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怖い島・いわくつきの村・総合
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姫島の七不思議とは
大分県の国東半島からフェリーで20分ほど行くと、東西7キロメートルの細長い島に到着する。
それが姫島だ。
古事記によると伊邪那岐命(イザナギ)、伊邪那美命(イザナミ)の二神が『国産み』の際、
大八島のあとに続けて産んだとされる6つの島のうち、4番目に産んだ女島であるとされている。
この女島こそ姫島であったという。
また日本書記によれば、垂仁天皇の御代、意富加羅国(おほからのくに・今の韓国南部)の
王子である都怒我阿羅斯等(つぬがあらしと)が、ある日、黄牛に田器を背負わせて田舎に行くと、
知らぬ間に牛がいなくなった。
捜しているうちに老翁が現われ、こう言った。「おまえの捜している牛は郡公が殺して食ってしまった」
阿羅斯等は郡公の館に行って牛の代償を求めると、郡公は白石を与えた。
白石を持ち帰り、寝室に置くと、たちまち美女と変化したではないか。
阿羅斯等はたいそう喜んで求婚するも、美女は忽然と消えてしまった。
阿羅斯等が追い求めると、美女は海を渡って日本国に至り、比売語曽の神となった。
姫島の名前の由来はここからはじまるのだった。
姫島はかくも古代からの伝承が残る島であり、様々な伝承が島内の名所に関連づけて語り継がれてきた。
代表的なものが姫島七不思議であり、七不思議のうちの3つは比売語曽神にちなむものである。
瀬戸内海国立公園 大分県 姫島
http://www.himeshima.jp/kanko/tourist/seven/index.htm...
姫島の七不思議とは
大分県の国東半島からフェリーで20分ほど行くと、東西7キロメートルの細長い島に到着する。
それが姫島だ。
古事記によると伊邪那岐命(イザナギ)、伊邪那美命(イザナミ)の二神が『国産み』の際、
大八島のあとに続けて産んだとされる6つの島のうち、4番目に産んだ女島であるとされている。
この女島こそ姫島であったという。
また日本書記によれば、垂仁天皇の御代、意富加羅国(おほからのくに・今の韓国南部)の
王子である都怒我阿羅斯等(つぬがあらしと)が、ある日、黄牛に田器を背負わせて田舎に行くと、
知らぬ間に牛がいなくなった。
捜しているうちに老翁が現われ、こう言った。「おまえの捜している牛は郡公が殺して食ってしまった」
阿羅斯等は郡公の館に行って牛の代償を求めると、郡公は白石を与えた。
白石を持ち帰り、寝室に置くと、たちまち美女と変化したではないか。
阿羅斯等はたいそう喜んで求婚するも、美女は忽然と消えてしまった。
阿羅斯等が追い求めると、美女は海を渡って日本国に至り、比売語曽の神となった。
姫島の名前の由来はここからはじまるのだった。
姫島はかくも古代からの伝承が残る島であり、様々な伝承が島内の名所に関連づけて語り継がれてきた。
代表的なものが姫島七不思議であり、七不思議のうちの3つは比売語曽神にちなむものである。
瀬戸内海国立公園 大分県 姫島
http://www.himeshima.jp/kanko/tourist/seven/index.htm...
削除(by投稿者)
毎度ありがとうございます。知らない間に『オカルトちゃんねる』にて当スレが取り上げられたようです。
http://blog.livedoor.jp/occult12/archives/9649236.htm...
遅筆ですが、今後もボチボチ続けていく所存です。
悲しき歴史 金光坊島(こんこぶじま)
>>73でも取り上げた補陀落渡海の追記。それにまつわる島があるらしい。
井上靖の小説に、史実を元にした『補陀落渡海記』がある。
時は永禄8年(1565年)。舞台は補陀洛山寺、主人公は住職の金光坊である。
初めて補陀洛渡海をしたのは、平安初期の貞観11年(869年)に渡海した慶竜上人であった。
以来、金光坊の時代までの700年間に渡海したのは10人も満たなかったのだが、
時代変わって金光坊のころ(戦国終期)、渡海が一種のブームになってしまう。
祐信上人が渡海したのは享禄4年(1531年)で金光坊が27歳のときである。
補陀洛山寺にやって来て半年足らずの金光坊は、このとき初めて渡海の実態を知った。
寺の代々住職が渡海するのは61歳を迎えた年の11月。
住職が次々と渡海に消え、ついに56歳となった金光坊が後を継ぐことになった。
金光坊は檀家信者からの人望が厚い人物であった。
自身も時期が来れば、尊敬する師の正慶上人のように立派に渡海へ出て往生したいと願ってやまなかった。
しかしながら出立の時期が近づくにつれ、心中は穏やかではなくなるというのは、
さしもの仏に仕える身であっても悲しき人の性であろう。
先に渡海した上人たちのことを思うと、まだ渡海に向かうにあたって明鏡止水の域に至っていないことに気づかされる。
ふんぎりがつかないまま、ついに渡海する日がやってきた。
金光坊とつき従う僧らが寺を出ると、檀家を含めた見物人が大勢つめかけていた。
船に入るや、屋形がかぶせられ、釘を打って閉じこめられてしまった。 あとは暗闇。
金光坊の渡海船が3、4艘の船に曳航され、宮の浜の沖合にある綱切島まで運ばれる。
そこで一泊して同行者と別れを惜しんだのち、渡海船は大海に向けて押し出されるのだ。
ところが今回は様子がおかしい。綱切島に着くと、「上人さん、さらばですじゃ」と、声をかけられた。
嵐が近いので見送りの船はすぐに戻るという。
しかたなく金光坊は、渡海船の中で一夜をすごした。
身体がゴロゴロと転がり、痛みで目をさますと、どうやら大時化の真っ只中。
いてもたってもいられず、金光坊は闇の中の屋形から逃げようとした。
体当たりで屋形を破ったところで船は転覆。無我夢中で板子にしがみついた。
金光坊は小さな岩礁に打ち上げられているところを救助された。
実は同行の者たちは嵐が強くて戻ることができず、別の島で一夜を明かしていたのだ。
とはいえ、渡海が中断されるわけではない。同行者たちは相談したのち、金光坊を漁師の船に乗せることにした。
金光坊は抵抗したが、付き添いの役人たちは耳を貸さなかった。
急ごしらえの箱がかぶせられ、船底に釘でがっちり固定された。
そして無情にも船は黒潮に乗って流されていった……
金光坊が一度は命拾いした岩礁こそ、のちに『金光坊島』(こんこぶじま)と冠される島である。
「補陀落」信じ海のもくずに
http://www.zb.ztv.ne.jp/sgj8rw3t/cocoro_02.htm...
http://blog.livedoor.jp/occult12/archives/9649236.htm...
遅筆ですが、今後もボチボチ続けていく所存です。
悲しき歴史 金光坊島(こんこぶじま)
>>73でも取り上げた補陀落渡海の追記。それにまつわる島があるらしい。
井上靖の小説に、史実を元にした『補陀落渡海記』がある。
時は永禄8年(1565年)。舞台は補陀洛山寺、主人公は住職の金光坊である。
初めて補陀洛渡海をしたのは、平安初期の貞観11年(869年)に渡海した慶竜上人であった。
以来、金光坊の時代までの700年間に渡海したのは10人も満たなかったのだが、
時代変わって金光坊のころ(戦国終期)、渡海が一種のブームになってしまう。
祐信上人が渡海したのは享禄4年(1531年)で金光坊が27歳のときである。
補陀洛山寺にやって来て半年足らずの金光坊は、このとき初めて渡海の実態を知った。
寺の代々住職が渡海するのは61歳を迎えた年の11月。
住職が次々と渡海に消え、ついに56歳となった金光坊が後を継ぐことになった。
金光坊は檀家信者からの人望が厚い人物であった。
自身も時期が来れば、尊敬する師の正慶上人のように立派に渡海へ出て往生したいと願ってやまなかった。
しかしながら出立の時期が近づくにつれ、心中は穏やかではなくなるというのは、
さしもの仏に仕える身であっても悲しき人の性であろう。
先に渡海した上人たちのことを思うと、まだ渡海に向かうにあたって明鏡止水の域に至っていないことに気づかされる。
ふんぎりがつかないまま、ついに渡海する日がやってきた。
金光坊とつき従う僧らが寺を出ると、檀家を含めた見物人が大勢つめかけていた。
船に入るや、屋形がかぶせられ、釘を打って閉じこめられてしまった。 あとは暗闇。
金光坊の渡海船が3、4艘の船に曳航され、宮の浜の沖合にある綱切島まで運ばれる。
そこで一泊して同行者と別れを惜しんだのち、渡海船は大海に向けて押し出されるのだ。
ところが今回は様子がおかしい。綱切島に着くと、「上人さん、さらばですじゃ」と、声をかけられた。
嵐が近いので見送りの船はすぐに戻るという。
しかたなく金光坊は、渡海船の中で一夜をすごした。
身体がゴロゴロと転がり、痛みで目をさますと、どうやら大時化の真っ只中。
いてもたってもいられず、金光坊は闇の中の屋形から逃げようとした。
体当たりで屋形を破ったところで船は転覆。無我夢中で板子にしがみついた。
金光坊は小さな岩礁に打ち上げられているところを救助された。
実は同行の者たちは嵐が強くて戻ることができず、別の島で一夜を明かしていたのだ。
とはいえ、渡海が中断されるわけではない。同行者たちは相談したのち、金光坊を漁師の船に乗せることにした。
金光坊は抵抗したが、付き添いの役人たちは耳を貸さなかった。
急ごしらえの箱がかぶせられ、船底に釘でがっちり固定された。
そして無情にも船は黒潮に乗って流されていった……
金光坊が一度は命拾いした岩礁こそ、のちに『金光坊島』(こんこぶじま)と冠される島である。
「補陀落」信じ海のもくずに
http://www.zb.ztv.ne.jp/sgj8rw3t/cocoro_02.htm...
島野浦に漂着したソレは『うつろ舟』だった?
宮崎県延岡市の沖にある周囲15kmの島野浦(しまのうら)。地元民は親しみをこめて「しまんだ」と呼ぶ。
「いわしの舞う島」と言われるほど漁業が盛んで、リアス式海岸に囲まれ、
沖合にはテーブルサンゴが群生する美しい景観が広がっている。
そんな島野浦にも、風変わりな伝説が残されている。それが「メキシコ女王伝説」だ。
内容はこうだ。
江戸時代の末期、島野浦の漁師がカツオ漁に出かけていた。
その帰港の途中、波間に漂う奇妙な木箱を発見。
漁師たちはためしに拾い上げ、海藻や貝が付着した木箱を手斧で開けてみることにした。
なんと、中には白骨死体が横たわっているではないか。
フサフサの金髪の頭部に、赤や青の宝石をちりばめた黄金の冠が輝いていた。
それだけではない。死体の周りには金銀財宝で埋め尽くされていたのだ。
漁師たちの間では、せめて冠だけでも取り出そうとの意見も出たが、大方は祟りを恐れたため、
小島に埋葬することにした。(そう言いつつも、結局は多少の財宝を拝借したのだが)
そして、この事件はどんなことがあっても他言はしない、二度とこの島に上陸しないと堅く誓った。
そのころメキシコで内乱があったらしく、島民はあの白骨死体をメキシコの女王だと信じていた。
今も、海に流した女王の柩が潮に乗って漂着したのだと言い伝えている。
概要だけで考察してみると、いわゆる『うつろ舟』を想起せずにはいられない。
いずれにせよ、異文化はこのような形で流れこんでくるものだし、
そこから派生した寄り神信仰も然りである。
島野浦(しまんだ)メキシコ女王伝説
http://www.lead2001.co.jp/ritou/story/index.htm...
宮崎県延岡市の沖にある周囲15kmの島野浦(しまのうら)。地元民は親しみをこめて「しまんだ」と呼ぶ。
「いわしの舞う島」と言われるほど漁業が盛んで、リアス式海岸に囲まれ、
沖合にはテーブルサンゴが群生する美しい景観が広がっている。
そんな島野浦にも、風変わりな伝説が残されている。それが「メキシコ女王伝説」だ。
内容はこうだ。
江戸時代の末期、島野浦の漁師がカツオ漁に出かけていた。
その帰港の途中、波間に漂う奇妙な木箱を発見。
漁師たちはためしに拾い上げ、海藻や貝が付着した木箱を手斧で開けてみることにした。
なんと、中には白骨死体が横たわっているではないか。
フサフサの金髪の頭部に、赤や青の宝石をちりばめた黄金の冠が輝いていた。
それだけではない。死体の周りには金銀財宝で埋め尽くされていたのだ。
漁師たちの間では、せめて冠だけでも取り出そうとの意見も出たが、大方は祟りを恐れたため、
小島に埋葬することにした。(そう言いつつも、結局は多少の財宝を拝借したのだが)
そして、この事件はどんなことがあっても他言はしない、二度とこの島に上陸しないと堅く誓った。
そのころメキシコで内乱があったらしく、島民はあの白骨死体をメキシコの女王だと信じていた。
今も、海に流した女王の柩が潮に乗って漂着したのだと言い伝えている。
概要だけで考察してみると、いわゆる『うつろ舟』を想起せずにはいられない。
いずれにせよ、異文化はこのような形で流れこんでくるものだし、
そこから派生した寄り神信仰も然りである。
島野浦(しまんだ)メキシコ女王伝説
http://www.lead2001.co.jp/ritou/story/index.htm...
今も石塔が建っている仏島
愛知県蒲郡市、三河大島の南に位置する『仏島』。
なんともいわくありげな匂いがたちこめている。これはチェックせずにはいられないだろう。
案の定、こんな話が残っていた。
昔、三河の沖合に、干潮のときにだけ姿をあらわす岩礁だけの島があった。
この島の周りは潮の流れが速く、暗礁も多いことで知られ、たくさんの船が座礁、
もしくは沈没して多くの船乗りが命を落としていた。
それでこのあたりは『船の墓場』、『死者の海』と呼ばれ、誰ひとりとして近づく者はいなかった。
あるとき、兄弟の船乗りが村の石屋に頼まれて、大きな石塔を知多の村まで運ぶことになった。
この日は天気も潮の流れも良く、絶好の船出日和だった。
ところが、船が沖合にさしかかると、急に潮の流れが変わり、舵が利かなくなってしまう。
2人が乗った船は潮に流され、こともあろうに人々から恐れられている死者の海に来てしまった。
そのとき、積荷である石塔を結んだ綱が突然切れたかと思うと、船が傾いて石塔は海に落ち、
兄弟も海に投げ出されてしまった。
海に落ちた2人が島の方を見ると、なにやら島のてっぺんに人影が見える。
目を凝らして見れば、なんとそれは骸骨のような形相をした、恐ろしい亡者の群れが兄弟を手招きしている姿だったのだ。
これを見た2人は、死にもの狂いで泳ぎ、やっとの思いで浜にたどり着いた。
この恐ろしい出来事に懲りた兄弟は、次の航海では陸寄りの航路を取ることにした。
しかし、いざ出航するも、やはり途中から舵が利かなくなり、またぞろ死者の海へと流されてしまう。
今度ばかりは助からないだろうと、念仏を唱え出す兄弟であったが、恐る恐る島の方を見ると、
島の頂上には海に沈んだはずの石塔が建っているではないか。
これを見た兄弟は、ここで亡くなった船乗りの亡霊が、供養を求めて石塔を島に運んだのだと知った。
ここで亡くなった者たちが哀れに思え、村の衆にこの経緯を話し、石塔に供え物を捧げ、
坊さんにお経をあげてもらい、迷える死者の魂を慰めたのだった。
以来、この島は『仏島』と呼ばれるようになり、また不思議なことに、
あれほどあった暗礁も海中深くに沈み、引き潮のときだけ仏島が姿を見せるようになったという。
三河大島周辺をクルージング
http://suzukimarine.co.jp/marina/mikawamito/blog/2009/08...
愛知県蒲郡市、三河大島の南に位置する『仏島』。
なんともいわくありげな匂いがたちこめている。これはチェックせずにはいられないだろう。
案の定、こんな話が残っていた。
昔、三河の沖合に、干潮のときにだけ姿をあらわす岩礁だけの島があった。
この島の周りは潮の流れが速く、暗礁も多いことで知られ、たくさんの船が座礁、
もしくは沈没して多くの船乗りが命を落としていた。
それでこのあたりは『船の墓場』、『死者の海』と呼ばれ、誰ひとりとして近づく者はいなかった。
あるとき、兄弟の船乗りが村の石屋に頼まれて、大きな石塔を知多の村まで運ぶことになった。
この日は天気も潮の流れも良く、絶好の船出日和だった。
ところが、船が沖合にさしかかると、急に潮の流れが変わり、舵が利かなくなってしまう。
2人が乗った船は潮に流され、こともあろうに人々から恐れられている死者の海に来てしまった。
そのとき、積荷である石塔を結んだ綱が突然切れたかと思うと、船が傾いて石塔は海に落ち、
兄弟も海に投げ出されてしまった。
海に落ちた2人が島の方を見ると、なにやら島のてっぺんに人影が見える。
目を凝らして見れば、なんとそれは骸骨のような形相をした、恐ろしい亡者の群れが兄弟を手招きしている姿だったのだ。
これを見た2人は、死にもの狂いで泳ぎ、やっとの思いで浜にたどり着いた。
この恐ろしい出来事に懲りた兄弟は、次の航海では陸寄りの航路を取ることにした。
しかし、いざ出航するも、やはり途中から舵が利かなくなり、またぞろ死者の海へと流されてしまう。
今度ばかりは助からないだろうと、念仏を唱え出す兄弟であったが、恐る恐る島の方を見ると、
島の頂上には海に沈んだはずの石塔が建っているではないか。
これを見た兄弟は、ここで亡くなった船乗りの亡霊が、供養を求めて石塔を島に運んだのだと知った。
ここで亡くなった者たちが哀れに思え、村の衆にこの経緯を話し、石塔に供え物を捧げ、
坊さんにお経をあげてもらい、迷える死者の魂を慰めたのだった。
以来、この島は『仏島』と呼ばれるようになり、また不思議なことに、
あれほどあった暗礁も海中深くに沈み、引き潮のときだけ仏島が姿を見せるようになったという。
三河大島周辺をクルージング
http://suzukimarine.co.jp/marina/mikawamito/blog/2009/08...
テキ穴の人骨の正体は? 飛島
山形県酒田市の北西39kmの日本海に位置する孤島、それが飛島。
飛島は東北の日本海側で唯一の有人島である。面積2.7km、人口280人足らず。
島の歴史は古く、約6000年前の縄文時代のものと推定される遺跡が発見されている。
発掘された土器を分析したところ、東北北部の特徴があるものから、北陸の特徴のものまで、
広範囲の種類が眠っていたことが判明した。
すなわち縄文時代から飛島は、重要な文化の交流地点として機能していたことがわかる。
ところで島では、昭和39年11月に奇妙な事件が発生している。それが『テキ穴騒動』だ。
集落である勝浦と中村の境に位置する、磐の磯近い『ホグラ』に、『テキ穴』なる海蝕でできた洞窟があるのだが、
ある日、飛島中学校の生徒3人がこの穴を探検すべく中に入り、奥にある広い空間で22体分もの人骨を発見したから、
島はたちまち騒然となった。
集団自殺か、はたまた殺人か。
警察が調査するも、人骨は茶色く変色し、風化して海綿状態となっており、
長い年月が経過したものであることがわかり、事件性は薄いということで捜査は打ち切られた。
代わりに学術調査団が編成され、発掘調査がはじまったわけだ。
その結果22体の人骨は、時代や性別、年齢層もバラバラで、一番古いもので、なんと平安時代にまで遡るという。
現在は洞窟と海は道路が敷かれて遮断されているが、かつて洞窟の入口は海に面していたのだ。
流れてきた水死体が波によって洞窟内に入りこみ、そこに堆積していたとも考えられる。
だとすれば、波に流された人骨もあったろうから、22人分の遺骨だけで済まないかもしれない。
じつのところ、ほかにもいろんな仮説があり、どれもが決定打に欠けるのだ。
『テキ穴』は、大昔、島の住人の墓場だったという説、
火を焚いた痕跡もあることから、単なる住居だった説、
海賊が住んでいた説、あるいは人身御供として贄が入れられた説があり、想像が尽きない。
それにしても『テキ穴』の名前の由来はなんであろう。なにか不安をかきたてるネーミングではある。
『北狄』(ほくてき)や『夷狄』(いてき)という、蝦夷と同義の野蛮人を指す『テキ』ではあるまいかという人もいる。
テキ穴を住処とするは、たがために?
http://doune.blog82.fc2.com/blog-entry-495.htm...
不思議アイランド「飛島」
http://blogs.yahoo.co.jp/mas_k2513/13548810.html...
山形県酒田市の北西39kmの日本海に位置する孤島、それが飛島。
飛島は東北の日本海側で唯一の有人島である。面積2.7km、人口280人足らず。
島の歴史は古く、約6000年前の縄文時代のものと推定される遺跡が発見されている。
発掘された土器を分析したところ、東北北部の特徴があるものから、北陸の特徴のものまで、
広範囲の種類が眠っていたことが判明した。
すなわち縄文時代から飛島は、重要な文化の交流地点として機能していたことがわかる。
ところで島では、昭和39年11月に奇妙な事件が発生している。それが『テキ穴騒動』だ。
集落である勝浦と中村の境に位置する、磐の磯近い『ホグラ』に、『テキ穴』なる海蝕でできた洞窟があるのだが、
ある日、飛島中学校の生徒3人がこの穴を探検すべく中に入り、奥にある広い空間で22体分もの人骨を発見したから、
島はたちまち騒然となった。
集団自殺か、はたまた殺人か。
警察が調査するも、人骨は茶色く変色し、風化して海綿状態となっており、
長い年月が経過したものであることがわかり、事件性は薄いということで捜査は打ち切られた。
代わりに学術調査団が編成され、発掘調査がはじまったわけだ。
その結果22体の人骨は、時代や性別、年齢層もバラバラで、一番古いもので、なんと平安時代にまで遡るという。
現在は洞窟と海は道路が敷かれて遮断されているが、かつて洞窟の入口は海に面していたのだ。
流れてきた水死体が波によって洞窟内に入りこみ、そこに堆積していたとも考えられる。
だとすれば、波に流された人骨もあったろうから、22人分の遺骨だけで済まないかもしれない。
じつのところ、ほかにもいろんな仮説があり、どれもが決定打に欠けるのだ。
『テキ穴』は、大昔、島の住人の墓場だったという説、
火を焚いた痕跡もあることから、単なる住居だった説、
海賊が住んでいた説、あるいは人身御供として贄が入れられた説があり、想像が尽きない。
それにしても『テキ穴』の名前の由来はなんであろう。なにか不安をかきたてるネーミングではある。
『北狄』(ほくてき)や『夷狄』(いてき)という、蝦夷と同義の野蛮人を指す『テキ』ではあるまいかという人もいる。
テキ穴を住処とするは、たがために?
http://doune.blog82.fc2.com/blog-entry-495.htm...
不思議アイランド「飛島」
http://blogs.yahoo.co.jp/mas_k2513/13548810.html...
仮面神は硫黄島にもあった
硫黄島 八朔踊り
http://amahorizon.exblog.jp/13212309...
硫黄島八朔太鼓踊
http://webcache.googleusercontent.com/search?q=cache:http://www.iuk....‾matubara/geino/matsuritogeino/taikoodori/iojimahassakutaiko.html
硫黄島 八朔踊り
http://amahorizon.exblog.jp/13212309...
硫黄島八朔太鼓踊
http://webcache.googleusercontent.com/search?q=cache:http://www.iuk....‾matubara/geino/matsuritogeino/taikoodori/iojimahassakutaiko.html
高額当選者が続出だって? 高島の宝当神社(ほうとうじんじゃ)
なんと、とある神社で参拝すると宝くじの当選確率が高くなるという、
にわかには信じがたい島が佐賀県は唐津市にあるそうな。それが高島である。
高島には島の守り神として、島民に慕われている神社がある。野崎隠岐守綱吉なる戦国時代の武将を祀ったものらしい。
綱吉は1554(天文23)年、信州の諏訪に生を授かった。幼いころより文武両道だった綱吉は戦のたびに手柄を立てた。
ところが、その有能さを家臣に妬まれて居場所を失い、西へと流浪し1573年、この高島に移住を決意。
当時、島民たちはせっかく収穫した農作物などを海賊に略奪される災難にあっていた。
綱吉は一肌脱ぐことを誓った。ある日、例のごとく海賊が島民が収穫したばかりの農作物を奪い、
船に乗りこもうとしているところを、綱吉は疾風のごとく追い船に飛び移るや否や、その怪力無双の力で帆柱を引き抜き、
海賊たちをなぎ倒したのだ。
襲いかかっきた海賊を相手に、綱吉自身も負傷しながらも、たった1人で複数の海賊を蹴散らしてしまった。
かろうじて生き残った海賊の数人は、島民から奪ったものを差し出して降参宣言。これにて一件落着と相成ったわけだ。
その後、海賊仲間に綱吉の武勇伝は伝播し、高島は二度と海賊の標的にされなくなったという。
島の平和を取り戻し、島民の誰もに慕われた綱吉だったが、32歳の若さで病死したとのこと。
とはいえ、そのリスペクトぶりはすごい。現在、高島では、多くの住人が野崎姓を名乗っているほどだから。
その綱吉が祀られている宝当神社だが、ここには毎年サマージャンボや年末ジャンボが売り出される時期になると、
全国からこぞって一攫千金を狙う人々が神頼みにやってくるという。年間だけで約15万人もの来客があるというから、
知る人ぞ知るということなのだう。
参拝後、みごと宝くじが当たったとお礼状が社内に飾ってあるのだが1等、2等の高額当選者はめずらしくないんだとか。
これも綱吉の善行のなせるわざなのだろうか。野崎隠岐守綱吉は死しても英雄なのだ。
宝当神社の歴史
http://jinja.ehoh.net/b.htm...
宝当神社参拝ガイド
http://houtou.uresii.biz/index.htm...
なんと、とある神社で参拝すると宝くじの当選確率が高くなるという、
にわかには信じがたい島が佐賀県は唐津市にあるそうな。それが高島である。
高島には島の守り神として、島民に慕われている神社がある。野崎隠岐守綱吉なる戦国時代の武将を祀ったものらしい。
綱吉は1554(天文23)年、信州の諏訪に生を授かった。幼いころより文武両道だった綱吉は戦のたびに手柄を立てた。
ところが、その有能さを家臣に妬まれて居場所を失い、西へと流浪し1573年、この高島に移住を決意。
当時、島民たちはせっかく収穫した農作物などを海賊に略奪される災難にあっていた。
綱吉は一肌脱ぐことを誓った。ある日、例のごとく海賊が島民が収穫したばかりの農作物を奪い、
船に乗りこもうとしているところを、綱吉は疾風のごとく追い船に飛び移るや否や、その怪力無双の力で帆柱を引き抜き、
海賊たちをなぎ倒したのだ。
襲いかかっきた海賊を相手に、綱吉自身も負傷しながらも、たった1人で複数の海賊を蹴散らしてしまった。
かろうじて生き残った海賊の数人は、島民から奪ったものを差し出して降参宣言。これにて一件落着と相成ったわけだ。
その後、海賊仲間に綱吉の武勇伝は伝播し、高島は二度と海賊の標的にされなくなったという。
島の平和を取り戻し、島民の誰もに慕われた綱吉だったが、32歳の若さで病死したとのこと。
とはいえ、そのリスペクトぶりはすごい。現在、高島では、多くの住人が野崎姓を名乗っているほどだから。
その綱吉が祀られている宝当神社だが、ここには毎年サマージャンボや年末ジャンボが売り出される時期になると、
全国からこぞって一攫千金を狙う人々が神頼みにやってくるという。年間だけで約15万人もの来客があるというから、
知る人ぞ知るということなのだう。
参拝後、みごと宝くじが当たったとお礼状が社内に飾ってあるのだが1等、2等の高額当選者はめずらしくないんだとか。
これも綱吉の善行のなせるわざなのだろうか。野崎隠岐守綱吉は死しても英雄なのだ。
宝当神社の歴史
http://jinja.ehoh.net/b.htm...
宝当神社参拝ガイド
http://houtou.uresii.biz/index.htm...
妖怪『素麺婆』は実在した? 直島
瀬戸内海上に浮かぶ直島。
地元では江戸時代初期から、魔物と化したばあさんが住みついていると信じられてきた小川がある。
その言い伝えがこんな内容だ。
あるとき、村人の法要に出向いた僧侶は精進落としのそうめんと酒を振舞われた。
満腹になり、酔いも回った。夕方になったので、帰途に着くことに。
暗い山越えの道の途中、のどの渇きを憶えた僧侶は小川を見つけた。
近づくと、川面にざんばら髪の見るからに怪しい老婆が現れたではないか。
「水を飲んで休んでいかれたらよろし」と、老婆が言った。
僧侶は訝しげに思いつつも小川の前でひざまずき、水を飲み始めた。
老婆はその隙を見逃さなかった。僧侶を川に引きずりこむと殺してしまったのだ。
老婆の蛮行はそれだけにとどまらない。僧侶の腹を裂くと、胃袋から未消化のそうめんをつかみ出し、
川の水でそうめんをすすいでからズルズルと食らったのだ。
それ以来、幾度となくこの小川で人が殺され、腹を裂かれては食べたばかりのそうめんを食べる老婆が目撃された。
……と、概要からすれば荒唐無稽な話だが、ごく近年にまで目撃談があり、
ありきたりな妖怪話で済まされないのが興味深い。
実はこの『そうめん川』の近くに屋敷があり、鶏の屠殺を生業とする老婆(目撃談によると、
40代だったともされている)が、神格化ならぬ『妖怪化』されて作られた妖怪だったらしい。
伝説のそうめんばばあ屋敷跡を新聞社取材班が発見
http://matome.naver.jp/odai/213308944301439310...
瀬戸内海上に浮かぶ直島。
地元では江戸時代初期から、魔物と化したばあさんが住みついていると信じられてきた小川がある。
その言い伝えがこんな内容だ。
あるとき、村人の法要に出向いた僧侶は精進落としのそうめんと酒を振舞われた。
満腹になり、酔いも回った。夕方になったので、帰途に着くことに。
暗い山越えの道の途中、のどの渇きを憶えた僧侶は小川を見つけた。
近づくと、川面にざんばら髪の見るからに怪しい老婆が現れたではないか。
「水を飲んで休んでいかれたらよろし」と、老婆が言った。
僧侶は訝しげに思いつつも小川の前でひざまずき、水を飲み始めた。
老婆はその隙を見逃さなかった。僧侶を川に引きずりこむと殺してしまったのだ。
老婆の蛮行はそれだけにとどまらない。僧侶の腹を裂くと、胃袋から未消化のそうめんをつかみ出し、
川の水でそうめんをすすいでからズルズルと食らったのだ。
それ以来、幾度となくこの小川で人が殺され、腹を裂かれては食べたばかりのそうめんを食べる老婆が目撃された。
……と、概要からすれば荒唐無稽な話だが、ごく近年にまで目撃談があり、
ありきたりな妖怪話で済まされないのが興味深い。
実はこの『そうめん川』の近くに屋敷があり、鶏の屠殺を生業とする老婆(目撃談によると、
40代だったともされている)が、神格化ならぬ『妖怪化』されて作られた妖怪だったらしい。
伝説のそうめんばばあ屋敷跡を新聞社取材班が発見
http://matome.naver.jp/odai/213308944301439310...
悲しき口減らし 八丈島の『人捨穴』
東京から287km離れた絶海の孤島、八丈島。
かつて日本では罪人に対する刑罰『流罪』があった。言うまでもなく流罪は別名『島流しの刑』であり、
最高刑である死罪に次ぐ重い刑だった。
八丈島が流刑の地として選ばれた理由のひとつに、黒潮の流れが速いことから『島破り』『島抜け』
(島からの脱走)が困難だったためとされている。
関ヶ原の戦いで西軍石田三成方に属した宇喜多秀家を筆頭に、その後、
明治初期に流罪が廃止されるまで八丈島には1900人近くの流人が送られてきた。
流刑地といえば聞こえは悪いが、流罪を言い渡される罪人は暴力犯よりも政治犯がほとんどであった。
そして政治犯の多くは文化人であり、元は貴族等位の高い者であった。
したがって、そのような人物が大勢流される島には豊かな文化が伝えられ、栄える事例もめずらしくなかったが、
それには流人を温かく迎え入れた島民の寛大な心のおかげだったからこそである。
むしろ島民の方こそ情報が欲しくて、積極的に流人を招き入れたほどであった。
さて、その八丈島と言えども、かつては食べるに困り、泣く泣く家族を口減らしにした悲しき歴史があった。
陸の孤島はただですら食料が乏しい。1822(文政5年)、新島からさつまいもが八丈島に伝播するまで慢性的飢饉が続き、
ついに島民は緊急避難として家族を間引きすることを決意したのだ。
三原山を分け入った先にその穴はあるという。『人捨穴』と呼ばれる穴が。
その昔、島では高齢を迎えた老人たちが男女問わずここへ連れてこられ放置された(ほとんどが自主的だったとも)。
穴に入れられた老人たちは何も口にせず、ただ死を待つのみであった。
はたして暗闇の向こうに、島の希望の灯火が見えたのだろうか?
西高東低波高し!!温泉だらけの八丈島旅行 part6 人捨穴
http://tripvader.jugem.jp/?eid=30...
聖堂の詩その7—人捨て穴
http://blog.goo.ne.jp/soujyakuwakasa/e/98553cb551aaf...
江戸時代の人口調整方法
http://www.systemicsarchive.com/ja/a/population.htm...
東京から287km離れた絶海の孤島、八丈島。
かつて日本では罪人に対する刑罰『流罪』があった。言うまでもなく流罪は別名『島流しの刑』であり、
最高刑である死罪に次ぐ重い刑だった。
八丈島が流刑の地として選ばれた理由のひとつに、黒潮の流れが速いことから『島破り』『島抜け』
(島からの脱走)が困難だったためとされている。
関ヶ原の戦いで西軍石田三成方に属した宇喜多秀家を筆頭に、その後、
明治初期に流罪が廃止されるまで八丈島には1900人近くの流人が送られてきた。
流刑地といえば聞こえは悪いが、流罪を言い渡される罪人は暴力犯よりも政治犯がほとんどであった。
そして政治犯の多くは文化人であり、元は貴族等位の高い者であった。
したがって、そのような人物が大勢流される島には豊かな文化が伝えられ、栄える事例もめずらしくなかったが、
それには流人を温かく迎え入れた島民の寛大な心のおかげだったからこそである。
むしろ島民の方こそ情報が欲しくて、積極的に流人を招き入れたほどであった。
さて、その八丈島と言えども、かつては食べるに困り、泣く泣く家族を口減らしにした悲しき歴史があった。
陸の孤島はただですら食料が乏しい。1822(文政5年)、新島からさつまいもが八丈島に伝播するまで慢性的飢饉が続き、
ついに島民は緊急避難として家族を間引きすることを決意したのだ。
三原山を分け入った先にその穴はあるという。『人捨穴』と呼ばれる穴が。
その昔、島では高齢を迎えた老人たちが男女問わずここへ連れてこられ放置された(ほとんどが自主的だったとも)。
穴に入れられた老人たちは何も口にせず、ただ死を待つのみであった。
はたして暗闇の向こうに、島の希望の灯火が見えたのだろうか?
西高東低波高し!!温泉だらけの八丈島旅行 part6 人捨穴
http://tripvader.jugem.jp/?eid=30...
聖堂の詩その7—人捨て穴
http://blog.goo.ne.jp/soujyakuwakasa/e/98553cb551aaf...
江戸時代の人口調整方法
http://www.systemicsarchive.com/ja/a/population.htm...
52:天之御名無主 :02/02/08 06:17
15年ぐらい前にNHKで見たレポートで、瀬戸内海のとある島ではいまだにある風習が続いていて、
それはその島の子供が16歳になると、絶対にセックスをしなくてはならないものでした。
ルールはこう。
その祭りは一定期間内に行われるもので、祭りになると男・女それぞれ3〜4人同士でとある家に集まり、
3日ぐらい共同生活を続けます。
そこで気の合う同士で事を行うのですが、選択権があるのは男子だけで、
指名を受けた女子には拒否権がありません。
可愛い1番人気の子には、当然、バッティングもあり得るのですが、
そうなると親同士の話し合いで、決着を付けなければなりません。
引き下がった男子は、他の女子を指名しなくてはなりません。
例え相手が凄いブサイクでもセックスしなくては一家の恥なのですから。
すなわち、何が何でもペアにならなくてはならないのです。
セックスする順番にもルールがあったはずなのですが、忘れてしまいました。
ペアになると両家の親同士があつまり、隣の部屋でセックスする自分たちの子供の様子を
伺うそうです。
親たちは伺いながら興奮するどころか、上手く仲良くなれるかが心配で仕方ないとか
なんとか言ってたことを覚えています。
勿論、TVではセックスの場面などは映すわけが無く、家に集まった子供たちが
ダベリあってる場面とか、親たちの顔を写してるだけでしたが、
この放送を見た当時はまじでショックでした。
どうしてこの島に生まれなかったのだろうかと。
だれかこの話に心当たりがある人、見てないかな?
70:天之御名無主 :02/04/20 15:50
>>52
夢と希望をありがとう・・・
15年ぐらい前にNHKで見たレポートで、瀬戸内海のとある島ではいまだにある風習が続いていて、
それはその島の子供が16歳になると、絶対にセックスをしなくてはならないものでした。
ルールはこう。
その祭りは一定期間内に行われるもので、祭りになると男・女それぞれ3〜4人同士でとある家に集まり、
3日ぐらい共同生活を続けます。
そこで気の合う同士で事を行うのですが、選択権があるのは男子だけで、
指名を受けた女子には拒否権がありません。
可愛い1番人気の子には、当然、バッティングもあり得るのですが、
そうなると親同士の話し合いで、決着を付けなければなりません。
引き下がった男子は、他の女子を指名しなくてはなりません。
例え相手が凄いブサイクでもセックスしなくては一家の恥なのですから。
すなわち、何が何でもペアにならなくてはならないのです。
セックスする順番にもルールがあったはずなのですが、忘れてしまいました。
ペアになると両家の親同士があつまり、隣の部屋でセックスする自分たちの子供の様子を
伺うそうです。
親たちは伺いながら興奮するどころか、上手く仲良くなれるかが心配で仕方ないとか
なんとか言ってたことを覚えています。
勿論、TVではセックスの場面などは映すわけが無く、家に集まった子供たちが
ダベリあってる場面とか、親たちの顔を写してるだけでしたが、
この放送を見た当時はまじでショックでした。
どうしてこの島に生まれなかったのだろうかと。
だれかこの話に心当たりがある人、見てないかな?
70:天之御名無主 :02/04/20 15:50
>>52
夢と希望をありがとう・・・
日本のアトランティス 瓜生島
その島は伝説そのものである。
大分県の別府湾には、かつて瓜生島と呼ばれる島があったと言われている。
大分市の沖合500mほどの位置にあったといい、周囲約12km、人口は5000人を擁し、
港町として賑わいを見せていたとされている。
ところが1596(文禄5)年に起きた大地震により崩壊、津波に飲みこまれ、島はたった1日にして海底に沈んだというのだ。
地震については、ポルトガル人宣教師ルイス・フロイスが、「九州にある太閤の海港が地震によって被害を受けた」と言及しているうえ、
実際に起きた地震であったことが現在研究で判明している。慶長豊後地震を示唆しているのではないかとの見解を出している。
震源地は別府湾南東部で、マグニチュード7.0程度の地震が起きたものだったらしい。
もっとも、1699(元禄12)年に記された『豊府聞書』なる瓜生島についての書物があるのだが、
いかんせん地震から100年以上あとの記述であるため信憑性に欠けるとして、いまだ伝説の域から脱しきれていないのが現状である。
島には古老の口伝により言い伝えが語り継がれてきた。
それはこんな内容だった。「瓜生島に住む人々は仲良くしなくてはならぬ。一人でも仲たがいをする者があれば、
神仏の怒りに触れ、島は海中に沈んでしまう。その前兆として、守り神ののえびす様のお顔が真赤になる」
この言い伝えを鼻で笑った申引村(さからすむら)に住む加藤良斎という医者が、悪ふざけのつもりでえびす様の顔を真っ赤に塗ってしまう。
奇しくも地震が頻発し、やがて大津波が島を襲い、一夜にして島は跡形もなく消えてしまったというのだ。
専門家の音波探査機による調査では、まさしく瓜生島があったとされる位置の海底に地層の乱れが示された。
東西約2.2km、頂点から底辺までが約2.5kmのトライアングルゾーンに、多量の土砂が堆積していることが明らかとなったのだ。
これが伝説の島の名残であろうか……。
瓜生島沈没ー日本のアトランティス物語
http://www.ailab7.com/uryuu.htm...
瓜生島 “沈んだ島”の虚像と実像
http://homepage3.nifty.com/boumurou/island/10/uryujima.ht...
その島は伝説そのものである。
大分県の別府湾には、かつて瓜生島と呼ばれる島があったと言われている。
大分市の沖合500mほどの位置にあったといい、周囲約12km、人口は5000人を擁し、
港町として賑わいを見せていたとされている。
ところが1596(文禄5)年に起きた大地震により崩壊、津波に飲みこまれ、島はたった1日にして海底に沈んだというのだ。
地震については、ポルトガル人宣教師ルイス・フロイスが、「九州にある太閤の海港が地震によって被害を受けた」と言及しているうえ、
実際に起きた地震であったことが現在研究で判明している。慶長豊後地震を示唆しているのではないかとの見解を出している。
震源地は別府湾南東部で、マグニチュード7.0程度の地震が起きたものだったらしい。
もっとも、1699(元禄12)年に記された『豊府聞書』なる瓜生島についての書物があるのだが、
いかんせん地震から100年以上あとの記述であるため信憑性に欠けるとして、いまだ伝説の域から脱しきれていないのが現状である。
島には古老の口伝により言い伝えが語り継がれてきた。
それはこんな内容だった。「瓜生島に住む人々は仲良くしなくてはならぬ。一人でも仲たがいをする者があれば、
神仏の怒りに触れ、島は海中に沈んでしまう。その前兆として、守り神ののえびす様のお顔が真赤になる」
この言い伝えを鼻で笑った申引村(さからすむら)に住む加藤良斎という医者が、悪ふざけのつもりでえびす様の顔を真っ赤に塗ってしまう。
奇しくも地震が頻発し、やがて大津波が島を襲い、一夜にして島は跡形もなく消えてしまったというのだ。
専門家の音波探査機による調査では、まさしく瓜生島があったとされる位置の海底に地層の乱れが示された。
東西約2.2km、頂点から底辺までが約2.5kmのトライアングルゾーンに、多量の土砂が堆積していることが明らかとなったのだ。
これが伝説の島の名残であろうか……。
瓜生島沈没ー日本のアトランティス物語
http://www.ailab7.com/uryuu.htm...
瓜生島 “沈んだ島”の虚像と実像
http://homepage3.nifty.com/boumurou/island/10/uryujima.ht...
しめ縄の向こうは常世 夫婦岩
三重県伊勢市の二見興玉神社にある夫婦岩は、一般的に夫婦円満や家内安全、海上保安、
大漁追福の象徴であり祈願祈念でもあるが、古くは古神道における磐座信仰とされ、
自然に存在する巨石、岩、山を御神体とし、神が宿る場所として崇められてきた。
それを注連縄で飾り、鳥居を備えたりして、神が鎮座する証としている。
夫婦岩の大きさは、男岩(おいわ)で高さ9m、女岩(めいわ)は高さ4m、2つの岩を結ぶ大注連縄の長さは35mを誇り、
男岩には16m、女岩に10m巻かれ、その間が9mあるそうだ。
夫婦岩は、沖合660mの海中に鎮まる興玉神石の鳥居と見なされており、日の出の遥拝所として古くから知られ、
両岩の間からの日の出は、5月から7月頃が見ごろである。
男岩と女岩を結ぶ大注連縄は、『結界の縄』と称され、注連縄の向こうを常世神(とこよのかみ)が
太平洋の彼方から寄りつく聖なる場所、そして手前を俗世という隔たりを表している。
この大注連縄は、文保年間(1317〜1319年)には張られていたらしく、現在も氏子たちにより年3回、
張替え神事が行われている。
『古事記』においても夫婦の神話が多くあり、イザナギとイザナミ、サルタヒコとアメノウズメなどの物語があり、
これらが賽の神(さいのかみ)や道祖神になり、磐座信仰と変遷していったと考えられている。
このことから地蔵や道祖神において夫婦が一体となってかたどられたり、
2つの大小の岩や石像が一対となったものが祀られているものは、全国に多い。
胸を焦がす、二見の海の彼方に常世の国
http://beniiwa.blog97.fc2.com/blog-entry-816.htm...
三重県伊勢市の二見興玉神社にある夫婦岩は、一般的に夫婦円満や家内安全、海上保安、
大漁追福の象徴であり祈願祈念でもあるが、古くは古神道における磐座信仰とされ、
自然に存在する巨石、岩、山を御神体とし、神が宿る場所として崇められてきた。
それを注連縄で飾り、鳥居を備えたりして、神が鎮座する証としている。
夫婦岩の大きさは、男岩(おいわ)で高さ9m、女岩(めいわ)は高さ4m、2つの岩を結ぶ大注連縄の長さは35mを誇り、
男岩には16m、女岩に10m巻かれ、その間が9mあるそうだ。
夫婦岩は、沖合660mの海中に鎮まる興玉神石の鳥居と見なされており、日の出の遥拝所として古くから知られ、
両岩の間からの日の出は、5月から7月頃が見ごろである。
男岩と女岩を結ぶ大注連縄は、『結界の縄』と称され、注連縄の向こうを常世神(とこよのかみ)が
太平洋の彼方から寄りつく聖なる場所、そして手前を俗世という隔たりを表している。
この大注連縄は、文保年間(1317〜1319年)には張られていたらしく、現在も氏子たちにより年3回、
張替え神事が行われている。
『古事記』においても夫婦の神話が多くあり、イザナギとイザナミ、サルタヒコとアメノウズメなどの物語があり、
これらが賽の神(さいのかみ)や道祖神になり、磐座信仰と変遷していったと考えられている。
このことから地蔵や道祖神において夫婦が一体となってかたどられたり、
2つの大小の岩や石像が一対となったものが祀られているものは、全国に多い。
胸を焦がす、二見の海の彼方に常世の国
http://beniiwa.blog97.fc2.com/blog-entry-816.htm...
まるで要塞 四阪島(しさかじま)
その島の佇まいは軍艦島にそっくり。
軍艦島こと端島が炭鉱専用の島だったのに対し、四阪島は島全体が銅山の製錬所だ。
四阪島は、瀬戸内海の燧灘(ひうちなだ)、大島 (愛媛県今治市)の南東約10km、愛媛県新居浜市の北約20kmに浮かぶ島である。
正確には、家ノ島、美濃島、明神島、鼠島、梶島の5つの島で構成されるが、一般に四阪島と呼ばれる。
現在、島は住友金属鉱山の工場があり、全島同社の管理下となっている。人口はゼロ、従業員だけが定期船で行き来している。
1691(元禄4)年に別子銅山が開坑して以来、住友は銅の製錬事業所を別子銅山麓の山根地区、新居浜港地区と移してきた。
しかし、いずれも亜硫酸ガスによる煙害の問題により木が大量に枯死。
やむなく1905(明治38)年1月、当時の別子銅山の支配人、伊庭貞剛が新居浜市北方沖合20kmの無人島である四阪島に移転を命じた。
製錬所造成時には、家ノ島と美濃島は埋め立てられ陸続きとなり、家ノ島に精錬所、美濃島には社宅等が設置された。
1922(大正11)年には海底ケーブルにより新居浜市から電気が供給。これらにより、同島は別子銅山の製錬所として大きく発展し、
人口は大正時代に最大5500人を超え、昭和30年代においても4000人近くにのぼった。
しかしながら、精錬所が四阪島に移転したことにより、煙害はかえって広範囲に広がる悪循環となる。
被害は1939(昭和14)年の硫煙処理装置の設置まで続いた。
別子銅山の閉山、新居浜東予精錬所の操業開始により、精錬所としての重要性は低下、順次合理化が図られ、
1976(昭和51)年12月に溶鉱炉の火は消え、1977(昭和52)年4月には一部の工場関係者を除いて島を離れた。
同じように瀬戸内の離島で大正以降三菱の銅精錬の島となった香川県直島と同じような繁栄と煙害の道を歩んだが、
もとから集落の栄えていた直島と異なり、四阪島は1988(昭和63)年以降人口ゼロの島となった。
71年間に精錬した銅は約220万トンにのぼるという。
ただ、1977(昭和52)年には住友金属鉱山酸化亜鉛の製造工場が完成、従業員が新居浜港から船で通勤することとなった。
工場は現在も稼動中であり、毎日新居浜港から事業用の定期便の船が出ており、島内には50人前後の人が従事している。
大島 『産業遺産の残る四阪島』 見学
http://www.cyclo-shimanami.com/point/oshima/post-70.ph...
幻の廃墟島 1/5
http://www.geocities.jp/teamhaikyo/kouzan/sisaka/sisak...
その島の佇まいは軍艦島にそっくり。
軍艦島こと端島が炭鉱専用の島だったのに対し、四阪島は島全体が銅山の製錬所だ。
四阪島は、瀬戸内海の燧灘(ひうちなだ)、大島 (愛媛県今治市)の南東約10km、愛媛県新居浜市の北約20kmに浮かぶ島である。
正確には、家ノ島、美濃島、明神島、鼠島、梶島の5つの島で構成されるが、一般に四阪島と呼ばれる。
現在、島は住友金属鉱山の工場があり、全島同社の管理下となっている。人口はゼロ、従業員だけが定期船で行き来している。
1691(元禄4)年に別子銅山が開坑して以来、住友は銅の製錬事業所を別子銅山麓の山根地区、新居浜港地区と移してきた。
しかし、いずれも亜硫酸ガスによる煙害の問題により木が大量に枯死。
やむなく1905(明治38)年1月、当時の別子銅山の支配人、伊庭貞剛が新居浜市北方沖合20kmの無人島である四阪島に移転を命じた。
製錬所造成時には、家ノ島と美濃島は埋め立てられ陸続きとなり、家ノ島に精錬所、美濃島には社宅等が設置された。
1922(大正11)年には海底ケーブルにより新居浜市から電気が供給。これらにより、同島は別子銅山の製錬所として大きく発展し、
人口は大正時代に最大5500人を超え、昭和30年代においても4000人近くにのぼった。
しかしながら、精錬所が四阪島に移転したことにより、煙害はかえって広範囲に広がる悪循環となる。
被害は1939(昭和14)年の硫煙処理装置の設置まで続いた。
別子銅山の閉山、新居浜東予精錬所の操業開始により、精錬所としての重要性は低下、順次合理化が図られ、
1976(昭和51)年12月に溶鉱炉の火は消え、1977(昭和52)年4月には一部の工場関係者を除いて島を離れた。
同じように瀬戸内の離島で大正以降三菱の銅精錬の島となった香川県直島と同じような繁栄と煙害の道を歩んだが、
もとから集落の栄えていた直島と異なり、四阪島は1988(昭和63)年以降人口ゼロの島となった。
71年間に精錬した銅は約220万トンにのぼるという。
ただ、1977(昭和52)年には住友金属鉱山酸化亜鉛の製造工場が完成、従業員が新居浜港から船で通勤することとなった。
工場は現在も稼動中であり、毎日新居浜港から事業用の定期便の船が出ており、島内には50人前後の人が従事している。
大島 『産業遺産の残る四阪島』 見学
http://www.cyclo-shimanami.com/point/oshima/post-70.ph...
幻の廃墟島 1/5
http://www.geocities.jp/teamhaikyo/kouzan/sisaka/sisak...
補陀落渡海追記3
僕の自宅から車で走ること50分足らずのところに、和歌山県は那智勝浦町の補陀落山寺がある。
このスレッドに紹介しておきながら、今の今まで訪れなかったのは怠慢以外のなにものでもあるまい。
思い立ったが吉日。さっそく今日の朝、足を運んだのだ。
那智勝浦町浜の宮の国道43号線沿いにその寺はあるのだが、どちらかと言うと、
さらにこの道を進んだ先にある名勝、那智の滝の方が全国的に知名度が高いだろう(ちなみにこの道中こそ、
昨年9月の紀伊半島豪雨で甚大な被害をもたらしたエリアでもある)。
土日となると那智の滝は観光客でごった返すものだが、案の定、アングラ的な存在の補陀落山寺は訪れる客もまばらであった。
境内はそこそこ広いが、閑散とした雰囲気。
かるく樹齢500年は超えていそうな極太の杉の大木がそそり立ち、はるか上は樹冠で太陽光が遮られ、
炎天下にさらされた駐車場とは打って変わってひんやりしていた。
そのなかで一際目を引くのは、やはり渡海船の原寸大の模型だ。
屋形を取り囲むようにして取り付けられた4つの鳥居。それぞれが『発心門』『修行門』『菩薩門』『涅槃門』の4門を意味している。
修験道の葬送作法によれば、死者はこの4門をくぐって浄土往生すると考えられていた。
同時に、渡海船がそのまま葬送の場(殯・もがり)であったともいえる。
殯 Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AE%A...
僕の自宅から車で走ること50分足らずのところに、和歌山県は那智勝浦町の補陀落山寺がある。
このスレッドに紹介しておきながら、今の今まで訪れなかったのは怠慢以外のなにものでもあるまい。
思い立ったが吉日。さっそく今日の朝、足を運んだのだ。
那智勝浦町浜の宮の国道43号線沿いにその寺はあるのだが、どちらかと言うと、
さらにこの道を進んだ先にある名勝、那智の滝の方が全国的に知名度が高いだろう(ちなみにこの道中こそ、
昨年9月の紀伊半島豪雨で甚大な被害をもたらしたエリアでもある)。
土日となると那智の滝は観光客でごった返すものだが、案の定、アングラ的な存在の補陀落山寺は訪れる客もまばらであった。
境内はそこそこ広いが、閑散とした雰囲気。
かるく樹齢500年は超えていそうな極太の杉の大木がそそり立ち、はるか上は樹冠で太陽光が遮られ、
炎天下にさらされた駐車場とは打って変わってひんやりしていた。
そのなかで一際目を引くのは、やはり渡海船の原寸大の模型だ。
屋形を取り囲むようにして取り付けられた4つの鳥居。それぞれが『発心門』『修行門』『菩薩門』『涅槃門』の4門を意味している。
修験道の葬送作法によれば、死者はこの4門をくぐって浄土往生すると考えられていた。
同時に、渡海船がそのまま葬送の場(殯・もがり)であったともいえる。
殯 Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AE%A...
補陀落渡海追記4
平成5年5月、地元の南紀州新聞社の企画、補陀落山寺の高木亮享住職、高木亮英副住職の監修のもと、
渡海船が再現された。
戸板で塞ぐ前の小窓から屋形内をデジカメでパチリ。たぶんこれはめずらしいショットのはず。
ネットで検索しても、みんな不謹慎がってか、こんな大胆な画を撮っていないと思われる(見えるのは明和水産の当スレだけ!)。
サイズを示す小道具と一緒に写すべきだった。気が利かず申し訳ない。
のぞいた感じ、内部は常時、座った体勢しかとれないようだった。こんな狭い場所に僧たちは閉じこめられたのだ。
座禅を組み、お経を唱え続けるのが最後のつとめだっただろう。
とはいえ現実は波に翻弄されれば、壁や天井にしたたか身体を打ちつけたはずだ。
閉所恐怖にくわえ迫りくる死の恐怖。気が狂ってしまう僧がいたとして、誰が非難できようか?
水や食料、灯火の油など、ひと月分備蓄したうえで船出したとのことだが、はたして糞尿の処理はどうしたのか?
この件に関しては、再度補陀落山寺に訪れたときの課題としておこう。
もっとも、この模型とて正確な資料が現存していたわけではなく、かなり脚色が混じっているという。
画像をご覧になれば一目瞭然、皿ビスが写っているのはご愛嬌ということで。
平成5年5月、地元の南紀州新聞社の企画、補陀落山寺の高木亮享住職、高木亮英副住職の監修のもと、
渡海船が再現された。
戸板で塞ぐ前の小窓から屋形内をデジカメでパチリ。たぶんこれはめずらしいショットのはず。
ネットで検索しても、みんな不謹慎がってか、こんな大胆な画を撮っていないと思われる(見えるのは明和水産の当スレだけ!)。
サイズを示す小道具と一緒に写すべきだった。気が利かず申し訳ない。
のぞいた感じ、内部は常時、座った体勢しかとれないようだった。こんな狭い場所に僧たちは閉じこめられたのだ。
座禅を組み、お経を唱え続けるのが最後のつとめだっただろう。
とはいえ現実は波に翻弄されれば、壁や天井にしたたか身体を打ちつけたはずだ。
閉所恐怖にくわえ迫りくる死の恐怖。気が狂ってしまう僧がいたとして、誰が非難できようか?
水や食料、灯火の油など、ひと月分備蓄したうえで船出したとのことだが、はたして糞尿の処理はどうしたのか?
この件に関しては、再度補陀落山寺に訪れたときの課題としておこう。
もっとも、この模型とて正確な資料が現存していたわけではなく、かなり脚色が混じっているという。
画像をご覧になれば一目瞭然、皿ビスが写っているのはご愛嬌ということで。
補陀落渡海追記5
>>186でも言及した金光坊の脱走事件をきっかけに、この風習は見直されていった。
生きたまま船出するのではなく、僧の死後、補陀落渡海のやり方そのままで水葬の形式に変遷していったという。
画像は境内にある記念碑を写したもの。ちょうど中央に金光坊の名が刻まれている。
本堂では、土産物売り場兼語り部のおじさんが常駐しており、観光客数人相手に語って聞かせていた。
ここまで来たならば話を聞かず帰るわけにはいくまい。
「たった1人で来た者ですが、話に付き合ってくれませんか? 補陀落渡海について、以前から興味があったんです」
と名乗り出ると、語り部のおじさんは待ってましたと言わんばかりに眼を輝かせ、僕に語ってくれた。
もっとも、この風習は先にもいったようにほとんど資料が残されていないそうだ。
どういう経緯で、平安前期の貞観10年(868)の慶龍上人がまず最初の渡海者として選ばれ、
なぜ生きたまま渡海しなければならなかったのか。
>>186でも言及した金光坊の脱走事件をきっかけに、この風習は見直されていった。
生きたまま船出するのではなく、僧の死後、補陀落渡海のやり方そのままで水葬の形式に変遷していったという。
画像は境内にある記念碑を写したもの。ちょうど中央に金光坊の名が刻まれている。
本堂では、土産物売り場兼語り部のおじさんが常駐しており、観光客数人相手に語って聞かせていた。
ここまで来たならば話を聞かず帰るわけにはいくまい。
「たった1人で来た者ですが、話に付き合ってくれませんか? 補陀落渡海について、以前から興味があったんです」
と名乗り出ると、語り部のおじさんは待ってましたと言わんばかりに眼を輝かせ、僕に語ってくれた。
もっとも、この風習は先にもいったようにほとんど資料が残されていないそうだ。
どういう経緯で、平安前期の貞観10年(868)の慶龍上人がまず最初の渡海者として選ばれ、
なぜ生きたまま渡海しなければならなかったのか。
補陀落渡海追記6
記念碑には那智から船出した25人の僧の名を列挙しているが、
実際は人知れず志願した者もいたりして正確な数字がわかっていないらしい。
修験者の方も含まれていた。修行する者にとって、補陀落渡海に出るということは大変名誉なことだった。
いずれにせよ、どれもが謎に包まれ、研究家の推測の域を脱していないのが現状である。
ひとつわかっているのは、当時の民衆は僧の渡海を望んでいたことだ。
時代が混迷し、人々が生きることに絶望したとき、本尊に祀ってある千手観音菩薩に救済を求めた。
そんな思いを背負って僧たちは船に乗り込んだにちがいない。
ところが、いくら僧とて人の子。
渡海に出かけるまで、いろんなドラマがあったであろう。
那智の浜から南方に、仏に仕える者や民衆の理想郷、常世があったとされる。
伝説によると、インドのはるか南方の海上にあり、八角の形状をした山であるといわれる。常世はそこを示唆するのか?
おじさんとの談義は有意義なものとなった。その話も書くと長くなりすぎるから割愛する。
また近いうち、ここを訪れるだろう。
帰り際、車窓から那智浦沖に見える岩礁を眺めた。
頼りなげな金光坊島(こんこぶじま)が波間に見え隠れしていた。
……思いっきり、個人的なブログにしてしまい、相すまぬ。
画像は那智参詣曼荼羅。
記念碑には那智から船出した25人の僧の名を列挙しているが、
実際は人知れず志願した者もいたりして正確な数字がわかっていないらしい。
修験者の方も含まれていた。修行する者にとって、補陀落渡海に出るということは大変名誉なことだった。
いずれにせよ、どれもが謎に包まれ、研究家の推測の域を脱していないのが現状である。
ひとつわかっているのは、当時の民衆は僧の渡海を望んでいたことだ。
時代が混迷し、人々が生きることに絶望したとき、本尊に祀ってある千手観音菩薩に救済を求めた。
そんな思いを背負って僧たちは船に乗り込んだにちがいない。
ところが、いくら僧とて人の子。
渡海に出かけるまで、いろんなドラマがあったであろう。
那智の浜から南方に、仏に仕える者や民衆の理想郷、常世があったとされる。
伝説によると、インドのはるか南方の海上にあり、八角の形状をした山であるといわれる。常世はそこを示唆するのか?
おじさんとの談義は有意義なものとなった。その話も書くと長くなりすぎるから割愛する。
また近いうち、ここを訪れるだろう。
帰り際、車窓から那智浦沖に見える岩礁を眺めた。
頼りなげな金光坊島(こんこぶじま)が波間に見え隠れしていた。
……思いっきり、個人的なブログにしてしまい、相すまぬ。
画像は那智参詣曼荼羅。
[YouTubeで再生]
徐福キタ━━━━(゚∀゚)━━━━ッ! 冠島
京都府舞鶴市成生岬より約10km沖、日本海の真っ只中に浮かぶ無人島、冠島。
別名を雄島、常世島(とこよじま)、あるいは竜宮島とも呼ばれている。
島周囲の海底の一部には、弥生時代に創られたといわれる遺跡のようなものあるが、その詳細は不明だ。
一説によると、701(大宝元年)年3月、凡海郷(おおしあまのさと・現在の舞鶴市及び加佐郡大江町あたりにあったとされる郷名。
大浦半島に隣接する大きな島)が、三日三晩続いた地震により、峯2つを残して海没。
この2つの峯こそ冠島と沓島(くつじま)だと言われている。
さて、その冠島には徐福伝説が残されている。
徐福の一行はこの島で仙薬を見つけ、丹後半島へ上陸したとのこと。
徐福の求めた不老不死の仙薬とは、島に自生する黒茎の蓬(くろくきのよもぎ)や九節の菖蒲だったとも言われている。
秦の始皇帝から不老不死の秘薬を探してこいと遣わされた徐福だが、蓬莱山と謳われた日本の地を踏んだとされるエリアは驚くほど広い。
これはわからないでもない。童男童女3000人と機織り職人、紙職人、農耕技術者、漁業(主に捕鯨)などの専門家、
木工、製鉄、造船などの技術者などを擁し大陸から渡ってきたのだ。
当然何隻もの船でやってきた。大船団なので別行動をとる船もあったろう。
ある船は対馬海流に乗って東北地方まで、別の船は黒潮に乗って熊野灘に面した紀伊半島や伊勢湾、三河湾、
遠州灘に面した地域や伊豆半島、八丈島などに漂流したにちがいない。
あるいは意図せず時化に遭遇し、散り散りになってしまったためかもしれない。
徐福伝説
http://www.asukanet.gr.jp/tobira/jofuku/jofuku.ht...
冠島・沓島(かんむりじま・くつじま)京都府舞鶴市
http://www.geocities.jp/k_saito_site/doc/tango/kanmuri...
凡海郷〜おおしあまのさと〜
http://kammuri.com/index.ht...
徐福キタ━━━━(゚∀゚)━━━━ッ! 冠島
京都府舞鶴市成生岬より約10km沖、日本海の真っ只中に浮かぶ無人島、冠島。
別名を雄島、常世島(とこよじま)、あるいは竜宮島とも呼ばれている。
島周囲の海底の一部には、弥生時代に創られたといわれる遺跡のようなものあるが、その詳細は不明だ。
一説によると、701(大宝元年)年3月、凡海郷(おおしあまのさと・現在の舞鶴市及び加佐郡大江町あたりにあったとされる郷名。
大浦半島に隣接する大きな島)が、三日三晩続いた地震により、峯2つを残して海没。
この2つの峯こそ冠島と沓島(くつじま)だと言われている。
さて、その冠島には徐福伝説が残されている。
徐福の一行はこの島で仙薬を見つけ、丹後半島へ上陸したとのこと。
徐福の求めた不老不死の仙薬とは、島に自生する黒茎の蓬(くろくきのよもぎ)や九節の菖蒲だったとも言われている。
秦の始皇帝から不老不死の秘薬を探してこいと遣わされた徐福だが、蓬莱山と謳われた日本の地を踏んだとされるエリアは驚くほど広い。
これはわからないでもない。童男童女3000人と機織り職人、紙職人、農耕技術者、漁業(主に捕鯨)などの専門家、
木工、製鉄、造船などの技術者などを擁し大陸から渡ってきたのだ。
当然何隻もの船でやってきた。大船団なので別行動をとる船もあったろう。
ある船は対馬海流に乗って東北地方まで、別の船は黒潮に乗って熊野灘に面した紀伊半島や伊勢湾、三河湾、
遠州灘に面した地域や伊豆半島、八丈島などに漂流したにちがいない。
あるいは意図せず時化に遭遇し、散り散りになってしまったためかもしれない。
徐福伝説
http://www.asukanet.gr.jp/tobira/jofuku/jofuku.ht...
冠島・沓島(かんむりじま・くつじま)京都府舞鶴市
http://www.geocities.jp/k_saito_site/doc/tango/kanmuri...
凡海郷〜おおしあまのさと〜
http://kammuri.com/index.ht...
徐福もまた、村や島に幸をもたらした『まれびと』だった
ちなみに、先週の土曜、那智勝浦の補陀落山寺へ取材に行った帰り、新宮市の駅前にある徐福公園へとはしごした。
新宮市も徐福が漂流の末、たどり着いた地とされているのだ。
園内は徐福像や顕彰碑が建ち並び、不老不死の霊薬の正体ではないかといわれる天台烏薬の木が植えられている。
>>194の八丈島で触れたが、『島』という自己完結した小世界では異文化が流れこんでくることにより、
活性化し、発展するケースがめずらしくない。
徐福一行は製鉄の技術や農耕・土木・捕鯨・医薬、さらには五穀(中国の五穀は麻・黍・稷・麦・豆)の種子をもたらした。
画像は園内の中央に位置する徐福の墓。徐福渡来伝説では、徐福はこの地で亡くなったことになっているが、
とっても眉唾だったり……
徐福公園(じょふくこうえん) 「徐福の墓」を中心に中国風楼門を配して整備された公園
http://bell.jp/pancho/travel/kumano%20sanzan/...
まれびと Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%BE%E3%82%8C%E3%81%...
ちなみに、先週の土曜、那智勝浦の補陀落山寺へ取材に行った帰り、新宮市の駅前にある徐福公園へとはしごした。
新宮市も徐福が漂流の末、たどり着いた地とされているのだ。
園内は徐福像や顕彰碑が建ち並び、不老不死の霊薬の正体ではないかといわれる天台烏薬の木が植えられている。
>>194の八丈島で触れたが、『島』という自己完結した小世界では異文化が流れこんでくることにより、
活性化し、発展するケースがめずらしくない。
徐福一行は製鉄の技術や農耕・土木・捕鯨・医薬、さらには五穀(中国の五穀は麻・黍・稷・麦・豆)の種子をもたらした。
画像は園内の中央に位置する徐福の墓。徐福渡来伝説では、徐福はこの地で亡くなったことになっているが、
とっても眉唾だったり……
徐福公園(じょふくこうえん) 「徐福の墓」を中心に中国風楼門を配して整備された公園
http://bell.jp/pancho/travel/kumano%20sanzan/...
まれびと Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%BE%E3%82%8C%E3%81%...
>>206
喜んでもらえたら嬉しい。
長文ばかりタレ流しているので、みなさんに放置プレイされてるのでは?と内心ヒヤヒヤしているのですが、
そういう反応は励みになりますね。
たしかに語り部のおじさんとの知識の限りを尽くした談義はアツいものがありました。
おじさんも普段なら観光客相手に、千手観音を祀った座敷の上で正座し語っていたようでしたが、
僕らは土産物売り場の前の土間にあぐらをかいて座り、あとからやって来る観光客をそっちのけで1時間近くダベってましたから。
その姿を見た客はドン引きしたことでしょう。
肝心の会話の内容も脱線につぐ脱線で、ここですべてを書くのはどうかと思われます。しいて言うなら即身仏やニライカナイのネタ。
おじさんから仕入れた補陀落における情報の要点は、>>200〜205まで書いたように、一応まとめたつもり。
ほかにも、最良の資料となる著書を紹介され、これらを書店で買いなさいと勧められたり(タダでくれるんじゃないのか……)。
画像の根井浄さんという方が執筆された『観音浄土船出した人々』がソレ。
やたらと根井先生、根井先生と連呼されていることを察するに、その根井さんとやらも、ここで取材なさったのでしょう。
おじさん曰く、もっとも精度の高い、信頼のおける資料とのこと。
いつまでも場を陣取っているわけにもいかず、まだ語り尽くせぬ感があったので、また来ますと言って別れを告げました。
今度はノート持参でバリバリ取材してやろうかと考えております。何か質問などあれば代表して聞いて来ますよ。
個人的に補陀落渡海の話は異常にソソられます。なんて言うか、おじさんの年齢もけっこう行ってたし、
もし彼が語り部の引退を決意し後継者を据えるのなら、冗談抜きで僕自身が志願したいほどですから。
まあ、それを実現させるには、まだまだ勉強不足。もっと研鑽しなければッ!
喜んでもらえたら嬉しい。
長文ばかりタレ流しているので、みなさんに放置プレイされてるのでは?と内心ヒヤヒヤしているのですが、
そういう反応は励みになりますね。
たしかに語り部のおじさんとの知識の限りを尽くした談義はアツいものがありました。
おじさんも普段なら観光客相手に、千手観音を祀った座敷の上で正座し語っていたようでしたが、
僕らは土産物売り場の前の土間にあぐらをかいて座り、あとからやって来る観光客をそっちのけで1時間近くダベってましたから。
その姿を見た客はドン引きしたことでしょう。
肝心の会話の内容も脱線につぐ脱線で、ここですべてを書くのはどうかと思われます。しいて言うなら即身仏やニライカナイのネタ。
おじさんから仕入れた補陀落における情報の要点は、>>200〜205まで書いたように、一応まとめたつもり。
ほかにも、最良の資料となる著書を紹介され、これらを書店で買いなさいと勧められたり(タダでくれるんじゃないのか……)。
画像の根井浄さんという方が執筆された『観音浄土船出した人々』がソレ。
やたらと根井先生、根井先生と連呼されていることを察するに、その根井さんとやらも、ここで取材なさったのでしょう。
おじさん曰く、もっとも精度の高い、信頼のおける資料とのこと。
いつまでも場を陣取っているわけにもいかず、まだ語り尽くせぬ感があったので、また来ますと言って別れを告げました。
今度はノート持参でバリバリ取材してやろうかと考えております。何か質問などあれば代表して聞いて来ますよ。
個人的に補陀落渡海の話は異常にソソられます。なんて言うか、おじさんの年齢もけっこう行ってたし、
もし彼が語り部の引退を決意し後継者を据えるのなら、冗談抜きで僕自身が志願したいほどですから。
まあ、それを実現させるには、まだまだ勉強不足。もっと研鑽しなければッ!
ナイス奇岩・犬石様 犬島(犬ノ島)
犬島は岡山水道南東部にある島であり、同島を含めた犬島諸島全域からなる地域を指す。
諸島のなかでもっとも大きい面積を誇り、唯一の有人島。
犬島という島名の由来は犬の数が多いからではない(むしろ猫の方が多いらしい)。
遥かな昔、菅原道真が左遷され九州の大宰府へ向かう途中だった。
猛烈な風と時化に遭い、たまらずその島で一時避難することにした。
島陰に身を寄せていたところ、風の唸りに混じって犬の遠吠えがするではないか。
ふと上を見上げれば、犬の形をした巨石が鎮座していた。しかも道真公が以前飼っていた犬と瓜二つであった。
風がおさまり、船出するころになっても、別れを惜しむかのように犬が吠えたと伝えられている。
その巨石を犬石と名付け、のちに犬島と呼ばれるようになったという。
ナイスな奇岩の犬石様が祭られているのは犬島の西にある小島、『犬ノ島』。
犬ノ島は無人島でありながら私有地(岡山化学工業の工場が建ち並び、従業員は本土から通勤)のため、
立ち入りには許可が必要だが、5月3日の『犬石様のお祭り』の日だけは一般公開されている。
岡山県の離島 犬島
http://www.pref.okayama.jp/kikaku/chishin/ritou/08inujima...
ブログ【胡波國堂】 犬島へ
http://kobakuni.at.webry.info/201105/article_3.htm...
犬島は岡山水道南東部にある島であり、同島を含めた犬島諸島全域からなる地域を指す。
諸島のなかでもっとも大きい面積を誇り、唯一の有人島。
犬島という島名の由来は犬の数が多いからではない(むしろ猫の方が多いらしい)。
遥かな昔、菅原道真が左遷され九州の大宰府へ向かう途中だった。
猛烈な風と時化に遭い、たまらずその島で一時避難することにした。
島陰に身を寄せていたところ、風の唸りに混じって犬の遠吠えがするではないか。
ふと上を見上げれば、犬の形をした巨石が鎮座していた。しかも道真公が以前飼っていた犬と瓜二つであった。
風がおさまり、船出するころになっても、別れを惜しむかのように犬が吠えたと伝えられている。
その巨石を犬石と名付け、のちに犬島と呼ばれるようになったという。
ナイスな奇岩の犬石様が祭られているのは犬島の西にある小島、『犬ノ島』。
犬ノ島は無人島でありながら私有地(岡山化学工業の工場が建ち並び、従業員は本土から通勤)のため、
立ち入りには許可が必要だが、5月3日の『犬石様のお祭り』の日だけは一般公開されている。
岡山県の離島 犬島
http://www.pref.okayama.jp/kikaku/chishin/ritou/08inujima...
ブログ【胡波國堂】 犬島へ
http://kobakuni.at.webry.info/201105/article_3.htm...
秘祭『いざなぎ流』 物部村 1
このところ島ネタばかりやってきたから、たまには『村』にスポットを当てるか……では物部村(ものべそん)を。
最初に念を押しておく。なにも物部をオカルトとして捉えるつもりは毛頭ない。
ただ、この村で現存する民間信仰はあまりにも特殊であるため、民俗学的興味が尽きることがない。
その研究の虜となる人は少なくないのだ。
高知県香美郡物部村。高知県の北東部、徳島県との県境の山間に抱かれた集落は、例に漏れず過疎と高齢化が進んでいる。
村の起源は平安時代以前といわれ、平家落人の末裔がこの地方の豪族として繁栄した。
戦国時代の長宗我部氏の支配を経て、1600年からは山内氏の藩政時代が続き、明治に入ってから上韮生(かみにろう)村と槇山村が生まれた。
この2村が昭和31年合併して物部村となり現在に至っているわけだ。
物部には古来より、陰陽道系の呪術祈祷を中心とした『いざなぎ流』と呼ばれる祭祀(家全体を祓い清める家祈祷や病人祈祷、
場合によっては他人を呪うのそれも含む)が、現在もなお続いている。およそ800年以上もの昔から。
いざなぎ流という祭りとはいかなるものか。
『太夫』(たゆう)と呼ばれる宗教者(端的に言えば呪術者)らによって、家単位、コミュニティー単位で、
隔絶された山岳地帯ゆえに、ごく限定的ながら命脈を保ってきたのだ。
安倍晴明で知られるあの陰陽道が純粋な形で生き抜いてきたわけではない。
あくまで陰陽道を骨格として、修験道、密教、神道、恵比寿信仰、大黒信仰などの様式が複雑に絡みあっており、
さらには神楽舞などの民間芸能も同時に息づいていることから、長い年月を経て変遷した結果、土着化した姿こそ『いざなぎ流』であり、
もう1つの陰陽道の到達地点でもあるのだ。
『イザナギ』といえば、国産みの神話に描かれる男神をすぐ思い浮かべるが、ここでは祭文によると、
『天竺にいるいざなぎの神様』なる一登場人物であるという(一説によると、平家が壇ノ浦から敗走したあと、
守り神として隠し祭っていたのが『いざなぎ』、いわゆる『みこがみ』ともいわれる)。
このところ島ネタばかりやってきたから、たまには『村』にスポットを当てるか……では物部村(ものべそん)を。
最初に念を押しておく。なにも物部をオカルトとして捉えるつもりは毛頭ない。
ただ、この村で現存する民間信仰はあまりにも特殊であるため、民俗学的興味が尽きることがない。
その研究の虜となる人は少なくないのだ。
高知県香美郡物部村。高知県の北東部、徳島県との県境の山間に抱かれた集落は、例に漏れず過疎と高齢化が進んでいる。
村の起源は平安時代以前といわれ、平家落人の末裔がこの地方の豪族として繁栄した。
戦国時代の長宗我部氏の支配を経て、1600年からは山内氏の藩政時代が続き、明治に入ってから上韮生(かみにろう)村と槇山村が生まれた。
この2村が昭和31年合併して物部村となり現在に至っているわけだ。
物部には古来より、陰陽道系の呪術祈祷を中心とした『いざなぎ流』と呼ばれる祭祀(家全体を祓い清める家祈祷や病人祈祷、
場合によっては他人を呪うのそれも含む)が、現在もなお続いている。およそ800年以上もの昔から。
いざなぎ流という祭りとはいかなるものか。
『太夫』(たゆう)と呼ばれる宗教者(端的に言えば呪術者)らによって、家単位、コミュニティー単位で、
隔絶された山岳地帯ゆえに、ごく限定的ながら命脈を保ってきたのだ。
安倍晴明で知られるあの陰陽道が純粋な形で生き抜いてきたわけではない。
あくまで陰陽道を骨格として、修験道、密教、神道、恵比寿信仰、大黒信仰などの様式が複雑に絡みあっており、
さらには神楽舞などの民間芸能も同時に息づいていることから、長い年月を経て変遷した結果、土着化した姿こそ『いざなぎ流』であり、
もう1つの陰陽道の到達地点でもあるのだ。
『イザナギ』といえば、国産みの神話に描かれる男神をすぐ思い浮かべるが、ここでは祭文によると、
『天竺にいるいざなぎの神様』なる一登場人物であるという(一説によると、平家が壇ノ浦から敗走したあと、
守り神として隠し祭っていたのが『いざなぎ』、いわゆる『みこがみ』ともいわれる)。
秘祭『いざなぎ流』 物部村 2
併せて、いざなぎ流の祭文を載せておく(需要があるとは思えんが)。
「もえん不動明王 火炎不動王 波切り不動王 大山不動王吟伽羅不動王 吉祥妙不動王 天竺不動王
天竺山坂不動王逆しに行ふぞ 逆しに行ひ下せば 向かふわ 血花に咲かすぞ 味塵と 破れや 妙婆訶
もえ行け 絶え行け 枯れ行け 生霊 狗神 猿神 水官 長縄 飛火 変火 其の身の胸元 四方さんざら
味塵と乱れや 妙婆訶 向かふわ知るまいこちらわ 知り取る 向かふわ 青血 黒血 赤血 真血を吐け
血を吐け 泡を吐け 息座味塵に まらべや天竺 七段国へ行なへば 七つの石を集めて 七つの墓を付き
七つの石の外羽を建て 七つの石の 錠鍵下して 味塵 すいぞん 阿毘羅吽 妙婆詞と行ふ 打ち式 返し式
まかだんごく 計反国と 七つの 地獄へ 打ち落す うんあびらうんけんそばか」
いざなぎ流の流派はいくつか存在し、太夫が複数の師匠の下で学ぶことや、師匠の教えに独自の方法を付け加えアレンジすることもあり、
同じ流派内にさえ差異が生じている。
とはいえ、いくらカオス的信仰形態の中核を成しているのは陰陽道であることに変わりない。
たとえ密教や修験道の影響があったとしても、祭りの進行は陰陽道らしく、占術にかかっているからだ。
太夫は祭りに関わる人間や、家の穢れや不浄、悪霊の障りなど、マイナス要素のすべてのものである『呪詛』(本来は『じゅそ』と発音するが、
ここでは『すそ』と読む)を残らず『ヒナゴ幣』(和紙で作られた御幣)に念じ集め、清浄な状態に戻す役目を担う。
呪詛のついたヒナゴ幣は、呪詛林という専用の捨て場に埋めたり、川に流したり、河原の岩陰に鎮められる。
それは祭りを執り行う上において、不可欠な儀式なのだ。と同時に、家の内外を清める湯神楽、塩祓い、
太夫自身の身を清める『穢らい消しの唱文』、神々の穢れを祓う『祓いの唱文』、しめ縄による結界の造営など、
祭りを成功させるために、幾重にもの霊的防御網を敷く。
しかしながらこの祭りは太夫にとって全身全霊の戦いなのだ。家の災厄を祓う祈祷も、その家で祀る神の種類に応じて祀り方が異なり、
丹念に祀らないと祟るともいわれているのだ。
※画像の、『花笠』と呼ばれるものをかぶった者が太夫。
併せて、いざなぎ流の祭文を載せておく(需要があるとは思えんが)。
「もえん不動明王 火炎不動王 波切り不動王 大山不動王吟伽羅不動王 吉祥妙不動王 天竺不動王
天竺山坂不動王逆しに行ふぞ 逆しに行ひ下せば 向かふわ 血花に咲かすぞ 味塵と 破れや 妙婆訶
もえ行け 絶え行け 枯れ行け 生霊 狗神 猿神 水官 長縄 飛火 変火 其の身の胸元 四方さんざら
味塵と乱れや 妙婆訶 向かふわ知るまいこちらわ 知り取る 向かふわ 青血 黒血 赤血 真血を吐け
血を吐け 泡を吐け 息座味塵に まらべや天竺 七段国へ行なへば 七つの石を集めて 七つの墓を付き
七つの石の外羽を建て 七つの石の 錠鍵下して 味塵 すいぞん 阿毘羅吽 妙婆詞と行ふ 打ち式 返し式
まかだんごく 計反国と 七つの 地獄へ 打ち落す うんあびらうんけんそばか」
いざなぎ流の流派はいくつか存在し、太夫が複数の師匠の下で学ぶことや、師匠の教えに独自の方法を付け加えアレンジすることもあり、
同じ流派内にさえ差異が生じている。
とはいえ、いくらカオス的信仰形態の中核を成しているのは陰陽道であることに変わりない。
たとえ密教や修験道の影響があったとしても、祭りの進行は陰陽道らしく、占術にかかっているからだ。
太夫は祭りに関わる人間や、家の穢れや不浄、悪霊の障りなど、マイナス要素のすべてのものである『呪詛』(本来は『じゅそ』と発音するが、
ここでは『すそ』と読む)を残らず『ヒナゴ幣』(和紙で作られた御幣)に念じ集め、清浄な状態に戻す役目を担う。
呪詛のついたヒナゴ幣は、呪詛林という専用の捨て場に埋めたり、川に流したり、河原の岩陰に鎮められる。
それは祭りを執り行う上において、不可欠な儀式なのだ。と同時に、家の内外を清める湯神楽、塩祓い、
太夫自身の身を清める『穢らい消しの唱文』、神々の穢れを祓う『祓いの唱文』、しめ縄による結界の造営など、
祭りを成功させるために、幾重にもの霊的防御網を敷く。
しかしながらこの祭りは太夫にとって全身全霊の戦いなのだ。家の災厄を祓う祈祷も、その家で祀る神の種類に応じて祀り方が異なり、
丹念に祀らないと祟るともいわれているのだ。
※画像の、『花笠』と呼ばれるものをかぶった者が太夫。
秘祭『いざなぎ流』 物部村 3
いざなぎ流には『表』もあれば『裏』もある。
裏とはすなわち、人を呪うためのものだが、それは『悪いこと』であるとして、太夫は原則的に手を染めないのが常だ。
だが、太夫たるもの、表はもちろん、裏も知らなければ本物ではないともいわれている。
毒も微量なら薬となるように、表の世界の鎮めの儀式に活かせられるからだ。
太夫は人を呪うことを『式を打つ』と表現する。式は言うまでもなく式神を指す。
いざなぎ流には呪いの法文があり、修行の浅い新米の太夫ですら、それを唱えるだけで強力な式神を飛ばせることができるとされる。
だが、裏専門だと悲惨な末路しか待っていない。法力があれば自分の身は守れるにせよ、その家系に悪影響が及び、
家そのものも断絶すると信じられているのだ。
もっともそのような太夫は必ず露見するらしい。霊力の強い太夫ならば、誰が式を打ったかお見通しになるという。
余談だが、こんなエピソードが残されている。
山深い物部では、近世以来、伐木は重要な生業であり、その職人を杣(そま)といった。
昔、杣の中に式法を知る者がいた。仕事のために使うナタなどの道具を山へ行くたび持ち帰るのが面倒だったため、
山中に放置して帰るのだが、その際、盗難を防ぐために道具に式を打った。
掛けた本人以外の者が式を打った道具を触ろうとすると、その場で身動きができなくなったといわれている。
それに対抗して、呪詛を防ぐ面もあったとされている。『シキ食い面』と呼ばれる面がこれで、打たれた式を食うことによって、
相手の呪詛を無力化するのだという。
この面は角のついた鬼面で、家の中では主人しか触れることができず、家族は肉食せず精進しなくてはならない『やっかいな面』とのこと。
※画像は『シキ食いの面』ではない。『十二のヒナゴ面』の1つ、『男面』。
問題の面は、もっと鬼のような顔をしている。それはそれで不気味なのだが、こちらの方がデスマスクっぽくて、
なにか禍々しさを感じさせ、個人的に怖い。面に関しては下記のサイトを参照されたし。
館蔵 物部の仮面といざなぎ流
http://www.rekihaku.ac.jp/publication/rekihaku/146witnes...
いざなぎ流には『表』もあれば『裏』もある。
裏とはすなわち、人を呪うためのものだが、それは『悪いこと』であるとして、太夫は原則的に手を染めないのが常だ。
だが、太夫たるもの、表はもちろん、裏も知らなければ本物ではないともいわれている。
毒も微量なら薬となるように、表の世界の鎮めの儀式に活かせられるからだ。
太夫は人を呪うことを『式を打つ』と表現する。式は言うまでもなく式神を指す。
いざなぎ流には呪いの法文があり、修行の浅い新米の太夫ですら、それを唱えるだけで強力な式神を飛ばせることができるとされる。
だが、裏専門だと悲惨な末路しか待っていない。法力があれば自分の身は守れるにせよ、その家系に悪影響が及び、
家そのものも断絶すると信じられているのだ。
もっともそのような太夫は必ず露見するらしい。霊力の強い太夫ならば、誰が式を打ったかお見通しになるという。
余談だが、こんなエピソードが残されている。
山深い物部では、近世以来、伐木は重要な生業であり、その職人を杣(そま)といった。
昔、杣の中に式法を知る者がいた。仕事のために使うナタなどの道具を山へ行くたび持ち帰るのが面倒だったため、
山中に放置して帰るのだが、その際、盗難を防ぐために道具に式を打った。
掛けた本人以外の者が式を打った道具を触ろうとすると、その場で身動きができなくなったといわれている。
それに対抗して、呪詛を防ぐ面もあったとされている。『シキ食い面』と呼ばれる面がこれで、打たれた式を食うことによって、
相手の呪詛を無力化するのだという。
この面は角のついた鬼面で、家の中では主人しか触れることができず、家族は肉食せず精進しなくてはならない『やっかいな面』とのこと。
※画像は『シキ食いの面』ではない。『十二のヒナゴ面』の1つ、『男面』。
問題の面は、もっと鬼のような顔をしている。それはそれで不気味なのだが、こちらの方がデスマスクっぽくて、
なにか禍々しさを感じさせ、個人的に怖い。面に関しては下記のサイトを参照されたし。
館蔵 物部の仮面といざなぎ流
http://www.rekihaku.ac.jp/publication/rekihaku/146witnes...
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秘祭『いざなぎ流』 物部村 4
以上のように、非科学的で原始的ともいえる思考がこの現代社会に残っている物部だが、
根底にあるのは「山のものは山へ、川のものは川へ戻すべし」「山や川には精霊が宿る」という『いざなぎ流の掟』である。
すなわち自然の摂理であり、シャーマニズム本来の本質が現存していることになる。
高知県の山間部の一集落。人口3000人強ほどで過疎高齢化が進み、その民間信仰は滅び行く運命に思われがちだが、
地元高校の生徒らが部活で舞神楽を教わり、太夫にならんと決意する人も稀にいることから、
その存続は細々ながら継承していくようである。
我々は温かい目で見守ろうではないか。
土佐・物部村 神々のかたち
http://inax.lixil.co.jp/Culture/1999/09word.htm...
いざなぎ流とは
http://www011.upp.so-net.ne.jp/dhistory/sei_0vi.ht...
いざなぎ流への〈旅〉中尾計佐清さんのこと 斎藤 英喜
http://www.bunet.jp/world/html/16_7/466_ouryou/ind...
『剣山』と『いざなぎ流』
http://tsukioto2011.blog65.fc2.com/blog-entry-56.htm...
物部FW「いざなぎ流」体験記
http://office-hiroko.jugem.jp/?eid=39#seque...
秘祭『いざなぎ流』 物部村 4
以上のように、非科学的で原始的ともいえる思考がこの現代社会に残っている物部だが、
根底にあるのは「山のものは山へ、川のものは川へ戻すべし」「山や川には精霊が宿る」という『いざなぎ流の掟』である。
すなわち自然の摂理であり、シャーマニズム本来の本質が現存していることになる。
高知県の山間部の一集落。人口3000人強ほどで過疎高齢化が進み、その民間信仰は滅び行く運命に思われがちだが、
地元高校の生徒らが部活で舞神楽を教わり、太夫にならんと決意する人も稀にいることから、
その存続は細々ながら継承していくようである。
我々は温かい目で見守ろうではないか。
土佐・物部村 神々のかたち
http://inax.lixil.co.jp/Culture/1999/09word.htm...
いざなぎ流とは
http://www011.upp.so-net.ne.jp/dhistory/sei_0vi.ht...
いざなぎ流への〈旅〉中尾計佐清さんのこと 斎藤 英喜
http://www.bunet.jp/world/html/16_7/466_ouryou/ind...
『剣山』と『いざなぎ流』
http://tsukioto2011.blog65.fc2.com/blog-entry-56.htm...
物部FW「いざなぎ流」体験記
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迫真の演技? 奇祭・エア相撲 大三島(おおみしま)
愛媛県今治市にある芸予諸島の中の1つの有人島、大三島。
別名『神の島』と呼ばれ、創建1400年以上と伝えられる大山祇神社(おおやまずみ)神社が社殿を構える由緒ある島なのだ。
古来より皇室や貴族の崇拝を集めており、平安時代には朝廷から『日本総鎮守』の号を授けられているほどで、
宝物も多く、国宝8件、重要文化財75件を収蔵。なかでも源氏や平家などの武将が武運長久を願って武具を奉納したおかげで、
国宝や重文の指定を受けた甲冑の4割がこの神社に集中しているのだ。
この神社では、春の御田植祭(旧暦5月5日)と秋の抜穂(ぬいぼ)祭(旧暦9月9日)の年2回にわたり、珍妙な奇祭が行われる。
それが見えざる神様を相手にした『一人角力』(ひとりずもう)なのだ。
田んぼの神様(稲の精霊とされる)と3本勝負を行い、必ず一勝一敗で3戦目を迎えるも、最後は神様が勝利をつかむ。
人間の力士は豪快に投げ飛ばされ、神様にはかないませんというオチがつくエンターテイメントぶり。
神様が勝つことで、春には豊作が約束され、秋には人々の収穫への感謝の意が表されるわけだ。
元はといえば、相撲という国技は、健康的な男性が神前で力を尽くすことで、神々に敬意と感謝を示す儀式としての意味合いがあった。
つまりは、この一人角士こそ、相撲の原点を現代に伝える神事だったりするのだ。
大三島ツアーPART 2 〜一人相撲編〜
http://tsubakky.exblog.jp/15456709...
(1)精霊と競う① - 生涯学習情報提供システム、<えひめの記憶>
http://ilove.manabi-ehime.jp/system/regional/index.asp?P_MO...
迫真の演技? 奇祭・エア相撲 大三島(おおみしま)
愛媛県今治市にある芸予諸島の中の1つの有人島、大三島。
別名『神の島』と呼ばれ、創建1400年以上と伝えられる大山祇神社(おおやまずみ)神社が社殿を構える由緒ある島なのだ。
古来より皇室や貴族の崇拝を集めており、平安時代には朝廷から『日本総鎮守』の号を授けられているほどで、
宝物も多く、国宝8件、重要文化財75件を収蔵。なかでも源氏や平家などの武将が武運長久を願って武具を奉納したおかげで、
国宝や重文の指定を受けた甲冑の4割がこの神社に集中しているのだ。
この神社では、春の御田植祭(旧暦5月5日)と秋の抜穂(ぬいぼ)祭(旧暦9月9日)の年2回にわたり、珍妙な奇祭が行われる。
それが見えざる神様を相手にした『一人角力』(ひとりずもう)なのだ。
田んぼの神様(稲の精霊とされる)と3本勝負を行い、必ず一勝一敗で3戦目を迎えるも、最後は神様が勝利をつかむ。
人間の力士は豪快に投げ飛ばされ、神様にはかないませんというオチがつくエンターテイメントぶり。
神様が勝つことで、春には豊作が約束され、秋には人々の収穫への感謝の意が表されるわけだ。
元はといえば、相撲という国技は、健康的な男性が神前で力を尽くすことで、神々に敬意と感謝を示す儀式としての意味合いがあった。
つまりは、この一人角士こそ、相撲の原点を現代に伝える神事だったりするのだ。
大三島ツアーPART 2 〜一人相撲編〜
http://tsubakky.exblog.jp/15456709...
(1)精霊と競う① - 生涯学習情報提供システム、<えひめの記憶>
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天草四郎埋蔵金伝説はどこまで信憑性があるのか? 下島
熊本県の天草諸島にある下島には、時価数十億もの天草四郎の財宝が眠っているという(……と信じている人がいる)。
天草四郎時貞といえば、寛永14(1637)年、島原の乱の際に原城に立て籠もった一揆軍の先導者として有名だから、
今さら説明するまでもあるまい。
原城での篭城戦に限界を憶えた四郎は女子供、老人らを逃がすことにして、のちの再起に託すべく莫大な軍資金を埋蔵したとされているのだ。
もっとも、資金といっても大判小判ではなく、重さ6キロの黄金の十字架をはじめ、金銀の燭台20基、南蛮塗りの宝石をちりばめた王冠など、
キリシタン関係の宝器類と伝えられている(これらの財宝は小判よりも時価では高価で、30億円に相当するといわれる)。
この財宝を埋める場所として天草下島が選ばれ、その役目は重臣、小山田慶信と決まった。
いよいよ原城が落城とするや、小山田はひそかに財宝を舟で運び出した。
ところが、のちに小山田は埋蔵地を表すと思われる書き付けを残し失踪。
書き付けには目印となる三角形の池が描かれていた。
時代はすぎ、昭和10年代のこと。
天草上島の老岳山麓で、ある人物が金の十字架を発見した。しかも奇妙な文句が刻まれていたので、
これは天草四郎の埋蔵金伝説を裏付ける手がかりではないかと色めき立った。
それがこんな内容だ。
『さんしゃる二、こんたろす五、くさぐさのでうすのたからしずめしずむる』
この文句の後半は漢字に当てはめると、『……種々の天主(デウス)の宝沈め鎮むる』となり、いやが上にも期待は高まろうというもの。
天草地方の古地図によると、三角形(正確には二等辺三角形)の沼沢地帯『カラ池』こそ、『さんしゃる』なる地名と位置とが一致。
しかも『カラ池』はかつて、疫病で死んだ多くの死体を捨てた場所として、村人たちに決して近づくなと伝えられてきたのだ。
>>79のウイリアム・キッドの件に関してもそうだが、財宝の隠し場所というものは、人が近づきたくない忌避されるような場所が選ばれるものだ。
ところが日本を代表するトレジャーハンター、八重野充弘氏の発掘調査も空振りに終わる。
八重野氏の弁によると、『さんしゃる』とは『カラ池』である三角池を指すと同時に、キリスト像の後光の意味でもあるとのこと。
『こんたろす』とは十字架そのものを示す。数字の2と5の暗号は、三角池の2つの地点から十字架に結ぶ5間(9メートル)の地点ではないかと
八重野氏は推理したが……。
余計なお世話だが、人生を宝探しに捧げる人は借金まみれの生活を送り、悲壮感に満ちているという。
夢追い人は夢を追っている過程が楽しいはずだと信じたい。
埋蔵金伝説 天草四郎の埋蔵金
http://maizoukin.k-server.org/maizoukin09.htm...
これが宝探しの現場 【天草編】天草四郎軍の秘宝を求めて
http://home.f01.itscom.net/yaeno/fields.ht...
熊本県の天草諸島にある下島には、時価数十億もの天草四郎の財宝が眠っているという(……と信じている人がいる)。
天草四郎時貞といえば、寛永14(1637)年、島原の乱の際に原城に立て籠もった一揆軍の先導者として有名だから、
今さら説明するまでもあるまい。
原城での篭城戦に限界を憶えた四郎は女子供、老人らを逃がすことにして、のちの再起に託すべく莫大な軍資金を埋蔵したとされているのだ。
もっとも、資金といっても大判小判ではなく、重さ6キロの黄金の十字架をはじめ、金銀の燭台20基、南蛮塗りの宝石をちりばめた王冠など、
キリシタン関係の宝器類と伝えられている(これらの財宝は小判よりも時価では高価で、30億円に相当するといわれる)。
この財宝を埋める場所として天草下島が選ばれ、その役目は重臣、小山田慶信と決まった。
いよいよ原城が落城とするや、小山田はひそかに財宝を舟で運び出した。
ところが、のちに小山田は埋蔵地を表すと思われる書き付けを残し失踪。
書き付けには目印となる三角形の池が描かれていた。
時代はすぎ、昭和10年代のこと。
天草上島の老岳山麓で、ある人物が金の十字架を発見した。しかも奇妙な文句が刻まれていたので、
これは天草四郎の埋蔵金伝説を裏付ける手がかりではないかと色めき立った。
それがこんな内容だ。
『さんしゃる二、こんたろす五、くさぐさのでうすのたからしずめしずむる』
この文句の後半は漢字に当てはめると、『……種々の天主(デウス)の宝沈め鎮むる』となり、いやが上にも期待は高まろうというもの。
天草地方の古地図によると、三角形(正確には二等辺三角形)の沼沢地帯『カラ池』こそ、『さんしゃる』なる地名と位置とが一致。
しかも『カラ池』はかつて、疫病で死んだ多くの死体を捨てた場所として、村人たちに決して近づくなと伝えられてきたのだ。
>>79のウイリアム・キッドの件に関してもそうだが、財宝の隠し場所というものは、人が近づきたくない忌避されるような場所が選ばれるものだ。
ところが日本を代表するトレジャーハンター、八重野充弘氏の発掘調査も空振りに終わる。
八重野氏の弁によると、『さんしゃる』とは『カラ池』である三角池を指すと同時に、キリスト像の後光の意味でもあるとのこと。
『こんたろす』とは十字架そのものを示す。数字の2と5の暗号は、三角池の2つの地点から十字架に結ぶ5間(9メートル)の地点ではないかと
八重野氏は推理したが……。
余計なお世話だが、人生を宝探しに捧げる人は借金まみれの生活を送り、悲壮感に満ちているという。
夢追い人は夢を追っている過程が楽しいはずだと信じたい。
埋蔵金伝説 天草四郎の埋蔵金
http://maizoukin.k-server.org/maizoukin09.htm...
これが宝探しの現場 【天草編】天草四郎軍の秘宝を求めて
http://home.f01.itscom.net/yaeno/fields.ht...
隠し念仏 1
『隠し念仏』。この板で取り上げてしまうとどうしても、
オカルティックかつエキセントリックな扱いになってしまう恐れがあるため、
気が引けるのだが……やむを得まい。
一山村にとどまらず、岩手県南部、宮城県北部には民間信仰である隠し念仏というものがある。
『隠し念仏』と『隠れ念仏』という概念があるが、2つは似て非なる信仰である。今回は前者に焦点を絞ってみる。
『隠し念仏』とは端的に言えば、農民たちが江戸幕府に迎合した本願寺を堕落したものとみなして、
親鸞を開祖とする浄土真宗をひそかに行い、長きにわたり呪術的要素が強く熟成、土着化したものである。
起源は、浄土真宗の開祖である親鸞の長男である善鸞が浄土真宗の東国布教に遣わされた際、現地で信じたと言われ、
邪教を布教したとして、以来、善鸞は父から絶縁、追放されている。
生きるのが困難だった時代、 どうにか仏のご加護を受けたいという一心から編み出されたものだと考えられよう。
隠し念仏とは通り名であって本来の名称ではない。正式には『浄土真宗御内法』、あるいは縮めて『御内法』という。
つまり寺を通して伝える『表法』に対する『内法』を意味する。
かつて隠れキリシタンを弾圧した仙台藩は、御内法を『犬切支丹』『秘事法門』『外道邪法』と罵り迫害、
キリスト教につぐ厳しさで弾圧した。明治政府からも公序良俗を乱すとして厳しく取り締まった。
とはいえ人々の信仰心はたくましい。その激烈な弾圧があったからこそ、この秘密宗教はより奥深くに潜伏し、
土着化して、今日まで隠し念仏として生き残ってきたのだ。
ちなみに、『隠し〜』ではなく、『隠れ』念仏は主に九州に分布した。
九州薩摩藩ではキリシタン禁制にも劣らぬ弾圧が真宗の念仏者に対して敷かれており、真宗門徒が地下に潜り、
強い信念のもと、危険を冒してまで独自の信仰形態を作りあげた。
このことから既成の宗教を隠れミノとし、ある程度習合するなど、隠れキリシタンと同義と見てよい。
薩摩藩の門徒信者は、藩への年貢納税よりも、本願寺への納付を優先しようとした。
それゆえ藩は真宗禁制を厳くした。だから門徒が隠れて信仰を守ろうとしたのが『隠れ念仏』。
したがって本願寺から見ると、東北の『隠し念仏』は異端であり、九州の『隠れ念仏』が正統ということになるそうだ。
隠し念仏はあくまで総称であり、地域や流儀などによって呪術的儀式は異なる。
さらに排他的秘密主義のために、その儀式の全貌はいまだ明らかにされていないが、
『隠れ念仏と隠し念仏—日本人のこころ九州・東北』の著者、五木寛之によると、
最近では少しずつではあるが、秘密儀式の一部などを公開する軟化の動きも見られるという。
『隠し念仏』。この板で取り上げてしまうとどうしても、
オカルティックかつエキセントリックな扱いになってしまう恐れがあるため、
気が引けるのだが……やむを得まい。
一山村にとどまらず、岩手県南部、宮城県北部には民間信仰である隠し念仏というものがある。
『隠し念仏』と『隠れ念仏』という概念があるが、2つは似て非なる信仰である。今回は前者に焦点を絞ってみる。
『隠し念仏』とは端的に言えば、農民たちが江戸幕府に迎合した本願寺を堕落したものとみなして、
親鸞を開祖とする浄土真宗をひそかに行い、長きにわたり呪術的要素が強く熟成、土着化したものである。
起源は、浄土真宗の開祖である親鸞の長男である善鸞が浄土真宗の東国布教に遣わされた際、現地で信じたと言われ、
邪教を布教したとして、以来、善鸞は父から絶縁、追放されている。
生きるのが困難だった時代、 どうにか仏のご加護を受けたいという一心から編み出されたものだと考えられよう。
隠し念仏とは通り名であって本来の名称ではない。正式には『浄土真宗御内法』、あるいは縮めて『御内法』という。
つまり寺を通して伝える『表法』に対する『内法』を意味する。
かつて隠れキリシタンを弾圧した仙台藩は、御内法を『犬切支丹』『秘事法門』『外道邪法』と罵り迫害、
キリスト教につぐ厳しさで弾圧した。明治政府からも公序良俗を乱すとして厳しく取り締まった。
とはいえ人々の信仰心はたくましい。その激烈な弾圧があったからこそ、この秘密宗教はより奥深くに潜伏し、
土着化して、今日まで隠し念仏として生き残ってきたのだ。
ちなみに、『隠し〜』ではなく、『隠れ』念仏は主に九州に分布した。
九州薩摩藩ではキリシタン禁制にも劣らぬ弾圧が真宗の念仏者に対して敷かれており、真宗門徒が地下に潜り、
強い信念のもと、危険を冒してまで独自の信仰形態を作りあげた。
このことから既成の宗教を隠れミノとし、ある程度習合するなど、隠れキリシタンと同義と見てよい。
薩摩藩の門徒信者は、藩への年貢納税よりも、本願寺への納付を優先しようとした。
それゆえ藩は真宗禁制を厳くした。だから門徒が隠れて信仰を守ろうとしたのが『隠れ念仏』。
したがって本願寺から見ると、東北の『隠し念仏』は異端であり、九州の『隠れ念仏』が正統ということになるそうだ。
隠し念仏はあくまで総称であり、地域や流儀などによって呪術的儀式は異なる。
さらに排他的秘密主義のために、その儀式の全貌はいまだ明らかにされていないが、
『隠れ念仏と隠し念仏—日本人のこころ九州・東北』の著者、五木寛之によると、
最近では少しずつではあるが、秘密儀式の一部などを公開する軟化の動きも見られるという。
[YouTubeで再生]
隠し念仏 2
おかしな話、秘匿性の高い隠し念仏は、柳田国男の名著『遠野物語』にすら登場するほどポピュラーだったりする。
もっとも、それは佐々木喜善の嗅覚と柳田の探究心があったからこそかもしれない。
全文引用してみよう。
>此話をしたる老女は熱心なる念仏者なれど、世の常の念仏者とは様かはり、一種邪宗らしき信仰あり。
>信者に道を伝ふることはあれども、互に厳重なる秘密を守り、其作法に就きては親にも子にも聊か(いささか)たりとも知らしめず。
>又寺とも僧とも少しも関係はなくて、在家の物のみの集まりなり。其人の数も多からず。
>辷石(すべりいし)たにえと云ふ婦人などは同じ仲間なり。阿弥陀仏の斎日には、夜中人の静まるを待ちて会合し、
>隠れたる室にて祈祷す。魔法まじなひを善くする故に、郷党に対して一種の権威あり。
隠し念仏は江戸時代ごろ、貧しい農民の間で広まった。
葬儀のたび坊さんを呼ぶとなると、お布施などの経費がかかってしまう。したがって、農民たちで念仏を唱えた方が安価である。
さらに唱えるお経は簡略化されたものなので、学がなくとも暗唱しやすい。
また特別な会場を必要とせず、道具も用意しなくてよかった。せいぜい長い数珠と木札だけで事足りた。
唱えた数が多いほど死後、極楽浄土へ早く行けるとして、爆発的に地域に広まったわけだ。
人の死後だけではない。隠し念仏では、生後1週間以内の赤ん坊にも『オモトヅケ』をと呼ばれる儀式を行う。
これは五島列島などで潜伏時代のキリシタンの間で行われた『お水受け』『御元附け』と同義。
さらに隠し念仏では、子どもが6、7歳のころに『オトリアゲ』の儀式をやる。
とすればこれは、キリスト教徒の洗礼に相当するのだろう。
この儀式に落第した子供は、石臼に乗せられるとか。石臼はキリストのメタファーであるという。
秋田藩主佐竹義宣の文書に『大ウス宗の者』という語句があり、大ウスはデウスを指す。
この通過儀礼を受けた者は、一連の内容を部外者には喋ってはならない。漏らせば血を吐いて死ぬと脅されることもある。
それゆえ、信者は堅く口を閉ざしたのだ。
隠し念仏 2
おかしな話、秘匿性の高い隠し念仏は、柳田国男の名著『遠野物語』にすら登場するほどポピュラーだったりする。
もっとも、それは佐々木喜善の嗅覚と柳田の探究心があったからこそかもしれない。
全文引用してみよう。
>此話をしたる老女は熱心なる念仏者なれど、世の常の念仏者とは様かはり、一種邪宗らしき信仰あり。
>信者に道を伝ふることはあれども、互に厳重なる秘密を守り、其作法に就きては親にも子にも聊か(いささか)たりとも知らしめず。
>又寺とも僧とも少しも関係はなくて、在家の物のみの集まりなり。其人の数も多からず。
>辷石(すべりいし)たにえと云ふ婦人などは同じ仲間なり。阿弥陀仏の斎日には、夜中人の静まるを待ちて会合し、
>隠れたる室にて祈祷す。魔法まじなひを善くする故に、郷党に対して一種の権威あり。
隠し念仏は江戸時代ごろ、貧しい農民の間で広まった。
葬儀のたび坊さんを呼ぶとなると、お布施などの経費がかかってしまう。したがって、農民たちで念仏を唱えた方が安価である。
さらに唱えるお経は簡略化されたものなので、学がなくとも暗唱しやすい。
また特別な会場を必要とせず、道具も用意しなくてよかった。せいぜい長い数珠と木札だけで事足りた。
唱えた数が多いほど死後、極楽浄土へ早く行けるとして、爆発的に地域に広まったわけだ。
人の死後だけではない。隠し念仏では、生後1週間以内の赤ん坊にも『オモトヅケ』をと呼ばれる儀式を行う。
これは五島列島などで潜伏時代のキリシタンの間で行われた『お水受け』『御元附け』と同義。
さらに隠し念仏では、子どもが6、7歳のころに『オトリアゲ』の儀式をやる。
とすればこれは、キリスト教徒の洗礼に相当するのだろう。
この儀式に落第した子供は、石臼に乗せられるとか。石臼はキリストのメタファーであるという。
秋田藩主佐竹義宣の文書に『大ウス宗の者』という語句があり、大ウスはデウスを指す。
この通過儀礼を受けた者は、一連の内容を部外者には喋ってはならない。漏らせば血を吐いて死ぬと脅されることもある。
それゆえ、信者は堅く口を閉ざしたのだ。
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隠し念仏 3
隠し念仏の主な秘儀であるオトリアゲやオモトズケとは別に、『百万遍念仏』という儀式があるが、
あくまで混成した行事にすぎず、本来は隠し念仏とは切り離して考えるべきだそうだ。
この動画がその様子を撮影したもの。3分45秒から。
補陀落渡海といい、スレチではないかと言うなかれ。我が国、日本も地球規模で言えば、全面積約37.8万km²のちっぽけな離島である。
島という隔離エリアでは独自の生産が行われ、独自の価値観を育み、独自の葬送儀礼で送り出す。
日本には、まだまだ日の当たらない歴史や文化が埋もれており、我々の知的好奇心をかき立て、また、信仰とはなんなのか、考えさせてくれる。
と同時に、あらためて日本の魅力を再確認することにもつながる。
しかしながら秘匿したものを土足で踏み荒らし、すべてを白日のもとに晒そうと穴をほじくり返すのもまた傲慢である。
節度を心がけようと肝に銘じなければならない。
隠し念仏 wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9A%A0%E3%81%97%E5%BF%...
水沢聖書バプテスト教会 隠れキリシタンと隠し念仏
http://blogs.yahoo.co.jp/mizusawa_church/61092917.htm...
アグリコ日記 隠し念仏
http://blog.goo.ne.jp/agrico1/e/71d917403262d0a4508a...
百万遍念仏 wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%99%BE%E4%B8%87%E9%81%...
清崎の百万遍念仏
http://sitarakankou.on.arena.ne.jp/hyakumanbenenbutu.ht...
発言小町発ホラー「真っ黒い手紙」(未完) 2010.10.17追記
http://haniwafactory.blog28.fc2.com/?mode=m&no=313...
オカ板で暇つぶし(仮) 東北地方の密教「隠し念仏」について語る
http://occult24.blog10.fc2.com/blog-entry-14.htm...
※あれほどオカルト色を控えたいと言いながら、2ちゃんねる系掲示板のURLを貼ってしまう僕はいけない子です……。
隠し念仏 3
隠し念仏の主な秘儀であるオトリアゲやオモトズケとは別に、『百万遍念仏』という儀式があるが、
あくまで混成した行事にすぎず、本来は隠し念仏とは切り離して考えるべきだそうだ。
この動画がその様子を撮影したもの。3分45秒から。
補陀落渡海といい、スレチではないかと言うなかれ。我が国、日本も地球規模で言えば、全面積約37.8万km²のちっぽけな離島である。
島という隔離エリアでは独自の生産が行われ、独自の価値観を育み、独自の葬送儀礼で送り出す。
日本には、まだまだ日の当たらない歴史や文化が埋もれており、我々の知的好奇心をかき立て、また、信仰とはなんなのか、考えさせてくれる。
と同時に、あらためて日本の魅力を再確認することにもつながる。
しかしながら秘匿したものを土足で踏み荒らし、すべてを白日のもとに晒そうと穴をほじくり返すのもまた傲慢である。
節度を心がけようと肝に銘じなければならない。
隠し念仏 wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9A%A0%E3%81%97%E5%BF%...
水沢聖書バプテスト教会 隠れキリシタンと隠し念仏
http://blogs.yahoo.co.jp/mizusawa_church/61092917.htm...
アグリコ日記 隠し念仏
http://blog.goo.ne.jp/agrico1/e/71d917403262d0a4508a...
百万遍念仏 wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%99%BE%E4%B8%87%E9%81%...
清崎の百万遍念仏
http://sitarakankou.on.arena.ne.jp/hyakumanbenenbutu.ht...
発言小町発ホラー「真っ黒い手紙」(未完) 2010.10.17追記
http://haniwafactory.blog28.fc2.com/?mode=m&no=313...
オカ板で暇つぶし(仮) 東北地方の密教「隠し念仏」について語る
http://occult24.blog10.fc2.com/blog-entry-14.htm...
※あれほどオカルト色を控えたいと言いながら、2ちゃんねる系掲示板のURLを貼ってしまう僕はいけない子です……。
死人返りと三日の墓参り 竹富島
八重山諸島にある竹富島(たけとみじま)は、石垣島からは約6km離れた面積5.42 km²の小島である。
沖縄特有の赤瓦屋根の家(カーラヤー)で形成された町並は、重要伝統的建造物群保存地区として指定されており、
そのまま観光資源として生かされている。
また、数多くの歌謡(民謡、古謡、わらべうた)、芸能、伝承、風習などの伝統文化が引き継がれている文化遺産の島でもある。
そんな竹富島には、奇妙な昔話が残されている。その話を契機に、独自の行事が生まれたほどだ。
弘化元年(1844年)のこと、竹富島の新田マハツという女が田福家に嫁いだ。
しかし月日が経てど、マハツは子供を授からなかった。
それゆえ臨終の間際には、私が死んだら田福家の墓には入れずともよいと言い残し亡くなった。
遺言に従い、実家である新田家の墓へ埋葬することに。
(※亀甲墓はなかったはず。琉球王府時代には庶民が墓を造るのは禁止されており、一般的に流行したのは明治中頃以降。
とすれば入口を扉で塞いだ共同使用の大きな墓所であろう。遺体を白骨化させる場所(シルヒラシ)があり、新しく死者が出た場合、
墓口に近い砂利敷きの場所に棺箱を安置したらしい)
そのころ、里の新田家には妊娠して臨月の嫁女がいた。
実は島の習慣で、妊婦のいる家に死人が出たら墓を開けることは禁じられていたのだ。
とはいえ遺言を無下にすることもできず、新田家の墓にマハツを葬った。
不思議なことに、墓の中でマツンーメという新田家の祖先の霊が現われ、こう言った。
「いいですか、田福家の嫁として嫁いだからには、子供ができずとも田福家の墓に入るのが道理です。
新田家には近日中に嫁がお産をひかえているのに、その墓を開けたことは許されない行為。
早く戻って嫁の安産をすませて来るのです」と言い聞かせて、マハツを生き返らせたのだ。
死んでいたはずのマハツは息を吹き返し、棺桶のフタを開け、暗い墓の中で3日の間生きていた。
ちょうどそのころ、墓所の地主であるカイシが、墓のそばで農作業をしていた。
墓の中から人の声がするではないか。恐る恐る入口の扉に耳を当てた。
「カイシ……カイシよ、どうか墓を開けておくれ」それはマハツの声だった。
カイシは仰天して村に帰り、村人や親族に事情を話した。
人々は松明を掲げ、墓の入口を開けると、蘇ったマハツと対面した。
村に帰ったマハツは祖先の霊の伝えを親族に言って聞かせた。
4日目に嫁が無事、子供を生むと、その子にカナシと名づけたのち、7日目にマハツは今度こそ死んだ。
それからというもの、竹富島では3日目のお墓見舞いという行事が行われ、墓では死人の名前を3回呼ぶようになったという。
全国竹富島文化協会
http://www.napcoti.com/index.ht...
八重山諸島にある竹富島(たけとみじま)は、石垣島からは約6km離れた面積5.42 km²の小島である。
沖縄特有の赤瓦屋根の家(カーラヤー)で形成された町並は、重要伝統的建造物群保存地区として指定されており、
そのまま観光資源として生かされている。
また、数多くの歌謡(民謡、古謡、わらべうた)、芸能、伝承、風習などの伝統文化が引き継がれている文化遺産の島でもある。
そんな竹富島には、奇妙な昔話が残されている。その話を契機に、独自の行事が生まれたほどだ。
弘化元年(1844年)のこと、竹富島の新田マハツという女が田福家に嫁いだ。
しかし月日が経てど、マハツは子供を授からなかった。
それゆえ臨終の間際には、私が死んだら田福家の墓には入れずともよいと言い残し亡くなった。
遺言に従い、実家である新田家の墓へ埋葬することに。
(※亀甲墓はなかったはず。琉球王府時代には庶民が墓を造るのは禁止されており、一般的に流行したのは明治中頃以降。
とすれば入口を扉で塞いだ共同使用の大きな墓所であろう。遺体を白骨化させる場所(シルヒラシ)があり、新しく死者が出た場合、
墓口に近い砂利敷きの場所に棺箱を安置したらしい)
そのころ、里の新田家には妊娠して臨月の嫁女がいた。
実は島の習慣で、妊婦のいる家に死人が出たら墓を開けることは禁じられていたのだ。
とはいえ遺言を無下にすることもできず、新田家の墓にマハツを葬った。
不思議なことに、墓の中でマツンーメという新田家の祖先の霊が現われ、こう言った。
「いいですか、田福家の嫁として嫁いだからには、子供ができずとも田福家の墓に入るのが道理です。
新田家には近日中に嫁がお産をひかえているのに、その墓を開けたことは許されない行為。
早く戻って嫁の安産をすませて来るのです」と言い聞かせて、マハツを生き返らせたのだ。
死んでいたはずのマハツは息を吹き返し、棺桶のフタを開け、暗い墓の中で3日の間生きていた。
ちょうどそのころ、墓所の地主であるカイシが、墓のそばで農作業をしていた。
墓の中から人の声がするではないか。恐る恐る入口の扉に耳を当てた。
「カイシ……カイシよ、どうか墓を開けておくれ」それはマハツの声だった。
カイシは仰天して村に帰り、村人や親族に事情を話した。
人々は松明を掲げ、墓の入口を開けると、蘇ったマハツと対面した。
村に帰ったマハツは祖先の霊の伝えを親族に言って聞かせた。
4日目に嫁が無事、子供を生むと、その子にカナシと名づけたのち、7日目にマハツは今度こそ死んだ。
それからというもの、竹富島では3日目のお墓見舞いという行事が行われ、墓では死人の名前を3回呼ぶようになったという。
全国竹富島文化協会
http://www.napcoti.com/index.ht...
死人島
その昔、丹後路では、沖合の名もなき小島に死人を捨てた風習があったとされている。
人が死ぬと、馬の飼葉桶(馬の飼料を入れる楕円形の容器)のような木をくりぬいた棺に収め、親族とともに船に乗って島へ渡った。
型どおりの葬儀を執り行ったあと、死体と故人の持ち物は島に放置された。
幡(『ばん』、もしくは『はた』。目印や装飾を意味する布製の仏具)や天蓋などが満潮時の波にさらわれ、
本土に流れ着くことはあっても、死骸だけが戻ってくることはなかった。
人はそこを死人島と呼んだ。
あやしい古典文学の壺
http://home.att.ne.jp/red/sronin/kotenlist1a.ht...
http://home.att.ne.jp/red/sronin/_koten/0660sininjim...
その昔、丹後路では、沖合の名もなき小島に死人を捨てた風習があったとされている。
人が死ぬと、馬の飼葉桶(馬の飼料を入れる楕円形の容器)のような木をくりぬいた棺に収め、親族とともに船に乗って島へ渡った。
型どおりの葬儀を執り行ったあと、死体と故人の持ち物は島に放置された。
幡(『ばん』、もしくは『はた』。目印や装飾を意味する布製の仏具)や天蓋などが満潮時の波にさらわれ、
本土に流れ着くことはあっても、死骸だけが戻ってくることはなかった。
人はそこを死人島と呼んだ。
あやしい古典文学の壺
http://home.att.ne.jp/red/sronin/kotenlist1a.ht...
http://home.att.ne.jp/red/sronin/_koten/0660sininjim...
現代版死の島? 散骨専用のカズラ島
島根半島から北へ50kmのところに位置する隠岐諸島。
そこには180もの無人島が点在しており、そのうちの1島を散骨場所にする試みが2008年8月からスタートした。
もともとは個人所有だった島を、東京都の葬儀社など8社が出資する株式会社カズラ(隠岐郡海士町)が買い取った。
言うまでもなく、散骨とはお骨を粉状にして撒くこと。
焼骨のままでは撒くことは遺骨遺棄罪に触れるので、必ずmm単位まで砕かなければならない。
規定では一応2mmになっているが、1mmが理想だそうだ。
さらに撒く場所はどこでもいいわけではない。生前、山好きだったからとはいえ、山には所有者がいるし、
海にせよ、海岸で撒くのは他人からすれば気持ちのいいものではない。
まして撒いたあとに土をかけるのは埋葬扱いになり、墓地埋葬法に触れるため安易に行うべきではない。
カズラ島に上陸できるのは5月と9月の各4日間だけだ。最初の2日間は見学者、あとの2日間は散骨者のためのもの。
それ以外は立入り禁止になっているそうだ。
散骨場所は1区画100人分の遺骨を撒ける形となっている。10区画作られているようで、1年に1区画を利用し、10年で一巡する予定。
10年経ったころには、骨は完全に土に還っているとのこと。
墓参り際は、他島からカズラ島を望む位置に慰霊所が設けられており、そこから手を合わせるらしい。
隠岐の島のご紹介|自然散骨カズラ島
http://www.kazurajima.jp/oki/index.htm...
大自然の中で静かに眠る 「散骨」専用島が隠岐に誕生
http://www.j-cast.com/2008/08/24025401.html?p=al...
島根半島から北へ50kmのところに位置する隠岐諸島。
そこには180もの無人島が点在しており、そのうちの1島を散骨場所にする試みが2008年8月からスタートした。
もともとは個人所有だった島を、東京都の葬儀社など8社が出資する株式会社カズラ(隠岐郡海士町)が買い取った。
言うまでもなく、散骨とはお骨を粉状にして撒くこと。
焼骨のままでは撒くことは遺骨遺棄罪に触れるので、必ずmm単位まで砕かなければならない。
規定では一応2mmになっているが、1mmが理想だそうだ。
さらに撒く場所はどこでもいいわけではない。生前、山好きだったからとはいえ、山には所有者がいるし、
海にせよ、海岸で撒くのは他人からすれば気持ちのいいものではない。
まして撒いたあとに土をかけるのは埋葬扱いになり、墓地埋葬法に触れるため安易に行うべきではない。
カズラ島に上陸できるのは5月と9月の各4日間だけだ。最初の2日間は見学者、あとの2日間は散骨者のためのもの。
それ以外は立入り禁止になっているそうだ。
散骨場所は1区画100人分の遺骨を撒ける形となっている。10区画作られているようで、1年に1区画を利用し、10年で一巡する予定。
10年経ったころには、骨は完全に土に還っているとのこと。
墓参り際は、他島からカズラ島を望む位置に慰霊所が設けられており、そこから手を合わせるらしい。
隠岐の島のご紹介|自然散骨カズラ島
http://www.kazurajima.jp/oki/index.htm...
大自然の中で静かに眠る 「散骨」専用島が隠岐に誕生
http://www.j-cast.com/2008/08/24025401.html?p=al...
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人身御供によって完成した人工島 経ヶ島(きょうがしま)
平安時代のころ、神戸港は『大輪田泊』と呼ばれた。
現在の兵庫区南部の地域であったといわれ、南東からの風波をまともに受けて停泊が危険だった。
福原に別荘を構えていた平清盛は日宋貿易の拠点として大輪田泊を重視し、承安3(1173)年に私財を投じて改修をした。
泊(とまり)の前面に防波堤となる人工島を築き、風から船を守ろうとしたのだ。
塩槌山を切り崩した土で海を埋め立てるものの、難工事が続き、ついには貴族たちの間で、
「これは海神様がお怒りだからではないか。とすれば人身御供を捧げ、お怒りを鎮めねばなるまい」と、迷信が流布するほどであった。
さすがの平清盛も人柱を立てるのは人道的ではないと考え、代わりに石の1つ1つに『一切経』を書いて埋め立てに使った。これを経石という。
その後、事故などもなく無事に工事が終わり、お経を広げたような扇の形をしたこの島を経ヶ島と名づけた。
……もっとも、この伝承も時代が経つにつれて変容していく。
一説には、やはり人身御供(人柱)を立て、工事が終わったともされているのだ。
『摂津名所図会』には、松王小児(松王健児(こんでい)、松王丸ともいわれる)について次のように書かれている。
「埋め立てても大波が土石をゆり流してしまう。龍神の怒りをなだめるため30人の人柱と経石を海底におさめよとの占いが出た。
平相国(清盛)は生田の森に関を据えて往還の旅人を捕らえさせたが、近隣の村民が嘆いて訴えるので兵庫の者はこの難を免れた。
今のことわざに『兵庫の者なり御免あれ』というのはこの由縁である。3ヶ月かけて30人を虜(とりこ)にしたが、
親族が群れ来てその悲嘆は尋常ではなかった。清盛はこれを悼んで延期すること5ヶ月に及んだ。
そこへ讃州香川城主、大井民部の嫡子、松王小児17歳が進み出て、身代わりに自分ひとりを沈めるように願い出た。
清盛は大いに心を動かされる。ついに、経石と松王小児を海に沈めて島は成った。沈めた所に建てられたのが築島寺(来迎寺)である」
平家物語では清盛の没後、円實という僧によって経ヶ島に埋葬されたと記述されている。
この経ヶ島を造ることによって、大輪田泊を日本一の港として名を馳させ、今日の神戸港の繁栄へとつながるのである。
松王丸法要祭に清盛茶屋出張 よみがえる兵庫津 〜平清盛プロジェクト〜
http://www.kiyomori.org/?p=95...
淡路の昔話
http://www.awaji-is.or.jp/otasuke/mukasi/matu.htm...
平安時代のころ、神戸港は『大輪田泊』と呼ばれた。
現在の兵庫区南部の地域であったといわれ、南東からの風波をまともに受けて停泊が危険だった。
福原に別荘を構えていた平清盛は日宋貿易の拠点として大輪田泊を重視し、承安3(1173)年に私財を投じて改修をした。
泊(とまり)の前面に防波堤となる人工島を築き、風から船を守ろうとしたのだ。
塩槌山を切り崩した土で海を埋め立てるものの、難工事が続き、ついには貴族たちの間で、
「これは海神様がお怒りだからではないか。とすれば人身御供を捧げ、お怒りを鎮めねばなるまい」と、迷信が流布するほどであった。
さすがの平清盛も人柱を立てるのは人道的ではないと考え、代わりに石の1つ1つに『一切経』を書いて埋め立てに使った。これを経石という。
その後、事故などもなく無事に工事が終わり、お経を広げたような扇の形をしたこの島を経ヶ島と名づけた。
……もっとも、この伝承も時代が経つにつれて変容していく。
一説には、やはり人身御供(人柱)を立て、工事が終わったともされているのだ。
『摂津名所図会』には、松王小児(松王健児(こんでい)、松王丸ともいわれる)について次のように書かれている。
「埋め立てても大波が土石をゆり流してしまう。龍神の怒りをなだめるため30人の人柱と経石を海底におさめよとの占いが出た。
平相国(清盛)は生田の森に関を据えて往還の旅人を捕らえさせたが、近隣の村民が嘆いて訴えるので兵庫の者はこの難を免れた。
今のことわざに『兵庫の者なり御免あれ』というのはこの由縁である。3ヶ月かけて30人を虜(とりこ)にしたが、
親族が群れ来てその悲嘆は尋常ではなかった。清盛はこれを悼んで延期すること5ヶ月に及んだ。
そこへ讃州香川城主、大井民部の嫡子、松王小児17歳が進み出て、身代わりに自分ひとりを沈めるように願い出た。
清盛は大いに心を動かされる。ついに、経石と松王小児を海に沈めて島は成った。沈めた所に建てられたのが築島寺(来迎寺)である」
平家物語では清盛の没後、円實という僧によって経ヶ島に埋葬されたと記述されている。
この経ヶ島を造ることによって、大輪田泊を日本一の港として名を馳させ、今日の神戸港の繁栄へとつながるのである。
松王丸法要祭に清盛茶屋出張 よみがえる兵庫津 〜平清盛プロジェクト〜
http://www.kiyomori.org/?p=95...
淡路の昔話
http://www.awaji-is.or.jp/otasuke/mukasi/matu.htm...
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ズラリと並んだ奇岩が壮観 橋杭岩(はしくいいわ・はしぐいいわ)
和歌山県串本町のそそり立つ奇岩群。それが名勝、橋杭岩。
海岸から紀伊大島方面へ向けて、大小約40の個性的な石柱が一列に、およそ850メートルもの長さにわたり並んでいるのだ。
まるで橋桁を失った橋脚を思わせることから橋杭岩と呼ばれている。
干潮時には岩の列の中ほどに位置する弁天島まで渡り、磯遊びに興じることもできる。
奇岩マニアにはたまらない奇跡のような光景だが、カラクリは単純。
泥岩層の間に火成活動によって石英斑岩が貫入してできた岩脈が、地殻変動で地表付近にあらわれ、
侵食に強い岩が残ったものにすぎない。
そんな壮観な眺めから、先人は橋杭岩にまつわる伝説を生み出した。
昔々、弘法大師と天の邪鬼(子鬼のこと)が熊野地方を旅したときのこと。
天の邪鬼は弘法大師と話をしているうちに、大師の偉大さが鼻につくようになる。
切れ者であると自負する天の邪鬼は、なんとか大師をギャフンと言わせたいと思った末、よからぬ案を考えた。
「弘法さん、あの紀伊大島は海中の離れ島で、天気の悪い日にゃあ、地元民は内地との行き来が難儀してるそうですぜ。
ひとつあなたのお力で、大島と陸地との間に橋を架けてやったらどうです?」と、ハッタリをかけた。
「なるほど、それはいい案だ。ならばひと肌脱ぐとするか」と、弘法大師は誘いに乗った。
「けど、ただ仕事するのもつまらない。あなたが一晩で橋を架けられるかどうか、賭けをしやせんか?」
「よかろう。では太陽が沈んでから、仕事に取りかかるか」
いかに弘法大師の力をもってさえ、まさか一夜にして橋を完成させることはできまい。
根負けした大師の姿を想像すると、天の邪鬼は無性にニヤけてくる。
日が暮れて弘法大師が動き出した。どうやって橋を架けるのだろうと、天の邪鬼は草むらの陰から様子を窺うと、
驚くべきことに、なんと大師は山から巨岩を束にして担いできては、ヒョイヒョイと海中に立てているではないか。
たった2、3時間のうちに橋杭が並んでしまった。
「こいつぁ大変だ……このままでは夜明けまでに立派な橋ができあがっちまう!」と、天の邪鬼は呆気にとられ、
なんとか邪魔する手はないか考えた。それで苦し紛れに、「コケコッコー!」と、鶏の鳴き真似をした。
弘法大師は、「なんと、もう夜が明けたのか?」と思い、仕事を中断してしまった。
そのときの橋を造る途中の名残りが橋杭岩だとされているのだ。
弘法大師よ、仕事を中途半端に放置してはいけませんよ……。
ふるさと元気風ネット 橋杭岩
http://www.osumi.or.jp/sakata/nanki/hasigui.htm...
悪神が作った橋!?「奇岩(3)橋杭岩」【和歌山】 :日本珍スポット100景
http://b-spot.seesaa.net/article/27690710.htm...
橋杭岩|自然・景観|和歌山県フォト博物館
http://www.pref.wakayama.lg.jp/prefg/000200/photomuseum/096.h...
ズラリと並んだ奇岩が壮観 橋杭岩(はしくいいわ・はしぐいいわ)
和歌山県串本町のそそり立つ奇岩群。それが名勝、橋杭岩。
海岸から紀伊大島方面へ向けて、大小約40の個性的な石柱が一列に、およそ850メートルもの長さにわたり並んでいるのだ。
まるで橋桁を失った橋脚を思わせることから橋杭岩と呼ばれている。
干潮時には岩の列の中ほどに位置する弁天島まで渡り、磯遊びに興じることもできる。
奇岩マニアにはたまらない奇跡のような光景だが、カラクリは単純。
泥岩層の間に火成活動によって石英斑岩が貫入してできた岩脈が、地殻変動で地表付近にあらわれ、
侵食に強い岩が残ったものにすぎない。
そんな壮観な眺めから、先人は橋杭岩にまつわる伝説を生み出した。
昔々、弘法大師と天の邪鬼(子鬼のこと)が熊野地方を旅したときのこと。
天の邪鬼は弘法大師と話をしているうちに、大師の偉大さが鼻につくようになる。
切れ者であると自負する天の邪鬼は、なんとか大師をギャフンと言わせたいと思った末、よからぬ案を考えた。
「弘法さん、あの紀伊大島は海中の離れ島で、天気の悪い日にゃあ、地元民は内地との行き来が難儀してるそうですぜ。
ひとつあなたのお力で、大島と陸地との間に橋を架けてやったらどうです?」と、ハッタリをかけた。
「なるほど、それはいい案だ。ならばひと肌脱ぐとするか」と、弘法大師は誘いに乗った。
「けど、ただ仕事するのもつまらない。あなたが一晩で橋を架けられるかどうか、賭けをしやせんか?」
「よかろう。では太陽が沈んでから、仕事に取りかかるか」
いかに弘法大師の力をもってさえ、まさか一夜にして橋を完成させることはできまい。
根負けした大師の姿を想像すると、天の邪鬼は無性にニヤけてくる。
日が暮れて弘法大師が動き出した。どうやって橋を架けるのだろうと、天の邪鬼は草むらの陰から様子を窺うと、
驚くべきことに、なんと大師は山から巨岩を束にして担いできては、ヒョイヒョイと海中に立てているではないか。
たった2、3時間のうちに橋杭が並んでしまった。
「こいつぁ大変だ……このままでは夜明けまでに立派な橋ができあがっちまう!」と、天の邪鬼は呆気にとられ、
なんとか邪魔する手はないか考えた。それで苦し紛れに、「コケコッコー!」と、鶏の鳴き真似をした。
弘法大師は、「なんと、もう夜が明けたのか?」と思い、仕事を中断してしまった。
そのときの橋を造る途中の名残りが橋杭岩だとされているのだ。
弘法大師よ、仕事を中途半端に放置してはいけませんよ……。
ふるさと元気風ネット 橋杭岩
http://www.osumi.or.jp/sakata/nanki/hasigui.htm...
悪神が作った橋!?「奇岩(3)橋杭岩」【和歌山】 :日本珍スポット100景
http://b-spot.seesaa.net/article/27690710.htm...
橋杭岩|自然・景観|和歌山県フォト博物館
http://www.pref.wakayama.lg.jp/prefg/000200/photomuseum/096.h...
四阪島専用の火葬地 鼠島(ねずみじま)
軍艦島こと端島に付随する形で火葬場や納骨堂が設けられた『中ノ島』(>>61)があるのに対し、
>>199で触れた銅山の工業島、四阪島にも同様の島があった。
もう一度おさらいしよう。
四阪島は瀬戸内海の燧灘(ひうちなだ)、大島の南東約10km、愛媛県新居浜市の北約20kmに浮かぶ島だが、
正確には『家ノ島』『美濃島』『明神島』『鼠島』『梶島』の5島で構成され、まとめて『四阪島』と呼ばれることが多い。
まさにその『鼠島』こそ火葬兼納骨堂の島だった。四阪島で働く身寄りのない精錬所関係者が亡くなると、ここで焼かれ埋葬された。
鼠島は5島の中で一番小さい島。この島は干潮になると南側に細長い尻尾のような陸があらわれる。
その姿は美濃島から見れば、まるで鼠のように見えるため、この島名がつけられたのではないかと言われている。
製錬所建設当時、病死事故死した親類縁者不明の人々を葬った無縁仏墓地が、島の北側に存在した。
また、大正中期に火葬場と納骨堂が完成し使われていたが、昭和40年に宮窪町営の火葬場が勝浦療養所跡に新設されてからは、
鼠島で火葬が行われることはなくなった。
四阪島製錬所建設から100年が経とうとしている現在も殉職者供養は続けられている。
日本の島へ行こう 四阪島
http://imagic.qee.jp/sima3/ehime/shisakajima.htm...
軍艦島こと端島に付随する形で火葬場や納骨堂が設けられた『中ノ島』(>>61)があるのに対し、
>>199で触れた銅山の工業島、四阪島にも同様の島があった。
もう一度おさらいしよう。
四阪島は瀬戸内海の燧灘(ひうちなだ)、大島の南東約10km、愛媛県新居浜市の北約20kmに浮かぶ島だが、
正確には『家ノ島』『美濃島』『明神島』『鼠島』『梶島』の5島で構成され、まとめて『四阪島』と呼ばれることが多い。
まさにその『鼠島』こそ火葬兼納骨堂の島だった。四阪島で働く身寄りのない精錬所関係者が亡くなると、ここで焼かれ埋葬された。
鼠島は5島の中で一番小さい島。この島は干潮になると南側に細長い尻尾のような陸があらわれる。
その姿は美濃島から見れば、まるで鼠のように見えるため、この島名がつけられたのではないかと言われている。
製錬所建設当時、病死事故死した親類縁者不明の人々を葬った無縁仏墓地が、島の北側に存在した。
また、大正中期に火葬場と納骨堂が完成し使われていたが、昭和40年に宮窪町営の火葬場が勝浦療養所跡に新設されてからは、
鼠島で火葬が行われることはなくなった。
四阪島製錬所建設から100年が経とうとしている現在も殉職者供養は続けられている。
日本の島へ行こう 四阪島
http://imagic.qee.jp/sima3/ehime/shisakajima.htm...
ドクロのような奇岩島 柱島(はしらじま)
瀬戸内海西部の安芸灘に位置する柱島群島の1つ、柱島は山口県岩国市に属する。
名前の由来は、島内に多くの神社(柱)が祭られていることだったとされている。
かつては島の近海が海軍連合艦隊の停泊地になっていた。
昭和18年には柱島沖合で戦艦『陸奥』が謎の爆発で沈没する事件が発生して以来、
毎年慰霊祭が行われているとのことである。
ドクロを思わせる奇怪な島の形だが、残念ながら他にいわくがあるわけではない。
基幹産業は農、水産業で、新鮮な魚や野菜、ミカンなどが出荷されている平和な島だ。
磯は良好の釣り場らしく、夏から秋にかけてタイ、チヌを狙いにフカセ釣りに興じる人が大勢つめかけるそうだ。
多島海に浮かぶ緑の島-柱島群島- 岩国市
http://www.pref.yamaguchi.lg.jp/cms/a123003/island/hashirajima...
瀬戸内海西部の安芸灘に位置する柱島群島の1つ、柱島は山口県岩国市に属する。
名前の由来は、島内に多くの神社(柱)が祭られていることだったとされている。
かつては島の近海が海軍連合艦隊の停泊地になっていた。
昭和18年には柱島沖合で戦艦『陸奥』が謎の爆発で沈没する事件が発生して以来、
毎年慰霊祭が行われているとのことである。
ドクロを思わせる奇怪な島の形だが、残念ながら他にいわくがあるわけではない。
基幹産業は農、水産業で、新鮮な魚や野菜、ミカンなどが出荷されている平和な島だ。
磯は良好の釣り場らしく、夏から秋にかけてタイ、チヌを狙いにフカセ釣りに興じる人が大勢つめかけるそうだ。
多島海に浮かぶ緑の島-柱島群島- 岩国市
http://www.pref.yamaguchi.lg.jp/cms/a123003/island/hashirajima...
獅子岩の反対側はドクロに見える 1
ドクロつながりで紹介したく、布石として>>227にて柱島を挙げた。
実は僕の地元、三重は熊野の国道42号線沿いには、名勝『獅子岩』と呼ばれる奇岩がある。
和歌山側から見ると、文字通り獅子がカッと口を開け、大海原に向かって咆哮している姿に映るので、
ちょっとした観光地として賑わいを見せているのだ。
そんな獅子岩だが、驚くべきことに左横顔(尾鷲側から見た反対側)は、虚空に向かってあんぐり口をあけたシャレコウベに見えるのだ。
まさしくさらし首にされ、朽ち果てた人骨の頭部のように……。
獅子岩は世界文化遺産にも登録された奇岩でありながら、まさかこんな暗黒面を持っているとはあまり知られていない。
それと因果関係があるかどうか、この獅子岩のすぐ隣にも奇岩、『人面岩』が立ち並んでいるのだ。
もっとも、人面と謳いながらゴリラの横顔に見えるのだが(これも和歌山側から見た場合)。
というのも、この獅子岩と人面岩は、熊野市井戸町にある大馬神社の狛犬に見立てられており、
2つで阿吽を表しているそうなのだ。
余談だが、人面岩はまたの名を『神仙洞』と呼ばれ、いわくつきの祠があるのだ。
今では厳重にフェンスが張られ、施錠付きの扉で塞がれている。
ここはかつて『北山一揆』の処刑場になっていたという。そういった血塗られた経緯があるからか、
獅子岩と人面岩で挟まれる格好で位置する喫茶店では、夜になるとナニが出るとかでひそかに有名だったり……。
北山一揆 wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E5%B1%B1%E4%B8%...
ドクロつながりで紹介したく、布石として>>227にて柱島を挙げた。
実は僕の地元、三重は熊野の国道42号線沿いには、名勝『獅子岩』と呼ばれる奇岩がある。
和歌山側から見ると、文字通り獅子がカッと口を開け、大海原に向かって咆哮している姿に映るので、
ちょっとした観光地として賑わいを見せているのだ。
そんな獅子岩だが、驚くべきことに左横顔(尾鷲側から見た反対側)は、虚空に向かってあんぐり口をあけたシャレコウベに見えるのだ。
まさしくさらし首にされ、朽ち果てた人骨の頭部のように……。
獅子岩は世界文化遺産にも登録された奇岩でありながら、まさかこんな暗黒面を持っているとはあまり知られていない。
それと因果関係があるかどうか、この獅子岩のすぐ隣にも奇岩、『人面岩』が立ち並んでいるのだ。
もっとも、人面と謳いながらゴリラの横顔に見えるのだが(これも和歌山側から見た場合)。
というのも、この獅子岩と人面岩は、熊野市井戸町にある大馬神社の狛犬に見立てられており、
2つで阿吽を表しているそうなのだ。
余談だが、人面岩はまたの名を『神仙洞』と呼ばれ、いわくつきの祠があるのだ。
今では厳重にフェンスが張られ、施錠付きの扉で塞がれている。
ここはかつて『北山一揆』の処刑場になっていたという。そういった血塗られた経緯があるからか、
獅子岩と人面岩で挟まれる格好で位置する喫茶店では、夜になるとナニが出るとかでひそかに有名だったり……。
北山一揆 wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E5%B1%B1%E4%B8%...
獅子岩の反対側はドクロに見える 2
とくと見るがいい、全国6000万の奇岩ファンよ、これが問題のドクロ奇岩だ。正真正銘、獅子岩の反対側。
右側面が獅子にして、反対側がドクロ……こんなアイロニー、他に類を見るまい。
ちなみにネットで検索しても、誰ひとりとして指摘している者はいない。もちろんこの画像もおそらく本邦初公開。
(こんな獅子岩の裏の顔が見られるのは明和水産の当スレだけ!)
国道沿いからでも展望することができるが、撮影にあたっては浜に降り、うんと近くでデジカメにおさめてきた。
ちょっと立ち位置を変えるだけで、このドクロの表情も微妙に変化する。
ちなみに真正面からだと、なんの変哲もない岩にしか映らないと思う。真下からのアングルも同様だった。
曇天の日に撮影していたが、この後、時ならぬ雨に祟られた。
不気味なドクロの横顔に見えるでしょ?
……でもこれ、島ネタじゃないね。まあ、奇岩つながりということでご容赦を。
獅子岩|ずっともっと - 熊野の観光情報サイト|ずっともっと
http://www.mottokumano.jp/spot/shishi.htm...
JAPAN WEB MAGAZINE 獅子岩
http://japan-web-magazine.com/japanese/japan-mie-shishiiwa1-...
とくと見るがいい、全国6000万の奇岩ファンよ、これが問題のドクロ奇岩だ。正真正銘、獅子岩の反対側。
右側面が獅子にして、反対側がドクロ……こんなアイロニー、他に類を見るまい。
ちなみにネットで検索しても、誰ひとりとして指摘している者はいない。もちろんこの画像もおそらく本邦初公開。
(こんな獅子岩の裏の顔が見られるのは明和水産の当スレだけ!)
国道沿いからでも展望することができるが、撮影にあたっては浜に降り、うんと近くでデジカメにおさめてきた。
ちょっと立ち位置を変えるだけで、このドクロの表情も微妙に変化する。
ちなみに真正面からだと、なんの変哲もない岩にしか映らないと思う。真下からのアングルも同様だった。
曇天の日に撮影していたが、この後、時ならぬ雨に祟られた。
不気味なドクロの横顔に見えるでしょ?
……でもこれ、島ネタじゃないね。まあ、奇岩つながりということでご容赦を。
獅子岩|ずっともっと - 熊野の観光情報サイト|ずっともっと
http://www.mottokumano.jp/spot/shishi.htm...
JAPAN WEB MAGAZINE 獅子岩
http://japan-web-magazine.com/japanese/japan-mie-shishiiwa1-...
鯛島の悲しい恋の話
鯛島(たいじま)は、青森県むつ市脇野沢の牛ノ首岬沖約800mの陸奥湾上にある無人島だ。
名の通り鯛に似ているから名付けられたといわれ、頭部は弁天島、尾の部分は立岩とも呼ばれている。
ところが実際の見た目はマンガチックな鯨に酷似しており、弁天島に設置されている灯台が鯨が潮を吹いているように見えて
ユーモラスな外観だ。
そんな鯛島であるが、弁天島の背中にある弁財天には悲恋伝説が残されている。
今から約1200年前、征夷大将軍である坂上田村麻呂が蝦夷征伐のために脇野沢村に訪れたとき、
村人である美しい娘と恋に落ちた。
娘はすぐに身ごもった。
けれども将軍は都に帰るとき、無情にも娘を置き去りにしてしまったため、彼女は恋しがり泣き続けた。
将軍の子を産んですぐ、自ら命を絶ってしまったのだ。
村人たちは娘を哀れみ、亡骸を少しでも都に近づけるようと鯛島に埋葬した。
ところがその後に船の難破事故が相次いだ。
人々はそれを、成仏できぬ娘の祟りだとして恐れるようになった。
そして500年後の南北朝時代、都落ちした藤原藤房がその話を聞き、鎮魂のために自らの天女の像を彫って弁財天を祀ったところ、
祟りがおさまったとされている。
しかし現代でも鯛島近辺のワカメは娘の髪の毛といわれ、漁を避けるなど、この悲恋伝説はもなお地元の人々の心に深く刻み込まれている。
美知の国あおもり“癒し”スポット一覧
http://www.pref.aomori.lg.jp/kensei/seisaku/tk_10_power.htm...
鯛島(たいじま)は、青森県むつ市脇野沢の牛ノ首岬沖約800mの陸奥湾上にある無人島だ。
名の通り鯛に似ているから名付けられたといわれ、頭部は弁天島、尾の部分は立岩とも呼ばれている。
ところが実際の見た目はマンガチックな鯨に酷似しており、弁天島に設置されている灯台が鯨が潮を吹いているように見えて
ユーモラスな外観だ。
そんな鯛島であるが、弁天島の背中にある弁財天には悲恋伝説が残されている。
今から約1200年前、征夷大将軍である坂上田村麻呂が蝦夷征伐のために脇野沢村に訪れたとき、
村人である美しい娘と恋に落ちた。
娘はすぐに身ごもった。
けれども将軍は都に帰るとき、無情にも娘を置き去りにしてしまったため、彼女は恋しがり泣き続けた。
将軍の子を産んですぐ、自ら命を絶ってしまったのだ。
村人たちは娘を哀れみ、亡骸を少しでも都に近づけるようと鯛島に埋葬した。
ところがその後に船の難破事故が相次いだ。
人々はそれを、成仏できぬ娘の祟りだとして恐れるようになった。
そして500年後の南北朝時代、都落ちした藤原藤房がその話を聞き、鎮魂のために自らの天女の像を彫って弁財天を祀ったところ、
祟りがおさまったとされている。
しかし現代でも鯛島近辺のワカメは娘の髪の毛といわれ、漁を避けるなど、この悲恋伝説はもなお地元の人々の心に深く刻み込まれている。
美知の国あおもり“癒し”スポット一覧
http://www.pref.aomori.lg.jp/kensei/seisaku/tk_10_power.htm...
丸子姫の亡霊伝説 怒和島(ぬわじま)
怒和島は松山市の北西海域に点在する忽那(くつな)諸島の有人島の1つで、津和地島と中島の間に位置する。
産業はレモンやみかんなどの柑橘類の栽培と漁業が主で、周囲の海は釣りのポイントとして知られており、
入り江を利用したヒラメやアワビの養殖も行われている、ごく牧歌的な島だ。
そんな怒和島にも秘められた伝説がある。それが丸子姫伝説だ。
昔々、大晦日の晩のこと。
西国の大名を乗せた船が暴風に遭い、潮に流されて丸子鼻の沖合で沈没した。
船には丸子姫という美しい姫が乗っていたが、船とともに海の藻屑と消えた。
以来、丸子姫の無念がそうさせるのか、旧暦の大晦日、深夜12時になると、沖合に怪しい火が灯ったり、
姫の亡霊が出没するという伝説が語られているのだ。
もっともこれは周辺海域の潮の流れが速いため、警告する意味で語られてきたのではなかろうか。
怒和島・上怒和
http://yomodado.blog46.fc2.com/blog-entry-837.htm...
忽那諸島の見所・過ごし方 忽那諸島
http://www.nakajimakisen.co.jp/contents/kutsuna-midokoro.htm...
怒和島は松山市の北西海域に点在する忽那(くつな)諸島の有人島の1つで、津和地島と中島の間に位置する。
産業はレモンやみかんなどの柑橘類の栽培と漁業が主で、周囲の海は釣りのポイントとして知られており、
入り江を利用したヒラメやアワビの養殖も行われている、ごく牧歌的な島だ。
そんな怒和島にも秘められた伝説がある。それが丸子姫伝説だ。
昔々、大晦日の晩のこと。
西国の大名を乗せた船が暴風に遭い、潮に流されて丸子鼻の沖合で沈没した。
船には丸子姫という美しい姫が乗っていたが、船とともに海の藻屑と消えた。
以来、丸子姫の無念がそうさせるのか、旧暦の大晦日、深夜12時になると、沖合に怪しい火が灯ったり、
姫の亡霊が出没するという伝説が語られているのだ。
もっともこれは周辺海域の潮の流れが速いため、警告する意味で語られてきたのではなかろうか。
怒和島・上怒和
http://yomodado.blog46.fc2.com/blog-entry-837.htm...
忽那諸島の見所・過ごし方 忽那諸島
http://www.nakajimakisen.co.jp/contents/kutsuna-midokoro.htm...
人類創世異伝 古宇利島(こうりじま)
沖縄県国頭群今帰仁(なきじん)村にある『古宇利島』。半径約1Km、周囲が約8kmの小島である。
島にはサトウキビ畑が広がり、昔ながらの沖縄の家屋が建ち並んでいる。
古宇利大橋が開通して以来、観光客もアクセスしやすくなり、週末ともなると島内は賑やかになる。
古宇利島のことを、昔はフィまたはクィ島と呼んだ。その流れで現在では別名『恋島』とも言われるらしい。
その恋島にちなんだかどうか、古宇利島には人類創世伝説が残されているのだが、これまた奇妙奇天烈。
それも旧約聖書『創世紀』に酷似していながら、沖縄らしい牧歌的なアレンジが施されており、たいへん興味深い内容なのだ。
『創世紀』では、人類最初の人間であるアダムとイヴがエデンの園で蛇にそそのかされ、禁断の果実を口にしてしまう。
そのことにより、裸でいることに恥じらいを憶え、イチジクの葉で秘所を隠す。
さらに果実に手を出した罰として、男は労働の苦痛を、女は妊娠に伴う苦痛を与えられてエデンの園を追放される話だ。
それに対し、古宇利島に伝わる人類創世伝説はこうだ。
昔々、古宇利島に、空から男女2人の子供が降ってきた。
彼らは無垢の裸のまますごし、毎日天から落ちてくる餅を食べて幸福に暮らしていた。
はじめはそれに疑問を抱かなかったのだが、あるとき、もしも餅が降らなくなったら……と、不安が頭をかすめた。
以来、毎日少しずつ食べ残すようにした。
ところが2人が貯え始めて直後、ついに餅は降ってこなくなったのだ。
たがいに天の月に向かって声を嗄らして歌ったが、餅は二度と降ることはなかった。
それからというもの2人は浜に出て魚や貝を捕り、働くことの苦しさを学んだ。
さらにある日のこと、海の中でジュゴンが交尾しているのを見つけた。
そこで男女の違いに気づき、恥部を蒲(がま)の葉で隠し、子作りを理解したのだった。
この2人こそ、琉球人のご先祖様にあたるのである。
……沖縄のキリスト教伝来は1622年、石垣島に寄港した南蛮船によってもたらされたと言われている。
琉球とキリスト教はあまりつながりがないように思われがちだが、どこからともなく聖書の話が伝わり、
古宇利島の古い歴史とミックスして、こんな奇妙な人類発祥伝説が生まれたのかもしれない。
アダムとイヴとウニの島 古宇利島
http://www.okitour.net/Column/akKouri...
沖縄県国頭群今帰仁(なきじん)村にある『古宇利島』。半径約1Km、周囲が約8kmの小島である。
島にはサトウキビ畑が広がり、昔ながらの沖縄の家屋が建ち並んでいる。
古宇利大橋が開通して以来、観光客もアクセスしやすくなり、週末ともなると島内は賑やかになる。
古宇利島のことを、昔はフィまたはクィ島と呼んだ。その流れで現在では別名『恋島』とも言われるらしい。
その恋島にちなんだかどうか、古宇利島には人類創世伝説が残されているのだが、これまた奇妙奇天烈。
それも旧約聖書『創世紀』に酷似していながら、沖縄らしい牧歌的なアレンジが施されており、たいへん興味深い内容なのだ。
『創世紀』では、人類最初の人間であるアダムとイヴがエデンの園で蛇にそそのかされ、禁断の果実を口にしてしまう。
そのことにより、裸でいることに恥じらいを憶え、イチジクの葉で秘所を隠す。
さらに果実に手を出した罰として、男は労働の苦痛を、女は妊娠に伴う苦痛を与えられてエデンの園を追放される話だ。
それに対し、古宇利島に伝わる人類創世伝説はこうだ。
昔々、古宇利島に、空から男女2人の子供が降ってきた。
彼らは無垢の裸のまますごし、毎日天から落ちてくる餅を食べて幸福に暮らしていた。
はじめはそれに疑問を抱かなかったのだが、あるとき、もしも餅が降らなくなったら……と、不安が頭をかすめた。
以来、毎日少しずつ食べ残すようにした。
ところが2人が貯え始めて直後、ついに餅は降ってこなくなったのだ。
たがいに天の月に向かって声を嗄らして歌ったが、餅は二度と降ることはなかった。
それからというもの2人は浜に出て魚や貝を捕り、働くことの苦しさを学んだ。
さらにある日のこと、海の中でジュゴンが交尾しているのを見つけた。
そこで男女の違いに気づき、恥部を蒲(がま)の葉で隠し、子作りを理解したのだった。
この2人こそ、琉球人のご先祖様にあたるのである。
……沖縄のキリスト教伝来は1622年、石垣島に寄港した南蛮船によってもたらされたと言われている。
琉球とキリスト教はあまりつながりがないように思われがちだが、どこからともなく聖書の話が伝わり、
古宇利島の古い歴史とミックスして、こんな奇妙な人類発祥伝説が生まれたのかもしれない。
アダムとイヴとウニの島 古宇利島
http://www.okitour.net/Column/akKouri...
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ソロモン大王のトンデモ秘宝伝説 江の島
正気か? あの江の島にはソロモン大王の秘宝(時価にして数百億円)が眠っているとされるウワサがあったのをご存知だろうか?
江の島には全部で3つの洞窟があるが、いずれも鍾乳洞ではなく、海水浸水作用によるものだ。
一番大きい穴は第一洞窟で、島の入口の桟橋から約1km、岩屋と呼ばれる島の西南端の断崖の下にあって、その名を金窟、
霊窟とも蓬莱洞ともいわれている。
財宝のある場所と推定されるのは、第一洞窟の奥宮の神壇が祀られているところ。
洞窟の入口は高さ20mと、とにかく巨大。大きな鳥居と祭壇があり、洞窟の奥の神壇裏には直径1mほどの竪穴が空いている。
その穴は深さ78mにも達しているという。
昭和32年ごろ、この竪穴に縄梯子をかけて降りた人の話によれば、穴の底は8畳間ほどの石の部屋で、岩壁には経文や仏像画が刻まれており、
判読できない暗号文字を記した石仏や、岩室の奥には女性器そっくりのものが掘られてあったらしい。
鎌倉時代、源頼朝は家臣の仁田四郎に命じて、富士山麓の風穴を調査させたことがあるが、その理由が「富士山の風穴洞窟のひとつは、
遠く鎌倉から江の島まで人工トンネルで結ばれている」という古文書の記録を確認するためだった。
また、江島神社の由来によれば、552年(仏教伝来の年)のころまでには、この洞窟は『御窟』もしくは『金窟』と呼ばれ、
洞窟のなかからは目もくらむばかりの金色の光を放っていたという。
昭和29年12月5日、その日の産経新聞朝刊に、江の島にてソロモン大王の秘宝を発掘している人物の記事が掲載されている。
その人物こそ、横浜市在住の高根正教氏(当時74歳)。
氏の話によると、ソロモンの財宝が日本にも埋蔵されている結論を得たのは、長年研究を続けていたヨハネ黙示録からだった。
16章の「また天より100金ほどの大いなるヒョウ、人々の上にふりしかば」と、第7章「イスラエルの子らのもろもろの族のなかにて
印せられるものはあわせて14万4千あり」とあることから、「ヘブライ大国のソロモン王の民、十二支族、
14万4千人がそれぞれ100金ずつを持って日本の四国に亡命、持ち運んだ黄金を徳島の剣山に隠した」ということを割り出したというから驚きである。
昭和11年、高根氏たちは剣山の発掘に取りかかったが、終戦直前、当局からにらまれ、工事は中止。
戦後になって、黙示録16章13節の「竜の口より……」から『竜の口』とは、江の島にある滝口寺を指し、つまり財宝は江の島に秘められていると結論づけ、
高根氏は3人の同志とともに、ひそかに江の島の発掘にとりかかった。
そこで黙示録から見当をつけたのは、第一洞窟の突き当たりの『天照大神』『須佐之男命』の二神を祀る祠の真後ろだった。
2mほど岩盤を掘り下げてみると、案の定、竪穴の下にポッカリと空洞が現われたではないか。
この空洞の壁面はきれいに磨かれ、意味ありげな装飾が施されていたという。その後、壁面にあった矢印を頼りに、さらに発掘を続けたものの、
新聞に記事が出てしまったため、またしても宝探しは中断を余儀なくされた。
ほかの資料によれば、高根氏たちが掘り当てた空洞の横壁には、もう1つの横穴があり、地下水の排水路が木材と石を組み合わせて作られており、
その木材には防腐剤が塗布されてあった。その材質を検査した結果、2000年以上の歳月が経ったものと判定された。
とすれば、この空洞は2000年以前に異国人の手によって作られたものとなると主張しているわけだ。
ソロモン大王が死んだのは、今から約3000年前。なんの目的もなく、こんな地底に空洞の石室を作る必要性があるだろうか?
洞窟の奥の小さな横穴は、その後何度か調査されたが、その行き先がどこまで続いているのか、見当もつかないという。
昭和46年の大落石事故があってから、この洞窟は立ち入り禁止になっている。かつて発掘調査した人も、口をつぐんだままである。
しかしながらこの後、洞窟から黄金製のL字形やU字形の破片を拾った人も少なくないのだ。
……財宝はあるかもしれないし、ないかもしれない。いや、あると信じたいものである。
イスラエル王国
http://www.vivonet.co.jp/rekisi/b01_create/israel.htm...
【ソロモン王】江の島岩屋【財宝】
http://blognoakuma.at.webry.info/200510/article_6.htm...
ソロモン大王のトンデモ秘宝伝説 江の島
正気か? あの江の島にはソロモン大王の秘宝(時価にして数百億円)が眠っているとされるウワサがあったのをご存知だろうか?
江の島には全部で3つの洞窟があるが、いずれも鍾乳洞ではなく、海水浸水作用によるものだ。
一番大きい穴は第一洞窟で、島の入口の桟橋から約1km、岩屋と呼ばれる島の西南端の断崖の下にあって、その名を金窟、
霊窟とも蓬莱洞ともいわれている。
財宝のある場所と推定されるのは、第一洞窟の奥宮の神壇が祀られているところ。
洞窟の入口は高さ20mと、とにかく巨大。大きな鳥居と祭壇があり、洞窟の奥の神壇裏には直径1mほどの竪穴が空いている。
その穴は深さ78mにも達しているという。
昭和32年ごろ、この竪穴に縄梯子をかけて降りた人の話によれば、穴の底は8畳間ほどの石の部屋で、岩壁には経文や仏像画が刻まれており、
判読できない暗号文字を記した石仏や、岩室の奥には女性器そっくりのものが掘られてあったらしい。
鎌倉時代、源頼朝は家臣の仁田四郎に命じて、富士山麓の風穴を調査させたことがあるが、その理由が「富士山の風穴洞窟のひとつは、
遠く鎌倉から江の島まで人工トンネルで結ばれている」という古文書の記録を確認するためだった。
また、江島神社の由来によれば、552年(仏教伝来の年)のころまでには、この洞窟は『御窟』もしくは『金窟』と呼ばれ、
洞窟のなかからは目もくらむばかりの金色の光を放っていたという。
昭和29年12月5日、その日の産経新聞朝刊に、江の島にてソロモン大王の秘宝を発掘している人物の記事が掲載されている。
その人物こそ、横浜市在住の高根正教氏(当時74歳)。
氏の話によると、ソロモンの財宝が日本にも埋蔵されている結論を得たのは、長年研究を続けていたヨハネ黙示録からだった。
16章の「また天より100金ほどの大いなるヒョウ、人々の上にふりしかば」と、第7章「イスラエルの子らのもろもろの族のなかにて
印せられるものはあわせて14万4千あり」とあることから、「ヘブライ大国のソロモン王の民、十二支族、
14万4千人がそれぞれ100金ずつを持って日本の四国に亡命、持ち運んだ黄金を徳島の剣山に隠した」ということを割り出したというから驚きである。
昭和11年、高根氏たちは剣山の発掘に取りかかったが、終戦直前、当局からにらまれ、工事は中止。
戦後になって、黙示録16章13節の「竜の口より……」から『竜の口』とは、江の島にある滝口寺を指し、つまり財宝は江の島に秘められていると結論づけ、
高根氏は3人の同志とともに、ひそかに江の島の発掘にとりかかった。
そこで黙示録から見当をつけたのは、第一洞窟の突き当たりの『天照大神』『須佐之男命』の二神を祀る祠の真後ろだった。
2mほど岩盤を掘り下げてみると、案の定、竪穴の下にポッカリと空洞が現われたではないか。
この空洞の壁面はきれいに磨かれ、意味ありげな装飾が施されていたという。その後、壁面にあった矢印を頼りに、さらに発掘を続けたものの、
新聞に記事が出てしまったため、またしても宝探しは中断を余儀なくされた。
ほかの資料によれば、高根氏たちが掘り当てた空洞の横壁には、もう1つの横穴があり、地下水の排水路が木材と石を組み合わせて作られており、
その木材には防腐剤が塗布されてあった。その材質を検査した結果、2000年以上の歳月が経ったものと判定された。
とすれば、この空洞は2000年以前に異国人の手によって作られたものとなると主張しているわけだ。
ソロモン大王が死んだのは、今から約3000年前。なんの目的もなく、こんな地底に空洞の石室を作る必要性があるだろうか?
洞窟の奥の小さな横穴は、その後何度か調査されたが、その行き先がどこまで続いているのか、見当もつかないという。
昭和46年の大落石事故があってから、この洞窟は立ち入り禁止になっている。かつて発掘調査した人も、口をつぐんだままである。
しかしながらこの後、洞窟から黄金製のL字形やU字形の破片を拾った人も少なくないのだ。
……財宝はあるかもしれないし、ないかもしれない。いや、あると信じたいものである。
イスラエル王国
http://www.vivonet.co.jp/rekisi/b01_create/israel.htm...
【ソロモン王】江の島岩屋【財宝】
http://blognoakuma.at.webry.info/200510/article_6.htm...
善行した家だけが残された 翁島(おきなじま)
福島県の猪苗代湖の西北部に位置する湖上の無人島。それが翁島である。
気になるのは翁島という名前の由来。長年、この地に老夫婦が住んでいたことから名付けられたとも言われている。
19世紀のはじめに編纂された『新編会津風土記』には、この島に長年老人が住んでおり、『翁明神』という祠があったことや、
重想なる真言宗の僧が『室生寺』を建てたという話、元和年間に興海という僧がこの島に暮らしたことなどが記されている。
それ以外にも、こんな伝承が残されている。
ある日、このあたりに住む機織りの娘の家に、旅の僧(一説によると、弘法大師だったとも言われる)が立ち寄った。
「あまりの暑さに難儀しております。どうか一杯の水をめぐんでくださらんか」と言った。
しかし機織り女は、「このへんは水不足で、とてもあんたみたいな旅人に飲ませるほど余裕はないね」と、愛想ない返事。
しかたなく旅僧は別の民家を求め、重い足取りで歩いた。しかし訪ねた先の村人に、ことごとく拒まれてしまう。
村はずれにさしかかると、身なりの貧しい女が小川のそばで米をといでいた。
「米のとぎ汁でもかまいません。どうか水を一杯おめぐみください」と、旅僧は声をかけた。
女は快く、「さあ、お飲みください」と言って、自分の大切な飲み水を飲ませてくれた。
「思いやりの心を忘れないあなたには、きっと幸運が訪れるだろう」僧はこう言い残して村を去っていった。
僧が去って3日後、磐梯山が噴火し、大地震が村を襲った。
最初に意地悪した女の家をはじめ、村が湖の底深く沈んでしまった。ただ1軒、貧しい女の家は沈むことなく島として残った。
娘の名を『おきな』といい、これが今の翁島となったのである。
翁島の由来
http://www.kuniomi.gr.jp/togen/iwai/okinasim.htm...
福島県の猪苗代湖の西北部に位置する湖上の無人島。それが翁島である。
気になるのは翁島という名前の由来。長年、この地に老夫婦が住んでいたことから名付けられたとも言われている。
19世紀のはじめに編纂された『新編会津風土記』には、この島に長年老人が住んでおり、『翁明神』という祠があったことや、
重想なる真言宗の僧が『室生寺』を建てたという話、元和年間に興海という僧がこの島に暮らしたことなどが記されている。
それ以外にも、こんな伝承が残されている。
ある日、このあたりに住む機織りの娘の家に、旅の僧(一説によると、弘法大師だったとも言われる)が立ち寄った。
「あまりの暑さに難儀しております。どうか一杯の水をめぐんでくださらんか」と言った。
しかし機織り女は、「このへんは水不足で、とてもあんたみたいな旅人に飲ませるほど余裕はないね」と、愛想ない返事。
しかたなく旅僧は別の民家を求め、重い足取りで歩いた。しかし訪ねた先の村人に、ことごとく拒まれてしまう。
村はずれにさしかかると、身なりの貧しい女が小川のそばで米をといでいた。
「米のとぎ汁でもかまいません。どうか水を一杯おめぐみください」と、旅僧は声をかけた。
女は快く、「さあ、お飲みください」と言って、自分の大切な飲み水を飲ませてくれた。
「思いやりの心を忘れないあなたには、きっと幸運が訪れるだろう」僧はこう言い残して村を去っていった。
僧が去って3日後、磐梯山が噴火し、大地震が村を襲った。
最初に意地悪した女の家をはじめ、村が湖の底深く沈んでしまった。ただ1軒、貧しい女の家は沈むことなく島として残った。
娘の名を『おきな』といい、これが今の翁島となったのである。
翁島の由来
http://www.kuniomi.gr.jp/togen/iwai/okinasim.htm...
>>235
あ〜、やっぱりそうきましたか。これはツッコミどころあるなあと思ってたんです。
それは抜きにして、この手の類型説話はわりと各地に点在するみたい。
僕の地元の、ごく限定された狭いエリア(オカンの実家のある地域)では似たような伝承があります。それがこんな内容。
……昔々、村に身なりの汚い乞食が流れてきた。乞食は各家に飯をめぐんでもらおうと声をかけるも、
つれなく追い返す村人と、快く飯を分け与えた村人にわかれた。
実は乞食の正体は神様であったという(これは単にメタファーだろう)。あえてそんな格好をして村人を試したとか。ココが肝でしょう。
それ以来、なぜか理由は忘れたが、乞食に飯を与えなかった家では正月前に餅をついてはならないというペナルティーを課せられた。
その家の見分け方は、苗字に濁点のつく家がそうだともされる。例えば、『まつだ』『うえじ』『どい』……とか。
幸いにして、その家系が衰退するような罰は受けていないはず。現に濁点つきの家系はいくらでも存続してるし。
そんな伝承を鼻で笑う人もいれば、頑なに言いつけを守り、餅つきはしない家も確かに存在するみたいです。
しかし、なぜに餅つきはタブー?
あ〜、やっぱりそうきましたか。これはツッコミどころあるなあと思ってたんです。
それは抜きにして、この手の類型説話はわりと各地に点在するみたい。
僕の地元の、ごく限定された狭いエリア(オカンの実家のある地域)では似たような伝承があります。それがこんな内容。
……昔々、村に身なりの汚い乞食が流れてきた。乞食は各家に飯をめぐんでもらおうと声をかけるも、
つれなく追い返す村人と、快く飯を分け与えた村人にわかれた。
実は乞食の正体は神様であったという(これは単にメタファーだろう)。あえてそんな格好をして村人を試したとか。ココが肝でしょう。
それ以来、なぜか理由は忘れたが、乞食に飯を与えなかった家では正月前に餅をついてはならないというペナルティーを課せられた。
その家の見分け方は、苗字に濁点のつく家がそうだともされる。例えば、『まつだ』『うえじ』『どい』……とか。
幸いにして、その家系が衰退するような罰は受けていないはず。現に濁点つきの家系はいくらでも存続してるし。
そんな伝承を鼻で笑う人もいれば、頑なに言いつけを守り、餅つきはしない家も確かに存在するみたいです。
しかし、なぜに餅つきはタブー?
長崎浦上キリシタンの殉教地 鶴島
1867(慶応3)年、長崎奉行の報告を受けた江戸幕府が密偵に命じて浦上のカトリック信徒組織を調査。
7月14日の深夜、秘密の教会堂を幕吏が急襲したのを皮切りに、高木仙右衛門ら信徒ら68人を捕えた。
新しく発足した明治政府は、1868(明治元)年から翌年にかけて信仰を公にして棄教を拒否した信徒を、富山以西の21ヶ所に流罪とした。
この日本史上最大規模のキリシタン弾圧を『浦上四番崩れ』という。
1869(明治2)年、捕らえられたキリシタンのうち117人が備前岡山藩に預けられ、翌年9月に和気郡日生村(現備前市日生)の鶴島に移送された。
鶴島で彼らを待ち受けていたのは、改宗という名の重労働と拷問のリンチだった。
彼らは明治6年のキリスト教解禁令により信教の自由が認められ、同年4月に長崎県浦上に送還されるまで3年間を鶴島ですごすことになる。
島に移されてすぐ、狭い長屋にすしづめに押しこまれ、厳しい開拓に従事させられたが、空腹と拷問に耐えかね半数以上が教えを捨てた。
明治6年に禁教令が解かれたが、それまでに18人が鶴島で命を散らした。
鶴島は岡山城下から50㎞、日生の港から8㎞に位置する周囲約2㎞の小さな無人島である。
岡山藩は島の西側に信徒たちの流人長屋と監視役人の番所を建てた。
島の中央に『改宗の祠』をつくり、週に2回ほど信徒たちを集めて神官による説教が行われ、神道への改宗を迫ったという。
信仰を捨てなかった者もいるが、説教や激烈な拷問により約半数が改宗したと言われる。
鶴島では開墾により大豆や麦、サツマイモ、綿花や胡麻などが栽培されたが、収穫物が信徒たちの口に入ることなく、県を通じて国へと納入された。
現在の鶴島には、今も亡くなった信徒18人の墓地や長屋跡、古井戸が残されている。
鶴島(つるしま)岡山県備前市
http://www.city.bizen.okayama.jp/kankou/guide/hinase/spot/tsuru...
鶴島にて 赤波江豊神父
http://www.sumiyoshi.catholic.ne.jp/sumiyoshi_kaze/contents/kaze09...
1867(慶応3)年、長崎奉行の報告を受けた江戸幕府が密偵に命じて浦上のカトリック信徒組織を調査。
7月14日の深夜、秘密の教会堂を幕吏が急襲したのを皮切りに、高木仙右衛門ら信徒ら68人を捕えた。
新しく発足した明治政府は、1868(明治元)年から翌年にかけて信仰を公にして棄教を拒否した信徒を、富山以西の21ヶ所に流罪とした。
この日本史上最大規模のキリシタン弾圧を『浦上四番崩れ』という。
1869(明治2)年、捕らえられたキリシタンのうち117人が備前岡山藩に預けられ、翌年9月に和気郡日生村(現備前市日生)の鶴島に移送された。
鶴島で彼らを待ち受けていたのは、改宗という名の重労働と拷問のリンチだった。
彼らは明治6年のキリスト教解禁令により信教の自由が認められ、同年4月に長崎県浦上に送還されるまで3年間を鶴島ですごすことになる。
島に移されてすぐ、狭い長屋にすしづめに押しこまれ、厳しい開拓に従事させられたが、空腹と拷問に耐えかね半数以上が教えを捨てた。
明治6年に禁教令が解かれたが、それまでに18人が鶴島で命を散らした。
鶴島は岡山城下から50㎞、日生の港から8㎞に位置する周囲約2㎞の小さな無人島である。
岡山藩は島の西側に信徒たちの流人長屋と監視役人の番所を建てた。
島の中央に『改宗の祠』をつくり、週に2回ほど信徒たちを集めて神官による説教が行われ、神道への改宗を迫ったという。
信仰を捨てなかった者もいるが、説教や激烈な拷問により約半数が改宗したと言われる。
鶴島では開墾により大豆や麦、サツマイモ、綿花や胡麻などが栽培されたが、収穫物が信徒たちの口に入ることなく、県を通じて国へと納入された。
現在の鶴島には、今も亡くなった信徒18人の墓地や長屋跡、古井戸が残されている。
鶴島(つるしま)岡山県備前市
http://www.city.bizen.okayama.jp/kankou/guide/hinase/spot/tsuru...
鶴島にて 赤波江豊神父
http://www.sumiyoshi.catholic.ne.jp/sumiyoshi_kaze/contents/kaze09...
神の首が切り落とされ、それが島となる 竹生島(ちくぶしま)
琵琶湖にも神秘の島がある。都久夫須麻神社(竹生島神社)、宝厳寺を擁する、神の住む島とも言われる竹生島だ。
年間来島者が10万人を超える信仰、そして観光の島でもある。最近ではパワースポットとしても人気を博している。
船着場には土産物屋などの店舗が軒を連ねるが、寺社関係者ならびに店の従業員は島外からの通勤しているため、無人島ということになる。
竹生島神社は明治の神仏分離令に際して弁才天社から改めた。
島は神仏一体の聖地であったことから、分離するにあたって少なからず混乱があったようだ。
補足すれば、竹生島弁才天は相模の江島神社、安芸の厳島神社と並んで日本三大弁天のひとつに数えられる。
島名の由来は、島に竹が生えているからという説、島の形が雅楽で使われる笛、『笙』(しょう)の形状に似ているからという説
(字を分解し、『竹』『生』になったとする説)、あるいは『神の斎く(いつく)住居(すまい)』を意味し、
その中の『つくすまい』が『つくぶすま』と変遷し、『竹生島』となったとも言われている。
この島が生まれた伝説がちょっと乱暴だ。
近江国の文化や風土を記した『近江国風土記』によるとこうだ。
昔々、伊吹山の山の神である多多美比古命(ただみひこのみこと)と、浅井岳の浅井姫命(あざいひめのみこと)という、こちらも同じく山の神がいた。
あるとき、この2人の神様がおたがいの山の背比べをしようと提案した。どちらも自分の持ち山の方が高いと言い張り、譲らない。
では実際に比べてみると、浅井岳の方がわずかに高かったのだ。
負けてしまった伊吹山の多多美比古命は悔しいのなんの。しまいには逆ギレして刀を抜き放つと、あろうことか浅井姫命の首を切り落としてしまった。
その首が琵琶湖に落ちた。この泣き別れした浅井姫命の頭こそ竹生島の誕生であるという。
ちなみに浅井姫命は、上記した島内の都久夫須麻神社に祀られている。本殿は国宝に指定されている。
神の住む島 竹生島
http://nagahamashi.org/chikubushima...
琵琶湖にも神秘の島がある。都久夫須麻神社(竹生島神社)、宝厳寺を擁する、神の住む島とも言われる竹生島だ。
年間来島者が10万人を超える信仰、そして観光の島でもある。最近ではパワースポットとしても人気を博している。
船着場には土産物屋などの店舗が軒を連ねるが、寺社関係者ならびに店の従業員は島外からの通勤しているため、無人島ということになる。
竹生島神社は明治の神仏分離令に際して弁才天社から改めた。
島は神仏一体の聖地であったことから、分離するにあたって少なからず混乱があったようだ。
補足すれば、竹生島弁才天は相模の江島神社、安芸の厳島神社と並んで日本三大弁天のひとつに数えられる。
島名の由来は、島に竹が生えているからという説、島の形が雅楽で使われる笛、『笙』(しょう)の形状に似ているからという説
(字を分解し、『竹』『生』になったとする説)、あるいは『神の斎く(いつく)住居(すまい)』を意味し、
その中の『つくすまい』が『つくぶすま』と変遷し、『竹生島』となったとも言われている。
この島が生まれた伝説がちょっと乱暴だ。
近江国の文化や風土を記した『近江国風土記』によるとこうだ。
昔々、伊吹山の山の神である多多美比古命(ただみひこのみこと)と、浅井岳の浅井姫命(あざいひめのみこと)という、こちらも同じく山の神がいた。
あるとき、この2人の神様がおたがいの山の背比べをしようと提案した。どちらも自分の持ち山の方が高いと言い張り、譲らない。
では実際に比べてみると、浅井岳の方がわずかに高かったのだ。
負けてしまった伊吹山の多多美比古命は悔しいのなんの。しまいには逆ギレして刀を抜き放つと、あろうことか浅井姫命の首を切り落としてしまった。
その首が琵琶湖に落ちた。この泣き別れした浅井姫命の頭こそ竹生島の誕生であるという。
ちなみに浅井姫命は、上記した島内の都久夫須麻神社に祀られている。本殿は国宝に指定されている。
神の住む島 竹生島
http://nagahamashi.org/chikubushima...
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サバイバル男、フカに乗って生還 黒島
八重山群島の1つ、黒島には妙にリアリティーあふれる伝承が語り継がれている。
かつて黒島には真牛(まうし。『モーシー』とも表記される)という男がいた。妻子持ちだった。
真牛はある日、西表島の水田に苗を植えるため、種モミを舟に積んで黒島を出た。
黒島では米が作れないので、人々はわざわざ舟で西表島に渡り、そこで稲を植えていたのだ。
ところが道中、嵐が真牛の身に降りかかる。舟は転覆し、海の中へ投げ出されてしまった。
真牛は種モミを入れた木箱にしがみつき漂流していたところ、ようやく流木を見つけ、
今度はこの流木にまたがって7日間流されたのち、見憶えのない無人島に流れ着いた。
島にはバナナ、パパイヤなどの南方の果実がたわわに実を結んでいた。
海岸の浅瀬では手づかみで魚を取ることもでき、とりあえず食料の心配はなさそうだった。
気を良くした真牛は木を切り倒して小屋を作り、海に潜って捕ったシャコ貝の殻を鍋代わりにして生活した。
さらに種モミを植えて、稲を育てた。時が経つと白米も口にできるようになった。意外に真牛にとって、無人島での暮らしは快適だった。
ただひとつ、孤独との戦いは苦痛だった。人恋しさのあまり、鳥や魚たちに向かって話しかけて無聊を慰めるしかなかった。
こうして10年の歳月が流れていった。
そんなある日、はるか沖に1艘の帆船が通りかかっているのを発見。真牛は浜辺に出て、声を涸らして叫び、助けを求めた。
しかし無情にも帆船は気がつかず通りすぎてしまった。砂浜にひれ伏しさめざめと泣いた。
さらに3年がすぎた。
そのころになると真牛は神に祈りを捧げるようになっていた。するとある夜、夢枕に白髪の老人が立ち、こうお告げしたのだ。
「真牛よ、聞くがよい。明朝、海に入り、背の届くところまで進むのだ。海の使いがそちを生まれ故郷まで運んでくれるだろう。
夢疑うことなかれ……」
明くる朝、真牛が目を醒ますと、ご託宣に従って海に入り、背の届く辺りまで進んでいった。
すると、3mはあろうかと思えるほどの1匹のフカ(大型のサメ)が不気味な背ビレを見せて現われたではないか。
どうやら襲ってくる様子はない。それどころか真牛を股がらせると、ものすごい勢いで大海原を走り出したのだ。
長い道のりを進んだ。ついに見憶えのある黒島の海岸が見えた。フカは浅瀬に真牛を降ろし、海の彼方へ姿を消した。
こうして真牛は13年ぶりに故郷の地に立ち、妻子と再会することができた。
以来、真牛の子孫や親戚はフカに感謝し、フカの肉は食べないという。
八重山の伝説
http://www.urizn.gr.jp/netmagazine/boruneo42.htm...
無人島に流された男
http://www.dailymotion.com/video/xkp22r_0151yyyyyyyyy_cre...
八重山群島の1つ、黒島には妙にリアリティーあふれる伝承が語り継がれている。
かつて黒島には真牛(まうし。『モーシー』とも表記される)という男がいた。妻子持ちだった。
真牛はある日、西表島の水田に苗を植えるため、種モミを舟に積んで黒島を出た。
黒島では米が作れないので、人々はわざわざ舟で西表島に渡り、そこで稲を植えていたのだ。
ところが道中、嵐が真牛の身に降りかかる。舟は転覆し、海の中へ投げ出されてしまった。
真牛は種モミを入れた木箱にしがみつき漂流していたところ、ようやく流木を見つけ、
今度はこの流木にまたがって7日間流されたのち、見憶えのない無人島に流れ着いた。
島にはバナナ、パパイヤなどの南方の果実がたわわに実を結んでいた。
海岸の浅瀬では手づかみで魚を取ることもでき、とりあえず食料の心配はなさそうだった。
気を良くした真牛は木を切り倒して小屋を作り、海に潜って捕ったシャコ貝の殻を鍋代わりにして生活した。
さらに種モミを植えて、稲を育てた。時が経つと白米も口にできるようになった。意外に真牛にとって、無人島での暮らしは快適だった。
ただひとつ、孤独との戦いは苦痛だった。人恋しさのあまり、鳥や魚たちに向かって話しかけて無聊を慰めるしかなかった。
こうして10年の歳月が流れていった。
そんなある日、はるか沖に1艘の帆船が通りかかっているのを発見。真牛は浜辺に出て、声を涸らして叫び、助けを求めた。
しかし無情にも帆船は気がつかず通りすぎてしまった。砂浜にひれ伏しさめざめと泣いた。
さらに3年がすぎた。
そのころになると真牛は神に祈りを捧げるようになっていた。するとある夜、夢枕に白髪の老人が立ち、こうお告げしたのだ。
「真牛よ、聞くがよい。明朝、海に入り、背の届くところまで進むのだ。海の使いがそちを生まれ故郷まで運んでくれるだろう。
夢疑うことなかれ……」
明くる朝、真牛が目を醒ますと、ご託宣に従って海に入り、背の届く辺りまで進んでいった。
すると、3mはあろうかと思えるほどの1匹のフカ(大型のサメ)が不気味な背ビレを見せて現われたではないか。
どうやら襲ってくる様子はない。それどころか真牛を股がらせると、ものすごい勢いで大海原を走り出したのだ。
長い道のりを進んだ。ついに見憶えのある黒島の海岸が見えた。フカは浅瀬に真牛を降ろし、海の彼方へ姿を消した。
こうして真牛は13年ぶりに故郷の地に立ち、妻子と再会することができた。
以来、真牛の子孫や親戚はフカに感謝し、フカの肉は食べないという。
八重山の伝説
http://www.urizn.gr.jp/netmagazine/boruneo42.htm...
無人島に流された男
http://www.dailymotion.com/video/xkp22r_0151yyyyyyyyy_cre...
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女人禁制地 神威(かむい)岬
神威岬は積丹半島に突き出た岬であり、小高い丘の階段を上ると尾根沿いに歩道が整備されており、観光にはもってこいだ。
神威……カムイとはアイヌ語で『神格を有する高位の霊的存在』を指す。アイヌには他に、山や森のカムイがある。
半島の神威岬は、別名『女人禁制の岬』ともされている。
昔、源義経に恋焦がれたアイヌの娘が、義経を追ってこの岬から海に身を投げ、それが岩になった。
「和人の船、婦女を乗せてここを過ぐればすなわち覆沈せん」と恨みの言葉を残し、以来、女人を乗せた船が沖を通ると必ず転覆した。
それゆえ女人禁制となったという。
またはこんなエピソードもある。
周辺海域はかつて、ニシンが大量に押し寄せ、ヤン衆と呼ばれる男たちがニシンを求めて北上した。
北へ漁場を移すにつれ海が荒れるので、女人には容易に近づけない。
とある歌がある。
「忍路 高島 およびもないが せめて 歌棄 磯谷まで」
これはまさしく女人禁制の歌であるとされている。
つまり、ニシン漁で北上する男衆を慕う女たちが、「はるか忍路や高島まではとても無理だけど、
せめて歌棄や磯谷までは一緒についていきたいわ……」という女心を顕した歌なのだ。
※画像は岬から見たカムイ岩。岬のシンボルとなっている。
カムイ岬ガイド
http://homepage3.nifty.com/shakotan/kamui.htm...
女人禁制の岬・積丹の神威岬
http://blogs.yahoo.co.jp/hokkaido131313/3992478.htm...
神威岬は積丹半島に突き出た岬であり、小高い丘の階段を上ると尾根沿いに歩道が整備されており、観光にはもってこいだ。
神威……カムイとはアイヌ語で『神格を有する高位の霊的存在』を指す。アイヌには他に、山や森のカムイがある。
半島の神威岬は、別名『女人禁制の岬』ともされている。
昔、源義経に恋焦がれたアイヌの娘が、義経を追ってこの岬から海に身を投げ、それが岩になった。
「和人の船、婦女を乗せてここを過ぐればすなわち覆沈せん」と恨みの言葉を残し、以来、女人を乗せた船が沖を通ると必ず転覆した。
それゆえ女人禁制となったという。
またはこんなエピソードもある。
周辺海域はかつて、ニシンが大量に押し寄せ、ヤン衆と呼ばれる男たちがニシンを求めて北上した。
北へ漁場を移すにつれ海が荒れるので、女人には容易に近づけない。
とある歌がある。
「忍路 高島 およびもないが せめて 歌棄 磯谷まで」
これはまさしく女人禁制の歌であるとされている。
つまり、ニシン漁で北上する男衆を慕う女たちが、「はるか忍路や高島まではとても無理だけど、
せめて歌棄や磯谷までは一緒についていきたいわ……」という女心を顕した歌なのだ。
※画像は岬から見たカムイ岩。岬のシンボルとなっている。
カムイ岬ガイド
http://homepage3.nifty.com/shakotan/kamui.htm...
女人禁制の岬・積丹の神威岬
http://blogs.yahoo.co.jp/hokkaido131313/3992478.htm...
漢の中の漢! サメを倒した英雄伝説 慶留間島(げるまじま)
那覇に一番近く見える島は前慶良間(めーげらま)と呼ばれて渡嘉敷村に属し、そのうしろに座間味村に属する島々を後慶良間(くしぎらま)という。
その後慶良間には、北から南にかけて人の住む島が座間味島(ざまみしま)、阿嘉島(あかしま)、慶留間島の3つがある。
昔、阿嘉島には上地仁屋(うえちにや)という男がいた。
身体が大きくて、およそ360kgの石を持ち上げることができる怪力の持ち主だった。
そのころ阿嘉港の近海で、巨体を誇る鮫が出没しては船が襲われ、人が食われる騒ぎで島民を悩ませていた。
6月の稲の豊作を祈願する行事のときに、阿嘉のノロ(巫女)が慶留間に渡ろうにも、その鮫のために中断されるほど深刻だった。
仁屋はそれを耳にし、「なるほど、それはお困りだな。よし、おれがその大鮫を退治してやる。万が一おれが食われたとしても、
そいつの腹の中で暴れてやる。我が身を挺して必ずや倒す!」と決意し、刀を手にして舟に乗りこんだ。
港を出て、しばらくすると波を逆立て、例の大鮫が現われた。
仁屋と鮫との格闘が始まった。刀を抜き放ち鮫に斬りつけるも体表は硬く、浅い傷しか負わせることができない。
そのうち波に翻弄され、舟の揺れで仁屋にスキが生じた。鮫が大口をあけ、なんと仁屋を舟ごと飲みこんでしまった。
それでも仁屋はひるまず、鮫の内側の肉を斬りまくった。
たちまち阿嘉島と慶留間島の間の海は、大鮫の血で朱に染まった。
夕暮れ時になると、さしもの大鮫も力尽き、白い腹を見せて浮かんだ。
死んだ大鮫が慶留間島の近くを漂っていたとき、仁屋は鮫の腹を割いて姿を見せたが、仁屋の身体も胃液でただれて泳ぐ力も残されていなかった。
島民は至急、陸に上げて介抱したが、その甲斐なく息を引き取ったという。
当時の中山王はこの話を聞いていたく感銘を受け、亡き仁屋に慶留間大屋子の位を贈った。
慶留間の島人は、上地仁屋を敬って慶留間魂(げるまのしー)と呼んで葬り、その墓を慶留間御嶽(げるまうたき)として祀るようになった。
エメラルド伝説の島
http://blogs.yahoo.co.jp/tkosakai/1766285.htm...
那覇に一番近く見える島は前慶良間(めーげらま)と呼ばれて渡嘉敷村に属し、そのうしろに座間味村に属する島々を後慶良間(くしぎらま)という。
その後慶良間には、北から南にかけて人の住む島が座間味島(ざまみしま)、阿嘉島(あかしま)、慶留間島の3つがある。
昔、阿嘉島には上地仁屋(うえちにや)という男がいた。
身体が大きくて、およそ360kgの石を持ち上げることができる怪力の持ち主だった。
そのころ阿嘉港の近海で、巨体を誇る鮫が出没しては船が襲われ、人が食われる騒ぎで島民を悩ませていた。
6月の稲の豊作を祈願する行事のときに、阿嘉のノロ(巫女)が慶留間に渡ろうにも、その鮫のために中断されるほど深刻だった。
仁屋はそれを耳にし、「なるほど、それはお困りだな。よし、おれがその大鮫を退治してやる。万が一おれが食われたとしても、
そいつの腹の中で暴れてやる。我が身を挺して必ずや倒す!」と決意し、刀を手にして舟に乗りこんだ。
港を出て、しばらくすると波を逆立て、例の大鮫が現われた。
仁屋と鮫との格闘が始まった。刀を抜き放ち鮫に斬りつけるも体表は硬く、浅い傷しか負わせることができない。
そのうち波に翻弄され、舟の揺れで仁屋にスキが生じた。鮫が大口をあけ、なんと仁屋を舟ごと飲みこんでしまった。
それでも仁屋はひるまず、鮫の内側の肉を斬りまくった。
たちまち阿嘉島と慶留間島の間の海は、大鮫の血で朱に染まった。
夕暮れ時になると、さしもの大鮫も力尽き、白い腹を見せて浮かんだ。
死んだ大鮫が慶留間島の近くを漂っていたとき、仁屋は鮫の腹を割いて姿を見せたが、仁屋の身体も胃液でただれて泳ぐ力も残されていなかった。
島民は至急、陸に上げて介抱したが、その甲斐なく息を引き取ったという。
当時の中山王はこの話を聞いていたく感銘を受け、亡き仁屋に慶留間大屋子の位を贈った。
慶留間の島人は、上地仁屋を敬って慶留間魂(げるまのしー)と呼んで葬り、その墓を慶留間御嶽(げるまうたき)として祀るようになった。
エメラルド伝説の島
http://blogs.yahoo.co.jp/tkosakai/1766285.htm...
小雪の届かぬ想い 三四郎島の悲恋伝説
静岡県の西伊豆町にある景勝地、三四郎島。
同島は堂ヶ島海岸にある象島(またの名を伝兵衛島)、中ノ島、沖ノ瀬島、高島の総称である。
干潮時には浅瀬が現われ、手前にある象島は陸続きになる。こういった現象をトンボロ現象という。
その三四郎島には悲恋伝説が残されている。
昔、伊豆の三四郎という源氏の若武者が、平氏の目を逃れてこの島に隠れ住んでいた。
恋仲である小雪は、引き潮のわずかな時間を利用して島を渡り、逢瀬を重ねていたのだった。
治承4年、源氏の白旗が伊豆に翻り、頼朝の使いが仁科の豪族、瀬尾行信のもとに出陣の書を持ってきた。
行信の娘である小雪はその書状を届けるべく、三四郎の隠れ家に走ることにしたのだ。
ところがあいにくの上げ潮で島が地続きになっていない。
愛する三四郎のため、行かないわけにはいくまい。小雪は意を決し、無理を承知で島へ渡ることにした。
何度も波をかぶりながらも、書状だけは離すまいと胸に抱えていたが、運悪く大きな怒涛が小雪を飲みこんだ。
あろうことか、小雪の姿はかき消されてしまった……。
静岡の旅と歴史 堂ヶ島
http://ogino.digi2.jp/chuubu/shizuoka/nishi_izu_cyou...
三四郎島
http://www.shizuwalker.net/Event/izu/openWin/izuB01.htm...
静岡県の西伊豆町にある景勝地、三四郎島。
同島は堂ヶ島海岸にある象島(またの名を伝兵衛島)、中ノ島、沖ノ瀬島、高島の総称である。
干潮時には浅瀬が現われ、手前にある象島は陸続きになる。こういった現象をトンボロ現象という。
その三四郎島には悲恋伝説が残されている。
昔、伊豆の三四郎という源氏の若武者が、平氏の目を逃れてこの島に隠れ住んでいた。
恋仲である小雪は、引き潮のわずかな時間を利用して島を渡り、逢瀬を重ねていたのだった。
治承4年、源氏の白旗が伊豆に翻り、頼朝の使いが仁科の豪族、瀬尾行信のもとに出陣の書を持ってきた。
行信の娘である小雪はその書状を届けるべく、三四郎の隠れ家に走ることにしたのだ。
ところがあいにくの上げ潮で島が地続きになっていない。
愛する三四郎のため、行かないわけにはいくまい。小雪は意を決し、無理を承知で島へ渡ることにした。
何度も波をかぶりながらも、書状だけは離すまいと胸に抱えていたが、運悪く大きな怒涛が小雪を飲みこんだ。
あろうことか、小雪の姿はかき消されてしまった……。
静岡の旅と歴史 堂ヶ島
http://ogino.digi2.jp/chuubu/shizuoka/nishi_izu_cyou...
三四郎島
http://www.shizuwalker.net/Event/izu/openWin/izuB01.htm...
難工事のためにうら若き娘が人柱に選ばれた 地島(じのしま)
福岡県宗像市の鐘崎港から北西約3km先の沖合に浮かぶ地島。東は響灘、西は玄界灘に挟まれた漁業の島である。
港には一本釣りや定置網の漁船がひしめき、周辺の磯では伝馬船がウニやアワビを水揚げするのに忙しい。
地島はかつて古代海洋豪族である宗像氏の拠点にもなっていた島で、古い歴史がある。
泊港にある厳島神社は宗像氏所縁の宗像三女神を祀る神社で、安芸の宮島の厳島神社より先に分霊された。
また黒田長政が作らせた殿様井戸や殿様波止が残されているのだが、その殿様波止の工事が難航したため、
>>224の経ヶ島と同様、人柱を立てたらしい。ここでは若い娘2人を波止に埋めたというのだ。
真偽のほどは確証がつかめていないようだが……。
地島(9) 泊集落を歩く
http://ameblo.jp/tsurayuki100seiblog/entry-1087...
地島に椿ごはんを買いに行く
http://ameblo.jp/hatiyou/day-20120310.htm...
福岡県宗像市の鐘崎港から北西約3km先の沖合に浮かぶ地島。東は響灘、西は玄界灘に挟まれた漁業の島である。
港には一本釣りや定置網の漁船がひしめき、周辺の磯では伝馬船がウニやアワビを水揚げするのに忙しい。
地島はかつて古代海洋豪族である宗像氏の拠点にもなっていた島で、古い歴史がある。
泊港にある厳島神社は宗像氏所縁の宗像三女神を祀る神社で、安芸の宮島の厳島神社より先に分霊された。
また黒田長政が作らせた殿様井戸や殿様波止が残されているのだが、その殿様波止の工事が難航したため、
>>224の経ヶ島と同様、人柱を立てたらしい。ここでは若い娘2人を波止に埋めたというのだ。
真偽のほどは確証がつかめていないようだが……。
地島(9) 泊集落を歩く
http://ameblo.jp/tsurayuki100seiblog/entry-1087...
地島に椿ごはんを買いに行く
http://ameblo.jp/hatiyou/day-20120310.htm...
日本の卵生説話 池間島
池間島は宮古島の北西1.5kmに位置し、沖縄県宮古島市平良池間に属する面積2.83km²、周囲10.1kmの島だ。
琉球王国時代の御嶽(うたき)信仰の風習を現在も継承していることで有名である。
大主神社には、池間島民より選出された5人の司(祭祀儀礼を行う女性)を中心とした祭祀集団が形成されている。
そんな池間島にも、世にも奇妙な『卵から生まれた12神』の伝説が残されている。
昔々のことである。裕福な家で住み込みで働いている貧しい家柄の娘がいた。
ある日、娘は森へ薪を拾いに行くことになった。
けれども夕方になっても、薪に使えそうな枯れ枝が集まらない。
こんな仕事では雇い主の家に帰ったところで叱られるのは目に見えている。
森で一夜を明かし、翌朝になったら薪を集めて帰ろう。むしろ手ぶらで帰る方が悪いはずだ。
森の中で横になっていると、かたわらの木の枝に赤くて美しい鳥がとまっているではないか。
なんてきれいな鳥なんだろう。見とれているうちに、娘はウトウトして眠りに落ちた。
朝になった。起き上がりあたりを見回したが、赤い鳥の姿は見当たらなかった。気を取り直して小便することに。
すると驚いたことに、股の間から尿ではなく卵が飛び出したのだ。それも12個も。
奇異なことだと思ったが、自分の身体から生まれたからには我が子のように愛おしい気持ちが強い。
穴を掘ってその卵を埋め、優しく木の枝をかぶせたあと、本来の仕事を済まして何食わぬ顔で雇い主の家に帰った。
それから1年経つか経たないかのうちに、森に行ってみた。
卵を埋めたあたりを探していると、しきりに「母さん、母さん、ここだよ」と呼ぶ声がする。
森の陽だまりのもと、12人の子供が座っていた。まさに12個の卵から生まれた子たちにちがいあるまい。
娘は決心した。わたしはこの子たちの親となろう。
娘は森に家を建てて、そこで12人の子供たちと暮らすことにした。
そのうち生活もしだいに豊かになり、食うにも困らなくなった。
やがてその母親たる娘は、宮古の母神となった。
長男は池間島の大主の神、残りの11人の子供たちは宮古の方々の御嶽の神となったのである。
卵から生まれた池間島の神々
http://yonaha38.ti-da.net/e3202310.htm...
『古代史ノオト』 「応神帝と卵生説話」 谷川健一
http://geocities.yahoo.co.jp/gl/siroztatsunosuke/view/20101...
池間島は宮古島の北西1.5kmに位置し、沖縄県宮古島市平良池間に属する面積2.83km²、周囲10.1kmの島だ。
琉球王国時代の御嶽(うたき)信仰の風習を現在も継承していることで有名である。
大主神社には、池間島民より選出された5人の司(祭祀儀礼を行う女性)を中心とした祭祀集団が形成されている。
そんな池間島にも、世にも奇妙な『卵から生まれた12神』の伝説が残されている。
昔々のことである。裕福な家で住み込みで働いている貧しい家柄の娘がいた。
ある日、娘は森へ薪を拾いに行くことになった。
けれども夕方になっても、薪に使えそうな枯れ枝が集まらない。
こんな仕事では雇い主の家に帰ったところで叱られるのは目に見えている。
森で一夜を明かし、翌朝になったら薪を集めて帰ろう。むしろ手ぶらで帰る方が悪いはずだ。
森の中で横になっていると、かたわらの木の枝に赤くて美しい鳥がとまっているではないか。
なんてきれいな鳥なんだろう。見とれているうちに、娘はウトウトして眠りに落ちた。
朝になった。起き上がりあたりを見回したが、赤い鳥の姿は見当たらなかった。気を取り直して小便することに。
すると驚いたことに、股の間から尿ではなく卵が飛び出したのだ。それも12個も。
奇異なことだと思ったが、自分の身体から生まれたからには我が子のように愛おしい気持ちが強い。
穴を掘ってその卵を埋め、優しく木の枝をかぶせたあと、本来の仕事を済まして何食わぬ顔で雇い主の家に帰った。
それから1年経つか経たないかのうちに、森に行ってみた。
卵を埋めたあたりを探していると、しきりに「母さん、母さん、ここだよ」と呼ぶ声がする。
森の陽だまりのもと、12人の子供が座っていた。まさに12個の卵から生まれた子たちにちがいあるまい。
娘は決心した。わたしはこの子たちの親となろう。
娘は森に家を建てて、そこで12人の子供たちと暮らすことにした。
そのうち生活もしだいに豊かになり、食うにも困らなくなった。
やがてその母親たる娘は、宮古の母神となった。
長男は池間島の大主の神、残りの11人の子供たちは宮古の方々の御嶽の神となったのである。
卵から生まれた池間島の神々
http://yonaha38.ti-da.net/e3202310.htm...
『古代史ノオト』 「応神帝と卵生説話」 谷川健一
http://geocities.yahoo.co.jp/gl/siroztatsunosuke/view/20101...
奇想天外、古事記とは異なる八丈島の人類創世伝説
>>194に紹介した八丈島にも不思議な人類創世伝説が残されている。それが『丹那婆(たなば)伝説』である。
普通、日本の始祖伝説は『古事記』が原典だが、八丈島のそれはノアの方舟やポリネシア的洪水伝説がベースとなっており、
しかも母子相姦の物語なのだ。つまりオカンと息子がデキちゃったのだ。
八丈島の丹那婆伝説 八丈島の丹那婆の伝説は何を意味するのか
http://www.ailab7.com/hachijou.htm...
始祖伝説 問われる真偽 原本にない丹那婆伝説
http://www.nankaitimes.com/toku_kiji/tanaba.htm...
>>194に紹介した八丈島にも不思議な人類創世伝説が残されている。それが『丹那婆(たなば)伝説』である。
普通、日本の始祖伝説は『古事記』が原典だが、八丈島のそれはノアの方舟やポリネシア的洪水伝説がベースとなっており、
しかも母子相姦の物語なのだ。つまりオカンと息子がデキちゃったのだ。
八丈島の丹那婆伝説 八丈島の丹那婆の伝説は何を意味するのか
http://www.ailab7.com/hachijou.htm...
始祖伝説 問われる真偽 原本にない丹那婆伝説
http://www.nankaitimes.com/toku_kiji/tanaba.htm...
あけおめ〜。今年はへび年だね。てなわけで蛇にまつわる話を。
海神の化身? 大蛇伝説が残る小呂島(おろのしま)
玄界灘の真っ只中に浮ぶ孤島、それが小呂島。
島の周囲は玄武岩の断崖絶壁で形成され、ところどころ海蝕洞がぽっかり口を開けている。
小呂島の名が文献上に登場するのは鎌倉時代にまで遡る。また、李氏朝鮮の『海東諸国紀』にも『於露島』の名で登場し、
外国船が来るの監視するため国主が島守を置き、その番所が睨みを利かせていたほどで、
いかに中世の小呂島は海上交通の要であったかわかろう。
さらに福岡藩の流刑地でもあり、重罪者の流刑地として選定された。
流人の監視として御常番の名で足軽が配置され、彼らも近代まで小呂島の集落を構成する一部であった。
それにしても『オロノシマ』……なんと奇妙にして、不思議な韻を含んだ島名だろうか。
イザナギ、イザナミの国生み神話で知られる『オノゴロシマ』との関連性を疑わずにはいられないが、
その実、江戸時代には『大蛇島(おろちじま)』と呼ばれていたらしく、島の北にある穴から大蛇が出入りしていたのが名前の由来だそうだ。
北端にある柱状節理の玄武岩にその問題の洞窟がある。この地名を『穴口』(あなぐち)と呼ぶ。
その昔、大蛇がこの穴から巨体をくねらせて這い出て集落を襲い、家畜の鶏を丸呑みしたという。
その大蛇が根こそぎ食い尽くしたため、島には鶏がいなくなったとも伝えられているほどだ。
このような海上孤島はいわば海神の聖地であり、『ヲロ』は『ヲロガム』、つまり『拝む』であり、
島に宗像大神の社があったのは古代信仰の名残りであるわけだ。
小呂島の自然
http://www.fuku-c.ed.jp/schoolhp/eloro/orosimashizenn....
国生み神話 オノゴロ島
http://www.geocities.jp/shimizu_serai/sub5-4.ht...
海神の化身? 大蛇伝説が残る小呂島(おろのしま)
玄界灘の真っ只中に浮ぶ孤島、それが小呂島。
島の周囲は玄武岩の断崖絶壁で形成され、ところどころ海蝕洞がぽっかり口を開けている。
小呂島の名が文献上に登場するのは鎌倉時代にまで遡る。また、李氏朝鮮の『海東諸国紀』にも『於露島』の名で登場し、
外国船が来るの監視するため国主が島守を置き、その番所が睨みを利かせていたほどで、
いかに中世の小呂島は海上交通の要であったかわかろう。
さらに福岡藩の流刑地でもあり、重罪者の流刑地として選定された。
流人の監視として御常番の名で足軽が配置され、彼らも近代まで小呂島の集落を構成する一部であった。
それにしても『オロノシマ』……なんと奇妙にして、不思議な韻を含んだ島名だろうか。
イザナギ、イザナミの国生み神話で知られる『オノゴロシマ』との関連性を疑わずにはいられないが、
その実、江戸時代には『大蛇島(おろちじま)』と呼ばれていたらしく、島の北にある穴から大蛇が出入りしていたのが名前の由来だそうだ。
北端にある柱状節理の玄武岩にその問題の洞窟がある。この地名を『穴口』(あなぐち)と呼ぶ。
その昔、大蛇がこの穴から巨体をくねらせて這い出て集落を襲い、家畜の鶏を丸呑みしたという。
その大蛇が根こそぎ食い尽くしたため、島には鶏がいなくなったとも伝えられているほどだ。
このような海上孤島はいわば海神の聖地であり、『ヲロ』は『ヲロガム』、つまり『拝む』であり、
島に宗像大神の社があったのは古代信仰の名残りであるわけだ。
小呂島の自然
http://www.fuku-c.ed.jp/schoolhp/eloro/orosimashizenn....
国生み神話 オノゴロ島
http://www.geocities.jp/shimizu_serai/sub5-4.ht...
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まだまだある大蛇伝説 出羽島(てばじま)
出羽島は徳島県の南東にある牟岐町の沖合約3km先に浮かぶ有人島。
黒潮のせいで温暖な気候に恵まれ、椰子の木やハマユウ、ハイビスカスなどの花が目を引く南国情緒豊かな島だ。
かつて野口雨情(『十五夜お月さん』『シャボン玉』』『赤い靴』』などを手がけた童謡・民謡作詞家)が
牟岐町や出羽島を散策し、作った詩の中に「船で廻れば出羽島一里、島にゃ大池蛇の枕」という一節がある。
大池には『蛇の枕』と呼ばれる岩があるのだが、その昔、大池に棲む大蛇がこの岩を枕にして色変わりの松に尾を巻きつけて
寝そべっていた伝説があるという。
当時の殿様がこの大蛇を退治させるべく、弓の名手、船越某を召して弓を射させた。
船越は13本の矢を放ち、大蛇の左目を射抜いたうえ、みごと退治した。
ところがその後なんの因果か、この池の魚はみな片目になったと言われている。
出羽島INDEX
http://tebamaru.jp/TEBAindex.htm...
出羽島は徳島県の南東にある牟岐町の沖合約3km先に浮かぶ有人島。
黒潮のせいで温暖な気候に恵まれ、椰子の木やハマユウ、ハイビスカスなどの花が目を引く南国情緒豊かな島だ。
かつて野口雨情(『十五夜お月さん』『シャボン玉』』『赤い靴』』などを手がけた童謡・民謡作詞家)が
牟岐町や出羽島を散策し、作った詩の中に「船で廻れば出羽島一里、島にゃ大池蛇の枕」という一節がある。
大池には『蛇の枕』と呼ばれる岩があるのだが、その昔、大池に棲む大蛇がこの岩を枕にして色変わりの松に尾を巻きつけて
寝そべっていた伝説があるという。
当時の殿様がこの大蛇を退治させるべく、弓の名手、船越某を召して弓を射させた。
船越は13本の矢を放ち、大蛇の左目を射抜いたうえ、みごと退治した。
ところがその後なんの因果か、この池の魚はみな片目になったと言われている。
出羽島INDEX
http://tebamaru.jp/TEBAindex.htm...
大蛇伝説は沼地の島にもあった 浮島の森(うきしまのもり、うきじまのもり)
和歌山県新宮市には世にもめずらしい植物群落がある。
植物群落といっても、全体が沼地に浮かぶ泥炭でできた島で、地元では『浮島の森』として有名。
文字通り水にプカプカ浮かぶ島なのである。ひと昔は強風で煽られると島全体が移動したとも言われている。
面積は約5000平方mあり、これほどの規模の浮島はおそらく日本随一であろう。
一説では、沼地の地下から湧き水があふれており、水温が低いため植物質の分解が遅くなるため浮島化を助けたらしい。
そんな浮島にも大蛇にまつわる『おいの伝説』が残されており、俗謡として歌われるほど。それがこんな内容だ。
昔、この島のあたりに、おいのという娘が住んでいた。ある日、おいのは父とともに薪を集めに島へ行った。
しばらくしたあと、昼飯を食べようと弁当を開いた父娘だったが、箸を忘れてきたことに気づいた。
おいのはアカメガシワの枝を折って箸の代わりにしようと思いついた。彼女1人で森の奥深くに分け行った。
ところがいくら待てども戻って来ない。
心配した父親が探しに行くと、今しも我が娘が大蛇に飲み込まれようとしているところであった。
父親が助けようとしたものの、蛇は娘をくわえたまま、住処である『蛇の穴』に引きずりこんでしまった……。
……怪異小説の金字塔『雨月物語』の著者で知られる上田秋成はこの伝説をモチーフに、『蛇性の婬』を執筆したといわれる。
(個人的には腐臭漂うカニバリズムの一篇、『青頭巾』の方が好きですが!)
熊野の観光名所 浮島の森
http://www.mikumano.net/meguri/ukijima.htm...
美女が引きずり込まれる底なし沼「浮島の森」【和歌山】日本珍スポット100景
http://b-spot.seesaa.net/article/29002904.htm...
和歌山県新宮市には世にもめずらしい植物群落がある。
植物群落といっても、全体が沼地に浮かぶ泥炭でできた島で、地元では『浮島の森』として有名。
文字通り水にプカプカ浮かぶ島なのである。ひと昔は強風で煽られると島全体が移動したとも言われている。
面積は約5000平方mあり、これほどの規模の浮島はおそらく日本随一であろう。
一説では、沼地の地下から湧き水があふれており、水温が低いため植物質の分解が遅くなるため浮島化を助けたらしい。
そんな浮島にも大蛇にまつわる『おいの伝説』が残されており、俗謡として歌われるほど。それがこんな内容だ。
昔、この島のあたりに、おいのという娘が住んでいた。ある日、おいのは父とともに薪を集めに島へ行った。
しばらくしたあと、昼飯を食べようと弁当を開いた父娘だったが、箸を忘れてきたことに気づいた。
おいのはアカメガシワの枝を折って箸の代わりにしようと思いついた。彼女1人で森の奥深くに分け行った。
ところがいくら待てども戻って来ない。
心配した父親が探しに行くと、今しも我が娘が大蛇に飲み込まれようとしているところであった。
父親が助けようとしたものの、蛇は娘をくわえたまま、住処である『蛇の穴』に引きずりこんでしまった……。
……怪異小説の金字塔『雨月物語』の著者で知られる上田秋成はこの伝説をモチーフに、『蛇性の婬』を執筆したといわれる。
(個人的には腐臭漂うカニバリズムの一篇、『青頭巾』の方が好きですが!)
熊野の観光名所 浮島の森
http://www.mikumano.net/meguri/ukijima.htm...
美女が引きずり込まれる底なし沼「浮島の森」【和歌山】日本珍スポット100景
http://b-spot.seesaa.net/article/29002904.htm...
大蛇伝説は日本全国に唸るほどあり、また類型の話も多い。このまま続けていくのは飽きるだけだ。
興味があれば下記サイトでじっくり堪能されたし。
怪異・妖怪伝承データベース 日本の竜蛇
http://www.hunterslog.net/dragonology/ryujatan/kyusyu_ok...
話変わるが、端島こと軍艦島や現役の四阪島などの工業島は、探せばいくらでもあるようだ。
軍艦島は離島ファンのみならず、廃墟ファンにも有名すぎるぐらい有名なので、他の工業島が霞んでしまう。
そんな埋もれた工業島を個別にこのスレで紹介してもいいが、明らかにスレタイとはズレているし、
なによりそこで従事している人や企業に対しても失礼にあたる。
そのため、各島ごとにURLを貼るだけにとどめた。詳細を知りたくば以下のリンクで。
契島(ちぎりじま)まるごと東邦亜鉛の工場!まるで軍艦島
http://tabetainjya.com/archives/toyotagun2/post_569...
東邦亜鉛株式会社 ( TOHO ZINC CO.,LTD. )
http://www.toho-zinc.co.jp/profile/chigiri.ht...
平安座島の石油基地
http://okinawadailyphotos.com/site/Blog/entori/2012/11/16_pi...
沖縄石油基地株式会社|ホームページ
http://octs.co.jp/
興味があれば下記サイトでじっくり堪能されたし。
怪異・妖怪伝承データベース 日本の竜蛇
http://www.hunterslog.net/dragonology/ryujatan/kyusyu_ok...
話変わるが、端島こと軍艦島や現役の四阪島などの工業島は、探せばいくらでもあるようだ。
軍艦島は離島ファンのみならず、廃墟ファンにも有名すぎるぐらい有名なので、他の工業島が霞んでしまう。
そんな埋もれた工業島を個別にこのスレで紹介してもいいが、明らかにスレタイとはズレているし、
なによりそこで従事している人や企業に対しても失礼にあたる。
そのため、各島ごとにURLを貼るだけにとどめた。詳細を知りたくば以下のリンクで。
契島(ちぎりじま)まるごと東邦亜鉛の工場!まるで軍艦島
http://tabetainjya.com/archives/toyotagun2/post_569...
東邦亜鉛株式会社 ( TOHO ZINC CO.,LTD. )
http://www.toho-zinc.co.jp/profile/chigiri.ht...
平安座島の石油基地
http://okinawadailyphotos.com/site/Blog/entori/2012/11/16_pi...
沖縄石油基地株式会社|ホームページ
http://octs.co.jp/
島の掟を破ったトメの悲劇 種子島
これは種子島に伝わる民話である。
昔、種子島では山と浜とで生計を立てる村が分けられていた。
たがいの収穫を商人を通して物々交換し、生活するのが慣わしだったのだ。
山の村には年老いた父親と、怪我をして寝込んでしまった夫、その妻トメ、赤子のちよの4人家族が住んでいた。
家族は貧しかった。その日も商人が品物を持ってきたが、交換するものも乏しく、
むしろ滋養のありそうな海の幸を見せつけられ、苦い思いをしただけだった。
「このまま、もがきながら弱っていくなんて我慢ならない。山の収穫では満足にちよのための乳すら
出ないというのに。家族のために私を海に行かせて欲しい。いくら女とはいえ、浜で海藻や貝ぐらいなら
拾えるはずだわ」と、トメは夫に言った。
「ダメだ。これは古くから島の掟なんだ。掟を破っちゃなんねえ」と、夫は反対した。
だが翌朝、トメはその忠告に耳を貸さず、ちよを背負ったまま浜へ向かった。
浜には人の姿はなかった。
ちょうどその日は彼岸であり、浜の村の人間は仕事を休み、墓参りに勤しんでいたのだ。これは願ってもない好機。
トメは思いきって『長浜』(現在の長浜海岸)と呼ばれる、沖の方まで伸びた漁場へ行ってみることにした。
あるわ、あるわ。数えきれぬほどの貝が散らばっているではないか。
その日は奇しくも大潮で潮がすっかり引き、ふだん見せることのない沖の瀬が遠くまで姿をあらわしていた。
トメは背中のちよを乾いた砂浜に置くと、勇んで沖の先まで足を運んだ。これも家族を養うため。トメは必死だった。
すると、沖の先の潮だまりにはとんでもなく大きなシャコ貝が口を開けていた。この貝さえあれば、家族は当分飢えずに済む。
トメは貝に手を伸ばした。その瞬間、シャコ貝の殻がピシャリと閉じ、トメの腕ごと捕らえてしまった。
なんとか逃げようと必死にもがいたが、一度殻を閉ざしたシャコ貝はビクともしない。
大潮の日は潮が引くのも早いが、満ちてくるのも同様である。満ち潮が刻一刻と眼前まで迫った。
声の限りに叫んだ。置いてきたちよのことも気がかりだ。
潮はトメの半身までさしかかり、ちよの身をも濡らしていた。
そのとき異変に気づいた浜の村の長老は、村の若い衆を助けに行かせたが、時すでに遅し。
潮はすっかり満ち、母子の姿は見つからず、トメの着物とおぶい紐だけが海面に浮いているだけだった。
種子島北部観光コース - 種子島あらきホテル
http://araki-hotel.co.jp/assets/files/pdf/kankou_panfu....
まんが日本昔ばなし「子投げ潮」
http://www.youtube.com/watch?v=An9FvQENtG...
これは種子島に伝わる民話である。
昔、種子島では山と浜とで生計を立てる村が分けられていた。
たがいの収穫を商人を通して物々交換し、生活するのが慣わしだったのだ。
山の村には年老いた父親と、怪我をして寝込んでしまった夫、その妻トメ、赤子のちよの4人家族が住んでいた。
家族は貧しかった。その日も商人が品物を持ってきたが、交換するものも乏しく、
むしろ滋養のありそうな海の幸を見せつけられ、苦い思いをしただけだった。
「このまま、もがきながら弱っていくなんて我慢ならない。山の収穫では満足にちよのための乳すら
出ないというのに。家族のために私を海に行かせて欲しい。いくら女とはいえ、浜で海藻や貝ぐらいなら
拾えるはずだわ」と、トメは夫に言った。
「ダメだ。これは古くから島の掟なんだ。掟を破っちゃなんねえ」と、夫は反対した。
だが翌朝、トメはその忠告に耳を貸さず、ちよを背負ったまま浜へ向かった。
浜には人の姿はなかった。
ちょうどその日は彼岸であり、浜の村の人間は仕事を休み、墓参りに勤しんでいたのだ。これは願ってもない好機。
トメは思いきって『長浜』(現在の長浜海岸)と呼ばれる、沖の方まで伸びた漁場へ行ってみることにした。
あるわ、あるわ。数えきれぬほどの貝が散らばっているではないか。
その日は奇しくも大潮で潮がすっかり引き、ふだん見せることのない沖の瀬が遠くまで姿をあらわしていた。
トメは背中のちよを乾いた砂浜に置くと、勇んで沖の先まで足を運んだ。これも家族を養うため。トメは必死だった。
すると、沖の先の潮だまりにはとんでもなく大きなシャコ貝が口を開けていた。この貝さえあれば、家族は当分飢えずに済む。
トメは貝に手を伸ばした。その瞬間、シャコ貝の殻がピシャリと閉じ、トメの腕ごと捕らえてしまった。
なんとか逃げようと必死にもがいたが、一度殻を閉ざしたシャコ貝はビクともしない。
大潮の日は潮が引くのも早いが、満ちてくるのも同様である。満ち潮が刻一刻と眼前まで迫った。
声の限りに叫んだ。置いてきたちよのことも気がかりだ。
潮はトメの半身までさしかかり、ちよの身をも濡らしていた。
そのとき異変に気づいた浜の村の長老は、村の若い衆を助けに行かせたが、時すでに遅し。
潮はすっかり満ち、母子の姿は見つからず、トメの着物とおぶい紐だけが海面に浮いているだけだった。
種子島北部観光コース - 種子島あらきホテル
http://araki-hotel.co.jp/assets/files/pdf/kankou_panfu....
まんが日本昔ばなし「子投げ潮」
http://www.youtube.com/watch?v=An9FvQENtG...
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神秘の奇岩 観音岩
高知県大月町にある柏島に渡れば、断崖絶壁の向こうに見える威容に誰もが驚きを禁じ得ない。
大海原にそびえ立つ高さ30mの石柱は、まさしく観音様そのものに見えるからだ。
見る人によっては、まるで穏やかな顔立ちの観音菩薩が瞑目し、合掌する姿に映るだろう。衣装の裾まで再現されているかのようだ。
自然が生んだ奇岩は無数にあるが、これほど神聖な岩塊も他に類を見るまい。
こんな不思議な逸話が残されている。
寛永15(1638)年のこと、島原の乱鎮圧団の慰問使であった雨森九太夫が敵弾を受けた。
帰途の船中で重体となり、一条の光を導かれ、たどり着いた柏島で息を引き取ったと伝えられている。
そのとき奇跡の光を放ったものこそ、この観音岩といわれる。
……それにしても、このスレを続けるにつれ、なんと『神』に関わる島の多いことよ。
今でこそ日本人ほど信仰心の薄い民族はあるまい。しかしながら、神の話抜きにして離島や地名は語れないのだ。
光芒を発した観音岩
http://floreta.exblog.jp/17391113...
高知県大月町にある柏島に渡れば、断崖絶壁の向こうに見える威容に誰もが驚きを禁じ得ない。
大海原にそびえ立つ高さ30mの石柱は、まさしく観音様そのものに見えるからだ。
見る人によっては、まるで穏やかな顔立ちの観音菩薩が瞑目し、合掌する姿に映るだろう。衣装の裾まで再現されているかのようだ。
自然が生んだ奇岩は無数にあるが、これほど神聖な岩塊も他に類を見るまい。
こんな不思議な逸話が残されている。
寛永15(1638)年のこと、島原の乱鎮圧団の慰問使であった雨森九太夫が敵弾を受けた。
帰途の船中で重体となり、一条の光を導かれ、たどり着いた柏島で息を引き取ったと伝えられている。
そのとき奇跡の光を放ったものこそ、この観音岩といわれる。
……それにしても、このスレを続けるにつれ、なんと『神』に関わる島の多いことよ。
今でこそ日本人ほど信仰心の薄い民族はあるまい。しかしながら、神の話抜きにして離島や地名は語れないのだ。
光芒を発した観音岩
http://floreta.exblog.jp/17391113...
能登にゴジラ発見! ゴジラ岩
日本が生んだ怪獣だけに、全国にはゴジラとそっくりな形の奇岩がある。
そのなかで秀でているのは、石川県珠洲市外浦沿岸の、その名も直球ネーミングの『ゴジラ岩』であろう。
マニアによる愉快犯の仕業ではない。日本海の荒波にもまれ、海蝕作用によってできたれっきとした天然の造形である。
見る角度によっては、まさにゴジラが海原に向かって咆吼し、今しも放射能火炎を吐き出さんばかりの迫力ではないか。
そんなゴジラ岩は、奥能登を代表する名所の1つだ。
日本隅々の旅 全国観光名所巡り&グルメ日記 ゴジラ岩(石川県珠洲市)
http://rover.seesaa.net/article/115390122.htm...
ゴジラ岩と馬緤海岸
http://kimassi.net/noto/kinoura.htm...
日本が生んだ怪獣だけに、全国にはゴジラとそっくりな形の奇岩がある。
そのなかで秀でているのは、石川県珠洲市外浦沿岸の、その名も直球ネーミングの『ゴジラ岩』であろう。
マニアによる愉快犯の仕業ではない。日本海の荒波にもまれ、海蝕作用によってできたれっきとした天然の造形である。
見る角度によっては、まさにゴジラが海原に向かって咆吼し、今しも放射能火炎を吐き出さんばかりの迫力ではないか。
そんなゴジラ岩は、奥能登を代表する名所の1つだ。
日本隅々の旅 全国観光名所巡り&グルメ日記 ゴジラ岩(石川県珠洲市)
http://rover.seesaa.net/article/115390122.htm...
ゴジラ岩と馬緤海岸
http://kimassi.net/noto/kinoura.htm...
道遊の割戸(どうゆうのわれと)に伝わる怪奇伝説 佐渡島
言わずと知れた佐渡島は、新潟の西に位置する周囲262.7kmのS型形状の島である。
佐渡は京から配流された文人、政治家などが都の文化を伝播してきたので、現在でも独特の言語や伝統芸能が受け継がれている。
また佐渡金山は有名で、最盛期には国内一の金産出量を誇っていたが、江戸時代の終わりごろから衰退。
1951年に商業採掘は終了した。残された史跡や資料館で当時の様子を垣間見ることができる。
なかでも筆頭なのが、慶長6(1601)年、金山発見の端緒となった大鉱脈の露頭掘跡が『道遊の割戸』である。
山の中央をV字に割った景観は佐渡金山のシンボルと知られ、山壁面にも多くの坑道跡が見ることが可能だ。
その道遊の割戸には、ちょっとゾッとする話が残されている。
道遊の割戸で金銀の鉱脈を掘り出す露天掘りが始まると、対岸の越後からは多くの人夫が佐渡に流れてきた。
江戸時代後期には江戸から約1800人の宿なしの流れ者、罪人が強制連行され過酷な労働を強いられたが、
これは見せしめの意味合いが強かった。実際は鉱山労働者の給与水準は高く、『ヤマ』での職を嗅ぎつけると目の色が変わるほどだった。
そんな人夫のなかに弥吉という男がいた。堅気の職人だった。
故郷の越後に老母と妻を残し、金を貯めていつか一家で豊かな暮らしができるよう、弥吉は毎日のようにノミを振るった。
だが金山に冬が迫ったころ、ろくに休日もとらなかった弥吉は風邪をひいてしまった。
それでも弥吉は無理を押して、なおも仕事を続けた。
ところがノミを打つのもままならなくなり、ついに弥吉は監督役人の目を盗んで岩蔭で休むことにした。
誰かが近づいてきた。用心したつもりだったが、急な悪寒に襲われ、大きなくしゃみを発してしまった。
あわてて口を塞いだが後の祭り。よりによって一番厄介な『鬼甚兵衛』に見つかってしまう。
怖い監督役人が弥吉の襟首をつかみ、岩陰から引きずり出した。弥吉は土下座して謝った。
「問答無用! 一職人ごときが、わしに言い訳するとは不届千万!」甚兵衛は刀を抜き、弥吉の両腕めがけて斬り払った。
こうして弥吉は両手首を失ったのだ。
幸いすぐに治療を受け、失血死はまぬがれた。とはいえいつまでも腕の痛みは癒えず、甚兵衛から受けたトラウマにより、
狂気に侵されるようになったのだ。「鬼の甚兵衛に両手を取られた……鬼の甚兵衛に両手を取られた……」と、
うわ言をくり返すようになった。
ある日の作業中、甚兵衛への恨みつらみを撒き散らしていると、当の甚兵衛の耳に届いてしまった。
監督役人の顔がまさに鬼の剣幕へとなった。刀を静かに抜き放った。
「弥吉……手首を斬り落とされてもまだ足りんのか。ならばその首も取ってくれるわ!」
弥吉が振り向きざま、甚兵衛の刀が一閃。弥吉の首が鮮やかに断ち切られ、地面に転がり落ちた。
ところがどうだ。頚椎を断たれたはずの弥吉の生首は、カッと眼を見開き、甚兵衛をにらみつけた。
さらになおも「鬼の甚兵衛に両手を取られた……」と呟いていたのだ。
恐れをなした甚兵衛がその場から逃げようとすると、闇の奥から2本の手首が飛んできて、甚兵衛の首にまとわりついた。
必死で振り払おうとするが、ますます手首に力が加わり、グイグイと締め上げる。
やがてさすがの甚兵衛も力尽き、弥吉の身体からあふれ出た血の海の中に突っ伏した。
かたわらには弥吉の生首が転がっており、今度は、「鬼の甚兵衛の首を取った……鬼の甚兵衛の首を取った」と、
呪いの言葉を吐き続けるのだった。
佐渡島一周・佐渡金山 道遊の割戸 百足山神社 大野亀 湊まつり
http://www.geocities.jp/narikatsunari/sado_06.ht...
産業遺跡訪問記 新潟佐渡・群馬富岡2
http://miraikoro.3.pro.tok2.com/travels/Niigata_Gunma/Sado_Tom...
言わずと知れた佐渡島は、新潟の西に位置する周囲262.7kmのS型形状の島である。
佐渡は京から配流された文人、政治家などが都の文化を伝播してきたので、現在でも独特の言語や伝統芸能が受け継がれている。
また佐渡金山は有名で、最盛期には国内一の金産出量を誇っていたが、江戸時代の終わりごろから衰退。
1951年に商業採掘は終了した。残された史跡や資料館で当時の様子を垣間見ることができる。
なかでも筆頭なのが、慶長6(1601)年、金山発見の端緒となった大鉱脈の露頭掘跡が『道遊の割戸』である。
山の中央をV字に割った景観は佐渡金山のシンボルと知られ、山壁面にも多くの坑道跡が見ることが可能だ。
その道遊の割戸には、ちょっとゾッとする話が残されている。
道遊の割戸で金銀の鉱脈を掘り出す露天掘りが始まると、対岸の越後からは多くの人夫が佐渡に流れてきた。
江戸時代後期には江戸から約1800人の宿なしの流れ者、罪人が強制連行され過酷な労働を強いられたが、
これは見せしめの意味合いが強かった。実際は鉱山労働者の給与水準は高く、『ヤマ』での職を嗅ぎつけると目の色が変わるほどだった。
そんな人夫のなかに弥吉という男がいた。堅気の職人だった。
故郷の越後に老母と妻を残し、金を貯めていつか一家で豊かな暮らしができるよう、弥吉は毎日のようにノミを振るった。
だが金山に冬が迫ったころ、ろくに休日もとらなかった弥吉は風邪をひいてしまった。
それでも弥吉は無理を押して、なおも仕事を続けた。
ところがノミを打つのもままならなくなり、ついに弥吉は監督役人の目を盗んで岩蔭で休むことにした。
誰かが近づいてきた。用心したつもりだったが、急な悪寒に襲われ、大きなくしゃみを発してしまった。
あわてて口を塞いだが後の祭り。よりによって一番厄介な『鬼甚兵衛』に見つかってしまう。
怖い監督役人が弥吉の襟首をつかみ、岩陰から引きずり出した。弥吉は土下座して謝った。
「問答無用! 一職人ごときが、わしに言い訳するとは不届千万!」甚兵衛は刀を抜き、弥吉の両腕めがけて斬り払った。
こうして弥吉は両手首を失ったのだ。
幸いすぐに治療を受け、失血死はまぬがれた。とはいえいつまでも腕の痛みは癒えず、甚兵衛から受けたトラウマにより、
狂気に侵されるようになったのだ。「鬼の甚兵衛に両手を取られた……鬼の甚兵衛に両手を取られた……」と、
うわ言をくり返すようになった。
ある日の作業中、甚兵衛への恨みつらみを撒き散らしていると、当の甚兵衛の耳に届いてしまった。
監督役人の顔がまさに鬼の剣幕へとなった。刀を静かに抜き放った。
「弥吉……手首を斬り落とされてもまだ足りんのか。ならばその首も取ってくれるわ!」
弥吉が振り向きざま、甚兵衛の刀が一閃。弥吉の首が鮮やかに断ち切られ、地面に転がり落ちた。
ところがどうだ。頚椎を断たれたはずの弥吉の生首は、カッと眼を見開き、甚兵衛をにらみつけた。
さらになおも「鬼の甚兵衛に両手を取られた……」と呟いていたのだ。
恐れをなした甚兵衛がその場から逃げようとすると、闇の奥から2本の手首が飛んできて、甚兵衛の首にまとわりついた。
必死で振り払おうとするが、ますます手首に力が加わり、グイグイと締め上げる。
やがてさすがの甚兵衛も力尽き、弥吉の身体からあふれ出た血の海の中に突っ伏した。
かたわらには弥吉の生首が転がっており、今度は、「鬼の甚兵衛の首を取った……鬼の甚兵衛の首を取った」と、
呪いの言葉を吐き続けるのだった。
佐渡島一周・佐渡金山 道遊の割戸 百足山神社 大野亀 湊まつり
http://www.geocities.jp/narikatsunari/sado_06.ht...
産業遺跡訪問記 新潟佐渡・群馬富岡2
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悲しき殉教の聖地『だんじく様』 生月島(いきつきしま)
長崎県の平戸島の北西にある島が生月島だ。全島が長崎県平戸市に属する。
島名の由来は、遣隋使・遣唐使の時代に中国から日本へ帰国する旅人が船上からこの島を見つけるや、
無事に帰ってこられたと安堵して息をついたことから、といわれている。
安土桃山時代には、フランシスコ・ザビエル以降、平戸に来たイエズス会宣教師が生月島でもカトリックの布教を行い、
平戸藩の重臣だった籠手田安昌、安経父子をはじめ、多くの島民が洗礼を受けたものの、その後の禁教令によって殉教したり、
隠れキリシタンとして密かに信仰を受け継いでいた者も少なくなかった。
現在は島内に2ヶ所のカトリック教会があるが、明治初期に禁教令が解かれた後もカトリック教会に戻ることなく、
先祖伝来の信仰を伝える隠れキリシタンの信者も数多くいて、いまも受け継がれている。
島の南西部の断崖下にはキリシタンにとって聖地とされる場所がある。それが『だんじく様』だ。
正保2(1645)年、平戸藩は押役を置き、その下に宗門目付、下目付、宗門改め役を置いてキリシタンの取り締まりにあたらせた。
このときに悲劇は起きた。
捕吏に追われた弥市兵衛と妻マリア、その子ジュアンの一家は、海岸の暖竹(だんじく)が生い茂る場所に隠れていた。
ある日、ジュアンが磯へ遊びに行ったところを役人の船に見つかってしまう。そして両親である弥市兵衛とマリアともに処刑された。
それ以来、海上からの参拝は忌み嫌われているという。
現在でも、旧1月16日の命日には地元信者が集まってローソクを灯し、信仰を守りつつも殉教していった人々を偲び、祈りを捧げている。
また信者だけでなく漁業関係者も参拝することから、ここは豊漁の神様にもなっている。
だんじく様(長崎県平戸市生月町)・写真満載九州観光
http://www.yado.co.jp/kankou/nagasaki/ikitukis/danji...
生月のキリシタン〜伝承編〜
http://www53.tok2.com/home/nasubi/history/kirishitan...
悲しき殉教の聖地『だんじく様』 生月島(いきつきしま)
長崎県の平戸島の北西にある島が生月島だ。全島が長崎県平戸市に属する。
島名の由来は、遣隋使・遣唐使の時代に中国から日本へ帰国する旅人が船上からこの島を見つけるや、
無事に帰ってこられたと安堵して息をついたことから、といわれている。
安土桃山時代には、フランシスコ・ザビエル以降、平戸に来たイエズス会宣教師が生月島でもカトリックの布教を行い、
平戸藩の重臣だった籠手田安昌、安経父子をはじめ、多くの島民が洗礼を受けたものの、その後の禁教令によって殉教したり、
隠れキリシタンとして密かに信仰を受け継いでいた者も少なくなかった。
現在は島内に2ヶ所のカトリック教会があるが、明治初期に禁教令が解かれた後もカトリック教会に戻ることなく、
先祖伝来の信仰を伝える隠れキリシタンの信者も数多くいて、いまも受け継がれている。
島の南西部の断崖下にはキリシタンにとって聖地とされる場所がある。それが『だんじく様』だ。
正保2(1645)年、平戸藩は押役を置き、その下に宗門目付、下目付、宗門改め役を置いてキリシタンの取り締まりにあたらせた。
このときに悲劇は起きた。
捕吏に追われた弥市兵衛と妻マリア、その子ジュアンの一家は、海岸の暖竹(だんじく)が生い茂る場所に隠れていた。
ある日、ジュアンが磯へ遊びに行ったところを役人の船に見つかってしまう。そして両親である弥市兵衛とマリアともに処刑された。
それ以来、海上からの参拝は忌み嫌われているという。
現在でも、旧1月16日の命日には地元信者が集まってローソクを灯し、信仰を守りつつも殉教していった人々を偲び、祈りを捧げている。
また信者だけでなく漁業関係者も参拝することから、ここは豊漁の神様にもなっている。
だんじく様(長崎県平戸市生月町)・写真満載九州観光
http://www.yado.co.jp/kankou/nagasaki/ikitukis/danji...
生月のキリシタン〜伝承編〜
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市橋、魚を釣り、ヘビを食って逃亡生活 オーハ島
オーハ島は沖縄県島尻郡久米島町に属する島で、別名、東奥武島(あがりおうじま)とも呼ばれている。
明治時代末期に渡名喜島から2家族が入植、1960(昭和35)年には134人が住んでいたが、これ以降からは沖縄本島への転出が相次ぐ。
2003年には3世帯5人にまで減少し、2011年には人口1人となっている。以前はサトウキビの生産などが行われていた。
オーハ島へは観光へ行けないこともないが、めぼしい名所やリゾート施設があるわけではなく、訪れる人もまばらだ。
そんなオーハ島は意外な出来事で注目を浴びる。
2007年3月、千葉県市川市において、英会話学校講師リンゼイ・アン・ホーカーさんが殺害された事件で、
市橋達也被告(当時28歳)が逃亡中、4度にわたって同島に潜伏していたことが自身の著書『逮捕されるまで 空白の2年7カ月の記録』で明らかにされた。
潜伏していたのは、海岸近くのコンクリートブロック造りの小屋(以前は米軍の監視施設であり、主に訓練時に使用していた)で、
最長3ヶ月間、自給自足の生活を送ったとのこと。夏になればハブが活動するため、危険と隣り合わせだったにちがいない。
また島には水源がないため、決してサバイバルに適した場所とは言い難い。
真水を調達すべく、隣の奥武島へ、大潮の干潮のときに砂浜が現われるのを利用して渡った。
場合によっては泳いで渡ることもあったという。
島に潜伏しているとき、小屋で石を積んでかまどを作り、そこで釣った魚や、時にはヘビさえも解体して煮炊きして食いつないだ。
寝袋やテントまで持ちこみ寝泊まりしていた。押収された遺留品は段ボール7箱分にも及んだというから、そのバイタリティに驚かされる。
この島に関する情報は、逃亡生活の間に図書館やインターネットで知ったらしい。
※画像は手製のかまどの跡。
市橋達也被告が潜伏していたオーハ島って、どんな島?
http://npn.co.jp/article/detail/86362946...
うちなんちゅやまとんちゅ〜沖縄身の丈見聞記〜(2)「緊急潜入特集:オーハ島に市橋達也被告の影を追う!」(前編)
http://npn.co.jp/article/detail/90259337...
うちなんちゅやまとんちゅ〜沖縄身の丈見聞記〜(3)「緊急潜入特集:オーハ島に市橋達也被告の影を追う!」(後編)
http://npn.co.jp/article/detail/48425154...
不定期刊「JPなおブログ」オーハ島ってどこよ???沖縄県離島に逃亡・潜伏か 英会話講師殺害の被告
http://ameblo.jp/jp-nao10/entry-10778661222.htm...
市橋被告「毒ヘビも食べていた」 手記でロビンソン的逃亡生活を告白
http://www.j-cast.com/2011/01/25086447.html?p=al...
オーハ島は沖縄県島尻郡久米島町に属する島で、別名、東奥武島(あがりおうじま)とも呼ばれている。
明治時代末期に渡名喜島から2家族が入植、1960(昭和35)年には134人が住んでいたが、これ以降からは沖縄本島への転出が相次ぐ。
2003年には3世帯5人にまで減少し、2011年には人口1人となっている。以前はサトウキビの生産などが行われていた。
オーハ島へは観光へ行けないこともないが、めぼしい名所やリゾート施設があるわけではなく、訪れる人もまばらだ。
そんなオーハ島は意外な出来事で注目を浴びる。
2007年3月、千葉県市川市において、英会話学校講師リンゼイ・アン・ホーカーさんが殺害された事件で、
市橋達也被告(当時28歳)が逃亡中、4度にわたって同島に潜伏していたことが自身の著書『逮捕されるまで 空白の2年7カ月の記録』で明らかにされた。
潜伏していたのは、海岸近くのコンクリートブロック造りの小屋(以前は米軍の監視施設であり、主に訓練時に使用していた)で、
最長3ヶ月間、自給自足の生活を送ったとのこと。夏になればハブが活動するため、危険と隣り合わせだったにちがいない。
また島には水源がないため、決してサバイバルに適した場所とは言い難い。
真水を調達すべく、隣の奥武島へ、大潮の干潮のときに砂浜が現われるのを利用して渡った。
場合によっては泳いで渡ることもあったという。
島に潜伏しているとき、小屋で石を積んでかまどを作り、そこで釣った魚や、時にはヘビさえも解体して煮炊きして食いつないだ。
寝袋やテントまで持ちこみ寝泊まりしていた。押収された遺留品は段ボール7箱分にも及んだというから、そのバイタリティに驚かされる。
この島に関する情報は、逃亡生活の間に図書館やインターネットで知ったらしい。
※画像は手製のかまどの跡。
市橋達也被告が潜伏していたオーハ島って、どんな島?
http://npn.co.jp/article/detail/86362946...
うちなんちゅやまとんちゅ〜沖縄身の丈見聞記〜(2)「緊急潜入特集:オーハ島に市橋達也被告の影を追う!」(前編)
http://npn.co.jp/article/detail/90259337...
うちなんちゅやまとんちゅ〜沖縄身の丈見聞記〜(3)「緊急潜入特集:オーハ島に市橋達也被告の影を追う!」(後編)
http://npn.co.jp/article/detail/48425154...
不定期刊「JPなおブログ」オーハ島ってどこよ???沖縄県離島に逃亡・潜伏か 英会話講師殺害の被告
http://ameblo.jp/jp-nao10/entry-10778661222.htm...
市橋被告「毒ヘビも食べていた」 手記でロビンソン的逃亡生活を告白
http://www.j-cast.com/2011/01/25086447.html?p=al...
触ると祟られる首塚がある 煙島
兵庫県淡路島の福良漁港から100m先に浮かぶ煙島には厳島神社がある。
厳島神社といえば普通、広島にある安芸の宮島を思い浮かべてしまうが、広島のそれは全国にある厳島神社の総本社であり、
日本にはなんと500社もの厳島神社が点在しているのだ。
その煙島の神社には、平敦盛(1169〜1184)の首塚が祀られている。
敦盛は平安時代末期に朝廷を支配した平清盛の甥にあたり、現在の神戸の生田から須磨の浜に渡って繰り広げられた一ノ谷の戦いで、
源義経と戦うも大敗を喫し、敗走の途中、海辺で討ち死にした平氏の若武者である。享年16歳。
敦盛の首を取ったのが武蔵国の熊谷直実。
一ノ谷の戦いで直実は義経軍の奇襲部隊に加わり、沖の船へ逃げようとした若武者を馬で追いかけ、波打ち際で一騎打ちに持ち込む。
武士は自らの首が敵将に差し出されることを覚悟して、戦時の身だしなみとして薄化粧するのが慣わしだった。
敦盛も例外ではなく、その美貌ぶりは直実に斬首をためらわせるほどであった。
死んだ若武者が平清盛の弟、経盛の末子であると知った直実は、屋島へ向かう途中、福良湾でしばしの休息をとっている経盛と
平氏一門のもとへ敦盛の首と、腰にさしていた横笛を届けさせた。
知らせを聞いた経盛と一門は慟哭し、福良湾の近くの小島で息子の首を荼毘に付した。
そのとき、島からもうもうと煙が上がったことから、煙島と命名されたという。
敦盛の美少年ぶりや命乞いを潔しとしない生き様は歴史ファンを魅了し、訪れる人もいる一方で、
件の首塚に触れると祟られるというウワサがあり、心霊スポットとしての側面があるそうだ。恐ろしや!
平氏伝説の旅 〜大輪田泊と、福原京から煙島まで - 兵庫県立教育研修所
http://www.hyogo-c.ed.jp/‾rekihaku-bo/historystation/legend/html/013/013.html
淡路まるごと歩きに挑戦!第2章④
http://jocr.jp/blog/awaji.php?itemid=2040...
兵庫県淡路島の福良漁港から100m先に浮かぶ煙島には厳島神社がある。
厳島神社といえば普通、広島にある安芸の宮島を思い浮かべてしまうが、広島のそれは全国にある厳島神社の総本社であり、
日本にはなんと500社もの厳島神社が点在しているのだ。
その煙島の神社には、平敦盛(1169〜1184)の首塚が祀られている。
敦盛は平安時代末期に朝廷を支配した平清盛の甥にあたり、現在の神戸の生田から須磨の浜に渡って繰り広げられた一ノ谷の戦いで、
源義経と戦うも大敗を喫し、敗走の途中、海辺で討ち死にした平氏の若武者である。享年16歳。
敦盛の首を取ったのが武蔵国の熊谷直実。
一ノ谷の戦いで直実は義経軍の奇襲部隊に加わり、沖の船へ逃げようとした若武者を馬で追いかけ、波打ち際で一騎打ちに持ち込む。
武士は自らの首が敵将に差し出されることを覚悟して、戦時の身だしなみとして薄化粧するのが慣わしだった。
敦盛も例外ではなく、その美貌ぶりは直実に斬首をためらわせるほどであった。
死んだ若武者が平清盛の弟、経盛の末子であると知った直実は、屋島へ向かう途中、福良湾でしばしの休息をとっている経盛と
平氏一門のもとへ敦盛の首と、腰にさしていた横笛を届けさせた。
知らせを聞いた経盛と一門は慟哭し、福良湾の近くの小島で息子の首を荼毘に付した。
そのとき、島からもうもうと煙が上がったことから、煙島と命名されたという。
敦盛の美少年ぶりや命乞いを潔しとしない生き様は歴史ファンを魅了し、訪れる人もいる一方で、
件の首塚に触れると祟られるというウワサがあり、心霊スポットとしての側面があるそうだ。恐ろしや!
平氏伝説の旅 〜大輪田泊と、福原京から煙島まで - 兵庫県立教育研修所
http://www.hyogo-c.ed.jp/‾rekihaku-bo/historystation/legend/html/013/013.html
淡路まるごと歩きに挑戦!第2章④
http://jocr.jp/blog/awaji.php?itemid=2040...
海賊が住み着いた海の要塞島 怪島(けしま)
愛媛県今治市に属し、瀬戸内海国立公園に指定されている島の1つに、怪島と冠されたオドロオドロしい無人島がある。
島名は、その昔『怪しき者』、すなわち海賊が根城としていたことに由来している。当時の善良な人々にとって、それほど怖い島だったのだろう。
そんな怪島は古くから瀬戸内海や斎灘(いつきなだ)を行き交う船の目印となってきた。
島の周囲は峻険な岩に囲まれており、容易に接岸することはできない。それゆえ人が住むことはなかった。
その地の利を生かし、いつのころからか、島に海賊たちが住み着き、斎灘を渡る船を襲撃するようになった。
戦国時代になると、この島には『怪島城』が建てられる。
当時の伊予を支配していた豪族、河野氏の武将である神野左馬允がその城主であった。
島の背後は断崖絶壁であり、小島であるがため監視しやすく、また周辺海域は潮の流れが速いことから難攻不落の様相を呈していた。
瀬戸内海の制海権を握っていた海賊といえば最強の水軍との呼び声も高い『村上水軍』が挙げられるが、
その村上水軍の分家の1つ『来島水軍』が河野氏に仕えていたことから、怪島は来島水軍にとって西の支城としての役目を担っていた。
しかし後年、伊予地方で勢力を振るった河野氏は1585(天正13)年、豊臣秀吉の四国征伐において命を受けた小早川隆景の軍勢に滅ぼされた。
怪島も戦場となり多くの血が流れたとされている。現在も古井戸や桟橋跡など、怪島城の歴史が残されているのだ。
そんな血なまぐさい歴史がありながら、島周辺はスズキや鯛、カレイの絶好の漁場として釣り人から支持を集めているのが現状だったりする。
Keshima シーカヤックで今治西側:2012/04/23シリーズ 〈No.14〉
http://www.geocities.jp/bladerunner_mori/R/g-b-ph-47/b...
怪しい島と書いて「怪島(けしま)」へミステリーシーカヤックツーリング!(シーカヤック)
http://shop.plaza.rakuten.co.jp/kompas/diary/detail/2012052700...
愛媛県今治市に属し、瀬戸内海国立公園に指定されている島の1つに、怪島と冠されたオドロオドロしい無人島がある。
島名は、その昔『怪しき者』、すなわち海賊が根城としていたことに由来している。当時の善良な人々にとって、それほど怖い島だったのだろう。
そんな怪島は古くから瀬戸内海や斎灘(いつきなだ)を行き交う船の目印となってきた。
島の周囲は峻険な岩に囲まれており、容易に接岸することはできない。それゆえ人が住むことはなかった。
その地の利を生かし、いつのころからか、島に海賊たちが住み着き、斎灘を渡る船を襲撃するようになった。
戦国時代になると、この島には『怪島城』が建てられる。
当時の伊予を支配していた豪族、河野氏の武将である神野左馬允がその城主であった。
島の背後は断崖絶壁であり、小島であるがため監視しやすく、また周辺海域は潮の流れが速いことから難攻不落の様相を呈していた。
瀬戸内海の制海権を握っていた海賊といえば最強の水軍との呼び声も高い『村上水軍』が挙げられるが、
その村上水軍の分家の1つ『来島水軍』が河野氏に仕えていたことから、怪島は来島水軍にとって西の支城としての役目を担っていた。
しかし後年、伊予地方で勢力を振るった河野氏は1585(天正13)年、豊臣秀吉の四国征伐において命を受けた小早川隆景の軍勢に滅ぼされた。
怪島も戦場となり多くの血が流れたとされている。現在も古井戸や桟橋跡など、怪島城の歴史が残されているのだ。
そんな血なまぐさい歴史がありながら、島周辺はスズキや鯛、カレイの絶好の漁場として釣り人から支持を集めているのが現状だったりする。
Keshima シーカヤックで今治西側:2012/04/23シリーズ 〈No.14〉
http://www.geocities.jp/bladerunner_mori/R/g-b-ph-47/b...
怪しい島と書いて「怪島(けしま)」へミステリーシーカヤックツーリング!(シーカヤック)
http://shop.plaza.rakuten.co.jp/kompas/diary/detail/2012052700...
沖縄版座敷わらし『キジムナー』が棲む島 ヤガンナ島
ヤガンナ島は沖縄県国頭郡今帰仁村に属し、沖縄海岸国定公園にも含まれている標高30mの無人島。
この島には亀甲墓、横穴堀込墓が無数にあり、数百年前から付近の島の人間が葬られてきた。
島の農地を減らさないために、無人島の1つを墓地専用にしたのであろう。
そんなヤガンナ島では『妖怪キジムナー』が出現すると信じられているのだ。
キジムナーとはいかなるものか?
それは沖縄諸島周辺で言い伝えられてきた伝説上の生物である。樹木、とくにガジュマルの古木の精霊だといわれる。
大きさは人間の子供ほどで、全身が真っ赤、あるいは髪の毛や顔が真っ赤で、腕は木の枝みたいに細く、一見老人のようにも見える。
あるいは古木の精霊だけに、木そのものに見えるという説もある。
人間同様、男女があり、結婚して子供を作り、家庭生活を営むキジムナーもいるとされる。その一方で、人間の家に嫁ぐキジムナーもいる。
人間の手伝いをしたり、かまどの火を借りに来ることもあり、人の暮らしと密着した関係であるといえよう。
主食は魚介類で、とくに魚の左目が好物。なかには人間が漁をしている船に乗り込んでくる場合もある。
キジムナーに乗られた船は、必ず船からあふれるほどに魚が獲れて大量となるが、なぜか左目を食べるので、どの魚にも左目がないらしい。
いずれにせよ、人間に危害を加えるような存在ではない。
ただし、古木を伐採したりすれば、キジムナーは怒って漁船を沈めたり、家畜を殺すなどして徹底的に嫌がらせをする。
またキジムナーに気に入られた家は繁栄し、反対に嫌われた家は衰退し滅びるという話もある。
これは岩手の座敷わらしと酷似している。
余談だが、民俗学者、佐々木喜善(柳田国男の『遠野物語』のネタ提供者)が著した『ザシキワラシの話』によれば、
岩手の座敷わらしはやはり、『赤い顔』の童子姿であるという。マダの木の精霊とする解釈もある。
また佐々木は座敷わらしのことを、圧殺されて家の中に埋葬された子供の霊ではないかと指摘。
東北地方では間引きを『臼殺(うすごろ)』といって、口減らしのために間引くべき子を石臼の下敷きにして殺し、
墓ではなく土間や台所などに埋める風習があったと言及している。
このような間引きとの関連に加え、座敷わらしのいる家が旧家であることや、村外から訪れた六部(巡礼僧)を殺害した家がのちに
没落するという伝承と結び付けられて語られることから、座敷わらしは村落共同体の暗部の象徴と示している。
一方、人間と共存関係のキジムナーは、時に人間の家系をも滅ぼしてしまう怖い一面もあるが、やはり沖縄特有のほのぼのとしたムードがある。
そんなキジムナーは沖縄全体で信じられているものの、ことヤガンナ島に限っては様子が異なるのだ。
ヤガンナ島は先に述べたように、周辺離島の専用の墓として成り立っており、人の立ち入りが禁じられている。
もしそんなタブーを破り島に足を踏み入れようものなら、たちまちキジムナーが襲いかかってくると信じられているのだ。
この島ではキジムナーのことを別名『精魔(セーマ)』と呼び、島に人が入ると、雄のセーマは自らの性器を、雌のセーマは乳房を侵入者の口にねじこみ、
窒息死させるのだという。
キジムナーwikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AD%E3%82%B8%E3%83%...
大宜味村のキジムナー
http://santeru.ti-da.net/e2605263.htm...
ヤガンナ島は沖縄県国頭郡今帰仁村に属し、沖縄海岸国定公園にも含まれている標高30mの無人島。
この島には亀甲墓、横穴堀込墓が無数にあり、数百年前から付近の島の人間が葬られてきた。
島の農地を減らさないために、無人島の1つを墓地専用にしたのであろう。
そんなヤガンナ島では『妖怪キジムナー』が出現すると信じられているのだ。
キジムナーとはいかなるものか?
それは沖縄諸島周辺で言い伝えられてきた伝説上の生物である。樹木、とくにガジュマルの古木の精霊だといわれる。
大きさは人間の子供ほどで、全身が真っ赤、あるいは髪の毛や顔が真っ赤で、腕は木の枝みたいに細く、一見老人のようにも見える。
あるいは古木の精霊だけに、木そのものに見えるという説もある。
人間同様、男女があり、結婚して子供を作り、家庭生活を営むキジムナーもいるとされる。その一方で、人間の家に嫁ぐキジムナーもいる。
人間の手伝いをしたり、かまどの火を借りに来ることもあり、人の暮らしと密着した関係であるといえよう。
主食は魚介類で、とくに魚の左目が好物。なかには人間が漁をしている船に乗り込んでくる場合もある。
キジムナーに乗られた船は、必ず船からあふれるほどに魚が獲れて大量となるが、なぜか左目を食べるので、どの魚にも左目がないらしい。
いずれにせよ、人間に危害を加えるような存在ではない。
ただし、古木を伐採したりすれば、キジムナーは怒って漁船を沈めたり、家畜を殺すなどして徹底的に嫌がらせをする。
またキジムナーに気に入られた家は繁栄し、反対に嫌われた家は衰退し滅びるという話もある。
これは岩手の座敷わらしと酷似している。
余談だが、民俗学者、佐々木喜善(柳田国男の『遠野物語』のネタ提供者)が著した『ザシキワラシの話』によれば、
岩手の座敷わらしはやはり、『赤い顔』の童子姿であるという。マダの木の精霊とする解釈もある。
また佐々木は座敷わらしのことを、圧殺されて家の中に埋葬された子供の霊ではないかと指摘。
東北地方では間引きを『臼殺(うすごろ)』といって、口減らしのために間引くべき子を石臼の下敷きにして殺し、
墓ではなく土間や台所などに埋める風習があったと言及している。
このような間引きとの関連に加え、座敷わらしのいる家が旧家であることや、村外から訪れた六部(巡礼僧)を殺害した家がのちに
没落するという伝承と結び付けられて語られることから、座敷わらしは村落共同体の暗部の象徴と示している。
一方、人間と共存関係のキジムナーは、時に人間の家系をも滅ぼしてしまう怖い一面もあるが、やはり沖縄特有のほのぼのとしたムードがある。
そんなキジムナーは沖縄全体で信じられているものの、ことヤガンナ島に限っては様子が異なるのだ。
ヤガンナ島は先に述べたように、周辺離島の専用の墓として成り立っており、人の立ち入りが禁じられている。
もしそんなタブーを破り島に足を踏み入れようものなら、たちまちキジムナーが襲いかかってくると信じられているのだ。
この島ではキジムナーのことを別名『精魔(セーマ)』と呼び、島に人が入ると、雄のセーマは自らの性器を、雌のセーマは乳房を侵入者の口にねじこみ、
窒息死させるのだという。
キジムナーwikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AD%E3%82%B8%E3%83%...
大宜味村のキジムナー
http://santeru.ti-da.net/e2605263.htm...
悲しき親子の奇岩物語 人形岩
鹿児島県薩摩川内市の国道3号沿いにある西方海岸には、ある奇岩が寂しげに佇んでいる。
そのシルエットはまさに人の形をしている。それにまつわる伝説は悲しいものだ。
はるか昔のことである。
サンバチと呼ばれる島の洞穴の中に、働き者の若い夫婦が、可愛い赤ん坊とともに住んでいた。
ある日、若い男は丸木舟を操りながら漁をしていた。ところが急な天候の崩れによる一陣の風に襲われ、
一瞬のうちに小舟は転覆。男は水中深く沈んでしまった。遺体も上がらなかった。
若い母親は赤ん坊を抱きかかえて、じっと座ったまま夫の無事を祈り続け、洞穴の中でひたすら待ち続けたが、
悲しいかな、こちらもそのまま息絶えてしまう。
なんと不憫なことか。海の守り神は、死んだ母子を乳飲み子を抱いた母親が座っているような形の岩に変えさせた。
さらに海底に沈んだ夫も、小舟とともに岩塊に変えた。
長い月日が流れて、洞穴の周りは侵食され、乳飲み子を抱いた母親の形の岩が現われた。
いつのころからか定かではないが、人はその岩を『人形岩』と呼ぶようになったのだ。
ロングドライブ#4〜薩摩川内「人形岩」
http://blogs.yahoo.co.jp/jysfk062/31531331.htm...
西方海岸にある奇岩「人形岩」と夕陽
http://blogs.yahoo.co.jp/kagoshimaboy_2009/19623140.htm...
鹿児島県薩摩川内市の国道3号沿いにある西方海岸には、ある奇岩が寂しげに佇んでいる。
そのシルエットはまさに人の形をしている。それにまつわる伝説は悲しいものだ。
はるか昔のことである。
サンバチと呼ばれる島の洞穴の中に、働き者の若い夫婦が、可愛い赤ん坊とともに住んでいた。
ある日、若い男は丸木舟を操りながら漁をしていた。ところが急な天候の崩れによる一陣の風に襲われ、
一瞬のうちに小舟は転覆。男は水中深く沈んでしまった。遺体も上がらなかった。
若い母親は赤ん坊を抱きかかえて、じっと座ったまま夫の無事を祈り続け、洞穴の中でひたすら待ち続けたが、
悲しいかな、こちらもそのまま息絶えてしまう。
なんと不憫なことか。海の守り神は、死んだ母子を乳飲み子を抱いた母親が座っているような形の岩に変えさせた。
さらに海底に沈んだ夫も、小舟とともに岩塊に変えた。
長い月日が流れて、洞穴の周りは侵食され、乳飲み子を抱いた母親の形の岩が現われた。
いつのころからか定かではないが、人はその岩を『人形岩』と呼ぶようになったのだ。
ロングドライブ#4〜薩摩川内「人形岩」
http://blogs.yahoo.co.jp/jysfk062/31531331.htm...
西方海岸にある奇岩「人形岩」と夕陽
http://blogs.yahoo.co.jp/kagoshimaboy_2009/19623140.htm...
鳳凰(ほうおう)が住む島 朴島(ほおじま)
宮城県塩竈市にある浦戸諸島の北にあるのが朴島だ。周囲2kmと、宮城の有人島のなかでは一番小さい島である。
朴島の周囲にある大森島、鷺島、味噌玉島、烏帽子島などの無人島群は、烏帽子列島と呼ばれている。
朴島では牡蠣の養殖などの水産業と、仙台の伝統野菜『松島白菜』の種を採るための菜の花が栽培が盛んである。
島名の由来は、鳳凰が住んでいたからとも、烽火(狼煙)場があったからともいわれており、
さらに仙台藩にまつわる埋蔵金伝説が残されていることから宝島から来たという話さえある。
鳳凰wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B3%B3%E5%87%B...
浦戸諸島の埋蔵金伝説
http://plaza.rakuten.co.jp/sachibon/diary/201006200000...
宮城県塩竈市にある浦戸諸島の北にあるのが朴島だ。周囲2kmと、宮城の有人島のなかでは一番小さい島である。
朴島の周囲にある大森島、鷺島、味噌玉島、烏帽子島などの無人島群は、烏帽子列島と呼ばれている。
朴島では牡蠣の養殖などの水産業と、仙台の伝統野菜『松島白菜』の種を採るための菜の花が栽培が盛んである。
島名の由来は、鳳凰が住んでいたからとも、烽火(狼煙)場があったからともいわれており、
さらに仙台藩にまつわる埋蔵金伝説が残されていることから宝島から来たという話さえある。
鳳凰wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B3%B3%E5%87%B...
浦戸諸島の埋蔵金伝説
http://plaza.rakuten.co.jp/sachibon/diary/201006200000...
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火葬をしていたら遺体が起き上がった話 桂島
こちらも同じく宮城県の浦戸諸島の1つ桂島。
島名の由来は曽良が松島に滞在した時、松島湾に浮かぶ島と月を見て「月桂冠の如し」と詠んだことからとも、
鹽竈神社の嘉津良比祭と関係があるとも言われている。
島には桂島地区、石浜地区2つの集落があり、浦戸諸島の中では最も人口が多い。
そんな石浜には、『おじゃら浜の奇談』という怖い伝承が残されている。それがこんな内容だ。
明治初期。塩竈の外港として、経済文化の中心が石浜港に集まり、貨物船の出入りが盛んになっていた。
船乗りたちも全国から石浜に集中し、『肝煎』(人事や配役などを行う職業)である高橋安吉の世話になっていた。
肝煎は出入船の取締りや船員の雇入れなど、海事のことまで任されていた。
ところで、石浜には『せんちょう浜、おじゃら浜』と呼ばれる、その昔、火葬を行った場所があった。
他国の人間が死ぬと、ここで荼毘に付したというのだ。
あるとき、海幸丸なる船が航海中に、三河出身の仙吉という船乗りが、釜石沖で急死してしまった。
後日、仙吉の遺体を積んだ船が石浜港に入ったという届けが高橋安吉のもとに入ったので手続きを済ませ、
瑞厳寺から和尚を呼んで、葬式の用意をさせた。
船仲間たちで火葬の段取りを終え、親しかった権吉と銀蔵の2人が火葬の世話を買って出た。2人は薪を焚き続けた。
その日は静かな晩だったものの、薪や芝が燃える青白い炎、遺体が焦げる胸のむかつく臭い、その間を黒い煙が渦を巻いて、
あたかも地獄絵図のような光景だった。
それでも2人は、仲のよかった仙吉のために線香を上げ、念仏を唱えながら無心で薪を足し続けた。
時間も経ち深夜になった。権吉と銀蔵は、
「もう十分焼けたんじゃなかろうか。そろそろしまいにするか」
「だな。ずいぶん遅くまでかかっちまった。あとは明日、仙吉のお骨を拾うだけだ」と、話していた。
そのときであった。燃え盛っていた炎の中から、突如、凄絶な形相に歪んだ仙吉の顔がぬっと浮かんだ。
すると仙吉は全身の火の粉を振り払いながら立ち上がり、権吉めがけて覆いかぶさるように抱きついてきたのだ。
あまりの異常事態に権吉はたまげてしまい、口から泡を吹いて腰を抜かしてしまった。
そばの銀蔵も、顔面蒼白になり、身体の震えがとまらない。
2人とも筆舌に尽くし難い恐怖のために気を失ってしまった。
翌朝、仙吉の骨を拾いに来た村人たちは現場を見るなり、肝をつぶした。
あれほど薪をくべ続け、とっくに骨になったはずの仙吉は原型を保ったまま外に投げ出され、
権吉と銀蔵が気絶していたのだから無理もあるまい。
その後、権吉と銀蔵はショックで半年ばかり寝込んでしまった。
地元では、この浜を『おじゃら小沙羅の浜』と呼んでいる。
現代でも火葬場で、釜の中の遺体が筋肉の収縮により半身を起こす現象は一般的に見られるそうだが、
原型を保った状態で起き上がってきたとはどういうことだろう?
医学も発展していない時代、誤診により、死亡と判断されたケースはよくあったらしいが……。
塩竈の民話「おじゃら浜の奇談」
http://shiomo.jp/archives/148...
こちらも同じく宮城県の浦戸諸島の1つ桂島。
島名の由来は曽良が松島に滞在した時、松島湾に浮かぶ島と月を見て「月桂冠の如し」と詠んだことからとも、
鹽竈神社の嘉津良比祭と関係があるとも言われている。
島には桂島地区、石浜地区2つの集落があり、浦戸諸島の中では最も人口が多い。
そんな石浜には、『おじゃら浜の奇談』という怖い伝承が残されている。それがこんな内容だ。
明治初期。塩竈の外港として、経済文化の中心が石浜港に集まり、貨物船の出入りが盛んになっていた。
船乗りたちも全国から石浜に集中し、『肝煎』(人事や配役などを行う職業)である高橋安吉の世話になっていた。
肝煎は出入船の取締りや船員の雇入れなど、海事のことまで任されていた。
ところで、石浜には『せんちょう浜、おじゃら浜』と呼ばれる、その昔、火葬を行った場所があった。
他国の人間が死ぬと、ここで荼毘に付したというのだ。
あるとき、海幸丸なる船が航海中に、三河出身の仙吉という船乗りが、釜石沖で急死してしまった。
後日、仙吉の遺体を積んだ船が石浜港に入ったという届けが高橋安吉のもとに入ったので手続きを済ませ、
瑞厳寺から和尚を呼んで、葬式の用意をさせた。
船仲間たちで火葬の段取りを終え、親しかった権吉と銀蔵の2人が火葬の世話を買って出た。2人は薪を焚き続けた。
その日は静かな晩だったものの、薪や芝が燃える青白い炎、遺体が焦げる胸のむかつく臭い、その間を黒い煙が渦を巻いて、
あたかも地獄絵図のような光景だった。
それでも2人は、仲のよかった仙吉のために線香を上げ、念仏を唱えながら無心で薪を足し続けた。
時間も経ち深夜になった。権吉と銀蔵は、
「もう十分焼けたんじゃなかろうか。そろそろしまいにするか」
「だな。ずいぶん遅くまでかかっちまった。あとは明日、仙吉のお骨を拾うだけだ」と、話していた。
そのときであった。燃え盛っていた炎の中から、突如、凄絶な形相に歪んだ仙吉の顔がぬっと浮かんだ。
すると仙吉は全身の火の粉を振り払いながら立ち上がり、権吉めがけて覆いかぶさるように抱きついてきたのだ。
あまりの異常事態に権吉はたまげてしまい、口から泡を吹いて腰を抜かしてしまった。
そばの銀蔵も、顔面蒼白になり、身体の震えがとまらない。
2人とも筆舌に尽くし難い恐怖のために気を失ってしまった。
翌朝、仙吉の骨を拾いに来た村人たちは現場を見るなり、肝をつぶした。
あれほど薪をくべ続け、とっくに骨になったはずの仙吉は原型を保ったまま外に投げ出され、
権吉と銀蔵が気絶していたのだから無理もあるまい。
その後、権吉と銀蔵はショックで半年ばかり寝込んでしまった。
地元では、この浜を『おじゃら小沙羅の浜』と呼んでいる。
現代でも火葬場で、釜の中の遺体が筋肉の収縮により半身を起こす現象は一般的に見られるそうだが、
原型を保った状態で起き上がってきたとはどういうことだろう?
医学も発展していない時代、誤診により、死亡と判断されたケースはよくあったらしいが……。
塩竈の民話「おじゃら浜の奇談」
http://shiomo.jp/archives/148...
悲しい思いをするのはいつも女ばかり……遊女みどりの悲恋物語 安居島(あいじま)
愛媛県今治市にある高縄半島の西側に広がる海を斎灘(いつきなだ)といい、そのほぼ中央に位置するのが安居島である。
安居島は文化14(1817)年、大内金左衛門なる人物が浅海村(あさなみむら。現在の松山市浅海原周辺)から入植したことを契機に発展した。
金左衛門が港の整備を行ったことで、潮待ち、風待ちで立ち寄る船が増え、幕末から明治期にかけて遊郭ができるほどに賑わった。
つまり、船乗り御用達の遊女たちがひしめく『女郎の島』だったのだ。もっともそれも過去の話であり、過疎化が進んでいる。
港の西側には古びた観音堂がある。その横には『遊女みどり』の墓があるのだが、悲恋話と同時に不思議な言い伝えが残されている。
それを紹介しよう。
みどりはある常連客と恋に落ちた。
男たちは遊女の腕から腕へすり抜けていくのをわかっていながら、気持ちに歯止めをかけることはできなかった。
しょせん、それは叶わぬ恋。みどりは嘆き悲しみ、ついに波止場から身を投げたのだ。
その後、彼女の遺体は島の東の浜の岩に打ち寄せられた。それにちなみ、この岩を『みどり石』と呼ぶようになった。
時代は明治に移った。港の改修工事の際、石工がこの石を割ったところ、石の中から白蛇が出てきたと思ったら、
その石工は病気になってしまったというのだ。
島民はみどりの祟りだと恐れ、以来その岩に手を付けるものはいないという。
愛の島の歴史
http://imag045.exblog.jp/14986262...
愛媛県今治市にある高縄半島の西側に広がる海を斎灘(いつきなだ)といい、そのほぼ中央に位置するのが安居島である。
安居島は文化14(1817)年、大内金左衛門なる人物が浅海村(あさなみむら。現在の松山市浅海原周辺)から入植したことを契機に発展した。
金左衛門が港の整備を行ったことで、潮待ち、風待ちで立ち寄る船が増え、幕末から明治期にかけて遊郭ができるほどに賑わった。
つまり、船乗り御用達の遊女たちがひしめく『女郎の島』だったのだ。もっともそれも過去の話であり、過疎化が進んでいる。
港の西側には古びた観音堂がある。その横には『遊女みどり』の墓があるのだが、悲恋話と同時に不思議な言い伝えが残されている。
それを紹介しよう。
みどりはある常連客と恋に落ちた。
男たちは遊女の腕から腕へすり抜けていくのをわかっていながら、気持ちに歯止めをかけることはできなかった。
しょせん、それは叶わぬ恋。みどりは嘆き悲しみ、ついに波止場から身を投げたのだ。
その後、彼女の遺体は島の東の浜の岩に打ち寄せられた。それにちなみ、この岩を『みどり石』と呼ぶようになった。
時代は明治に移った。港の改修工事の際、石工がこの石を割ったところ、石の中から白蛇が出てきたと思ったら、
その石工は病気になってしまったというのだ。
島民はみどりの祟りだと恐れ、以来その岩に手を付けるものはいないという。
愛の島の歴史
http://imag045.exblog.jp/14986262...
海難の代償もやはり女……般若姫伝説 笠佐島
>>80で山口県の笠佐島には墓がなく、野外で荼毘に付すしきたりがあるのを前回取り上げた。
それとは別に、この島にも女性が犠牲になってしまう伝説が残されていたので追記する。
大分県やこの笠佐島周辺には広範囲にわたり、『般若姫伝説』という話が残されているのだ。
昔々の話である。
筑紫豊後の国、真野の長者には般若姫という子がいた。自慢の美しい娘へと育った。
その噂は遠く都の、三十代欽明天皇の皇子、豊日命(三十一代用明天皇)の耳にも届いた。
皇子は般若姫に一目逢うべく、朝廷を抜け出すことにした。修行者に身をやつして豊後に下り、
ついに般若姫と結ばれる。
しばらく経ったころ、皇子は天皇の命令を受け、都に呼び戻されることになった。
姫はすでに身重だったため、一緒に上洛することはできないので、別れを惜しみながら、先に都へ帰っていった。
皇子19歳、姫17歳のことであった。
やがて 姫は美しい女子を安産。玉絵姫と名付けた。
健康を取り戻したあと、般若姫は赤子を長者に託し、夫のもとへと旅立つことにする。
長者は姫に多くの家来と大船小船120隻を用意して、一行は臼杵(うすき)の浦を出発。
はじめは穏やかだった海も、周防の国の近くにさしかかると急な嵐に見舞われ、船は豊後の国に流されてしまう。
天気が回復し船を出したものの、大畠鳴門の瀬戸にさしかかかったところで、またぞろ暴風に襲われた。
たちまち120隻は散り散りとなり、多くの船が沈んだ。
奇異な現象であった。実は嵐の正体は、かつて長者に池を潰された金龍神の怒りそのものだったのだ。
一行は、そばの浦に船をとどめ、行方不明になった者たちを捜し、多くの遺体を引き上げた。
姫は嘆きは深い。「私は、こんなにまで大勢の人の命を犠牲にしてまで、皇后になりたいとは思いませぬ」
そして覚悟を決めると、渦巻く大畠の瀬戸に身を投げたのである。
侍女たちもあとを追うように飛び込んだ。驚いた船人たちが慌てて救い上げたが、姫の命は風前の灯火であった。
「二度とこの場所で、むごい事故が起こらないよう、私は瀬戸の守り神となります。亡骸は向こうに見えるあの山に葬ってください」と、
遺言を残し、息を引き取ったという。
家来たちは嘆き悲しみ、姫の最期の言葉どおり、今の山口県平生町神峰山の頂上に埋葬した。
訃報を聞いた皇子と、長者の悲しみも同様であった。
言いつけに従い、神峰山に墓を建て、姫の念持仏『金の観音像』を納め、般若寺を建立した。
この出来事のあと、毎年陰暦12月大晦日の夜、大畠の瀬戸から火の玉が3つ舞い上がり、1つは神峰山山頂の『龍灯の松』にとまったあと、
般若寺の観音堂の三光之窓に入っていくという。また別の1つは対岸の大畠の瀬戸の明神様へ、もう1つは大島三蒲の松尾寺に向かって、
飛ぶようになったといわれている。そして、その火の玉を見た人は、大漁・豊作・福徳に恵まれるということである。
ちなみに、溺れる姫に島民が笠を捧げたことから『笠捧げ島』と呼ばれ、やがて縮まり、『笠佐島』と変遷したのが島名の由来だった。
1月7日その2 松尾寺
http://homepage3.nifty.com/GAITEN/page055.htm...
飯の山(いいのやま) 山口県周防大島町
http://houshizaki.web.fc2.com/iinoyama.ht...
般若姫伝説
http://www.hunterslog.net/dragonology/ryujatan/chugoku/h...
>>80で山口県の笠佐島には墓がなく、野外で荼毘に付すしきたりがあるのを前回取り上げた。
それとは別に、この島にも女性が犠牲になってしまう伝説が残されていたので追記する。
大分県やこの笠佐島周辺には広範囲にわたり、『般若姫伝説』という話が残されているのだ。
昔々の話である。
筑紫豊後の国、真野の長者には般若姫という子がいた。自慢の美しい娘へと育った。
その噂は遠く都の、三十代欽明天皇の皇子、豊日命(三十一代用明天皇)の耳にも届いた。
皇子は般若姫に一目逢うべく、朝廷を抜け出すことにした。修行者に身をやつして豊後に下り、
ついに般若姫と結ばれる。
しばらく経ったころ、皇子は天皇の命令を受け、都に呼び戻されることになった。
姫はすでに身重だったため、一緒に上洛することはできないので、別れを惜しみながら、先に都へ帰っていった。
皇子19歳、姫17歳のことであった。
やがて 姫は美しい女子を安産。玉絵姫と名付けた。
健康を取り戻したあと、般若姫は赤子を長者に託し、夫のもとへと旅立つことにする。
長者は姫に多くの家来と大船小船120隻を用意して、一行は臼杵(うすき)の浦を出発。
はじめは穏やかだった海も、周防の国の近くにさしかかると急な嵐に見舞われ、船は豊後の国に流されてしまう。
天気が回復し船を出したものの、大畠鳴門の瀬戸にさしかかかったところで、またぞろ暴風に襲われた。
たちまち120隻は散り散りとなり、多くの船が沈んだ。
奇異な現象であった。実は嵐の正体は、かつて長者に池を潰された金龍神の怒りそのものだったのだ。
一行は、そばの浦に船をとどめ、行方不明になった者たちを捜し、多くの遺体を引き上げた。
姫は嘆きは深い。「私は、こんなにまで大勢の人の命を犠牲にしてまで、皇后になりたいとは思いませぬ」
そして覚悟を決めると、渦巻く大畠の瀬戸に身を投げたのである。
侍女たちもあとを追うように飛び込んだ。驚いた船人たちが慌てて救い上げたが、姫の命は風前の灯火であった。
「二度とこの場所で、むごい事故が起こらないよう、私は瀬戸の守り神となります。亡骸は向こうに見えるあの山に葬ってください」と、
遺言を残し、息を引き取ったという。
家来たちは嘆き悲しみ、姫の最期の言葉どおり、今の山口県平生町神峰山の頂上に埋葬した。
訃報を聞いた皇子と、長者の悲しみも同様であった。
言いつけに従い、神峰山に墓を建て、姫の念持仏『金の観音像』を納め、般若寺を建立した。
この出来事のあと、毎年陰暦12月大晦日の夜、大畠の瀬戸から火の玉が3つ舞い上がり、1つは神峰山山頂の『龍灯の松』にとまったあと、
般若寺の観音堂の三光之窓に入っていくという。また別の1つは対岸の大畠の瀬戸の明神様へ、もう1つは大島三蒲の松尾寺に向かって、
飛ぶようになったといわれている。そして、その火の玉を見た人は、大漁・豊作・福徳に恵まれるということである。
ちなみに、溺れる姫に島民が笠を捧げたことから『笠捧げ島』と呼ばれ、やがて縮まり、『笠佐島』と変遷したのが島名の由来だった。
1月7日その2 松尾寺
http://homepage3.nifty.com/GAITEN/page055.htm...
飯の山(いいのやま) 山口県周防大島町
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般若姫伝説
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牛鬼を退治、その妖怪ハンターの末裔は今も健在 牛島
山口県光市の沖に浮かぶ牛島には血沸き肉踊る『牛鬼伝説』が残されており、牛鬼を倒したとされる英雄の墓まで残されている。
天文年間(1532〜54)、戦国時代のことである。
牛島には牛鬼(うしおに、ぎゅうき)と呼ばれる恐ろしい妖怪が潜んでいた。
牛鬼とは、頭が牛、首から下は鬼の胴体を持つとも、あるいはその逆で、頭が鬼、胴体が牛の場合もあるといわれている。
別の伝承では、牛の首に蜘蛛の胴体をしているともされる。海岸、山間部、森林、川や沼地、湖にも出没するという。
とくに淵に現われることが多いとされ、近畿地方や四国にはこの伝承が伝わる『牛鬼淵』『牛鬼滝』なる地名が残っているほどである。
性質は残忍、獰猛で、毒を吐き、老人や子供をさらい、食らい殺すと恐れられた。
この牛鬼による悪事はあまりにもひどく、島民の悩みの種であった。
それが嵩じて、多くの人々が家や畑を捨てて島外へ逃げ出すほどだった。
折しもそのころ、土佐の長宗我部家の家臣、橘諸兄の末裔に当たるという藤内図書橘道信と、
その弟、御旗三郎左衛門信重の2人が乗った船が時化にあい、漂流したのち牛島に流れ着いた。
ここはなんという島であろう。情報収集すべく道信たちが島を練り歩くものの、人家はあれども肝心の人影が見当たらない。
不思議に思い方々を探してみると、島の出らしい漁師たちと出会えた。
事情を聞くと、それもこれも牛鬼のしわざだと漁師たちは口をそろえて言う。
真相を知った道信たちは、すぐさま刀を差し、牛鬼征伐に向った。
ところが牛鬼は手ごわく、とても太刀打ちできそうにない。2人はひとまず本土の室積の浦へと撤退することにした。
地元の漁師に聞くところによれば、隣の三輪村に、城喜兵衛平朝臣高経とその弟の明兼という弓の名手が住んでいるとの情報をつかんだ。
道信たちは、さっそくその兄弟に会いに行き、弓の教えを乞うた。2人はめきめき上達し、名人の弓の技術を会得した。
十数日が経った。道信たちはふたたび牛島に渡り報復戦に望んだ。そして見事牛鬼を退治したのだった。
この牛鬼征伐の話は、今も橘道信の子孫に当たる牛島の藤内家、御旗信重の末裔だという小川家にそれぞれ記録として保存されており、
尊敬の対象だという。
牛鬼 wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%89%9B%E9%AC%B...
山口県光市牛島の牛鬼伝説
http://blog.goo.ne.jp/uchikonotemae/e/f4b11f9a73dec6...
山口県光市の沖に浮かぶ牛島には血沸き肉踊る『牛鬼伝説』が残されており、牛鬼を倒したとされる英雄の墓まで残されている。
天文年間(1532〜54)、戦国時代のことである。
牛島には牛鬼(うしおに、ぎゅうき)と呼ばれる恐ろしい妖怪が潜んでいた。
牛鬼とは、頭が牛、首から下は鬼の胴体を持つとも、あるいはその逆で、頭が鬼、胴体が牛の場合もあるといわれている。
別の伝承では、牛の首に蜘蛛の胴体をしているともされる。海岸、山間部、森林、川や沼地、湖にも出没するという。
とくに淵に現われることが多いとされ、近畿地方や四国にはこの伝承が伝わる『牛鬼淵』『牛鬼滝』なる地名が残っているほどである。
性質は残忍、獰猛で、毒を吐き、老人や子供をさらい、食らい殺すと恐れられた。
この牛鬼による悪事はあまりにもひどく、島民の悩みの種であった。
それが嵩じて、多くの人々が家や畑を捨てて島外へ逃げ出すほどだった。
折しもそのころ、土佐の長宗我部家の家臣、橘諸兄の末裔に当たるという藤内図書橘道信と、
その弟、御旗三郎左衛門信重の2人が乗った船が時化にあい、漂流したのち牛島に流れ着いた。
ここはなんという島であろう。情報収集すべく道信たちが島を練り歩くものの、人家はあれども肝心の人影が見当たらない。
不思議に思い方々を探してみると、島の出らしい漁師たちと出会えた。
事情を聞くと、それもこれも牛鬼のしわざだと漁師たちは口をそろえて言う。
真相を知った道信たちは、すぐさま刀を差し、牛鬼征伐に向った。
ところが牛鬼は手ごわく、とても太刀打ちできそうにない。2人はひとまず本土の室積の浦へと撤退することにした。
地元の漁師に聞くところによれば、隣の三輪村に、城喜兵衛平朝臣高経とその弟の明兼という弓の名手が住んでいるとの情報をつかんだ。
道信たちは、さっそくその兄弟に会いに行き、弓の教えを乞うた。2人はめきめき上達し、名人の弓の技術を会得した。
十数日が経った。道信たちはふたたび牛島に渡り報復戦に望んだ。そして見事牛鬼を退治したのだった。
この牛鬼征伐の話は、今も橘道信の子孫に当たる牛島の藤内家、御旗信重の末裔だという小川家にそれぞれ記録として保存されており、
尊敬の対象だという。
牛鬼 wikipedia
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山口県光市牛島の牛鬼伝説
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ハンセン病患者を隔離した島・2 長島
ハンセン病患者を隔離した島は>>44の香川県高松市の大島だけではない。岡山県瀬戸内市にある長島もそうだった。
長島もまたハンセン病の療養所として、日本の近現代史にその名を残している。
1930年、国立ハンセン病療養所、『長島愛生園(あいせいえん)』が開園して以来、1988年、島と本土とを結ぶ橋が架けられ陸続きになるまで、
終身隔離政策をとる日本のハンセン病政策の象徴であった。
1927年、日本初となる国立ハンセン病療養所である愛生園を同島に設置。
この際、村有地や民有地のほとんどが国に買収され、島民はいなくなる。収容人員400名を目標にして1930年に療養所が完成したが、
予定を超えて1943年には2000人以上が収容されていた。
また1938年には大阪府から公立らい療養所(外島保養院)が長島に移転。1941年に国に移管され国立療養所邑久光明園となっている。
こちらには最盛期で1000名の患者が収容されていた。
初代園長に就いた光田健輔(みつだけんすけ)氏の信念=ハンセン病患者の強制的な終身隔離政策を実現する施設として、離島である長島はうってつけであった。
以後、施設運営維持の名目のもと、患者に重労働を強制し、職員による虐待、堕胎、パイプカットの強要など違法な外科手術を施した。
慢性的な食糧不足、外部との連絡の制限など、戦中から戦後直後をピークに、この隔離島の中では社会に知られることもなく、
数々の人権侵害事件がくり返されていくことになる。
1996年のらい予防法改正によって患者の入所は義務ではなくなったが、長期間の隔離により出所は困難になっており、
2005年時点で計685名がいまだ入所しているという。
我々はこの悲劇を忘れてはならない。
ハンセン病と差別---「岡山県長島愛生園」
http://uemukai.air-nifty.com/blog/2010/05/----18a7.htm...
「海の壁」の物語 ハンセン病カヤック紀行(1)岡山長島・ハンセン病の島をめぐる
http://www.bfkayaks.com/hedatenoumi.htm...
国立療養所の名を借りた「収容所」
http://rg4.rg.med.kyoto-u.ac.jp/jdsn/data/hansen.htm...
心の壁を越えるために「ハンセン病問題」ノート
http://mauer.seesaa.net/category/16334101-1.htm...
ハンセン病患者を隔離した島は>>44の香川県高松市の大島だけではない。岡山県瀬戸内市にある長島もそうだった。
長島もまたハンセン病の療養所として、日本の近現代史にその名を残している。
1930年、国立ハンセン病療養所、『長島愛生園(あいせいえん)』が開園して以来、1988年、島と本土とを結ぶ橋が架けられ陸続きになるまで、
終身隔離政策をとる日本のハンセン病政策の象徴であった。
1927年、日本初となる国立ハンセン病療養所である愛生園を同島に設置。
この際、村有地や民有地のほとんどが国に買収され、島民はいなくなる。収容人員400名を目標にして1930年に療養所が完成したが、
予定を超えて1943年には2000人以上が収容されていた。
また1938年には大阪府から公立らい療養所(外島保養院)が長島に移転。1941年に国に移管され国立療養所邑久光明園となっている。
こちらには最盛期で1000名の患者が収容されていた。
初代園長に就いた光田健輔(みつだけんすけ)氏の信念=ハンセン病患者の強制的な終身隔離政策を実現する施設として、離島である長島はうってつけであった。
以後、施設運営維持の名目のもと、患者に重労働を強制し、職員による虐待、堕胎、パイプカットの強要など違法な外科手術を施した。
慢性的な食糧不足、外部との連絡の制限など、戦中から戦後直後をピークに、この隔離島の中では社会に知られることもなく、
数々の人権侵害事件がくり返されていくことになる。
1996年のらい予防法改正によって患者の入所は義務ではなくなったが、長期間の隔離により出所は困難になっており、
2005年時点で計685名がいまだ入所しているという。
我々はこの悲劇を忘れてはならない。
ハンセン病と差別---「岡山県長島愛生園」
http://uemukai.air-nifty.com/blog/2010/05/----18a7.htm...
「海の壁」の物語 ハンセン病カヤック紀行(1)岡山長島・ハンセン病の島をめぐる
http://www.bfkayaks.com/hedatenoumi.htm...
国立療養所の名を借りた「収容所」
http://rg4.rg.med.kyoto-u.ac.jp/jdsn/data/hansen.htm...
心の壁を越えるために「ハンセン病問題」ノート
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霧の摩周湖伝説 カムイシュ島
カルデラ状の火山である摩周湖のほぼ中央には、カムイシュ島(中島)という小島がある。
島は比高210mを越える溶岩ドームの頂上部分が湖面上に突出したもので、形状は丸く崖に囲まれている。
『カムイシュ』とはアイヌ語の『カムイ』、つまり神そのもの、または崇高な霊的存在と、『シュ』は老婆の意であるといわれ、
その名はアイヌの口承文学であるユーカラによりアイヌが名づけたものである。その伝説がこうだ。
昔、アイヌの一族はコタンという集落を作り、森で獲物を取って暮らしていた。
ところがあるときを境に、獲物がほとんど取れなくなり、獲物をめぐって別のコタンといさかいが起きるようになった。
ついに、あるイヨマンテ(熊祭)の夜、争いに発展。一方のコタンは敗れ、ほぼ絶滅される。
敗れたコタンの老婆とその孫トンクルは命からがら逃げるが、道中、孫がはぐれてしまう。
老婆はトンクルを探してさまようがどうしても見つからず、そうこうするうちに摩周湖までたどり着いた。
彼女は聖なる摩周岳に一夜の休息を請い、お許しをいただいた。
悲嘆のあまりクタクタになった老婆はそこにとどまり続けた。
来る日も来る日も孫を待ち侘び、ついにはカムイシュ島になってしまった。
今でも摩周湖に人が近付くと、老婆は孫が現われたと喜び、うれし涙を流すのだという。
この涙が雨であり霧であり吹雪なのだ。
摩周湖の夏景色
http://hokkaido.env.go.jp/blog/article.php?blog_id=12...
カルデラ状の火山である摩周湖のほぼ中央には、カムイシュ島(中島)という小島がある。
島は比高210mを越える溶岩ドームの頂上部分が湖面上に突出したもので、形状は丸く崖に囲まれている。
『カムイシュ』とはアイヌ語の『カムイ』、つまり神そのもの、または崇高な霊的存在と、『シュ』は老婆の意であるといわれ、
その名はアイヌの口承文学であるユーカラによりアイヌが名づけたものである。その伝説がこうだ。
昔、アイヌの一族はコタンという集落を作り、森で獲物を取って暮らしていた。
ところがあるときを境に、獲物がほとんど取れなくなり、獲物をめぐって別のコタンといさかいが起きるようになった。
ついに、あるイヨマンテ(熊祭)の夜、争いに発展。一方のコタンは敗れ、ほぼ絶滅される。
敗れたコタンの老婆とその孫トンクルは命からがら逃げるが、道中、孫がはぐれてしまう。
老婆はトンクルを探してさまようがどうしても見つからず、そうこうするうちに摩周湖までたどり着いた。
彼女は聖なる摩周岳に一夜の休息を請い、お許しをいただいた。
悲嘆のあまりクタクタになった老婆はそこにとどまり続けた。
来る日も来る日も孫を待ち侘び、ついにはカムイシュ島になってしまった。
今でも摩周湖に人が近付くと、老婆は孫が現われたと喜び、うれし涙を流すのだという。
この涙が雨であり霧であり吹雪なのだ。
摩周湖の夏景色
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人々が畏れる山羊神伝説 入砂島(いりすなしま)
かつて、唐の国から粟国島へはるばる船が渡ってきた時代があった。ところが島の南西端の筆ん崎(ふでぃんさき)に衝突。
岬の先が折れて流れそうになったので、天人(あーまんちゅ)が天扇(あままーおうじ)で煽ぎ、引き寄せようとした。
それでも漂流していくので、天人は粟国島とその流れ行く岩に足をかけて戻そうとしたのだが、
誤って海にはまり命を落としてしまった。このときの天扇の跡は今も筆ん崎の北側の崖に名残りをとどめているという。
漂流した岩は渡名喜島(となきじま)の真向かいにさしかかった。当時、渡名喜島には首里ぬ主という人物がおり、
「その島は、私のものだ!」と叫ぶと、岩はピタリとそこで止まり、今の入砂島になった。
時代は変わり、その入砂島では不思議なことが起きるようになる。
夜になると入砂の神を祀る中御嶽(なかうたき)から動物が駆け回る足音がするようになった。
ある人が島にタコやアオサを取りに行き一夜を明かし、翌朝、中御嶽の周辺を見ると山羊の足跡が残っているではないか。
それで人々は噂するようになる。入砂島には山羊の姿をした神がいるのだろうと。
だから島では山羊の話をするのはタブーであり、豚や牛は飼えても山羊だけは飼えずにいた。
入砂島は神がいる島なので潮干狩りに行ったら、「神様の島に来ました。無事に潮干狩りをさせて下さい」と、
合掌してから上陸しなければならない。また乱暴な言葉を使ったり、大声を出すのは同様に禁忌とされる。
あるとき追い込み漁で大漁になったので、舞い上がった漁師が「バンザイ!」と叫んだ途端、
舟が引っくり返り、せっかくの収穫がすべて海に流されてしまった逸話が残るという。
入砂島は那覇市の北西約60km、久米島、慶良間諸島、粟国島のほぼ中間に位置し、渡名喜島とともに渡名喜村に属する。
不思議な山羊神の伝説により人々に畏怖される入砂島だが、実は戦後から現在に至るまで米軍の射爆撃の演習地として使用されているのだ。
開放日以外、一般的には立ち入り禁止の島になっている。
エコカーで巡る渡名喜島の旅
http://omoidenotabi.blog41.fc2.com/blog-entry-365.htm...
渡名喜島(となきじま)
http://imagic.qee.jp/sima4/okinawa/tonakijima.htm...
かつて、唐の国から粟国島へはるばる船が渡ってきた時代があった。ところが島の南西端の筆ん崎(ふでぃんさき)に衝突。
岬の先が折れて流れそうになったので、天人(あーまんちゅ)が天扇(あままーおうじ)で煽ぎ、引き寄せようとした。
それでも漂流していくので、天人は粟国島とその流れ行く岩に足をかけて戻そうとしたのだが、
誤って海にはまり命を落としてしまった。このときの天扇の跡は今も筆ん崎の北側の崖に名残りをとどめているという。
漂流した岩は渡名喜島(となきじま)の真向かいにさしかかった。当時、渡名喜島には首里ぬ主という人物がおり、
「その島は、私のものだ!」と叫ぶと、岩はピタリとそこで止まり、今の入砂島になった。
時代は変わり、その入砂島では不思議なことが起きるようになる。
夜になると入砂の神を祀る中御嶽(なかうたき)から動物が駆け回る足音がするようになった。
ある人が島にタコやアオサを取りに行き一夜を明かし、翌朝、中御嶽の周辺を見ると山羊の足跡が残っているではないか。
それで人々は噂するようになる。入砂島には山羊の姿をした神がいるのだろうと。
だから島では山羊の話をするのはタブーであり、豚や牛は飼えても山羊だけは飼えずにいた。
入砂島は神がいる島なので潮干狩りに行ったら、「神様の島に来ました。無事に潮干狩りをさせて下さい」と、
合掌してから上陸しなければならない。また乱暴な言葉を使ったり、大声を出すのは同様に禁忌とされる。
あるとき追い込み漁で大漁になったので、舞い上がった漁師が「バンザイ!」と叫んだ途端、
舟が引っくり返り、せっかくの収穫がすべて海に流されてしまった逸話が残るという。
入砂島は那覇市の北西約60km、久米島、慶良間諸島、粟国島のほぼ中間に位置し、渡名喜島とともに渡名喜村に属する。
不思議な山羊神の伝説により人々に畏怖される入砂島だが、実は戦後から現在に至るまで米軍の射爆撃の演習地として使用されているのだ。
開放日以外、一般的には立ち入り禁止の島になっている。
エコカーで巡る渡名喜島の旅
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渡名喜島(となきじま)
http://imagic.qee.jp/sima4/okinawa/tonakijima.htm...
東京湾要塞計画の遺物 海堡(かいほう)
言うまでもなく、東京湾は首都、東京につながる重要な海の玄関口である。
明治のころより、イギリスやアメリカなど欧米列強国が勢力を拡大するためにアフリカやアジアの小国を次々と侵略。
明治政府もその脅威を重く受け止めていた。
幕末に列強国から開国を迫られて明治維新が起こり、以来、近代国家をめざしていた明治政府としては、
なんとしても我が国を侵略から守るために手段を講じる必要があった。そこで立案されたプランが東京湾の海堡建設だった。
東京湾は浦賀水道に抜ける手前に狭まった海域がある。房総半島の藤津岬と三浦半島の観音崎を結ぶラインである。
明治政府は帝都を守るべく、ここに東京湾要塞計画を打ち立てることにしたのだ。
当初は大砲の射程距離を鑑みて2.5kmおきに3つの海堡を建設する予定だった。
まず着手したのは富津岬沖の第一海堡の建設。着工は明治14(1881)年、竣工は明治24(1890)年。
9年の工期を経て、面積23100㎡の海堡が水深5mの地点に設置されたわけだ。
第二海堡は、第一海堡が竣工する1年前の明治22(1889)年に着工し、その3年後の明治25(1892)年には第三海堡の建設も同時に進行。
ところが第二、第三の海堡の建設は難航する。とくに水深39m地点に建設しようとした第三海堡は襲いくる高波が最大の敵で、
さらに水深の深さと潮の流れの激しさに至難を極めた。
積み上げた石の上にコンクリで造られた堤防は、たび重なる高波で幾度となく破壊され、竣工までになんと29年も費やしてしまう。
当時、埋め立て造成費だけで約250万円(現在の金額に換算すると約140億円に相当)もの巨費を投じることになってしまったのだ。
完成した第三海堡は面積34000㎡、砲台と兵舎や地下室などの兵備が設けられたが、せっかくの機能はほとんど利用されることなく、
2年後に起きた関東大震災で島全体が崩落し、施設の3分の1が水没してしまう憂き目にあう。
第二海堡も例外ではなく、崩れ落ちたレンガの建造物が今もそのまま放置されている。
現在、第一、第二海堡は国の管理下にあるため立ち入り禁止になっており、その洋上要塞の遺物は遠巻きにしか見学することができない。
第三海堡に至っては、浦賀水道を航行する船の妨げになるため、2007年に撤去された。
東京湾海堡
http://www.geocities.jp/kamosuzu/kaiho.htm...
東京湾海堡ファンクラブ
http://kaihoufc.com/
旧日本軍の洋上要塞「第二海堡」に行ってきた。
http://kengaku.exblog.jp/115875...
言うまでもなく、東京湾は首都、東京につながる重要な海の玄関口である。
明治のころより、イギリスやアメリカなど欧米列強国が勢力を拡大するためにアフリカやアジアの小国を次々と侵略。
明治政府もその脅威を重く受け止めていた。
幕末に列強国から開国を迫られて明治維新が起こり、以来、近代国家をめざしていた明治政府としては、
なんとしても我が国を侵略から守るために手段を講じる必要があった。そこで立案されたプランが東京湾の海堡建設だった。
東京湾は浦賀水道に抜ける手前に狭まった海域がある。房総半島の藤津岬と三浦半島の観音崎を結ぶラインである。
明治政府は帝都を守るべく、ここに東京湾要塞計画を打ち立てることにしたのだ。
当初は大砲の射程距離を鑑みて2.5kmおきに3つの海堡を建設する予定だった。
まず着手したのは富津岬沖の第一海堡の建設。着工は明治14(1881)年、竣工は明治24(1890)年。
9年の工期を経て、面積23100㎡の海堡が水深5mの地点に設置されたわけだ。
第二海堡は、第一海堡が竣工する1年前の明治22(1889)年に着工し、その3年後の明治25(1892)年には第三海堡の建設も同時に進行。
ところが第二、第三の海堡の建設は難航する。とくに水深39m地点に建設しようとした第三海堡は襲いくる高波が最大の敵で、
さらに水深の深さと潮の流れの激しさに至難を極めた。
積み上げた石の上にコンクリで造られた堤防は、たび重なる高波で幾度となく破壊され、竣工までになんと29年も費やしてしまう。
当時、埋め立て造成費だけで約250万円(現在の金額に換算すると約140億円に相当)もの巨費を投じることになってしまったのだ。
完成した第三海堡は面積34000㎡、砲台と兵舎や地下室などの兵備が設けられたが、せっかくの機能はほとんど利用されることなく、
2年後に起きた関東大震災で島全体が崩落し、施設の3分の1が水没してしまう憂き目にあう。
第二海堡も例外ではなく、崩れ落ちたレンガの建造物が今もそのまま放置されている。
現在、第一、第二海堡は国の管理下にあるため立ち入り禁止になっており、その洋上要塞の遺物は遠巻きにしか見学することができない。
第三海堡に至っては、浦賀水道を航行する船の妨げになるため、2007年に撤去された。
東京湾海堡
http://www.geocities.jp/kamosuzu/kaiho.htm...
東京湾海堡ファンクラブ
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旧日本軍の洋上要塞「第二海堡」に行ってきた。
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弁天様がお上に変わっておしおき 江ノ島
鹿児島垂水市は桜島が間近に迫り、大隅半島に位置する漁業と養殖が盛んな港町だ。そんな市にも『江ノ島』がある。
おかしなもので江ノ島とくれば弁財天がつきものである。この島にも弁財天にまつわる不思議な話が語り継がれている。
かつて薩摩では、鱶九郎(ふかくろう)という人さらいが悪さを働いていた。
人さらいたちの居所は不明で、四国の宇和島とも、瀬戸内海の因島とも言われていた。
薩摩はたばこの名産地で、たばこ畑が広がっていた。たばこは大人の背丈よりも高く茂り、鱶九郎とその一味は畑の中で待ち伏せしては、
次々と若い娘をさらうことに成功していた。娘はあちこちの港で売り飛ばされた。いずれ女郎屋行きになるのだろう。
ある日のこと。鱶九郎は上機嫌であった。その日はなにせ12人もの娘をさらってきたのだから。
夜更けになると娘たちを舟に乗せ、港を後にした。
ところが舟が瀬戸海峡を通り抜けようとしたころ、霧が立ち込めはじめた。霧は濃くなるばかりで、方向感覚を失う始末。舟は立ち往生した。
そのときだった。「もし……そこの舟、どこへ行くのですか?」と声がする。
鱶九郎がまわりを見回すと、いつの間にか舳先に娘が立っているではないか。
さらってきた12人の娘のうちの1人ではあるまい。現に12人はひと塊になり、これからの行く末を案じて打ち震えているのだ。
謎の娘は言う。「私はこのあたりの浜育ちです。この海域のことなら目隠しされていても、手に取るようにわかりますよ。
無事に通りたくば、私の言うとおりに進みなさい」と言うものだから、鱶九郎は不審に思いながらも信じることにし、
娘の示す進路方向に舵を取りながら舟を進ませた。
しばらく漕いでいると、娘が言った。「このあたりは岩礁が多いので注意してください」
たしかにあたり一面、小さな岩礁が海面から突き出しており、娘の指し示す方向に進路を変えながらの航行は神経をすり減らす思いだった。
舟はどうにか難所をやりすごした。
「やれやれ、これは骨が折れるわ。ここいらで一息いれよう」鱶九郎が提案すると、舳先の娘はくるりと向き直り、
「では、そこの島に舟を着けましょう。休憩するにはもってこいですわよ」と、指差した。
見れば、霧をすかして目前に小島が迫ってくる。
「ここは弁天の島。島の神様が、きっとお守りしてくれるはずです。それに間もなく霧も晴れましょう。私は先に島の様子を見てまいります」
娘はそう言うと浜に下り、山の中腹へと消えていった。やがて霧も薄れてきた。
すると、6艘の船が包囲する形で、島に向かってくるのに鱶九郎は気づいた。どの船にも、弓矢を引きしぼった役人たちが舳先に立っていた。
「なんでおれたちの所在がわかったんだ?」鱶九郎たちは慌てて舟を漕ぎ出したが、逃げるには遅すぎた。ついに役人のお縄にかかってしまった。
さらわれた娘たちが、島まで先導して消えた娘のことを役人に話すと、役人も、「私どもに人さらいのことを知らせに来たのも娘だった」と言う。
謎の娘の素性を調べるため、手分けして小島を調べていると小さな社が見つかった。
扉を開けてみると、あの娘にそっくりな顔立ちの弁財天の像が祀られていたのだった。
きっと人さらいに捕まった娘たちを不憫に思った弁財天様が助けてくれたに違いあるまい。
それからというもの、薩摩に平和が訪れた。もう人さらいに怯えることもなくなった。
弁財天が祀られているこの島こそ、海潟温泉の目の前にある江ノ島だという。
江ノ島弁財天の話 垂水市
http://kagosimalegend.seesaa.net/category/14103066-1.htm...
鹿児島垂水市は桜島が間近に迫り、大隅半島に位置する漁業と養殖が盛んな港町だ。そんな市にも『江ノ島』がある。
おかしなもので江ノ島とくれば弁財天がつきものである。この島にも弁財天にまつわる不思議な話が語り継がれている。
かつて薩摩では、鱶九郎(ふかくろう)という人さらいが悪さを働いていた。
人さらいたちの居所は不明で、四国の宇和島とも、瀬戸内海の因島とも言われていた。
薩摩はたばこの名産地で、たばこ畑が広がっていた。たばこは大人の背丈よりも高く茂り、鱶九郎とその一味は畑の中で待ち伏せしては、
次々と若い娘をさらうことに成功していた。娘はあちこちの港で売り飛ばされた。いずれ女郎屋行きになるのだろう。
ある日のこと。鱶九郎は上機嫌であった。その日はなにせ12人もの娘をさらってきたのだから。
夜更けになると娘たちを舟に乗せ、港を後にした。
ところが舟が瀬戸海峡を通り抜けようとしたころ、霧が立ち込めはじめた。霧は濃くなるばかりで、方向感覚を失う始末。舟は立ち往生した。
そのときだった。「もし……そこの舟、どこへ行くのですか?」と声がする。
鱶九郎がまわりを見回すと、いつの間にか舳先に娘が立っているではないか。
さらってきた12人の娘のうちの1人ではあるまい。現に12人はひと塊になり、これからの行く末を案じて打ち震えているのだ。
謎の娘は言う。「私はこのあたりの浜育ちです。この海域のことなら目隠しされていても、手に取るようにわかりますよ。
無事に通りたくば、私の言うとおりに進みなさい」と言うものだから、鱶九郎は不審に思いながらも信じることにし、
娘の示す進路方向に舵を取りながら舟を進ませた。
しばらく漕いでいると、娘が言った。「このあたりは岩礁が多いので注意してください」
たしかにあたり一面、小さな岩礁が海面から突き出しており、娘の指し示す方向に進路を変えながらの航行は神経をすり減らす思いだった。
舟はどうにか難所をやりすごした。
「やれやれ、これは骨が折れるわ。ここいらで一息いれよう」鱶九郎が提案すると、舳先の娘はくるりと向き直り、
「では、そこの島に舟を着けましょう。休憩するにはもってこいですわよ」と、指差した。
見れば、霧をすかして目前に小島が迫ってくる。
「ここは弁天の島。島の神様が、きっとお守りしてくれるはずです。それに間もなく霧も晴れましょう。私は先に島の様子を見てまいります」
娘はそう言うと浜に下り、山の中腹へと消えていった。やがて霧も薄れてきた。
すると、6艘の船が包囲する形で、島に向かってくるのに鱶九郎は気づいた。どの船にも、弓矢を引きしぼった役人たちが舳先に立っていた。
「なんでおれたちの所在がわかったんだ?」鱶九郎たちは慌てて舟を漕ぎ出したが、逃げるには遅すぎた。ついに役人のお縄にかかってしまった。
さらわれた娘たちが、島まで先導して消えた娘のことを役人に話すと、役人も、「私どもに人さらいのことを知らせに来たのも娘だった」と言う。
謎の娘の素性を調べるため、手分けして小島を調べていると小さな社が見つかった。
扉を開けてみると、あの娘にそっくりな顔立ちの弁財天の像が祀られていたのだった。
きっと人さらいに捕まった娘たちを不憫に思った弁財天様が助けてくれたに違いあるまい。
それからというもの、薩摩に平和が訪れた。もう人さらいに怯えることもなくなった。
弁財天が祀られているこの島こそ、海潟温泉の目の前にある江ノ島だという。
江ノ島弁財天の話 垂水市
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日ごろの善行にお地蔵さんは応えてくれた 沖家室島(おきかむろじま)
山口県大島郡周防大島町に属する防予諸島の島の1つに沖家室島がある。
面積はたった0.95km²ながら、かつては3000人もの人がひしめいていた。ところが時流の波に逆らえるはずもなく、
今では200人ほどしか住んでいない高齢化率が日本最高水準の小島である。
沖家室島には泊清寺のかたわらに『鱶(ふか)地蔵堂』があり、海の守り神として信仰され、彼岸にはご開帳と祭りが催される。
その鱶地蔵堂にまつわる言い伝えがこうだ。
かつて沖家室島には善右衛門という漁師がいた。泊清寺の地蔵にお参りをかかさない心優しい男だった。
善右衛門には妻がいたのだが、その実、妻は他に男がおり、いつか夫を殺害してやろうと機会を狙っていたのだ。
ある日、妻が沖の『千貝の瀬』へ潮干狩りに行こうと善右衛門に持ちかけた。
その瀬は満潮になると海中に沈んでしまう危険な場所ではあったが、妻の頼みを無下にすることもできず舟を出すことにした。
善右衛門が貝採りに集中している間を見計らって、妻は舟を漕いで瀬から遠ざかり、夫を置き去りにしてしまった。
日は沈み、刻一刻と潮が満ちてくる。泳ぎ渡ろうにも島までは遠すぎた。
善右衛門は腹をくくった。泊清寺に祀られた地蔵の名を唱えながら死のうと思ったのである。
迫りくる潮に身をひたしながら、「南無地蔵大菩薩……」と念仏を唱えていると、なんと目の前に1匹の鱶が現われたではないか。
鱶は黒い眼で善右衛門を見つめ、まるで自分の背に乗れと言わんばかりにおとなしくしている。
善右衛門とて生に未練がある。おずおずとその背中にまたがり奇跡を信じた。途端に鱶は泳ぎ出した。
しかし、鱶はあんまり速く泳ぐものだから背びれにつかまっていた手が滑った。
慌ててつかみなおそうとしたら、手に持っていた小刀で鱶の背中を刺してしまった。
悪いことをしたと思い引き抜こうとしたものの、鱶は痛がるそぶりも見せず泳ぐのをやめない。
そのうち鱶は無事に島まで届けてくれた。善右衛門をおろすと鱶は小刀を刺したまま海の彼方へと消えていった。
次の朝、泊清寺へ足を運んだ善右衛門は驚いた。地蔵の背中に小刀が刺さっていたからだ。
善右衛門は涙を流して地蔵に感謝した。
鱶になった地蔵さん 〜山口県沖家室島〜
http://www.kyosuiren.or.jp/html/page01411.htm...
山口県大島郡周防大島町に属する防予諸島の島の1つに沖家室島がある。
面積はたった0.95km²ながら、かつては3000人もの人がひしめいていた。ところが時流の波に逆らえるはずもなく、
今では200人ほどしか住んでいない高齢化率が日本最高水準の小島である。
沖家室島には泊清寺のかたわらに『鱶(ふか)地蔵堂』があり、海の守り神として信仰され、彼岸にはご開帳と祭りが催される。
その鱶地蔵堂にまつわる言い伝えがこうだ。
かつて沖家室島には善右衛門という漁師がいた。泊清寺の地蔵にお参りをかかさない心優しい男だった。
善右衛門には妻がいたのだが、その実、妻は他に男がおり、いつか夫を殺害してやろうと機会を狙っていたのだ。
ある日、妻が沖の『千貝の瀬』へ潮干狩りに行こうと善右衛門に持ちかけた。
その瀬は満潮になると海中に沈んでしまう危険な場所ではあったが、妻の頼みを無下にすることもできず舟を出すことにした。
善右衛門が貝採りに集中している間を見計らって、妻は舟を漕いで瀬から遠ざかり、夫を置き去りにしてしまった。
日は沈み、刻一刻と潮が満ちてくる。泳ぎ渡ろうにも島までは遠すぎた。
善右衛門は腹をくくった。泊清寺に祀られた地蔵の名を唱えながら死のうと思ったのである。
迫りくる潮に身をひたしながら、「南無地蔵大菩薩……」と念仏を唱えていると、なんと目の前に1匹の鱶が現われたではないか。
鱶は黒い眼で善右衛門を見つめ、まるで自分の背に乗れと言わんばかりにおとなしくしている。
善右衛門とて生に未練がある。おずおずとその背中にまたがり奇跡を信じた。途端に鱶は泳ぎ出した。
しかし、鱶はあんまり速く泳ぐものだから背びれにつかまっていた手が滑った。
慌ててつかみなおそうとしたら、手に持っていた小刀で鱶の背中を刺してしまった。
悪いことをしたと思い引き抜こうとしたものの、鱶は痛がるそぶりも見せず泳ぐのをやめない。
そのうち鱶は無事に島まで届けてくれた。善右衛門をおろすと鱶は小刀を刺したまま海の彼方へと消えていった。
次の朝、泊清寺へ足を運んだ善右衛門は驚いた。地蔵の背中に小刀が刺さっていたからだ。
善右衛門は涙を流して地蔵に感謝した。
鱶になった地蔵さん 〜山口県沖家室島〜
http://www.kyosuiren.or.jp/html/page01411.htm...
犬飼村の猿神退治
久しぶりに村ネタすっか。
その昔、沢村(現在の姫路市香寺町犬飼)では、年に1度の氏神祭りに、神への供物と称して人身御供を捧げる悪しき風習があった。
ある年ついに、堤佐助(つつみさすけ)の1人娘に順番がめぐってきてしまう。まだ13歳の子だ。
「いくら氏神様のためとはいえ、我が子を生贄にするなんてできようか……」と、佐助は苦しみ悩んでいた。
そんな折、佐助宅へ伊勢神宮の教えを布教するために、芝左太夫(しばさだゆう)という男が、艶やかな毛並みをした犬を従えて訪ねてきた。
佐助はすがる思いで左太夫に事情を話した。
「人身御供とは野蛮なことを。ならば私が娘の身代わりとなり、氏神の前に行って事の真相をしっかと見届けよう」
左太夫は愛犬を伴い氏神の社へ向かい、社殿の戸を閉めて、中で待ち伏せすることにした。
すると、夜半すぎに突如戸が開け放たれた。
目の前に現われたのは、身の丈、人の背よりも巨体を誇る大猿……狒々(ヒヒ)だった。
狒々は左太夫に食ってかかってきた。
その瞬感、左太夫の愛犬が電光石火の反応を見せ、狒々に飛びかかった。そのまま格闘に持ち込んだ。
愛犬は強かった。ついに狒々を組み伏せ、のど笛に噛み付いてとどめを刺そうとしたとき、狒々はタヌキへと姿を変え、
脱兎のごとく山へと逃げていった。
氏神の正体を知った村人は考えなおし、以来、この村では人身御供の風習はなくなった。
また左太夫が伝えた伊勢の神を氏神として祀ることにした。
さらに村の名前も、沢村をあらため、犬飼村と呼ぶようになったという。
ひょうご伝説紀行−妖怪・自然の世界−
http://www.hyogo-c.ed.jp/‾rekihaku-bo/historystation/legend3/html/011/011.html
久しぶりに村ネタすっか。
その昔、沢村(現在の姫路市香寺町犬飼)では、年に1度の氏神祭りに、神への供物と称して人身御供を捧げる悪しき風習があった。
ある年ついに、堤佐助(つつみさすけ)の1人娘に順番がめぐってきてしまう。まだ13歳の子だ。
「いくら氏神様のためとはいえ、我が子を生贄にするなんてできようか……」と、佐助は苦しみ悩んでいた。
そんな折、佐助宅へ伊勢神宮の教えを布教するために、芝左太夫(しばさだゆう)という男が、艶やかな毛並みをした犬を従えて訪ねてきた。
佐助はすがる思いで左太夫に事情を話した。
「人身御供とは野蛮なことを。ならば私が娘の身代わりとなり、氏神の前に行って事の真相をしっかと見届けよう」
左太夫は愛犬を伴い氏神の社へ向かい、社殿の戸を閉めて、中で待ち伏せすることにした。
すると、夜半すぎに突如戸が開け放たれた。
目の前に現われたのは、身の丈、人の背よりも巨体を誇る大猿……狒々(ヒヒ)だった。
狒々は左太夫に食ってかかってきた。
その瞬感、左太夫の愛犬が電光石火の反応を見せ、狒々に飛びかかった。そのまま格闘に持ち込んだ。
愛犬は強かった。ついに狒々を組み伏せ、のど笛に噛み付いてとどめを刺そうとしたとき、狒々はタヌキへと姿を変え、
脱兎のごとく山へと逃げていった。
氏神の正体を知った村人は考えなおし、以来、この村では人身御供の風習はなくなった。
また左太夫が伝えた伊勢の神を氏神として祀ることにした。
さらに村の名前も、沢村をあらため、犬飼村と呼ぶようになったという。
ひょうご伝説紀行−妖怪・自然の世界−
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