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怖い島・いわくつきの村・総合
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火葬をしていたら遺体が起き上がった話 桂島
こちらも同じく宮城県の浦戸諸島の1つ桂島。
島名の由来は曽良が松島に滞在した時、松島湾に浮かぶ島と月を見て「月桂冠の如し」と詠んだことからとも、
鹽竈神社の嘉津良比祭と関係があるとも言われている。
島には桂島地区、石浜地区2つの集落があり、浦戸諸島の中では最も人口が多い。
そんな石浜には、『おじゃら浜の奇談』という怖い伝承が残されている。それがこんな内容だ。
明治初期。塩竈の外港として、経済文化の中心が石浜港に集まり、貨物船の出入りが盛んになっていた。
船乗りたちも全国から石浜に集中し、『肝煎』(人事や配役などを行う職業)である高橋安吉の世話になっていた。
肝煎は出入船の取締りや船員の雇入れなど、海事のことまで任されていた。
ところで、石浜には『せんちょう浜、おじゃら浜』と呼ばれる、その昔、火葬を行った場所があった。
他国の人間が死ぬと、ここで荼毘に付したというのだ。
あるとき、海幸丸なる船が航海中に、三河出身の仙吉という船乗りが、釜石沖で急死してしまった。
後日、仙吉の遺体を積んだ船が石浜港に入ったという届けが高橋安吉のもとに入ったので手続きを済ませ、
瑞厳寺から和尚を呼んで、葬式の用意をさせた。
船仲間たちで火葬の段取りを終え、親しかった権吉と銀蔵の2人が火葬の世話を買って出た。2人は薪を焚き続けた。
その日は静かな晩だったものの、薪や芝が燃える青白い炎、遺体が焦げる胸のむかつく臭い、その間を黒い煙が渦を巻いて、
あたかも地獄絵図のような光景だった。
それでも2人は、仲のよかった仙吉のために線香を上げ、念仏を唱えながら無心で薪を足し続けた。
時間も経ち深夜になった。権吉と銀蔵は、
「もう十分焼けたんじゃなかろうか。そろそろしまいにするか」
「だな。ずいぶん遅くまでかかっちまった。あとは明日、仙吉のお骨を拾うだけだ」と、話していた。
そのときであった。燃え盛っていた炎の中から、突如、凄絶な形相に歪んだ仙吉の顔がぬっと浮かんだ。
すると仙吉は全身の火の粉を振り払いながら立ち上がり、権吉めがけて覆いかぶさるように抱きついてきたのだ。
あまりの異常事態に権吉はたまげてしまい、口から泡を吹いて腰を抜かしてしまった。
そばの銀蔵も、顔面蒼白になり、身体の震えがとまらない。
2人とも筆舌に尽くし難い恐怖のために気を失ってしまった。
翌朝、仙吉の骨を拾いに来た村人たちは現場を見るなり、肝をつぶした。
あれほど薪をくべ続け、とっくに骨になったはずの仙吉は原型を保ったまま外に投げ出され、
権吉と銀蔵が気絶していたのだから無理もあるまい。
その後、権吉と銀蔵はショックで半年ばかり寝込んでしまった。
地元では、この浜を『おじゃら小沙羅の浜』と呼んでいる。
現代でも火葬場で、釜の中の遺体が筋肉の収縮により半身を起こす現象は一般的に見られるそうだが、
原型を保った状態で起き上がってきたとはどういうことだろう?
医学も発展していない時代、誤診により、死亡と判断されたケースはよくあったらしいが……。
塩竈の民話「おじゃら浜の奇談」
http://shiomo.jp/archives/148...
こちらも同じく宮城県の浦戸諸島の1つ桂島。
島名の由来は曽良が松島に滞在した時、松島湾に浮かぶ島と月を見て「月桂冠の如し」と詠んだことからとも、
鹽竈神社の嘉津良比祭と関係があるとも言われている。
島には桂島地区、石浜地区2つの集落があり、浦戸諸島の中では最も人口が多い。
そんな石浜には、『おじゃら浜の奇談』という怖い伝承が残されている。それがこんな内容だ。
明治初期。塩竈の外港として、経済文化の中心が石浜港に集まり、貨物船の出入りが盛んになっていた。
船乗りたちも全国から石浜に集中し、『肝煎』(人事や配役などを行う職業)である高橋安吉の世話になっていた。
肝煎は出入船の取締りや船員の雇入れなど、海事のことまで任されていた。
ところで、石浜には『せんちょう浜、おじゃら浜』と呼ばれる、その昔、火葬を行った場所があった。
他国の人間が死ぬと、ここで荼毘に付したというのだ。
あるとき、海幸丸なる船が航海中に、三河出身の仙吉という船乗りが、釜石沖で急死してしまった。
後日、仙吉の遺体を積んだ船が石浜港に入ったという届けが高橋安吉のもとに入ったので手続きを済ませ、
瑞厳寺から和尚を呼んで、葬式の用意をさせた。
船仲間たちで火葬の段取りを終え、親しかった権吉と銀蔵の2人が火葬の世話を買って出た。2人は薪を焚き続けた。
その日は静かな晩だったものの、薪や芝が燃える青白い炎、遺体が焦げる胸のむかつく臭い、その間を黒い煙が渦を巻いて、
あたかも地獄絵図のような光景だった。
それでも2人は、仲のよかった仙吉のために線香を上げ、念仏を唱えながら無心で薪を足し続けた。
時間も経ち深夜になった。権吉と銀蔵は、
「もう十分焼けたんじゃなかろうか。そろそろしまいにするか」
「だな。ずいぶん遅くまでかかっちまった。あとは明日、仙吉のお骨を拾うだけだ」と、話していた。
そのときであった。燃え盛っていた炎の中から、突如、凄絶な形相に歪んだ仙吉の顔がぬっと浮かんだ。
すると仙吉は全身の火の粉を振り払いながら立ち上がり、権吉めがけて覆いかぶさるように抱きついてきたのだ。
あまりの異常事態に権吉はたまげてしまい、口から泡を吹いて腰を抜かしてしまった。
そばの銀蔵も、顔面蒼白になり、身体の震えがとまらない。
2人とも筆舌に尽くし難い恐怖のために気を失ってしまった。
翌朝、仙吉の骨を拾いに来た村人たちは現場を見るなり、肝をつぶした。
あれほど薪をくべ続け、とっくに骨になったはずの仙吉は原型を保ったまま外に投げ出され、
権吉と銀蔵が気絶していたのだから無理もあるまい。
その後、権吉と銀蔵はショックで半年ばかり寝込んでしまった。
地元では、この浜を『おじゃら小沙羅の浜』と呼んでいる。
現代でも火葬場で、釜の中の遺体が筋肉の収縮により半身を起こす現象は一般的に見られるそうだが、
原型を保った状態で起き上がってきたとはどういうことだろう?
医学も発展していない時代、誤診により、死亡と判断されたケースはよくあったらしいが……。
塩竈の民話「おじゃら浜の奇談」
http://shiomo.jp/archives/148...
悲しい思いをするのはいつも女ばかり……遊女みどりの悲恋物語 安居島(あいじま)
愛媛県今治市にある高縄半島の西側に広がる海を斎灘(いつきなだ)といい、そのほぼ中央に位置するのが安居島である。
安居島は文化14(1817)年、大内金左衛門なる人物が浅海村(あさなみむら。現在の松山市浅海原周辺)から入植したことを契機に発展した。
金左衛門が港の整備を行ったことで、潮待ち、風待ちで立ち寄る船が増え、幕末から明治期にかけて遊郭ができるほどに賑わった。
つまり、船乗り御用達の遊女たちがひしめく『女郎の島』だったのだ。もっともそれも過去の話であり、過疎化が進んでいる。
港の西側には古びた観音堂がある。その横には『遊女みどり』の墓があるのだが、悲恋話と同時に不思議な言い伝えが残されている。
それを紹介しよう。
みどりはある常連客と恋に落ちた。
男たちは遊女の腕から腕へすり抜けていくのをわかっていながら、気持ちに歯止めをかけることはできなかった。
しょせん、それは叶わぬ恋。みどりは嘆き悲しみ、ついに波止場から身を投げたのだ。
その後、彼女の遺体は島の東の浜の岩に打ち寄せられた。それにちなみ、この岩を『みどり石』と呼ぶようになった。
時代は明治に移った。港の改修工事の際、石工がこの石を割ったところ、石の中から白蛇が出てきたと思ったら、
その石工は病気になってしまったというのだ。
島民はみどりの祟りだと恐れ、以来その岩に手を付けるものはいないという。
愛の島の歴史
http://imag045.exblog.jp/14986262...
愛媛県今治市にある高縄半島の西側に広がる海を斎灘(いつきなだ)といい、そのほぼ中央に位置するのが安居島である。
安居島は文化14(1817)年、大内金左衛門なる人物が浅海村(あさなみむら。現在の松山市浅海原周辺)から入植したことを契機に発展した。
金左衛門が港の整備を行ったことで、潮待ち、風待ちで立ち寄る船が増え、幕末から明治期にかけて遊郭ができるほどに賑わった。
つまり、船乗り御用達の遊女たちがひしめく『女郎の島』だったのだ。もっともそれも過去の話であり、過疎化が進んでいる。
港の西側には古びた観音堂がある。その横には『遊女みどり』の墓があるのだが、悲恋話と同時に不思議な言い伝えが残されている。
それを紹介しよう。
みどりはある常連客と恋に落ちた。
男たちは遊女の腕から腕へすり抜けていくのをわかっていながら、気持ちに歯止めをかけることはできなかった。
しょせん、それは叶わぬ恋。みどりは嘆き悲しみ、ついに波止場から身を投げたのだ。
その後、彼女の遺体は島の東の浜の岩に打ち寄せられた。それにちなみ、この岩を『みどり石』と呼ぶようになった。
時代は明治に移った。港の改修工事の際、石工がこの石を割ったところ、石の中から白蛇が出てきたと思ったら、
その石工は病気になってしまったというのだ。
島民はみどりの祟りだと恐れ、以来その岩に手を付けるものはいないという。
愛の島の歴史
http://imag045.exblog.jp/14986262...
海難の代償もやはり女……般若姫伝説 笠佐島
>>80で山口県の笠佐島には墓がなく、野外で荼毘に付すしきたりがあるのを前回取り上げた。
それとは別に、この島にも女性が犠牲になってしまう伝説が残されていたので追記する。
大分県やこの笠佐島周辺には広範囲にわたり、『般若姫伝説』という話が残されているのだ。
昔々の話である。
筑紫豊後の国、真野の長者には般若姫という子がいた。自慢の美しい娘へと育った。
その噂は遠く都の、三十代欽明天皇の皇子、豊日命(三十一代用明天皇)の耳にも届いた。
皇子は般若姫に一目逢うべく、朝廷を抜け出すことにした。修行者に身をやつして豊後に下り、
ついに般若姫と結ばれる。
しばらく経ったころ、皇子は天皇の命令を受け、都に呼び戻されることになった。
姫はすでに身重だったため、一緒に上洛することはできないので、別れを惜しみながら、先に都へ帰っていった。
皇子19歳、姫17歳のことであった。
やがて 姫は美しい女子を安産。玉絵姫と名付けた。
健康を取り戻したあと、般若姫は赤子を長者に託し、夫のもとへと旅立つことにする。
長者は姫に多くの家来と大船小船120隻を用意して、一行は臼杵(うすき)の浦を出発。
はじめは穏やかだった海も、周防の国の近くにさしかかると急な嵐に見舞われ、船は豊後の国に流されてしまう。
天気が回復し船を出したものの、大畠鳴門の瀬戸にさしかかかったところで、またぞろ暴風に襲われた。
たちまち120隻は散り散りとなり、多くの船が沈んだ。
奇異な現象であった。実は嵐の正体は、かつて長者に池を潰された金龍神の怒りそのものだったのだ。
一行は、そばの浦に船をとどめ、行方不明になった者たちを捜し、多くの遺体を引き上げた。
姫は嘆きは深い。「私は、こんなにまで大勢の人の命を犠牲にしてまで、皇后になりたいとは思いませぬ」
そして覚悟を決めると、渦巻く大畠の瀬戸に身を投げたのである。
侍女たちもあとを追うように飛び込んだ。驚いた船人たちが慌てて救い上げたが、姫の命は風前の灯火であった。
「二度とこの場所で、むごい事故が起こらないよう、私は瀬戸の守り神となります。亡骸は向こうに見えるあの山に葬ってください」と、
遺言を残し、息を引き取ったという。
家来たちは嘆き悲しみ、姫の最期の言葉どおり、今の山口県平生町神峰山の頂上に埋葬した。
訃報を聞いた皇子と、長者の悲しみも同様であった。
言いつけに従い、神峰山に墓を建て、姫の念持仏『金の観音像』を納め、般若寺を建立した。
この出来事のあと、毎年陰暦12月大晦日の夜、大畠の瀬戸から火の玉が3つ舞い上がり、1つは神峰山山頂の『龍灯の松』にとまったあと、
般若寺の観音堂の三光之窓に入っていくという。また別の1つは対岸の大畠の瀬戸の明神様へ、もう1つは大島三蒲の松尾寺に向かって、
飛ぶようになったといわれている。そして、その火の玉を見た人は、大漁・豊作・福徳に恵まれるということである。
ちなみに、溺れる姫に島民が笠を捧げたことから『笠捧げ島』と呼ばれ、やがて縮まり、『笠佐島』と変遷したのが島名の由来だった。
1月7日その2 松尾寺
http://homepage3.nifty.com/GAITEN/page055.htm...
飯の山(いいのやま) 山口県周防大島町
http://houshizaki.web.fc2.com/iinoyama.ht...
般若姫伝説
http://www.hunterslog.net/dragonology/ryujatan/chugoku/h...
>>80で山口県の笠佐島には墓がなく、野外で荼毘に付すしきたりがあるのを前回取り上げた。
それとは別に、この島にも女性が犠牲になってしまう伝説が残されていたので追記する。
大分県やこの笠佐島周辺には広範囲にわたり、『般若姫伝説』という話が残されているのだ。
昔々の話である。
筑紫豊後の国、真野の長者には般若姫という子がいた。自慢の美しい娘へと育った。
その噂は遠く都の、三十代欽明天皇の皇子、豊日命(三十一代用明天皇)の耳にも届いた。
皇子は般若姫に一目逢うべく、朝廷を抜け出すことにした。修行者に身をやつして豊後に下り、
ついに般若姫と結ばれる。
しばらく経ったころ、皇子は天皇の命令を受け、都に呼び戻されることになった。
姫はすでに身重だったため、一緒に上洛することはできないので、別れを惜しみながら、先に都へ帰っていった。
皇子19歳、姫17歳のことであった。
やがて 姫は美しい女子を安産。玉絵姫と名付けた。
健康を取り戻したあと、般若姫は赤子を長者に託し、夫のもとへと旅立つことにする。
長者は姫に多くの家来と大船小船120隻を用意して、一行は臼杵(うすき)の浦を出発。
はじめは穏やかだった海も、周防の国の近くにさしかかると急な嵐に見舞われ、船は豊後の国に流されてしまう。
天気が回復し船を出したものの、大畠鳴門の瀬戸にさしかかかったところで、またぞろ暴風に襲われた。
たちまち120隻は散り散りとなり、多くの船が沈んだ。
奇異な現象であった。実は嵐の正体は、かつて長者に池を潰された金龍神の怒りそのものだったのだ。
一行は、そばの浦に船をとどめ、行方不明になった者たちを捜し、多くの遺体を引き上げた。
姫は嘆きは深い。「私は、こんなにまで大勢の人の命を犠牲にしてまで、皇后になりたいとは思いませぬ」
そして覚悟を決めると、渦巻く大畠の瀬戸に身を投げたのである。
侍女たちもあとを追うように飛び込んだ。驚いた船人たちが慌てて救い上げたが、姫の命は風前の灯火であった。
「二度とこの場所で、むごい事故が起こらないよう、私は瀬戸の守り神となります。亡骸は向こうに見えるあの山に葬ってください」と、
遺言を残し、息を引き取ったという。
家来たちは嘆き悲しみ、姫の最期の言葉どおり、今の山口県平生町神峰山の頂上に埋葬した。
訃報を聞いた皇子と、長者の悲しみも同様であった。
言いつけに従い、神峰山に墓を建て、姫の念持仏『金の観音像』を納め、般若寺を建立した。
この出来事のあと、毎年陰暦12月大晦日の夜、大畠の瀬戸から火の玉が3つ舞い上がり、1つは神峰山山頂の『龍灯の松』にとまったあと、
般若寺の観音堂の三光之窓に入っていくという。また別の1つは対岸の大畠の瀬戸の明神様へ、もう1つは大島三蒲の松尾寺に向かって、
飛ぶようになったといわれている。そして、その火の玉を見た人は、大漁・豊作・福徳に恵まれるということである。
ちなみに、溺れる姫に島民が笠を捧げたことから『笠捧げ島』と呼ばれ、やがて縮まり、『笠佐島』と変遷したのが島名の由来だった。
1月7日その2 松尾寺
http://homepage3.nifty.com/GAITEN/page055.htm...
飯の山(いいのやま) 山口県周防大島町
http://houshizaki.web.fc2.com/iinoyama.ht...
般若姫伝説
http://www.hunterslog.net/dragonology/ryujatan/chugoku/h...
牛鬼を退治、その妖怪ハンターの末裔は今も健在 牛島
山口県光市の沖に浮かぶ牛島には血沸き肉踊る『牛鬼伝説』が残されており、牛鬼を倒したとされる英雄の墓まで残されている。
天文年間(1532〜54)、戦国時代のことである。
牛島には牛鬼(うしおに、ぎゅうき)と呼ばれる恐ろしい妖怪が潜んでいた。
牛鬼とは、頭が牛、首から下は鬼の胴体を持つとも、あるいはその逆で、頭が鬼、胴体が牛の場合もあるといわれている。
別の伝承では、牛の首に蜘蛛の胴体をしているともされる。海岸、山間部、森林、川や沼地、湖にも出没するという。
とくに淵に現われることが多いとされ、近畿地方や四国にはこの伝承が伝わる『牛鬼淵』『牛鬼滝』なる地名が残っているほどである。
性質は残忍、獰猛で、毒を吐き、老人や子供をさらい、食らい殺すと恐れられた。
この牛鬼による悪事はあまりにもひどく、島民の悩みの種であった。
それが嵩じて、多くの人々が家や畑を捨てて島外へ逃げ出すほどだった。
折しもそのころ、土佐の長宗我部家の家臣、橘諸兄の末裔に当たるという藤内図書橘道信と、
その弟、御旗三郎左衛門信重の2人が乗った船が時化にあい、漂流したのち牛島に流れ着いた。
ここはなんという島であろう。情報収集すべく道信たちが島を練り歩くものの、人家はあれども肝心の人影が見当たらない。
不思議に思い方々を探してみると、島の出らしい漁師たちと出会えた。
事情を聞くと、それもこれも牛鬼のしわざだと漁師たちは口をそろえて言う。
真相を知った道信たちは、すぐさま刀を差し、牛鬼征伐に向った。
ところが牛鬼は手ごわく、とても太刀打ちできそうにない。2人はひとまず本土の室積の浦へと撤退することにした。
地元の漁師に聞くところによれば、隣の三輪村に、城喜兵衛平朝臣高経とその弟の明兼という弓の名手が住んでいるとの情報をつかんだ。
道信たちは、さっそくその兄弟に会いに行き、弓の教えを乞うた。2人はめきめき上達し、名人の弓の技術を会得した。
十数日が経った。道信たちはふたたび牛島に渡り報復戦に望んだ。そして見事牛鬼を退治したのだった。
この牛鬼征伐の話は、今も橘道信の子孫に当たる牛島の藤内家、御旗信重の末裔だという小川家にそれぞれ記録として保存されており、
尊敬の対象だという。
牛鬼 wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%89%9B%E9%AC%B...
山口県光市牛島の牛鬼伝説
http://blog.goo.ne.jp/uchikonotemae/e/f4b11f9a73dec6...
山口県光市の沖に浮かぶ牛島には血沸き肉踊る『牛鬼伝説』が残されており、牛鬼を倒したとされる英雄の墓まで残されている。
天文年間(1532〜54)、戦国時代のことである。
牛島には牛鬼(うしおに、ぎゅうき)と呼ばれる恐ろしい妖怪が潜んでいた。
牛鬼とは、頭が牛、首から下は鬼の胴体を持つとも、あるいはその逆で、頭が鬼、胴体が牛の場合もあるといわれている。
別の伝承では、牛の首に蜘蛛の胴体をしているともされる。海岸、山間部、森林、川や沼地、湖にも出没するという。
とくに淵に現われることが多いとされ、近畿地方や四国にはこの伝承が伝わる『牛鬼淵』『牛鬼滝』なる地名が残っているほどである。
性質は残忍、獰猛で、毒を吐き、老人や子供をさらい、食らい殺すと恐れられた。
この牛鬼による悪事はあまりにもひどく、島民の悩みの種であった。
それが嵩じて、多くの人々が家や畑を捨てて島外へ逃げ出すほどだった。
折しもそのころ、土佐の長宗我部家の家臣、橘諸兄の末裔に当たるという藤内図書橘道信と、
その弟、御旗三郎左衛門信重の2人が乗った船が時化にあい、漂流したのち牛島に流れ着いた。
ここはなんという島であろう。情報収集すべく道信たちが島を練り歩くものの、人家はあれども肝心の人影が見当たらない。
不思議に思い方々を探してみると、島の出らしい漁師たちと出会えた。
事情を聞くと、それもこれも牛鬼のしわざだと漁師たちは口をそろえて言う。
真相を知った道信たちは、すぐさま刀を差し、牛鬼征伐に向った。
ところが牛鬼は手ごわく、とても太刀打ちできそうにない。2人はひとまず本土の室積の浦へと撤退することにした。
地元の漁師に聞くところによれば、隣の三輪村に、城喜兵衛平朝臣高経とその弟の明兼という弓の名手が住んでいるとの情報をつかんだ。
道信たちは、さっそくその兄弟に会いに行き、弓の教えを乞うた。2人はめきめき上達し、名人の弓の技術を会得した。
十数日が経った。道信たちはふたたび牛島に渡り報復戦に望んだ。そして見事牛鬼を退治したのだった。
この牛鬼征伐の話は、今も橘道信の子孫に当たる牛島の藤内家、御旗信重の末裔だという小川家にそれぞれ記録として保存されており、
尊敬の対象だという。
牛鬼 wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%89%9B%E9%AC%B...
山口県光市牛島の牛鬼伝説
http://blog.goo.ne.jp/uchikonotemae/e/f4b11f9a73dec6...
ハンセン病患者を隔離した島・2 長島
ハンセン病患者を隔離した島は>>44の香川県高松市の大島だけではない。岡山県瀬戸内市にある長島もそうだった。
長島もまたハンセン病の療養所として、日本の近現代史にその名を残している。
1930年、国立ハンセン病療養所、『長島愛生園(あいせいえん)』が開園して以来、1988年、島と本土とを結ぶ橋が架けられ陸続きになるまで、
終身隔離政策をとる日本のハンセン病政策の象徴であった。
1927年、日本初となる国立ハンセン病療養所である愛生園を同島に設置。
この際、村有地や民有地のほとんどが国に買収され、島民はいなくなる。収容人員400名を目標にして1930年に療養所が完成したが、
予定を超えて1943年には2000人以上が収容されていた。
また1938年には大阪府から公立らい療養所(外島保養院)が長島に移転。1941年に国に移管され国立療養所邑久光明園となっている。
こちらには最盛期で1000名の患者が収容されていた。
初代園長に就いた光田健輔(みつだけんすけ)氏の信念=ハンセン病患者の強制的な終身隔離政策を実現する施設として、離島である長島はうってつけであった。
以後、施設運営維持の名目のもと、患者に重労働を強制し、職員による虐待、堕胎、パイプカットの強要など違法な外科手術を施した。
慢性的な食糧不足、外部との連絡の制限など、戦中から戦後直後をピークに、この隔離島の中では社会に知られることもなく、
数々の人権侵害事件がくり返されていくことになる。
1996年のらい予防法改正によって患者の入所は義務ではなくなったが、長期間の隔離により出所は困難になっており、
2005年時点で計685名がいまだ入所しているという。
我々はこの悲劇を忘れてはならない。
ハンセン病と差別---「岡山県長島愛生園」
http://uemukai.air-nifty.com/blog/2010/05/----18a7.htm...
「海の壁」の物語 ハンセン病カヤック紀行(1)岡山長島・ハンセン病の島をめぐる
http://www.bfkayaks.com/hedatenoumi.htm...
国立療養所の名を借りた「収容所」
http://rg4.rg.med.kyoto-u.ac.jp/jdsn/data/hansen.htm...
心の壁を越えるために「ハンセン病問題」ノート
http://mauer.seesaa.net/category/16334101-1.htm...
ハンセン病患者を隔離した島は>>44の香川県高松市の大島だけではない。岡山県瀬戸内市にある長島もそうだった。
長島もまたハンセン病の療養所として、日本の近現代史にその名を残している。
1930年、国立ハンセン病療養所、『長島愛生園(あいせいえん)』が開園して以来、1988年、島と本土とを結ぶ橋が架けられ陸続きになるまで、
終身隔離政策をとる日本のハンセン病政策の象徴であった。
1927年、日本初となる国立ハンセン病療養所である愛生園を同島に設置。
この際、村有地や民有地のほとんどが国に買収され、島民はいなくなる。収容人員400名を目標にして1930年に療養所が完成したが、
予定を超えて1943年には2000人以上が収容されていた。
また1938年には大阪府から公立らい療養所(外島保養院)が長島に移転。1941年に国に移管され国立療養所邑久光明園となっている。
こちらには最盛期で1000名の患者が収容されていた。
初代園長に就いた光田健輔(みつだけんすけ)氏の信念=ハンセン病患者の強制的な終身隔離政策を実現する施設として、離島である長島はうってつけであった。
以後、施設運営維持の名目のもと、患者に重労働を強制し、職員による虐待、堕胎、パイプカットの強要など違法な外科手術を施した。
慢性的な食糧不足、外部との連絡の制限など、戦中から戦後直後をピークに、この隔離島の中では社会に知られることもなく、
数々の人権侵害事件がくり返されていくことになる。
1996年のらい予防法改正によって患者の入所は義務ではなくなったが、長期間の隔離により出所は困難になっており、
2005年時点で計685名がいまだ入所しているという。
我々はこの悲劇を忘れてはならない。
ハンセン病と差別---「岡山県長島愛生園」
http://uemukai.air-nifty.com/blog/2010/05/----18a7.htm...
「海の壁」の物語 ハンセン病カヤック紀行(1)岡山長島・ハンセン病の島をめぐる
http://www.bfkayaks.com/hedatenoumi.htm...
国立療養所の名を借りた「収容所」
http://rg4.rg.med.kyoto-u.ac.jp/jdsn/data/hansen.htm...
心の壁を越えるために「ハンセン病問題」ノート
http://mauer.seesaa.net/category/16334101-1.htm...
削除(by投稿者)
霧の摩周湖伝説 カムイシュ島
カルデラ状の火山である摩周湖のほぼ中央には、カムイシュ島(中島)という小島がある。
島は比高210mを越える溶岩ドームの頂上部分が湖面上に突出したもので、形状は丸く崖に囲まれている。
『カムイシュ』とはアイヌ語の『カムイ』、つまり神そのもの、または崇高な霊的存在と、『シュ』は老婆の意であるといわれ、
その名はアイヌの口承文学であるユーカラによりアイヌが名づけたものである。その伝説がこうだ。
昔、アイヌの一族はコタンという集落を作り、森で獲物を取って暮らしていた。
ところがあるときを境に、獲物がほとんど取れなくなり、獲物をめぐって別のコタンといさかいが起きるようになった。
ついに、あるイヨマンテ(熊祭)の夜、争いに発展。一方のコタンは敗れ、ほぼ絶滅される。
敗れたコタンの老婆とその孫トンクルは命からがら逃げるが、道中、孫がはぐれてしまう。
老婆はトンクルを探してさまようがどうしても見つからず、そうこうするうちに摩周湖までたどり着いた。
彼女は聖なる摩周岳に一夜の休息を請い、お許しをいただいた。
悲嘆のあまりクタクタになった老婆はそこにとどまり続けた。
来る日も来る日も孫を待ち侘び、ついにはカムイシュ島になってしまった。
今でも摩周湖に人が近付くと、老婆は孫が現われたと喜び、うれし涙を流すのだという。
この涙が雨であり霧であり吹雪なのだ。
摩周湖の夏景色
http://hokkaido.env.go.jp/blog/article.php?blog_id=12...
カルデラ状の火山である摩周湖のほぼ中央には、カムイシュ島(中島)という小島がある。
島は比高210mを越える溶岩ドームの頂上部分が湖面上に突出したもので、形状は丸く崖に囲まれている。
『カムイシュ』とはアイヌ語の『カムイ』、つまり神そのもの、または崇高な霊的存在と、『シュ』は老婆の意であるといわれ、
その名はアイヌの口承文学であるユーカラによりアイヌが名づけたものである。その伝説がこうだ。
昔、アイヌの一族はコタンという集落を作り、森で獲物を取って暮らしていた。
ところがあるときを境に、獲物がほとんど取れなくなり、獲物をめぐって別のコタンといさかいが起きるようになった。
ついに、あるイヨマンテ(熊祭)の夜、争いに発展。一方のコタンは敗れ、ほぼ絶滅される。
敗れたコタンの老婆とその孫トンクルは命からがら逃げるが、道中、孫がはぐれてしまう。
老婆はトンクルを探してさまようがどうしても見つからず、そうこうするうちに摩周湖までたどり着いた。
彼女は聖なる摩周岳に一夜の休息を請い、お許しをいただいた。
悲嘆のあまりクタクタになった老婆はそこにとどまり続けた。
来る日も来る日も孫を待ち侘び、ついにはカムイシュ島になってしまった。
今でも摩周湖に人が近付くと、老婆は孫が現われたと喜び、うれし涙を流すのだという。
この涙が雨であり霧であり吹雪なのだ。
摩周湖の夏景色
http://hokkaido.env.go.jp/blog/article.php?blog_id=12...
人々が畏れる山羊神伝説 入砂島(いりすなしま)
かつて、唐の国から粟国島へはるばる船が渡ってきた時代があった。ところが島の南西端の筆ん崎(ふでぃんさき)に衝突。
岬の先が折れて流れそうになったので、天人(あーまんちゅ)が天扇(あままーおうじ)で煽ぎ、引き寄せようとした。
それでも漂流していくので、天人は粟国島とその流れ行く岩に足をかけて戻そうとしたのだが、
誤って海にはまり命を落としてしまった。このときの天扇の跡は今も筆ん崎の北側の崖に名残りをとどめているという。
漂流した岩は渡名喜島(となきじま)の真向かいにさしかかった。当時、渡名喜島には首里ぬ主という人物がおり、
「その島は、私のものだ!」と叫ぶと、岩はピタリとそこで止まり、今の入砂島になった。
時代は変わり、その入砂島では不思議なことが起きるようになる。
夜になると入砂の神を祀る中御嶽(なかうたき)から動物が駆け回る足音がするようになった。
ある人が島にタコやアオサを取りに行き一夜を明かし、翌朝、中御嶽の周辺を見ると山羊の足跡が残っているではないか。
それで人々は噂するようになる。入砂島には山羊の姿をした神がいるのだろうと。
だから島では山羊の話をするのはタブーであり、豚や牛は飼えても山羊だけは飼えずにいた。
入砂島は神がいる島なので潮干狩りに行ったら、「神様の島に来ました。無事に潮干狩りをさせて下さい」と、
合掌してから上陸しなければならない。また乱暴な言葉を使ったり、大声を出すのは同様に禁忌とされる。
あるとき追い込み漁で大漁になったので、舞い上がった漁師が「バンザイ!」と叫んだ途端、
舟が引っくり返り、せっかくの収穫がすべて海に流されてしまった逸話が残るという。
入砂島は那覇市の北西約60km、久米島、慶良間諸島、粟国島のほぼ中間に位置し、渡名喜島とともに渡名喜村に属する。
不思議な山羊神の伝説により人々に畏怖される入砂島だが、実は戦後から現在に至るまで米軍の射爆撃の演習地として使用されているのだ。
開放日以外、一般的には立ち入り禁止の島になっている。
エコカーで巡る渡名喜島の旅
http://omoidenotabi.blog41.fc2.com/blog-entry-365.htm...
渡名喜島(となきじま)
http://imagic.qee.jp/sima4/okinawa/tonakijima.htm...
かつて、唐の国から粟国島へはるばる船が渡ってきた時代があった。ところが島の南西端の筆ん崎(ふでぃんさき)に衝突。
岬の先が折れて流れそうになったので、天人(あーまんちゅ)が天扇(あままーおうじ)で煽ぎ、引き寄せようとした。
それでも漂流していくので、天人は粟国島とその流れ行く岩に足をかけて戻そうとしたのだが、
誤って海にはまり命を落としてしまった。このときの天扇の跡は今も筆ん崎の北側の崖に名残りをとどめているという。
漂流した岩は渡名喜島(となきじま)の真向かいにさしかかった。当時、渡名喜島には首里ぬ主という人物がおり、
「その島は、私のものだ!」と叫ぶと、岩はピタリとそこで止まり、今の入砂島になった。
時代は変わり、その入砂島では不思議なことが起きるようになる。
夜になると入砂の神を祀る中御嶽(なかうたき)から動物が駆け回る足音がするようになった。
ある人が島にタコやアオサを取りに行き一夜を明かし、翌朝、中御嶽の周辺を見ると山羊の足跡が残っているではないか。
それで人々は噂するようになる。入砂島には山羊の姿をした神がいるのだろうと。
だから島では山羊の話をするのはタブーであり、豚や牛は飼えても山羊だけは飼えずにいた。
入砂島は神がいる島なので潮干狩りに行ったら、「神様の島に来ました。無事に潮干狩りをさせて下さい」と、
合掌してから上陸しなければならない。また乱暴な言葉を使ったり、大声を出すのは同様に禁忌とされる。
あるとき追い込み漁で大漁になったので、舞い上がった漁師が「バンザイ!」と叫んだ途端、
舟が引っくり返り、せっかくの収穫がすべて海に流されてしまった逸話が残るという。
入砂島は那覇市の北西約60km、久米島、慶良間諸島、粟国島のほぼ中間に位置し、渡名喜島とともに渡名喜村に属する。
不思議な山羊神の伝説により人々に畏怖される入砂島だが、実は戦後から現在に至るまで米軍の射爆撃の演習地として使用されているのだ。
開放日以外、一般的には立ち入り禁止の島になっている。
エコカーで巡る渡名喜島の旅
http://omoidenotabi.blog41.fc2.com/blog-entry-365.htm...
渡名喜島(となきじま)
http://imagic.qee.jp/sima4/okinawa/tonakijima.htm...
東京湾要塞計画の遺物 海堡(かいほう)
言うまでもなく、東京湾は首都、東京につながる重要な海の玄関口である。
明治のころより、イギリスやアメリカなど欧米列強国が勢力を拡大するためにアフリカやアジアの小国を次々と侵略。
明治政府もその脅威を重く受け止めていた。
幕末に列強国から開国を迫られて明治維新が起こり、以来、近代国家をめざしていた明治政府としては、
なんとしても我が国を侵略から守るために手段を講じる必要があった。そこで立案されたプランが東京湾の海堡建設だった。
東京湾は浦賀水道に抜ける手前に狭まった海域がある。房総半島の藤津岬と三浦半島の観音崎を結ぶラインである。
明治政府は帝都を守るべく、ここに東京湾要塞計画を打ち立てることにしたのだ。
当初は大砲の射程距離を鑑みて2.5kmおきに3つの海堡を建設する予定だった。
まず着手したのは富津岬沖の第一海堡の建設。着工は明治14(1881)年、竣工は明治24(1890)年。
9年の工期を経て、面積23100㎡の海堡が水深5mの地点に設置されたわけだ。
第二海堡は、第一海堡が竣工する1年前の明治22(1889)年に着工し、その3年後の明治25(1892)年には第三海堡の建設も同時に進行。
ところが第二、第三の海堡の建設は難航する。とくに水深39m地点に建設しようとした第三海堡は襲いくる高波が最大の敵で、
さらに水深の深さと潮の流れの激しさに至難を極めた。
積み上げた石の上にコンクリで造られた堤防は、たび重なる高波で幾度となく破壊され、竣工までになんと29年も費やしてしまう。
当時、埋め立て造成費だけで約250万円(現在の金額に換算すると約140億円に相当)もの巨費を投じることになってしまったのだ。
完成した第三海堡は面積34000㎡、砲台と兵舎や地下室などの兵備が設けられたが、せっかくの機能はほとんど利用されることなく、
2年後に起きた関東大震災で島全体が崩落し、施設の3分の1が水没してしまう憂き目にあう。
第二海堡も例外ではなく、崩れ落ちたレンガの建造物が今もそのまま放置されている。
現在、第一、第二海堡は国の管理下にあるため立ち入り禁止になっており、その洋上要塞の遺物は遠巻きにしか見学することができない。
第三海堡に至っては、浦賀水道を航行する船の妨げになるため、2007年に撤去された。
東京湾海堡
http://www.geocities.jp/kamosuzu/kaiho.htm...
東京湾海堡ファンクラブ
http://kaihoufc.com/
旧日本軍の洋上要塞「第二海堡」に行ってきた。
http://kengaku.exblog.jp/115875...
言うまでもなく、東京湾は首都、東京につながる重要な海の玄関口である。
明治のころより、イギリスやアメリカなど欧米列強国が勢力を拡大するためにアフリカやアジアの小国を次々と侵略。
明治政府もその脅威を重く受け止めていた。
幕末に列強国から開国を迫られて明治維新が起こり、以来、近代国家をめざしていた明治政府としては、
なんとしても我が国を侵略から守るために手段を講じる必要があった。そこで立案されたプランが東京湾の海堡建設だった。
東京湾は浦賀水道に抜ける手前に狭まった海域がある。房総半島の藤津岬と三浦半島の観音崎を結ぶラインである。
明治政府は帝都を守るべく、ここに東京湾要塞計画を打ち立てることにしたのだ。
当初は大砲の射程距離を鑑みて2.5kmおきに3つの海堡を建設する予定だった。
まず着手したのは富津岬沖の第一海堡の建設。着工は明治14(1881)年、竣工は明治24(1890)年。
9年の工期を経て、面積23100㎡の海堡が水深5mの地点に設置されたわけだ。
第二海堡は、第一海堡が竣工する1年前の明治22(1889)年に着工し、その3年後の明治25(1892)年には第三海堡の建設も同時に進行。
ところが第二、第三の海堡の建設は難航する。とくに水深39m地点に建設しようとした第三海堡は襲いくる高波が最大の敵で、
さらに水深の深さと潮の流れの激しさに至難を極めた。
積み上げた石の上にコンクリで造られた堤防は、たび重なる高波で幾度となく破壊され、竣工までになんと29年も費やしてしまう。
当時、埋め立て造成費だけで約250万円(現在の金額に換算すると約140億円に相当)もの巨費を投じることになってしまったのだ。
完成した第三海堡は面積34000㎡、砲台と兵舎や地下室などの兵備が設けられたが、せっかくの機能はほとんど利用されることなく、
2年後に起きた関東大震災で島全体が崩落し、施設の3分の1が水没してしまう憂き目にあう。
第二海堡も例外ではなく、崩れ落ちたレンガの建造物が今もそのまま放置されている。
現在、第一、第二海堡は国の管理下にあるため立ち入り禁止になっており、その洋上要塞の遺物は遠巻きにしか見学することができない。
第三海堡に至っては、浦賀水道を航行する船の妨げになるため、2007年に撤去された。
東京湾海堡
http://www.geocities.jp/kamosuzu/kaiho.htm...
東京湾海堡ファンクラブ
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旧日本軍の洋上要塞「第二海堡」に行ってきた。
http://kengaku.exblog.jp/115875...
弁天様がお上に変わっておしおき 江ノ島
鹿児島垂水市は桜島が間近に迫り、大隅半島に位置する漁業と養殖が盛んな港町だ。そんな市にも『江ノ島』がある。
おかしなもので江ノ島とくれば弁財天がつきものである。この島にも弁財天にまつわる不思議な話が語り継がれている。
かつて薩摩では、鱶九郎(ふかくろう)という人さらいが悪さを働いていた。
人さらいたちの居所は不明で、四国の宇和島とも、瀬戸内海の因島とも言われていた。
薩摩はたばこの名産地で、たばこ畑が広がっていた。たばこは大人の背丈よりも高く茂り、鱶九郎とその一味は畑の中で待ち伏せしては、
次々と若い娘をさらうことに成功していた。娘はあちこちの港で売り飛ばされた。いずれ女郎屋行きになるのだろう。
ある日のこと。鱶九郎は上機嫌であった。その日はなにせ12人もの娘をさらってきたのだから。
夜更けになると娘たちを舟に乗せ、港を後にした。
ところが舟が瀬戸海峡を通り抜けようとしたころ、霧が立ち込めはじめた。霧は濃くなるばかりで、方向感覚を失う始末。舟は立ち往生した。
そのときだった。「もし……そこの舟、どこへ行くのですか?」と声がする。
鱶九郎がまわりを見回すと、いつの間にか舳先に娘が立っているではないか。
さらってきた12人の娘のうちの1人ではあるまい。現に12人はひと塊になり、これからの行く末を案じて打ち震えているのだ。
謎の娘は言う。「私はこのあたりの浜育ちです。この海域のことなら目隠しされていても、手に取るようにわかりますよ。
無事に通りたくば、私の言うとおりに進みなさい」と言うものだから、鱶九郎は不審に思いながらも信じることにし、
娘の示す進路方向に舵を取りながら舟を進ませた。
しばらく漕いでいると、娘が言った。「このあたりは岩礁が多いので注意してください」
たしかにあたり一面、小さな岩礁が海面から突き出しており、娘の指し示す方向に進路を変えながらの航行は神経をすり減らす思いだった。
舟はどうにか難所をやりすごした。
「やれやれ、これは骨が折れるわ。ここいらで一息いれよう」鱶九郎が提案すると、舳先の娘はくるりと向き直り、
「では、そこの島に舟を着けましょう。休憩するにはもってこいですわよ」と、指差した。
見れば、霧をすかして目前に小島が迫ってくる。
「ここは弁天の島。島の神様が、きっとお守りしてくれるはずです。それに間もなく霧も晴れましょう。私は先に島の様子を見てまいります」
娘はそう言うと浜に下り、山の中腹へと消えていった。やがて霧も薄れてきた。
すると、6艘の船が包囲する形で、島に向かってくるのに鱶九郎は気づいた。どの船にも、弓矢を引きしぼった役人たちが舳先に立っていた。
「なんでおれたちの所在がわかったんだ?」鱶九郎たちは慌てて舟を漕ぎ出したが、逃げるには遅すぎた。ついに役人のお縄にかかってしまった。
さらわれた娘たちが、島まで先導して消えた娘のことを役人に話すと、役人も、「私どもに人さらいのことを知らせに来たのも娘だった」と言う。
謎の娘の素性を調べるため、手分けして小島を調べていると小さな社が見つかった。
扉を開けてみると、あの娘にそっくりな顔立ちの弁財天の像が祀られていたのだった。
きっと人さらいに捕まった娘たちを不憫に思った弁財天様が助けてくれたに違いあるまい。
それからというもの、薩摩に平和が訪れた。もう人さらいに怯えることもなくなった。
弁財天が祀られているこの島こそ、海潟温泉の目の前にある江ノ島だという。
江ノ島弁財天の話 垂水市
http://kagosimalegend.seesaa.net/category/14103066-1.htm...
鹿児島垂水市は桜島が間近に迫り、大隅半島に位置する漁業と養殖が盛んな港町だ。そんな市にも『江ノ島』がある。
おかしなもので江ノ島とくれば弁財天がつきものである。この島にも弁財天にまつわる不思議な話が語り継がれている。
かつて薩摩では、鱶九郎(ふかくろう)という人さらいが悪さを働いていた。
人さらいたちの居所は不明で、四国の宇和島とも、瀬戸内海の因島とも言われていた。
薩摩はたばこの名産地で、たばこ畑が広がっていた。たばこは大人の背丈よりも高く茂り、鱶九郎とその一味は畑の中で待ち伏せしては、
次々と若い娘をさらうことに成功していた。娘はあちこちの港で売り飛ばされた。いずれ女郎屋行きになるのだろう。
ある日のこと。鱶九郎は上機嫌であった。その日はなにせ12人もの娘をさらってきたのだから。
夜更けになると娘たちを舟に乗せ、港を後にした。
ところが舟が瀬戸海峡を通り抜けようとしたころ、霧が立ち込めはじめた。霧は濃くなるばかりで、方向感覚を失う始末。舟は立ち往生した。
そのときだった。「もし……そこの舟、どこへ行くのですか?」と声がする。
鱶九郎がまわりを見回すと、いつの間にか舳先に娘が立っているではないか。
さらってきた12人の娘のうちの1人ではあるまい。現に12人はひと塊になり、これからの行く末を案じて打ち震えているのだ。
謎の娘は言う。「私はこのあたりの浜育ちです。この海域のことなら目隠しされていても、手に取るようにわかりますよ。
無事に通りたくば、私の言うとおりに進みなさい」と言うものだから、鱶九郎は不審に思いながらも信じることにし、
娘の示す進路方向に舵を取りながら舟を進ませた。
しばらく漕いでいると、娘が言った。「このあたりは岩礁が多いので注意してください」
たしかにあたり一面、小さな岩礁が海面から突き出しており、娘の指し示す方向に進路を変えながらの航行は神経をすり減らす思いだった。
舟はどうにか難所をやりすごした。
「やれやれ、これは骨が折れるわ。ここいらで一息いれよう」鱶九郎が提案すると、舳先の娘はくるりと向き直り、
「では、そこの島に舟を着けましょう。休憩するにはもってこいですわよ」と、指差した。
見れば、霧をすかして目前に小島が迫ってくる。
「ここは弁天の島。島の神様が、きっとお守りしてくれるはずです。それに間もなく霧も晴れましょう。私は先に島の様子を見てまいります」
娘はそう言うと浜に下り、山の中腹へと消えていった。やがて霧も薄れてきた。
すると、6艘の船が包囲する形で、島に向かってくるのに鱶九郎は気づいた。どの船にも、弓矢を引きしぼった役人たちが舳先に立っていた。
「なんでおれたちの所在がわかったんだ?」鱶九郎たちは慌てて舟を漕ぎ出したが、逃げるには遅すぎた。ついに役人のお縄にかかってしまった。
さらわれた娘たちが、島まで先導して消えた娘のことを役人に話すと、役人も、「私どもに人さらいのことを知らせに来たのも娘だった」と言う。
謎の娘の素性を調べるため、手分けして小島を調べていると小さな社が見つかった。
扉を開けてみると、あの娘にそっくりな顔立ちの弁財天の像が祀られていたのだった。
きっと人さらいに捕まった娘たちを不憫に思った弁財天様が助けてくれたに違いあるまい。
それからというもの、薩摩に平和が訪れた。もう人さらいに怯えることもなくなった。
弁財天が祀られているこの島こそ、海潟温泉の目の前にある江ノ島だという。
江ノ島弁財天の話 垂水市
http://kagosimalegend.seesaa.net/category/14103066-1.htm...
日ごろの善行にお地蔵さんは応えてくれた 沖家室島(おきかむろじま)
山口県大島郡周防大島町に属する防予諸島の島の1つに沖家室島がある。
面積はたった0.95km²ながら、かつては3000人もの人がひしめいていた。ところが時流の波に逆らえるはずもなく、
今では200人ほどしか住んでいない高齢化率が日本最高水準の小島である。
沖家室島には泊清寺のかたわらに『鱶(ふか)地蔵堂』があり、海の守り神として信仰され、彼岸にはご開帳と祭りが催される。
その鱶地蔵堂にまつわる言い伝えがこうだ。
かつて沖家室島には善右衛門という漁師がいた。泊清寺の地蔵にお参りをかかさない心優しい男だった。
善右衛門には妻がいたのだが、その実、妻は他に男がおり、いつか夫を殺害してやろうと機会を狙っていたのだ。
ある日、妻が沖の『千貝の瀬』へ潮干狩りに行こうと善右衛門に持ちかけた。
その瀬は満潮になると海中に沈んでしまう危険な場所ではあったが、妻の頼みを無下にすることもできず舟を出すことにした。
善右衛門が貝採りに集中している間を見計らって、妻は舟を漕いで瀬から遠ざかり、夫を置き去りにしてしまった。
日は沈み、刻一刻と潮が満ちてくる。泳ぎ渡ろうにも島までは遠すぎた。
善右衛門は腹をくくった。泊清寺に祀られた地蔵の名を唱えながら死のうと思ったのである。
迫りくる潮に身をひたしながら、「南無地蔵大菩薩……」と念仏を唱えていると、なんと目の前に1匹の鱶が現われたではないか。
鱶は黒い眼で善右衛門を見つめ、まるで自分の背に乗れと言わんばかりにおとなしくしている。
善右衛門とて生に未練がある。おずおずとその背中にまたがり奇跡を信じた。途端に鱶は泳ぎ出した。
しかし、鱶はあんまり速く泳ぐものだから背びれにつかまっていた手が滑った。
慌ててつかみなおそうとしたら、手に持っていた小刀で鱶の背中を刺してしまった。
悪いことをしたと思い引き抜こうとしたものの、鱶は痛がるそぶりも見せず泳ぐのをやめない。
そのうち鱶は無事に島まで届けてくれた。善右衛門をおろすと鱶は小刀を刺したまま海の彼方へと消えていった。
次の朝、泊清寺へ足を運んだ善右衛門は驚いた。地蔵の背中に小刀が刺さっていたからだ。
善右衛門は涙を流して地蔵に感謝した。
鱶になった地蔵さん 〜山口県沖家室島〜
http://www.kyosuiren.or.jp/html/page01411.htm...
山口県大島郡周防大島町に属する防予諸島の島の1つに沖家室島がある。
面積はたった0.95km²ながら、かつては3000人もの人がひしめいていた。ところが時流の波に逆らえるはずもなく、
今では200人ほどしか住んでいない高齢化率が日本最高水準の小島である。
沖家室島には泊清寺のかたわらに『鱶(ふか)地蔵堂』があり、海の守り神として信仰され、彼岸にはご開帳と祭りが催される。
その鱶地蔵堂にまつわる言い伝えがこうだ。
かつて沖家室島には善右衛門という漁師がいた。泊清寺の地蔵にお参りをかかさない心優しい男だった。
善右衛門には妻がいたのだが、その実、妻は他に男がおり、いつか夫を殺害してやろうと機会を狙っていたのだ。
ある日、妻が沖の『千貝の瀬』へ潮干狩りに行こうと善右衛門に持ちかけた。
その瀬は満潮になると海中に沈んでしまう危険な場所ではあったが、妻の頼みを無下にすることもできず舟を出すことにした。
善右衛門が貝採りに集中している間を見計らって、妻は舟を漕いで瀬から遠ざかり、夫を置き去りにしてしまった。
日は沈み、刻一刻と潮が満ちてくる。泳ぎ渡ろうにも島までは遠すぎた。
善右衛門は腹をくくった。泊清寺に祀られた地蔵の名を唱えながら死のうと思ったのである。
迫りくる潮に身をひたしながら、「南無地蔵大菩薩……」と念仏を唱えていると、なんと目の前に1匹の鱶が現われたではないか。
鱶は黒い眼で善右衛門を見つめ、まるで自分の背に乗れと言わんばかりにおとなしくしている。
善右衛門とて生に未練がある。おずおずとその背中にまたがり奇跡を信じた。途端に鱶は泳ぎ出した。
しかし、鱶はあんまり速く泳ぐものだから背びれにつかまっていた手が滑った。
慌ててつかみなおそうとしたら、手に持っていた小刀で鱶の背中を刺してしまった。
悪いことをしたと思い引き抜こうとしたものの、鱶は痛がるそぶりも見せず泳ぐのをやめない。
そのうち鱶は無事に島まで届けてくれた。善右衛門をおろすと鱶は小刀を刺したまま海の彼方へと消えていった。
次の朝、泊清寺へ足を運んだ善右衛門は驚いた。地蔵の背中に小刀が刺さっていたからだ。
善右衛門は涙を流して地蔵に感謝した。
鱶になった地蔵さん 〜山口県沖家室島〜
http://www.kyosuiren.or.jp/html/page01411.htm...
犬飼村の猿神退治
久しぶりに村ネタすっか。
その昔、沢村(現在の姫路市香寺町犬飼)では、年に1度の氏神祭りに、神への供物と称して人身御供を捧げる悪しき風習があった。
ある年ついに、堤佐助(つつみさすけ)の1人娘に順番がめぐってきてしまう。まだ13歳の子だ。
「いくら氏神様のためとはいえ、我が子を生贄にするなんてできようか……」と、佐助は苦しみ悩んでいた。
そんな折、佐助宅へ伊勢神宮の教えを布教するために、芝左太夫(しばさだゆう)という男が、艶やかな毛並みをした犬を従えて訪ねてきた。
佐助はすがる思いで左太夫に事情を話した。
「人身御供とは野蛮なことを。ならば私が娘の身代わりとなり、氏神の前に行って事の真相をしっかと見届けよう」
左太夫は愛犬を伴い氏神の社へ向かい、社殿の戸を閉めて、中で待ち伏せすることにした。
すると、夜半すぎに突如戸が開け放たれた。
目の前に現われたのは、身の丈、人の背よりも巨体を誇る大猿……狒々(ヒヒ)だった。
狒々は左太夫に食ってかかってきた。
その瞬感、左太夫の愛犬が電光石火の反応を見せ、狒々に飛びかかった。そのまま格闘に持ち込んだ。
愛犬は強かった。ついに狒々を組み伏せ、のど笛に噛み付いてとどめを刺そうとしたとき、狒々はタヌキへと姿を変え、
脱兎のごとく山へと逃げていった。
氏神の正体を知った村人は考えなおし、以来、この村では人身御供の風習はなくなった。
また左太夫が伝えた伊勢の神を氏神として祀ることにした。
さらに村の名前も、沢村をあらため、犬飼村と呼ぶようになったという。
ひょうご伝説紀行−妖怪・自然の世界−
http://www.hyogo-c.ed.jp/‾rekihaku-bo/historystation/legend3/html/011/011.html
久しぶりに村ネタすっか。
その昔、沢村(現在の姫路市香寺町犬飼)では、年に1度の氏神祭りに、神への供物と称して人身御供を捧げる悪しき風習があった。
ある年ついに、堤佐助(つつみさすけ)の1人娘に順番がめぐってきてしまう。まだ13歳の子だ。
「いくら氏神様のためとはいえ、我が子を生贄にするなんてできようか……」と、佐助は苦しみ悩んでいた。
そんな折、佐助宅へ伊勢神宮の教えを布教するために、芝左太夫(しばさだゆう)という男が、艶やかな毛並みをした犬を従えて訪ねてきた。
佐助はすがる思いで左太夫に事情を話した。
「人身御供とは野蛮なことを。ならば私が娘の身代わりとなり、氏神の前に行って事の真相をしっかと見届けよう」
左太夫は愛犬を伴い氏神の社へ向かい、社殿の戸を閉めて、中で待ち伏せすることにした。
すると、夜半すぎに突如戸が開け放たれた。
目の前に現われたのは、身の丈、人の背よりも巨体を誇る大猿……狒々(ヒヒ)だった。
狒々は左太夫に食ってかかってきた。
その瞬感、左太夫の愛犬が電光石火の反応を見せ、狒々に飛びかかった。そのまま格闘に持ち込んだ。
愛犬は強かった。ついに狒々を組み伏せ、のど笛に噛み付いてとどめを刺そうとしたとき、狒々はタヌキへと姿を変え、
脱兎のごとく山へと逃げていった。
氏神の正体を知った村人は考えなおし、以来、この村では人身御供の風習はなくなった。
また左太夫が伝えた伊勢の神を氏神として祀ることにした。
さらに村の名前も、沢村をあらため、犬飼村と呼ぶようになったという。
ひょうご伝説紀行−妖怪・自然の世界−
http://www.hyogo-c.ed.jp/‾rekihaku-bo/historystation/legend3/html/011/011.html
>>282は、『地域の伝説やまじない・風習』スレでも書いた剣豪、岩見重太郎の狒々退治の話と酷似してるんだよね。
この手の話は全国至るところに似た話が点在している。一応転写しておこう。
一夜官女祭り 泣き村
野里は昔から中津川が氾濫するたびに畑がやられて作物が育たず、村人は悲惨な暮らしを強いられていた。
近隣の人々は野里のことを、『泣き村』と呼んでいた。
あるとき占い師が占ったところ、毎年決まった日に無垢の娘を神に捧げよ、とのご託宣があった。
村人たちはおののきつつも、これで村の難儀が救われるなら、と承知した。
主だった者が夜中に集まり、弓に白羽の矢をつがえて放つと、矢は暗い夜空を飛んで一軒の家に突き刺さった。
矢が突き刺さった家は泣く泣く娘を神のもとへ行かせるしかない。
1月19日の丑三つ時(現在の午前2時)、娘は美しく着飾られて唐櫃(かろうど)に入れられる。
村人たちに担がれて野里の住吉神社境内まで運ばれ、竜の池のそばに放置された。
唐櫃の前には餅、酒、小豆、干し柿、豆腐、ダイコン、それに中津川で獲れたコイ、フナ、ナマズなどが供えられた。
翌朝、村人たちがおそるおそる境内まで行ってみると唐櫃は破られて娘の姿はなく、供え物も食い荒らされていた。
不思議なことにその年、野里は雨風も少なく中津川も穏やかで、久々に豊作に恵まれた。
村人たちは神が生贄に応えてくれたのだと信じた。
それからというもの野里では、矢の当たった家を『当家』(頭家・頭屋とも表記する場合もある)、
神に供える娘を『一夜官女』と呼び、毎年、娘を神に供えた。
こうして生身の娘を神に捧げ続けて7年目に、1人の武士が現われ、
「おかしな話よのう。ならば拙者が娘の身代わりになって神の正体をたしかめてやろう」と言い、娘の着物をまとって唐櫃に入り込んだ。
村人たちは祟りを恐れながらも、身代わりの武士の入った唐櫃を神社境内の竜の池のほとりまで運び、逃げ帰った。
翌朝、空が白み始めるのを待って村人たちが境内に行ってみると、唐櫃は壊されて周囲に血が飛び散っており武士の姿はなかった。
点々とついている血の跡をたどっていくと、隣の申村のはずれに大きな狒々が深手を負って絶命していた。
村人たちはこれが神の正体だったのかと言って悔しがった。
このときの武士が武者修行中の岩見重太郎だったといわれる。
武士の武勇はあっという間に広まり、以来、野里は悲しい事実を後世に伝える厄除けの祭りとして、
宮座の当番制により娘たちの命日である1月19日に一夜官女祭りを催すことになった。
同時に境内にある竜の池に乙女塚を建てて官女たちの霊をなぐさめた。
野里住吉神社は大阪市西淀川区にあり、600年も続く奇祭の1つだ。
薄田兼相(岩見重太郎)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%96%84%E7%94%B0%E5%85%...
野里住吉神社 一夜官女祭
http://www.norichan.jp/jinja/shigoto2/nosatosumiyoshi...
この手の話は全国至るところに似た話が点在している。一応転写しておこう。
一夜官女祭り 泣き村
野里は昔から中津川が氾濫するたびに畑がやられて作物が育たず、村人は悲惨な暮らしを強いられていた。
近隣の人々は野里のことを、『泣き村』と呼んでいた。
あるとき占い師が占ったところ、毎年決まった日に無垢の娘を神に捧げよ、とのご託宣があった。
村人たちはおののきつつも、これで村の難儀が救われるなら、と承知した。
主だった者が夜中に集まり、弓に白羽の矢をつがえて放つと、矢は暗い夜空を飛んで一軒の家に突き刺さった。
矢が突き刺さった家は泣く泣く娘を神のもとへ行かせるしかない。
1月19日の丑三つ時(現在の午前2時)、娘は美しく着飾られて唐櫃(かろうど)に入れられる。
村人たちに担がれて野里の住吉神社境内まで運ばれ、竜の池のそばに放置された。
唐櫃の前には餅、酒、小豆、干し柿、豆腐、ダイコン、それに中津川で獲れたコイ、フナ、ナマズなどが供えられた。
翌朝、村人たちがおそるおそる境内まで行ってみると唐櫃は破られて娘の姿はなく、供え物も食い荒らされていた。
不思議なことにその年、野里は雨風も少なく中津川も穏やかで、久々に豊作に恵まれた。
村人たちは神が生贄に応えてくれたのだと信じた。
それからというもの野里では、矢の当たった家を『当家』(頭家・頭屋とも表記する場合もある)、
神に供える娘を『一夜官女』と呼び、毎年、娘を神に供えた。
こうして生身の娘を神に捧げ続けて7年目に、1人の武士が現われ、
「おかしな話よのう。ならば拙者が娘の身代わりになって神の正体をたしかめてやろう」と言い、娘の着物をまとって唐櫃に入り込んだ。
村人たちは祟りを恐れながらも、身代わりの武士の入った唐櫃を神社境内の竜の池のほとりまで運び、逃げ帰った。
翌朝、空が白み始めるのを待って村人たちが境内に行ってみると、唐櫃は壊されて周囲に血が飛び散っており武士の姿はなかった。
点々とついている血の跡をたどっていくと、隣の申村のはずれに大きな狒々が深手を負って絶命していた。
村人たちはこれが神の正体だったのかと言って悔しがった。
このときの武士が武者修行中の岩見重太郎だったといわれる。
武士の武勇はあっという間に広まり、以来、野里は悲しい事実を後世に伝える厄除けの祭りとして、
宮座の当番制により娘たちの命日である1月19日に一夜官女祭りを催すことになった。
同時に境内にある竜の池に乙女塚を建てて官女たちの霊をなぐさめた。
野里住吉神社は大阪市西淀川区にあり、600年も続く奇祭の1つだ。
薄田兼相(岩見重太郎)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%96%84%E7%94%B0%E5%85%...
野里住吉神社 一夜官女祭
http://www.norichan.jp/jinja/shigoto2/nosatosumiyoshi...
死体を見てインスピレーションを得た柿本人麻呂 沙弥島(しゃみじま)
香川県坂出市にあるのが沙弥島である。
以前は瀬戸内海に浮かぶ塩飽諸島の島であったが、1967(昭和42)年、番の州工業地帯の埋め立て造成により地続きとなった。
現在は隣接して瀬戸大橋記念公園が整備されており、沙弥島海水浴場は夏場になると海水浴客で賑わう。
昔、万葉の歌人である柿本人麻呂が旅の途中、潮待ちのため一時この島に避難した。
そこで行き倒れの死体を見つけ不憫に思い、また死者の帰りを待つであろう妻子へ思いやり、歌一首、併せて短歌を詠んだ。
「玉藻よし 讃岐の国は 国からか 見れども飽かぬ 神からか ここだ貴き 天地 日月を共に 足り行かむ
神の御面と 継ぎ来る 中の湊ゆ舟浮けて 我が漕ぎ来れば 時つ風 雲居に吹くに 沖見れば とゐ波立ち
辺見れば 白波さわく いさなとり 海を恐み 行く舟の 梶引き折りてをちこちの 島は多けど 名ぐはし
狭岑の島の 荒磯面に 廬りて見れば 波の音 しげき浜辺を しきたへの 枕になして 荒床に ころ臥す君が
家知らば 行きても告げむ 妻知らば 来も問はましを 玉鉾の 道だに知らず おほほしく 待ちか恋ふらむ
愛しき妻らは」
柿本人麻呂は一般的に奈良時代の歌人として知られているが生年、没年ともに不明とされている。
孝昭天皇の皇子の子孫ともいわれ、万葉集以外の史料では所伝がなく、晩年は石見国で死去したといわれている。
沙 弥 島 沙弥島に万葉歌人 柿本人麻呂の足跡を訪ねて
http://www1.ocn.ne.jp/‾tokko/samijima/samijima..html
香川県坂出市にあるのが沙弥島である。
以前は瀬戸内海に浮かぶ塩飽諸島の島であったが、1967(昭和42)年、番の州工業地帯の埋め立て造成により地続きとなった。
現在は隣接して瀬戸大橋記念公園が整備されており、沙弥島海水浴場は夏場になると海水浴客で賑わう。
昔、万葉の歌人である柿本人麻呂が旅の途中、潮待ちのため一時この島に避難した。
そこで行き倒れの死体を見つけ不憫に思い、また死者の帰りを待つであろう妻子へ思いやり、歌一首、併せて短歌を詠んだ。
「玉藻よし 讃岐の国は 国からか 見れども飽かぬ 神からか ここだ貴き 天地 日月を共に 足り行かむ
神の御面と 継ぎ来る 中の湊ゆ舟浮けて 我が漕ぎ来れば 時つ風 雲居に吹くに 沖見れば とゐ波立ち
辺見れば 白波さわく いさなとり 海を恐み 行く舟の 梶引き折りてをちこちの 島は多けど 名ぐはし
狭岑の島の 荒磯面に 廬りて見れば 波の音 しげき浜辺を しきたへの 枕になして 荒床に ころ臥す君が
家知らば 行きても告げむ 妻知らば 来も問はましを 玉鉾の 道だに知らず おほほしく 待ちか恋ふらむ
愛しき妻らは」
柿本人麻呂は一般的に奈良時代の歌人として知られているが生年、没年ともに不明とされている。
孝昭天皇の皇子の子孫ともいわれ、万葉集以外の史料では所伝がなく、晩年は石見国で死去したといわれている。
沙 弥 島 沙弥島に万葉歌人 柿本人麻呂の足跡を訪ねて
http://www1.ocn.ne.jp/‾tokko/samijima/samijima..html
柿本人麻呂に瓜二つ? 奇岩、人形岩
島根県益田市飯浦町には>>267と同じく『人形岩』と呼ばれる奇岩が見られる。
もっとも『にんぎょういわ』ではなく、『じんぎょういわ』と読むのが有力のようだが。
この奇岩は柿本人麻呂像(立て膝で右手に筆、左手に短冊を持ち、大海原を眺めて歌を詠む姿像)に
そっくりの岩として知られている。高さは海面から頭の先まで7.8mに及ぶという。
柿本人麻呂に瓜二つとの触れ込みだが、個人的な意見を言わせてもらえば、まるでゴーレムが尻餅を突いたうえ、
むき出しのチンコからおつゆが漏れ出しているかのように見えるけど……。
人形岩の謎(益田市飯浦町)
http://masuda.shimanavi.net/e1607.htm...
島根県益田市飯浦町には>>267と同じく『人形岩』と呼ばれる奇岩が見られる。
もっとも『にんぎょういわ』ではなく、『じんぎょういわ』と読むのが有力のようだが。
この奇岩は柿本人麻呂像(立て膝で右手に筆、左手に短冊を持ち、大海原を眺めて歌を詠む姿像)に
そっくりの岩として知られている。高さは海面から頭の先まで7.8mに及ぶという。
柿本人麻呂に瓜二つとの触れ込みだが、個人的な意見を言わせてもらえば、まるでゴーレムが尻餅を突いたうえ、
むき出しのチンコからおつゆが漏れ出しているかのように見えるけど……。
人形岩の謎(益田市飯浦町)
http://masuda.shimanavi.net/e1607.htm...
「柄杓を貸してくれ……」 八丈島
その昔、八丈島には太兵衛と佐吉という若者が住んでいた。2人は腕が良いとの評判の漁師だった。
佐吉は島一番の男前であり、一方の太兵衛は無類の力持ちとして知られていた。と同時に、2人は無二の友でもあった。
そんな2人はどちらも船主の娘、ヨネのことを好いていた。ヨネもまんざらではなかった。
ヨネの父親が太兵衛と佐吉を呼び出し、こう言った。「わしはどちらか稼ぎの多い方にヨネを嫁にやりたいと思うておる」
それからというもの、仲の良かった2人は敵同士になった。
波の静かな日に、2人は別々の舟に乗り漁に出た。
ところが太兵衛の釣り竿には魚がかからず、なぜか佐吉だけが爆釣した。
佐吉の船底は釣れた魚で一杯になった。さらに釣れるだけ釣って太兵衛をだし抜いてやろうと躍起になっているうちに、
魚の重みに加え、大波をかぶって佐吉の舟は転覆してしまう。
「太兵衛、助けてくれ。舟に乗せてくれ!」溺れそうになる佐吉は叫んだ。
「なら、ヨネをおれに譲れ。ヨネをくれるなら乗せてやる」と、太兵衛。
「汚いぞ。それとこれとは話が別だろうが!」と、佐吉が叫び、かまわず太兵衛の舟の縁に手をかけた。
「だったら死んだらええ!」太兵衛は舵を振りかぶり、佐吉の脳天めがけ殴った。
「ヨネをよこしさえすりゃあ、こんなことにはならなかったんだ……」
太兵衛は何度も殴り、頭が砕け、血に染まった佐吉は海の中に沈んでいった。
何食わぬ顔で島へ帰った太兵衛だったが、やがて罪の意識にさいなまれ、家にこもりがちになった。
こうなると、皮肉なことにヨネのことなど気にかけなくなってしまう。
島民はそうとは知らず、佐吉が漁に出たままいなくなったと大騒ぎしていた。が、いくら探しても佐吉の行方は杳として知れない。
それからしばらく経ったある日。太兵衛はようやく漁に出られるようになった。
沖で1人釣糸を垂れていると、遠くから舟が近づいてきた。舟にはあの佐吉が乗っていた。
「まさか佐吉……死んだはずじゃ?」太兵衛はうろたえた。
頭の砕けた佐吉は恨めしそうにこう言った。「柄杓(ひしゃく)を貸してくれ……柄杓を……」
太兵衛はおそるおそる柄杓を渡すと、佐吉は無言で海水を汲んでは太兵衛の舟に注ぐのをくり返した。
太兵衛は謝るが、佐吉は海水を入れ続け、太兵衛の舟はついに沈んでしまった。
溺れかける太兵衛は佐吉の舟に近づき、乗せてくれと頼むが、佐吉は舟ごと消えてしまう。
太兵衛はしばらくは海に漂っていたが、そのうち大きな波に飲み込まれた。
その昔、八丈島には太兵衛と佐吉という若者が住んでいた。2人は腕が良いとの評判の漁師だった。
佐吉は島一番の男前であり、一方の太兵衛は無類の力持ちとして知られていた。と同時に、2人は無二の友でもあった。
そんな2人はどちらも船主の娘、ヨネのことを好いていた。ヨネもまんざらではなかった。
ヨネの父親が太兵衛と佐吉を呼び出し、こう言った。「わしはどちらか稼ぎの多い方にヨネを嫁にやりたいと思うておる」
それからというもの、仲の良かった2人は敵同士になった。
波の静かな日に、2人は別々の舟に乗り漁に出た。
ところが太兵衛の釣り竿には魚がかからず、なぜか佐吉だけが爆釣した。
佐吉の船底は釣れた魚で一杯になった。さらに釣れるだけ釣って太兵衛をだし抜いてやろうと躍起になっているうちに、
魚の重みに加え、大波をかぶって佐吉の舟は転覆してしまう。
「太兵衛、助けてくれ。舟に乗せてくれ!」溺れそうになる佐吉は叫んだ。
「なら、ヨネをおれに譲れ。ヨネをくれるなら乗せてやる」と、太兵衛。
「汚いぞ。それとこれとは話が別だろうが!」と、佐吉が叫び、かまわず太兵衛の舟の縁に手をかけた。
「だったら死んだらええ!」太兵衛は舵を振りかぶり、佐吉の脳天めがけ殴った。
「ヨネをよこしさえすりゃあ、こんなことにはならなかったんだ……」
太兵衛は何度も殴り、頭が砕け、血に染まった佐吉は海の中に沈んでいった。
何食わぬ顔で島へ帰った太兵衛だったが、やがて罪の意識にさいなまれ、家にこもりがちになった。
こうなると、皮肉なことにヨネのことなど気にかけなくなってしまう。
島民はそうとは知らず、佐吉が漁に出たままいなくなったと大騒ぎしていた。が、いくら探しても佐吉の行方は杳として知れない。
それからしばらく経ったある日。太兵衛はようやく漁に出られるようになった。
沖で1人釣糸を垂れていると、遠くから舟が近づいてきた。舟にはあの佐吉が乗っていた。
「まさか佐吉……死んだはずじゃ?」太兵衛はうろたえた。
頭の砕けた佐吉は恨めしそうにこう言った。「柄杓(ひしゃく)を貸してくれ……柄杓を……」
太兵衛はおそるおそる柄杓を渡すと、佐吉は無言で海水を汲んでは太兵衛の舟に注ぐのをくり返した。
太兵衛は謝るが、佐吉は海水を入れ続け、太兵衛の舟はついに沈んでしまった。
溺れかける太兵衛は佐吉の舟に近づき、乗せてくれと頼むが、佐吉は舟ごと消えてしまう。
太兵衛はしばらくは海に漂っていたが、そのうち大きな波に飲み込まれた。
>>287
この手の「柄杓を貸せ」みたいな怪談は上は岩手、福島から始まり、四国や山陰地方、下は九州全域に至るまでそこらじゅうにあるね。
船幽霊のwikipediaには民俗学の切り口による考察もなされ、たいへん興味深い。
なかでも近年の事例として、『1969年には神奈川県の海で、白い人影のようなものが目撃されて「ひしゃくを下さい」と声が聞こえたといわれ、
大学のヨット部の遭難した部員が、沈んだヨットから水を汲み出したがっているといわれた。』というのは面白い。
また、『猛霊八惨(もうれんやっさん)』という祭りもあるね。そういった船幽霊と化した人の魂の鎮魂祭だとか。
猛霊八惨を世に知らしめたのは水木しげるか? 実を申せば僕は最近まで知らず、こないだ古本屋で水木氏の短編集を買ったら、
この一篇があり、初めて知ったクチだったりして。
船幽霊wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%88%B9%E5%B9%BD%E9%9C%...
3月22日 猛霊八惨大明神祭が開催されました。
http://www.sakaiminato.net/site2/page/suisan/conents/news...
この手の「柄杓を貸せ」みたいな怪談は上は岩手、福島から始まり、四国や山陰地方、下は九州全域に至るまでそこらじゅうにあるね。
船幽霊のwikipediaには民俗学の切り口による考察もなされ、たいへん興味深い。
なかでも近年の事例として、『1969年には神奈川県の海で、白い人影のようなものが目撃されて「ひしゃくを下さい」と声が聞こえたといわれ、
大学のヨット部の遭難した部員が、沈んだヨットから水を汲み出したがっているといわれた。』というのは面白い。
また、『猛霊八惨(もうれんやっさん)』という祭りもあるね。そういった船幽霊と化した人の魂の鎮魂祭だとか。
猛霊八惨を世に知らしめたのは水木しげるか? 実を申せば僕は最近まで知らず、こないだ古本屋で水木氏の短編集を買ったら、
この一篇があり、初めて知ったクチだったりして。
船幽霊wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%88%B9%E5%B9%BD%E9%9C%...
3月22日 猛霊八惨大明神祭が開催されました。
http://www.sakaiminato.net/site2/page/suisan/conents/news...
犬を飼うのが許されない島 篠島(しのじま)
知多半島と渥美半島の中央に挟まれた三河湾の入り口に位置するは篠島だ。
その昔、伊勢神宮に参拝する旅人は『宮巡り』と称して伊勢から篠島へと渡り、島の伊勢土之宮も併せて参るのが習わしだったというから、
いかに伊勢とゆかりある土地かわかろう。島にある神明神社、八王子社は伊勢神宮で使われた古材を利用して建てられているほどなのだ。
ちなみに篠島では、1月3日4日に正月の祭礼が行われる。
とくに3日の夕方は八王子社から神明神社へ神様が渡るとされ、この間は島中の灯りを消して沈黙を守り、
つつがなく『お渡り』が終わるのを待つ習慣となっている。
その『お渡り』には、不思議な伝承が残されている。
ある年のお渡りのさなか、八王子社の方から荒々しい犬の吠え声が聞こえてきたというのだ。
当時の篠島には1匹の犬もいなかった。犬の声を耳にした島民はみな、悪いことが起こらなければいいが……と一抹の不安を憶えた。
案の定、その年の漁期になると海は大荒れとなり、船の出せない日が続くはめに。
あまりにも荒天が長引くため、漁師たちは八王子社へ出向き、願掛け参りをすることにした。
何日も八王子社へ足を運ぶのだが、行くたびに狛犬が台座から転げ落ちているのに気づく。
誰かのイタズラだろうと思い狛犬をもとの位置に戻すものの、翌日になっても狛犬は台座から落ちて横倒しになっている。
まさか、これは海の神である八王子様が獣を嫌っているからではあるまいか、と漁師たちは顔を見合わせた。
そこで狛犬を山向こうの寺である、医徳院へと移設することにした。
以来、あれほど荒れていた天候はピタリとおさまり、上天気となった。さらに大漁に恵まれ、篠島の人々は豊かな暮らしが送れるようになった。
年月が経ち、島の若者も戦争に駆り出されるようになる。戦局が苦しくなると、島からも戦死者が出るようになった。
狭い篠島で何人もの戦死者が出ることは稀であり、奇異なことでもあった。
ついに8人目の戦死者が出たとき、島民が誰ともなく、「犬を飼う者がいるので、八王子様がお怒りだからじゃなかろうか?」と、言い出した。
調べた結果、当時の篠島には8匹の犬がペットとして飼われているのがわかった。
犬との別れを嘆く者もいたが、若者の命にはかえられない。篠島からすべての犬を追い出すことにした。
それからというもの、篠島では犬を飼うのはタブーとされている。
篠島の祭礼
http://www.shinojima-matsuri.jp/
知多半島と渥美半島の中央に挟まれた三河湾の入り口に位置するは篠島だ。
その昔、伊勢神宮に参拝する旅人は『宮巡り』と称して伊勢から篠島へと渡り、島の伊勢土之宮も併せて参るのが習わしだったというから、
いかに伊勢とゆかりある土地かわかろう。島にある神明神社、八王子社は伊勢神宮で使われた古材を利用して建てられているほどなのだ。
ちなみに篠島では、1月3日4日に正月の祭礼が行われる。
とくに3日の夕方は八王子社から神明神社へ神様が渡るとされ、この間は島中の灯りを消して沈黙を守り、
つつがなく『お渡り』が終わるのを待つ習慣となっている。
その『お渡り』には、不思議な伝承が残されている。
ある年のお渡りのさなか、八王子社の方から荒々しい犬の吠え声が聞こえてきたというのだ。
当時の篠島には1匹の犬もいなかった。犬の声を耳にした島民はみな、悪いことが起こらなければいいが……と一抹の不安を憶えた。
案の定、その年の漁期になると海は大荒れとなり、船の出せない日が続くはめに。
あまりにも荒天が長引くため、漁師たちは八王子社へ出向き、願掛け参りをすることにした。
何日も八王子社へ足を運ぶのだが、行くたびに狛犬が台座から転げ落ちているのに気づく。
誰かのイタズラだろうと思い狛犬をもとの位置に戻すものの、翌日になっても狛犬は台座から落ちて横倒しになっている。
まさか、これは海の神である八王子様が獣を嫌っているからではあるまいか、と漁師たちは顔を見合わせた。
そこで狛犬を山向こうの寺である、医徳院へと移設することにした。
以来、あれほど荒れていた天候はピタリとおさまり、上天気となった。さらに大漁に恵まれ、篠島の人々は豊かな暮らしが送れるようになった。
年月が経ち、島の若者も戦争に駆り出されるようになる。戦局が苦しくなると、島からも戦死者が出るようになった。
狭い篠島で何人もの戦死者が出ることは稀であり、奇異なことでもあった。
ついに8人目の戦死者が出たとき、島民が誰ともなく、「犬を飼う者がいるので、八王子様がお怒りだからじゃなかろうか?」と、言い出した。
調べた結果、当時の篠島には8匹の犬がペットとして飼われているのがわかった。
犬との別れを嘆く者もいたが、若者の命にはかえられない。篠島からすべての犬を追い出すことにした。
それからというもの、篠島では犬を飼うのはタブーとされている。
篠島の祭礼
http://www.shinojima-matsuri.jp/
なぜにたばこ島? 風流島
地図上では『風流島』と表記されているが、熊本県宇土市住吉町の地元民には『たばこ島』と呼ばれ親しまれている。
平安時代には『たはれ島(たわれ島)』とも言われていたらしい。
宇土半島にはアジサイの名勝として知られる住吉自然公園が広がり、ここから海を眺めて目につくのがこの風流島だ。
島のてっぺんには『住吉神社』と書かれた高さ1.3mの鳥居が建っており、なんだか可愛い。まるでミニチュアの杜だ。
『たわれ』とは、すなわち『戯れ』であり、『風流』とつながるのはわかるが、なぜこの岩場が『たわれ』なのか?
さらに、地元の人はなぜ『たばこ島』と呼ぶのか? 謎は深まるばかり。
いずれによ1000年も以前から、このちっぽけな岩礁が都まで知られていたのは、当時の交通手段がほとんど船であったということに端を発している。
都から熊本に国司などが派遣され入国する際、瀬戸内海から玄界灘を通って東シナ海に入る海路を通ったと考えられている。
有明海から緑川を通り、熊本に入る航路の目印となったのが緑川河口のこのたはれ島で、海からの玄関口になっていた。
枕草子を詠んだ清少納言の父親、清原基輔は肥後国司として派遣されている。
平安時代につくられた伊勢物語の枕詞として、たはれ島が登場する。男女の色恋に関する話に用いられたもので、
女の返し言葉のなかに『たはれ島』が出てくるのだ。
熊本の山・小岱山(しょうだいさん)
http://blogs.yahoo.co.jp/tcmt_shinichiro/archive/2011/9...
住吉灯台
http://www.nogamidensetu.co.jp/toudai/kumamoto/sumiyoshi.htm...
地図上では『風流島』と表記されているが、熊本県宇土市住吉町の地元民には『たばこ島』と呼ばれ親しまれている。
平安時代には『たはれ島(たわれ島)』とも言われていたらしい。
宇土半島にはアジサイの名勝として知られる住吉自然公園が広がり、ここから海を眺めて目につくのがこの風流島だ。
島のてっぺんには『住吉神社』と書かれた高さ1.3mの鳥居が建っており、なんだか可愛い。まるでミニチュアの杜だ。
『たわれ』とは、すなわち『戯れ』であり、『風流』とつながるのはわかるが、なぜこの岩場が『たわれ』なのか?
さらに、地元の人はなぜ『たばこ島』と呼ぶのか? 謎は深まるばかり。
いずれによ1000年も以前から、このちっぽけな岩礁が都まで知られていたのは、当時の交通手段がほとんど船であったということに端を発している。
都から熊本に国司などが派遣され入国する際、瀬戸内海から玄界灘を通って東シナ海に入る海路を通ったと考えられている。
有明海から緑川を通り、熊本に入る航路の目印となったのが緑川河口のこのたはれ島で、海からの玄関口になっていた。
枕草子を詠んだ清少納言の父親、清原基輔は肥後国司として派遣されている。
平安時代につくられた伊勢物語の枕詞として、たはれ島が登場する。男女の色恋に関する話に用いられたもので、
女の返し言葉のなかに『たはれ島』が出てくるのだ。
熊本の山・小岱山(しょうだいさん)
http://blogs.yahoo.co.jp/tcmt_shinichiro/archive/2011/9...
住吉灯台
http://www.nogamidensetu.co.jp/toudai/kumamoto/sumiyoshi.htm...
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アカマター伝説がある幻の大陸 八重干瀬(やびじ・やえびし)
宮古島の北にある池間島からさらに北上したところに位置する八重干瀬がある。
八重干瀬は大きい8つの干礁(珊瑚の岩礁)があることから命名された。大小合わせると100以上の干礁からなり、
その大きさは東西約8km、南北約12km、周囲約25kmと珊瑚礁群では日本最大級である。
面積は宮古島(面積約159km2)の約10分の1で、海面上に出ることのない暗礁や礁斜面までを加えると約3分の1にも及ぶという。
八重干瀬はほぼ1年中海の中に沈んでいるが、春の大潮の時期にたった3日間だけ海上に姿を現す。まるで幻の大陸のかのように。
旧暦の3月3日(現在の4月上旬)、宮古ではこの日を『サニツ』と呼び、浜におりて厄払いをする伝統行事が行われてきた。
サニツは元来、女性だけが参加できる行事だった。よもぎ餅を神仏に供え、八重干瀬に渡り潮干狩りしをして遊ぶ。
やってきた春を祝い、たっぷりご馳走を詰めた弁当を持参して1日浜ですごすのだ。
以前は島の人たちだけで行われていた行事であったが、近年は観光会社が八重干瀬上陸ツアーを組んでおり、
大勢の観光客が幻の島に上陸し、ともに磯遊びに興じることが可能である。
宮古の伝統行事であるサニツは、アカマター伝説の中にも登場する。それはこんな物語である。
昔々、美しい娘がいた。
いつしか夜ごと美男子が娘の部屋に通うようになる。娘はたちまち恋に落ち、その子供を身ごもってしまった。
とはいえ、相手は素性の知れない男。
娘の母親が、物知りの友人に相談すると、「では、男の着物の裾に糸を通した針を刺しておくといい。
それを後から辿っていけば、どこの誰なのかわかるはず」と言われたので、娘にこのやり方を教えた。
翌朝、母親が糸を辿っていくと、糸は洞窟の中へ続いていた。洞窟の中には、なんと大きなアカマター(蛇)が眠っており、
その尻尾には針が刺さっていた……。
母親はもう一度、物知りの友人に相談した。すると友人は、「では海へ行き、海水でその身を清めるといい」と、助言した。
言われたとおり、娘が海水に身をひたすと、小さな蛇が身体からたくさん出てきて穢れは取れたという。
それが旧暦の3月3日だった。
浜下り&3月あしび
http://uruma.jp/blue/uruma_source/05oki100/04l...
沖縄県-宮古島-幻の島-八重干瀬ツアー
http://www.pusan-okinawa-bali.com/yaebishi.ht...
アカマター伝説がある幻の大陸 八重干瀬(やびじ・やえびし)
宮古島の北にある池間島からさらに北上したところに位置する八重干瀬がある。
八重干瀬は大きい8つの干礁(珊瑚の岩礁)があることから命名された。大小合わせると100以上の干礁からなり、
その大きさは東西約8km、南北約12km、周囲約25kmと珊瑚礁群では日本最大級である。
面積は宮古島(面積約159km2)の約10分の1で、海面上に出ることのない暗礁や礁斜面までを加えると約3分の1にも及ぶという。
八重干瀬はほぼ1年中海の中に沈んでいるが、春の大潮の時期にたった3日間だけ海上に姿を現す。まるで幻の大陸のかのように。
旧暦の3月3日(現在の4月上旬)、宮古ではこの日を『サニツ』と呼び、浜におりて厄払いをする伝統行事が行われてきた。
サニツは元来、女性だけが参加できる行事だった。よもぎ餅を神仏に供え、八重干瀬に渡り潮干狩りしをして遊ぶ。
やってきた春を祝い、たっぷりご馳走を詰めた弁当を持参して1日浜ですごすのだ。
以前は島の人たちだけで行われていた行事であったが、近年は観光会社が八重干瀬上陸ツアーを組んでおり、
大勢の観光客が幻の島に上陸し、ともに磯遊びに興じることが可能である。
宮古の伝統行事であるサニツは、アカマター伝説の中にも登場する。それはこんな物語である。
昔々、美しい娘がいた。
いつしか夜ごと美男子が娘の部屋に通うようになる。娘はたちまち恋に落ち、その子供を身ごもってしまった。
とはいえ、相手は素性の知れない男。
娘の母親が、物知りの友人に相談すると、「では、男の着物の裾に糸を通した針を刺しておくといい。
それを後から辿っていけば、どこの誰なのかわかるはず」と言われたので、娘にこのやり方を教えた。
翌朝、母親が糸を辿っていくと、糸は洞窟の中へ続いていた。洞窟の中には、なんと大きなアカマター(蛇)が眠っており、
その尻尾には針が刺さっていた……。
母親はもう一度、物知りの友人に相談した。すると友人は、「では海へ行き、海水でその身を清めるといい」と、助言した。
言われたとおり、娘が海水に身をひたすと、小さな蛇が身体からたくさん出てきて穢れは取れたという。
それが旧暦の3月3日だった。
浜下り&3月あしび
http://uruma.jp/blue/uruma_source/05oki100/04l...
沖縄県-宮古島-幻の島-八重干瀬ツアー
http://www.pusan-okinawa-bali.com/yaebishi.ht...
サスペンス映画『獄門島』
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8D%84%E9%96%80%E5%B3%...
ロケ地の島、特にいわくが付いていないようですが、映画見てからだとたぶんちょっと怖くて行けない
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8D%84%E9%96%80%E5%B3%...
ロケ地の島、特にいわくが付いていないようですが、映画見てからだとたぶんちょっと怖くて行けない
>>292>>293
ンモ〜、どうコメントしろと。
>>294
モデルは岡山県の六島です。いわくなんか見つからないだろうな……。扱いようがないためスルーしたのよ。
横溝正史は岡山や瀬戸内海の島々を舞台とした作品が多いのは有名だね。
天邪鬼の息子にほとほと手を焼く 津久根島(つくねじま)
広島市佐伯区五日市港沖の瀬戸内海に浮かぶちっぽけな島が津久根島である。
以前は小さな島ながらフサフサと木が生い茂る姿だったが、近年ではすっかりはげ山となってしまい見る影もなかった。
そこで2007年の11月、見かねた地元の人たちと広島大の学生らの手により、島の植林がなされた。
と同時に、五日市に古くから伝わる民話、『あまんじゃく伝説』にも注目が集まっている。
その昔、安芸の国の海老山には湯蓋道空(ゆぶた・どうくう)なる人物が住んでいた。
道空は壇ノ浦で敗れた平知盛の子孫といわれ、貧しい漁師ながら豊漁の儲けで厳島神社に客人社を建てたり、
五日市に塩田を開いて五日市港を繁栄させたりと、その行いにより人々から尊敬の的であった。
そんな道空の頭痛の種が、1人息子の道裕だった。
道裕は父親の言ったことに何でも反対してしまう天邪鬼な性格だったのだ。
道空は亡くなる直前、その息子に、「道裕よ、わしが死んだら津久根島に葬るがいい」と遺言を残した。
本心は海老山に墓を建ててもらいたかったのだが、ひねくれ者の道裕なら海といえば山に葬ってくれるだろうと考えて、
裏をかいたつもりだった。
ところが父が亡きあと、道裕は、「今まで親父に逆らってばかりいたから、せめて遺言ぐらいは言いつけどおりに従うか」と、
素直に津久根島に埋葬し、墓を建ててしまう。
それを見た村人たちは、「あんな離れ小島に葬るなんて親不孝者だなあ……」と、ポカーン。
ある嵐の日、村人の制止を振り切って島に渡った道裕は、嵐から父の墓を守り抜いたが帰らぬ人となった。
以来、道裕は『あまんじゃく』と呼ばれ、人々に語り継がれるようになった。
津久根島 広島湾の中心の島にある「あまんじゃく伝説」
http://tabetainjya.com/archives/itsukaichi2/post_681...
宮島街道—にぎわい創出プロジェクト
http://l-co.co.jp/times/modules/log/index.php?co...
ンモ〜、どうコメントしろと。
>>294
モデルは岡山県の六島です。いわくなんか見つからないだろうな……。扱いようがないためスルーしたのよ。
横溝正史は岡山や瀬戸内海の島々を舞台とした作品が多いのは有名だね。
天邪鬼の息子にほとほと手を焼く 津久根島(つくねじま)
広島市佐伯区五日市港沖の瀬戸内海に浮かぶちっぽけな島が津久根島である。
以前は小さな島ながらフサフサと木が生い茂る姿だったが、近年ではすっかりはげ山となってしまい見る影もなかった。
そこで2007年の11月、見かねた地元の人たちと広島大の学生らの手により、島の植林がなされた。
と同時に、五日市に古くから伝わる民話、『あまんじゃく伝説』にも注目が集まっている。
その昔、安芸の国の海老山には湯蓋道空(ゆぶた・どうくう)なる人物が住んでいた。
道空は壇ノ浦で敗れた平知盛の子孫といわれ、貧しい漁師ながら豊漁の儲けで厳島神社に客人社を建てたり、
五日市に塩田を開いて五日市港を繁栄させたりと、その行いにより人々から尊敬の的であった。
そんな道空の頭痛の種が、1人息子の道裕だった。
道裕は父親の言ったことに何でも反対してしまう天邪鬼な性格だったのだ。
道空は亡くなる直前、その息子に、「道裕よ、わしが死んだら津久根島に葬るがいい」と遺言を残した。
本心は海老山に墓を建ててもらいたかったのだが、ひねくれ者の道裕なら海といえば山に葬ってくれるだろうと考えて、
裏をかいたつもりだった。
ところが父が亡きあと、道裕は、「今まで親父に逆らってばかりいたから、せめて遺言ぐらいは言いつけどおりに従うか」と、
素直に津久根島に埋葬し、墓を建ててしまう。
それを見た村人たちは、「あんな離れ小島に葬るなんて親不孝者だなあ……」と、ポカーン。
ある嵐の日、村人の制止を振り切って島に渡った道裕は、嵐から父の墓を守り抜いたが帰らぬ人となった。
以来、道裕は『あまんじゃく』と呼ばれ、人々に語り継がれるようになった。
津久根島 広島湾の中心の島にある「あまんじゃく伝説」
http://tabetainjya.com/archives/itsukaichi2/post_681...
宮島街道—にぎわい創出プロジェクト
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人類創世異伝2 人類は女神アマミキヨによってもたらされた 久高島(くだかじま)
このスレに目を通していただければ、驚くほど『神の島』と称する島が多いことに気づかされるだろう。
ただ>>60に紹介した久高島は紛れもなく神の島と冠されることに異論はあるまい。
久高島は沖縄本島東南端に位置する知念岬から東海の沖、5.3km上にある、周囲7.75kmの島だ。人口は200人強。
久高島こそ琉球の創世神アマミキヨが天から降臨し、国づくりを始めたといわれる神話の聖地なのである。
琉球の神話によると、日の大神(天にある最高神・天帝)が女神アマミキヨに島作りを命じた。
(本州での『古事記』『日本書紀』の冒頭で登場する、伊弉諾尊(イザナギノミコト)、伊弉冉尊(イザナミノミコト)の二神に相当)
天地開闢以前の下界は、ただひたすら海原が広がっているだけだった。
そこで女神は日の大神から土石草木を授かり、まず沖縄本島を作り、そこに9つの聖地、7つの森を築いていった。
現在ではこの聖地のうち7つが、琉球開闢七御嶽(うたき)として語り継がれ、琉球の信仰においてもっとも神聖視されている。
続けざま多くの島を作っていったアマミキヨは、天帝に人間の種子を乞うた。天帝はそれに応え、人間の子供2人(兄妹)を大地に下ろした。
やがて兄妹は3人の男と2人の女をもうけた。いつしか長男は天孫氏として沖縄の王となり、次男は諸侯の、三男は農民の、
長女は君々(高位の神)の、次女は祝女(ノロ)の先祖となったのだ。
琉球王朝時代に沖縄本島最高の聖域とされた南城市にある斎場御嶽(せーふぁうたき。『せーふぁ』は『最高位』を指す)は、
この久高島に巡礼する国王が立ち寄った御嶽であり、久高島からの霊力をもっとも集められる場所と考えられていた。
久高島内には御嶽のほか、拝み所(うがんしょ)、殿(とぅん)、井(かー)などの聖地が散らばり、
なかでもクボー御嶽は久高島第一の聖域であると同時に、男子禁制地である。
親田御願〜アマミキヨの神面・奉納の儀
http://ryuqspecial.ti-da.net/e2689393.htm...
アマミキヨ(琉球人の先祖神)
http://blogs.yahoo.co.jp/nakaauc/2486734.htm...
斎場御嶽
http://www.norichan.jp/jinja/hitokoto2/seifa.ht...
人類創世異伝2 人類は女神アマミキヨによってもたらされた 久高島(くだかじま)
このスレに目を通していただければ、驚くほど『神の島』と称する島が多いことに気づかされるだろう。
ただ>>60に紹介した久高島は紛れもなく神の島と冠されることに異論はあるまい。
久高島は沖縄本島東南端に位置する知念岬から東海の沖、5.3km上にある、周囲7.75kmの島だ。人口は200人強。
久高島こそ琉球の創世神アマミキヨが天から降臨し、国づくりを始めたといわれる神話の聖地なのである。
琉球の神話によると、日の大神(天にある最高神・天帝)が女神アマミキヨに島作りを命じた。
(本州での『古事記』『日本書紀』の冒頭で登場する、伊弉諾尊(イザナギノミコト)、伊弉冉尊(イザナミノミコト)の二神に相当)
天地開闢以前の下界は、ただひたすら海原が広がっているだけだった。
そこで女神は日の大神から土石草木を授かり、まず沖縄本島を作り、そこに9つの聖地、7つの森を築いていった。
現在ではこの聖地のうち7つが、琉球開闢七御嶽(うたき)として語り継がれ、琉球の信仰においてもっとも神聖視されている。
続けざま多くの島を作っていったアマミキヨは、天帝に人間の種子を乞うた。天帝はそれに応え、人間の子供2人(兄妹)を大地に下ろした。
やがて兄妹は3人の男と2人の女をもうけた。いつしか長男は天孫氏として沖縄の王となり、次男は諸侯の、三男は農民の、
長女は君々(高位の神)の、次女は祝女(ノロ)の先祖となったのだ。
琉球王朝時代に沖縄本島最高の聖域とされた南城市にある斎場御嶽(せーふぁうたき。『せーふぁ』は『最高位』を指す)は、
この久高島に巡礼する国王が立ち寄った御嶽であり、久高島からの霊力をもっとも集められる場所と考えられていた。
久高島内には御嶽のほか、拝み所(うがんしょ)、殿(とぅん)、井(かー)などの聖地が散らばり、
なかでもクボー御嶽は久高島第一の聖域であると同時に、男子禁制地である。
親田御願〜アマミキヨの神面・奉納の儀
http://ryuqspecial.ti-da.net/e2689393.htm...
アマミキヨ(琉球人の先祖神)
http://blogs.yahoo.co.jp/nakaauc/2486734.htm...
斎場御嶽
http://www.norichan.jp/jinja/hitokoto2/seifa.ht...
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ニライカナイから舞い戻るために神となり鳥となる 久高島
また久高島は、琉球王朝に作られた神女組織『祝女(ノロ)』制度を継承。
12年に一度だけ行われる秘祭『イザイホー』を頂点とした祭事を執り行うなど、女性を守護神とする母性原理の精神文化を伝えており、
民俗学的に貴重な島である。
イザイホーとは12年に一度巡ってくる午(うま)年の旧暦11月15日からの5日間、島の30歳から41歳までの女性が、
ナンチュ(神女)なる地位を授かるための神事。
この通過儀礼を経て一人前の女性として認められ、同時に神聖な力が宿るとされるのだが、近年は後継者不足のために1978年に行われたのを最後に、
1990年、2002年ともに実施されていない。
また久高島は海の彼方の異界ニライカナイにつながる聖地でもあり、穀物がニライカナイからもたらされたといわれている。
『琉球国由来記』(1713年)によると、島の東海岸にある伊敷(イシキ)浜に漂着した壷の中に五穀の種子が入っていたと記載されており、
久高島こそ五穀発祥の地とされるのだ。
沖縄に伝わる信仰、ニライカナイ。それは海の彼方の『あの世』を意味する。
ニライカナイという言葉をアイヌ語で解釈するとこうだ。ニライ……根(地下)の下のところ、カナイ……空の上のところ。
つまり根の下であるとともに、空の上である。根の下と空の上、夜と昼とが交錯し合う地点。なんだか哲学的である。
秘祭イザイホーでは、久高島の女たちが神女になるため、3晩、イザイ山の仮小屋にこもり、4日間にわたって、歌や踊りを伴う神事を行う。
とくに初日の夕方に実施される『七つ橋』を渡る儀式は、女が鳥になるためのそれだという。
鳥になるために女たちは髪を振り乱して七つ橋を命懸けて渡る。その際、「エーファイ、エーファイ!」と、
まるで鶴の鳴き声みたいな掛け声を上げるのだ。このとき、女たちはレトリックではなく、身も心も鳥になっているという。
七つ橋とは、この世とあの世との間に架けられた橋であり、この橋を渡ることで神に近づく。
男たちは亡くなると海の彼方の遠い国、ニライカナイに行ったきり、いつ帰ってくるかわからないが、
神となり、鳥となった女は亡くなりニライカナイに行ってもすぐ、祖先の霊がいる御嶽に舞い戻り、
そこに永久にとどまって末永く故郷の島の子孫たちを守るのだとされている。
ニライカナイwikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8B%E3%83%A9%E3%82%...
NPO法人久高島振興会
http://www.kudakajima.jp/
神の島、久高島 [沖縄の観光・旅行] All About
http://allabout.co.jp/gm/gc/376116...
沖縄久高島のイザイホー(第一部) - 科学映像館
http://www.kagakueizo.org/2009/04/post-94.htm...
ニライカナイから舞い戻るために神となり鳥となる 久高島
また久高島は、琉球王朝に作られた神女組織『祝女(ノロ)』制度を継承。
12年に一度だけ行われる秘祭『イザイホー』を頂点とした祭事を執り行うなど、女性を守護神とする母性原理の精神文化を伝えており、
民俗学的に貴重な島である。
イザイホーとは12年に一度巡ってくる午(うま)年の旧暦11月15日からの5日間、島の30歳から41歳までの女性が、
ナンチュ(神女)なる地位を授かるための神事。
この通過儀礼を経て一人前の女性として認められ、同時に神聖な力が宿るとされるのだが、近年は後継者不足のために1978年に行われたのを最後に、
1990年、2002年ともに実施されていない。
また久高島は海の彼方の異界ニライカナイにつながる聖地でもあり、穀物がニライカナイからもたらされたといわれている。
『琉球国由来記』(1713年)によると、島の東海岸にある伊敷(イシキ)浜に漂着した壷の中に五穀の種子が入っていたと記載されており、
久高島こそ五穀発祥の地とされるのだ。
沖縄に伝わる信仰、ニライカナイ。それは海の彼方の『あの世』を意味する。
ニライカナイという言葉をアイヌ語で解釈するとこうだ。ニライ……根(地下)の下のところ、カナイ……空の上のところ。
つまり根の下であるとともに、空の上である。根の下と空の上、夜と昼とが交錯し合う地点。なんだか哲学的である。
秘祭イザイホーでは、久高島の女たちが神女になるため、3晩、イザイ山の仮小屋にこもり、4日間にわたって、歌や踊りを伴う神事を行う。
とくに初日の夕方に実施される『七つ橋』を渡る儀式は、女が鳥になるためのそれだという。
鳥になるために女たちは髪を振り乱して七つ橋を命懸けて渡る。その際、「エーファイ、エーファイ!」と、
まるで鶴の鳴き声みたいな掛け声を上げるのだ。このとき、女たちはレトリックではなく、身も心も鳥になっているという。
七つ橋とは、この世とあの世との間に架けられた橋であり、この橋を渡ることで神に近づく。
男たちは亡くなると海の彼方の遠い国、ニライカナイに行ったきり、いつ帰ってくるかわからないが、
神となり、鳥となった女は亡くなりニライカナイに行ってもすぐ、祖先の霊がいる御嶽に舞い戻り、
そこに永久にとどまって末永く故郷の島の子孫たちを守るのだとされている。
ニライカナイwikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8B%E3%83%A9%E3%82%...
NPO法人久高島振興会
http://www.kudakajima.jp/
神の島、久高島 [沖縄の観光・旅行] All About
http://allabout.co.jp/gm/gc/376116...
沖縄久高島のイザイホー(第一部) - 科学映像館
http://www.kagakueizo.org/2009/04/post-94.htm...
玄界灘の『沖の島』をポリゴンで完全再現。
何人たりとも常人を寄せ付けぬ、島そのものがご神体のバーチャル『神の島』を練り歩こう。
沖の島バーチャルミュージアム
http://www.city.munakata.lg.jp/okinoshima/index2.ph...
何人たりとも常人を寄せ付けぬ、島そのものがご神体のバーチャル『神の島』を練り歩こう。
沖の島バーチャルミュージアム
http://www.city.munakata.lg.jp/okinoshima/index2.ph...
宿毛市史【古代編-平安時代の宿毛-】古代、中世の沖の島 妹背島伝説
http://www.city.sukumo.kochi.jp/sbc/history/sisi/009901.htm...
今昔物語の妹背島伝説
http://www.k5.dion.ne.jp/‾blueview/history1.html
http://www.city.sukumo.kochi.jp/sbc/history/sisi/009901.htm...
今昔物語の妹背島伝説
http://www.k5.dion.ne.jp/‾blueview/history1.html
「埋蔵金伝説」というロマン(3)心ひかれる『埋蔵金伝説BEST5(西日本編)』
http://kari-kari.net/kinme/2011/11/2.htm...
埋蔵金伝説あれこれ(兵庫県内)郷土史の談話40 成ケ島http://kdskenkyu.saloon.jp/tale40mai.ht...
http://kari-kari.net/kinme/2011/11/2.htm...
埋蔵金伝説あれこれ(兵庫県内)郷土史の談話40 成ケ島http://kdskenkyu.saloon.jp/tale40mai.ht...
雨晴海岸、義経岩の義経社 ★高岡市
http://beccan.blog56.fc2.com/blog-entry-1354.htm...
雨晴海岸から 立山連峰 女岩 義経岩 男岩 氷見線の電車 波
http://blog.goo.ne.jp/yamaakmyk/e/2ac1637a87af7c7923...
http://beccan.blog56.fc2.com/blog-entry-1354.htm...
雨晴海岸から 立山連峰 女岩 義経岩 男岩 氷見線の電車 波
http://blog.goo.ne.jp/yamaakmyk/e/2ac1637a87af7c7923...
女人禁制の聖なる島 御積島(おしゃくじま)
>>190の山形県酒田市にある飛島の西には、御積島という無人島がある。
御積島には大きな洞窟があり、その壁面は龍の鱗のような形をした石が硫酸アンモニアの影響でキラキラと輝くのだという。
飛島の人たちはこの壁面を『白龍の鱗紋』として信仰するため、女人禁制地としているそうだ。
飛島賽の河原 − 日本全国賽の河原めぐり
http://sainokawara.fubuki.info/tobishima.htm...
>>190の山形県酒田市にある飛島の西には、御積島という無人島がある。
御積島には大きな洞窟があり、その壁面は龍の鱗のような形をした石が硫酸アンモニアの影響でキラキラと輝くのだという。
飛島の人たちはこの壁面を『白龍の鱗紋』として信仰するため、女人禁制地としているそうだ。
飛島賽の河原 − 日本全国賽の河原めぐり
http://sainokawara.fubuki.info/tobishima.htm...
海の怪異ウキモノ 粟島(あわしま)
新潟県岩船郡の日本海にある粟島。標高265mの小柴山を中心に島のほとんどが山地で形成されている。
その粟島周辺の海では、謎のベールに包まれた怪異が姿を現すことで知られる。
5月から6月ごろの花曇り(桜の咲くころ、空が薄く曇っている日和)のような日、海上に巨大魚とも陸地ともつかない物体が
浮かんでいるのが見えるのだという。
これが地元の間では『浮き物』(ウキモノ)と呼んでおり、気味悪がられているのだ。
特定の場所に現われるとされ、海面を移動することもあり、人が近づくと消え去ってしまうとか。
魚または海鳥の群れ、未確認の巨大魚などの説があるが、今もなお判明していない。
粟島の概要|粟島浦村
http://www.vill.awashimaura.lg.jp/awashima...
妖怪邸 妖堂日記帳 とりあえず、ウキモノ
http://youkaitama.seesaa.net/article/228607238.htm...
新潟県岩船郡の日本海にある粟島。標高265mの小柴山を中心に島のほとんどが山地で形成されている。
その粟島周辺の海では、謎のベールに包まれた怪異が姿を現すことで知られる。
5月から6月ごろの花曇り(桜の咲くころ、空が薄く曇っている日和)のような日、海上に巨大魚とも陸地ともつかない物体が
浮かんでいるのが見えるのだという。
これが地元の間では『浮き物』(ウキモノ)と呼んでおり、気味悪がられているのだ。
特定の場所に現われるとされ、海面を移動することもあり、人が近づくと消え去ってしまうとか。
魚または海鳥の群れ、未確認の巨大魚などの説があるが、今もなお判明していない。
粟島の概要|粟島浦村
http://www.vill.awashimaura.lg.jp/awashima...
妖怪邸 妖堂日記帳 とりあえず、ウキモノ
http://youkaitama.seesaa.net/article/228607238.htm...
若武者、川上左京の慟哭 恋路島(こいじしま)
熊本県水俣の海は1958年8月から1997年10月までの39年もの長きにわたり、漁業を行うことができなかった。
4大公害病の1つである水俣病による被害であることは周知の事実であろう。
メチル水銀に汚染された魚の拡散を防ぐため湾には仕切り網が張りめぐらされ、海底にたまったヘドロを回収したうえ、
さらに臭いものにフタすべく水俣の海は埋め立てられた負の歴史があるのだ。
今では『環境モデル都市』の認定を受けるほどに再生。埋立地の公園は市民の憩いの場と生まれ変わり、かつての悲惨な面影はない。
そんな公園の目の前には恋路島が静かに佇んでいる。
なんだか風情ある島名である。それもそのはず、島には他にも『恋の浦』『妻恋岩』と呼ばれる所があり、
若武者とその妻の悲しい物語が伝えられているのだ。
時は戦国時代の1585(天正12)年3月。九州制覇を目論む肥前の竜造寺氏に対して島原の有馬氏が反旗を翻す。
劣勢を強いられる有馬軍に島津が援軍を差し向けるものの、それは死を覚悟した援軍であった。
その島津軍の中に袋の港(水俣湾南部)から船出する1人の若者とそれを見送る女の姿があった。
若者は27歳の武将、川上左京亮忠堅。見送る女は左京の妻であった。
岸を離れ、沖へと遠のいていく軍船を気丈な面持ちで見送っていた妻だったが、夫を想う気持ちを抑えきれず、
ついに小舟に乗り込み水俣湾に浮かぶ小島(恋路島)に渡った。そこで石室にこもり、海辺で石を積み上げ、夫の武運を祈り続けた。
けれども夫の無事の帰りを待たずして病に倒れ、亡くなってしまう。
一方の左京は……
島津家久の率いる3000人余りの兵に対峙するは竜造寺氏の1万3000の大軍。圧倒的に不利な戦況であった。
沼を前にして丘の上に陣取って戦いに臨み、敵の混乱に乗じて敵中深く切り込んだ左京は、ついに総大将竜造寺隆信の首を討ち取ったのだ。
最高の武勲を立てた左京は待ち侘びているはずの妻のもとに帰ってくるが、すでに亡くなった話を聞かされ、激しく打ちのめされる。
左京は妻が1人待ち続けたという小島に渡り、せめて在りし日の妻の痕跡を探ろうと思った。
島には夫の無事を願った石積みが残されていた。左京は石積みを抱きしめ、妻の名を叫び、そして泣いた。
この石積みを『妻恋岩』と呼び、恋路島という島名の由来になったともいわれている。
みなまたの伝説「恋路島物語」
http://www.city.minamata.lg.jp/794.htm...
恋路島について
http://www.pref.kumamoto.jp/sec_img/0164/200701104552054.p...
熊本県水俣の海は1958年8月から1997年10月までの39年もの長きにわたり、漁業を行うことができなかった。
4大公害病の1つである水俣病による被害であることは周知の事実であろう。
メチル水銀に汚染された魚の拡散を防ぐため湾には仕切り網が張りめぐらされ、海底にたまったヘドロを回収したうえ、
さらに臭いものにフタすべく水俣の海は埋め立てられた負の歴史があるのだ。
今では『環境モデル都市』の認定を受けるほどに再生。埋立地の公園は市民の憩いの場と生まれ変わり、かつての悲惨な面影はない。
そんな公園の目の前には恋路島が静かに佇んでいる。
なんだか風情ある島名である。それもそのはず、島には他にも『恋の浦』『妻恋岩』と呼ばれる所があり、
若武者とその妻の悲しい物語が伝えられているのだ。
時は戦国時代の1585(天正12)年3月。九州制覇を目論む肥前の竜造寺氏に対して島原の有馬氏が反旗を翻す。
劣勢を強いられる有馬軍に島津が援軍を差し向けるものの、それは死を覚悟した援軍であった。
その島津軍の中に袋の港(水俣湾南部)から船出する1人の若者とそれを見送る女の姿があった。
若者は27歳の武将、川上左京亮忠堅。見送る女は左京の妻であった。
岸を離れ、沖へと遠のいていく軍船を気丈な面持ちで見送っていた妻だったが、夫を想う気持ちを抑えきれず、
ついに小舟に乗り込み水俣湾に浮かぶ小島(恋路島)に渡った。そこで石室にこもり、海辺で石を積み上げ、夫の武運を祈り続けた。
けれども夫の無事の帰りを待たずして病に倒れ、亡くなってしまう。
一方の左京は……
島津家久の率いる3000人余りの兵に対峙するは竜造寺氏の1万3000の大軍。圧倒的に不利な戦況であった。
沼を前にして丘の上に陣取って戦いに臨み、敵の混乱に乗じて敵中深く切り込んだ左京は、ついに総大将竜造寺隆信の首を討ち取ったのだ。
最高の武勲を立てた左京は待ち侘びているはずの妻のもとに帰ってくるが、すでに亡くなった話を聞かされ、激しく打ちのめされる。
左京は妻が1人待ち続けたという小島に渡り、せめて在りし日の妻の痕跡を探ろうと思った。
島には夫の無事を願った石積みが残されていた。左京は石積みを抱きしめ、妻の名を叫び、そして泣いた。
この石積みを『妻恋岩』と呼び、恋路島という島名の由来になったともいわれている。
みなまたの伝説「恋路島物語」
http://www.city.minamata.lg.jp/794.htm...
恋路島について
http://www.pref.kumamoto.jp/sec_img/0164/200701104552054.p...
五頭竜、麗しの弁財天に猛アタック 江の島
湘南海岸から相模湾へと張り出した陸繋島(りくけいとう)である江の島は観光地としてあまりにも有名で、
海岸を含めば年間1000万人以上もの観光客が訪れるそうだ。この江の島であるが、島の誕生にまつわる不思議な伝説が残されている。
昔、鎌倉の深沢には広大な湖が水を湛えていた。湖にはヌシである5つの頭を持った『五頭竜』が住んでいた。
この五頭竜は、ことあるごとに川を氾濫させ、山を崩し、疾病を流行させたりして猛威をふるい、村人を苦しめていた。
竜が相手ではどうすることもできず、さりとて生活が難儀するため、一計を案じた。
それが人身御供だった。村からくじ引きで贄を選び、捧げることにしたのだ。
贄として選ばれた当事者、および残された家族は悲惨である。
親は子を取られ生きる希望をなくし、子は親を失って明日を生きるのもままならなくなり、泣く泣くよその土地へ移っていった。
津村の長者など16人もの子沢山だったが、1人残らず五頭竜のえじきとなり、抜け殻の体となって他村へと逃げていった。
いつしか人は呼ぶようになった。深沢から西へと続く街道のあたりを『子死越(こしごえ)』と。
これが現在の腰越の地名の始まりとされている。
しだいに竜は生贄すらも満足しなくなり、ますます手がつけられないほど暴れるようになった。
抵抗する気力もなくした村人は次々と他村に移り、村は荒れ果ててしまった。
そんなとき天変地異が世界を揺るがせた。時は欽明天皇13(552)年4月12日のことである。
大地震がこの世を攪拌し、なんと10日間も続いた。23日辰の刻にはどうにか揺れはおさまり、人々がほっとして海の方を見たとき、
今まで何もなかったはずの子死越前方の海に忽然として1つの島が現われた。これこそが江の島の誕生であるという。
この天地の動揺を五頭竜は見守っていた。すると天から五色の雲にのった天女が生まれたての島に降り立った。
天女の夢のような美貌と立ち姿に陶然となった竜は求婚を迫った。
地上の人々の幸せを願っている天女としては、悪事を働き、人々を窮地へと追いやっている者の妻になれようか。返事は知れていた。
どうしても天女を娶りたい。竜は今までの行いを反省し、心を入れ替え、これからは人々を助けることに尽力すると誓った。
それからというもの、五頭竜は日照りが続けば雨を降らせ、台風には身を挺してはね返し、押し寄せる大波からは陸地を守った。
やがて竜の気持ちを理解した天女は求婚に応え、人々の幸福のために力を合わせるようになった。
時が経ち、やがて自身の寿命が尽きることを悟った竜は、妻にこう言った。
「私が死んでも、その骸は山となり島と里人を守り続けることを約束しよう」
竜は島の対岸に渡り、江の島に向かって長々と横たわり、1つの山となった。これが片瀬山であり、竜の口があったとされる場所が
今の『竜の口』(たつのくち)であるという。
以来、里人はこの山を竜口山と呼び、五頭竜を祭った社を建てた。これが竜口明神で、五頭竜の木彫りのご神体がおさめられている。
60年に一度の『巳年式年祭』の日にはご開帳と相成り、神輿にのせられ江の島へ渡り、天女である弁財天と久方ぶりの対面を果たすのだ。
藤沢市ホームページ 藤沢を知る「江の島」
http://www.city.fujisawa.kanagawa.jp/kyobun-c/data16353.shtm...
江の島マニアック
http://harady.com/enoshima/maniac/sonota.htm...
湘南海岸から相模湾へと張り出した陸繋島(りくけいとう)である江の島は観光地としてあまりにも有名で、
海岸を含めば年間1000万人以上もの観光客が訪れるそうだ。この江の島であるが、島の誕生にまつわる不思議な伝説が残されている。
昔、鎌倉の深沢には広大な湖が水を湛えていた。湖にはヌシである5つの頭を持った『五頭竜』が住んでいた。
この五頭竜は、ことあるごとに川を氾濫させ、山を崩し、疾病を流行させたりして猛威をふるい、村人を苦しめていた。
竜が相手ではどうすることもできず、さりとて生活が難儀するため、一計を案じた。
それが人身御供だった。村からくじ引きで贄を選び、捧げることにしたのだ。
贄として選ばれた当事者、および残された家族は悲惨である。
親は子を取られ生きる希望をなくし、子は親を失って明日を生きるのもままならなくなり、泣く泣くよその土地へ移っていった。
津村の長者など16人もの子沢山だったが、1人残らず五頭竜のえじきとなり、抜け殻の体となって他村へと逃げていった。
いつしか人は呼ぶようになった。深沢から西へと続く街道のあたりを『子死越(こしごえ)』と。
これが現在の腰越の地名の始まりとされている。
しだいに竜は生贄すらも満足しなくなり、ますます手がつけられないほど暴れるようになった。
抵抗する気力もなくした村人は次々と他村に移り、村は荒れ果ててしまった。
そんなとき天変地異が世界を揺るがせた。時は欽明天皇13(552)年4月12日のことである。
大地震がこの世を攪拌し、なんと10日間も続いた。23日辰の刻にはどうにか揺れはおさまり、人々がほっとして海の方を見たとき、
今まで何もなかったはずの子死越前方の海に忽然として1つの島が現われた。これこそが江の島の誕生であるという。
この天地の動揺を五頭竜は見守っていた。すると天から五色の雲にのった天女が生まれたての島に降り立った。
天女の夢のような美貌と立ち姿に陶然となった竜は求婚を迫った。
地上の人々の幸せを願っている天女としては、悪事を働き、人々を窮地へと追いやっている者の妻になれようか。返事は知れていた。
どうしても天女を娶りたい。竜は今までの行いを反省し、心を入れ替え、これからは人々を助けることに尽力すると誓った。
それからというもの、五頭竜は日照りが続けば雨を降らせ、台風には身を挺してはね返し、押し寄せる大波からは陸地を守った。
やがて竜の気持ちを理解した天女は求婚に応え、人々の幸福のために力を合わせるようになった。
時が経ち、やがて自身の寿命が尽きることを悟った竜は、妻にこう言った。
「私が死んでも、その骸は山となり島と里人を守り続けることを約束しよう」
竜は島の対岸に渡り、江の島に向かって長々と横たわり、1つの山となった。これが片瀬山であり、竜の口があったとされる場所が
今の『竜の口』(たつのくち)であるという。
以来、里人はこの山を竜口山と呼び、五頭竜を祭った社を建てた。これが竜口明神で、五頭竜の木彫りのご神体がおさめられている。
60年に一度の『巳年式年祭』の日にはご開帳と相成り、神輿にのせられ江の島へ渡り、天女である弁財天と久方ぶりの対面を果たすのだ。
藤沢市ホームページ 藤沢を知る「江の島」
http://www.city.fujisawa.kanagawa.jp/kyobun-c/data16353.shtm...
江の島マニアック
http://harady.com/enoshima/maniac/sonota.htm...
三重県鳥羽市神島における通過儀礼の変遷 一難島の少子高齢・過疎化について
http://www.lib.yamagata-u.ac.jp/kiyou/kiyouh/kiyouh-16-4/image...
http://www.lib.yamagata-u.ac.jp/kiyou/kiyouh/kiyouh-16-4/image...
メチルアルコールで酒盛り……。水晶島(すいしょうじま)
歯舞群島の島の1つである水晶島。ロシア名でタンフィーリエフ島という。
アイヌ語の『シ・ショウ(大きい・裸岩)』が『シイショウ』に変化したことから名付けられた。
江戸時代の初めは無人島であったが、明治のころより珸瑶瑁村(ごようまいむら)の一部となり、のちに歯舞村に属す。
戦前は931人が在住していた。
1945年、ソ連軍の侵攻を受け、占領される。1959年、日本側は根室市の一部に編入するも、1991年、ソ連崩壊後に成立したロシア連邦が実効支配を継承。
現在もロシア連邦が占領、実効支配しているが、日本も領有権を主張している。
以前はロシア国境軍や水産加工会社社員が交代で常駐していた。
ところが2010年12月31日には駐在していた水産加工会社社員らが、年越しパーティーの最中にメチルアルコールを飲酒。
その数23人にのぼり、中毒を起こし、うち4人が死亡する事件が発生している。
現在、水晶島に定住民は存在しないとされている。
そもそもメチルアルコールは飲むに適していない。
誤って飲酒した直後は通常の酒と同じく酩酊するだけだが、その後中枢神経がやられて、頭痛、めまい、不安感、精神不安定、呼吸困難になり、
高濃度のソレを一気に摂取すると、嗜眠、意識混濁、昏睡、けいれん、急性呼吸不全、失明に至る。
以上のことからエチルアルコールは大丈夫で、メチルアルコールはヤバいと憶えておこう。
北方領土・水晶島でメチル酒盛り、露の4人死亡
http://iinoakazonae03.blog77.fc2.com/blog-entry-1993.htm...
歯舞群島の島の1つである水晶島。ロシア名でタンフィーリエフ島という。
アイヌ語の『シ・ショウ(大きい・裸岩)』が『シイショウ』に変化したことから名付けられた。
江戸時代の初めは無人島であったが、明治のころより珸瑶瑁村(ごようまいむら)の一部となり、のちに歯舞村に属す。
戦前は931人が在住していた。
1945年、ソ連軍の侵攻を受け、占領される。1959年、日本側は根室市の一部に編入するも、1991年、ソ連崩壊後に成立したロシア連邦が実効支配を継承。
現在もロシア連邦が占領、実効支配しているが、日本も領有権を主張している。
以前はロシア国境軍や水産加工会社社員が交代で常駐していた。
ところが2010年12月31日には駐在していた水産加工会社社員らが、年越しパーティーの最中にメチルアルコールを飲酒。
その数23人にのぼり、中毒を起こし、うち4人が死亡する事件が発生している。
現在、水晶島に定住民は存在しないとされている。
そもそもメチルアルコールは飲むに適していない。
誤って飲酒した直後は通常の酒と同じく酩酊するだけだが、その後中枢神経がやられて、頭痛、めまい、不安感、精神不安定、呼吸困難になり、
高濃度のソレを一気に摂取すると、嗜眠、意識混濁、昏睡、けいれん、急性呼吸不全、失明に至る。
以上のことからエチルアルコールは大丈夫で、メチルアルコールはヤバいと憶えておこう。
北方領土・水晶島でメチル酒盛り、露の4人死亡
http://iinoakazonae03.blog77.fc2.com/blog-entry-1993.htm...
>>318
オイオイ、まったくのスレチだぞ。いい加減にしろ。
「みささぎ島」弟橘媛と「浮島」景行天皇
http://kazusa.jpn.org/b/archives/62...
鋸南町の観光案内(勝山の歴史と文化)勝山の伝説
http://www2s.biglobe.ne.jp/‾sanyo/kyonanmachi-1/kyonanmachi-3.html
オイオイ、まったくのスレチだぞ。いい加減にしろ。
「みささぎ島」弟橘媛と「浮島」景行天皇
http://kazusa.jpn.org/b/archives/62...
鋸南町の観光案内(勝山の歴史と文化)勝山の伝説
http://www2s.biglobe.ne.jp/‾sanyo/kyonanmachi-1/kyonanmachi-3.html
架橋と石伝説の島 櫃石島(ひついしじま)
http://www.sakaide.ed.jp/hituishi-jh/shiosai/p_02.pd...
櫃石島の岩巡り:その1
http://blogs.yahoo.co.jp/castletraveler/47198758.htm...
線上に並ぶ巨石・神社の謎を解く
http://blogs.yahoo.co.jp/doctor3044/30588118.htm...
http://www.sakaide.ed.jp/hituishi-jh/shiosai/p_02.pd...
櫃石島の岩巡り:その1
http://blogs.yahoo.co.jp/castletraveler/47198758.htm...
線上に並ぶ巨石・神社の謎を解く
http://blogs.yahoo.co.jp/doctor3044/30588118.htm...
戦時中、潜水艦と間違って米軍が爆撃した島
風に吹かれて コブ島
http://blog.livedoor.jp/ayabeda/archives/51788149.htm...
初夏の南九十九島遊覧
http://blog.goo.ne.jp/potesara-2010/e/a5d1fa0292d411...
風に吹かれて コブ島
http://blog.livedoor.jp/ayabeda/archives/51788149.htm...
初夏の南九十九島遊覧
http://blog.goo.ne.jp/potesara-2010/e/a5d1fa0292d411...
追手の追跡を振り切った『おときの一時そば』 久賀島(ひさかじま)
長崎県五島列島にある久賀島は福江島、中通島に次いで3番目に大きい島だ。
海岸線はリアス式になっており、島の北側から中央にかけて久賀港が切れ込んでいるため俯瞰からの眺めが馬蹄形に見えるのだ。
この島には>>196の瓜生島が一夜にして沈んだとされる話に酷似した『高麗島伝説』が残されており大変興味深い。
このような類型説話はいったいどこから発生したものなのだろう?
(件の沈んだとされる島が、久賀島から北上すること60km先にあったと言われる高麗島を指す)
五島列島の島々の例に漏れず、この島もキリシタンの聖地であった。
牢屋の窄(さこ)教会は1868(明治元)年のキリシタン弾圧の際、わずか6坪の独房に信者200人が8ヶ月もの間、幽閉および拷問を受けた場所だという。
現在では記念聖堂や殉教記念碑が建てられ『五島崩れ』の発祥の地とも言われている。キリスト教が解禁になったのは1873(明治6)年のことである。
それにちなみ、久賀島にはこんな民話が残されている。
今から、およそ350年ほど昔。久賀島で侍たちの追手をたくみにかわして逃亡を計っていた1人の宣教師がいた。
宣教師は追手が間近に迫っていることを察知。猪之木町の山奥あった隠れ家から夜が明けると同時に逃げ出し、やっとの思いで深浦地区にたどり着いた。
すでに太陽も東の空から姿を現していた。
近くの畑に目をやると、朝の早くから1人の婦人が畑仕事に精を出していた。どうやらソバの種を蒔いているらしい。
宣教師はこの婦人に挨拶とねぎらいの言葉をかけたあと、急ぎ足にこの場を去った。
それからしばらくもしないうちに追手の一団が深浦地区に乗り込んできた。
頭とおぼしき侍がその婦人に向かって、「この道を1人の男が通らなかったか? 宣教師だ」と聞いた。
「確かに通りましたが、その方が宣教師かどうかまでは……」と、婦人は言った。
「では、いつ時分、ここを通ったか?」
「はい、わたしが畑でソバの種を蒔いているころでしたから……」
畑を見れば、種を蒔いてからまだ2時間と経っていないにもかかわらず、不思議なことにすでに芽吹いて茎が伸び、黄金色の実を実らせていたのだ。
このソバの種を蒔いた時間帯に宣教師が通ったとすれば、さすがにこの島に隠れている可能性は低い。
おそらくすでに島外へ逃げおおせたに違いあるまい。追手たちはそう判断して追跡を諦めたという。
ソバを蒔いていた婦人の名は『おとき』だった。
この不思議な事件以来、『おときの一時そば』と言ってもてはやされ、後世まで語り草になった。
民話 伝説 of 久賀島 - Hisakajima
http://www.hisakajima.com/legend...
島の暮らしって?ー長崎県五島の暮らし(伝説と民話)
http://www.geocities.co.jp/MotorCity/3180/sub1/1205/1205....
牢屋の窄教会
http://www.tanetan.com/TRAVEL/gotoujunrei/rouyanosaku...
牢屋の窄殉教地
http://www1.odn.ne.jp/tomas/rouyaanosako2.ht...
長崎県五島列島にある久賀島は福江島、中通島に次いで3番目に大きい島だ。
海岸線はリアス式になっており、島の北側から中央にかけて久賀港が切れ込んでいるため俯瞰からの眺めが馬蹄形に見えるのだ。
この島には>>196の瓜生島が一夜にして沈んだとされる話に酷似した『高麗島伝説』が残されており大変興味深い。
このような類型説話はいったいどこから発生したものなのだろう?
(件の沈んだとされる島が、久賀島から北上すること60km先にあったと言われる高麗島を指す)
五島列島の島々の例に漏れず、この島もキリシタンの聖地であった。
牢屋の窄(さこ)教会は1868(明治元)年のキリシタン弾圧の際、わずか6坪の独房に信者200人が8ヶ月もの間、幽閉および拷問を受けた場所だという。
現在では記念聖堂や殉教記念碑が建てられ『五島崩れ』の発祥の地とも言われている。キリスト教が解禁になったのは1873(明治6)年のことである。
それにちなみ、久賀島にはこんな民話が残されている。
今から、およそ350年ほど昔。久賀島で侍たちの追手をたくみにかわして逃亡を計っていた1人の宣教師がいた。
宣教師は追手が間近に迫っていることを察知。猪之木町の山奥あった隠れ家から夜が明けると同時に逃げ出し、やっとの思いで深浦地区にたどり着いた。
すでに太陽も東の空から姿を現していた。
近くの畑に目をやると、朝の早くから1人の婦人が畑仕事に精を出していた。どうやらソバの種を蒔いているらしい。
宣教師はこの婦人に挨拶とねぎらいの言葉をかけたあと、急ぎ足にこの場を去った。
それからしばらくもしないうちに追手の一団が深浦地区に乗り込んできた。
頭とおぼしき侍がその婦人に向かって、「この道を1人の男が通らなかったか? 宣教師だ」と聞いた。
「確かに通りましたが、その方が宣教師かどうかまでは……」と、婦人は言った。
「では、いつ時分、ここを通ったか?」
「はい、わたしが畑でソバの種を蒔いているころでしたから……」
畑を見れば、種を蒔いてからまだ2時間と経っていないにもかかわらず、不思議なことにすでに芽吹いて茎が伸び、黄金色の実を実らせていたのだ。
このソバの種を蒔いた時間帯に宣教師が通ったとすれば、さすがにこの島に隠れている可能性は低い。
おそらくすでに島外へ逃げおおせたに違いあるまい。追手たちはそう判断して追跡を諦めたという。
ソバを蒔いていた婦人の名は『おとき』だった。
この不思議な事件以来、『おときの一時そば』と言ってもてはやされ、後世まで語り草になった。
民話 伝説 of 久賀島 - Hisakajima
http://www.hisakajima.com/legend...
島の暮らしって?ー長崎県五島の暮らし(伝説と民話)
http://www.geocities.co.jp/MotorCity/3180/sub1/1205/1205....
牢屋の窄教会
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牢屋の窄殉教地
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削除(by投稿者)
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夜ごと娘のすすり泣きと琴の音に悩まされる……。 因島(いんのしま)
因島は広島県尾道市に属し、かつては因島市として独立していた。
島名の由来としては、神功皇后を乗せた船が島に立ち寄った際、陸から多くの犬が吠えて困ったので皇后が『犬の島』と名づけ、
それがなまり『インの島』になったとか、あるいは平安時代に島が院領だったことから『院の島』が『因の島』に変遷したとも言われている。
そんな因島には『鼻の地蔵』と呼ばれる名所がある。現在では女性の恋愛成就を叶えてくれるといい重宝がられている。
その地蔵であるが、やはり悲恋伝説が背景にあるようだ。それがこんな内容。
その昔、周防の高橋蔵人の娘が都へ向かっている道中のことだった。
娘は琴の名人であり、都へは修行がてら恋人に会いに行くためであった。結婚を約束した仲だった。
ところが因島を占拠する村上水軍の金山亦兵衛康時に、関所破りの罪で囚われてしまう。
すかさず娘は琴の調べを海賊たちに聞かせたところ、その音に感じ入った海賊たちは心奪われた。
海賊の首領である康時は琴の音だけでなく、娘自身に魅了され、妾になることを要求した。ところが娘には許婚がいるのできっぱり断った。
拒絶されたのを逆恨みした康時は娘を殺害することにした。
娘はせめて最後に一曲奏でさせてくれと頼み、分身たる琴との別れを惜しむ。
琴を弾き終えると、我に返った康時の部下たちは命令に従い、娘を斬り殺した。そのあと琴は康時の館に運ばれた。
ところがそれ以来、怪異が起きる。あの娘のすすり泣く声と、奏者のいないはずの琴が夜な夜な鳴り響いたのである。
気味悪がった康時は琴を壊したが、にもかかわらずその調べは館にこだまし続けた。
人の命などをなんとも思わない康時だったが、琴の音に怯える部下たちとは、別の気持ちに苛まれた。
それは自身も尺八を奏でる康時が、もっとも大切なものを、短気を起こして自ら摘み取ってしまったことへの自責の念であった。
康時は償うべく、自然石を娘の生前の姿の浮き彫りを施した地蔵を建立し、僧侶を呼んで供養したという。
それからというもの怪異はおさまり、かわりに女性の悩みごとや縁結びとしてご利益がある地蔵として今日に至る。
因島三庄町「鼻の地蔵さん」と、参道に並ぶ石地蔵
http://blog.goo.ne.jp/tako_888k/e/0f225949a3343a68fd...
夜ごと娘のすすり泣きと琴の音に悩まされる……。 因島(いんのしま)
因島は広島県尾道市に属し、かつては因島市として独立していた。
島名の由来としては、神功皇后を乗せた船が島に立ち寄った際、陸から多くの犬が吠えて困ったので皇后が『犬の島』と名づけ、
それがなまり『インの島』になったとか、あるいは平安時代に島が院領だったことから『院の島』が『因の島』に変遷したとも言われている。
そんな因島には『鼻の地蔵』と呼ばれる名所がある。現在では女性の恋愛成就を叶えてくれるといい重宝がられている。
その地蔵であるが、やはり悲恋伝説が背景にあるようだ。それがこんな内容。
その昔、周防の高橋蔵人の娘が都へ向かっている道中のことだった。
娘は琴の名人であり、都へは修行がてら恋人に会いに行くためであった。結婚を約束した仲だった。
ところが因島を占拠する村上水軍の金山亦兵衛康時に、関所破りの罪で囚われてしまう。
すかさず娘は琴の調べを海賊たちに聞かせたところ、その音に感じ入った海賊たちは心奪われた。
海賊の首領である康時は琴の音だけでなく、娘自身に魅了され、妾になることを要求した。ところが娘には許婚がいるのできっぱり断った。
拒絶されたのを逆恨みした康時は娘を殺害することにした。
娘はせめて最後に一曲奏でさせてくれと頼み、分身たる琴との別れを惜しむ。
琴を弾き終えると、我に返った康時の部下たちは命令に従い、娘を斬り殺した。そのあと琴は康時の館に運ばれた。
ところがそれ以来、怪異が起きる。あの娘のすすり泣く声と、奏者のいないはずの琴が夜な夜な鳴り響いたのである。
気味悪がった康時は琴を壊したが、にもかかわらずその調べは館にこだまし続けた。
人の命などをなんとも思わない康時だったが、琴の音に怯える部下たちとは、別の気持ちに苛まれた。
それは自身も尺八を奏でる康時が、もっとも大切なものを、短気を起こして自ら摘み取ってしまったことへの自責の念であった。
康時は償うべく、自然石を娘の生前の姿の浮き彫りを施した地蔵を建立し、僧侶を呼んで供養したという。
それからというもの怪異はおさまり、かわりに女性の悩みごとや縁結びとしてご利益がある地蔵として今日に至る。
因島三庄町「鼻の地蔵さん」と、参道に並ぶ石地蔵
http://blog.goo.ne.jp/tako_888k/e/0f225949a3343a68fd...
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鬼ノ寝屋嶋 [能登沖にあったという島の伝説]
http://noto-folktales.blog.so-net.ne.jp/archive/c2300528792-...
舳蔵島の龍宮伝説 [奥能登・舳蔵島の民話・伝説]
http://noto-folktales.blog.so-net.ne.jp/archive/c2300527916-...
http://noto-folktales.blog.so-net.ne.jp/archive/c2300528792-...
舳蔵島の龍宮伝説 [奥能登・舳蔵島の民話・伝説]
http://noto-folktales.blog.so-net.ne.jp/archive/c2300527916-...
横浦島散策・・・
http://blog.goo.ne.jp/221414/e/cf96f6e6bfd9c82dda571...
[平家落人海道] 天草海道 冬フェスタ
http://amakusa-kaido.jp/daikaido/58...
http://blog.goo.ne.jp/221414/e/cf96f6e6bfd9c82dda571...
[平家落人海道] 天草海道 冬フェスタ
http://amakusa-kaido.jp/daikaido/58...
上野島(こうずけじま)の伝説
上野島は栃木県日光市の中禅寺湖に浮かぶ無人島だ。
しかしながら海上保安庁が定める『周囲100m以上を島とする』という定義を満たしていないため、日本の島数6852には含まれていない。
とはいえ中禅寺湖は景勝地として訪れる人も多く、そこに唯一の小島である上野島の名は広く知れ渡っている。
上野島は日光連山を中心にした山岳信仰の開祖、勝道上人の墓所の1つといわれており、島内には宝篋印塔や、勝道上人首骨納塔、
慈眼大師(天海)の墓石などがあり、不定期ながら霊跡を巡拝する遊覧船もある。
昔、下野の国(栃木県)男体の神と上野の国(群馬県)の赤城山の神が領地を争った。
男体山の神は大蛇(オロチ)、赤城の神は百足(ムカデ)に化身して戦った。
そこから戦場ヶ原 の名が付けられたが、戦いの流血で原一面が赤く染められたので一名赤沼ヶ原とも呼ばれるようになった。
その戦いの兵糧を積んで置いた所が戦場ヶ原唯一の丘(糠塚)であり、和議を結んだのが勝負が浜(菖蒲が浜)で、
男体の神が勝利の唄を歌ったのが歌ヶ浜(立木観音)であり記念に残されたのが、この上野島である。
日光讃歌(24)中禅寺湖 「上野島」
http://orimasa2009.seesaa.net/article/309984351.htm...
上野島は栃木県日光市の中禅寺湖に浮かぶ無人島だ。
しかしながら海上保安庁が定める『周囲100m以上を島とする』という定義を満たしていないため、日本の島数6852には含まれていない。
とはいえ中禅寺湖は景勝地として訪れる人も多く、そこに唯一の小島である上野島の名は広く知れ渡っている。
上野島は日光連山を中心にした山岳信仰の開祖、勝道上人の墓所の1つといわれており、島内には宝篋印塔や、勝道上人首骨納塔、
慈眼大師(天海)の墓石などがあり、不定期ながら霊跡を巡拝する遊覧船もある。
昔、下野の国(栃木県)男体の神と上野の国(群馬県)の赤城山の神が領地を争った。
男体山の神は大蛇(オロチ)、赤城の神は百足(ムカデ)に化身して戦った。
そこから戦場ヶ原 の名が付けられたが、戦いの流血で原一面が赤く染められたので一名赤沼ヶ原とも呼ばれるようになった。
その戦いの兵糧を積んで置いた所が戦場ヶ原唯一の丘(糠塚)であり、和議を結んだのが勝負が浜(菖蒲が浜)で、
男体の神が勝利の唄を歌ったのが歌ヶ浜(立木観音)であり記念に残されたのが、この上野島である。
日光讃歌(24)中禅寺湖 「上野島」
http://orimasa2009.seesaa.net/article/309984351.htm...
路傍の昆虫記: 南九州の虫たちを追いかけて (黒毛島)
http://books.google.co.jp/books?id=dDrBeOM7HMoC&pg=PA115...
%E3%83%90%E3%83%83%E3%82%BF&source=bl&ots=OGg5-uV-
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「奴らを追い払うには、これしかない!」 杓島(しゃくじま)
>>286と同様に船幽霊伝説を、も1ついかが?
倉敷市児島通生の杓島にも類似の伝説が残っているのだ。こちらは話の背景に源平合戦があり、なんだかオドロオドロしい。
……今から800年ほど昔。1183(寿永2)年の源平水島合戦で海原を朱で染めるほどの血が流れ、
瀬戸内の水島灘には幾千もの鎧武者の屍が波間を漂い、やがて海中に没していった。
それから数100年が時が流れた……。
晩秋の静かな夜、水島灘を一隻の千石船が通りかかろうとしていた。潮は穏やかに凪いでいた。
上水島と下水島の間の名もなき島がいくつか連なる場所にさしかかったとき、突然舵が利かなくなったと思ったら、
どころからともなく「杓を貸せ……杓を貸せい……」と、不気味なうめき声が聞こえてきた。
若い舵取りと年老いた船子が船板に耳を付けてみると、どうやらうめき声は船底から響いてくるようだ。
何ごとかと甲板へ上がってきた他の船子たちも、気味の悪い声を耳にして誰もが怯える始末。
なおも「杓を貸せ……柄杓だ……」と恨めしげに続くものだから、「そんなに欲しいのならくれてやる!」と、
若い舵取りが杓を海に投げようとした。
「よせ! 奴らに杓を与えてはならん! 杓で船を沈められる言い伝えを知らんのか!」年老いた船子が舵取りから杓を取り上げようとしたが、
揉み合いになった拍子に杓が海に落ちてしまう。
その杓を海の底から白い腕がにゅっと伸びてきてつかむと一度、水の中に沈んだ。
すると海面のあちこちから、まるで分裂したかのように同じ形の杓を手にした白い腕が海藻のようにクネクネと伸びてきて群がった。
無数の腕は杓で海水を汲み上げ、伸び縮みしながら船の中にこぼした。
1本の腕だけが汲み上げる水の量はたかだか知れていたが、それが何百となると訳が違う。
無数の柄杓で何度も海水をすくい、滝のように水を注ぎ込む。たちまち船は水かさが増えていき、ゆっくり沈み始めた。
船子たちは途方に暮れ、どうすることもできない。中には恐怖でへたり込み、経文を唱える者もいた。
「奴らを追い払うには、これしかない!」と、年老いた船子が言うと、杓を手に取り底をくり抜いた。すかさずそれを海に放り投げた。
「気でも違ったか、爺。底の抜けた杓なぞ、なんになろう」と、若い舵取り。
「見るがいい」
底の抜けた杓をつかんだ白い腕が水中に消え、またぞろ分裂し姿を現わしたはいいが、これでは海水をすくい上げることができない。
白い腕はあきらめたかの様子で、次々と海中に沈み消えていく。
源平合戦で死んだ者たちはいまだに成仏できないのだろう。真水を欲して船に声をかけていたのだ。やり方がいささか婉曲的であったが。
船子たちはこれからこの海域を通るときは供養のための真水を一杯海へ注いでやろうと話し合った。
以来、その海に浮かぶ島の1つを杓島と呼ぶようになった。
舟幽霊
http://kurashikibunka.blog106.fc2.com/blog-date-20090127.htm...
柄杓島の伝説
http://www.geocities.co.jp/HeartLand-Momiji/4698/newpage8...
まんが日本昔ばなし 杓島
http://www.dailymotion.com/video/xqy9v8_mnmb-yy_creatio...
>>286と同様に船幽霊伝説を、も1ついかが?
倉敷市児島通生の杓島にも類似の伝説が残っているのだ。こちらは話の背景に源平合戦があり、なんだかオドロオドロしい。
……今から800年ほど昔。1183(寿永2)年の源平水島合戦で海原を朱で染めるほどの血が流れ、
瀬戸内の水島灘には幾千もの鎧武者の屍が波間を漂い、やがて海中に没していった。
それから数100年が時が流れた……。
晩秋の静かな夜、水島灘を一隻の千石船が通りかかろうとしていた。潮は穏やかに凪いでいた。
上水島と下水島の間の名もなき島がいくつか連なる場所にさしかかったとき、突然舵が利かなくなったと思ったら、
どころからともなく「杓を貸せ……杓を貸せい……」と、不気味なうめき声が聞こえてきた。
若い舵取りと年老いた船子が船板に耳を付けてみると、どうやらうめき声は船底から響いてくるようだ。
何ごとかと甲板へ上がってきた他の船子たちも、気味の悪い声を耳にして誰もが怯える始末。
なおも「杓を貸せ……柄杓だ……」と恨めしげに続くものだから、「そんなに欲しいのならくれてやる!」と、
若い舵取りが杓を海に投げようとした。
「よせ! 奴らに杓を与えてはならん! 杓で船を沈められる言い伝えを知らんのか!」年老いた船子が舵取りから杓を取り上げようとしたが、
揉み合いになった拍子に杓が海に落ちてしまう。
その杓を海の底から白い腕がにゅっと伸びてきてつかむと一度、水の中に沈んだ。
すると海面のあちこちから、まるで分裂したかのように同じ形の杓を手にした白い腕が海藻のようにクネクネと伸びてきて群がった。
無数の腕は杓で海水を汲み上げ、伸び縮みしながら船の中にこぼした。
1本の腕だけが汲み上げる水の量はたかだか知れていたが、それが何百となると訳が違う。
無数の柄杓で何度も海水をすくい、滝のように水を注ぎ込む。たちまち船は水かさが増えていき、ゆっくり沈み始めた。
船子たちは途方に暮れ、どうすることもできない。中には恐怖でへたり込み、経文を唱える者もいた。
「奴らを追い払うには、これしかない!」と、年老いた船子が言うと、杓を手に取り底をくり抜いた。すかさずそれを海に放り投げた。
「気でも違ったか、爺。底の抜けた杓なぞ、なんになろう」と、若い舵取り。
「見るがいい」
底の抜けた杓をつかんだ白い腕が水中に消え、またぞろ分裂し姿を現わしたはいいが、これでは海水をすくい上げることができない。
白い腕はあきらめたかの様子で、次々と海中に沈み消えていく。
源平合戦で死んだ者たちはいまだに成仏できないのだろう。真水を欲して船に声をかけていたのだ。やり方がいささか婉曲的であったが。
船子たちはこれからこの海域を通るときは供養のための真水を一杯海へ注いでやろうと話し合った。
以来、その海に浮かぶ島の1つを杓島と呼ぶようになった。
舟幽霊
http://kurashikibunka.blog106.fc2.com/blog-date-20090127.htm...
柄杓島の伝説
http://www.geocities.co.jp/HeartLand-Momiji/4698/newpage8...
まんが日本昔ばなし 杓島
http://www.dailymotion.com/video/xqy9v8_mnmb-yy_creatio...
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謎の怪音がこだまする……虚空太鼓伝説 周防大島(すおうおおしま)
山口県大島郡周防大島町に属する周防大島。国土地理院が定める正式名では屋代島と称するが、
周防国の大島であったことから単独で周防大島(または単に『大島』)と呼ばれることが多いほか、
周防大島諸島周辺の小島も含めて呼ぶこともある。
古くから瀬戸内海海上交通の要衝とされ、万葉集にもこの島を詠んだ歌があるほどである。
島には虚空太鼓(こくうだいこ)という怪異な現象が起きると伝えられている。
毎年6月ごろになると、どこからともなく太鼓のような音が聞こえてくるという奇妙なものだそうだ。
これは、かつて芸人一座を乗せた船が時化に遭い、太鼓を鳴らして助けを呼びつつ海に没したことがあり、
以来その季節になるとその太鼓の音が海から鳴り出すのだと信じられている。
動画は水前寺清子の歌『虚空太鼓』。そのものズバリのタイトルである。作詞である星野哲郎氏はまさに周防大島出身。
蛇足ながら歌詞を載せておく。この伝説を歌にするとは、なかなかマニアックだなあ……。
「瀬戸の島々 ほのぼの暮れて かもめとろとろ夢見ごろ どこからともなく聞こえくる 虚空太鼓の撥(ばち)の音は
浮かれはじめは面白く やがて悲しい人の世の 夏の花火に似たさだめ 諸行無常と 鳴りわたる
若い命を鳴門の渦に 捨てた一座の物語 宮島祭が近づけば 虚空太鼓に思い出す 西へ響いて母を呼び 北へ戻って父を呼び
波に消えゆく踊り子の 赤い小袖が 目に浮かぶ」
妖怪邸妖堂日記帳 とりあえず、虚空太鼓
http://youkaitama.seesaa.net/article/217564302.htm...
白狼山求道丸について(2)・虚空太鼓
http://ewigleere-memorium.jimdo.com/2013/01/13/%E7%99%BD%E7%8B%BC%...
%E3%81%A4%E3%81%84%E3%81%A6-%EF%BC%92-%E8%99%9A%E7%A9%BA%E5%A4%AA%E9%BC%93/
謎の怪音がこだまする……虚空太鼓伝説 周防大島(すおうおおしま)
山口県大島郡周防大島町に属する周防大島。国土地理院が定める正式名では屋代島と称するが、
周防国の大島であったことから単独で周防大島(または単に『大島』)と呼ばれることが多いほか、
周防大島諸島周辺の小島も含めて呼ぶこともある。
古くから瀬戸内海海上交通の要衝とされ、万葉集にもこの島を詠んだ歌があるほどである。
島には虚空太鼓(こくうだいこ)という怪異な現象が起きると伝えられている。
毎年6月ごろになると、どこからともなく太鼓のような音が聞こえてくるという奇妙なものだそうだ。
これは、かつて芸人一座を乗せた船が時化に遭い、太鼓を鳴らして助けを呼びつつ海に没したことがあり、
以来その季節になるとその太鼓の音が海から鳴り出すのだと信じられている。
動画は水前寺清子の歌『虚空太鼓』。そのものズバリのタイトルである。作詞である星野哲郎氏はまさに周防大島出身。
蛇足ながら歌詞を載せておく。この伝説を歌にするとは、なかなかマニアックだなあ……。
「瀬戸の島々 ほのぼの暮れて かもめとろとろ夢見ごろ どこからともなく聞こえくる 虚空太鼓の撥(ばち)の音は
浮かれはじめは面白く やがて悲しい人の世の 夏の花火に似たさだめ 諸行無常と 鳴りわたる
若い命を鳴門の渦に 捨てた一座の物語 宮島祭が近づけば 虚空太鼓に思い出す 西へ響いて母を呼び 北へ戻って父を呼び
波に消えゆく踊り子の 赤い小袖が 目に浮かぶ」
妖怪邸妖堂日記帳 とりあえず、虚空太鼓
http://youkaitama.seesaa.net/article/217564302.htm...
白狼山求道丸について(2)・虚空太鼓
http://ewigleere-memorium.jimdo.com/2013/01/13/%E7%99%BD%E7%8B%BC%...
%E3%81%A4%E3%81%84%E3%81%A6-%EF%BC%92-%E8%99%9A%E7%A9%BA%E5%A4%AA%E9%BC%93/
今日のニュース『駒大の男女2人死亡…水温5度の野尻湖で水遊び』のTVの映像見てたら島が映ったので、さっそくチェック。
で、こんなん出ましたけど。
樅ヶ崎=上水内郡信濃町大字野尻(長野県)はるかから歴史もみてきたか妙高山 [岬めぐり] 野尻湖・琵琶島
http://dendenmushimushi.blog.so-net.ne.jp/2010-06-1...
で、こんなん出ましたけど。
樅ヶ崎=上水内郡信濃町大字野尻(長野県)はるかから歴史もみてきたか妙高山 [岬めぐり] 野尻湖・琵琶島
http://dendenmushimushi.blog.so-net.ne.jp/2010-06-1...
【特別企画】浦島太郎伝説〜補陀落渡海に見える理想郷とは 1
ゴールデンウィーク最終日にして特別企画をお送りする。本当はだいぶ前から温めていたネタだったが、なかなかうまくまとまらず、
今日まで長引いてしまった。
昔話の定番の1つである『浦島太郎』。この物語にまつわる地域は多い。
京都府与謝郡伊根町をはじめ、香川県三豊市(旧三豊郡詫間町)、広島県尾道市、愛知県武豊町、鹿児島県(長崎鼻、喜界島など)、沖縄、
神奈川県横浜市、長野県上松市……など、離島に限らず市まで及び、とにかく枚挙に暇がない。微妙に話の筋が異なるバージョンもあるのだが、
基本的なプロットはみな一緒である。その数、なんと全国40か所にも及ぶというから驚きである。
今さら『浦島太郎』の話の内容をここに書き連ねることもあるまい。
ただ、『桃太郎』や『鶴の恩返し』『金太郎』の定番モノとは結末が異質であることは誰もがお気づきかと思われる。
このような後味悪い(少なくともカタルシスは得られず、ビターな余韻が残ると言ってもよい)締めくくり方の寓話はめずらしくないにせよ、
賢明なる読者諸兄ならば『浦島太郎』に様々なメタファーが隠されているのが汲み取れよう。
『亀』は何の象徴なのか? そもそも竜などいもしないのになぜ『竜宮城』なのか? なぜ海中にある設定なのか?
玉手箱を開けると、なぜ浦島太郎はたちまち年をとってしまったのか?
ここでは『竜宮城』が何を示唆するのか、焦点を当ててみたい。やや島ネタから脱線するかもしれないので何卒ご寛恕のほどを。
では、いざ長文失礼つかまつる。
浦島の話は、8世紀の文献である『日本書紀』や『丹後国風土記』の逸文に登場するのが最古とされている。
『浦島太郎』は『浦嶋子』、『竜宮城』は『蓬莱山(とこよのくに)』、『玉手箱』は『玉匣(たまくしげ=化粧箱)』と呼ばれているが、
『丹後国風土記』の逸文に記されるあらすじは、現在に伝わる浦島伝説とほぼ同義である。
とはいえ浦嶋子が亀を助けた冒頭部がないことや、乙姫様が亀の化身であり、しかも『亀姫』と呼ばれていたこと、
玉匣を開けると浦嶋子が鶴となって浜から飛び去るなど、いくつか相違点もある。
さらには8世紀に書かれた浦島伝説は、7世紀末の日本の文人、伊預部馬養による創作と考える人がいる一方、実在の人物の実体験に基づく伝説だと
主張する人もいる。それがこんな話だ。
2000年9月に放送されたフジテレビの『奇跡体験!アンビリーバボー』によると、浦島太郎は日本から南東へ3700km離れたミクロネシアの
ポナペ島に潮流で漂着して、そこから帰還した漁師の体験談であるとする説を放送した。
番組によれば、ポナペ島南東の海底に『聖なる都市』という意味の『カーニムエイソ』という海域があり、そこは強烈な磁気のせいで時間の感覚が
なくなってしまうという。
この磁場を取り囲むように、高さ5mほどの丸い石柱19本が海底に建てられており、まるで海底都市の遺跡ような外観を呈している。
奇しくもこの地域には、次のような伝説が残されているのだ。
『昔、ある男が、海を泳いでいると亀に出会い、泳いでついて行くとカーニムエイソの海底都市を発見。
彼は、カーニムエイソでの体験を絶対話してはいけないと言われたにもかかわらず、地上に戻るとまわりの人たちに喋ってしまった。
すると次の瞬間、男は死んでしまった……』
ゴールデンウィーク最終日にして特別企画をお送りする。本当はだいぶ前から温めていたネタだったが、なかなかうまくまとまらず、
今日まで長引いてしまった。
昔話の定番の1つである『浦島太郎』。この物語にまつわる地域は多い。
京都府与謝郡伊根町をはじめ、香川県三豊市(旧三豊郡詫間町)、広島県尾道市、愛知県武豊町、鹿児島県(長崎鼻、喜界島など)、沖縄、
神奈川県横浜市、長野県上松市……など、離島に限らず市まで及び、とにかく枚挙に暇がない。微妙に話の筋が異なるバージョンもあるのだが、
基本的なプロットはみな一緒である。その数、なんと全国40か所にも及ぶというから驚きである。
今さら『浦島太郎』の話の内容をここに書き連ねることもあるまい。
ただ、『桃太郎』や『鶴の恩返し』『金太郎』の定番モノとは結末が異質であることは誰もがお気づきかと思われる。
このような後味悪い(少なくともカタルシスは得られず、ビターな余韻が残ると言ってもよい)締めくくり方の寓話はめずらしくないにせよ、
賢明なる読者諸兄ならば『浦島太郎』に様々なメタファーが隠されているのが汲み取れよう。
『亀』は何の象徴なのか? そもそも竜などいもしないのになぜ『竜宮城』なのか? なぜ海中にある設定なのか?
玉手箱を開けると、なぜ浦島太郎はたちまち年をとってしまったのか?
ここでは『竜宮城』が何を示唆するのか、焦点を当ててみたい。やや島ネタから脱線するかもしれないので何卒ご寛恕のほどを。
では、いざ長文失礼つかまつる。
浦島の話は、8世紀の文献である『日本書紀』や『丹後国風土記』の逸文に登場するのが最古とされている。
『浦島太郎』は『浦嶋子』、『竜宮城』は『蓬莱山(とこよのくに)』、『玉手箱』は『玉匣(たまくしげ=化粧箱)』と呼ばれているが、
『丹後国風土記』の逸文に記されるあらすじは、現在に伝わる浦島伝説とほぼ同義である。
とはいえ浦嶋子が亀を助けた冒頭部がないことや、乙姫様が亀の化身であり、しかも『亀姫』と呼ばれていたこと、
玉匣を開けると浦嶋子が鶴となって浜から飛び去るなど、いくつか相違点もある。
さらには8世紀に書かれた浦島伝説は、7世紀末の日本の文人、伊預部馬養による創作と考える人がいる一方、実在の人物の実体験に基づく伝説だと
主張する人もいる。それがこんな話だ。
2000年9月に放送されたフジテレビの『奇跡体験!アンビリーバボー』によると、浦島太郎は日本から南東へ3700km離れたミクロネシアの
ポナペ島に潮流で漂着して、そこから帰還した漁師の体験談であるとする説を放送した。
番組によれば、ポナペ島南東の海底に『聖なる都市』という意味の『カーニムエイソ』という海域があり、そこは強烈な磁気のせいで時間の感覚が
なくなってしまうという。
この磁場を取り囲むように、高さ5mほどの丸い石柱19本が海底に建てられており、まるで海底都市の遺跡ような外観を呈している。
奇しくもこの地域には、次のような伝説が残されているのだ。
『昔、ある男が、海を泳いでいると亀に出会い、泳いでついて行くとカーニムエイソの海底都市を発見。
彼は、カーニムエイソでの体験を絶対話してはいけないと言われたにもかかわらず、地上に戻るとまわりの人たちに喋ってしまった。
すると次の瞬間、男は死んでしまった……』
【特別企画】浦島太郎伝説〜補陀落渡海に見える理想郷とは 2
……秘密を口外したことは、玉手箱を開けてしまったことと同義であろう。
浦島太郎がミクロネシアの島に漂着したとすれば、現地人となる通過儀礼を受けたのかもしれない。
島国では外種を欲する種族本能があり(近親交配は種を停滞、もしくは劣性遺伝子の発現を伴うため)、アウトサイダーである浦島太郎は
濃密な歓待でもてなされ、神のように崇められたとも考えられる。やがて首長の娘と結婚したとも考えるのは飛躍的だろうか。
もっともポナペ島は日本から遠すぎて、『丹後国風土記』の逸文が示すように、とても3日では漂着できないから物理的に無理があるらしいが。
一方、日本にもっと近いところでは、琉球諸島が伝説発祥の地とする説が自然なようだ。
竜宮城は宮殿のイメージから首里城(沖縄県那覇市)を指し、『竜宮』は『琉球』のなまりから来ているのではないかと言われている。
話を混乱させて悪いが、ポリネシアの古語に『LILUKU』という言葉があるそうだ。LIUは『長期滞在』、KUは『島』を指す。
反対に竜宮は『りゅうく』とも読める。Liuku(リュウク)が本来の音だろう。すなわち『琉球』だと解釈できる。
そして1995年には、竜宮城にふさわしい海底遺跡が与那国島近海で発見された。そういうわけで、竜宮城の在り処は推して知るべしだ。
……ところで、17世紀中ごろから沖縄県の八重山諸島にある波照間島の島民は、琉球政府による重い人頭税制度に苦しめられ、
泣く泣く>>23>>24の与那国島におけるクブラバリや人舛田のような、目も覆わんばかりの口減らしを余儀なくされたと書いた。
過酷な人頭税に苦しめられた島民は島から逃げ出したい一心で、はるか南方洋上の楽園への脱出を夢見たというのだ。
それが『南波照間島』(パイ・パティローマ)だった。八重山の言葉で『パイ』とは『南』を、『パティローマ』は『波照間』を意味する。
伝承では、島の西のはずれにある屋古村(やぐむら)のアカマリという男が中心になり、村人40〜50人を率い、マーラン船(王府の運搬船)を奪って
南の海へ脱出したと伝えられている。
琉球国は明治になって沖縄県となったが、 明治25年1月、島の人たちから「南波照間島へ行った屋古村の者たちに会ってみたい」と、
言われた県知事は海軍省に依頼。その島を探してもらうことにした。ところが海軍省は、沖縄から東南アジアに到る海をくまなく調査したものの、
島を見つけることはできなかった。なぜならば、その島は地図上には存在しない夢想の理想郷にすぎなかったからだ。
とはいえ今でも島の古老たちは、自分たちの住む波照間島の南の彼方に、 同胞たちが平和に暮らしていると信じているそうだ。
とすれば、お次は『ニライカナイ』の出番である。
当スレ『怖い島・いわくつきの村・総合』を続けていくにあたり、ニライカナイは切っても切れない要素であると思う。
何度も言ってきたが、ニライカナイの『ニライ』とは、『根の国、底の国』という意味であり、『カナイ』は空の上のところだと言われている。
根の国、底の国から転じて、海のかなりの楽土、奥底の知れない遠い神の国を指す。
つまり、現世の人間が憧れてやまない理想郷と端的に言い切っても差し支えあるまい。
……秘密を口外したことは、玉手箱を開けてしまったことと同義であろう。
浦島太郎がミクロネシアの島に漂着したとすれば、現地人となる通過儀礼を受けたのかもしれない。
島国では外種を欲する種族本能があり(近親交配は種を停滞、もしくは劣性遺伝子の発現を伴うため)、アウトサイダーである浦島太郎は
濃密な歓待でもてなされ、神のように崇められたとも考えられる。やがて首長の娘と結婚したとも考えるのは飛躍的だろうか。
もっともポナペ島は日本から遠すぎて、『丹後国風土記』の逸文が示すように、とても3日では漂着できないから物理的に無理があるらしいが。
一方、日本にもっと近いところでは、琉球諸島が伝説発祥の地とする説が自然なようだ。
竜宮城は宮殿のイメージから首里城(沖縄県那覇市)を指し、『竜宮』は『琉球』のなまりから来ているのではないかと言われている。
話を混乱させて悪いが、ポリネシアの古語に『LILUKU』という言葉があるそうだ。LIUは『長期滞在』、KUは『島』を指す。
反対に竜宮は『りゅうく』とも読める。Liuku(リュウク)が本来の音だろう。すなわち『琉球』だと解釈できる。
そして1995年には、竜宮城にふさわしい海底遺跡が与那国島近海で発見された。そういうわけで、竜宮城の在り処は推して知るべしだ。
……ところで、17世紀中ごろから沖縄県の八重山諸島にある波照間島の島民は、琉球政府による重い人頭税制度に苦しめられ、
泣く泣く>>23>>24の与那国島におけるクブラバリや人舛田のような、目も覆わんばかりの口減らしを余儀なくされたと書いた。
過酷な人頭税に苦しめられた島民は島から逃げ出したい一心で、はるか南方洋上の楽園への脱出を夢見たというのだ。
それが『南波照間島』(パイ・パティローマ)だった。八重山の言葉で『パイ』とは『南』を、『パティローマ』は『波照間』を意味する。
伝承では、島の西のはずれにある屋古村(やぐむら)のアカマリという男が中心になり、村人40〜50人を率い、マーラン船(王府の運搬船)を奪って
南の海へ脱出したと伝えられている。
琉球国は明治になって沖縄県となったが、 明治25年1月、島の人たちから「南波照間島へ行った屋古村の者たちに会ってみたい」と、
言われた県知事は海軍省に依頼。その島を探してもらうことにした。ところが海軍省は、沖縄から東南アジアに到る海をくまなく調査したものの、
島を見つけることはできなかった。なぜならば、その島は地図上には存在しない夢想の理想郷にすぎなかったからだ。
とはいえ今でも島の古老たちは、自分たちの住む波照間島の南の彼方に、 同胞たちが平和に暮らしていると信じているそうだ。
とすれば、お次は『ニライカナイ』の出番である。
当スレ『怖い島・いわくつきの村・総合』を続けていくにあたり、ニライカナイは切っても切れない要素であると思う。
何度も言ってきたが、ニライカナイの『ニライ』とは、『根の国、底の国』という意味であり、『カナイ』は空の上のところだと言われている。
根の国、底の国から転じて、海のかなりの楽土、奥底の知れない遠い神の国を指す。
つまり、現世の人間が憧れてやまない理想郷と端的に言い切っても差し支えあるまい。
【特別企画】浦島太郎伝説〜補陀落渡海に見える理想郷とは 3
話変わるが、>>73>>186>>200で取り上げた補陀落渡海について舞い戻る。
遅まきながら先日、>>207で紹介した根井教授の著書『観音浄土船出した人々』を読んでみた。興味深い記述があったので紹介しよう。
引用部分にはアンカーをつける。カッコをして※印があるのはわかりづらい表現を補足してみた。
天正遣欧使節団の発案者であり、活字印刷機によるキリシタン版を開始したとしてバリニャーノなる人物がいる。
そのバリニャーノ氏が1583年に著した『日本諸事要録』の第3章に、「日本人と宗教と諸宗派」と題した以下の一節がある。
『補陀落渡海』の現場を目撃した外国人の率直な意見であろう。
>彼ら(日本人)は多くの迷信を有している。彼らのなかには、あるいは聖人の名称を得るため、
>あるいは彼らが空想している天国へ行くために、大げさな儀式によって生きたまま海中に身を投じて溺死する者もいるし、
>また生きたまま地中に埋葬される者もいる。
また、かのルイス・フロイスもまた、補陀落渡海の現場を目の当たりにしている。
フロイスは『日本史』総論第18章に「仏僧らが行う補陀落、および彼らが悪魔に奉献するその他の流儀について」と題する1章を書いていた。
この書簡でもっとも注目に値するのは、「1565年2月20日付・都発・中国印度のイルマン等宛・フロイス書簡」である。
ここでは伊予国(現在の愛媛県)堀江で行われた補陀落渡海を報告している。
話変わるが、>>73>>186>>200で取り上げた補陀落渡海について舞い戻る。
遅まきながら先日、>>207で紹介した根井教授の著書『観音浄土船出した人々』を読んでみた。興味深い記述があったので紹介しよう。
引用部分にはアンカーをつける。カッコをして※印があるのはわかりづらい表現を補足してみた。
天正遣欧使節団の発案者であり、活字印刷機によるキリシタン版を開始したとしてバリニャーノなる人物がいる。
そのバリニャーノ氏が1583年に著した『日本諸事要録』の第3章に、「日本人と宗教と諸宗派」と題した以下の一節がある。
『補陀落渡海』の現場を目撃した外国人の率直な意見であろう。
>彼ら(日本人)は多くの迷信を有している。彼らのなかには、あるいは聖人の名称を得るため、
>あるいは彼らが空想している天国へ行くために、大げさな儀式によって生きたまま海中に身を投じて溺死する者もいるし、
>また生きたまま地中に埋葬される者もいる。
また、かのルイス・フロイスもまた、補陀落渡海の現場を目の当たりにしている。
フロイスは『日本史』総論第18章に「仏僧らが行う補陀落、および彼らが悪魔に奉献するその他の流儀について」と題する1章を書いていた。
この書簡でもっとも注目に値するのは、「1565年2月20日付・都発・中国印度のイルマン等宛・フロイス書簡」である。
ここでは伊予国(現在の愛媛県)堀江で行われた補陀落渡海を報告している。
【特別企画】浦島太郎伝説〜補陀落渡海に見える理想郷とは 4
>1564年12月、都で伝道していたビレラを支援するため、フロイスがアルメイダを伴って豊後を出発し、
>伊予灘を渡って同年28日に伊予国堀江に到着した前後の状況を報告したものである。永禄7年のことであった。
>驚くことに堀江でも補陀落渡海が行われていた。堀江とは現在の愛媛県松山市の北、堀江である。
>伊予国堀江で行われた補陀落渡海は、男性6人と女性2人の集団入水であった。
>彼らは数日前から街々を歩いて喜捨(※惜しむ心なく、喜んで財物を施捨すること)を求め、阿弥陀の西方浄土に往生することを待ちきれず、
>より間近に現存すると認識されていた補陀落浄土での再生を求めたのだという。
>実行にあたり、彼らは人々から受けた金銭を袖に入れ、多くの人々に見送られ、新しい1艘の船に乗り込んで海岸を出た。
>彼らの身体には、顎、腕、足に大きい石が縛りつけられていたという。船出にあたっては歓声に包まれた状況であっただろうし、
>肉親や友人の別離の涙があふれたことであろう。やがて彼らは沖合に押し進み、ここで別船に乗っていた親者や友人と決別することになる。
>そして彼らはさらに沖合に出て、1人1人深い海に投身したのである。
>追従していた人々は、ただちに補陀落渡海船に火をつけた。そして海岸に接して記念の小堂を建てたという。
>堂には、小さな棒に紙の木旗をつけて屋上に立て、各人のため1本の柱を建て、これに多くの文字を記したとあることから、
>日本の葬送儀礼に見られる天蓋・四本幡・五色幡がかけられ、塔婆が建てられたのであろう。
>さらに松を植え(※『待つ』に転じることから)、堂内では渡海した彼らを供養するために読経を行い、
>その後も人々は常にこの堂に参拝するのだという。
>まさに騒然たるできごとであったろう。フロイスはこのような堀江における補陀落渡海を聞きつけ、1565年に書簡をしたため、
>京の都からイエズス会の同志に送ったのである。フロイスは書簡の末尾に海中に身を投げた者の中に、
>長い鎌を手に携えた者(※『通路』を妨げる密林の木を斬るためとされる)があり、また自分から入水するのではなく、
>船に大きな穴を穿ち、この栓を抜いて船もろともに海底に沈む方法があると付け加えている。
>船には薪が積まれていたという。入水のあとに船は燃やされた。同行者は船を漕いで苦行者を海の沖合に導いた。
>そして苦行者は袖や懐に石を抱き、また石を入れた袋を肩にかけ、仏名を唱えて海に飛び込み、海底の藻屑となったのである。
>苦行者が身に付けた石とは経典を書いた『経石』と推断できる。そこで同行者は別の船に乗り移って渡海船に火を放った。
>目の前で行われたこの宗教的自殺には、諸方から多数の人々が見物に集まっていた。そうした1人として90歳、
>また80歳になる老人が前日に信心を起こし、苦行者と同伴して一緒に入水した。感極まった行動に出たのである。
>彼らは「神々の作った文字を一面に書いた紙の白衣」を着ていたというから、経文が書かれた帷子を着ていたのである。
>1564年12月、都で伝道していたビレラを支援するため、フロイスがアルメイダを伴って豊後を出発し、
>伊予灘を渡って同年28日に伊予国堀江に到着した前後の状況を報告したものである。永禄7年のことであった。
>驚くことに堀江でも補陀落渡海が行われていた。堀江とは現在の愛媛県松山市の北、堀江である。
>伊予国堀江で行われた補陀落渡海は、男性6人と女性2人の集団入水であった。
>彼らは数日前から街々を歩いて喜捨(※惜しむ心なく、喜んで財物を施捨すること)を求め、阿弥陀の西方浄土に往生することを待ちきれず、
>より間近に現存すると認識されていた補陀落浄土での再生を求めたのだという。
>実行にあたり、彼らは人々から受けた金銭を袖に入れ、多くの人々に見送られ、新しい1艘の船に乗り込んで海岸を出た。
>彼らの身体には、顎、腕、足に大きい石が縛りつけられていたという。船出にあたっては歓声に包まれた状況であっただろうし、
>肉親や友人の別離の涙があふれたことであろう。やがて彼らは沖合に押し進み、ここで別船に乗っていた親者や友人と決別することになる。
>そして彼らはさらに沖合に出て、1人1人深い海に投身したのである。
>追従していた人々は、ただちに補陀落渡海船に火をつけた。そして海岸に接して記念の小堂を建てたという。
>堂には、小さな棒に紙の木旗をつけて屋上に立て、各人のため1本の柱を建て、これに多くの文字を記したとあることから、
>日本の葬送儀礼に見られる天蓋・四本幡・五色幡がかけられ、塔婆が建てられたのであろう。
>さらに松を植え(※『待つ』に転じることから)、堂内では渡海した彼らを供養するために読経を行い、
>その後も人々は常にこの堂に参拝するのだという。
>まさに騒然たるできごとであったろう。フロイスはこのような堀江における補陀落渡海を聞きつけ、1565年に書簡をしたため、
>京の都からイエズス会の同志に送ったのである。フロイスは書簡の末尾に海中に身を投げた者の中に、
>長い鎌を手に携えた者(※『通路』を妨げる密林の木を斬るためとされる)があり、また自分から入水するのではなく、
>船に大きな穴を穿ち、この栓を抜いて船もろともに海底に沈む方法があると付け加えている。
>船には薪が積まれていたという。入水のあとに船は燃やされた。同行者は船を漕いで苦行者を海の沖合に導いた。
>そして苦行者は袖や懐に石を抱き、また石を入れた袋を肩にかけ、仏名を唱えて海に飛び込み、海底の藻屑となったのである。
>苦行者が身に付けた石とは経典を書いた『経石』と推断できる。そこで同行者は別の船に乗り移って渡海船に火を放った。
>目の前で行われたこの宗教的自殺には、諸方から多数の人々が見物に集まっていた。そうした1人として90歳、
>また80歳になる老人が前日に信心を起こし、苦行者と同伴して一緒に入水した。感極まった行動に出たのである。
>彼らは「神々の作った文字を一面に書いた紙の白衣」を着ていたというから、経文が書かれた帷子を着ていたのである。
【特別企画】浦島太郎伝説〜補陀落渡海に見える理想郷とは 5
……まさに壮絶のひと言に尽きる。
>>73では戸板で封印された渡海船が沖まで流され、漂流するがままと書いたが、文献によると後の時代では入水自殺的に海へ飛び込んだうえ、
無人となった船に火を放ち、船内に水を入れて海底に沈めるという念の入れようであった。
外国人から見た補陀落渡海の現場は、まさしくカルト教団として映ったとしても不思議ではあるまい。
先人たちは信仰の極北を目の当たりにして、さぞかし戦慄(と同時にドン引きしたかも)したことだろう。
それは現代を生きる我々とて同じことのはずだ。
やや趣旨が逸れた。軌道修正する。
声を大にして言いたいのは、渡海人が理想郷と目指した先は、はるか南海の果てや海底そのものだったことだ。
とすれば、まんざら先に述べた竜宮城が海底にあったという不思議な逸話は理解しがたいというほどでもない。
信者はメタファーではなく、心から海底の理想郷を目指したのか、あるいは理想郷へ行き着けると信じて自殺行為に走ったのか判然としないが、
いずれにせよ生きて帰ってくることはないことをわかったうえでの行動であった。
(それにしては松を植えて、渡海人が帰ってくるのを『待つ』というのは不自然なのだが)
くり返すが、常世は南方だと言われ、ニライカナイは遠い東(辰巳の方角)、あるいは地の底にあるとされている。
方角こそ違えど、はるか彼方に生きとし生けるものが憧れてやまない理想郷があると信じられてきた。
我々だって世知辛い社会生活に追われるとき、いつかは白い砂浜とエメラルドグリーンの海が広がる楽園のような離島でのんびり暮らしたいと
現実逃避するのだから、まんざらわからない話でもない。
ちなみに、同著書はこう結んでいる。
>補陀落渡海は日本特有の宗教現象であった。日本人の「この国」からの脱出であり、「この国」からの亡命でもあっただろう。
>どう考えても達成の見通しがない一種の宗教的自殺に等しい自死であったと人は言うだろう。
>その意味においては補陀落渡海は、日本社会に見られた常識を超えた狂騒的な宗教現象であったと言わざるを得ない。
>しかし、ここには強烈な『生』が裏打ちされていた。観音信仰の完結者として補陀落渡海を試みた人々は、
>むしろ捨て身の行為のなかに強い『生』への動機と意識を持っていた。彼らが乗った小さな屋形船は、周囲が釘で打ち付けられた脱出不可能な空間であり、
>日輪・月輪の微小の光さえ遮断された暗黒の箱である。足も自由に伸ばせないまま『渡海人』は膝を両手で抱え込んで身体を丸め、
>まるで赤ん坊が母親の胎内にいるような恰好であったであろう。でもその型は、やがて母親の胎内から飛び出すような『生』を表徴するものであった。
>人間の生涯を科学的にいえば、死に往く一生(往死の一生)であるが、それを現実的な生まれに往く一生(往生の一生)と切り替え、
>阿弥陀浄土の『西方往生』よりもいち早く観音浄土の『南方往生』を企てたのが補陀落渡海であった。
昔から海は生命の母とも言われてきた。
渡海人は狭い船内に胎児のように丸まった格好で船出し、母の子宮、すなわち竜宮の門を目指したのは胎内回帰だともとれよう。
ちなみに『海』という漢字を分解すれば、左の部首であるサンズイはもともと『水』を表し、『毎』は、髪飾りの付いた『母』であるというのは、
なかなか感慨深いものがある。
人は死ぬべくして生まれてくるが、畢竟、『命』は帰郷にこそ真理があるのかもしれない。
そして人の死は案外、そう悲しむべきものでもないはずだと信じたい。
……まさに壮絶のひと言に尽きる。
>>73では戸板で封印された渡海船が沖まで流され、漂流するがままと書いたが、文献によると後の時代では入水自殺的に海へ飛び込んだうえ、
無人となった船に火を放ち、船内に水を入れて海底に沈めるという念の入れようであった。
外国人から見た補陀落渡海の現場は、まさしくカルト教団として映ったとしても不思議ではあるまい。
先人たちは信仰の極北を目の当たりにして、さぞかし戦慄(と同時にドン引きしたかも)したことだろう。
それは現代を生きる我々とて同じことのはずだ。
やや趣旨が逸れた。軌道修正する。
声を大にして言いたいのは、渡海人が理想郷と目指した先は、はるか南海の果てや海底そのものだったことだ。
とすれば、まんざら先に述べた竜宮城が海底にあったという不思議な逸話は理解しがたいというほどでもない。
信者はメタファーではなく、心から海底の理想郷を目指したのか、あるいは理想郷へ行き着けると信じて自殺行為に走ったのか判然としないが、
いずれにせよ生きて帰ってくることはないことをわかったうえでの行動であった。
(それにしては松を植えて、渡海人が帰ってくるのを『待つ』というのは不自然なのだが)
くり返すが、常世は南方だと言われ、ニライカナイは遠い東(辰巳の方角)、あるいは地の底にあるとされている。
方角こそ違えど、はるか彼方に生きとし生けるものが憧れてやまない理想郷があると信じられてきた。
我々だって世知辛い社会生活に追われるとき、いつかは白い砂浜とエメラルドグリーンの海が広がる楽園のような離島でのんびり暮らしたいと
現実逃避するのだから、まんざらわからない話でもない。
ちなみに、同著書はこう結んでいる。
>補陀落渡海は日本特有の宗教現象であった。日本人の「この国」からの脱出であり、「この国」からの亡命でもあっただろう。
>どう考えても達成の見通しがない一種の宗教的自殺に等しい自死であったと人は言うだろう。
>その意味においては補陀落渡海は、日本社会に見られた常識を超えた狂騒的な宗教現象であったと言わざるを得ない。
>しかし、ここには強烈な『生』が裏打ちされていた。観音信仰の完結者として補陀落渡海を試みた人々は、
>むしろ捨て身の行為のなかに強い『生』への動機と意識を持っていた。彼らが乗った小さな屋形船は、周囲が釘で打ち付けられた脱出不可能な空間であり、
>日輪・月輪の微小の光さえ遮断された暗黒の箱である。足も自由に伸ばせないまま『渡海人』は膝を両手で抱え込んで身体を丸め、
>まるで赤ん坊が母親の胎内にいるような恰好であったであろう。でもその型は、やがて母親の胎内から飛び出すような『生』を表徴するものであった。
>人間の生涯を科学的にいえば、死に往く一生(往死の一生)であるが、それを現実的な生まれに往く一生(往生の一生)と切り替え、
>阿弥陀浄土の『西方往生』よりもいち早く観音浄土の『南方往生』を企てたのが補陀落渡海であった。
昔から海は生命の母とも言われてきた。
渡海人は狭い船内に胎児のように丸まった格好で船出し、母の子宮、すなわち竜宮の門を目指したのは胎内回帰だともとれよう。
ちなみに『海』という漢字を分解すれば、左の部首であるサンズイはもともと『水』を表し、『毎』は、髪飾りの付いた『母』であるというのは、
なかなか感慨深いものがある。
人は死ぬべくして生まれてくるが、畢竟、『命』は帰郷にこそ真理があるのかもしれない。
そして人の死は案外、そう悲しむべきものでもないはずだと信じたい。
伝説の扉 浦島太郎伝説
http://www.densetsu-tobira.com/urashima/index.htm...
見るなのタブー wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A6%8B%E3%82%8B%E3%81%...
桃太郎と浦島太郎〜なぜ浦島太郎はバッドエンドなのか〜
http://chaos2ch.com/archives/2632570.htm...
YAHOO!知恵袋 なぜ乙姫様は浦島太郎に玉手箱をあげたのですか?
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1449299224...
奇跡体験アンビリーバボー!100回記念スペシャル 浦島太郎伝説の真実 第一章 浦島伝説の真実
http://web.archive.org/web/20030818044056/http://www....
奇跡体験アンビリーバボー!100回記念スペシャル 第二章 語られることのない伝説
http://web.archive.org/web/20030822182705/http://www....
奇跡体験アンビリーバボー!100回記念スペシャル 浦島太郎伝説の真実 第三章 開けてはいけなかったもの
http://web.archive.org/web/20030822181836/http://www....
浦島伝説の謎を解く
http://www.systemicsarchive.com/ja/b/urashima...
戦国厭世の補陀落(ふだらく)渡海— 宣教師が見た堺港沖での集団自殺 —
http://toursakai.jp/igaishi/vol02.htm...
補陀洛に向って‥(2) - Ayiva
http://ayiva.sakura.ne.jp/doc/buddh/kannon/ps-tokai2.htm...
http://www.densetsu-tobira.com/urashima/index.htm...
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http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A6%8B%E3%82%8B%E3%81%...
桃太郎と浦島太郎〜なぜ浦島太郎はバッドエンドなのか〜
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浦島伝説の謎を解く
http://www.systemicsarchive.com/ja/b/urashima...
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http://ayiva.sakura.ne.jp/doc/buddh/kannon/ps-tokai2.htm...
青森県の最北端・無人島巡り……大魚島(おおよしま)
http://blog.goo.ne.jp/tabitomosensan/e/d19bf1b2d52f2...
大三島へ「義経の鎧が現存してる」こりゃ、行ってみにゃぁいけん。(しまなみ海道:愛媛県)
http://4travel.jp/domestic/area/shikoku/ehime/im...
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タコはスケベオヤジのメタファーか 日間賀島(ひまかじま)
日間賀島は三河湾に浮かぶ島で、知多半島寄りに位置し、愛知県知多郡南知多町に属する。
海産物が名産として名を馳せ、とりわけトラフグとタコは島の名物になっている。
日間賀島にはそんなタコにまつわる伝説が語り継がれている。それが『千代取り岩伝説』である。
豊浜墓所の海の千代取り岩についての物語だ。
その昔、須佐の荒磯松の近くの粗末な家に、千代という若い娘とその母が住んでいた。千代は評判の美人で知られ、村の若者たちの憧れの的だった。
春の引潮のとき、千代は沖の磯まで出かけて、日課である潮干狩りに精を出していた。
貝や海藻を拾うのに夢中になっていたとき、何かが足に絡みついた感触を憶えた。
足元を見れば大きなタコだった。浅瀬に取り残されたのであろうタコは、千代の脚を這いのぼり、たちまち白い太腿まで触腕を伸ばしてきた。
千代は鎌を振り回し、その一撃でタコの足が1本切れた。
タコはあわてて岩陰に逃げ、千代は事なきを得た。残されたタコ足は太く、カゴに収まりきらぬほどであった。ともかく大収穫であった。
翌日も昨日と同じところに行くと、やはりあの大ダコがいた。千代はまた狙うことにした。
赤い腰巻から白い腿を差し出して誘ってみる。案の定、タコは足を伸ばしてきて千代に抱きつこうとした。
千代はそうはさせまいと、鎌で一閃。タコ足1本をゲットした。
次の日も例の場所に行ってみたが、あいにく大ダコはいなかった。15日経ってから行ってみると、タコはまるで待ち侘びていたかのようにいた。
千代は味を占めていた。なにせタコ足は食べ甲斐があり、しかも美味ときている。
彼女はさらにタコ足を3本切り落とした。タコに残された足はあと3本となってしまった。
季節はすぎ、初夏を迎えた。千代は磯へ出かけ、またしても例のタコを見つけた。千代は1本頂戴した。
明くる日も出かけた。タコに残された足はあと2本。千代はそのうち1本をこれまでと同じように巧みに切ったつもりだった。
ところが大ダコはひるむことなく、最後の1本を彼女に白い腿から腰に絡ませて動きを封じると、千代の顔に墨を吐きつけて目潰しを食らわせた。
これがタコにとって乾坤一擲の一撃となる。千代を抱きすくめると、そのまま海の中に引きずり込んでしまったのだ。
こうして美しい盛りの千代は処女のまま、あろうことかタコに抱かれて海の藻屑と消えた。
残された母は渚を駆けめぐっては、「お千代! お千代!」と叫んだが、後の祭りだった。磯では油断してはいけないと言い聞かせるべきだった。
村の若者たちも麗しの千代をなくして言葉を失うばかりであった。
それ以来、大ダコの潜んでいた磯の一部を『千代取り岩』と呼ぶようになった。
「千代取り岩」伝説
http://blog.goo.ne.jp/tomotubby/e/e532892c301135e28f...
吉岡実「タコ」から
http://blog.goo.ne.jp/tomotubby/e/f498ad9cb53d7fb044...
日間賀島は三河湾に浮かぶ島で、知多半島寄りに位置し、愛知県知多郡南知多町に属する。
海産物が名産として名を馳せ、とりわけトラフグとタコは島の名物になっている。
日間賀島にはそんなタコにまつわる伝説が語り継がれている。それが『千代取り岩伝説』である。
豊浜墓所の海の千代取り岩についての物語だ。
その昔、須佐の荒磯松の近くの粗末な家に、千代という若い娘とその母が住んでいた。千代は評判の美人で知られ、村の若者たちの憧れの的だった。
春の引潮のとき、千代は沖の磯まで出かけて、日課である潮干狩りに精を出していた。
貝や海藻を拾うのに夢中になっていたとき、何かが足に絡みついた感触を憶えた。
足元を見れば大きなタコだった。浅瀬に取り残されたのであろうタコは、千代の脚を這いのぼり、たちまち白い太腿まで触腕を伸ばしてきた。
千代は鎌を振り回し、その一撃でタコの足が1本切れた。
タコはあわてて岩陰に逃げ、千代は事なきを得た。残されたタコ足は太く、カゴに収まりきらぬほどであった。ともかく大収穫であった。
翌日も昨日と同じところに行くと、やはりあの大ダコがいた。千代はまた狙うことにした。
赤い腰巻から白い腿を差し出して誘ってみる。案の定、タコは足を伸ばしてきて千代に抱きつこうとした。
千代はそうはさせまいと、鎌で一閃。タコ足1本をゲットした。
次の日も例の場所に行ってみたが、あいにく大ダコはいなかった。15日経ってから行ってみると、タコはまるで待ち侘びていたかのようにいた。
千代は味を占めていた。なにせタコ足は食べ甲斐があり、しかも美味ときている。
彼女はさらにタコ足を3本切り落とした。タコに残された足はあと3本となってしまった。
季節はすぎ、初夏を迎えた。千代は磯へ出かけ、またしても例のタコを見つけた。千代は1本頂戴した。
明くる日も出かけた。タコに残された足はあと2本。千代はそのうち1本をこれまでと同じように巧みに切ったつもりだった。
ところが大ダコはひるむことなく、最後の1本を彼女に白い腿から腰に絡ませて動きを封じると、千代の顔に墨を吐きつけて目潰しを食らわせた。
これがタコにとって乾坤一擲の一撃となる。千代を抱きすくめると、そのまま海の中に引きずり込んでしまったのだ。
こうして美しい盛りの千代は処女のまま、あろうことかタコに抱かれて海の藻屑と消えた。
残された母は渚を駆けめぐっては、「お千代! お千代!」と叫んだが、後の祭りだった。磯では油断してはいけないと言い聞かせるべきだった。
村の若者たちも麗しの千代をなくして言葉を失うばかりであった。
それ以来、大ダコの潜んでいた磯の一部を『千代取り岩』と呼ぶようになった。
「千代取り岩」伝説
http://blog.goo.ne.jp/tomotubby/e/e532892c301135e28f...
吉岡実「タコ」から
http://blog.goo.ne.jp/tomotubby/e/f498ad9cb53d7fb044...
タコによる人さらいの変形版? おりん島
ついでだからタコ伝説をもう1つ。愛知県知多の沖合には、知る人ぞ知る『おりん島』という小島があるという。
その伝説のあらましは>>344とほぼ同じであるが、決定的に主人公の世代が違う。
こういった類型の説話は大元のAで始まったはいいが、BとCに分岐するにしたがって好き勝手にアレンジされていることがよくある。
ちょうど伝言ゲームが、まったく別の話に書き換えられているように。
かつて、須佐の浜に『おりん』という名の老婆がいて、海女のような生業をしながら暮らしていた。
僻地で1人でいるぐらいだから、よほどの変わり者に違いあるまい。そう決めてかかり、村の者は決して近づかなかった。
ある日、どういった風の吹き回しか、そのおりんが村の網元のもとへひょっこり顔を出し、不思議な話を語って聞かせた。
昨日のことだった。舟で漁に出ていると、大きなタコが舟に張り付いてきて、足を1本伸ばしてきたと思ったら、
彼女を海に引きずり込もうとするのだと。
おりんは臆することなく、その足を鎌で断ち切ると、タコは海中へ逃げていった。
今日になってまた舟を出すと、同じタコと出くわし、同じように襲ってきたものだから、またぞろ足を切り落とし撃退したという。
切断したタコ足は、いつまでもウネウネと身をよじらせ気味が悪いし、そもそも邪魔なので、浜に埋めてしまったと語り、
おりんは豪快に呵々大笑した。
どうもイヤな予感がする。心配した網元は明日は漁を控えてみてはどうかと忠告した。
が、おりんはどこ吹く風といった様子で笑い飛ばし、いつもと変わらず漁を続けた。
7日目まで同じようなタコの襲撃がくり返され、そのたびにタコ足を切り落として事なきを得たおりんだったが、
ついに運命の8日目、沖合で足が1本しか残されていないタコが舟に取り付くや、今度こそがっちりおりんをつかまえると、
瞬く間に海に引きずり込んでしまった。
遠巻きに心配していた村人は急いでおりんの行方を捜索したものの、かんざしの1本たりとも見つけることができなかった。
そのおりんが漁場にしていた島を、のちに人は『おりん島』と呼ぶようになった。
今でもこの伝説を知る古老は、この近くでタコだけは獲らないという。
暗くなるころあの海で 63.オリントウ
http://harapeko.que.jp/darksea/archives/001719.htm...
ついでだからタコ伝説をもう1つ。愛知県知多の沖合には、知る人ぞ知る『おりん島』という小島があるという。
その伝説のあらましは>>344とほぼ同じであるが、決定的に主人公の世代が違う。
こういった類型の説話は大元のAで始まったはいいが、BとCに分岐するにしたがって好き勝手にアレンジされていることがよくある。
ちょうど伝言ゲームが、まったく別の話に書き換えられているように。
かつて、須佐の浜に『おりん』という名の老婆がいて、海女のような生業をしながら暮らしていた。
僻地で1人でいるぐらいだから、よほどの変わり者に違いあるまい。そう決めてかかり、村の者は決して近づかなかった。
ある日、どういった風の吹き回しか、そのおりんが村の網元のもとへひょっこり顔を出し、不思議な話を語って聞かせた。
昨日のことだった。舟で漁に出ていると、大きなタコが舟に張り付いてきて、足を1本伸ばしてきたと思ったら、
彼女を海に引きずり込もうとするのだと。
おりんは臆することなく、その足を鎌で断ち切ると、タコは海中へ逃げていった。
今日になってまた舟を出すと、同じタコと出くわし、同じように襲ってきたものだから、またぞろ足を切り落とし撃退したという。
切断したタコ足は、いつまでもウネウネと身をよじらせ気味が悪いし、そもそも邪魔なので、浜に埋めてしまったと語り、
おりんは豪快に呵々大笑した。
どうもイヤな予感がする。心配した網元は明日は漁を控えてみてはどうかと忠告した。
が、おりんはどこ吹く風といった様子で笑い飛ばし、いつもと変わらず漁を続けた。
7日目まで同じようなタコの襲撃がくり返され、そのたびにタコ足を切り落として事なきを得たおりんだったが、
ついに運命の8日目、沖合で足が1本しか残されていないタコが舟に取り付くや、今度こそがっちりおりんをつかまえると、
瞬く間に海に引きずり込んでしまった。
遠巻きに心配していた村人は急いでおりんの行方を捜索したものの、かんざしの1本たりとも見つけることができなかった。
そのおりんが漁場にしていた島を、のちに人は『おりん島』と呼ぶようになった。
今でもこの伝説を知る古老は、この近くでタコだけは獲らないという。
暗くなるころあの海で 63.オリントウ
http://harapeko.que.jp/darksea/archives/001719.htm...
鴎島:江差町 | 歴史・伝説 | 遊ぶべ!道南探検隊
http://donan.org/history-legend/kamomejima-2.ht...
※画像は鴎島にある奇岩、瓶子岩(へいしいわ)
http://donan.org/history-legend/kamomejima-2.ht...
※画像は鴎島にある奇岩、瓶子岩(へいしいわ)
千島アイヌの聖地 宇志知島(うししるとう)
北海道本島の東、根室海峡からカムチャツカ半島の南、千島海峡までの間に連なる列島を千島列島といい、
列島の中ほどに浮かぶ島が宇志知島である。ロシア名も同じくウシシル島(o.Ушишир)。
島名の由来は、アイヌ語の「ウセイ・シル(温泉・大地。つまり温泉のある大地)」から来ているとされる。
この海域はオホーツク海と太平洋の潮がぶつかるため、非常に危険である。
正保元(1644)年、『正保御国絵図』が作成された際、幕命により松前藩が提出した自藩領地図には、
『クナシリ』『エトロホ』『ウルフ』など39の島々が描かれていた。
正徳5(1715)年、松前藩主は幕府に対し、『北海道本島、樺太、千島列島、勘察加』は松前藩領と報告。
1769年、この地を探検したイワン・チョールヌイが本島にて千島アイヌが行う儀式を目撃したとのこと。
それによると、島は千島アイヌにとっての聖地であるという。また、『雷神カンナカムイ』の子孫が千島アイヌであるとされ、
本島こそ発祥であるとの伝説が残されている。
アイヌにとって雷神カンナカムイは神の中でもとりわけ重要な存在である。アイヌが危機に瀕したときは幣を捧げて祈っていた。
イワンの記述によれば、硫黄の噴出孔の上に設けた祭壇でガスと熱に耐えながら3日3晩祈り続け、
その試練に耐えた者だけが「自分たちを悪魔の手から守ることのできる全知全能のアイヌとして生まれ変わる」と信じられたという。
宇志知島wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%87%E5%BF%97%E7%9F%...
北海道本島の東、根室海峡からカムチャツカ半島の南、千島海峡までの間に連なる列島を千島列島といい、
列島の中ほどに浮かぶ島が宇志知島である。ロシア名も同じくウシシル島(o.Ушишир)。
島名の由来は、アイヌ語の「ウセイ・シル(温泉・大地。つまり温泉のある大地)」から来ているとされる。
この海域はオホーツク海と太平洋の潮がぶつかるため、非常に危険である。
正保元(1644)年、『正保御国絵図』が作成された際、幕命により松前藩が提出した自藩領地図には、
『クナシリ』『エトロホ』『ウルフ』など39の島々が描かれていた。
正徳5(1715)年、松前藩主は幕府に対し、『北海道本島、樺太、千島列島、勘察加』は松前藩領と報告。
1769年、この地を探検したイワン・チョールヌイが本島にて千島アイヌが行う儀式を目撃したとのこと。
それによると、島は千島アイヌにとっての聖地であるという。また、『雷神カンナカムイ』の子孫が千島アイヌであるとされ、
本島こそ発祥であるとの伝説が残されている。
アイヌにとって雷神カンナカムイは神の中でもとりわけ重要な存在である。アイヌが危機に瀕したときは幣を捧げて祈っていた。
イワンの記述によれば、硫黄の噴出孔の上に設けた祭壇でガスと熱に耐えながら3日3晩祈り続け、
その試練に耐えた者だけが「自分たちを悪魔の手から守ることのできる全知全能のアイヌとして生まれ変わる」と信じられたという。
宇志知島wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%87%E5%BF%97%E7%9F%...
嫁の亡骸を乗せて浮上した島 嫁ヶ島
島根県松江市嫁島町の西、約200mに位置する宍道湖に浮かぶ唯一の島、嫁ヶ島。
今から1200万年前、第三紀中新世の火山活動により噴出した玄武岩により形成された全長150mの小島である。
どうやらこの嫁ヶ島にも悲しい女の歴史があるようだ。
昔、村で評判だった美しい嫁がいた。ところがなにかにつけて姑に小言を言われ虐められていた。
ある日、日没になったというのに嫁が家に帰ってこない。
家族は方々を手を尽くして探したが、どうにも見つけることができない。気立てのいい嫁だっただけに夫や村人は落胆した。
数日経って不思議なことが起きた。宍道湖の水中から、その嫁の亡骸を乗せた島が浮かび上がったのだ。
姑のいびりを苦に自害していたのだろう。これにちなみ、『嫁ヶ島』と呼ぶようになったという。
あるいはこんなバージョンもある。
里帰りの嫁が凍った湖上を渡る途中、氷が割れて転落、そして水死した。
これを哀れんだ湖の神が、その亡骸を乗せて一夜のうちに浮かび上がらせた話など……。
島ネタを追求してきて常々思うことだが、驚くほど女性の悲話が多い。
とくに悲恋モノは日本人の琴線に触れるんだろうが、ちょっとゲップが出ちゃうね。
嫁が島 - 松江市立図書館
http://www.lib-citymatsue.jp/pdf/chidori_078.pd...
島根県松江市嫁島町の西、約200mに位置する宍道湖に浮かぶ唯一の島、嫁ヶ島。
今から1200万年前、第三紀中新世の火山活動により噴出した玄武岩により形成された全長150mの小島である。
どうやらこの嫁ヶ島にも悲しい女の歴史があるようだ。
昔、村で評判だった美しい嫁がいた。ところがなにかにつけて姑に小言を言われ虐められていた。
ある日、日没になったというのに嫁が家に帰ってこない。
家族は方々を手を尽くして探したが、どうにも見つけることができない。気立てのいい嫁だっただけに夫や村人は落胆した。
数日経って不思議なことが起きた。宍道湖の水中から、その嫁の亡骸を乗せた島が浮かび上がったのだ。
姑のいびりを苦に自害していたのだろう。これにちなみ、『嫁ヶ島』と呼ぶようになったという。
あるいはこんなバージョンもある。
里帰りの嫁が凍った湖上を渡る途中、氷が割れて転落、そして水死した。
これを哀れんだ湖の神が、その亡骸を乗せて一夜のうちに浮かび上がらせた話など……。
島ネタを追求してきて常々思うことだが、驚くほど女性の悲話が多い。
とくに悲恋モノは日本人の琴線に触れるんだろうが、ちょっとゲップが出ちゃうね。
嫁が島 - 松江市立図書館
http://www.lib-citymatsue.jp/pdf/chidori_078.pd...
>>350
500レスを埋め尽くすまでに決まってるでしょ。完走ですよ、完走。
最初のころ資料をまとめてレスしてたんですが、ネタが尽き、インターネッツの恩恵を借りて独自に探しまくってるんですよ。
その努力たるや簡単そうに見えて、実はすっごく大変なんですから。
>自分のサイトなりブログなり〜
見たまえ、『このページへの訪問者数』。個人のプログではここまで到達することができまい。
よってモチベーションが上がらないので、今さら無理。だからここに寄生させてちょ〜だい。
目指せ、驚異の閲覧数30万。数字こそ正義なり。
軍事機密に関わり厚いベールに包まれていた島 金輪島(かなわじま)
広島にある宇品(うじな)港の東、約1kmに位置する金輪島は、今では鄙びてなんの変哲もない小島にすぎない。
しかしながらこの金輪島、明治時代の中ごろより軍都の様相を呈していったのはあまり知られていない。
この島のみならず、周辺の島々は、ことごとく軍関連の施設や工場だった。ウサギ島こと大久野島も然りであろう。
1894(明治27)年、日清戦争が始まると、宇品港は陸軍の軍事基地となる。
陸軍運輸部金輪島工場が敷かれ、島中央の山頂付近には照空灯陣地が置かれるなど軍事機密に関わる島として終戦まで
秘密のベールに包まれていたのだという(太平洋戦争末期には旧陸軍野戦船舶本廠に変遷)。
終戦とともに、旧陸軍船舶司令部(暁部隊)直轄の陸軍野戦船舶本廠の一部であった島の東岸の造船施設は民間への払い下げられ、
その後、現在に至るまで造船業はこの島の基幹産業である。
金輪島(概説)
http://masuda901.web.fc2.com/page5bvc.htm...
四、金輪島に八月六日を尋ねて 山内 幹子
http://www3.famille.ne.jp/‾kodayo/genbaku/genbaku2/dai2kojyo-yamanouti.htm
500レスを埋め尽くすまでに決まってるでしょ。完走ですよ、完走。
最初のころ資料をまとめてレスしてたんですが、ネタが尽き、インターネッツの恩恵を借りて独自に探しまくってるんですよ。
その努力たるや簡単そうに見えて、実はすっごく大変なんですから。
>自分のサイトなりブログなり〜
見たまえ、『このページへの訪問者数』。個人のプログではここまで到達することができまい。
よってモチベーションが上がらないので、今さら無理。だからここに寄生させてちょ〜だい。
目指せ、驚異の閲覧数30万。数字こそ正義なり。
軍事機密に関わり厚いベールに包まれていた島 金輪島(かなわじま)
広島にある宇品(うじな)港の東、約1kmに位置する金輪島は、今では鄙びてなんの変哲もない小島にすぎない。
しかしながらこの金輪島、明治時代の中ごろより軍都の様相を呈していったのはあまり知られていない。
この島のみならず、周辺の島々は、ことごとく軍関連の施設や工場だった。ウサギ島こと大久野島も然りであろう。
1894(明治27)年、日清戦争が始まると、宇品港は陸軍の軍事基地となる。
陸軍運輸部金輪島工場が敷かれ、島中央の山頂付近には照空灯陣地が置かれるなど軍事機密に関わる島として終戦まで
秘密のベールに包まれていたのだという(太平洋戦争末期には旧陸軍野戦船舶本廠に変遷)。
終戦とともに、旧陸軍船舶司令部(暁部隊)直轄の陸軍野戦船舶本廠の一部であった島の東岸の造船施設は民間への払い下げられ、
その後、現在に至るまで造船業はこの島の基幹産業である。
金輪島(概説)
http://masuda901.web.fc2.com/page5bvc.htm...
四、金輪島に八月六日を尋ねて 山内 幹子
http://www3.famille.ne.jp/‾kodayo/genbaku/genbaku2/dai2kojyo-yamanouti.htm
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置き去りにされた女の無念 京の上臈島(きょうのじょうろうじま)
岡山県玉野市、宇野港の約2km西にいわくつきの島を発見。事情を知る者は気味悪がって寄りつきたがらない無人島があるそうだ。
(例外として、知らない観光客は海水浴やキャンプをしに訪れるようだが)
それが京の上臈島である。この島は別名『屍島』ともいう。もう別名からして垂涎ものである。
近辺ではその昔、海賊が出没しては金品を略奪、および殺害された人も多かったこともさることながら、
ある伝説のため、祟りがあると信じられてきた。その伝説とはこうだ。
江戸時代のことである。渋川の依田某という男が数日の間、京に滞在した。
男はたちまち京の都に魅了され、上臈(女官、または女郎の意)といい仲になり、2人は婚約を交わすまでになった。
京を発つ段になると、男は女を渋川につれて帰ることにした。
長い船旅の末、宇野の港が見えるところまでさしかかったとき、男は女にこう言った。
「渋川にはじきに着く。もっとも、いきなりおまえをつれて帰ったとしても、親父たちが驚くに違いあるまい。
まずはおれが説得しに陸に上がるから、しばらくの間、この島で待っててくれないか? ともに暮らすのはそれが済んでからだ」
と言いくるめ、女を名もなき無人島に残し、先に渋川に行ってしまった。
それから何日かして、渋川海岸にその女の死体が流れ着いた。村人たちはこの水死体を引き上げては哀れに思い、
「こんな若いのに命を落とさずともよいものものを。せめて死後はいいところに行きなされ……」と、その死体を沖へ押しやった。
ところが翌日になると、同じ浜辺に、昨日と同じ女の死体が流れ着いているではないか。
村人は気味悪がり、今度こそと、さらに沖の向こうまでと押し流したのだが、明くる日になるとまたしても同じように戻ってきている。
そうこうするうちに女の素性が発覚。女は依田某が京から連れて帰った上臈だったのだ。
どうせ女に飽きたので無人島に置き去りにしたクチだろう。一向に迎えに来ない男に痺れを切らしたうえ、
離れ小島に1人残された寂しさ、飢えと渇きに耐えかねて自害したに違いあるまい。
村人たちは渋川の松林の中に埋葬してやり、祠を建てて祀った。
さすがの依田某も後悔し、社や鳥居の建立から祭りまで心を入れ替え奉仕し、その菩提を弔った。
今も人々から『浜の神さん』と呼ばれ、松林の中にひっそりと佇んでいる。
そしていつしか、女が置き去りにされた島を京の上臈島と呼ぶようになった。
Vol.002 宇野港 - 日本船舶海洋工学会
http://www.jasnaoe.or.jp/series/minatono/002/index.htm...
第63話 島のお話【1】 京の上臈島
http://pebblegravel.blog.fc2.com/blog-entry-69.htm...
岡山県玉野市、宇野港の約2km西にいわくつきの島を発見。事情を知る者は気味悪がって寄りつきたがらない無人島があるそうだ。
(例外として、知らない観光客は海水浴やキャンプをしに訪れるようだが)
それが京の上臈島である。この島は別名『屍島』ともいう。もう別名からして垂涎ものである。
近辺ではその昔、海賊が出没しては金品を略奪、および殺害された人も多かったこともさることながら、
ある伝説のため、祟りがあると信じられてきた。その伝説とはこうだ。
江戸時代のことである。渋川の依田某という男が数日の間、京に滞在した。
男はたちまち京の都に魅了され、上臈(女官、または女郎の意)といい仲になり、2人は婚約を交わすまでになった。
京を発つ段になると、男は女を渋川につれて帰ることにした。
長い船旅の末、宇野の港が見えるところまでさしかかったとき、男は女にこう言った。
「渋川にはじきに着く。もっとも、いきなりおまえをつれて帰ったとしても、親父たちが驚くに違いあるまい。
まずはおれが説得しに陸に上がるから、しばらくの間、この島で待っててくれないか? ともに暮らすのはそれが済んでからだ」
と言いくるめ、女を名もなき無人島に残し、先に渋川に行ってしまった。
それから何日かして、渋川海岸にその女の死体が流れ着いた。村人たちはこの水死体を引き上げては哀れに思い、
「こんな若いのに命を落とさずともよいものものを。せめて死後はいいところに行きなされ……」と、その死体を沖へ押しやった。
ところが翌日になると、同じ浜辺に、昨日と同じ女の死体が流れ着いているではないか。
村人は気味悪がり、今度こそと、さらに沖の向こうまでと押し流したのだが、明くる日になるとまたしても同じように戻ってきている。
そうこうするうちに女の素性が発覚。女は依田某が京から連れて帰った上臈だったのだ。
どうせ女に飽きたので無人島に置き去りにしたクチだろう。一向に迎えに来ない男に痺れを切らしたうえ、
離れ小島に1人残された寂しさ、飢えと渇きに耐えかねて自害したに違いあるまい。
村人たちは渋川の松林の中に埋葬してやり、祠を建てて祀った。
さすがの依田某も後悔し、社や鳥居の建立から祭りまで心を入れ替え奉仕し、その菩提を弔った。
今も人々から『浜の神さん』と呼ばれ、松林の中にひっそりと佇んでいる。
そしていつしか、女が置き去りにされた島を京の上臈島と呼ぶようになった。
Vol.002 宇野港 - 日本船舶海洋工学会
http://www.jasnaoe.or.jp/series/minatono/002/index.htm...
第63話 島のお話【1】 京の上臈島
http://pebblegravel.blog.fc2.com/blog-entry-69.htm...
5人の座頭が海の藻屑と化す 五人宗谷(ごにんぞわい)
引き続き、宇野港の沖合に注目。
>>355の京の上靗島と鳥島の間には無数の岩礁がある。『五人宗谷』と呼ばれているらしい。
満潮時は完全に海中に没しているが、潮が引くと点々と黒い岩が姿を現すだけだから、島の定義からすれば島ではないのだが……。
その岩礁はごく近年までは、漁師さえ気味悪がって近づかなかったというのだ。
座礁するのが怖いせいもあるが、ここにも置き去り伝説が残されているからだという。
いつのころか判然としない。昔、備後の鞆(とも・福山市)の回船問屋に5人の旅人が訪れた。一行は大阪行きの船便を待っていた。
5人はいずれも盲(めしい)の座頭だった。眼こそ見えないが、旅装も人柄も上品で、裕福そうに見えた。
座頭たちは検校(けんぎょう・盲人の最高官位)の位をもらい受けるため、都にのぼっている道中だった。
そこへ1人の船頭が声をかけた。「座頭さんたちや、よかったら私が都まで乗せてあげますぜ。
なに、船賃さえ奮発してくれれば、さっそく今からでも」
5人の座頭にとっては、まさに渡りに舟。言葉に甘え、船頭の船に乗り込むことにした。その場で船賃をたっぷり弾んだ。
鞆の港を出発し、船は帆に風を受け、東に向かって進んだ。
やがて日没が迫った。座頭たちは眼が見えずとも、肌に伝わる五感で察することができる。
しばらくすると、風も凪ぎ、船を操る櫓の音だけが聞こえてきた。そのうち船が揺れるたび水の音がピチャピチャとする。
そのとき、船頭が声をかけてきた。「座頭さん、たいへん申し訳ない。船のアカ(船内にたまった水)をかえるから、その間、
近くの島に上がって作業が終わるのを待っていてくれんか」
座頭たちはそれに従い、船頭に手を引かれて、その島に上陸した。もとより急ぐ旅ではない。島に上がった5人は静かに打ち寄せる波の音を楽しんだ。
ところが待てど暮らせど、一向に船頭は迎えに来ない。
「船頭さん、まだかね?」と、声をかけてみたが返事がない。「船頭さん、船頭さんよ!」と叫んでいるうちに、潮が足元を濡らし始めた。
すでに船の気配は消えていた。だまされたと知った5人は声を涸らして助けを求めた。
潮は満ちてきて水位はどんどん上がってくる。おたがい離れまいとして座頭たちは抱き合ったが、悲しき抵抗だった。
ほどなく5人は海の藻屑と消えた……。
この海域では今でも雨の夜になると、海の底から話し声やすすり泣きの声がすると言って、地元の漁師たちは忌避するという。
一説によると、この5人のうちの1人だけは田井の海岸に打ち上げられ、親切な村人の介抱によって息を吹き返したとも伝えられている。
その後、高野山に入り、犠牲となった4人の墓を建て、その菩提を弔ったともいう。
また、この置き去り伝説を証明するかのように、直島の漁師がこの宗谷に潜ってみたことがあるらしい。すると岩の間に数体の白骨が折り重なっていたとか……。
どうやら置き去りにされた者はいずれも魑魅魍魎と化すのが通説のようだ。
五人宗谷(ぞわい):玉野の伝説
http://tamano.imawamukashi.com/umi/umi-6.htm...
検校wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A4%9C%E6%A0%A...
引き続き、宇野港の沖合に注目。
>>355の京の上靗島と鳥島の間には無数の岩礁がある。『五人宗谷』と呼ばれているらしい。
満潮時は完全に海中に没しているが、潮が引くと点々と黒い岩が姿を現すだけだから、島の定義からすれば島ではないのだが……。
その岩礁はごく近年までは、漁師さえ気味悪がって近づかなかったというのだ。
座礁するのが怖いせいもあるが、ここにも置き去り伝説が残されているからだという。
いつのころか判然としない。昔、備後の鞆(とも・福山市)の回船問屋に5人の旅人が訪れた。一行は大阪行きの船便を待っていた。
5人はいずれも盲(めしい)の座頭だった。眼こそ見えないが、旅装も人柄も上品で、裕福そうに見えた。
座頭たちは検校(けんぎょう・盲人の最高官位)の位をもらい受けるため、都にのぼっている道中だった。
そこへ1人の船頭が声をかけた。「座頭さんたちや、よかったら私が都まで乗せてあげますぜ。
なに、船賃さえ奮発してくれれば、さっそく今からでも」
5人の座頭にとっては、まさに渡りに舟。言葉に甘え、船頭の船に乗り込むことにした。その場で船賃をたっぷり弾んだ。
鞆の港を出発し、船は帆に風を受け、東に向かって進んだ。
やがて日没が迫った。座頭たちは眼が見えずとも、肌に伝わる五感で察することができる。
しばらくすると、風も凪ぎ、船を操る櫓の音だけが聞こえてきた。そのうち船が揺れるたび水の音がピチャピチャとする。
そのとき、船頭が声をかけてきた。「座頭さん、たいへん申し訳ない。船のアカ(船内にたまった水)をかえるから、その間、
近くの島に上がって作業が終わるのを待っていてくれんか」
座頭たちはそれに従い、船頭に手を引かれて、その島に上陸した。もとより急ぐ旅ではない。島に上がった5人は静かに打ち寄せる波の音を楽しんだ。
ところが待てど暮らせど、一向に船頭は迎えに来ない。
「船頭さん、まだかね?」と、声をかけてみたが返事がない。「船頭さん、船頭さんよ!」と叫んでいるうちに、潮が足元を濡らし始めた。
すでに船の気配は消えていた。だまされたと知った5人は声を涸らして助けを求めた。
潮は満ちてきて水位はどんどん上がってくる。おたがい離れまいとして座頭たちは抱き合ったが、悲しき抵抗だった。
ほどなく5人は海の藻屑と消えた……。
この海域では今でも雨の夜になると、海の底から話し声やすすり泣きの声がすると言って、地元の漁師たちは忌避するという。
一説によると、この5人のうちの1人だけは田井の海岸に打ち上げられ、親切な村人の介抱によって息を吹き返したとも伝えられている。
その後、高野山に入り、犠牲となった4人の墓を建て、その菩提を弔ったともいう。
また、この置き去り伝説を証明するかのように、直島の漁師がこの宗谷に潜ってみたことがあるらしい。すると岩の間に数体の白骨が折り重なっていたとか……。
どうやら置き去りにされた者はいずれも魑魅魍魎と化すのが通説のようだ。
五人宗谷(ぞわい):玉野の伝説
http://tamano.imawamukashi.com/umi/umi-6.htm...
検校wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A4%9C%E6%A0%A...
インターバルの岩礁で力尽きた女の悲話 高島と伊勢島
島根県益田市北部の沖、約12km先に浮かぶ高島。最盛期の1960(昭和35)年には125人の島民が暮らしていた。
しかし過疎化の進行と、1972年の集中豪雨災害などで大打撃を受けた。
そのため1975年3月にすべての住民が対岸の益田市土田町に集団移住して無人島となってしまった。
現在は磯釣りのスポットとして賑わいを見せている。そんな高島にも悲しき女の伝説が残されている。
かつて、対岸の津田からお伊勢という美しい娘が高島に嫁いできた。
新婚のころは島の生活も楽しく夫ともうまくやってきたつもりだったが、やがて荒涼たる孤島の生活にも飽き、
津田へ残してきた親のことを考える日々が続いた。
実家は村1、2を争うほど貧しかった。とりわけ母のことを想うと胸が張り裂けそうになった。
対岸までの距離が3里であることを知り、高島の周囲が1里であることから3周泳げるようになれば津田に達するに違いない、
と単純に考え、毎晩泳ぎの練習をした。そしてある日、3周泳ぎきったお伊勢は、ついに実践に移す。
しかしながらそれは浅はかな考えであった。安全な高島の周囲とはうって変わって、津田までの道のりは狂ったような荒波の海。
何度も波に揉まれながら、本土まであと半里までさしかかったとき、小さな岩礁が見えた。
どうにかそこにたどり着いて体力を回復させようと一息ついた。
あまりの望郷の念と疲労困憊したためか、手を伸ばせば届く対岸に両親のシルエットを見たような気がした。
張りつめていた神経が途切れ、安堵してしまったのが運の尽き。ふっと意識を失い、そのまま命を落としてしまったのだ。
それからというもの、この岩礁を『伊勢島』と呼び、月夜の晩にはお伊勢の声が聞こえてくるという言い伝えがある。
浜田海上保安部沿岸域情報提供システム 高島灯台
http://www6.kaiho.mlit.go.jp/hamada/03_service_page/service...
島根県益田市北部の沖、約12km先に浮かぶ高島。最盛期の1960(昭和35)年には125人の島民が暮らしていた。
しかし過疎化の進行と、1972年の集中豪雨災害などで大打撃を受けた。
そのため1975年3月にすべての住民が対岸の益田市土田町に集団移住して無人島となってしまった。
現在は磯釣りのスポットとして賑わいを見せている。そんな高島にも悲しき女の伝説が残されている。
かつて、対岸の津田からお伊勢という美しい娘が高島に嫁いできた。
新婚のころは島の生活も楽しく夫ともうまくやってきたつもりだったが、やがて荒涼たる孤島の生活にも飽き、
津田へ残してきた親のことを考える日々が続いた。
実家は村1、2を争うほど貧しかった。とりわけ母のことを想うと胸が張り裂けそうになった。
対岸までの距離が3里であることを知り、高島の周囲が1里であることから3周泳げるようになれば津田に達するに違いない、
と単純に考え、毎晩泳ぎの練習をした。そしてある日、3周泳ぎきったお伊勢は、ついに実践に移す。
しかしながらそれは浅はかな考えであった。安全な高島の周囲とはうって変わって、津田までの道のりは狂ったような荒波の海。
何度も波に揉まれながら、本土まであと半里までさしかかったとき、小さな岩礁が見えた。
どうにかそこにたどり着いて体力を回復させようと一息ついた。
あまりの望郷の念と疲労困憊したためか、手を伸ばせば届く対岸に両親のシルエットを見たような気がした。
張りつめていた神経が途切れ、安堵してしまったのが運の尽き。ふっと意識を失い、そのまま命を落としてしまったのだ。
それからというもの、この岩礁を『伊勢島』と呼び、月夜の晩にはお伊勢の声が聞こえてくるという言い伝えがある。
浜田海上保安部沿岸域情報提供システム 高島灯台
http://www6.kaiho.mlit.go.jp/hamada/03_service_page/service...
[YouTubeで再生]
森の奥には血を吸う山姫がいる 屋久島
1993(平成5)年、日本発のユネスコ、世界自然遺産に登録された鹿児島県の屋久島。
島全体に広がる大自然の『癒し』を求めて多くの観光客が集まり、スピリチュアルスポットとしても人気が高いのは今さら言うまでもない。
また、屋久島には九州一高い宮之浦岳(標高1936m)をはじめとする1800m級の山々がそびえ立っている。ガイドブックには『洋上のアルプス』と銘打っており、
それに相応しく、山頂付近の年間平均気温は約5℃と凍えるほど。なんと屋久島は、積雪が観測される日本最南端の場所でもあるのだ。
そんな神秘の屋久島にも、調査したところ、不思議な伝説が残されていることがわかった。
屋久島の大部分は山が占め、林業を生業とする者は毎月15日を『ヤマイエの日』として、この日は仕事を休んで山へ立ち入らないという。
なぜなら、この日は神々が行列をなし山を見て歩く日とされ、人が入るのを極度に嫌うためだとされているのだ。
これを与太話ととった者がいた。掟を守らず山へ入ったはいいが、白鹿に乗った神と遭遇。まわりを警護していた野鹿に角で突かれたらしい。
明くる日、村人が探していると谷底で死んでいたそうだ。また、ヤマイエの日に山に入ると神隠しにあうともいう。
極めつけは『山姫伝説』である。
森の奥深くには、美しい姫がいると信じられている。女を山姫と呼ぶ。
まるで洗ったばかりのように艶やかな長い髪を背中に垂らし、十二単姿で赤い袴を穿いているとも、半裸でシダの葉で作った腰ミノをまとっているだけともいう。
いずれにせよ、その素肌は雪のように白いんだとか。
山姫は木の精霊であり、旧正月、5月、9月に行われる山の神祭りの日、山に降りてくるともいわれる。
この日、山姫は祭りの潮水を汲みに、木の桶を持って降りてくるらしい。そのため、祭りの日に入山するのはタブーとされているのだ。
山姫は見た目は美しい。しかしその艶姿に惑わされてはいけない。
よしんば山姫に出会ってしまい、山姫が笑ったのにつられて笑うと血を吸われて殺されてしまう。
山姫が笑う前にこちらが先に笑うか、さもなくば山姫が笑ってもじっと目を見据えていれば助かる、笑わずに睨みつけてやれば何もせず去っていく。
草鞋の鼻緒を切って唾を吐きかけたものを投げつけるか、サカキの枝を振れば難を逃れられる、と回避方法はいくらかあるようだ。
山姫が怒っているときの方がかえって安全だという。
子供が山奥へ入らないための戒めとしてこの伝説は伝えられていると思いがちだが、屋久島の古老たちは実際に山姫と出くわしたことがあると力説する。
こんな事例が残されている。かつて屋久島吉田集落の者が麦の初穂を供えるべく、旧暦8月のある日に18人で連れ立って御岳に登った。
途中で日が暮れたので山小屋に一泊。翌朝の早朝、飯炊きの人間が早く起床して朝食の準備をしていたところ、妙な女が出現。
眠る一同の上に跨って何かしたというのだ。結局、物陰に隠れていた飯炊き以外、全員が血を吸われて死んでいたとのこと……。
近年の事例としては、『小学生が筍取りに行った際、白装束姿の髪の長い女に笑いかけられた』『雨の夜、宮之浦集落の運転手が紫色の着物の女に出会った。
車に乗せてやろうかと声をかけたが、そのまま行ってしまった』などと実話も少なくなく、妖怪探訪家、村上健司いわく、屋久島に限らず、
各地に伝播する山姫の目撃談は、近隣の村の娘が正気をなくし、山へ迷い込んでしまってこのような姿に変わり果て、
奇行を重ねているうちに伝説化したのではないかと言及している。
屋久島REALWAVE 島を知る
http://www.realwave-corp.com/02learn/08/index.ht...
屋久島旅行記
http://homepage1.nifty.com/udagawa_home/mt_yakushima.htm...
山姫伝承
http://blogs.yahoo.co.jp/cjkkb976/30701180.htm...
山姫wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E5%A7%A...
森の奥には血を吸う山姫がいる 屋久島
1993(平成5)年、日本発のユネスコ、世界自然遺産に登録された鹿児島県の屋久島。
島全体に広がる大自然の『癒し』を求めて多くの観光客が集まり、スピリチュアルスポットとしても人気が高いのは今さら言うまでもない。
また、屋久島には九州一高い宮之浦岳(標高1936m)をはじめとする1800m級の山々がそびえ立っている。ガイドブックには『洋上のアルプス』と銘打っており、
それに相応しく、山頂付近の年間平均気温は約5℃と凍えるほど。なんと屋久島は、積雪が観測される日本最南端の場所でもあるのだ。
そんな神秘の屋久島にも、調査したところ、不思議な伝説が残されていることがわかった。
屋久島の大部分は山が占め、林業を生業とする者は毎月15日を『ヤマイエの日』として、この日は仕事を休んで山へ立ち入らないという。
なぜなら、この日は神々が行列をなし山を見て歩く日とされ、人が入るのを極度に嫌うためだとされているのだ。
これを与太話ととった者がいた。掟を守らず山へ入ったはいいが、白鹿に乗った神と遭遇。まわりを警護していた野鹿に角で突かれたらしい。
明くる日、村人が探していると谷底で死んでいたそうだ。また、ヤマイエの日に山に入ると神隠しにあうともいう。
極めつけは『山姫伝説』である。
森の奥深くには、美しい姫がいると信じられている。女を山姫と呼ぶ。
まるで洗ったばかりのように艶やかな長い髪を背中に垂らし、十二単姿で赤い袴を穿いているとも、半裸でシダの葉で作った腰ミノをまとっているだけともいう。
いずれにせよ、その素肌は雪のように白いんだとか。
山姫は木の精霊であり、旧正月、5月、9月に行われる山の神祭りの日、山に降りてくるともいわれる。
この日、山姫は祭りの潮水を汲みに、木の桶を持って降りてくるらしい。そのため、祭りの日に入山するのはタブーとされているのだ。
山姫は見た目は美しい。しかしその艶姿に惑わされてはいけない。
よしんば山姫に出会ってしまい、山姫が笑ったのにつられて笑うと血を吸われて殺されてしまう。
山姫が笑う前にこちらが先に笑うか、さもなくば山姫が笑ってもじっと目を見据えていれば助かる、笑わずに睨みつけてやれば何もせず去っていく。
草鞋の鼻緒を切って唾を吐きかけたものを投げつけるか、サカキの枝を振れば難を逃れられる、と回避方法はいくらかあるようだ。
山姫が怒っているときの方がかえって安全だという。
子供が山奥へ入らないための戒めとしてこの伝説は伝えられていると思いがちだが、屋久島の古老たちは実際に山姫と出くわしたことがあると力説する。
こんな事例が残されている。かつて屋久島吉田集落の者が麦の初穂を供えるべく、旧暦8月のある日に18人で連れ立って御岳に登った。
途中で日が暮れたので山小屋に一泊。翌朝の早朝、飯炊きの人間が早く起床して朝食の準備をしていたところ、妙な女が出現。
眠る一同の上に跨って何かしたというのだ。結局、物陰に隠れていた飯炊き以外、全員が血を吸われて死んでいたとのこと……。
近年の事例としては、『小学生が筍取りに行った際、白装束姿の髪の長い女に笑いかけられた』『雨の夜、宮之浦集落の運転手が紫色の着物の女に出会った。
車に乗せてやろうかと声をかけたが、そのまま行ってしまった』などと実話も少なくなく、妖怪探訪家、村上健司いわく、屋久島に限らず、
各地に伝播する山姫の目撃談は、近隣の村の娘が正気をなくし、山へ迷い込んでしまってこのような姿に変わり果て、
奇行を重ねているうちに伝説化したのではないかと言及している。
屋久島REALWAVE 島を知る
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屋久島旅行記
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山姫伝承
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波照間版浦島太郎『エイ女房』 波照間島 1
沖縄本島から南西に400km、さらに八重山群島の中心の石垣島から南西に63kmにある波照間島は、隆起珊瑚礁の島であり、
そして日本最南端の有人島でもある。
波照間島には怖いわけではないが、ファンタジックで牧歌的でありながら、なぜかリアルな伝説が残されているのだが、
これが浦島太郎の話と符合する点が見受けられ、たいへん興味深いのだ。
昔、ある漁師が夜の海へ漁に出ていた。ところがあいにくの不漁。
そろそろ竿を片づけようかと思ったとき、急に当たりがきた。引き揚げてみると大きなマンタだった。
そのマンタを舟底に座らせてみると、愛くるしい眼で漁師を見つめてくるので、そのうち男は変な気持ちになった。
男には陸に上がれば妻が待っている身。なにも性生活に不自由しているわけではないが、どうにも人間の女そっくりの目つきに映り、
ついムラムラッと……催してしまったのだ。漁師はマンタを抱きしめると……いたしてしまった。
(下世話な薀蓄だが、マンタのソレの締まり具合は人間の女性のアソコと遜色ないそうな)
行為を終えた男。これからどうしよう。いくらマンタが愛らしいとはいえ、まさか家に連れて帰り、飼うわけにはいかない。
ましてや食べる気にもならないので、結局、舟べりから海へ逃がしてやった。
それから何年か経った。すっかりマンタとの熱い一夜など忘れてしまっていた。
また例のごとく夜の海に出て、釣り糸を垂れていたときのこと。
奇妙なことに海の中からマンタの子供が顔を覗かせ、こう喋ったではないか。「お父さん、お父さん」
「なんと、マンタが口を利いた。しかしおまえに、お父さんと呼ばれる筋合いはないのだが……」
「なにをおっしゃる、お父さん。会えてうれしいです。今夜、私の家においでになりませんか? 母も会いたがっておりますよ」
「母さん?」男は仰天した。瞬時に『やっちまった一夜』を思い出す。「ひょっとして、あのときエッチしたマンタか!」
「左様です。あの夜、母と契を結ばれ、私が生を授かったのでございます」
沖縄本島から南西に400km、さらに八重山群島の中心の石垣島から南西に63kmにある波照間島は、隆起珊瑚礁の島であり、
そして日本最南端の有人島でもある。
波照間島には怖いわけではないが、ファンタジックで牧歌的でありながら、なぜかリアルな伝説が残されているのだが、
これが浦島太郎の話と符合する点が見受けられ、たいへん興味深いのだ。
昔、ある漁師が夜の海へ漁に出ていた。ところがあいにくの不漁。
そろそろ竿を片づけようかと思ったとき、急に当たりがきた。引き揚げてみると大きなマンタだった。
そのマンタを舟底に座らせてみると、愛くるしい眼で漁師を見つめてくるので、そのうち男は変な気持ちになった。
男には陸に上がれば妻が待っている身。なにも性生活に不自由しているわけではないが、どうにも人間の女そっくりの目つきに映り、
ついムラムラッと……催してしまったのだ。漁師はマンタを抱きしめると……いたしてしまった。
(下世話な薀蓄だが、マンタのソレの締まり具合は人間の女性のアソコと遜色ないそうな)
行為を終えた男。これからどうしよう。いくらマンタが愛らしいとはいえ、まさか家に連れて帰り、飼うわけにはいかない。
ましてや食べる気にもならないので、結局、舟べりから海へ逃がしてやった。
それから何年か経った。すっかりマンタとの熱い一夜など忘れてしまっていた。
また例のごとく夜の海に出て、釣り糸を垂れていたときのこと。
奇妙なことに海の中からマンタの子供が顔を覗かせ、こう喋ったではないか。「お父さん、お父さん」
「なんと、マンタが口を利いた。しかしおまえに、お父さんと呼ばれる筋合いはないのだが……」
「なにをおっしゃる、お父さん。会えてうれしいです。今夜、私の家においでになりませんか? 母も会いたがっておりますよ」
「母さん?」男は仰天した。瞬時に『やっちまった一夜』を思い出す。「ひょっとして、あのときエッチしたマンタか!」
「左様です。あの夜、母と契を結ばれ、私が生を授かったのでございます」
波照間版浦島太郎『エイ女房』 波照間島 2
息子マンタが言うには、海中の中にある御殿へ招待したいから、今から参りましょうと誘う。男は逆らえず行くことにした。
マンタの背に捕まり、海中にと潜った。なぜか呼吸は大丈夫だった。
そしてたどり着いたのがきらびやかな海中の御殿であった。あのメスマンタが微笑みながら出迎えてくれた。
まさしく竜宮城の浦島太郎のごとく、タイやヒラメの踊りに山海の珍味を振舞われ、至り尽くせりの歓待を受けた。
その間、男は甲斐甲斐しいメスマンタのもてなしを受けた。陸へ置いてきた妻のことなど忘れ、毎日のようにご馳走を食べ、楽しくすごした。
人は贅沢な生き物である。そんな夢うつつの暮らしを続けていると、いずれ飽きがくる。
ある日、マンタに別れを切り出した。
マンタ親子は必死に引き止めたが、男の気持ちは変わらない。「残念です。せめて手土産を差し上げます。
これは竜宮の壺。中に向かって、欲しいものを願うと、何でも出してくれる魔法の壺でございます」
「それは便利な品物だな。せっかくだからもらっておくよ。では、これにて失敬」
帰りも息子マンタに捕まって浮上し、はるばる故郷に帰ってきた(浦島太郎とは違い、世界は元のままであった)。
家に帰ると、壺のことは内緒にし、なんのかんの言い訳をして妻に平謝りした。
竜宮の壺は畑に隠しておいた。昼になると、畑仕事に出かけると言って家を出た。
男は壺を取り出すと、壺の中に向かって自身の好物を願った。まさにそれは魔法の壺で、次から次へとご馳走を出してくれた。
それ以来、男は畑仕事が日課になった。しかしそんな夢のような日は長続きしない。
せっかく作った妻の弁当に箸もつけず持ち帰ってくるものだから、妻は不審に思った。
例のごとく畑に出かけた夫を追って、物陰からこっそり様子を窺った。
なんと夫は、畑の真ん中でご馳走を並べて、それをガツガツたいらげているではないか。
「アンタ! なによ、その豪華な食べ物は!」と、妻は大声を出して飛び出した。
男はあわてて壺を取られまいとしてアブ(排水口)に隠した。そして弁解しているうちに、なくしてしまったという。
……いまだにこの魔法の壺がどこにあるのか、どこのアブに入っているのか、見当がつかない。
波照間の島民にとって謎になっており、憧れのアイテムとして語り継がれている。
[日本の民話・妖怪 語りおろし]エイ女房(沖縄県、波照間島)
http://www.rg-youkai.com/tales/ja/47_okinawa/18_einyoub...
息子マンタが言うには、海中の中にある御殿へ招待したいから、今から参りましょうと誘う。男は逆らえず行くことにした。
マンタの背に捕まり、海中にと潜った。なぜか呼吸は大丈夫だった。
そしてたどり着いたのがきらびやかな海中の御殿であった。あのメスマンタが微笑みながら出迎えてくれた。
まさしく竜宮城の浦島太郎のごとく、タイやヒラメの踊りに山海の珍味を振舞われ、至り尽くせりの歓待を受けた。
その間、男は甲斐甲斐しいメスマンタのもてなしを受けた。陸へ置いてきた妻のことなど忘れ、毎日のようにご馳走を食べ、楽しくすごした。
人は贅沢な生き物である。そんな夢うつつの暮らしを続けていると、いずれ飽きがくる。
ある日、マンタに別れを切り出した。
マンタ親子は必死に引き止めたが、男の気持ちは変わらない。「残念です。せめて手土産を差し上げます。
これは竜宮の壺。中に向かって、欲しいものを願うと、何でも出してくれる魔法の壺でございます」
「それは便利な品物だな。せっかくだからもらっておくよ。では、これにて失敬」
帰りも息子マンタに捕まって浮上し、はるばる故郷に帰ってきた(浦島太郎とは違い、世界は元のままであった)。
家に帰ると、壺のことは内緒にし、なんのかんの言い訳をして妻に平謝りした。
竜宮の壺は畑に隠しておいた。昼になると、畑仕事に出かけると言って家を出た。
男は壺を取り出すと、壺の中に向かって自身の好物を願った。まさにそれは魔法の壺で、次から次へとご馳走を出してくれた。
それ以来、男は畑仕事が日課になった。しかしそんな夢のような日は長続きしない。
せっかく作った妻の弁当に箸もつけず持ち帰ってくるものだから、妻は不審に思った。
例のごとく畑に出かけた夫を追って、物陰からこっそり様子を窺った。
なんと夫は、畑の真ん中でご馳走を並べて、それをガツガツたいらげているではないか。
「アンタ! なによ、その豪華な食べ物は!」と、妻は大声を出して飛び出した。
男はあわてて壺を取られまいとしてアブ(排水口)に隠した。そして弁解しているうちに、なくしてしまったという。
……いまだにこの魔法の壺がどこにあるのか、どこのアブに入っているのか、見当がつかない。
波照間の島民にとって謎になっており、憧れのアイテムとして語り継がれている。
[日本の民話・妖怪 語りおろし]エイ女房(沖縄県、波照間島)
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鬼の一瞬のスキを見逃さずワンショット・ワンキル 魔見ヶ島(まみるがしま)
……なんたる失態ッ!
それは盲点。僕の住んでる地元の、ほんの近くにナイスネーミングな島があったとは、今の今まで気づかなかったのだ。
その名も『魔見ヶ島』。字面からしてオドロオドロしい。『魔性の者を見る島』とは厨二病そこのけではないか。
しかもその名を裏切らず、グッドな伝承が残されていた。ますらおぶりな島名にはそれに釣り合う由来があるべきである。
>>228で紹介した三重県熊野市の名勝奇岩『獅子岩』の近くには、天然記念物に選ばれ、ユネスコ世界遺産『紀伊山地の霊場と参詣道』の一部である『鬼ヶ城』
(こちらも奇岩)があり、さらにその沖合1.5kmのところに問題の魔見ヶ島はあるのだ。
国道42号線を車で通るたび、「あの3つコブのある島はなんなんだ……あの島の名前はなんていうんだろう……しかし、なぜか惹きつけられる島だなあ」
と、つねづね運転そっちのけで思っていたら、ある日その謎が氷解したわけである。
魔見ヶ島のふだんの顔は釣り人にとって絶好の漁場である。
イシダイ、ヒラマサをはじめ、マダイは最大90cm、クエも1m超えという記録がある熊野を代表する磯だそうだ。
しかしながら釣り人は撒き餌のオキアミでグチャグチャに汚してしまうその島に、まさか鬼にまつわる伝説が残されていたとは夢にも思うまい。
その伝説とは以下のとおりである。
今を遡ること1200年前。桓武天皇は坂上田村麻呂を将軍に命じ、伊勢・鈴鹿の悪鬼どもを征伐させに向かわせた。
そのとき鬼ヶ城をねぐらとし、悪行を重ね、熊野一帯を荒らしていた鬼たちがいた。田村麻呂はこれを討つべく熊野に馬を走らせたのだった。
(※言うまでもなく鬼とはメタファーである。一般的に鬼や土蜘蛛と称される怪物伝説は『まつろわぬ者(もしくは民)』を指す。
そして中央政権に反発する者は悪として描かれているのが常である。ここでは海の民、すなわち海賊の多我丸とその一族が鬼として祭り上げられたのだ)
その鬼たちは深山幽谷へ飛行して姿をくらませていた。田村麻呂は追討ちをかけるべく烏帽子山にのぼり、救いを求め観音の名を唱えた。
すると大馬(おおま)権現の天女が忽然と現われ、こう助言したのだ。
「あなたが追う鬼賊の隠れ家は海辺の岩屋(鬼ヶ城)に隠れています。ですが、岩がそびえ立ったうえ磯は波が激しく、
容易に近づくことはできないでしょう。けれども諦めてはいけません。辛抱強く待ち伏せするのです。そして神通の矢を放ちなさい」
天女はそれだけ告げると、白馬に乗って飛び去ったという。
その言葉に従い、田村麻呂は鬼ヶ城から離れた場所に身をひそめた。そしていよいよ決戦のとき。
夜が訪れ、不思議な現象が起きた。沖の魔見ヶ島がなんだか騒がしい。見れば島に童子が現れたと思うと、唄って舞っているではないか。
童子だけにとどまらず、軍勢も加わり大騒ぎしている。
外の騒々しさを何事かと思ったのであろう、鬼の大将が鬼ヶ城の岩戸を開けているところだった。
田村麻呂はその一瞬を見逃さなかった。すかさず弓に神通の矢をつがえ、引きしぼった。鬼大将の胸板を狙い、そして放った。
こうして鬼は一矢でしとめられたのだ。鬼も気高き誇りのなせる技か、仁王立ちのまま死んだという。
田村麻呂にとって大将を欠いた鬼の残党など、もはや敵ではなかった。
魔見ヶ島……それは鬼を征伐するのに、奇跡を起こした島だったのだ。
鬼ヶ城・魔見ヶ島 - 東紀州ほっとネットくまどこ
http://www.kumadoco.net/special/03_sea/kumano/04.htm...
坂上田村麻呂
http://www.geocities.jp/baronhiro2000/rekisi/tamura.ht...
鬼の国、異界日本
http://homepage2.nifty.com/sukecial/oni/index.ht...
……なんたる失態ッ!
それは盲点。僕の住んでる地元の、ほんの近くにナイスネーミングな島があったとは、今の今まで気づかなかったのだ。
その名も『魔見ヶ島』。字面からしてオドロオドロしい。『魔性の者を見る島』とは厨二病そこのけではないか。
しかもその名を裏切らず、グッドな伝承が残されていた。ますらおぶりな島名にはそれに釣り合う由来があるべきである。
>>228で紹介した三重県熊野市の名勝奇岩『獅子岩』の近くには、天然記念物に選ばれ、ユネスコ世界遺産『紀伊山地の霊場と参詣道』の一部である『鬼ヶ城』
(こちらも奇岩)があり、さらにその沖合1.5kmのところに問題の魔見ヶ島はあるのだ。
国道42号線を車で通るたび、「あの3つコブのある島はなんなんだ……あの島の名前はなんていうんだろう……しかし、なぜか惹きつけられる島だなあ」
と、つねづね運転そっちのけで思っていたら、ある日その謎が氷解したわけである。
魔見ヶ島のふだんの顔は釣り人にとって絶好の漁場である。
イシダイ、ヒラマサをはじめ、マダイは最大90cm、クエも1m超えという記録がある熊野を代表する磯だそうだ。
しかしながら釣り人は撒き餌のオキアミでグチャグチャに汚してしまうその島に、まさか鬼にまつわる伝説が残されていたとは夢にも思うまい。
その伝説とは以下のとおりである。
今を遡ること1200年前。桓武天皇は坂上田村麻呂を将軍に命じ、伊勢・鈴鹿の悪鬼どもを征伐させに向かわせた。
そのとき鬼ヶ城をねぐらとし、悪行を重ね、熊野一帯を荒らしていた鬼たちがいた。田村麻呂はこれを討つべく熊野に馬を走らせたのだった。
(※言うまでもなく鬼とはメタファーである。一般的に鬼や土蜘蛛と称される怪物伝説は『まつろわぬ者(もしくは民)』を指す。
そして中央政権に反発する者は悪として描かれているのが常である。ここでは海の民、すなわち海賊の多我丸とその一族が鬼として祭り上げられたのだ)
その鬼たちは深山幽谷へ飛行して姿をくらませていた。田村麻呂は追討ちをかけるべく烏帽子山にのぼり、救いを求め観音の名を唱えた。
すると大馬(おおま)権現の天女が忽然と現われ、こう助言したのだ。
「あなたが追う鬼賊の隠れ家は海辺の岩屋(鬼ヶ城)に隠れています。ですが、岩がそびえ立ったうえ磯は波が激しく、
容易に近づくことはできないでしょう。けれども諦めてはいけません。辛抱強く待ち伏せするのです。そして神通の矢を放ちなさい」
天女はそれだけ告げると、白馬に乗って飛び去ったという。
その言葉に従い、田村麻呂は鬼ヶ城から離れた場所に身をひそめた。そしていよいよ決戦のとき。
夜が訪れ、不思議な現象が起きた。沖の魔見ヶ島がなんだか騒がしい。見れば島に童子が現れたと思うと、唄って舞っているではないか。
童子だけにとどまらず、軍勢も加わり大騒ぎしている。
外の騒々しさを何事かと思ったのであろう、鬼の大将が鬼ヶ城の岩戸を開けているところだった。
田村麻呂はその一瞬を見逃さなかった。すかさず弓に神通の矢をつがえ、引きしぼった。鬼大将の胸板を狙い、そして放った。
こうして鬼は一矢でしとめられたのだ。鬼も気高き誇りのなせる技か、仁王立ちのまま死んだという。
田村麻呂にとって大将を欠いた鬼の残党など、もはや敵ではなかった。
魔見ヶ島……それは鬼を征伐するのに、奇跡を起こした島だったのだ。
鬼ヶ城・魔見ヶ島 - 東紀州ほっとネットくまどこ
http://www.kumadoco.net/special/03_sea/kumano/04.htm...
坂上田村麻呂
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龍神の化身、夜ごと行者の話を聞きに現る 舳倉島(へぐらじま)
石川県能登半島より北上すること約50km、紺碧の日本海上に突如姿を現すのが舳倉島である。
島の南端に近い字高見には延喜式内社奥津比迠(おくつひめ)神社が座り、近くからは重層遺跡『シラスナ遺跡』が発見されている。
これは5世紀半ばから8世紀後半にかけての複合遺跡であり、古い層からは貝塚やアシカの骨、8世紀頃の遺跡からは製塩土器や牛の骨が発掘され、
ここで『殺牛祭神の儀礼』が行われていた可能性も指摘されている。
さらに舳倉島では石積み(ケルン)の多さに驚かされる。島内には70あまりのケルンがあり、石を積むことが龍神の供養となると同時に、
エゴ草がたくさん採れるようになると言い伝えられている。
もしくは江戸時代に起きた海難事故のあと、低い島を少しでも高く見せて海上からの標識になるよう積み上げたという説もある。
島の中央より北の海岸近くに『龍神池』と呼ばれる池がある。別名を『蛇池』ともいうらしい。
その昔、この島に一旭(いっきょく)という名の高徳の行者が訪れた。行者は池のかたわらに草庵を結び、毎晩、漁師や海女などの島民を招き、
ありがたい法話を語って聞かせていた。
やがて、その座に1人の若くて美しい女が参加するようになった。
しかし奇妙なことに、その女は修行を積んだ行者に姿は見えても、ほかの島民には見えないらしい。
行者は不思議に思いつつも、ある晩、法話が終わったあと、声をかけてみることにした。
「もし……あなたは毎夜、熱心に話を聞いてくださっているようだが、どこにお住まいですか? あまり見かけない顔ですな」
「さすがですわね、私の姿がお見えになられるとは。実は私、人間ではございません。古くから舳倉島に住んでいた龍でございます。
年老いて死んでからというもの、亡骸は池の底に沈んでいるのです」
これも悲しき業か。龍は生前に犯した数多の罪ゆえ成仏できず、子供の龍とともに苦界をさまよっているのだという。
そんな折、奇しくも行者が島へ来てからというもの、ありがたい法話を聞かせてくれるので、人間の姿に身を変えて末席に加わっていた次第。
以来、何度もここへ足を運び、心の苦しみも幾分和らいだ気がする。それほどまでに行者の話は龍の悶絶する魂を癒すのだと。
「願わくば、行者様。なにとぞ……なにとぞ池をさらって我が亡骸を引き揚げてくださらぬか。そして弔い、その法力で成仏させてくださいますよう
お願い申し上げます」と、涙ながらに訴えた。行者は承知すると、女は何度も頭を下げ、闇に溶け込んでいった……。
翌朝、行者は村の人々を集めて、池の水を汲み出させ、底にたまった泥をさらった。
すると頭を北に向けた大小2つの龍の骨が見つかった。おびただしい数の骨は四斗樽に4杯分に及んだ。
頭蓋骨を輪島の法蔵へ運んでねんごろに法要し、残りの遺骨は法蔵寺分院に分骨した。
行者はそのあとも舳倉島に住みつづけ、法話を続けたが、成仏を果たしたものか、例の女は現われることはなかった。
それ以来、法蔵寺では、今では寺の宝物となっているその龍の骨を、毎年1月15日にご開帳して『龍法要』が行われるという。
なお行者である一旭は、弘化4年(1847)に亡くなったといわれ、島の中央台地には『行者の碑』が建てられて昔を偲んでいる。
島の概要・島遺跡・伝説など
http://www.geocities.co.jp/une_genzaburo/HeguraIsland.ht...
東アジアにおける殺牛祭祀の系譜
http://archives.bukkyo-u.ac.jp/rp-contents/RO/0001/RO00010L01...
石川県能登半島より北上すること約50km、紺碧の日本海上に突如姿を現すのが舳倉島である。
島の南端に近い字高見には延喜式内社奥津比迠(おくつひめ)神社が座り、近くからは重層遺跡『シラスナ遺跡』が発見されている。
これは5世紀半ばから8世紀後半にかけての複合遺跡であり、古い層からは貝塚やアシカの骨、8世紀頃の遺跡からは製塩土器や牛の骨が発掘され、
ここで『殺牛祭神の儀礼』が行われていた可能性も指摘されている。
さらに舳倉島では石積み(ケルン)の多さに驚かされる。島内には70あまりのケルンがあり、石を積むことが龍神の供養となると同時に、
エゴ草がたくさん採れるようになると言い伝えられている。
もしくは江戸時代に起きた海難事故のあと、低い島を少しでも高く見せて海上からの標識になるよう積み上げたという説もある。
島の中央より北の海岸近くに『龍神池』と呼ばれる池がある。別名を『蛇池』ともいうらしい。
その昔、この島に一旭(いっきょく)という名の高徳の行者が訪れた。行者は池のかたわらに草庵を結び、毎晩、漁師や海女などの島民を招き、
ありがたい法話を語って聞かせていた。
やがて、その座に1人の若くて美しい女が参加するようになった。
しかし奇妙なことに、その女は修行を積んだ行者に姿は見えても、ほかの島民には見えないらしい。
行者は不思議に思いつつも、ある晩、法話が終わったあと、声をかけてみることにした。
「もし……あなたは毎夜、熱心に話を聞いてくださっているようだが、どこにお住まいですか? あまり見かけない顔ですな」
「さすがですわね、私の姿がお見えになられるとは。実は私、人間ではございません。古くから舳倉島に住んでいた龍でございます。
年老いて死んでからというもの、亡骸は池の底に沈んでいるのです」
これも悲しき業か。龍は生前に犯した数多の罪ゆえ成仏できず、子供の龍とともに苦界をさまよっているのだという。
そんな折、奇しくも行者が島へ来てからというもの、ありがたい法話を聞かせてくれるので、人間の姿に身を変えて末席に加わっていた次第。
以来、何度もここへ足を運び、心の苦しみも幾分和らいだ気がする。それほどまでに行者の話は龍の悶絶する魂を癒すのだと。
「願わくば、行者様。なにとぞ……なにとぞ池をさらって我が亡骸を引き揚げてくださらぬか。そして弔い、その法力で成仏させてくださいますよう
お願い申し上げます」と、涙ながらに訴えた。行者は承知すると、女は何度も頭を下げ、闇に溶け込んでいった……。
翌朝、行者は村の人々を集めて、池の水を汲み出させ、底にたまった泥をさらった。
すると頭を北に向けた大小2つの龍の骨が見つかった。おびただしい数の骨は四斗樽に4杯分に及んだ。
頭蓋骨を輪島の法蔵へ運んでねんごろに法要し、残りの遺骨は法蔵寺分院に分骨した。
行者はそのあとも舳倉島に住みつづけ、法話を続けたが、成仏を果たしたものか、例の女は現われることはなかった。
それ以来、法蔵寺では、今では寺の宝物となっているその龍の骨を、毎年1月15日にご開帳して『龍法要』が行われるという。
なお行者である一旭は、弘化4年(1847)に亡くなったといわれ、島の中央台地には『行者の碑』が建てられて昔を偲んでいる。
島の概要・島遺跡・伝説など
http://www.geocities.co.jp/une_genzaburo/HeguraIsland.ht...
東アジアにおける殺牛祭祀の系譜
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