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続・怖い島・いわくつきの村
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全国に散らばる、おっかない伝承伝説が伝わる離島専用スレッド第2弾です(若干ながら村ネタもあり)。
もちろん島の奇祭や神秘の風習、島のみならずワケあり岩礁や奇岩なども含み、いかがわしいオカルトにとどまらず、
れっきとした民俗学としての側面を持ち合わせています。島ネタに関して異常に特化したソレを目指すつもりです。
……前スレが500レスに達する前に続編を立てた理由は、サイズが500KBを超過してしまい書き込めなくなったためです。
せっかく満杯になるまで文字で埋め尽くし、有終の美を飾ろうとしたのにカウンターストップとは……。いささか文章がボリューミーすぎたかも。
まあ、めげずにご要望に応え、続・怖い島と行きましょう。
ちなみに……スレ自体を保存し、あとで読む方法をお教えします。
書き込みできなくなったスレは後ろへ流れてしまい、新スレが立ち上がるたび、古いものから消えてしまいます。
そうなる前に貴重なスレは永久保存しておきましょう。前スレはネット世界は広しといえど、近年類を見ない極上の資料スレですぞ。
以下は、その手順。
任意のスレ内の適当な空白で右クリック→プロパティ→アドレスをコピー→画面上部のアドレス直接入力枠にペースト→そのアドレスへ飛ぶ→
このスレが表示される→ファイル→名前を付けて保存。
※スレ画は前スレ>>188で紹介した、愛知県蒲郡市、三河大島にある仏島(島というより岩礁だが)。
癒されたい僕のブログ カヤック編 三河大島へ
http://blog.livedoor.jp/usa_usao5/archives/1697874.htm...
もちろん島の奇祭や神秘の風習、島のみならずワケあり岩礁や奇岩なども含み、いかがわしいオカルトにとどまらず、
れっきとした民俗学としての側面を持ち合わせています。島ネタに関して異常に特化したソレを目指すつもりです。
……前スレが500レスに達する前に続編を立てた理由は、サイズが500KBを超過してしまい書き込めなくなったためです。
せっかく満杯になるまで文字で埋め尽くし、有終の美を飾ろうとしたのにカウンターストップとは……。いささか文章がボリューミーすぎたかも。
まあ、めげずにご要望に応え、続・怖い島と行きましょう。
ちなみに……スレ自体を保存し、あとで読む方法をお教えします。
書き込みできなくなったスレは後ろへ流れてしまい、新スレが立ち上がるたび、古いものから消えてしまいます。
そうなる前に貴重なスレは永久保存しておきましょう。前スレはネット世界は広しといえど、近年類を見ない極上の資料スレですぞ。
以下は、その手順。
任意のスレ内の適当な空白で右クリック→プロパティ→アドレスをコピー→画面上部のアドレス直接入力枠にペースト→そのアドレスへ飛ぶ→
このスレが表示される→ファイル→名前を付けて保存。
※スレ画は前スレ>>188で紹介した、愛知県蒲郡市、三河大島にある仏島(島というより岩礁だが)。
癒されたい僕のブログ カヤック編 三河大島へ
http://blog.livedoor.jp/usa_usao5/archives/1697874.htm...
13代続く島守だけが住んでいた島 妻ヶ島
長崎県の壱岐島にある石田町印通寺港の南、約500mにある島を妻ヶ島という。
この島は前スレ、>>62で紹介した平野仁右衛門一家だけが住む仁右衛門島と同じく、1世帯だけの『島守』のみが住む島だ。
住人である百崎(ももざき)さんは江戸時代から数えて13代目。聞くところによると、松浦の殿様の側室付き人の血脈だとか。
百崎夫婦はおしどり夫婦として名が知られ、かつては島の暮らしぶりを描いた著書も出版された。島では牛を飼い、自給自足の生活をしていたとのこと。
もっともその百崎夫婦も高齢になられ、平成14年になって壱岐本島に転居しており、現在、妻ヶ島は無人となってしまったそうだ。
また島には百崎さんの生家と厩舎だけでなく、衣通姫(そとおりひめ)神社もある。祀られている神、衣通姫とはなんであろうか? ウィキにはこうある。
記紀(古事記と日本書紀との総称)では絶世の美女と伝承される人物で、あまりにも美しさで衣を通して輝くことからこの名がある。
本朝三美人の1人とも称される。
古事記と日本書紀では衣通姫の設定が異なる。古事記には、允恭天皇(いんぎょうてんのう・在位412〜453年)皇女であり、
同母兄である軽太子(かるのひつぎのみこ)との兄妹による許されざる恋に落ちる。それが原因で天皇崩御のあと、軽太子は群臣に背かれて失脚。
伊予へ流刑となるが、衣通姫もそれを追い、再会した2人は心中する。これを衣通姫伝説として伝えている。
また日本書紀においては、允恭天皇の皇后忍坂大中姫(おしさかのおおなかつのひめ)の妹・弟姫(おとひめ)とされ、允恭天皇に寵愛された妃として描かれる。
近江坂田から迎えられ入内し、藤原宮(奈良県橿原市)に住んだが、皇后の嫉妬を理由に河内の茅渟宮(ちぬのみや、大阪府泉佐野市)へ移り住み、
天皇は遊猟にかこつけて衣通郎姫の許に通い続ける。皇后がこれをいさめ諭すと、以後の行幸は稀になったという。
いずれにせよ、島の歴史や生誕につきものの女の悲劇がここにも見受けられる。しかも衣通姫のソレは、あまりの美人がゆえの受難であった。
なぜこうも女の悲劇譚が多いのか、近いうち言及するつもりだ。
余談だが、嫁ヶ島は2010年にテレビ番組の企画で話題となった。
テレビ朝日系の、『いきなり!黄金伝説。』の中の企画、よゐこ・濱口の「獲ったどー!」で有名な『無人島0円生活』で舞台となったことがあるのだ。
百崎夫人自らが濱口あてに手紙を送り、そこから実現した。文面には妻ヶ島での生活を懐かしく思い、もう一度島のおいしいお米や野菜を食べられるようにして
欲しいと綴られており、その切なる願いが通じたようだ。
文明の利器が普及しておらず、いくら生活に支障をきたすほど不便でも、長年住み慣れた土地は離れ難いものだ。
島守であった人の心にはいつまでも『島』が浮かび、『島』こそ全世界だったにちがいない。
小さな『島』であったけれど、百崎さん夫婦にとって世界は広かったはずだ。伝統を守り続けたことを誇りに持って欲しい。
司馬遼太郎が見た壱岐の風景 唐人神
http://mtv17.ninpou.jp/iki2/kaidou/kaidou.htm...
印通寺散策
http://www.ikishi.sakura.ne.jp/intuuzi.htm...
衣通姫伝説wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A1%A3%E9%80%9A%E5%A7%...
ザ・テレビジョン 「黄金伝説」がついに無人島の開拓に成功!? 濱口優が「今までにない伝説になった」と自信
http://news.thetv.jp/article/18290...
長崎県の壱岐島にある石田町印通寺港の南、約500mにある島を妻ヶ島という。
この島は前スレ、>>62で紹介した平野仁右衛門一家だけが住む仁右衛門島と同じく、1世帯だけの『島守』のみが住む島だ。
住人である百崎(ももざき)さんは江戸時代から数えて13代目。聞くところによると、松浦の殿様の側室付き人の血脈だとか。
百崎夫婦はおしどり夫婦として名が知られ、かつては島の暮らしぶりを描いた著書も出版された。島では牛を飼い、自給自足の生活をしていたとのこと。
もっともその百崎夫婦も高齢になられ、平成14年になって壱岐本島に転居しており、現在、妻ヶ島は無人となってしまったそうだ。
また島には百崎さんの生家と厩舎だけでなく、衣通姫(そとおりひめ)神社もある。祀られている神、衣通姫とはなんであろうか? ウィキにはこうある。
記紀(古事記と日本書紀との総称)では絶世の美女と伝承される人物で、あまりにも美しさで衣を通して輝くことからこの名がある。
本朝三美人の1人とも称される。
古事記と日本書紀では衣通姫の設定が異なる。古事記には、允恭天皇(いんぎょうてんのう・在位412〜453年)皇女であり、
同母兄である軽太子(かるのひつぎのみこ)との兄妹による許されざる恋に落ちる。それが原因で天皇崩御のあと、軽太子は群臣に背かれて失脚。
伊予へ流刑となるが、衣通姫もそれを追い、再会した2人は心中する。これを衣通姫伝説として伝えている。
また日本書紀においては、允恭天皇の皇后忍坂大中姫(おしさかのおおなかつのひめ)の妹・弟姫(おとひめ)とされ、允恭天皇に寵愛された妃として描かれる。
近江坂田から迎えられ入内し、藤原宮(奈良県橿原市)に住んだが、皇后の嫉妬を理由に河内の茅渟宮(ちぬのみや、大阪府泉佐野市)へ移り住み、
天皇は遊猟にかこつけて衣通郎姫の許に通い続ける。皇后がこれをいさめ諭すと、以後の行幸は稀になったという。
いずれにせよ、島の歴史や生誕につきものの女の悲劇がここにも見受けられる。しかも衣通姫のソレは、あまりの美人がゆえの受難であった。
なぜこうも女の悲劇譚が多いのか、近いうち言及するつもりだ。
余談だが、嫁ヶ島は2010年にテレビ番組の企画で話題となった。
テレビ朝日系の、『いきなり!黄金伝説。』の中の企画、よゐこ・濱口の「獲ったどー!」で有名な『無人島0円生活』で舞台となったことがあるのだ。
百崎夫人自らが濱口あてに手紙を送り、そこから実現した。文面には妻ヶ島での生活を懐かしく思い、もう一度島のおいしいお米や野菜を食べられるようにして
欲しいと綴られており、その切なる願いが通じたようだ。
文明の利器が普及しておらず、いくら生活に支障をきたすほど不便でも、長年住み慣れた土地は離れ難いものだ。
島守であった人の心にはいつまでも『島』が浮かび、『島』こそ全世界だったにちがいない。
小さな『島』であったけれど、百崎さん夫婦にとって世界は広かったはずだ。伝統を守り続けたことを誇りに持って欲しい。
司馬遼太郎が見た壱岐の風景 唐人神
http://mtv17.ninpou.jp/iki2/kaidou/kaidou.htm...
印通寺散策
http://www.ikishi.sakura.ne.jp/intuuzi.htm...
衣通姫伝説wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A1%A3%E9%80%9A%E5%A7%...
ザ・テレビジョン 「黄金伝説」がついに無人島の開拓に成功!? 濱口優が「今までにない伝説になった」と自信
http://news.thetv.jp/article/18290...
7月11日にしか上陸できない秘境島 小築海島(こづくみじま)
三重の鳥羽湾、および県内ではもっとも大きい島である答志島から、さらに北上したところには小築海島という無人島がある。
周辺は禁漁区に指定されており、普段は人が立ち入ることができない。
小築海島は古くから秘境の島と呼ばれていた。島には神社があり、祠や石の祭壇が祀られており、毎年祭りが催される。
7月11日だけ地元の漁師だけが島に上がることが許されるという。そして答志島の八幡神社に供えるアワビを漁協青年部が採らねばならない。
代わりに小築海島から答志島へ桑やススキの葉を持ち帰り、八幡神社に採ったアワビを奉納し、海上安全と大漁祈願をする。
また小築海島の近くには洞窟があり、その洞窟は『9人ぼうら』と呼ばれている。名称は遭難者9人がこの洞窟で発見されたからだそうだ。
Archive.is - webpage capture 答志島海岸線調査
http://archive.is/vYKD...
海女のまつり
http://www.city.toba.mie.jp/kikaku/ama/documents/ama54-55....
三重の鳥羽湾、および県内ではもっとも大きい島である答志島から、さらに北上したところには小築海島という無人島がある。
周辺は禁漁区に指定されており、普段は人が立ち入ることができない。
小築海島は古くから秘境の島と呼ばれていた。島には神社があり、祠や石の祭壇が祀られており、毎年祭りが催される。
7月11日だけ地元の漁師だけが島に上がることが許されるという。そして答志島の八幡神社に供えるアワビを漁協青年部が採らねばならない。
代わりに小築海島から答志島へ桑やススキの葉を持ち帰り、八幡神社に採ったアワビを奉納し、海上安全と大漁祈願をする。
また小築海島の近くには洞窟があり、その洞窟は『9人ぼうら』と呼ばれている。名称は遭難者9人がこの洞窟で発見されたからだそうだ。
Archive.is - webpage capture 答志島海岸線調査
http://archive.is/vYKD...
海女のまつり
http://www.city.toba.mie.jp/kikaku/ama/documents/ama54-55....
百日通いの九十九日目の悲劇 お初伝説 初島
初島は静岡県熱海市の網代から東へ約6kmの海上に浮かぶ静岡県内最大の有人島である。
今から1万年前の氷河期終息による海面上昇で、現在の網代辺りと切り離されるように残ったのが初島であり、島内からは7千年前の土器や石器、
また初木神社社殿下からは古墳時代の祭祀場跡が見つかるなど、古代人との関わりがあったことが知られている。
集落は島の北側に集中しているが、この集落がいつごろできたのかは不明。東明寺の建立が西暦800年ごろ、初木神社の創建は鎌倉時代の始めあるいはそれ以前、
竜神宮もそれに順ずる古いものだとされ、鎌倉期にはすでに小規模な集落ができていたと考えられている。
漁業と、限られた土地を耕す生活が連綿と続き、江戸時代後半になると耕作地や水源、漁獲を島民で均等に分け合う共同体生活が営まれるようになり、
初島特有の、「次男以降は島を出て、跡取りがいない家は婿養子をとる」という決まりごとが頑なに守られ、江戸時代から現代に至るまで40戸前後の
家と島の平和が維持されてきた。
そんな初島には、これまた女の悲劇譚が後世に語り継がれている。それが『お初伝説』である。
昔、初島にはまだ住人が6軒家族しかない淋しい島だった。
17才の美しい娘が伊豆山(伊豆半島・熱海)の祭りで、右近という若者と出会い、好きになった。
「百夜通ってくれば結婚しよう」という約束を結び、お初は毎晩タライに乗って3里もの距離を渡って通ったのだが、99日目の夜、
なんとお初に横恋慕を抱いていた男が灯台の火を消してしまう。お初は海を渡りきれず、波に飲まれて命を落とした。
それを知った右近の悲しみはいかばかりか。右近は彼女を弔うため、いつ帰ると知れたものではない諸国巡礼の旅に出たという。
因果なことに、灯台の火を消した男は7日7晩、苦しんだ挙句死んだそうだ。
集落のそばには『お初の松』と名付けられた松の木が佇み、こんな悲しい歌が添えられている。
『島の乙女のはや胸に、秘めて高鳴る琴の緒の断たれて悲しい恋の火よ』
初島にいこうよ。
http://www.hatsushima.jp/find/legend.htm...
伊豆:初島
http://hobbyland.sakura.ne.jp/Kacho/tabi_yukeba/2008/2008_07...
百夜通い(ももよがよい)wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%99%BE%E5%A4%9C%E9%80%...
とっしーのツイッターまとめ blog 百夜通いの謎を推理する(1)
http://toshiey.cocolog-nifty.com/twitter/2012/02/post-d3a1.htm...
初島は静岡県熱海市の網代から東へ約6kmの海上に浮かぶ静岡県内最大の有人島である。
今から1万年前の氷河期終息による海面上昇で、現在の網代辺りと切り離されるように残ったのが初島であり、島内からは7千年前の土器や石器、
また初木神社社殿下からは古墳時代の祭祀場跡が見つかるなど、古代人との関わりがあったことが知られている。
集落は島の北側に集中しているが、この集落がいつごろできたのかは不明。東明寺の建立が西暦800年ごろ、初木神社の創建は鎌倉時代の始めあるいはそれ以前、
竜神宮もそれに順ずる古いものだとされ、鎌倉期にはすでに小規模な集落ができていたと考えられている。
漁業と、限られた土地を耕す生活が連綿と続き、江戸時代後半になると耕作地や水源、漁獲を島民で均等に分け合う共同体生活が営まれるようになり、
初島特有の、「次男以降は島を出て、跡取りがいない家は婿養子をとる」という決まりごとが頑なに守られ、江戸時代から現代に至るまで40戸前後の
家と島の平和が維持されてきた。
そんな初島には、これまた女の悲劇譚が後世に語り継がれている。それが『お初伝説』である。
昔、初島にはまだ住人が6軒家族しかない淋しい島だった。
17才の美しい娘が伊豆山(伊豆半島・熱海)の祭りで、右近という若者と出会い、好きになった。
「百夜通ってくれば結婚しよう」という約束を結び、お初は毎晩タライに乗って3里もの距離を渡って通ったのだが、99日目の夜、
なんとお初に横恋慕を抱いていた男が灯台の火を消してしまう。お初は海を渡りきれず、波に飲まれて命を落とした。
それを知った右近の悲しみはいかばかりか。右近は彼女を弔うため、いつ帰ると知れたものではない諸国巡礼の旅に出たという。
因果なことに、灯台の火を消した男は7日7晩、苦しんだ挙句死んだそうだ。
集落のそばには『お初の松』と名付けられた松の木が佇み、こんな悲しい歌が添えられている。
『島の乙女のはや胸に、秘めて高鳴る琴の緒の断たれて悲しい恋の火よ』
初島にいこうよ。
http://www.hatsushima.jp/find/legend.htm...
伊豆:初島
http://hobbyland.sakura.ne.jp/Kacho/tabi_yukeba/2008/2008_07...
百夜通い(ももよがよい)wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%99%BE%E5%A4%9C%E9%80%...
とっしーのツイッターまとめ blog 百夜通いの謎を推理する(1)
http://toshiey.cocolog-nifty.com/twitter/2012/02/post-d3a1.htm...
百夜通い伝説の亜種 百夜月(ももよづき)集落
実は>>4の小野小町の『百夜通い伝説』とそっくりな伝説がある集落が、僕の地元からそう遠くないところにある。
それが『百夜月』というちっぽけな集落で、その惹きつけられる地名のとおり、ロマンチックな伝説が残されているから印象深い。
それも併せて収録しておきたい(もっとも、別スレ『地域の伝説やまじない・風習』の>>70で書いたのだが、個人的趣味で再収録)。
若干、スレチになるかもしれないが、村ネタということでご容赦を。
三重県熊野市紀和町花井(けい)に、上述した百夜月という風情ある地区がある。
北山川沿いにあり、今どき対岸の和歌山県新宮市熊野川町九重から、渡し船で渡ってでしか行き来できない陸の孤島のような集落である。
そこに百夜月と名付けられる元となった伝説が残されているのだ。
かつて、そこには光月山紅梅寺という寺があった。寺には若くて美しい1人の尼僧が住み、 仏道修行に励んでいた。
美人の尼僧は近隣村の若者たちの憧れの的でもあった。
対岸に住むある若者が彼女に会いたいと思い立ち、昼間では村人に知られるとなると尼僧に迷惑をかけてしまうので、夜陰に乗じて川を渡って会いに行こうと決意。
ところが川を渡ろうとするも、山の上に姿を見せた月があまりに明るいため、これでは村人に露見してしまう。結局その晩は行くのを諦め、家に引き返した。
次の日もその次の日も、若者は尼僧に会いにいくべく川まで下りるのだが、いずれも月明かりがまぶしくて行くことができない。
「今晩で何度目だろうか……」と、数えてみると、九十九夜目であった。
とぼとぼ家に帰り、母にそのことを打ち明けると、母は「あの方は仏様をお守りしている方だから、きっとお前が好きになってはいけない人なんだよ。
お月様の光は人々が悪さしないように、いつもあたりを照らしているんだね。だから百夜通っても想いは届かないってことさ。もう諦めなさい」と諭した。
それからというもの、この土地を百夜月と呼ぶようになった。
……そんな百夜月も、最近までたった1戸残っていた老人も今はいなくなってしまったようだ。というわけで完全に廃村となったわけだ。
百夜月集落はこれから朽ち果てていく一方なんだろう。こんな叙情的な伝説がありながら、なんともったいない……。
〜東紀州情報発信ブログ&twitter〜 ☆尼僧伝説 百夜月☆
http://blog.livedoor.jp/higashikishu/tag/%E7%99%BE%E5%...
百夜月
http://www.momoyoduki.com/momoyoduki.htm...
三重・熊野ふるさとBlog 川を渡る梅!!!!!
http://blog.murablo.jp/kiwafurusato/kiji/244253.htm...
実は>>4の小野小町の『百夜通い伝説』とそっくりな伝説がある集落が、僕の地元からそう遠くないところにある。
それが『百夜月』というちっぽけな集落で、その惹きつけられる地名のとおり、ロマンチックな伝説が残されているから印象深い。
それも併せて収録しておきたい(もっとも、別スレ『地域の伝説やまじない・風習』の>>70で書いたのだが、個人的趣味で再収録)。
若干、スレチになるかもしれないが、村ネタということでご容赦を。
三重県熊野市紀和町花井(けい)に、上述した百夜月という風情ある地区がある。
北山川沿いにあり、今どき対岸の和歌山県新宮市熊野川町九重から、渡し船で渡ってでしか行き来できない陸の孤島のような集落である。
そこに百夜月と名付けられる元となった伝説が残されているのだ。
かつて、そこには光月山紅梅寺という寺があった。寺には若くて美しい1人の尼僧が住み、 仏道修行に励んでいた。
美人の尼僧は近隣村の若者たちの憧れの的でもあった。
対岸に住むある若者が彼女に会いたいと思い立ち、昼間では村人に知られるとなると尼僧に迷惑をかけてしまうので、夜陰に乗じて川を渡って会いに行こうと決意。
ところが川を渡ろうとするも、山の上に姿を見せた月があまりに明るいため、これでは村人に露見してしまう。結局その晩は行くのを諦め、家に引き返した。
次の日もその次の日も、若者は尼僧に会いにいくべく川まで下りるのだが、いずれも月明かりがまぶしくて行くことができない。
「今晩で何度目だろうか……」と、数えてみると、九十九夜目であった。
とぼとぼ家に帰り、母にそのことを打ち明けると、母は「あの方は仏様をお守りしている方だから、きっとお前が好きになってはいけない人なんだよ。
お月様の光は人々が悪さしないように、いつもあたりを照らしているんだね。だから百夜通っても想いは届かないってことさ。もう諦めなさい」と諭した。
それからというもの、この土地を百夜月と呼ぶようになった。
……そんな百夜月も、最近までたった1戸残っていた老人も今はいなくなってしまったようだ。というわけで完全に廃村となったわけだ。
百夜月集落はこれから朽ち果てていく一方なんだろう。こんな叙情的な伝説がありながら、なんともったいない……。
〜東紀州情報発信ブログ&twitter〜 ☆尼僧伝説 百夜月☆
http://blog.livedoor.jp/higashikishu/tag/%E7%99%BE%E5%...
百夜月
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悪さする犬を断崖から投じた『犬の門蓋』 徳之島
徳之島は南西諸島の奄美群島に属する離島の1つ。鹿児島県内では奄美群島は奄美大島を中心とする、奄美地方という地区に分類される。
面積は約247.77km2、周囲およそ80km。日本では北方領土の色丹島よりやや小さく、14番目の面積を有する。人口約27,000人の島だ。
徳之島には平土野集落から南側へ入ってそんなに遠くない場所に、犬の門蓋(いんのじょうふた)と呼ばれる景勝地がある。
それは洞門状の奇岩で、穴は隆起した珊瑚が季節風や東シナ海の荒波によって浸食されたものらしい。
なぜ犬の門蓋なる地名なのだろうか? その由来となった話がこうだ。
昔、大飢饉が猛威をふるったことがあった。そのときに人間だけではなく獣たちも飢えた。
犬の群れが集落に出没しては人畜を襲い、それを食らったため、島民は頭を悩ませた。
ついに決断することになる。犬の群れを生け捕りしては断崖から投じて始末したというのだ。
それ以来、この地は犬の門蓋と名付けられたという。
門蓋は西向きに屹立しているので、この穴越しに眺める夕日は美しいとの評判。
そんな絶景の裏には、まさかこんな極限状況で生まれた陰惨な話が横たわっているとは……。
『島の散歩』 犬の門蓋(徳之島)
http://shimanosanpo.com/churajima11/tokuno00/innojyouf...
かごしま検定をめざす鹿児島案内 徳之島の畔プリンスビーチ
http://blogs.yahoo.co.jp/kagoshimaboy_2009/folder/59623...
徳之島町の史跡・聖地めぐり(PDF:2553KB)
http://www.tokunoshima-town.org/shakaikyoikuka/kurashi/kyoiku/...
徳之島は南西諸島の奄美群島に属する離島の1つ。鹿児島県内では奄美群島は奄美大島を中心とする、奄美地方という地区に分類される。
面積は約247.77km2、周囲およそ80km。日本では北方領土の色丹島よりやや小さく、14番目の面積を有する。人口約27,000人の島だ。
徳之島には平土野集落から南側へ入ってそんなに遠くない場所に、犬の門蓋(いんのじょうふた)と呼ばれる景勝地がある。
それは洞門状の奇岩で、穴は隆起した珊瑚が季節風や東シナ海の荒波によって浸食されたものらしい。
なぜ犬の門蓋なる地名なのだろうか? その由来となった話がこうだ。
昔、大飢饉が猛威をふるったことがあった。そのときに人間だけではなく獣たちも飢えた。
犬の群れが集落に出没しては人畜を襲い、それを食らったため、島民は頭を悩ませた。
ついに決断することになる。犬の群れを生け捕りしては断崖から投じて始末したというのだ。
それ以来、この地は犬の門蓋と名付けられたという。
門蓋は西向きに屹立しているので、この穴越しに眺める夕日は美しいとの評判。
そんな絶景の裏には、まさかこんな極限状況で生まれた陰惨な話が横たわっているとは……。
『島の散歩』 犬の門蓋(徳之島)
http://shimanosanpo.com/churajima11/tokuno00/innojyouf...
かごしま検定をめざす鹿児島案内 徳之島の畔プリンスビーチ
http://blogs.yahoo.co.jp/kagoshimaboy_2009/folder/59623...
徳之島町の史跡・聖地めぐり(PDF:2553KB)
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見てはいけない男子禁制の秘祭『祖神祭』(ウヤガン) 大神島 1
沖縄県宮古島市に属する宮古列島の1つである大神島。面積は0.24km2、人口は約40人足らず。
前スレ>>79で海賊キャプテン・キッドが大神島に自身の財宝を隠したという伝説を書いたが、島にはそれ以外に秘密のベールに包まれたウヤガンなる
祖神祭があると知ったとなると、いやがうえにも興味をソソられるのは浅ましき人の業と言うべきか。
大神集落は港がある島の南部に固まっている。また島中央には標高75mほどの高台があり、宮古島、池間島などを一望することができる。
眺望は素晴らしく、とりわけサンゴ礁の海に描かれるエメラルド色のラグーンは、この世の楽園もかくやと思われるほど美しい。
この高台を遠見台(とおみばる)と呼ぶ。この地はかつて琉球王朝時代には、外国船の往来を知らせる狼煙台の役目を担ってきた。
ふだんの日は誰でも上にあがることが可能なものの、祭祀に関わる特別な日になると極端に立ち入りが制限される。
というのも、遠見台のはるか上には神が宿るとされる巨岩があり、神域として指定されているからだ。
実は大神島には上述したような神聖な場所が無数に存在する。それが森の中の洞窟であったり水辺であったりもする。
そのような聖域は御嶽(うたき・琉球神話に記された神々が来訪したり存在する場所で、祖先神を祀る場所)として崇められている。
大げさに言えば、集落以外のほとんどが聖域だといっても過言ではない。
沖縄は観光する分には開けた感があるが、宮古は特殊であると言う人は少なくない。ましてや大神島は観光地化されておらず(宿泊施設はおろか売店すらない)、
古くから周囲の島の人々から『神の島』(それにしてもこう冠された島の多いこと!)、もしくは島そのものがご神体と言われ尊ばれてきた。
国内最大級の聖地だとする声もあるほどだ。
大神島の御嶽の場合、祭祀を執り行う関係者……選ばれた女性しか立ち入ることができないのだ。
それは伝統的な祭祀である祖神祭(ウヤガン)になると、タブーはより厳しいものなる。これは旧暦6月〜10月の間、毎月12〜14ごろから4、5日間、
計5回行われる祭りで、豊穣や健康を祈るものだ。男子禁制であり、島外者にすら公開されない秘祭中の秘祭である。
公開どころか、その内容を説明することさえタブーとされている。関係者である女性たちは、家族にすら語ってはいけないのだとか。
もしも禁を破ったものなら、恐ろしい祟りがあると信じられているという……。
祖神祭自体は大神島だけではなく、宮古島の狩俣(かりまた)、島尻(しまじり)でも行われるが、島尻は1997年まで、狩俣では2001年まで行われたのを最後に、
祭祀関係者の女性の高齢化と、後継者の不在により中断されている。その中で唯一、大神島のソレだけが現在も引き継がれている。
祖神祭には何かとオカルト的な言い伝えが散見される。こんなことを書くのは、いささか躊躇われるのだが……。
今から70年ほど前、ある大学教授が祖神祭の秘密を暴こうとして島へ渡り、祭りが行われている山中に忍び込んでその様子を撮影したらしい。
ところがその教授は島から戻ったとたん急死。教授を信用して撮影に協力した島民一家もまた次々と怪死を遂げたという。
また、過去に1人だけ祖神祭の全容を調査し、記録した女性の学者がいた。その女性学者は10年来の時間を費やして大神島を行き来し、
すっかり島民と打ち解けた仲になっていた。だが、調査内容は決して論文にまとめることをせず、記録をすべて封印した。
……と、こう書くと、なんとも芳ばしい香りがするが、その実、島の人いわく、なんの変哲もない豊年祭にすぎず特筆に値するほどのものではないと否定する。
沖縄県宮古島市に属する宮古列島の1つである大神島。面積は0.24km2、人口は約40人足らず。
前スレ>>79で海賊キャプテン・キッドが大神島に自身の財宝を隠したという伝説を書いたが、島にはそれ以外に秘密のベールに包まれたウヤガンなる
祖神祭があると知ったとなると、いやがうえにも興味をソソられるのは浅ましき人の業と言うべきか。
大神集落は港がある島の南部に固まっている。また島中央には標高75mほどの高台があり、宮古島、池間島などを一望することができる。
眺望は素晴らしく、とりわけサンゴ礁の海に描かれるエメラルド色のラグーンは、この世の楽園もかくやと思われるほど美しい。
この高台を遠見台(とおみばる)と呼ぶ。この地はかつて琉球王朝時代には、外国船の往来を知らせる狼煙台の役目を担ってきた。
ふだんの日は誰でも上にあがることが可能なものの、祭祀に関わる特別な日になると極端に立ち入りが制限される。
というのも、遠見台のはるか上には神が宿るとされる巨岩があり、神域として指定されているからだ。
実は大神島には上述したような神聖な場所が無数に存在する。それが森の中の洞窟であったり水辺であったりもする。
そのような聖域は御嶽(うたき・琉球神話に記された神々が来訪したり存在する場所で、祖先神を祀る場所)として崇められている。
大げさに言えば、集落以外のほとんどが聖域だといっても過言ではない。
沖縄は観光する分には開けた感があるが、宮古は特殊であると言う人は少なくない。ましてや大神島は観光地化されておらず(宿泊施設はおろか売店すらない)、
古くから周囲の島の人々から『神の島』(それにしてもこう冠された島の多いこと!)、もしくは島そのものがご神体と言われ尊ばれてきた。
国内最大級の聖地だとする声もあるほどだ。
大神島の御嶽の場合、祭祀を執り行う関係者……選ばれた女性しか立ち入ることができないのだ。
それは伝統的な祭祀である祖神祭(ウヤガン)になると、タブーはより厳しいものなる。これは旧暦6月〜10月の間、毎月12〜14ごろから4、5日間、
計5回行われる祭りで、豊穣や健康を祈るものだ。男子禁制であり、島外者にすら公開されない秘祭中の秘祭である。
公開どころか、その内容を説明することさえタブーとされている。関係者である女性たちは、家族にすら語ってはいけないのだとか。
もしも禁を破ったものなら、恐ろしい祟りがあると信じられているという……。
祖神祭自体は大神島だけではなく、宮古島の狩俣(かりまた)、島尻(しまじり)でも行われるが、島尻は1997年まで、狩俣では2001年まで行われたのを最後に、
祭祀関係者の女性の高齢化と、後継者の不在により中断されている。その中で唯一、大神島のソレだけが現在も引き継がれている。
祖神祭には何かとオカルト的な言い伝えが散見される。こんなことを書くのは、いささか躊躇われるのだが……。
今から70年ほど前、ある大学教授が祖神祭の秘密を暴こうとして島へ渡り、祭りが行われている山中に忍び込んでその様子を撮影したらしい。
ところがその教授は島から戻ったとたん急死。教授を信用して撮影に協力した島民一家もまた次々と怪死を遂げたという。
また、過去に1人だけ祖神祭の全容を調査し、記録した女性の学者がいた。その女性学者は10年来の時間を費やして大神島を行き来し、
すっかり島民と打ち解けた仲になっていた。だが、調査内容は決して論文にまとめることをせず、記録をすべて封印した。
……と、こう書くと、なんとも芳ばしい香りがするが、その実、島の人いわく、なんの変哲もない豊年祭にすぎず特筆に値するほどのものではないと否定する。
見てはいけない男子禁制の秘祭『祖神祭』(ウヤガン) 大神島 2
見ると祟りがある秘匿性の高い祖神祭。それはどんな祭りなのだろうか。
ならば見ずして、どうにか祭祀の一部だけでも知ることができないかと探りを入れた結果、少なくとも以下のことだけはつかめた。
箇条書きだが、これが祭祀の準備から本番に至るまでの大まかな流れだ。
①祭祀を執り行うのは『ウヤガミ』と呼ばれる祭祀集団である。
②『ウヤガミ』は『ウヤガミ筋』なる血筋の家からしか現われることがない。
③ウヤガミは神がかりを受けた女性(主婦である場合がほとんど)しか選ばれない。祖神祭に参加できる人は、毎年11人ほど。
④祭祀の時期になると、ウヤガミはある日突然、神が憑依したとされ意識不明に陥るという。全員が同時刻に同じ神がかり体験をし、同じ日の夕方に家を抜け出す。
祭祀が行われている4〜5日の間は、断食状態になり帰宅すらしない。
⑤ウヤガミがひとたび山篭りすると、聖域(とくに祖神祭の中心となる大神御嶽)には誰も足を踏み入れてはならない。
⑥ウヤガミの女性たちは円陣を組み、フサ(神歌)を謡って踊る。フサはフサヌス(白装束の女性)の音頭取りで謡われ、そのあとを続いて他のウヤガミが謡い踊る。
⑦踊りはフサヌスを取り囲んで、立って手にしているテーフサ(手草)をこすり腰を振る。単調な踊りながら、場合によっては長時間続く。
⑧木の葉で編んだカウス(木の葉で編んだ帽子のような草の冠)を目深にかぶり、手に木の枝や杖を持つ。
⑨手にはテーフサをもち、腰には神の糸・アヤと呼ばれる五色の腰ヒダを吊るしている。
⑩島外者はもちろん祭祀に関係のない島内の人間や、ましてや男がウヤガミたちと出会ったり、真正面から見るなどもってのほかとされている。
⑪祭りはすべて神役の女たちで話し合われて執行されるため、男たちや身内にさえ一切秘密裏に行われる。
日本には古来より女性をカミ(=神)として位置づける考えがある。ここ大神島をはじめとする沖縄や奄美諸島、伊豆諸島などである。
沖縄などでは、村の女性が、ある年齢に達すると、『カミンチュ』としての役職を司る。
カミンチュは村の年中行事のすべてを携わらねばならない。また伊豆諸島の新島では、隠居した女性は、『ヤカミ(家神)衆』と呼ばれ、やはり祭事、仏事を司るのだ。
東北のイタコなども同義といえよう。
このように、女性は神や先祖を代弁する役割(シャーマン)として、共同体になくてはならない役目を担ってきた。
いずれにせよ、島は彼女たちの領域だ。土足で踏み荒らすなどあってはならない。好奇心も大概にしとけってことである。
Diving Mania ダイビングの気になるネタ 大神島の伝説と謎 〜大神島の祭祀〜
http://blog.livedoor.jp/paper051-diving/archives/20397...
沖縄ジョートー市場ブログ『ななろぐ』 神の島・大神島 〜宮古諸島
http://jyotoblog.ti-da.net/e3676732.htm...
gallery10:06 omnibus 沖縄だより(79) 離島5
http://tenroku.exblog.jp/1639755...
Security Akademeia シャーマン
http://akademeia.info/index.php?%A5%B7%A5%E3%A1%BC%A...
「ユタ]の黄金言葉 沖縄・奄美のシャーマンがおろす神の声 西村仁美著 東邦出版 より引用
http://www.aritearu.com/Influence/Native/NativeWorld/B...
諏訪春雄通信 35
http://www-cc.gakushuin.ac.jp/‾ori-www/suwa-f04/suwa35.htm
STUDIO VOICE 比嘉康雄展「母たちの神」
http://studiovoice.jp/?p=492...
見ると祟りがある秘匿性の高い祖神祭。それはどんな祭りなのだろうか。
ならば見ずして、どうにか祭祀の一部だけでも知ることができないかと探りを入れた結果、少なくとも以下のことだけはつかめた。
箇条書きだが、これが祭祀の準備から本番に至るまでの大まかな流れだ。
①祭祀を執り行うのは『ウヤガミ』と呼ばれる祭祀集団である。
②『ウヤガミ』は『ウヤガミ筋』なる血筋の家からしか現われることがない。
③ウヤガミは神がかりを受けた女性(主婦である場合がほとんど)しか選ばれない。祖神祭に参加できる人は、毎年11人ほど。
④祭祀の時期になると、ウヤガミはある日突然、神が憑依したとされ意識不明に陥るという。全員が同時刻に同じ神がかり体験をし、同じ日の夕方に家を抜け出す。
祭祀が行われている4〜5日の間は、断食状態になり帰宅すらしない。
⑤ウヤガミがひとたび山篭りすると、聖域(とくに祖神祭の中心となる大神御嶽)には誰も足を踏み入れてはならない。
⑥ウヤガミの女性たちは円陣を組み、フサ(神歌)を謡って踊る。フサはフサヌス(白装束の女性)の音頭取りで謡われ、そのあとを続いて他のウヤガミが謡い踊る。
⑦踊りはフサヌスを取り囲んで、立って手にしているテーフサ(手草)をこすり腰を振る。単調な踊りながら、場合によっては長時間続く。
⑧木の葉で編んだカウス(木の葉で編んだ帽子のような草の冠)を目深にかぶり、手に木の枝や杖を持つ。
⑨手にはテーフサをもち、腰には神の糸・アヤと呼ばれる五色の腰ヒダを吊るしている。
⑩島外者はもちろん祭祀に関係のない島内の人間や、ましてや男がウヤガミたちと出会ったり、真正面から見るなどもってのほかとされている。
⑪祭りはすべて神役の女たちで話し合われて執行されるため、男たちや身内にさえ一切秘密裏に行われる。
日本には古来より女性をカミ(=神)として位置づける考えがある。ここ大神島をはじめとする沖縄や奄美諸島、伊豆諸島などである。
沖縄などでは、村の女性が、ある年齢に達すると、『カミンチュ』としての役職を司る。
カミンチュは村の年中行事のすべてを携わらねばならない。また伊豆諸島の新島では、隠居した女性は、『ヤカミ(家神)衆』と呼ばれ、やはり祭事、仏事を司るのだ。
東北のイタコなども同義といえよう。
このように、女性は神や先祖を代弁する役割(シャーマン)として、共同体になくてはならない役目を担ってきた。
いずれにせよ、島は彼女たちの領域だ。土足で踏み荒らすなどあってはならない。好奇心も大概にしとけってことである。
Diving Mania ダイビングの気になるネタ 大神島の伝説と謎 〜大神島の祭祀〜
http://blog.livedoor.jp/paper051-diving/archives/20397...
沖縄ジョートー市場ブログ『ななろぐ』 神の島・大神島 〜宮古諸島
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gallery10:06 omnibus 沖縄だより(79) 離島5
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Security Akademeia シャーマン
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「ユタ]の黄金言葉 沖縄・奄美のシャーマンがおろす神の声 西村仁美著 東邦出版 より引用
http://www.aritearu.com/Influence/Native/NativeWorld/B...
諏訪春雄通信 35
http://www-cc.gakushuin.ac.jp/‾ori-www/suwa-f04/suwa35.htm
STUDIO VOICE 比嘉康雄展「母たちの神」
http://studiovoice.jp/?p=492...
骨まで貪り喰らった海獣の正体とは? 海獺島(あしかしま)
神奈川県横須賀市、東京湾フェリー久里浜近くの沖に浮かぶ海獺島という無人島がある。画像右の灯台のある方がそれだ。
字面から『らっこ島』とも読まれることも多いが、可愛いイメージがある反面、昔、この地にいたとされる海獣が獲物を血を滴らせ、
骨まで貪り喰ったことから『鬼畜島』とも呼ばれていたらしい……。いろいろ調べてみたが、これ以上詳細はわからなかった。
海獣の正体とはなんであったのだろうか?
また海獺島は、かつて日本海軍が砲撃練習の標的に利用された島として知られている。砲弾の先端には艦独自の染料が入っており、着弾時に色で識別したという。
あぁ〜つかれる!! 東京湾フェリー
http://blog.goo.ne.jp/a-y_2006/e/a7ca4ae683b2060842b...
満天☆の海-2 アシカ島(観音崎ー剣崎間)の危険海域
http://mantenbosi.exblog.jp/10573061...
神奈川県横須賀市、東京湾フェリー久里浜近くの沖に浮かぶ海獺島という無人島がある。画像右の灯台のある方がそれだ。
字面から『らっこ島』とも読まれることも多いが、可愛いイメージがある反面、昔、この地にいたとされる海獣が獲物を血を滴らせ、
骨まで貪り喰ったことから『鬼畜島』とも呼ばれていたらしい……。いろいろ調べてみたが、これ以上詳細はわからなかった。
海獣の正体とはなんであったのだろうか?
また海獺島は、かつて日本海軍が砲撃練習の標的に利用された島として知られている。砲弾の先端には艦独自の染料が入っており、着弾時に色で識別したという。
あぁ〜つかれる!! 東京湾フェリー
http://blog.goo.ne.jp/a-y_2006/e/a7ca4ae683b2060842b...
満天☆の海-2 アシカ島(観音崎ー剣崎間)の危険海域
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東洋のローレライ伝説 屋慶名(やかな)海峡
沖縄県うるま市に属する藪地島(やぶちじま)という無人島がある。勝連半島の東側に位置し、沖縄本島とは藪地大橋で結ばれている。
約300年前までは有人であったという。現在、島の一部は農地で、本島の住民が農業に従事している。
勝連半島と薮地島に挟まれた水路のことを屋慶名海峡と呼んでいる。さて、今回のネタは藪地島自体ではなく、むしろこの海峡にあり。
ドイツのライン川に伝わるローレライ伝説をご存知だろうか? 長大なる川の途中で水面から130mもの突出した岩山があり、川幅が狭くなっているうえ流れが速く、
浅瀬がそこかしこに潜んだ一番の難所であるため舟による転覆事故が後を絶たなかった。
それが転じて、「岩山に佇む美しい少女の姿と、その魔力を秘めた歌声で船頭を虜にするがため、舟が川の渦に飲み込まれてしまう」という伝説を作り上げた。
ローレライは岩山そのものであると同時に、この岩の妖精、あるいはセイレーンの一種であるという。
その伝説と酷似した話が、なんとこの屋慶名海峡にもあるというのだ。
「晴れた日には沈没した大和船(本土の船)の霊が和歌を歌い出す」だとか、「喪中の人が海峡を渡ると波が立つ」とかまことしやかに伝えられている。
もっともこの海峡には乙女こそ姿を現さないが、ここを通る船は岸辺にある、拝所『東大神(ヒガシウーカン)』の前で帆を降ろし、頭を下げてから船を走らせないと、
波が荒れ、この先を航行することができなかったとさえいう。
あるとき、このしきたりを知らない大和船がやってきて、こともあろうか拝所の香炉で刀を研いでしまった。
これが神の逆鱗に触れ、あっという間に船は転覆させられたと伝えられている。
それからというもの、晴天の日はどこからともなく櫓音とともに舟歌が聞こえてきたというのだ。
ローレライwikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%...
島の散歩 藪地島
http://shimanosanpo.com/churajima01/yabuchi00...
ジロの沖縄の徒然 東洋のローレライ
http://seseragijiro.at.webry.info/201302/article_6.htm...
ネオアイランド〜horizon〜 沖縄県うるま市与那城屋慶名・屋慶名海峡展望台(やけなかいきょうてんぼうだい)の下へ。
http://blogs.yahoo.co.jp/neoisland2/30808078.htm...
沖縄県うるま市に属する藪地島(やぶちじま)という無人島がある。勝連半島の東側に位置し、沖縄本島とは藪地大橋で結ばれている。
約300年前までは有人であったという。現在、島の一部は農地で、本島の住民が農業に従事している。
勝連半島と薮地島に挟まれた水路のことを屋慶名海峡と呼んでいる。さて、今回のネタは藪地島自体ではなく、むしろこの海峡にあり。
ドイツのライン川に伝わるローレライ伝説をご存知だろうか? 長大なる川の途中で水面から130mもの突出した岩山があり、川幅が狭くなっているうえ流れが速く、
浅瀬がそこかしこに潜んだ一番の難所であるため舟による転覆事故が後を絶たなかった。
それが転じて、「岩山に佇む美しい少女の姿と、その魔力を秘めた歌声で船頭を虜にするがため、舟が川の渦に飲み込まれてしまう」という伝説を作り上げた。
ローレライは岩山そのものであると同時に、この岩の妖精、あるいはセイレーンの一種であるという。
その伝説と酷似した話が、なんとこの屋慶名海峡にもあるというのだ。
「晴れた日には沈没した大和船(本土の船)の霊が和歌を歌い出す」だとか、「喪中の人が海峡を渡ると波が立つ」とかまことしやかに伝えられている。
もっともこの海峡には乙女こそ姿を現さないが、ここを通る船は岸辺にある、拝所『東大神(ヒガシウーカン)』の前で帆を降ろし、頭を下げてから船を走らせないと、
波が荒れ、この先を航行することができなかったとさえいう。
あるとき、このしきたりを知らない大和船がやってきて、こともあろうか拝所の香炉で刀を研いでしまった。
これが神の逆鱗に触れ、あっという間に船は転覆させられたと伝えられている。
それからというもの、晴天の日はどこからともなく櫓音とともに舟歌が聞こえてきたというのだ。
ローレライwikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%...
島の散歩 藪地島
http://shimanosanpo.com/churajima01/yabuchi00...
ジロの沖縄の徒然 東洋のローレライ
http://seseragijiro.at.webry.info/201302/article_6.htm...
ネオアイランド〜horizon〜 沖縄県うるま市与那城屋慶名・屋慶名海峡展望台(やけなかいきょうてんぼうだい)の下へ。
http://blogs.yahoo.co.jp/neoisland2/30808078.htm...
掟を破った者の末路……お浦と治作の悲恋物語 情島(なさけじま)
情島は広島県呉市阿賀港の南南西の沖合い約8kmに位置する有人島でありながら、世帯数は9、人口は10人にも満たず、
限界集落も瀬戸際まで立たされている。そんな情島にも『お浦と治作(おうらとじさく)』という哀れな男女の恋が引き裂かれる物語がある。
昔、瀬戸島(現在の倉橋島)の波多見(呉市音戸町)に、お浦という美しい娘がいた。
島の若者はお浦に言い寄るのだが、ことごとくあしらわれていた。袖にされた若者たちは、なぜ相手にされないのだろうと苛立つばかりであった。
どうにも納得のいかない。男たちはお浦の行動を監視することにした。
実はお浦には意中の人がいた。激しい恋に燃えてるのに他の男など眼中に入るはずもない。
月夜の晩、波多見の岬でお浦が1人待ち続けると、やがて小舟に乗って若者が渡ってきた。若者は浜に下り立つと、お浦をひしと抱きしめた。
「あの男は餘所村(よそむら)の治作じゃねえか!」見守っていた若者の1人が声を殺して言った。
「餘所だと? 夜中にコソコソとやってきて、お浦と逢引してたのか!」と、他の若者も激昂した。
「おれたちを差し置いて、餘所の男に取られてたまるか……」
瀬戸島の波多見では、餘所村の者と恋愛してはならないという厳しい掟があった。お浦と治作はその掟に背くことになる。
そんな若者たちの憤懣やるかたなき思いをよそに、2人は小舟に乗って沖に浮いた誰も住んでいない孤島に渡った。2人は毎夜、こうして逢瀬を重ねていたのだ。
ある日、若者たちは同じように波多見の岬で待ち伏せしてから、島に渡る前に灸を据えてやろうと決めた。
2人が揃ったのを見届けると、物陰から一斉に出て、お浦と治作を取り囲んだ。手には棒切れ。殺気を感じた治作はお浦を背中に回した。
「なんだ、おまえらは……おれたちをどうする気だ」と、治作。
「よくもぬけぬけと餘所から来たもんだな。掟を破ってお浦と乳くりあってたとは恐れ入るわ」
「掟がなにさ。治作さんとは別れるつもりはないわ」お浦は言った。
「うるさい。今からでも遅くない。お浦とは金輪際会うな。そして二度とこの島に来るんじゃねえ」
1人の若者が治作の腕を取った。治作はすかさず前蹴りを相手に放つと、包囲網にほころびが生じた。お浦の手をつかむと円陣を突破した。
「逃がすか!」「追え、追うんだ!」
治作とお浦は追っ手をまこうとしたが、しかしながら多勢に無勢、相手の男たちは数が多すぎた。
そのうち岬の突端に追い詰められてしまい、万事休す。あろうことか治作は足を滑らせ、海に転落してしまった。
「治作さん! 治作!」お浦の悲鳴がむなしくこだました。
翌朝、治作の変わり果てた遺体が浜辺に打ち上げられた。
お浦は嘆きは深く、その夜、治作が落ちた岬から同じく身投げして命を絶ってしまった。
この悲劇の結末に波多見の人々はみずからの行為を後悔し、岬の上に祠を建てて2人の霊を弔った。その後、この岬は『お浦の鼻』と呼ばれるようになった。
また、お浦と治作が人目を忍んで逢瀬を重ねていた島を『情島』と名づけたという。
阿賀まちづくり推進協議会(まち協) まちしるべ 旧町名「情島」
http://26.pro.tok2.com/‾agamachi/photo/machishirube/nasakezima.htm
:Elliott-7さんの旅行ブログ 瀬戸内,気ままなヨットセーリング・・・・過疎の島で男の隠れ家発見!
http://4travel.jp/traveler/elliott-7/album/10513...
お浦と治作
http://homepage2.nifty.com/buchaneko/kure/minwa/ouratojis...
情島は広島県呉市阿賀港の南南西の沖合い約8kmに位置する有人島でありながら、世帯数は9、人口は10人にも満たず、
限界集落も瀬戸際まで立たされている。そんな情島にも『お浦と治作(おうらとじさく)』という哀れな男女の恋が引き裂かれる物語がある。
昔、瀬戸島(現在の倉橋島)の波多見(呉市音戸町)に、お浦という美しい娘がいた。
島の若者はお浦に言い寄るのだが、ことごとくあしらわれていた。袖にされた若者たちは、なぜ相手にされないのだろうと苛立つばかりであった。
どうにも納得のいかない。男たちはお浦の行動を監視することにした。
実はお浦には意中の人がいた。激しい恋に燃えてるのに他の男など眼中に入るはずもない。
月夜の晩、波多見の岬でお浦が1人待ち続けると、やがて小舟に乗って若者が渡ってきた。若者は浜に下り立つと、お浦をひしと抱きしめた。
「あの男は餘所村(よそむら)の治作じゃねえか!」見守っていた若者の1人が声を殺して言った。
「餘所だと? 夜中にコソコソとやってきて、お浦と逢引してたのか!」と、他の若者も激昂した。
「おれたちを差し置いて、餘所の男に取られてたまるか……」
瀬戸島の波多見では、餘所村の者と恋愛してはならないという厳しい掟があった。お浦と治作はその掟に背くことになる。
そんな若者たちの憤懣やるかたなき思いをよそに、2人は小舟に乗って沖に浮いた誰も住んでいない孤島に渡った。2人は毎夜、こうして逢瀬を重ねていたのだ。
ある日、若者たちは同じように波多見の岬で待ち伏せしてから、島に渡る前に灸を据えてやろうと決めた。
2人が揃ったのを見届けると、物陰から一斉に出て、お浦と治作を取り囲んだ。手には棒切れ。殺気を感じた治作はお浦を背中に回した。
「なんだ、おまえらは……おれたちをどうする気だ」と、治作。
「よくもぬけぬけと餘所から来たもんだな。掟を破ってお浦と乳くりあってたとは恐れ入るわ」
「掟がなにさ。治作さんとは別れるつもりはないわ」お浦は言った。
「うるさい。今からでも遅くない。お浦とは金輪際会うな。そして二度とこの島に来るんじゃねえ」
1人の若者が治作の腕を取った。治作はすかさず前蹴りを相手に放つと、包囲網にほころびが生じた。お浦の手をつかむと円陣を突破した。
「逃がすか!」「追え、追うんだ!」
治作とお浦は追っ手をまこうとしたが、しかしながら多勢に無勢、相手の男たちは数が多すぎた。
そのうち岬の突端に追い詰められてしまい、万事休す。あろうことか治作は足を滑らせ、海に転落してしまった。
「治作さん! 治作!」お浦の悲鳴がむなしくこだました。
翌朝、治作の変わり果てた遺体が浜辺に打ち上げられた。
お浦は嘆きは深く、その夜、治作が落ちた岬から同じく身投げして命を絶ってしまった。
この悲劇の結末に波多見の人々はみずからの行為を後悔し、岬の上に祠を建てて2人の霊を弔った。その後、この岬は『お浦の鼻』と呼ばれるようになった。
また、お浦と治作が人目を忍んで逢瀬を重ねていた島を『情島』と名づけたという。
阿賀まちづくり推進協議会(まち協) まちしるべ 旧町名「情島」
http://26.pro.tok2.com/‾agamachi/photo/machishirube/nasakezima.htm
:Elliott-7さんの旅行ブログ 瀬戸内,気ままなヨットセーリング・・・・過疎の島で男の隠れ家発見!
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お浦と治作
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夫の無事をひたすら祈り待ち続けた妻と無蔵水 伊平屋島(いへやじま)
沖縄本島北端、辺戸岬の北西約33kmにある沖縄最北の有人島、伊平屋島。
太陽に照り輝く美しい島の意である『てるしのの島』と呼ばれ、さまざまな伝説、神事や伝統行事が継承されている。
島の歴史は古く、琉球王朝の第1尚王朝・尚巴志の祖先・屋蔵大主(やぐらうふぬし)生誕の地として知られ、
屋蔵墓や天の岩戸などの史跡や伝説など、琉球史を語るうえにおいて欠かすことのできない貴重な島だという。
その伊平屋島には無蔵水(んぞうみじ)と呼ばれる大岩があり、とある伝説が残されている。それが以下の内容である。
昔、田名村に若い夫婦がいた。
ある夏のときであった。夫は小舟で田名岬の沖へ釣りに出かけたはいいが、前触れもなく強風と高波に襲われて漂流してしまった。
2、3年の間、皆目行方が知れず、村人たちはもう助かってはいまいとあきらめていた。
妻はまわりから諭され、村一番の美人だっただけに再婚話を持ちかけられたが、彼女は頑として、
「きっと夫は生きています。私はあの人が帰るまで待ち続けるつもりです」と言って聞かなかった。
そして小山ほどの大岩の上で1日と欠かさず、夫が消息を絶った沖合の見える方角を見守り、ひたすら無事を祈った。
数年後、奇跡は実現した。夫が無事に妻のもとに帰ってきたのだ。その後、2人は仲睦まじく家を興し、立身出世したという。
当時の村人たちはこの妻の貞操を讃え、女性たちへの教訓歌を作り残している。
この岩のてっぺんにある周囲6m、深さ50cmの水たまりが無蔵水と言われているもの。
水は決して涸れることはなく、それはまさしく夫の無事をひたすら信じ抜いた、妻の無償の愛のように滾滾と湧き出ているそうだ。
てるしのNET 伊平屋村 役場観光ガイドマップ|伊平屋村ホームページ
http://www.vill.iheya.okinawa.jp/detail.jsp?id=12532&menuid=423...
離島の旅日本の旅 伊平屋島
http://islands.travelaround.jp/okinawa/iheya.ht...
沖縄本島北端、辺戸岬の北西約33kmにある沖縄最北の有人島、伊平屋島。
太陽に照り輝く美しい島の意である『てるしのの島』と呼ばれ、さまざまな伝説、神事や伝統行事が継承されている。
島の歴史は古く、琉球王朝の第1尚王朝・尚巴志の祖先・屋蔵大主(やぐらうふぬし)生誕の地として知られ、
屋蔵墓や天の岩戸などの史跡や伝説など、琉球史を語るうえにおいて欠かすことのできない貴重な島だという。
その伊平屋島には無蔵水(んぞうみじ)と呼ばれる大岩があり、とある伝説が残されている。それが以下の内容である。
昔、田名村に若い夫婦がいた。
ある夏のときであった。夫は小舟で田名岬の沖へ釣りに出かけたはいいが、前触れもなく強風と高波に襲われて漂流してしまった。
2、3年の間、皆目行方が知れず、村人たちはもう助かってはいまいとあきらめていた。
妻はまわりから諭され、村一番の美人だっただけに再婚話を持ちかけられたが、彼女は頑として、
「きっと夫は生きています。私はあの人が帰るまで待ち続けるつもりです」と言って聞かなかった。
そして小山ほどの大岩の上で1日と欠かさず、夫が消息を絶った沖合の見える方角を見守り、ひたすら無事を祈った。
数年後、奇跡は実現した。夫が無事に妻のもとに帰ってきたのだ。その後、2人は仲睦まじく家を興し、立身出世したという。
当時の村人たちはこの妻の貞操を讃え、女性たちへの教訓歌を作り残している。
この岩のてっぺんにある周囲6m、深さ50cmの水たまりが無蔵水と言われているもの。
水は決して涸れることはなく、それはまさしく夫の無事をひたすら信じ抜いた、妻の無償の愛のように滾滾と湧き出ているそうだ。
てるしのNET 伊平屋村 役場観光ガイドマップ|伊平屋村ホームページ
http://www.vill.iheya.okinawa.jp/detail.jsp?id=12532&menuid=423...
離島の旅日本の旅 伊平屋島
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>>13
そう言ってくれて感謝。
サイト立ち上げは考えたことがあるけど、あくまで余興でやってるだけだから勘弁ね。
飽きっぽい性格だから、たぶんモチベーションが持続しないと思う。それに最近はネタも枯渇しつつあるし、
このスレも続編を立てたはいいがどこまで続けることができるかどうか怪しかったり……。
そういう危ういバランスを保ったまま、這うように進んでいくだけです。
罪人を突き落とした処刑場跡・三丁落鼻 与路島(よろしま)
鹿児島県は奄美群島に属する有人島の与路島。島には集落が1つしかない。
家々はサンゴを積み上げた石垣が連なり、南方系特有の景観が広がっている。標高297mの大勝山を中心に、ほとんどが山で形成されている。
そんな与路島には島の南側に『三丁落鼻』と呼ばれるいわくつきの断崖絶壁がある。ここはかつて藩政時代、罪人の処刑場だったのだ。
処刑法は罪人をこの断崖から突き落とすやり方。高さは優に100mを超える。落ちたらひとたまりもあるまい。
あるとき、役人が1人の罪人を引きつれて三丁落鼻に行き、刑を執行することになった。時刻はまさに太陽が東から昇ったばかりの早朝。
刑の執行前、罪人は役人に向かってこう言った。
「あんなきれいな太陽を前にして死んでいくのは忍び難い。どうせこの世から消え去るなら、せめてささやかな頼みを聞いてくれ。
どうか太陽を背にしておれを落としてくれ。そもそも海の方を向いて突き落とされるのは怖い」
「どちらに転んでも、もうすぐおまえは死ぬんだ。……よかろう」と、役人は了解した。
ところが突き落とす瞬間、罪人はとっさに役人の胸ぐらをつかむと抱きしめ、もろとも転落した。怒涛が2人をかき消した。
これ以来、三丁落鼻での処刑は行われなくなったという。
SIESTA 秘島・大島海峡クルージング
http://www.nippon-ocean.jp/plan/kakerom...
徒然なる奄美 与路島・海物語
http://amamiturezure.blog67.fc2.com/blog-entry-440.htm...
奄美ホライゾン日記blog
http://amahorizon.exblog.jp/i5/32...
そう言ってくれて感謝。
サイト立ち上げは考えたことがあるけど、あくまで余興でやってるだけだから勘弁ね。
飽きっぽい性格だから、たぶんモチベーションが持続しないと思う。それに最近はネタも枯渇しつつあるし、
このスレも続編を立てたはいいがどこまで続けることができるかどうか怪しかったり……。
そういう危ういバランスを保ったまま、這うように進んでいくだけです。
罪人を突き落とした処刑場跡・三丁落鼻 与路島(よろしま)
鹿児島県は奄美群島に属する有人島の与路島。島には集落が1つしかない。
家々はサンゴを積み上げた石垣が連なり、南方系特有の景観が広がっている。標高297mの大勝山を中心に、ほとんどが山で形成されている。
そんな与路島には島の南側に『三丁落鼻』と呼ばれるいわくつきの断崖絶壁がある。ここはかつて藩政時代、罪人の処刑場だったのだ。
処刑法は罪人をこの断崖から突き落とすやり方。高さは優に100mを超える。落ちたらひとたまりもあるまい。
あるとき、役人が1人の罪人を引きつれて三丁落鼻に行き、刑を執行することになった。時刻はまさに太陽が東から昇ったばかりの早朝。
刑の執行前、罪人は役人に向かってこう言った。
「あんなきれいな太陽を前にして死んでいくのは忍び難い。どうせこの世から消え去るなら、せめてささやかな頼みを聞いてくれ。
どうか太陽を背にしておれを落としてくれ。そもそも海の方を向いて突き落とされるのは怖い」
「どちらに転んでも、もうすぐおまえは死ぬんだ。……よかろう」と、役人は了解した。
ところが突き落とす瞬間、罪人はとっさに役人の胸ぐらをつかむと抱きしめ、もろとも転落した。怒涛が2人をかき消した。
これ以来、三丁落鼻での処刑は行われなくなったという。
SIESTA 秘島・大島海峡クルージング
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徒然なる奄美 与路島・海物語
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サバイバルの殿様、リベンジャーとなり生還を果たす 玄界島(げんかいじま)
玄界島は福岡湾の出入口に浮かぶ離島だ。標高218mの遠見山を中心に斜面が海岸線まで続き、平地はほとんどなく、
港がある南側の斜面に集落が張り付くように軒を並べている。
玄界島には太古より『百合若伝説』が伝えられており、それにまつわる小鷹神社が鎮座している。
百合若伝説は日本八大伝説の1つで、室町時代には幸若舞として脚色され、のちに近松門左衛門の浄瑠璃に影響を与えているという。
その伝説とは以下のとおりである。
昔、豊後の国主である百合若大臣という巨漢の殿様がいた。百合若は唯一、鉄の弓を引くことができる名人でもあった。
あるとき遠征に出かけた際、部下である別府貞澄の裏切りに遭い、当時は無人島であった玄界島に1人取り残されてしまう。
しかし強靭な意志をもつ百合若は、必ず故国に帰ることを誓い、木で作った弓で魚を射ては、それを食って生き抜いた。
とはいえ島での忍従生活は無味乾燥なものだった。耳に入るのは波が打ち寄せる音だけ。目にするものは大海原と空のみ。
夜、寝そべり、夜空の星を数えるでしか無聊を慰めるしかない。いつしか孤独に打ちのめされ、心が折れそうになる。
しだいに着ている服はボロ同然となり、髪もひげも伸び放題、肌は真っ赤に日焼け、さながら赤鬼のように変わり果てた。
かつての地位は見る陰もなかった。
しばらく経ったある日、百合若が獲物を狙っていると、空から1羽の鷹が飛んでくるではないか。
紛れもない。それはかつて百合若が可愛がっていた『緑丸』に相違ない。幾百の孤独の日々に耐え忍んできた百合若にとって、
愛鷹との再会は天にも昇るようであった。
百合若はさっそく着物の端をちぎってそれを紙とし、指を切って血文字で自身の無事をつづり、妻宛にと緑丸の足に手紙をくくりつけた。
あとは緑丸が無事豊後の国に帰り、妻に届けてくれるよう願うしかあるまい。
ところが待てど暮らせど緑丸は戻ってこない。ある日、島を散策していると、波打ち際に緑丸が力尽きて死んでいるのを発見する。
百合若は嘆き悲しんだが、緑丸の足に妻からの伝言が結わえてあるのを見つけると、むさぼるようにそれを読んだ。
手紙によると、裏切り者、貞澄は大臣になっていた。しかも百合若の妻を奪った挙句、牢に閉じ込めたうえ、民衆には重税を課し、
自身を含め権力者たちは贅沢の限りを尽くしていた。民はいま、絶望に打ちひしがれているという。
百合若の身内に沸々とマグマのような怒りがこみ上げてきた。
このまま野垂れ死にしてなるものか。必ずや豊後へ舞い戻り、妻を奪還し、奴に復讐の一矢を突き立ててやる。
その願いが天に届いたか、1艘の難破船が漂着した。百合若はそれを修繕し、ついに玄界島を脱出。一路、故国を目指す。
折しも豊後の国では、貞澄が力自慢の部下を集めて、鉄の弓を引かせる催しに戯れていた。みごと弓を引けた者には褒美を取らすという。
部下はこぞって挑戦するものの、鉄弓はビクともしない。何人束になってかかろうがまるでダメ。
そのとき、屋敷の屋根の上で、呵々大笑する巨漢が現われた。その姿は髪もひげも伸び放題の汚い男。
「その弓はおれにしか引けん。どれ、やらせてみろ」と、男は言った。
時ならぬ狼藉者に貞澄は激怒した。「たわけたことを。だったら引いてみるがよい。もしも引けぬなら打ち首にしてやるぞ!」
巨漢は鉄弓を手にすると、やすやすと引き絞った。そして貞澄に矢を向けてこう言った。「貞澄、待たせたな、地獄の底から這い戻ってきたぞ。
このおれが誰だかわかるか!」
「……ま、まさか百合若? 生きていたのか!」
「貞澄、おれをひと思いに殺さなかったのが運の尽きだ!」百合若は言うと、矢を放った。矢は貞澄の心臓を射抜き、仇は桟敷から転落した。
その後、百合若は妻と再会を果たし、ふたたび大臣と返り咲いた。時間はかかったが国はもとの平穏を取り戻した。
百合若大臣wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%99%BE%E5%90%88%E8%8B%...
日本語と日本文化 幸若舞「百合若大臣」(日本版「オデッセー」の物語)
http://japanese.hix05.com/Performing/kowaka/kowaka02.htm...
Dailymotion動画 0126 百合若大臣
http://www.dailymotion.com/video/xkoef0_0126-%E7%99%BE%E5...
福岡県島めぐり 玄界島
http://www.yado.co.jp/sima/genkai/genkai.ht...
玄界島は福岡湾の出入口に浮かぶ離島だ。標高218mの遠見山を中心に斜面が海岸線まで続き、平地はほとんどなく、
港がある南側の斜面に集落が張り付くように軒を並べている。
玄界島には太古より『百合若伝説』が伝えられており、それにまつわる小鷹神社が鎮座している。
百合若伝説は日本八大伝説の1つで、室町時代には幸若舞として脚色され、のちに近松門左衛門の浄瑠璃に影響を与えているという。
その伝説とは以下のとおりである。
昔、豊後の国主である百合若大臣という巨漢の殿様がいた。百合若は唯一、鉄の弓を引くことができる名人でもあった。
あるとき遠征に出かけた際、部下である別府貞澄の裏切りに遭い、当時は無人島であった玄界島に1人取り残されてしまう。
しかし強靭な意志をもつ百合若は、必ず故国に帰ることを誓い、木で作った弓で魚を射ては、それを食って生き抜いた。
とはいえ島での忍従生活は無味乾燥なものだった。耳に入るのは波が打ち寄せる音だけ。目にするものは大海原と空のみ。
夜、寝そべり、夜空の星を数えるでしか無聊を慰めるしかない。いつしか孤独に打ちのめされ、心が折れそうになる。
しだいに着ている服はボロ同然となり、髪もひげも伸び放題、肌は真っ赤に日焼け、さながら赤鬼のように変わり果てた。
かつての地位は見る陰もなかった。
しばらく経ったある日、百合若が獲物を狙っていると、空から1羽の鷹が飛んでくるではないか。
紛れもない。それはかつて百合若が可愛がっていた『緑丸』に相違ない。幾百の孤独の日々に耐え忍んできた百合若にとって、
愛鷹との再会は天にも昇るようであった。
百合若はさっそく着物の端をちぎってそれを紙とし、指を切って血文字で自身の無事をつづり、妻宛にと緑丸の足に手紙をくくりつけた。
あとは緑丸が無事豊後の国に帰り、妻に届けてくれるよう願うしかあるまい。
ところが待てど暮らせど緑丸は戻ってこない。ある日、島を散策していると、波打ち際に緑丸が力尽きて死んでいるのを発見する。
百合若は嘆き悲しんだが、緑丸の足に妻からの伝言が結わえてあるのを見つけると、むさぼるようにそれを読んだ。
手紙によると、裏切り者、貞澄は大臣になっていた。しかも百合若の妻を奪った挙句、牢に閉じ込めたうえ、民衆には重税を課し、
自身を含め権力者たちは贅沢の限りを尽くしていた。民はいま、絶望に打ちひしがれているという。
百合若の身内に沸々とマグマのような怒りがこみ上げてきた。
このまま野垂れ死にしてなるものか。必ずや豊後へ舞い戻り、妻を奪還し、奴に復讐の一矢を突き立ててやる。
その願いが天に届いたか、1艘の難破船が漂着した。百合若はそれを修繕し、ついに玄界島を脱出。一路、故国を目指す。
折しも豊後の国では、貞澄が力自慢の部下を集めて、鉄の弓を引かせる催しに戯れていた。みごと弓を引けた者には褒美を取らすという。
部下はこぞって挑戦するものの、鉄弓はビクともしない。何人束になってかかろうがまるでダメ。
そのとき、屋敷の屋根の上で、呵々大笑する巨漢が現われた。その姿は髪もひげも伸び放題の汚い男。
「その弓はおれにしか引けん。どれ、やらせてみろ」と、男は言った。
時ならぬ狼藉者に貞澄は激怒した。「たわけたことを。だったら引いてみるがよい。もしも引けぬなら打ち首にしてやるぞ!」
巨漢は鉄弓を手にすると、やすやすと引き絞った。そして貞澄に矢を向けてこう言った。「貞澄、待たせたな、地獄の底から這い戻ってきたぞ。
このおれが誰だかわかるか!」
「……ま、まさか百合若? 生きていたのか!」
「貞澄、おれをひと思いに殺さなかったのが運の尽きだ!」百合若は言うと、矢を放った。矢は貞澄の心臓を射抜き、仇は桟敷から転落した。
その後、百合若は妻と再会を果たし、ふたたび大臣と返り咲いた。時間はかかったが国はもとの平穏を取り戻した。
百合若大臣wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%99%BE%E5%90%88%E8%8B%...
日本語と日本文化 幸若舞「百合若大臣」(日本版「オデッセー」の物語)
http://japanese.hix05.com/Performing/kowaka/kowaka02.htm...
Dailymotion動画 0126 百合若大臣
http://www.dailymotion.com/video/xkoef0_0126-%E7%99%BE%E5...
福岡県島めぐり 玄界島
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時間厳守の島 六島(むしま)
長崎県の野崎島から北約1kmにある小島を六島と呼ぶ。人口は年々減り、今では30人ほどしか住んでいない。
小中学校分校はすでに廃校となり、診療所もないどころか1台の車すらないんだとか。
野崎島の東南にある小値賀島の笛吹港から定期船が出ており、六島にも寄るのだが降りる人も乗る人もほとんどいない。
そんな六島であるが、1つだけ他とは異なる『島憲法』がある。というのも、六島は時間厳守の島として知られているのだ。
ここでは自治会長(1年交替制)が決められ、漁業の入金、公共料金の支払いなど、島のお金の出入りはすべて会長が一括して行っており、
いわゆる共和制度を今も残している。
そもそも時間に厳しくなったにはわけがある。明治時代に発生したある事故がきっかけとなったという。
昔から六島の周囲は潮の流れが速く、港の出入りは苦労が絶えなかった。あるとき、1人の島民が船の出発時刻に遅れ、
その間に潮の流れが変わってしまい、船が潮に揉まれるうちに転覆事故を起こした。
以来、六島では時間に遅れることは御法度となったという。
それゆえ、こんなエピソードも生まれた。ある日、葬式をするため別の島へ僧侶を迎えに行ったはいいが、
約束した時刻に僧侶が間に合わなかったので船はそのまま六島に引き返してしまった……。
厳しい自然環境に囲まれているからこそルールは厳格に守る。生きることはかくも真剣なのだ。
上五島・小値賀ポータルサイト 時間厳守の島 島憲法もある時間厳守の島・六島
http://www.japan-island.info/portal/guide?cntnts_id=59&gnre...
五島の歴史(パート7)
http://members3.jcom.home.ne.jp/honnjyo/120rekisi.ht...
長崎県の野崎島から北約1kmにある小島を六島と呼ぶ。人口は年々減り、今では30人ほどしか住んでいない。
小中学校分校はすでに廃校となり、診療所もないどころか1台の車すらないんだとか。
野崎島の東南にある小値賀島の笛吹港から定期船が出ており、六島にも寄るのだが降りる人も乗る人もほとんどいない。
そんな六島であるが、1つだけ他とは異なる『島憲法』がある。というのも、六島は時間厳守の島として知られているのだ。
ここでは自治会長(1年交替制)が決められ、漁業の入金、公共料金の支払いなど、島のお金の出入りはすべて会長が一括して行っており、
いわゆる共和制度を今も残している。
そもそも時間に厳しくなったにはわけがある。明治時代に発生したある事故がきっかけとなったという。
昔から六島の周囲は潮の流れが速く、港の出入りは苦労が絶えなかった。あるとき、1人の島民が船の出発時刻に遅れ、
その間に潮の流れが変わってしまい、船が潮に揉まれるうちに転覆事故を起こした。
以来、六島では時間に遅れることは御法度となったという。
それゆえ、こんなエピソードも生まれた。ある日、葬式をするため別の島へ僧侶を迎えに行ったはいいが、
約束した時刻に僧侶が間に合わなかったので船はそのまま六島に引き返してしまった……。
厳しい自然環境に囲まれているからこそルールは厳格に守る。生きることはかくも真剣なのだ。
上五島・小値賀ポータルサイト 時間厳守の島 島憲法もある時間厳守の島・六島
http://www.japan-island.info/portal/guide?cntnts_id=59&gnre...
五島の歴史(パート7)
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哀れ白縫姫、蛇体となりて行方をくらます……『白縫姫伝説』 蛇島(じゃじま)
かつて長崎県佐世保市の九十九島に属する五島灘に、蛇島と呼ばれる無人島があった。
島には悲しくも不思議な伝説が語り継がれているが、今やそれも忘却の彼方に押しやられようとしている。
時は戦国の世。まさに争乱の時代。ここ佐世保城主の遠藤但馬守に白縫姫(しらぬいひめ)という美しい娘がいた。
あるときのこと、主筋にあたる相浦の飯盛城主・松浦丹後守親九郎親が、烏帽子岳の狩りの帰りに、この但馬館の門を叩いた。
他ならぬ丹後守の訪問とあっては歓待せねばなるまい。但馬館では酒席を設け、姫に舞いを披露させもてなした。
このとき、丹後守はあでやかに舞う姫の姿を一目見るなり虜となり、ぜひとも自身の側室にと申し入れた。
さりとて姫には赤崎伊予という婚約者がすでにおり、ましてや間もなく嫁いでいく身。
時の支配者、平戸の松浦鎮信の弟でもある丹後守といえば、遠藤但馬守にとって平伏せざるえない存在であったが、
娘のことを思えばこそ、丹後守のしつこい申し出に首を振り続けた。
丹後守は諦めきれない。どうしても白縫姫を我が物にしたかった。ついには但馬守に対して怒りを憶えた。
やがて横恋慕は、但馬謀叛にかこつけて但馬館を急襲し、姫を力づくで奪おうとまでエスカレートしてしまう。
不意をつかれた但馬館はたちまち炎上。戦闘もあえなく片付き、ついに落ちた。
ところが丹後守は血眼になって館を探すものの、白縫姫の姿は見当たらない。
兵士たちも姫の行方を追って将冠岳の頂上近く来たとき、突然、岩穴の中から白い煙とともに1匹の白い大蛇が這い出た。
そして兵士たちが驚嘆しているのをよそに悠然と山をおり、佐世保浦のあたりから海に入って、赤崎館の方へ向かって泳いでいった。
しかしその蛇体は途中の小島でふっつりと消え、二度と姿を現すことはなかった。
これを目撃した人々は、きっと姫の一念が蛇の姿に変え、愛しい赤崎伊予がいる赤崎館に向かって渡ろうとしたが、
力尽きて無人島で死んでしまったに違いないと思った。それからというもの、誰がともなくこの島を蛇島と呼ぶようになった。
とはいえ1905(明治38)年、この島を利用して大繋船池が作られると、巨大なコンクリート岸壁の下に埋もれて、
蛇島は見る陰もない姿に変わり果てた。そういうわけで、この伝説もいずれ忘れられていくのだろう……。
佐世保人グスタフの熱情と冷静の間 蛇島伝説①
http://sasebodaisuki.blog38.fc2.com/blog-entry-123.htm...
長崎県佐世保市の民話 福娘童話集 きょうの新作昔話 蛇島(じゃじま)
http://hukumusume.com/douwa/new/2014/07/21.ht...
がんばらんば! 佐世保民商 佐世保と、その周辺(15)「島の伝説・昔話」・・・巻さんのコラム
http://sasebominsho.blog123.fc2.com/blog-entry-164.htm...
かつて長崎県佐世保市の九十九島に属する五島灘に、蛇島と呼ばれる無人島があった。
島には悲しくも不思議な伝説が語り継がれているが、今やそれも忘却の彼方に押しやられようとしている。
時は戦国の世。まさに争乱の時代。ここ佐世保城主の遠藤但馬守に白縫姫(しらぬいひめ)という美しい娘がいた。
あるときのこと、主筋にあたる相浦の飯盛城主・松浦丹後守親九郎親が、烏帽子岳の狩りの帰りに、この但馬館の門を叩いた。
他ならぬ丹後守の訪問とあっては歓待せねばなるまい。但馬館では酒席を設け、姫に舞いを披露させもてなした。
このとき、丹後守はあでやかに舞う姫の姿を一目見るなり虜となり、ぜひとも自身の側室にと申し入れた。
さりとて姫には赤崎伊予という婚約者がすでにおり、ましてや間もなく嫁いでいく身。
時の支配者、平戸の松浦鎮信の弟でもある丹後守といえば、遠藤但馬守にとって平伏せざるえない存在であったが、
娘のことを思えばこそ、丹後守のしつこい申し出に首を振り続けた。
丹後守は諦めきれない。どうしても白縫姫を我が物にしたかった。ついには但馬守に対して怒りを憶えた。
やがて横恋慕は、但馬謀叛にかこつけて但馬館を急襲し、姫を力づくで奪おうとまでエスカレートしてしまう。
不意をつかれた但馬館はたちまち炎上。戦闘もあえなく片付き、ついに落ちた。
ところが丹後守は血眼になって館を探すものの、白縫姫の姿は見当たらない。
兵士たちも姫の行方を追って将冠岳の頂上近く来たとき、突然、岩穴の中から白い煙とともに1匹の白い大蛇が這い出た。
そして兵士たちが驚嘆しているのをよそに悠然と山をおり、佐世保浦のあたりから海に入って、赤崎館の方へ向かって泳いでいった。
しかしその蛇体は途中の小島でふっつりと消え、二度と姿を現すことはなかった。
これを目撃した人々は、きっと姫の一念が蛇の姿に変え、愛しい赤崎伊予がいる赤崎館に向かって渡ろうとしたが、
力尽きて無人島で死んでしまったに違いないと思った。それからというもの、誰がともなくこの島を蛇島と呼ぶようになった。
とはいえ1905(明治38)年、この島を利用して大繋船池が作られると、巨大なコンクリート岸壁の下に埋もれて、
蛇島は見る陰もない姿に変わり果てた。そういうわけで、この伝説もいずれ忘れられていくのだろう……。
佐世保人グスタフの熱情と冷静の間 蛇島伝説①
http://sasebodaisuki.blog38.fc2.com/blog-entry-123.htm...
長崎県佐世保市の民話 福娘童話集 きょうの新作昔話 蛇島(じゃじま)
http://hukumusume.com/douwa/new/2014/07/21.ht...
がんばらんば! 佐世保民商 佐世保と、その周辺(15)「島の伝説・昔話」・・・巻さんのコラム
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>>18
あれま……まさかこんなに反響があろうとは。
職場の人にも当スレを紹介すると、同じように勧められることがあるけど(そのたびに島マニアは変人扱いを受ける)、
こんなことより他にやりたいことがあるのになあ……。
確かにこれまで書いたレスも、誤字脱字・蛇足があったりして修正したいとは思ってたんだよね。
ここ最近、必ず土日か祭日のみ更新できるよう鉄の規則を己に課し(平日の夜はしこたま酒が入ってて、マトモに文が書けません)、
なんとか続けられているのは救いだけど、仮にサイトを立ち上げたはいいが、コンスタントにネタがひねり出せるかどうか不安なのよ。
しょっぱい話ばかり続くのはなんとしても避けたいし。
……まあ、前向きに考えておきます。どうせやるなら隙のないものを作りたい。そのためにはさらなる資料の調達が必須。
あれま……まさかこんなに反響があろうとは。
職場の人にも当スレを紹介すると、同じように勧められることがあるけど(そのたびに島マニアは変人扱いを受ける)、
こんなことより他にやりたいことがあるのになあ……。
確かにこれまで書いたレスも、誤字脱字・蛇足があったりして修正したいとは思ってたんだよね。
ここ最近、必ず土日か祭日のみ更新できるよう鉄の規則を己に課し(平日の夜はしこたま酒が入ってて、マトモに文が書けません)、
なんとか続けられているのは救いだけど、仮にサイトを立ち上げたはいいが、コンスタントにネタがひねり出せるかどうか不安なのよ。
しょっぱい話ばかり続くのはなんとしても避けたいし。
……まあ、前向きに考えておきます。どうせやるなら隙のないものを作りたい。そのためにはさらなる資料の調達が必須。
熊野川に御船明神が祀られた島あり 御船島(みふねじま)
我々は『島』をイメージするとき、ほとんどの人が海上に浮かぶシルエットを思い浮かべるにちがいない。
前スレを含め、9割方、海という水域にある島を取り上げてきた。変化球をつけるべく湖中の島もやった。
前スレ>>412の猫島などは巨大な池の中のソレだった。
島の定義によれば、「四方を水に囲まれた小陸地を島と呼ぶ」とある。とすれば、あとは川の中の島も選んで然るべきかもしれない。
実は以前から『川中島』(仮にこう命名する)で狙っていたネタがあった。それもわりと僕の地元近辺にあるのだから、ますます見すごせない。
それが御船島である。三重県南牟婁郡紀宝町に属し、熊野川河口より約2km上流に位置する堆積岩から形成された小島で、当然ながら無人島だ。
実はこの御船島、少し離れた対岸に鎮座する熊野速玉大社(和歌山県新宮市)の社地として指定されており、島には御船明神が祀られているという。
毎年10月15から16日にかけて、熊野速玉大社の例大祭として『熊野速玉祭』という神事が催される。
そのとき15日を『神馬渡御式(しんめとぎょしき)』とし、翌16日を『御船祭(みふねまつり)』が行われる。
速玉大社は『熊野十二所権現』と総称される複数の神を祀るが、本祭礼はその中でも主祭神である速玉大神と夫須美大神に対してのもので、
宗教民俗学的な解釈にしたがえば、常世から来た神霊が熊野川を遡上して御船島に鎮座したあと、乙基河原を経て新宮に遷座したという熊野権現来臨の
ありさまを演じた祭りである。
特筆すべきは16日午後の御船祭。
熊野夫須美大神(くまのふすみのおおかみ)が年に一度、神幸船で御船島に渡り、ふたたび速玉大社の社殿に還ってくるという神事で、
夫須美大神が来臨した様子を再現する祭礼のことだ。
神輿から神霊が諸手船(もろとぶね)に曳かれた神幸船に移されると、雅やかな神楽が奏される。
すると熊野大橋下の川原で艫(とも)を岸につけて一列になっていた9雙の早舟が我先に岸を離れる。
舟を操る男たちは川上を遡り、はるか御船島を目指すのだ。そして御船島を3周して対岸の相筋河原にゴールする上がりの早舟競漕が始まる。
上がりの早舟競漕が終了すると、斎主船に曳かれた諸手船、神幸船が上がってくる。
諸手船の上では女装の演者が櫂を回して、行く手を望遠するしぐさの『ハリハリ踊り』が行われる。
斎主船が相筋河原に着くと、御船島の上に立つ神職の合図で、下りの早舟競漕がスタート。岸で待機していた早舟が御船島を2周して神社裏の河原にゴールする。
神輿に遷された神霊とともに神職ら一行は御旅所へ渡御し、前夜と同様の祭儀を執行したあと、夜中、神霊を奉じて大社に戻り、
神霊を大社の第二殿におさめて、祭は幕を閉じる。
このような緒手船神事のなかで9隻の舟が競漕する船渡御は全国に類例がなく1800年以上の伝統を誇るという。
勇壮な競漕を見せる早舟は古式を保った舟形で鯨船の祖形といわれ、中世に強力な武力をもってその名を知らしめた熊野水軍の面影を偲ばせるもの。
『夫木和歌抄(ふぼくわかしょう)』という鎌倉後期の私撰和歌集に御船島が登場する歌がある。
「三熊野のうらわにみゆるみふね島 神のゆききにこぎめぐるなり」
熊野速玉大社
http://www2.ocn.ne.jp/‾sanzan/NTTcontents/hayatama/index.htm
HBのページ 御船祭り
http://blog.murablo.jp/crushkun/kiji/15587.htm...
熊野ヒーリング 熊野速玉大社例大祭〜御船祭
http://blog.murablo.jp/kumano-healing/kiji/268628.htm...
YOMIURI ONLINE 傷ついた聖地 復興への祈り
http://www.yomiuri.co.jp/zoomup/zo_111031_01.ht...
今日の午前中、外出したついでに熊野川まで足を伸ばし撮影してきた。撮れたてホヤホヤの御船島です。ところがあいにくの天気。
>>19の画像は拾いにすぎない。まさに御船祭の最中を写したものだろう。恐らく結構昔の在りし日の姿だ。
現実は2011年9月に発生した台風12号による紀伊半島豪雨で、周辺一帯のみならず、御船島も甚大な被害を受けた。
熊野川が氾濫し、この島も濁流に飲み込まれたのだ。以前はこんもりと木々が繁茂し、杜御用達の島としての風情を醸していたが、
木々はなぎ倒されてすっかりハゲ山と化し、瓦礫が積み重なった見るも無残な姿をさらしていたものだ。
あれから2年2ヶ月。瓦礫は撤去され、島はどうにか以前の面影を取り戻しつつある。
>>19の画像は拾いにすぎない。まさに御船祭の最中を写したものだろう。恐らく結構昔の在りし日の姿だ。
現実は2011年9月に発生した台風12号による紀伊半島豪雨で、周辺一帯のみならず、御船島も甚大な被害を受けた。
熊野川が氾濫し、この島も濁流に飲み込まれたのだ。以前はこんもりと木々が繁茂し、杜御用達の島としての風情を醸していたが、
木々はなぎ倒されてすっかりハゲ山と化し、瓦礫が積み重なった見るも無残な姿をさらしていたものだ。
あれから2年2ヶ月。瓦礫は撤去され、島はどうにか以前の面影を取り戻しつつある。
日本が誇る3大景勝地の1つに神秘の7不思議あり 宮島(厳島) 1
言うまでもなく厳島神社の社が鎮座する宮島は、広島県廿日市市宮島町、広島湾の北西部の海上に佇む朱塗りの大鳥居が印象的な島だ。
この大鳥居は高さ16mもあり、海底に固定されておらず自重だけで立っている。日本が誇る松島・天橋立と並び、3大景勝地の1つとして有名である。
現在では人口1800人あまりの島に、国内外から年間300万人を超える参拝客および観光客が訪れており、2011年には、世界最大の旅行クチコミサイト
『TripAdvisor(R)』の日本法人・トリップアドバイザーが『外国人に人気の日本の観光スポット』のトップ20の堂々1位に輝いた。
前スレを含め、当スレでは『神の島』の異名をもつ島をくり返し紹介してきたが、宮島はその名に恥じぬ最たる例であろう。
宮島が太古より神の斎(いつ)く島として崇められるようになってからの歴史は古く、史実に名を連ねる多くの人物が崇敬してきた。
とりわけ平家清盛・平家一門の宮島崇拝は有名で、舞楽、清盛の保元の乱、平治の乱の勝利や官位昇進につれ、その信仰は年ごとに篤くなり、
仁安3年(1168)には、神社の造営まで行っている。
また平安朝の建造物から江戸時代にかけての美術品など国宝や重要文化財などを含め、多くのものが収蔵されている。
平成8年には厳島神社が世界遺産に登録を果たした。
宮島は島自体がご神体であり神域とされるため、血や死といったケガレの忌避は顕著であるという。
島で死人が出た場合、すぐに対岸の赤崎の地に移して葬るとされている。赤崎は現在のJR宮島口駅のやや西にあり、
かつては遺族は喪が明けるまで島に戻ることができなかった。この風習は第二次世界大戦ごろまで続いていたという。
それにともない、島には墓地がないそうだ。墓そのものを築いてはならず、それは現在とて1基もないほど。
また島の女性に出産が迫ると、対岸に渡って出産後、100日を経て島に戻るしきたりであった。女性は生理の時期には、町衆が設けた小屋ですごした。
……あの有名な宮島を、当スレに載せてしまうのはいささか暴挙とも言えるかもしれない。
しかしながら厳島神社特有の7不思議(実際は7つどころではない)の神秘は、あながちスレチとも言えまい。
もっとも、あまりにも多いため列挙するだけにとどめるが。
1.宮うつし貝……大鳥居の根潟にいる白い貝の殻には、鳥居や神社の形をした模様が入っているという。採るのはおろか食すると罰が当たるとされる。
2.猿の口どめ……毎年10月の初申祭で『口どめ』の行事が行われる。この日は、島で大きな声や物音を立ててはならない。
3.つもごり山伏……大晦日に行われる鎮火祭は、元は大聖院の祭りだった。大聖院から厳島神社拝殿まで山伏が松明を持ってほら貝を吹き、
火の粉をまき散らしながら走り抜ける行事。不思議なことに、この火が原因で火事になったことは一度もない。残り火は火事よけのお守りになるとされている。
4.多賀江念仏……毎年旧暦7月16日、17日は『厳島おどり』の日。昔々、多賀江兵衛なる大将が、厳島おどりの夜、戦船で沖を通りかかった。
島じゅうの人間が浜で踊っていたのを見て、激怒した兵衛。「兵たちが戦をやっているというのに、不謹慎ではないか!」と、船上から怒鳴った。
とたんに神罰がくだり、兵衛は船もろともに沈没。その後、死んだ兵衛の亡霊が夜な夜な沖を通る船に悪さをするので、厳島おどりの夜、
念仏百万遍を唱えて兵衛の霊を鎮めるようにした。これが多賀江念仏の始まりだという。
5.そとば石……昔、平康頼という人物が、薩摩の鬼界ヶ島に流罪になった。都に1人残した母を思い、康頼は墓に立てる卒塔婆に、
「薩摩潟 沖の小島に われありと 親につげよ 八重の潮風」という和歌を千枚書いて海に流した。
その卒塔婆の1枚が厳島に漂着し、たまたまお参りにきていた康頼縁者の坊さんが見つけて都の母に届けた。
康頼の母は70を超える高齢で、息子の流した卒塔婆をかき抱いて泣いた。やがて康頼は罪を許されると、無事に母のもとに帰ることができた。
康頼はこれも平家一門を日ごろからお守りくださる厳島明神のおかげと、大きな灯篭を神社に寄進したという。
言うまでもなく厳島神社の社が鎮座する宮島は、広島県廿日市市宮島町、広島湾の北西部の海上に佇む朱塗りの大鳥居が印象的な島だ。
この大鳥居は高さ16mもあり、海底に固定されておらず自重だけで立っている。日本が誇る松島・天橋立と並び、3大景勝地の1つとして有名である。
現在では人口1800人あまりの島に、国内外から年間300万人を超える参拝客および観光客が訪れており、2011年には、世界最大の旅行クチコミサイト
『TripAdvisor(R)』の日本法人・トリップアドバイザーが『外国人に人気の日本の観光スポット』のトップ20の堂々1位に輝いた。
前スレを含め、当スレでは『神の島』の異名をもつ島をくり返し紹介してきたが、宮島はその名に恥じぬ最たる例であろう。
宮島が太古より神の斎(いつ)く島として崇められるようになってからの歴史は古く、史実に名を連ねる多くの人物が崇敬してきた。
とりわけ平家清盛・平家一門の宮島崇拝は有名で、舞楽、清盛の保元の乱、平治の乱の勝利や官位昇進につれ、その信仰は年ごとに篤くなり、
仁安3年(1168)には、神社の造営まで行っている。
また平安朝の建造物から江戸時代にかけての美術品など国宝や重要文化財などを含め、多くのものが収蔵されている。
平成8年には厳島神社が世界遺産に登録を果たした。
宮島は島自体がご神体であり神域とされるため、血や死といったケガレの忌避は顕著であるという。
島で死人が出た場合、すぐに対岸の赤崎の地に移して葬るとされている。赤崎は現在のJR宮島口駅のやや西にあり、
かつては遺族は喪が明けるまで島に戻ることができなかった。この風習は第二次世界大戦ごろまで続いていたという。
それにともない、島には墓地がないそうだ。墓そのものを築いてはならず、それは現在とて1基もないほど。
また島の女性に出産が迫ると、対岸に渡って出産後、100日を経て島に戻るしきたりであった。女性は生理の時期には、町衆が設けた小屋ですごした。
……あの有名な宮島を、当スレに載せてしまうのはいささか暴挙とも言えるかもしれない。
しかしながら厳島神社特有の7不思議(実際は7つどころではない)の神秘は、あながちスレチとも言えまい。
もっとも、あまりにも多いため列挙するだけにとどめるが。
1.宮うつし貝……大鳥居の根潟にいる白い貝の殻には、鳥居や神社の形をした模様が入っているという。採るのはおろか食すると罰が当たるとされる。
2.猿の口どめ……毎年10月の初申祭で『口どめ』の行事が行われる。この日は、島で大きな声や物音を立ててはならない。
3.つもごり山伏……大晦日に行われる鎮火祭は、元は大聖院の祭りだった。大聖院から厳島神社拝殿まで山伏が松明を持ってほら貝を吹き、
火の粉をまき散らしながら走り抜ける行事。不思議なことに、この火が原因で火事になったことは一度もない。残り火は火事よけのお守りになるとされている。
4.多賀江念仏……毎年旧暦7月16日、17日は『厳島おどり』の日。昔々、多賀江兵衛なる大将が、厳島おどりの夜、戦船で沖を通りかかった。
島じゅうの人間が浜で踊っていたのを見て、激怒した兵衛。「兵たちが戦をやっているというのに、不謹慎ではないか!」と、船上から怒鳴った。
とたんに神罰がくだり、兵衛は船もろともに沈没。その後、死んだ兵衛の亡霊が夜な夜な沖を通る船に悪さをするので、厳島おどりの夜、
念仏百万遍を唱えて兵衛の霊を鎮めるようにした。これが多賀江念仏の始まりだという。
5.そとば石……昔、平康頼という人物が、薩摩の鬼界ヶ島に流罪になった。都に1人残した母を思い、康頼は墓に立てる卒塔婆に、
「薩摩潟 沖の小島に われありと 親につげよ 八重の潮風」という和歌を千枚書いて海に流した。
その卒塔婆の1枚が厳島に漂着し、たまたまお参りにきていた康頼縁者の坊さんが見つけて都の母に届けた。
康頼の母は70を超える高齢で、息子の流した卒塔婆をかき抱いて泣いた。やがて康頼は罪を許されると、無事に母のもとに帰ることができた。
康頼はこれも平家一門を日ごろからお守りくださる厳島明神のおかげと、大きな灯篭を神社に寄進したという。
日本が誇る3大景勝地の1つに神秘の7不思議あり 宮島(厳島) 2
6.干満岩……弥山の8合目にある目洗薬師のそばの干満岩には、1mもない浅い穴が口を開けている。
穴には水がたまり、海の満ち干にあわせて増減する。塩分を含んだ水で、この水で眼を洗うと眼病が治ると言われている。
岩穴は標高約500mの地点にあり、いまだ科学的証明がなされていない奇現象らしい。
7.宮島の神馬……厳島神社に献上された馬は、ふつうの毛並みの馬も、4、5年も経つとみな白馬に変わる。
8.消えずの火……弥山には1200年間、絶えることなく燃え続けている霊火がある。
大同元年(806年)、弘法大師が弥山山頂で100日間に及ぶ求聞持(ぐもんじ)の秘法を修して以来、今日まで途絶えることなく燃え続ける霊火だという。
この火で沸かした霊水は万病に効くと言われている。また、明治34年(1901年)に操業を始めた八幡製鉄所の溶鉱炉の種火や、
広島市の平和記念公園の『平和の灯』の元火にもなった。
9.拍子木の音……深夜、人の気配のないところから拍子木の音が響き渡るとされている。
10.龍燈の火……旧正月の初旬の夜になると島周辺の海面に出没する謎の灯りを龍燈という。
この龍燈がもっともよく見える弥山頂上の大杉は『龍燈の杉』と呼ばれた。現在この杉は枯れてしまったが、それらしき根株が残されている。
11.錫杖の梅……弥山本堂のすぐ西の脇にある八重咲きの紅梅。弘法大師が立てかけた錫杖が根をはり、ついには梅の木になったという伝説が残っている。
毎年美しい花を咲かせるが、山内に不吉な兆しがあると咲かないらしい。
12.しぐれ桜……どんな晴天の日でも時雨のように露が落ち、地面は通り雨がすぎ去ったように濡れる不思議な桜。
江戸時代に発行された『厳島図会』にもその奇妙な現象が記されているとか。現在は伐採され、切り株だけが残っている。
13.曼荼羅岩……弘法大師が石面に梵字と真字で、「三世諸仏天照大神宮正八幡三所三千七百余神云々」と刻んだ数十畳の大岩がある。
14.誓真井戸……誓真氏は宮島杓子の考案者として知られており、宮島では数々の公共事業を行った。なかでも飲料水の不足に苦しむ島民のため、
各所に井戸を掘った。その井戸はどんな干ばつのときにも枯れることがないという。
15.奥の院の迷い道……上述したように島には墓地はなく、対岸の宮島口に埋葬する。しかし死後50年経つと仏が神になり、宮島に帰ることができると
言い伝えられている。50回忌を済ませると宮島の奥の院に卒塔婆を立て供養する。奥の院に卒塔婆を立てに行った多くの人が不思議な体験をしている。
奥の院に行こうとしても、なぜか元の道に帰ってしまう迷い道があるという。
16.暗い山……宮島の山中には日中でも日の差さない暗い山がある。宮島の山は神域なので、奥は手付かずの原生林そのままなのだから無理もあるまい。
宮島観光公式サイト 人と神々が共に生きる島〜宮島 嚴島神社
http://www.miyajima-wch.jp/jp/itsukushima/index.htm...
一般社団法人 宮島観光協会
http://www.miyajima.or.jp/index.htm...
御山神社
http://www.7kamado.net/misen.htm...
キャンピングカーで放浪の旅 世界遺産の島、宮島を歩く 〜厳島神社、千畳閣、大聖院 他〜 他(2010/4/8)
http://akkamui21.blog39.fc2.com/blog-entry-926.htm...
下川友子オフィシャルブログ「あなたに神様の光がとどきますように・・・☆」 厳島神社のパワーの元は・・・??奥宮〜☆ 御山神社
http://ameblo.jp/tomo-chupi/entry-10462001265.h...
6.干満岩……弥山の8合目にある目洗薬師のそばの干満岩には、1mもない浅い穴が口を開けている。
穴には水がたまり、海の満ち干にあわせて増減する。塩分を含んだ水で、この水で眼を洗うと眼病が治ると言われている。
岩穴は標高約500mの地点にあり、いまだ科学的証明がなされていない奇現象らしい。
7.宮島の神馬……厳島神社に献上された馬は、ふつうの毛並みの馬も、4、5年も経つとみな白馬に変わる。
8.消えずの火……弥山には1200年間、絶えることなく燃え続けている霊火がある。
大同元年(806年)、弘法大師が弥山山頂で100日間に及ぶ求聞持(ぐもんじ)の秘法を修して以来、今日まで途絶えることなく燃え続ける霊火だという。
この火で沸かした霊水は万病に効くと言われている。また、明治34年(1901年)に操業を始めた八幡製鉄所の溶鉱炉の種火や、
広島市の平和記念公園の『平和の灯』の元火にもなった。
9.拍子木の音……深夜、人の気配のないところから拍子木の音が響き渡るとされている。
10.龍燈の火……旧正月の初旬の夜になると島周辺の海面に出没する謎の灯りを龍燈という。
この龍燈がもっともよく見える弥山頂上の大杉は『龍燈の杉』と呼ばれた。現在この杉は枯れてしまったが、それらしき根株が残されている。
11.錫杖の梅……弥山本堂のすぐ西の脇にある八重咲きの紅梅。弘法大師が立てかけた錫杖が根をはり、ついには梅の木になったという伝説が残っている。
毎年美しい花を咲かせるが、山内に不吉な兆しがあると咲かないらしい。
12.しぐれ桜……どんな晴天の日でも時雨のように露が落ち、地面は通り雨がすぎ去ったように濡れる不思議な桜。
江戸時代に発行された『厳島図会』にもその奇妙な現象が記されているとか。現在は伐採され、切り株だけが残っている。
13.曼荼羅岩……弘法大師が石面に梵字と真字で、「三世諸仏天照大神宮正八幡三所三千七百余神云々」と刻んだ数十畳の大岩がある。
14.誓真井戸……誓真氏は宮島杓子の考案者として知られており、宮島では数々の公共事業を行った。なかでも飲料水の不足に苦しむ島民のため、
各所に井戸を掘った。その井戸はどんな干ばつのときにも枯れることがないという。
15.奥の院の迷い道……上述したように島には墓地はなく、対岸の宮島口に埋葬する。しかし死後50年経つと仏が神になり、宮島に帰ることができると
言い伝えられている。50回忌を済ませると宮島の奥の院に卒塔婆を立て供養する。奥の院に卒塔婆を立てに行った多くの人が不思議な体験をしている。
奥の院に行こうとしても、なぜか元の道に帰ってしまう迷い道があるという。
16.暗い山……宮島の山中には日中でも日の差さない暗い山がある。宮島の山は神域なので、奥は手付かずの原生林そのままなのだから無理もあるまい。
宮島観光公式サイト 人と神々が共に生きる島〜宮島 嚴島神社
http://www.miyajima-wch.jp/jp/itsukushima/index.htm...
一般社団法人 宮島観光協会
http://www.miyajima.or.jp/index.htm...
御山神社
http://www.7kamado.net/misen.htm...
キャンピングカーで放浪の旅 世界遺産の島、宮島を歩く 〜厳島神社、千畳閣、大聖院 他〜 他(2010/4/8)
http://akkamui21.blog39.fc2.com/blog-entry-926.htm...
下川友子オフィシャルブログ「あなたに神様の光がとどきますように・・・☆」 厳島神社のパワーの元は・・・??奥宮〜☆ 御山神社
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ダイダラボッチが作った島 礫島(つぶてじま)
静岡県浜松市の浜名湖には唯一の島である礫島が浮かんでいる。松に覆われた、ほんの200㎡の無人島にすぎない。
島には鳥居があり、その先には1617(天和3)年に琵琶湖の竹生島から移設した市杵島姫と弁財天を祀った礫石神社がある。
竹生島の成り立ちは前スレ>>238で紹介したとおりだが、この浜名湖の礫島の誕生もなかなか味わい深い説話が語り継がれている。
というのも、ダイダラボッチ伝説がかかわっているからだ。ダイダラボッチといえば伝説上の巨人のことだが、
なぜか日本にはこの手の話がよく転がっており、彼らの正体がなんであったのか食指が動くところ。
その礫島の誕生の話がこうだ。
かつてこの地に住むダイダラボッチは、富士山が地元の秋葉山より高いことに腹を立て、秋葉山に土を盛ろうとした。
土を掘った窪地こそ、のちに浜名湖となったという(あるいは転んだ拍子に地面に手をつき、手の平の跡が浜名湖になったという説もある)。
またダイダラボッチは作業の途中で疲れ、浜名湖のそばで腰をおろして握り飯にかじりついていた。
その握り飯の中に小石が混じっていたのを発見。ダイダラボッチはそれをつまんで放り投げた。そのときの小石が礫島だと伝えられている。
浜名湖周辺には他にもダイダラボッチにまつわる伝説が点在している。
下気賀の北にある姫街道沿いに小さな池があり『ダイダラボッチの足跡』と言われるし、石巻山の中腹にも同様の足跡がある。
ダイダラボッチwikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%80%E3%82%A4%E3%83%...
礫島
http://homepage3.nifty.com/y-iwata/densetu/tubutejima.ht...
eしずおかブログ 静岡 新“十”不思議第8話 ダイダラボッチ伝説
http://shin10fushigi.eshizuoka.jp/e947892.htm...
ナルキッソスの黄昏 歴史雑学と世界的ニュースまとめ ダイダラボッチの正体は?
http://narcissu.doorblog.jp/archives/31660273.htm...
アプリ学園 【重要まとめ】「進撃の巨人」がブームだから世界中の巨人についてまとめてみた【進撃の巨人 デジタルフォトステッカー】
http://appgaku.com/iphone-pickup/2013/06/20130619...
わらじ祭り公式ホームページ
http://www.warajimatsuri.jp/
静岡県浜松市の浜名湖には唯一の島である礫島が浮かんでいる。松に覆われた、ほんの200㎡の無人島にすぎない。
島には鳥居があり、その先には1617(天和3)年に琵琶湖の竹生島から移設した市杵島姫と弁財天を祀った礫石神社がある。
竹生島の成り立ちは前スレ>>238で紹介したとおりだが、この浜名湖の礫島の誕生もなかなか味わい深い説話が語り継がれている。
というのも、ダイダラボッチ伝説がかかわっているからだ。ダイダラボッチといえば伝説上の巨人のことだが、
なぜか日本にはこの手の話がよく転がっており、彼らの正体がなんであったのか食指が動くところ。
その礫島の誕生の話がこうだ。
かつてこの地に住むダイダラボッチは、富士山が地元の秋葉山より高いことに腹を立て、秋葉山に土を盛ろうとした。
土を掘った窪地こそ、のちに浜名湖となったという(あるいは転んだ拍子に地面に手をつき、手の平の跡が浜名湖になったという説もある)。
またダイダラボッチは作業の途中で疲れ、浜名湖のそばで腰をおろして握り飯にかじりついていた。
その握り飯の中に小石が混じっていたのを発見。ダイダラボッチはそれをつまんで放り投げた。そのときの小石が礫島だと伝えられている。
浜名湖周辺には他にもダイダラボッチにまつわる伝説が点在している。
下気賀の北にある姫街道沿いに小さな池があり『ダイダラボッチの足跡』と言われるし、石巻山の中腹にも同様の足跡がある。
ダイダラボッチwikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%80%E3%82%A4%E3%83%...
礫島
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島のヌシたる大蛇に相対し、潮垢離を済ませ正装し口上を述べる 比岐島(ひきじま)
愛媛県今治市桜井港沖、約6kmにある有人島である比岐島。
桜井地区の漁業者が移住して開拓した島で、もっとも多いときには70人を超える人口があったが、それも昔の話。
平成22年の国勢調査では1世帯人口3人まで減り、今や風前の灯となっている。だからこそ島の話をこのスレにとどめておきたい。
比岐島は慶長年間(1596〜1615年)に松の造林がなされ、最初の島民となる『守役人』が置かれた記録がある。
阿部家所蔵の古文書『当島言伝控書』にはその歴史が克明に記され、同時に不思議な大蛇伝説が添えられているのだ。
その経緯が以下のとおりである。
昔、玉川町の法界寺に利右衛門(りえもん)という農民がいた。ある日、利右衛門はもののはずみで大罪を犯してしまう。
打ち首にはされたくない。利右衛門は罪を償うため、比岐島に松の木を1万本植えることにより島を開拓してみせるので、
どうか命だけは助けてくれるよう、藩主をはじめ役人に願い出た。
当時の比岐島といえば、人が分け入ることができないほど雑草が生い茂り、樹木すら生えていない荒地だった。
利右衛門の必死の訴えが通じ、島での開拓作業が言い渡された。それからというもの利右衛門は島に入ると死に物狂いで働き、
3年がけで松の造林をやってのけた。
利右衛門はこうして放免され島から引き上げていった。それからあとは島に渡る者がなく、せっかくの造林も荒れてしまい、
たまりかねた今治藩主は、お触れを出して守役人を募った。
ところが名乗り出る者はいない。そこへ誰もいかぬなら私が行こうと、阿部孫左衛門(大庄屋曾我部三郎衛門の次男)が藩主に申し出た。
生来、豪胆で名が通っている孫左衛門は、松の木1万本を10万本に増やしてみせると誓ったほどであった。
この男、決断は早い。自身の3.6haほどの土地を売り払うと島へ渡り、さっそく住居の建築にとりかかった。
ところが比岐島開拓に暗雲が垂れこめる事件が起きる。
大工や左官を呼んで家を建てている最中に、突如草むらがガサガサと音がしたかと思うと、大蛇が姿を現わしたではないか。
その大きさたるや頭が3升樽なみ、長さ4.5mにも及ぶ巨大サイズ。その大蛇が家の棟に長々と巻き付いたうえ居座ったからたまらない。
大工と左官はあまりの恐ろしさに島から逃げ出すほどであった。
孫左衛門は腹を決めた。衣服を脱ぎ、海に入って身を清め、袴に袖を通した。
そして棟に居座る大蛇の前に平伏してこう言った。「あなたはこの島の主とお見受けします。私はこの島の開拓者として、
同時に見守り役として任命された者でございます。どうか私の仕事を無事完遂させていただきたい。
まずはあなた様がこの場から立ち退いてくれるようお願いします。その際には後日、祠を建て、
この島の産土神(うぶすながみ)として祀ることを約束いたします」
大蛇は孫左衛門の口上を理解したらしく、棟から巨体をすべらせると東の山へ去っていった。
後日、約束通り祠を建ててこの大蛇を祀り、これを氏神とした。
そのあとも例の大蛇が出たとの話が残っているが、やはり孫左衛門同様、みそぎをして拝むと、いずこともなく消え去ったという。
現代の比岐島では大蛇のことを『長い人』『あの人』『巳さん』というふうに人格化した呼び方をしており、大蛇の祠を丁重に祀り、
好物の卵やあずき飯が供えられるという。
旅、島、ときどき、不思議 今日は、人口6人の比岐島を紹介
http://ameblo.jp/tokaraushi/entry-10459814355.h...
日本の島々 日本の島、比岐島(日本に残された電気のない有人島)
http://islands.cocolog-nifty.com/blog/2007/05/post_22aa.htm...
今治商工会議所 六、動物に関するもの
http://www.imabaricci.or.jp/contentscci.php?prm=densetsu_...
教えて!goo 大蛇のいない日本で大蛇伝説が多いのはなぜ?
http://oshiete.goo.ne.jp/qa/2425223.htm...
愛媛県今治市桜井港沖、約6kmにある有人島である比岐島。
桜井地区の漁業者が移住して開拓した島で、もっとも多いときには70人を超える人口があったが、それも昔の話。
平成22年の国勢調査では1世帯人口3人まで減り、今や風前の灯となっている。だからこそ島の話をこのスレにとどめておきたい。
比岐島は慶長年間(1596〜1615年)に松の造林がなされ、最初の島民となる『守役人』が置かれた記録がある。
阿部家所蔵の古文書『当島言伝控書』にはその歴史が克明に記され、同時に不思議な大蛇伝説が添えられているのだ。
その経緯が以下のとおりである。
昔、玉川町の法界寺に利右衛門(りえもん)という農民がいた。ある日、利右衛門はもののはずみで大罪を犯してしまう。
打ち首にはされたくない。利右衛門は罪を償うため、比岐島に松の木を1万本植えることにより島を開拓してみせるので、
どうか命だけは助けてくれるよう、藩主をはじめ役人に願い出た。
当時の比岐島といえば、人が分け入ることができないほど雑草が生い茂り、樹木すら生えていない荒地だった。
利右衛門の必死の訴えが通じ、島での開拓作業が言い渡された。それからというもの利右衛門は島に入ると死に物狂いで働き、
3年がけで松の造林をやってのけた。
利右衛門はこうして放免され島から引き上げていった。それからあとは島に渡る者がなく、せっかくの造林も荒れてしまい、
たまりかねた今治藩主は、お触れを出して守役人を募った。
ところが名乗り出る者はいない。そこへ誰もいかぬなら私が行こうと、阿部孫左衛門(大庄屋曾我部三郎衛門の次男)が藩主に申し出た。
生来、豪胆で名が通っている孫左衛門は、松の木1万本を10万本に増やしてみせると誓ったほどであった。
この男、決断は早い。自身の3.6haほどの土地を売り払うと島へ渡り、さっそく住居の建築にとりかかった。
ところが比岐島開拓に暗雲が垂れこめる事件が起きる。
大工や左官を呼んで家を建てている最中に、突如草むらがガサガサと音がしたかと思うと、大蛇が姿を現わしたではないか。
その大きさたるや頭が3升樽なみ、長さ4.5mにも及ぶ巨大サイズ。その大蛇が家の棟に長々と巻き付いたうえ居座ったからたまらない。
大工と左官はあまりの恐ろしさに島から逃げ出すほどであった。
孫左衛門は腹を決めた。衣服を脱ぎ、海に入って身を清め、袴に袖を通した。
そして棟に居座る大蛇の前に平伏してこう言った。「あなたはこの島の主とお見受けします。私はこの島の開拓者として、
同時に見守り役として任命された者でございます。どうか私の仕事を無事完遂させていただきたい。
まずはあなた様がこの場から立ち退いてくれるようお願いします。その際には後日、祠を建て、
この島の産土神(うぶすながみ)として祀ることを約束いたします」
大蛇は孫左衛門の口上を理解したらしく、棟から巨体をすべらせると東の山へ去っていった。
後日、約束通り祠を建ててこの大蛇を祀り、これを氏神とした。
そのあとも例の大蛇が出たとの話が残っているが、やはり孫左衛門同様、みそぎをして拝むと、いずこともなく消え去ったという。
現代の比岐島では大蛇のことを『長い人』『あの人』『巳さん』というふうに人格化した呼び方をしており、大蛇の祠を丁重に祀り、
好物の卵やあずき飯が供えられるという。
旅、島、ときどき、不思議 今日は、人口6人の比岐島を紹介
http://ameblo.jp/tokaraushi/entry-10459814355.h...
日本の島々 日本の島、比岐島(日本に残された電気のない有人島)
http://islands.cocolog-nifty.com/blog/2007/05/post_22aa.htm...
今治商工会議所 六、動物に関するもの
http://www.imabaricci.or.jp/contentscci.php?prm=densetsu_...
教えて!goo 大蛇のいない日本で大蛇伝説が多いのはなぜ?
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干拓事業の際、人柱ならぬ犬柱を立てた歴史 青島
青島と呼ばれるごくありふれた島名は全国に星の数ほどあるが、最近は愛媛県大洲市の青島が猫好きの間で話題となっているのは、
こちとら先刻承知である。
島民たったの15人に対し、猫は優に100匹を超えており、『猫密度』は今や宮城県石巻市の田代島をも上回っているらしい。
だが今回紹介する青島は別の青島だ。猫の楽園ではなく、犬がいない島の方だ。
愛猫家御用達の島はスレタイに反しているので今回は見送らざるを得ない。
長崎県松浦市の北松浦半島の先端から北東へ1.3kmの位置にその青島は浮かんでいる。
昔は満潮になると低い部分は海に沈み、3つの島に分かれていた。北から『崎の島』、『中の島』、『南島』と呼ばれ、
島民と河童の河太郎(がたろう)一族が一致団結して1つの島にしたという民話『長者と河太郎』が残されている。
また江戸時代の干拓事業の際には、難工事を成功させるため人柱ならぬ犬柱を立て、神に祈願したという伝承も伝えられている。
それ以来、犬は神の眷属として尊ばれ、飼うのは御法度とされたという。
前スレ>>87の田代島や>>289の篠島、加えてこの青島のように、なぜか犬を飼うのがダメという島が多く、大変興味深い。
もっともそんな青島だが、最近はこのタブーも古臭く思われるようになったのか、犬を飼う人も増えてきたらしいが。
FUJIKAZEのちょっとピンボケな日々 生まれた島へ!(生家は何処・・・)
http://fujikaze.cocolog-nifty.com/blog/2013/05/index.htm...
山野草図鑑歳時記2
http://blogs.yahoo.co.jp/ryujumihouchida/61221213.htm...
長者と河太郎(がたろう)
http://www.eonet.ne.jp/‾nagasaki/kappa/aosima.htm
青島と呼ばれるごくありふれた島名は全国に星の数ほどあるが、最近は愛媛県大洲市の青島が猫好きの間で話題となっているのは、
こちとら先刻承知である。
島民たったの15人に対し、猫は優に100匹を超えており、『猫密度』は今や宮城県石巻市の田代島をも上回っているらしい。
だが今回紹介する青島は別の青島だ。猫の楽園ではなく、犬がいない島の方だ。
愛猫家御用達の島はスレタイに反しているので今回は見送らざるを得ない。
長崎県松浦市の北松浦半島の先端から北東へ1.3kmの位置にその青島は浮かんでいる。
昔は満潮になると低い部分は海に沈み、3つの島に分かれていた。北から『崎の島』、『中の島』、『南島』と呼ばれ、
島民と河童の河太郎(がたろう)一族が一致団結して1つの島にしたという民話『長者と河太郎』が残されている。
また江戸時代の干拓事業の際には、難工事を成功させるため人柱ならぬ犬柱を立て、神に祈願したという伝承も伝えられている。
それ以来、犬は神の眷属として尊ばれ、飼うのは御法度とされたという。
前スレ>>87の田代島や>>289の篠島、加えてこの青島のように、なぜか犬を飼うのがダメという島が多く、大変興味深い。
もっともそんな青島だが、最近はこのタブーも古臭く思われるようになったのか、犬を飼う人も増えてきたらしいが。
FUJIKAZEのちょっとピンボケな日々 生まれた島へ!(生家は何処・・・)
http://fujikaze.cocolog-nifty.com/blog/2013/05/index.htm...
山野草図鑑歳時記2
http://blogs.yahoo.co.jp/ryujumihouchida/61221213.htm...
長者と河太郎(がたろう)
http://www.eonet.ne.jp/‾nagasaki/kappa/aosima.htm
寄磯兄弟獅子 網地島(あじしま)
宮城県牡鹿半島の寄磯浜では、ある獅子舞にまつわる不思議な伝承が残されている。
文永3(1266)年建立の神石碑が鈴木寛也氏宅の角にある。その背後の東森山頂上には、住民が海上安全を祈願した『安波大明神』が祀られている。
『安波大明神』は関東から東北地方にかけての太平洋側の漁村で信仰されている神様であり、女神やお船霊様であるとされている。
寛永18(1641)年ごろには寄磯集落の人口は30人以上になり平和な日々を謳歌していたが、天保4(1835)年に大飢饉が起こり、
人々は食料を確保するため時化であるにもかかわらず出漁しなくてはならないほど困窮していた。
そんな綱渡りのような生活をしていたある日のこと、渡辺平五郎なる人物が漁に出ているとき、急な天候の悪化に遭遇。
波浪高く荒れ狂い、小船はたちまち大破して船子たちは絶体絶命に陥った。そこで船子たちは藁にもすがる思いで安波大明神を念じた。
安波大明神のご利益があったのか、小船はなんとか海岸にたどり着き、命拾いすることができた。
渡辺平五郎はこの海難事故から生還できた報恩御礼として、安波様を一層信仰するために天保6(1837)年、新たに安波大杉大明神の石宮を建立。
みずから神主となり、若者に呼びかけ『神風講(じんぷうこう)』という団体を組織し、毎年旧正月16日を祭日と定め、祈願するに至った。
時同じくして、他の地域では正月の行事として獅子舞が盛んに行われていた。寄磯においても先に述べた天保4年の大飢饉に続き、
大暴風、大洪水などが相次いで起こり、加えて悪病が流行。生活苦の辛酸を舐めていた神風講においても、
天下太平・五穀豊穣・家内安全・海上安全・大漁満足を祈願するべく獅子舞を舞わせることにしたのだ。
しかしながら、これほどの困窮を救えるのは霊験あらたかな獅子であり、よほどの名作でなければなるまい。
方々を探していると、網地島から来た遠藤英助信近という人物が興味深い話を語るのだ。
ちなみに網地島は宮城県牡鹿半島の最南端に位置する有人島。大きさは周囲20.7km、広さ6.43k㎡。細長い形をしており、
島のほとんどが南三陸国定公園特別地域に指定されている。この網地島もまた猫がたくさんいる島として知られている。
遠藤氏いわく、「網地島に獅子が2振りあり、時折その箱の中から不思議な音がする。
何度開けても箱の中には獅子しか入ってなかったが、ためしに別々に収めたところ、音はそれっきりしなくなった。
もしや元気な2振りの獅子が追いかけっこでもして暴れていたのではないか」
これを聞いた神風講は、これほどの不思議な力をもつ獅子であればご利益があるかもしれないと信じ、ただちに網地島へ向かい交渉した。
すると獅子1振りと、付属品として天狗の面、大小の木刀を譲り受けることとなったわけである(この獅子は天保6年の作と伝えられている)。
これを受けて神風講では獅子舞の唄を作り、笛太鼓の囃子をもって旧正月の16日、安波大明神の祭礼にて行うことになった。
以来、悪病の流行もおさまり、牡鹿半島の人々は平和な年月を送ることができた。
もっとも慶応年間の大火災に遭遇した際には、この獅子を燃やしてなるものかと、神主の井戸に入れて守り、
明治13年の大火災のときは渡辺松雄氏宅の井戸に入れてどうにか消失は免れたものの、度重なる火災で汚損が著しく、獅子舞ができなくなってしまう。
その後、遠藤栄四郎氏が東京で獅子を購入し寄付してくれたので、ふたたび獅子舞を始めることができるようになったが、
獅子を振るたびになぜか雨天が続き、困り果てた末、結局網地島から譲り受けた獅子を修理して行うようになったという。
網地島ラインホームページ
http://www12.ocn.ne.jp/‾ajishima/
石巻百景: 石巻観光案内(4)網地島・田代島
http://ishinomaki-photo.blogspot.jp/p/blog-page_13.htm...
宮城県牡鹿半島寄磯浜のアンバサンに見られる里海の記憶
http://archive.is/VlI4...
あじ島冒険楽校 「昔の子供たち」から「未来の大人たち」へ 「島の夏休み」体験 宮城県 石巻 牡鹿
http://plaza.rakuten.co.jp/ajisima/diary/200608040000...
宮城県牡鹿半島の寄磯浜では、ある獅子舞にまつわる不思議な伝承が残されている。
文永3(1266)年建立の神石碑が鈴木寛也氏宅の角にある。その背後の東森山頂上には、住民が海上安全を祈願した『安波大明神』が祀られている。
『安波大明神』は関東から東北地方にかけての太平洋側の漁村で信仰されている神様であり、女神やお船霊様であるとされている。
寛永18(1641)年ごろには寄磯集落の人口は30人以上になり平和な日々を謳歌していたが、天保4(1835)年に大飢饉が起こり、
人々は食料を確保するため時化であるにもかかわらず出漁しなくてはならないほど困窮していた。
そんな綱渡りのような生活をしていたある日のこと、渡辺平五郎なる人物が漁に出ているとき、急な天候の悪化に遭遇。
波浪高く荒れ狂い、小船はたちまち大破して船子たちは絶体絶命に陥った。そこで船子たちは藁にもすがる思いで安波大明神を念じた。
安波大明神のご利益があったのか、小船はなんとか海岸にたどり着き、命拾いすることができた。
渡辺平五郎はこの海難事故から生還できた報恩御礼として、安波様を一層信仰するために天保6(1837)年、新たに安波大杉大明神の石宮を建立。
みずから神主となり、若者に呼びかけ『神風講(じんぷうこう)』という団体を組織し、毎年旧正月16日を祭日と定め、祈願するに至った。
時同じくして、他の地域では正月の行事として獅子舞が盛んに行われていた。寄磯においても先に述べた天保4年の大飢饉に続き、
大暴風、大洪水などが相次いで起こり、加えて悪病が流行。生活苦の辛酸を舐めていた神風講においても、
天下太平・五穀豊穣・家内安全・海上安全・大漁満足を祈願するべく獅子舞を舞わせることにしたのだ。
しかしながら、これほどの困窮を救えるのは霊験あらたかな獅子であり、よほどの名作でなければなるまい。
方々を探していると、網地島から来た遠藤英助信近という人物が興味深い話を語るのだ。
ちなみに網地島は宮城県牡鹿半島の最南端に位置する有人島。大きさは周囲20.7km、広さ6.43k㎡。細長い形をしており、
島のほとんどが南三陸国定公園特別地域に指定されている。この網地島もまた猫がたくさんいる島として知られている。
遠藤氏いわく、「網地島に獅子が2振りあり、時折その箱の中から不思議な音がする。
何度開けても箱の中には獅子しか入ってなかったが、ためしに別々に収めたところ、音はそれっきりしなくなった。
もしや元気な2振りの獅子が追いかけっこでもして暴れていたのではないか」
これを聞いた神風講は、これほどの不思議な力をもつ獅子であればご利益があるかもしれないと信じ、ただちに網地島へ向かい交渉した。
すると獅子1振りと、付属品として天狗の面、大小の木刀を譲り受けることとなったわけである(この獅子は天保6年の作と伝えられている)。
これを受けて神風講では獅子舞の唄を作り、笛太鼓の囃子をもって旧正月の16日、安波大明神の祭礼にて行うことになった。
以来、悪病の流行もおさまり、牡鹿半島の人々は平和な年月を送ることができた。
もっとも慶応年間の大火災に遭遇した際には、この獅子を燃やしてなるものかと、神主の井戸に入れて守り、
明治13年の大火災のときは渡辺松雄氏宅の井戸に入れてどうにか消失は免れたものの、度重なる火災で汚損が著しく、獅子舞ができなくなってしまう。
その後、遠藤栄四郎氏が東京で獅子を購入し寄付してくれたので、ふたたび獅子舞を始めることができるようになったが、
獅子を振るたびになぜか雨天が続き、困り果てた末、結局網地島から譲り受けた獅子を修理して行うようになったという。
網地島ラインホームページ
http://www12.ocn.ne.jp/‾ajishima/
石巻百景: 石巻観光案内(4)網地島・田代島
http://ishinomaki-photo.blogspot.jp/p/blog-page_13.htm...
宮城県牡鹿半島寄磯浜のアンバサンに見られる里海の記憶
http://archive.is/VlI4...
あじ島冒険楽校 「昔の子供たち」から「未来の大人たち」へ 「島の夏休み」体験 宮城県 石巻 牡鹿
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友は鳥となり相棒を助ける頓石物語 与那国島
おおッ……この画像は、まさしく前スレの顔になっていた与那国島の立神岩ではないか。
スレ画に選ばれていたのだから、なんらかのいわくがあるに相違ない。
このような立神岩は、古くから神が佇んでいる姿と見立てられ、信仰の対象とされてきた。
与那国島のソレも例外ではなく、別名『頓石・トゥンガン』と呼ばれ、案の定こんな伝説が語り継がれているのだ。
その昔、与那国島には2人の仲良しの若者がいた。1人は屈強な身体つきの乱暴者、もう1人は美しい顔立ちをした華奢で心優しい若者だ。
島の娘たちのお目当てはもちろん優しい若者の方。優しい若者が歩けば、娘たちが列をなしてついてくるほどだった。
しかしそんなにモテながら優しい若者は娘たちに詫びて、1人ぼっちになっている乱暴者のところへ行くのが常だった。
そして2人で寝転びながらクユ(与那国島の言葉で『月』)を眺めては肩を並べて家路に着くのだった。
島の南側は断崖絶壁になっている。絶壁には冬になると海鳥が巣作りをする。島民たちはこの時期に卵取りをするのが楽しみになっていた。
ある日のこと、乱暴者が優しい若者の家を訪ねて、一緒にトゥンガンに登って、平久保大鳥(アホウドリとの説もある)の卵を取ってこようと
誘う。優しい若者は危ないからやめろと止めるが、乱暴者は頑として引かない。結局2人してトゥンガンへ足を運ぶことにした。
崖の下から海へ50歩のところにトゥンガンは直立不動の姿勢で佇んでいる。見上げると天を衝くごとき高さである。
怖気づく優しい若者を尻目に、乱暴者はどんどん上へよじ登っていく。
ためらっていた優しい若者も、勇気を振り絞ると岩にかじりつくようにして登った。そして2人はどうにかてっぺんにたどり着いた。
2人は手を取り合って喜び、平久保大鳥の卵を取れるだけ取って、さあ帰ろうとしたとき、突然足元の岩が崩れて、
うっかりアングインナ(縄)を落としてしまう。
乱暴者は心配するなと言って相方を慰め、岩を降り始めた。ところが乱暴者は途中で手を滑らせ、真っ逆さまに落ちてしまう。
落下しながらも彼はこう叫んだ。「大丈夫だ。きっと助けがくるから待っていろ!」
自身の命よりも友の身を案じたこの言葉に、優しい若者は岩の上で泣き叫んだ。
幼少のころ、ひ弱だった優しい若者は、いつも他の子供たちにいじめられていた。そんなときはいつも乱暴者が助けてくれたものだ。
大人になると乱暴者は島民から嫌われ、逆に彼は娘の注目の的となった。
とはいえ、子供のころから優しい若者のことを気にかけてくれた真の友人は、実は乱暴者だけだったのだ。
泣き疲れて眠ってしまった若者は夢を見た。夢の中では大きな平久保大鳥が優しい若者の頭上を飛んでいた。
平久保大鳥は旋回しながら叫んだ。「待ってろ、今助けてやるからな」
そして若者が眼を覚ますと、そこはトゥンガンの頂上ではなく、地面の上だったのだ。不思議にもかすり傷の1つもついていない。
若者は大いに喜び、友と神様に感謝した。
このできごとがあってから、人々はこの岩を立神岩と崇めている。岩の前を行き来するときは、被り物を脱いで通るという。
美ら島物語 立神岩
http://www.churashima.net/shima/yonaguni/l_20010508_2...
琉球沖縄を学びながら、いろいろ考えていきたいな〜 与那国の頓岩の由来〜新『球陽外卷・遺老說傳』第44話
http://totoro820.ti-da.net/e4393811.htm...
おおッ……この画像は、まさしく前スレの顔になっていた与那国島の立神岩ではないか。
スレ画に選ばれていたのだから、なんらかのいわくがあるに相違ない。
このような立神岩は、古くから神が佇んでいる姿と見立てられ、信仰の対象とされてきた。
与那国島のソレも例外ではなく、別名『頓石・トゥンガン』と呼ばれ、案の定こんな伝説が語り継がれているのだ。
その昔、与那国島には2人の仲良しの若者がいた。1人は屈強な身体つきの乱暴者、もう1人は美しい顔立ちをした華奢で心優しい若者だ。
島の娘たちのお目当てはもちろん優しい若者の方。優しい若者が歩けば、娘たちが列をなしてついてくるほどだった。
しかしそんなにモテながら優しい若者は娘たちに詫びて、1人ぼっちになっている乱暴者のところへ行くのが常だった。
そして2人で寝転びながらクユ(与那国島の言葉で『月』)を眺めては肩を並べて家路に着くのだった。
島の南側は断崖絶壁になっている。絶壁には冬になると海鳥が巣作りをする。島民たちはこの時期に卵取りをするのが楽しみになっていた。
ある日のこと、乱暴者が優しい若者の家を訪ねて、一緒にトゥンガンに登って、平久保大鳥(アホウドリとの説もある)の卵を取ってこようと
誘う。優しい若者は危ないからやめろと止めるが、乱暴者は頑として引かない。結局2人してトゥンガンへ足を運ぶことにした。
崖の下から海へ50歩のところにトゥンガンは直立不動の姿勢で佇んでいる。見上げると天を衝くごとき高さである。
怖気づく優しい若者を尻目に、乱暴者はどんどん上へよじ登っていく。
ためらっていた優しい若者も、勇気を振り絞ると岩にかじりつくようにして登った。そして2人はどうにかてっぺんにたどり着いた。
2人は手を取り合って喜び、平久保大鳥の卵を取れるだけ取って、さあ帰ろうとしたとき、突然足元の岩が崩れて、
うっかりアングインナ(縄)を落としてしまう。
乱暴者は心配するなと言って相方を慰め、岩を降り始めた。ところが乱暴者は途中で手を滑らせ、真っ逆さまに落ちてしまう。
落下しながらも彼はこう叫んだ。「大丈夫だ。きっと助けがくるから待っていろ!」
自身の命よりも友の身を案じたこの言葉に、優しい若者は岩の上で泣き叫んだ。
幼少のころ、ひ弱だった優しい若者は、いつも他の子供たちにいじめられていた。そんなときはいつも乱暴者が助けてくれたものだ。
大人になると乱暴者は島民から嫌われ、逆に彼は娘の注目の的となった。
とはいえ、子供のころから優しい若者のことを気にかけてくれた真の友人は、実は乱暴者だけだったのだ。
泣き疲れて眠ってしまった若者は夢を見た。夢の中では大きな平久保大鳥が優しい若者の頭上を飛んでいた。
平久保大鳥は旋回しながら叫んだ。「待ってろ、今助けてやるからな」
そして若者が眼を覚ますと、そこはトゥンガンの頂上ではなく、地面の上だったのだ。不思議にもかすり傷の1つもついていない。
若者は大いに喜び、友と神様に感謝した。
このできごとがあってから、人々はこの岩を立神岩と崇めている。岩の前を行き来するときは、被り物を脱いで通るという。
美ら島物語 立神岩
http://www.churashima.net/shima/yonaguni/l_20010508_2...
琉球沖縄を学びながら、いろいろ考えていきたいな〜 与那国の頓岩の由来〜新『球陽外卷・遺老說傳』第44話
http://totoro820.ti-da.net/e4393811.htm...
沖縄にも巨人伝説あり……その正体は? 伊江島
>>26の礫島でダイダラボッチ伝説を取り上げたが、沖縄にも類似の話が残されているようだ。
舞台は沖縄本島北部、本部半島の北西9kmの海上にある伊江島。
伊江島は俯瞰から見下ろせば中央がくぼんだ楕円形状をしている。東西8.4km、南北3km、総面積は22.77k㎡であり、
島の中央は標高172mの城山(ぐすくやま・通称『イージマ・タッチュー』)がそびえているのが印象的だ。
その山の頂上に、これまた『巨人の足跡』が残されているのだ。伊江島には古くから『力(ちから)タンナーバ』という大男が住んでいて、
彼にまつわるものだという。
隣村との戦いでタンナーバはタッチューに登り、迫り来る軍勢に岩を持ち上げて投げつけ、敵を追い払ったと伝えられている。
その際、踏ん張った地面にこの足跡ができたとのことだ。
……そもそもこれらの巨人伝説とはなにを意味するのだろう?
前スレ>>277の入砂島でも言及した『天人(あーまんちゅ)』も開闢の神であり巨人であるし(これは史実に基づかれたとは言えないが)、
同じく前スレ>>122の与那国島の女傑『サンアイ・イソバ』も身の丈180cmを超え、牛や馬よりも大きな身体をしていたという逸話がある。
人類学の分野でいえば『港川人』から1万年以上、人骨は発見されていなかったそうだ。
しかし近年、港川の近くのガルマンドゥ洞窟からは、縄文後期のものと思われる7体の人骨が発見される。
この人骨を調査した結果、これまで出土した人骨よりも骨のサイズが大きいことが判明。
身長にすると約160cmほど。現在の沖縄の人々につながる南西諸島弥生人と、『港川人』は身長が極端に低かったことを考えると、
その間を埋めるガルマンドゥ洞人に代表される沖縄の縄文人だけが大きかったことは一体なにを意味するのだろうか?
当時の沖縄の人より背の高かった巨人たちは、漂流してきたフェニキア人ではなかったのではないかとの説もある。
ハイヌミカゼHome 伊江島タッチュー(城山)
http://www.hainumikaze.com/iejima/iejima-tacchuu.htm...
沖縄に行く前に! 伊江島の伝説
http://okimae.higepapa.com/?eid=34799...
巨人 (伝説の生物)wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B7%A8%E4%BA%BA_(%E4%B...
港川人wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B8%AF%E5%B7%9D%E4%BA%...
>>26の礫島でダイダラボッチ伝説を取り上げたが、沖縄にも類似の話が残されているようだ。
舞台は沖縄本島北部、本部半島の北西9kmの海上にある伊江島。
伊江島は俯瞰から見下ろせば中央がくぼんだ楕円形状をしている。東西8.4km、南北3km、総面積は22.77k㎡であり、
島の中央は標高172mの城山(ぐすくやま・通称『イージマ・タッチュー』)がそびえているのが印象的だ。
その山の頂上に、これまた『巨人の足跡』が残されているのだ。伊江島には古くから『力(ちから)タンナーバ』という大男が住んでいて、
彼にまつわるものだという。
隣村との戦いでタンナーバはタッチューに登り、迫り来る軍勢に岩を持ち上げて投げつけ、敵を追い払ったと伝えられている。
その際、踏ん張った地面にこの足跡ができたとのことだ。
……そもそもこれらの巨人伝説とはなにを意味するのだろう?
前スレ>>277の入砂島でも言及した『天人(あーまんちゅ)』も開闢の神であり巨人であるし(これは史実に基づかれたとは言えないが)、
同じく前スレ>>122の与那国島の女傑『サンアイ・イソバ』も身の丈180cmを超え、牛や馬よりも大きな身体をしていたという逸話がある。
人類学の分野でいえば『港川人』から1万年以上、人骨は発見されていなかったそうだ。
しかし近年、港川の近くのガルマンドゥ洞窟からは、縄文後期のものと思われる7体の人骨が発見される。
この人骨を調査した結果、これまで出土した人骨よりも骨のサイズが大きいことが判明。
身長にすると約160cmほど。現在の沖縄の人々につながる南西諸島弥生人と、『港川人』は身長が極端に低かったことを考えると、
その間を埋めるガルマンドゥ洞人に代表される沖縄の縄文人だけが大きかったことは一体なにを意味するのだろうか?
当時の沖縄の人より背の高かった巨人たちは、漂流してきたフェニキア人ではなかったのではないかとの説もある。
ハイヌミカゼHome 伊江島タッチュー(城山)
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沖縄に行く前に! 伊江島の伝説
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巨人 (伝説の生物)wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B7%A8%E4%BA%BA_(%E4%B...
港川人wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B8%AF%E5%B7%9D%E4%BA%...
実在した伝説の巨漢力士・生月鯨太左衛門 生月島(いきつきしま) 1
長崎県の平戸島の北西にある島、生月島は前スレ>>261で『だんじく様』を取り上げてしまい重複になってしまうが、
そんなことは知ったことか、である。巨人つながりで偶然ネタを見つけたので、併せて紹介しておくべきだと思ったからだ。
それが『生月鯨太左衛門(いきつきげいたざえもん)伝説』だ。
生月島の英雄力士、生月鯨太左衛門は記録によると、江戸時代の終わりごろである文政10(1827)年の3月21日、舘浦に生まれ、
天保15(1844)年に18歳で大坂場所に姿を見せ、翌年には江戸相撲に進出して大いに江戸を賑わせたのの、嘉永3(1850)年、
24歳の若さでこの世を去った。
江戸相撲に登場した弘化2(1845)年と翌年にかけての鯨太左衛門ブームで多数の錦絵が印刷されたため、それにより彼の顔立ちや、
身長七尺五寸(なんと227cm!体重は169kg。日本一の巨漢力士としての記録保持者)など体格についても知り得ることが可能だ。
生月島には鯨太左衛門の幼少から青年期にかけての規格外の伝説が無数に存在する。
そもそも誕生についてもこんな秘話がある。長年子宝に恵まれなかった鯨漁師の多七・ハル夫婦が、志自岐大菩薩に詣って男子を授かるよう
祈願したところ、夢に子持ち鯨が現れ、自分を捕らずに逃がしてくれたら子供を授けようと言った。
漁師仲間はそれを信じ、漁場に入った親子鯨を逃がしてやった。するとお告げどおりハルは子供を身ごもった。
生まれてみると、鯨のように大きな赤ん坊だったという。
また別の話では、夢で現れた鯨が大宝寺にお詣りに行くので、行きがけには捕ってくれるなと言ったが、結局捕獲されてしまい、
しばらくして要作(鯨太左衛門の幼名)が生まれたため、周囲の人々は、あの鯨の生まれ変わりだに違いないと噂したとか(勤勉なる読者ならば、
前スレ>>373で書いた宇久島の『紋九郎鯨物語』の夢のお告げと同義であることにお気づきになられるであろう。
これはあくまで後付けの『伝説』だろうが)。
幼少時における鯨太左衛門のこんな力自慢もある。重いものを抱える話では、3歳のときひき臼を抱え上げただの、
5歳のときは造り酒屋の近藤家で一厘銭百貫五〇把をやすやすと抱えただの、7歳時には同じ近藤家から米俵を持ち帰ったなどの武勇伝があるほか、
先般志自伎神社の宮司いわく、同神社の上宮の石祠を山頂まで抱え上げたというから恐れ入る。
または船と綱引きした話。ある話では、要作は体重が重すぎて父の漁船に乗せてもらえなかったので、出漁の際、
もやい綱を引っ張り、なんと船を引き揚げたという怪力を見せた。
その一方で父親の船が帰ると1人で船を引き揚げ、いとも簡単に船をひっくり返してアカ水を出すといった孝行話もある。
14歳になると、1人で鯨を仕留めて『鯨の要作』『鯨吉』と呼ばれるようになったと、まさに生きる伝説そのものである。
長崎県の平戸島の北西にある島、生月島は前スレ>>261で『だんじく様』を取り上げてしまい重複になってしまうが、
そんなことは知ったことか、である。巨人つながりで偶然ネタを見つけたので、併せて紹介しておくべきだと思ったからだ。
それが『生月鯨太左衛門(いきつきげいたざえもん)伝説』だ。
生月島の英雄力士、生月鯨太左衛門は記録によると、江戸時代の終わりごろである文政10(1827)年の3月21日、舘浦に生まれ、
天保15(1844)年に18歳で大坂場所に姿を見せ、翌年には江戸相撲に進出して大いに江戸を賑わせたのの、嘉永3(1850)年、
24歳の若さでこの世を去った。
江戸相撲に登場した弘化2(1845)年と翌年にかけての鯨太左衛門ブームで多数の錦絵が印刷されたため、それにより彼の顔立ちや、
身長七尺五寸(なんと227cm!体重は169kg。日本一の巨漢力士としての記録保持者)など体格についても知り得ることが可能だ。
生月島には鯨太左衛門の幼少から青年期にかけての規格外の伝説が無数に存在する。
そもそも誕生についてもこんな秘話がある。長年子宝に恵まれなかった鯨漁師の多七・ハル夫婦が、志自岐大菩薩に詣って男子を授かるよう
祈願したところ、夢に子持ち鯨が現れ、自分を捕らずに逃がしてくれたら子供を授けようと言った。
漁師仲間はそれを信じ、漁場に入った親子鯨を逃がしてやった。するとお告げどおりハルは子供を身ごもった。
生まれてみると、鯨のように大きな赤ん坊だったという。
また別の話では、夢で現れた鯨が大宝寺にお詣りに行くので、行きがけには捕ってくれるなと言ったが、結局捕獲されてしまい、
しばらくして要作(鯨太左衛門の幼名)が生まれたため、周囲の人々は、あの鯨の生まれ変わりだに違いないと噂したとか(勤勉なる読者ならば、
前スレ>>373で書いた宇久島の『紋九郎鯨物語』の夢のお告げと同義であることにお気づきになられるであろう。
これはあくまで後付けの『伝説』だろうが)。
幼少時における鯨太左衛門のこんな力自慢もある。重いものを抱える話では、3歳のときひき臼を抱え上げただの、
5歳のときは造り酒屋の近藤家で一厘銭百貫五〇把をやすやすと抱えただの、7歳時には同じ近藤家から米俵を持ち帰ったなどの武勇伝があるほか、
先般志自伎神社の宮司いわく、同神社の上宮の石祠を山頂まで抱え上げたというから恐れ入る。
または船と綱引きした話。ある話では、要作は体重が重すぎて父の漁船に乗せてもらえなかったので、出漁の際、
もやい綱を引っ張り、なんと船を引き揚げたという怪力を見せた。
その一方で父親の船が帰ると1人で船を引き揚げ、いとも簡単に船をひっくり返してアカ水を出すといった孝行話もある。
14歳になると、1人で鯨を仕留めて『鯨の要作』『鯨吉』と呼ばれるようになったと、まさに生きる伝説そのものである。
実在した伝説の巨漢力士・生月鯨太左衛門 生月島(いきつきしま) 2
その後、大阪の小野川嘉平次(小野川部屋)に入門。18歳で初土俵、翌年天保15(1844)年に江戸相撲の玉垣額之助(玉垣部屋)門下に入った。
生月鯨太左衛門の人気は高く、一陽斎豊国ら著名な作家の手による錦絵も多数残されている。巨体から繰り出される技は豪快で、
張り手と突っ張りに威力を発揮したとされているが、巨体お披露目的な興行が多く、番付に張り出されて以降の6年12場所間、
ほとんど土俵入りのみの出場であった。なおその巨体だけでなく、顔も人気であったらしい。
江戸では女遊びを覚えたようで、両国の水茶屋の評判娘に振られたので、腹いせに水茶屋の近くの見世物小屋に出ていた一寸玉之助という
身長1m程度の女性を妻にしたエピソードも伝わっている。度がすぎたのか、晩年の約5年間は瘡毒を患っていた。
平戸藩主の松浦熈は鯨太左衛門を、松浦家の江戸での菩提寺である天祥寺の長屋の2階に住まわせていた。嘉永3年に鯨太左衛門が24歳で死去した際、
遺体を運び出すのに、長屋の天井を切り開いて搬出したと伝わる。越後での巡業に出立の際、脚気にて病死とする資料あり。
また、瘡毒で死んだとする資料も残っている。 死してもなお「地獄で鬼があきれる」(その体格に)という題の絵が発行された。
幕内在位:12場所(1844年10月場所-1850年3月場所。但し実際に相撲を取ったのは1846年11月場所のみ)
幕内通算成績:3勝2敗115休 勝率.600(休場の大半は土俵入りのみの出場)
現役在位:12場所
昔に出会う旅 長崎旅行-16 「平戸市生月町博物館・島の館」江戸時代最大の捕鯨
http://blog.goo.ne.jp/tako_888k/e/620c24e65390a5d1b7...
珍スポット探訪・普通の旅に飽きたあなたへ キリシタンと捕鯨の島・生月
http://b-spot.iza.ne.jp/blog/entry/531558...
紀行歴史遊学 伝説の巨人力士
http://gyokuzan.typepad.jp/blog/2013/02/%E9%95%B7%E8%BA%A...
相撲人名鑑 生月 鯨太左エ門(いけづき げいたざえもん)
http://www.fsinet.or.jp/‾sumo/profile/1/18441003.htm
ロバート・ワドロー(ギネスブックに載ったもっとも身長が高い人間)wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AD%E3%83%90%E3%83%...
金太郎wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%91%E5%A4%AA%E9%83%...
その後、大阪の小野川嘉平次(小野川部屋)に入門。18歳で初土俵、翌年天保15(1844)年に江戸相撲の玉垣額之助(玉垣部屋)門下に入った。
生月鯨太左衛門の人気は高く、一陽斎豊国ら著名な作家の手による錦絵も多数残されている。巨体から繰り出される技は豪快で、
張り手と突っ張りに威力を発揮したとされているが、巨体お披露目的な興行が多く、番付に張り出されて以降の6年12場所間、
ほとんど土俵入りのみの出場であった。なおその巨体だけでなく、顔も人気であったらしい。
江戸では女遊びを覚えたようで、両国の水茶屋の評判娘に振られたので、腹いせに水茶屋の近くの見世物小屋に出ていた一寸玉之助という
身長1m程度の女性を妻にしたエピソードも伝わっている。度がすぎたのか、晩年の約5年間は瘡毒を患っていた。
平戸藩主の松浦熈は鯨太左衛門を、松浦家の江戸での菩提寺である天祥寺の長屋の2階に住まわせていた。嘉永3年に鯨太左衛門が24歳で死去した際、
遺体を運び出すのに、長屋の天井を切り開いて搬出したと伝わる。越後での巡業に出立の際、脚気にて病死とする資料あり。
また、瘡毒で死んだとする資料も残っている。 死してもなお「地獄で鬼があきれる」(その体格に)という題の絵が発行された。
幕内在位:12場所(1844年10月場所-1850年3月場所。但し実際に相撲を取ったのは1846年11月場所のみ)
幕内通算成績:3勝2敗115休 勝率.600(休場の大半は土俵入りのみの出場)
現役在位:12場所
昔に出会う旅 長崎旅行-16 「平戸市生月町博物館・島の館」江戸時代最大の捕鯨
http://blog.goo.ne.jp/tako_888k/e/620c24e65390a5d1b7...
珍スポット探訪・普通の旅に飽きたあなたへ キリシタンと捕鯨の島・生月
http://b-spot.iza.ne.jp/blog/entry/531558...
紀行歴史遊学 伝説の巨人力士
http://gyokuzan.typepad.jp/blog/2013/02/%E9%95%B7%E8%BA%A...
相撲人名鑑 生月 鯨太左エ門(いけづき げいたざえもん)
http://www.fsinet.or.jp/‾sumo/profile/1/18441003.htm
ロバート・ワドロー(ギネスブックに載ったもっとも身長が高い人間)wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AD%E3%83%90%E3%83%...
金太郎wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%91%E5%A4%AA%E9%83%...
七城鬼女伝説 喜界島(きかいじま)
喜界島と来れば通常、俊寛の話を持ち出すのが王道なのだろうが、オカルト板でそれを書き連ねるのはいささか場違いな気がする。
よって今回は『七城の鬼女伝説』に焦点を絞る。
喜界島は鹿児島県大島郡に属し、奄美大島の東方約25kmに浮かんでいる。隆起サンゴ礁で形成されたのが特徴的で、
真横からのシルエットがなだらかな丘陵の美しい島である。件の鬼女伝説がこうだ。
はるかな昔。壇ノ浦の戦いに敗れた平家の残党200余名は追っ手から逃れるため、はるばる喜界島を目指していた。
命からがら喜界島にたどり着き、今でいう志戸桶から上陸したのだった。
志戸桶に上陸後、一行は伊実久にまわり、その上の森に城を築いた。その土塁は現在でも遺構をとどめ、七城(ななじょう)と呼ばれている。
別名『平家森』とも呼ばれ、早町の後方に位置し、早町港方面から来襲する源氏を想定した砦である。
この七城こそ『七城の鬼女』なる伝説を後世に伝えているのだ。
平家の落人たちが七城が建つ前の森に分け入ると、頭に薄布をかぶった着物姿の女が一行に背を向けてなにかの作業をしていた。
近づいてみると、どうやら女は機織りをしているらしい。
「すまぬ、女。そなたの土地に無断で入ったのを許されい」と、一行の首領である平盗盛が声をかけた。
女はそこで機織りの手をとめ、ゆっくりと振り向いた。顔は覆った布のせいで計り知れない。
「これはこれは武者さまのご一行とは。気配に気づかず背中を見せておりご無礼いたしました。ですが、このような僻地にいかなご用で?」
鈴を転がしたような声に一同はハッとした。おそらく妙齢の年のころであろう。
「某らは、恥ずかしながら戦から落ち延びてきた身でありますゆえ、どうか追っ手よりかくまっていただきたい」
「ホッホッホホ……さすればこの土地に屋城を築かねばなりますまい。喜んで協力しましょうぞ」
女は歌うように言うものだから一行の中には、内心癪に障る者もいた。しかもお辞儀しても頭の布を取らないときている。
「これ、女。殿の面前であるぞ。布を取りたまえ。無礼であろう」と、側近の1人がたしなめた。
「いかにも、手前は田舎者の女であるからでしてのう」と女は言うものの、おじきした姿勢のままクスクス笑うだけ。
「ざれごとを言うてからに」見かねた部下の1人が女の背後へまわり、だしぬけに布を剥ぎ取った。すると女の頭頂があらわになった。
「こ、これは……」一行は思わず我が目を疑った。なんと女の頭の両側には3cmほどの角が生えていたのだ。
「おのれい、よくもわらわに恥をかかせてくれたな。無礼はどちらじゃ!」女は夜叉のごとき形相で叫ぶと両腕を広げた。爪は鋭く尖っていた。
「出たな、物の怪、成敗してくれる!」
平盗盛の抜刀一閃と、女が電光石火の反応で宙に飛び退いたのはほぼ同時。
「やりおるな。仕損じるとは……」盗盛は苦々しげに刀をおさめた。
「うぬらは永遠に追っ手から逃れられはせん。うぬらは源氏の影に怯えて、一生すごすこととなろう。さらばじゃ!」と、
中空の闇の中から女の捨て台詞がこだまし、哄笑とともに消えていった。
昔の文献によると、喜界島は『鬼界島』と記されており、文字どおり鬼が住んでいたとされている。
喜界島ナビ.com
http://kikaijimanavi.com/
喜界島ドットコム
http://www.kikai-jima.com/sknh.htm...
播磨のしっぽ 平家伝説と小野豆
http://kiontgm.blogspot.jp/2012/06/blog-post_15.htm...
東方纏める神社 鬼女出ないかな/安倍氏
http://blog.livedoor.jp/kusurikan/archives/27848514.ht...
戸隠に伝わる鬼女紅葉の物語 (信州戸隠、鬼無里(きなさ・現長野市)集落に伝わる鬼女伝説)
http://www1.ocn.ne.jp/‾pia/momiji.htm
喜界島と来れば通常、俊寛の話を持ち出すのが王道なのだろうが、オカルト板でそれを書き連ねるのはいささか場違いな気がする。
よって今回は『七城の鬼女伝説』に焦点を絞る。
喜界島は鹿児島県大島郡に属し、奄美大島の東方約25kmに浮かんでいる。隆起サンゴ礁で形成されたのが特徴的で、
真横からのシルエットがなだらかな丘陵の美しい島である。件の鬼女伝説がこうだ。
はるかな昔。壇ノ浦の戦いに敗れた平家の残党200余名は追っ手から逃れるため、はるばる喜界島を目指していた。
命からがら喜界島にたどり着き、今でいう志戸桶から上陸したのだった。
志戸桶に上陸後、一行は伊実久にまわり、その上の森に城を築いた。その土塁は現在でも遺構をとどめ、七城(ななじょう)と呼ばれている。
別名『平家森』とも呼ばれ、早町の後方に位置し、早町港方面から来襲する源氏を想定した砦である。
この七城こそ『七城の鬼女』なる伝説を後世に伝えているのだ。
平家の落人たちが七城が建つ前の森に分け入ると、頭に薄布をかぶった着物姿の女が一行に背を向けてなにかの作業をしていた。
近づいてみると、どうやら女は機織りをしているらしい。
「すまぬ、女。そなたの土地に無断で入ったのを許されい」と、一行の首領である平盗盛が声をかけた。
女はそこで機織りの手をとめ、ゆっくりと振り向いた。顔は覆った布のせいで計り知れない。
「これはこれは武者さまのご一行とは。気配に気づかず背中を見せておりご無礼いたしました。ですが、このような僻地にいかなご用で?」
鈴を転がしたような声に一同はハッとした。おそらく妙齢の年のころであろう。
「某らは、恥ずかしながら戦から落ち延びてきた身でありますゆえ、どうか追っ手よりかくまっていただきたい」
「ホッホッホホ……さすればこの土地に屋城を築かねばなりますまい。喜んで協力しましょうぞ」
女は歌うように言うものだから一行の中には、内心癪に障る者もいた。しかもお辞儀しても頭の布を取らないときている。
「これ、女。殿の面前であるぞ。布を取りたまえ。無礼であろう」と、側近の1人がたしなめた。
「いかにも、手前は田舎者の女であるからでしてのう」と女は言うものの、おじきした姿勢のままクスクス笑うだけ。
「ざれごとを言うてからに」見かねた部下の1人が女の背後へまわり、だしぬけに布を剥ぎ取った。すると女の頭頂があらわになった。
「こ、これは……」一行は思わず我が目を疑った。なんと女の頭の両側には3cmほどの角が生えていたのだ。
「おのれい、よくもわらわに恥をかかせてくれたな。無礼はどちらじゃ!」女は夜叉のごとき形相で叫ぶと両腕を広げた。爪は鋭く尖っていた。
「出たな、物の怪、成敗してくれる!」
平盗盛の抜刀一閃と、女が電光石火の反応で宙に飛び退いたのはほぼ同時。
「やりおるな。仕損じるとは……」盗盛は苦々しげに刀をおさめた。
「うぬらは永遠に追っ手から逃れられはせん。うぬらは源氏の影に怯えて、一生すごすこととなろう。さらばじゃ!」と、
中空の闇の中から女の捨て台詞がこだまし、哄笑とともに消えていった。
昔の文献によると、喜界島は『鬼界島』と記されており、文字どおり鬼が住んでいたとされている。
喜界島ナビ.com
http://kikaijimanavi.com/
喜界島ドットコム
http://www.kikai-jima.com/sknh.htm...
播磨のしっぽ 平家伝説と小野豆
http://kiontgm.blogspot.jp/2012/06/blog-post_15.htm...
東方纏める神社 鬼女出ないかな/安倍氏
http://blog.livedoor.jp/kusurikan/archives/27848514.ht...
戸隠に伝わる鬼女紅葉の物語 (信州戸隠、鬼無里(きなさ・現長野市)集落に伝わる鬼女伝説)
http://www1.ocn.ne.jp/‾pia/momiji.htm
田んぼの中に神を祀った祠あり 八畝(ようね)集落
おざなりな感も否めないが、たまには村ネタもやらねばなるまい。島ばかりではいささか偏り気味であろう。
村といっても、その共同体を貶めるようなことを書くわけにはいかないので、ちょっと風変わりなものを紹介するにとどめるけど。
高知県大豊町は徳島・愛媛の両県と接する山深い土地。その斜面には日本の原風景である牧歌的な棚田が連なっている。
なかでも標高600mにある八畝集落の棚田の1つに笹岡家の所有する田があり、その田んぼの中央には神を祀った祠が鎮座しているのだ。
祠には『若宮八幡様』を祀ってあり、笹岡家が代々守ってきた。2013年時で86歳の笹岡富子さんいわく、
「いつの時代からあるのかわからんぐらい、昔からある」とのこと。
こんな祠が田んぼのど真ん中に据えられていれば田植え稲刈りする際、場所を取られるうえ作業に支障をきたしそうだが、
古来、日本は稲作を主とした農耕民族であり、豊作への切なる願いを込めて先人たちが建てたに違いない。
まほろばの島詩 高知県/八畝(ようね)の棚田2
http://mahorobanoshimauta.blog10.fc2.com/blog-entry-776.htm...
黄昏君の写真帳 朝もや煙る八畝の棚田
http://conan57.exblog.jp/2031946...
山田養蜂場 リトルヘブン-小さな楽園
http://www.3838.co.jp/littleheaven/200806...
おざなりな感も否めないが、たまには村ネタもやらねばなるまい。島ばかりではいささか偏り気味であろう。
村といっても、その共同体を貶めるようなことを書くわけにはいかないので、ちょっと風変わりなものを紹介するにとどめるけど。
高知県大豊町は徳島・愛媛の両県と接する山深い土地。その斜面には日本の原風景である牧歌的な棚田が連なっている。
なかでも標高600mにある八畝集落の棚田の1つに笹岡家の所有する田があり、その田んぼの中央には神を祀った祠が鎮座しているのだ。
祠には『若宮八幡様』を祀ってあり、笹岡家が代々守ってきた。2013年時で86歳の笹岡富子さんいわく、
「いつの時代からあるのかわからんぐらい、昔からある」とのこと。
こんな祠が田んぼのど真ん中に据えられていれば田植え稲刈りする際、場所を取られるうえ作業に支障をきたしそうだが、
古来、日本は稲作を主とした農耕民族であり、豊作への切なる願いを込めて先人たちが建てたに違いない。
まほろばの島詩 高知県/八畝(ようね)の棚田2
http://mahorobanoshimauta.blog10.fc2.com/blog-entry-776.htm...
黄昏君の写真帳 朝もや煙る八畝の棚田
http://conan57.exblog.jp/2031946...
山田養蜂場 リトルヘブン-小さな楽園
http://www.3838.co.jp/littleheaven/200806...
オサバイ様祭 穴内集落
同じく大豊町穴内地区では、田植えのときに『オサバイ様』という無形の神を祀る神事が行われている。
昔は田植えを始めるときには、各家の一番上の小さな田んぼで『オサバイ様』を祀り、豊作祈願したものであるという。
オサバイ様とは毎年5月の田植えの時期に、五穀豊穣の願いを聞いてくれるとされている神様だ。
旅の発見
http://tabihatsu.jp/program/85747.htm...
同じく大豊町穴内地区では、田植えのときに『オサバイ様』という無形の神を祀る神事が行われている。
昔は田植えを始めるときには、各家の一番上の小さな田んぼで『オサバイ様』を祀り、豊作祈願したものであるという。
オサバイ様とは毎年5月の田植えの時期に、五穀豊穣の願いを聞いてくれるとされている神様だ。
旅の発見
http://tabihatsu.jp/program/85747.htm...
臼杵城を鬼や邪から守るための鬼門封じの島 津久見島(つくみしま)
大分県臼杵湾の沖合7kmの湾の中央に、どこから見ても形の整った円錐形の島が見える。
その形状から別名『おにぎり島』と呼ばれているが、正式名は津久見島。日豊海岸国定公園に指定されているとはいえ無人島だったりする。
島名が津久見島ゆえ、津久見市の管轄と思いがちだが、臼杵市にある。
周囲は急な斜面に囲まれているが、本土側がわずかながら浜が開けており、海水浴場及びキャンプ場が整備されている。また磯釣りも人気がある。
古くは竹島といい、津久見島という名は臼杵城からこの島と月を望む景観が素晴らしいことから、月見島をもじってつけられた。
この津久見島の方角が、臼杵城から見て鬼門に当たることから、寛永元(1624)年、臼杵藩主・稲葉一通が近江の琵琶湖に浮かぶ竹生島(前スレ>>238)の
竹生島神社から弁財天を勧請し、島名を竹生島と改称したという記録があるらしい。
鬼門とは北東(艮・うしとら。丑と寅の間)の方位を指し、陰陽道では鬼が出入りする方角であるとされ、万事に忌むべき方角としている。
鬼門の反対の、南西(坤・ひつじさる)の方角を裏鬼門と呼び、これも忌み嫌われているのは有名だ。
陰陽道においては、北と西は陰を表し、東と南は陽とされる。すなわち鬼門・裏鬼門の方角は陰陽の境になるため、不安定になるとしている。
また鬼門は忌み嫌われるいわれの他に、逆に神々が通過する方向、あるいは太陽が生まれる方位であるために、
清浄の気を保つ必要があるという説もある。
たしかに、南西は沖縄から北西の果ての北海道に至るまで、日本列島は鬼や邪がつけ込みやすい立地にある。
だからこそ鬼門・裏鬼門の防備には最善を尽くさねばならない。
臼杵
http://nisiyoko.sonnabakana.com/usuki.htm...
臼杵城と鬼門
http://www.coara.or.jp/‾yas/miwari/kimon.htm
大分県臼杵湾の沖合7kmの湾の中央に、どこから見ても形の整った円錐形の島が見える。
その形状から別名『おにぎり島』と呼ばれているが、正式名は津久見島。日豊海岸国定公園に指定されているとはいえ無人島だったりする。
島名が津久見島ゆえ、津久見市の管轄と思いがちだが、臼杵市にある。
周囲は急な斜面に囲まれているが、本土側がわずかながら浜が開けており、海水浴場及びキャンプ場が整備されている。また磯釣りも人気がある。
古くは竹島といい、津久見島という名は臼杵城からこの島と月を望む景観が素晴らしいことから、月見島をもじってつけられた。
この津久見島の方角が、臼杵城から見て鬼門に当たることから、寛永元(1624)年、臼杵藩主・稲葉一通が近江の琵琶湖に浮かぶ竹生島(前スレ>>238)の
竹生島神社から弁財天を勧請し、島名を竹生島と改称したという記録があるらしい。
鬼門とは北東(艮・うしとら。丑と寅の間)の方位を指し、陰陽道では鬼が出入りする方角であるとされ、万事に忌むべき方角としている。
鬼門の反対の、南西(坤・ひつじさる)の方角を裏鬼門と呼び、これも忌み嫌われているのは有名だ。
陰陽道においては、北と西は陰を表し、東と南は陽とされる。すなわち鬼門・裏鬼門の方角は陰陽の境になるため、不安定になるとしている。
また鬼門は忌み嫌われるいわれの他に、逆に神々が通過する方向、あるいは太陽が生まれる方位であるために、
清浄の気を保つ必要があるという説もある。
たしかに、南西は沖縄から北西の果ての北海道に至るまで、日本列島は鬼や邪がつけ込みやすい立地にある。
だからこそ鬼門・裏鬼門の防備には最善を尽くさねばならない。
臼杵
http://nisiyoko.sonnabakana.com/usuki.htm...
臼杵城と鬼門
http://www.coara.or.jp/‾yas/miwari/kimon.htm
あけおめ〜、トシのせいか深夜起きてるのはキツイが、正月企画として特別に連投しちゃおう。新年早々、悲しくて陰惨な話とか〜!
美しさゆえに死んだ悲劇の歌姫・カンツメ伝説 奄美大島宇検村
奄美大島では薩摩藩時代、役人や豪農の家では『ヤンチュ(家人)』と呼ばれる奄美独自の奴隷制度があった。
ヤンチュとは上納米や砂糖を納めきれない貧しい農家が、その代償として身売りをしていたのである。
身売り金は年3割という高利で、ヤンチュの立場になれば一生その家で暮らすしかなかった。
今から約180年前、カンツメは須古村から隣の名柄(宇検村)の豪農へと、ヤンチュとして売られていった。
元来、美人で器量もよく利発だったカンツメは同じヤンチュたちの中でも抜きん出ていた。それゆえ他のヤンチュたちから妬まれ、
よく嫌がらせを受けた。しかし主人は、カンツメの美貌に気をとめていたので、目のつくかぎり彼女をかばった。
もっぱら飯炊きや草刈りなどが彼女の仕事だったが、手抜きすることなくよく働いた。
ある日、久慈集落から岩加那(いわかな)が名柄の豪農の家を訪れた。岩加那もまた美青年であり、役所の書記をしている傍ら、
三味線と歌を得意としていた。
やがて宴が催された。カンツメも招かれ、岩加那の歌の相手をするようになったので、心をこめて歌った。
岩加那はたちまち彼女の歌声に惹かれ、歌い終えるころには2人の気持ちは通じ合っていた。
この日から2人は恋仲となり、仕事が終わると、久慈と名柄の境にする佐念山の小屋で、夜ごと逢瀬を重ねるようになった。
どんなに人知れず会っていたとしても、遅かれ早かれ2人の関係は目ざとい者に露見するものである。
やがて2人の仲がヤンチュ仲間に知れわたり、主人夫婦の耳にも入ってしまう。女主人は嫉妬深く、気性の激しい女だった。
ヤンチュの分際で泥坊猫のように恋愛するのは御法度。ましてや相手は役所の書記であり主人の知人。
カンツメは裸にむかれると鞭で打たれ、あれほど嫌がらせからかばってくれた主人に強姦されたうえ、
挙句の果てには陰部に焼け火箸を押し付けられた。酸鼻を極める折檻に、カンツメは悶絶し気を失った……。
女主人は彼女をボロ雑巾のように扱っておきながら、翌日にはたき木採りに山へ行かせた。
たき木を拾い終えた他のヤンチュたちが山を下りたあともカンツメは1人山に残り、岩加那と逢引していた佐念山の小屋に向かった。
小屋で身支度を整え、郷里に残した両親と、いまだ恋の炎が冷めやらぬ岩加那に感謝と別れの祈りを残し、自身の帯で首をくくって死んだ。
その夜、まさかカンツメが折檻にあい、自害したとは知らない岩加那は、三味線片手に佐念山へ行き、カンツメを待っていた。
カンツメはいつもより沈んだ顔で小屋にやってきた。それでも2人して楽しく歌っているうちに彼女は元気になっていった。
夜明け前、別れにカンツメはもう1曲歌った。「あかす世や暮れて汝きゃ夜や明けり、かふ節ぬあればまた見きょそ……」と、
歌い終わると、カンツメの姿は霞のようにすっと消えてしまった。
岩加那はあたりを探し回った。ふと頭上を見上げるなり絶叫した。カンツメの変わり果てた亡骸を見つけたのである。
その後、経緯を知った岩加那は、早く身請けをしてあげればよかったと悔いたが、すべては遅すぎた。
因果な話で、名柄の豪農夫婦はカンツメの亡霊に脅かされて変死を遂げ、家は没落したと伝えられている。
現在でもヒギャ(奄美大島南部)では、カンツメの霊が出るのを恐れて、夜半カンツメ節は歌わない習慣があるという。
あまみんちゅドットコム奄美人 悲恋のカンツメ物語
http://amaminchu.com/iroiro100ca/column/story02.htm...
みんなで楽しもう! 〜琉球沖縄の、先祖から伝わってきたお話〜 奄美・沖縄本島・沖縄先島の伝説より、第66話。美人が出ない村
http://totoro820.ti-da.net/e3169870.htm...
宇検村の史跡・文化財・石碑 宇検村の史跡ギャラリー
http://www.synapse.ne.jp/hatashin/01ooshimahontou/06uke...
美しさゆえに死んだ悲劇の歌姫・カンツメ伝説 奄美大島宇検村
奄美大島では薩摩藩時代、役人や豪農の家では『ヤンチュ(家人)』と呼ばれる奄美独自の奴隷制度があった。
ヤンチュとは上納米や砂糖を納めきれない貧しい農家が、その代償として身売りをしていたのである。
身売り金は年3割という高利で、ヤンチュの立場になれば一生その家で暮らすしかなかった。
今から約180年前、カンツメは須古村から隣の名柄(宇検村)の豪農へと、ヤンチュとして売られていった。
元来、美人で器量もよく利発だったカンツメは同じヤンチュたちの中でも抜きん出ていた。それゆえ他のヤンチュたちから妬まれ、
よく嫌がらせを受けた。しかし主人は、カンツメの美貌に気をとめていたので、目のつくかぎり彼女をかばった。
もっぱら飯炊きや草刈りなどが彼女の仕事だったが、手抜きすることなくよく働いた。
ある日、久慈集落から岩加那(いわかな)が名柄の豪農の家を訪れた。岩加那もまた美青年であり、役所の書記をしている傍ら、
三味線と歌を得意としていた。
やがて宴が催された。カンツメも招かれ、岩加那の歌の相手をするようになったので、心をこめて歌った。
岩加那はたちまち彼女の歌声に惹かれ、歌い終えるころには2人の気持ちは通じ合っていた。
この日から2人は恋仲となり、仕事が終わると、久慈と名柄の境にする佐念山の小屋で、夜ごと逢瀬を重ねるようになった。
どんなに人知れず会っていたとしても、遅かれ早かれ2人の関係は目ざとい者に露見するものである。
やがて2人の仲がヤンチュ仲間に知れわたり、主人夫婦の耳にも入ってしまう。女主人は嫉妬深く、気性の激しい女だった。
ヤンチュの分際で泥坊猫のように恋愛するのは御法度。ましてや相手は役所の書記であり主人の知人。
カンツメは裸にむかれると鞭で打たれ、あれほど嫌がらせからかばってくれた主人に強姦されたうえ、
挙句の果てには陰部に焼け火箸を押し付けられた。酸鼻を極める折檻に、カンツメは悶絶し気を失った……。
女主人は彼女をボロ雑巾のように扱っておきながら、翌日にはたき木採りに山へ行かせた。
たき木を拾い終えた他のヤンチュたちが山を下りたあともカンツメは1人山に残り、岩加那と逢引していた佐念山の小屋に向かった。
小屋で身支度を整え、郷里に残した両親と、いまだ恋の炎が冷めやらぬ岩加那に感謝と別れの祈りを残し、自身の帯で首をくくって死んだ。
その夜、まさかカンツメが折檻にあい、自害したとは知らない岩加那は、三味線片手に佐念山へ行き、カンツメを待っていた。
カンツメはいつもより沈んだ顔で小屋にやってきた。それでも2人して楽しく歌っているうちに彼女は元気になっていった。
夜明け前、別れにカンツメはもう1曲歌った。「あかす世や暮れて汝きゃ夜や明けり、かふ節ぬあればまた見きょそ……」と、
歌い終わると、カンツメの姿は霞のようにすっと消えてしまった。
岩加那はあたりを探し回った。ふと頭上を見上げるなり絶叫した。カンツメの変わり果てた亡骸を見つけたのである。
その後、経緯を知った岩加那は、早く身請けをしてあげればよかったと悔いたが、すべては遅すぎた。
因果な話で、名柄の豪農夫婦はカンツメの亡霊に脅かされて変死を遂げ、家は没落したと伝えられている。
現在でもヒギャ(奄美大島南部)では、カンツメの霊が出るのを恐れて、夜半カンツメ節は歌わない習慣があるという。
あまみんちゅドットコム奄美人 悲恋のカンツメ物語
http://amaminchu.com/iroiro100ca/column/story02.htm...
みんなで楽しもう! 〜琉球沖縄の、先祖から伝わってきたお話〜 奄美・沖縄本島・沖縄先島の伝説より、第66話。美人が出ない村
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宇検村の史跡・文化財・石碑 宇検村の史跡ギャラリー
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悲しみのあまり石化した佐用姫 加部島(かべしま)
佐賀県唐津市、東松浦半島の先端にある呼子。呼子港の目の前にあるのが加部島だ。
かつては断崖に囲まれた島ゆえに『壁島』と呼ばれていたが、漢字表記をあらため、今の加部島へと代わったのだという。
さて、加部島にはまたしても女の受難と悲劇、『松浦佐用姫(まつらさよひめ)』の伝説が残されている。
……こう言っちゃなんだが、既出した悲劇譚と似たり寄ったりの内容だったのでスルーしようとも考えたのだが、
よくよく検討した結果、2つの理由からこのスレにとどめておくことにした。
1つ目の理由としては『日本三大悲恋』のうちの一話として語られているから。
日本の三大悲恋伝説といえば『羽衣物語』『竹取物語』と次いで、この『松浦佐用姫』が挙げられるのだそうだ。
とはいえ、『羽衣物語』『竹取物語』が架空の物語なのに対し、『松浦佐用姫』はその大部分が史実に基づいるというから、ますます見過ごせない。
2つ目の理由は、次なる課題につなげる布石として、真打としてこの伝説を紹介しておく必要があったからだ。
その課題とは、とかく島の伝承伝説に女性が命を落とす悲劇譚が多いのは勤勉なる読者諸兄ならお気づきのことと思われる。
次のレスでその考察をしたいがために、代表作ともいえる佐用姫伝説は避けるべきではないと考えなおしたまでだ。
537(宣化天皇2)年、朝廷の命を受け、任那・百済を救援するため軍を率いてこの松浦の地にやってきた大伴狭手彦(おおとものさでひこ)と、
松浦佐用姫は出会うべくして出会った。
佐用姫は現在の唐津市厳木町にいたとされる豪族の娘であり美女であったとされ、かたや狭手彦は名門大伴氏の凛々しいイケメン武将であった。
物資の補給や兵を休ませるため、しばらく松浦の地に軍をとどめている間に狭手彦は佐用姫と逢瀬を重ね、ついに契りを結んだ。
しかしそれも短き恋仲。狭手彦は新羅への出征の通達を受け、後ろ髪を引かれる思いで別れることになった。
やがて狭手彦が出船の日、別れの悲しみに耐えかねた佐用姫は鏡山へかけ登る。そして山頂で身にまとっていた領巾(ひれ)を無我夢中で振るった。
その当時、領巾を振れば、邪を払いのけると信じられていたからである。
狭手彦が乗っているであろう軍船は見る見る沖へ遠ざかっていく。半狂乱になった佐用姫は鏡山をかけ下り、栗川(現在の松浦川)を渡り、
海沿いに北へ走り、やがて加部島の天童岳の頂きにたどり着いたが、ついに船が見えなくなると、その場にうずくまり7日7晩泣き続け、
とうとう石化してしまった……。人々はその石を佐用姫の化身として手厚く弔ったという。
また肥前国風土記には、同様に狭手彦と領巾を振りながら別れた弟日姫子(おとひめこ)という娘の話が収録されている。
こちらでは別れたあと、狭手彦に瓜二つの男が家に通うようになり、これが沼の蛇の化身であると正体がわかると
沼に引き入れられ死んでしまうという話になっているが、この弟日姫子を佐用姫と同一視し、もう1つの佐用姫伝説とされることもある。
松浦佐用姫wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E6%B5%A6%E4%BD%...
【特集】佐用姫伝説ゆかりの地を訪ねる。
http://www.thr.mlit.go.jp/isawa/sasala/vol_27/vol27_2m.h...
松浦佐用姫を追え!(古代史の謎のカギは唐津にあった!!)
http://www.arabaki.co.jp/sayohimepage2.htm...
佐賀県唐津市、東松浦半島の先端にある呼子。呼子港の目の前にあるのが加部島だ。
かつては断崖に囲まれた島ゆえに『壁島』と呼ばれていたが、漢字表記をあらため、今の加部島へと代わったのだという。
さて、加部島にはまたしても女の受難と悲劇、『松浦佐用姫(まつらさよひめ)』の伝説が残されている。
……こう言っちゃなんだが、既出した悲劇譚と似たり寄ったりの内容だったのでスルーしようとも考えたのだが、
よくよく検討した結果、2つの理由からこのスレにとどめておくことにした。
1つ目の理由としては『日本三大悲恋』のうちの一話として語られているから。
日本の三大悲恋伝説といえば『羽衣物語』『竹取物語』と次いで、この『松浦佐用姫』が挙げられるのだそうだ。
とはいえ、『羽衣物語』『竹取物語』が架空の物語なのに対し、『松浦佐用姫』はその大部分が史実に基づいるというから、ますます見過ごせない。
2つ目の理由は、次なる課題につなげる布石として、真打としてこの伝説を紹介しておく必要があったからだ。
その課題とは、とかく島の伝承伝説に女性が命を落とす悲劇譚が多いのは勤勉なる読者諸兄ならお気づきのことと思われる。
次のレスでその考察をしたいがために、代表作ともいえる佐用姫伝説は避けるべきではないと考えなおしたまでだ。
537(宣化天皇2)年、朝廷の命を受け、任那・百済を救援するため軍を率いてこの松浦の地にやってきた大伴狭手彦(おおとものさでひこ)と、
松浦佐用姫は出会うべくして出会った。
佐用姫は現在の唐津市厳木町にいたとされる豪族の娘であり美女であったとされ、かたや狭手彦は名門大伴氏の凛々しいイケメン武将であった。
物資の補給や兵を休ませるため、しばらく松浦の地に軍をとどめている間に狭手彦は佐用姫と逢瀬を重ね、ついに契りを結んだ。
しかしそれも短き恋仲。狭手彦は新羅への出征の通達を受け、後ろ髪を引かれる思いで別れることになった。
やがて狭手彦が出船の日、別れの悲しみに耐えかねた佐用姫は鏡山へかけ登る。そして山頂で身にまとっていた領巾(ひれ)を無我夢中で振るった。
その当時、領巾を振れば、邪を払いのけると信じられていたからである。
狭手彦が乗っているであろう軍船は見る見る沖へ遠ざかっていく。半狂乱になった佐用姫は鏡山をかけ下り、栗川(現在の松浦川)を渡り、
海沿いに北へ走り、やがて加部島の天童岳の頂きにたどり着いたが、ついに船が見えなくなると、その場にうずくまり7日7晩泣き続け、
とうとう石化してしまった……。人々はその石を佐用姫の化身として手厚く弔ったという。
また肥前国風土記には、同様に狭手彦と領巾を振りながら別れた弟日姫子(おとひめこ)という娘の話が収録されている。
こちらでは別れたあと、狭手彦に瓜二つの男が家に通うようになり、これが沼の蛇の化身であると正体がわかると
沼に引き入れられ死んでしまうという話になっているが、この弟日姫子を佐用姫と同一視し、もう1つの佐用姫伝説とされることもある。
松浦佐用姫wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E6%B5%A6%E4%BD%...
【特集】佐用姫伝説ゆかりの地を訪ねる。
http://www.thr.mlit.go.jp/isawa/sasala/vol_27/vol27_2m.h...
松浦佐用姫を追え!(古代史の謎のカギは唐津にあった!!)
http://www.arabaki.co.jp/sayohimepage2.htm...
なぜ女が命を落とす悲劇の話が多いのか? その考察
このスレを続けていくにつけ、あまりにも女性の悲恋話、命を落とす悲劇譚が辟易するまでに多いのはどういうことなのか?
まるで島の誕生、あるいは島の歴史につきもののように、乱暴的に言えば人身御供的に女は死ぬ。
まるで判で捺したかのように、そんな話が多すぎる。
フェミニストの権化である田嶋陽子が、まかり間違ってこのスレを覗いてしまったら烈火のごとく怒りそうだが、
むろん、そんな意図を狙っているつもりは毛頭ない。
探れば探るほど、この手の話ばかり転がっているにすぎない。多少の脚色はするにせよ、本質をありのまま伝えているだけだ。
なにもそれは離島に限定したケースだけではない。内地に眼を向けても、このような女性の悲劇譚はめずらしくない。
やや脱線するが、古くから伝わる3大怪談『四谷怪談』『番町皿屋敷』『牡丹燈籠』ですら、それが当てはまっているではないか。
これらに共通するのも、いずれも女にとっての受難と悲劇、無念の最期を遂げて、みな情念の塊となって男に迫り、復讐を果たす。
どうやら鍵はここにありそうだ。
この3つの怪談は江戸時代に作られた話。江戸時代といえば男性中心の社会であり、封建制度の真っ只中であった。
男と比べて女の地位は社会的にも家庭的にも低く見られた。こういった風土が、怖い女幽霊を生み出すことにつながったものと思われる。
対する男は不倫はするわ、己の地位にしがみつくため女が邪魔になると惨殺するわ、下手すれば『四谷怪談』などはお岩殺しの濡れ衣を
奉公人の男に着させるなど、卑劣なまでに策を弄する。
腕力では男性に太刀打ちできない女性は生前こそ勝ち目がないが、死後、化けて出ることで『怨嗟力』を獲得。復讐を遂げることで男を上回っている。
現在の『リング』の貞子ですら、外見と登場シーンだけはオドロオドロしく恐怖のシンボルとして支持されているが、突き詰めればこれも悲劇の女だ。
もっとも近年は男女のパワーバランスは崩れ、こういった一連の悲劇は古臭く思えてしまうが。
いずれにせよ、啓発という名のナイフの切っ先を突きつけるには、女の悲劇や悲恋が土壌にある方が、男は身につまされる思いがして、
忘れがたい光背効果を発揮するということだ。
安珍と清姫の物語
http://www.7kamado.net/antin-kiyohime.htm...
たびねす 慈悲とおもてなしの心!蛇となった清姫の伝説が残る和歌山県最古の寺・道成寺
http://guide.travel.co.jp/article/1921...
このスレを続けていくにつけ、あまりにも女性の悲恋話、命を落とす悲劇譚が辟易するまでに多いのはどういうことなのか?
まるで島の誕生、あるいは島の歴史につきもののように、乱暴的に言えば人身御供的に女は死ぬ。
まるで判で捺したかのように、そんな話が多すぎる。
フェミニストの権化である田嶋陽子が、まかり間違ってこのスレを覗いてしまったら烈火のごとく怒りそうだが、
むろん、そんな意図を狙っているつもりは毛頭ない。
探れば探るほど、この手の話ばかり転がっているにすぎない。多少の脚色はするにせよ、本質をありのまま伝えているだけだ。
なにもそれは離島に限定したケースだけではない。内地に眼を向けても、このような女性の悲劇譚はめずらしくない。
やや脱線するが、古くから伝わる3大怪談『四谷怪談』『番町皿屋敷』『牡丹燈籠』ですら、それが当てはまっているではないか。
これらに共通するのも、いずれも女にとっての受難と悲劇、無念の最期を遂げて、みな情念の塊となって男に迫り、復讐を果たす。
どうやら鍵はここにありそうだ。
この3つの怪談は江戸時代に作られた話。江戸時代といえば男性中心の社会であり、封建制度の真っ只中であった。
男と比べて女の地位は社会的にも家庭的にも低く見られた。こういった風土が、怖い女幽霊を生み出すことにつながったものと思われる。
対する男は不倫はするわ、己の地位にしがみつくため女が邪魔になると惨殺するわ、下手すれば『四谷怪談』などはお岩殺しの濡れ衣を
奉公人の男に着させるなど、卑劣なまでに策を弄する。
腕力では男性に太刀打ちできない女性は生前こそ勝ち目がないが、死後、化けて出ることで『怨嗟力』を獲得。復讐を遂げることで男を上回っている。
現在の『リング』の貞子ですら、外見と登場シーンだけはオドロオドロしく恐怖のシンボルとして支持されているが、突き詰めればこれも悲劇の女だ。
もっとも近年は男女のパワーバランスは崩れ、こういった一連の悲劇は古臭く思えてしまうが。
いずれにせよ、啓発という名のナイフの切っ先を突きつけるには、女の悲劇や悲恋が土壌にある方が、男は身につまされる思いがして、
忘れがたい光背効果を発揮するということだ。
安珍と清姫の物語
http://www.7kamado.net/antin-kiyohime.htm...
たびねす 慈悲とおもてなしの心!蛇となった清姫の伝説が残る和歌山県最古の寺・道成寺
http://guide.travel.co.jp/article/1921...
『伝説』はどこからやってきたのか? その考察
恐縮ながら突然話が変わる。
前スレでも散見されたが、互いに離れた土地であるにもかかわらずほぼ同義の話があったり、類似の伝説の多いことに驚かされたはずだ。
そもそも伝説とはどこから派生し、どのようにして伝播していくものなのか?
伝説とは読んで字のごとく、『伝え語られていた一説』である。しょせんは仮説にすぎず、史実とは限らない。
大いに誇張と脚色が混じり、眉唾とも言える(当スレでまことしやかに語っておきながら申し訳ないが)。
火のないところに煙は立たない。とすれば必然的に共同体の外から流れてきたアウトサイダーが話を持ち込み、拡散させたにちがいあるまい。
その人物は話術に秀でており、つまり語る内容に説得力があり、同時に読み書きと歴史に詳しい人物であっただろう。
もしかしてそれは語り部をしつつも、神仏を売り込むことを生業とし、諸国を遍歴する山伏などの漂泊の民だったかもしれない。
彼らが通り過ぎた村や町には、神社建立に関係した逸話が創作され(どうりで宗教色の強い話が多いわけだ)、それらは人づてに語り継がれ、
中には原型をとどめぬほど変容してしまった話だってあるかもしれない。だからAの人物が語った話とBが語った話のアウトラインこそ同義だが、
微妙に登場人物が違ったり、よけいな枝葉が混じったり、なかにはオチまで異なってしまった場合もあり得る。
彼らは自身の信仰を布教するため流れ歩き、神仏を受け入れてもらう見返りとしそんな話を語って聞かせたのかもしれない。
ちなみに、柳田国男著書の『日本の伝説』を紐解けば一目瞭然、日本各地には類似の伝説がゴロゴロしている。
それこそ内地は東から西にはじまり、沖縄の離島に至るまで伝播しているのだ。
柳田によると伝説と昔話の相違について、「昔話は動物のごとく、伝説は植物のようなものであります」とある。これはいまいちピンと来ない。
ドイツのグリムの説明だと、「昔話は詩的であり、伝説は歴史的である」とした。つまり前者は、それ自身でまとまった形態をとっているが、
後者の方は一定の場所や史上の人物と結びつくということであった。
また柳田国男はこうも言及。「昔話と伝説との相違は、以下の3点に集約される。第一に昔話は、誰からも信じられていないが、
伝説はある程度まで信じられている。第二に、昔話は『昔々、あるところ』の物語であるが、どこか決まった場所と結びついている。
第三に、昔話は決まった型をもっているが、伝説はこれといった型をもたないという。それらの特色のなかでもっとも重要なのは、
伝説は信じられているということである。(中略)そのような伝説はもともと何らかの信仰に支えられていたと考えられる。
そういう意味であらゆる伝説は、やはり何かしら真実を伝えていたといってよい。
すべて伝説が特定の場所に落ち着いて、特定の事物と結びついたということは、それが信じられるという証拠としてあげられる。」
というわけで伝説はまんざら嘘八百ではない。そこに何かしら真実が隠されているのだ。
物語に龍や鬼が出てくる話だから、しょせんは作り話と侮るなかれ。
先人たちは我々に、巧妙に隠された伝説から真理を読み解く力を試そうとしているのだと思う。
鬼怒の中将乙姫伝説 天空の竜宮城「鬼怒沼湿原」
http://home.f07.itscom.net/rainbow/kinutyujodensetu.htm...
鬼怒沼山 オロオソロシの滝へ
http://sakuramaya.fc2web.com/east/kantou/kinunuma.htm...
恐縮ながら突然話が変わる。
前スレでも散見されたが、互いに離れた土地であるにもかかわらずほぼ同義の話があったり、類似の伝説の多いことに驚かされたはずだ。
そもそも伝説とはどこから派生し、どのようにして伝播していくものなのか?
伝説とは読んで字のごとく、『伝え語られていた一説』である。しょせんは仮説にすぎず、史実とは限らない。
大いに誇張と脚色が混じり、眉唾とも言える(当スレでまことしやかに語っておきながら申し訳ないが)。
火のないところに煙は立たない。とすれば必然的に共同体の外から流れてきたアウトサイダーが話を持ち込み、拡散させたにちがいあるまい。
その人物は話術に秀でており、つまり語る内容に説得力があり、同時に読み書きと歴史に詳しい人物であっただろう。
もしかしてそれは語り部をしつつも、神仏を売り込むことを生業とし、諸国を遍歴する山伏などの漂泊の民だったかもしれない。
彼らが通り過ぎた村や町には、神社建立に関係した逸話が創作され(どうりで宗教色の強い話が多いわけだ)、それらは人づてに語り継がれ、
中には原型をとどめぬほど変容してしまった話だってあるかもしれない。だからAの人物が語った話とBが語った話のアウトラインこそ同義だが、
微妙に登場人物が違ったり、よけいな枝葉が混じったり、なかにはオチまで異なってしまった場合もあり得る。
彼らは自身の信仰を布教するため流れ歩き、神仏を受け入れてもらう見返りとしそんな話を語って聞かせたのかもしれない。
ちなみに、柳田国男著書の『日本の伝説』を紐解けば一目瞭然、日本各地には類似の伝説がゴロゴロしている。
それこそ内地は東から西にはじまり、沖縄の離島に至るまで伝播しているのだ。
柳田によると伝説と昔話の相違について、「昔話は動物のごとく、伝説は植物のようなものであります」とある。これはいまいちピンと来ない。
ドイツのグリムの説明だと、「昔話は詩的であり、伝説は歴史的である」とした。つまり前者は、それ自身でまとまった形態をとっているが、
後者の方は一定の場所や史上の人物と結びつくということであった。
また柳田国男はこうも言及。「昔話と伝説との相違は、以下の3点に集約される。第一に昔話は、誰からも信じられていないが、
伝説はある程度まで信じられている。第二に、昔話は『昔々、あるところ』の物語であるが、どこか決まった場所と結びついている。
第三に、昔話は決まった型をもっているが、伝説はこれといった型をもたないという。それらの特色のなかでもっとも重要なのは、
伝説は信じられているということである。(中略)そのような伝説はもともと何らかの信仰に支えられていたと考えられる。
そういう意味であらゆる伝説は、やはり何かしら真実を伝えていたといってよい。
すべて伝説が特定の場所に落ち着いて、特定の事物と結びついたということは、それが信じられるという証拠としてあげられる。」
というわけで伝説はまんざら嘘八百ではない。そこに何かしら真実が隠されているのだ。
物語に龍や鬼が出てくる話だから、しょせんは作り話と侮るなかれ。
先人たちは我々に、巧妙に隠された伝説から真理を読み解く力を試そうとしているのだと思う。
鬼怒の中将乙姫伝説 天空の竜宮城「鬼怒沼湿原」
http://home.f07.itscom.net/rainbow/kinutyujodensetu.htm...
鬼怒沼山 オロオソロシの滝へ
http://sakuramaya.fc2web.com/east/kantou/kinunuma.htm...
実盛様が害虫を駆除してくれるのを信じて 城川町田穂・魚成・今田地区
愛媛県西予市城川町周辺の水田にて行われる風習『虫送り』。
地元の人たちが作ったハリボテの紙人形を『実盛様』と呼ぶのだが、その正体は平安時代末期の武将・斎藤別当実盛のことだ。
木曽義仲軍との戦いのさなか、田んぼの稲株に足を取られ、討たれ死んだ。
辞世の言葉は、「無念やな、我、虫となってイネを食い尽くさん」と叫んだという。
虫送りはこの実盛の怨念を鎮めて供養し、害虫駆除と豊作を祈願する行事となった。
梅雨に入った6月30日、愛媛県城川町の田穂〜魚成〜今田地区の田んぼの中を、実盛様の紙人形を持った一行が、鐘や太鼓を打ち鳴らしながら行進していく。
終着地点は黒瀬川。川べりに紙人形が置かれ行事は幕を閉じる。大雨が降ると害虫とともに流されていくのだという。
斎藤実盛wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%8E%E8%97%A4%E5%AE%...
本日のごはん塾 季節の行事:サネモリさんと虫送り
http://gogolesson.jugem.jp/?eid=...
高知の祭り 高知県土佐町宮古野 虫送り(H17.6.20)
http://maturi.lolipop.jp/maturi/2005/maturi36.htm...
愛媛県西予市城川町周辺の水田にて行われる風習『虫送り』。
地元の人たちが作ったハリボテの紙人形を『実盛様』と呼ぶのだが、その正体は平安時代末期の武将・斎藤別当実盛のことだ。
木曽義仲軍との戦いのさなか、田んぼの稲株に足を取られ、討たれ死んだ。
辞世の言葉は、「無念やな、我、虫となってイネを食い尽くさん」と叫んだという。
虫送りはこの実盛の怨念を鎮めて供養し、害虫駆除と豊作を祈願する行事となった。
梅雨に入った6月30日、愛媛県城川町の田穂〜魚成〜今田地区の田んぼの中を、実盛様の紙人形を持った一行が、鐘や太鼓を打ち鳴らしながら行進していく。
終着地点は黒瀬川。川べりに紙人形が置かれ行事は幕を閉じる。大雨が降ると害虫とともに流されていくのだという。
斎藤実盛wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%8E%E8%97%A4%E5%AE%...
本日のごはん塾 季節の行事:サネモリさんと虫送り
http://gogolesson.jugem.jp/?eid=...
高知の祭り 高知県土佐町宮古野 虫送り(H17.6.20)
http://maturi.lolipop.jp/maturi/2005/maturi36.htm...
薩摩七島の身代わりになった七ツ島伝説 七ツ島(ななつじま)
今でこそ七ツ島は鹿児島市の町名であり埋立地となって久しい。工業地帯が広がり産業道路の一部として姿を変えてしまっている。
埋め立てが行われる前は緑地公園付近は砂浜となっており、谷山市街地に近いため多くの海水浴客が訪れていた。
しかも大小7つの島が点在する景勝地としても知られており、七ツ島と呼ばれていたのだ。
七ツ島はその名のとおり、七ツ島、沖之島、腰掛島、出口島、中ノ島、平島、一ノ島の7島からなり、
かつては『伊智貴島』と称されていた。このうち樹木のある島は七ツ島と沖之島の2島のみで、他はすべて岩島だった。
七ツ島、沖之島の両島には数本の老松がそびえていたが、次々に枯れてしまったようだ。
その今はなき七ツ島にもちょっとした歴史が残されている。それが以下のとおりである。
その昔、藩主・島津公が、薩摩七島を領していたとき、ある別の藩主と互いにその領土である七島を賭けて、ある勝負ごとをした。
運悪く島津公は惨敗。そこで相手の藩主は、さっそく七島を譲るよう詰め寄った。
困った島津公。ただ一時の娯楽のためとはいえ、薩摩七島を譲り渡すのは口惜しいってものではない。
しかしながら武士が約束した以上、今さらなかったことにしてくれと申し入れることはできない。
さんざん頭を悩ませた末に思いついたのが例の七ツ島。薩摩七島ではなく、この七ツ島を譲ることにことになったが、
相手の藩主は家来に七ツ島の近況を聞いたところ、七ツ島はとても人はおろか、鼠1匹住めそうにないらしい。
その島だけは御免こうむると断り、ともに呵々大笑して事なきを得たという。薩摩七島の身代わりになった島であるといわれる。
さつまの国の言い伝え 七ツ島の言い伝え 谷山の伝説
http://kagosimalegend.seesaa.net/article/287936882.htm...
今でこそ七ツ島は鹿児島市の町名であり埋立地となって久しい。工業地帯が広がり産業道路の一部として姿を変えてしまっている。
埋め立てが行われる前は緑地公園付近は砂浜となっており、谷山市街地に近いため多くの海水浴客が訪れていた。
しかも大小7つの島が点在する景勝地としても知られており、七ツ島と呼ばれていたのだ。
七ツ島はその名のとおり、七ツ島、沖之島、腰掛島、出口島、中ノ島、平島、一ノ島の7島からなり、
かつては『伊智貴島』と称されていた。このうち樹木のある島は七ツ島と沖之島の2島のみで、他はすべて岩島だった。
七ツ島、沖之島の両島には数本の老松がそびえていたが、次々に枯れてしまったようだ。
その今はなき七ツ島にもちょっとした歴史が残されている。それが以下のとおりである。
その昔、藩主・島津公が、薩摩七島を領していたとき、ある別の藩主と互いにその領土である七島を賭けて、ある勝負ごとをした。
運悪く島津公は惨敗。そこで相手の藩主は、さっそく七島を譲るよう詰め寄った。
困った島津公。ただ一時の娯楽のためとはいえ、薩摩七島を譲り渡すのは口惜しいってものではない。
しかしながら武士が約束した以上、今さらなかったことにしてくれと申し入れることはできない。
さんざん頭を悩ませた末に思いついたのが例の七ツ島。薩摩七島ではなく、この七ツ島を譲ることにことになったが、
相手の藩主は家来に七ツ島の近況を聞いたところ、七ツ島はとても人はおろか、鼠1匹住めそうにないらしい。
その島だけは御免こうむると断り、ともに呵々大笑して事なきを得たという。薩摩七島の身代わりになった島であるといわれる。
さつまの国の言い伝え 七ツ島の言い伝え 谷山の伝説
http://kagosimalegend.seesaa.net/article/287936882.htm...
美しさは罪……絶世の美女マムヤの悲哀伝説 宮古島・東平安名崎(ひがしへんなざき)
>>40のように、美しさゆえに命を落とす美女伝説は少なくない。
昔、平家の落人がはるばる宮古島まで落ち延び、東平安名崎に近い保良(ぼら)村にいついた女がいた。
女をマムヤといい、香草の香る絶世の美女と評判で、また機織りの腕が自慢だった。
彼女の美しさが話題になると、宮古の島々の按司(あじ・豪族の意)や役人たちはこぞって家を訪ね、ぜひ妻にしたいと申し込んだ。
だがどんなに頭を下げられたり、宝を積まれてもきっぱりと断った。ちょっと人間嫌いだったのかもしれない。
にもかかわらず按司たちはひっきりなしにマムヤに会いにくるので、彼女は東平安名崎の下の洞窟に身をひそめ、そこで機織り仕事をしていた。
世の中には耳ざとい者がいるもので、岬に轟く波音にまじって、機織りの音を聞きつけた男がいた。
それが野城按司(ぬぐすくあじ)で、保良村や近くの村落を支配している権力者だった。
彼はその洞窟に入り調べてみた。岩の回廊には美しい布を織りかけにしたままの機織り機があれども、人の姿は見当たらない。
「ここで機を織っていたのは誰か。隠れているのなら出てきなさい」と、洞窟の奥に向かって言うと、女の声が答えた。
「私はわけあってここを住処にしております。どんな偉いお方にも姿を見せたくないのです。どうかお許しを」
「その声は、もしやうわさのマムヤ?」
「そうでございます。お願いします、見逃してください」
ここで野城按司は駆け引きに出る。彼が村じゅうにお触れを出せば、たちまち他の按司たちが求婚しに押し寄せる騒ぎになる。
これはめぐり合わせだ。いっそのこと、わしの妻になれと持ちかける。それでも難色を示すマムヤに対し、今度は賭けを申し出た。
「わしはこれから狩俣村(かりまたむら)まで珊瑚の石を石垣に積む。おまえは狩俣まで芭蕉の糸を紡いでいくのだ。
どちらが先に狩俣に着くか勝負だ。もしわしが勝ったら、わしの妻になるのだ」
よく意味のわからない賭けだが、しばらくマムヤは考えたのち頷いた。狩俣村は、宮古島の東南端の東平安名崎から20km以上も離れているのだ。
途方もない勝負のように思えた。
野城按司は家に取って返すと、家来に命じて領地の農家を総動員させた。そして海から平たい珊瑚の石をかき集めると石垣を積ませた。
一方のマムヤも必死で芭蕉の糸を細く裂いては紡いでいった。卑怯にも人海戦術を使う按司に軍配が上がるのは火を見るより明らかだった。
ついに按司は狩俣まで石垣を積み終えた。マムヤの健闘むなしくわずかに芭蕉の糸は届かなかった。
そういうわけて野城按司の妻となって暮らすことになった。ところが按司には2人の子供と妻がすでにおり、
その妻がことあるごとにマムヤに辛くあたるのだった。
意地悪に我慢できなくなったマムヤが按司に問い詰めた。「私は勝負に負け、妻にするというからあなたの家に嫁ぎました。
ですが奥様がいらっしゃるとは存じませんでした。一夫多妻制でもあるまいし、なぜ私を妻にする必要があったのですか。
結局、私と奥様を秤にかけた場合、どちらが大事なのですか」
男は身勝手な生き物である。欲しい欲しいと願い、あらゆる力を駆使し手に入れた品物も、遅かれ早かれ飽きてしまい、どうでもよくなる。
「ウ〜ム、そうよなあ。どちらが大事か〜」按司はそっぽを向いて寝そべり、股ぐらをかきながら言った。「……たとえ糞尿の臭いがしたとしても、
そりゃおまえ、子供のおる妻の方がいいわな」
「なんですと!」まさに顔に泥、である。あれほど恋焦がれたと言わしめたのに、マムヤにとって屈辱以外のなにものでもない。
マムヤは家を出ると、平安名崎に向かった。
「神様、私がこんなに辛苦を舐めさされるのは、ひとえに私が美しかったからです。どうか保良に美しい娘が生まれないようにしてください。
こんな悲しい思いは私だけで充分……」と、祈ると崖から身を投じて死んだ。
平安名崎の白い灯台の近くに、今もマムヤがいたとされる洞窟と彼女の墓がある。
按司wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%8C%89%E5%8F%B...
瀬音の写真集 大海原へ 東平安名崎(東平安名岬ひがしへんなざき)沖縄県宮古島市
http://blogs.yahoo.co.jp/seoto_kisyuu/61877268.htm...
日本珍スポット100景 美しすぎるって不幸ね 「東平安名崎・マムヤの墓」【宮古島】
http://b-spot.seesaa.net/article/280402289.htm...
みんなで楽しもう! 〜琉球沖縄の、先祖から伝わってきたお話〜 奄美・沖縄本島・沖縄先島の伝説より、第66話。美人が出ない村
http://totoro820.ti-da.net/e3169870.htm...
>>40のように、美しさゆえに命を落とす美女伝説は少なくない。
昔、平家の落人がはるばる宮古島まで落ち延び、東平安名崎に近い保良(ぼら)村にいついた女がいた。
女をマムヤといい、香草の香る絶世の美女と評判で、また機織りの腕が自慢だった。
彼女の美しさが話題になると、宮古の島々の按司(あじ・豪族の意)や役人たちはこぞって家を訪ね、ぜひ妻にしたいと申し込んだ。
だがどんなに頭を下げられたり、宝を積まれてもきっぱりと断った。ちょっと人間嫌いだったのかもしれない。
にもかかわらず按司たちはひっきりなしにマムヤに会いにくるので、彼女は東平安名崎の下の洞窟に身をひそめ、そこで機織り仕事をしていた。
世の中には耳ざとい者がいるもので、岬に轟く波音にまじって、機織りの音を聞きつけた男がいた。
それが野城按司(ぬぐすくあじ)で、保良村や近くの村落を支配している権力者だった。
彼はその洞窟に入り調べてみた。岩の回廊には美しい布を織りかけにしたままの機織り機があれども、人の姿は見当たらない。
「ここで機を織っていたのは誰か。隠れているのなら出てきなさい」と、洞窟の奥に向かって言うと、女の声が答えた。
「私はわけあってここを住処にしております。どんな偉いお方にも姿を見せたくないのです。どうかお許しを」
「その声は、もしやうわさのマムヤ?」
「そうでございます。お願いします、見逃してください」
ここで野城按司は駆け引きに出る。彼が村じゅうにお触れを出せば、たちまち他の按司たちが求婚しに押し寄せる騒ぎになる。
これはめぐり合わせだ。いっそのこと、わしの妻になれと持ちかける。それでも難色を示すマムヤに対し、今度は賭けを申し出た。
「わしはこれから狩俣村(かりまたむら)まで珊瑚の石を石垣に積む。おまえは狩俣まで芭蕉の糸を紡いでいくのだ。
どちらが先に狩俣に着くか勝負だ。もしわしが勝ったら、わしの妻になるのだ」
よく意味のわからない賭けだが、しばらくマムヤは考えたのち頷いた。狩俣村は、宮古島の東南端の東平安名崎から20km以上も離れているのだ。
途方もない勝負のように思えた。
野城按司は家に取って返すと、家来に命じて領地の農家を総動員させた。そして海から平たい珊瑚の石をかき集めると石垣を積ませた。
一方のマムヤも必死で芭蕉の糸を細く裂いては紡いでいった。卑怯にも人海戦術を使う按司に軍配が上がるのは火を見るより明らかだった。
ついに按司は狩俣まで石垣を積み終えた。マムヤの健闘むなしくわずかに芭蕉の糸は届かなかった。
そういうわけて野城按司の妻となって暮らすことになった。ところが按司には2人の子供と妻がすでにおり、
その妻がことあるごとにマムヤに辛くあたるのだった。
意地悪に我慢できなくなったマムヤが按司に問い詰めた。「私は勝負に負け、妻にするというからあなたの家に嫁ぎました。
ですが奥様がいらっしゃるとは存じませんでした。一夫多妻制でもあるまいし、なぜ私を妻にする必要があったのですか。
結局、私と奥様を秤にかけた場合、どちらが大事なのですか」
男は身勝手な生き物である。欲しい欲しいと願い、あらゆる力を駆使し手に入れた品物も、遅かれ早かれ飽きてしまい、どうでもよくなる。
「ウ〜ム、そうよなあ。どちらが大事か〜」按司はそっぽを向いて寝そべり、股ぐらをかきながら言った。「……たとえ糞尿の臭いがしたとしても、
そりゃおまえ、子供のおる妻の方がいいわな」
「なんですと!」まさに顔に泥、である。あれほど恋焦がれたと言わしめたのに、マムヤにとって屈辱以外のなにものでもない。
マムヤは家を出ると、平安名崎に向かった。
「神様、私がこんなに辛苦を舐めさされるのは、ひとえに私が美しかったからです。どうか保良に美しい娘が生まれないようにしてください。
こんな悲しい思いは私だけで充分……」と、祈ると崖から身を投じて死んだ。
平安名崎の白い灯台の近くに、今もマムヤがいたとされる洞窟と彼女の墓がある。
按司wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%8C%89%E5%8F%B...
瀬音の写真集 大海原へ 東平安名崎(東平安名岬ひがしへんなざき)沖縄県宮古島市
http://blogs.yahoo.co.jp/seoto_kisyuu/61877268.htm...
日本珍スポット100景 美しすぎるって不幸ね 「東平安名崎・マムヤの墓」【宮古島】
http://b-spot.seesaa.net/article/280402289.htm...
みんなで楽しもう! 〜琉球沖縄の、先祖から伝わってきたお話〜 奄美・沖縄本島・沖縄先島の伝説より、第66話。美人が出ない村
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欲をかいたばかりに大蛇となったお里乃 蛇喰(現・関川村)
新潟県岩船郡関川村は、新潟でも北部に位置する村。かつては蛇喰(じゃばみ)と呼ばれていた。
そのいわくありげな名前のとおり、不思議な伝説が語り継がれ、それにまつわる祭りまで催されている。
蛇喰は荒川の支流である女川の上流にあった。村には忠蔵とお里乃(おりの)の夫婦、そしてその娘が住んでいた。
忠蔵は炭焼きを生業としていたが、仕事場の阿古屋谷には大蛇が潜むという噂が立っていた。
ある日、忠蔵が昼食を済ませうたた寝していると、おかしな物音がしたので眼を開ければ、その大蛇が忍び寄ってきているではないか。
忠蔵はとっさにマサカリをつかむと大口開けて威嚇する大蛇に挑んだ。死に物狂いで戦い、どうにかしとめることができた。
忠蔵はその大蛇をみそ漬けにしてやろうと思い立ち、血抜きしハラワタを取ると、適当な大きさにブツ切りにしてから家に持ち帰り、
樽に放り込み、みそ漬けにしたのだった。肉の量もボリューム満点で、樽は全部で13個半も漬けたことになった。
忠蔵はお里乃と娘に、「樽の中は決して見てはならんぞ」と釘を刺した。熟成するまでフタを開けさせ酸化させたくない考えもあったが、
しとめた大蛇はなんだか人外の生き物だけに、無惨に切り刻んだ姿を見せるのは憚られたからである。
しかしながらここでも『見るなのタブー』は破られる。見るな見るなと言われれば、よけい見たくなってしまうのが人の性。
お里乃は夫のいない隙に、ちょっとだけ覗いてみようとスケベ心を起こし、フタを開けてしまう。
そしていい塩梅に熟成した肉を見るなり、つまみ食いした。これが美味。あと1つ、もう1つとたいらげ続け、しまいにはすべて食べ尽くしてしまった。
のどが渇いたお里乃は女川の水を手ですくい飲んだ。しばらくしてから水面に映る自分の顔を見て悲鳴をあげた。
なんと大蛇の顔に変わり果てていたのだ。
夕方、忠蔵が仕事から帰ると、娘が1人泣いている。聞けば、しきりに母がいないと訴える。
忠蔵はもしやと思い、樽を開けた。やはり樽は空になっていた。お里乃を探したが、杳として行方はわからなかった。
それから数年経った秋が押し迫ったある日。旅の途中の座頭が米沢街道を歩いていた。
大里峠で日が暮れてしまったので、座頭は祠の前に座って休むことにした。暇を持て余したので琵琶をかき鳴らした。
1曲弾き終えると、闇の中から女の声がした。「素敵な音色に魅了されました。どうかもう1曲、お聞かせください」
座頭もまんざらではない。琵琶を演奏し続けた。そのあと、女の身の上を尋ねてみると、
「私はもともと人間でした。家族もいましたが、わけあって大蛇になってしまったのです」
「左様か。おまえさんさえよければ、そのわけとやらを聞かせてくれないか」と、座頭が言うと、闇の向こうの女は今までの経緯を語った。
「身体が大きくなったので住む場所も不自由しました。ですので、貝附の狭い所を堰き止めて荒川や女川のあたりを大きな湖にして、
そこに住もうと思っております。だから座頭さん、あなたにだけ忠告しておきます。安全な場所へお逃げなさってください。
それと、このことは誰にも言わないで。もし洩らせば命はありませんよ」と、女は言うと気配を消した。
座頭はこうしてはおられん!と思い、下関へと急いだ。大蛇が川を堰き止めたら村はひとたまりもない。
下関に着くと、大庄屋の渡辺三佐工門の家へかけこんだ。洗いざらい話すと、座頭は本当にそのまま息を引き取った。
座頭は死ぬ直前、「大蛇は鉄がとても苦手です。鉄を使いなさい。鉄を……」と、言い残した。
三佐工門は主だった人間を集め、緊急会議を開いた。そして座頭の助言どおり、村中の鉄を集め、大きな釘をたくさん作ることにした。
できあがった釘をみんなで大里峠まで運び、あたり一面に打ち付けたのだ。
姿を現した大蛇だったが、釘を嫌がり、身をよじらせて苦悶した。その様子は7日7晩続き、村人たちも眠れない日々をすごした。
やがて大蛇は息絶え、こうして村は難儀を逃れたのだった。命を賭して危険を知らせてくれた座頭に深く感謝し、神格化させ、神社に祀ることにした。
今でも下関には、座頭が遺した琵琶が祀られているという。
新潟県関川村 山と川と湯の里 関川村
http://www.vill.sekikawa.niigata.jp/
いいでの伝説 『大里峠の大蛇伝説』(関川村)
http://www.hrr.mlit.go.jp/iide/iide/story03.htm...
龍学 蛇になったお里乃
http://www.hunterslog.net/dragonology/ryujatan/hokkaidou...
新潟県岩船郡関川村は、新潟でも北部に位置する村。かつては蛇喰(じゃばみ)と呼ばれていた。
そのいわくありげな名前のとおり、不思議な伝説が語り継がれ、それにまつわる祭りまで催されている。
蛇喰は荒川の支流である女川の上流にあった。村には忠蔵とお里乃(おりの)の夫婦、そしてその娘が住んでいた。
忠蔵は炭焼きを生業としていたが、仕事場の阿古屋谷には大蛇が潜むという噂が立っていた。
ある日、忠蔵が昼食を済ませうたた寝していると、おかしな物音がしたので眼を開ければ、その大蛇が忍び寄ってきているではないか。
忠蔵はとっさにマサカリをつかむと大口開けて威嚇する大蛇に挑んだ。死に物狂いで戦い、どうにかしとめることができた。
忠蔵はその大蛇をみそ漬けにしてやろうと思い立ち、血抜きしハラワタを取ると、適当な大きさにブツ切りにしてから家に持ち帰り、
樽に放り込み、みそ漬けにしたのだった。肉の量もボリューム満点で、樽は全部で13個半も漬けたことになった。
忠蔵はお里乃と娘に、「樽の中は決して見てはならんぞ」と釘を刺した。熟成するまでフタを開けさせ酸化させたくない考えもあったが、
しとめた大蛇はなんだか人外の生き物だけに、無惨に切り刻んだ姿を見せるのは憚られたからである。
しかしながらここでも『見るなのタブー』は破られる。見るな見るなと言われれば、よけい見たくなってしまうのが人の性。
お里乃は夫のいない隙に、ちょっとだけ覗いてみようとスケベ心を起こし、フタを開けてしまう。
そしていい塩梅に熟成した肉を見るなり、つまみ食いした。これが美味。あと1つ、もう1つとたいらげ続け、しまいにはすべて食べ尽くしてしまった。
のどが渇いたお里乃は女川の水を手ですくい飲んだ。しばらくしてから水面に映る自分の顔を見て悲鳴をあげた。
なんと大蛇の顔に変わり果てていたのだ。
夕方、忠蔵が仕事から帰ると、娘が1人泣いている。聞けば、しきりに母がいないと訴える。
忠蔵はもしやと思い、樽を開けた。やはり樽は空になっていた。お里乃を探したが、杳として行方はわからなかった。
それから数年経った秋が押し迫ったある日。旅の途中の座頭が米沢街道を歩いていた。
大里峠で日が暮れてしまったので、座頭は祠の前に座って休むことにした。暇を持て余したので琵琶をかき鳴らした。
1曲弾き終えると、闇の中から女の声がした。「素敵な音色に魅了されました。どうかもう1曲、お聞かせください」
座頭もまんざらではない。琵琶を演奏し続けた。そのあと、女の身の上を尋ねてみると、
「私はもともと人間でした。家族もいましたが、わけあって大蛇になってしまったのです」
「左様か。おまえさんさえよければ、そのわけとやらを聞かせてくれないか」と、座頭が言うと、闇の向こうの女は今までの経緯を語った。
「身体が大きくなったので住む場所も不自由しました。ですので、貝附の狭い所を堰き止めて荒川や女川のあたりを大きな湖にして、
そこに住もうと思っております。だから座頭さん、あなたにだけ忠告しておきます。安全な場所へお逃げなさってください。
それと、このことは誰にも言わないで。もし洩らせば命はありませんよ」と、女は言うと気配を消した。
座頭はこうしてはおられん!と思い、下関へと急いだ。大蛇が川を堰き止めたら村はひとたまりもない。
下関に着くと、大庄屋の渡辺三佐工門の家へかけこんだ。洗いざらい話すと、座頭は本当にそのまま息を引き取った。
座頭は死ぬ直前、「大蛇は鉄がとても苦手です。鉄を使いなさい。鉄を……」と、言い残した。
三佐工門は主だった人間を集め、緊急会議を開いた。そして座頭の助言どおり、村中の鉄を集め、大きな釘をたくさん作ることにした。
できあがった釘をみんなで大里峠まで運び、あたり一面に打ち付けたのだ。
姿を現した大蛇だったが、釘を嫌がり、身をよじらせて苦悶した。その様子は7日7晩続き、村人たちも眠れない日々をすごした。
やがて大蛇は息絶え、こうして村は難儀を逃れたのだった。命を賭して危険を知らせてくれた座頭に深く感謝し、神格化させ、神社に祀ることにした。
今でも下関には、座頭が遺した琵琶が祀られているという。
新潟県関川村 山と川と湯の里 関川村
http://www.vill.sekikawa.niigata.jp/
いいでの伝説 『大里峠の大蛇伝説』(関川村)
http://www.hrr.mlit.go.jp/iide/iide/story03.htm...
龍学 蛇になったお里乃
http://www.hunterslog.net/dragonology/ryujatan/hokkaidou...
1月24日に忌の日の明神様がやってくる島……決して海を見てはいけない 御蔵島(みくらじま) 1
御蔵島は伊豆諸島の1つであり東京都に属する島だ。周辺海域に野生のイルカの群れが生息し、ダイバーにとって憧れの聖地とされている。
周囲16.4km、面積20.55k㎡、中央には標高851mの御山を有し、シンメトリーのシルエットが美しい。
断崖に囲まれた形状から、「海にお椀を伏せたよう」と形容される。
さて、この御蔵島には前スレ>>396で取り上げた、みんな大好き海難法師と酷似した怖くて垂涎の伝説が残されており、
その物忌行事は現在も続けられている。それが忌の日の明神様(きのひのみょうじんさま)伝説である。さっそくイってみようではないか。
島では毎年1月20日、御前に明神様が上陸すると信じられている。その姿は赤い衣をまとい、鉄下駄を履いた怖い形相の神なんだとか。
恐るべき神は南西に位置する稲根神社本殿の沖にある3つの根(岩礁)のうちの『みな根』に降り立ち、『神の道』を通り、
北西にある『アカイ川』までやってくる。
21日から北上し始め、まずは『テガキド』、22日は『おばんの尾』、23日は『鳥の尾』、24日にはついに『ウタヅ川』にまでさしかかる。
そうなると、島唯一の『里』集落まで入ってきてしまう(※南東部にはかつて『南郷』と呼ばれる集落が存在したが、今は衰退している)。
この明神様が1日ごとに里に近づいてくる際、人が近づいてはいけない『結界』も日ごとに狭まってくるとされる。
たとえば1月20日は稲根神社本殿まで来ており、この日の結界を『アカイガワギリ』と呼び、これ以上人が侵入することはタブーとされている。
同様に21日は『テガキドギリ』、22日は『オバンノオギリ』、23日は『トリノオギリ』、翌24日は『ウタズガワギリ』なる結界の呼び方がある。
なんだか中二病紙一重である。ところがこのタブーを無視して結界内へ入り、山仕事をして事故が起こった事例は数え切れないという。
以来、業者ですら、この時期にかぎり山仕事を休むとのこと。
御蔵島は伊豆諸島の1つであり東京都に属する島だ。周辺海域に野生のイルカの群れが生息し、ダイバーにとって憧れの聖地とされている。
周囲16.4km、面積20.55k㎡、中央には標高851mの御山を有し、シンメトリーのシルエットが美しい。
断崖に囲まれた形状から、「海にお椀を伏せたよう」と形容される。
さて、この御蔵島には前スレ>>396で取り上げた、みんな大好き海難法師と酷似した怖くて垂涎の伝説が残されており、
その物忌行事は現在も続けられている。それが忌の日の明神様(きのひのみょうじんさま)伝説である。さっそくイってみようではないか。
島では毎年1月20日、御前に明神様が上陸すると信じられている。その姿は赤い衣をまとい、鉄下駄を履いた怖い形相の神なんだとか。
恐るべき神は南西に位置する稲根神社本殿の沖にある3つの根(岩礁)のうちの『みな根』に降り立ち、『神の道』を通り、
北西にある『アカイ川』までやってくる。
21日から北上し始め、まずは『テガキド』、22日は『おばんの尾』、23日は『鳥の尾』、24日にはついに『ウタヅ川』にまでさしかかる。
そうなると、島唯一の『里』集落まで入ってきてしまう(※南東部にはかつて『南郷』と呼ばれる集落が存在したが、今は衰退している)。
この明神様が1日ごとに里に近づいてくる際、人が近づいてはいけない『結界』も日ごとに狭まってくるとされる。
たとえば1月20日は稲根神社本殿まで来ており、この日の結界を『アカイガワギリ』と呼び、これ以上人が侵入することはタブーとされている。
同様に21日は『テガキドギリ』、22日は『オバンノオギリ』、23日は『トリノオギリ』、翌24日は『ウタズガワギリ』なる結界の呼び方がある。
なんだか中二病紙一重である。ところがこのタブーを無視して結界内へ入り、山仕事をして事故が起こった事例は数え切れないという。
以来、業者ですら、この時期にかぎり山仕事を休むとのこと。
1月24日に忌の日の明神様がやってくる島……決して海を見てはいけない 御蔵島(みくらじま) 2
そしてもっとも注意すべきは、24日の真夜中から25日にかけて。この日は『忌の日』といい、夕食にはアブラアゲ(俗にいう油揚げではなく、
米粉で作った団子)を食べる習慣がある。
この深夜、明神様は里に入ってきて徘徊し、2時ごろ(まさしく丑三つ時)に各家に入り込み、神棚にアブラアゲをちゃんと供えているか確認し、
去っていくのだという。もしもアブラアゲを前もって供えていなければ、履いている鉄下駄でトイレの戸を蹴飛ばして破壊していくそうだ。
なぜトイレの戸なのかは不明。
そのため、明神様が入ってこれるように雨戸を少し開けておかなければならない。そのくせその夜は外を見てはならず、ましてや海を見るのも厳禁。
海難法師同様、外出も許されない。外に出れば、明神様に出くわす可能性があり、見てしまったら眼が潰れると信じられている……。
そして25日の早朝には、里の崖下の『大根が浜』から船に乗って、北西の神々が集う島である神津島に向かうという。
伊豆諸島の神が集まって、会議が行われるんだとか。
この日の朝も決して海を見てはいけない。早朝、神が船出するところを見てしまうと、一緒にさらわれてしまう言い伝えがあるらしい。
前スレ>>396の海難法師は新島の話だった。御蔵島とはせいぜい60km足らずしか離れていないが、物忌の行事は同義こそすれ、
微妙に話が異なる。決定的なのは恐れるものの対象だ。ウ〜ン、伝説って奥深くておもしろい。
……しかし、どうせなら1月20日以前に取り上げるべきだったなと、ちょっと反省。
御蔵島伝説 キュートウキュージン様 伝説
http://www5b.biglobe.ne.jp/‾mabuta/progra-m/legend-4.htm
玄松子の記憶 稲根神社 [東京旅行] 東京都御蔵島村
http://www.genbu.net/data/izu/inane_title.ht...
下川友子オフィシャルブログ「あなたに神様の光がとどきますように・・・☆」 御蔵島の最も神聖な場所。稲根神社の本殿へーっ!
http://ameblo.jp/tomo-chupi/entry-11548249000.h...
御蔵島の旅人 御蔵島伝説 忌の日の明神様の伝説(きのひのみょうじん)
http://www5b.biglobe.ne.jp/‾mabuta/progra-m/legend-2.htm
御蔵島の旅人 年中行事
http://www5b.biglobe.ne.jp/‾mabuta/progra-m/gyouji.htm
ニコニコニュース 伊豆大島に伝わる奇習・日忌様とは? 「1月24日の夜は海を見てはいけない」
http://news.nicovideo.jp/watch/nw89886...
御蔵島★イルカの棲む島ぐらし(Mikura) 神様が動く!
http://bluemoonocean.at.webry.info/201101/article_19.htm...
みくらいふ。〜御蔵島・イルカの棲む海〜 忌の日の明神様
http://ameblo.jp/oooloveooo/entry-10795403960.h...
そしてもっとも注意すべきは、24日の真夜中から25日にかけて。この日は『忌の日』といい、夕食にはアブラアゲ(俗にいう油揚げではなく、
米粉で作った団子)を食べる習慣がある。
この深夜、明神様は里に入ってきて徘徊し、2時ごろ(まさしく丑三つ時)に各家に入り込み、神棚にアブラアゲをちゃんと供えているか確認し、
去っていくのだという。もしもアブラアゲを前もって供えていなければ、履いている鉄下駄でトイレの戸を蹴飛ばして破壊していくそうだ。
なぜトイレの戸なのかは不明。
そのため、明神様が入ってこれるように雨戸を少し開けておかなければならない。そのくせその夜は外を見てはならず、ましてや海を見るのも厳禁。
海難法師同様、外出も許されない。外に出れば、明神様に出くわす可能性があり、見てしまったら眼が潰れると信じられている……。
そして25日の早朝には、里の崖下の『大根が浜』から船に乗って、北西の神々が集う島である神津島に向かうという。
伊豆諸島の神が集まって、会議が行われるんだとか。
この日の朝も決して海を見てはいけない。早朝、神が船出するところを見てしまうと、一緒にさらわれてしまう言い伝えがあるらしい。
前スレ>>396の海難法師は新島の話だった。御蔵島とはせいぜい60km足らずしか離れていないが、物忌の行事は同義こそすれ、
微妙に話が異なる。決定的なのは恐れるものの対象だ。ウ〜ン、伝説って奥深くておもしろい。
……しかし、どうせなら1月20日以前に取り上げるべきだったなと、ちょっと反省。
御蔵島伝説 キュートウキュージン様 伝説
http://www5b.biglobe.ne.jp/‾mabuta/progra-m/legend-4.htm
玄松子の記憶 稲根神社 [東京旅行] 東京都御蔵島村
http://www.genbu.net/data/izu/inane_title.ht...
下川友子オフィシャルブログ「あなたに神様の光がとどきますように・・・☆」 御蔵島の最も神聖な場所。稲根神社の本殿へーっ!
http://ameblo.jp/tomo-chupi/entry-11548249000.h...
御蔵島の旅人 御蔵島伝説 忌の日の明神様の伝説(きのひのみょうじん)
http://www5b.biglobe.ne.jp/‾mabuta/progra-m/legend-2.htm
御蔵島の旅人 年中行事
http://www5b.biglobe.ne.jp/‾mabuta/progra-m/gyouji.htm
ニコニコニュース 伊豆大島に伝わる奇習・日忌様とは? 「1月24日の夜は海を見てはいけない」
http://news.nicovideo.jp/watch/nw89886...
御蔵島★イルカの棲む島ぐらし(Mikura) 神様が動く!
http://bluemoonocean.at.webry.info/201101/article_19.htm...
みくらいふ。〜御蔵島・イルカの棲む海〜 忌の日の明神様
http://ameblo.jp/oooloveooo/entry-10795403960.h...
人を食い殺す恐ろしい森『ガーナー森(ムイ)』 那覇
人を食い殺す恐ろしい森とな。……もう辛抱たまらんでござる、である。
食らって殺す、その張本人が『森』とくれば、サム・ライミによる『死霊のはらわた』の冒頭を想起せずにはいられない。
那覇はもともと浮島だった。大規模な埋め立てで整備され、かつての面影はまるで散見されない。
しかし伝説は細々と生きながらえるものである。
現在、豊見城市(とみぐすくし)の真玉橋(まだんばし)集落に『イリヌシーサー』なるシーサーが鎮座している。
言うまでもないが、シーサーを設置する意味はヒーチケェーシ(悪風返し)だ。そのシーサーの眼は、かつての小さな島を睨んでいる。
その島こそ『ガーナー森』だ。現在のガーナー森は那覇市の住宅地の中にあるが、かつては漫湖に浮かぶ小島だったのだ。
そこにはこんな逸話が残されている。
はるかな昔、ガーナー森は大蛇の化身であった。ガーナー森は夜になると漫湖沿岸の村を襲い、民家を壊しては人を食べたとされる。
集落の人々は恐れつつも、なんとか防戦しようと鍬や鎌などを持って集まった。
ガーナー森からは、真玉橋の村人の慌しい動きが手に取るように見えていた。
「鎌や棒切れで、このわしに楯突こうというのか。笑止千万」と、魔物は冷ややかに笑っていた。
しかし人間の力ではどうあがいても魔物に太刀打ちできない。村人はついに神に向かって、ガーナー森を退治してほしいと祈った。
その願いを聞き入れた神は、巨大な石を天から落とした。石はガーナー森の頭と尻尾に直撃し、魔物は動けなくなった。
さらに完全に動きを封じるべく、イリヌシーサーをガーナー森に向けて鎮座させたのだという。
これには魔物も観念して、水鳥の集まる島へと変わった。
……今さら言うまでもなく、この伝説は先人の豊かな感受性が生み出した比喩だろう。まさか森の魔物とメテオストームを額面どおり捉える人はいまい。
当時、水害に悩まされていた人々がガーナー森を大蛇に例えて、藁にもすがる思いで特別なシーサーを作ってガーナー森に向けたのかもしれない。
氾濫した川や湖は、必ずといっていいほど大蛇や龍に見立てられたものだ。水は人間および共同体にとって必要不可欠な恵みをもたらすものと同時に、
大雨などの影響でひとたび荒れ狂ったとき、人間や共同体に牙をむくアンビバレンスの要素を持っている。だから大蛇や龍を祀る信仰は、
幸を望みつつも怒りを畏れたわけだ。実際、昔の国場川は現在より川幅も広かったので、大雨になるとたちまち氾濫したらしい。
ガーナーという名の由来は、『たんこぶ』の意味であり、形が似ていたからと言われている。ガーガーとうるさいガチョウ(雁の仲間)が棲んでいたから
とされる説もある。
レキオ・島唄アッチャー 怪物と恐れられたガーナー森
http://rekioakiaki.cocolog-nifty.com/blog/2013/09/post-fc2b.htm...
日本珍スポット100景 人を食い殺す恐ろしい森「ガーナー森」【沖縄本島】
http://b-spot.seesaa.net/article/374550087.htm...
nakamuraの思考回路 ガーナー森(ガーナームイ)
http://space.geocities.jp/sanpin_jasmin/old/ganamui.htm...
人を食い殺す恐ろしい森とな。……もう辛抱たまらんでござる、である。
食らって殺す、その張本人が『森』とくれば、サム・ライミによる『死霊のはらわた』の冒頭を想起せずにはいられない。
那覇はもともと浮島だった。大規模な埋め立てで整備され、かつての面影はまるで散見されない。
しかし伝説は細々と生きながらえるものである。
現在、豊見城市(とみぐすくし)の真玉橋(まだんばし)集落に『イリヌシーサー』なるシーサーが鎮座している。
言うまでもないが、シーサーを設置する意味はヒーチケェーシ(悪風返し)だ。そのシーサーの眼は、かつての小さな島を睨んでいる。
その島こそ『ガーナー森』だ。現在のガーナー森は那覇市の住宅地の中にあるが、かつては漫湖に浮かぶ小島だったのだ。
そこにはこんな逸話が残されている。
はるかな昔、ガーナー森は大蛇の化身であった。ガーナー森は夜になると漫湖沿岸の村を襲い、民家を壊しては人を食べたとされる。
集落の人々は恐れつつも、なんとか防戦しようと鍬や鎌などを持って集まった。
ガーナー森からは、真玉橋の村人の慌しい動きが手に取るように見えていた。
「鎌や棒切れで、このわしに楯突こうというのか。笑止千万」と、魔物は冷ややかに笑っていた。
しかし人間の力ではどうあがいても魔物に太刀打ちできない。村人はついに神に向かって、ガーナー森を退治してほしいと祈った。
その願いを聞き入れた神は、巨大な石を天から落とした。石はガーナー森の頭と尻尾に直撃し、魔物は動けなくなった。
さらに完全に動きを封じるべく、イリヌシーサーをガーナー森に向けて鎮座させたのだという。
これには魔物も観念して、水鳥の集まる島へと変わった。
……今さら言うまでもなく、この伝説は先人の豊かな感受性が生み出した比喩だろう。まさか森の魔物とメテオストームを額面どおり捉える人はいまい。
当時、水害に悩まされていた人々がガーナー森を大蛇に例えて、藁にもすがる思いで特別なシーサーを作ってガーナー森に向けたのかもしれない。
氾濫した川や湖は、必ずといっていいほど大蛇や龍に見立てられたものだ。水は人間および共同体にとって必要不可欠な恵みをもたらすものと同時に、
大雨などの影響でひとたび荒れ狂ったとき、人間や共同体に牙をむくアンビバレンスの要素を持っている。だから大蛇や龍を祀る信仰は、
幸を望みつつも怒りを畏れたわけだ。実際、昔の国場川は現在より川幅も広かったので、大雨になるとたちまち氾濫したらしい。
ガーナーという名の由来は、『たんこぶ』の意味であり、形が似ていたからと言われている。ガーガーとうるさいガチョウ(雁の仲間)が棲んでいたから
とされる説もある。
レキオ・島唄アッチャー 怪物と恐れられたガーナー森
http://rekioakiaki.cocolog-nifty.com/blog/2013/09/post-fc2b.htm...
日本珍スポット100景 人を食い殺す恐ろしい森「ガーナー森」【沖縄本島】
http://b-spot.seesaa.net/article/374550087.htm...
nakamuraの思考回路 ガーナー森(ガーナームイ)
http://space.geocities.jp/sanpin_jasmin/old/ganamui.htm...
某宗教団体が乗っ取った島……某島
真の怖い島とは、案外こんな島なのかもしれない。あえて宗教名も島名も名指ししないでおこう。
興味があるなら自力で探してみれば?
触らぬ神になんとやらだ。
東京BREAKING NEWS 宗教団体に乗っ取られた西日本の小さな島「夜中に楽器を鳴らして行進している」
http://n-knuckles.com/discover/folklore/news000572.h...
でんでんむしの岬めぐり 928 荒崎=瀬戸内市牛窓町牛窓(岡山県)緑島の隣が黒島で岬をまわると向こう側には青島と黄島とが隠れている
http://dendenmushimushi.blog.so-net.ne.jp/_pages/user/iphone/article?nam...
真の怖い島とは、案外こんな島なのかもしれない。あえて宗教名も島名も名指ししないでおこう。
興味があるなら自力で探してみれば?
触らぬ神になんとやらだ。
東京BREAKING NEWS 宗教団体に乗っ取られた西日本の小さな島「夜中に楽器を鳴らして行進している」
http://n-knuckles.com/discover/folklore/news000572.h...
でんでんむしの岬めぐり 928 荒崎=瀬戸内市牛窓町牛窓(岡山県)緑島の隣が黒島で岬をまわると向こう側には青島と黄島とが隠れている
http://dendenmushimushi.blog.so-net.ne.jp/_pages/user/iphone/article?nam...
真玉橋の人柱伝説・七色ムーティー 那覇市
>>51で紹介した豊見城村と那覇市の間を流れる国場川にかかる真玉橋は、他にもこんないわれがある。
真玉橋は1522年、尚真王により、首里と豊見城間切を結ぶ重要な橋として架けられた。
しかしガーナー森伝説のとおり、当時の木製の真玉橋は大雨のたびに洪水で流されてしまうため、
1707年、尚貞王の代になると、丈夫な石で造りかえることにしたのだ。
ところが大勢の人夫を雇い手早く工事するにもかかわらず、大雨になるとたちまち川が氾濫し、せっかく架けた橋脚が流されてしまう。
建設は難航し、役人たちは頭を痛めていた。
そんなとき、役人のもとに1人のノロ(神女)が現れ、こう言った。
「この橋を完成させるには、子年生まれで、七色の元結(髪の根元を結ぶこと)をした女を人柱として立てるがよいとのご託宣がありました」
「まさか人柱とは……。いささか非人道的ではあるまいか」と、絶句した役人たち。
とはいえ、沖縄ではノロやユタの発言力は絶対であった。
役人は血眼になって人柱となるべき条件の人間を探したものの、なかなか該当する者にめぐり会えない。
しばらく経ったある日、お告げを言ったノロ自身が子年生まれであることが発覚した。
そこで役人たちがこっそりノロの家を訪ねてみると、なんと彼女の元結が七色に輝いているではないか。
思わぬ役人の訪問に慌てふためいたノロは、「これは私を陥れるための罠です!」と涙ながらに訴えた。
役人たちにしてみれば体のいい詭弁。問答無用で女を連行した。
翌日、ノロは皮肉にも自身が下した託宣どおり、人柱として生き埋めされることになった。
大勢の人々が見守るなか、ノロの一人娘が泣いている姿を認めると、ノロはこう叫んだ。
「娘よ、どんなことがあっても人より先に口を利いてはなりません」
川に沈められる直前、母の最期の言葉を聞いた娘は、それからというもの口を閉ざした。
その後、村人たちは「物ゆみ者や 馬ぬ さちとゆん(おしゃべり者は、馬の先を歩いて災いをまねく)」と言って戒めた。
後日談として、やがて婚期を迎えた娘だったが、ものが言えないので結婚できるはずもない。
そのとき蝶に姿を変えたノロの霊が現れ、娘のまわりを舞うと娘は口が利けるようになり、結婚することができたという。
民話で有名な『雉も鳴かずば撃たれまい』との類似点が見られるが、それもそのはず、本土の『長良川の人柱』をもとに平良良勝が、
『真玉橋由来記』として書き直し、このように変異したようだ。これもまた、伝説の伝播における1つの形といえよう。
雑貨屋 anshare project の日記 「言葉発見! 七色ムーティー」
http://anshare.exblog.jp/11624454...
奄美・沖縄本島・沖縄先島の伝説より、第132話。真玉橋まだんばしの人柱
http://totoro820.ti-da.net/e3371545.htm...
[PDF]沖縄・豊見城村の伝説「真玉橋の人柱」
http://barrel.ih.otaru-uc.ac.jp/bitstream/10252/768/1/RLA_97_2...
沖縄芝居「真玉橋由来記」と新作組踊「真珠道」について
http://www.geocities.jp/yuminuyu/kumi22.htm...
>>51で紹介した豊見城村と那覇市の間を流れる国場川にかかる真玉橋は、他にもこんないわれがある。
真玉橋は1522年、尚真王により、首里と豊見城間切を結ぶ重要な橋として架けられた。
しかしガーナー森伝説のとおり、当時の木製の真玉橋は大雨のたびに洪水で流されてしまうため、
1707年、尚貞王の代になると、丈夫な石で造りかえることにしたのだ。
ところが大勢の人夫を雇い手早く工事するにもかかわらず、大雨になるとたちまち川が氾濫し、せっかく架けた橋脚が流されてしまう。
建設は難航し、役人たちは頭を痛めていた。
そんなとき、役人のもとに1人のノロ(神女)が現れ、こう言った。
「この橋を完成させるには、子年生まれで、七色の元結(髪の根元を結ぶこと)をした女を人柱として立てるがよいとのご託宣がありました」
「まさか人柱とは……。いささか非人道的ではあるまいか」と、絶句した役人たち。
とはいえ、沖縄ではノロやユタの発言力は絶対であった。
役人は血眼になって人柱となるべき条件の人間を探したものの、なかなか該当する者にめぐり会えない。
しばらく経ったある日、お告げを言ったノロ自身が子年生まれであることが発覚した。
そこで役人たちがこっそりノロの家を訪ねてみると、なんと彼女の元結が七色に輝いているではないか。
思わぬ役人の訪問に慌てふためいたノロは、「これは私を陥れるための罠です!」と涙ながらに訴えた。
役人たちにしてみれば体のいい詭弁。問答無用で女を連行した。
翌日、ノロは皮肉にも自身が下した託宣どおり、人柱として生き埋めされることになった。
大勢の人々が見守るなか、ノロの一人娘が泣いている姿を認めると、ノロはこう叫んだ。
「娘よ、どんなことがあっても人より先に口を利いてはなりません」
川に沈められる直前、母の最期の言葉を聞いた娘は、それからというもの口を閉ざした。
その後、村人たちは「物ゆみ者や 馬ぬ さちとゆん(おしゃべり者は、馬の先を歩いて災いをまねく)」と言って戒めた。
後日談として、やがて婚期を迎えた娘だったが、ものが言えないので結婚できるはずもない。
そのとき蝶に姿を変えたノロの霊が現れ、娘のまわりを舞うと娘は口が利けるようになり、結婚することができたという。
民話で有名な『雉も鳴かずば撃たれまい』との類似点が見られるが、それもそのはず、本土の『長良川の人柱』をもとに平良良勝が、
『真玉橋由来記』として書き直し、このように変異したようだ。これもまた、伝説の伝播における1つの形といえよう。
雑貨屋 anshare project の日記 「言葉発見! 七色ムーティー」
http://anshare.exblog.jp/11624454...
奄美・沖縄本島・沖縄先島の伝説より、第132話。真玉橋まだんばしの人柱
http://totoro820.ti-da.net/e3371545.htm...
[PDF]沖縄・豊見城村の伝説「真玉橋の人柱」
http://barrel.ih.otaru-uc.ac.jp/bitstream/10252/768/1/RLA_97_2...
沖縄芝居「真玉橋由来記」と新作組踊「真珠道」について
http://www.geocities.jp/yuminuyu/kumi22.htm...
巨大なタコのような奇岩! 鮹岩(ポロワタラ)
知床西海岸のアイヌ語地名を巡る 知床半島中央部 - 道北の釣りと旅
http://www.kitakaido.com/okhotsk/shari/shari_21.htm...
YAHOO!知恵袋 タコの漢字は、蛸と鮹どっちが正しいんですか?
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q132175627...
知床西海岸のアイヌ語地名を巡る 知床半島中央部 - 道北の釣りと旅
http://www.kitakaido.com/okhotsk/shari/shari_21.htm...
YAHOO!知恵袋 タコの漢字は、蛸と鮹どっちが正しいんですか?
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q132175627...
壷よりいでし和気姫、のちに神格化 興居島(ごごしま)
愛媛県松山港の沖合に浮かぶ有人島、興居島。島の南部の小高い山は、伊予小富士といい、気品ある佇まいを見せている。
地元では親しみをこめて小富士山(こふじさん)と呼んでいる。
興居島では祭神、和気比売(和気姫)を祀った船越和気比売神社が鎮座している。
その和気比売とはいかなる神なのか、興味を示さずにはいられない。発祥である『和気姫伝説』がこんな話だ。
昔、船越には和気五郎太夫という名の漁師が住んでいた。
ある日、沖に出て漁をしていると、大きな丸い物体が浮かんでいるのを発見する。
それは壷だった。拾い上げ磯の岩に打ち当てて砕いてみると、中から12、3才ぐらいの、見目麗しい女の子が出てきた。
五郎太夫はまさか子供が入っているとは夢にも思わなかったので、腰を抜かすほど驚いた。
「なんでまた、おまえは壷の中に閉じ込められていたんだ? どこから流されてきた?」
すると少女はこう答えた。「私は唐の国の者でございますが、訳あって壷に入れられ漂流してきたのでございます。私の名は和気姫」
「和気姫か。それにしてもめんこいのう。どうだ、宿無しなのなら、ウチに来るか。とりあえずメシでも食ってけ」
「壷から出てきたというのに、私のことを奇異に思わないとは寛大なお方。喜んでお言葉に甘えさせていただきます」
こんなトントン拍子で話が進み、五郎太夫はついに自身の娘として大切に育てることにした。五郎太夫はロリコンではなかったと信じたい。
立派に成人した和気姫。美しさは眩しすぎるほどであった。ある日、伊予皇子に見初められてしまう。世の常で権力者は手が早い。
これには歯ぎしりせずにはいられない五郎太夫であったが、娘をいつまでも手元に置いておくわけにはいかない。
やがて和気姫は伊予皇子の奥方となり、三つ子の男の子を授かった。
しかしながら当時は三つ子は忌み子として蔑まれた迷信があった。せっかく授かった命を小船に乗せて海へと流してしまう。
それでも三つ子は無事、それぞれ島に流れ着いた。第一子は伊豆の国に、第二子は備前児島、第三子は伊予の国三津浦にという具合。
しばらくすると各地の豪族として栄えたが、とりわけ第三子である小千御子(おちのみこ)は、伊予の大豪族・越智家の祖となったという。
のちに小千御子が、「母が住んでいた島」と言ったことから、この島を母子島(母居島)と呼んでいたが、元禄12年から、興居島へと変遷した。
和気姫の死後、和気姫を神格化させて船越社に祀り、後に船越八幡宮と改められ、明治期に船越和気比売(ヒメ)神社となった。
……壷が流れてきて、そこには子供が入っていたという話は、なんだか虚舟や桃太郎、かぐや姫を髣髴とさせておもしろい。
年端もいかぬ子供を罪人の流刑にしたというのは考えにくい。追っ手からかくまうため、壷に入れて流したのだろうか?
愛姫伝 ☆「姫の島」興居島へ NO1(霧の導き)
http://makild.exblog.jp/12830540...
興居島愛好会(ごごしま あいこうかい)
http://gogosima-ikou.nsf.jp/densetu/densetu.htm...
YAHOO!知恵袋 双子が忌み子だと言われていた時代はあるのでしょうか?
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q103376813...
ちるみぃでっどり− 【虚ろ舟=UFO】空っぽの鉄の舟,南蛮渡来の美女【宇宙人=人間】
http://blog.goo.ne.jp/kill_me_deadly/e/7becdcaa48d4c...
愛媛県松山港の沖合に浮かぶ有人島、興居島。島の南部の小高い山は、伊予小富士といい、気品ある佇まいを見せている。
地元では親しみをこめて小富士山(こふじさん)と呼んでいる。
興居島では祭神、和気比売(和気姫)を祀った船越和気比売神社が鎮座している。
その和気比売とはいかなる神なのか、興味を示さずにはいられない。発祥である『和気姫伝説』がこんな話だ。
昔、船越には和気五郎太夫という名の漁師が住んでいた。
ある日、沖に出て漁をしていると、大きな丸い物体が浮かんでいるのを発見する。
それは壷だった。拾い上げ磯の岩に打ち当てて砕いてみると、中から12、3才ぐらいの、見目麗しい女の子が出てきた。
五郎太夫はまさか子供が入っているとは夢にも思わなかったので、腰を抜かすほど驚いた。
「なんでまた、おまえは壷の中に閉じ込められていたんだ? どこから流されてきた?」
すると少女はこう答えた。「私は唐の国の者でございますが、訳あって壷に入れられ漂流してきたのでございます。私の名は和気姫」
「和気姫か。それにしてもめんこいのう。どうだ、宿無しなのなら、ウチに来るか。とりあえずメシでも食ってけ」
「壷から出てきたというのに、私のことを奇異に思わないとは寛大なお方。喜んでお言葉に甘えさせていただきます」
こんなトントン拍子で話が進み、五郎太夫はついに自身の娘として大切に育てることにした。五郎太夫はロリコンではなかったと信じたい。
立派に成人した和気姫。美しさは眩しすぎるほどであった。ある日、伊予皇子に見初められてしまう。世の常で権力者は手が早い。
これには歯ぎしりせずにはいられない五郎太夫であったが、娘をいつまでも手元に置いておくわけにはいかない。
やがて和気姫は伊予皇子の奥方となり、三つ子の男の子を授かった。
しかしながら当時は三つ子は忌み子として蔑まれた迷信があった。せっかく授かった命を小船に乗せて海へと流してしまう。
それでも三つ子は無事、それぞれ島に流れ着いた。第一子は伊豆の国に、第二子は備前児島、第三子は伊予の国三津浦にという具合。
しばらくすると各地の豪族として栄えたが、とりわけ第三子である小千御子(おちのみこ)は、伊予の大豪族・越智家の祖となったという。
のちに小千御子が、「母が住んでいた島」と言ったことから、この島を母子島(母居島)と呼んでいたが、元禄12年から、興居島へと変遷した。
和気姫の死後、和気姫を神格化させて船越社に祀り、後に船越八幡宮と改められ、明治期に船越和気比売(ヒメ)神社となった。
……壷が流れてきて、そこには子供が入っていたという話は、なんだか虚舟や桃太郎、かぐや姫を髣髴とさせておもしろい。
年端もいかぬ子供を罪人の流刑にしたというのは考えにくい。追っ手からかくまうため、壷に入れて流したのだろうか?
愛姫伝 ☆「姫の島」興居島へ NO1(霧の導き)
http://makild.exblog.jp/12830540...
興居島愛好会(ごごしま あいこうかい)
http://gogosima-ikou.nsf.jp/densetu/densetu.htm...
YAHOO!知恵袋 双子が忌み子だと言われていた時代はあるのでしょうか?
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q103376813...
ちるみぃでっどり− 【虚ろ舟=UFO】空っぽの鉄の舟,南蛮渡来の美女【宇宙人=人間】
http://blog.goo.ne.jp/kill_me_deadly/e/7becdcaa48d4c...
お万と維盛の伝説 龍神村 1
和歌山県田辺市の日高川沿いを山間部に分け入っていくと突如現れる龍神村。古くから林業が基幹産業である。
『龍神』とつく村なのだから、さぞかし龍にちなんだ伝承があるのかと思いきや、これは温泉の名に由来するものだという。
日本三美人の湯として名高い龍神温泉は、およそ1300年前に役小角(えんのおづの)が発見し、弘法大師が難陀龍王の夢のお告げによって
開いたといわれる。他の三美人の湯は島根県湯ノ川温泉、群馬県川中温泉が数えられるそうだ。
それとは別に、龍神村には平家一族で名を馳せた平維盛(たいらのこれもり)と、その家来たちが落ち延びた地として知られている。
この維盛と恋に落ちた娘、お万の伝説がこんな話。
今から800年前以上も昔、屋島の陣をから行方をくらませた平清盛の孫、維盛とその一行は高野山にたどり着いた。
亡父、重盛が寵愛していた家臣、滝口入道時頼に諭され、 熊野水軍を指揮している法印湛僧に平家側に与するよう説得すべく田辺に向かっている道中、
切目神社の宮司湯浅宗光から一ノ谷の敗戦、義経の鵯越の逆落としによって陣屋は壊滅したと聞かされる。
同宮司より「法印湛僧の動向はお伝えしますので、今は日高川奥地の在所にて好機をお待ち下され」と諌められ、維盛は龍神小森に姿を見せたのだった。
この在所は治承4(1180)年ごろ、落ち延びて来た源頼氏支配の地であり、頼氏の迫害を恐れ、断崖絶壁の小森渓谷を上ること約2里の場所に谷端を切り開き、
周囲50mほどの屋敷を構えたのが寿永3(1184)年の4月であった。
在所から屋敷へ食料や衣服を運んだり、身の回りの世話を任されたのが地元の19歳の娘、お万であった。
お万は田舎娘とは思えぬほど洗練された所作と、白い肌が美しい女だった。
維盛とて容姿端麗で気が優しく、元来戦には向かない武将であったとも言われていた。お互いが惹かれあうのも時間の問題だった。
和歌山県田辺市の日高川沿いを山間部に分け入っていくと突如現れる龍神村。古くから林業が基幹産業である。
『龍神』とつく村なのだから、さぞかし龍にちなんだ伝承があるのかと思いきや、これは温泉の名に由来するものだという。
日本三美人の湯として名高い龍神温泉は、およそ1300年前に役小角(えんのおづの)が発見し、弘法大師が難陀龍王の夢のお告げによって
開いたといわれる。他の三美人の湯は島根県湯ノ川温泉、群馬県川中温泉が数えられるそうだ。
それとは別に、龍神村には平家一族で名を馳せた平維盛(たいらのこれもり)と、その家来たちが落ち延びた地として知られている。
この維盛と恋に落ちた娘、お万の伝説がこんな話。
今から800年前以上も昔、屋島の陣をから行方をくらませた平清盛の孫、維盛とその一行は高野山にたどり着いた。
亡父、重盛が寵愛していた家臣、滝口入道時頼に諭され、 熊野水軍を指揮している法印湛僧に平家側に与するよう説得すべく田辺に向かっている道中、
切目神社の宮司湯浅宗光から一ノ谷の敗戦、義経の鵯越の逆落としによって陣屋は壊滅したと聞かされる。
同宮司より「法印湛僧の動向はお伝えしますので、今は日高川奥地の在所にて好機をお待ち下され」と諌められ、維盛は龍神小森に姿を見せたのだった。
この在所は治承4(1180)年ごろ、落ち延びて来た源頼氏支配の地であり、頼氏の迫害を恐れ、断崖絶壁の小森渓谷を上ること約2里の場所に谷端を切り開き、
周囲50mほどの屋敷を構えたのが寿永3(1184)年の4月であった。
在所から屋敷へ食料や衣服を運んだり、身の回りの世話を任されたのが地元の19歳の娘、お万であった。
お万は田舎娘とは思えぬほど洗練された所作と、白い肌が美しい女だった。
維盛とて容姿端麗で気が優しく、元来戦には向かない武将であったとも言われていた。お互いが惹かれあうのも時間の問題だった。
お万と維盛の伝説 龍神村 2
しかし恋の行方も暗雲が垂れ込める。
寿永4年(1185)2月、頼みにしていた熊野水軍は船首に熊野権現の神旗と源氏の白旗をなびかせて屋島に乱入。法印湛僧による平家への裏切りだった。
維盛が平家の滅亡を知ったのは同年4月。維盛は小森渓谷の山頂で護摩木を積んで火を放ち、「平氏勝利を得るならばこの煙を天へ上げ給え、
もし不運にして破れるならばこの煙を地に下し給いて、我が家の運命を知らせ給え」と行く末を占った。
ところが煙は不吉にも地肌を這うばかり。地を這う煙は凶兆に他ならなかった。
絶望的な面持ちで維盛は悟った。もはや平家の運命、ここに潰えたも同じ。
維盛は従者の衛門・嘉門兄弟、そしてお万に別れを告げ、屋敷を去り、那智の滝で自決した。
自決の知らせを受けた従者衛門・嘉門兄弟は、これも滝から身を投げて後を追った。片やお万はその翌朝、在所から屋敷へと向かう途中で白粉を流し、
清流に紅を溶かし、最後は淵に身を投げて若くてしなやかな命を散らせた。
その後、里人たちは維盛が護摩木を積んで占った山を護摩壇山、衛門・嘉門が自決した瀧を衛門・嘉門の瀧、お万が白粉を流したところを白壷、
紅を溶かしたところを赤壷、身を投げた淵をお万が淵と名付け、後世に伝えている。
……そもそもこの平維盛、高野山に入って出家したあと、前スレでたびたび取り上げた補陀落渡海で志願して屋形船に乗り込み、入水した1人と言われているのだ。
しかしながら、「三位中将維盛、歳二十七、寿永三年三月二十八日、那智の沖に入水する」と書き付け、死んだように見せかけて、
実は偽装工作であった線が濃厚だという。源氏の追撃を諦めさせるための方便であろう。そういった経緯を経て、龍神村に辿りついたとされているのだ。
下記の平維盛wikipediaでご覧になればわかると思うが、落ち延びた場所が無数にある。欺瞞してまで落ち延びるというのは、
想像を絶するほど命がけの逃亡だったに違いあるまい。
龍神村以外にも、那智勝浦町の奥深いところには色川という集落があり、ここには維盛の墓まで存在する。
色川はとても景色のきれいなところで、秘境とも言うべき場所。今度暇を見て突撃取材に行ってくるつもりだから、乞うご期待。
人生の空からVonBraun.exblog.jp 小森谷
http://vonbraun.exblog.jp/1288126...
龍神村の文化財 田辺市龍神村
http://www.aikis.or.jp/‾eiji-ito/ryujin/hometown_cultural.htm
Revoir... < 龍神へ >
http://revoir.exblog.jp/1855665...
役小角wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BD%B9%E5%B0%8F%E8%A7%...
平維盛wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E7%B6%AD%E7%9B%...
熊野の観光名所 - み熊野ねっと 補陀洛山寺
http://www.mikumano.net/meguri/fudaraku.htm...
わかやま新報 Staff Blog 星神社
http://www.wakayamashimpo.co.jp/staffblog/2009/10/post_227.htm...
nicozon つボイノリオの極付けお万の方
http://www.nicozon.net/watch/sm531110...
しかし恋の行方も暗雲が垂れ込める。
寿永4年(1185)2月、頼みにしていた熊野水軍は船首に熊野権現の神旗と源氏の白旗をなびかせて屋島に乱入。法印湛僧による平家への裏切りだった。
維盛が平家の滅亡を知ったのは同年4月。維盛は小森渓谷の山頂で護摩木を積んで火を放ち、「平氏勝利を得るならばこの煙を天へ上げ給え、
もし不運にして破れるならばこの煙を地に下し給いて、我が家の運命を知らせ給え」と行く末を占った。
ところが煙は不吉にも地肌を這うばかり。地を這う煙は凶兆に他ならなかった。
絶望的な面持ちで維盛は悟った。もはや平家の運命、ここに潰えたも同じ。
維盛は従者の衛門・嘉門兄弟、そしてお万に別れを告げ、屋敷を去り、那智の滝で自決した。
自決の知らせを受けた従者衛門・嘉門兄弟は、これも滝から身を投げて後を追った。片やお万はその翌朝、在所から屋敷へと向かう途中で白粉を流し、
清流に紅を溶かし、最後は淵に身を投げて若くてしなやかな命を散らせた。
その後、里人たちは維盛が護摩木を積んで占った山を護摩壇山、衛門・嘉門が自決した瀧を衛門・嘉門の瀧、お万が白粉を流したところを白壷、
紅を溶かしたところを赤壷、身を投げた淵をお万が淵と名付け、後世に伝えている。
……そもそもこの平維盛、高野山に入って出家したあと、前スレでたびたび取り上げた補陀落渡海で志願して屋形船に乗り込み、入水した1人と言われているのだ。
しかしながら、「三位中将維盛、歳二十七、寿永三年三月二十八日、那智の沖に入水する」と書き付け、死んだように見せかけて、
実は偽装工作であった線が濃厚だという。源氏の追撃を諦めさせるための方便であろう。そういった経緯を経て、龍神村に辿りついたとされているのだ。
下記の平維盛wikipediaでご覧になればわかると思うが、落ち延びた場所が無数にある。欺瞞してまで落ち延びるというのは、
想像を絶するほど命がけの逃亡だったに違いあるまい。
龍神村以外にも、那智勝浦町の奥深いところには色川という集落があり、ここには維盛の墓まで存在する。
色川はとても景色のきれいなところで、秘境とも言うべき場所。今度暇を見て突撃取材に行ってくるつもりだから、乞うご期待。
人生の空からVonBraun.exblog.jp 小森谷
http://vonbraun.exblog.jp/1288126...
龍神村の文化財 田辺市龍神村
http://www.aikis.or.jp/‾eiji-ito/ryujin/hometown_cultural.htm
Revoir... < 龍神へ >
http://revoir.exblog.jp/1855665...
役小角wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BD%B9%E5%B0%8F%E8%A7%...
平維盛wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E7%B6%AD%E7%9B%...
熊野の観光名所 - み熊野ねっと 補陀洛山寺
http://www.mikumano.net/meguri/fudaraku.htm...
わかやま新報 Staff Blog 星神社
http://www.wakayamashimpo.co.jp/staffblog/2009/10/post_227.htm...
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神域の島 8月7日に行われる『夕日の神事』と海底遺跡の因果関係 経島(ふみしま)
島根県出雲市の日御碕(ひのみさき)から西へ約100m行くと日本海に出る。すぐそばには経島という無人島が見える。
『経巻』を積み重ねたような柱状節理の石英角斑岩から形成されており、お経の本を載せる文机のように見えることから、
その名がついたと伝えられている。またウミネコの繁殖地として、国の天然記念物『経島ウミネコ繁殖地』に指定されている。
毎年11月下旬から冬にかけて約5000羽ものウミネコが飛来し、4月から5月にかけて産卵・孵化、7月ごろに島を離れるそうだ。
ウミネコは主に海面近くのイワシや小魚を常食としており、ブリに追われて海面に浮上したイワシを求めてウミネコが群れをなすので、
これを目印に出漁する漁師にとっては特別ありがたい島である。
さらにはこの経島、古くは日御碕神社の下之宮があり、今もなお神職以外の一般の立入りは禁止されている。
8月7日の『夕日の神事』のときのみ宮司だけが舟で渡ることができるのだ。
それだけではない。実は日御埼灯台北の海底には、サドガセとボングイと呼ばれる岩があり、人工的に造られた階段や参道、祭祀跡が発見されたのだ。
なかでもサドガセにある2つの巨石がもたれかかってできた岩屋は、沖縄の南城市にある世界遺産、斎場御嶽(せーふぁうたき)に酷似しており、謎めいている。
この遺跡を発見したのは、日御碕漁港でダイビングショップを営む岡本哲夫氏。
12年ほど前、岡本氏が新たなダイビングスポットを開拓すべく周辺の海を調査したところ、件の遺跡にめぐり会ったというわけだ。
「最初に見つけたのは、日御埼灯台北の海底です。階段のように削られた岩や、玉砂利を敷いた参道らしきものがあり、
どう見ても自然にできたものとは思えず、 調査を始めました」と、岡本氏は語る。
ちなみに伊勢神宮が「日の本の昼を守る」のに対し、日御碕神社は「日の本の夜を守る」ところという勅命があり、
その名も「日沈宮」という美しい宮が建てられたとの逸話が残っている。
また上記した『夕日の神事』は、かつては経島沖の『タイワ』と呼ばれる瀬で行なわれていたという言い伝えがあり、
その伝説を裏付ける発見かもしれないと、期待が寄せられているそうだ。
漁港漁村の歴史文化財産の紹介 経島〔ふみしま〕〈宇竜漁港〉(出雲市大社町)
http://www.pref.shimane.lg.jp/gyokogyojo/zaisan/02fumishima....
平成・美しい日本を護る会ブログ【やむやま】 日御碕神社
http://heigokai.blog.fc2.com/blog-entry-109.htm...
あれこれある記 2013年8月 1日(木) 日御碕神社
http://soundmaster.cocolog-nifty.com/blog/2013/08/index.htm...
さんいん旅ねっと 日本海のダイビングスポット「日御碕」に海底遺跡か?
http://www.san-in-tabi.net/travel/44.htm...
神域の島 8月7日に行われる『夕日の神事』と海底遺跡の因果関係 経島(ふみしま)
島根県出雲市の日御碕(ひのみさき)から西へ約100m行くと日本海に出る。すぐそばには経島という無人島が見える。
『経巻』を積み重ねたような柱状節理の石英角斑岩から形成されており、お経の本を載せる文机のように見えることから、
その名がついたと伝えられている。またウミネコの繁殖地として、国の天然記念物『経島ウミネコ繁殖地』に指定されている。
毎年11月下旬から冬にかけて約5000羽ものウミネコが飛来し、4月から5月にかけて産卵・孵化、7月ごろに島を離れるそうだ。
ウミネコは主に海面近くのイワシや小魚を常食としており、ブリに追われて海面に浮上したイワシを求めてウミネコが群れをなすので、
これを目印に出漁する漁師にとっては特別ありがたい島である。
さらにはこの経島、古くは日御碕神社の下之宮があり、今もなお神職以外の一般の立入りは禁止されている。
8月7日の『夕日の神事』のときのみ宮司だけが舟で渡ることができるのだ。
それだけではない。実は日御埼灯台北の海底には、サドガセとボングイと呼ばれる岩があり、人工的に造られた階段や参道、祭祀跡が発見されたのだ。
なかでもサドガセにある2つの巨石がもたれかかってできた岩屋は、沖縄の南城市にある世界遺産、斎場御嶽(せーふぁうたき)に酷似しており、謎めいている。
この遺跡を発見したのは、日御碕漁港でダイビングショップを営む岡本哲夫氏。
12年ほど前、岡本氏が新たなダイビングスポットを開拓すべく周辺の海を調査したところ、件の遺跡にめぐり会ったというわけだ。
「最初に見つけたのは、日御埼灯台北の海底です。階段のように削られた岩や、玉砂利を敷いた参道らしきものがあり、
どう見ても自然にできたものとは思えず、 調査を始めました」と、岡本氏は語る。
ちなみに伊勢神宮が「日の本の昼を守る」のに対し、日御碕神社は「日の本の夜を守る」ところという勅命があり、
その名も「日沈宮」という美しい宮が建てられたとの逸話が残っている。
また上記した『夕日の神事』は、かつては経島沖の『タイワ』と呼ばれる瀬で行なわれていたという言い伝えがあり、
その伝説を裏付ける発見かもしれないと、期待が寄せられているそうだ。
漁港漁村の歴史文化財産の紹介 経島〔ふみしま〕〈宇竜漁港〉(出雲市大社町)
http://www.pref.shimane.lg.jp/gyokogyojo/zaisan/02fumishima....
平成・美しい日本を護る会ブログ【やむやま】 日御碕神社
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あれこれある記 2013年8月 1日(木) 日御碕神社
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さんいん旅ねっと 日本海のダイビングスポット「日御碕」に海底遺跡か?
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泥神パーントゥ、その起源 宮古島島尻
前スレの>>64〜>>66でパーントゥを取り上げたはいいが、発祥を書いていなかったので長らく不満げに思っていた。
よって追加する形で書いてみようと思う。
旧暦9月上旬の吉日に、沖縄の宮古島では重要無形民俗文化財に指定されていながら、奇想天外な悪魔払いの伝統行事が行われる。
島尻地区の青年が3人選ばれ、パーントゥと呼ばれる泥神に扮し、新築の家や新生児の生まれた家々を主に回るのだが、
道中出会った人や車にも泥を塗りたくるという奇祭。この泥には悪霊が憑くのを防ぎ、無病息災をもたらすありがたいものだという。
よって、住人たちは(近年は観光客も多く含まれる)喜んで、パーントゥに泥を塗り付けられる。ただ臭いがなかなか落ちないのが玉に瑕らしい。
この奇祭は正式には『パーントゥ・プナハ』と呼ばれる。『パーントゥ』は宮古方言で鬼や妖怪、もしくは島の歴史について書かれた『宮古島庶民史』
(稲村賢敷・1948年)によると、『パーン(食べる)+ピトゥ(人)』が訛ったのではないかとの説もある。そして『プナハ』は祈願祭という意味。
宮古島の北部、島尻に伝わるこのパーントゥについては、はるか遠い昔から語り継がれた発祥の物語がある。
その昔、島尻の北東部にあるムトゥズマ(元島)という村に近いクバマという海辺に、ビロウの葉に包まれたものが流れ着いた。
このあたりの海岸はふだんは波も穏やかで静かな海だった。しかし波はなくとも潮の干満で激しい海流が起こることもあり、
こうして浜辺に見なれぬ物が漂着することが少なくなかった。
村人が恐る恐るその包みを解いてみると、3個の木の仮面が現れた。
村の長老にそれは差し出され、主だった者が集まり、これをどうしたものか話し合いが進められたが名案が浮かばない。
太古より沖縄ではニライカナイの思想が根付き、海から寄りつくものは『神のものたらすもの』(寄り神)として、
決して捨てたり葬り去ったりすることはしなかった。水死体でさえ神の贈り物としてありがたく祀ったほどであった。
先人は海の彼方からやってきた漂着物に、思わぬ力が宿っていることを信じていたのだ。
長老はこの仮面をつぶさに調べたのち神の霊験を感じ、大切に拝所に祀っておいた。
村では1年に1度、悪魔祓い(厄払い)の行事を行っており、ためしにこの木面を使って村祭(サトマツリ)をやってみた。
これが功を奏し、この祭が始められたその年から、村は雨にも恵まれて植物もよく育ち、良いこと続きの豊作になったという。
……集落の外れに『ンマリガー』(生まれ井戸)なる場所がある。文字通り、生まれたときの産湯に使う水を湛えた井戸のことである。
祭の際は、3体のパーントゥはまさしくこのンマリガーの奥で衣装に着替え、姿を現す。
そして集落を練り歩き(ときにはダッシュし)、ありがたい泥を塗布するわけである。
そして祭の終わりは以下のような形で締めくくられる。
3体のパーントゥは集落の発祥地に祀ってある拝所をまず巡り、無事に行事を終えられたことの報告とお礼をお参りする。
お礼参りを済ますと今度は海へと通じる道を歩く。海辺に着くと仮面をはずしてサンゴの岩の上に置き、身にまとっていたつる草を鎌で切り取って海に流し、
全身の泥を落として海水で身を清めるのだ。このとき、パーントゥが帰っていく工程だけは何人たりとも見ることは許されない。
ここにも見るなのタブーがつきまとうわけだ。
いったいこの仮面はどこから解き放たれたのだろうか? いまだ学者の間でも定説が立てられていない。
お祭り日本の旅 パーントゥ
http://festivals.travelaround.jp/okinawa/pantoxu.ht...
沖縄B級ポータル - DEEokinawa(でぃーおきなわ) 宮古島島尻地区の奇祭パーントゥ
http://www.dee-okinawa.com/topics/2011/10/panto.htm...
NAVERまとめ なまはげより怖い!?沖縄の奇祭「パーントゥ」の様子まとめ
http://matome.naver.jp/odai/213176093343288690...
ライブドアニュース 泥だらけの神様に追っかけられる祭り
http://news.livedoor.com/article/detail/4378353...
えびすwikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%88%E3%81%B3%E3%81%...
羽黒神社宮司のブログ 寄り神の信仰
http://ameblo.jp/hagurotetsu/entry-10825295700....
民族学伝承ひろいあげ辞典 ラッキーエビスと漂着神・恵比寿
http://blogs.yahoo.co.jp/kawakatu_1205/51889336.html?ty...
前スレの>>64〜>>66でパーントゥを取り上げたはいいが、発祥を書いていなかったので長らく不満げに思っていた。
よって追加する形で書いてみようと思う。
旧暦9月上旬の吉日に、沖縄の宮古島では重要無形民俗文化財に指定されていながら、奇想天外な悪魔払いの伝統行事が行われる。
島尻地区の青年が3人選ばれ、パーントゥと呼ばれる泥神に扮し、新築の家や新生児の生まれた家々を主に回るのだが、
道中出会った人や車にも泥を塗りたくるという奇祭。この泥には悪霊が憑くのを防ぎ、無病息災をもたらすありがたいものだという。
よって、住人たちは(近年は観光客も多く含まれる)喜んで、パーントゥに泥を塗り付けられる。ただ臭いがなかなか落ちないのが玉に瑕らしい。
この奇祭は正式には『パーントゥ・プナハ』と呼ばれる。『パーントゥ』は宮古方言で鬼や妖怪、もしくは島の歴史について書かれた『宮古島庶民史』
(稲村賢敷・1948年)によると、『パーン(食べる)+ピトゥ(人)』が訛ったのではないかとの説もある。そして『プナハ』は祈願祭という意味。
宮古島の北部、島尻に伝わるこのパーントゥについては、はるか遠い昔から語り継がれた発祥の物語がある。
その昔、島尻の北東部にあるムトゥズマ(元島)という村に近いクバマという海辺に、ビロウの葉に包まれたものが流れ着いた。
このあたりの海岸はふだんは波も穏やかで静かな海だった。しかし波はなくとも潮の干満で激しい海流が起こることもあり、
こうして浜辺に見なれぬ物が漂着することが少なくなかった。
村人が恐る恐るその包みを解いてみると、3個の木の仮面が現れた。
村の長老にそれは差し出され、主だった者が集まり、これをどうしたものか話し合いが進められたが名案が浮かばない。
太古より沖縄ではニライカナイの思想が根付き、海から寄りつくものは『神のものたらすもの』(寄り神)として、
決して捨てたり葬り去ったりすることはしなかった。水死体でさえ神の贈り物としてありがたく祀ったほどであった。
先人は海の彼方からやってきた漂着物に、思わぬ力が宿っていることを信じていたのだ。
長老はこの仮面をつぶさに調べたのち神の霊験を感じ、大切に拝所に祀っておいた。
村では1年に1度、悪魔祓い(厄払い)の行事を行っており、ためしにこの木面を使って村祭(サトマツリ)をやってみた。
これが功を奏し、この祭が始められたその年から、村は雨にも恵まれて植物もよく育ち、良いこと続きの豊作になったという。
……集落の外れに『ンマリガー』(生まれ井戸)なる場所がある。文字通り、生まれたときの産湯に使う水を湛えた井戸のことである。
祭の際は、3体のパーントゥはまさしくこのンマリガーの奥で衣装に着替え、姿を現す。
そして集落を練り歩き(ときにはダッシュし)、ありがたい泥を塗布するわけである。
そして祭の終わりは以下のような形で締めくくられる。
3体のパーントゥは集落の発祥地に祀ってある拝所をまず巡り、無事に行事を終えられたことの報告とお礼をお参りする。
お礼参りを済ますと今度は海へと通じる道を歩く。海辺に着くと仮面をはずしてサンゴの岩の上に置き、身にまとっていたつる草を鎌で切り取って海に流し、
全身の泥を落として海水で身を清めるのだ。このとき、パーントゥが帰っていく工程だけは何人たりとも見ることは許されない。
ここにも見るなのタブーがつきまとうわけだ。
いったいこの仮面はどこから解き放たれたのだろうか? いまだ学者の間でも定説が立てられていない。
お祭り日本の旅 パーントゥ
http://festivals.travelaround.jp/okinawa/pantoxu.ht...
沖縄B級ポータル - DEEokinawa(でぃーおきなわ) 宮古島島尻地区の奇祭パーントゥ
http://www.dee-okinawa.com/topics/2011/10/panto.htm...
NAVERまとめ なまはげより怖い!?沖縄の奇祭「パーントゥ」の様子まとめ
http://matome.naver.jp/odai/213176093343288690...
ライブドアニュース 泥だらけの神様に追っかけられる祭り
http://news.livedoor.com/article/detail/4378353...
えびすwikipedia
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羽黒神社宮司のブログ 寄り神の信仰
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民族学伝承ひろいあげ辞典 ラッキーエビスと漂着神・恵比寿
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「八重山島年来記」
http://yaeyamaocean.com/camp/nenraiki.ht...
『パイパティローマ』 −楽園の島は何処だったのか?
http://www.kt.rim.or.jp/‾yami/hateruma/paipateroma.html
いちらん屋 伝説の大陸・沈んだ大陸・沈没した大陸の一覧
http://ichiranya.com/technology/134-continent_of_le...
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『パイパティローマ』 −楽園の島は何処だったのか?
http://www.kt.rim.or.jp/‾yami/hateruma/paipateroma.html
いちらん屋 伝説の大陸・沈んだ大陸・沈没した大陸の一覧
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美女盗賊・鬼神のお松伝説 石ヶ戸(いしけど) 1
青森県十和田湖畔の子ノ口から奥入瀬(おいらせ)川を9km下ったところにあるのが石ヶ戸休憩所。
そこから眼下を見下ろしてみるとよい。川沿いには天然の岩屋が見えるはずだ。
岩板の厚さは約1m、長さ10mを超える溶結凝灰岩で、2本のカツラの老木がこの巨石を支えている。
これを石ヶ戸という。『ヶ戸』とは方言で『小屋』の意味であり、すなわち石小屋ということになる。
石ヶ戸には昔、『鬼神のお松』なる美女の盗賊が住んでいたとされ、付近を通りかかる旅人から金品を巻き上げていた伝説があるそうだ。
鬼神、または鬼人のお松といえば、嘉永6(1853)年に売り出された錦絵『三幅対』で、石川五右衛門、児来也(じらいや)と並び、
『日本3大盗賊』の1人として描かれるほど知名度が高く、歌舞伎『新板越白浪』では毒婦として登場した別名『女児来也』のこと。
美女盗賊とは、今までなかったタイプの伝説で、これは大いに興味がそそられよう。
とはいえ島か村ネタに該当しないのでスレチになってしまうのだが、あまりにもったいないのでやっぱり載せておく。我儘許せい。
実は青森や秋田の各地にはいくつものお松伝説が転がっており、内容が微妙に異なったり、オチも違うケースがある。
とりあえず一般的なお松伝説とはこんなお話。
江戸深川ではちょっとは名の知れた美貌の遊女・お松がいた。ある日、仙台藩士の立目丈五郎に見初められ、仙台へ越して丈五郎の妻となる。
娘も生まれ、お松にとって幸せの絶頂であったが、遊女の身の上が不幸が多いように、それも長続きはしない。
丈五郎が御前試合のもつれから剣道指南役の早川文左衛門に殺されてしまうのだ。
愛する夫を殺されたお松の悲しみ、悔しさはいかばかりか。仇討ちを誓い、夫の仲間である稲毛甚斎に助太刀を頼むべく京都を訪ねた。
ところが非道な稲毛。「……助太刀してやらんでもない。その代わり、一晩おれの相手をせい」と、舌なめずりしながらお松の身体を求めてきた。
お松はとっさに懐刀を抜いて抵抗した。「お呼びでないんだよ、このエロ親父!」もみ合っているうちに、懐刀が稲毛の胸にグサリ。
この殺害がきっかけで、お松の性格が毒婦のそれへと一変する。
青森県十和田湖畔の子ノ口から奥入瀬(おいらせ)川を9km下ったところにあるのが石ヶ戸休憩所。
そこから眼下を見下ろしてみるとよい。川沿いには天然の岩屋が見えるはずだ。
岩板の厚さは約1m、長さ10mを超える溶結凝灰岩で、2本のカツラの老木がこの巨石を支えている。
これを石ヶ戸という。『ヶ戸』とは方言で『小屋』の意味であり、すなわち石小屋ということになる。
石ヶ戸には昔、『鬼神のお松』なる美女の盗賊が住んでいたとされ、付近を通りかかる旅人から金品を巻き上げていた伝説があるそうだ。
鬼神、または鬼人のお松といえば、嘉永6(1853)年に売り出された錦絵『三幅対』で、石川五右衛門、児来也(じらいや)と並び、
『日本3大盗賊』の1人として描かれるほど知名度が高く、歌舞伎『新板越白浪』では毒婦として登場した別名『女児来也』のこと。
美女盗賊とは、今までなかったタイプの伝説で、これは大いに興味がそそられよう。
とはいえ島か村ネタに該当しないのでスレチになってしまうのだが、あまりにもったいないのでやっぱり載せておく。我儘許せい。
実は青森や秋田の各地にはいくつものお松伝説が転がっており、内容が微妙に異なったり、オチも違うケースがある。
とりあえず一般的なお松伝説とはこんなお話。
江戸深川ではちょっとは名の知れた美貌の遊女・お松がいた。ある日、仙台藩士の立目丈五郎に見初められ、仙台へ越して丈五郎の妻となる。
娘も生まれ、お松にとって幸せの絶頂であったが、遊女の身の上が不幸が多いように、それも長続きはしない。
丈五郎が御前試合のもつれから剣道指南役の早川文左衛門に殺されてしまうのだ。
愛する夫を殺されたお松の悲しみ、悔しさはいかばかりか。仇討ちを誓い、夫の仲間である稲毛甚斎に助太刀を頼むべく京都を訪ねた。
ところが非道な稲毛。「……助太刀してやらんでもない。その代わり、一晩おれの相手をせい」と、舌なめずりしながらお松の身体を求めてきた。
お松はとっさに懐刀を抜いて抵抗した。「お呼びでないんだよ、このエロ親父!」もみ合っているうちに、懐刀が稲毛の胸にグサリ。
この殺害がきっかけで、お松の性格が毒婦のそれへと一変する。
美女盗賊・鬼神のお松伝説 石ヶ戸(いしけど) 2
仙台に戻ったお松は、早川文左衛門に色仕掛けで迫り、ともにに一ノ関への旅に出る。
そして衣川を渡る際、色っぽくねだって背負ってもらい、川の深間にさしかかったところを懐刀で早川を刺殺。
ついに本懐を遂げたわけである。
そのあと、一ノ関から金岳山に向かったところで、山賊・三島権右衛門の一派に襲われるものの、
ここでも権右衛門の隙を突いて盗賊を従え、権右衛門にかわり山賊の女頭目にまでなってしまう。
このときを境に『鬼神のお松』と呼ばれ、笠松峠を拠点として付近の村々を荒らし回り、
賊退治に向かってくる腕自慢の剣士たちを返り討ちにしていく。
ところが因果応報は巡る。天明3(1783)年、夫の仇の息子、早川文次郎という18歳の青年が現れ、金岳山での仇討ちに来た。
お松はあえなく首を落とされる。異説によれば、お松は抵抗せず、文次郎に父の仇を討たせてやったとも言われている。
……すでに青森・秋田には類似のお松伝説が転がっていることを述べた。実はお松を仕留めた加害者が違うケースがあるのだ。
お松はスリルに富んだこの生業に惚れ込んでおり、なかには生き血を吸う快感を味わっていたとの説さえある。
この石ヶ戸に伝わる話の場合、この石小屋を住処とし、旅人から金品を奪って暮らしていたお松の手口は、旅人が現れると先回りして行き倒れを装い、
介抱してくれた男の油断をついて刺殺するか、または旅人に背負ってもらい川を渡り、流れの中途にさしかかると、いきなり短刀を振りかざしたとされる。
この凄腕の毒牙にかかった男は48人。
ある日、49人目の犠牲者となるはずの仙台出身、夏目仙太という侍が通りかかる。お松の官能的な仕草の中に、ただならぬ殺気を感じた仙太は、
お松がそっと懐刀を取り出し、突き立てようとした瞬間、背負っていたお松を投げ飛ばし、一刀両断して成敗したとも伝えられている。
入瀬渓流と十和田湖 奥入瀬渓流
http://www.geocities.jp/busi_tabi/oirase.htm...
社団法人 十和田湖国立公園協会 十和田湖フィールドノート〜カンジルトワダコ〜 奥入瀬渓流探勝路ガイド
http://www.towadako.or.jp/archive/?c=kanko&id=1...
仮分数 アメーバビグ 3.実録 江戸事件簿③ ≪毒婦・鬼神のお松≫
http://ameblo.jp/yoshida1049/entry-11523520612....
NAVERまとめ 世界の毒婦集
http://matome.naver.jp/odai/212615369101189600...
仙台に戻ったお松は、早川文左衛門に色仕掛けで迫り、ともにに一ノ関への旅に出る。
そして衣川を渡る際、色っぽくねだって背負ってもらい、川の深間にさしかかったところを懐刀で早川を刺殺。
ついに本懐を遂げたわけである。
そのあと、一ノ関から金岳山に向かったところで、山賊・三島権右衛門の一派に襲われるものの、
ここでも権右衛門の隙を突いて盗賊を従え、権右衛門にかわり山賊の女頭目にまでなってしまう。
このときを境に『鬼神のお松』と呼ばれ、笠松峠を拠点として付近の村々を荒らし回り、
賊退治に向かってくる腕自慢の剣士たちを返り討ちにしていく。
ところが因果応報は巡る。天明3(1783)年、夫の仇の息子、早川文次郎という18歳の青年が現れ、金岳山での仇討ちに来た。
お松はあえなく首を落とされる。異説によれば、お松は抵抗せず、文次郎に父の仇を討たせてやったとも言われている。
……すでに青森・秋田には類似のお松伝説が転がっていることを述べた。実はお松を仕留めた加害者が違うケースがあるのだ。
お松はスリルに富んだこの生業に惚れ込んでおり、なかには生き血を吸う快感を味わっていたとの説さえある。
この石ヶ戸に伝わる話の場合、この石小屋を住処とし、旅人から金品を奪って暮らしていたお松の手口は、旅人が現れると先回りして行き倒れを装い、
介抱してくれた男の油断をついて刺殺するか、または旅人に背負ってもらい川を渡り、流れの中途にさしかかると、いきなり短刀を振りかざしたとされる。
この凄腕の毒牙にかかった男は48人。
ある日、49人目の犠牲者となるはずの仙台出身、夏目仙太という侍が通りかかる。お松の官能的な仕草の中に、ただならぬ殺気を感じた仙太は、
お松がそっと懐刀を取り出し、突き立てようとした瞬間、背負っていたお松を投げ飛ばし、一刀両断して成敗したとも伝えられている。
入瀬渓流と十和田湖 奥入瀬渓流
http://www.geocities.jp/busi_tabi/oirase.htm...
社団法人 十和田湖国立公園協会 十和田湖フィールドノート〜カンジルトワダコ〜 奥入瀬渓流探勝路ガイド
http://www.towadako.or.jp/archive/?c=kanko&id=1...
仮分数 アメーバビグ 3.実録 江戸事件簿③ ≪毒婦・鬼神のお松≫
http://ameblo.jp/yoshida1049/entry-11523520612....
NAVERまとめ 世界の毒婦集
http://matome.naver.jp/odai/212615369101189600...
醜く変貌した蜂子皇子 白山島(はくざんじま)と由良海岸
山形県鶴岡市の沖合には、約3000万年前に玄武岩が噴出して形成された無人島が浮かんでいる。
由良海岸の砂浜から島までは、長さ約170mの歩道橋が架けられており、歩いて島まで渡ることができる。
島の形こそ違えど、海岸から伸びた橋の欄干は眼にも鮮やかな朱色で、福井県東尋坊の近くにある雄島とそっくりである(雄島に関しては
前スレ>>169を参照されたし)。
奇しくも別名は『御島(おしま)』だとか。因果なことに、雄島同様この白山島も自殺者の亡霊が出没するスポットとして有名らしい……。
ちなみに本土の由良海岸にはこんな伝説が残されている(てか島ネタじゃないんだが……)。
推古元(593)年、出羽三山の羽黒山・月山が開山され、推古13(605)年に湯殿山が開山された。
この山に霊力を感じ、修験山として開らいたのが、崇俊天皇の第三皇子・蜂子皇子(波知乃子王)。
蜂子皇子は、父である崇俊天皇が蘇我馬子の配下・東漢直駒(やまとのあやのあたいこま)に暗殺されたため、
馬子から逃れるべく丹後国由良(京都府宮津市由良)から船で北上した。
ここにたどり着いたとき、八乙女浦にある舞台岩と呼ばれる岩の上で、8人の乙女が笛を吹き、舞いながら蜂子皇子を迎え入れた。
上陸すると3本足の霊烏(ヤタガラス)に導かれ羽黒山へとたどり着いたとされている。
蜂子皇子は能除大使(民衆の悩み苦しみを取り除く高僧)や弘海などの名を持ち、羽黒山を開いたのちは、地元住民の面倒をよく見、
それらの苦しみを一身に背負ううちに、画像のような醜い顔になったと言われる。
ひーさんの散歩道 白山島/由良海岸
http://blog.goo.ne.jp/hi-sann_001/e/beae3b96e95c690f...
山形県由良温泉ホテル八乙女 出羽三山と八乙女伝説
http://www.yaotome.co.jp/legend...
あをべにブログ 心霊スポット探訪記 第十三話「白山島」
http://soukublog.blog113.fc2.com/blog-entry-601.htm...
山形県鶴岡市の沖合には、約3000万年前に玄武岩が噴出して形成された無人島が浮かんでいる。
由良海岸の砂浜から島までは、長さ約170mの歩道橋が架けられており、歩いて島まで渡ることができる。
島の形こそ違えど、海岸から伸びた橋の欄干は眼にも鮮やかな朱色で、福井県東尋坊の近くにある雄島とそっくりである(雄島に関しては
前スレ>>169を参照されたし)。
奇しくも別名は『御島(おしま)』だとか。因果なことに、雄島同様この白山島も自殺者の亡霊が出没するスポットとして有名らしい……。
ちなみに本土の由良海岸にはこんな伝説が残されている(てか島ネタじゃないんだが……)。
推古元(593)年、出羽三山の羽黒山・月山が開山され、推古13(605)年に湯殿山が開山された。
この山に霊力を感じ、修験山として開らいたのが、崇俊天皇の第三皇子・蜂子皇子(波知乃子王)。
蜂子皇子は、父である崇俊天皇が蘇我馬子の配下・東漢直駒(やまとのあやのあたいこま)に暗殺されたため、
馬子から逃れるべく丹後国由良(京都府宮津市由良)から船で北上した。
ここにたどり着いたとき、八乙女浦にある舞台岩と呼ばれる岩の上で、8人の乙女が笛を吹き、舞いながら蜂子皇子を迎え入れた。
上陸すると3本足の霊烏(ヤタガラス)に導かれ羽黒山へとたどり着いたとされている。
蜂子皇子は能除大使(民衆の悩み苦しみを取り除く高僧)や弘海などの名を持ち、羽黒山を開いたのちは、地元住民の面倒をよく見、
それらの苦しみを一身に背負ううちに、画像のような醜い顔になったと言われる。
ひーさんの散歩道 白山島/由良海岸
http://blog.goo.ne.jp/hi-sann_001/e/beae3b96e95c690f...
山形県由良温泉ホテル八乙女 出羽三山と八乙女伝説
http://www.yaotome.co.jp/legend...
あをべにブログ 心霊スポット探訪記 第十三話「白山島」
http://soukublog.blog113.fc2.com/blog-entry-601.htm...
抜き身の刀がキラリと光って居所がバレた? 延元さま伝説 鵜来島(うぐるしま)
鵜来島は高知県宿毛市の沖合、南西23Kmにある有人島であり、足摺宇和海国立公園に指定されている。
島の最高点は標高252mの竜頭山。周囲は峻険たる断崖絶壁で取り囲まれているが、磯釣りのメッカとして知られている。
太平洋戦争時では軍事的に重要な位置にあったため、その竜頭山には砲台が置かれていた。現在もその名残をとどめている。
それとは別に、鵜来島には宇和島藩350石、高禄の侍の悲恋の伝説が残されている。地元では延元(えんげん)さま伝説と称されており、
今回はそれを紹介しよう。
元禄13年、伊予宇和島藩の若侍・栄玄(延元?)が、家老の娘・了因と恋に落ちた。しかし上下関係が絶対の武士の世界では、それは許されざる恋であった。
2人は手を取り合い、はるかな鵜来島を目指して駆け落ちした。当時、鵜来島は宇和島藩の所領地であり、漁業の基地として重要な役割をもっていた。
純朴な島民ばかりだから若い2人をかくまってくれるだろうと期待して頼んでみたものの、それに反し島民は受け入れてくれなかった。
一緒についてきた娘の乳母も頭をさげるが頑として譲らない。もし役人に露見すればお咎めは必至として、島民はかくまうわけにはいかなかったのだ。
乳母を含めた3人は森の中に身を隠し耐え忍んでいた。不憫がってか、食料を届けてくれる人がおり、なんとか飢えずに済んだ。
それから2、3日経ち、ついに藩の船が港に乗り込んできた。3人の行方を追って、侍たちは島じゅう捜索を開始。
しかしそれも徒労に終わる。茂った木々や起伏に富んだ磯が作り出す死角が若侍たちを救ったにちがいない。
追っ手はあきらめ、他の島を探すことに決め船に乗り、まさに港の鼻を曲がろうとしたとき、対岸の水場で仕事をしていた女が「あっ!」と叫んだ。
若侍が松の木にのぼって船が去っていくのを確認していたのが仇となってしまう。
腰につけていた刀が陽光を反射してキラリと輝き(鞘におさめていればそれはないはずなのに、抜き身のままさげていたのか?)、
それを女が目ざとく見つけたのだ。女は叫んだ。「見つけた! 隠れている侍はあの松の木の上だよ!」
船が取って返し、追っ手が島へなだれ込んでくる。なんとか逃げおおせたと思った安堵から瞬時に絶望に叩き落された若侍。
松の木からおりると、近くの岩場で身を隠していた娘と乳母に言った。
「かたじけぬ、私の失策で彼らが戻ってきた。もはや私たちの命運、進退窮まった。この上においては潔く自害し、いっそあの世で伴侶となろう」
「あなたに従います……」と、娘。「では私もともにお仕えしましょうぞ!」と、乳母もうなずいた。
「許せ了因、せめて苦しまずに殺してやる」若侍は2人の胸を一突きして即死させ、自身も腹をかき切って果てた。
そのまま見逃してやればよかったものを、なまじ密告してしまった女は金一封受けるどころか、家ではあまりにも災難が続いたので、
すわ若侍たちの祟りではないかと恐れ、彼らが死んだ場所に祠を建て『延元さん』として祀り、その魂を供養した。
その子孫は現在まで毎年の祭りを欠かさないという。その祠は港を望む小高い丘に今も佇んでいる。
slow life blueview - sukumo okinoshima island PART.3 宿毛市沖の島の生活
http://www.k5.dion.ne.jp/‾blueview/life4.html
My Fortnight's Dairy 明日より、鵜来島へダイビングに行ってきます
http://geocities.yahoo.co.jp/gl/st4974/comment/20090423/124...
おさるの日本刀豆知識 刀の取り扱いと作法
http://www7b.biglobe.ne.jp/‾osaru/sahou.htm
鵜来島は高知県宿毛市の沖合、南西23Kmにある有人島であり、足摺宇和海国立公園に指定されている。
島の最高点は標高252mの竜頭山。周囲は峻険たる断崖絶壁で取り囲まれているが、磯釣りのメッカとして知られている。
太平洋戦争時では軍事的に重要な位置にあったため、その竜頭山には砲台が置かれていた。現在もその名残をとどめている。
それとは別に、鵜来島には宇和島藩350石、高禄の侍の悲恋の伝説が残されている。地元では延元(えんげん)さま伝説と称されており、
今回はそれを紹介しよう。
元禄13年、伊予宇和島藩の若侍・栄玄(延元?)が、家老の娘・了因と恋に落ちた。しかし上下関係が絶対の武士の世界では、それは許されざる恋であった。
2人は手を取り合い、はるかな鵜来島を目指して駆け落ちした。当時、鵜来島は宇和島藩の所領地であり、漁業の基地として重要な役割をもっていた。
純朴な島民ばかりだから若い2人をかくまってくれるだろうと期待して頼んでみたものの、それに反し島民は受け入れてくれなかった。
一緒についてきた娘の乳母も頭をさげるが頑として譲らない。もし役人に露見すればお咎めは必至として、島民はかくまうわけにはいかなかったのだ。
乳母を含めた3人は森の中に身を隠し耐え忍んでいた。不憫がってか、食料を届けてくれる人がおり、なんとか飢えずに済んだ。
それから2、3日経ち、ついに藩の船が港に乗り込んできた。3人の行方を追って、侍たちは島じゅう捜索を開始。
しかしそれも徒労に終わる。茂った木々や起伏に富んだ磯が作り出す死角が若侍たちを救ったにちがいない。
追っ手はあきらめ、他の島を探すことに決め船に乗り、まさに港の鼻を曲がろうとしたとき、対岸の水場で仕事をしていた女が「あっ!」と叫んだ。
若侍が松の木にのぼって船が去っていくのを確認していたのが仇となってしまう。
腰につけていた刀が陽光を反射してキラリと輝き(鞘におさめていればそれはないはずなのに、抜き身のままさげていたのか?)、
それを女が目ざとく見つけたのだ。女は叫んだ。「見つけた! 隠れている侍はあの松の木の上だよ!」
船が取って返し、追っ手が島へなだれ込んでくる。なんとか逃げおおせたと思った安堵から瞬時に絶望に叩き落された若侍。
松の木からおりると、近くの岩場で身を隠していた娘と乳母に言った。
「かたじけぬ、私の失策で彼らが戻ってきた。もはや私たちの命運、進退窮まった。この上においては潔く自害し、いっそあの世で伴侶となろう」
「あなたに従います……」と、娘。「では私もともにお仕えしましょうぞ!」と、乳母もうなずいた。
「許せ了因、せめて苦しまずに殺してやる」若侍は2人の胸を一突きして即死させ、自身も腹をかき切って果てた。
そのまま見逃してやればよかったものを、なまじ密告してしまった女は金一封受けるどころか、家ではあまりにも災難が続いたので、
すわ若侍たちの祟りではないかと恐れ、彼らが死んだ場所に祠を建て『延元さん』として祀り、その魂を供養した。
その子孫は現在まで毎年の祭りを欠かさないという。その祠は港を望む小高い丘に今も佇んでいる。
slow life blueview - sukumo okinoshima island PART.3 宿毛市沖の島の生活
http://www.k5.dion.ne.jp/‾blueview/life4.html
My Fortnight's Dairy 明日より、鵜来島へダイビングに行ってきます
http://geocities.yahoo.co.jp/gl/st4974/comment/20090423/124...
おさるの日本刀豆知識 刀の取り扱いと作法
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