨太左衛門を、松浦家の江戸での菩提寺である天祥寺の長屋の2階に住まわせていた。嘉永3年に鯨太左衛門が24歳で死去した際、
遺体を運び出すのに、長屋の天井を切り開いて搬出したと伝わる。越後での巡業に出立の際、脚気にて病死とする資料あり。
また、瘡毒で死んだとする資料も残っている。 死してもなお「地獄で鬼があきれる」(その体格に)という題の絵が発行された。
幕内在位:12場所(1844年10月場所-1850年3月場所。但し実際に相撲を取ったのは1846年11月場所のみ)
幕内通算成績:3勝2敗115休 勝率.600(休場の大半は土俵入りのみの出場)
現役在位:12場所
昔に出会う旅 長崎旅行-16 「平戸市生月町博物館・島の館」江戸時代最大の捕鯨
http://blog.goo.ne.jp/tako_888k/e/620c24e65390a5d1b7...
珍スポット探訪・普通の旅に飽きたあなたへ キリシタンと捕鯨の島・生月
http://b-spot.iza.ne.jp/blog/entry/531558...
紀行歴史遊学 伝説の巨人力士
http://gyokuzan.typepad.jp/blog/2013/02/%E9%95%B7%E8%BA%A...
相撲人名鑑 生月 鯨太左エ門(いけづき げいたざえもん)
http://www.fsinet.or.jp/‾sumo/profile/1/18441003.htm
ロバート・ワドロー(ギネスブックに載ったもっとも身長が高い人間)wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AD%E3%83%90%E3%83%...
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七城鬼女伝説 喜界島(きかいじま)
喜界島と来れば通常、俊寛の話を持ち出すのが王道なのだろうが、オカルト板でそれを書き連ねるのはいささか場違いな気がする。
よって今回は『七城の鬼女伝説』に焦点を絞る。
喜界島は鹿児島県大島郡に属し、奄美大島の東方約25kmに浮かんでいる。隆起サンゴ礁で形成されたのが特徴的で、
真横からのシルエットがなだらかな丘陵の美しい島である。件の鬼女伝説がこうだ。
はるかな昔。壇ノ浦の戦いに敗れた平家の残党200余名は追っ手から逃れるため、はるばる喜界島を目指していた。
命からがら喜界島にたどり着き、今でいう志戸桶から上陸したのだった。
志戸桶に上陸後、一行は伊実久にまわり、その上の森に城を築いた。その土塁は現在でも遺構をとどめ、七城(ななじょう)と呼ばれている。
別名『平家森』とも呼ばれ、早町の後方に位置し、早町港方面から来襲する源氏を想定した砦である。
この七城こそ『七城の鬼女』なる伝説を後世に伝えているのだ。
平家の落人たちが七城が建つ前の森に分け入ると、頭に薄布をかぶった着物姿の女が一行に背を向けてなにかの作業をしていた。
近づいてみると、どうやら女は機織りをしているらしい。
「すまぬ、女。そなたの土地に無断で入ったのを許されい」と、一行の首領である平盗盛が声をかけた。
女はそこで機織りの手をとめ、ゆっくりと振り向いた。顔は覆った布のせいで計り知れない。
「これはこれは武者さまのご一行とは。気配に気づかず背中を見せておりご無礼いたしました。ですが、このような僻地にいかなご用で?」
鈴を転がしたような声に一同はハッとした。おそらく妙齢の年のころであろう。
「某らは、恥ずかしながら戦から落ち延びてきた身でありますゆえ、どうか追っ手よりかくまっていただきたい」
「ホッホッホホ……さすればこの土地に屋城を築かねばなりますまい。喜んで協力しましょうぞ」
女は歌うように言うものだから一行の中には、内心癪に障る者もいた。しかもお辞儀しても頭の布を取らないときている。
「これ、女。殿の面前であるぞ。布を取りたまえ。無礼であろう」と、側近の1人がたしなめた。
「いかにも、手前は田舎者の女であるからでしてのう」と女は言うものの、おじきした姿勢のままクスクス笑うだけ。
「ざれごとを言うてからに」見かねた部下の1人が女の背後へまわり、だしぬけに布を剥ぎ取った。すると女の頭頂があらわになった。
「こ、これは……」一行は思わず我が目を疑った。なんと女の頭の両側には3cmほどの角が生えていたのだ。
「おのれい、よくもわらわに恥をかかせてくれたな。無礼はどちらじゃ!」女は夜叉のごとき形相で叫ぶと両腕を広げた。爪は鋭く尖っていた。
「出たな、物の怪、成敗してくれる!」
平盗盛の抜刀一閃と、女が電光石火の反応で宙に飛び退いたのはほぼ同時。
「やりおるな。仕損じるとは……」盗盛は苦々しげに刀をおさめた。
「うぬらは永遠に追っ手から逃れられはせん。うぬらは源氏の影に怯えて、一生すごすこととなろう。さらばじゃ!」と、
中空の闇の中から女の捨て台詞がこだまし、哄笑とともに消えていった。
昔の文献によると、喜界島は『鬼界島』と記されており、文字どおり鬼が住んでいたとされている。
喜界島ナビ.com
http://kikaijimanavi.com/
喜界島ドットコム
http://www.kikai-jima.com/sknh.htm...
播磨のしっぽ 平家伝説と小野豆
http://kiontgm.blogspot.jp/2012/06/blog-post_15.htm...
東方纏める神社 鬼女出ないかな/安倍氏
http://blog.livedoor.jp/kusurikan/archives/27848514.ht...
戸隠に伝わる鬼女紅葉の物語 (信州戸隠、鬼無里(きなさ・現長野市)集落に伝わる鬼女伝説)
http://www1.ocn.ne.jp/‾pia/momiji.htm
喜界島と来れば通常、俊寛の話を持ち出すのが王道なのだろうが、オカルト板でそれを書き連ねるのはいささか場違いな気がする。
よって今回は『七城の鬼女伝説』に焦点を絞る。
喜界島は鹿児島県大島郡に属し、奄美大島の東方約25kmに浮かんでいる。隆起サンゴ礁で形成されたのが特徴的で、
真横からのシルエットがなだらかな丘陵の美しい島である。件の鬼女伝説がこうだ。
はるかな昔。壇ノ浦の戦いに敗れた平家の残党200余名は追っ手から逃れるため、はるばる喜界島を目指していた。
命からがら喜界島にたどり着き、今でいう志戸桶から上陸したのだった。
志戸桶に上陸後、一行は伊実久にまわり、その上の森に城を築いた。その土塁は現在でも遺構をとどめ、七城(ななじょう)と呼ばれている。
別名『平家森』とも呼ばれ、早町の後方に位置し、早町港方面から来襲する源氏を想定した砦である。
この七城こそ『七城の鬼女』なる伝説を後世に伝えているのだ。
平家の落人たちが七城が建つ前の森に分け入ると、頭に薄布をかぶった着物姿の女が一行に背を向けてなにかの作業をしていた。
近づいてみると、どうやら女は機織りをしているらしい。
「すまぬ、女。そなたの土地に無断で入ったのを許されい」と、一行の首領である平盗盛が声をかけた。
女はそこで機織りの手をとめ、ゆっくりと振り向いた。顔は覆った布のせいで計り知れない。
「これはこれは武者さまのご一行とは。気配に気づかず背中を見せておりご無礼いたしました。ですが、このような僻地にいかなご用で?」
鈴を転がしたような声に一同はハッとした。おそらく妙齢の年のころであろう。
「某らは、恥ずかしながら戦から落ち延びてきた身でありますゆえ、どうか追っ手よりかくまっていただきたい」
「ホッホッホホ……さすればこの土地に屋城を築かねばなりますまい。喜んで協力しましょうぞ」
女は歌うように言うものだから一行の中には、内心癪に障る者もいた。しかもお辞儀しても頭の布を取らないときている。
「これ、女。殿の面前であるぞ。布を取りたまえ。無礼であろう」と、側近の1人がたしなめた。
「いかにも、手前は田舎者の女であるからでしてのう」と女は言うものの、おじきした姿勢のままクスクス笑うだけ。
「ざれごとを言うてからに」見かねた部下の1人が女の背後へまわり、だしぬけに布を剥ぎ取った。すると女の頭頂があらわになった。
「こ、これは……」一行は思わず我が目を疑った。なんと女の頭の両側には3cmほどの角が生えていたのだ。
「おのれい、よくもわらわに恥をかかせてくれたな。無礼はどちらじゃ!」女は夜叉のごとき形相で叫ぶと両腕を広げた。爪は鋭く尖っていた。
「出たな、物の怪、成敗してくれる!」
平盗盛の抜刀一閃と、女が電光石火の反応で宙に飛び退いたのはほぼ同時。
「やりおるな。仕損じるとは……」盗盛は苦々しげに刀をおさめた。
「うぬらは永遠に追っ手から逃れられはせん。うぬらは源氏の影に怯えて、一生すごすこととなろう。さらばじゃ!」と、
中空の闇の中から女の捨て台詞がこだまし、哄笑とともに消えていった。
昔の文献によると、喜界島は『鬼界島』と記されており、文字どおり鬼が住んでいたとされている。
喜界島ナビ.com
http://kikaijimanavi.com/
喜界島ドットコム
http://www.kikai-jima.com/sknh.htm...
播磨のしっぽ 平家伝説と小野豆
http://kiontgm.blogspot.jp/2012/06/blog-post_15.htm...
東方纏める神社 鬼女出ないかな/安倍氏
http://blog.livedoor.jp/kusurikan/archives/27848514.ht...
戸隠に伝わる鬼女紅葉の物語 (信州戸隠、鬼無里(きなさ・現長野市)集落に伝わる鬼女伝説)
http://www1.ocn.ne.jp/‾pia/momiji.htm
田んぼの中に神を祀った祠あり 八畝(ようね)集落
おざなりな感も否めないが、たまには村ネタもやらねばなるまい。島ばかりではいささか偏り気味であろう。
村といっても、その共同体を貶めるようなことを書くわけにはいかないので、ちょっと風変わりなものを紹介するにとどめるけど。
高知県大豊町は徳島・愛媛の両県と接する山深い土地。その斜面には日本の原風景である牧歌的な棚田が連なっている。
なかでも標高600mにある八畝集落の棚田の1つに笹岡家の所有する田があり、その田んぼの中央には神を祀った祠が鎮座しているのだ。
祠には『若宮八幡様』を祀ってあり、笹岡家が代々守ってきた。2013年時で86歳の笹岡富子さんいわく、
「いつの時代からあるのかわからんぐらい、昔からある」とのこと。
こんな祠が田んぼのど真ん中に据えられていれば田植え稲刈りする際、場所を取られるうえ作業に支障をきたしそうだが、
古来、日本は稲作を主とした農耕民族であり、豊作への切なる願いを込めて先人たちが建てたに違いない。
まほろばの島詩 高知県/八畝(ようね)の棚田2
http://mahorobanoshimauta.blog10.fc2.com/blog-entry-776.htm...
黄昏君の写真帳 朝もや煙る八畝の棚田
http://conan57.exblog.jp/2031946...
山田養蜂場 リトルヘブン-小さな楽園
http://www.3838.co.jp/littleheaven/200806...
おざなりな感も否めないが、たまには村ネタもやらねばなるまい。島ばかりではいささか偏り気味であろう。
村といっても、その共同体を貶めるようなことを書くわけにはいかないので、ちょっと風変わりなものを紹介するにとどめるけど。
高知県大豊町は徳島・愛媛の両県と接する山深い土地。その斜面には日本の原風景である牧歌的な棚田が連なっている。
なかでも標高600mにある八畝集落の棚田の1つに笹岡家の所有する田があり、その田んぼの中央には神を祀った祠が鎮座しているのだ。
祠には『若宮八幡様』を祀ってあり、笹岡家が代々守ってきた。2013年時で86歳の笹岡富子さんいわく、
「いつの時代からあるのかわからんぐらい、昔からある」とのこと。
こんな祠が田んぼのど真ん中に据えられていれば田植え稲刈りする際、場所を取られるうえ作業に支障をきたしそうだが、
古来、日本は稲作を主とした農耕民族であり、豊作への切なる願いを込めて先人たちが建てたに違いない。
まほろばの島詩 高知県/八畝(ようね)の棚田2
http://mahorobanoshimauta.blog10.fc2.com/blog-entry-776.htm...
黄昏君の写真帳 朝もや煙る八畝の棚田
http://conan57.exblog.jp/2031946...
山田養蜂場 リトルヘブン-小さな楽園
http://www.3838.co.jp/littleheaven/200806...
オサバイ様祭 穴内集落
同じく大豊町穴内地区では、田植えのときに『オサバイ様』という無形の神を祀る神事が行われている。
昔は田植えを始めるときには、各家の一番上の小さな田んぼで『オサバイ様』を祀り、豊作祈願したものであるという。
オサバイ様とは毎年5月の田植えの時期に、五穀豊穣の願いを聞いてくれるとされている神様だ。
旅の発見
http://tabihatsu.jp/program/85747.htm...
同じく大豊町穴内地区では、田植えのときに『オサバイ様』という無形の神を祀る神事が行われている。
昔は田植えを始めるときには、各家の一番上の小さな田んぼで『オサバイ様』を祀り、豊作祈願したものであるという。
オサバイ様とは毎年5月の田植えの時期に、五穀豊穣の願いを聞いてくれるとされている神様だ。
旅の発見
http://tabihatsu.jp/program/85747.htm...
臼杵城を鬼や邪から守るための鬼門封じの島 津久見島(つくみしま)
大分県臼杵湾の沖合7kmの湾の中央に、どこから見ても形の整った円錐形の島が見える。
その形状から別名『おにぎり島』と呼ばれているが、正式名は津久見島。日豊海岸国定公園に指定されているとはいえ無人島だったりする。
島名が津久見島ゆえ、津久見市の管轄と思いがちだが、臼杵市にある。
周囲は急な斜面に囲まれているが、本土側がわずかながら浜が開けており、海水浴場及びキャンプ場が整備されている。また磯釣りも人気がある。
古くは竹島といい、津久見島という名は臼杵城からこの島と月を望む景観が素晴らしいことから、月見島をもじってつけられた。
この津久見島の方角が、臼杵城から見て鬼門に当たることから、寛永元(1624)年、臼杵藩主・稲葉一通が近江の琵琶湖に浮かぶ竹生島(前スレ>>238)の
竹生島神社から弁財天を勧請し、島名を竹生島と改称したという記録があるらしい。
鬼門とは北東(艮・うしとら。丑と寅の間)の方位を指し、陰陽道では鬼が出入りする方角であるとされ、万事に忌むべき方角としている。
鬼門の反対の、南西(坤・ひつじさる)の方角を裏鬼門と呼び、これも忌み嫌われているのは有名だ。
陰陽道においては、北と西は陰を表し、東と南は陽とされる。すなわち鬼門・裏鬼門の方角は陰陽の境になるため、不安定になるとしている。
また鬼門は忌み嫌われるいわれの他に、逆に神々が通過する方向、あるいは太陽が生まれる方位であるために、
清浄の気を保つ必要があるという説もある。
たしかに、南西は沖縄から北西の果ての北海道に至るまで、日本列島は鬼や邪がつけ込みやすい立地にある。
だからこそ鬼門・裏鬼門の防備には最善を尽くさねばならない。
臼杵
http://nisiyoko.sonnabakana.com/usuki.htm...
臼杵城と鬼門
http://www.coara.or.jp/‾yas/miwari/kimon.htm
大分県臼杵湾の沖合7kmの湾の中央に、どこから見ても形の整った円錐形の島が見える。
その形状から別名『おにぎり島』と呼ばれているが、正式名は津久見島。日豊海岸国定公園に指定されているとはいえ無人島だったりする。
島名が津久見島ゆえ、津久見市の管轄と思いがちだが、臼杵市にある。
周囲は急な斜面に囲まれているが、本土側がわずかながら浜が開けており、海水浴場及びキャンプ場が整備されている。また磯釣りも人気がある。
古くは竹島といい、津久見島という名は臼杵城からこの島と月を望む景観が素晴らしいことから、月見島をもじってつけられた。
この津久見島の方角が、臼杵城から見て鬼門に当たることから、寛永元(1624)年、臼杵藩主・稲葉一通が近江の琵琶湖に浮かぶ竹生島(前スレ>>238)の
竹生島神社から弁財天を勧請し、島名を竹生島と改称したという記録があるらしい。
鬼門とは北東(艮・うしとら。丑と寅の間)の方位を指し、陰陽道では鬼が出入りする方角であるとされ、万事に忌むべき方角としている。
鬼門の反対の、南西(坤・ひつじさる)の方角を裏鬼門と呼び、これも忌み嫌われているのは有名だ。
陰陽道においては、北と西は陰を表し、東と南は陽とされる。すなわち鬼門・裏鬼門の方角は陰陽の境になるため、不安定になるとしている。
また鬼門は忌み嫌われるいわれの他に、逆に神々が通過する方向、あるいは太陽が生まれる方位であるために、
清浄の気を保つ必要があるという説もある。
たしかに、南西は沖縄から北西の果ての北海道に至るまで、日本列島は鬼や邪がつけ込みやすい立地にある。
だからこそ鬼門・裏鬼門の防備には最善を尽くさねばならない。
臼杵
http://nisiyoko.sonnabakana.com/usuki.htm...
臼杵城と鬼門
http://www.coara.or.jp/‾yas/miwari/kimon.htm
あけおめ〜、トシのせいか深夜起きてるのはキツイが、正月企画として特別に連投しちゃおう。新年早々、悲しくて陰惨な話とか〜!
美しさゆえに死んだ悲劇の歌姫・カンツメ伝説 奄美大島宇検村
奄美大島では薩摩藩時代、役人や豪農の家では『ヤンチュ(家人)』と呼ばれる奄美独自の奴隷制度があった。
ヤンチュとは上納米や砂糖を納めきれない貧しい農家が、その代償として身売りをしていたのである。
身売り金は年3割という高利で、ヤンチュの立場になれば一生その家で暮らすしかなかった。
今から約180年前、カンツメは須古村から隣の名柄(宇検村)の豪農へと、ヤンチュとして売られていった。
元来、美人で器量もよく利発だったカンツメは同じヤンチュたちの中でも抜きん出ていた。それゆえ他のヤンチュたちから妬まれ、
よく嫌がらせを受けた。しかし主人は、カンツメの美貌に気をとめていたので、目のつくかぎり彼女をかばった。
もっぱら飯炊きや草刈りなどが彼女の仕事だったが、手抜きすることなくよく働いた。
ある日、久慈集落から岩加那(いわかな)が名柄の豪農の家を訪れた。岩加那もまた美青年であり、役所の書記をしている傍ら、
三味線と歌を得意としていた。
やがて宴が催された。カンツメも招かれ、岩加那の歌の相手をするようになったので、心をこめて歌った。
岩加那はたちまち彼女の歌声に惹かれ、歌い終えるころには2人の気持ちは通じ合っていた。
この日から2人は恋仲となり、仕事が終わると、久慈と名柄の境にする佐念山の小屋で、夜ごと逢瀬を重ねるようになった。
どんなに人知れず会っていたとしても、遅かれ早かれ2人の関係は目ざとい者に露見するものである。
やがて2人の仲がヤンチュ仲間に知れわたり、主人夫婦の耳にも入ってしまう。女主人は嫉妬深く、気性の激しい女だった。
ヤンチュの分際で泥坊猫のように恋愛するのは御法度。ましてや相手は役所の書記であり主人の知人。
カンツメは裸にむかれると鞭で打たれ、あれほど嫌がらせからかばってくれた主人に強姦されたうえ、
挙句の果てには陰部に焼け火箸を押し付けられた。酸鼻を極める折檻に、カンツメは悶絶し気を失った……。
女主人は彼女をボロ雑巾のように扱っておきながら、翌日にはたき木採りに山へ行かせた。
たき木を拾い終えた他のヤンチュたちが山を下りたあともカンツメは1人山に残り、岩加那と逢引していた佐念山の小屋に向かった。
小屋で身支度を整え、郷里に残した両親と、いまだ恋の炎が冷めやらぬ岩加那に感謝と別れの祈りを残し、自身の帯で首をくくって死んだ。
その夜、まさかカンツメが折檻にあい、自害したとは知らない岩加那は、三味線片手に佐念山へ行き、カンツメを待っていた。
カンツメはいつもより沈んだ顔で小屋にやってきた。それでも2人して楽しく歌っているうちに彼女は元気になっていった。
夜明け前、別れにカンツメはもう1曲歌った。「あかす世や暮れて汝きゃ夜や明けり、かふ節ぬあればまた見きょそ……」と、
歌い終わると、カンツメの姿は霞のようにすっと消えてしまった。
岩加那はあたりを探し回った。ふと頭上を見上げるなり絶叫した。カンツメの変わり果てた亡骸を見つけたのである。
その後、経緯を知った岩加那は、早く身請けをしてあげればよかったと悔いたが、すべては遅すぎた。
因果な話で、名柄の豪農夫婦はカンツメの亡霊に脅かされて変死を遂げ、家は没落したと伝えられている。
現在でもヒギャ(奄美大島南部)では、カンツメの霊が出るのを恐れて、夜半カンツメ節は歌わない習慣があるという。
あまみんちゅドットコム奄美人 悲恋のカンツメ物語
http://amaminchu.com/iroiro100ca/column/story02.htm...
みんなで楽しもう! 〜琉球沖縄の、先祖から伝わってきたお話〜 奄美・沖縄本島・沖縄先島の伝説より、第66話。美人が出ない村
http://totoro820.ti-da.net/e3169870.htm...
宇検村の史跡・文化財・石碑 宇検村の史跡ギャラリー
http://www.synapse.ne.jp/hatashin/01ooshimahontou/06uke...
美しさゆえに死んだ悲劇の歌姫・カンツメ伝説 奄美大島宇検村
奄美大島では薩摩藩時代、役人や豪農の家では『ヤンチュ(家人)』と呼ばれる奄美独自の奴隷制度があった。
ヤンチュとは上納米や砂糖を納めきれない貧しい農家が、その代償として身売りをしていたのである。
身売り金は年3割という高利で、ヤンチュの立場になれば一生その家で暮らすしかなかった。
今から約180年前、カンツメは須古村から隣の名柄(宇検村)の豪農へと、ヤンチュとして売られていった。
元来、美人で器量もよく利発だったカンツメは同じヤンチュたちの中でも抜きん出ていた。それゆえ他のヤンチュたちから妬まれ、
よく嫌がらせを受けた。しかし主人は、カンツメの美貌に気をとめていたので、目のつくかぎり彼女をかばった。
もっぱら飯炊きや草刈りなどが彼女の仕事だったが、手抜きすることなくよく働いた。
ある日、久慈集落から岩加那(いわかな)が名柄の豪農の家を訪れた。岩加那もまた美青年であり、役所の書記をしている傍ら、
三味線と歌を得意としていた。
やがて宴が催された。カンツメも招かれ、岩加那の歌の相手をするようになったので、心をこめて歌った。
岩加那はたちまち彼女の歌声に惹かれ、歌い終えるころには2人の気持ちは通じ合っていた。
この日から2人は恋仲となり、仕事が終わると、久慈と名柄の境にする佐念山の小屋で、夜ごと逢瀬を重ねるようになった。
どんなに人知れず会っていたとしても、遅かれ早かれ2人の関係は目ざとい者に露見するものである。
やがて2人の仲がヤンチュ仲間に知れわたり、主人夫婦の耳にも入ってしまう。女主人は嫉妬深く、気性の激しい女だった。
ヤンチュの分際で泥坊猫のように恋愛するのは御法度。ましてや相手は役所の書記であり主人の知人。
カンツメは裸にむかれると鞭で打たれ、あれほど嫌がらせからかばってくれた主人に強姦されたうえ、
挙句の果てには陰部に焼け火箸を押し付けられた。酸鼻を極める折檻に、カンツメは悶絶し気を失った……。
女主人は彼女をボロ雑巾のように扱っておきながら、翌日にはたき木採りに山へ行かせた。
たき木を拾い終えた他のヤンチュたちが山を下りたあともカンツメは1人山に残り、岩加那と逢引していた佐念山の小屋に向かった。
小屋で身支度を整え、郷里に残した両親と、いまだ恋の炎が冷めやらぬ岩加那に感謝と別れの祈りを残し、自身の帯で首をくくって死んだ。
その夜、まさかカンツメが折檻にあい、自害したとは知らない岩加那は、三味線片手に佐念山へ行き、カンツメを待っていた。
カンツメはいつもより沈んだ顔で小屋にやってきた。それでも2人して楽しく歌っているうちに彼女は元気になっていった。
夜明け前、別れにカンツメはもう1曲歌った。「あかす世や暮れて汝きゃ夜や明けり、かふ節ぬあればまた見きょそ……」と、
歌い終わると、カンツメの姿は霞のようにすっと消えてしまった。
岩加那はあたりを探し回った。ふと頭上を見上げるなり絶叫した。カンツメの変わり果てた亡骸を見つけたのである。
その後、経緯を知った岩加那は、早く身請けをしてあげればよかったと悔いたが、すべては遅すぎた。
因果な話で、名柄の豪農夫婦はカンツメの亡霊に脅かされて変死を遂げ、家は没落したと伝えられている。
現在でもヒギャ(奄美大島南部)では、カンツメの霊が出るのを恐れて、夜半カンツメ節は歌わない習慣があるという。
あまみんちゅドットコム奄美人 悲恋のカンツメ物語
http://amaminchu.com/iroiro100ca/column/story02.htm...
みんなで楽しもう! 〜琉球沖縄の、先祖から伝わってきたお話〜 奄美・沖縄本島・沖縄先島の伝説より、第66話。美人が出ない村
http://totoro820.ti-da.net/e3169870.htm...
宇検村の史跡・文化財・石碑 宇検村の史跡ギャラリー
http://www.synapse.ne.jp/hatashin/01ooshimahontou/06uke...
悲しみのあまり石化した佐用姫 加部島(かべしま)
佐賀県唐津市、東松浦半島の先端にある呼子。呼子港の目の前にあるのが加部島だ。
かつては断崖に囲まれた島ゆえに『壁島』と呼ばれていたが、漢字表記をあらため、今の加部島へと代わったのだという。
さて、加部島にはまたしても女の受難と悲劇、『松浦佐用姫(まつらさよひめ)』の伝説が残されている。
……こう言っちゃなんだが、既出した悲劇譚と似たり寄ったりの内容だったのでスルーしようとも考えたのだが、
よくよく検討した結果、2つの理由からこのスレにとどめておくことにした。
1つ目の理由としては『日本三大悲恋』のうちの一話として語られているから。
日本の三大悲恋伝説といえば『羽衣物語』『竹取物語』と次いで、この『松浦佐用姫』が挙げられるのだそうだ。
とはいえ、『羽衣物語』『竹取物語』が架空の物語なのに対し、『松浦佐用姫』はその大部分が史実に基づいるというから、ますます見過ごせない。
2つ目の理由は、次なる課題につなげる布石として、真打としてこの伝説を紹介しておく必要があったからだ。
その課題とは、とかく島の伝承伝説に女性が命を落とす悲劇譚が多いのは勤勉なる読者諸兄ならお気づきのことと思われる。
次のレスでその考察をしたいがために、代表作ともいえる佐用姫伝説は避けるべきではないと考えなおしたまでだ。
537(宣化天皇2)年、朝廷の命を受け、任那・百済を救援するため軍を率いてこの松浦の地にやってきた大伴狭手彦(おおとものさでひこ)と、
松浦佐用姫は出会うべくして出会った。
佐用姫は現在の唐津市厳木町にいたとされる豪族の娘であり美女であったとされ、かたや狭手彦は名門大伴氏の凛々しいイケメン武将であった。
物資の補給や兵を休ませるため、しばらく松浦の地に軍をとどめている間に狭手彦は佐用姫と逢瀬を重ね、ついに契りを結んだ。
しかしそれも短き恋仲。狭手彦は新羅への出征の通達を受け、後ろ髪を引かれる思いで別れることになった。
やがて狭手彦が出船の日、別れの悲しみに耐えかねた佐用姫は鏡山へかけ登る。そして山頂で身にまとっていた領巾(ひれ)を無我夢中で振るった。
その当時、領巾を振れば、邪を払いのけると信じられていたからである。
狭手彦が乗っているであろう軍船は見る見る沖へ遠ざかっていく。半狂乱になった佐用姫は鏡山をかけ下り、栗川(現在の松浦川)を渡り、
海沿いに北へ走り、やがて加部島の天童岳の頂きにたどり着いたが、ついに船が見えなくなると、その場にうずくまり7日7晩泣き続け、
とうとう石化してしまった……。人々はその石を佐用姫の化身として手厚く弔ったという。
また肥前国風土記には、同様に狭手彦と領巾を振りながら別れた弟日姫子(おとひめこ)という娘の話が収録されている。
こちらでは別れたあと、狭手彦に瓜二つの男が家に通うようになり、これが沼の蛇の化身であると正体がわかると
沼に引き入れられ死んでしまうという話になっているが、この弟日姫子を佐用姫と同一視し、もう1つの佐用姫伝説とされることもある。
松浦佐用姫wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E6%B5%A6%E4%BD%...
【特集】佐用姫伝説ゆかりの地を訪ねる。
http://www.thr.mlit.go.jp/isawa/sasala/vol_27/vol27_2m.h...
松浦佐用姫を追え!(古代史の謎のカギは唐津にあった!!)
http://www.arabaki.co.jp/sayohimepage2.htm...
佐賀県唐津市、東松浦半島の先端にある呼子。呼子港の目の前にあるのが加部島だ。
かつては断崖に囲まれた島ゆえに『壁島』と呼ばれていたが、漢字表記をあらため、今の加部島へと代わったのだという。
さて、加部島にはまたしても女の受難と悲劇、『松浦佐用姫(まつらさよひめ)』の伝説が残されている。
……こう言っちゃなんだが、既出した悲劇譚と似たり寄ったりの内容だったのでスルーしようとも考えたのだが、
よくよく検討した結果、2つの理由からこのスレにとどめておくことにした。
1つ目の理由としては『日本三大悲恋』のうちの一話として語られているから。
日本の三大悲恋伝説といえば『羽衣物語』『竹取物語』と次いで、この『松浦佐用姫』が挙げられるのだそうだ。
とはいえ、『羽衣物語』『竹取物語』が架空の物語なのに対し、『松浦佐用姫』はその大部分が史実に基づいるというから、ますます見過ごせない。
2つ目の理由は、次なる課題につなげる布石として、真打としてこの伝説を紹介しておく必要があったからだ。
その課題とは、とかく島の伝承伝説に女性が命を落とす悲劇譚が多いのは勤勉なる読者諸兄ならお気づきのことと思われる。
次のレスでその考察をしたいがために、代表作ともいえる佐用姫伝説は避けるべきではないと考えなおしたまでだ。
537(宣化天皇2)年、朝廷の命を受け、任那・百済を救援するため軍を率いてこの松浦の地にやってきた大伴狭手彦(おおとものさでひこ)と、
松浦佐用姫は出会うべくして出会った。
佐用姫は現在の唐津市厳木町にいたとされる豪族の娘であり美女であったとされ、かたや狭手彦は名門大伴氏の凛々しいイケメン武将であった。
物資の補給や兵を休ませるため、しばらく松浦の地に軍をとどめている間に狭手彦は佐用姫と逢瀬を重ね、ついに契りを結んだ。
しかしそれも短き恋仲。狭手彦は新羅への出征の通達を受け、後ろ髪を引かれる思いで別れることになった。
やがて狭手彦が出船の日、別れの悲しみに耐えかねた佐用姫は鏡山へかけ登る。そして山頂で身にまとっていた領巾(ひれ)を無我夢中で振るった。
その当時、領巾を振れば、邪を払いのけると信じられていたからである。
狭手彦が乗っているであろう軍船は見る見る沖へ遠ざかっていく。半狂乱になった佐用姫は鏡山をかけ下り、栗川(現在の松浦川)を渡り、
海沿いに北へ走り、やがて加部島の天童岳の頂きにたどり着いたが、ついに船が見えなくなると、その場にうずくまり7日7晩泣き続け、
とうとう石化してしまった……。人々はその石を佐用姫の化身として手厚く弔ったという。
また肥前国風土記には、同様に狭手彦と領巾を振りながら別れた弟日姫子(おとひめこ)という娘の話が収録されている。
こちらでは別れたあと、狭手彦に瓜二つの男が家に通うようになり、これが沼の蛇の化身であると正体がわかると
沼に引き入れられ死んでしまうという話になっているが、この弟日姫子を佐用姫と同一視し、もう1つの佐用姫伝説とされることもある。
松浦佐用姫wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E6%B5%A6%E4%BD%...
【特集】佐用姫伝説ゆかりの地を訪ねる。
http://www.thr.mlit.go.jp/isawa/sasala/vol_27/vol27_2m.h...
松浦佐用姫を追え!(古代史の謎のカギは唐津にあった!!)
http://www.arabaki.co.jp/sayohimepage2.htm...
なぜ女が命を落とす悲劇の話が多いのか? その考察
このスレを続けていくにつけ、あまりにも女性の悲恋話、命を落とす悲劇譚が辟易するまでに多いのはどういうことなのか?
まるで島の誕生、あるいは島の歴史につきもののように、乱暴的に言えば人身御供的に女は死ぬ。
まるで判で捺したかのように、そんな話が多すぎる。
フェミニストの権化である田嶋陽子が、まかり間違ってこのスレを覗いてしまったら烈火のごとく怒りそうだが、
むろん、そんな意図を狙っているつもりは毛頭ない。
探れば探るほど、この手の話ばかり転がっているにすぎない。多少の脚色はするにせよ、本質をありのまま伝えているだけだ。
なにもそれは離島に限定したケースだけではない。内地に眼を向けても、このような女性の悲劇譚はめずらしくない。
やや脱線するが、古くから伝わる3大怪談『四谷怪談』『番町皿屋敷』『牡丹燈籠』ですら、それが当てはまっているではないか。
これらに共通するのも、いずれも女にとっての受難と悲劇、無念の最期を遂げて、みな情念の塊となって男に迫り、復讐を果たす。
どうやら鍵はここにありそうだ。
この3つの怪談は江戸時代に作られた話。江戸時代といえば男性中心の社会であり、封建制度の真っ只中であった。
男と比べて女の地位は社会的にも家庭的にも低く見られた。こういった風土が、怖い女幽霊を生み出すことにつながったものと思われる。
対する男は不倫はするわ、己の地位にしがみつくため女が邪魔になると惨殺するわ、下手すれば『四谷怪談』などはお岩殺しの濡れ衣を
奉公人の男に着させるなど、卑劣なまでに策を弄する。
腕力では男性に太刀打ちできない女性は生前こそ勝ち目がないが、死後、化けて出ることで『怨嗟力』を獲得。復讐を遂げることで男を上回っている。
現在の『リング』の貞子ですら、外見と登場シーンだけはオドロオドロしく恐怖のシンボルとして支持されているが、突き詰めればこれも悲劇の女だ。
もっとも近年は男女のパワーバランスは崩れ、こういった一連の悲劇は古臭く思えてしまうが。
いずれにせよ、啓発という名のナイフの切っ先を突きつけるには、女の悲劇や悲恋が土壌にある方が、男は身につまされる思いがして、
忘れがたい光背効果を発揮するということだ。
安珍と清姫の物語
http://www.7kamado.net/antin-kiyohime.htm...
たびねす 慈悲とおもてなしの心!蛇となった清姫の伝説が残る和歌山県最古の寺・道成寺
http://guide.travel.co.jp/article/1921...
このスレを続けていくにつけ、あまりにも女性の悲恋話、命を落とす悲劇譚が辟易するまでに多いのはどういうことなのか?
まるで島の誕生、あるいは島の歴史につきもののように、乱暴的に言えば人身御供的に女は死ぬ。
まるで判で捺したかのように、そんな話が多すぎる。
フェミニストの権化である田嶋陽子が、まかり間違ってこのスレを覗いてしまったら烈火のごとく怒りそうだが、
むろん、そんな意図を狙っているつもりは毛頭ない。
探れば探るほど、この手の話ばかり転がっているにすぎない。多少の脚色はするにせよ、本質をありのまま伝えているだけだ。
なにもそれは離島に限定したケースだけではない。内地に眼を向けても、このような女性の悲劇譚はめずらしくない。
やや脱線するが、古くから伝わる3大怪談『四谷怪談』『番町皿屋敷』『牡丹燈籠』ですら、それが当てはまっているではないか。
これらに共通するのも、いずれも女にとっての受難と悲劇、無念の最期を遂げて、みな情念の塊となって男に迫り、復讐を果たす。
どうやら鍵はここにありそうだ。
この3つの怪談は江戸時代に作られた話。江戸時代といえば男性中心の社会であり、封建制度の真っ只中であった。
男と比べて女の地位は社会的にも家庭的にも低く見られた。こういった風土が、怖い女幽霊を生み出すことにつながったものと思われる。
対する男は不倫はするわ、己の地位にしがみつくため女が邪魔になると惨殺するわ、下手すれば『四谷怪談』などはお岩殺しの濡れ衣を
奉公人の男に着させるなど、卑劣なまでに策を弄する。
腕力では男性に太刀打ちできない女性は生前こそ勝ち目がないが、死後、化けて出ることで『怨嗟力』を獲得。復讐を遂げることで男を上回っている。
現在の『リング』の貞子ですら、外見と登場シーンだけはオドロオドロしく恐怖のシンボルとして支持されているが、突き詰めればこれも悲劇の女だ。
もっとも近年は男女のパワーバランスは崩れ、こういった一連の悲劇は古臭く思えてしまうが。
いずれにせよ、啓発という名のナイフの切っ先を突きつけるには、女の悲劇や悲恋が土壌にある方が、男は身につまされる思いがして、
忘れがたい光背効果を発揮するということだ。
安珍と清姫の物語
http://www.7kamado.net/antin-kiyohime.htm...
たびねす 慈悲とおもてなしの心!蛇となった清姫の伝説が残る和歌山県最古の寺・道成寺
http://guide.travel.co.jp/article/1921...
『伝説』はどこからやってきたのか? その考察
恐縮ながら突然話が変わる。
前スレでも散見されたが、互いに離れた土地であるにもかかわらずほぼ同義の話があったり、類似の伝説の多いことに驚かされたはずだ。
そもそも伝説とはどこから派生し、どのようにして伝播していくものなのか?
伝説とは読んで字のごとく、『伝え語られていた一説』である。しょせんは仮説にすぎず、史実とは限らない。
大いに誇張と脚色が混じり、眉唾とも言える(当スレでまことしやかに語っておきながら申し訳ないが)。
火のないところに煙は立たない。とすれば必然的に共同体の外から流れてきたアウトサイダーが話を持ち込み、拡散させたにちがいあるまい。
その人物は話術に秀でており、つまり語る内容に説得力があり、同時に読み書きと歴史に詳しい人物であっただろう。
もしかしてそれは語り部をしつつも、神仏を売り込むことを生業とし、諸国を遍歴する山伏などの漂泊の民だったかもしれない。
彼らが通り過ぎた村や町には、神社建立に関係した逸話が創作され(どうりで宗教色の強い話が多いわけだ)、それらは人づてに語り継がれ、
中には原型をとどめぬほど変容してしまった話だってあるかもしれない。だからAの人物が語った話とBが語った話のアウトラインこそ同義だが、
微妙に登場人物が違ったり、よけいな枝葉が混じったり、なかにはオチまで異なってしまった場合もあり得る。
彼らは自身の信仰を布教するため流れ歩き、神仏を受け入れてもらう見返りとしそんな話を語って聞かせたのかもしれない。
ちなみに、柳田国男著書の『日本の伝説』を紐解けば一目瞭然、日本各地には類似の伝説がゴロゴロしている。
それこそ内地は東から西にはじまり、沖縄の離島に至るまで伝播しているのだ。
柳田によると伝説と昔話の相違について、「昔話は動物のごとく、伝説は植物のようなものであります」とある。これはいまいちピンと来ない。
ドイツのグリムの説明だと、「昔話は詩的であり、伝説は歴史的である」とした。つまり前者は、それ自身でまとまった形態をとっているが、
後者の方は一定の場所や史上の人物と結びつくということであった。
また柳田国男はこうも言及。「昔話と伝説との相違は、以下の3点に集約される。第一に昔話は、誰からも信じられていないが、
伝説はある程度まで信じられている。第二に、昔話は『昔々、あるところ』の物語であるが、どこか決まった場所と結びついている。
第三に、昔話は決まった型をもっているが、伝説はこれといった型をもたないという。それらの特色のなかでもっとも重要なのは、
伝説は信じられているということである。(中略)そのような伝説はもともと何らかの信仰に支えられていたと考えられる。
そういう意味であらゆる伝説は、やはり何かしら真実を伝えていたといってよい。
すべて伝説が特定の場所に落ち着いて、特定の事物と結びついたということは、それが信じられるという証拠としてあげられる。」
というわけで伝説はまんざら嘘八百ではない。そこに何かしら真実が隠されているのだ。
物語に龍や鬼が出てくる話だから、しょせんは作り話と侮るなかれ。
先人たちは我々に、巧妙に隠された伝説から真理を読み解く力を試そうとしているのだと思う。
鬼怒の中将乙姫伝説 天空の竜宮城「鬼怒沼湿原」
http://home.f07.itscom.net/rainbow/kinutyujodensetu.htm...
鬼怒沼山 オロオソロシの滝へ
http://sakuramaya.fc2web.com/east/kantou/kinunuma.htm...
恐縮ながら突然話が変わる。
前スレでも散見されたが、互いに離れた土地であるにもかかわらずほぼ同義の話があったり、類似の伝説の多いことに驚かされたはずだ。
そもそも伝説とはどこから派生し、どのようにして伝播していくものなのか?
伝説とは読んで字のごとく、『伝え語られていた一説』である。しょせんは仮説にすぎず、史実とは限らない。
大いに誇張と脚色が混じり、眉唾とも言える(当スレでまことしやかに語っておきながら申し訳ないが)。
火のないところに煙は立たない。とすれば必然的に共同体の外から流れてきたアウトサイダーが話を持ち込み、拡散させたにちがいあるまい。
その人物は話術に秀でており、つまり語る内容に説得力があり、同時に読み書きと歴史に詳しい人物であっただろう。
もしかしてそれは語り部をしつつも、神仏を売り込むことを生業とし、諸国を遍歴する山伏などの漂泊の民だったかもしれない。
彼らが通り過ぎた村や町には、神社建立に関係した逸話が創作され(どうりで宗教色の強い話が多いわけだ)、それらは人づてに語り継がれ、
中には原型をとどめぬほど変容してしまった話だってあるかもしれない。だからAの人物が語った話とBが語った話のアウトラインこそ同義だが、
微妙に登場人物が違ったり、よけいな枝葉が混じったり、なかにはオチまで異なってしまった場合もあり得る。
彼らは自身の信仰を布教するため流れ歩き、神仏を受け入れてもらう見返りとしそんな話を語って聞かせたのかもしれない。
ちなみに、柳田国男著書の『日本の伝説』を紐解けば一目瞭然、日本各地には類似の伝説がゴロゴロしている。
それこそ内地は東から西にはじまり、沖縄の離島に至るまで伝播しているのだ。
柳田によると伝説と昔話の相違について、「昔話は動物のごとく、伝説は植物のようなものであります」とある。これはいまいちピンと来ない。
ドイツのグリムの説明だと、「昔話は詩的であり、伝説は歴史的である」とした。つまり前者は、それ自身でまとまった形態をとっているが、
後者の方は一定の場所や史上の人物と結びつくということであった。
また柳田国男はこうも言及。「昔話と伝説との相違は、以下の3点に集約される。第一に昔話は、誰からも信じられていないが、
伝説はある程度まで信じられている。第二に、昔話は『昔々、あるところ』の物語であるが、どこか決まった場所と結びついている。
第三に、昔話は決まった型をもっているが、伝説はこれといった型をもたないという。それらの特色のなかでもっとも重要なのは、
伝説は信じられているということである。(中略)そのような伝説はもともと何らかの信仰に支えられていたと考えられる。
そういう意味であらゆる伝説は、やはり何かしら真実を伝えていたといってよい。
すべて伝説が特定の場所に落ち着いて、特定の事物と結びついたということは、それが信じられるという証拠としてあげられる。」
というわけで伝説はまんざら嘘八百ではない。そこに何かしら真実が隠されているのだ。
物語に龍や鬼が出てくる話だから、しょせんは作り話と侮るなかれ。
先人たちは我々に、巧妙に隠された伝説から真理を読み解く力を試そうとしているのだと思う。
鬼怒の中将乙姫伝説 天空の竜宮城「鬼怒沼湿原」
http://home.f07.itscom.net/rainbow/kinutyujodensetu.htm...
鬼怒沼山 オロオソロシの滝へ
http://sakuramaya.fc2web.com/east/kantou/kinunuma.htm...
実盛様が害虫を駆除してくれるのを信じて 城川町田穂・魚成・今田地区
愛媛県西予市城川町周辺の水田にて行われる風習『虫送り』。
地元の人たちが作ったハリボテの紙人形を『実盛様』と呼ぶのだが、その正体は平安時代末期の武将・斎藤別当実盛のことだ。
木曽義仲軍との戦いのさなか、田んぼの稲株に足を取られ、討たれ死んだ。
辞世の言葉は、「無念やな、我、虫となってイネを食い尽くさん」と叫んだという。
虫送りはこの実盛の怨念を鎮めて供養し、害虫駆除と豊作を祈願する行事となった。
梅雨に入った6月30日、愛媛県城川町の田穂〜魚成〜今田地区の田んぼの中を、実盛様の紙人形を持った一行が、鐘や太鼓を打ち鳴らしながら行進していく。
終着地点は黒瀬川。川べりに紙人形が置かれ行事は幕を閉じる。大雨が降ると害虫とともに流されていくのだという。
斎藤実盛wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%8E%E8%97%A4%E5%AE%...
本日のごはん塾 季節の行事:サネモリさんと虫送り
http://gogolesson.jugem.jp/?eid=...
高知の祭り 高知県土佐町宮古野 虫送り(H17.6.20)
http://maturi.lolipop.jp/maturi/2005/maturi36.htm...
愛媛県西予市城川町周辺の水田にて行われる風習『虫送り』。
地元の人たちが作ったハリボテの紙人形を『実盛様』と呼ぶのだが、その正体は平安時代末期の武将・斎藤別当実盛のことだ。
木曽義仲軍との戦いのさなか、田んぼの稲株に足を取られ、討たれ死んだ。
辞世の言葉は、「無念やな、我、虫となってイネを食い尽くさん」と叫んだという。
虫送りはこの実盛の怨念を鎮めて供養し、害虫駆除と豊作を祈願する行事となった。
梅雨に入った6月30日、愛媛県城川町の田穂〜魚成〜今田地区の田んぼの中を、実盛様の紙人形を持った一行が、鐘や太鼓を打ち鳴らしながら行進していく。
終着地点は黒瀬川。川べりに紙人形が置かれ行事は幕を閉じる。大雨が降ると害虫とともに流されていくのだという。
斎藤実盛wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%8E%E8%97%A4%E5%AE%...
本日のごはん塾 季節の行事:サネモリさんと虫送り
http://gogolesson.jugem.jp/?eid=...
高知の祭り 高知県土佐町宮古野 虫送り(H17.6.20)
http://maturi.lolipop.jp/maturi/2005/maturi36.htm...
薩摩七島の身代わりになった七ツ島伝説 七ツ島(ななつじま)
今でこそ七ツ島は鹿児島市の町名であり埋立地となって久しい。工業地帯が広がり産業道路の一部として姿を変えてしまっている。
埋め立てが行われる前は緑地公園付近は砂浜となっており、谷山市街地に近いため多くの海水浴客が訪れていた。
しかも大小7つの島が点在する景勝地としても知られており、七ツ島と呼ばれていたのだ。
七ツ島はその名のとおり、七ツ島、沖之島、腰掛島、出口島、中ノ島、平島、一ノ島の7島からなり、
かつては『伊智貴島』と称されていた。このうち樹木のある島は七ツ島と沖之島の2島のみで、他はすべて岩島だった。
七ツ島、沖之島の両島には数本の老松がそびえていたが、次々に枯れてしまったようだ。
その今はなき七ツ島にもちょっとした歴史が残されている。それが以下のとおりである。
その昔、藩主・島津公が、薩摩七島を領していたとき、ある別の藩主と互いにその領土である七島を賭けて、ある勝負ごとをした。
運悪く島津公は惨敗。そこで相手の藩主は、さっそく七島を譲るよう詰め寄った。
困った島津公。ただ一時の娯楽のためとはいえ、薩摩七島を譲り渡すのは口惜しいってものではない。
しかしながら武士が約束した以上、今さらなかったことにしてくれと申し入れることはできない。
さんざん頭を悩ませた末に思いついたのが例の七ツ島。薩摩七島ではなく、この七ツ島を譲ることにことになったが、
相手の藩主は家来に七ツ島の近況を聞いたところ、七ツ島はとても人はおろか、鼠1匹住めそうにないらしい。
その島だけは御免こうむると断り、ともに呵々大笑して事なきを得たという。薩摩七島の身代わりになった島であるといわれる。
さつまの国の言い伝え 七ツ島の言い伝え 谷山の伝説
http://kagosimalegend.seesaa.net/article/287936882.htm...
今でこそ七ツ島は鹿児島市の町名であり埋立地となって久しい。工業地帯が広がり産業道路の一部として姿を変えてしまっている。
埋め立てが行われる前は緑地公園付近は砂浜となっており、谷山市街地に近いため多くの海水浴客が訪れていた。
しかも大小7つの島が点在する景勝地としても知られており、七ツ島と呼ばれていたのだ。
七ツ島はその名のとおり、七ツ島、沖之島、腰掛島、出口島、中ノ島、平島、一ノ島の7島からなり、
かつては『伊智貴島』と称されていた。このうち樹木のある島は七ツ島と沖之島の2島のみで、他はすべて岩島だった。
七ツ島、沖之島の両島には数本の老松がそびえていたが、次々に枯れてしまったようだ。
その今はなき七ツ島にもちょっとした歴史が残されている。それが以下のとおりである。
その昔、藩主・島津公が、薩摩七島を領していたとき、ある別の藩主と互いにその領土である七島を賭けて、ある勝負ごとをした。
運悪く島津公は惨敗。そこで相手の藩主は、さっそく七島を譲るよう詰め寄った。
困った島津公。ただ一時の娯楽のためとはいえ、薩摩七島を譲り渡すのは口惜しいってものではない。
しかしながら武士が約束した以上、今さらなかったことにしてくれと申し入れることはできない。
さんざん頭を悩ませた末に思いついたのが例の七ツ島。薩摩七島ではなく、この七ツ島を譲ることにことになったが、
相手の藩主は家来に七ツ島の近況を聞いたところ、七ツ島はとても人はおろか、鼠1匹住めそうにないらしい。
その島だけは御免こうむると断り、ともに呵々大笑して事なきを得たという。薩摩七島の身代わりになった島であるといわれる。
さつまの国の言い伝え 七ツ島の言い伝え 谷山の伝説
http://kagosimalegend.seesaa.net/article/287936882.htm...
美しさは罪……絶世の美女マムヤの悲哀伝説 宮古島・東平安名崎(ひがしへんなざき)
>>40のように、美しさゆえに命を落とす美女伝説は少なくない。
昔、平家の落人がはるばる宮古島まで落ち延び、東平安名崎に近い保良(ぼら)村にいついた女がいた。
女をマムヤといい、香草の香る絶世の美女と評判で、また機織りの腕が自慢だった。
彼女の美しさが話題になると、宮古の島々の按司(あじ・豪族の意)や役人たちはこぞって家を訪ね、ぜひ妻にしたいと申し込んだ。
だがどんなに頭を下げられたり、宝を積まれてもきっぱりと断った。ちょっと人間嫌いだったのかもしれない。
にもかかわらず按司たちはひっきりなしにマムヤに会いにくるので、彼女は東平安名崎の下の洞窟に身をひそめ、そこで機織り仕事をしていた。
世の中には耳ざとい者がいるもので、岬に轟く波音にまじって、機織りの音を聞きつけた男がいた。
それが野城按司(ぬぐすくあじ)で、保良村や近くの村落を支配している権力者だった。
彼はその洞窟に入り調べてみた。岩の回廊には美しい布を織りかけにしたままの機織り機があれども、人の姿は見当たらない。
「ここで機を織っていたのは誰か。隠れているのなら出てきなさい」と、洞窟の奥に向かって言うと、女の声が答えた。
「私はわけあってここを住処にしております。どんな偉いお方にも姿を見せたくないのです。どうかお許しを」
「その声は、もしやうわさのマムヤ?」
「そうでございます。お願いします、見逃してください」
ここで野城按司は駆け引きに出る。彼が村じゅうにお触れを出せば、たちまち他の按司たちが求婚しに押し寄せる騒ぎになる。
これはめぐり合わせだ。いっそのこと、わしの妻になれと持ちかける。それでも難色を示すマムヤに対し、今度は賭けを申し出た。
「わしはこれから狩俣村(かりまたむら)まで珊瑚の石を石垣に積む。おまえは狩俣まで芭蕉の糸を紡いでいくのだ。
どちらが先に狩俣に着くか勝負だ。もしわしが勝ったら、わしの妻になるのだ」
よく意味のわからない賭けだが、しばらくマムヤは考えたのち頷いた。狩俣村は、宮古島の東南端の東平安名崎から20km以上も離れているのだ。
途方もない勝負のように思えた。
野城按司は家に取って返すと、家来に命じて領地の農家を総動員させた。そして海から平たい珊瑚の石をかき集めると石垣を積ませた。
一方のマムヤも必死で芭蕉の糸を細く裂いては紡いでいった。卑怯にも人海戦術を使う按司に軍配が上がるのは火を見るより明らかだった。
ついに按司は狩俣まで石垣を積み終えた。マムヤの健闘むなしくわずかに芭蕉の糸は届かなかった。
そういうわけて野城按司の妻となって暮らすことになった。ところが按司には2人の子供と妻がすでにおり、
その妻がことあるごとにマムヤに辛くあたるのだった。
意地悪に我慢できなくなったマムヤが按司に問い詰めた。「私は勝負に負け、妻にするというからあなたの家に嫁ぎました。
ですが奥様がいらっしゃるとは存じませんでした。一夫多妻制でもあるまいし、なぜ私を妻にする必要があったのですか。
結局、私と奥様を秤にかけた場合、どちらが大事なのですか」
男は身勝手な生き物である。欲しい欲しいと願い、あらゆる力を駆使し手に入れた品物も、遅かれ早かれ飽きてしまい、どうでもよくなる。
「ウ〜ム、そうよなあ。どちらが大事か〜」按司はそっぽを向いて寝そべり、股ぐらをかきながら言った。「……たとえ糞尿の臭いがしたとしても、
そりゃおまえ、子供のおる妻の方がいいわな」
「なんですと!」まさに顔に泥、である。あれほど恋焦がれたと言わしめたのに、マムヤにとって屈辱以外のなにものでもない。
マムヤは家を出ると、平安名崎に向かった。
「神様、私がこんなに辛苦を舐めさされるのは、ひとえに私が美しかったからです。どうか保良に美しい娘が生まれないようにしてください。
こんな悲しい思いは私だけで充分……」と、祈ると崖から身を投じて死んだ。
平安名崎の白い灯台の近くに、今もマムヤがいたとされる洞窟と彼女の墓がある。
按司wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%8C%89%E5%8F%B...
瀬音の写真集 大海原へ 東平安名崎(東平安名岬ひがしへんなざき)沖縄県宮古島市
http://blogs.yahoo.co.jp/seoto_kisyuu/61877268.htm...
日本珍スポット100景 美しすぎるって不幸ね 「東平安名崎・マムヤの墓」【宮古島】
http://b-spot.seesaa.net/article/280402289.htm...
みんなで楽しもう! 〜琉球沖縄の、先祖から伝わってきたお話〜 奄美・沖縄本島・沖縄先島の伝説より、第66話。美人が出ない村
http://totoro820.ti-da.net/e3169870.htm...
>>40のように、美しさゆえに命を落とす美女伝説は少なくない。
昔、平家の落人がはるばる宮古島まで落ち延び、東平安名崎に近い保良(ぼら)村にいついた女がいた。
女をマムヤといい、香草の香る絶世の美女と評判で、また機織りの腕が自慢だった。
彼女の美しさが話題になると、宮古の島々の按司(あじ・豪族の意)や役人たちはこぞって家を訪ね、ぜひ妻にしたいと申し込んだ。
だがどんなに頭を下げられたり、宝を積まれてもきっぱりと断った。ちょっと人間嫌いだったのかもしれない。
にもかかわらず按司たちはひっきりなしにマムヤに会いにくるので、彼女は東平安名崎の下の洞窟に身をひそめ、そこで機織り仕事をしていた。
世の中には耳ざとい者がいるもので、岬に轟く波音にまじって、機織りの音を聞きつけた男がいた。
それが野城按司(ぬぐすくあじ)で、保良村や近くの村落を支配している権力者だった。
彼はその洞窟に入り調べてみた。岩の回廊には美しい布を織りかけにしたままの機織り機があれども、人の姿は見当たらない。
「ここで機を織っていたのは誰か。隠れているのなら出てきなさい」と、洞窟の奥に向かって言うと、女の声が答えた。
「私はわけあってここを住処にしております。どんな偉いお方にも姿を見せたくないのです。どうかお許しを」
「その声は、もしやうわさのマムヤ?」
「そうでございます。お願いします、見逃してください」
ここで野城按司は駆け引きに出る。彼が村じゅうにお触れを出せば、たちまち他の按司たちが求婚しに押し寄せる騒ぎになる。
これはめぐり合わせだ。いっそのこと、わしの妻になれと持ちかける。それでも難色を示すマムヤに対し、今度は賭けを申し出た。
「わしはこれから狩俣村(かりまたむら)まで珊瑚の石を石垣に積む。おまえは狩俣まで芭蕉の糸を紡いでいくのだ。
どちらが先に狩俣に着くか勝負だ。もしわしが勝ったら、わしの妻になるのだ」
よく意味のわからない賭けだが、しばらくマムヤは考えたのち頷いた。狩俣村は、宮古島の東南端の東平安名崎から20km以上も離れているのだ。
途方もない勝負のように思えた。
野城按司は家に取って返すと、家来に命じて領地の農家を総動員させた。そして海から平たい珊瑚の石をかき集めると石垣を積ませた。
一方のマムヤも必死で芭蕉の糸を細く裂いては紡いでいった。卑怯にも人海戦術を使う按司に軍配が上がるのは火を見るより明らかだった。
ついに按司は狩俣まで石垣を積み終えた。マムヤの健闘むなしくわずかに芭蕉の糸は届かなかった。
そういうわけて野城按司の妻となって暮らすことになった。ところが按司には2人の子供と妻がすでにおり、
その妻がことあるごとにマムヤに辛くあたるのだった。
意地悪に我慢できなくなったマムヤが按司に問い詰めた。「私は勝負に負け、妻にするというからあなたの家に嫁ぎました。
ですが奥様がいらっしゃるとは存じませんでした。一夫多妻制でもあるまいし、なぜ私を妻にする必要があったのですか。
結局、私と奥様を秤にかけた場合、どちらが大事なのですか」
男は身勝手な生き物である。欲しい欲しいと願い、あらゆる力を駆使し手に入れた品物も、遅かれ早かれ飽きてしまい、どうでもよくなる。
「ウ〜ム、そうよなあ。どちらが大事か〜」按司はそっぽを向いて寝そべり、股ぐらをかきながら言った。「……たとえ糞尿の臭いがしたとしても、
そりゃおまえ、子供のおる妻の方がいいわな」
「なんですと!」まさに顔に泥、である。あれほど恋焦がれたと言わしめたのに、マムヤにとって屈辱以外のなにものでもない。
マムヤは家を出ると、平安名崎に向かった。
「神様、私がこんなに辛苦を舐めさされるのは、ひとえに私が美しかったからです。どうか保良に美しい娘が生まれないようにしてください。
こんな悲しい思いは私だけで充分……」と、祈ると崖から身を投じて死んだ。
平安名崎の白い灯台の近くに、今もマムヤがいたとされる洞窟と彼女の墓がある。
按司wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%8C%89%E5%8F%B...
瀬音の写真集 大海原へ 東平安名崎(東平安名岬ひがしへんなざき)沖縄県宮古島市
http://blogs.yahoo.co.jp/seoto_kisyuu/61877268.htm...
日本珍スポット100景 美しすぎるって不幸ね 「東平安名崎・マムヤの墓」【宮古島】
http://b-spot.seesaa.net/article/280402289.htm...
みんなで楽しもう! 〜琉球沖縄の、先祖から伝わってきたお話〜 奄美・沖縄本島・沖縄先島の伝説より、第66話。美人が出ない村
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欲をかいたばかりに大蛇となったお里乃 蛇喰(現・関川村)
新潟県岩船郡関川村は、新潟でも北部に位置する村。かつては蛇喰(じゃばみ)と呼ばれていた。
そのいわくありげな名前のとおり、不思議な伝説が語り継がれ、それにまつわる祭りまで催されている。
蛇喰は荒川の支流である女川の上流にあった。村には忠蔵とお里乃(おりの)の夫婦、そしてその娘が住んでいた。
忠蔵は炭焼きを生業としていたが、仕事場の阿古屋谷には大蛇が潜むという噂が立っていた。
ある日、忠蔵が昼食を済ませうたた寝していると、おかしな物音がしたので眼を開ければ、その大蛇が忍び寄ってきているではないか。
忠蔵はとっさにマサカリをつかむと大口開けて威嚇する大蛇に挑んだ。死に物狂いで戦い、どうにかしとめることができた。
忠蔵はその大蛇をみそ漬けにしてやろうと思い立ち、血抜きしハラワタを取ると、適当な大きさにブツ切りにしてから家に持ち帰り、
樽に放り込み、みそ漬けにしたのだった。肉の量もボリューム満点で、樽は全部で13個半も漬けたことになった。
忠蔵はお里乃と娘に、「樽の中は決して見てはならんぞ」と釘を刺した。熟成するまでフタを開けさせ酸化させたくない考えもあったが、
しとめた大蛇はなんだか人外の生き物だけに、無惨に切り刻んだ姿を見せるのは憚られたからである。
しかしながらここでも『見るなのタブー』は破られる。見るな見るなと言われれば、よけい見たくなってしまうのが人の性。
お里乃は夫のいない隙に、ちょっとだけ覗いてみようとスケベ心を起こし、フタを開けてしまう。
そしていい塩梅に熟成した肉を見るなり、つまみ食いした。これが美味。あと1つ、もう1つとたいらげ続け、しまいにはすべて食べ尽くしてしまった。
のどが渇いたお里乃は女川の水を手ですくい飲んだ。しばらくしてから水面に映る自分の顔を見て悲鳴をあげた。
なんと大蛇の顔に変わり果てていたのだ。
夕方、忠蔵が仕事から帰ると、娘が1人泣いている。聞けば、しきりに母がいないと訴える。
忠蔵はもしやと思い、樽を開けた。やはり樽は空になっていた。お里乃を探したが、杳として行方はわからなかった。
それから数年経った秋が押し迫ったある日。旅の途中の座頭が米沢街道を歩いていた。
大里峠で日が暮れてしまったので、座頭は祠の前に座って休むことにした。暇を持て余したので琵琶をかき鳴らした。
1曲弾き終えると、闇の中から女の声がした。「素敵な音色に魅了されました。どうかもう1曲、お聞かせください」
座頭もまんざらではない。琵琶を演奏し続けた。そのあと、女の身の上を尋ねてみると、
「私はもともと人間でした。家族もいましたが、わけあって大蛇になってしまったのです」
「左様か。おまえさんさえよければ、そのわけとやらを聞かせてくれないか」と、座頭が言うと、闇の向こうの女は今までの経緯を語った。
「身体が大きくなったので住む場所も不自由しました。ですので、貝附の狭い所を堰き止めて荒川や女川のあたりを大きな湖にして、
そこに住もうと思っております。だから座頭さん、あなたにだけ忠告しておきます。安全な場所へお逃げなさってください。
それと、このことは誰にも言わないで。もし洩らせば命はありませんよ」と、女は言うと気配を消した。
座頭はこうしてはおられん!と思い、下関へと急いだ。大蛇が川を堰き止めたら村はひとたまりもない。
下関に着くと、大庄屋の渡辺三佐工門の家へかけこんだ。洗いざらい話すと、座頭は本当にそのまま息を引き取った。
座頭は死ぬ直前、「大蛇は鉄がとても苦手です。鉄を使いなさい。鉄を……」と、言い残した。
三佐工門は主だった人間を集め、緊急会議を開いた。そして座頭の助言どおり、村中の鉄を集め、大きな釘をたくさん作ることにした。
できあがった釘をみんなで大里峠まで運び、あたり一面に打ち付けたのだ。
姿を現した大蛇だったが、釘を嫌がり、身をよじらせて苦悶した。その様子は7日7晩続き、村人たちも眠れない日々をすごした。
やがて大蛇は息絶え、こうして村は難儀を逃れたのだった。命を賭して危険を知らせてくれた座頭に深く感謝し、神格化させ、神社に祀ることにした。
今でも下関には、座頭が遺した琵琶が祀られているという。
新潟県関川村 山と川と湯の里 関川村
http://www.vill.sekikawa.niigata.jp/
いいでの伝説 『大里峠の大蛇伝説』(関川村)
http://www.hrr.mlit.go.jp/iide/iide/story03.htm...
龍学 蛇になったお里乃
http://www.hunterslog.net/dragonology/ryujatan/hokkaidou...
新潟県岩船郡関川村は、新潟でも北部に位置する村。かつては蛇喰(じゃばみ)と呼ばれていた。
そのいわくありげな名前のとおり、不思議な伝説が語り継がれ、それにまつわる祭りまで催されている。
蛇喰は荒川の支流である女川の上流にあった。村には忠蔵とお里乃(おりの)の夫婦、そしてその娘が住んでいた。
忠蔵は炭焼きを生業としていたが、仕事場の阿古屋谷には大蛇が潜むという噂が立っていた。
ある日、忠蔵が昼食を済ませうたた寝していると、おかしな物音がしたので眼を開ければ、その大蛇が忍び寄ってきているではないか。
忠蔵はとっさにマサカリをつかむと大口開けて威嚇する大蛇に挑んだ。死に物狂いで戦い、どうにかしとめることができた。
忠蔵はその大蛇をみそ漬けにしてやろうと思い立ち、血抜きしハラワタを取ると、適当な大きさにブツ切りにしてから家に持ち帰り、
樽に放り込み、みそ漬けにしたのだった。肉の量もボリューム満点で、樽は全部で13個半も漬けたことになった。
忠蔵はお里乃と娘に、「樽の中は決して見てはならんぞ」と釘を刺した。熟成するまでフタを開けさせ酸化させたくない考えもあったが、
しとめた大蛇はなんだか人外の生き物だけに、無惨に切り刻んだ姿を見せるのは憚られたからである。
しかしながらここでも『見るなのタブー』は破られる。見るな見るなと言われれば、よけい見たくなってしまうのが人の性。
お里乃は夫のいない隙に、ちょっとだけ覗いてみようとスケベ心を起こし、フタを開けてしまう。
そしていい塩梅に熟成した肉を見るなり、つまみ食いした。これが美味。あと1つ、もう1つとたいらげ続け、しまいにはすべて食べ尽くしてしまった。
のどが渇いたお里乃は女川の水を手ですくい飲んだ。しばらくしてから水面に映る自分の顔を見て悲鳴をあげた。
なんと大蛇の顔に変わり果てていたのだ。
夕方、忠蔵が仕事から帰ると、娘が1人泣いている。聞けば、しきりに母がいないと訴える。
忠蔵はもしやと思い、樽を開けた。やはり樽は空になっていた。お里乃を探したが、杳として行方はわからなかった。
それから数年経った秋が押し迫ったある日。旅の途中の座頭が米沢街道を歩いていた。
大里峠で日が暮れてしまったので、座頭は祠の前に座って休むことにした。暇を持て余したので琵琶をかき鳴らした。
1曲弾き終えると、闇の中から女の声がした。「素敵な音色に魅了されました。どうかもう1曲、お聞かせください」
座頭もまんざらではない。琵琶を演奏し続けた。そのあと、女の身の上を尋ねてみると、
「私はもともと人間でした。家族もいましたが、わけあって大蛇になってしまったのです」
「左様か。おまえさんさえよければ、そのわけとやらを聞かせてくれないか」と、座頭が言うと、闇の向こうの女は今までの経緯を語った。
「身体が大きくなったので住む場所も不自由しました。ですので、貝附の狭い所を堰き止めて荒川や女川のあたりを大きな湖にして、
そこに住もうと思っております。だから座頭さん、あなたにだけ忠告しておきます。安全な場所へお逃げなさってください。
それと、このことは誰にも言わないで。もし洩らせば命はありませんよ」と、女は言うと気配を消した。
座頭はこうしてはおられん!と思い、下関へと急いだ。大蛇が川を堰き止めたら村はひとたまりもない。
下関に着くと、大庄屋の渡辺三佐工門の家へかけこんだ。洗いざらい話すと、座頭は本当にそのまま息を引き取った。
座頭は死ぬ直前、「大蛇は鉄がとても苦手です。鉄を使いなさい。鉄を……」と、言い残した。
三佐工門は主だった人間を集め、緊急会議を開いた。そして座頭の助言どおり、村中の鉄を集め、大きな釘をたくさん作ることにした。
できあがった釘をみんなで大里峠まで運び、あたり一面に打ち付けたのだ。
姿を現した大蛇だったが、釘を嫌がり、身をよじらせて苦悶した。その様子は7日7晩続き、村人たちも眠れない日々をすごした。
やがて大蛇は息絶え、こうして村は難儀を逃れたのだった。命を賭して危険を知らせてくれた座頭に深く感謝し、神格化させ、神社に祀ることにした。
今でも下関には、座頭が遺した琵琶が祀られているという。
新潟県関川村 山と川と湯の里 関川村
http://www.vill.sekikawa.niigata.jp/
いいでの伝説 『大里峠の大蛇伝説』(関川村)
http://www.hrr.mlit.go.jp/iide/iide/story03.htm...
龍学 蛇になったお里乃
http://www.hunterslog.net/dragonology/ryujatan/hokkaidou...
1月24日に忌の日の明神様がやってくる島……決して海を見てはいけない 御蔵島(みくらじま) 1
御蔵島は伊豆諸島の1つであり東京都に属する島だ。周辺海域に野生のイルカの群れが生息し、ダイバーにとって憧れの聖地とされている。
周囲16.4km、面積20.55k㎡、中央には標高851mの御山を有し、シンメトリーのシルエットが美しい。
断崖に囲まれた形状から、「海にお椀を伏せたよう」と形容される。
さて、この御蔵島には前スレ>>396で取り上げた、みんな大好き海難法師と酷似した怖くて垂涎の伝説が残されており、
その物忌行事は現在も続けられている。それが忌の日の明神様(きのひのみょうじんさま)伝説である。さっそくイってみようではないか。
島では毎年1月20日、御前に明神様が上陸すると信じられている。その姿は赤い衣をまとい、鉄下駄を履いた怖い形相の神なんだとか。
恐るべき神は南西に位置する稲根神社本殿の沖にある3つの根(岩礁)のうちの『みな根』に降り立ち、『神の道』を通り、
北西にある『アカイ川』までやってくる。
21日から北上し始め、まずは『テガキド』、22日は『おばんの尾』、23日は『鳥の尾』、24日にはついに『ウタヅ川』にまでさしかかる。
そうなると、島唯一の『里』集落まで入ってきてしまう(※南東部にはかつて『南郷』と呼ばれる集落が存在したが、今は衰退している)。
この明神様が1日ごとに里に近づいてくる際、人が近づいてはいけない『結界』も日ごとに狭まってくるとされる。
たとえば1月20日は稲根神社本殿まで来ており、この日の結界を『アカイガワギリ』と呼び、これ以上人が侵入することはタブーとされている。
同様に21日は『テガキドギリ』、22日は『オバンノオギリ』、23日は『トリノオギリ』、翌24日は『ウタズガワギリ』なる結界の呼び方がある。
なんだか中二病紙一重である。ところがこのタブーを無視して結界内へ入り、山仕事をして事故が起こった事例は数え切れないという。
以来、業者ですら、この時期にかぎり山仕事を休むとのこと。
御蔵島は伊豆諸島の1つであり東京都に属する島だ。周辺海域に野生のイルカの群れが生息し、ダイバーにとって憧れの聖地とされている。
周囲16.4km、面積20.55k㎡、中央には標高851mの御山を有し、シンメトリーのシルエットが美しい。
断崖に囲まれた形状から、「海にお椀を伏せたよう」と形容される。
さて、この御蔵島には前スレ>>396で取り上げた、みんな大好き海難法師と酷似した怖くて垂涎の伝説が残されており、
その物忌行事は現在も続けられている。それが忌の日の明神様(きのひのみょうじんさま)伝説である。さっそくイってみようではないか。
島では毎年1月20日、御前に明神様が上陸すると信じられている。その姿は赤い衣をまとい、鉄下駄を履いた怖い形相の神なんだとか。
恐るべき神は南西に位置する稲根神社本殿の沖にある3つの根(岩礁)のうちの『みな根』に降り立ち、『神の道』を通り、
北西にある『アカイ川』までやってくる。
21日から北上し始め、まずは『テガキド』、22日は『おばんの尾』、23日は『鳥の尾』、24日にはついに『ウタヅ川』にまでさしかかる。
そうなると、島唯一の『里』集落まで入ってきてしまう(※南東部にはかつて『南郷』と呼ばれる集落が存在したが、今は衰退している)。
この明神様が1日ごとに里に近づいてくる際、人が近づいてはいけない『結界』も日ごとに狭まってくるとされる。
たとえば1月20日は稲根神社本殿まで来ており、この日の結界を『アカイガワギリ』と呼び、これ以上人が侵入することはタブーとされている。
同様に21日は『テガキドギリ』、22日は『オバンノオギリ』、23日は『トリノオギリ』、翌24日は『ウタズガワギリ』なる結界の呼び方がある。
なんだか中二病紙一重である。ところがこのタブーを無視して結界内へ入り、山仕事をして事故が起こった事例は数え切れないという。
以来、業者ですら、この時期にかぎり山仕事を休むとのこと。
1月24日に忌の日の明神様がやってくる島……決して海を見てはいけない 御蔵島(みくらじま) 2
そしてもっとも注意すべきは、24日の真夜中から25日にかけて。この日は『忌の日』といい、夕食にはアブラアゲ(俗にいう油揚げではなく、
米粉で作った団子)を食べる習慣がある。
この深夜、明神様は里に入ってきて徘徊し、2時ごろ(まさしく丑三つ時)に各家に入り込み、神棚にアブラアゲをちゃんと供えているか確認し、
去っていくのだという。もしもアブラアゲを前もって供えていなければ、履いている鉄下駄でトイレの戸を蹴飛ばして破壊していくそうだ。
なぜトイレの戸なのかは不明。
そのため、明神様が入ってこれるように雨戸を少し開けておかなければならない。そのくせその夜は外を見てはならず、ましてや海を見るのも厳禁。
海難法師同様、外出も許されない。外に出れば、明神様に出くわす可能性があり、見てしまったら眼が潰れると信じられている……。
そして25日の早朝には、里の崖下の『大根が浜』から船に乗って、北西の神々が集う島である神津島に向かうという。
伊豆諸島の神が集まって、会議が行われるんだとか。
この日の朝も決して海を見てはいけない。早朝、神が船出するところを見てしまうと、一緒にさらわれてしまう言い伝えがあるらしい。
前スレ>>396の海難法師は新島の話だった。御蔵島とはせいぜい60km足らずしか離れていないが、物忌の行事は同義こそすれ、
微妙に話が異なる。決定的なのは恐れるものの対象だ。ウ〜ン、伝説って奥深くておもしろい。
……しかし、どうせなら1月20日以前に取り上げるべきだったなと、ちょっと反省。
御蔵島伝説 キュートウキュージン様 伝説
http://www5b.biglobe.ne.jp/‾mabuta/progra-m/legend-4.htm
玄松子の記憶 稲根神社 [東京旅行] 東京都御蔵島村
http://www.genbu.net/data/izu/inane_title.ht...
下川友子オフィシャルブログ「あなたに神様の光がとどきますように・・・☆」 御蔵島の最も神聖な場所。稲根神社の本殿へーっ!
http://ameblo.jp/tomo-chupi/entry-11548249000.h...
御蔵島の旅人 御蔵島伝説 忌の日の明神様の伝説(きのひのみょうじん)
http://www5b.biglobe.ne.jp/‾mabuta/progra-m/legend-2.htm
御蔵島の旅人 年中行事
http://www5b.biglobe.ne.jp/‾mabuta/progra-m/gyouji.htm
ニコニコニュース 伊豆大島に伝わる奇習・日忌様とは? 「1月24日の夜は海を見てはいけない」
http://news.nicovideo.jp/watch/nw89886...
御蔵島★イルカの棲む島ぐらし(Mikura) 神様が動く!
http://bluemoonocean.at.webry.info/201101/article_19.htm...
みくらいふ。〜御蔵島・イルカの棲む海〜 忌の日の明神様
http://ameblo.jp/oooloveooo/entry-10795403960.h...
そしてもっとも注意すべきは、24日の真夜中から25日にかけて。この日は『忌の日』といい、夕食にはアブラアゲ(俗にいう油揚げではなく、
米粉で作った団子)を食べる習慣がある。
この深夜、明神様は里に入ってきて徘徊し、2時ごろ(まさしく丑三つ時)に各家に入り込み、神棚にアブラアゲをちゃんと供えているか確認し、
去っていくのだという。もしもアブラアゲを前もって供えていなければ、履いている鉄下駄でトイレの戸を蹴飛ばして破壊していくそうだ。
なぜトイレの戸なのかは不明。
そのため、明神様が入ってこれるように雨戸を少し開けておかなければならない。そのくせその夜は外を見てはならず、ましてや海を見るのも厳禁。
海難法師同様、外出も許されない。外に出れば、明神様に出くわす可能性があり、見てしまったら眼が潰れると信じられている……。
そして25日の早朝には、里の崖下の『大根が浜』から船に乗って、北西の神々が集う島である神津島に向かうという。
伊豆諸島の神が集まって、会議が行われるんだとか。
この日の朝も決して海を見てはいけない。早朝、神が船出するところを見てしまうと、一緒にさらわれてしまう言い伝えがあるらしい。
前スレ>>396の海難法師は新島の話だった。御蔵島とはせいぜい60km足らずしか離れていないが、物忌の行事は同義こそすれ、
微妙に話が異なる。決定的なのは恐れるものの対象だ。ウ〜ン、伝説って奥深くておもしろい。
……しかし、どうせなら1月20日以前に取り上げるべきだったなと、ちょっと反省。
御蔵島伝説 キュートウキュージン様 伝説
http://www5b.biglobe.ne.jp/‾mabuta/progra-m/legend-4.htm
玄松子の記憶 稲根神社 [東京旅行] 東京都御蔵島村
http://www.genbu.net/data/izu/inane_title.ht...
下川友子オフィシャルブログ「あなたに神様の光がとどきますように・・・☆」 御蔵島の最も神聖な場所。稲根神社の本殿へーっ!
http://ameblo.jp/tomo-chupi/entry-11548249000.h...
御蔵島の旅人 御蔵島伝説 忌の日の明神様の伝説(きのひのみょうじん)
http://www5b.biglobe.ne.jp/‾mabuta/progra-m/legend-2.htm
御蔵島の旅人 年中行事
http://www5b.biglobe.ne.jp/‾mabuta/progra-m/gyouji.htm
ニコニコニュース 伊豆大島に伝わる奇習・日忌様とは? 「1月24日の夜は海を見てはいけない」
http://news.nicovideo.jp/watch/nw89886...
御蔵島★イルカの棲む島ぐらし(Mikura) 神様が動く!
http://bluemoonocean.at.webry.info/201101/article_19.htm...
みくらいふ。〜御蔵島・イルカの棲む海〜 忌の日の明神様
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人を食い殺す恐ろしい森『ガーナー森(ムイ)』 那覇
人を食い殺す恐ろしい森とな。……もう辛抱たまらんでござる、である。
食らって殺す、その張本人が『森』とくれば、サム・ライミによる『死霊のはらわた』の冒頭を想起せずにはいられない。
那覇はもともと浮島だった。大規模な埋め立てで整備され、かつての面影はまるで散見されない。
しかし伝説は細々と生きながらえるものである。
現在、豊見城市(とみぐすくし)の真玉橋(まだんばし)集落に『イリヌシーサー』なるシーサーが鎮座している。
言うまでもないが、シーサーを設置する意味はヒーチケェーシ(悪風返し)だ。そのシーサーの眼は、かつての小さな島を睨んでいる。
その島こそ『ガーナー森』だ。現在のガーナー森は那覇市の住宅地の中にあるが、かつては漫湖に浮かぶ小島だったのだ。
そこにはこんな逸話が残されている。
はるかな昔、ガーナー森は大蛇の化身であった。ガーナー森は夜になると漫湖沿岸の村を襲い、民家を壊しては人を食べたとされる。
集落の人々は恐れつつも、なんとか防戦しようと鍬や鎌などを持って集まった。
ガーナー森からは、真玉橋の村人の慌しい動きが手に取るように見えていた。
「鎌や棒切れで、このわしに楯突こうというのか。笑止千万」と、魔物は冷ややかに笑っていた。
しかし人間の力ではどうあがいても魔物に太刀打ちできない。村人はついに神に向かって、ガーナー森を退治してほしいと祈った。
その願いを聞き入れた神は、巨大な石を天から落とした。石はガーナー森の頭と尻尾に直撃し、魔物は動けなくなった。
さらに完全に動きを封じるべく、イリヌシーサーをガーナー森に向けて鎮座させたのだという。
これには魔物も観念して、水鳥の集まる島へと変わった。
……今さら言うまでもなく、この伝説は先人の豊かな感受性が生み出した比喩だろう。まさか森の魔物とメテオストームを額面どおり捉える人はいまい。
当時、水害に悩まされていた人々がガーナー森を大蛇に例えて、藁にもすがる思いで特別なシーサーを作ってガーナー森に向けたのかもしれない。
氾濫した川や湖は、必ずといっていいほど大蛇や龍に見立てられたものだ。水は人間および共同体にとって必要不可欠な恵みをもたらすものと同時に、
大雨などの影響でひとたび荒れ狂ったとき、人間や共同体に牙をむくアンビバレンスの要素を持っている。だから大蛇や龍を祀る信仰は、
幸を望みつつも怒りを畏れたわけだ。実際、昔の国場川は現在より川幅も広かったので、大雨になるとたちまち氾濫したらしい。
ガーナーという名の由来は、『たんこぶ』の意味であり、形が似ていたからと言われている。ガーガーとうるさいガチョウ(雁の仲間)が棲んでいたから
とされる説もある。
レキオ・島唄アッチャー 怪物と恐れられたガーナー森
http://rekioakiaki.cocolog-nifty.com/blog/2013/09/post-fc2b.htm...
日本珍スポット100景 人を食い殺す恐ろしい森「ガーナー森」【沖縄本島】
http://b-spot.seesaa.net/article/374550087.htm...
nakamuraの思考回路 ガーナー森(ガーナームイ)
http://space.geocities.jp/sanpin_jasmin/old/ganamui.htm...
人を食い殺す恐ろしい森とな。……もう辛抱たまらんでござる、である。
食らって殺す、その張本人が『森』とくれば、サム・ライミによる『死霊のはらわた』の冒頭を想起せずにはいられない。
那覇はもともと浮島だった。大規模な埋め立てで整備され、かつての面影はまるで散見されない。
しかし伝説は細々と生きながらえるものである。
現在、豊見城市(とみぐすくし)の真玉橋(まだんばし)集落に『イリヌシーサー』なるシーサーが鎮座している。
言うまでもないが、シーサーを設置する意味はヒーチケェーシ(悪風返し)だ。そのシーサーの眼は、かつての小さな島を睨んでいる。
その島こそ『ガーナー森』だ。現在のガーナー森は那覇市の住宅地の中にあるが、かつては漫湖に浮かぶ小島だったのだ。
そこにはこんな逸話が残されている。
はるかな昔、ガーナー森は大蛇の化身であった。ガーナー森は夜になると漫湖沿岸の村を襲い、民家を壊しては人を食べたとされる。
集落の人々は恐れつつも、なんとか防戦しようと鍬や鎌などを持って集まった。
ガーナー森からは、真玉橋の村人の慌しい動きが手に取るように見えていた。
「鎌や棒切れで、このわしに楯突こうというのか。笑止千万」と、魔物は冷ややかに笑っていた。
しかし人間の力ではどうあがいても魔物に太刀打ちできない。村人はついに神に向かって、ガーナー森を退治してほしいと祈った。
その願いを聞き入れた神は、巨大な石を天から落とした。石はガーナー森の頭と尻尾に直撃し、魔物は動けなくなった。
さらに完全に動きを封じるべく、イリヌシーサーをガーナー森に向けて鎮座させたのだという。
これには魔物も観念して、水鳥の集まる島へと変わった。
……今さら言うまでもなく、この伝説は先人の豊かな感受性が生み出した比喩だろう。まさか森の魔物とメテオストームを額面どおり捉える人はいまい。
当時、水害に悩まされていた人々がガーナー森を大蛇に例えて、藁にもすがる思いで特別なシーサーを作ってガーナー森に向けたのかもしれない。
氾濫した川や湖は、必ずといっていいほど大蛇や龍に見立てられたものだ。水は人間および共同体にとって必要不可欠な恵みをもたらすものと同時に、
大雨などの影響でひとたび荒れ狂ったとき、人間や共同体に牙をむくアンビバレンスの要素を持っている。だから大蛇や龍を祀る信仰は、
幸を望みつつも怒りを畏れたわけだ。実際、昔の国場川は現在より川幅も広かったので、大雨になるとたちまち氾濫したらしい。
ガーナーという名の由来は、『たんこぶ』の意味であり、形が似ていたからと言われている。ガーガーとうるさいガチョウ(雁の仲間)が棲んでいたから
とされる説もある。
レキオ・島唄アッチャー 怪物と恐れられたガーナー森
http://rekioakiaki.cocolog-nifty.com/blog/2013/09/post-fc2b.htm...
日本珍スポット100景 人を食い殺す恐ろしい森「ガーナー森」【沖縄本島】
http://b-spot.seesaa.net/article/374550087.htm...
nakamuraの思考回路 ガーナー森(ガーナームイ)
http://space.geocities.jp/sanpin_jasmin/old/ganamui.htm...
某宗教団体が乗っ取った島……某島
真の怖い島とは、案外こんな島なのかもしれない。あえて宗教名も島名も名指ししないでおこう。
興味があるなら自力で探してみれば?
触らぬ神になんとやらだ。
東京BREAKING NEWS 宗教団体に乗っ取られた西日本の小さな島「夜中に楽器を鳴らして行進している」
http://n-knuckles.com/discover/folklore/news000572.h...
でんでんむしの岬めぐり 928 荒崎=瀬戸内市牛窓町牛窓(岡山県)緑島の隣が黒島で岬をまわると向こう側には青島と黄島とが隠れている
http://dendenmushimushi.blog.so-net.ne.jp/_pages/user/iphone/article?nam...
真の怖い島とは、案外こんな島なのかもしれない。あえて宗教名も島名も名指ししないでおこう。
興味があるなら自力で探してみれば?
触らぬ神になんとやらだ。
東京BREAKING NEWS 宗教団体に乗っ取られた西日本の小さな島「夜中に楽器を鳴らして行進している」
http://n-knuckles.com/discover/folklore/news000572.h...
でんでんむしの岬めぐり 928 荒崎=瀬戸内市牛窓町牛窓(岡山県)緑島の隣が黒島で岬をまわると向こう側には青島と黄島とが隠れている
http://dendenmushimushi.blog.so-net.ne.jp/_pages/user/iphone/article?nam...
真玉橋の人柱伝説・七色ムーティー 那覇市
>>51で紹介した豊見城村と那覇市の間を流れる国場川にかかる真玉橋は、他にもこんないわれがある。
真玉橋は1522年、尚真王により、首里と豊見城間切を結ぶ重要な橋として架けられた。
しかしガーナー森伝説のとおり、当時の木製の真玉橋は大雨のたびに洪水で流されてしまうため、
1707年、尚貞王の代になると、丈夫な石で造りかえることにしたのだ。
ところが大勢の人夫を雇い手早く工事するにもかかわらず、大雨になるとたちまち川が氾濫し、せっかく架けた橋脚が流されてしまう。
建設は難航し、役人たちは頭を痛めていた。
そんなとき、役人のもとに1人のノロ(神女)が現れ、こう言った。
「この橋を完成させるには、子年生まれで、七色の元結(髪の根元を結ぶこと)をした女を人柱として立てるがよいとのご託宣がありました」
「まさか人柱とは……。いささか非人道的ではあるまいか」と、絶句した役人たち。
とはいえ、沖縄ではノロやユタの発言力は絶対であった。
役人は血眼になって人柱となるべき条件の人間を探したものの、なかなか該当する者にめぐり会えない。
しばらく経ったある日、お告げを言ったノロ自身が子年生まれであることが発覚した。
そこで役人たちがこっそりノロの家を訪ねてみると、なんと彼女の元結が七色に輝いているではないか。
思わぬ役人の訪問に慌てふためいたノロは、「これは私を陥れるための罠です!」と涙ながらに訴えた。
役人たちにしてみれば体のいい詭弁。問答無用で女を連行した。
翌日、ノロは皮肉にも自身が下した託宣どおり、人柱として生き埋めされることになった。
大勢の人々が見守るなか、ノロの一人娘が泣いている姿を認めると、ノロはこう叫んだ。
「娘よ、どんなことがあっても人より先に口を利いてはなりません」
川に沈められる直前、母の最期の言葉を聞いた娘は、それからというもの口を閉ざした。
その後、村人たちは「物ゆみ者や 馬ぬ さちとゆん(おしゃべり者は、馬の先を歩いて災いをまねく)」と言って戒めた。
後日談として、やがて婚期を迎えた娘だったが、ものが言えないので結婚できるはずもない。
そのとき蝶に姿を変えたノロの霊が現れ、娘のまわりを舞うと娘は口が利けるようになり、結婚することができたという。
民話で有名な『雉も鳴かずば撃たれまい』との類似点が見られるが、それもそのはず、本土の『長良川の人柱』をもとに平良良勝が、
『真玉橋由来記』として書き直し、このように変異したようだ。これもまた、伝説の伝播における1つの形といえよう。
雑貨屋 anshare project の日記 「言葉発見! 七色ムーティー」
http://anshare.exblog.jp/11624454...
奄美・沖縄本島・沖縄先島の伝説より、第132話。真玉橋まだんばしの人柱
http://totoro820.ti-da.net/e3371545.htm...
[PDF]沖縄・豊見城村の伝説「真玉橋の人柱」
http://barrel.ih.otaru-uc.ac.jp/bitstream/10252/768/1/RLA_97_2...
沖縄芝居「真玉橋由来記」と新作組踊「真珠道」について
http://www.geocities.jp/yuminuyu/kumi22.htm...
>>51で紹介した豊見城村と那覇市の間を流れる国場川にかかる真玉橋は、他にもこんないわれがある。
真玉橋は1522年、尚真王により、首里と豊見城間切を結ぶ重要な橋として架けられた。
しかしガーナー森伝説のとおり、当時の木製の真玉橋は大雨のたびに洪水で流されてしまうため、
1707年、尚貞王の代になると、丈夫な石で造りかえることにしたのだ。
ところが大勢の人夫を雇い手早く工事するにもかかわらず、大雨になるとたちまち川が氾濫し、せっかく架けた橋脚が流されてしまう。
建設は難航し、役人たちは頭を痛めていた。
そんなとき、役人のもとに1人のノロ(神女)が現れ、こう言った。
「この橋を完成させるには、子年生まれで、七色の元結(髪の根元を結ぶこと)をした女を人柱として立てるがよいとのご託宣がありました」
「まさか人柱とは……。いささか非人道的ではあるまいか」と、絶句した役人たち。
とはいえ、沖縄ではノロやユタの発言力は絶対であった。
役人は血眼になって人柱となるべき条件の人間を探したものの、なかなか該当する者にめぐり会えない。
しばらく経ったある日、お告げを言ったノロ自身が子年生まれであることが発覚した。
そこで役人たちがこっそりノロの家を訪ねてみると、なんと彼女の元結が七色に輝いているではないか。
思わぬ役人の訪問に慌てふためいたノロは、「これは私を陥れるための罠です!」と涙ながらに訴えた。
役人たちにしてみれば体のいい詭弁。問答無用で女を連行した。
翌日、ノロは皮肉にも自身が下した託宣どおり、人柱として生き埋めされることになった。
大勢の人々が見守るなか、ノロの一人娘が泣いている姿を認めると、ノロはこう叫んだ。
「娘よ、どんなことがあっても人より先に口を利いてはなりません」
川に沈められる直前、母の最期の言葉を聞いた娘は、それからというもの口を閉ざした。
その後、村人たちは「物ゆみ者や 馬ぬ さちとゆん(おしゃべり者は、馬の先を歩いて災いをまねく)」と言って戒めた。
後日談として、やがて婚期を迎えた娘だったが、ものが言えないので結婚できるはずもない。
そのとき蝶に姿を変えたノロの霊が現れ、娘のまわりを舞うと娘は口が利けるようになり、結婚することができたという。
民話で有名な『雉も鳴かずば撃たれまい』との類似点が見られるが、それもそのはず、本土の『長良川の人柱』をもとに平良良勝が、
『真玉橋由来記』として書き直し、このように変異したようだ。これもまた、伝説の伝播における1つの形といえよう。
雑貨屋 anshare project の日記 「言葉発見! 七色ムーティー」
http://anshare.exblog.jp/11624454...
奄美・沖縄本島・沖縄先島の伝説より、第132話。真玉橋まだんばしの人柱
http://totoro820.ti-da.net/e3371545.htm...
[PDF]沖縄・豊見城村の伝説「真玉橋の人柱」
http://barrel.ih.otaru-uc.ac.jp/bitstream/10252/768/1/RLA_97_2...
沖縄芝居「真玉橋由来記」と新作組踊「真珠道」について
http://www.geocities.jp/yuminuyu/kumi22.htm...
巨大なタコのような奇岩! 鮹岩(ポロワタラ)
知床西海岸のアイヌ語地名を巡る 知床半島中央部 - 道北の釣りと旅
http://www.kitakaido.com/okhotsk/shari/shari_21.htm...
YAHOO!知恵袋 タコの漢字は、蛸と鮹どっちが正しいんですか?
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q132175627...
知床西海岸のアイヌ語地名を巡る 知床半島中央部 - 道北の釣りと旅
http://www.kitakaido.com/okhotsk/shari/shari_21.htm...
YAHOO!知恵袋 タコの漢字は、蛸と鮹どっちが正しいんですか?
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q132175627...
壷よりいでし和気姫、のちに神格化 興居島(ごごしま)
愛媛県松山港の沖合に浮かぶ有人島、興居島。島の南部の小高い山は、伊予小富士といい、気品ある佇まいを見せている。
地元では親しみをこめて小富士山(こふじさん)と呼んでいる。
興居島では祭神、和気比売(和気姫)を祀った船越和気比売神社が鎮座している。
その和気比売とはいかなる神なのか、興味を示さずにはいられない。発祥である『和気姫伝説』がこんな話だ。
昔、船越には和気五郎太夫という名の漁師が住んでいた。
ある日、沖に出て漁をしていると、大きな丸い物体が浮かんでいるのを発見する。
それは壷だった。拾い上げ磯の岩に打ち当てて砕いてみると、中から12、3才ぐらいの、見目麗しい女の子が出てきた。
五郎太夫はまさか子供が入っているとは夢にも思わなかったので、腰を抜かすほど驚いた。
「なんでまた、おまえは壷の中に閉じ込められていたんだ? どこから流されてきた?」
すると少女はこう答えた。「私は唐の国の者でございますが、訳あって壷に入れられ漂流してきたのでございます。私の名は和気姫」
「和気姫か。それにしてもめんこいのう。どうだ、宿無しなのなら、ウチに来るか。とりあえずメシでも食ってけ」
「壷から出てきたというのに、私のことを奇異に思わないとは寛大なお方。喜んでお言葉に甘えさせていただきます」
こんなトントン拍子で話が進み、五郎太夫はついに自身の娘として大切に育てることにした。五郎太夫はロリコンではなかったと信じたい。
立派に成人した和気姫。美しさは眩しすぎるほどであった。ある日、伊予皇子に見初められてしまう。世の常で権力者は手が早い。
これには歯ぎしりせずにはいられない五郎太夫であったが、娘をいつまでも手元に置いておくわけにはいかない。
やがて和気姫は伊予皇子の奥方となり、三つ子の男の子を授かった。
しかしながら当時は三つ子は忌み子として蔑まれた迷信があった。せっかく授かった命を小船に乗せて海へと流してしまう。
それでも三つ子は無事、それぞれ島に流れ着いた。第一子は伊豆の国に、第二子は備前児島、第三子は伊予の国三津浦にという具合。
しばらくすると各地の豪族として栄えたが、とりわけ第三子である小千御子(おちのみこ)は、伊予の大豪族・越智家の祖となったという。
のちに小千御子が、「母が住んでいた島」と言ったことから、この島を母子島(母居島)と呼んでいたが、元禄12年から、興居島へと変遷した。
和気姫の死後、和気姫を神格化させて船越社に祀り、後に船越八幡宮と改められ、明治期に船越和気比売(ヒメ)神社となった。
……壷が流れてきて、そこには子供が入っていたという話は、なんだか虚舟や桃太郎、かぐや姫を髣髴とさせておもしろい。
年端もいかぬ子供を罪人の流刑にしたというのは考えにくい。追っ手からかくまうため、壷に入れて流したのだろうか?
愛姫伝 ☆「姫の島」興居島へ NO1(霧の導き)
http://makild.exblog.jp/12830540...
興居島愛好会(ごごしま あいこうかい)
http://gogosima-ikou.nsf.jp/densetu/densetu.htm...
YAHOO!知恵袋 双子が忌み子だと言われていた時代はあるのでしょうか?
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q103376813...
ちるみぃでっどり− 【虚ろ舟=UFO】空っぽの鉄の舟,南蛮渡来の美女【宇宙人=人間】
http://blog.goo.ne.jp/kill_me_deadly/e/7becdcaa48d4c...
愛媛県松山港の沖合に浮かぶ有人島、興居島。島の南部の小高い山は、伊予小富士といい、気品ある佇まいを見せている。
地元では親しみをこめて小富士山(こふじさん)と呼んでいる。
興居島では祭神、和気比売(和気姫)を祀った船越和気比売神社が鎮座している。
その和気比売とはいかなる神なのか、興味を示さずにはいられない。発祥である『和気姫伝説』がこんな話だ。
昔、船越には和気五郎太夫という名の漁師が住んでいた。
ある日、沖に出て漁をしていると、大きな丸い物体が浮かんでいるのを発見する。
それは壷だった。拾い上げ磯の岩に打ち当てて砕いてみると、中から12、3才ぐらいの、見目麗しい女の子が出てきた。
五郎太夫はまさか子供が入っているとは夢にも思わなかったので、腰を抜かすほど驚いた。
「なんでまた、おまえは壷の中に閉じ込められていたんだ? どこから流されてきた?」
すると少女はこう答えた。「私は唐の国の者でございますが、訳あって壷に入れられ漂流してきたのでございます。私の名は和気姫」
「和気姫か。それにしてもめんこいのう。どうだ、宿無しなのなら、ウチに来るか。とりあえずメシでも食ってけ」
「壷から出てきたというのに、私のことを奇異に思わないとは寛大なお方。喜んでお言葉に甘えさせていただきます」
こんなトントン拍子で話が進み、五郎太夫はついに自身の娘として大切に育てることにした。五郎太夫はロリコンではなかったと信じたい。
立派に成人した和気姫。美しさは眩しすぎるほどであった。ある日、伊予皇子に見初められてしまう。世の常で権力者は手が早い。
これには歯ぎしりせずにはいられない五郎太夫であったが、娘をいつまでも手元に置いておくわけにはいかない。
やがて和気姫は伊予皇子の奥方となり、三つ子の男の子を授かった。
しかしながら当時は三つ子は忌み子として蔑まれた迷信があった。せっかく授かった命を小船に乗せて海へと流してしまう。
それでも三つ子は無事、それぞれ島に流れ着いた。第一子は伊豆の国に、第二子は備前児島、第三子は伊予の国三津浦にという具合。
しばらくすると各地の豪族として栄えたが、とりわけ第三子である小千御子(おちのみこ)は、伊予の大豪族・越智家の祖となったという。
のちに小千御子が、「母が住んでいた島」と言ったことから、この島を母子島(母居島)と呼んでいたが、元禄12年から、興居島へと変遷した。
和気姫の死後、和気姫を神格化させて船越社に祀り、後に船越八幡宮と改められ、明治期に船越和気比売(ヒメ)神社となった。
……壷が流れてきて、そこには子供が入っていたという話は、なんだか虚舟や桃太郎、かぐや姫を髣髴とさせておもしろい。
年端もいかぬ子供を罪人の流刑にしたというのは考えにくい。追っ手からかくまうため、壷に入れて流したのだろうか?
愛姫伝 ☆「姫の島」興居島へ NO1(霧の導き)
http://makild.exblog.jp/12830540...
興居島愛好会(ごごしま あいこうかい)
http://gogosima-ikou.nsf.jp/densetu/densetu.htm...
YAHOO!知恵袋 双子が忌み子だと言われていた時代はあるのでしょうか?
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q103376813...
ちるみぃでっどり− 【虚ろ舟=UFO】空っぽの鉄の舟,南蛮渡来の美女【宇宙人=人間】
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お万と維盛の伝説 龍神村 1
和歌山県田辺市の日高川沿いを山間部に分け入っていくと突如現れる龍神村。古くから林業が基幹産業である。
『龍神』とつく村なのだから、さぞかし龍にちなんだ伝承があるのかと思いきや、これは温泉の名に由来するものだという。
日本三美人の湯として名高い龍神温泉は、およそ1300年前に役小角(えんのおづの)が発見し、弘法大師が難陀龍王の夢のお告げによって
開いたといわれる。他の三美人の湯は島根県湯ノ川温泉、群馬県川中温泉が数えられるそうだ。
それとは別に、龍神村には平家一族で名を馳せた平維盛(たいらのこれもり)と、その家来たちが落ち延びた地として知られている。
この維盛と恋に落ちた娘、お万の伝説がこんな話。
今から800年前以上も昔、屋島の陣をから行方をくらませた平清盛の孫、維盛とその一行は高野山にたどり着いた。
亡父、重盛が寵愛していた家臣、滝口入道時頼に諭され、 熊野水軍を指揮している法印湛僧に平家側に与するよう説得すべく田辺に向かっている道中、
切目神社の宮司湯浅宗光から一ノ谷の敗戦、義経の鵯越の逆落としによって陣屋は壊滅したと聞かされる。
同宮司より「法印湛僧の動向はお伝えしますので、今は日高川奥地の在所にて好機をお待ち下され」と諌められ、維盛は龍神小森に姿を見せたのだった。
この在所は治承4(1180)年ごろ、落ち延びて来た源頼氏支配の地であり、頼氏の迫害を恐れ、断崖絶壁の小森渓谷を上ること約2里の場所に谷端を切り開き、
周囲50mほどの屋敷を構えたのが寿永3(1184)年の4月であった。
在所から屋敷へ食料や衣服を運んだり、身の回りの世話を任されたのが地元の19歳の娘、お万であった。
お万は田舎娘とは思えぬほど洗練された所作と、白い肌が美しい女だった。
維盛とて容姿端麗で気が優しく、元来戦には向かない武将であったとも言われていた。お互いが惹かれあうのも時間の問題だった。
和歌山県田辺市の日高川沿いを山間部に分け入っていくと突如現れる龍神村。古くから林業が基幹産業である。
『龍神』とつく村なのだから、さぞかし龍にちなんだ伝承があるのかと思いきや、これは温泉の名に由来するものだという。
日本三美人の湯として名高い龍神温泉は、およそ1300年前に役小角(えんのおづの)が発見し、弘法大師が難陀龍王の夢のお告げによって
開いたといわれる。他の三美人の湯は島根県湯ノ川温泉、群馬県川中温泉が数えられるそうだ。
それとは別に、龍神村には平家一族で名を馳せた平維盛(たいらのこれもり)と、その家来たちが落ち延びた地として知られている。
この維盛と恋に落ちた娘、お万の伝説がこんな話。
今から800年前以上も昔、屋島の陣をから行方をくらませた平清盛の孫、維盛とその一行は高野山にたどり着いた。
亡父、重盛が寵愛していた家臣、滝口入道時頼に諭され、 熊野水軍を指揮している法印湛僧に平家側に与するよう説得すべく田辺に向かっている道中、
切目神社の宮司湯浅宗光から一ノ谷の敗戦、義経の鵯越の逆落としによって陣屋は壊滅したと聞かされる。
同宮司より「法印湛僧の動向はお伝えしますので、今は日高川奥地の在所にて好機をお待ち下され」と諌められ、維盛は龍神小森に姿を見せたのだった。
この在所は治承4(1180)年ごろ、落ち延びて来た源頼氏支配の地であり、頼氏の迫害を恐れ、断崖絶壁の小森渓谷を上ること約2里の場所に谷端を切り開き、
周囲50mほどの屋敷を構えたのが寿永3(1184)年の4月であった。
在所から屋敷へ食料や衣服を運んだり、身の回りの世話を任されたのが地元の19歳の娘、お万であった。
お万は田舎娘とは思えぬほど洗練された所作と、白い肌が美しい女だった。
維盛とて容姿端麗で気が優しく、元来戦には向かない武将であったとも言われていた。お互いが惹かれあうのも時間の問題だった。
お万と維盛の伝説 龍神村 2
しかし恋の行方も暗雲が垂れ込める。
寿永4年(1185)2月、頼みにしていた熊野水軍は船首に熊野権現の神旗と源氏の白旗をなびかせて屋島に乱入。法印湛僧による平家への裏切りだった。
維盛が平家の滅亡を知ったのは同年4月。維盛は小森渓谷の山頂で護摩木を積んで火を放ち、「平氏勝利を得るならばこの煙を天へ上げ給え、
もし不運にして破れるならばこの煙を地に下し給いて、我が家の運命を知らせ給え」と行く末を占った。
ところが煙は不吉にも地肌を這うばかり。地を這う煙は凶兆に他ならなかった。
絶望的な面持ちで維盛は悟った。もはや平家の運命、ここに潰えたも同じ。
維盛は従者の衛門・嘉門兄弟、そしてお万に別れを告げ、屋敷を去り、那智の滝で自決した。
自決の知らせを受けた従者衛門・嘉門兄弟は、これも滝から身を投げて後を追った。片やお万はその翌朝、在所から屋敷へと向かう途中で白粉を流し、
清流に紅を溶かし、最後は淵に身を投げて若くてしなやかな命を散らせた。
その後、里人たちは維盛が護摩木を積んで占った山を護摩壇山、衛門・嘉門が自決した瀧を衛門・嘉門の瀧、お万が白粉を流したところを白壷、
紅を溶かしたところを赤壷、身を投げた淵をお万が淵と名付け、後世に伝えている。
……そもそもこの平維盛、高野山に入って出家したあと、前スレでたびたび取り上げた補陀落渡海で志願して屋形船に乗り込み、入水した1人と言われているのだ。
しかしながら、「三位中将維盛、歳二十七、寿永三年三月二十八日、那智の沖に入水する」と書き付け、死んだように見せかけて、
実は偽装工作であった線が濃厚だという。源氏の追撃を諦めさせるための方便であろう。そういった経緯を経て、龍神村に辿りついたとされているのだ。
下記の平維盛wikipediaでご覧になればわかると思うが、落ち延びた場所が無数にある。欺瞞してまで落ち延びるというのは、
想像を絶するほど命がけの逃亡だったに違いあるまい。
龍神村以外にも、那智勝浦町の奥深いところには色川という集落があり、ここには維盛の墓まで存在する。
色川はとても景色のきれいなところで、秘境とも言うべき場所。今度暇を見て突撃取材に行ってくるつもりだから、乞うご期待。
人生の空からVonBraun.exblog.jp 小森谷
http://vonbraun.exblog.jp/1288126...
龍神村の文化財 田辺市龍神村
http://www.aikis.or.jp/‾eiji-ito/ryujin/hometown_cultural.htm
Revoir... < 龍神へ >
http://revoir.exblog.jp/1855665...
役小角wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BD%B9%E5%B0%8F%E8%A7%...
平維盛wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E7%B6%AD%E7%9B%...
熊野の観光名所 - み熊野ねっと 補陀洛山寺
http://www.mikumano.net/meguri/fudaraku.htm...
わかやま新報 Staff Blog 星神社
http://www.wakayamashimpo.co.jp/staffblog/2009/10/post_227.htm...
nicozon つボイノリオの極付けお万の方
http://www.nicozon.net/watch/sm531110...
しかし恋の行方も暗雲が垂れ込める。
寿永4年(1185)2月、頼みにしていた熊野水軍は船首に熊野権現の神旗と源氏の白旗をなびかせて屋島に乱入。法印湛僧による平家への裏切りだった。
維盛が平家の滅亡を知ったのは同年4月。維盛は小森渓谷の山頂で護摩木を積んで火を放ち、「平氏勝利を得るならばこの煙を天へ上げ給え、
もし不運にして破れるならばこの煙を地に下し給いて、我が家の運命を知らせ給え」と行く末を占った。
ところが煙は不吉にも地肌を這うばかり。地を這う煙は凶兆に他ならなかった。
絶望的な面持ちで維盛は悟った。もはや平家の運命、ここに潰えたも同じ。
維盛は従者の衛門・嘉門兄弟、そしてお万に別れを告げ、屋敷を去り、那智の滝で自決した。
自決の知らせを受けた従者衛門・嘉門兄弟は、これも滝から身を投げて後を追った。片やお万はその翌朝、在所から屋敷へと向かう途中で白粉を流し、
清流に紅を溶かし、最後は淵に身を投げて若くてしなやかな命を散らせた。
その後、里人たちは維盛が護摩木を積んで占った山を護摩壇山、衛門・嘉門が自決した瀧を衛門・嘉門の瀧、お万が白粉を流したところを白壷、
紅を溶かしたところを赤壷、身を投げた淵をお万が淵と名付け、後世に伝えている。
……そもそもこの平維盛、高野山に入って出家したあと、前スレでたびたび取り上げた補陀落渡海で志願して屋形船に乗り込み、入水した1人と言われているのだ。
しかしながら、「三位中将維盛、歳二十七、寿永三年三月二十八日、那智の沖に入水する」と書き付け、死んだように見せかけて、
実は偽装工作であった線が濃厚だという。源氏の追撃を諦めさせるための方便であろう。そういった経緯を経て、龍神村に辿りついたとされているのだ。
下記の平維盛wikipediaでご覧になればわかると思うが、落ち延びた場所が無数にある。欺瞞してまで落ち延びるというのは、
想像を絶するほど命がけの逃亡だったに違いあるまい。
龍神村以外にも、那智勝浦町の奥深いところには色川という集落があり、ここには維盛の墓まで存在する。
色川はとても景色のきれいなところで、秘境とも言うべき場所。今度暇を見て突撃取材に行ってくるつもりだから、乞うご期待。
人生の空からVonBraun.exblog.jp 小森谷
http://vonbraun.exblog.jp/1288126...
龍神村の文化財 田辺市龍神村
http://www.aikis.or.jp/‾eiji-ito/ryujin/hometown_cultural.htm
Revoir... < 龍神へ >
http://revoir.exblog.jp/1855665...
役小角wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BD%B9%E5%B0%8F%E8%A7%...
平維盛wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E7%B6%AD%E7%9B%...
熊野の観光名所 - み熊野ねっと 補陀洛山寺
http://www.mikumano.net/meguri/fudaraku.htm...
わかやま新報 Staff Blog 星神社
http://www.wakayamashimpo.co.jp/staffblog/2009/10/post_227.htm...
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神域の島 8月7日に行われる『夕日の神事』と海底遺跡の因果関係 経島(ふみしま)
島根県出雲市の日御碕(ひのみさき)から西へ約100m行くと日本海に出る。すぐそばには経島という無人島が見える。
『経巻』を積み重ねたような柱状節理の石英角斑岩から形成されており、お経の本を載せる文机のように見えることから、
その名がついたと伝えられている。またウミネコの繁殖地として、国の天然記念物『経島ウミネコ繁殖地』に指定されている。
毎年11月下旬から冬にかけて約5000羽ものウミネコが飛来し、4月から5月にかけて産卵・孵化、7月ごろに島を離れるそうだ。
ウミネコは主に海面近くのイワシや小魚を常食としており、ブリに追われて海面に浮上したイワシを求めてウミネコが群れをなすので、
これを目印に出漁する漁師にとっては特別ありがたい島である。
さらにはこの経島、古くは日御碕神社の下之宮があり、今もなお神職以外の一般の立入りは禁止されている。
8月7日の『夕日の神事』のときのみ宮司だけが舟で渡ることができるのだ。
それだけではない。実は日御埼灯台北の海底には、サドガセとボングイと呼ばれる岩があり、人工的に造られた階段や参道、祭祀跡が発見されたのだ。
なかでもサドガセにある2つの巨石がもたれかかってできた岩屋は、沖縄の南城市にある世界遺産、斎場御嶽(せーふぁうたき)に酷似しており、謎めいている。
この遺跡を発見したのは、日御碕漁港でダイビングショップを営む岡本哲夫氏。
12年ほど前、岡本氏が新たなダイビングスポットを開拓すべく周辺の海を調査したところ、件の遺跡にめぐり会ったというわけだ。
「最初に見つけたのは、日御埼灯台北の海底です。階段のように削られた岩や、玉砂利を敷いた参道らしきものがあり、
どう見ても自然にできたものとは思えず、 調査を始めました」と、岡本氏は語る。
ちなみに伊勢神宮が「日の本の昼を守る」のに対し、日御碕神社は「日の本の夜を守る」ところという勅命があり、
その名も「日沈宮」という美しい宮が建てられたとの逸話が残っている。
また上記した『夕日の神事』は、かつては経島沖の『タイワ』と呼ばれる瀬で行なわれていたという言い伝えがあり、
その伝説を裏付ける発見かもしれないと、期待が寄せられているそうだ。
漁港漁村の歴史文化財産の紹介 経島〔ふみしま〕〈宇竜漁港〉(出雲市大社町)
http://www.pref.shimane.lg.jp/gyokogyojo/zaisan/02fumishima....
平成・美しい日本を護る会ブログ【やむやま】 日御碕神社
http://heigokai.blog.fc2.com/blog-entry-109.htm...
あれこれある記 2013年8月 1日(木) 日御碕神社
http://soundmaster.cocolog-nifty.com/blog/2013/08/index.htm...
さんいん旅ねっと 日本海のダイビングスポット「日御碕」に海底遺跡か?
http://www.san-in-tabi.net/travel/44.htm...
神域の島 8月7日に行われる『夕日の神事』と海底遺跡の因果関係 経島(ふみしま)
島根県出雲市の日御碕(ひのみさき)から西へ約100m行くと日本海に出る。すぐそばには経島という無人島が見える。
『経巻』を積み重ねたような柱状節理の石英角斑岩から形成されており、お経の本を載せる文机のように見えることから、
その名がついたと伝えられている。またウミネコの繁殖地として、国の天然記念物『経島ウミネコ繁殖地』に指定されている。
毎年11月下旬から冬にかけて約5000羽ものウミネコが飛来し、4月から5月にかけて産卵・孵化、7月ごろに島を離れるそうだ。
ウミネコは主に海面近くのイワシや小魚を常食としており、ブリに追われて海面に浮上したイワシを求めてウミネコが群れをなすので、
これを目印に出漁する漁師にとっては特別ありがたい島である。
さらにはこの経島、古くは日御碕神社の下之宮があり、今もなお神職以外の一般の立入りは禁止されている。
8月7日の『夕日の神事』のときのみ宮司だけが舟で渡ることができるのだ。
それだけではない。実は日御埼灯台北の海底には、サドガセとボングイと呼ばれる岩があり、人工的に造られた階段や参道、祭祀跡が発見されたのだ。
なかでもサドガセにある2つの巨石がもたれかかってできた岩屋は、沖縄の南城市にある世界遺産、斎場御嶽(せーふぁうたき)に酷似しており、謎めいている。
この遺跡を発見したのは、日御碕漁港でダイビングショップを営む岡本哲夫氏。
12年ほど前、岡本氏が新たなダイビングスポットを開拓すべく周辺の海を調査したところ、件の遺跡にめぐり会ったというわけだ。
「最初に見つけたのは、日御埼灯台北の海底です。階段のように削られた岩や、玉砂利を敷いた参道らしきものがあり、
どう見ても自然にできたものとは思えず、 調査を始めました」と、岡本氏は語る。
ちなみに伊勢神宮が「日の本の昼を守る」のに対し、日御碕神社は「日の本の夜を守る」ところという勅命があり、
その名も「日沈宮」という美しい宮が建てられたとの逸話が残っている。
また上記した『夕日の神事』は、かつては経島沖の『タイワ』と呼ばれる瀬で行なわれていたという言い伝えがあり、
その伝説を裏付ける発見かもしれないと、期待が寄せられているそうだ。
漁港漁村の歴史文化財産の紹介 経島〔ふみしま〕〈宇竜漁港〉(出雲市大社町)
http://www.pref.shimane.lg.jp/gyokogyojo/zaisan/02fumishima....
平成・美しい日本を護る会ブログ【やむやま】 日御碕神社
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あれこれある記 2013年8月 1日(木) 日御碕神社
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泥神パーントゥ、その起源 宮古島島尻
前スレの>>64〜>>66でパーントゥを取り上げたはいいが、発祥を書いていなかったので長らく不満げに思っていた。
よって追加する形で書いてみようと思う。
旧暦9月上旬の吉日に、沖縄の宮古島では重要無形民俗文化財に指定されていながら、奇想天外な悪魔払いの伝統行事が行われる。
島尻地区の青年が3人選ばれ、パーントゥと呼ばれる泥神に扮し、新築の家や新生児の生まれた家々を主に回るのだが、
道中出会った人や車にも泥を塗りたくるという奇祭。この泥には悪霊が憑くのを防ぎ、無病息災をもたらすありがたいものだという。
よって、住人たちは(近年は観光客も多く含まれる)喜んで、パーントゥに泥を塗り付けられる。ただ臭いがなかなか落ちないのが玉に瑕らしい。
この奇祭は正式には『パーントゥ・プナハ』と呼ばれる。『パーントゥ』は宮古方言で鬼や妖怪、もしくは島の歴史について書かれた『宮古島庶民史』
(稲村賢敷・1948年)によると、『パーン(食べる)+ピトゥ(人)』が訛ったのではないかとの説もある。そして『プナハ』は祈願祭という意味。
宮古島の北部、島尻に伝わるこのパーントゥについては、はるか遠い昔から語り継がれた発祥の物語がある。
その昔、島尻の北東部にあるムトゥズマ(元島)という村に近いクバマという海辺に、ビロウの葉に包まれたものが流れ着いた。
このあたりの海岸はふだんは波も穏やかで静かな海だった。しかし波はなくとも潮の干満で激しい海流が起こることもあり、
こうして浜辺に見なれぬ物が漂着することが少なくなかった。
村人が恐る恐るその包みを解いてみると、3個の木の仮面が現れた。
村の長老にそれは差し出され、主だった者が集まり、これをどうしたものか話し合いが進められたが名案が浮かばない。
太古より沖縄ではニライカナイの思想が根付き、海から寄りつくものは『神のものたらすもの』(寄り神)として、
決して捨てたり葬り去ったりすることはしなかった。水死体でさえ神の贈り物としてありがたく祀ったほどであった。
先人は海の彼方からやってきた漂着物に、思わぬ力が宿っていることを信じていたのだ。
長老はこの仮面をつぶさに調べたのち神の霊験を感じ、大切に拝所に祀っておいた。
村では1年に1度、悪魔祓い(厄払い)の行事を行っており、ためしにこの木面を使って村祭(サトマツリ)をやってみた。
これが功を奏し、この祭が始められたその年から、村は雨にも恵まれて植物もよく育ち、良いこと続きの豊作になったという。
……集落の外れに『ンマリガー』(生まれ井戸)なる場所がある。文字通り、生まれたときの産湯に使う水を湛えた井戸のことである。
祭の際は、3体のパーントゥはまさしくこのンマリガーの奥で衣装に着替え、姿を現す。
そして集落を練り歩き(ときにはダッシュし)、ありがたい泥を塗布するわけである。
そして祭の終わりは以下のような形で締めくくられる。
3体のパーントゥは集落の発祥地に祀ってある拝所をまず巡り、無事に行事を終えられたことの報告とお礼をお参りする。
お礼参りを済ますと今度は海へと通じる道を歩く。海辺に着くと仮面をはずしてサンゴの岩の上に置き、身にまとっていたつる草を鎌で切り取って海に流し、
全身の泥を落として海水で身を清めるのだ。このとき、パーントゥが帰っていく工程だけは何人たりとも見ることは許されない。
ここにも見るなのタブーがつきまとうわけだ。
いったいこの仮面はどこから解き放たれたのだろうか? いまだ学者の間でも定説が立てられていない。
お祭り日本の旅 パーントゥ
http://festivals.travelaround.jp/okinawa/pantoxu.ht...
沖縄B級ポータル - DEEokinawa(でぃーおきなわ) 宮古島島尻地区の奇祭パーントゥ
http://www.dee-okinawa.com/topics/2011/10/panto.htm...
NAVERまとめ なまはげより怖い!?沖縄の奇祭「パーントゥ」の様子まとめ
http://matome.naver.jp/odai/213176093343288690...
ライブドアニュース 泥だらけの神様に追っかけられる祭り
http://news.livedoor.com/article/detail/4378353...
えびすwikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%88%E3%81%B3%E3%81%...
羽黒神社宮司のブログ 寄り神の信仰
http://ameblo.jp/hagurotetsu/entry-10825295700....
民族学伝承ひろいあげ辞典 ラッキーエビスと漂着神・恵比寿
http://blogs.yahoo.co.jp/kawakatu_1205/51889336.html?ty...
前スレの>>64〜>>66でパーントゥを取り上げたはいいが、発祥を書いていなかったので長らく不満げに思っていた。
よって追加する形で書いてみようと思う。
旧暦9月上旬の吉日に、沖縄の宮古島では重要無形民俗文化財に指定されていながら、奇想天外な悪魔払いの伝統行事が行われる。
島尻地区の青年が3人選ばれ、パーントゥと呼ばれる泥神に扮し、新築の家や新生児の生まれた家々を主に回るのだが、
道中出会った人や車にも泥を塗りたくるという奇祭。この泥には悪霊が憑くのを防ぎ、無病息災をもたらすありがたいものだという。
よって、住人たちは(近年は観光客も多く含まれる)喜んで、パーントゥに泥を塗り付けられる。ただ臭いがなかなか落ちないのが玉に瑕らしい。
この奇祭は正式には『パーントゥ・プナハ』と呼ばれる。『パーントゥ』は宮古方言で鬼や妖怪、もしくは島の歴史について書かれた『宮古島庶民史』
(稲村賢敷・1948年)によると、『パーン(食べる)+ピトゥ(人)』が訛ったのではないかとの説もある。そして『プナハ』は祈願祭という意味。
宮古島の北部、島尻に伝わるこのパーントゥについては、はるか遠い昔から語り継がれた発祥の物語がある。
その昔、島尻の北東部にあるムトゥズマ(元島)という村に近いクバマという海辺に、ビロウの葉に包まれたものが流れ着いた。
このあたりの海岸はふだんは波も穏やかで静かな海だった。しかし波はなくとも潮の干満で激しい海流が起こることもあり、
こうして浜辺に見なれぬ物が漂着することが少なくなかった。
村人が恐る恐るその包みを解いてみると、3個の木の仮面が現れた。
村の長老にそれは差し出され、主だった者が集まり、これをどうしたものか話し合いが進められたが名案が浮かばない。
太古より沖縄ではニライカナイの思想が根付き、海から寄りつくものは『神のものたらすもの』(寄り神)として、
決して捨てたり葬り去ったりすることはしなかった。水死体でさえ神の贈り物としてありがたく祀ったほどであった。
先人は海の彼方からやってきた漂着物に、思わぬ力が宿っていることを信じていたのだ。
長老はこの仮面をつぶさに調べたのち神の霊験を感じ、大切に拝所に祀っておいた。
村では1年に1度、悪魔祓い(厄払い)の行事を行っており、ためしにこの木面を使って村祭(サトマツリ)をやってみた。
これが功を奏し、この祭が始められたその年から、村は雨にも恵まれて植物もよく育ち、良いこと続きの豊作になったという。
……集落の外れに『ンマリガー』(生まれ井戸)なる場所がある。文字通り、生まれたときの産湯に使う水を湛えた井戸のことである。
祭の際は、3体のパーントゥはまさしくこのンマリガーの奥で衣装に着替え、姿を現す。
そして集落を練り歩き(ときにはダッシュし)、ありがたい泥を塗布するわけである。
そして祭の終わりは以下のような形で締めくくられる。
3体のパーントゥは集落の発祥地に祀ってある拝所をまず巡り、無事に行事を終えられたことの報告とお礼をお参りする。
お礼参りを済ますと今度は海へと通じる道を歩く。海辺に着くと仮面をはずしてサンゴの岩の上に置き、身にまとっていたつる草を鎌で切り取って海に流し、
全身の泥を落として海水で身を清めるのだ。このとき、パーントゥが帰っていく工程だけは何人たりとも見ることは許されない。
ここにも見るなのタブーがつきまとうわけだ。
いったいこの仮面はどこから解き放たれたのだろうか? いまだ学者の間でも定説が立てられていない。
お祭り日本の旅 パーントゥ
http://festivals.travelaround.jp/okinawa/pantoxu.ht...
沖縄B級ポータル - DEEokinawa(でぃーおきなわ) 宮古島島尻地区の奇祭パーントゥ
http://www.dee-okinawa.com/topics/2011/10/panto.htm...
NAVERまとめ なまはげより怖い!?沖縄の奇祭「パーントゥ」の様子まとめ
http://matome.naver.jp/odai/213176093343288690...
ライブドアニュース 泥だらけの神様に追っかけられる祭り
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えびすwikipedia
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羽黒神社宮司のブログ 寄り神の信仰
http://ameblo.jp/hagurotetsu/entry-10825295700....
民族学伝承ひろいあげ辞典 ラッキーエビスと漂着神・恵比寿
http://blogs.yahoo.co.jp/kawakatu_1205/51889336.html?ty...
「八重山島年来記」
http://yaeyamaocean.com/camp/nenraiki.ht...
『パイパティローマ』 −楽園の島は何処だったのか?
http://www.kt.rim.or.jp/‾yami/hateruma/paipateroma.html
いちらん屋 伝説の大陸・沈んだ大陸・沈没した大陸の一覧
http://ichiranya.com/technology/134-continent_of_le...
http://yaeyamaocean.com/camp/nenraiki.ht...
『パイパティローマ』 −楽園の島は何処だったのか?
http://www.kt.rim.or.jp/‾yami/hateruma/paipateroma.html
いちらん屋 伝説の大陸・沈んだ大陸・沈没した大陸の一覧
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美女盗賊・鬼神のお松伝説 石ヶ戸(いしけど) 1
青森県十和田湖畔の子ノ口から奥入瀬(おいらせ)川を9km下ったところにあるのが石ヶ戸休憩所。
そこから眼下を見下ろしてみるとよい。川沿いには天然の岩屋が見えるはずだ。
岩板の厚さは約1m、長さ10mを超える溶結凝灰岩で、2本のカツラの老木がこの巨石を支えている。
これを石ヶ戸という。『ヶ戸』とは方言で『小屋』の意味であり、すなわち石小屋ということになる。
石ヶ戸には昔、『鬼神のお松』なる美女の盗賊が住んでいたとされ、付近を通りかかる旅人から金品を巻き上げていた伝説があるそうだ。
鬼神、または鬼人のお松といえば、嘉永6(1853)年に売り出された錦絵『三幅対』で、石川五右衛門、児来也(じらいや)と並び、
『日本3大盗賊』の1人として描かれるほど知名度が高く、歌舞伎『新板越白浪』では毒婦として登場した別名『女児来也』のこと。
美女盗賊とは、今までなかったタイプの伝説で、これは大いに興味がそそられよう。
とはいえ島か村ネタに該当しないのでスレチになってしまうのだが、あまりにもったいないのでやっぱり載せておく。我儘許せい。
実は青森や秋田の各地にはいくつものお松伝説が転がっており、内容が微妙に異なったり、オチも違うケースがある。
とりあえず一般的なお松伝説とはこんなお話。
江戸深川ではちょっとは名の知れた美貌の遊女・お松がいた。ある日、仙台藩士の立目丈五郎に見初められ、仙台へ越して丈五郎の妻となる。
娘も生まれ、お松にとって幸せの絶頂であったが、遊女の身の上が不幸が多いように、それも長続きはしない。
丈五郎が御前試合のもつれから剣道指南役の早川文左衛門に殺されてしまうのだ。
愛する夫を殺されたお松の悲しみ、悔しさはいかばかりか。仇討ちを誓い、夫の仲間である稲毛甚斎に助太刀を頼むべく京都を訪ねた。
ところが非道な稲毛。「……助太刀してやらんでもない。その代わり、一晩おれの相手をせい」と、舌なめずりしながらお松の身体を求めてきた。
お松はとっさに懐刀を抜いて抵抗した。「お呼びでないんだよ、このエロ親父!」もみ合っているうちに、懐刀が稲毛の胸にグサリ。
この殺害がきっかけで、お松の性格が毒婦のそれへと一変する。
青森県十和田湖畔の子ノ口から奥入瀬(おいらせ)川を9km下ったところにあるのが石ヶ戸休憩所。
そこから眼下を見下ろしてみるとよい。川沿いには天然の岩屋が見えるはずだ。
岩板の厚さは約1m、長さ10mを超える溶結凝灰岩で、2本のカツラの老木がこの巨石を支えている。
これを石ヶ戸という。『ヶ戸』とは方言で『小屋』の意味であり、すなわち石小屋ということになる。
石ヶ戸には昔、『鬼神のお松』なる美女の盗賊が住んでいたとされ、付近を通りかかる旅人から金品を巻き上げていた伝説があるそうだ。
鬼神、または鬼人のお松といえば、嘉永6(1853)年に売り出された錦絵『三幅対』で、石川五右衛門、児来也(じらいや)と並び、
『日本3大盗賊』の1人として描かれるほど知名度が高く、歌舞伎『新板越白浪』では毒婦として登場した別名『女児来也』のこと。
美女盗賊とは、今までなかったタイプの伝説で、これは大いに興味がそそられよう。
とはいえ島か村ネタに該当しないのでスレチになってしまうのだが、あまりにもったいないのでやっぱり載せておく。我儘許せい。
実は青森や秋田の各地にはいくつものお松伝説が転がっており、内容が微妙に異なったり、オチも違うケースがある。
とりあえず一般的なお松伝説とはこんなお話。
江戸深川ではちょっとは名の知れた美貌の遊女・お松がいた。ある日、仙台藩士の立目丈五郎に見初められ、仙台へ越して丈五郎の妻となる。
娘も生まれ、お松にとって幸せの絶頂であったが、遊女の身の上が不幸が多いように、それも長続きはしない。
丈五郎が御前試合のもつれから剣道指南役の早川文左衛門に殺されてしまうのだ。
愛する夫を殺されたお松の悲しみ、悔しさはいかばかりか。仇討ちを誓い、夫の仲間である稲毛甚斎に助太刀を頼むべく京都を訪ねた。
ところが非道な稲毛。「……助太刀してやらんでもない。その代わり、一晩おれの相手をせい」と、舌なめずりしながらお松の身体を求めてきた。
お松はとっさに懐刀を抜いて抵抗した。「お呼びでないんだよ、このエロ親父!」もみ合っているうちに、懐刀が稲毛の胸にグサリ。
この殺害がきっかけで、お松の性格が毒婦のそれへと一変する。
美女盗賊・鬼神のお松伝説 石ヶ戸(いしけど) 2
仙台に戻ったお松は、早川文左衛門に色仕掛けで迫り、ともにに一ノ関への旅に出る。
そして衣川を渡る際、色っぽくねだって背負ってもらい、川の深間にさしかかったところを懐刀で早川を刺殺。
ついに本懐を遂げたわけである。
そのあと、一ノ関から金岳山に向かったところで、山賊・三島権右衛門の一派に襲われるものの、
ここでも権右衛門の隙を突いて盗賊を従え、権右衛門にかわり山賊の女頭目にまでなってしまう。
このときを境に『鬼神のお松』と呼ばれ、笠松峠を拠点として付近の村々を荒らし回り、
賊退治に向かってくる腕自慢の剣士たちを返り討ちにしていく。
ところが因果応報は巡る。天明3(1783)年、夫の仇の息子、早川文次郎という18歳の青年が現れ、金岳山での仇討ちに来た。
お松はあえなく首を落とされる。異説によれば、お松は抵抗せず、文次郎に父の仇を討たせてやったとも言われている。
……すでに青森・秋田には類似のお松伝説が転がっていることを述べた。実はお松を仕留めた加害者が違うケースがあるのだ。
お松はスリルに富んだこの生業に惚れ込んでおり、なかには生き血を吸う快感を味わっていたとの説さえある。
この石ヶ戸に伝わる話の場合、この石小屋を住処とし、旅人から金品を奪って暮らしていたお松の手口は、旅人が現れると先回りして行き倒れを装い、
介抱してくれた男の油断をついて刺殺するか、または旅人に背負ってもらい川を渡り、流れの中途にさしかかると、いきなり短刀を振りかざしたとされる。
この凄腕の毒牙にかかった男は48人。
ある日、49人目の犠牲者となるはずの仙台出身、夏目仙太という侍が通りかかる。お松の官能的な仕草の中に、ただならぬ殺気を感じた仙太は、
お松がそっと懐刀を取り出し、突き立てようとした瞬間、背負っていたお松を投げ飛ばし、一刀両断して成敗したとも伝えられている。
入瀬渓流と十和田湖 奥入瀬渓流
http://www.geocities.jp/busi_tabi/oirase.htm...
社団法人 十和田湖国立公園協会 十和田湖フィールドノート〜カンジルトワダコ〜 奥入瀬渓流探勝路ガイド
http://www.towadako.or.jp/archive/?c=kanko&id=1...
仮分数 アメーバビグ 3.実録 江戸事件簿③ ≪毒婦・鬼神のお松≫
http://ameblo.jp/yoshida1049/entry-11523520612....
NAVERまとめ 世界の毒婦集
http://matome.naver.jp/odai/212615369101189600...
仙台に戻ったお松は、早川文左衛門に色仕掛けで迫り、ともにに一ノ関への旅に出る。
そして衣川を渡る際、色っぽくねだって背負ってもらい、川の深間にさしかかったところを懐刀で早川を刺殺。
ついに本懐を遂げたわけである。
そのあと、一ノ関から金岳山に向かったところで、山賊・三島権右衛門の一派に襲われるものの、
ここでも権右衛門の隙を突いて盗賊を従え、権右衛門にかわり山賊の女頭目にまでなってしまう。
このときを境に『鬼神のお松』と呼ばれ、笠松峠を拠点として付近の村々を荒らし回り、
賊退治に向かってくる腕自慢の剣士たちを返り討ちにしていく。
ところが因果応報は巡る。天明3(1783)年、夫の仇の息子、早川文次郎という18歳の青年が現れ、金岳山での仇討ちに来た。
お松はあえなく首を落とされる。異説によれば、お松は抵抗せず、文次郎に父の仇を討たせてやったとも言われている。
……すでに青森・秋田には類似のお松伝説が転がっていることを述べた。実はお松を仕留めた加害者が違うケースがあるのだ。
お松はスリルに富んだこの生業に惚れ込んでおり、なかには生き血を吸う快感を味わっていたとの説さえある。
この石ヶ戸に伝わる話の場合、この石小屋を住処とし、旅人から金品を奪って暮らしていたお松の手口は、旅人が現れると先回りして行き倒れを装い、
介抱してくれた男の油断をついて刺殺するか、または旅人に背負ってもらい川を渡り、流れの中途にさしかかると、いきなり短刀を振りかざしたとされる。
この凄腕の毒牙にかかった男は48人。
ある日、49人目の犠牲者となるはずの仙台出身、夏目仙太という侍が通りかかる。お松の官能的な仕草の中に、ただならぬ殺気を感じた仙太は、
お松がそっと懐刀を取り出し、突き立てようとした瞬間、背負っていたお松を投げ飛ばし、一刀両断して成敗したとも伝えられている。
入瀬渓流と十和田湖 奥入瀬渓流
http://www.geocities.jp/busi_tabi/oirase.htm...
社団法人 十和田湖国立公園協会 十和田湖フィールドノート〜カンジルトワダコ〜 奥入瀬渓流探勝路ガイド
http://www.towadako.or.jp/archive/?c=kanko&id=1...
仮分数 アメーバビグ 3.実録 江戸事件簿③ ≪毒婦・鬼神のお松≫
http://ameblo.jp/yoshida1049/entry-11523520612....
NAVERまとめ 世界の毒婦集
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醜く変貌した蜂子皇子 白山島(はくざんじま)と由良海岸
山形県鶴岡市の沖合には、約3000万年前に玄武岩が噴出して形成された無人島が浮かんでいる。
由良海岸の砂浜から島までは、長さ約170mの歩道橋が架けられており、歩いて島まで渡ることができる。
島の形こそ違えど、海岸から伸びた橋の欄干は眼にも鮮やかな朱色で、福井県東尋坊の近くにある雄島とそっくりである(雄島に関しては
前スレ>>169を参照されたし)。
奇しくも別名は『御島(おしま)』だとか。因果なことに、雄島同様この白山島も自殺者の亡霊が出没するスポットとして有名らしい……。
ちなみに本土の由良海岸にはこんな伝説が残されている(てか島ネタじゃないんだが……)。
推古元(593)年、出羽三山の羽黒山・月山が開山され、推古13(605)年に湯殿山が開山された。
この山に霊力を感じ、修験山として開らいたのが、崇俊天皇の第三皇子・蜂子皇子(波知乃子王)。
蜂子皇子は、父である崇俊天皇が蘇我馬子の配下・東漢直駒(やまとのあやのあたいこま)に暗殺されたため、
馬子から逃れるべく丹後国由良(京都府宮津市由良)から船で北上した。
ここにたどり着いたとき、八乙女浦にある舞台岩と呼ばれる岩の上で、8人の乙女が笛を吹き、舞いながら蜂子皇子を迎え入れた。
上陸すると3本足の霊烏(ヤタガラス)に導かれ羽黒山へとたどり着いたとされている。
蜂子皇子は能除大使(民衆の悩み苦しみを取り除く高僧)や弘海などの名を持ち、羽黒山を開いたのちは、地元住民の面倒をよく見、
それらの苦しみを一身に背負ううちに、画像のような醜い顔になったと言われる。
ひーさんの散歩道 白山島/由良海岸
http://blog.goo.ne.jp/hi-sann_001/e/beae3b96e95c690f...
山形県由良温泉ホテル八乙女 出羽三山と八乙女伝説
http://www.yaotome.co.jp/legend...
あをべにブログ 心霊スポット探訪記 第十三話「白山島」
http://soukublog.blog113.fc2.com/blog-entry-601.htm...
山形県鶴岡市の沖合には、約3000万年前に玄武岩が噴出して形成された無人島が浮かんでいる。
由良海岸の砂浜から島までは、長さ約170mの歩道橋が架けられており、歩いて島まで渡ることができる。
島の形こそ違えど、海岸から伸びた橋の欄干は眼にも鮮やかな朱色で、福井県東尋坊の近くにある雄島とそっくりである(雄島に関しては
前スレ>>169を参照されたし)。
奇しくも別名は『御島(おしま)』だとか。因果なことに、雄島同様この白山島も自殺者の亡霊が出没するスポットとして有名らしい……。
ちなみに本土の由良海岸にはこんな伝説が残されている(てか島ネタじゃないんだが……)。
推古元(593)年、出羽三山の羽黒山・月山が開山され、推古13(605)年に湯殿山が開山された。
この山に霊力を感じ、修験山として開らいたのが、崇俊天皇の第三皇子・蜂子皇子(波知乃子王)。
蜂子皇子は、父である崇俊天皇が蘇我馬子の配下・東漢直駒(やまとのあやのあたいこま)に暗殺されたため、
馬子から逃れるべく丹後国由良(京都府宮津市由良)から船で北上した。
ここにたどり着いたとき、八乙女浦にある舞台岩と呼ばれる岩の上で、8人の乙女が笛を吹き、舞いながら蜂子皇子を迎え入れた。
上陸すると3本足の霊烏(ヤタガラス)に導かれ羽黒山へとたどり着いたとされている。
蜂子皇子は能除大使(民衆の悩み苦しみを取り除く高僧)や弘海などの名を持ち、羽黒山を開いたのちは、地元住民の面倒をよく見、
それらの苦しみを一身に背負ううちに、画像のような醜い顔になったと言われる。
ひーさんの散歩道 白山島/由良海岸
http://blog.goo.ne.jp/hi-sann_001/e/beae3b96e95c690f...
山形県由良温泉ホテル八乙女 出羽三山と八乙女伝説
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あをべにブログ 心霊スポット探訪記 第十三話「白山島」
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抜き身の刀がキラリと光って居所がバレた? 延元さま伝説 鵜来島(うぐるしま)
鵜来島は高知県宿毛市の沖合、南西23Kmにある有人島であり、足摺宇和海国立公園に指定されている。
島の最高点は標高252mの竜頭山。周囲は峻険たる断崖絶壁で取り囲まれているが、磯釣りのメッカとして知られている。
太平洋戦争時では軍事的に重要な位置にあったため、その竜頭山には砲台が置かれていた。現在もその名残をとどめている。
それとは別に、鵜来島には宇和島藩350石、高禄の侍の悲恋の伝説が残されている。地元では延元(えんげん)さま伝説と称されており、
今回はそれを紹介しよう。
元禄13年、伊予宇和島藩の若侍・栄玄(延元?)が、家老の娘・了因と恋に落ちた。しかし上下関係が絶対の武士の世界では、それは許されざる恋であった。
2人は手を取り合い、はるかな鵜来島を目指して駆け落ちした。当時、鵜来島は宇和島藩の所領地であり、漁業の基地として重要な役割をもっていた。
純朴な島民ばかりだから若い2人をかくまってくれるだろうと期待して頼んでみたものの、それに反し島民は受け入れてくれなかった。
一緒についてきた娘の乳母も頭をさげるが頑として譲らない。もし役人に露見すればお咎めは必至として、島民はかくまうわけにはいかなかったのだ。
乳母を含めた3人は森の中に身を隠し耐え忍んでいた。不憫がってか、食料を届けてくれる人がおり、なんとか飢えずに済んだ。
それから2、3日経ち、ついに藩の船が港に乗り込んできた。3人の行方を追って、侍たちは島じゅう捜索を開始。
しかしそれも徒労に終わる。茂った木々や起伏に富んだ磯が作り出す死角が若侍たちを救ったにちがいない。
追っ手はあきらめ、他の島を探すことに決め船に乗り、まさに港の鼻を曲がろうとしたとき、対岸の水場で仕事をしていた女が「あっ!」と叫んだ。
若侍が松の木にのぼって船が去っていくのを確認していたのが仇となってしまう。
腰につけていた刀が陽光を反射してキラリと輝き(鞘におさめていればそれはないはずなのに、抜き身のままさげていたのか?)、
それを女が目ざとく見つけたのだ。女は叫んだ。「見つけた! 隠れている侍はあの松の木の上だよ!」
船が取って返し、追っ手が島へなだれ込んでくる。なんとか逃げおおせたと思った安堵から瞬時に絶望に叩き落された若侍。
松の木からおりると、近くの岩場で身を隠していた娘と乳母に言った。
「かたじけぬ、私の失策で彼らが戻ってきた。もはや私たちの命運、進退窮まった。この上においては潔く自害し、いっそあの世で伴侶となろう」
「あなたに従います……」と、娘。「では私もともにお仕えしましょうぞ!」と、乳母もうなずいた。
「許せ了因、せめて苦しまずに殺してやる」若侍は2人の胸を一突きして即死させ、自身も腹をかき切って果てた。
そのまま見逃してやればよかったものを、なまじ密告してしまった女は金一封受けるどころか、家ではあまりにも災難が続いたので、
すわ若侍たちの祟りではないかと恐れ、彼らが死んだ場所に祠を建て『延元さん』として祀り、その魂を供養した。
その子孫は現在まで毎年の祭りを欠かさないという。その祠は港を望む小高い丘に今も佇んでいる。
slow life blueview - sukumo okinoshima island PART.3 宿毛市沖の島の生活
http://www.k5.dion.ne.jp/‾blueview/life4.html
My Fortnight's Dairy 明日より、鵜来島へダイビングに行ってきます
http://geocities.yahoo.co.jp/gl/st4974/comment/20090423/124...
おさるの日本刀豆知識 刀の取り扱いと作法
http://www7b.biglobe.ne.jp/‾osaru/sahou.htm
鵜来島は高知県宿毛市の沖合、南西23Kmにある有人島であり、足摺宇和海国立公園に指定されている。
島の最高点は標高252mの竜頭山。周囲は峻険たる断崖絶壁で取り囲まれているが、磯釣りのメッカとして知られている。
太平洋戦争時では軍事的に重要な位置にあったため、その竜頭山には砲台が置かれていた。現在もその名残をとどめている。
それとは別に、鵜来島には宇和島藩350石、高禄の侍の悲恋の伝説が残されている。地元では延元(えんげん)さま伝説と称されており、
今回はそれを紹介しよう。
元禄13年、伊予宇和島藩の若侍・栄玄(延元?)が、家老の娘・了因と恋に落ちた。しかし上下関係が絶対の武士の世界では、それは許されざる恋であった。
2人は手を取り合い、はるかな鵜来島を目指して駆け落ちした。当時、鵜来島は宇和島藩の所領地であり、漁業の基地として重要な役割をもっていた。
純朴な島民ばかりだから若い2人をかくまってくれるだろうと期待して頼んでみたものの、それに反し島民は受け入れてくれなかった。
一緒についてきた娘の乳母も頭をさげるが頑として譲らない。もし役人に露見すればお咎めは必至として、島民はかくまうわけにはいかなかったのだ。
乳母を含めた3人は森の中に身を隠し耐え忍んでいた。不憫がってか、食料を届けてくれる人がおり、なんとか飢えずに済んだ。
それから2、3日経ち、ついに藩の船が港に乗り込んできた。3人の行方を追って、侍たちは島じゅう捜索を開始。
しかしそれも徒労に終わる。茂った木々や起伏に富んだ磯が作り出す死角が若侍たちを救ったにちがいない。
追っ手はあきらめ、他の島を探すことに決め船に乗り、まさに港の鼻を曲がろうとしたとき、対岸の水場で仕事をしていた女が「あっ!」と叫んだ。
若侍が松の木にのぼって船が去っていくのを確認していたのが仇となってしまう。
腰につけていた刀が陽光を反射してキラリと輝き(鞘におさめていればそれはないはずなのに、抜き身のままさげていたのか?)、
それを女が目ざとく見つけたのだ。女は叫んだ。「見つけた! 隠れている侍はあの松の木の上だよ!」
船が取って返し、追っ手が島へなだれ込んでくる。なんとか逃げおおせたと思った安堵から瞬時に絶望に叩き落された若侍。
松の木からおりると、近くの岩場で身を隠していた娘と乳母に言った。
「かたじけぬ、私の失策で彼らが戻ってきた。もはや私たちの命運、進退窮まった。この上においては潔く自害し、いっそあの世で伴侶となろう」
「あなたに従います……」と、娘。「では私もともにお仕えしましょうぞ!」と、乳母もうなずいた。
「許せ了因、せめて苦しまずに殺してやる」若侍は2人の胸を一突きして即死させ、自身も腹をかき切って果てた。
そのまま見逃してやればよかったものを、なまじ密告してしまった女は金一封受けるどころか、家ではあまりにも災難が続いたので、
すわ若侍たちの祟りではないかと恐れ、彼らが死んだ場所に祠を建て『延元さん』として祀り、その魂を供養した。
その子孫は現在まで毎年の祭りを欠かさないという。その祠は港を望む小高い丘に今も佇んでいる。
slow life blueview - sukumo okinoshima island PART.3 宿毛市沖の島の生活
http://www.k5.dion.ne.jp/‾blueview/life4.html
My Fortnight's Dairy 明日より、鵜来島へダイビングに行ってきます
http://geocities.yahoo.co.jp/gl/st4974/comment/20090423/124...
おさるの日本刀豆知識 刀の取り扱いと作法
http://www7b.biglobe.ne.jp/‾osaru/sahou.htm
無足明神『ムスッドン』を祀った島 知林ヶ島(ちりんがしま) 1
鹿児島県指宿市の西の沖合に、知林ヶ島なる奇妙な島名の無人島がある。
名前の由来は、島には松が繁茂しており、夜間、付近を航行する船乗りが、風に吹かれてクロマツ林が揺れる音をたよりに航海したことから、
こう呼ばれるようになったのだとか。チリン、チリンと音が鳴ったので知林ヶ島だそうだ。もっとも現在はソテツやビロウの方が多く占めているが。
知林ヶ島はふだん、鹿児島湾にぽつんと浮かんでいるだけだが、干潮時の数時間だけ、長さ約800mの砂の架け橋ともいうべき砂州が現れ、
対岸の指宿市の突端である田良岬から歩いて渡ることができる。その光景はさながらモーセの十戒のごとし。
勤勉なる読者諸兄なら気づかれよう。前スレからたびたび取り上げたトンボロ現象である。
知林ヶ島は戦前、指宿市にある尾掛(おかけ)集落の住人たちが所有する島だった。
住人は島を開墾して農地を作り、島の見張りと管理のため一家族を常駐させ、これを島守としていた。
その後、昭和38(1963)年〜42(1967)年にかけて森村グループの一部である森村産業が、森村学園の林間研修に使う名目で土地を買収し、全島の土地を所有。
これを契機に昭和52(1977)年以降、知林ヶ島は無人となる。
しかし、知林ヶ島を含む鹿児島湾一帯は国立公園に指定されていたため、地形の変更や大規模な建築等の許可が下りない。
森村学園の研修施設建設計画は難航し、放置されることになる。八方塞がりとなった森村産業は、地元の指宿市に対して買収を求め、
平成20(2008)年に3億4千万円で市に売却。それから現在まで指宿市が島を所有する形になったわけだ。
指宿市は砂州が『架け橋』や『絆』を想起させることから、『縁結びの島』としてPRし、今では夫婦やカップル、婚活女子、
家族連れなどに人気の観光スポットとなっている。
……正直、そんなことはどうだっていいだろう。今回、当スレに取り上げた理由は、島に鎮座する神社と謎の石塚に触れたいがためである。
島内には尾掛の住人が開墾に入る遥か以前から神社と石塚があり、何かを祀っていたらしい。ビロウやソテツの中に神道の社があるのはなんとも不思議な眺めである。
神社の祭神は尾掛から勧請された天照大神であろうと推測されている。
問題は石塚である。これは『蛇塚』もしくは『蛇神様の塚』と呼ばれ、かつて『無足明神(むそくみょうじん)』なる神を祀っていたという。
島の看板にはこう紹介されている。
「知林ヶ島は潮風の影響で霜が降りないことから、『宝の島』として戦前から芋や麦などの作物が植えられた。
終戦後、島を開発する際に、たくさんの蛇を殺したため、鼠が大量発生してしまった。結果、多くの作物が食べられ、農家は困り果てた。
そのため約250年前(※元島守である人物が言うところによると、360年前とも)からあった石塚に、蛇を殺した供養として蛇を祀ったところ、
鼠が減って作物が育つようになったといわれている。」
鹿児島県指宿市の西の沖合に、知林ヶ島なる奇妙な島名の無人島がある。
名前の由来は、島には松が繁茂しており、夜間、付近を航行する船乗りが、風に吹かれてクロマツ林が揺れる音をたよりに航海したことから、
こう呼ばれるようになったのだとか。チリン、チリンと音が鳴ったので知林ヶ島だそうだ。もっとも現在はソテツやビロウの方が多く占めているが。
知林ヶ島はふだん、鹿児島湾にぽつんと浮かんでいるだけだが、干潮時の数時間だけ、長さ約800mの砂の架け橋ともいうべき砂州が現れ、
対岸の指宿市の突端である田良岬から歩いて渡ることができる。その光景はさながらモーセの十戒のごとし。
勤勉なる読者諸兄なら気づかれよう。前スレからたびたび取り上げたトンボロ現象である。
知林ヶ島は戦前、指宿市にある尾掛(おかけ)集落の住人たちが所有する島だった。
住人は島を開墾して農地を作り、島の見張りと管理のため一家族を常駐させ、これを島守としていた。
その後、昭和38(1963)年〜42(1967)年にかけて森村グループの一部である森村産業が、森村学園の林間研修に使う名目で土地を買収し、全島の土地を所有。
これを契機に昭和52(1977)年以降、知林ヶ島は無人となる。
しかし、知林ヶ島を含む鹿児島湾一帯は国立公園に指定されていたため、地形の変更や大規模な建築等の許可が下りない。
森村学園の研修施設建設計画は難航し、放置されることになる。八方塞がりとなった森村産業は、地元の指宿市に対して買収を求め、
平成20(2008)年に3億4千万円で市に売却。それから現在まで指宿市が島を所有する形になったわけだ。
指宿市は砂州が『架け橋』や『絆』を想起させることから、『縁結びの島』としてPRし、今では夫婦やカップル、婚活女子、
家族連れなどに人気の観光スポットとなっている。
……正直、そんなことはどうだっていいだろう。今回、当スレに取り上げた理由は、島に鎮座する神社と謎の石塚に触れたいがためである。
島内には尾掛の住人が開墾に入る遥か以前から神社と石塚があり、何かを祀っていたらしい。ビロウやソテツの中に神道の社があるのはなんとも不思議な眺めである。
神社の祭神は尾掛から勧請された天照大神であろうと推測されている。
問題は石塚である。これは『蛇塚』もしくは『蛇神様の塚』と呼ばれ、かつて『無足明神(むそくみょうじん)』なる神を祀っていたという。
島の看板にはこう紹介されている。
「知林ヶ島は潮風の影響で霜が降りないことから、『宝の島』として戦前から芋や麦などの作物が植えられた。
終戦後、島を開発する際に、たくさんの蛇を殺したため、鼠が大量発生してしまった。結果、多くの作物が食べられ、農家は困り果てた。
そのため約250年前(※元島守である人物が言うところによると、360年前とも)からあった石塚に、蛇を殺した供養として蛇を祀ったところ、
鼠が減って作物が育つようになったといわれている。」
無足明神『ムスッドン』を祀った島 知林ヶ島(ちりんがしま) 2
実はこれにはさらなる因縁めいたオドロオドロしい話が隠されていた。細かく書いてみよう。
尾掛の人間が開墾する際、あまりにも蛇が多くて難儀した。とりわけ2mクラスのアオダイショウがゴロゴロおり、片っ端から殺した末、作物を植えた。
昭和14(1939)年、尾掛では大火災が発生。それは集落全体に及ぶ大惨事であり、その後、昭和33(1958)年にも同様の火災に見舞われたことから、
これを異常事態だと住人たちは騒いだ。
このとき、尾掛の住人の1人である石坂ケサなる祈祷師の老女がこう言った。「……まさしく、ムスッドンの祟りじゃ」
そして島を開墾する住人たちに忠告した。「おまえたち、知林ヶ島の蛇を殺したな。これはムスッドンの災いに他ならないぞ。
殺した蛇を供養せねば、この祟りはおさまりがつくまい」
そこで石坂ケサは島へ渡り、無足明神を祀っていた石塚に『南無大悲見』と彫った戒名石をおさめ供養した。
塚の正面には直径10cmの丸い穴が開いており、内側ががらんどうになっているのだ。実際、現在も中を覗くと戒名が彫られた石がちゃんと入っている。
それにしても、このいかがわしい……もとい、不思議な託宣を告げた石坂ケサの言う『ムスッドン』及び『無足明神』とはいかなるモノであろう?
江戸時代後期に薩摩藩が編纂した文書『三国名勝図会』によると、やはり尾掛には天照大神を祀る社があり、そのすぐ隣には『無足明神』と
崇める神木と祠があったと記されているのだ。
この無足明神こそ別名『ムスッドン(無足殿)』と呼ばれ、大昔、海の彼方からやってきたとされる文字通り足のない者だという。
ムスッドンは尾掛の山に登り、毎年、娘を1人ずつ食っていった。そして神木に7回りして巻きついたため、集落の人々が祠を作って祀ったいう言い伝えがある。
また旧暦10月15日の秋祭りの日、尾掛では足のない者に扮した1人がいざり進む『無足の舞い』という神楽を行っていた。
この舞い手たちは渚から山を巡り神木の前に行って舞い、笹竹で神木をくくり、縄をかけたという。恐らく『ムスッドン』とは蛇神信仰であろう。
しかしながら明治から昭和への激動の変遷とともに人々から信仰心が薄れ、尾掛で祀られていた神木は朽ちてしまい、秋祭りの『無足の舞い』さえ廃れてしまった。
そもそもムスッドンはどこからやってきたのであろうか?
蛇神とはすなわち水神であり、稲の収穫後、日を選んで稲作に必要な水を森からいただいていたことへの感謝の祭りを行ってきた。
そのとき来年の春まで山止めする意味の7巻きであろうと言われる。また蛇神は川や田の溝の象徴であり、鹿児島県長島や熊本県球磨郡地域では、
秋に集落ごとに祭りを行い、山の入り口の木を縄で7巻きするそうだ。
あるいはこうも考えられるという。……もしかしたら、知林ヶ島と田良岬の間に現れる砂州こそがムスッドンに見立てられたのではあるまいか。
干潮時、海から突如現れる細長い砂の道は、古代人にとって大蛇の化身のように映ったのではないか。
ムスッドンが毎年、集落の娘を人身御供のように食らった伝承は海難事故を暗喩した線が強いという。
田良岬と知林ヶ島を結ぶ海域は、一見すると浅瀬で穏やかな海だが、実は潮の流れは速く、泳ぐなど論外。
昔、砂州で海産物を拾っていた娘たちが、いつの間にか潮に満ちてきたことに気づかず、波にさらわれたこともあっただろう。
それを尾掛集落では「ムスッドンに食われた」と考え、畏怖したのではなかろうか。
鹿児島観光 あじこじ九州 知林ヶ島(鹿児島県指宿市)
http://www.ajkj.jp/ajkj/kagoshima/ibusuki/kanko/c...
鴨着く島 知林ヶ島に渡る(指宿市)
http://kamodoku.cocolog-nifty.com/blog/2013/08/post-4d39.htm...
まつりの俳優・隼人(※2007年 10月号 纏向の俳優、隼人の「やまと」の項目に『無足の舞い』に関することが載っている)
http://www4.synapse.ne.jp/yatusiro/newpage4.htm...
実はこれにはさらなる因縁めいたオドロオドロしい話が隠されていた。細かく書いてみよう。
尾掛の人間が開墾する際、あまりにも蛇が多くて難儀した。とりわけ2mクラスのアオダイショウがゴロゴロおり、片っ端から殺した末、作物を植えた。
昭和14(1939)年、尾掛では大火災が発生。それは集落全体に及ぶ大惨事であり、その後、昭和33(1958)年にも同様の火災に見舞われたことから、
これを異常事態だと住人たちは騒いだ。
このとき、尾掛の住人の1人である石坂ケサなる祈祷師の老女がこう言った。「……まさしく、ムスッドンの祟りじゃ」
そして島を開墾する住人たちに忠告した。「おまえたち、知林ヶ島の蛇を殺したな。これはムスッドンの災いに他ならないぞ。
殺した蛇を供養せねば、この祟りはおさまりがつくまい」
そこで石坂ケサは島へ渡り、無足明神を祀っていた石塚に『南無大悲見』と彫った戒名石をおさめ供養した。
塚の正面には直径10cmの丸い穴が開いており、内側ががらんどうになっているのだ。実際、現在も中を覗くと戒名が彫られた石がちゃんと入っている。
それにしても、このいかがわしい……もとい、不思議な託宣を告げた石坂ケサの言う『ムスッドン』及び『無足明神』とはいかなるモノであろう?
江戸時代後期に薩摩藩が編纂した文書『三国名勝図会』によると、やはり尾掛には天照大神を祀る社があり、そのすぐ隣には『無足明神』と
崇める神木と祠があったと記されているのだ。
この無足明神こそ別名『ムスッドン(無足殿)』と呼ばれ、大昔、海の彼方からやってきたとされる文字通り足のない者だという。
ムスッドンは尾掛の山に登り、毎年、娘を1人ずつ食っていった。そして神木に7回りして巻きついたため、集落の人々が祠を作って祀ったいう言い伝えがある。
また旧暦10月15日の秋祭りの日、尾掛では足のない者に扮した1人がいざり進む『無足の舞い』という神楽を行っていた。
この舞い手たちは渚から山を巡り神木の前に行って舞い、笹竹で神木をくくり、縄をかけたという。恐らく『ムスッドン』とは蛇神信仰であろう。
しかしながら明治から昭和への激動の変遷とともに人々から信仰心が薄れ、尾掛で祀られていた神木は朽ちてしまい、秋祭りの『無足の舞い』さえ廃れてしまった。
そもそもムスッドンはどこからやってきたのであろうか?
蛇神とはすなわち水神であり、稲の収穫後、日を選んで稲作に必要な水を森からいただいていたことへの感謝の祭りを行ってきた。
そのとき来年の春まで山止めする意味の7巻きであろうと言われる。また蛇神は川や田の溝の象徴であり、鹿児島県長島や熊本県球磨郡地域では、
秋に集落ごとに祭りを行い、山の入り口の木を縄で7巻きするそうだ。
あるいはこうも考えられるという。……もしかしたら、知林ヶ島と田良岬の間に現れる砂州こそがムスッドンに見立てられたのではあるまいか。
干潮時、海から突如現れる細長い砂の道は、古代人にとって大蛇の化身のように映ったのではないか。
ムスッドンが毎年、集落の娘を人身御供のように食らった伝承は海難事故を暗喩した線が強いという。
田良岬と知林ヶ島を結ぶ海域は、一見すると浅瀬で穏やかな海だが、実は潮の流れは速く、泳ぐなど論外。
昔、砂州で海産物を拾っていた娘たちが、いつの間にか潮に満ちてきたことに気づかず、波にさらわれたこともあっただろう。
それを尾掛集落では「ムスッドンに食われた」と考え、畏怖したのではなかろうか。
鹿児島観光 あじこじ九州 知林ヶ島(鹿児島県指宿市)
http://www.ajkj.jp/ajkj/kagoshima/ibusuki/kanko/c...
鴨着く島 知林ヶ島に渡る(指宿市)
http://kamodoku.cocolog-nifty.com/blog/2013/08/post-4d39.htm...
まつりの俳優・隼人(※2007年 10月号 纏向の俳優、隼人の「やまと」の項目に『無足の舞い』に関することが載っている)
http://www4.synapse.ne.jp/yatusiro/newpage4.htm...
ネイビーブルーに恋をして 横須賀軍港めぐりツアー〜「日本で一番危険な島」
http://blog.goo.ne.jp/raffaell0/e/7dae3f9de7f642721f...
EOD JAPAN is SUPER INDUSTRIAL 樹樹に覆われし吾妻島神社
http://blogs.yahoo.co.jp/guardianvein/13736211.htm...
http://blog.goo.ne.jp/raffaell0/e/7dae3f9de7f642721f...
EOD JAPAN is SUPER INDUSTRIAL 樹樹に覆われし吾妻島神社
http://blogs.yahoo.co.jp/guardianvein/13736211.htm...
嘆かわしき廃棄物処分場の島 上黒島
呉市の沖合、約5km先には嘆きの島・上黒島が浮かんでいる。
島のそばには対で寄り添うかのように下黒島があり、両島は戦前まで、合わせて20世帯ほどが暮らす有人島だったものの、
戦後ほどなくして無人島になる。
しばらくの後、渡島する人が現れ、昭和30年の国勢調査では人口43にまで増えるもそれも束の間にすぎず、またぞろ人口流出し、
昭和51年、ついに無人化してしまう。
近年では地元土木会社が島を買い取り、採石場として利用。島はもとの原型をとどめぬほど掘削された。
その後、上黒島のほとんどの土地を廃棄物処理業者が取得し、平成元年には産業廃棄物最終処分場、平成3年には一般廃棄物焼却灰処分場が建設される。
運び込まれる廃棄物の大部分は関東のものだという。皮肉なことに採石場の跡地にある穴に廃棄物を埋めているのが現状だ。
悲しいかな、下黒島も同じ運命を辿っている。
四国新聞社 連鎖の崩壊 第4部 ミクロの逆襲 11
https://www.shikoku-np.co.jp/feature/rensa/4/11...
下蒲刈島の海 地域文化の継承
http://www10.plala.or.jp/mirai-wo-sinjite/umi/umi.htm...
風のように雲のように 削られ、そして詰め込まれ。。。〜呉市・上黒島
http://blogs.yahoo.co.jp/ymgysh/36366245.htm...
呉市の沖合、約5km先には嘆きの島・上黒島が浮かんでいる。
島のそばには対で寄り添うかのように下黒島があり、両島は戦前まで、合わせて20世帯ほどが暮らす有人島だったものの、
戦後ほどなくして無人島になる。
しばらくの後、渡島する人が現れ、昭和30年の国勢調査では人口43にまで増えるもそれも束の間にすぎず、またぞろ人口流出し、
昭和51年、ついに無人化してしまう。
近年では地元土木会社が島を買い取り、採石場として利用。島はもとの原型をとどめぬほど掘削された。
その後、上黒島のほとんどの土地を廃棄物処理業者が取得し、平成元年には産業廃棄物最終処分場、平成3年には一般廃棄物焼却灰処分場が建設される。
運び込まれる廃棄物の大部分は関東のものだという。皮肉なことに採石場の跡地にある穴に廃棄物を埋めているのが現状だ。
悲しいかな、下黒島も同じ運命を辿っている。
四国新聞社 連鎖の崩壊 第4部 ミクロの逆襲 11
https://www.shikoku-np.co.jp/feature/rensa/4/11...
下蒲刈島の海 地域文化の継承
http://www10.plala.or.jp/mirai-wo-sinjite/umi/umi.htm...
風のように雲のように 削られ、そして詰め込まれ。。。〜呉市・上黒島
http://blogs.yahoo.co.jp/ymgysh/36366245.htm...
古座川の神霊宿りしご神体の島 清暑島(せいしょとう)
>>20で『川中島』の代表格である熊野川の御船島を紹介した。
実は御船島よりも上流には昼嶋、骨島、反対に下流には亀島という島が点在しており、島マニアの心をくすぐるのだ。
仕事の都合でたまに熊野川を行き来するので、業務そっちのけでデジカメにてバシバシ撮りまくっている僕はいけない子です。
これら3島は次のレスでURLを貼っておくので、そちらで調べられるとよい。『怖い』という範疇から外れてはいるが、
いずれもちょっとした歴史が残されており、注目に値すると思う。
……それとは別に、お隣、和歌山県の古座川にも同様の島があるのを発見した。
古座川は二級河川ながら、大塔山系に源を発し、古座川町、古座町を流れ、熊野灘に注ぎ込んでいる延長60余kmの日本屈指の清流。
険しい山間を蛇行して流れる水は透明度が高く、流域には奇岩奇峰が無数にある。
なかでも虫喰岩・牡丹岩・飯盛岩・一枚岩・天柱岩など、自然が織り成す造型美と奇景ぶりに感嘆せずにはいられない。
件の島は東牟婁郡古座川町に属し、古座川河口から3kmほど遡ったところにある。
それが清暑島である。これまたおいしいことに、島全体がご神体とされ、古座川の神霊の宿るところとして尊ばれているのだ。
清暑島は河内(こうち)さま、もしくは河内神社とも呼ばれ、川の中に島があること自体めずらしいのに、川中の神社はさらになかなかお目にかかるまい。
神社といっても社殿はなく、鳥居も川岸にあり、拝所から島を拝むわけだ。祭神は素戔男尊(スサノオノミコト)。
また、毎年7月24、25日には古座川河口から清暑島にかけての川筋で河内祭が行われることで知られている。
一説によると、源平合戦で源氏方として参戦した熊野水軍が凱旋し、戦勝を河内神社で祝ったときの様子を再現する祭りとされている。
古座川河口で汲み上げた『潮』をご神体と一緒に、24日の午後、3艘の御船で古座川を、河内大明神の祀られている清暑島へと遡っていく。
その日は『潮』を供え、御船と一部の若者は河原で一晩明かす。
翌25日は、河口から昇ってきた櫂伝馬船や川船が合流し、神事が始まる。地元中学生の『櫂伝馬船』下古座、中古座、上古座の3地区を代表する3艘で、
神事、獅子舞の奉納のあと、島の周りを競争。 ホラ貝の音、こぎ手による木遣りのような舟歌のなか、御船が島の周りを回り始めると、
河原では厳かな神事が始まる。
神事が終わると、各地区から集まった者たちが、それぞれの天幕(座)に集まり、各地区の獅子舞が奉納されるのだ。
幟を立てて飾った御船は雅やかで美しく、人々の目を惹きつける。そんな河内祭は国の重要無形民俗文化財に指定されている。
島がご神体……当スレでいくつものソレを取り上げてきたが、この川中島は可愛くて萌え萌えである。
み熊野ねっと 河内島(河内神社)
http://www.mikumano.net/meguri/seishoto.htm...
オーラ立つ聖地を求めて 〜パワースポット・磐座・巨石信仰めぐり〜 清暑島・水に浮かぶ聖地(河内神社)
http://blogs.yahoo.co.jp/doctor3044/14904110.htm...
AGARA紀伊民報 ゆっくり、神の島へ 古座川で河内祭の水上渡御
http://www.agara.co.jp/modules/dailynews/article.php?...
和歌山県ふるさとアーカイブ 鯛島(たいじま)と清暑島(せいしょとう)
http://wave.pref.wakayama.lg.jp/bunka-archive/minwa/43.htm...
>>20で『川中島』の代表格である熊野川の御船島を紹介した。
実は御船島よりも上流には昼嶋、骨島、反対に下流には亀島という島が点在しており、島マニアの心をくすぐるのだ。
仕事の都合でたまに熊野川を行き来するので、業務そっちのけでデジカメにてバシバシ撮りまくっている僕はいけない子です。
これら3島は次のレスでURLを貼っておくので、そちらで調べられるとよい。『怖い』という範疇から外れてはいるが、
いずれもちょっとした歴史が残されており、注目に値すると思う。
……それとは別に、お隣、和歌山県の古座川にも同様の島があるのを発見した。
古座川は二級河川ながら、大塔山系に源を発し、古座川町、古座町を流れ、熊野灘に注ぎ込んでいる延長60余kmの日本屈指の清流。
険しい山間を蛇行して流れる水は透明度が高く、流域には奇岩奇峰が無数にある。
なかでも虫喰岩・牡丹岩・飯盛岩・一枚岩・天柱岩など、自然が織り成す造型美と奇景ぶりに感嘆せずにはいられない。
件の島は東牟婁郡古座川町に属し、古座川河口から3kmほど遡ったところにある。
それが清暑島である。これまたおいしいことに、島全体がご神体とされ、古座川の神霊の宿るところとして尊ばれているのだ。
清暑島は河内(こうち)さま、もしくは河内神社とも呼ばれ、川の中に島があること自体めずらしいのに、川中の神社はさらになかなかお目にかかるまい。
神社といっても社殿はなく、鳥居も川岸にあり、拝所から島を拝むわけだ。祭神は素戔男尊(スサノオノミコト)。
また、毎年7月24、25日には古座川河口から清暑島にかけての川筋で河内祭が行われることで知られている。
一説によると、源平合戦で源氏方として参戦した熊野水軍が凱旋し、戦勝を河内神社で祝ったときの様子を再現する祭りとされている。
古座川河口で汲み上げた『潮』をご神体と一緒に、24日の午後、3艘の御船で古座川を、河内大明神の祀られている清暑島へと遡っていく。
その日は『潮』を供え、御船と一部の若者は河原で一晩明かす。
翌25日は、河口から昇ってきた櫂伝馬船や川船が合流し、神事が始まる。地元中学生の『櫂伝馬船』下古座、中古座、上古座の3地区を代表する3艘で、
神事、獅子舞の奉納のあと、島の周りを競争。 ホラ貝の音、こぎ手による木遣りのような舟歌のなか、御船が島の周りを回り始めると、
河原では厳かな神事が始まる。
神事が終わると、各地区から集まった者たちが、それぞれの天幕(座)に集まり、各地区の獅子舞が奉納されるのだ。
幟を立てて飾った御船は雅やかで美しく、人々の目を惹きつける。そんな河内祭は国の重要無形民俗文化財に指定されている。
島がご神体……当スレでいくつものソレを取り上げてきたが、この川中島は可愛くて萌え萌えである。
み熊野ねっと 河内島(河内神社)
http://www.mikumano.net/meguri/seishoto.htm...
オーラ立つ聖地を求めて 〜パワースポット・磐座・巨石信仰めぐり〜 清暑島・水に浮かぶ聖地(河内神社)
http://blogs.yahoo.co.jp/doctor3044/14904110.htm...
AGARA紀伊民報 ゆっくり、神の島へ 古座川で河内祭の水上渡御
http://www.agara.co.jp/modules/dailynews/article.php?...
和歌山県ふるさとアーカイブ 鯛島(たいじま)と清暑島(せいしょとう)
http://wave.pref.wakayama.lg.jp/bunka-archive/minwa/43.htm...
熊野川の川中島 亀島・骨島・昼嶋など
熊野古道 伊勢路 川丈街道(川端街道)コース
http://www.kumadoco.net/kodo/course/23/photo_05.htm...
幸徳秋水(こうとく・しゅうすい)らの熊野川での船遊び(亀島)
http://www.urikomail.jp/modan-spot/shusui.htm...
熊野本宮・湯の峰温泉旅行 クチコミガイド 2009年11月熊野古道中辺路その3(川湯温泉−熊野川川下り−新宮)
http://4travel.jp/travelogue/1083975...
み熊野ねっと 熊野の観光名所 熊野権現が昼食をとった島(昼嶋)
http://www.mikumano.net/meguri/hirujima.htm...
和歌山の観光ポータルサイトTIC WAKAYAMA 熊野川 川舟下り 【串本・勝浦・新宮】
http://www.ticwakayama.jp/detail/index_30.htm...
※画像は、こないだ車窓から撮った昼嶋。ゴツゴツした岩で形成された、無骨な、まっこと男らしい島である。
いつか川下りのツアーに参加し、島に上陸して、島のてっぺんでランチをとりたい。
熊野古道 伊勢路 川丈街道(川端街道)コース
http://www.kumadoco.net/kodo/course/23/photo_05.htm...
幸徳秋水(こうとく・しゅうすい)らの熊野川での船遊び(亀島)
http://www.urikomail.jp/modan-spot/shusui.htm...
熊野本宮・湯の峰温泉旅行 クチコミガイド 2009年11月熊野古道中辺路その3(川湯温泉−熊野川川下り−新宮)
http://4travel.jp/travelogue/1083975...
み熊野ねっと 熊野の観光名所 熊野権現が昼食をとった島(昼嶋)
http://www.mikumano.net/meguri/hirujima.htm...
和歌山の観光ポータルサイトTIC WAKAYAMA 熊野川 川舟下り 【串本・勝浦・新宮】
http://www.ticwakayama.jp/detail/index_30.htm...
※画像は、こないだ車窓から撮った昼嶋。ゴツゴツした岩で形成された、無骨な、まっこと男らしい島である。
いつか川下りのツアーに参加し、島に上陸して、島のてっぺんでランチをとりたい。
米軍の射爆撃場地・傷だらけの島 鳥島(久米鳥島)
沖縄県島尻郡久米島町に属し、久米島の北約2kmに位置する無人島、鳥島。別名、久米鳥島(くめとりしま)。
島全体が米軍の演習地『鳥島射爆撃場』となっており、空対地射爆撃訓練が行われている。
水域は使用期間中、上陸はおろか、漁業及び近づくことさえ許されない。
平成7年12月から平成8年1月にかけて3回にわたり、米海兵隊のハリアー機が訓練中、計1520発の劣化ウランを含有する徹甲焼夷弾を
誤って使用していたことが明らかにされている。
長年、米軍の爆撃にさらされ、島の形が変わるどころか、削り取られて小さくなってしまい、いずれ水没してしまうのではと懸念されている。
沖縄県は島が消滅する前に早急な返還を求めているが、米側はそれに応じない姿勢を示し続けているのが現状だ。
知られざるヒバクシャ 劣化ウラン弾 被曝深刻
http://www.hiroshimapeacemedia.jp/abom/uran/okinawa/index2.htm...
管内 在日アメリカ合衆国軍海上訓練区域一覧表
http://www1.kaiho.mlit.go.jp/KAN11/anzen/Us97/US97.htm...
沖縄県島尻郡久米島町に属し、久米島の北約2kmに位置する無人島、鳥島。別名、久米鳥島(くめとりしま)。
島全体が米軍の演習地『鳥島射爆撃場』となっており、空対地射爆撃訓練が行われている。
水域は使用期間中、上陸はおろか、漁業及び近づくことさえ許されない。
平成7年12月から平成8年1月にかけて3回にわたり、米海兵隊のハリアー機が訓練中、計1520発の劣化ウランを含有する徹甲焼夷弾を
誤って使用していたことが明らかにされている。
長年、米軍の爆撃にさらされ、島の形が変わるどころか、削り取られて小さくなってしまい、いずれ水没してしまうのではと懸念されている。
沖縄県は島が消滅する前に早急な返還を求めているが、米側はそれに応じない姿勢を示し続けているのが現状だ。
知られざるヒバクシャ 劣化ウラン弾 被曝深刻
http://www.hiroshimapeacemedia.jp/abom/uran/okinawa/index2.htm...
管内 在日アメリカ合衆国軍海上訓練区域一覧表
http://www1.kaiho.mlit.go.jp/KAN11/anzen/Us97/US97.htm...
源氏の落ち武者7人が切り拓いた琵琶湖の島 沖島
前スレから琵琶湖の島をいくつか紹介してきたが、沖島こそ琵琶湖内を代表する島と言えよう。
驚くべきことに日本唯一の淡水湖上の有人島で、人口約330人(2013年調査)を擁する。
そもそも、なぜ広大な琵琶湖とはいえ、島に人が住む歴史が始まったのか? 内地の方が何かと利便性に優れているだろうに……。
その実、沖島は万葉集に詩が散見されることから始め、大正時代に赤碕沖付近で漁を行っていた船からシジミに混じり縄文土器や
和同開珎が発見されたことから、太古より沖島付近に人々の往来があったと言われている。
和銅年間(708〜715年)に近江の国守であった藤原不比等(藤原鎌足の子)が奥津島神社を建立。
奈良時代には、称徳天皇への反逆の罪で追われた恵美押勝(藤原仲麻呂)が一族らと沖島に一時期住んだと伝えられている。
紫式部がこんな歌を詠んでいる。「おいつしま 守りの神やいますらん 波もさわがぬわらわえの浦」
これからわかるように、昔は『神の島』と崇められた島であった。
さらに本格的に人が住むようになったのは、保元・平治の乱(1156〜1159)による源氏の落武者7人が山裾を切り開き、
漁業を生業とし居住したことに始まると伝えられ、一行(南源吾秀元、小川光成、西居清観入道、北兵部、久田源之丞、中村磐徳、茶谷重右衛門)が
現在における島民の祖先とされている。
また沖島は戦略的見地から重要なポジションにあり、数々の歴史書から垣間見られる。
南北朝時代には戦いに敗れた南朝軍の一部が越前—新田義貞との連絡網を確保。食料と軍備をたて直すために頭山一帯に城を構えたとされ(蒲生郡史)、
室町時代では、当時勢力を伸ばしつつあった堅田(大津市)の湖賊が比叡山延暦寺の攻撃によって町が焼き払われたため、
およそ2年間、沖島にて避難生活をしたとの記録がある(堅田本福寺・明誓跡書)。
また、8代将軍足利義政は湯谷ヶ谷(番所山)において、島民に湖上を航行する船の監視・取締りを命じたとされ、
戦国時代には、織田信長が浅井長政に対して行った『手筒山の戦い』や『小谷城攻め』の際に、島民に船を差し出すよう命を出し、
これらの戦での活躍により、信長から感謝状と琵琶湖一里四方を禁漁区とする特権を付与されている。
文禄の役(1592)でも朝鮮出兵に従軍し(管浦観音寺文書)、関ヶ原合戦後の徳川家康による石田三成への『佐和山城責め』においても水軍として
活躍(沖島共有文書)。
以後も時の権力者から、航路の警備、輸送等の重要な任務を務める見返りとして、漁業権の特権は認められ続けた。
徳川時代にも慣用専用漁場として認められ、堅田の漁師との8年にも及ぶ論争においても京都町奉行で沖島側主張が受け入れられ、
明治8年には滋賀県知事より永代借用権として認められたが、最終的には戦後の漁業法改正により消滅した。
沖島漁業協同組合 ようこそ 沖島へ
http://www.biwako-okishima.com/
沖島について
http://www.city.omihachiman.shiga.jp/‾okisyo/okisimanituite.htm
2chコピペ情報局 【衝撃】 関西人ですら知らない !? 琵琶湖に人が住む離島が存在していた !!!!!
http://news.2chblog.jp/archives/51759087.htm...
前スレから琵琶湖の島をいくつか紹介してきたが、沖島こそ琵琶湖内を代表する島と言えよう。
驚くべきことに日本唯一の淡水湖上の有人島で、人口約330人(2013年調査)を擁する。
そもそも、なぜ広大な琵琶湖とはいえ、島に人が住む歴史が始まったのか? 内地の方が何かと利便性に優れているだろうに……。
その実、沖島は万葉集に詩が散見されることから始め、大正時代に赤碕沖付近で漁を行っていた船からシジミに混じり縄文土器や
和同開珎が発見されたことから、太古より沖島付近に人々の往来があったと言われている。
和銅年間(708〜715年)に近江の国守であった藤原不比等(藤原鎌足の子)が奥津島神社を建立。
奈良時代には、称徳天皇への反逆の罪で追われた恵美押勝(藤原仲麻呂)が一族らと沖島に一時期住んだと伝えられている。
紫式部がこんな歌を詠んでいる。「おいつしま 守りの神やいますらん 波もさわがぬわらわえの浦」
これからわかるように、昔は『神の島』と崇められた島であった。
さらに本格的に人が住むようになったのは、保元・平治の乱(1156〜1159)による源氏の落武者7人が山裾を切り開き、
漁業を生業とし居住したことに始まると伝えられ、一行(南源吾秀元、小川光成、西居清観入道、北兵部、久田源之丞、中村磐徳、茶谷重右衛門)が
現在における島民の祖先とされている。
また沖島は戦略的見地から重要なポジションにあり、数々の歴史書から垣間見られる。
南北朝時代には戦いに敗れた南朝軍の一部が越前—新田義貞との連絡網を確保。食料と軍備をたて直すために頭山一帯に城を構えたとされ(蒲生郡史)、
室町時代では、当時勢力を伸ばしつつあった堅田(大津市)の湖賊が比叡山延暦寺の攻撃によって町が焼き払われたため、
およそ2年間、沖島にて避難生活をしたとの記録がある(堅田本福寺・明誓跡書)。
また、8代将軍足利義政は湯谷ヶ谷(番所山)において、島民に湖上を航行する船の監視・取締りを命じたとされ、
戦国時代には、織田信長が浅井長政に対して行った『手筒山の戦い』や『小谷城攻め』の際に、島民に船を差し出すよう命を出し、
これらの戦での活躍により、信長から感謝状と琵琶湖一里四方を禁漁区とする特権を付与されている。
文禄の役(1592)でも朝鮮出兵に従軍し(管浦観音寺文書)、関ヶ原合戦後の徳川家康による石田三成への『佐和山城責め』においても水軍として
活躍(沖島共有文書)。
以後も時の権力者から、航路の警備、輸送等の重要な任務を務める見返りとして、漁業権の特権は認められ続けた。
徳川時代にも慣用専用漁場として認められ、堅田の漁師との8年にも及ぶ論争においても京都町奉行で沖島側主張が受け入れられ、
明治8年には滋賀県知事より永代借用権として認められたが、最終的には戦後の漁業法改正により消滅した。
沖島漁業協同組合 ようこそ 沖島へ
http://www.biwako-okishima.com/
沖島について
http://www.city.omihachiman.shiga.jp/‾okisyo/okisimanituite.htm
2chコピペ情報局 【衝撃】 関西人ですら知らない !? 琵琶湖に人が住む離島が存在していた !!!!!
http://news.2chblog.jp/archives/51759087.htm...
欠損した神の島 石鏡島(いじかじま)
三重県志摩半島の東沖1kmにも、古来より『神の島』として人々から崇められた無人島がある。
かつては島の中央に大きな空洞があり、その穴を通して日の出が拝めるようになっていた。
海上に朝日が昇るとき、空洞内を満たした海水が鏡面のように眩く輝いたことから『石鏡』という名が冠された。
もっとも伊勢湾台風や船の座礁などによって、今では洞窟は見る影もなく、単なる岩礁へと変わり果ててしまっている。
それでも元旦の朝は浜に出て、海上の初日の出を拝む風習は続けられている。
石鏡島
http://www.ijika.com/ijikasima.ht...
三重県志摩半島の東沖1kmにも、古来より『神の島』として人々から崇められた無人島がある。
かつては島の中央に大きな空洞があり、その穴を通して日の出が拝めるようになっていた。
海上に朝日が昇るとき、空洞内を満たした海水が鏡面のように眩く輝いたことから『石鏡』という名が冠された。
もっとも伊勢湾台風や船の座礁などによって、今では洞窟は見る影もなく、単なる岩礁へと変わり果ててしまっている。
それでも元旦の朝は浜に出て、海上の初日の出を拝む風習は続けられている。
石鏡島
http://www.ijika.com/ijikasima.ht...
雨乞いの龍神伝説 八幡浜大島(やはたはまおおしま)
愛媛県八幡浜市に属する大島、三王島、地大島の3島がつながっており、全体を八幡浜大島と呼ぶ。
島には約400人が暮らしている。
全島が神域とされ、島(ことに大島)には、龍神・龍王を祀った神社があり、こんな龍神伝説が残されている。
昔のことである。千丈鳴滝のそばには、若くて身分の高い男が住んいた。名を胎宝院といった。
ある日、彼が滝の近くで1人の美姫と出会う。あまりの美しさに心を奪われ、毎日滝の姫に会いにいった。
姫は瀬織津姫(せおりつひめ)と名乗り、ほどなく2人は結ばれ、幸せな毎日をすごしていた。やがて姫は身ごもった。
姫が臨月にさしかかったときであった。胎宝院にこんな約束をさせるのだ。
「じき子供が生まれましょうが、どうか私たちのいる部屋には入らないでいただきたいのです」
「何を申すのだ。生まれた我が子に会えぬだと?」
「訳は言えません。とにかく部屋に入ってくださるな。これだけはかたく誓ってください」
部屋の向こうから、ついに赤ん坊が生まれたという知らせを胎宝院は聞いたのに、いくら待っても姫は姿を見せない。
泣き声すら漏れてこないので、痺れを切らせた胎宝院はある夜、こっそり部屋を覗くことにした。そして目を瞠った。
そこには姫の姿はなく、1匹の大きな紅い蛇がとぐろを巻く形でタライを抱え、中にいる数十匹の蛇の子と戯れていたのだ。
驚くべきことに姫は鳴滝の精霊であり、蛇の化身だったのである。正体が露見した姫はもはやここにとどまるわけにはいかなくなった。
翌朝、蛇は胎宝院に別れを告げ、滝に帰っていった。胎宝院と離れ離れになった姫の悲しみはいかばかりか。
このまま嘆き続けても埒が明かない。胎宝院への想いを断ち切るため、鳴滝から去ることにした。
滝壺には雌渕(めんぶち)という蛇の抜け穴があり、郷川へと続いていたのである。
郷川に出た蛇は千丈川を下り、さらに北茅、南茅の川の下流へ進み、五反田川を上がったあと、川沿いにある保安寺の庭の池でしばらくの間
住み着いた。
成長するにしたがい、寺の池が狭く感じるようになった。ある日、和尚が蛇にこう諭した。
「おまえは蛇ではなく、龍神の子であるな。ならばおまえにふさわしい安住の地を紹介してやろう」と、大島の大入池を示した。
保安寺の池を去り、千丈川を下って海に出た蛇は、浅瀬の海岸をたどって、大島の反対側にある『池の浦』に到着し、
しばらくそこに落ち着いた。しだいに蛇の体表の縞模様は鱗へと変わり、小龍神に成長した。
そして海を渡り、大島の大入池に入り込むことができたのだった。やがて龍神は修行を積み重ねて神通力を得るようになった。
その力を使い、雲を呼んで雨を降らすことのできる飛龍……八大龍王の1つ娑伽羅龍王と昇級したのだ。
龍神は保安寺の池で大入池を教えてもらったお礼にと、保安寺の和尚には一代のうち、三度までは大島の大入池まで雨乞いに参籠すれば、
どんな日照り続きの夏でも雨を授けることを告げ、『雨乞いの寺』『龍神の棲んだ寺』として古くから人々に知られ、
藩政時代、宇和島藩からの雨乞いの礼状や記録が現在でも寺に保存されているという。
千時千一夜 龍神と瀬織津姫神【Ⅰ】──宇和海・大島の龍神伝説
http://blogs.yahoo.co.jp/tohnofurindo/27589340.htm...
千時千一夜 龍神と瀬織津姫神【Ⅱ】──八幡浜・鳴滝の龍神伝説
http://blogs.yahoo.co.jp/tohnofurindo/27620977.htm...
月の抒情、瀧の激情 宇和海の守護神・鳴滝神──八幡浜・大島の龍神伝説
http://teamtamayura.blog87.fc2.com/blog-entry-6.htm...
龍学 竜神のわたり
http://www.hunterslog.net/dragonology/ryujatan/shikoku/i...
愛媛県八幡浜市に属する大島、三王島、地大島の3島がつながっており、全体を八幡浜大島と呼ぶ。
島には約400人が暮らしている。
全島が神域とされ、島(ことに大島)には、龍神・龍王を祀った神社があり、こんな龍神伝説が残されている。
昔のことである。千丈鳴滝のそばには、若くて身分の高い男が住んいた。名を胎宝院といった。
ある日、彼が滝の近くで1人の美姫と出会う。あまりの美しさに心を奪われ、毎日滝の姫に会いにいった。
姫は瀬織津姫(せおりつひめ)と名乗り、ほどなく2人は結ばれ、幸せな毎日をすごしていた。やがて姫は身ごもった。
姫が臨月にさしかかったときであった。胎宝院にこんな約束をさせるのだ。
「じき子供が生まれましょうが、どうか私たちのいる部屋には入らないでいただきたいのです」
「何を申すのだ。生まれた我が子に会えぬだと?」
「訳は言えません。とにかく部屋に入ってくださるな。これだけはかたく誓ってください」
部屋の向こうから、ついに赤ん坊が生まれたという知らせを胎宝院は聞いたのに、いくら待っても姫は姿を見せない。
泣き声すら漏れてこないので、痺れを切らせた胎宝院はある夜、こっそり部屋を覗くことにした。そして目を瞠った。
そこには姫の姿はなく、1匹の大きな紅い蛇がとぐろを巻く形でタライを抱え、中にいる数十匹の蛇の子と戯れていたのだ。
驚くべきことに姫は鳴滝の精霊であり、蛇の化身だったのである。正体が露見した姫はもはやここにとどまるわけにはいかなくなった。
翌朝、蛇は胎宝院に別れを告げ、滝に帰っていった。胎宝院と離れ離れになった姫の悲しみはいかばかりか。
このまま嘆き続けても埒が明かない。胎宝院への想いを断ち切るため、鳴滝から去ることにした。
滝壺には雌渕(めんぶち)という蛇の抜け穴があり、郷川へと続いていたのである。
郷川に出た蛇は千丈川を下り、さらに北茅、南茅の川の下流へ進み、五反田川を上がったあと、川沿いにある保安寺の庭の池でしばらくの間
住み着いた。
成長するにしたがい、寺の池が狭く感じるようになった。ある日、和尚が蛇にこう諭した。
「おまえは蛇ではなく、龍神の子であるな。ならばおまえにふさわしい安住の地を紹介してやろう」と、大島の大入池を示した。
保安寺の池を去り、千丈川を下って海に出た蛇は、浅瀬の海岸をたどって、大島の反対側にある『池の浦』に到着し、
しばらくそこに落ち着いた。しだいに蛇の体表の縞模様は鱗へと変わり、小龍神に成長した。
そして海を渡り、大島の大入池に入り込むことができたのだった。やがて龍神は修行を積み重ねて神通力を得るようになった。
その力を使い、雲を呼んで雨を降らすことのできる飛龍……八大龍王の1つ娑伽羅龍王と昇級したのだ。
龍神は保安寺の池で大入池を教えてもらったお礼にと、保安寺の和尚には一代のうち、三度までは大島の大入池まで雨乞いに参籠すれば、
どんな日照り続きの夏でも雨を授けることを告げ、『雨乞いの寺』『龍神の棲んだ寺』として古くから人々に知られ、
藩政時代、宇和島藩からの雨乞いの礼状や記録が現在でも寺に保存されているという。
千時千一夜 龍神と瀬織津姫神【Ⅰ】──宇和海・大島の龍神伝説
http://blogs.yahoo.co.jp/tohnofurindo/27589340.htm...
千時千一夜 龍神と瀬織津姫神【Ⅱ】──八幡浜・鳴滝の龍神伝説
http://blogs.yahoo.co.jp/tohnofurindo/27620977.htm...
月の抒情、瀧の激情 宇和海の守護神・鳴滝神──八幡浜・大島の龍神伝説
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龍学 竜神のわたり
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なぜ特定の島では犬を飼ってはいけないのか?
すでに前スレで田代島や篠島、当スレ>>28では長崎の青島のように、『犬を飼ってはいけない島』を取り上げてきた。
沖縄の『神の島』たる久高島でさえ、以前はダメだったらしい。古来より犬は日本人にとって従順な友であり、また頼れる番犬として重宝された。
にもかかわらず、それを飼ってはならないタブーがあるとは、ずいぶん厳しい縛りがあるものだと前から気になっていた。
いったいこれはどういうことなのだろうか?
簡単に復習しておきたい。
宮城県の田代島の場合(前スレ>>87を参照されたし)、島の大半の住民が漁師を生業としており、天候を察知してくれる猫は重宝がるため、
天敵である犬を飼わないようしたとか、あるいは『化け猫騒動』以降、化け猫の機嫌を損なわないよう、タブーにしたとも言われている。
同じく愛知の篠島のソレは(前スレ>>289を参照)、海神である『八王子様』が、犬というより畜生全般を嫌うのではないかと思い、タブーとしたとある。
>>28の長崎の青島では、昔の干拓事業の際、難工事を成功させるため犬柱を立て神様に祈願した歴史があることから、以来、犬は神の眷属として尊ばれ、
飼うのは御法度とされたと伝えられている。
また佐賀県の加唐島も猫だらけの島として知られている。犬は島の鎮守である八坂神社の神様の怒りに触れ、島に住めなくなったという言い伝えがある。
もっとも興味を惹くのは久高島の件である。久高の場合はいかなる理由か?
久高に限らず、琉球地方では風葬による葬制が行われていた。風葬とは特定の洞窟や山林、あるいは亀甲墓などに遺体を安置し、
そのまま風化するのを待つやり方である。
この葬制法だと周辺に野良犬がいると、遠方からでも嗅ぎつけ、遺体を食い荒らしてしまうのは明白。たとえ土中に埋葬されていたとしても、
犬なら掘り返してしまう。私的な体験だが、昔家で飼っていた兎が死んで裏山に埋葬したが、10日と経たないうちに掘り返されていた。
兎の遺骸がズタズタにされていたのは痛ましかった。同時に犬の嗅覚に恐れ入ったものだ。
……したがって風葬が行われている離島では、犬を飼うことは避けた習慣があったと思われる。沖縄や奄美ではかつて風葬が一般的で、
すべての離島が犬を飼うのを禁止しそうだが、とりわけ久高は神聖さに突出していたのでタブー化が目立ったのかもしれない。
もっともその久高も1960年代には風葬をやめた。以降、犬を飼う人も増えてきたようだ。
何もこれは離島に限定した話だけではない。
奈良県吉野町国栖地区にある窪垣内という約70世帯が暮らす小集落でも、古くから犬を飼ってはいけない決まりがあるらしい。
そのタブーはおよそ1300年前から守られており、犬を飼うと災いがあると言い伝えられてきたという。
地元の談によればこうだ。
西暦672年に起きた日本古代最大の内乱・壬申の乱。これは大海大皇子と大友皇子が皇位継承をめぐった争いだった。
この地に逃れてきた大海大皇子を、渡し舟の老人が機転を利かし、舟をひっくり返してその内側に大海大皇子をかくまった。
舟の上に食べ物を載せておき、偽装を図った。
そこへ大友皇子の追っ手とカグハナとミルメという2匹の犬を連れてかけつけた。犬はすぐさま舟の中に人の気配を察し、吠え立てた。
老人はそばに転がっていた石をつかむと、「食べ物に吠える卑しい畜生め!」と大義名分をかかげ、打ち殺してしまった。
大海大皇子の窮地を救ったということで、のちに飛鳥浄見原に構えた際、印を持って国栖の者が感謝の意を捧げにきたという。
こんな事件があってからというもの、窪垣内では犬を飼うと災いが起きると言い伝えられた。集落の神社には狛犬すら建てられていない。
……いずれにせよ各地には、いろんな歴史と理由から犬を飼ってはならないという話がありおもしろい。
すでに前スレで田代島や篠島、当スレ>>28では長崎の青島のように、『犬を飼ってはいけない島』を取り上げてきた。
沖縄の『神の島』たる久高島でさえ、以前はダメだったらしい。古来より犬は日本人にとって従順な友であり、また頼れる番犬として重宝された。
にもかかわらず、それを飼ってはならないタブーがあるとは、ずいぶん厳しい縛りがあるものだと前から気になっていた。
いったいこれはどういうことなのだろうか?
簡単に復習しておきたい。
宮城県の田代島の場合(前スレ>>87を参照されたし)、島の大半の住民が漁師を生業としており、天候を察知してくれる猫は重宝がるため、
天敵である犬を飼わないようしたとか、あるいは『化け猫騒動』以降、化け猫の機嫌を損なわないよう、タブーにしたとも言われている。
同じく愛知の篠島のソレは(前スレ>>289を参照)、海神である『八王子様』が、犬というより畜生全般を嫌うのではないかと思い、タブーとしたとある。
>>28の長崎の青島では、昔の干拓事業の際、難工事を成功させるため犬柱を立て神様に祈願した歴史があることから、以来、犬は神の眷属として尊ばれ、
飼うのは御法度とされたと伝えられている。
また佐賀県の加唐島も猫だらけの島として知られている。犬は島の鎮守である八坂神社の神様の怒りに触れ、島に住めなくなったという言い伝えがある。
もっとも興味を惹くのは久高島の件である。久高の場合はいかなる理由か?
久高に限らず、琉球地方では風葬による葬制が行われていた。風葬とは特定の洞窟や山林、あるいは亀甲墓などに遺体を安置し、
そのまま風化するのを待つやり方である。
この葬制法だと周辺に野良犬がいると、遠方からでも嗅ぎつけ、遺体を食い荒らしてしまうのは明白。たとえ土中に埋葬されていたとしても、
犬なら掘り返してしまう。私的な体験だが、昔家で飼っていた兎が死んで裏山に埋葬したが、10日と経たないうちに掘り返されていた。
兎の遺骸がズタズタにされていたのは痛ましかった。同時に犬の嗅覚に恐れ入ったものだ。
……したがって風葬が行われている離島では、犬を飼うことは避けた習慣があったと思われる。沖縄や奄美ではかつて風葬が一般的で、
すべての離島が犬を飼うのを禁止しそうだが、とりわけ久高は神聖さに突出していたのでタブー化が目立ったのかもしれない。
もっともその久高も1960年代には風葬をやめた。以降、犬を飼う人も増えてきたようだ。
何もこれは離島に限定した話だけではない。
奈良県吉野町国栖地区にある窪垣内という約70世帯が暮らす小集落でも、古くから犬を飼ってはいけない決まりがあるらしい。
そのタブーはおよそ1300年前から守られており、犬を飼うと災いがあると言い伝えられてきたという。
地元の談によればこうだ。
西暦672年に起きた日本古代最大の内乱・壬申の乱。これは大海大皇子と大友皇子が皇位継承をめぐった争いだった。
この地に逃れてきた大海大皇子を、渡し舟の老人が機転を利かし、舟をひっくり返してその内側に大海大皇子をかくまった。
舟の上に食べ物を載せておき、偽装を図った。
そこへ大友皇子の追っ手とカグハナとミルメという2匹の犬を連れてかけつけた。犬はすぐさま舟の中に人の気配を察し、吠え立てた。
老人はそばに転がっていた石をつかむと、「食べ物に吠える卑しい畜生め!」と大義名分をかかげ、打ち殺してしまった。
大海大皇子の窮地を救ったということで、のちに飛鳥浄見原に構えた際、印を持って国栖の者が感謝の意を捧げにきたという。
こんな事件があってからというもの、窪垣内では犬を飼うと災いが起きると言い伝えられた。集落の神社には狛犬すら建てられていない。
……いずれにせよ各地には、いろんな歴史と理由から犬を飼ってはならないという話がありおもしろい。
加唐島の自然
http://www.surpz.net/‾shige-happy1228/island-shizen.htm
風葬wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A2%A8%E8%91%A...
洗骨wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B4%97%E9%AA%A...
飛耳長目 国際紛争の心理 (九州沖縄スペシャル 与論島の洗骨儀礼 とうとがなしばあちゃん与論島 死者を弔う洗骨儀礼
http://blogs.yahoo.co.jp/nakamushyh/32394070.htm...
fuyuさんの日記 久高島の風葬
http://kayama.cocolog-nifty.com/fuyu/2008/03/post_2fda.htm...
[PDF]女が男を守る島 —オナリ神信仰と久高島—
http://repository.seikei.ac.jp/dspace/bitstream/10928/197/1/a...
養和の飢饉
http://www.ne.jp/asahi/kibono/sumika/kibo/note/...
ブログ版 ティラキタ駱駝通信 死体が野ざらしに!? インドネシアの風葬の村
http://blog.tirakita.com/2011/10/%E6%AD%BB%E4%BD%93%E3%...
気楽にバイクライフ こころ旅トレース2013〜奈良県編〜130727
http://nmtr220.blog66.fc2.com/blog-entry-278.htm...
狼神話 吉野・犬塚(いぬづか)
http://www.raifuku.net/special/wolf/map/area/kinki/sh...
世界遺産の吉水神社から「ニコニコ顔で、命がけ!」 吉野には一匹も犬を飼わない村があるのです。
http://blogs.yahoo.co.jp/yoshimizushrine/53432375.htm...
http://www.surpz.net/‾shige-happy1228/island-shizen.htm
風葬wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A2%A8%E8%91%A...
洗骨wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B4%97%E9%AA%A...
飛耳長目 国際紛争の心理 (九州沖縄スペシャル 与論島の洗骨儀礼 とうとがなしばあちゃん与論島 死者を弔う洗骨儀礼
http://blogs.yahoo.co.jp/nakamushyh/32394070.htm...
fuyuさんの日記 久高島の風葬
http://kayama.cocolog-nifty.com/fuyu/2008/03/post_2fda.htm...
[PDF]女が男を守る島 —オナリ神信仰と久高島—
http://repository.seikei.ac.jp/dspace/bitstream/10928/197/1/a...
養和の飢饉
http://www.ne.jp/asahi/kibono/sumika/kibo/note/...
ブログ版 ティラキタ駱駝通信 死体が野ざらしに!? インドネシアの風葬の村
http://blog.tirakita.com/2011/10/%E6%AD%BB%E4%BD%93%E3%...
気楽にバイクライフ こころ旅トレース2013〜奈良県編〜130727
http://nmtr220.blog66.fc2.com/blog-entry-278.htm...
狼神話 吉野・犬塚(いぬづか)
http://www.raifuku.net/special/wolf/map/area/kinki/sh...
世界遺産の吉水神社から「ニコニコ顔で、命がけ!」 吉野には一匹も犬を飼わない村があるのです。
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海賊どもを成敗しに、いざ鬼ヶ島に乗り込まん! 女木島(めぎじま) 1
4月現在、小栗旬扮するハードボイルドタッチな桃太郎のペプシのCMがひそかな話題を呼んでいるので、
それにまつわる島を紹介しよう。
どうせ前スレ>>334で浦島太郎にちなんだレスもしたことだし、いずれ桃太郎に関する島の話をせねばなるまいと
思っていたところだった。
映画板でも専用スレッドが立っているが、僕も徹底的にシブいノリで映画化して欲しいと願う1人だったりする。
原作のもつイメージをブッ壊して、パワーみなぎるエンターテイメントにアレンジするのもアリだと思う。
それはそうと、言うまでもなく桃太郎は『昔話』にカテゴライズされる(もしくは童話か)。
ちなみに『昔話』は誰が決めたか、『桃太郎』『猿蟹合戦』『舌切り雀』『花咲か爺』『浦島太郎』を、俗に5大昔話と呼んでいる。
なかでも桃太郎は定番中のド定番。それに勧善懲悪モノは日本人に受け容れやすい。これは儒教的な精神が絡んでいる。
子は親に、女は男に忠を尽くすことが大切で、その努力の結果として「善ヲ勧メ悪ヲ懲ラシム」ということにつながっていくのだ。
その桃太郎にはモデルがあったのをご存知だろうか?
いくつか諸説があるが、まずは岡山県岡山市にある吉備津神社。そこに祀られている吉備津彦命(きびつひこのみこと)こそ、その1人だという。
吉備津彦命は第7代の天皇・孝霊(こうれい)天皇の子であり、弥生時代後半から古墳時代前半の間に実在し、岡山の吉備地方を支配していた。
そもそも岡山は桃の産地としても有名で、物語中、キーアイテムとして扱われるキビ団子の原料、キビの名産地でもあった。
この地方で採れるキビは良質で、人々は昔から団子にしたり酒に加工していた。それにキビ=吉備という発音の共通性も見られ、
以上のことから、桃太郎は岡山県出身である説が有力なのだと推す学者も多い。その鬼退治の元となった物語が吉備津彦命による『温羅伝説』である。
その昔、異国から流れてきた鬼が吉備国に住み着いた。鬼とは名ばかりで、温羅(ウラ)と呼ばれ、もとは百済の王子だったという。
温羅は赤髪の巨漢の持ち主で、人相・性格はきわめて凶暴なり。現在の吉備津神社から西北へ10kmのところの片岡山に築いた『鬼の城』を拠点に、
暴虐の限りを尽くして人々を絶望の淵に立たせていた。
それを征伐すべく、朝廷から派遣されたのが吉備津彦命であった。
吉備津彦命には3人の精鋭の部下がいた。それが犬飼健(いぬかいたける)、楽々森彦(ささもりひこ)、留玉臣(とめたまおみ)である。
現在の吉備津神社近くにある『吉備の中山』に陣を張った吉備津彦命は、温羅とその軍勢との死闘の末、からくも勝利をもぎ取った。
吉備津彦命は降伏した温羅の首を刎ねたにもかかわらず、首は不気味にも吠え続け、地中深く埋めてもやまなかった。
そこで首の上に御釜殿を建築し祀るとなんとか静まり、釜を鳴らして吉凶を占う霊となったという。
これが吉備津彦神社の始まりであり、鳴釜神事(なるかましんじ)の由来でもある。
鳴釜神事とは、釜の上にセイロを置いて中に米を入れ、蓋を乗せた状態で釜を焚いたときに鳴る音の強弱・長短で吉凶を占う行事。
この伝説より吉備津彦命は本来土着の神だったが、神話や系譜を整える際に天皇家の系譜に組み込まれたものとする説がある。
また、部下であった犬飼健を犬、楽々森彦を猿、留玉臣を雉と見立て、この温羅伝説が桃太郎の物語に昇華したといわれ、
岡山県では自県を『桃太郎発祥の地』として宣伝している。
ちなみに、吉備津彦命の部下の1人、犬飼健は犬養氏の始祖で、5・15事件で暗殺された犬養毅首相の祖先であるとされている。
さらに温羅は吉備津彦命以前に吉備国を支配していた旧勢力であり、製鉄技術を供与していた渡来人乃至は地来の豪族であり、
旧勢力に義理立てするために吉備津彦命(つまりヤマト王権)と戦った、と言う見方がある。これが鬼の正体だった。
4月現在、小栗旬扮するハードボイルドタッチな桃太郎のペプシのCMがひそかな話題を呼んでいるので、
それにまつわる島を紹介しよう。
どうせ前スレ>>334で浦島太郎にちなんだレスもしたことだし、いずれ桃太郎に関する島の話をせねばなるまいと
思っていたところだった。
映画板でも専用スレッドが立っているが、僕も徹底的にシブいノリで映画化して欲しいと願う1人だったりする。
原作のもつイメージをブッ壊して、パワーみなぎるエンターテイメントにアレンジするのもアリだと思う。
それはそうと、言うまでもなく桃太郎は『昔話』にカテゴライズされる(もしくは童話か)。
ちなみに『昔話』は誰が決めたか、『桃太郎』『猿蟹合戦』『舌切り雀』『花咲か爺』『浦島太郎』を、俗に5大昔話と呼んでいる。
なかでも桃太郎は定番中のド定番。それに勧善懲悪モノは日本人に受け容れやすい。これは儒教的な精神が絡んでいる。
子は親に、女は男に忠を尽くすことが大切で、その努力の結果として「善ヲ勧メ悪ヲ懲ラシム」ということにつながっていくのだ。
その桃太郎にはモデルがあったのをご存知だろうか?
いくつか諸説があるが、まずは岡山県岡山市にある吉備津神社。そこに祀られている吉備津彦命(きびつひこのみこと)こそ、その1人だという。
吉備津彦命は第7代の天皇・孝霊(こうれい)天皇の子であり、弥生時代後半から古墳時代前半の間に実在し、岡山の吉備地方を支配していた。
そもそも岡山は桃の産地としても有名で、物語中、キーアイテムとして扱われるキビ団子の原料、キビの名産地でもあった。
この地方で採れるキビは良質で、人々は昔から団子にしたり酒に加工していた。それにキビ=吉備という発音の共通性も見られ、
以上のことから、桃太郎は岡山県出身である説が有力なのだと推す学者も多い。その鬼退治の元となった物語が吉備津彦命による『温羅伝説』である。
その昔、異国から流れてきた鬼が吉備国に住み着いた。鬼とは名ばかりで、温羅(ウラ)と呼ばれ、もとは百済の王子だったという。
温羅は赤髪の巨漢の持ち主で、人相・性格はきわめて凶暴なり。現在の吉備津神社から西北へ10kmのところの片岡山に築いた『鬼の城』を拠点に、
暴虐の限りを尽くして人々を絶望の淵に立たせていた。
それを征伐すべく、朝廷から派遣されたのが吉備津彦命であった。
吉備津彦命には3人の精鋭の部下がいた。それが犬飼健(いぬかいたける)、楽々森彦(ささもりひこ)、留玉臣(とめたまおみ)である。
現在の吉備津神社近くにある『吉備の中山』に陣を張った吉備津彦命は、温羅とその軍勢との死闘の末、からくも勝利をもぎ取った。
吉備津彦命は降伏した温羅の首を刎ねたにもかかわらず、首は不気味にも吠え続け、地中深く埋めてもやまなかった。
そこで首の上に御釜殿を建築し祀るとなんとか静まり、釜を鳴らして吉凶を占う霊となったという。
これが吉備津彦神社の始まりであり、鳴釜神事(なるかましんじ)の由来でもある。
鳴釜神事とは、釜の上にセイロを置いて中に米を入れ、蓋を乗せた状態で釜を焚いたときに鳴る音の強弱・長短で吉凶を占う行事。
この伝説より吉備津彦命は本来土着の神だったが、神話や系譜を整える際に天皇家の系譜に組み込まれたものとする説がある。
また、部下であった犬飼健を犬、楽々森彦を猿、留玉臣を雉と見立て、この温羅伝説が桃太郎の物語に昇華したといわれ、
岡山県では自県を『桃太郎発祥の地』として宣伝している。
ちなみに、吉備津彦命の部下の1人、犬飼健は犬養氏の始祖で、5・15事件で暗殺された犬養毅首相の祖先であるとされている。
さらに温羅は吉備津彦命以前に吉備国を支配していた旧勢力であり、製鉄技術を供与していた渡来人乃至は地来の豪族であり、
旧勢力に義理立てするために吉備津彦命(つまりヤマト王権)と戦った、と言う見方がある。これが鬼の正体だった。
海賊どもを成敗しに、いざ鬼ヶ島に乗り込まん! 女木島(めぎじま) 2
ところが桃太郎はこの岡山版だけではない。
瀬戸内海を挟んで、対岸の香川県にも異なるモデルが存在するのだ。
香川の桃太郎は、まさに吉備津彦命の弟・稚武彦命(わかたけひこのみこと)である。
ここでの鬼は、瀬戸内海を股にかける海賊を指す。
そう言えば前者、岡山版桃太郎には、片岡山に築いた城であって肝心の鬼ヶ島のモデルが言及されていなかったが、
香川版ではちゃんと存在する。
瀬戸内海の直島諸島に含まれる女木島は、高松港から北沖合へ約4kmのところにある有人島。この女木島こそ、
桃太郎が攻め入った鬼ヶ島そのものだという。
島名の由来には諸説の1つとして、源平合戦で那須与一が射落とした扇の一部が流れ着いたことから『メギ』という名が冠されたとされている。
この地方の方言で、『壊れる』ことを『めげる』ということからだそうだ。
香川版桃太郎である稚武彦命による鬼退治の話の概要はざっとこんな感じである。
讃岐国一帯の不穏な情勢を鎮めるため朝廷から派遣されてきた稚武彦命。船に乗って、まずは河口から本津川を遡っていた。
その途中、川で洗濯をしていた老女と出会う。老女は稚武彦命を夫に紹介し会話した。聞けば、子宝に恵まれなかった老夫婦は、
いたく稚武彦命を気に入り、養子になってくれと懇願する。稚武彦命は快諾した。老夫婦の家を拠点に行動しても支障はあるまいと思ったのだろう。
当時、この讃岐国に住む住民は、女木島を根城にする海賊の被害に遭っていた。
事情を聞かされた稚武彦命はさっそく身支度を整え、女木島へ海賊討伐に向かうことにした。
その前に、敵戦力と数を鑑みたら、いささか心もとない。まずは備前の犬島(岡山・前スレ>>208を参照されたし)、
陶の猿王(香川・綾南町)、雉ヶ谷(香川・鬼無町)に住む3勇士を仲間に加えた。いずれも戦闘に長けた男たちであった。
これで準備は整った。いざ女木島へ!
島に上陸した4人のパーティは、海賊がひそむダンジョンの奥に攻め込み、壮絶な死闘の末、みごと海賊たちを討ち倒した。
洞窟内部には海賊たちが村人から略奪した宝物が山と積まれており、一行はそれらを回収して讃岐に帰還したのだった。
後日、海賊の残党どもが讃岐国の村(現在の高松市北西部)までお礼参りにやってきた。
しかしまたしても稚武彦命たちに返り討ちにされる。今度ばかりは1人残さず全滅させた。その屍を埋めたのが高松市鬼無町に残る『鬼ヶ塚』だという。
それ以来、讃岐国には海賊がいなくなり、平和を取り戻すことができた。また鬼と最後に戦ったこの村を『鬼無』と呼ぶようになった。
鬼無にある熊野権現、別名桃太郎神社は稚武彦命が祀られている。ここには桃太郎ばかりか、犬、猿、雉の墓石が揃っている。
なんと老夫婦の墓まであるらしいが、やや演出過多とも言えよう。
海賊たちは女木島の洞窟を住処としていたのはすでに述べた。件の洞窟は、島中央にある鷲ヶ峰という標高188mの山にあり、全長約400mを誇る。
大正3(1914)年、高松市中間町出身の郷土史家・橋本仙太郎氏により発見されたこの洞窟は、『鬼ヶ島洞窟』と名づけられた。
昭和6(1931)年より一般公開され、現在に至る。2010年には瀬戸内国際芸術祭の会場の1つに選ばれ、期間中は国内はもとより、
海外からも多数の観光客が渡島した。
この洞窟は天井にノミ痕が見られることから、明らかに人工的な産物だそうだ。およそ紀元前100年ごろに造られたものらしい。
洞窟中央付近にある『宝庫』は一見行き止まりのように見えるが、その実、下には穴が掘られており、ここに財宝が隠されていたという。
また、洞窟内で唯一の水源地『鬼の力水』、海賊たちが捕らえてきた婦女子を監禁したと思われる『監禁室』なども存在する。
洞窟の中間には、周囲30mの開けた空間があり、おそらく海賊たちはこの広間で飲めや歌えやの宴会をしていたに違いあるまい。
ところが桃太郎はこの岡山版だけではない。
瀬戸内海を挟んで、対岸の香川県にも異なるモデルが存在するのだ。
香川の桃太郎は、まさに吉備津彦命の弟・稚武彦命(わかたけひこのみこと)である。
ここでの鬼は、瀬戸内海を股にかける海賊を指す。
そう言えば前者、岡山版桃太郎には、片岡山に築いた城であって肝心の鬼ヶ島のモデルが言及されていなかったが、
香川版ではちゃんと存在する。
瀬戸内海の直島諸島に含まれる女木島は、高松港から北沖合へ約4kmのところにある有人島。この女木島こそ、
桃太郎が攻め入った鬼ヶ島そのものだという。
島名の由来には諸説の1つとして、源平合戦で那須与一が射落とした扇の一部が流れ着いたことから『メギ』という名が冠されたとされている。
この地方の方言で、『壊れる』ことを『めげる』ということからだそうだ。
香川版桃太郎である稚武彦命による鬼退治の話の概要はざっとこんな感じである。
讃岐国一帯の不穏な情勢を鎮めるため朝廷から派遣されてきた稚武彦命。船に乗って、まずは河口から本津川を遡っていた。
その途中、川で洗濯をしていた老女と出会う。老女は稚武彦命を夫に紹介し会話した。聞けば、子宝に恵まれなかった老夫婦は、
いたく稚武彦命を気に入り、養子になってくれと懇願する。稚武彦命は快諾した。老夫婦の家を拠点に行動しても支障はあるまいと思ったのだろう。
当時、この讃岐国に住む住民は、女木島を根城にする海賊の被害に遭っていた。
事情を聞かされた稚武彦命はさっそく身支度を整え、女木島へ海賊討伐に向かうことにした。
その前に、敵戦力と数を鑑みたら、いささか心もとない。まずは備前の犬島(岡山・前スレ>>208を参照されたし)、
陶の猿王(香川・綾南町)、雉ヶ谷(香川・鬼無町)に住む3勇士を仲間に加えた。いずれも戦闘に長けた男たちであった。
これで準備は整った。いざ女木島へ!
島に上陸した4人のパーティは、海賊がひそむダンジョンの奥に攻め込み、壮絶な死闘の末、みごと海賊たちを討ち倒した。
洞窟内部には海賊たちが村人から略奪した宝物が山と積まれており、一行はそれらを回収して讃岐に帰還したのだった。
後日、海賊の残党どもが讃岐国の村(現在の高松市北西部)までお礼参りにやってきた。
しかしまたしても稚武彦命たちに返り討ちにされる。今度ばかりは1人残さず全滅させた。その屍を埋めたのが高松市鬼無町に残る『鬼ヶ塚』だという。
それ以来、讃岐国には海賊がいなくなり、平和を取り戻すことができた。また鬼と最後に戦ったこの村を『鬼無』と呼ぶようになった。
鬼無にある熊野権現、別名桃太郎神社は稚武彦命が祀られている。ここには桃太郎ばかりか、犬、猿、雉の墓石が揃っている。
なんと老夫婦の墓まであるらしいが、やや演出過多とも言えよう。
海賊たちは女木島の洞窟を住処としていたのはすでに述べた。件の洞窟は、島中央にある鷲ヶ峰という標高188mの山にあり、全長約400mを誇る。
大正3(1914)年、高松市中間町出身の郷土史家・橋本仙太郎氏により発見されたこの洞窟は、『鬼ヶ島洞窟』と名づけられた。
昭和6(1931)年より一般公開され、現在に至る。2010年には瀬戸内国際芸術祭の会場の1つに選ばれ、期間中は国内はもとより、
海外からも多数の観光客が渡島した。
この洞窟は天井にノミ痕が見られることから、明らかに人工的な産物だそうだ。およそ紀元前100年ごろに造られたものらしい。
洞窟中央付近にある『宝庫』は一見行き止まりのように見えるが、その実、下には穴が掘られており、ここに財宝が隠されていたという。
また、洞窟内で唯一の水源地『鬼の力水』、海賊たちが捕らえてきた婦女子を監禁したと思われる『監禁室』なども存在する。
洞窟の中間には、周囲30mの開けた空間があり、おそらく海賊たちはこの広間で飲めや歌えやの宴会をしていたに違いあるまい。
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海賊どもを成敗しに、いざ鬼ヶ島に乗り込まん! 女木島(めぎじま) 3
吉備津彦命wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%89%E5%82%99%E6%B4%...
温羅wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B8%A9%E7%BE%8...
鳴釜神事wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B3%B4%E9%87%9C%E7%A5%...
Blue Signal西日本の美しい風土 特集 桃太郎伝説をたずねて、吉備路へ
https://www.westjr.co.jp/company/issue/bsignal/05_vol_1...
高松みなと散歩 女木島(鬼ヶ島)・男木島
https://www.city.takamatsu.kagawa.jp/kankou/meisyo/megi.ht...
たびねす 桃太郎伝説ならここ!!香川・女木島の大洞窟で鬼を探索
http://guide.travel.co.jp/article/1063...
yahoo!知恵袋 桃太郎の鬼について質問します。岡山のウラ伝説と女木島(鬼が島)の海賊説は同一人物がモデルですか?
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q106862565...
チョコバナナch 日本の先端技術で再現された「桃太郎」これ映画化されたら絶対観に行くわwwwwww
http://blog.livedoor.jp/koj2323/archives/1000499069.ht...
海賊どもを成敗しに、いざ鬼ヶ島に乗り込まん! 女木島(めぎじま) 3
吉備津彦命wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%89%E5%82%99%E6%B4%...
温羅wikipedia
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高松みなと散歩 女木島(鬼ヶ島)・男木島
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たびねす 桃太郎伝説ならここ!!香川・女木島の大洞窟で鬼を探索
http://guide.travel.co.jp/article/1063...
yahoo!知恵袋 桃太郎の鬼について質問します。岡山のウラ伝説と女木島(鬼が島)の海賊説は同一人物がモデルですか?
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加地藤左衛門による大蛇退治伝説 大槌島(おおづちしま)
岡山県玉野市の宇野港からすぐのそばに、標高150mほどの三角錐の形をした無人島がある。それが大槌島だ。
島の周りは鯛や鰆が育つ漁場になっている。かつて備前と讃岐両藩が漁場をめぐって騒動を起こしたため、大槌島から樽を流し、
両藩の領海を決めた『樽流し』の説話として知られ、江戸で裁定を下した裁判官の1人に、あの大岡越前守忠相も含まれていたという。
他にも大槌島には、またしても大蛇伝説が語り継がれている。それがこんな話。
昔、大槌島には大蛇が住み着いており、島から対岸の日比村に渡ってきては人々を苦しめていた。
日比村には加地藤左衛門という人物がいた。藤左衛門は武術に長け、勇猛果敢で腕っぷしも強く、さらに弓の達人でもあった。
ある日、そんな藤左衛門を見込んでか、枕元に神が立ち、こう告げるのだ。
「おぬしに頼みたいことがある。大槌島から大蛇が泳いできては、村人を長年悩まして困っている。どうかこの脅威から救ってやってくれぬか。
おぬしならできる……」
藤左衛門が夢から醒めると、枕元に弓と一矢が残されていた。男ならやらないわけにはいくまい。その弓を手に取り、感触を確かめた。
翌日、彼が海辺に出向くと、大蛇はすでに島に渡ってきていた。大蛇は松の幹に巻きついて眼を輝かせ、口から二股の舌をチラつかせていた。
大蛇と藤左衛門との距離は100mあまり離れたが、命中させる技量と自信があった。すかさず膝撃ちの構えをとると、満月の形になるまで弓を引き絞った。
放たれた一矢は狙いを違わず大蛇の喉に突き刺さった。松の木から大蛇の巨体が崩れ落ちた。
そばまで駆けつけると、大蛇は最後の力のなせる業か、毒息を藤左衛門に浴びせかけると事切れた。
とっさに顔をかばったつもりだったが、たちまち毒気は体内を蝕み、しだいに意識がかすんで倒れてしまった。
藤左衛門の命運、ここに尽きるのか。しばらくすると時ならぬ雨が降り出した。仰向けになった藤左衛門の口から喉に雨水が流れ込む。
それが毒を癒したか、彼は意識を取り戻した。
村人は神と助けと藤左衛門の勇敢さを称えた。大蛇を退治した矢(『大雁』なる矢の名前)は享保のころまで伝えられ、
大蛇のウロコは現在も御前八幡宮に残されているという。
一説にはそのとき、日比港に入っていた難波の米船が、死んだ大蛇と米とを交換して持って帰ったとも伝えられている。
日比の八幡宮は当時、日比の宮山の頂上にあったものを文明年間に麓に移したが、昭和18年に現在の御前八幡宮に合祀されている。
……それにしても、日本には驚くほど大蛇伝説が転がっている。この大蛇も何らかの比喩なんだろうね。
樽流し伝説
http://www6.plala.or.jp/mori-ben/taru.htm...
山陰百貨店—日常を観光する— 【龍宮城伝説】備讃瀬戸に浮かぶおにぎり【大槌島・小槌島】
http://ameblo.jp/sanin-department-store/entry-1...
玉野の伝説 岡山県県南の街、玉野市の伝説 大槌・小槌・大蛇退治:玉野の伝説
http://tamano.imawamukashi.com/umi/umi-3.htm...
[PDF]玉野市観光協会 海のまち 玉野にいらっしゃ〜い !!
http://www.tamanokankou.com/pdf/23.11.27walking.pd...
岡山県玉野市の宇野港からすぐのそばに、標高150mほどの三角錐の形をした無人島がある。それが大槌島だ。
島の周りは鯛や鰆が育つ漁場になっている。かつて備前と讃岐両藩が漁場をめぐって騒動を起こしたため、大槌島から樽を流し、
両藩の領海を決めた『樽流し』の説話として知られ、江戸で裁定を下した裁判官の1人に、あの大岡越前守忠相も含まれていたという。
他にも大槌島には、またしても大蛇伝説が語り継がれている。それがこんな話。
昔、大槌島には大蛇が住み着いており、島から対岸の日比村に渡ってきては人々を苦しめていた。
日比村には加地藤左衛門という人物がいた。藤左衛門は武術に長け、勇猛果敢で腕っぷしも強く、さらに弓の達人でもあった。
ある日、そんな藤左衛門を見込んでか、枕元に神が立ち、こう告げるのだ。
「おぬしに頼みたいことがある。大槌島から大蛇が泳いできては、村人を長年悩まして困っている。どうかこの脅威から救ってやってくれぬか。
おぬしならできる……」
藤左衛門が夢から醒めると、枕元に弓と一矢が残されていた。男ならやらないわけにはいくまい。その弓を手に取り、感触を確かめた。
翌日、彼が海辺に出向くと、大蛇はすでに島に渡ってきていた。大蛇は松の幹に巻きついて眼を輝かせ、口から二股の舌をチラつかせていた。
大蛇と藤左衛門との距離は100mあまり離れたが、命中させる技量と自信があった。すかさず膝撃ちの構えをとると、満月の形になるまで弓を引き絞った。
放たれた一矢は狙いを違わず大蛇の喉に突き刺さった。松の木から大蛇の巨体が崩れ落ちた。
そばまで駆けつけると、大蛇は最後の力のなせる業か、毒息を藤左衛門に浴びせかけると事切れた。
とっさに顔をかばったつもりだったが、たちまち毒気は体内を蝕み、しだいに意識がかすんで倒れてしまった。
藤左衛門の命運、ここに尽きるのか。しばらくすると時ならぬ雨が降り出した。仰向けになった藤左衛門の口から喉に雨水が流れ込む。
それが毒を癒したか、彼は意識を取り戻した。
村人は神と助けと藤左衛門の勇敢さを称えた。大蛇を退治した矢(『大雁』なる矢の名前)は享保のころまで伝えられ、
大蛇のウロコは現在も御前八幡宮に残されているという。
一説にはそのとき、日比港に入っていた難波の米船が、死んだ大蛇と米とを交換して持って帰ったとも伝えられている。
日比の八幡宮は当時、日比の宮山の頂上にあったものを文明年間に麓に移したが、昭和18年に現在の御前八幡宮に合祀されている。
……それにしても、日本には驚くほど大蛇伝説が転がっている。この大蛇も何らかの比喩なんだろうね。
樽流し伝説
http://www6.plala.or.jp/mori-ben/taru.htm...
山陰百貨店—日常を観光する— 【龍宮城伝説】備讃瀬戸に浮かぶおにぎり【大槌島・小槌島】
http://ameblo.jp/sanin-department-store/entry-1...
玉野の伝説 岡山県県南の街、玉野市の伝説 大槌・小槌・大蛇退治:玉野の伝説
http://tamano.imawamukashi.com/umi/umi-3.htm...
[PDF]玉野市観光協会 海のまち 玉野にいらっしゃ〜い !!
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>>83
韓国の旅客船セウォル号沈没事故に関連した海神神社の件ね。今回は見送り。
実は同じ対馬でも、その海神神社の近くに、『白鬚明神』なるモノを祀った謎の祠があるとの情報をつかんでいる。
個人的にはそっちの方に好奇心が動く。またの機会に書くわ。今日は海難事故に関した話をば1つ……。
漂流者にとって島の先住者・長平は鬼として映ったか? 鳥島(伊豆鳥島) 1
あなたが乗っていた船が大時化に遭い、あてどもなく漂流したものと仮定する。
風雨が荒れ狂い、波頭が艫(とも)にぶつかり、潮の飛沫で船内が水浸しになる。船の機能の大半が破壊された。もはや舵は利かない。
食料や飲料水も波にさらわれるか、数日もすればあなたの胃袋に消え、蓄えが底を尽く。
猛烈な渇きを憶え海水を飲もうとするも、あまりの塩辛さに嘔吐する。それでものどを潤したくて、しまいには自身の小便を飲むようになる。
10日間、漂流し続けた。船がどこへ向かっているのか知る由もない。
死にたくない。とにかく飢えと渇きを解消しなくては。
船が進むにつれ、お椀を伏せたような青い島影が見えてきた。あなたは飛び上がらんばかりに歓喜するに違いない。
当然、島に上陸したいと思うはず。潮流の影響か、徐々に島に近づく。これはラッキーだ。
やがて島のなだらかな丘稜がはっきりと見えてきた。その丘に、なんと1人の人間が立っているのがわかった。
あなたは俄然喜ぶだろう。どうやらその島は有人島で、人が住んでいるのならば、インフラの設備が整っているに違いないと踏む。
とすれば食べ物と水にありつける。
船はさらに島に迫る。
あなたは眼を凝らす。おかしい……。それもそのはず、その人間は異様な姿をしているのだ。
それは男であるのは確かだ。ただし、ざんばら髪がだらしなく風になびき、ヒゲが伸び放題、皮膚は赤黒く日焼けし、
白い羽で編んだ蓑(みの)のようなものをまとっている。しかも目つきが尋常でない。ギラギラとした険しい光を放っている。
腰には毛をむしって乾燥した鶏みたいな物体がぶら下がっており、手首には貝をつなぎ合わせて作った数珠のようなものが巻かれている。
まるで野蛮人だ……いや、あれこそ鬼かもしれないと、あなたは直感するだろう。
男は片手で拝むポーズをとり、眼をつむって何やら念仏のようなものを唱えている。
……東京都直轄である伊豆諸島の1つである鳥島(国内には無数の『鳥島』があり、他と差別化するため『伊豆鳥島』とも呼ばれる)は、
八丈島の南約300km、小笠原諸島聟島列島の北約370kmに浮かんでいる。過去に何度も噴火した火山島でもあり、水源なども皆無に等しい。
よって、およそ人が住むには適していない。
島は現在でこそ無人島だが、かつての遺構が風雨にさらされたまま佇んでいる。それが気象庁鳥島気象観測所である。
観測所は昭和22(1947)年に開設され、島に生息する特別天然記念物に指定されているアホウドリの保護プロジェクトが行われてきた。
昭和40(1965)年の群発地震による避難まで、18年間、職員が駐在していた。あまりのアホウドリの数から、鳥島と冠されたのはムベなるかなであろう。
その後も昭和56(1981)年から、環境庁(現・環境省)によるアホウドリの生息状況調査および繁殖地の維持・保全事業が復活し、
現在でも年数回の上陸調査が実施されている。平成6(1994)年の調査で約159つがいが確認されている。先日その様子を、BS・NHKで放送していた。
韓国の旅客船セウォル号沈没事故に関連した海神神社の件ね。今回は見送り。
実は同じ対馬でも、その海神神社の近くに、『白鬚明神』なるモノを祀った謎の祠があるとの情報をつかんでいる。
個人的にはそっちの方に好奇心が動く。またの機会に書くわ。今日は海難事故に関した話をば1つ……。
漂流者にとって島の先住者・長平は鬼として映ったか? 鳥島(伊豆鳥島) 1
あなたが乗っていた船が大時化に遭い、あてどもなく漂流したものと仮定する。
風雨が荒れ狂い、波頭が艫(とも)にぶつかり、潮の飛沫で船内が水浸しになる。船の機能の大半が破壊された。もはや舵は利かない。
食料や飲料水も波にさらわれるか、数日もすればあなたの胃袋に消え、蓄えが底を尽く。
猛烈な渇きを憶え海水を飲もうとするも、あまりの塩辛さに嘔吐する。それでものどを潤したくて、しまいには自身の小便を飲むようになる。
10日間、漂流し続けた。船がどこへ向かっているのか知る由もない。
死にたくない。とにかく飢えと渇きを解消しなくては。
船が進むにつれ、お椀を伏せたような青い島影が見えてきた。あなたは飛び上がらんばかりに歓喜するに違いない。
当然、島に上陸したいと思うはず。潮流の影響か、徐々に島に近づく。これはラッキーだ。
やがて島のなだらかな丘稜がはっきりと見えてきた。その丘に、なんと1人の人間が立っているのがわかった。
あなたは俄然喜ぶだろう。どうやらその島は有人島で、人が住んでいるのならば、インフラの設備が整っているに違いないと踏む。
とすれば食べ物と水にありつける。
船はさらに島に迫る。
あなたは眼を凝らす。おかしい……。それもそのはず、その人間は異様な姿をしているのだ。
それは男であるのは確かだ。ただし、ざんばら髪がだらしなく風になびき、ヒゲが伸び放題、皮膚は赤黒く日焼けし、
白い羽で編んだ蓑(みの)のようなものをまとっている。しかも目つきが尋常でない。ギラギラとした険しい光を放っている。
腰には毛をむしって乾燥した鶏みたいな物体がぶら下がっており、手首には貝をつなぎ合わせて作った数珠のようなものが巻かれている。
まるで野蛮人だ……いや、あれこそ鬼かもしれないと、あなたは直感するだろう。
男は片手で拝むポーズをとり、眼をつむって何やら念仏のようなものを唱えている。
……東京都直轄である伊豆諸島の1つである鳥島(国内には無数の『鳥島』があり、他と差別化するため『伊豆鳥島』とも呼ばれる)は、
八丈島の南約300km、小笠原諸島聟島列島の北約370kmに浮かんでいる。過去に何度も噴火した火山島でもあり、水源なども皆無に等しい。
よって、およそ人が住むには適していない。
島は現在でこそ無人島だが、かつての遺構が風雨にさらされたまま佇んでいる。それが気象庁鳥島気象観測所である。
観測所は昭和22(1947)年に開設され、島に生息する特別天然記念物に指定されているアホウドリの保護プロジェクトが行われてきた。
昭和40(1965)年の群発地震による避難まで、18年間、職員が駐在していた。あまりのアホウドリの数から、鳥島と冠されたのはムベなるかなであろう。
その後も昭和56(1981)年から、環境庁(現・環境省)によるアホウドリの生息状況調査および繁殖地の維持・保全事業が復活し、
現在でも年数回の上陸調査が実施されている。平成6(1994)年の調査で約159つがいが確認されている。先日その様子を、BS・NHKで放送していた。
漂流者にとって島の先住者・長平は鬼として映ったか? 鳥島(伊豆鳥島) 2
その伊豆鳥島であるが、位置を見ても日本の最果てにある。絶海の孤島とはまさしく青ヶ島やこの鳥島を指す。
実は昔、ふだん船が立ち寄らないこんな不毛の無人島に、海流の影響で難破船が流れ着くことが少なくなかった。
海難事故は江戸時代に集中している。当時は千石船という運搬船がさかんに使われていた。経済的には積載能力にすぐれ、
それ以前まで帆走と櫓で漕ぐことを併用していた船と異なり、帆走能力に秀でていた。
反面、千石船にはシケに対する致命的な欠陥があった。主として甲板が水密式でなかったことに起因する。胴の間といわれる船の中央部の甲板は、
ただ揚げ板式になっているだけなので、荒天になり高波が襲ってくると海水がどんどん入ってくる。たちまち船は水浸しになり、沈没のリスクが高くなる。
また舵が壊れやすい難点も秘めていた。当時の各港は河口にあるものが多く、水深は浅い。それゆえ千石船の舵は水底に引っかからないよう、
引き上げ式になっていた。構造上計算された造りであったにもかかわらず、固定された西洋の船の舵にくらべ脆弱であった。舵の羽板は大きすぎて、
激しい波に叩かれ破壊されたら最後、航行不能となる。
こうした構造上の欠点があるうえに、鎖国政策によって西洋の進歩した航行術を取り入れることもできず、千石船は沿岸航海のみに制限されていた。
江戸幕府は千石船を使用することを推奨していたが、それは鎖国政策に絡んでいた。外洋を自由に行き来できるような船が作られるようになれば、
それに乗って異国へ行く者も出てくるし、西洋の文物を持ち込むことにつながる。それは鎖国政策をとる幕府にとっては脅威であり、
なんとしても防がなくてはならないことだった。
以上の理由から幕府は、外洋の航海に適さない千石船の使用を勧め、皮肉にも多くの海難事故を促すことになったのである。
ほとんどの船は沈没し、さもなくば船は航行不能になったまま漂流した。シケにあい海岸から沖に流され、加えて舵を失うことは死が必定であった。
さらに日本列島は潮の流れが複雑であることも漂流事故を誘発させる原因としてあげられる。
とりわけ黒潮の流れは、九州、四国、本州と列島沿いに流れ、場所によっては時速10kmにも達するほど速いことで知られている。
黒潮は幅も広く、遭難して沿岸から離れてしまった船が潮流に乗ってしまうと、たちまち遠方に押し流され帰れなくなる。
遭難位置によって行き先はさまざまで、伊豆七島、小笠原諸島方面、最悪、太平洋の真っ只中へ流され、北アメリカ方面、アラスカ方面、
反転すればフィリピンまで流されることもあったとされている。いずれにせよこの海流は離岸流となり、多くの悲劇を生んだ。
中には何とか無人島にたどり着いて、助けを待った人たちも数知れない。
無人島とサバイバル……このシチュエーションの燃えること。健全なる男子であるならば嫌いな御仁はいまい。
だからこそテレ朝の『よゐこの無人島0円生活』や、日テレのDASH島が、そこそこ数字を取るわけだ。
かつてそんな漂流者の1人に、長平という土佐の船乗りがいた。長平は漂流し、無人島で12年生き抜いて、無事生還した実在の人物。
吉村昭という作家が書いた『漂流』というドキュメンタリー小説がある。日本版ロビンソンクルーソーともいうべき名著だ。
この吉村氏の『漂流』こそ、長平の壮絶な生還劇を克明に描いた話なのだ。そして舞台となった無人島こそ今回の鳥島である。
ざっくり話の筋を書こう。以下、ネタバレになるのでお嫌いなら目を通すべきではない。
その伊豆鳥島であるが、位置を見ても日本の最果てにある。絶海の孤島とはまさしく青ヶ島やこの鳥島を指す。
実は昔、ふだん船が立ち寄らないこんな不毛の無人島に、海流の影響で難破船が流れ着くことが少なくなかった。
海難事故は江戸時代に集中している。当時は千石船という運搬船がさかんに使われていた。経済的には積載能力にすぐれ、
それ以前まで帆走と櫓で漕ぐことを併用していた船と異なり、帆走能力に秀でていた。
反面、千石船にはシケに対する致命的な欠陥があった。主として甲板が水密式でなかったことに起因する。胴の間といわれる船の中央部の甲板は、
ただ揚げ板式になっているだけなので、荒天になり高波が襲ってくると海水がどんどん入ってくる。たちまち船は水浸しになり、沈没のリスクが高くなる。
また舵が壊れやすい難点も秘めていた。当時の各港は河口にあるものが多く、水深は浅い。それゆえ千石船の舵は水底に引っかからないよう、
引き上げ式になっていた。構造上計算された造りであったにもかかわらず、固定された西洋の船の舵にくらべ脆弱であった。舵の羽板は大きすぎて、
激しい波に叩かれ破壊されたら最後、航行不能となる。
こうした構造上の欠点があるうえに、鎖国政策によって西洋の進歩した航行術を取り入れることもできず、千石船は沿岸航海のみに制限されていた。
江戸幕府は千石船を使用することを推奨していたが、それは鎖国政策に絡んでいた。外洋を自由に行き来できるような船が作られるようになれば、
それに乗って異国へ行く者も出てくるし、西洋の文物を持ち込むことにつながる。それは鎖国政策をとる幕府にとっては脅威であり、
なんとしても防がなくてはならないことだった。
以上の理由から幕府は、外洋の航海に適さない千石船の使用を勧め、皮肉にも多くの海難事故を促すことになったのである。
ほとんどの船は沈没し、さもなくば船は航行不能になったまま漂流した。シケにあい海岸から沖に流され、加えて舵を失うことは死が必定であった。
さらに日本列島は潮の流れが複雑であることも漂流事故を誘発させる原因としてあげられる。
とりわけ黒潮の流れは、九州、四国、本州と列島沿いに流れ、場所によっては時速10kmにも達するほど速いことで知られている。
黒潮は幅も広く、遭難して沿岸から離れてしまった船が潮流に乗ってしまうと、たちまち遠方に押し流され帰れなくなる。
遭難位置によって行き先はさまざまで、伊豆七島、小笠原諸島方面、最悪、太平洋の真っ只中へ流され、北アメリカ方面、アラスカ方面、
反転すればフィリピンまで流されることもあったとされている。いずれにせよこの海流は離岸流となり、多くの悲劇を生んだ。
中には何とか無人島にたどり着いて、助けを待った人たちも数知れない。
無人島とサバイバル……このシチュエーションの燃えること。健全なる男子であるならば嫌いな御仁はいまい。
だからこそテレ朝の『よゐこの無人島0円生活』や、日テレのDASH島が、そこそこ数字を取るわけだ。
かつてそんな漂流者の1人に、長平という土佐の船乗りがいた。長平は漂流し、無人島で12年生き抜いて、無事生還した実在の人物。
吉村昭という作家が書いた『漂流』というドキュメンタリー小説がある。日本版ロビンソンクルーソーともいうべき名著だ。
この吉村氏の『漂流』こそ、長平の壮絶な生還劇を克明に描いた話なのだ。そして舞台となった無人島こそ今回の鳥島である。
ざっくり話の筋を書こう。以下、ネタバレになるのでお嫌いなら目を通すべきではない。
漂流者にとって島の先住者・長平は鬼として映ったか? 鳥島(伊豆鳥島) 3
天明5(1785)年の2月某日。片道わずか7里半(30km)の短い航海になるはずだった。
仕事を終えた帰り道、にわかに北西の風が吹き始めて、24歳の長平以下船乗り4人が乗った船は、たちまち沖へ流される。
自然の猛威を前に、なす術がない。次から次へと襲いくる激浪に揉まれて船が壊されていく。もはや浮いているのが奇跡なぐらいの有様であった。
10日間の漂流の末、命からがら未知の島に上陸。そこは岩だらけの不毛の土地で、およそ樹木が見当たらない。植物はせいぜい萱(かや=ススキなどのイネ科・
カヤツリグサ科の植物)が自生している程度。
驚くべきことに平坦部にはおびただしい数のアホウドリがいた。広げた翼の長さが8尺(2.42m)、重さ2貫匁(7.5kg)、クチバシの長さも5寸(15cm)以上
もある巨大な鳥だ。
長平たちは初め、アホウドリを棒で撲殺し、それを海水で揉み洗いして生で食べていたのだが、4月下旬から5月上旬になるとアホウドリの習性として
島から渡ってしまう恐れが浮上した。そして9月に入るまで帰ってくることはない。アホウドリは古くから地球上に棲息している最大の海鳥で、
冬期に鳥島でヒナを育てると遠くカリフォルニアの沿岸へ渡る。そして反転すると、赤道の北側を西に飛び、秋に鳥島へ帰ってくるわけである。
当初はアホウドリの卵と肉ばかり食べ、たまに釣り糸(船材から抜いた釘で作った)にかかる魚を刺身にしたり、磯で貝や海草を採ったりして
食に変化をつけていた。
湧き水すら湧かない島だったので、飲料水はアホウドリの比較的大きな空の卵を容器とし、雨水を溜めた。定期的に雨が降る島だったので、
渇きに苦しめられることはなかった。卵1つにつき3合の水が蓄えることができる。それをズラリと並べ、貯水池とした。
アホウドリが渡ってしまう前に干し肉を作って、これを貯蔵。また鳥の脂肪は塗り薬として使えば化膿止めの効果があり、それもかき集めた。
数日を要して島を探索した結果、人が住んでいない無人島であることが判明した。とすれば、自分たちの力で命をつなぐより他ない。
とはいえ単調で目的意識の見出せない生活から、いつしか移住拠点である洞穴で日がな1日寝転んだまますごすようになる。するとたちまち健康を害した。
原因は運動不足と栄養の偏り(ビタミン不足)。その間、健康状態をどうチェックするかというと、爪の付け根に現れる白い半月があるか否かで知り得る。
爪に半月が現れれば身体に栄養が行き渡っていることを示し、それが消えれば状態が芳しくない証拠だという(……と、作中では語られているが、
医学的に必ずしもそうとは限らないらしい)。
メンバーが1人、また1人と死んでしまい、長平のみが生き残る。悶絶しそうな孤独に打ちのめされ、彼は激しく取り乱す。
死んだはずの仲間の声が幻聴となって聞こえたり、鳥を蹴飛ばして罵声を浴びせたり、そうかと思うと石塊で殴り殺した鳥を抱きしめて泣くこともあった。
眠ると夢の中では好きだった娘が現れ、そのたびに性欲をもてあました彼は娘を押し倒すものの、コトに及ぼうとした瞬間、夢から醒めてしまう。
ついに自殺を決意し、入水しようとするのだが、なまじ幼少のころより泳ぎに長けていただけに死にきれない。
いつしか長平は神仏にすがるようになる。長平は常に念仏を唱えるようにした。すると精神統一され、心が乱されることもなくなった。
さんざん苦しんだ挙句、ふんぎりがつく。いっそ生き続けてみるか……。それは諦観だった。
長平が漂着して奇しくもちょうど3年後の2月、大坂北堀江の船が漂着する。さらに2年後、今度は薩摩国の船が流れ着く。
そのファースト・コンタクトの際、漂流者たちは鳥島の先住者をひと目見るなり、ギクリとする。
その姿こそ>>85の冒頭で描写したように、髪やヒゲはボーボー、身体にはアホウドリの白い羽で作った蓑(みの)をまとい、
皮膚は赤黒く日焼けしており、何より過酷な無人島生活では生への執念が不可欠で、おのずと眼はギラギラしているのだ。
そんな異様な姿を見た遭難者は、思わず鬼に出くわしてしまったと錯覚し、恐慌をきたして逃げようとする。
それを呼び止めようとする長平の姿は哀切と言えるし、不謹慎だが滑稽ともとれる。
天明5(1785)年の2月某日。片道わずか7里半(30km)の短い航海になるはずだった。
仕事を終えた帰り道、にわかに北西の風が吹き始めて、24歳の長平以下船乗り4人が乗った船は、たちまち沖へ流される。
自然の猛威を前に、なす術がない。次から次へと襲いくる激浪に揉まれて船が壊されていく。もはや浮いているのが奇跡なぐらいの有様であった。
10日間の漂流の末、命からがら未知の島に上陸。そこは岩だらけの不毛の土地で、およそ樹木が見当たらない。植物はせいぜい萱(かや=ススキなどのイネ科・
カヤツリグサ科の植物)が自生している程度。
驚くべきことに平坦部にはおびただしい数のアホウドリがいた。広げた翼の長さが8尺(2.42m)、重さ2貫匁(7.5kg)、クチバシの長さも5寸(15cm)以上
もある巨大な鳥だ。
長平たちは初め、アホウドリを棒で撲殺し、それを海水で揉み洗いして生で食べていたのだが、4月下旬から5月上旬になるとアホウドリの習性として
島から渡ってしまう恐れが浮上した。そして9月に入るまで帰ってくることはない。アホウドリは古くから地球上に棲息している最大の海鳥で、
冬期に鳥島でヒナを育てると遠くカリフォルニアの沿岸へ渡る。そして反転すると、赤道の北側を西に飛び、秋に鳥島へ帰ってくるわけである。
当初はアホウドリの卵と肉ばかり食べ、たまに釣り糸(船材から抜いた釘で作った)にかかる魚を刺身にしたり、磯で貝や海草を採ったりして
食に変化をつけていた。
湧き水すら湧かない島だったので、飲料水はアホウドリの比較的大きな空の卵を容器とし、雨水を溜めた。定期的に雨が降る島だったので、
渇きに苦しめられることはなかった。卵1つにつき3合の水が蓄えることができる。それをズラリと並べ、貯水池とした。
アホウドリが渡ってしまう前に干し肉を作って、これを貯蔵。また鳥の脂肪は塗り薬として使えば化膿止めの効果があり、それもかき集めた。
数日を要して島を探索した結果、人が住んでいない無人島であることが判明した。とすれば、自分たちの力で命をつなぐより他ない。
とはいえ単調で目的意識の見出せない生活から、いつしか移住拠点である洞穴で日がな1日寝転んだまますごすようになる。するとたちまち健康を害した。
原因は運動不足と栄養の偏り(ビタミン不足)。その間、健康状態をどうチェックするかというと、爪の付け根に現れる白い半月があるか否かで知り得る。
爪に半月が現れれば身体に栄養が行き渡っていることを示し、それが消えれば状態が芳しくない証拠だという(……と、作中では語られているが、
医学的に必ずしもそうとは限らないらしい)。
メンバーが1人、また1人と死んでしまい、長平のみが生き残る。悶絶しそうな孤独に打ちのめされ、彼は激しく取り乱す。
死んだはずの仲間の声が幻聴となって聞こえたり、鳥を蹴飛ばして罵声を浴びせたり、そうかと思うと石塊で殴り殺した鳥を抱きしめて泣くこともあった。
眠ると夢の中では好きだった娘が現れ、そのたびに性欲をもてあました彼は娘を押し倒すものの、コトに及ぼうとした瞬間、夢から醒めてしまう。
ついに自殺を決意し、入水しようとするのだが、なまじ幼少のころより泳ぎに長けていただけに死にきれない。
いつしか長平は神仏にすがるようになる。長平は常に念仏を唱えるようにした。すると精神統一され、心が乱されることもなくなった。
さんざん苦しんだ挙句、ふんぎりがつく。いっそ生き続けてみるか……。それは諦観だった。
長平が漂着して奇しくもちょうど3年後の2月、大坂北堀江の船が漂着する。さらに2年後、今度は薩摩国の船が流れ着く。
そのファースト・コンタクトの際、漂流者たちは鳥島の先住者をひと目見るなり、ギクリとする。
その姿こそ>>85の冒頭で描写したように、髪やヒゲはボーボー、身体にはアホウドリの白い羽で作った蓑(みの)をまとい、
皮膚は赤黒く日焼けしており、何より過酷な無人島生活では生への執念が不可欠で、おのずと眼はギラギラしているのだ。
そんな異様な姿を見た遭難者は、思わず鬼に出くわしてしまったと錯覚し、恐慌をきたして逃げようとする。
それを呼び止めようとする長平の姿は哀切と言えるし、不謹慎だが滑稽ともとれる。
漂流者にとって島の先住者・長平は鬼として映ったか? 鳥島(伊豆鳥島) 4
長平は、他に2度にわたる漂流者たちを仲間に加え、途中数人が病死・自殺等で命を落とすものの、合計14人の男たちとともに生き延びた。
鳥島近辺は航路がなく、島を横切る船影は皆無だった。したがって、通りかかる船に救難信号を示して救ってもらうのも諦めなくてはならない。
故国へ帰るには他力本願にすがるより、自力で帰るしかない。
船をこしらえるべきだ。若干の大工道具は揃っているが、肝心の船材がほとんど見当たらない。座礁した船のわずかな残骸や流木が流れ着くことも稀にあったが、あまりに少なすぎた。
結局3年にわたり船材をかき集め、拾った碇を炉で溶かして釘を作り、折れそうな心を奮い起こして、つぎはぎだらけの異様な姿の伝馬船を完成させた。
そして島からの脱出である。
来るべき出帆の日と、船を進ませる方向をおみくじを引いて占った。もはや神頼みの世界で、運悪くあさっての方向に船出したくらいなら、
あの世行きは確定であった。紙一重で北西のくじを引いた長平は、その方角へと一行とともに船出し、当時から有人であった青ヶ島にたどり着くことができる。
青ヶ島に着いたら八丈島は目と鼻の先だ。それは奇跡とも言える生還だった。実に長平にとって12年4ヶ月ぶりの故国の土だった……。
……これは故国に帰ってきた長平をはじめ、生還者の証言を、幕府の役人が事情聴取して記録としている。この内容に異常な興味をもった吉村氏が、
せいぜい20ページ足らずの調書と情報収集により、想像力をフルに使って物語に仕立てた。途中経過はともかく、結果は歴然たる事実である。
吉村氏によると鳥島に漂着し、脱出できた者の記録は15例以上にのぼるという。
長平たちの不屈の闘いから人間の可能性と叡智を見ることができる。作中、物理的に無理がある設定やご都合主義などのツッコミどころも散見されるが、
笑って許してやろうじゃないか。後半は涙なくして読めない。無人島とサバイバルというキーワードが好きならば必読の書であること請け合い。
個人的にいたく感銘を受け、新潮文庫の単行本500弱のページを読了後、すぐ頭から読み直したほどだ。
同時に思ったのだが……古来より、日本の昔話・伝説で『鬼』が出てくる話は数知れない。
鬼とは白人が漂流してきて山に住み着いたり海賊を鬼と見立てた説も考えられるが、案外、長平たちのように漂流した日本人が見間違えられたケースだって
なきにしもあらずだったかもしれない。いずれにせよ、人が生きるということは鬼気迫るほどの力が要るのだ。
公益財団法人 山階鳥類研究所 アホウドリ 復活への展望 鳥島ウォーカー
http://www.yamashina.or.jp/hp/yomimono/albatross/06walker...
珍鳥の繁殖を目指す島 伊豆鳥島
http://tonesan.fc2web.com/torishima.ht...
ジョン万次郎wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A7%E3%83%...
野村長平wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%8E%E6%9D%91%E9%95%...
漂流ものがたり
http://www.nansenhokubasha.com/essay/hyoryu.htm...
江戸時代漂流記「出雲国清蔵の鳥島奇談」
http://www.otenki.co.jp/com/list/ch_hokuso_torishima1....
緇井鶏子
http://shiikeiko.blog.so-net.ne.jp/2009-02-1...
NAVER まとめ “爪を見る”だけで精神状態が分かる!
http://matome.naver.jp/odai/213773204823484070...
爪で病気まるわかり 爪半月
http://tsu.eulbblue.com/001/post_2.htm...
アナタハンの女王事件wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%8A%E3%82%...
現代事件簿 No.064 孤島に女1人と男32人。アナタハン島で起こった、女をめぐっての殺し合い
http://ww5.tiki.ne.jp/‾qyoshida/jikenbo/064anatahan.htm
無人島に生きる十六人 須川邦彦
http://www.aozora.gr.jp/cards/001120/files/42767_15618...
amazon.co.jp 漂流 (新潮文庫) [文庫] 吉村 昭 (著)
http://www.amazon.co.jp/%E6%BC%82%E6%B5%81-%E6%96%B0%E...
※画像は高知県香南市香我美町にある『無人島長平』の像
長平は、他に2度にわたる漂流者たちを仲間に加え、途中数人が病死・自殺等で命を落とすものの、合計14人の男たちとともに生き延びた。
鳥島近辺は航路がなく、島を横切る船影は皆無だった。したがって、通りかかる船に救難信号を示して救ってもらうのも諦めなくてはならない。
故国へ帰るには他力本願にすがるより、自力で帰るしかない。
船をこしらえるべきだ。若干の大工道具は揃っているが、肝心の船材がほとんど見当たらない。座礁した船のわずかな残骸や流木が流れ着くことも稀にあったが、あまりに少なすぎた。
結局3年にわたり船材をかき集め、拾った碇を炉で溶かして釘を作り、折れそうな心を奮い起こして、つぎはぎだらけの異様な姿の伝馬船を完成させた。
そして島からの脱出である。
来るべき出帆の日と、船を進ませる方向をおみくじを引いて占った。もはや神頼みの世界で、運悪くあさっての方向に船出したくらいなら、
あの世行きは確定であった。紙一重で北西のくじを引いた長平は、その方角へと一行とともに船出し、当時から有人であった青ヶ島にたどり着くことができる。
青ヶ島に着いたら八丈島は目と鼻の先だ。それは奇跡とも言える生還だった。実に長平にとって12年4ヶ月ぶりの故国の土だった……。
……これは故国に帰ってきた長平をはじめ、生還者の証言を、幕府の役人が事情聴取して記録としている。この内容に異常な興味をもった吉村氏が、
せいぜい20ページ足らずの調書と情報収集により、想像力をフルに使って物語に仕立てた。途中経過はともかく、結果は歴然たる事実である。
吉村氏によると鳥島に漂着し、脱出できた者の記録は15例以上にのぼるという。
長平たちの不屈の闘いから人間の可能性と叡智を見ることができる。作中、物理的に無理がある設定やご都合主義などのツッコミどころも散見されるが、
笑って許してやろうじゃないか。後半は涙なくして読めない。無人島とサバイバルというキーワードが好きならば必読の書であること請け合い。
個人的にいたく感銘を受け、新潮文庫の単行本500弱のページを読了後、すぐ頭から読み直したほどだ。
同時に思ったのだが……古来より、日本の昔話・伝説で『鬼』が出てくる話は数知れない。
鬼とは白人が漂流してきて山に住み着いたり海賊を鬼と見立てた説も考えられるが、案外、長平たちのように漂流した日本人が見間違えられたケースだって
なきにしもあらずだったかもしれない。いずれにせよ、人が生きるということは鬼気迫るほどの力が要るのだ。
公益財団法人 山階鳥類研究所 アホウドリ 復活への展望 鳥島ウォーカー
http://www.yamashina.or.jp/hp/yomimono/albatross/06walker...
珍鳥の繁殖を目指す島 伊豆鳥島
http://tonesan.fc2web.com/torishima.ht...
ジョン万次郎wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A7%E3%83%...
野村長平wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%8E%E6%9D%91%E9%95%...
漂流ものがたり
http://www.nansenhokubasha.com/essay/hyoryu.htm...
江戸時代漂流記「出雲国清蔵の鳥島奇談」
http://www.otenki.co.jp/com/list/ch_hokuso_torishima1....
緇井鶏子
http://shiikeiko.blog.so-net.ne.jp/2009-02-1...
NAVER まとめ “爪を見る”だけで精神状態が分かる!
http://matome.naver.jp/odai/213773204823484070...
爪で病気まるわかり 爪半月
http://tsu.eulbblue.com/001/post_2.htm...
アナタハンの女王事件wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%8A%E3%82%...
現代事件簿 No.064 孤島に女1人と男32人。アナタハン島で起こった、女をめぐっての殺し合い
http://ww5.tiki.ne.jp/‾qyoshida/jikenbo/064anatahan.htm
無人島に生きる十六人 須川邦彦
http://www.aozora.gr.jp/cards/001120/files/42767_15618...
amazon.co.jp 漂流 (新潮文庫) [文庫] 吉村 昭 (著)
http://www.amazon.co.jp/%E6%BC%82%E6%B5%81-%E6%96%B0%E...
※画像は高知県香南市香我美町にある『無人島長平』の像
前スレ>>209〜>>212で、物部村の秘祭『いざなぎ流』を取り上げた。
いざなぎ流は物部でも、ごく小さな共同体でのみ伝承されてきた激レアな民間信仰。学者がこぞって取材に訪れるほど、地味に人気が高い。
下記の動画などは極めてめずらしい、貴重な資料になり得る。興味があれば覗いてみるとよい。
イキイキテレビ いざなぎ流日月祭
http://ikiiki.tv/index.php/pc/video?id=00000000...
Dear安倍晴明さん 陰陽道民間伝承・いざなぎ流 [陰陽道]
http://blog.so-net.ne.jp/dear_seimei_san/2008-07-3...
鷹陵の栞 いざなぎ流への〈旅〉その3 花をいさみて寄りござれ
http://www.bunet.jp/world/html/16_10/469_ouryou...
Y`S GEAR CLUB WEB 地球元気村といざなぎ流の和合の極意
https://www.ysgear.co.jp/mc/ysgearclub/kazama/02/index....
HIROKO YAMAMOTO WEB OFFICE 特別企画——物部・いざなぎ流関連小論 その2
http://office-hiroko.jugem.jp/?eid=3...
いざなぎ流は物部でも、ごく小さな共同体でのみ伝承されてきた激レアな民間信仰。学者がこぞって取材に訪れるほど、地味に人気が高い。
下記の動画などは極めてめずらしい、貴重な資料になり得る。興味があれば覗いてみるとよい。
イキイキテレビ いざなぎ流日月祭
http://ikiiki.tv/index.php/pc/video?id=00000000...
Dear安倍晴明さん 陰陽道民間伝承・いざなぎ流 [陰陽道]
http://blog.so-net.ne.jp/dear_seimei_san/2008-07-3...
鷹陵の栞 いざなぎ流への〈旅〉その3 花をいさみて寄りござれ
http://www.bunet.jp/world/html/16_10/469_ouryou...
Y`S GEAR CLUB WEB 地球元気村といざなぎ流の和合の極意
https://www.ysgear.co.jp/mc/ysgearclub/kazama/02/index....
HIROKO YAMAMOTO WEB OFFICE 特別企画——物部・いざなぎ流関連小論 その2
http://office-hiroko.jugem.jp/?eid=3...
弥九郎とマンの紀州犬発祥の伝説 阪本集落
三重県御浜町は主に海岸線に広がる町だが、なかでも尾呂志(おろし)地区は内陸部に入り、
さらに山間に抱かれるような隠れたところに阪本集落がある。
この阪本こそ昭和9年に天然記念物に指定された歴史ある紀州犬の発祥の地と知られており、
それにまつわる伝説を後世に伝えている。
江戸時代のころの話である。阪本には弥九郎という鉄砲撃ちの名人がいた。
ある日、弥九郎が山中で口の中に骨が刺さって苦しんでいる1匹の狼を助けた。後日、出かけようとすると、家の前には1匹の子犬がうずくまっていた。
弥九郎はハタと思い当たった。「これはこないだ助けた狼の子に違いない」
子犬を授かったことをいたく喜び、その犬を『マン』と名付けた。
弥九郎に大切に育てられたマンは、新宮の殿様を襲った手負いのイノシシを撃退し、褒美をもらうほどの勇敢なそれへと成長した。
ところがある日、弥九郎のもとに訪ねてきた叔母がこう言った。
「狼は生き物を千匹食べると次に飼い主を襲うと言われておる。イナゴ1匹でも生き物のうち。あんなに育ってきてることだし、
そろそろ千匹目になるかもしれない。おまえも寝込みを襲われんように用心した方がええ」
そのやりとりを外で聞いていたマン。人間の言葉を理解したものか、悲しげに夜空に向かって3回吠えてたのち、以来、姿を消してしまった。
マンがいなくなったあと、夜になると鷲ノ巣山から哀切を帯びた狼の遠吠えが聞こえるようになり、
阪本の住民たちは「あれはマンの鳴き声だ……」と、噂した。
坂本の紀州犬は、弥九郎が育てたマンの血を引いていると言われている。
御浜町 峰弥九郎ものがたり
http://www.bunka.pref.mie.lg.jp/minwa/kishu/mihama/index.ht...
MIE御浜町商工会 尾呂志(おろし)地区
http://www.mie-shokokai.or.jp/mihama/kankou/oroshi_index.htm...
三重県御浜町は主に海岸線に広がる町だが、なかでも尾呂志(おろし)地区は内陸部に入り、
さらに山間に抱かれるような隠れたところに阪本集落がある。
この阪本こそ昭和9年に天然記念物に指定された歴史ある紀州犬の発祥の地と知られており、
それにまつわる伝説を後世に伝えている。
江戸時代のころの話である。阪本には弥九郎という鉄砲撃ちの名人がいた。
ある日、弥九郎が山中で口の中に骨が刺さって苦しんでいる1匹の狼を助けた。後日、出かけようとすると、家の前には1匹の子犬がうずくまっていた。
弥九郎はハタと思い当たった。「これはこないだ助けた狼の子に違いない」
子犬を授かったことをいたく喜び、その犬を『マン』と名付けた。
弥九郎に大切に育てられたマンは、新宮の殿様を襲った手負いのイノシシを撃退し、褒美をもらうほどの勇敢なそれへと成長した。
ところがある日、弥九郎のもとに訪ねてきた叔母がこう言った。
「狼は生き物を千匹食べると次に飼い主を襲うと言われておる。イナゴ1匹でも生き物のうち。あんなに育ってきてることだし、
そろそろ千匹目になるかもしれない。おまえも寝込みを襲われんように用心した方がええ」
そのやりとりを外で聞いていたマン。人間の言葉を理解したものか、悲しげに夜空に向かって3回吠えてたのち、以来、姿を消してしまった。
マンがいなくなったあと、夜になると鷲ノ巣山から哀切を帯びた狼の遠吠えが聞こえるようになり、
阪本の住民たちは「あれはマンの鳴き声だ……」と、噂した。
坂本の紀州犬は、弥九郎が育てたマンの血を引いていると言われている。
御浜町 峰弥九郎ものがたり
http://www.bunka.pref.mie.lg.jp/minwa/kishu/mihama/index.ht...
MIE御浜町商工会 尾呂志(おろし)地区
http://www.mie-shokokai.or.jp/mihama/kankou/oroshi_index.htm...
糞を浴びてまで美白を得たかった娘の末路 海猫島(弁天島)
和歌山県日高郡美浜町三尾にある日ノ岬灯台へのぼる途中で、海辺にはちっぽけな無人島が見下ろせる。
それを海猫島と呼んだり、弁天島とも称したりする。ご多分に洩れず、島にはまたしても女の悲しい話が残されている。
昔々のできごと。三尾に色の黒い娘が住んでいた。娘は海にもぐって魚介を採ってそれを売ったり、破れた網を繕ったりしながら暮らしていた。
娘はその素肌の色に劣等感を抱いていた。できることなら色白の美肌になりたいと思い、毎日御崎の神にお祈りをかかさなかった。
ある夜のことである。枕元にまばゆい光をまとった神が現れ、こう言うのだ。「願いを叶えたくば、21日間、水乞いをとりなさい」
娘はお告げのとおり、冷たい水を頭からかぶって身を清め、無心で祈りを捧げた。
ついに悲願の21日目を迎え、浜辺に出た。するとどこからともなく羽音が聞こえてくるではないか。
それはおびただしい数の音で、頭上に気配を感じたとたん、頭頂部に、べちゃりと何か生暖かいものが降り注ぎ、やにわに顔まで垂れてきた。
娘はもしやと思い、頬を伝う粘液を手にとってみた。紛れもない。ウミネコの白い糞だったのだ。
はじめは嫌悪した娘だったが、糞は奇跡をもたらした。不思議なことにあれほど黒かった肌が、真っ白になっていたのだ。
娘はそれ以来、毎日浜に来てはウミネコが飛来するのを待ち侘び、糞を浴び続けた。日増しに白くて美肌に変じていくさまを嬉々としてすごしていた。
しかし女の欲望は際限がない。より美しくなりたいと願う娘の執念がこりかたまり、しだいに娘の姿は峨々たる岩山の様相を呈し、
ついには1個の島になってしまったのだ。
いつしか人はこの島を海猫島と呼ぶようになった。漁師たちは島の頂上に弁天様を祀り、娘の魂をなぐさめた。
今でも島にはウミネコが寝床にしており、糞で岩肌が白くなっている。
癒しの和歌山☆彡 ☆ 三穂の浦のウミネコ島 ☆
http://ameblo.jp/968-910/entry-10409356681.htm...
声なきに聴き 形なきに視る〜ためによりも 立場にたって〜 弁天島になった娘(美浜町に伝わる話)=ひだかむかしばなし
http://blog.goo.ne.jp/xkxpd325/e/43b151b676f5d495238...
関西自然に親しむ風景100選90番 煙樹ヶ浜と日の岬
http://www.global-kansai.or.jp/kansai100sen/fukei090.ht...
和歌山県日高郡美浜町三尾にある日ノ岬灯台へのぼる途中で、海辺にはちっぽけな無人島が見下ろせる。
それを海猫島と呼んだり、弁天島とも称したりする。ご多分に洩れず、島にはまたしても女の悲しい話が残されている。
昔々のできごと。三尾に色の黒い娘が住んでいた。娘は海にもぐって魚介を採ってそれを売ったり、破れた網を繕ったりしながら暮らしていた。
娘はその素肌の色に劣等感を抱いていた。できることなら色白の美肌になりたいと思い、毎日御崎の神にお祈りをかかさなかった。
ある夜のことである。枕元にまばゆい光をまとった神が現れ、こう言うのだ。「願いを叶えたくば、21日間、水乞いをとりなさい」
娘はお告げのとおり、冷たい水を頭からかぶって身を清め、無心で祈りを捧げた。
ついに悲願の21日目を迎え、浜辺に出た。するとどこからともなく羽音が聞こえてくるではないか。
それはおびただしい数の音で、頭上に気配を感じたとたん、頭頂部に、べちゃりと何か生暖かいものが降り注ぎ、やにわに顔まで垂れてきた。
娘はもしやと思い、頬を伝う粘液を手にとってみた。紛れもない。ウミネコの白い糞だったのだ。
はじめは嫌悪した娘だったが、糞は奇跡をもたらした。不思議なことにあれほど黒かった肌が、真っ白になっていたのだ。
娘はそれ以来、毎日浜に来てはウミネコが飛来するのを待ち侘び、糞を浴び続けた。日増しに白くて美肌に変じていくさまを嬉々としてすごしていた。
しかし女の欲望は際限がない。より美しくなりたいと願う娘の執念がこりかたまり、しだいに娘の姿は峨々たる岩山の様相を呈し、
ついには1個の島になってしまったのだ。
いつしか人はこの島を海猫島と呼ぶようになった。漁師たちは島の頂上に弁天様を祀り、娘の魂をなぐさめた。
今でも島にはウミネコが寝床にしており、糞で岩肌が白くなっている。
癒しの和歌山☆彡 ☆ 三穂の浦のウミネコ島 ☆
http://ameblo.jp/968-910/entry-10409356681.htm...
声なきに聴き 形なきに視る〜ためによりも 立場にたって〜 弁天島になった娘(美浜町に伝わる話)=ひだかむかしばなし
http://blog.goo.ne.jp/xkxpd325/e/43b151b676f5d495238...
関西自然に親しむ風景100選90番 煙樹ヶ浜と日の岬
http://www.global-kansai.or.jp/kansai100sen/fukei090.ht...
リア充しか渡れない恋人の聖地にキリシタン伝説あり 余島
香川県の高浜港の北にある小豆島。小豆島に関しては前スレ>>409で一度やったが、ふたたび違うネタで。
島の南西部・土庄町総合会館のほぼ真南には、弁天島と中余島、小余島、大余島(この4島を総称して『余島』)が点在している。
これらの島へは1日2回干潮時に、いわゆるトンボロ現象によって海岸に砂州が現れ、歩いて渡ることができる。
地元ではこの陸繋砂州を『エンジェルロード(天使の道)』と呼び、観光客の誘致、ひいては恋人たちが手をつないで渡ると幸せをつかむことが
できるという噂が口コミで広がり、願掛けの絵馬や貝殻を中余島の樹木に結びつけていくことで注目を浴びている。
意中のお相手がいない者が1人で渡るのは、いたたまれない心境になろう。
エンジェルロードの名前は伊達で付けたわけではない。それにまつわるキリシタン伝説があったのだ。
そもそも小豆島にキリスト教を伝えたのは、大坂城築城の石を切り出すため派遣されたキリシタン大名・小西行長であった。
小西行長はこの島を日本のキリスト教の本拠地にすべく、宣教師グレゴリオ・デ・セレベデスを送り込んで熱心に布教した。
しかし天正15(1587)年、豊臣秀吉はキリスト教禁止令を発し、厳しく取締りを始める。
隠れキリシタンであった島の娘タエは、逃れてきたキリシタン大名・高山右近のぞはに仕えていた。
やがて船で長崎に逃れる手はずを整えるため、セミナリオの神学生・小平太がやってきた。いつしか小平太とタエは恋に落ちるのである。
ある日の追っ手の襲撃。なんとか難を逃れた右近と小平太は、入り江の向こうに4つ並んだ余島に渡り、九州行きの船を待っていた。
夜、隣村から戻って事情を知ったタエは、小平太を追って入り江まで来たはいいが、暗いうえに流れの速い海を渡れるはずもない。
手を合わせていたタエは小平太から聞いた願いごとが叶うというおまじないを思い出した。
砂浜に貝殻を5個、十字架の形に並べ、夜空に向かって無心で祈ったのである。
すると奇跡が起きた。空から星が1つ降りてきたかと思うと、愛らしい天使になったのだ。
天使は竪琴を弾きながら海の上をゆっくりと羽ばたき、タエは魅了されたかのごとくその導きを追った。
不思議なことに、タエが踏み出した足もとには波間から白い砂の道が現れ、光輝きながら島に向かって伸びていった。
タエはついに3つの島を渡りきり、対岸で待ついとしい小平太の胸に飛び込んだ。
この様子を見ていた村人たちはそれ以後、愛の力で海の中にできる砂州を『エンジェルロード』と呼ぶようになったという。
小西行長wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E8%A5%BF%E8%A1%...
高山右近wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E5%B1%B1%E5%8F%...
小豆島国際ホテル エンジェルロード
http://www.shodoshima-kh.jp/angel/index.ph...
[PDF]エンジェルロード
http://doboku7.sakura.ne.jp/kikou/dobokukikou78.pd...
函館無限1UP エンジェルロード 天使の散歩道
http://blogs.yahoo.co.jp/authortalentfactor/archive/201...
香川県の高浜港の北にある小豆島。小豆島に関しては前スレ>>409で一度やったが、ふたたび違うネタで。
島の南西部・土庄町総合会館のほぼ真南には、弁天島と中余島、小余島、大余島(この4島を総称して『余島』)が点在している。
これらの島へは1日2回干潮時に、いわゆるトンボロ現象によって海岸に砂州が現れ、歩いて渡ることができる。
地元ではこの陸繋砂州を『エンジェルロード(天使の道)』と呼び、観光客の誘致、ひいては恋人たちが手をつないで渡ると幸せをつかむことが
できるという噂が口コミで広がり、願掛けの絵馬や貝殻を中余島の樹木に結びつけていくことで注目を浴びている。
意中のお相手がいない者が1人で渡るのは、いたたまれない心境になろう。
エンジェルロードの名前は伊達で付けたわけではない。それにまつわるキリシタン伝説があったのだ。
そもそも小豆島にキリスト教を伝えたのは、大坂城築城の石を切り出すため派遣されたキリシタン大名・小西行長であった。
小西行長はこの島を日本のキリスト教の本拠地にすべく、宣教師グレゴリオ・デ・セレベデスを送り込んで熱心に布教した。
しかし天正15(1587)年、豊臣秀吉はキリスト教禁止令を発し、厳しく取締りを始める。
隠れキリシタンであった島の娘タエは、逃れてきたキリシタン大名・高山右近のぞはに仕えていた。
やがて船で長崎に逃れる手はずを整えるため、セミナリオの神学生・小平太がやってきた。いつしか小平太とタエは恋に落ちるのである。
ある日の追っ手の襲撃。なんとか難を逃れた右近と小平太は、入り江の向こうに4つ並んだ余島に渡り、九州行きの船を待っていた。
夜、隣村から戻って事情を知ったタエは、小平太を追って入り江まで来たはいいが、暗いうえに流れの速い海を渡れるはずもない。
手を合わせていたタエは小平太から聞いた願いごとが叶うというおまじないを思い出した。
砂浜に貝殻を5個、十字架の形に並べ、夜空に向かって無心で祈ったのである。
すると奇跡が起きた。空から星が1つ降りてきたかと思うと、愛らしい天使になったのだ。
天使は竪琴を弾きながら海の上をゆっくりと羽ばたき、タエは魅了されたかのごとくその導きを追った。
不思議なことに、タエが踏み出した足もとには波間から白い砂の道が現れ、光輝きながら島に向かって伸びていった。
タエはついに3つの島を渡りきり、対岸で待ついとしい小平太の胸に飛び込んだ。
この様子を見ていた村人たちはそれ以後、愛の力で海の中にできる砂州を『エンジェルロード』と呼ぶようになったという。
小西行長wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E8%A5%BF%E8%A1%...
高山右近wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E5%B1%B1%E5%8F%...
小豆島国際ホテル エンジェルロード
http://www.shodoshima-kh.jp/angel/index.ph...
[PDF]エンジェルロード
http://doboku7.sakura.ne.jp/kikou/dobokukikou78.pd...
函館無限1UP エンジェルロード 天使の散歩道
http://blogs.yahoo.co.jp/authortalentfactor/archive/201...
>>66の無足明神『ムスッドン』について追加。
[PDF]いぶすきまるごと博物館(第95回)ムスッドンの無足舞と不思議な石像
http://www.city.ibusuki.lg.jp/modules/xfsection/cache/upload...
[PDF]いぶすきまるごと博物館(第95回)ムスッドンの無足舞と不思議な石像
http://www.city.ibusuki.lg.jp/modules/xfsection/cache/upload...
人類創生異伝4 沖の島
沖ノ島といえば、真っ先に前スレ>>10の玄界灘の『海の正倉院』を思い浮かべるが、今回は高知県宿毛(すくも)市の方の『沖の島』だ。
四国の最南端である足摺岬の西、約40km、宿毛港から南西へ約25kmの距離にある有人島である。
およそ数百年にわたって積み上げられた石段の上に民家が軒を連ねており、その景観は2009年、『石垣・石段とともにある暮らし』として
『島の宝100景』に選出されたほどである。
集落は北側の母島(もしま)地区と、南側の弘瀬地区を中心に古屋野、谷尻、久保浦などの小集落が点在しており、
なかでも母島には元久2(1205)年に鎌倉から訪れた山伏が住み着いたという伝説をはじめ、鎌倉幕府の重臣であった三浦大助の孫、
三浦新助則久という人物が何かの事情では咎(とが)を受け、その一族とともに今の弘瀬を開墾して農耕をし、海岸では漁業を行い、
島の祖となったと言われている。
その他に、沖の島には沖縄あたりから兄妹始祖神話が伝播して生まれたであろう人類創生伝説の文献があるというから驚きだ。
太古のころ、沖の島は別名、妹背(いもせ)島と呼ばれていた。
その昔、土佐国に1人の農民が住んでいた。あるとき、その男が食物や農作業用の鋤・鍬・鎌などの道具、それに稲の苗を舟に積み込んだあと、
14、5歳の男の子と、12、3のその妹に舟番をしてもらい、陸に上がった。
2人の兄妹は船底で横になり寝息を立てていたが、いつしか潮が満ちてきて舟は流され、沖へ出てしまう。
兄妹は泣きながら必死の思いで妹背島に上陸した。さんざん島を調べ回ったものの、まったく人気がない。
食料が尽きると、舟に積んであった稲苗を水のあるところに植えて田を作ってみた。それから斧やのこぎりで木を切り倒して家を建て、
木の実を食べて飢えをしのいでいるうちに季節は秋になった。田には稲がよく実ったので、それを刈り取って備蓄した。
やがて歳月が経ち、兄妹は年頃になったので契りを結び、男の子と女の子をもうけた。
その子供たちがまた夫婦になって子孫がふえ、おかげで島は栄え、田を多く作り広げて今日に至っているという。
宿毛市 沖の島
http://www.city.sukumo.kochi.jp/kankou/okinoshima.htm...
古代、中世の沖の島 妹背島伝説
http://www.city.sukumo.kochi.jp/sbc/history/sisi/009901.htm...
【兄妹婚】物語要素事典
http://www.aichi-gakuin.ac.jp/‾kamiyama/ki2.htm#kyokon
[PDF]
兄妹始祖神話再考 〜生まれ出ずるものを中心として
http://journal.seijo.ac.jp/gslit/student/jomin/pdf/jpn-03...
大阪の史跡好きライター「醸工房」 妹背と洪水
http://blog.livedoor.jp/writer_norichan/archives/cat_5...
Myth is Mystery Mazes 兄妹始祖神話について
http://blog.livedoor.jp/eastasian/archives/1578003.htm...
沖ノ島といえば、真っ先に前スレ>>10の玄界灘の『海の正倉院』を思い浮かべるが、今回は高知県宿毛(すくも)市の方の『沖の島』だ。
四国の最南端である足摺岬の西、約40km、宿毛港から南西へ約25kmの距離にある有人島である。
およそ数百年にわたって積み上げられた石段の上に民家が軒を連ねており、その景観は2009年、『石垣・石段とともにある暮らし』として
『島の宝100景』に選出されたほどである。
集落は北側の母島(もしま)地区と、南側の弘瀬地区を中心に古屋野、谷尻、久保浦などの小集落が点在しており、
なかでも母島には元久2(1205)年に鎌倉から訪れた山伏が住み着いたという伝説をはじめ、鎌倉幕府の重臣であった三浦大助の孫、
三浦新助則久という人物が何かの事情では咎(とが)を受け、その一族とともに今の弘瀬を開墾して農耕をし、海岸では漁業を行い、
島の祖となったと言われている。
その他に、沖の島には沖縄あたりから兄妹始祖神話が伝播して生まれたであろう人類創生伝説の文献があるというから驚きだ。
太古のころ、沖の島は別名、妹背(いもせ)島と呼ばれていた。
その昔、土佐国に1人の農民が住んでいた。あるとき、その男が食物や農作業用の鋤・鍬・鎌などの道具、それに稲の苗を舟に積み込んだあと、
14、5歳の男の子と、12、3のその妹に舟番をしてもらい、陸に上がった。
2人の兄妹は船底で横になり寝息を立てていたが、いつしか潮が満ちてきて舟は流され、沖へ出てしまう。
兄妹は泣きながら必死の思いで妹背島に上陸した。さんざん島を調べ回ったものの、まったく人気がない。
食料が尽きると、舟に積んであった稲苗を水のあるところに植えて田を作ってみた。それから斧やのこぎりで木を切り倒して家を建て、
木の実を食べて飢えをしのいでいるうちに季節は秋になった。田には稲がよく実ったので、それを刈り取って備蓄した。
やがて歳月が経ち、兄妹は年頃になったので契りを結び、男の子と女の子をもうけた。
その子供たちがまた夫婦になって子孫がふえ、おかげで島は栄え、田を多く作り広げて今日に至っているという。
宿毛市 沖の島
http://www.city.sukumo.kochi.jp/kankou/okinoshima.htm...
古代、中世の沖の島 妹背島伝説
http://www.city.sukumo.kochi.jp/sbc/history/sisi/009901.htm...
【兄妹婚】物語要素事典
http://www.aichi-gakuin.ac.jp/‾kamiyama/ki2.htm#kyokon
[PDF]
兄妹始祖神話再考 〜生まれ出ずるものを中心として
http://journal.seijo.ac.jp/gslit/student/jomin/pdf/jpn-03...
大阪の史跡好きライター「醸工房」 妹背と洪水
http://blog.livedoor.jp/writer_norichan/archives/cat_5...
Myth is Mystery Mazes 兄妹始祖神話について
http://blog.livedoor.jp/eastasian/archives/1578003.htm...
白鬚明神なる祭神を祀った謎の祠・白鬚=新羅? 対馬島 1
旅客船セウォル号沈没事故を受けて、掲示板の類では下世話にも、「韓国はワダツミの神の逆鱗に触れているのではないか?」と、
まことしやかに囁かれているが、単に危機管理能力の杜撰さがここにきて断続的に露呈しているだけだと思うが……。
その海神神社は対馬の一宮で上島に鎮座する。
主神に海の女神豊玉姫命を据え、彦火火出見尊、宗像神、道主貴神、鵜茅草葺不合命を祀っている。
社伝によると、神功皇后が三韓征伐からの帰還する際、新羅を鎮めた証として旗八流を上県、郡峰町に納めたことに由来するという。
旗はのちに現在地の木板山(伊豆山)に移され、木坂八幡宮と称された。
また、仁徳天皇の時代、木坂山に起こった奇雲烈風が日本に攻めてきた異国の軍艦を沈めたとの胸躍る伝承も残されている。
明治3(1870)年、『延喜式神名帳』に見える和多都美神社へと改めた。翌明治4年5月、国幣中社に列格するとき、祭神を八幡神から豊玉姫命に改め、
同年6月に現在の海神神社へと変遷した。
……さて、天邪鬼な僕としては、海神神社よりも別の神社が気になってしかたがないのだ。
対馬の北端には2つの『白鬚(しらひげ)神社』があり、問題の『白鬚明神』が祀られているのだ。白鬚明神とは耳慣れない祭神であろう。
実はこの白鬚神社こそが、この神の原初の形態をとどめているのではないかと示唆されている。
周知のとおり、対馬は本土と朝鮮半島の中央……どちらかと言うとやや半島寄りに位置し、わずか53kmの距離にある。
古来より日本と韓国からの文物が行き来し、日本にとっては良くも悪くも異国との文化的・経済的交流の橋渡しの役を担ってきた。
ところで、最北端にある上対馬町の『豊』という集落にはこんな伝承がある。
対馬の沖合に椎根島なる無人島があり、別名『通らずが浜』と村人は呼んでいた。
江戸時代、他国の船頭が島にやってきて、薪を拾うために島の山に登った。花が咲き乱れ、白い水が流れているところがあったので、
ぼんやり眺めていたら、どこからともなく白髪の老翁が現れた。謎の老翁はニベもなく「何をしに来た? 早々帰れ」と、言った。
船頭は臆して引き返そうとすると、「よいか、この水を見たことを誰かに喋ると命がないぞ」と、警告。
「す、すっかり忘れた……お助け」と、船頭が言って逃げたが、老翁の言いつけを守らなかったのか、ほどなく死んだという。
旅客船セウォル号沈没事故を受けて、掲示板の類では下世話にも、「韓国はワダツミの神の逆鱗に触れているのではないか?」と、
まことしやかに囁かれているが、単に危機管理能力の杜撰さがここにきて断続的に露呈しているだけだと思うが……。
その海神神社は対馬の一宮で上島に鎮座する。
主神に海の女神豊玉姫命を据え、彦火火出見尊、宗像神、道主貴神、鵜茅草葺不合命を祀っている。
社伝によると、神功皇后が三韓征伐からの帰還する際、新羅を鎮めた証として旗八流を上県、郡峰町に納めたことに由来するという。
旗はのちに現在地の木板山(伊豆山)に移され、木坂八幡宮と称された。
また、仁徳天皇の時代、木坂山に起こった奇雲烈風が日本に攻めてきた異国の軍艦を沈めたとの胸躍る伝承も残されている。
明治3(1870)年、『延喜式神名帳』に見える和多都美神社へと改めた。翌明治4年5月、国幣中社に列格するとき、祭神を八幡神から豊玉姫命に改め、
同年6月に現在の海神神社へと変遷した。
……さて、天邪鬼な僕としては、海神神社よりも別の神社が気になってしかたがないのだ。
対馬の北端には2つの『白鬚(しらひげ)神社』があり、問題の『白鬚明神』が祀られているのだ。白鬚明神とは耳慣れない祭神であろう。
実はこの白鬚神社こそが、この神の原初の形態をとどめているのではないかと示唆されている。
周知のとおり、対馬は本土と朝鮮半島の中央……どちらかと言うとやや半島寄りに位置し、わずか53kmの距離にある。
古来より日本と韓国からの文物が行き来し、日本にとっては良くも悪くも異国との文化的・経済的交流の橋渡しの役を担ってきた。
ところで、最北端にある上対馬町の『豊』という集落にはこんな伝承がある。
対馬の沖合に椎根島なる無人島があり、別名『通らずが浜』と村人は呼んでいた。
江戸時代、他国の船頭が島にやってきて、薪を拾うために島の山に登った。花が咲き乱れ、白い水が流れているところがあったので、
ぼんやり眺めていたら、どこからともなく白髪の老翁が現れた。謎の老翁はニベもなく「何をしに来た? 早々帰れ」と、言った。
船頭は臆して引き返そうとすると、「よいか、この水を見たことを誰かに喋ると命がないぞ」と、警告。
「す、すっかり忘れた……お助け」と、船頭が言って逃げたが、老翁の言いつけを守らなかったのか、ほどなく死んだという。
白鬚明神なる祭神を祀った謎の祠・白鬚=新羅? 対馬島 2
この話では、『白い水』と『白髪の老翁』が何なのか気になる。
郷土史の第一人者、永留久恵氏によると、椎根島にはかつて式内社があり、江戸時代には祠があったとされている。
もっとも、現在はただの岩礁にすぎない。
また、『上対馬 ものごつ・いいつたえ』によると、『白い水溜り』の池には『白蛇』と『白髪の老人』が棲んでいたそうだ。
これらを含めて、『白い水』『白髪の老人』『白蛇』が意味するものは何か?
どうやらこの地域の広範に分布する海神・安曇の祖先『安曇磯良(あずみいそら)』が浮かび上がるのである。
上対馬町のやや下である峰町に海神神社があるが、その近くに、やはり白鬚明神の祠があったと言われている。祭神は、まさしく安曇磯良。
『津島記事』によると、「磯良が白髪の老翁となって猿田彦とともに現れ、神功皇后に奉仕した」との記述が見受けられる。
「池(水)から出てきた老翁が海神の様相をとどめている」という考えは、古代朝鮮でも裏付けられるそうだ。
現代の韓国の寺院でさえ、壁面や堂内には白髪白鬚の老人が配置されており、『山神』とか『竜神』と呼ばれている。
古来より朝鮮では、神は白髪白鬚の老人として描かれ、『山神』『竜神』が主流であったという。
しかしながら竜神の場合、女性として描かれることも多々あるが。
古代朝鮮の『三国遺事』の新羅王の条をみると、老人が池や海と関連し、また竜と交渉をもつ伝承が記載してある。
日本にも椎根島のように老翁と池(水)の絡む伝承が各地に伝播していることから、これは古代朝鮮から日本に連なるものではなかろうかと推測される。
しかもこれらが海神、安曇氏の拠点と結びつくことが注目に値する。
知らなかったが類似の白鬚神社は全国に、なんと300社前後もあるらしい。有名どころでは琵琶湖西岸にも同様の神社がある。
すべてを羅列すると長くなりすぎるし、いささか冗長である。それはまたの機会に語られるべきであろう。
対馬市
http://www.city.tsushima.nagasaki.jp/
ぶらり寺社めぐり 海神神社・対馬国一之宮(長崎)
http://www.geocities.jp/flow_and_stock/jisya-kyuusyuu/...
神人写楽・中野英治 秋の祭り
http://sinjinsyaraku.jimdo.com/%E7%A5%AD%E3%82%8A%E3%82%AE%E3...
玄松子の記憶 安曇磯良
http://www.genbu.net/saijin/isora.ht...
玄松子の記憶 海神神社 (対馬)
http://www.genbu.net/data/tusima/kaijin_title.ht...
第68話 日本は祟り神のおかげで守られている
http://www11.plala.or.jp/yamamotokenta/column.files/shi...
【おやこ新聞】まめちしき「対馬の仏像」なぜ返ってこないの?
http://sankei.jp.msn.com/world/news/140503/kor140503084...
※画像は海神神社
この話では、『白い水』と『白髪の老翁』が何なのか気になる。
郷土史の第一人者、永留久恵氏によると、椎根島にはかつて式内社があり、江戸時代には祠があったとされている。
もっとも、現在はただの岩礁にすぎない。
また、『上対馬 ものごつ・いいつたえ』によると、『白い水溜り』の池には『白蛇』と『白髪の老人』が棲んでいたそうだ。
これらを含めて、『白い水』『白髪の老人』『白蛇』が意味するものは何か?
どうやらこの地域の広範に分布する海神・安曇の祖先『安曇磯良(あずみいそら)』が浮かび上がるのである。
上対馬町のやや下である峰町に海神神社があるが、その近くに、やはり白鬚明神の祠があったと言われている。祭神は、まさしく安曇磯良。
『津島記事』によると、「磯良が白髪の老翁となって猿田彦とともに現れ、神功皇后に奉仕した」との記述が見受けられる。
「池(水)から出てきた老翁が海神の様相をとどめている」という考えは、古代朝鮮でも裏付けられるそうだ。
現代の韓国の寺院でさえ、壁面や堂内には白髪白鬚の老人が配置されており、『山神』とか『竜神』と呼ばれている。
古来より朝鮮では、神は白髪白鬚の老人として描かれ、『山神』『竜神』が主流であったという。
しかしながら竜神の場合、女性として描かれることも多々あるが。
古代朝鮮の『三国遺事』の新羅王の条をみると、老人が池や海と関連し、また竜と交渉をもつ伝承が記載してある。
日本にも椎根島のように老翁と池(水)の絡む伝承が各地に伝播していることから、これは古代朝鮮から日本に連なるものではなかろうかと推測される。
しかもこれらが海神、安曇氏の拠点と結びつくことが注目に値する。
知らなかったが類似の白鬚神社は全国に、なんと300社前後もあるらしい。有名どころでは琵琶湖西岸にも同様の神社がある。
すべてを羅列すると長くなりすぎるし、いささか冗長である。それはまたの機会に語られるべきであろう。
対馬市
http://www.city.tsushima.nagasaki.jp/
ぶらり寺社めぐり 海神神社・対馬国一之宮(長崎)
http://www.geocities.jp/flow_and_stock/jisya-kyuusyuu/...
神人写楽・中野英治 秋の祭り
http://sinjinsyaraku.jimdo.com/%E7%A5%AD%E3%82%8A%E3%82%AE%E3...
玄松子の記憶 安曇磯良
http://www.genbu.net/saijin/isora.ht...
玄松子の記憶 海神神社 (対馬)
http://www.genbu.net/data/tusima/kaijin_title.ht...
第68話 日本は祟り神のおかげで守られている
http://www11.plala.or.jp/yamamotokenta/column.files/shi...
【おやこ新聞】まめちしき「対馬の仏像」なぜ返ってこないの?
http://sankei.jp.msn.com/world/news/140503/kor140503084...
※画像は海神神社
巨石で人工的に組まれた? 謎の鳥居・王位石(おえいし) 野崎島
長崎県五島列島の北東部に位置する野崎島。旧石器時代から戦国時代にかけての遺跡などが多数出土しているおり、
太古より人が住んでいたとされる。
島北部にある沖神嶋(おきのこうじま)神社は遣唐使の航海安全を願って慶雲元(704)年に創建されたもので、
五島列島の中では随一の古社として知られている。
その社殿背後の山腹上部には意味ありげな巨石が、まるで鳥居でも組み合わせたかのようにそびえ立っている。
神域を思わせる佇まいである。奇岩とひと括りするのは無礼だろう。
それもそのはず、巨石群を『王位石』と呼んでおり、沖神嶋神社の御神体とされているのだ。
高さ24m、幅12mにいくつかの岩が形よく嵌め込まれ、頂上の天板の石は5m×3mの広さを誇る。
故意につくられたものか自然にできたものなのか判明しておらず、その用途もメンヒルの一種、古代の祭祀場跡、天板上で神楽を奉納したとか、
遣唐使船航行の目印だった、あるいは遥か太古に巨石の上に神島明神が現れたという伝説もあり、いずれにせよ古来から崇拝されてきたという。
神島明神が現れた伝説というのは興味深く、いろいろ探ったのだが詳細はつかめなかった。無念……。
奇蹟の島 野崎島 長崎県五島列島北端 小値賀町
http://nozakijima.jp/midokoro.htm...
島作家 斉藤潤の島紀行 王位石探索行 — 14年前の野崎島(1)
http://www.japan-island.info/portal/essay/100/60...
西彼杵半島日和 野崎島 王位石・沖の神嶋神社 編
http://who-ta.seesaa.net/article/221187721.htm...
長崎県五島列島の北東部に位置する野崎島。旧石器時代から戦国時代にかけての遺跡などが多数出土しているおり、
太古より人が住んでいたとされる。
島北部にある沖神嶋(おきのこうじま)神社は遣唐使の航海安全を願って慶雲元(704)年に創建されたもので、
五島列島の中では随一の古社として知られている。
その社殿背後の山腹上部には意味ありげな巨石が、まるで鳥居でも組み合わせたかのようにそびえ立っている。
神域を思わせる佇まいである。奇岩とひと括りするのは無礼だろう。
それもそのはず、巨石群を『王位石』と呼んでおり、沖神嶋神社の御神体とされているのだ。
高さ24m、幅12mにいくつかの岩が形よく嵌め込まれ、頂上の天板の石は5m×3mの広さを誇る。
故意につくられたものか自然にできたものなのか判明しておらず、その用途もメンヒルの一種、古代の祭祀場跡、天板上で神楽を奉納したとか、
遣唐使船航行の目印だった、あるいは遥か太古に巨石の上に神島明神が現れたという伝説もあり、いずれにせよ古来から崇拝されてきたという。
神島明神が現れた伝説というのは興味深く、いろいろ探ったのだが詳細はつかめなかった。無念……。
奇蹟の島 野崎島 長崎県五島列島北端 小値賀町
http://nozakijima.jp/midokoro.htm...
島作家 斉藤潤の島紀行 王位石探索行 — 14年前の野崎島(1)
http://www.japan-island.info/portal/essay/100/60...
西彼杵半島日和 野崎島 王位石・沖の神嶋神社 編
http://who-ta.seesaa.net/article/221187721.htm...
忽那(つくな)水軍の城塞島 クダコ島
クダコ島は愛媛県松山市に属する怒和島(前スレ>>231を参照されたし)と中島本島の中間に位置する、周囲1.8kmの無人島だ。
この海域をクダコ水道といい、大物のタイやブリが狙える好漁場で釣り人にはたまらないだろうが、潮流が速く危険を伴うエリアでもある。
『クダコ』という名とは奇妙な響きだ。
これはおよそ鎌倉時代から安土・桃山時代までといわれる中世のころ、この島を拠点にしていた水軍の呼び名であり、
忽那家文書には『久田子衆』や『九多児衆』と記されている。
言うまでもなく水軍は、海上における組織的な戦闘力・行動力・情報収集力を活用してテリトリーを掌握した。
水軍の基本的な性格は、瀬戸内海の島々や沿岸の半農半漁の海人たちを母胎とした海上武士団・海上交易商人団・海上交通支配団ともいうべき
機動的武装集団であり、海に生きる海人の本領を遺憾なく発揮した。
また水軍は海賊衆・警固(けいご)衆とも呼ばれ、いずれも島々や沿岸の要害の地に堅固な水軍城(海城)を築き、水軍独特の情報ネットワークを駆使して
各瀬戸に睨みを利かせた。
彼らは、瀬戸内海の要地を航行する船舶から帆別銭(ほべつせん=帆の広さによる税金)、荷駄別役銭(にだべつやくせん=積荷の多少による税金)、
櫓別銭(ろべつせん=櫓の数による税金)など、通行税を徴収し、水先案内や警備保障費にあたる警固料を取得して、
それぞれの水軍の領地支配と経済基盤を強固なものにした。
忽那水軍も例に洩れず中島に本拠を設置。各所に砦を設け、往時は西瀬戸一帯を牛耳ってきたといわれている。
クダコ島はまさにそのうちの1つであり、今も島内に名残りをとどめているのだ。
島からは南北朝時代(1336〜1392年)のものと思われる城塞跡が見つかっていることから、島がまるごと城という威容を誇っていた。
城郭は頂上の地形を巧みに利用して第1、2、3郭に区切られ、第1郭は50m×22m、第2郭は50m×25m、第3郭は44m×33mの長方形であったとされる。
第1郭と第2郭の段差は5m、第2、3郭は2.5mの段差があり、段ごとに幅3m、深さ50cmの堅堀によって連携。
島の南側は絶壁であることから自然の城壁とし、船着場跡にはピットが残されている。
もっともその城塞の島も、天正13(1585)年、忽那水軍の滅亡とともに役割を終え、江戸時代には草刈り・採藻の入会地と変わり果てた……。
全盛期のクダコ島には常時、見張りの兵士を立て厳重な警備をしていた。
あるときには弓の名人が、許可なくクダコ水道を横切ろうとする船の帆柱を射ち、なんば(帆を巻き上げる滑車)を壊して船が進めないようにしたり、
またあるときには、そろばん自慢の兵士が潮の流れを計算して、水道を通っていく船を自然に引き寄せたりして、作為的に通行税を徴収していたとも
言われている。
愛媛県 しまの詳細:怒和島(ぬわじま)
http://www.pref.ehime.jp/chu52109/navi/shima/nuwajima/i...
はっしのオレ物語 クダコ釣行 『瀬戸内モンスター』ブリGET!!
http://d.hatena.ne.jp/k-pac/20131101/p...
52回の週末 7/17 忽那諸島シーカヤックツーリング
http://quickturn.jp/archives/2010/07/17/%E5%BF%BD%...
[PDF]しまの情報紙 2012春号 愛ランドまつやま 松山離島振興協会
http://island-matsuyama.com/h24spring.pd...
クダコ島は愛媛県松山市に属する怒和島(前スレ>>231を参照されたし)と中島本島の中間に位置する、周囲1.8kmの無人島だ。
この海域をクダコ水道といい、大物のタイやブリが狙える好漁場で釣り人にはたまらないだろうが、潮流が速く危険を伴うエリアでもある。
『クダコ』という名とは奇妙な響きだ。
これはおよそ鎌倉時代から安土・桃山時代までといわれる中世のころ、この島を拠点にしていた水軍の呼び名であり、
忽那家文書には『久田子衆』や『九多児衆』と記されている。
言うまでもなく水軍は、海上における組織的な戦闘力・行動力・情報収集力を活用してテリトリーを掌握した。
水軍の基本的な性格は、瀬戸内海の島々や沿岸の半農半漁の海人たちを母胎とした海上武士団・海上交易商人団・海上交通支配団ともいうべき
機動的武装集団であり、海に生きる海人の本領を遺憾なく発揮した。
また水軍は海賊衆・警固(けいご)衆とも呼ばれ、いずれも島々や沿岸の要害の地に堅固な水軍城(海城)を築き、水軍独特の情報ネットワークを駆使して
各瀬戸に睨みを利かせた。
彼らは、瀬戸内海の要地を航行する船舶から帆別銭(ほべつせん=帆の広さによる税金)、荷駄別役銭(にだべつやくせん=積荷の多少による税金)、
櫓別銭(ろべつせん=櫓の数による税金)など、通行税を徴収し、水先案内や警備保障費にあたる警固料を取得して、
それぞれの水軍の領地支配と経済基盤を強固なものにした。
忽那水軍も例に洩れず中島に本拠を設置。各所に砦を設け、往時は西瀬戸一帯を牛耳ってきたといわれている。
クダコ島はまさにそのうちの1つであり、今も島内に名残りをとどめているのだ。
島からは南北朝時代(1336〜1392年)のものと思われる城塞跡が見つかっていることから、島がまるごと城という威容を誇っていた。
城郭は頂上の地形を巧みに利用して第1、2、3郭に区切られ、第1郭は50m×22m、第2郭は50m×25m、第3郭は44m×33mの長方形であったとされる。
第1郭と第2郭の段差は5m、第2、3郭は2.5mの段差があり、段ごとに幅3m、深さ50cmの堅堀によって連携。
島の南側は絶壁であることから自然の城壁とし、船着場跡にはピットが残されている。
もっともその城塞の島も、天正13(1585)年、忽那水軍の滅亡とともに役割を終え、江戸時代には草刈り・採藻の入会地と変わり果てた……。
全盛期のクダコ島には常時、見張りの兵士を立て厳重な警備をしていた。
あるときには弓の名人が、許可なくクダコ水道を横切ろうとする船の帆柱を射ち、なんば(帆を巻き上げる滑車)を壊して船が進めないようにしたり、
またあるときには、そろばん自慢の兵士が潮の流れを計算して、水道を通っていく船を自然に引き寄せたりして、作為的に通行税を徴収していたとも
言われている。
愛媛県 しまの詳細:怒和島(ぬわじま)
http://www.pref.ehime.jp/chu52109/navi/shima/nuwajima/i...
はっしのオレ物語 クダコ釣行 『瀬戸内モンスター』ブリGET!!
http://d.hatena.ne.jp/k-pac/20131101/p...
52回の週末 7/17 忽那諸島シーカヤックツーリング
http://quickturn.jp/archives/2010/07/17/%E5%BF%BD%...
[PDF]しまの情報紙 2012春号 愛ランドまつやま 松山離島振興協会
http://island-matsuyama.com/h24spring.pd...
虚空蔵菩薩を祀った霊域の島 虚空蔵島(こくうじぞうじま)
宮崎県日南市南郷町の目井津港入り口には小さな無人島がポツンと浮かんでいる。
寛永3(1626)年、飫肥城主・伊藤修理大夫祐慶公の慈母なる慶因(松寿院殿)が、住持比丘昌悦團禅師に命じ御堂を建立。
その際、霊験あらたかな虚空蔵菩薩を奉納した。のちに松寿院殿の菩堤のため、併せて海上安全・大魚満足・国家豊饒・下繁栄のために
奉られるようになった。
虚空蔵菩薩とは、天のように広く大きな福徳と智慧をもち、生きとし生けるものの、あらゆる願いを適えてくれるという仏である。
以来、いつしかこの島を虚空蔵島と呼ぶようになった。虚空蔵菩薩をお堂に安置し、八大龍王、船玉大神など水の神・海の神を迎えて、
虚空蔵島全体を霊域として崇めた。
信仰の篤い地元の人々は、島の草木をはじめ、小石や貝殻に至るまで、神仏の目に見えない力が宿っていると信じた。
70年ほど前にはカラスが3000羽も住みつき、朝、餌を求めて飛び立つものの、夕方には大堂津の海岸で足を洗ってから虚空蔵島の森へ帰っていく姿が
見られたという。
当時、戦地へ出征する若者に、島の小石や貝殻をお守り袋に入れて持たせ、武運長久を祈る親や身内もめずらしくなかった。
現在でも島周囲の貝を採ると腹痛に襲われると言われ、タブー化されている。毎年、旧暦6月12日、13日には、町を上げて祭りが開かれる。
古代文化研究所 虚空蔵島
http://blogs.yahoo.co.jp/yan1123jp/9810295.htm...
Miranka パワースポット日南市虚空蔵島(こくぞうじま)
http://ameblo.jp/taniyanhp/entry-11613133415.ht...
宮崎県日南市南郷町の目井津港入り口には小さな無人島がポツンと浮かんでいる。
寛永3(1626)年、飫肥城主・伊藤修理大夫祐慶公の慈母なる慶因(松寿院殿)が、住持比丘昌悦團禅師に命じ御堂を建立。
その際、霊験あらたかな虚空蔵菩薩を奉納した。のちに松寿院殿の菩堤のため、併せて海上安全・大魚満足・国家豊饒・下繁栄のために
奉られるようになった。
虚空蔵菩薩とは、天のように広く大きな福徳と智慧をもち、生きとし生けるものの、あらゆる願いを適えてくれるという仏である。
以来、いつしかこの島を虚空蔵島と呼ぶようになった。虚空蔵菩薩をお堂に安置し、八大龍王、船玉大神など水の神・海の神を迎えて、
虚空蔵島全体を霊域として崇めた。
信仰の篤い地元の人々は、島の草木をはじめ、小石や貝殻に至るまで、神仏の目に見えない力が宿っていると信じた。
70年ほど前にはカラスが3000羽も住みつき、朝、餌を求めて飛び立つものの、夕方には大堂津の海岸で足を洗ってから虚空蔵島の森へ帰っていく姿が
見られたという。
当時、戦地へ出征する若者に、島の小石や貝殻をお守り袋に入れて持たせ、武運長久を祈る親や身内もめずらしくなかった。
現在でも島周囲の貝を採ると腹痛に襲われると言われ、タブー化されている。毎年、旧暦6月12日、13日には、町を上げて祭りが開かれる。
古代文化研究所 虚空蔵島
http://blogs.yahoo.co.jp/yan1123jp/9810295.htm...
Miranka パワースポット日南市虚空蔵島(こくぞうじま)
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犬猫を連れ込んではいけない島 江島(えのしま)
宮城県牡鹿郡女川町の沖合には江島が浮かんでいるが、神奈川県の江の島やその他の江島と差別化するため『陸前江島』とも呼ばれる。
女川町から見て南東の女川原子力発電所の正面に位置し、牡鹿半島から伸びる江島列島の中で、最大の島でありながら唯一の有人島である。
この江島には、またしても犬……のみならず、猫までも連れ込んではいけないタブーがあるそうだ。これは金鶏の天敵全般を指すという。
その伝承がこうだ。
文治5(1189)年、源義経をかくまった罪で源頼朝に追われた奥州藤原氏の家臣にして、日詰(現紫波町)を領していた桶爪五郎季衝が
この島に落ち延びたとされている。
そのとき、季衝は家宝である金鶏を連れていったが、鳴き声で追っ手に露見してしまうことを恐れ、海洞の中に閉じ込めて隠した。
ところがある日、嵐によって洞窟ごと吹き飛ばされてしまう。
季衝は、「なんとも惜しいことをしてしまった……」と悔いたが、しかしこれも神仏の意思だと思い直し、以来、
鶏を供養する意味で島には犬猫を連れ込まないというしきたりを作り、これを守った。
江島は江戸時代、重罪人が流される流刑地であった。江島自然活動センター裏の東岸の岩場は、『流人転がし』と言われ、
かつては罪人を突き落とす仕置場であった。仙台藩で貴族階級に属する流刑人も多かったため、風流を愛でる気風が残されているという。
その1人に、豊臣家の家臣筋であった修験者、栄存法印がおり、死後は島民によって手厚く葬られたものの、
埋葬場所はその後、農地として開墾されてしまったようで現在はない。
キンケイ(金鶏)
http://www.kagiken.co.jp/new/kojimachi/bird-kinkei_larg...
伝承之蔵 桶爪五郎季衝と金鶏
http://legend.main.jp/50-onagawa-003-hizumegoroutoki...
宮城県牡鹿郡女川町の沖合には江島が浮かんでいるが、神奈川県の江の島やその他の江島と差別化するため『陸前江島』とも呼ばれる。
女川町から見て南東の女川原子力発電所の正面に位置し、牡鹿半島から伸びる江島列島の中で、最大の島でありながら唯一の有人島である。
この江島には、またしても犬……のみならず、猫までも連れ込んではいけないタブーがあるそうだ。これは金鶏の天敵全般を指すという。
その伝承がこうだ。
文治5(1189)年、源義経をかくまった罪で源頼朝に追われた奥州藤原氏の家臣にして、日詰(現紫波町)を領していた桶爪五郎季衝が
この島に落ち延びたとされている。
そのとき、季衝は家宝である金鶏を連れていったが、鳴き声で追っ手に露見してしまうことを恐れ、海洞の中に閉じ込めて隠した。
ところがある日、嵐によって洞窟ごと吹き飛ばされてしまう。
季衝は、「なんとも惜しいことをしてしまった……」と悔いたが、しかしこれも神仏の意思だと思い直し、以来、
鶏を供養する意味で島には犬猫を連れ込まないというしきたりを作り、これを守った。
江島は江戸時代、重罪人が流される流刑地であった。江島自然活動センター裏の東岸の岩場は、『流人転がし』と言われ、
かつては罪人を突き落とす仕置場であった。仙台藩で貴族階級に属する流刑人も多かったため、風流を愛でる気風が残されているという。
その1人に、豊臣家の家臣筋であった修験者、栄存法印がおり、死後は島民によって手厚く葬られたものの、
埋葬場所はその後、農地として開墾されてしまったようで現在はない。
キンケイ(金鶏)
http://www.kagiken.co.jp/new/kojimachi/bird-kinkei_larg...
伝承之蔵 桶爪五郎季衝と金鶏
http://legend.main.jp/50-onagawa-003-hizumegoroutoki...
日本最北の悲恋伝説?久種湖が生まれた悲話 礼文島(れぶんとう)
北海道の北部にある稚内の西60kmの日本海側に位置する礼文郡礼文町に属する島が礼文島である。
地名語源はアイヌ語のレプン・シリ(沖の島)から来ている。人口は平成26(2013)年4月1日の調べで2,760人。
礼文島には日本最北の淡水湖といわれる久種湖(くしゅこ)がある。湖畔の湿原には4月中旬にミズバショウが観賞でき、
またキャンプ場やスキー場も揃っており、アウトドア派の誘致に一役買っている。久種湖の語源はアイヌ語で『山越えする沼』の意である。
そんな久種湖には、またしても悲恋伝説が残されていた。日本各地には何かと昭和の歌謡曲ばりに恋人が結ばれる話より、
悲しい別離のソレの方が圧倒的に多く、風土らしさを感じさせる。それでいながらこの手の話は、やはり印象深いのも否めないのだが。
……昔、礼文島のあるコタン(集落)に、イコッポとフプリという若者が住んでいた。
2人は仲が良く、漁をして暮らしていたが、年頃になると酋長の娘、エリアに恋心を抱くようになる。
エリアは聡明なうえに目を瞠るような美人で、2人の憧れの的であった。
イコッポとフプリとて例外ではなく、身体が丈夫でなかなかの好男子。エリアは2人に言い寄られてもどちらか決めかねた。
酋長オテナは腕組みしながら、「娘もそろそろ嫁に行かさねばなるまい。見たところ、どうやらイコッポの方が漁の腕がいいようだ。
奴ならエリアを幸せにしてくれるに違いない」と、言った。
この言葉に気を良くしたイコッポに対し、フプリの心中たるや穏やかなはずがない。いつしか2人の友情にすき間風が吹く。
エリアをめぐる対立は漁場争いへとつながり、他人の迷惑にもなりかねない。困ったエリアはある決断を下した。
「いっそのこと2人で決闘なさい。戦い、勝ち残った者にすべてを許します」
「エリア、約束だぞ。酋長がなんと言おうと、勝ったらおまえを頂く」と、フプリ。
「決闘か。受けて立つ。どんなにあがいてもおれに勝てっこないことを証明してやる」と、イコッポが言った。
武器を持つことを許された2人は砂浜で対峙した。こうして1個の雌をめぐる雄同士の、原始的でありながら純然たる雄間闘争へと転じた。
激闘の末、フプリの執念がイコッポのそれより勝った。ついにフプリは恋敵を仕留めたのだ。
イコッポは息を引き取る寸前、「エリア……おれを愛してくれ」と言い残し果てた。
すると、時ならぬ暴風が吹き荒れ、目の前の漁場がたちまち砂に埋もれてしまった。
「なんてことだ……おれたちの漁場が!」フプリは絶句し、その現象が平手打ちであったかのように我に返った。
いくら憧れの女を手に入れるため熱に浮かされていたとはいえ、大切な友を手にかけてしまった。身悶えるような良心の呵責に耐えきれず、
その場で彼は自害した。
一部始終を見ていたエリアはこの世の終わりを迎えたかのように慟哭した。ほんの戯言のような口約束から、2人の若者を死なせてしまった……。
「ごめんなさい! あたしがバカだった!」と、エリアも刃物で自身の首を掻き切り、あとを追った。
3人の遺体が折り重なるように倒れた場所に、やがて水がたまり、久種湖ができたと言われている。
……オチこそ違えど、なんとなく前スレ>>286で書いた、八丈島の船幽霊こと『佐吉舟』の筋に似ているね。
いずれにせよ、この手の話は報われないケースばかりだ。悲惨。
礼文島観光協会
http://www.rebun-island.jp/
久種湖 北海道礼文町 悲恋が生んだ最果ての湖
http://www.harubow.com/album/koshonodensetu/KOSHO/01....
道北の釣りと旅 礼文町の昔話とアイヌ伝説・創作はあるかも?
http://www.kitakaido.com/soya/rebun/rebun-17.htm...
NPO法人国際朗読ことば協会
http://www.kageyama.jp/sanpo...
アイヌ語一覧wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%82%A4%E3%83%...
性淘汰wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%80%A7%E6%B7%98%E6%B1%...
まんが日本昔ばなし動画 佐吉舟
http://nipponmukasibanasi.seesaa.net/article/383709456.htm...
北海道の北部にある稚内の西60kmの日本海側に位置する礼文郡礼文町に属する島が礼文島である。
地名語源はアイヌ語のレプン・シリ(沖の島)から来ている。人口は平成26(2013)年4月1日の調べで2,760人。
礼文島には日本最北の淡水湖といわれる久種湖(くしゅこ)がある。湖畔の湿原には4月中旬にミズバショウが観賞でき、
またキャンプ場やスキー場も揃っており、アウトドア派の誘致に一役買っている。久種湖の語源はアイヌ語で『山越えする沼』の意である。
そんな久種湖には、またしても悲恋伝説が残されていた。日本各地には何かと昭和の歌謡曲ばりに恋人が結ばれる話より、
悲しい別離のソレの方が圧倒的に多く、風土らしさを感じさせる。それでいながらこの手の話は、やはり印象深いのも否めないのだが。
……昔、礼文島のあるコタン(集落)に、イコッポとフプリという若者が住んでいた。
2人は仲が良く、漁をして暮らしていたが、年頃になると酋長の娘、エリアに恋心を抱くようになる。
エリアは聡明なうえに目を瞠るような美人で、2人の憧れの的であった。
イコッポとフプリとて例外ではなく、身体が丈夫でなかなかの好男子。エリアは2人に言い寄られてもどちらか決めかねた。
酋長オテナは腕組みしながら、「娘もそろそろ嫁に行かさねばなるまい。見たところ、どうやらイコッポの方が漁の腕がいいようだ。
奴ならエリアを幸せにしてくれるに違いない」と、言った。
この言葉に気を良くしたイコッポに対し、フプリの心中たるや穏やかなはずがない。いつしか2人の友情にすき間風が吹く。
エリアをめぐる対立は漁場争いへとつながり、他人の迷惑にもなりかねない。困ったエリアはある決断を下した。
「いっそのこと2人で決闘なさい。戦い、勝ち残った者にすべてを許します」
「エリア、約束だぞ。酋長がなんと言おうと、勝ったらおまえを頂く」と、フプリ。
「決闘か。受けて立つ。どんなにあがいてもおれに勝てっこないことを証明してやる」と、イコッポが言った。
武器を持つことを許された2人は砂浜で対峙した。こうして1個の雌をめぐる雄同士の、原始的でありながら純然たる雄間闘争へと転じた。
激闘の末、フプリの執念がイコッポのそれより勝った。ついにフプリは恋敵を仕留めたのだ。
イコッポは息を引き取る寸前、「エリア……おれを愛してくれ」と言い残し果てた。
すると、時ならぬ暴風が吹き荒れ、目の前の漁場がたちまち砂に埋もれてしまった。
「なんてことだ……おれたちの漁場が!」フプリは絶句し、その現象が平手打ちであったかのように我に返った。
いくら憧れの女を手に入れるため熱に浮かされていたとはいえ、大切な友を手にかけてしまった。身悶えるような良心の呵責に耐えきれず、
その場で彼は自害した。
一部始終を見ていたエリアはこの世の終わりを迎えたかのように慟哭した。ほんの戯言のような口約束から、2人の若者を死なせてしまった……。
「ごめんなさい! あたしがバカだった!」と、エリアも刃物で自身の首を掻き切り、あとを追った。
3人の遺体が折り重なるように倒れた場所に、やがて水がたまり、久種湖ができたと言われている。
……オチこそ違えど、なんとなく前スレ>>286で書いた、八丈島の船幽霊こと『佐吉舟』の筋に似ているね。
いずれにせよ、この手の話は報われないケースばかりだ。悲惨。
礼文島観光協会
http://www.rebun-island.jp/
久種湖 北海道礼文町 悲恋が生んだ最果ての湖
http://www.harubow.com/album/koshonodensetu/KOSHO/01....
道北の釣りと旅 礼文町の昔話とアイヌ伝説・創作はあるかも?
http://www.kitakaido.com/soya/rebun/rebun-17.htm...
NPO法人国際朗読ことば協会
http://www.kageyama.jp/sanpo...
アイヌ語一覧wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%82%A4%E3%83%...
性淘汰wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%80%A7%E6%B7%98%E6%B1%...
まんが日本昔ばなし動画 佐吉舟
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南方熊楠による海難法師考察 伊豆七島 1
前スレ>>427>>428では和歌山県田辺市の神島にゆかりある人物として南方熊楠の名前を出したが、この方はそれだけにとどまらず、
マルチな才能ぶりと恐るべき知識量には舌を巻かずにはいられないのだ。
実はその南方熊楠も、伊豆七島に伝わる『海難法師』(前スレ>>396〜>>398を参照)に関する論文の記述を遺していた。昭和26(1951)年発表、
題は『十二支考 蛇に関する民俗と伝説』でのほんの一文であるが、さすが我らが南方熊楠、ネットのない時代によくぞ知悉していたと
尊敬の念を抱かせるに充分である。以下、抜粋してみよう。アンカー部分が引用文。
>『郷土研究』四巻二九六頁、尾佐竹猛氏、伊豆新島の話に、正月二十四日は、大島の泉津村利島神津島とともに日忌で、
>この日海難(またカンナンボウシ)が来るといい、夜は門戸を閉じ、柊またトベラの枝を入口に挿し、その上に笊(ざる)を被せ、
>一切外を覗かず物音せず、外の見えぬようにして夜明けを待つ。
>島の伝説に、昔泉津の代官暴戻(ぼうれい)なりし故、村民これを殺し、利島に逃れしも上陸を許されず。
>神津島に上ったので、その代官の亡霊が襲い来るというのだが、どうも要領を得ぬとある。
(中略)
>1903、4年の間、グリーンランドのエスキモ人の中に棲んだ、デンマルク人ラスムッセンの『極北の人民ゼ・ピープル・オヴ・ゼ・ポラー・ノース』を読むに、
>輓近(ばんきん)エスキモ人がキリスト教に化する事多きより、一代前の事は全く虚誕のごとく聞えるが、遺老に就いて種々調べると、
>欧人が聞いて無残極まり、世にあり得べからずと思われる事や、奇怪千万な行いなどは、彼らに取ってはありふれた事で、
>欧人が聞くに堪えぬと惟(おも)う話のその聞くに堪えぬところが、彼らのもっとも面白がるところである。
>したがって欧人が何とも要領を得ず、拙作極まる小説としか受け取れぬ諸誕は、ことごとく実在した事歴を述べたものだと論じ居る。
>新島の伝説もこの通りで、代官暗殺云々は全く事実であろう。
前スレ>>427>>428では和歌山県田辺市の神島にゆかりある人物として南方熊楠の名前を出したが、この方はそれだけにとどまらず、
マルチな才能ぶりと恐るべき知識量には舌を巻かずにはいられないのだ。
実はその南方熊楠も、伊豆七島に伝わる『海難法師』(前スレ>>396〜>>398を参照)に関する論文の記述を遺していた。昭和26(1951)年発表、
題は『十二支考 蛇に関する民俗と伝説』でのほんの一文であるが、さすが我らが南方熊楠、ネットのない時代によくぞ知悉していたと
尊敬の念を抱かせるに充分である。以下、抜粋してみよう。アンカー部分が引用文。
>『郷土研究』四巻二九六頁、尾佐竹猛氏、伊豆新島の話に、正月二十四日は、大島の泉津村利島神津島とともに日忌で、
>この日海難(またカンナンボウシ)が来るといい、夜は門戸を閉じ、柊またトベラの枝を入口に挿し、その上に笊(ざる)を被せ、
>一切外を覗かず物音せず、外の見えぬようにして夜明けを待つ。
>島の伝説に、昔泉津の代官暴戻(ぼうれい)なりし故、村民これを殺し、利島に逃れしも上陸を許されず。
>神津島に上ったので、その代官の亡霊が襲い来るというのだが、どうも要領を得ぬとある。
(中略)
>1903、4年の間、グリーンランドのエスキモ人の中に棲んだ、デンマルク人ラスムッセンの『極北の人民ゼ・ピープル・オヴ・ゼ・ポラー・ノース』を読むに、
>輓近(ばんきん)エスキモ人がキリスト教に化する事多きより、一代前の事は全く虚誕のごとく聞えるが、遺老に就いて種々調べると、
>欧人が聞いて無残極まり、世にあり得べからずと思われる事や、奇怪千万な行いなどは、彼らに取ってはありふれた事で、
>欧人が聞くに堪えぬと惟(おも)う話のその聞くに堪えぬところが、彼らのもっとも面白がるところである。
>したがって欧人が何とも要領を得ず、拙作極まる小説としか受け取れぬ諸誕は、ことごとく実在した事歴を述べたものだと論じ居る。
>新島の伝説もこの通りで、代官暗殺云々は全く事実であろう。
南方熊楠による海難法師考察 伊豆七島 2
>代官の幽公が来るのを懼れて、戸を閉じ夜を守ったも事実であろう。柊は刺で、トベラは臭気で悪霊を禦ぐは分りやすいが、笊を何故用いるか。
>種彦の『用捨箱(ようしゃばこ)』巻上に、ある島国にていと暗き夜、鬼の遊行するとて戸外へ出でざる事あり。
>その夜去りがたき用あらば、目籠を持ちて出るなり、さすれば禍なしと、かの島人の話なりといえるは、やはり新島辺の事で、
>昔は戸口にも笊を掛け、外出にも持ち歩いたであろう。
>種彦は、江戸で二月八日御事始おことはじめに笊を門口に懸けた旧俗を釈(と)くとて、昔より目籠は鬼の怖るるといい習わせり、
>これは目籠の底の角々は☆如此かく晴明九字(あるいは曰く晴明の判)という物なればなり。
>原来の俗説、ただ古老の伝を記すと言ったが、その俗説こそ大いに研究に用立つなれ。
>すなわちこの星状多角形の辺線は、幾度見廻しても止まるところなきもの故、悪鬼来りて家や人に邪視を加えんとする時、
>まずこの形に見取れ居る内、邪視が利かなくなるの上、この晴明の判がなくとも、すべて籠細工の竹条は、此処ここに没して彼処かしこに出で、
>交互起伏して首尾容易に見極めにくいから、鬼がそれを念入れて数える間に、邪視力を失うので、イタリア人が、無数の星点ある石や沙や穀粒を、
>袋に盛って邪視する者に示し、彼これを算(かぞ)え尽くすの後にあらざれば、その力利かずと信ずると同義である。
>節分の夜、豆撒くなども、鬼が無数の豆を数え拾う内に、邪力衰うべき用意であろう。
>かつて強盗多かった村人に聞いたは、強盗盛んな年は、家に小銭を多く貯え置く、泥的御来臨のみぎり、二、三問答の上、しからばやむをえない、
>貴公らに金を仮りたとあっては相済まぬ、少々ながら有金すっかり進呈しよう、大臣にでもなったら返しくだされ、その節は、子供を引き立てくだされなど、
>いい加減に述べて、引き出しを抽いて、たちまち彼奴の眼前へ打ち覆かえすと、無数の小銭が八方へ転がり走る。
>泥公一心これを手早く掻き込むに取り忙ぎ、銭の多寡を論じたり、凶器を弄ぶに暇なく、集めおわりてヘイさようならで慌あわて去るものだ。
>強盗に逢ったら僕の名を言いたまえ、毎度逢って善い顧客だから麁略(そりゃく)にすまい、貴下のような文なしには、
>少々置いて行くかも知れぬと教えくれたが、まだ一度も逢わぬから、折角の妙案も実試せぬ。
>全体予の事を、人々が女に眉毛を読まれやすいと言うを、いかにも眉毛が鮮かなと讃めてくれると思うたが、拙妻聞いて更に懌ばぬから、奇妙と惟いいた。
>ところが『郷土研究』四の四三三頁に、林魁一君が、美濃の俗伝を報じた内に、眉毛に唾を塗ると毛が付き合うて、狐その数を読む能わず、
>したがって魅ばかす事がならぬとあるを読んで大いに解り、〈人書を読まざればそれなお夜行のごとし〉と嘆じた。
>マアこんな訳故、新島の一条も、もと目籠を以て邪視を避くる風が、エジプト、インド、東京、イタリア等同様、日本にもありしが、
>新島ごとき辺土に永く留まった。
>そこへ代官暗殺されその幽霊の来襲を惧るる事甚だしくなりて、今更盛んに目籠を以てこれを禦ぎしより、ついに専ら代官殺しが、
>日忌の夜笊を出す唯一つの起りのよう、訛伝(かでん)したのであろう。
十二支考 蛇に関する民俗と伝説 南方熊楠
http://www.aozora.gr.jp/cards/000093/files/2536_20184....
※なお、南方熊楠の他の論文を閲覧したくばここで取得されたし。
青空文庫 南方熊楠
http://www.aozora.gr.jp/index_pages/person93.html#saku...
>代官の幽公が来るのを懼れて、戸を閉じ夜を守ったも事実であろう。柊は刺で、トベラは臭気で悪霊を禦ぐは分りやすいが、笊を何故用いるか。
>種彦の『用捨箱(ようしゃばこ)』巻上に、ある島国にていと暗き夜、鬼の遊行するとて戸外へ出でざる事あり。
>その夜去りがたき用あらば、目籠を持ちて出るなり、さすれば禍なしと、かの島人の話なりといえるは、やはり新島辺の事で、
>昔は戸口にも笊を掛け、外出にも持ち歩いたであろう。
>種彦は、江戸で二月八日御事始おことはじめに笊を門口に懸けた旧俗を釈(と)くとて、昔より目籠は鬼の怖るるといい習わせり、
>これは目籠の底の角々は☆如此かく晴明九字(あるいは曰く晴明の判)という物なればなり。
>原来の俗説、ただ古老の伝を記すと言ったが、その俗説こそ大いに研究に用立つなれ。
>すなわちこの星状多角形の辺線は、幾度見廻しても止まるところなきもの故、悪鬼来りて家や人に邪視を加えんとする時、
>まずこの形に見取れ居る内、邪視が利かなくなるの上、この晴明の判がなくとも、すべて籠細工の竹条は、此処ここに没して彼処かしこに出で、
>交互起伏して首尾容易に見極めにくいから、鬼がそれを念入れて数える間に、邪視力を失うので、イタリア人が、無数の星点ある石や沙や穀粒を、
>袋に盛って邪視する者に示し、彼これを算(かぞ)え尽くすの後にあらざれば、その力利かずと信ずると同義である。
>節分の夜、豆撒くなども、鬼が無数の豆を数え拾う内に、邪力衰うべき用意であろう。
>かつて強盗多かった村人に聞いたは、強盗盛んな年は、家に小銭を多く貯え置く、泥的御来臨のみぎり、二、三問答の上、しからばやむをえない、
>貴公らに金を仮りたとあっては相済まぬ、少々ながら有金すっかり進呈しよう、大臣にでもなったら返しくだされ、その節は、子供を引き立てくだされなど、
>いい加減に述べて、引き出しを抽いて、たちまち彼奴の眼前へ打ち覆かえすと、無数の小銭が八方へ転がり走る。
>泥公一心これを手早く掻き込むに取り忙ぎ、銭の多寡を論じたり、凶器を弄ぶに暇なく、集めおわりてヘイさようならで慌あわて去るものだ。
>強盗に逢ったら僕の名を言いたまえ、毎度逢って善い顧客だから麁略(そりゃく)にすまい、貴下のような文なしには、
>少々置いて行くかも知れぬと教えくれたが、まだ一度も逢わぬから、折角の妙案も実試せぬ。
>全体予の事を、人々が女に眉毛を読まれやすいと言うを、いかにも眉毛が鮮かなと讃めてくれると思うたが、拙妻聞いて更に懌ばぬから、奇妙と惟いいた。
>ところが『郷土研究』四の四三三頁に、林魁一君が、美濃の俗伝を報じた内に、眉毛に唾を塗ると毛が付き合うて、狐その数を読む能わず、
>したがって魅ばかす事がならぬとあるを読んで大いに解り、〈人書を読まざればそれなお夜行のごとし〉と嘆じた。
>マアこんな訳故、新島の一条も、もと目籠を以て邪視を避くる風が、エジプト、インド、東京、イタリア等同様、日本にもありしが、
>新島ごとき辺土に永く留まった。
>そこへ代官暗殺されその幽霊の来襲を惧るる事甚だしくなりて、今更盛んに目籠を以てこれを禦ぎしより、ついに専ら代官殺しが、
>日忌の夜笊を出す唯一つの起りのよう、訛伝(かでん)したのであろう。
十二支考 蛇に関する民俗と伝説 南方熊楠
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江戸時代では禁則地、それ以前は死者の埋葬地だった島? 青島 1
宮崎市の日南海岸のすぐ目の前には、美しい海岸と200mもの長さの弥生橋がかかり、その先の平べったい青島が見える。
橋を渡れば、その景観に感嘆せずにはいられない。島の周囲には『鬼の洗濯板』と称される奇岩風景が広がっているのだ。
これは約1000万年から800万年前の地層(硬さの違う砂岩と泥岩)が、侵食によって規則正しい凹凸で形成されたことから名付けられたもの。
干潮時には沖合100mにも達し、他の島とは一線を画する趣を醸している。
島の周囲はわずか860m、鬼の洗濯板部分を含めても1.5kmほど。最高6m程度の平坦な島ながら、鬱蒼と生い茂った亜熱帯植物の森が広がり、
植物の種類も220種を超え、原始の森がほぼ手付かずの状態を保っている。
というのも手付かずであったには理由がある。この島は江戸時代中期までは禁則地とされ、一般人が足を踏み入れてはならない聖域だったからだ。
弥生橋を渡り青島に降り立つと、御影石の灯籠が参道の両脇に立っている。100mばかり突っ切ると、大鳥居が迎えてくれ、
それをくぐると左方に朱色の鮮やかな青島神社が見えてくる。いかにも南国っぽいビロウやソテツの密林に囲まれる形で鎮座する、
神道の社殿というミスマッチ感がたまらない。
青島神社の祭神は『天津彦火火出見命(あまつひこほほでみのみこと)』『豊玉姫命(とよたまひめのみこと)』『塩筒大神(しおつつのおおかみ)』の3神が
祀られており、縁結び・安産・航海・交通安全のご利益があると信じられ、昔から多くの参詣者を集めてきた。
その天津彦火火出見命であるが、記紀神話のエピソードの1つ、『海幸彦・山幸彦』の山幸彦で知られている。あらましはこうだ。
その昔、海で漁をして暮らす兄の海幸彦と、山で獣を狩って生活する山幸彦の兄弟がいた。
あるとき生活に飽きた山幸彦は、「いちど、お互いの道具を取り替えてみよう」と提案。しかし得意分野から外れたことをすべきではない。
まったく魚はかからず、むしろ兄に借りた釣り針を海でなくしてしまう。
釣り針を失ったことを兄に告げれば、大目玉を食うのは必至。途方に暮れ、海辺でオイオイ泣いていると、そこに塩筒大神のじい様がやってきて、
「そんなあなたのために、私めが力を貸してさしあげましょう」と、言った。
じい様は竹で編んだ小舟を作り、それに山幸彦を乗せてワダツミの棲む海中の神殿へと導いた。
神殿に着くと、ワダツミの娘である豊玉姫が出てきて、たちまち彼女にひと目惚れ。ワダツミも山幸彦の人柄を気に入り、豊玉姫と結婚させた。
山幸彦はご馳走を食べ、優雅な踊りで歓待されるがままに3年の間、ワダツミの国で人生の春を謳歌する。
そしてフト我に返る。そろそろ地上へ帰りたくなった。豊玉姫は止めたが、山幸彦の気持ちは変わらない。
「それはそうと、海でなくした釣り針を捜しにきたんだが、どこにあるか知らないか?」と、本来の目的を思い出し聞いてみた。
豊玉姫を介し、ワダツミの耳に届くと、ワダツミは海にいるすべての魚を呼び集め、釣り針を捜させた。
するとタイの喉に引っかかっていたことが明らかになり、これを抜いてを返した。
その際、ワダツミは釣り針の他に、『潮満珠(しおみつたま)』『潮干珠(しおひのたま)』の、2つの不思議な珠を与え、帰らせることにした。
フカ(サメ)の背中にまたがった山幸彦は、地上に送り届けてもらう。
陸に戻った山幸彦は、釣り針を兄に返すも、その後、しだいに貧しくなった海幸彦は、トントン拍子に暮らしが豊かになる弟を羨み、
ついに亡き者にしてやろうと殺しにくる。山幸彦はここぞとばかりに潮満珠を掲げると、その霊力でたちまち潮が満ちてきて、兄を溺れさせた。
観念した海幸彦は弟に一生忠誠を誓うと言って詫びた。ちなみに海幸彦は隼人族の祖であるという。
その山幸彦が地上に戻って暮らしたとされる場所こそ、現在の青島神社だというのだ。
宮崎市の日南海岸のすぐ目の前には、美しい海岸と200mもの長さの弥生橋がかかり、その先の平べったい青島が見える。
橋を渡れば、その景観に感嘆せずにはいられない。島の周囲には『鬼の洗濯板』と称される奇岩風景が広がっているのだ。
これは約1000万年から800万年前の地層(硬さの違う砂岩と泥岩)が、侵食によって規則正しい凹凸で形成されたことから名付けられたもの。
干潮時には沖合100mにも達し、他の島とは一線を画する趣を醸している。
島の周囲はわずか860m、鬼の洗濯板部分を含めても1.5kmほど。最高6m程度の平坦な島ながら、鬱蒼と生い茂った亜熱帯植物の森が広がり、
植物の種類も220種を超え、原始の森がほぼ手付かずの状態を保っている。
というのも手付かずであったには理由がある。この島は江戸時代中期までは禁則地とされ、一般人が足を踏み入れてはならない聖域だったからだ。
弥生橋を渡り青島に降り立つと、御影石の灯籠が参道の両脇に立っている。100mばかり突っ切ると、大鳥居が迎えてくれ、
それをくぐると左方に朱色の鮮やかな青島神社が見えてくる。いかにも南国っぽいビロウやソテツの密林に囲まれる形で鎮座する、
神道の社殿というミスマッチ感がたまらない。
青島神社の祭神は『天津彦火火出見命(あまつひこほほでみのみこと)』『豊玉姫命(とよたまひめのみこと)』『塩筒大神(しおつつのおおかみ)』の3神が
祀られており、縁結び・安産・航海・交通安全のご利益があると信じられ、昔から多くの参詣者を集めてきた。
その天津彦火火出見命であるが、記紀神話のエピソードの1つ、『海幸彦・山幸彦』の山幸彦で知られている。あらましはこうだ。
その昔、海で漁をして暮らす兄の海幸彦と、山で獣を狩って生活する山幸彦の兄弟がいた。
あるとき生活に飽きた山幸彦は、「いちど、お互いの道具を取り替えてみよう」と提案。しかし得意分野から外れたことをすべきではない。
まったく魚はかからず、むしろ兄に借りた釣り針を海でなくしてしまう。
釣り針を失ったことを兄に告げれば、大目玉を食うのは必至。途方に暮れ、海辺でオイオイ泣いていると、そこに塩筒大神のじい様がやってきて、
「そんなあなたのために、私めが力を貸してさしあげましょう」と、言った。
じい様は竹で編んだ小舟を作り、それに山幸彦を乗せてワダツミの棲む海中の神殿へと導いた。
神殿に着くと、ワダツミの娘である豊玉姫が出てきて、たちまち彼女にひと目惚れ。ワダツミも山幸彦の人柄を気に入り、豊玉姫と結婚させた。
山幸彦はご馳走を食べ、優雅な踊りで歓待されるがままに3年の間、ワダツミの国で人生の春を謳歌する。
そしてフト我に返る。そろそろ地上へ帰りたくなった。豊玉姫は止めたが、山幸彦の気持ちは変わらない。
「それはそうと、海でなくした釣り針を捜しにきたんだが、どこにあるか知らないか?」と、本来の目的を思い出し聞いてみた。
豊玉姫を介し、ワダツミの耳に届くと、ワダツミは海にいるすべての魚を呼び集め、釣り針を捜させた。
するとタイの喉に引っかかっていたことが明らかになり、これを抜いてを返した。
その際、ワダツミは釣り針の他に、『潮満珠(しおみつたま)』『潮干珠(しおひのたま)』の、2つの不思議な珠を与え、帰らせることにした。
フカ(サメ)の背中にまたがった山幸彦は、地上に送り届けてもらう。
陸に戻った山幸彦は、釣り針を兄に返すも、その後、しだいに貧しくなった海幸彦は、トントン拍子に暮らしが豊かになる弟を羨み、
ついに亡き者にしてやろうと殺しにくる。山幸彦はここぞとばかりに潮満珠を掲げると、その霊力でたちまち潮が満ちてきて、兄を溺れさせた。
観念した海幸彦は弟に一生忠誠を誓うと言って詫びた。ちなみに海幸彦は隼人族の祖であるという。
その山幸彦が地上に戻って暮らしたとされる場所こそ、現在の青島神社だというのだ。
江戸時代では禁則地、それ以前は死者の埋葬地だった島? 青島 2
言うまでもなく、亀に乗り竜宮城に行った浦島太郎のルーツは、この話が元になったのは明白。
さて、その青島であるが、古来、全島が霊地として神聖視され、藩の島奉行と神職だけが常に入島し、
一般人は旧暦3月16日の『島開きの祭』から、同月末日の『島どめの祭』まで入島を許されていたが、元文2(1737)年、
当時の宮司・長友肥後が一般の参拝者がいつでも島に渡れるよう藩主に申し出た甲斐あって、以後入島が自由になった。
ところで民俗学者、折口信夫はこう言及している。
「海の彼方あるいは海底にニライカナイという異郷の浄土があって、そこからマレビトが現れ、現世の地上の人々を訪れるという信仰が琉球諸島にある。」
と同時に、浦島太郎がたどり着いた竜宮のことをソレとするならば、竜宮は時間さえも超越した世界であり、『死後の世界』とも解釈できるという。
同じく民俗学者の谷川健一が発表した『列島縦断地名逍遥』によると、こんな興味深い記述がある。ちょっと長いが抜粋してみよう。
アンカー部分を引用文とする。
>青海(あおみ)……渚の埋葬地
>沖縄には死者を葬る青(おう)の島という地先の小島がある。私が『青』は死者と由縁の色ではないかと考え、日本本土でも『青』のつく海岸地名に関心を抱いた。
>それを探して対馬の『青海』を訪ねたことがある。青海は木坂のとなりの集落で、埋葬地は水平線を一望に眺める海ぎわにあった。
>そこは埋め墓で、波に引かれて海の沖に流されてしまうこともしばしばであった。
>詣り墓は寺(慈眼寺)の裏山にあり、埋め墓に参るのは77日の忌までであった。以後埋め墓には、当分の間の記憶としてかんたんな墓標が立てられたが、
>いつか忘れられるのが常であった。供養は拝み墓で行い、渚の埋め墓は捨て墓であった。
>山1つ越した木坂には産小屋があった。その産小屋は人家から離れた川の向こうに作った。そして死者は保利(ほり)の山に葬った。
>保利は葬り(ほふり)である。そこはもと埋め墓であった。
>青海や木坂で聞いたところでは、他部落へ行くことを、それがとなり部落であっても「世の中へ行く」とか「旅に行く」という言い方をする。
>部落をひとたび出ると、そこはもはや他郷であり、他界であった。
>対馬ではかつては、結婚も部落の中だけで行われたという。部落は宇宙であった。
>青海や木坂に、死と生をむき出しにする埋め墓や産小屋があるのも至極当然な風景であった。
言うまでもなく、亀に乗り竜宮城に行った浦島太郎のルーツは、この話が元になったのは明白。
さて、その青島であるが、古来、全島が霊地として神聖視され、藩の島奉行と神職だけが常に入島し、
一般人は旧暦3月16日の『島開きの祭』から、同月末日の『島どめの祭』まで入島を許されていたが、元文2(1737)年、
当時の宮司・長友肥後が一般の参拝者がいつでも島に渡れるよう藩主に申し出た甲斐あって、以後入島が自由になった。
ところで民俗学者、折口信夫はこう言及している。
「海の彼方あるいは海底にニライカナイという異郷の浄土があって、そこからマレビトが現れ、現世の地上の人々を訪れるという信仰が琉球諸島にある。」
と同時に、浦島太郎がたどり着いた竜宮のことをソレとするならば、竜宮は時間さえも超越した世界であり、『死後の世界』とも解釈できるという。
同じく民俗学者の谷川健一が発表した『列島縦断地名逍遥』によると、こんな興味深い記述がある。ちょっと長いが抜粋してみよう。
アンカー部分を引用文とする。
>青海(あおみ)……渚の埋葬地
>沖縄には死者を葬る青(おう)の島という地先の小島がある。私が『青』は死者と由縁の色ではないかと考え、日本本土でも『青』のつく海岸地名に関心を抱いた。
>それを探して対馬の『青海』を訪ねたことがある。青海は木坂のとなりの集落で、埋葬地は水平線を一望に眺める海ぎわにあった。
>そこは埋め墓で、波に引かれて海の沖に流されてしまうこともしばしばであった。
>詣り墓は寺(慈眼寺)の裏山にあり、埋め墓に参るのは77日の忌までであった。以後埋め墓には、当分の間の記憶としてかんたんな墓標が立てられたが、
>いつか忘れられるのが常であった。供養は拝み墓で行い、渚の埋め墓は捨て墓であった。
>山1つ越した木坂には産小屋があった。その産小屋は人家から離れた川の向こうに作った。そして死者は保利(ほり)の山に葬った。
>保利は葬り(ほふり)である。そこはもと埋め墓であった。
>青海や木坂で聞いたところでは、他部落へ行くことを、それがとなり部落であっても「世の中へ行く」とか「旅に行く」という言い方をする。
>部落をひとたび出ると、そこはもはや他郷であり、他界であった。
>対馬ではかつては、結婚も部落の中だけで行われたという。部落は宇宙であった。
>青海や木坂に、死と生をむき出しにする埋め墓や産小屋があるのも至極当然な風景であった。
江戸時代では禁則地、それ以前は死者の埋葬地だった島? 青島 3
>青(おう)の島……死者を葬った地先の小島
>田畑英勝(※奄美大島出身の民俗学者)は『奄美の民俗』の中で、名瀬の年寄りたちは、空間的もしくは時間的な距離とか間隔、
>つまり『間』の意味にアヲという言葉を使っていると述べている。たとえば、「アヲヌ トウーサン(距離が遠い)」とか、
>「マダ アヲヌ アッカサ(まだ時間的な間があるではないか)」とか、「アヲヌ チキャサ(距離が近い)」とか、
>「ナリ アヲヌ イティ シレイ(もう少し間をおいてやれ)」などという言い方をする。
>これはもともとどうした観念に基づいているのか私にはつかめないが、こうしたアヲという語の使い方には、何か極めて古い語感がこめられているように思われる。
>青は地名にも使われる。奄美大島では瀬戸内町の嘉徳や住用村の市にそれぞれ青久という地名がある。また『青の花』とか『青ン原ケ』という地名が喜界島にある。
>こうした青という土地の名は、『あやまる』という地名の『あや』と同じように、何かはっきりしないとか、漠然としたとか、はるかな、
>という意味がこめられているのではないか、と田畑は言う。田畑の念頭にはおそらく、『青』という色のもつ漠然さがあるのであろう。
>古代には色は、赤、白、黒、青の4色しかなかった。これは日本全土でも沖縄でも同じである。
>その中で、青色の領域がもっとも広く、緑色も黄色も青色中に含まれていた。したがって青というと、それらの漠然とした感じを伝える色と思われてきたのである。
>これが仲松弥秀(※民俗学者・沖縄における村落研究の第一人者)の『青の世界』の仮説ともつながっていく。
>仲松は沖縄本島およびその属島に奥武という名のつく小島が7つほどあることに注目した。久米島に奥武島があり、慶良間島にもある。
>また沖縄本島の南部に奥武島(おうじま)があり、北中城に奥武岬、那覇市に奥武山公園がある。これらの岬や公園ももとは小島であったにちがいない。
>奥武島は『琉球国由来紀』や『琉球国旧紀』にアフ、アウ、アホと表記されていて、漢字では一部、阿鳥、阿符の字が宛てられているが、
>青という字を宛てる場合がもっとも多い。そこで奥武の島は、もとは青の島ではないか、という考えが成り立つ。
>仲松が調べてみると奥武島は昔、死体を運んで葬った島であった。沖縄では本土とはちがって洞窟墓の中に死体を運んで風葬にする。
>洞窟墓には外部からぼんやりとした黄色な光が入り込んで、死体を照らし出す。このぼんやりとした黄色い光を、南島の古代人は『青』と呼んだと仲松は考えた。
>つまり青の島は死者の島でもあったのだ。
>南島の基層文化が日本列島に渡来したとき、南島の葬制も当然日本に伝わったと思われる。
>もしそうだとするならば南方の人たちが黒潮に乗って渡来した日本本土の海辺部に埋葬の場所として、青という地名が見つかるのではないかと私は考えた。
>たとえば日向の青島がそうである。青島が埋葬地であったという証拠はないが、青島の対岸には青島古墳群がある。
>対馬には青海という海村がある。私もそこを訪れたことがある。波打ち際に今は石の墓碑も立っている。もとはそこは死体を捨てるところで、
>すぐ近くの寺の境内に『詣り墓』が集中していた。
>志摩の的矢湾の奥にそびえる青の峯は、全国の漁師の尊崇を集めるところであるが、そこは南方とのつながりの濃厚に見られるところであった。
>美濃の青墓は美濃で前方後円墳の集中するところである。このようにして、本土に見られる青を冠した地名も、そこが墓地と関係の深いことに気づくのである。
>ただそれが、沖縄の『青の島』の青と、どのように具体的に関連をもつかは今もってはっきりとつかめない。
……以上のことから、『おう(Ou)』という言葉は、古代において死者の埋葬場所を示した。とすればこの宮崎県の青島も例外ではあるまい。
かつては一般人の立ち入りを禁じたほどだから、よほどの権力をもった人間が埋葬されていたのかも……。
>青(おう)の島……死者を葬った地先の小島
>田畑英勝(※奄美大島出身の民俗学者)は『奄美の民俗』の中で、名瀬の年寄りたちは、空間的もしくは時間的な距離とか間隔、
>つまり『間』の意味にアヲという言葉を使っていると述べている。たとえば、「アヲヌ トウーサン(距離が遠い)」とか、
>「マダ アヲヌ アッカサ(まだ時間的な間があるではないか)」とか、「アヲヌ チキャサ(距離が近い)」とか、
>「ナリ アヲヌ イティ シレイ(もう少し間をおいてやれ)」などという言い方をする。
>これはもともとどうした観念に基づいているのか私にはつかめないが、こうしたアヲという語の使い方には、何か極めて古い語感がこめられているように思われる。
>青は地名にも使われる。奄美大島では瀬戸内町の嘉徳や住用村の市にそれぞれ青久という地名がある。また『青の花』とか『青ン原ケ』という地名が喜界島にある。
>こうした青という土地の名は、『あやまる』という地名の『あや』と同じように、何かはっきりしないとか、漠然としたとか、はるかな、
>という意味がこめられているのではないか、と田畑は言う。田畑の念頭にはおそらく、『青』という色のもつ漠然さがあるのであろう。
>古代には色は、赤、白、黒、青の4色しかなかった。これは日本全土でも沖縄でも同じである。
>その中で、青色の領域がもっとも広く、緑色も黄色も青色中に含まれていた。したがって青というと、それらの漠然とした感じを伝える色と思われてきたのである。
>これが仲松弥秀(※民俗学者・沖縄における村落研究の第一人者)の『青の世界』の仮説ともつながっていく。
>仲松は沖縄本島およびその属島に奥武という名のつく小島が7つほどあることに注目した。久米島に奥武島があり、慶良間島にもある。
>また沖縄本島の南部に奥武島(おうじま)があり、北中城に奥武岬、那覇市に奥武山公園がある。これらの岬や公園ももとは小島であったにちがいない。
>奥武島は『琉球国由来紀』や『琉球国旧紀』にアフ、アウ、アホと表記されていて、漢字では一部、阿鳥、阿符の字が宛てられているが、
>青という字を宛てる場合がもっとも多い。そこで奥武の島は、もとは青の島ではないか、という考えが成り立つ。
>仲松が調べてみると奥武島は昔、死体を運んで葬った島であった。沖縄では本土とはちがって洞窟墓の中に死体を運んで風葬にする。
>洞窟墓には外部からぼんやりとした黄色な光が入り込んで、死体を照らし出す。このぼんやりとした黄色い光を、南島の古代人は『青』と呼んだと仲松は考えた。
>つまり青の島は死者の島でもあったのだ。
>南島の基層文化が日本列島に渡来したとき、南島の葬制も当然日本に伝わったと思われる。
>もしそうだとするならば南方の人たちが黒潮に乗って渡来した日本本土の海辺部に埋葬の場所として、青という地名が見つかるのではないかと私は考えた。
>たとえば日向の青島がそうである。青島が埋葬地であったという証拠はないが、青島の対岸には青島古墳群がある。
>対馬には青海という海村がある。私もそこを訪れたことがある。波打ち際に今は石の墓碑も立っている。もとはそこは死体を捨てるところで、
>すぐ近くの寺の境内に『詣り墓』が集中していた。
>志摩の的矢湾の奥にそびえる青の峯は、全国の漁師の尊崇を集めるところであるが、そこは南方とのつながりの濃厚に見られるところであった。
>美濃の青墓は美濃で前方後円墳の集中するところである。このようにして、本土に見られる青を冠した地名も、そこが墓地と関係の深いことに気づくのである。
>ただそれが、沖縄の『青の島』の青と、どのように具体的に関連をもつかは今もってはっきりとつかめない。
……以上のことから、『おう(Ou)』という言葉は、古代において死者の埋葬場所を示した。とすればこの宮崎県の青島も例外ではあるまい。
かつては一般人の立ち入りを禁じたほどだから、よほどの権力をもった人間が埋葬されていたのかも……。
江戸時代では禁則地、それ以前は死者の埋葬地だった島? 青島 4
山幸彦と海幸彦wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E5%B9%B8%E5%BD%...
青島神社
http://www9.ocn.ne.jp/‾aosima/
[PDF]青島ご由来
http://www9.ocn.ne.jp/‾aosima/yuisyo.pdf
玄松子の記憶 青島神社
http://www.genbu.net/data/hyuga/aosima_title.ht...
目からウロコの地名由来 「青」の地名
http://baba72885.exblog.jp/872503...
隆慶一郎わーるど 隆慶一郎公式サイト 歴史のこぼれ話(一)死者にちなむ地名
http://yoshiok26.p1.bindsite.jp/bekkan/koborebanashi...
犬の鼻先におなら 金井典美著『湿原祭祀』を読んだ(その2)
http://plaza.rakuten.co.jp/inunohanasaki/diary/2010101000...
山幸彦と海幸彦wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E5%B9%B8%E5%BD%...
青島神社
http://www9.ocn.ne.jp/‾aosima/
[PDF]青島ご由来
http://www9.ocn.ne.jp/‾aosima/yuisyo.pdf
玄松子の記憶 青島神社
http://www.genbu.net/data/hyuga/aosima_title.ht...
目からウロコの地名由来 「青」の地名
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隆慶一郎わーるど 隆慶一郎公式サイト 歴史のこぼれ話(一)死者にちなむ地名
http://yoshiok26.p1.bindsite.jp/bekkan/koborebanashi...
犬の鼻先におなら 金井典美著『湿原祭祀』を読んだ(その2)
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置き去り伝説と船幽霊のブレンド 小市島(おいちじま)
愛媛県松山市の防予諸島の一部、忽那諸島に属する瀬戸内海に、小市島というお椀を伏せたような小島がある。
島の東側には小市島灯台が佇む無人島である。
『おいち』という島名とはずいぶん女性的だ。探ればやはり『小市』という娘が島に置き去りにされて死んだ話が伝えられていることから、
こう冠されたのだという。それがこんなお話。
帆掛船がたくさんの荷を積んで瀬戸内海を往来していた時代のこと。芳造というある船乗りがいた。
芳造は風待ちした港にて、実家に帰れば妻子がいるにもかかわらず、地元の娘、小市にちょっかいを出す。
小市もおぼこ娘だったのか、そんな芳造を相手に恋にのぼせてしまう。
男も話の流れで、「嫁にしちゃるから、おれの故郷へ行って祝言をあげような」と、言ってしまったが後の祭り。
小市を乗せて船が出発してしまった。まさか本当につれて帰るわけにはいかない。いっそのこと、無人島に置き去りにしてしまおうと考えついた。
「船乗りなのにだらしない話だが、いささか酔っちまった。あの島につけるから一緒に小休止といこう」と、芳造は言い、小市をつれて島に上陸した。
小市は、芳造との婚約を前に胸躍らせながら横になり、わずかの間まどろんだ。
はっと気づくと、いとしの芳造はおろか、船が見当たらない。声を限りに叫べども、瀬戸内の海は狭いように見えて助けは望むべくもない。
食べ物すらなく水も沸かない島だったので、小市はしだいに衰弱していき、だました芳造を恨み、己が運命を呪ってしだいに狂気に捉われ、ついには悶死した。
それ以来、島の近くを船が通りかかると、恨めしそうな女の声で、「水を……水をください……」と訴え、船のあとを追ってくる『船幽霊』が出没するようになった。
船乗りが恐慌をきたし柄杓で水を汲み、それごと渡せば、女はニタリと笑った。柄杓を取り上げ、相手の船に海水を注ぎ、船が沈没するまでやめなかった。
そんな女幽霊が出たら、決まって船乗りたちは底を抜いた柄杓を渡してやりすごしていたが、いつしか誰かがこの島に祠を建て、小市の霊を慰めた。
以降、『船幽霊』は出なくなり、誰が言うことなくこの無人島を小市島と呼ぶようになった。
……前スレから愛読してくれている方なら、既視感を憶えたに違いない。
前スレ>>355の京の上臈島の置き去り伝説に酷似していながら、船幽霊の話と一緒くたになってしまっているのだから。
これもなんらかの形で話が伝播したにすぎないのだろう。もっとも、京の上臈島の伝説でさえ最初の発生源なのかどうかも疑わしいのだが。
伊予歴史文化探訪 よもだ堂日記 松山沖の無人島(10)「小市島」
http://yomodado.blog46.fc2.com/blog-entry-1238.htm...
松山の伝説 一覧
http://home.e-catv.ne.jp/naka/mukasi-hanasi/densetu/1-i...
愛媛県松山市の防予諸島の一部、忽那諸島に属する瀬戸内海に、小市島というお椀を伏せたような小島がある。
島の東側には小市島灯台が佇む無人島である。
『おいち』という島名とはずいぶん女性的だ。探ればやはり『小市』という娘が島に置き去りにされて死んだ話が伝えられていることから、
こう冠されたのだという。それがこんなお話。
帆掛船がたくさんの荷を積んで瀬戸内海を往来していた時代のこと。芳造というある船乗りがいた。
芳造は風待ちした港にて、実家に帰れば妻子がいるにもかかわらず、地元の娘、小市にちょっかいを出す。
小市もおぼこ娘だったのか、そんな芳造を相手に恋にのぼせてしまう。
男も話の流れで、「嫁にしちゃるから、おれの故郷へ行って祝言をあげような」と、言ってしまったが後の祭り。
小市を乗せて船が出発してしまった。まさか本当につれて帰るわけにはいかない。いっそのこと、無人島に置き去りにしてしまおうと考えついた。
「船乗りなのにだらしない話だが、いささか酔っちまった。あの島につけるから一緒に小休止といこう」と、芳造は言い、小市をつれて島に上陸した。
小市は、芳造との婚約を前に胸躍らせながら横になり、わずかの間まどろんだ。
はっと気づくと、いとしの芳造はおろか、船が見当たらない。声を限りに叫べども、瀬戸内の海は狭いように見えて助けは望むべくもない。
食べ物すらなく水も沸かない島だったので、小市はしだいに衰弱していき、だました芳造を恨み、己が運命を呪ってしだいに狂気に捉われ、ついには悶死した。
それ以来、島の近くを船が通りかかると、恨めしそうな女の声で、「水を……水をください……」と訴え、船のあとを追ってくる『船幽霊』が出没するようになった。
船乗りが恐慌をきたし柄杓で水を汲み、それごと渡せば、女はニタリと笑った。柄杓を取り上げ、相手の船に海水を注ぎ、船が沈没するまでやめなかった。
そんな女幽霊が出たら、決まって船乗りたちは底を抜いた柄杓を渡してやりすごしていたが、いつしか誰かがこの島に祠を建て、小市の霊を慰めた。
以降、『船幽霊』は出なくなり、誰が言うことなくこの無人島を小市島と呼ぶようになった。
……前スレから愛読してくれている方なら、既視感を憶えたに違いない。
前スレ>>355の京の上臈島の置き去り伝説に酷似していながら、船幽霊の話と一緒くたになってしまっているのだから。
これもなんらかの形で話が伝播したにすぎないのだろう。もっとも、京の上臈島の伝説でさえ最初の発生源なのかどうかも疑わしいのだが。
伊予歴史文化探訪 よもだ堂日記 松山沖の無人島(10)「小市島」
http://yomodado.blog46.fc2.com/blog-entry-1238.htm...
松山の伝説 一覧
http://home.e-catv.ne.jp/naka/mukasi-hanasi/densetu/1-i...
なぜ特定の島では犬を飼ってはいけないのか? 続き1
以前から気になっていて、>>78では『なぜ特定の島では犬を飼ってはいけないのか?』と独自に考察してみた。その続きに触れたい。
>>28で長崎県松浦市の『青島』を取り上げたのは記憶に新しい。この島も犬を飼うのがタブーであった。
>>104〜>>107で言及したように、古来より『青島』と冠する島は死者の埋葬地として機能していたというのが通説のようだ。
だとすれば遺体を掘り返される恐れから、犬を飼うのは忌み嫌われたというのもこれで合点がいく。
同じようにこの題目に言及した論文を見つけた。それが野地恒有氏という民俗学者が発表した『移住開拓島の民俗学ノート(一)』である。
僕とは異なる発想だが、うなずける部分もある。その部分を引用してみよう。アンカー部分がソレ。
>犬をつれて行くことを禁忌とする島がある。柳田国男はその本源的な理由として、猫の敵だとする以前にその島が葬地だったからと推測した(猫の島)。
>私は犬をつれていくというのは移住と土地占有を示す行為であったため、特別なとき以外には島に犬をつれて行ってはいけなかったのだろうと推測する。
>柳田国男の『猫の島』という一編を見てみよう。犬をつれて渡ると祟りがあるという島がみられる。
>猫のもつ神秘性ゆえに、猫の敵となる犬を忌むと説明されているが、猫の神秘性を持ち出す以前に犬を忌む戒めがあった。
>かつて島を葬地とした慣習があり、犬が葬地と人里を行き来するため、死の穢れに触れる犬を島に入れるのを忌み嫌ったのだろうと柳田は解釈している。
>たとえば宮崎県石巻市の田代島では、「犬を牽いて渡ってはならぬという戒めが前にあって、その理由がやや不明になってのちに、犬を敵とするものが島に入る、
>それは猫だという説が起こり、その猫には違反を罰するだけの、恐るべき威力があるように考えた」。
>しかし、田代島を猫の島とする以前には、島を葬地とする歴史があった。「島を開きにあとから入った人々」は島を葬地とした慣習を知らず、
>ただ犬をつれて行ってはいけないという戒めだけが伝えられて、その理由が猫に求められるようになったというのである。
>田代島の開拓前史に、島を葬地とする民俗事例があったかどうかはわからない。私は民俗として捉えられないだろうと考えている。
>ただ、柳田の『猫の島』の中で、田代島以外で犬をつれて行ってはならない島としてあげられている他の2例が2例とも、
>近代以降に移住開拓される無人島である点は興味深い。それは式根島(東京都伊豆七島)と大黒神島(広島県江田島市)である。
>柳田があげている式根島の例を見てみよう。
>式根島は「今(昭和14年ごろ)から45年前までは、まったくの無人島であった」。(式根島は明治20年代以降の移住により形成された移住開拓島である)
>無人島であったころには、「わずかな畠地があって隣の島から、ときどき耕作や木草を刈りに渡るだけだった」。
>式根島でも「猫が住んでいるために犬の行くことを忌む」と説明されていた。
>柳田は、「人家がないのに猫のいるのも怪しく、それに遠慮して犬を連れ込まぬというのはなおさら合点がいかない」として、
>「犬を嫌うという方が元で、その理由を知る者が少なくなった結果、新たにこんな単純な想像が生まれたのかもと考えられる」と解釈している。
※本文と画像は無関係です。
以前から気になっていて、>>78では『なぜ特定の島では犬を飼ってはいけないのか?』と独自に考察してみた。その続きに触れたい。
>>28で長崎県松浦市の『青島』を取り上げたのは記憶に新しい。この島も犬を飼うのがタブーであった。
>>104〜>>107で言及したように、古来より『青島』と冠する島は死者の埋葬地として機能していたというのが通説のようだ。
だとすれば遺体を掘り返される恐れから、犬を飼うのは忌み嫌われたというのもこれで合点がいく。
同じようにこの題目に言及した論文を見つけた。それが野地恒有氏という民俗学者が発表した『移住開拓島の民俗学ノート(一)』である。
僕とは異なる発想だが、うなずける部分もある。その部分を引用してみよう。アンカー部分がソレ。
>犬をつれて行くことを禁忌とする島がある。柳田国男はその本源的な理由として、猫の敵だとする以前にその島が葬地だったからと推測した(猫の島)。
>私は犬をつれていくというのは移住と土地占有を示す行為であったため、特別なとき以外には島に犬をつれて行ってはいけなかったのだろうと推測する。
>柳田国男の『猫の島』という一編を見てみよう。犬をつれて渡ると祟りがあるという島がみられる。
>猫のもつ神秘性ゆえに、猫の敵となる犬を忌むと説明されているが、猫の神秘性を持ち出す以前に犬を忌む戒めがあった。
>かつて島を葬地とした慣習があり、犬が葬地と人里を行き来するため、死の穢れに触れる犬を島に入れるのを忌み嫌ったのだろうと柳田は解釈している。
>たとえば宮崎県石巻市の田代島では、「犬を牽いて渡ってはならぬという戒めが前にあって、その理由がやや不明になってのちに、犬を敵とするものが島に入る、
>それは猫だという説が起こり、その猫には違反を罰するだけの、恐るべき威力があるように考えた」。
>しかし、田代島を猫の島とする以前には、島を葬地とする歴史があった。「島を開きにあとから入った人々」は島を葬地とした慣習を知らず、
>ただ犬をつれて行ってはいけないという戒めだけが伝えられて、その理由が猫に求められるようになったというのである。
>田代島の開拓前史に、島を葬地とする民俗事例があったかどうかはわからない。私は民俗として捉えられないだろうと考えている。
>ただ、柳田の『猫の島』の中で、田代島以外で犬をつれて行ってはならない島としてあげられている他の2例が2例とも、
>近代以降に移住開拓される無人島である点は興味深い。それは式根島(東京都伊豆七島)と大黒神島(広島県江田島市)である。
>柳田があげている式根島の例を見てみよう。
>式根島は「今(昭和14年ごろ)から45年前までは、まったくの無人島であった」。(式根島は明治20年代以降の移住により形成された移住開拓島である)
>無人島であったころには、「わずかな畠地があって隣の島から、ときどき耕作や木草を刈りに渡るだけだった」。
>式根島でも「猫が住んでいるために犬の行くことを忌む」と説明されていた。
>柳田は、「人家がないのに猫のいるのも怪しく、それに遠慮して犬を連れ込まぬというのはなおさら合点がいかない」として、
>「犬を嫌うという方が元で、その理由を知る者が少なくなった結果、新たにこんな単純な想像が生まれたのかもと考えられる」と解釈している。
※本文と画像は無関係です。
なぜ特定の島では犬を飼ってはいけないのか? 続き2
>式根島は無人島で、隣の新島から耕作や木草を刈りに渡ってきていた。そのころに、島で犬を連れていってはならないというのは、
>かつてその島が葬地であったからでも、犬が猫の敵だからでもない、と私は考えている。
>犬を連れていってはならないというのは、それが特別な意思表明の行為だったからである。新島の共有地である無人島で犬を飼うということは、
>島の土地の占有、あるいは移住定着の意思の表明であったのではないか。
>その土地や島を共同管理する村では移住が認められたときに犬を連れていってもよかったのであろう。
>だから、むやみに犬を共有地である無人島へ連れていってはならなかったのである。
>塚本学(※日本近世史を専門とする歴史学者。国立歴史民俗博物館名誉教授)の研究によると、江戸時代、犬を飼うことを禁止する村の申し合わせがあり、
>その理由には、狂犬病の流行に対する措置、犬が畑を荒らすことに対する防御、倹約の3つがあげられる。
>第3の理由を見ると、犬を飼うというのは経済的に余裕のある人の行為である。その行為を禁止するというのは単純にいえば倹約のためであるが、
>倹約を禁止する根底には「ある社会のなかで一般のメンバーに対する優越者の地位を顕示する動きをおさえる役割をもつものであった」と、塚本は捉えている。
>また、犬を飼うというのは一種の武力行使でもある。
>「犬を飼うことによって、一般村民とはちがった、一般村民に対してなんらかの力を奮おうとする者が出現することへの警戒が、この規定を生んだ」のであり、
>「村中の申し合わせとして犬飼育をおさえるのは、村内特定家の武力独占を排除するという意味で、つきつめて言えば小農自立傾向と相応ずる面をもつかにも
>見えるのである」とまとめている。
>村の特定の家が犬を飼うということに、野獣や盗賊に対する番犬としての役割だけでなく、その奥に、経済力や武力の顕示と支配関係の創出が捉えられる。
>犬を飼うということに権利や支配の示威行為を見出したのは塚本の卓見である。
>犬を飼うことは他者に対する何らかの示威行為である。それでは、近代の移住開拓島ではどのような示威行為になるのであろうか。
>移住開拓島の飼い犬はワタクシ(私有)の象徴である。移住開拓島に犬を連れていくというのは移住定着と土地占有の意思を表している。
>ゆえに、むやみに犬を連れ込むことは禁止されるのである。村の共有地になっているような島へ渡るときには土地占有の示威行為となるため、
>犬の持ち込みは禁止されたのである。
移住開拓島の民俗学ノート(一) 野地恒有
http://repository.aichi-edu.ac.jp/dspace/bitstream/10424/3650/1/...
>式根島は無人島で、隣の新島から耕作や木草を刈りに渡ってきていた。そのころに、島で犬を連れていってはならないというのは、
>かつてその島が葬地であったからでも、犬が猫の敵だからでもない、と私は考えている。
>犬を連れていってはならないというのは、それが特別な意思表明の行為だったからである。新島の共有地である無人島で犬を飼うということは、
>島の土地の占有、あるいは移住定着の意思の表明であったのではないか。
>その土地や島を共同管理する村では移住が認められたときに犬を連れていってもよかったのであろう。
>だから、むやみに犬を共有地である無人島へ連れていってはならなかったのである。
>塚本学(※日本近世史を専門とする歴史学者。国立歴史民俗博物館名誉教授)の研究によると、江戸時代、犬を飼うことを禁止する村の申し合わせがあり、
>その理由には、狂犬病の流行に対する措置、犬が畑を荒らすことに対する防御、倹約の3つがあげられる。
>第3の理由を見ると、犬を飼うというのは経済的に余裕のある人の行為である。その行為を禁止するというのは単純にいえば倹約のためであるが、
>倹約を禁止する根底には「ある社会のなかで一般のメンバーに対する優越者の地位を顕示する動きをおさえる役割をもつものであった」と、塚本は捉えている。
>また、犬を飼うというのは一種の武力行使でもある。
>「犬を飼うことによって、一般村民とはちがった、一般村民に対してなんらかの力を奮おうとする者が出現することへの警戒が、この規定を生んだ」のであり、
>「村中の申し合わせとして犬飼育をおさえるのは、村内特定家の武力独占を排除するという意味で、つきつめて言えば小農自立傾向と相応ずる面をもつかにも
>見えるのである」とまとめている。
>村の特定の家が犬を飼うということに、野獣や盗賊に対する番犬としての役割だけでなく、その奥に、経済力や武力の顕示と支配関係の創出が捉えられる。
>犬を飼うということに権利や支配の示威行為を見出したのは塚本の卓見である。
>犬を飼うことは他者に対する何らかの示威行為である。それでは、近代の移住開拓島ではどのような示威行為になるのであろうか。
>移住開拓島の飼い犬はワタクシ(私有)の象徴である。移住開拓島に犬を連れていくというのは移住定着と土地占有の意思を表している。
>ゆえに、むやみに犬を連れ込むことは禁止されるのである。村の共有地になっているような島へ渡るときには土地占有の示威行為となるため、
>犬の持ち込みは禁止されたのである。
移住開拓島の民俗学ノート(一) 野地恒有
http://repository.aichi-edu.ac.jp/dspace/bitstream/10424/3650/1/...
浦戸諸島 寒風沢島 Sabusawa-jima Island
http://www.city.shiogama.miyagi.jp/urato/midokoro/sabusawajima/mu...
http://www.city.shiogama.miyagi.jp/urato/midokoro/sabusawajima/mu...
阿久根市ホームページ 阿久根市: 市の歴史(七不思議)
http://www.city.akune.kagoshima.jp/rekisi/nana.htm...
鹿児島の自然と食 光礁
http://blog.goo.ne.jp/sizen2_2006/e/0882d4f6dcda5650...
http://www.city.akune.kagoshima.jp/rekisi/nana.htm...
鹿児島の自然と食 光礁
http://blog.goo.ne.jp/sizen2_2006/e/0882d4f6dcda5650...
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スレッドタイトル:続・怖い島・いわくつきの村