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怖い島・いわくつきの村・総合
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>>134
音楽さん、お久しぶり。
ゲーム板の『シューターは滅びず!』のスレ主であり、頻繁に書き込みもやってる者です。
『シルフィード ザ・ロストプラネット』の件で思い出すかも?
基本的にオカルト板が僕のテリトリーですが、たまにそちらでもレスしてます。
当スレを覗いてくれて、ありがとうございます。今後ともご贔屓に。
潮干珠・潮満珠から生まれた伝説がある島
山口県下関市長府沖、瀬戸内海に対のような無人島がある。
満珠島・干珠島(まんじゅしま・かんじゅしま)といい、神功皇后が住吉大神の化身である龍神から
授けられた2つの玉、潮干珠(しおひるたま)・潮満珠(しおみつるたま)から生まれたとのいわくがある神聖なる島だ。
源平合戦最後の決戦である壇ノ浦の戦いで、源義経率いる源氏が本陣を構えたという。
陸地に近い方(画像左側の島)が干珠であり、沖にある方が満珠と区別されているが、
単に両方の島を称して満珠・干珠と呼ぶことが多いようだ。
音楽さん、お久しぶり。
ゲーム板の『シューターは滅びず!』のスレ主であり、頻繁に書き込みもやってる者です。
『シルフィード ザ・ロストプラネット』の件で思い出すかも?
基本的にオカルト板が僕のテリトリーですが、たまにそちらでもレスしてます。
当スレを覗いてくれて、ありがとうございます。今後ともご贔屓に。
潮干珠・潮満珠から生まれた伝説がある島
山口県下関市長府沖、瀬戸内海に対のような無人島がある。
満珠島・干珠島(まんじゅしま・かんじゅしま)といい、神功皇后が住吉大神の化身である龍神から
授けられた2つの玉、潮干珠(しおひるたま)・潮満珠(しおみつるたま)から生まれたとのいわくがある神聖なる島だ。
源平合戦最後の決戦である壇ノ浦の戦いで、源義経率いる源氏が本陣を構えたという。
陸地に近い方(画像左側の島)が干珠であり、沖にある方が満珠と区別されているが、
単に両方の島を称して満珠・干珠と呼ぶことが多いようだ。
gj
オカルトだけど何か惹かれるものがあれば…
中ノ鳥島
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E3%83%8E%E9%B3%...
>>135
お久しぶりです、ちょくちょく見てますよw
以前の件はありがとうございました、お陰で隠し要素等フルコンプしてますよw
皆さんが紹介される他のゲームも楽しんでいます
もっとシューターが増えると良いですね、有難うございました<(_ _)>
中ノ鳥島
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E3%83%8E%E9%B3%...
>>135
お久しぶりです、ちょくちょく見てますよw
以前の件はありがとうございました、お陰で隠し要素等フルコンプしてますよw
皆さんが紹介される他のゲームも楽しんでいます
もっとシューターが増えると良いですね、有難うございました<(_ _)>
地図から消えた村
http://blog.livedoor.jp/isam21-village/archives/546868...
【幻想諸島航海記】地図から消えた島
http://homepage3.nifty.com/boumurou/island...
http://blog.livedoor.jp/isam21-village/archives/546868...
【幻想諸島航海記】地図から消えた島
http://homepage3.nifty.com/boumurou/island...
神津島の伝説
http://www6.ocn.ne.jp/‾nangoku1/kozudensetu.html
http://www6.ocn.ne.jp/‾nangoku1/kozudensetu.html
藤原純友の隠し財宝が眠る島
岡山県倉敷市の南端から沖合い1キロ先の海上に浮かぶ三角形の島が釜島だ。
今でこそ訪れる人もまばらな無人島にすぎないが、高度経済成長期には(昭和30年の調べによると)、
人口70人を数えるほどの定住者がいた。
昭和40年前後になると、海水浴客などの来客者が年間1万人にも達した賑やかな島だった。
その後、定住者もいなくなり、海水浴の客足も遠のいた。
釜島からは先史時代の石器(讃岐石の打製石器)や石斧、土器、古墳群などの遺物が多数見つかっており、
古の時代から人の出入りがあったことが偲ばれる。
また、藤原純友http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E7%B4%...が瀬戸内海で起こした
天慶の乱(940)の際には、島に出城が築かれ、追捕軍との戦で多くの兵が流血、周囲の海は赤く染まったと語られている。
それゆえに釜島には、「純友の隠し財宝が眠る」という噂がつきまとっていることで有名。
島名は、古くから行われていた製塩に由来する。塩を生成するときに海水を煮るための釜から釜島になったらしく、
以前は塩釜島と呼ばれたこともあった。
島の北側にある塩釜神社には、ひそやかな島の歴史を伝えるかのように古い鳥居と小さな祠が佇んでいる。
http://www.pref.okayama.jp/kikaku/chishin/ritou/13kamashi...
岡山県倉敷市の南端から沖合い1キロ先の海上に浮かぶ三角形の島が釜島だ。
今でこそ訪れる人もまばらな無人島にすぎないが、高度経済成長期には(昭和30年の調べによると)、
人口70人を数えるほどの定住者がいた。
昭和40年前後になると、海水浴客などの来客者が年間1万人にも達した賑やかな島だった。
その後、定住者もいなくなり、海水浴の客足も遠のいた。
釜島からは先史時代の石器(讃岐石の打製石器)や石斧、土器、古墳群などの遺物が多数見つかっており、
古の時代から人の出入りがあったことが偲ばれる。
また、藤原純友http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E7%B4%...が瀬戸内海で起こした
天慶の乱(940)の際には、島に出城が築かれ、追捕軍との戦で多くの兵が流血、周囲の海は赤く染まったと語られている。
それゆえに釜島には、「純友の隠し財宝が眠る」という噂がつきまとっていることで有名。
島名は、古くから行われていた製塩に由来する。塩を生成するときに海水を煮るための釜から釜島になったらしく、
以前は塩釜島と呼ばれたこともあった。
島の北側にある塩釜神社には、ひそやかな島の歴史を伝えるかのように古い鳥居と小さな祠が佇んでいる。
http://www.pref.okayama.jp/kikaku/chishin/ritou/13kamashi...
某本州の祭りでは駐在所の警官が泥酔して水死とか、いろいろ。
御蔵島伝説
http://www5b.biglobe.ne.jp/‾mabuta/progra-m/legend-2.htm
「今日は神様が海を渡るから、絶対に海を見るなよ。もし見ちまったら、目がつぶれるぞ」
http://ameblo.jp/oooloveooo/entry-10795403960.h...
http://www5b.biglobe.ne.jp/‾mabuta/progra-m/legend-2.htm
「今日は神様が海を渡るから、絶対に海を見るなよ。もし見ちまったら、目がつぶれるぞ」
http://ameblo.jp/oooloveooo/entry-10795403960.h...
レオタード姿の海女さんがまぶしすぎる?壱岐島
壱岐島(いきのしま)は、九州と対馬の中間にある島だ。
周囲には21の属島(有人島4・無人島17)が存在し、総称を壱岐諸島という。
官公庁の定義によると、「壱岐島」と呼ぶ場合、周囲の属島は含めない。
美しく豊かな景色が自慢の全域が、壱岐対馬国定公園に指定されている。
不思議なことに、南北17km・東西14kmの小さな島内には標高の高い山がないにもかかわらず、
火山がなんと100を数えるほど存在し、世界各地の研究者たちが3年の月日をかけて調査したものの、
結局、なぜ島に火山が密集しているか解明できず、断念させた逸話をもつそうだ。
壱岐島の産業は、その他の離島の例に漏れず、農業・漁業などの第一次産業が主である。
なかでも島の東部、八幡地区では、海女さんたちが太古の海人族からの引き継がれている素潜り漁を続けている。
驚くなかれ、彼女らはウェットスーツに身を包んでいるのではなく、レオタード姿で海に潜っているのだ。
島ではウェットスーツの着用を禁止しており、これを地元では『レオタード漁』と呼んでいる。
もっともレオタードとは聞こえはいいが、素肌の一番下にシャツ、次に長袖のヒートテック、
さらにシャツを重ね着し、その上に水着とレオタードと5枚着込むため、実際は着膨れして不恰好。
八幡の海女の漁は5月1日から9月末まで。とくに5月上旬は春をすぎた時期に潜るとはいっても、
海水は氷水のように凍てついているため、着込まないと仕事ができないという理由がある。
それよりも身体に負荷をつけさせ、乱獲を防いでいるんだとか。
http://www.chie-project.jp/001/no15.htm...
壱岐島(いきのしま)は、九州と対馬の中間にある島だ。
周囲には21の属島(有人島4・無人島17)が存在し、総称を壱岐諸島という。
官公庁の定義によると、「壱岐島」と呼ぶ場合、周囲の属島は含めない。
美しく豊かな景色が自慢の全域が、壱岐対馬国定公園に指定されている。
不思議なことに、南北17km・東西14kmの小さな島内には標高の高い山がないにもかかわらず、
火山がなんと100を数えるほど存在し、世界各地の研究者たちが3年の月日をかけて調査したものの、
結局、なぜ島に火山が密集しているか解明できず、断念させた逸話をもつそうだ。
壱岐島の産業は、その他の離島の例に漏れず、農業・漁業などの第一次産業が主である。
なかでも島の東部、八幡地区では、海女さんたちが太古の海人族からの引き継がれている素潜り漁を続けている。
驚くなかれ、彼女らはウェットスーツに身を包んでいるのではなく、レオタード姿で海に潜っているのだ。
島ではウェットスーツの着用を禁止しており、これを地元では『レオタード漁』と呼んでいる。
もっともレオタードとは聞こえはいいが、素肌の一番下にシャツ、次に長袖のヒートテック、
さらにシャツを重ね着し、その上に水着とレオタードと5枚着込むため、実際は着膨れして不恰好。
八幡の海女の漁は5月1日から9月末まで。とくに5月上旬は春をすぎた時期に潜るとはいっても、
海水は氷水のように凍てついているため、着込まないと仕事ができないという理由がある。
それよりも身体に負荷をつけさせ、乱獲を防いでいるんだとか。
http://www.chie-project.jp/001/no15.htm...
難破した遣唐使の高貴な人物の遺体が安置されていた鍾乳洞がある『沖永良部島』
http://4travel.jp/traveler/maikyukyu/album/10188...
http://www.tabizanmai.net/rohman/2008amami/0907/index.ht...
http://4travel.jp/traveler/maikyukyu/album/10188...
http://www.tabizanmai.net/rohman/2008amami/0907/index.ht...
瀬戸内海の島々こそ怖い島のアンダーグラウンド
岡山県東部に位置する島々を日生諸島と呼ぶ。
備前市日生町を中心に、瀬戸内市邑久町、兵庫県赤穂市にまたがる有人島、無人島14もの島から構成されている。
なかでもオカルト板的に食指が動くのは『首切島』であろう。
かつて島には重罪犯の処刑場があった。
地元の人は決して近寄らない場所なのだそうだ。
首切島
http://www.ceres.dti.ne.jp/‾genta/3.htm
流人島から流犬島へ(鹿久居島も含む)
http://t-fujita.typepad.jp/sein/2010/09/%E6%B5%81%E4%BA%B...
岡山県東部に位置する島々を日生諸島と呼ぶ。
備前市日生町を中心に、瀬戸内市邑久町、兵庫県赤穂市にまたがる有人島、無人島14もの島から構成されている。
なかでもオカルト板的に食指が動くのは『首切島』であろう。
かつて島には重罪犯の処刑場があった。
地元の人は決して近寄らない場所なのだそうだ。
首切島
http://www.ceres.dti.ne.jp/‾genta/3.htm
流人島から流犬島へ(鹿久居島も含む)
http://t-fujita.typepad.jp/sein/2010/09/%E6%B5%81%E4%BA%B...
長崎県の平戸の先にある生月島には、今も隠れキリシタンがいる。
明治になって禁教令が解かれたとき、他の地域と同じように宣教師が来て
カトリックへの同化が試みられたのだが、
300年の歴史の中で土着宗教のような独自の変化が起こっており
教義への信仰がなくなっていたため、うまくいかなかったそうだ。
今はもちろん隠れ住んでいるわけではない。
しかし、儀式などをひっそり行うこと自体が伝統になっており
信者本人にはそんなつもりはないのかもしれんが、
秘密めいたイメージがあるのも事実。
過疎化によって後継者が減り、今では廃れつつあるらしい。
http://yattemiyou.net/archive/kakure.htm...
明治になって禁教令が解かれたとき、他の地域と同じように宣教師が来て
カトリックへの同化が試みられたのだが、
300年の歴史の中で土着宗教のような独自の変化が起こっており
教義への信仰がなくなっていたため、うまくいかなかったそうだ。
今はもちろん隠れ住んでいるわけではない。
しかし、儀式などをひっそり行うこと自体が伝統になっており
信者本人にはそんなつもりはないのかもしれんが、
秘密めいたイメージがあるのも事実。
過疎化によって後継者が減り、今では廃れつつあるらしい。
http://yattemiyou.net/archive/kakure.htm...
管理職研修、由利島(ゆりじま)での受難
由利島は愛媛県松山港の沖合に位置する、面積0.45k㎡の小さな無人島だ。
島には恐ろしげな伝説が残されている。
昔々のこと、瀬戸内海を行き来する舟は、潮待ちのために由利島の南端に舟を停泊させていた。
そんなとき舟に向かって、どこからともなく美しい女の声で「お舟に申すぅ……」と、聞こえてくるのだという。
船乗りたちは「化けもんの声じゃ!」と恐れ、錨をあげて島を離れること、しばしばであった。
こんな噂が広まり、船頭たちの間では、「由利島にだけは舟を止めるな。あそこには化けもんがおる」と不文律が
生まれたほどであった。
ある日、そんな怪談話を知らぬ一艘の舟が、急な潮に流され、由利島で待ちぼうけを食らうことになった。
しかたなく船乗りたちは眠りにつくことに。
深夜、山の中腹あたりから、「お舟に申すぅ」「お舟に申すぅ」と件の女の声がしたと思ったら、舟に近づいてくる気配がする。
ただならぬ声に目を覚ました船乗りたちは、舟から島を見ると、この世のものとは思えぬ絶世の美女が「お舟に申すぅ」「お舟に申すぅ」と、
言いながら走ってくるではないか。
逃げようにも錨をあげる暇すらない。あっという間に女は舟に飛び移った。途端、舟がグラリと揺れるほどの大音響が響いた。
船乗りたちは我が目を疑った。女が乗ったあたりを見れば、その姿は消え、かわりにまばゆい光が船上を染めているのだ。
なんと、そこには金銀銅の銭が山積みになっていたのだった。
「これは、どげんしたちゅうこっちゃ」と、船乗りたちは口々に言った。
しばらくして船頭が結論を出した。「あの女、わしらの舟が大阪に行くのを知っており、大阪につれて行ってもらいたいもんで、
『お舟にもうすぅ』と、言うたんじゃなかろうか。とすれば、みなの衆、舟を沈まさぬよう、大阪まで旅しょうや」
「なるほど、この銭、大阪までの舟賃というわけか」
夜明けになると同時に出航した。なんとか無事に大阪に着いた。
「はて、このぎょうさんの銭で何をしよう」と船乗りたちは、話し合った。
「そうじゃ、わしら船乗りじゃけん、舟具屋を始めたら、いい品が置けるかも」ということで、舟具屋を開店することに。
屋号も由利島の銭で建てた店だから『由利屋』と名付け、店は繁盛したという。
ちなみにチキンラーメンで有名な日清食品では、管理職の研修をこの島で行っている。
下記URLはその模様。
無人島でサバイバル体験!
http://www.tanken.com/yurijima.htm...
日清、若手管理職にチキンラーメン持たせて「無人島」に放り込む研修再開
http://nakasoku.blog18.fc2.com/blog-entry-1024.htm...
由利島は愛媛県松山港の沖合に位置する、面積0.45k㎡の小さな無人島だ。
島には恐ろしげな伝説が残されている。
昔々のこと、瀬戸内海を行き来する舟は、潮待ちのために由利島の南端に舟を停泊させていた。
そんなとき舟に向かって、どこからともなく美しい女の声で「お舟に申すぅ……」と、聞こえてくるのだという。
船乗りたちは「化けもんの声じゃ!」と恐れ、錨をあげて島を離れること、しばしばであった。
こんな噂が広まり、船頭たちの間では、「由利島にだけは舟を止めるな。あそこには化けもんがおる」と不文律が
生まれたほどであった。
ある日、そんな怪談話を知らぬ一艘の舟が、急な潮に流され、由利島で待ちぼうけを食らうことになった。
しかたなく船乗りたちは眠りにつくことに。
深夜、山の中腹あたりから、「お舟に申すぅ」「お舟に申すぅ」と件の女の声がしたと思ったら、舟に近づいてくる気配がする。
ただならぬ声に目を覚ました船乗りたちは、舟から島を見ると、この世のものとは思えぬ絶世の美女が「お舟に申すぅ」「お舟に申すぅ」と、
言いながら走ってくるではないか。
逃げようにも錨をあげる暇すらない。あっという間に女は舟に飛び移った。途端、舟がグラリと揺れるほどの大音響が響いた。
船乗りたちは我が目を疑った。女が乗ったあたりを見れば、その姿は消え、かわりにまばゆい光が船上を染めているのだ。
なんと、そこには金銀銅の銭が山積みになっていたのだった。
「これは、どげんしたちゅうこっちゃ」と、船乗りたちは口々に言った。
しばらくして船頭が結論を出した。「あの女、わしらの舟が大阪に行くのを知っており、大阪につれて行ってもらいたいもんで、
『お舟にもうすぅ』と、言うたんじゃなかろうか。とすれば、みなの衆、舟を沈まさぬよう、大阪まで旅しょうや」
「なるほど、この銭、大阪までの舟賃というわけか」
夜明けになると同時に出航した。なんとか無事に大阪に着いた。
「はて、このぎょうさんの銭で何をしよう」と船乗りたちは、話し合った。
「そうじゃ、わしら船乗りじゃけん、舟具屋を始めたら、いい品が置けるかも」ということで、舟具屋を開店することに。
屋号も由利島の銭で建てた店だから『由利屋』と名付け、店は繁盛したという。
ちなみにチキンラーメンで有名な日清食品では、管理職の研修をこの島で行っている。
下記URLはその模様。
無人島でサバイバル体験!
http://www.tanken.com/yurijima.htm...
日清、若手管理職にチキンラーメン持たせて「無人島」に放り込む研修再開
http://nakasoku.blog18.fc2.com/blog-entry-1024.htm...
猿島の日蓮伝説
1253(建長5)年4月、日蓮上人は上総から鎌倉へ向けて船出した。
しかしながら春の海は潮の流れが速く、船足も捗らない。
そのうち南西の風が強まり、時化に遭ってしまう。
もはや船の進路方向さえわからなくなり、そのうえ横殴りの強風と大波に船はもてあそばれ、
船底には穴が開いてしまった。
船底から水があふれてくる。このままでは沈没は時間の問題。
上人は舳先に立ち、「南無妙法蓮華経」と題目を唱えた。すると驚くべきことに船底の穴がふさがれ、浸水がおさまった。
奇跡は続いた。いつしか上人の前に不思議な白い猿が現われ、とある無人島を指さしたのだ。
上人はなんとか島に避難し、嵐をやりすごしたのだった。(のちに、この白猿にちなんで『猿島』と呼ぶようになったという)
一息ついた上人は白猿に導かれ、猿島から船を出し、横須賀にある米ケ浜の海岸に上陸しようとしていた……。
一方そのころ、三浦半島の石渡左衛門尉は前の晩、東方から偉人が来るとのお告げを受け、高台から海を眺めていた。
するとどうだ。船に乗った日蓮上人がこちらに向かってくるではないか。
左衛門尉は、あの人に違いないと思い、浜に降りて待つことにした。
ところが船は近づいてくるも、浜は磯になっており上陸することができず、立ち往生していた。
左衛門尉は海に入り、上人を背負って上陸することにした。
なんとか陸まで運んだはいいが、上人が左衛門尉の足裏を見てみると大量出血している。
「足はいかがされた?」案じた上人が聞くと、「どうやらサザエの角で切ってしまったようです」と左衛門尉。
そこで上人がふたたびお題目を唱えると、左衛門尉の出血はピタリと止まった。
さらには以来、周辺で獲れるサザエの角はなくなったという。
嵐に飲みこまれ船底に穴があいたとき、浸水がなぜ止まったのかというと、船底の裏には大きなアワビが貼りついており、
それが栓の役目を果たしたことがわかった。
このあと上人は左衛門尉の世話を受けながら21日間、米が浜の洞窟にこもったあと、鎌倉へ向け去っていった。
日蓮伝説と要塞の島 「猿島」1
http://homepage3.nifty.com/rurounotami/yokosuka_sarushima...
日蓮&要塞
http://www.aonosimasima.sakura.ne.jp/sarusima.ht...
1253(建長5)年4月、日蓮上人は上総から鎌倉へ向けて船出した。
しかしながら春の海は潮の流れが速く、船足も捗らない。
そのうち南西の風が強まり、時化に遭ってしまう。
もはや船の進路方向さえわからなくなり、そのうえ横殴りの強風と大波に船はもてあそばれ、
船底には穴が開いてしまった。
船底から水があふれてくる。このままでは沈没は時間の問題。
上人は舳先に立ち、「南無妙法蓮華経」と題目を唱えた。すると驚くべきことに船底の穴がふさがれ、浸水がおさまった。
奇跡は続いた。いつしか上人の前に不思議な白い猿が現われ、とある無人島を指さしたのだ。
上人はなんとか島に避難し、嵐をやりすごしたのだった。(のちに、この白猿にちなんで『猿島』と呼ぶようになったという)
一息ついた上人は白猿に導かれ、猿島から船を出し、横須賀にある米ケ浜の海岸に上陸しようとしていた……。
一方そのころ、三浦半島の石渡左衛門尉は前の晩、東方から偉人が来るとのお告げを受け、高台から海を眺めていた。
するとどうだ。船に乗った日蓮上人がこちらに向かってくるではないか。
左衛門尉は、あの人に違いないと思い、浜に降りて待つことにした。
ところが船は近づいてくるも、浜は磯になっており上陸することができず、立ち往生していた。
左衛門尉は海に入り、上人を背負って上陸することにした。
なんとか陸まで運んだはいいが、上人が左衛門尉の足裏を見てみると大量出血している。
「足はいかがされた?」案じた上人が聞くと、「どうやらサザエの角で切ってしまったようです」と左衛門尉。
そこで上人がふたたびお題目を唱えると、左衛門尉の出血はピタリと止まった。
さらには以来、周辺で獲れるサザエの角はなくなったという。
嵐に飲みこまれ船底に穴があいたとき、浸水がなぜ止まったのかというと、船底の裏には大きなアワビが貼りついており、
それが栓の役目を果たしたことがわかった。
このあと上人は左衛門尉の世話を受けながら21日間、米が浜の洞窟にこもったあと、鎌倉へ向け去っていった。
日蓮伝説と要塞の島 「猿島」1
http://homepage3.nifty.com/rurounotami/yokosuka_sarushima...
日蓮&要塞
http://www.aonosimasima.sakura.ne.jp/sarusima.ht...
墓が2つある島々
現代、埋葬する墓とお参りする墓は同じであるのが通常であるが、民俗学者の柳田国男によると、
かつては埋葬する墓と参る墓との別々が存在したのが一般的だったそうだ。
遺体を土葬する場所を『埋め墓』と呼び、石塔を建てて霊を祭る墓を『参り墓』と称した。
これを『両墓制』という。
現代人には奇異に思えるかもしれないが、この両墓制の風習が今もなお残る地方がある。
瀬戸内海の塩飽諸島の島々がそれだ。
起源はいくつか挙げられる。
埋葬と祭儀が区別された古墳時代からの名残である説。
遺体は穢れたものであるから、別の清らかな場所に祭祀の場を設けようとした『穢れ』思想の説など。
たしかに土葬は土壌汚染を免れない。衛生面を考え、埋め墓を高台など人里離れた場所に設け、
参り墓を集落の近くに作ったとすれば合理的だ。わざわざ山の中腹まで墓参りするとなると、老人たちは骨が折れる。
しかし近年、土葬がなくなりつつあるのに加え、過疎、高齢化の影響で埋め墓、参り墓が渾然一体となり、
維持すらままならなくなっているのが現状だ。
このように日本の葬祭文化は多種多様であるが、時代の変遷とともに平易化していくにはあまりにも惜しい。
先祖代々から引き継いできた民俗風習の灯火は絶やしてはいけない。
21世紀へ残したい香川 両墓制(塩飽諸島など)
http://www.shikoku-np.co.jp/feature/nokoshitai/kurashi/4...
瀬戸内海の青い墓/香川県三豊市
http://www41.tok2.com/home/kanihei5/kagawa-awasima.h...
現代、埋葬する墓とお参りする墓は同じであるのが通常であるが、民俗学者の柳田国男によると、
かつては埋葬する墓と参る墓との別々が存在したのが一般的だったそうだ。
遺体を土葬する場所を『埋め墓』と呼び、石塔を建てて霊を祭る墓を『参り墓』と称した。
これを『両墓制』という。
現代人には奇異に思えるかもしれないが、この両墓制の風習が今もなお残る地方がある。
瀬戸内海の塩飽諸島の島々がそれだ。
起源はいくつか挙げられる。
埋葬と祭儀が区別された古墳時代からの名残である説。
遺体は穢れたものであるから、別の清らかな場所に祭祀の場を設けようとした『穢れ』思想の説など。
たしかに土葬は土壌汚染を免れない。衛生面を考え、埋め墓を高台など人里離れた場所に設け、
参り墓を集落の近くに作ったとすれば合理的だ。わざわざ山の中腹まで墓参りするとなると、老人たちは骨が折れる。
しかし近年、土葬がなくなりつつあるのに加え、過疎、高齢化の影響で埋め墓、参り墓が渾然一体となり、
維持すらままならなくなっているのが現状だ。
このように日本の葬祭文化は多種多様であるが、時代の変遷とともに平易化していくにはあまりにも惜しい。
先祖代々から引き継いできた民俗風習の灯火は絶やしてはいけない。
21世紀へ残したい香川 両墓制(塩飽諸島など)
http://www.shikoku-np.co.jp/feature/nokoshitai/kurashi/4...
瀬戸内海の青い墓/香川県三豊市
http://www41.tok2.com/home/kanihei5/kagawa-awasima.h...
調べてみると、ほぼ釣りの名所w
[YouTubeで再生]
>>162
>今年、学生と沖縄に民俗学収集に行くんだけど
元○○○さんであるCentroDestra氏よ、学生とはなんじゃい?
なんの自営をしてるんだっけ? とどのつまり、貴殿は何者なんだ?
いずれにせよ、民俗学の調査に行くのなら(結構なご身分ですな!)、このスレにて詳細に報告されたし。
沖縄周辺も含め、鹿児島のトカラ列島もまた民俗学ファンにとっては垂涎のネタの宝庫。
レポート、心待ちにしておりますよ。
>>162
>今年、学生と沖縄に民俗学収集に行くんだけど
元○○○さんであるCentroDestra氏よ、学生とはなんじゃい?
なんの自営をしてるんだっけ? とどのつまり、貴殿は何者なんだ?
いずれにせよ、民俗学の調査に行くのなら(結構なご身分ですな!)、このスレにて詳細に報告されたし。
沖縄周辺も含め、鹿児島のトカラ列島もまた民俗学ファンにとっては垂涎のネタの宝庫。
レポート、心待ちにしておりますよ。
[YouTubeで再生]
人間魚雷『回天』の訓練基地があった島
山口県周南市の沖合10数kmのところに大津島という小島がある。
人口は約400人超で7つの集落で形成されておるものの、その他の離島の例に漏れず、
65歳以上の高齢化率が70%に達しており、少子過疎高齢化の進んだ限界集落だ。
戦時中には、島の周辺で人間魚雷『回天』の発射訓練が行われていたことで知られ、
今も訓練に使用された基地跡が残されている。
太平洋戦争末期、「天を回らし、戦局を逆転させる」という起死回生の悲願をこめて、人間魚雷『回天』は産声をあげた。
回天一型は九十三式酸素魚雷を改装したものである。
酸素魚雷は発射後に航跡が残らないという、終戦まで欧米も開発できなかった日本軍の切り札だった。
回天は大量の爆薬を搭載し、この中央に人間が乗り、隊員みずから操縦して敵艦に体当たりする、いわば水中版特攻隊。
速力30ノットは出たらしいが、航続距離が短いので、潜水艦に搭載されて目標近くまで運搬されなければならない。
しかし米軍の対潜哨戒技術が高かったため、多くの回天が潜水艦ごと発見され撃沈されるという憂き目にあった。
隊員の訓練基地が築かれた大津島には、全国から20歳前後の精鋭たちが集結し、毎日厳しい訓練を繰り返した。
そして祖国を守るため、ここから出撃していき、多くの若き命が散華した。
回天Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%9E%E5%A4%A...
戦跡探訪
http://www17.ocn.ne.jp/‾senshi/senseki.htm
人間魚雷『回天』の訓練基地があった島
山口県周南市の沖合10数kmのところに大津島という小島がある。
人口は約400人超で7つの集落で形成されておるものの、その他の離島の例に漏れず、
65歳以上の高齢化率が70%に達しており、少子過疎高齢化の進んだ限界集落だ。
戦時中には、島の周辺で人間魚雷『回天』の発射訓練が行われていたことで知られ、
今も訓練に使用された基地跡が残されている。
太平洋戦争末期、「天を回らし、戦局を逆転させる」という起死回生の悲願をこめて、人間魚雷『回天』は産声をあげた。
回天一型は九十三式酸素魚雷を改装したものである。
酸素魚雷は発射後に航跡が残らないという、終戦まで欧米も開発できなかった日本軍の切り札だった。
回天は大量の爆薬を搭載し、この中央に人間が乗り、隊員みずから操縦して敵艦に体当たりする、いわば水中版特攻隊。
速力30ノットは出たらしいが、航続距離が短いので、潜水艦に搭載されて目標近くまで運搬されなければならない。
しかし米軍の対潜哨戒技術が高かったため、多くの回天が潜水艦ごと発見され撃沈されるという憂き目にあった。
隊員の訓練基地が築かれた大津島には、全国から20歳前後の精鋭たちが集結し、毎日厳しい訓練を繰り返した。
そして祖国を守るため、ここから出撃していき、多くの若き命が散華した。
回天Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%9E%E5%A4%A...
戦跡探訪
http://www17.ocn.ne.jp/‾senshi/senseki.htm
>>167
こないだとりあえず板で、旅行先どこへ行くかスレ立てして決めたんだっけ?
ご存知かとは思いますが、その雄島を紹介しましょう。夏も近づいてきたことだし、オカルト板らしく。
雄島の幽霊話は捏造されたもの?
雄島(おしま)はの福井県の越前海岸にある、東西40m、南北200mほどの島でありながら
地元の人々から『神の島』と呼ばれたり、または『瑞巌寺の奥の院』とも称される島だ。
本土から島へは渡月橋で結ばれており、橋全体が神社と同様、朱塗りなのだ。
これは神の島への入り口であり、この世とあの世を結ぶ結界を意味する。
事実、渡ってすぐ島の守り神である大湊神社の鳥居が出迎えてくれる。
島内に点在する岩窟には、諸国から渡った修行僧が刻んだ卒塔婆や仏像、法名などが数多く見られ、
霊場としての風景を今にとどめている。
昼間の雄島の顔は神聖な聖域でありながら、日本海に沈む夕日が美しい絶景ポイントとして知られ観光客に人気だが、
夜ともなればそれも一変する。
というのも、近くに自殺の名所で名高い東尋坊があり、身を投げた自殺者の遺体が漂着することが少なくないんだとか。
それにくわえ、夜は心霊スポットとして屈指の知名度を誇ることで有名。
日が暮れてから橋を渡ると、海から無数の白い手が伸びてきて引きずりこまれてしまうというウワサがあるそうな。
他にもこんな恐ろしいことも……
大湊神社の本殿へ参拝するには古い石段をのぼっていくのだが、途中道は左右に分岐する。
右手から反時計回りに進む『順打ち』と、左から時計回りに進む『逆打ち』と呼ばれるルートがあり、
いたずら半分『逆打ち』の巡礼道に足を踏み入れてしまったものなら、霊界に迷いこんでしまい、
二度と元の世界へは戻れなくなるという。
実はこの2つのルートも、右回りが『逆打ち』で、左回りが『順打ち』ではないか、との説があり判然としない。
ところが、肝試しに行った者たちが実際に2つのルートを回るも、そういった報告はほとんど聞かれないのが実情だったりする。
これは、東尋坊から投身自殺した遺体が潮の流れに乗り、雄島に流れ着くことに端を発しているのではあるまいか。
遺体は荒波に揉まれ、磯の岩肌でヤスリがけされたうえ、魚や甲殻類についばまれ、
ふた目と見られる状態ではなくなっているのがめずらしくない。
そんな悲惨な亡骸を見せ物にしたくないがために、地元の人たちの思いがさまざまな伝承を生み出したのかもしれない。
雄島を歩く正しい順路?
http://www.chunichi.co.jp/kenmin-fukui/article/oshiete/l...
東北心霊地図
http://gost.s35.xrea.com/hukui/read.cgi?DIR=hukui&FILEN...
こないだとりあえず板で、旅行先どこへ行くかスレ立てして決めたんだっけ?
ご存知かとは思いますが、その雄島を紹介しましょう。夏も近づいてきたことだし、オカルト板らしく。
雄島の幽霊話は捏造されたもの?
雄島(おしま)はの福井県の越前海岸にある、東西40m、南北200mほどの島でありながら
地元の人々から『神の島』と呼ばれたり、または『瑞巌寺の奥の院』とも称される島だ。
本土から島へは渡月橋で結ばれており、橋全体が神社と同様、朱塗りなのだ。
これは神の島への入り口であり、この世とあの世を結ぶ結界を意味する。
事実、渡ってすぐ島の守り神である大湊神社の鳥居が出迎えてくれる。
島内に点在する岩窟には、諸国から渡った修行僧が刻んだ卒塔婆や仏像、法名などが数多く見られ、
霊場としての風景を今にとどめている。
昼間の雄島の顔は神聖な聖域でありながら、日本海に沈む夕日が美しい絶景ポイントとして知られ観光客に人気だが、
夜ともなればそれも一変する。
というのも、近くに自殺の名所で名高い東尋坊があり、身を投げた自殺者の遺体が漂着することが少なくないんだとか。
それにくわえ、夜は心霊スポットとして屈指の知名度を誇ることで有名。
日が暮れてから橋を渡ると、海から無数の白い手が伸びてきて引きずりこまれてしまうというウワサがあるそうな。
他にもこんな恐ろしいことも……
大湊神社の本殿へ参拝するには古い石段をのぼっていくのだが、途中道は左右に分岐する。
右手から反時計回りに進む『順打ち』と、左から時計回りに進む『逆打ち』と呼ばれるルートがあり、
いたずら半分『逆打ち』の巡礼道に足を踏み入れてしまったものなら、霊界に迷いこんでしまい、
二度と元の世界へは戻れなくなるという。
実はこの2つのルートも、右回りが『逆打ち』で、左回りが『順打ち』ではないか、との説があり判然としない。
ところが、肝試しに行った者たちが実際に2つのルートを回るも、そういった報告はほとんど聞かれないのが実情だったりする。
これは、東尋坊から投身自殺した遺体が潮の流れに乗り、雄島に流れ着くことに端を発しているのではあるまいか。
遺体は荒波に揉まれ、磯の岩肌でヤスリがけされたうえ、魚や甲殻類についばまれ、
ふた目と見られる状態ではなくなっているのがめずらしくない。
そんな悲惨な亡骸を見せ物にしたくないがために、地元の人たちの思いがさまざまな伝承を生み出したのかもしれない。
雄島を歩く正しい順路?
http://www.chunichi.co.jp/kenmin-fukui/article/oshiete/l...
東北心霊地図
http://gost.s35.xrea.com/hukui/read.cgi?DIR=hukui&FILEN...
解説どうもありがとうございます^^
実際に行ってみると、おばさんが一人たたずんでいた事意外は不気味ではなかったです。
実際に行ってみると、おばさんが一人たたずんでいた事意外は不気味ではなかったです。
>>170
そのおばさんは、ちゃんと生きた人間だったの?
平郡島の蛇の池伝説
山口県柳井市の南20kmの伊予灘に浮かぶ細長い島、それが平郡島(へいぐんとう)。
島名の由来は鎌倉時代に木曽義仲の子、平群丸(へぐりまる。『郡』ではなく『群』)が落ち延び、
住み着いたことから冠された。
集落は頑丈な石垣で囲まれた家々が寄り添い、棚田状の段々畑が山の斜面に広がっており、牧歌的な景観が眼を和ませる。
島の西には『蛇の池』と呼ばれる神秘の池がある。
間近に海があるにもかかわらず、池の水には塩分が含まれていないことから神の水として神聖視している。
その逸話がこんな内容だ。
……今を去ること820年もの以前。
平家は度重なる戦いに敗走、四国屋島の一戦にも大敗を喫し、一部の兵船は熊毛郡室津半島に落ち延び、
阿月池の浦の潟(砂丘などで外海と分離してできた湖)になった池に潜んだ。
源氏の軍勢はこれを見つけ、両軍入り乱れての合戦となり、たちまちにして湖は血の色をたたえた。
この騒ぎに驚いたのは、池の主たる大蛇である。
もともと釈迦如来の使者といわれ、長らく平穏生活を送っていたが、
時ならぬ狼藉者によって聖地を血で汚されたのだからたまらない。
心清きものの住むところではないと、住み慣れた池をあとにし、まずは近くの皇座山に登った。
(今でも皇座山の山頂には草木の茂らない場所があり、そこに大蛇が住んでいたと言い伝えられている)
ある日のこと、室津半島から平郡島へ漕ぎ帰ろうとする漁師が、年のころ18、19の美女に呼び止められた。
女はどうしても今夜中に平郡に渡らなければならないのだという。
「なにとぞ渡してくれたまえ。お礼として、そなたが漁に出たとき、ただの一度だけ、
船一杯の獲物を得させてあげましょう」と、頭を下げた。
漁師はそんな話を眉唾に思いつつも、女に従い、平郡へ渡すことにした。
女が指さした島の波打ち際を見ると、驚いたことに今までなかった大池が広がっているではないか。
青く澄んだ美しい池である。
浜に着き、船から降た女は、「私の家はすぐそこです。お礼の漁はこの一帯でしなさい。
そのかわり、二度と網をお入れなさるな」と言い残し、かき消すようにその姿はいなくなった。
次の朝、漁師は半信半疑の思いで網を投じた。
するとどうだろう、船が魚で溢れんばかりの大漁ではないか。
浜へ帰って魚を売り、たらふく儲けた漁師。しかし味を占めてしまい、すっかり女の言葉を忘れ、
予備の船まで用意してふたたび漁に出てしまった。
予期に反して、二度目も獲物で船が満杯になった。
ところが、いざ帰ろうと船を岸に向けて漕ぎ出したところ、一杯だった獲物は、またたく間に蛇と化したのだ。
漁師は生きた心地もなく、船を捨てて海へ飛びこみ、命からがら逃げ帰ったという。
島の伝説
http://www.higeg.jp/heigun/heigun2.htm...
自然と歴史が育んだ島-柳井市 平郡島
http://www.pref.yamaguchi.lg.jp/cms/a123003/island/heiguntou.h...
そのおばさんは、ちゃんと生きた人間だったの?
平郡島の蛇の池伝説
山口県柳井市の南20kmの伊予灘に浮かぶ細長い島、それが平郡島(へいぐんとう)。
島名の由来は鎌倉時代に木曽義仲の子、平群丸(へぐりまる。『郡』ではなく『群』)が落ち延び、
住み着いたことから冠された。
集落は頑丈な石垣で囲まれた家々が寄り添い、棚田状の段々畑が山の斜面に広がっており、牧歌的な景観が眼を和ませる。
島の西には『蛇の池』と呼ばれる神秘の池がある。
間近に海があるにもかかわらず、池の水には塩分が含まれていないことから神の水として神聖視している。
その逸話がこんな内容だ。
……今を去ること820年もの以前。
平家は度重なる戦いに敗走、四国屋島の一戦にも大敗を喫し、一部の兵船は熊毛郡室津半島に落ち延び、
阿月池の浦の潟(砂丘などで外海と分離してできた湖)になった池に潜んだ。
源氏の軍勢はこれを見つけ、両軍入り乱れての合戦となり、たちまちにして湖は血の色をたたえた。
この騒ぎに驚いたのは、池の主たる大蛇である。
もともと釈迦如来の使者といわれ、長らく平穏生活を送っていたが、
時ならぬ狼藉者によって聖地を血で汚されたのだからたまらない。
心清きものの住むところではないと、住み慣れた池をあとにし、まずは近くの皇座山に登った。
(今でも皇座山の山頂には草木の茂らない場所があり、そこに大蛇が住んでいたと言い伝えられている)
ある日のこと、室津半島から平郡島へ漕ぎ帰ろうとする漁師が、年のころ18、19の美女に呼び止められた。
女はどうしても今夜中に平郡に渡らなければならないのだという。
「なにとぞ渡してくれたまえ。お礼として、そなたが漁に出たとき、ただの一度だけ、
船一杯の獲物を得させてあげましょう」と、頭を下げた。
漁師はそんな話を眉唾に思いつつも、女に従い、平郡へ渡すことにした。
女が指さした島の波打ち際を見ると、驚いたことに今までなかった大池が広がっているではないか。
青く澄んだ美しい池である。
浜に着き、船から降た女は、「私の家はすぐそこです。お礼の漁はこの一帯でしなさい。
そのかわり、二度と網をお入れなさるな」と言い残し、かき消すようにその姿はいなくなった。
次の朝、漁師は半信半疑の思いで網を投じた。
するとどうだろう、船が魚で溢れんばかりの大漁ではないか。
浜へ帰って魚を売り、たらふく儲けた漁師。しかし味を占めてしまい、すっかり女の言葉を忘れ、
予備の船まで用意してふたたび漁に出てしまった。
予期に反して、二度目も獲物で船が満杯になった。
ところが、いざ帰ろうと船を岸に向けて漕ぎ出したところ、一杯だった獲物は、またたく間に蛇と化したのだ。
漁師は生きた心地もなく、船を捨てて海へ飛びこみ、命からがら逃げ帰ったという。
島の伝説
http://www.higeg.jp/heigun/heigun2.htm...
自然と歴史が育んだ島-柳井市 平郡島
http://www.pref.yamaguchi.lg.jp/cms/a123003/island/heiguntou.h...
平郡島では幽霊船が目撃されるという……
平郡島の東南端5.5キロの沖合では、まさにオカルト板らしく、
神出鬼没の幽霊船が目撃されることで地元では有名らしい。
潮が凪いだ闇夜、突如として嵐が起こり、白波が荒れ狂ったと思ったら
巨大な黒船のシルエットが浮かび上がるという。
マストに一個の火が灯るや瞬く間に数を増やし、船全体が灯火の塊となり、
闇と激しい波間のさなか、しばらくの間、炎の浮き城となって姿を現すというのだ。
平郡東のみならず、平郡西でも同じような幽霊船が目撃されており、
同じく灯火の塊となった幽霊船が、見ている人に接近してきて、
ついには人々の頭上をかすめ山の彼方に消えていったとか……
明治8年、御用船『大阪丸』が食糧、金銀を満載して航行中、
平郡島の前にある船舶の寄港地、上関(かみのせき)に立ち寄った。
その際に船長をはじめ幹部らが豪遊し、ご用金を湯水のごとく使い果たした事件があった。
その証拠を隠蔽するべく船長らは平郡沖で船を沈没させた。事情を知らぬ水夫たちまで見殺しにし、自分たちだけが助かったのだ。
そのとき、罪もなく沈められた水夫たちの霊が浮かばれず、今もなお怨霊となってさまよっているのではないか、と言われている。
もっとも、『大阪丸』は3本マストで、英国で建造された総トン数440トンの船であったと記録に残されており、
幽霊船との因果関係は明らかにされていない。
この怪異譚は中央大学の民俗研究会ですら調査報告書を提出している。
柳井の昔ばなし 幽霊船
http://www.yanai-museum.jp/modules/ethnic1/photo.php?lid=...
周東総合病院No.207 02月号(なんと病院のホームページ!)の「5.峠の往来(20)」の部分を注視せよ
http://www.hsp-shuto.jp/shinkokyu/201102.htm...
平郡島の東南端5.5キロの沖合では、まさにオカルト板らしく、
神出鬼没の幽霊船が目撃されることで地元では有名らしい。
潮が凪いだ闇夜、突如として嵐が起こり、白波が荒れ狂ったと思ったら
巨大な黒船のシルエットが浮かび上がるという。
マストに一個の火が灯るや瞬く間に数を増やし、船全体が灯火の塊となり、
闇と激しい波間のさなか、しばらくの間、炎の浮き城となって姿を現すというのだ。
平郡東のみならず、平郡西でも同じような幽霊船が目撃されており、
同じく灯火の塊となった幽霊船が、見ている人に接近してきて、
ついには人々の頭上をかすめ山の彼方に消えていったとか……
明治8年、御用船『大阪丸』が食糧、金銀を満載して航行中、
平郡島の前にある船舶の寄港地、上関(かみのせき)に立ち寄った。
その際に船長をはじめ幹部らが豪遊し、ご用金を湯水のごとく使い果たした事件があった。
その証拠を隠蔽するべく船長らは平郡沖で船を沈没させた。事情を知らぬ水夫たちまで見殺しにし、自分たちだけが助かったのだ。
そのとき、罪もなく沈められた水夫たちの霊が浮かばれず、今もなお怨霊となってさまよっているのではないか、と言われている。
もっとも、『大阪丸』は3本マストで、英国で建造された総トン数440トンの船であったと記録に残されており、
幽霊船との因果関係は明らかにされていない。
この怪異譚は中央大学の民俗研究会ですら調査報告書を提出している。
柳井の昔ばなし 幽霊船
http://www.yanai-museum.jp/modules/ethnic1/photo.php?lid=...
周東総合病院No.207 02月号(なんと病院のホームページ!)の「5.峠の往来(20)」の部分を注視せよ
http://www.hsp-shuto.jp/shinkokyu/201102.htm...
523: キビチー(東日本):2010/10/24(日) 23:55:49.88 ID:e2UXFvEuP
昔小笠原の母親と娘5人の女だけの民宿に泊まったとき、
夕食のとき、どの子が一番かわいい?と聞かれた
角が立たないよう末っ子の中一の子をかわいいと言ったら、
午後十時頃、部屋でごろごろしてるとその子がきた
どうやら島以外の男性と交わるのが習わしらしい
528: プイ(東京都):2010/10/25(月) 00:02:14.64 ID:oaJGq7dP0
>>523
どこだよ!
小笠原のどこなんだよ!!
535: リッキー(東京都):2010/10/25(月) 00:17:51.93 ID:Gk35mlas0
>>523
少なくとも30年、恐らくは50年以上前だろ。
昔は島外の人と交わるのが当たり前だったんだよな。
思うに離島ゆえに血が濃くなることを避ける為の知恵だったかと。
昔小笠原の母親と娘5人の女だけの民宿に泊まったとき、
夕食のとき、どの子が一番かわいい?と聞かれた
角が立たないよう末っ子の中一の子をかわいいと言ったら、
午後十時頃、部屋でごろごろしてるとその子がきた
どうやら島以外の男性と交わるのが習わしらしい
528: プイ(東京都):2010/10/25(月) 00:02:14.64 ID:oaJGq7dP0
>>523
どこだよ!
小笠原のどこなんだよ!!
535: リッキー(東京都):2010/10/25(月) 00:17:51.93 ID:Gk35mlas0
>>523
少なくとも30年、恐らくは50年以上前だろ。
昔は島外の人と交わるのが当たり前だったんだよな。
思うに離島ゆえに血が濃くなることを避ける為の知恵だったかと。
削除(by投稿者)
>>178
そういや、こないだ、市役所が認知症のばあちゃんが行方不明になった旨を放送してた。
山間部で暮らすばあちゃんだったのに、はるか30キロ離れた海岸で溺死体となって発見された。
腐敗が進んでいたらしく、DNA鑑定でようやく本人と確認されたって、
捜索隊に参加したおっちゃんが言ってたなあ……
屹立するやもめ岩
伊豆諸島の最南端にある無人島、孀婦岩(そうふいわ)。東京都八丈支庁が管理事務を行っている。
東京の南約650km、鳥島の南約76kmに位置し、標高99m、東西84m、南北56mの屹立した孤立突岩だ。
こんな形状の岩礁ならめずらしくなさそうに思えるかもしれないが、驚くべきことにまわりは2000m級の深海。
海底から聳え立っており、海上に出ているのは山の頂上なのだ。
孀婦岩は別名『やもめ岩』、英名はlot’s wife(ロトの妻)と呼ばれる。
18世紀の終わりごろ、初めてこの島を発見したイギリス人は一目見るなり、『ロトの妻』と名づけた。
旧約聖書に登場するロト(アブラハムの甥にあたる)は、ヨルダンの低地ソドムに妻と二人の娘とともに住んでいた。
ソドムは作物が豊かに実っていたが、町の住人は労働せず、昼間から酒や性交に溺れる者ばかりで、
法も秩序もないほど腐敗していた。
神はそのありさまを嘆き、ソドムを滅ぼすことを決めた。
二人の天使がロトの家を訪れ、すぐに町から立ち去るよう伝えた。
天使はこう言った。「いいですか。命がけでお逃げなさい。ただし、うしろを振り返ってはいけない。立ち止まってもいけない。
山に逃げなさい。さもないと、あなたたちも滅ぼされてしまうでしょう」
ロトとその家族は夜明け前にソドムを出るが、道中、背後のソドムがある方角から大音響とともに光が迸る。
邪念を抱いたロトの妻は言いつけを守らず、うしろを振り返った。次の瞬間、彼女は塩の柱と化してしまった。
町を滅ぼすものの正体を見てみたい好奇心や、不安、あるいは家に残してきた財産などの物欲から振り向いてしまったとされている。
この戒めは、天災が襲いかかったとき、よけいなことは考えず、取るものもとりあえず必死で逃げよ、とのことだそうだ。
お散歩宮・風の吹く道
http://snowy-owl.tea-nifty.com/crescent/2007/07/post_ca8c.htm...
孀婦岩(ソウフイワ)
http://blog.projectbee.com/zodiac/taurus/sb.cgi?eid=1...
神々の核兵器〜ソドムとゴモラの町に何が起きたのか?〜
http://members3.jcom.home.ne.jp/dandy2/works/works_14_2_a.htm...
そういや、こないだ、市役所が認知症のばあちゃんが行方不明になった旨を放送してた。
山間部で暮らすばあちゃんだったのに、はるか30キロ離れた海岸で溺死体となって発見された。
腐敗が進んでいたらしく、DNA鑑定でようやく本人と確認されたって、
捜索隊に参加したおっちゃんが言ってたなあ……
屹立するやもめ岩
伊豆諸島の最南端にある無人島、孀婦岩(そうふいわ)。東京都八丈支庁が管理事務を行っている。
東京の南約650km、鳥島の南約76kmに位置し、標高99m、東西84m、南北56mの屹立した孤立突岩だ。
こんな形状の岩礁ならめずらしくなさそうに思えるかもしれないが、驚くべきことにまわりは2000m級の深海。
海底から聳え立っており、海上に出ているのは山の頂上なのだ。
孀婦岩は別名『やもめ岩』、英名はlot’s wife(ロトの妻)と呼ばれる。
18世紀の終わりごろ、初めてこの島を発見したイギリス人は一目見るなり、『ロトの妻』と名づけた。
旧約聖書に登場するロト(アブラハムの甥にあたる)は、ヨルダンの低地ソドムに妻と二人の娘とともに住んでいた。
ソドムは作物が豊かに実っていたが、町の住人は労働せず、昼間から酒や性交に溺れる者ばかりで、
法も秩序もないほど腐敗していた。
神はそのありさまを嘆き、ソドムを滅ぼすことを決めた。
二人の天使がロトの家を訪れ、すぐに町から立ち去るよう伝えた。
天使はこう言った。「いいですか。命がけでお逃げなさい。ただし、うしろを振り返ってはいけない。立ち止まってもいけない。
山に逃げなさい。さもないと、あなたたちも滅ぼされてしまうでしょう」
ロトとその家族は夜明け前にソドムを出るが、道中、背後のソドムがある方角から大音響とともに光が迸る。
邪念を抱いたロトの妻は言いつけを守らず、うしろを振り返った。次の瞬間、彼女は塩の柱と化してしまった。
町を滅ぼすものの正体を見てみたい好奇心や、不安、あるいは家に残してきた財産などの物欲から振り向いてしまったとされている。
この戒めは、天災が襲いかかったとき、よけいなことは考えず、取るものもとりあえず必死で逃げよ、とのことだそうだ。
お散歩宮・風の吹く道
http://snowy-owl.tea-nifty.com/crescent/2007/07/post_ca8c.htm...
孀婦岩(ソウフイワ)
http://blog.projectbee.com/zodiac/taurus/sb.cgi?eid=1...
神々の核兵器〜ソドムとゴモラの町に何が起きたのか?〜
http://members3.jcom.home.ne.jp/dandy2/works/works_14_2_a.htm...
これぞ自然の神秘、軍艦岩
与那国島のサンニヌ台(断崖が階段状に続く自然景観)のすぐそばには、
さながら軍艦が停泊しているようなフォルムの岩礁が目につく。それが軍艦岩だ。
直線的な軍艦の甲板と管制塔のようなデザインがカッコいい。
観光の際、以前は軍艦岩の間近から見学できたものの、近年は崩落の危険があるため立入禁止になってしまった。
画像は陸側の展望台からのアングルで、最近ではその展望台すらも入れなくなってしまったとのこと。
現在は海側から遠巻きに望むか、東崎の展望台からなんとか見える程度。
風化侵食で創り出された奇岩は数あれど、これほど雄雄しい造形美はなかなかお目にかかれない。
与那国島の観光
http://www.ishigakijimaumibe.com/ritou/yonaguni/sanninu/sanninu...
与那国島のサンニヌ台(断崖が階段状に続く自然景観)のすぐそばには、
さながら軍艦が停泊しているようなフォルムの岩礁が目につく。それが軍艦岩だ。
直線的な軍艦の甲板と管制塔のようなデザインがカッコいい。
観光の際、以前は軍艦岩の間近から見学できたものの、近年は崩落の危険があるため立入禁止になってしまった。
画像は陸側の展望台からのアングルで、最近ではその展望台すらも入れなくなってしまったとのこと。
現在は海側から遠巻きに望むか、東崎の展望台からなんとか見える程度。
風化侵食で創り出された奇岩は数あれど、これほど雄雄しい造形美はなかなかお目にかかれない。
与那国島の観光
http://www.ishigakijimaumibe.com/ritou/yonaguni/sanninu/sanninu...
[YouTubeで再生]
姫島の七不思議とは
大分県の国東半島からフェリーで20分ほど行くと、東西7キロメートルの細長い島に到着する。
それが姫島だ。
古事記によると伊邪那岐命(イザナギ)、伊邪那美命(イザナミ)の二神が『国産み』の際、
大八島のあとに続けて産んだとされる6つの島のうち、4番目に産んだ女島であるとされている。
この女島こそ姫島であったという。
また日本書記によれば、垂仁天皇の御代、意富加羅国(おほからのくに・今の韓国南部)の
王子である都怒我阿羅斯等(つぬがあらしと)が、ある日、黄牛に田器を背負わせて田舎に行くと、
知らぬ間に牛がいなくなった。
捜しているうちに老翁が現われ、こう言った。「おまえの捜している牛は郡公が殺して食ってしまった」
阿羅斯等は郡公の館に行って牛の代償を求めると、郡公は白石を与えた。
白石を持ち帰り、寝室に置くと、たちまち美女と変化したではないか。
阿羅斯等はたいそう喜んで求婚するも、美女は忽然と消えてしまった。
阿羅斯等が追い求めると、美女は海を渡って日本国に至り、比売語曽の神となった。
姫島の名前の由来はここからはじまるのだった。
姫島はかくも古代からの伝承が残る島であり、様々な伝承が島内の名所に関連づけて語り継がれてきた。
代表的なものが姫島七不思議であり、七不思議のうちの3つは比売語曽神にちなむものである。
瀬戸内海国立公園 大分県 姫島
http://www.himeshima.jp/kanko/tourist/seven/index.htm...
姫島の七不思議とは
大分県の国東半島からフェリーで20分ほど行くと、東西7キロメートルの細長い島に到着する。
それが姫島だ。
古事記によると伊邪那岐命(イザナギ)、伊邪那美命(イザナミ)の二神が『国産み』の際、
大八島のあとに続けて産んだとされる6つの島のうち、4番目に産んだ女島であるとされている。
この女島こそ姫島であったという。
また日本書記によれば、垂仁天皇の御代、意富加羅国(おほからのくに・今の韓国南部)の
王子である都怒我阿羅斯等(つぬがあらしと)が、ある日、黄牛に田器を背負わせて田舎に行くと、
知らぬ間に牛がいなくなった。
捜しているうちに老翁が現われ、こう言った。「おまえの捜している牛は郡公が殺して食ってしまった」
阿羅斯等は郡公の館に行って牛の代償を求めると、郡公は白石を与えた。
白石を持ち帰り、寝室に置くと、たちまち美女と変化したではないか。
阿羅斯等はたいそう喜んで求婚するも、美女は忽然と消えてしまった。
阿羅斯等が追い求めると、美女は海を渡って日本国に至り、比売語曽の神となった。
姫島の名前の由来はここからはじまるのだった。
姫島はかくも古代からの伝承が残る島であり、様々な伝承が島内の名所に関連づけて語り継がれてきた。
代表的なものが姫島七不思議であり、七不思議のうちの3つは比売語曽神にちなむものである。
瀬戸内海国立公園 大分県 姫島
http://www.himeshima.jp/kanko/tourist/seven/index.htm...
削除(by投稿者)
毎度ありがとうございます。知らない間に『オカルトちゃんねる』にて当スレが取り上げられたようです。
http://blog.livedoor.jp/occult12/archives/9649236.htm...
遅筆ですが、今後もボチボチ続けていく所存です。
悲しき歴史 金光坊島(こんこぶじま)
>>73でも取り上げた補陀落渡海の追記。それにまつわる島があるらしい。
井上靖の小説に、史実を元にした『補陀落渡海記』がある。
時は永禄8年(1565年)。舞台は補陀洛山寺、主人公は住職の金光坊である。
初めて補陀洛渡海をしたのは、平安初期の貞観11年(869年)に渡海した慶竜上人であった。
以来、金光坊の時代までの700年間に渡海したのは10人も満たなかったのだが、
時代変わって金光坊のころ(戦国終期)、渡海が一種のブームになってしまう。
祐信上人が渡海したのは享禄4年(1531年)で金光坊が27歳のときである。
補陀洛山寺にやって来て半年足らずの金光坊は、このとき初めて渡海の実態を知った。
寺の代々住職が渡海するのは61歳を迎えた年の11月。
住職が次々と渡海に消え、ついに56歳となった金光坊が後を継ぐことになった。
金光坊は檀家信者からの人望が厚い人物であった。
自身も時期が来れば、尊敬する師の正慶上人のように立派に渡海へ出て往生したいと願ってやまなかった。
しかしながら出立の時期が近づくにつれ、心中は穏やかではなくなるというのは、
さしもの仏に仕える身であっても悲しき人の性であろう。
先に渡海した上人たちのことを思うと、まだ渡海に向かうにあたって明鏡止水の域に至っていないことに気づかされる。
ふんぎりがつかないまま、ついに渡海する日がやってきた。
金光坊とつき従う僧らが寺を出ると、檀家を含めた見物人が大勢つめかけていた。
船に入るや、屋形がかぶせられ、釘を打って閉じこめられてしまった。 あとは暗闇。
金光坊の渡海船が3、4艘の船に曳航され、宮の浜の沖合にある綱切島まで運ばれる。
そこで一泊して同行者と別れを惜しんだのち、渡海船は大海に向けて押し出されるのだ。
ところが今回は様子がおかしい。綱切島に着くと、「上人さん、さらばですじゃ」と、声をかけられた。
嵐が近いので見送りの船はすぐに戻るという。
しかたなく金光坊は、渡海船の中で一夜をすごした。
身体がゴロゴロと転がり、痛みで目をさますと、どうやら大時化の真っ只中。
いてもたってもいられず、金光坊は闇の中の屋形から逃げようとした。
体当たりで屋形を破ったところで船は転覆。無我夢中で板子にしがみついた。
金光坊は小さな岩礁に打ち上げられているところを救助された。
実は同行の者たちは嵐が強くて戻ることができず、別の島で一夜を明かしていたのだ。
とはいえ、渡海が中断されるわけではない。同行者たちは相談したのち、金光坊を漁師の船に乗せることにした。
金光坊は抵抗したが、付き添いの役人たちは耳を貸さなかった。
急ごしらえの箱がかぶせられ、船底に釘でがっちり固定された。
そして無情にも船は黒潮に乗って流されていった……
金光坊が一度は命拾いした岩礁こそ、のちに『金光坊島』(こんこぶじま)と冠される島である。
「補陀落」信じ海のもくずに
http://www.zb.ztv.ne.jp/sgj8rw3t/cocoro_02.htm...
http://blog.livedoor.jp/occult12/archives/9649236.htm...
遅筆ですが、今後もボチボチ続けていく所存です。
悲しき歴史 金光坊島(こんこぶじま)
>>73でも取り上げた補陀落渡海の追記。それにまつわる島があるらしい。
井上靖の小説に、史実を元にした『補陀落渡海記』がある。
時は永禄8年(1565年)。舞台は補陀洛山寺、主人公は住職の金光坊である。
初めて補陀洛渡海をしたのは、平安初期の貞観11年(869年)に渡海した慶竜上人であった。
以来、金光坊の時代までの700年間に渡海したのは10人も満たなかったのだが、
時代変わって金光坊のころ(戦国終期)、渡海が一種のブームになってしまう。
祐信上人が渡海したのは享禄4年(1531年)で金光坊が27歳のときである。
補陀洛山寺にやって来て半年足らずの金光坊は、このとき初めて渡海の実態を知った。
寺の代々住職が渡海するのは61歳を迎えた年の11月。
住職が次々と渡海に消え、ついに56歳となった金光坊が後を継ぐことになった。
金光坊は檀家信者からの人望が厚い人物であった。
自身も時期が来れば、尊敬する師の正慶上人のように立派に渡海へ出て往生したいと願ってやまなかった。
しかしながら出立の時期が近づくにつれ、心中は穏やかではなくなるというのは、
さしもの仏に仕える身であっても悲しき人の性であろう。
先に渡海した上人たちのことを思うと、まだ渡海に向かうにあたって明鏡止水の域に至っていないことに気づかされる。
ふんぎりがつかないまま、ついに渡海する日がやってきた。
金光坊とつき従う僧らが寺を出ると、檀家を含めた見物人が大勢つめかけていた。
船に入るや、屋形がかぶせられ、釘を打って閉じこめられてしまった。 あとは暗闇。
金光坊の渡海船が3、4艘の船に曳航され、宮の浜の沖合にある綱切島まで運ばれる。
そこで一泊して同行者と別れを惜しんだのち、渡海船は大海に向けて押し出されるのだ。
ところが今回は様子がおかしい。綱切島に着くと、「上人さん、さらばですじゃ」と、声をかけられた。
嵐が近いので見送りの船はすぐに戻るという。
しかたなく金光坊は、渡海船の中で一夜をすごした。
身体がゴロゴロと転がり、痛みで目をさますと、どうやら大時化の真っ只中。
いてもたってもいられず、金光坊は闇の中の屋形から逃げようとした。
体当たりで屋形を破ったところで船は転覆。無我夢中で板子にしがみついた。
金光坊は小さな岩礁に打ち上げられているところを救助された。
実は同行の者たちは嵐が強くて戻ることができず、別の島で一夜を明かしていたのだ。
とはいえ、渡海が中断されるわけではない。同行者たちは相談したのち、金光坊を漁師の船に乗せることにした。
金光坊は抵抗したが、付き添いの役人たちは耳を貸さなかった。
急ごしらえの箱がかぶせられ、船底に釘でがっちり固定された。
そして無情にも船は黒潮に乗って流されていった……
金光坊が一度は命拾いした岩礁こそ、のちに『金光坊島』(こんこぶじま)と冠される島である。
「補陀落」信じ海のもくずに
http://www.zb.ztv.ne.jp/sgj8rw3t/cocoro_02.htm...
島野浦に漂着したソレは『うつろ舟』だった?
宮崎県延岡市の沖にある周囲15kmの島野浦(しまのうら)。地元民は親しみをこめて「しまんだ」と呼ぶ。
「いわしの舞う島」と言われるほど漁業が盛んで、リアス式海岸に囲まれ、
沖合にはテーブルサンゴが群生する美しい景観が広がっている。
そんな島野浦にも、風変わりな伝説が残されている。それが「メキシコ女王伝説」だ。
内容はこうだ。
江戸時代の末期、島野浦の漁師がカツオ漁に出かけていた。
その帰港の途中、波間に漂う奇妙な木箱を発見。
漁師たちはためしに拾い上げ、海藻や貝が付着した木箱を手斧で開けてみることにした。
なんと、中には白骨死体が横たわっているではないか。
フサフサの金髪の頭部に、赤や青の宝石をちりばめた黄金の冠が輝いていた。
それだけではない。死体の周りには金銀財宝で埋め尽くされていたのだ。
漁師たちの間では、せめて冠だけでも取り出そうとの意見も出たが、大方は祟りを恐れたため、
小島に埋葬することにした。(そう言いつつも、結局は多少の財宝を拝借したのだが)
そして、この事件はどんなことがあっても他言はしない、二度とこの島に上陸しないと堅く誓った。
そのころメキシコで内乱があったらしく、島民はあの白骨死体をメキシコの女王だと信じていた。
今も、海に流した女王の柩が潮に乗って漂着したのだと言い伝えている。
概要だけで考察してみると、いわゆる『うつろ舟』を想起せずにはいられない。
いずれにせよ、異文化はこのような形で流れこんでくるものだし、
そこから派生した寄り神信仰も然りである。
島野浦(しまんだ)メキシコ女王伝説
http://www.lead2001.co.jp/ritou/story/index.htm...
宮崎県延岡市の沖にある周囲15kmの島野浦(しまのうら)。地元民は親しみをこめて「しまんだ」と呼ぶ。
「いわしの舞う島」と言われるほど漁業が盛んで、リアス式海岸に囲まれ、
沖合にはテーブルサンゴが群生する美しい景観が広がっている。
そんな島野浦にも、風変わりな伝説が残されている。それが「メキシコ女王伝説」だ。
内容はこうだ。
江戸時代の末期、島野浦の漁師がカツオ漁に出かけていた。
その帰港の途中、波間に漂う奇妙な木箱を発見。
漁師たちはためしに拾い上げ、海藻や貝が付着した木箱を手斧で開けてみることにした。
なんと、中には白骨死体が横たわっているではないか。
フサフサの金髪の頭部に、赤や青の宝石をちりばめた黄金の冠が輝いていた。
それだけではない。死体の周りには金銀財宝で埋め尽くされていたのだ。
漁師たちの間では、せめて冠だけでも取り出そうとの意見も出たが、大方は祟りを恐れたため、
小島に埋葬することにした。(そう言いつつも、結局は多少の財宝を拝借したのだが)
そして、この事件はどんなことがあっても他言はしない、二度とこの島に上陸しないと堅く誓った。
そのころメキシコで内乱があったらしく、島民はあの白骨死体をメキシコの女王だと信じていた。
今も、海に流した女王の柩が潮に乗って漂着したのだと言い伝えている。
概要だけで考察してみると、いわゆる『うつろ舟』を想起せずにはいられない。
いずれにせよ、異文化はこのような形で流れこんでくるものだし、
そこから派生した寄り神信仰も然りである。
島野浦(しまんだ)メキシコ女王伝説
http://www.lead2001.co.jp/ritou/story/index.htm...
今も石塔が建っている仏島
愛知県蒲郡市、三河大島の南に位置する『仏島』。
なんともいわくありげな匂いがたちこめている。これはチェックせずにはいられないだろう。
案の定、こんな話が残っていた。
昔、三河の沖合に、干潮のときにだけ姿をあらわす岩礁だけの島があった。
この島の周りは潮の流れが速く、暗礁も多いことで知られ、たくさんの船が座礁、
もしくは沈没して多くの船乗りが命を落としていた。
それでこのあたりは『船の墓場』、『死者の海』と呼ばれ、誰ひとりとして近づく者はいなかった。
あるとき、兄弟の船乗りが村の石屋に頼まれて、大きな石塔を知多の村まで運ぶことになった。
この日は天気も潮の流れも良く、絶好の船出日和だった。
ところが、船が沖合にさしかかると、急に潮の流れが変わり、舵が利かなくなってしまう。
2人が乗った船は潮に流され、こともあろうに人々から恐れられている死者の海に来てしまった。
そのとき、積荷である石塔を結んだ綱が突然切れたかと思うと、船が傾いて石塔は海に落ち、
兄弟も海に投げ出されてしまった。
海に落ちた2人が島の方を見ると、なにやら島のてっぺんに人影が見える。
目を凝らして見れば、なんとそれは骸骨のような形相をした、恐ろしい亡者の群れが兄弟を手招きしている姿だったのだ。
これを見た2人は、死にもの狂いで泳ぎ、やっとの思いで浜にたどり着いた。
この恐ろしい出来事に懲りた兄弟は、次の航海では陸寄りの航路を取ることにした。
しかし、いざ出航するも、やはり途中から舵が利かなくなり、またぞろ死者の海へと流されてしまう。
今度ばかりは助からないだろうと、念仏を唱え出す兄弟であったが、恐る恐る島の方を見ると、
島の頂上には海に沈んだはずの石塔が建っているではないか。
これを見た兄弟は、ここで亡くなった船乗りの亡霊が、供養を求めて石塔を島に運んだのだと知った。
ここで亡くなった者たちが哀れに思え、村の衆にこの経緯を話し、石塔に供え物を捧げ、
坊さんにお経をあげてもらい、迷える死者の魂を慰めたのだった。
以来、この島は『仏島』と呼ばれるようになり、また不思議なことに、
あれほどあった暗礁も海中深くに沈み、引き潮のときだけ仏島が姿を見せるようになったという。
三河大島周辺をクルージング
http://suzukimarine.co.jp/marina/mikawamito/blog/2009/08...
愛知県蒲郡市、三河大島の南に位置する『仏島』。
なんともいわくありげな匂いがたちこめている。これはチェックせずにはいられないだろう。
案の定、こんな話が残っていた。
昔、三河の沖合に、干潮のときにだけ姿をあらわす岩礁だけの島があった。
この島の周りは潮の流れが速く、暗礁も多いことで知られ、たくさんの船が座礁、
もしくは沈没して多くの船乗りが命を落としていた。
それでこのあたりは『船の墓場』、『死者の海』と呼ばれ、誰ひとりとして近づく者はいなかった。
あるとき、兄弟の船乗りが村の石屋に頼まれて、大きな石塔を知多の村まで運ぶことになった。
この日は天気も潮の流れも良く、絶好の船出日和だった。
ところが、船が沖合にさしかかると、急に潮の流れが変わり、舵が利かなくなってしまう。
2人が乗った船は潮に流され、こともあろうに人々から恐れられている死者の海に来てしまった。
そのとき、積荷である石塔を結んだ綱が突然切れたかと思うと、船が傾いて石塔は海に落ち、
兄弟も海に投げ出されてしまった。
海に落ちた2人が島の方を見ると、なにやら島のてっぺんに人影が見える。
目を凝らして見れば、なんとそれは骸骨のような形相をした、恐ろしい亡者の群れが兄弟を手招きしている姿だったのだ。
これを見た2人は、死にもの狂いで泳ぎ、やっとの思いで浜にたどり着いた。
この恐ろしい出来事に懲りた兄弟は、次の航海では陸寄りの航路を取ることにした。
しかし、いざ出航するも、やはり途中から舵が利かなくなり、またぞろ死者の海へと流されてしまう。
今度ばかりは助からないだろうと、念仏を唱え出す兄弟であったが、恐る恐る島の方を見ると、
島の頂上には海に沈んだはずの石塔が建っているではないか。
これを見た兄弟は、ここで亡くなった船乗りの亡霊が、供養を求めて石塔を島に運んだのだと知った。
ここで亡くなった者たちが哀れに思え、村の衆にこの経緯を話し、石塔に供え物を捧げ、
坊さんにお経をあげてもらい、迷える死者の魂を慰めたのだった。
以来、この島は『仏島』と呼ばれるようになり、また不思議なことに、
あれほどあった暗礁も海中深くに沈み、引き潮のときだけ仏島が姿を見せるようになったという。
三河大島周辺をクルージング
http://suzukimarine.co.jp/marina/mikawamito/blog/2009/08...
テキ穴の人骨の正体は? 飛島
山形県酒田市の北西39kmの日本海に位置する孤島、それが飛島。
飛島は東北の日本海側で唯一の有人島である。面積2.7km、人口280人足らず。
島の歴史は古く、約6000年前の縄文時代のものと推定される遺跡が発見されている。
発掘された土器を分析したところ、東北北部の特徴があるものから、北陸の特徴のものまで、
広範囲の種類が眠っていたことが判明した。
すなわち縄文時代から飛島は、重要な文化の交流地点として機能していたことがわかる。
ところで島では、昭和39年11月に奇妙な事件が発生している。それが『テキ穴騒動』だ。
集落である勝浦と中村の境に位置する、磐の磯近い『ホグラ』に、『テキ穴』なる海蝕でできた洞窟があるのだが、
ある日、飛島中学校の生徒3人がこの穴を探検すべく中に入り、奥にある広い空間で22体分もの人骨を発見したから、
島はたちまち騒然となった。
集団自殺か、はたまた殺人か。
警察が調査するも、人骨は茶色く変色し、風化して海綿状態となっており、
長い年月が経過したものであることがわかり、事件性は薄いということで捜査は打ち切られた。
代わりに学術調査団が編成され、発掘調査がはじまったわけだ。
その結果22体の人骨は、時代や性別、年齢層もバラバラで、一番古いもので、なんと平安時代にまで遡るという。
現在は洞窟と海は道路が敷かれて遮断されているが、かつて洞窟の入口は海に面していたのだ。
流れてきた水死体が波によって洞窟内に入りこみ、そこに堆積していたとも考えられる。
だとすれば、波に流された人骨もあったろうから、22人分の遺骨だけで済まないかもしれない。
じつのところ、ほかにもいろんな仮説があり、どれもが決定打に欠けるのだ。
『テキ穴』は、大昔、島の住人の墓場だったという説、
火を焚いた痕跡もあることから、単なる住居だった説、
海賊が住んでいた説、あるいは人身御供として贄が入れられた説があり、想像が尽きない。
それにしても『テキ穴』の名前の由来はなんであろう。なにか不安をかきたてるネーミングではある。
『北狄』(ほくてき)や『夷狄』(いてき)という、蝦夷と同義の野蛮人を指す『テキ』ではあるまいかという人もいる。
テキ穴を住処とするは、たがために?
http://doune.blog82.fc2.com/blog-entry-495.htm...
不思議アイランド「飛島」
http://blogs.yahoo.co.jp/mas_k2513/13548810.html...
山形県酒田市の北西39kmの日本海に位置する孤島、それが飛島。
飛島は東北の日本海側で唯一の有人島である。面積2.7km、人口280人足らず。
島の歴史は古く、約6000年前の縄文時代のものと推定される遺跡が発見されている。
発掘された土器を分析したところ、東北北部の特徴があるものから、北陸の特徴のものまで、
広範囲の種類が眠っていたことが判明した。
すなわち縄文時代から飛島は、重要な文化の交流地点として機能していたことがわかる。
ところで島では、昭和39年11月に奇妙な事件が発生している。それが『テキ穴騒動』だ。
集落である勝浦と中村の境に位置する、磐の磯近い『ホグラ』に、『テキ穴』なる海蝕でできた洞窟があるのだが、
ある日、飛島中学校の生徒3人がこの穴を探検すべく中に入り、奥にある広い空間で22体分もの人骨を発見したから、
島はたちまち騒然となった。
集団自殺か、はたまた殺人か。
警察が調査するも、人骨は茶色く変色し、風化して海綿状態となっており、
長い年月が経過したものであることがわかり、事件性は薄いということで捜査は打ち切られた。
代わりに学術調査団が編成され、発掘調査がはじまったわけだ。
その結果22体の人骨は、時代や性別、年齢層もバラバラで、一番古いもので、なんと平安時代にまで遡るという。
現在は洞窟と海は道路が敷かれて遮断されているが、かつて洞窟の入口は海に面していたのだ。
流れてきた水死体が波によって洞窟内に入りこみ、そこに堆積していたとも考えられる。
だとすれば、波に流された人骨もあったろうから、22人分の遺骨だけで済まないかもしれない。
じつのところ、ほかにもいろんな仮説があり、どれもが決定打に欠けるのだ。
『テキ穴』は、大昔、島の住人の墓場だったという説、
火を焚いた痕跡もあることから、単なる住居だった説、
海賊が住んでいた説、あるいは人身御供として贄が入れられた説があり、想像が尽きない。
それにしても『テキ穴』の名前の由来はなんであろう。なにか不安をかきたてるネーミングではある。
『北狄』(ほくてき)や『夷狄』(いてき)という、蝦夷と同義の野蛮人を指す『テキ』ではあるまいかという人もいる。
テキ穴を住処とするは、たがために?
http://doune.blog82.fc2.com/blog-entry-495.htm...
不思議アイランド「飛島」
http://blogs.yahoo.co.jp/mas_k2513/13548810.html...
仮面神は硫黄島にもあった
硫黄島 八朔踊り
http://amahorizon.exblog.jp/13212309...
硫黄島八朔太鼓踊
http://webcache.googleusercontent.com/search?q=cache:http://www.iuk....‾matubara/geino/matsuritogeino/taikoodori/iojimahassakutaiko.html
硫黄島 八朔踊り
http://amahorizon.exblog.jp/13212309...
硫黄島八朔太鼓踊
http://webcache.googleusercontent.com/search?q=cache:http://www.iuk....‾matubara/geino/matsuritogeino/taikoodori/iojimahassakutaiko.html
高額当選者が続出だって? 高島の宝当神社(ほうとうじんじゃ)
なんと、とある神社で参拝すると宝くじの当選確率が高くなるという、
にわかには信じがたい島が佐賀県は唐津市にあるそうな。それが高島である。
高島には島の守り神として、島民に慕われている神社がある。野崎隠岐守綱吉なる戦国時代の武将を祀ったものらしい。
綱吉は1554(天文23)年、信州の諏訪に生を授かった。幼いころより文武両道だった綱吉は戦のたびに手柄を立てた。
ところが、その有能さを家臣に妬まれて居場所を失い、西へと流浪し1573年、この高島に移住を決意。
当時、島民たちはせっかく収穫した農作物などを海賊に略奪される災難にあっていた。
綱吉は一肌脱ぐことを誓った。ある日、例のごとく海賊が島民が収穫したばかりの農作物を奪い、
船に乗りこもうとしているところを、綱吉は疾風のごとく追い船に飛び移るや否や、その怪力無双の力で帆柱を引き抜き、
海賊たちをなぎ倒したのだ。
襲いかかっきた海賊を相手に、綱吉自身も負傷しながらも、たった1人で複数の海賊を蹴散らしてしまった。
かろうじて生き残った海賊の数人は、島民から奪ったものを差し出して降参宣言。これにて一件落着と相成ったわけだ。
その後、海賊仲間に綱吉の武勇伝は伝播し、高島は二度と海賊の標的にされなくなったという。
島の平和を取り戻し、島民の誰もに慕われた綱吉だったが、32歳の若さで病死したとのこと。
とはいえ、そのリスペクトぶりはすごい。現在、高島では、多くの住人が野崎姓を名乗っているほどだから。
その綱吉が祀られている宝当神社だが、ここには毎年サマージャンボや年末ジャンボが売り出される時期になると、
全国からこぞって一攫千金を狙う人々が神頼みにやってくるという。年間だけで約15万人もの来客があるというから、
知る人ぞ知るということなのだう。
参拝後、みごと宝くじが当たったとお礼状が社内に飾ってあるのだが1等、2等の高額当選者はめずらしくないんだとか。
これも綱吉の善行のなせるわざなのだろうか。野崎隠岐守綱吉は死しても英雄なのだ。
宝当神社の歴史
http://jinja.ehoh.net/b.htm...
宝当神社参拝ガイド
http://houtou.uresii.biz/index.htm...
なんと、とある神社で参拝すると宝くじの当選確率が高くなるという、
にわかには信じがたい島が佐賀県は唐津市にあるそうな。それが高島である。
高島には島の守り神として、島民に慕われている神社がある。野崎隠岐守綱吉なる戦国時代の武将を祀ったものらしい。
綱吉は1554(天文23)年、信州の諏訪に生を授かった。幼いころより文武両道だった綱吉は戦のたびに手柄を立てた。
ところが、その有能さを家臣に妬まれて居場所を失い、西へと流浪し1573年、この高島に移住を決意。
当時、島民たちはせっかく収穫した農作物などを海賊に略奪される災難にあっていた。
綱吉は一肌脱ぐことを誓った。ある日、例のごとく海賊が島民が収穫したばかりの農作物を奪い、
船に乗りこもうとしているところを、綱吉は疾風のごとく追い船に飛び移るや否や、その怪力無双の力で帆柱を引き抜き、
海賊たちをなぎ倒したのだ。
襲いかかっきた海賊を相手に、綱吉自身も負傷しながらも、たった1人で複数の海賊を蹴散らしてしまった。
かろうじて生き残った海賊の数人は、島民から奪ったものを差し出して降参宣言。これにて一件落着と相成ったわけだ。
その後、海賊仲間に綱吉の武勇伝は伝播し、高島は二度と海賊の標的にされなくなったという。
島の平和を取り戻し、島民の誰もに慕われた綱吉だったが、32歳の若さで病死したとのこと。
とはいえ、そのリスペクトぶりはすごい。現在、高島では、多くの住人が野崎姓を名乗っているほどだから。
その綱吉が祀られている宝当神社だが、ここには毎年サマージャンボや年末ジャンボが売り出される時期になると、
全国からこぞって一攫千金を狙う人々が神頼みにやってくるという。年間だけで約15万人もの来客があるというから、
知る人ぞ知るということなのだう。
参拝後、みごと宝くじが当たったとお礼状が社内に飾ってあるのだが1等、2等の高額当選者はめずらしくないんだとか。
これも綱吉の善行のなせるわざなのだろうか。野崎隠岐守綱吉は死しても英雄なのだ。
宝当神社の歴史
http://jinja.ehoh.net/b.htm...
宝当神社参拝ガイド
http://houtou.uresii.biz/index.htm...
妖怪『素麺婆』は実在した? 直島
瀬戸内海上に浮かぶ直島。
地元では江戸時代初期から、魔物と化したばあさんが住みついていると信じられてきた小川がある。
その言い伝えがこんな内容だ。
あるとき、村人の法要に出向いた僧侶は精進落としのそうめんと酒を振舞われた。
満腹になり、酔いも回った。夕方になったので、帰途に着くことに。
暗い山越えの道の途中、のどの渇きを憶えた僧侶は小川を見つけた。
近づくと、川面にざんばら髪の見るからに怪しい老婆が現れたではないか。
「水を飲んで休んでいかれたらよろし」と、老婆が言った。
僧侶は訝しげに思いつつも小川の前でひざまずき、水を飲み始めた。
老婆はその隙を見逃さなかった。僧侶を川に引きずりこむと殺してしまったのだ。
老婆の蛮行はそれだけにとどまらない。僧侶の腹を裂くと、胃袋から未消化のそうめんをつかみ出し、
川の水でそうめんをすすいでからズルズルと食らったのだ。
それ以来、幾度となくこの小川で人が殺され、腹を裂かれては食べたばかりのそうめんを食べる老婆が目撃された。
……と、概要からすれば荒唐無稽な話だが、ごく近年にまで目撃談があり、
ありきたりな妖怪話で済まされないのが興味深い。
実はこの『そうめん川』の近くに屋敷があり、鶏の屠殺を生業とする老婆(目撃談によると、
40代だったともされている)が、神格化ならぬ『妖怪化』されて作られた妖怪だったらしい。
伝説のそうめんばばあ屋敷跡を新聞社取材班が発見
http://matome.naver.jp/odai/213308944301439310...
瀬戸内海上に浮かぶ直島。
地元では江戸時代初期から、魔物と化したばあさんが住みついていると信じられてきた小川がある。
その言い伝えがこんな内容だ。
あるとき、村人の法要に出向いた僧侶は精進落としのそうめんと酒を振舞われた。
満腹になり、酔いも回った。夕方になったので、帰途に着くことに。
暗い山越えの道の途中、のどの渇きを憶えた僧侶は小川を見つけた。
近づくと、川面にざんばら髪の見るからに怪しい老婆が現れたではないか。
「水を飲んで休んでいかれたらよろし」と、老婆が言った。
僧侶は訝しげに思いつつも小川の前でひざまずき、水を飲み始めた。
老婆はその隙を見逃さなかった。僧侶を川に引きずりこむと殺してしまったのだ。
老婆の蛮行はそれだけにとどまらない。僧侶の腹を裂くと、胃袋から未消化のそうめんをつかみ出し、
川の水でそうめんをすすいでからズルズルと食らったのだ。
それ以来、幾度となくこの小川で人が殺され、腹を裂かれては食べたばかりのそうめんを食べる老婆が目撃された。
……と、概要からすれば荒唐無稽な話だが、ごく近年にまで目撃談があり、
ありきたりな妖怪話で済まされないのが興味深い。
実はこの『そうめん川』の近くに屋敷があり、鶏の屠殺を生業とする老婆(目撃談によると、
40代だったともされている)が、神格化ならぬ『妖怪化』されて作られた妖怪だったらしい。
伝説のそうめんばばあ屋敷跡を新聞社取材班が発見
http://matome.naver.jp/odai/213308944301439310...
悲しき口減らし 八丈島の『人捨穴』
東京から287km離れた絶海の孤島、八丈島。
かつて日本では罪人に対する刑罰『流罪』があった。言うまでもなく流罪は別名『島流しの刑』であり、
最高刑である死罪に次ぐ重い刑だった。
八丈島が流刑の地として選ばれた理由のひとつに、黒潮の流れが速いことから『島破り』『島抜け』
(島からの脱走)が困難だったためとされている。
関ヶ原の戦いで西軍石田三成方に属した宇喜多秀家を筆頭に、その後、
明治初期に流罪が廃止されるまで八丈島には1900人近くの流人が送られてきた。
流刑地といえば聞こえは悪いが、流罪を言い渡される罪人は暴力犯よりも政治犯がほとんどであった。
そして政治犯の多くは文化人であり、元は貴族等位の高い者であった。
したがって、そのような人物が大勢流される島には豊かな文化が伝えられ、栄える事例もめずらしくなかったが、
それには流人を温かく迎え入れた島民の寛大な心のおかげだったからこそである。
むしろ島民の方こそ情報が欲しくて、積極的に流人を招き入れたほどであった。
さて、その八丈島と言えども、かつては食べるに困り、泣く泣く家族を口減らしにした悲しき歴史があった。
陸の孤島はただですら食料が乏しい。1822(文政5年)、新島からさつまいもが八丈島に伝播するまで慢性的飢饉が続き、
ついに島民は緊急避難として家族を間引きすることを決意したのだ。
三原山を分け入った先にその穴はあるという。『人捨穴』と呼ばれる穴が。
その昔、島では高齢を迎えた老人たちが男女問わずここへ連れてこられ放置された(ほとんどが自主的だったとも)。
穴に入れられた老人たちは何も口にせず、ただ死を待つのみであった。
はたして暗闇の向こうに、島の希望の灯火が見えたのだろうか?
西高東低波高し!!温泉だらけの八丈島旅行 part6 人捨穴
http://tripvader.jugem.jp/?eid=30...
聖堂の詩その7—人捨て穴
http://blog.goo.ne.jp/soujyakuwakasa/e/98553cb551aaf...
江戸時代の人口調整方法
http://www.systemicsarchive.com/ja/a/population.htm...
東京から287km離れた絶海の孤島、八丈島。
かつて日本では罪人に対する刑罰『流罪』があった。言うまでもなく流罪は別名『島流しの刑』であり、
最高刑である死罪に次ぐ重い刑だった。
八丈島が流刑の地として選ばれた理由のひとつに、黒潮の流れが速いことから『島破り』『島抜け』
(島からの脱走)が困難だったためとされている。
関ヶ原の戦いで西軍石田三成方に属した宇喜多秀家を筆頭に、その後、
明治初期に流罪が廃止されるまで八丈島には1900人近くの流人が送られてきた。
流刑地といえば聞こえは悪いが、流罪を言い渡される罪人は暴力犯よりも政治犯がほとんどであった。
そして政治犯の多くは文化人であり、元は貴族等位の高い者であった。
したがって、そのような人物が大勢流される島には豊かな文化が伝えられ、栄える事例もめずらしくなかったが、
それには流人を温かく迎え入れた島民の寛大な心のおかげだったからこそである。
むしろ島民の方こそ情報が欲しくて、積極的に流人を招き入れたほどであった。
さて、その八丈島と言えども、かつては食べるに困り、泣く泣く家族を口減らしにした悲しき歴史があった。
陸の孤島はただですら食料が乏しい。1822(文政5年)、新島からさつまいもが八丈島に伝播するまで慢性的飢饉が続き、
ついに島民は緊急避難として家族を間引きすることを決意したのだ。
三原山を分け入った先にその穴はあるという。『人捨穴』と呼ばれる穴が。
その昔、島では高齢を迎えた老人たちが男女問わずここへ連れてこられ放置された(ほとんどが自主的だったとも)。
穴に入れられた老人たちは何も口にせず、ただ死を待つのみであった。
はたして暗闇の向こうに、島の希望の灯火が見えたのだろうか?
西高東低波高し!!温泉だらけの八丈島旅行 part6 人捨穴
http://tripvader.jugem.jp/?eid=30...
聖堂の詩その7—人捨て穴
http://blog.goo.ne.jp/soujyakuwakasa/e/98553cb551aaf...
江戸時代の人口調整方法
http://www.systemicsarchive.com/ja/a/population.htm...
52:天之御名無主 :02/02/08 06:17
15年ぐらい前にNHKで見たレポートで、瀬戸内海のとある島ではいまだにある風習が続いていて、
それはその島の子供が16歳になると、絶対にセックスをしなくてはならないものでした。
ルールはこう。
その祭りは一定期間内に行われるもので、祭りになると男・女それぞれ3〜4人同士でとある家に集まり、
3日ぐらい共同生活を続けます。
そこで気の合う同士で事を行うのですが、選択権があるのは男子だけで、
指名を受けた女子には拒否権がありません。
可愛い1番人気の子には、当然、バッティングもあり得るのですが、
そうなると親同士の話し合いで、決着を付けなければなりません。
引き下がった男子は、他の女子を指名しなくてはなりません。
例え相手が凄いブサイクでもセックスしなくては一家の恥なのですから。
すなわち、何が何でもペアにならなくてはならないのです。
セックスする順番にもルールがあったはずなのですが、忘れてしまいました。
ペアになると両家の親同士があつまり、隣の部屋でセックスする自分たちの子供の様子を
伺うそうです。
親たちは伺いながら興奮するどころか、上手く仲良くなれるかが心配で仕方ないとか
なんとか言ってたことを覚えています。
勿論、TVではセックスの場面などは映すわけが無く、家に集まった子供たちが
ダベリあってる場面とか、親たちの顔を写してるだけでしたが、
この放送を見た当時はまじでショックでした。
どうしてこの島に生まれなかったのだろうかと。
だれかこの話に心当たりがある人、見てないかな?
70:天之御名無主 :02/04/20 15:50
>>52
夢と希望をありがとう・・・
15年ぐらい前にNHKで見たレポートで、瀬戸内海のとある島ではいまだにある風習が続いていて、
それはその島の子供が16歳になると、絶対にセックスをしなくてはならないものでした。
ルールはこう。
その祭りは一定期間内に行われるもので、祭りになると男・女それぞれ3〜4人同士でとある家に集まり、
3日ぐらい共同生活を続けます。
そこで気の合う同士で事を行うのですが、選択権があるのは男子だけで、
指名を受けた女子には拒否権がありません。
可愛い1番人気の子には、当然、バッティングもあり得るのですが、
そうなると親同士の話し合いで、決着を付けなければなりません。
引き下がった男子は、他の女子を指名しなくてはなりません。
例え相手が凄いブサイクでもセックスしなくては一家の恥なのですから。
すなわち、何が何でもペアにならなくてはならないのです。
セックスする順番にもルールがあったはずなのですが、忘れてしまいました。
ペアになると両家の親同士があつまり、隣の部屋でセックスする自分たちの子供の様子を
伺うそうです。
親たちは伺いながら興奮するどころか、上手く仲良くなれるかが心配で仕方ないとか
なんとか言ってたことを覚えています。
勿論、TVではセックスの場面などは映すわけが無く、家に集まった子供たちが
ダベリあってる場面とか、親たちの顔を写してるだけでしたが、
この放送を見た当時はまじでショックでした。
どうしてこの島に生まれなかったのだろうかと。
だれかこの話に心当たりがある人、見てないかな?
70:天之御名無主 :02/04/20 15:50
>>52
夢と希望をありがとう・・・
日本のアトランティス 瓜生島
その島は伝説そのものである。
大分県の別府湾には、かつて瓜生島と呼ばれる島があったと言われている。
大分市の沖合500mほどの位置にあったといい、周囲約12km、人口は5000人を擁し、
港町として賑わいを見せていたとされている。
ところが1596(文禄5)年に起きた大地震により崩壊、津波に飲みこまれ、島はたった1日にして海底に沈んだというのだ。
地震については、ポルトガル人宣教師ルイス・フロイスが、「九州にある太閤の海港が地震によって被害を受けた」と言及しているうえ、
実際に起きた地震であったことが現在研究で判明している。慶長豊後地震を示唆しているのではないかとの見解を出している。
震源地は別府湾南東部で、マグニチュード7.0程度の地震が起きたものだったらしい。
もっとも、1699(元禄12)年に記された『豊府聞書』なる瓜生島についての書物があるのだが、
いかんせん地震から100年以上あとの記述であるため信憑性に欠けるとして、いまだ伝説の域から脱しきれていないのが現状である。
島には古老の口伝により言い伝えが語り継がれてきた。
それはこんな内容だった。「瓜生島に住む人々は仲良くしなくてはならぬ。一人でも仲たがいをする者があれば、
神仏の怒りに触れ、島は海中に沈んでしまう。その前兆として、守り神ののえびす様のお顔が真赤になる」
この言い伝えを鼻で笑った申引村(さからすむら)に住む加藤良斎という医者が、悪ふざけのつもりでえびす様の顔を真っ赤に塗ってしまう。
奇しくも地震が頻発し、やがて大津波が島を襲い、一夜にして島は跡形もなく消えてしまったというのだ。
専門家の音波探査機による調査では、まさしく瓜生島があったとされる位置の海底に地層の乱れが示された。
東西約2.2km、頂点から底辺までが約2.5kmのトライアングルゾーンに、多量の土砂が堆積していることが明らかとなったのだ。
これが伝説の島の名残であろうか……。
瓜生島沈没ー日本のアトランティス物語
http://www.ailab7.com/uryuu.htm...
瓜生島 “沈んだ島”の虚像と実像
http://homepage3.nifty.com/boumurou/island/10/uryujima.ht...
その島は伝説そのものである。
大分県の別府湾には、かつて瓜生島と呼ばれる島があったと言われている。
大分市の沖合500mほどの位置にあったといい、周囲約12km、人口は5000人を擁し、
港町として賑わいを見せていたとされている。
ところが1596(文禄5)年に起きた大地震により崩壊、津波に飲みこまれ、島はたった1日にして海底に沈んだというのだ。
地震については、ポルトガル人宣教師ルイス・フロイスが、「九州にある太閤の海港が地震によって被害を受けた」と言及しているうえ、
実際に起きた地震であったことが現在研究で判明している。慶長豊後地震を示唆しているのではないかとの見解を出している。
震源地は別府湾南東部で、マグニチュード7.0程度の地震が起きたものだったらしい。
もっとも、1699(元禄12)年に記された『豊府聞書』なる瓜生島についての書物があるのだが、
いかんせん地震から100年以上あとの記述であるため信憑性に欠けるとして、いまだ伝説の域から脱しきれていないのが現状である。
島には古老の口伝により言い伝えが語り継がれてきた。
それはこんな内容だった。「瓜生島に住む人々は仲良くしなくてはならぬ。一人でも仲たがいをする者があれば、
神仏の怒りに触れ、島は海中に沈んでしまう。その前兆として、守り神ののえびす様のお顔が真赤になる」
この言い伝えを鼻で笑った申引村(さからすむら)に住む加藤良斎という医者が、悪ふざけのつもりでえびす様の顔を真っ赤に塗ってしまう。
奇しくも地震が頻発し、やがて大津波が島を襲い、一夜にして島は跡形もなく消えてしまったというのだ。
専門家の音波探査機による調査では、まさしく瓜生島があったとされる位置の海底に地層の乱れが示された。
東西約2.2km、頂点から底辺までが約2.5kmのトライアングルゾーンに、多量の土砂が堆積していることが明らかとなったのだ。
これが伝説の島の名残であろうか……。
瓜生島沈没ー日本のアトランティス物語
http://www.ailab7.com/uryuu.htm...
瓜生島 “沈んだ島”の虚像と実像
http://homepage3.nifty.com/boumurou/island/10/uryujima.ht...
しめ縄の向こうは常世 夫婦岩
三重県伊勢市の二見興玉神社にある夫婦岩は、一般的に夫婦円満や家内安全、海上保安、
大漁追福の象徴であり祈願祈念でもあるが、古くは古神道における磐座信仰とされ、
自然に存在する巨石、岩、山を御神体とし、神が宿る場所として崇められてきた。
それを注連縄で飾り、鳥居を備えたりして、神が鎮座する証としている。
夫婦岩の大きさは、男岩(おいわ)で高さ9m、女岩(めいわ)は高さ4m、2つの岩を結ぶ大注連縄の長さは35mを誇り、
男岩には16m、女岩に10m巻かれ、その間が9mあるそうだ。
夫婦岩は、沖合660mの海中に鎮まる興玉神石の鳥居と見なされており、日の出の遥拝所として古くから知られ、
両岩の間からの日の出は、5月から7月頃が見ごろである。
男岩と女岩を結ぶ大注連縄は、『結界の縄』と称され、注連縄の向こうを常世神(とこよのかみ)が
太平洋の彼方から寄りつく聖なる場所、そして手前を俗世という隔たりを表している。
この大注連縄は、文保年間(1317〜1319年)には張られていたらしく、現在も氏子たちにより年3回、
張替え神事が行われている。
『古事記』においても夫婦の神話が多くあり、イザナギとイザナミ、サルタヒコとアメノウズメなどの物語があり、
これらが賽の神(さいのかみ)や道祖神になり、磐座信仰と変遷していったと考えられている。
このことから地蔵や道祖神において夫婦が一体となってかたどられたり、
2つの大小の岩や石像が一対となったものが祀られているものは、全国に多い。
胸を焦がす、二見の海の彼方に常世の国
http://beniiwa.blog97.fc2.com/blog-entry-816.htm...
三重県伊勢市の二見興玉神社にある夫婦岩は、一般的に夫婦円満や家内安全、海上保安、
大漁追福の象徴であり祈願祈念でもあるが、古くは古神道における磐座信仰とされ、
自然に存在する巨石、岩、山を御神体とし、神が宿る場所として崇められてきた。
それを注連縄で飾り、鳥居を備えたりして、神が鎮座する証としている。
夫婦岩の大きさは、男岩(おいわ)で高さ9m、女岩(めいわ)は高さ4m、2つの岩を結ぶ大注連縄の長さは35mを誇り、
男岩には16m、女岩に10m巻かれ、その間が9mあるそうだ。
夫婦岩は、沖合660mの海中に鎮まる興玉神石の鳥居と見なされており、日の出の遥拝所として古くから知られ、
両岩の間からの日の出は、5月から7月頃が見ごろである。
男岩と女岩を結ぶ大注連縄は、『結界の縄』と称され、注連縄の向こうを常世神(とこよのかみ)が
太平洋の彼方から寄りつく聖なる場所、そして手前を俗世という隔たりを表している。
この大注連縄は、文保年間(1317〜1319年)には張られていたらしく、現在も氏子たちにより年3回、
張替え神事が行われている。
『古事記』においても夫婦の神話が多くあり、イザナギとイザナミ、サルタヒコとアメノウズメなどの物語があり、
これらが賽の神(さいのかみ)や道祖神になり、磐座信仰と変遷していったと考えられている。
このことから地蔵や道祖神において夫婦が一体となってかたどられたり、
2つの大小の岩や石像が一対となったものが祀られているものは、全国に多い。
胸を焦がす、二見の海の彼方に常世の国
http://beniiwa.blog97.fc2.com/blog-entry-816.htm...
まるで要塞 四阪島(しさかじま)
その島の佇まいは軍艦島にそっくり。
軍艦島こと端島が炭鉱専用の島だったのに対し、四阪島は島全体が銅山の製錬所だ。
四阪島は、瀬戸内海の燧灘(ひうちなだ)、大島 (愛媛県今治市)の南東約10km、愛媛県新居浜市の北約20kmに浮かぶ島である。
正確には、家ノ島、美濃島、明神島、鼠島、梶島の5つの島で構成されるが、一般に四阪島と呼ばれる。
現在、島は住友金属鉱山の工場があり、全島同社の管理下となっている。人口はゼロ、従業員だけが定期船で行き来している。
1691(元禄4)年に別子銅山が開坑して以来、住友は銅の製錬事業所を別子銅山麓の山根地区、新居浜港地区と移してきた。
しかし、いずれも亜硫酸ガスによる煙害の問題により木が大量に枯死。
やむなく1905(明治38)年1月、当時の別子銅山の支配人、伊庭貞剛が新居浜市北方沖合20kmの無人島である四阪島に移転を命じた。
製錬所造成時には、家ノ島と美濃島は埋め立てられ陸続きとなり、家ノ島に精錬所、美濃島には社宅等が設置された。
1922(大正11)年には海底ケーブルにより新居浜市から電気が供給。これらにより、同島は別子銅山の製錬所として大きく発展し、
人口は大正時代に最大5500人を超え、昭和30年代においても4000人近くにのぼった。
しかしながら、精錬所が四阪島に移転したことにより、煙害はかえって広範囲に広がる悪循環となる。
被害は1939(昭和14)年の硫煙処理装置の設置まで続いた。
別子銅山の閉山、新居浜東予精錬所の操業開始により、精錬所としての重要性は低下、順次合理化が図られ、
1976(昭和51)年12月に溶鉱炉の火は消え、1977(昭和52)年4月には一部の工場関係者を除いて島を離れた。
同じように瀬戸内の離島で大正以降三菱の銅精錬の島となった香川県直島と同じような繁栄と煙害の道を歩んだが、
もとから集落の栄えていた直島と異なり、四阪島は1988(昭和63)年以降人口ゼロの島となった。
71年間に精錬した銅は約220万トンにのぼるという。
ただ、1977(昭和52)年には住友金属鉱山酸化亜鉛の製造工場が完成、従業員が新居浜港から船で通勤することとなった。
工場は現在も稼動中であり、毎日新居浜港から事業用の定期便の船が出ており、島内には50人前後の人が従事している。
大島 『産業遺産の残る四阪島』 見学
http://www.cyclo-shimanami.com/point/oshima/post-70.ph...
幻の廃墟島 1/5
http://www.geocities.jp/teamhaikyo/kouzan/sisaka/sisak...
その島の佇まいは軍艦島にそっくり。
軍艦島こと端島が炭鉱専用の島だったのに対し、四阪島は島全体が銅山の製錬所だ。
四阪島は、瀬戸内海の燧灘(ひうちなだ)、大島 (愛媛県今治市)の南東約10km、愛媛県新居浜市の北約20kmに浮かぶ島である。
正確には、家ノ島、美濃島、明神島、鼠島、梶島の5つの島で構成されるが、一般に四阪島と呼ばれる。
現在、島は住友金属鉱山の工場があり、全島同社の管理下となっている。人口はゼロ、従業員だけが定期船で行き来している。
1691(元禄4)年に別子銅山が開坑して以来、住友は銅の製錬事業所を別子銅山麓の山根地区、新居浜港地区と移してきた。
しかし、いずれも亜硫酸ガスによる煙害の問題により木が大量に枯死。
やむなく1905(明治38)年1月、当時の別子銅山の支配人、伊庭貞剛が新居浜市北方沖合20kmの無人島である四阪島に移転を命じた。
製錬所造成時には、家ノ島と美濃島は埋め立てられ陸続きとなり、家ノ島に精錬所、美濃島には社宅等が設置された。
1922(大正11)年には海底ケーブルにより新居浜市から電気が供給。これらにより、同島は別子銅山の製錬所として大きく発展し、
人口は大正時代に最大5500人を超え、昭和30年代においても4000人近くにのぼった。
しかしながら、精錬所が四阪島に移転したことにより、煙害はかえって広範囲に広がる悪循環となる。
被害は1939(昭和14)年の硫煙処理装置の設置まで続いた。
別子銅山の閉山、新居浜東予精錬所の操業開始により、精錬所としての重要性は低下、順次合理化が図られ、
1976(昭和51)年12月に溶鉱炉の火は消え、1977(昭和52)年4月には一部の工場関係者を除いて島を離れた。
同じように瀬戸内の離島で大正以降三菱の銅精錬の島となった香川県直島と同じような繁栄と煙害の道を歩んだが、
もとから集落の栄えていた直島と異なり、四阪島は1988(昭和63)年以降人口ゼロの島となった。
71年間に精錬した銅は約220万トンにのぼるという。
ただ、1977(昭和52)年には住友金属鉱山酸化亜鉛の製造工場が完成、従業員が新居浜港から船で通勤することとなった。
工場は現在も稼動中であり、毎日新居浜港から事業用の定期便の船が出ており、島内には50人前後の人が従事している。
大島 『産業遺産の残る四阪島』 見学
http://www.cyclo-shimanami.com/point/oshima/post-70.ph...
幻の廃墟島 1/5
http://www.geocities.jp/teamhaikyo/kouzan/sisaka/sisak...
補陀落渡海追記3
僕の自宅から車で走ること50分足らずのところに、和歌山県は那智勝浦町の補陀落山寺がある。
このスレッドに紹介しておきながら、今の今まで訪れなかったのは怠慢以外のなにものでもあるまい。
思い立ったが吉日。さっそく今日の朝、足を運んだのだ。
那智勝浦町浜の宮の国道43号線沿いにその寺はあるのだが、どちらかと言うと、
さらにこの道を進んだ先にある名勝、那智の滝の方が全国的に知名度が高いだろう(ちなみにこの道中こそ、
昨年9月の紀伊半島豪雨で甚大な被害をもたらしたエリアでもある)。
土日となると那智の滝は観光客でごった返すものだが、案の定、アングラ的な存在の補陀落山寺は訪れる客もまばらであった。
境内はそこそこ広いが、閑散とした雰囲気。
かるく樹齢500年は超えていそうな極太の杉の大木がそそり立ち、はるか上は樹冠で太陽光が遮られ、
炎天下にさらされた駐車場とは打って変わってひんやりしていた。
そのなかで一際目を引くのは、やはり渡海船の原寸大の模型だ。
屋形を取り囲むようにして取り付けられた4つの鳥居。それぞれが『発心門』『修行門』『菩薩門』『涅槃門』の4門を意味している。
修験道の葬送作法によれば、死者はこの4門をくぐって浄土往生すると考えられていた。
同時に、渡海船がそのまま葬送の場(殯・もがり)であったともいえる。
殯 Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AE%A...
僕の自宅から車で走ること50分足らずのところに、和歌山県は那智勝浦町の補陀落山寺がある。
このスレッドに紹介しておきながら、今の今まで訪れなかったのは怠慢以外のなにものでもあるまい。
思い立ったが吉日。さっそく今日の朝、足を運んだのだ。
那智勝浦町浜の宮の国道43号線沿いにその寺はあるのだが、どちらかと言うと、
さらにこの道を進んだ先にある名勝、那智の滝の方が全国的に知名度が高いだろう(ちなみにこの道中こそ、
昨年9月の紀伊半島豪雨で甚大な被害をもたらしたエリアでもある)。
土日となると那智の滝は観光客でごった返すものだが、案の定、アングラ的な存在の補陀落山寺は訪れる客もまばらであった。
境内はそこそこ広いが、閑散とした雰囲気。
かるく樹齢500年は超えていそうな極太の杉の大木がそそり立ち、はるか上は樹冠で太陽光が遮られ、
炎天下にさらされた駐車場とは打って変わってひんやりしていた。
そのなかで一際目を引くのは、やはり渡海船の原寸大の模型だ。
屋形を取り囲むようにして取り付けられた4つの鳥居。それぞれが『発心門』『修行門』『菩薩門』『涅槃門』の4門を意味している。
修験道の葬送作法によれば、死者はこの4門をくぐって浄土往生すると考えられていた。
同時に、渡海船がそのまま葬送の場(殯・もがり)であったともいえる。
殯 Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AE%A...
補陀落渡海追記4
平成5年5月、地元の南紀州新聞社の企画、補陀落山寺の高木亮享住職、高木亮英副住職の監修のもと、
渡海船が再現された。
戸板で塞ぐ前の小窓から屋形内をデジカメでパチリ。たぶんこれはめずらしいショットのはず。
ネットで検索しても、みんな不謹慎がってか、こんな大胆な画を撮っていないと思われる(見えるのは明和水産の当スレだけ!)。
サイズを示す小道具と一緒に写すべきだった。気が利かず申し訳ない。
のぞいた感じ、内部は常時、座った体勢しかとれないようだった。こんな狭い場所に僧たちは閉じこめられたのだ。
座禅を組み、お経を唱え続けるのが最後のつとめだっただろう。
とはいえ現実は波に翻弄されれば、壁や天井にしたたか身体を打ちつけたはずだ。
閉所恐怖にくわえ迫りくる死の恐怖。気が狂ってしまう僧がいたとして、誰が非難できようか?
水や食料、灯火の油など、ひと月分備蓄したうえで船出したとのことだが、はたして糞尿の処理はどうしたのか?
この件に関しては、再度補陀落山寺に訪れたときの課題としておこう。
もっとも、この模型とて正確な資料が現存していたわけではなく、かなり脚色が混じっているという。
画像をご覧になれば一目瞭然、皿ビスが写っているのはご愛嬌ということで。
平成5年5月、地元の南紀州新聞社の企画、補陀落山寺の高木亮享住職、高木亮英副住職の監修のもと、
渡海船が再現された。
戸板で塞ぐ前の小窓から屋形内をデジカメでパチリ。たぶんこれはめずらしいショットのはず。
ネットで検索しても、みんな不謹慎がってか、こんな大胆な画を撮っていないと思われる(見えるのは明和水産の当スレだけ!)。
サイズを示す小道具と一緒に写すべきだった。気が利かず申し訳ない。
のぞいた感じ、内部は常時、座った体勢しかとれないようだった。こんな狭い場所に僧たちは閉じこめられたのだ。
座禅を組み、お経を唱え続けるのが最後のつとめだっただろう。
とはいえ現実は波に翻弄されれば、壁や天井にしたたか身体を打ちつけたはずだ。
閉所恐怖にくわえ迫りくる死の恐怖。気が狂ってしまう僧がいたとして、誰が非難できようか?
水や食料、灯火の油など、ひと月分備蓄したうえで船出したとのことだが、はたして糞尿の処理はどうしたのか?
この件に関しては、再度補陀落山寺に訪れたときの課題としておこう。
もっとも、この模型とて正確な資料が現存していたわけではなく、かなり脚色が混じっているという。
画像をご覧になれば一目瞭然、皿ビスが写っているのはご愛嬌ということで。
補陀落渡海追記5
>>186でも言及した金光坊の脱走事件をきっかけに、この風習は見直されていった。
生きたまま船出するのではなく、僧の死後、補陀落渡海のやり方そのままで水葬の形式に変遷していったという。
画像は境内にある記念碑を写したもの。ちょうど中央に金光坊の名が刻まれている。
本堂では、土産物売り場兼語り部のおじさんが常駐しており、観光客数人相手に語って聞かせていた。
ここまで来たならば話を聞かず帰るわけにはいくまい。
「たった1人で来た者ですが、話に付き合ってくれませんか? 補陀落渡海について、以前から興味があったんです」
と名乗り出ると、語り部のおじさんは待ってましたと言わんばかりに眼を輝かせ、僕に語ってくれた。
もっとも、この風習は先にもいったようにほとんど資料が残されていないそうだ。
どういう経緯で、平安前期の貞観10年(868)の慶龍上人がまず最初の渡海者として選ばれ、
なぜ生きたまま渡海しなければならなかったのか。
>>186でも言及した金光坊の脱走事件をきっかけに、この風習は見直されていった。
生きたまま船出するのではなく、僧の死後、補陀落渡海のやり方そのままで水葬の形式に変遷していったという。
画像は境内にある記念碑を写したもの。ちょうど中央に金光坊の名が刻まれている。
本堂では、土産物売り場兼語り部のおじさんが常駐しており、観光客数人相手に語って聞かせていた。
ここまで来たならば話を聞かず帰るわけにはいくまい。
「たった1人で来た者ですが、話に付き合ってくれませんか? 補陀落渡海について、以前から興味があったんです」
と名乗り出ると、語り部のおじさんは待ってましたと言わんばかりに眼を輝かせ、僕に語ってくれた。
もっとも、この風習は先にもいったようにほとんど資料が残されていないそうだ。
どういう経緯で、平安前期の貞観10年(868)の慶龍上人がまず最初の渡海者として選ばれ、
なぜ生きたまま渡海しなければならなかったのか。
補陀落渡海追記6
記念碑には那智から船出した25人の僧の名を列挙しているが、
実際は人知れず志願した者もいたりして正確な数字がわかっていないらしい。
修験者の方も含まれていた。修行する者にとって、補陀落渡海に出るということは大変名誉なことだった。
いずれにせよ、どれもが謎に包まれ、研究家の推測の域を脱していないのが現状である。
ひとつわかっているのは、当時の民衆は僧の渡海を望んでいたことだ。
時代が混迷し、人々が生きることに絶望したとき、本尊に祀ってある千手観音菩薩に救済を求めた。
そんな思いを背負って僧たちは船に乗り込んだにちがいない。
ところが、いくら僧とて人の子。
渡海に出かけるまで、いろんなドラマがあったであろう。
那智の浜から南方に、仏に仕える者や民衆の理想郷、常世があったとされる。
伝説によると、インドのはるか南方の海上にあり、八角の形状をした山であるといわれる。常世はそこを示唆するのか?
おじさんとの談義は有意義なものとなった。その話も書くと長くなりすぎるから割愛する。
また近いうち、ここを訪れるだろう。
帰り際、車窓から那智浦沖に見える岩礁を眺めた。
頼りなげな金光坊島(こんこぶじま)が波間に見え隠れしていた。
……思いっきり、個人的なブログにしてしまい、相すまぬ。
画像は那智参詣曼荼羅。
記念碑には那智から船出した25人の僧の名を列挙しているが、
実際は人知れず志願した者もいたりして正確な数字がわかっていないらしい。
修験者の方も含まれていた。修行する者にとって、補陀落渡海に出るということは大変名誉なことだった。
いずれにせよ、どれもが謎に包まれ、研究家の推測の域を脱していないのが現状である。
ひとつわかっているのは、当時の民衆は僧の渡海を望んでいたことだ。
時代が混迷し、人々が生きることに絶望したとき、本尊に祀ってある千手観音菩薩に救済を求めた。
そんな思いを背負って僧たちは船に乗り込んだにちがいない。
ところが、いくら僧とて人の子。
渡海に出かけるまで、いろんなドラマがあったであろう。
那智の浜から南方に、仏に仕える者や民衆の理想郷、常世があったとされる。
伝説によると、インドのはるか南方の海上にあり、八角の形状をした山であるといわれる。常世はそこを示唆するのか?
おじさんとの談義は有意義なものとなった。その話も書くと長くなりすぎるから割愛する。
また近いうち、ここを訪れるだろう。
帰り際、車窓から那智浦沖に見える岩礁を眺めた。
頼りなげな金光坊島(こんこぶじま)が波間に見え隠れしていた。
……思いっきり、個人的なブログにしてしまい、相すまぬ。
画像は那智参詣曼荼羅。
[YouTubeで再生]
徐福キタ━━━━(゚∀゚)━━━━ッ! 冠島
京都府舞鶴市成生岬より約10km沖、日本海の真っ只中に浮かぶ無人島、冠島。
別名を雄島、常世島(とこよじま)、あるいは竜宮島とも呼ばれている。
島周囲の海底の一部には、弥生時代に創られたといわれる遺跡のようなものあるが、その詳細は不明だ。
一説によると、701(大宝元年)年3月、凡海郷(おおしあまのさと・現在の舞鶴市及び加佐郡大江町あたりにあったとされる郷名。
大浦半島に隣接する大きな島)が、三日三晩続いた地震により、峯2つを残して海没。
この2つの峯こそ冠島と沓島(くつじま)だと言われている。
さて、その冠島には徐福伝説が残されている。
徐福の一行はこの島で仙薬を見つけ、丹後半島へ上陸したとのこと。
徐福の求めた不老不死の仙薬とは、島に自生する黒茎の蓬(くろくきのよもぎ)や九節の菖蒲だったとも言われている。
秦の始皇帝から不老不死の秘薬を探してこいと遣わされた徐福だが、蓬莱山と謳われた日本の地を踏んだとされるエリアは驚くほど広い。
これはわからないでもない。童男童女3000人と機織り職人、紙職人、農耕技術者、漁業(主に捕鯨)などの専門家、
木工、製鉄、造船などの技術者などを擁し大陸から渡ってきたのだ。
当然何隻もの船でやってきた。大船団なので別行動をとる船もあったろう。
ある船は対馬海流に乗って東北地方まで、別の船は黒潮に乗って熊野灘に面した紀伊半島や伊勢湾、三河湾、
遠州灘に面した地域や伊豆半島、八丈島などに漂流したにちがいない。
あるいは意図せず時化に遭遇し、散り散りになってしまったためかもしれない。
徐福伝説
http://www.asukanet.gr.jp/tobira/jofuku/jofuku.ht...
冠島・沓島(かんむりじま・くつじま)京都府舞鶴市
http://www.geocities.jp/k_saito_site/doc/tango/kanmuri...
凡海郷〜おおしあまのさと〜
http://kammuri.com/index.ht...
徐福キタ━━━━(゚∀゚)━━━━ッ! 冠島
京都府舞鶴市成生岬より約10km沖、日本海の真っ只中に浮かぶ無人島、冠島。
別名を雄島、常世島(とこよじま)、あるいは竜宮島とも呼ばれている。
島周囲の海底の一部には、弥生時代に創られたといわれる遺跡のようなものあるが、その詳細は不明だ。
一説によると、701(大宝元年)年3月、凡海郷(おおしあまのさと・現在の舞鶴市及び加佐郡大江町あたりにあったとされる郷名。
大浦半島に隣接する大きな島)が、三日三晩続いた地震により、峯2つを残して海没。
この2つの峯こそ冠島と沓島(くつじま)だと言われている。
さて、その冠島には徐福伝説が残されている。
徐福の一行はこの島で仙薬を見つけ、丹後半島へ上陸したとのこと。
徐福の求めた不老不死の仙薬とは、島に自生する黒茎の蓬(くろくきのよもぎ)や九節の菖蒲だったとも言われている。
秦の始皇帝から不老不死の秘薬を探してこいと遣わされた徐福だが、蓬莱山と謳われた日本の地を踏んだとされるエリアは驚くほど広い。
これはわからないでもない。童男童女3000人と機織り職人、紙職人、農耕技術者、漁業(主に捕鯨)などの専門家、
木工、製鉄、造船などの技術者などを擁し大陸から渡ってきたのだ。
当然何隻もの船でやってきた。大船団なので別行動をとる船もあったろう。
ある船は対馬海流に乗って東北地方まで、別の船は黒潮に乗って熊野灘に面した紀伊半島や伊勢湾、三河湾、
遠州灘に面した地域や伊豆半島、八丈島などに漂流したにちがいない。
あるいは意図せず時化に遭遇し、散り散りになってしまったためかもしれない。
徐福伝説
http://www.asukanet.gr.jp/tobira/jofuku/jofuku.ht...
冠島・沓島(かんむりじま・くつじま)京都府舞鶴市
http://www.geocities.jp/k_saito_site/doc/tango/kanmuri...
凡海郷〜おおしあまのさと〜
http://kammuri.com/index.ht...
徐福もまた、村や島に幸をもたらした『まれびと』だった
ちなみに、先週の土曜、那智勝浦の補陀落山寺へ取材に行った帰り、新宮市の駅前にある徐福公園へとはしごした。
新宮市も徐福が漂流の末、たどり着いた地とされているのだ。
園内は徐福像や顕彰碑が建ち並び、不老不死の霊薬の正体ではないかといわれる天台烏薬の木が植えられている。
>>194の八丈島で触れたが、『島』という自己完結した小世界では異文化が流れこんでくることにより、
活性化し、発展するケースがめずらしくない。
徐福一行は製鉄の技術や農耕・土木・捕鯨・医薬、さらには五穀(中国の五穀は麻・黍・稷・麦・豆)の種子をもたらした。
画像は園内の中央に位置する徐福の墓。徐福渡来伝説では、徐福はこの地で亡くなったことになっているが、
とっても眉唾だったり……
徐福公園(じょふくこうえん) 「徐福の墓」を中心に中国風楼門を配して整備された公園
http://bell.jp/pancho/travel/kumano%20sanzan/...
まれびと Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%BE%E3%82%8C%E3%81%...
ちなみに、先週の土曜、那智勝浦の補陀落山寺へ取材に行った帰り、新宮市の駅前にある徐福公園へとはしごした。
新宮市も徐福が漂流の末、たどり着いた地とされているのだ。
園内は徐福像や顕彰碑が建ち並び、不老不死の霊薬の正体ではないかといわれる天台烏薬の木が植えられている。
>>194の八丈島で触れたが、『島』という自己完結した小世界では異文化が流れこんでくることにより、
活性化し、発展するケースがめずらしくない。
徐福一行は製鉄の技術や農耕・土木・捕鯨・医薬、さらには五穀(中国の五穀は麻・黍・稷・麦・豆)の種子をもたらした。
画像は園内の中央に位置する徐福の墓。徐福渡来伝説では、徐福はこの地で亡くなったことになっているが、
とっても眉唾だったり……
徐福公園(じょふくこうえん) 「徐福の墓」を中心に中国風楼門を配して整備された公園
http://bell.jp/pancho/travel/kumano%20sanzan/...
まれびと Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%BE%E3%82%8C%E3%81%...
>>206
喜んでもらえたら嬉しい。
長文ばかりタレ流しているので、みなさんに放置プレイされてるのでは?と内心ヒヤヒヤしているのですが、
そういう反応は励みになりますね。
たしかに語り部のおじさんとの知識の限りを尽くした談義はアツいものがありました。
おじさんも普段なら観光客相手に、千手観音を祀った座敷の上で正座し語っていたようでしたが、
僕らは土産物売り場の前の土間にあぐらをかいて座り、あとからやって来る観光客をそっちのけで1時間近くダベってましたから。
その姿を見た客はドン引きしたことでしょう。
肝心の会話の内容も脱線につぐ脱線で、ここですべてを書くのはどうかと思われます。しいて言うなら即身仏やニライカナイのネタ。
おじさんから仕入れた補陀落における情報の要点は、>>200〜205まで書いたように、一応まとめたつもり。
ほかにも、最良の資料となる著書を紹介され、これらを書店で買いなさいと勧められたり(タダでくれるんじゃないのか……)。
画像の根井浄さんという方が執筆された『観音浄土船出した人々』がソレ。
やたらと根井先生、根井先生と連呼されていることを察するに、その根井さんとやらも、ここで取材なさったのでしょう。
おじさん曰く、もっとも精度の高い、信頼のおける資料とのこと。
いつまでも場を陣取っているわけにもいかず、まだ語り尽くせぬ感があったので、また来ますと言って別れを告げました。
今度はノート持参でバリバリ取材してやろうかと考えております。何か質問などあれば代表して聞いて来ますよ。
個人的に補陀落渡海の話は異常にソソられます。なんて言うか、おじさんの年齢もけっこう行ってたし、
もし彼が語り部の引退を決意し後継者を据えるのなら、冗談抜きで僕自身が志願したいほどですから。
まあ、それを実現させるには、まだまだ勉強不足。もっと研鑽しなければッ!
喜んでもらえたら嬉しい。
長文ばかりタレ流しているので、みなさんに放置プレイされてるのでは?と内心ヒヤヒヤしているのですが、
そういう反応は励みになりますね。
たしかに語り部のおじさんとの知識の限りを尽くした談義はアツいものがありました。
おじさんも普段なら観光客相手に、千手観音を祀った座敷の上で正座し語っていたようでしたが、
僕らは土産物売り場の前の土間にあぐらをかいて座り、あとからやって来る観光客をそっちのけで1時間近くダベってましたから。
その姿を見た客はドン引きしたことでしょう。
肝心の会話の内容も脱線につぐ脱線で、ここですべてを書くのはどうかと思われます。しいて言うなら即身仏やニライカナイのネタ。
おじさんから仕入れた補陀落における情報の要点は、>>200〜205まで書いたように、一応まとめたつもり。
ほかにも、最良の資料となる著書を紹介され、これらを書店で買いなさいと勧められたり(タダでくれるんじゃないのか……)。
画像の根井浄さんという方が執筆された『観音浄土船出した人々』がソレ。
やたらと根井先生、根井先生と連呼されていることを察するに、その根井さんとやらも、ここで取材なさったのでしょう。
おじさん曰く、もっとも精度の高い、信頼のおける資料とのこと。
いつまでも場を陣取っているわけにもいかず、まだ語り尽くせぬ感があったので、また来ますと言って別れを告げました。
今度はノート持参でバリバリ取材してやろうかと考えております。何か質問などあれば代表して聞いて来ますよ。
個人的に補陀落渡海の話は異常にソソられます。なんて言うか、おじさんの年齢もけっこう行ってたし、
もし彼が語り部の引退を決意し後継者を据えるのなら、冗談抜きで僕自身が志願したいほどですから。
まあ、それを実現させるには、まだまだ勉強不足。もっと研鑽しなければッ!
ナイス奇岩・犬石様 犬島(犬ノ島)
犬島は岡山水道南東部にある島であり、同島を含めた犬島諸島全域からなる地域を指す。
諸島のなかでもっとも大きい面積を誇り、唯一の有人島。
犬島という島名の由来は犬の数が多いからではない(むしろ猫の方が多いらしい)。
遥かな昔、菅原道真が左遷され九州の大宰府へ向かう途中だった。
猛烈な風と時化に遭い、たまらずその島で一時避難することにした。
島陰に身を寄せていたところ、風の唸りに混じって犬の遠吠えがするではないか。
ふと上を見上げれば、犬の形をした巨石が鎮座していた。しかも道真公が以前飼っていた犬と瓜二つであった。
風がおさまり、船出するころになっても、別れを惜しむかのように犬が吠えたと伝えられている。
その巨石を犬石と名付け、のちに犬島と呼ばれるようになったという。
ナイスな奇岩の犬石様が祭られているのは犬島の西にある小島、『犬ノ島』。
犬ノ島は無人島でありながら私有地(岡山化学工業の工場が建ち並び、従業員は本土から通勤)のため、
立ち入りには許可が必要だが、5月3日の『犬石様のお祭り』の日だけは一般公開されている。
岡山県の離島 犬島
http://www.pref.okayama.jp/kikaku/chishin/ritou/08inujima...
ブログ【胡波國堂】 犬島へ
http://kobakuni.at.webry.info/201105/article_3.htm...
犬島は岡山水道南東部にある島であり、同島を含めた犬島諸島全域からなる地域を指す。
諸島のなかでもっとも大きい面積を誇り、唯一の有人島。
犬島という島名の由来は犬の数が多いからではない(むしろ猫の方が多いらしい)。
遥かな昔、菅原道真が左遷され九州の大宰府へ向かう途中だった。
猛烈な風と時化に遭い、たまらずその島で一時避難することにした。
島陰に身を寄せていたところ、風の唸りに混じって犬の遠吠えがするではないか。
ふと上を見上げれば、犬の形をした巨石が鎮座していた。しかも道真公が以前飼っていた犬と瓜二つであった。
風がおさまり、船出するころになっても、別れを惜しむかのように犬が吠えたと伝えられている。
その巨石を犬石と名付け、のちに犬島と呼ばれるようになったという。
ナイスな奇岩の犬石様が祭られているのは犬島の西にある小島、『犬ノ島』。
犬ノ島は無人島でありながら私有地(岡山化学工業の工場が建ち並び、従業員は本土から通勤)のため、
立ち入りには許可が必要だが、5月3日の『犬石様のお祭り』の日だけは一般公開されている。
岡山県の離島 犬島
http://www.pref.okayama.jp/kikaku/chishin/ritou/08inujima...
ブログ【胡波國堂】 犬島へ
http://kobakuni.at.webry.info/201105/article_3.htm...
秘祭『いざなぎ流』 物部村 1
このところ島ネタばかりやってきたから、たまには『村』にスポットを当てるか……では物部村(ものべそん)を。
最初に念を押しておく。なにも物部をオカルトとして捉えるつもりは毛頭ない。
ただ、この村で現存する民間信仰はあまりにも特殊であるため、民俗学的興味が尽きることがない。
その研究の虜となる人は少なくないのだ。
高知県香美郡物部村。高知県の北東部、徳島県との県境の山間に抱かれた集落は、例に漏れず過疎と高齢化が進んでいる。
村の起源は平安時代以前といわれ、平家落人の末裔がこの地方の豪族として繁栄した。
戦国時代の長宗我部氏の支配を経て、1600年からは山内氏の藩政時代が続き、明治に入ってから上韮生(かみにろう)村と槇山村が生まれた。
この2村が昭和31年合併して物部村となり現在に至っているわけだ。
物部には古来より、陰陽道系の呪術祈祷を中心とした『いざなぎ流』と呼ばれる祭祀(家全体を祓い清める家祈祷や病人祈祷、
場合によっては他人を呪うのそれも含む)が、現在もなお続いている。およそ800年以上もの昔から。
いざなぎ流という祭りとはいかなるものか。
『太夫』(たゆう)と呼ばれる宗教者(端的に言えば呪術者)らによって、家単位、コミュニティー単位で、
隔絶された山岳地帯ゆえに、ごく限定的ながら命脈を保ってきたのだ。
安倍晴明で知られるあの陰陽道が純粋な形で生き抜いてきたわけではない。
あくまで陰陽道を骨格として、修験道、密教、神道、恵比寿信仰、大黒信仰などの様式が複雑に絡みあっており、
さらには神楽舞などの民間芸能も同時に息づいていることから、長い年月を経て変遷した結果、土着化した姿こそ『いざなぎ流』であり、
もう1つの陰陽道の到達地点でもあるのだ。
『イザナギ』といえば、国産みの神話に描かれる男神をすぐ思い浮かべるが、ここでは祭文によると、
『天竺にいるいざなぎの神様』なる一登場人物であるという(一説によると、平家が壇ノ浦から敗走したあと、
守り神として隠し祭っていたのが『いざなぎ』、いわゆる『みこがみ』ともいわれる)。
このところ島ネタばかりやってきたから、たまには『村』にスポットを当てるか……では物部村(ものべそん)を。
最初に念を押しておく。なにも物部をオカルトとして捉えるつもりは毛頭ない。
ただ、この村で現存する民間信仰はあまりにも特殊であるため、民俗学的興味が尽きることがない。
その研究の虜となる人は少なくないのだ。
高知県香美郡物部村。高知県の北東部、徳島県との県境の山間に抱かれた集落は、例に漏れず過疎と高齢化が進んでいる。
村の起源は平安時代以前といわれ、平家落人の末裔がこの地方の豪族として繁栄した。
戦国時代の長宗我部氏の支配を経て、1600年からは山内氏の藩政時代が続き、明治に入ってから上韮生(かみにろう)村と槇山村が生まれた。
この2村が昭和31年合併して物部村となり現在に至っているわけだ。
物部には古来より、陰陽道系の呪術祈祷を中心とした『いざなぎ流』と呼ばれる祭祀(家全体を祓い清める家祈祷や病人祈祷、
場合によっては他人を呪うのそれも含む)が、現在もなお続いている。およそ800年以上もの昔から。
いざなぎ流という祭りとはいかなるものか。
『太夫』(たゆう)と呼ばれる宗教者(端的に言えば呪術者)らによって、家単位、コミュニティー単位で、
隔絶された山岳地帯ゆえに、ごく限定的ながら命脈を保ってきたのだ。
安倍晴明で知られるあの陰陽道が純粋な形で生き抜いてきたわけではない。
あくまで陰陽道を骨格として、修験道、密教、神道、恵比寿信仰、大黒信仰などの様式が複雑に絡みあっており、
さらには神楽舞などの民間芸能も同時に息づいていることから、長い年月を経て変遷した結果、土着化した姿こそ『いざなぎ流』であり、
もう1つの陰陽道の到達地点でもあるのだ。
『イザナギ』といえば、国産みの神話に描かれる男神をすぐ思い浮かべるが、ここでは祭文によると、
『天竺にいるいざなぎの神様』なる一登場人物であるという(一説によると、平家が壇ノ浦から敗走したあと、
守り神として隠し祭っていたのが『いざなぎ』、いわゆる『みこがみ』ともいわれる)。
秘祭『いざなぎ流』 物部村 2
併せて、いざなぎ流の祭文を載せておく(需要があるとは思えんが)。
「もえん不動明王 火炎不動王 波切り不動王 大山不動王吟伽羅不動王 吉祥妙不動王 天竺不動王
天竺山坂不動王逆しに行ふぞ 逆しに行ひ下せば 向かふわ 血花に咲かすぞ 味塵と 破れや 妙婆訶
もえ行け 絶え行け 枯れ行け 生霊 狗神 猿神 水官 長縄 飛火 変火 其の身の胸元 四方さんざら
味塵と乱れや 妙婆訶 向かふわ知るまいこちらわ 知り取る 向かふわ 青血 黒血 赤血 真血を吐け
血を吐け 泡を吐け 息座味塵に まらべや天竺 七段国へ行なへば 七つの石を集めて 七つの墓を付き
七つの石の外羽を建て 七つの石の 錠鍵下して 味塵 すいぞん 阿毘羅吽 妙婆詞と行ふ 打ち式 返し式
まかだんごく 計反国と 七つの 地獄へ 打ち落す うんあびらうんけんそばか」
いざなぎ流の流派はいくつか存在し、太夫が複数の師匠の下で学ぶことや、師匠の教えに独自の方法を付け加えアレンジすることもあり、
同じ流派内にさえ差異が生じている。
とはいえ、いくらカオス的信仰形態の中核を成しているのは陰陽道であることに変わりない。
たとえ密教や修験道の影響があったとしても、祭りの進行は陰陽道らしく、占術にかかっているからだ。
太夫は祭りに関わる人間や、家の穢れや不浄、悪霊の障りなど、マイナス要素のすべてのものである『呪詛』(本来は『じゅそ』と発音するが、
ここでは『すそ』と読む)を残らず『ヒナゴ幣』(和紙で作られた御幣)に念じ集め、清浄な状態に戻す役目を担う。
呪詛のついたヒナゴ幣は、呪詛林という専用の捨て場に埋めたり、川に流したり、河原の岩陰に鎮められる。
それは祭りを執り行う上において、不可欠な儀式なのだ。と同時に、家の内外を清める湯神楽、塩祓い、
太夫自身の身を清める『穢らい消しの唱文』、神々の穢れを祓う『祓いの唱文』、しめ縄による結界の造営など、
祭りを成功させるために、幾重にもの霊的防御網を敷く。
しかしながらこの祭りは太夫にとって全身全霊の戦いなのだ。家の災厄を祓う祈祷も、その家で祀る神の種類に応じて祀り方が異なり、
丹念に祀らないと祟るともいわれているのだ。
※画像の、『花笠』と呼ばれるものをかぶった者が太夫。
併せて、いざなぎ流の祭文を載せておく(需要があるとは思えんが)。
「もえん不動明王 火炎不動王 波切り不動王 大山不動王吟伽羅不動王 吉祥妙不動王 天竺不動王
天竺山坂不動王逆しに行ふぞ 逆しに行ひ下せば 向かふわ 血花に咲かすぞ 味塵と 破れや 妙婆訶
もえ行け 絶え行け 枯れ行け 生霊 狗神 猿神 水官 長縄 飛火 変火 其の身の胸元 四方さんざら
味塵と乱れや 妙婆訶 向かふわ知るまいこちらわ 知り取る 向かふわ 青血 黒血 赤血 真血を吐け
血を吐け 泡を吐け 息座味塵に まらべや天竺 七段国へ行なへば 七つの石を集めて 七つの墓を付き
七つの石の外羽を建て 七つの石の 錠鍵下して 味塵 すいぞん 阿毘羅吽 妙婆詞と行ふ 打ち式 返し式
まかだんごく 計反国と 七つの 地獄へ 打ち落す うんあびらうんけんそばか」
いざなぎ流の流派はいくつか存在し、太夫が複数の師匠の下で学ぶことや、師匠の教えに独自の方法を付け加えアレンジすることもあり、
同じ流派内にさえ差異が生じている。
とはいえ、いくらカオス的信仰形態の中核を成しているのは陰陽道であることに変わりない。
たとえ密教や修験道の影響があったとしても、祭りの進行は陰陽道らしく、占術にかかっているからだ。
太夫は祭りに関わる人間や、家の穢れや不浄、悪霊の障りなど、マイナス要素のすべてのものである『呪詛』(本来は『じゅそ』と発音するが、
ここでは『すそ』と読む)を残らず『ヒナゴ幣』(和紙で作られた御幣)に念じ集め、清浄な状態に戻す役目を担う。
呪詛のついたヒナゴ幣は、呪詛林という専用の捨て場に埋めたり、川に流したり、河原の岩陰に鎮められる。
それは祭りを執り行う上において、不可欠な儀式なのだ。と同時に、家の内外を清める湯神楽、塩祓い、
太夫自身の身を清める『穢らい消しの唱文』、神々の穢れを祓う『祓いの唱文』、しめ縄による結界の造営など、
祭りを成功させるために、幾重にもの霊的防御網を敷く。
しかしながらこの祭りは太夫にとって全身全霊の戦いなのだ。家の災厄を祓う祈祷も、その家で祀る神の種類に応じて祀り方が異なり、
丹念に祀らないと祟るともいわれているのだ。
※画像の、『花笠』と呼ばれるものをかぶった者が太夫。
秘祭『いざなぎ流』 物部村 3
いざなぎ流には『表』もあれば『裏』もある。
裏とはすなわち、人を呪うためのものだが、それは『悪いこと』であるとして、太夫は原則的に手を染めないのが常だ。
だが、太夫たるもの、表はもちろん、裏も知らなければ本物ではないともいわれている。
毒も微量なら薬となるように、表の世界の鎮めの儀式に活かせられるからだ。
太夫は人を呪うことを『式を打つ』と表現する。式は言うまでもなく式神を指す。
いざなぎ流には呪いの法文があり、修行の浅い新米の太夫ですら、それを唱えるだけで強力な式神を飛ばせることができるとされる。
だが、裏専門だと悲惨な末路しか待っていない。法力があれば自分の身は守れるにせよ、その家系に悪影響が及び、
家そのものも断絶すると信じられているのだ。
もっともそのような太夫は必ず露見するらしい。霊力の強い太夫ならば、誰が式を打ったかお見通しになるという。
余談だが、こんなエピソードが残されている。
山深い物部では、近世以来、伐木は重要な生業であり、その職人を杣(そま)といった。
昔、杣の中に式法を知る者がいた。仕事のために使うナタなどの道具を山へ行くたび持ち帰るのが面倒だったため、
山中に放置して帰るのだが、その際、盗難を防ぐために道具に式を打った。
掛けた本人以外の者が式を打った道具を触ろうとすると、その場で身動きができなくなったといわれている。
それに対抗して、呪詛を防ぐ面もあったとされている。『シキ食い面』と呼ばれる面がこれで、打たれた式を食うことによって、
相手の呪詛を無力化するのだという。
この面は角のついた鬼面で、家の中では主人しか触れることができず、家族は肉食せず精進しなくてはならない『やっかいな面』とのこと。
※画像は『シキ食いの面』ではない。『十二のヒナゴ面』の1つ、『男面』。
問題の面は、もっと鬼のような顔をしている。それはそれで不気味なのだが、こちらの方がデスマスクっぽくて、
なにか禍々しさを感じさせ、個人的に怖い。面に関しては下記のサイトを参照されたし。
館蔵 物部の仮面といざなぎ流
http://www.rekihaku.ac.jp/publication/rekihaku/146witnes...
いざなぎ流には『表』もあれば『裏』もある。
裏とはすなわち、人を呪うためのものだが、それは『悪いこと』であるとして、太夫は原則的に手を染めないのが常だ。
だが、太夫たるもの、表はもちろん、裏も知らなければ本物ではないともいわれている。
毒も微量なら薬となるように、表の世界の鎮めの儀式に活かせられるからだ。
太夫は人を呪うことを『式を打つ』と表現する。式は言うまでもなく式神を指す。
いざなぎ流には呪いの法文があり、修行の浅い新米の太夫ですら、それを唱えるだけで強力な式神を飛ばせることができるとされる。
だが、裏専門だと悲惨な末路しか待っていない。法力があれば自分の身は守れるにせよ、その家系に悪影響が及び、
家そのものも断絶すると信じられているのだ。
もっともそのような太夫は必ず露見するらしい。霊力の強い太夫ならば、誰が式を打ったかお見通しになるという。
余談だが、こんなエピソードが残されている。
山深い物部では、近世以来、伐木は重要な生業であり、その職人を杣(そま)といった。
昔、杣の中に式法を知る者がいた。仕事のために使うナタなどの道具を山へ行くたび持ち帰るのが面倒だったため、
山中に放置して帰るのだが、その際、盗難を防ぐために道具に式を打った。
掛けた本人以外の者が式を打った道具を触ろうとすると、その場で身動きができなくなったといわれている。
それに対抗して、呪詛を防ぐ面もあったとされている。『シキ食い面』と呼ばれる面がこれで、打たれた式を食うことによって、
相手の呪詛を無力化するのだという。
この面は角のついた鬼面で、家の中では主人しか触れることができず、家族は肉食せず精進しなくてはならない『やっかいな面』とのこと。
※画像は『シキ食いの面』ではない。『十二のヒナゴ面』の1つ、『男面』。
問題の面は、もっと鬼のような顔をしている。それはそれで不気味なのだが、こちらの方がデスマスクっぽくて、
なにか禍々しさを感じさせ、個人的に怖い。面に関しては下記のサイトを参照されたし。
館蔵 物部の仮面といざなぎ流
http://www.rekihaku.ac.jp/publication/rekihaku/146witnes...
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秘祭『いざなぎ流』 物部村 4
以上のように、非科学的で原始的ともいえる思考がこの現代社会に残っている物部だが、
根底にあるのは「山のものは山へ、川のものは川へ戻すべし」「山や川には精霊が宿る」という『いざなぎ流の掟』である。
すなわち自然の摂理であり、シャーマニズム本来の本質が現存していることになる。
高知県の山間部の一集落。人口3000人強ほどで過疎高齢化が進み、その民間信仰は滅び行く運命に思われがちだが、
地元高校の生徒らが部活で舞神楽を教わり、太夫にならんと決意する人も稀にいることから、
その存続は細々ながら継承していくようである。
我々は温かい目で見守ろうではないか。
土佐・物部村 神々のかたち
http://inax.lixil.co.jp/Culture/1999/09word.htm...
いざなぎ流とは
http://www011.upp.so-net.ne.jp/dhistory/sei_0vi.ht...
いざなぎ流への〈旅〉中尾計佐清さんのこと 斎藤 英喜
http://www.bunet.jp/world/html/16_7/466_ouryou/ind...
『剣山』と『いざなぎ流』
http://tsukioto2011.blog65.fc2.com/blog-entry-56.htm...
物部FW「いざなぎ流」体験記
http://office-hiroko.jugem.jp/?eid=39#seque...
秘祭『いざなぎ流』 物部村 4
以上のように、非科学的で原始的ともいえる思考がこの現代社会に残っている物部だが、
根底にあるのは「山のものは山へ、川のものは川へ戻すべし」「山や川には精霊が宿る」という『いざなぎ流の掟』である。
すなわち自然の摂理であり、シャーマニズム本来の本質が現存していることになる。
高知県の山間部の一集落。人口3000人強ほどで過疎高齢化が進み、その民間信仰は滅び行く運命に思われがちだが、
地元高校の生徒らが部活で舞神楽を教わり、太夫にならんと決意する人も稀にいることから、
その存続は細々ながら継承していくようである。
我々は温かい目で見守ろうではないか。
土佐・物部村 神々のかたち
http://inax.lixil.co.jp/Culture/1999/09word.htm...
いざなぎ流とは
http://www011.upp.so-net.ne.jp/dhistory/sei_0vi.ht...
いざなぎ流への〈旅〉中尾計佐清さんのこと 斎藤 英喜
http://www.bunet.jp/world/html/16_7/466_ouryou/ind...
『剣山』と『いざなぎ流』
http://tsukioto2011.blog65.fc2.com/blog-entry-56.htm...
物部FW「いざなぎ流」体験記
http://office-hiroko.jugem.jp/?eid=39#seque...
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迫真の演技? 奇祭・エア相撲 大三島(おおみしま)
愛媛県今治市にある芸予諸島の中の1つの有人島、大三島。
別名『神の島』と呼ばれ、創建1400年以上と伝えられる大山祇神社(おおやまずみ)神社が社殿を構える由緒ある島なのだ。
古来より皇室や貴族の崇拝を集めており、平安時代には朝廷から『日本総鎮守』の号を授けられているほどで、
宝物も多く、国宝8件、重要文化財75件を収蔵。なかでも源氏や平家などの武将が武運長久を願って武具を奉納したおかげで、
国宝や重文の指定を受けた甲冑の4割がこの神社に集中しているのだ。
この神社では、春の御田植祭(旧暦5月5日)と秋の抜穂(ぬいぼ)祭(旧暦9月9日)の年2回にわたり、珍妙な奇祭が行われる。
それが見えざる神様を相手にした『一人角力』(ひとりずもう)なのだ。
田んぼの神様(稲の精霊とされる)と3本勝負を行い、必ず一勝一敗で3戦目を迎えるも、最後は神様が勝利をつかむ。
人間の力士は豪快に投げ飛ばされ、神様にはかないませんというオチがつくエンターテイメントぶり。
神様が勝つことで、春には豊作が約束され、秋には人々の収穫への感謝の意が表されるわけだ。
元はといえば、相撲という国技は、健康的な男性が神前で力を尽くすことで、神々に敬意と感謝を示す儀式としての意味合いがあった。
つまりは、この一人角士こそ、相撲の原点を現代に伝える神事だったりするのだ。
大三島ツアーPART 2 〜一人相撲編〜
http://tsubakky.exblog.jp/15456709...
(1)精霊と競う① - 生涯学習情報提供システム、<えひめの記憶>
http://ilove.manabi-ehime.jp/system/regional/index.asp?P_MO...
迫真の演技? 奇祭・エア相撲 大三島(おおみしま)
愛媛県今治市にある芸予諸島の中の1つの有人島、大三島。
別名『神の島』と呼ばれ、創建1400年以上と伝えられる大山祇神社(おおやまずみ)神社が社殿を構える由緒ある島なのだ。
古来より皇室や貴族の崇拝を集めており、平安時代には朝廷から『日本総鎮守』の号を授けられているほどで、
宝物も多く、国宝8件、重要文化財75件を収蔵。なかでも源氏や平家などの武将が武運長久を願って武具を奉納したおかげで、
国宝や重文の指定を受けた甲冑の4割がこの神社に集中しているのだ。
この神社では、春の御田植祭(旧暦5月5日)と秋の抜穂(ぬいぼ)祭(旧暦9月9日)の年2回にわたり、珍妙な奇祭が行われる。
それが見えざる神様を相手にした『一人角力』(ひとりずもう)なのだ。
田んぼの神様(稲の精霊とされる)と3本勝負を行い、必ず一勝一敗で3戦目を迎えるも、最後は神様が勝利をつかむ。
人間の力士は豪快に投げ飛ばされ、神様にはかないませんというオチがつくエンターテイメントぶり。
神様が勝つことで、春には豊作が約束され、秋には人々の収穫への感謝の意が表されるわけだ。
元はといえば、相撲という国技は、健康的な男性が神前で力を尽くすことで、神々に敬意と感謝を示す儀式としての意味合いがあった。
つまりは、この一人角士こそ、相撲の原点を現代に伝える神事だったりするのだ。
大三島ツアーPART 2 〜一人相撲編〜
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天草四郎埋蔵金伝説はどこまで信憑性があるのか? 下島
熊本県の天草諸島にある下島には、時価数十億もの天草四郎の財宝が眠っているという(……と信じている人がいる)。
天草四郎時貞といえば、寛永14(1637)年、島原の乱の際に原城に立て籠もった一揆軍の先導者として有名だから、
今さら説明するまでもあるまい。
原城での篭城戦に限界を憶えた四郎は女子供、老人らを逃がすことにして、のちの再起に託すべく莫大な軍資金を埋蔵したとされているのだ。
もっとも、資金といっても大判小判ではなく、重さ6キロの黄金の十字架をはじめ、金銀の燭台20基、南蛮塗りの宝石をちりばめた王冠など、
キリシタン関係の宝器類と伝えられている(これらの財宝は小判よりも時価では高価で、30億円に相当するといわれる)。
この財宝を埋める場所として天草下島が選ばれ、その役目は重臣、小山田慶信と決まった。
いよいよ原城が落城とするや、小山田はひそかに財宝を舟で運び出した。
ところが、のちに小山田は埋蔵地を表すと思われる書き付けを残し失踪。
書き付けには目印となる三角形の池が描かれていた。
時代はすぎ、昭和10年代のこと。
天草上島の老岳山麓で、ある人物が金の十字架を発見した。しかも奇妙な文句が刻まれていたので、
これは天草四郎の埋蔵金伝説を裏付ける手がかりではないかと色めき立った。
それがこんな内容だ。
『さんしゃる二、こんたろす五、くさぐさのでうすのたからしずめしずむる』
この文句の後半は漢字に当てはめると、『……種々の天主(デウス)の宝沈め鎮むる』となり、いやが上にも期待は高まろうというもの。
天草地方の古地図によると、三角形(正確には二等辺三角形)の沼沢地帯『カラ池』こそ、『さんしゃる』なる地名と位置とが一致。
しかも『カラ池』はかつて、疫病で死んだ多くの死体を捨てた場所として、村人たちに決して近づくなと伝えられてきたのだ。
>>79のウイリアム・キッドの件に関してもそうだが、財宝の隠し場所というものは、人が近づきたくない忌避されるような場所が選ばれるものだ。
ところが日本を代表するトレジャーハンター、八重野充弘氏の発掘調査も空振りに終わる。
八重野氏の弁によると、『さんしゃる』とは『カラ池』である三角池を指すと同時に、キリスト像の後光の意味でもあるとのこと。
『こんたろす』とは十字架そのものを示す。数字の2と5の暗号は、三角池の2つの地点から十字架に結ぶ5間(9メートル)の地点ではないかと
八重野氏は推理したが……。
余計なお世話だが、人生を宝探しに捧げる人は借金まみれの生活を送り、悲壮感に満ちているという。
夢追い人は夢を追っている過程が楽しいはずだと信じたい。
埋蔵金伝説 天草四郎の埋蔵金
http://maizoukin.k-server.org/maizoukin09.htm...
これが宝探しの現場 【天草編】天草四郎軍の秘宝を求めて
http://home.f01.itscom.net/yaeno/fields.ht...
熊本県の天草諸島にある下島には、時価数十億もの天草四郎の財宝が眠っているという(……と信じている人がいる)。
天草四郎時貞といえば、寛永14(1637)年、島原の乱の際に原城に立て籠もった一揆軍の先導者として有名だから、
今さら説明するまでもあるまい。
原城での篭城戦に限界を憶えた四郎は女子供、老人らを逃がすことにして、のちの再起に託すべく莫大な軍資金を埋蔵したとされているのだ。
もっとも、資金といっても大判小判ではなく、重さ6キロの黄金の十字架をはじめ、金銀の燭台20基、南蛮塗りの宝石をちりばめた王冠など、
キリシタン関係の宝器類と伝えられている(これらの財宝は小判よりも時価では高価で、30億円に相当するといわれる)。
この財宝を埋める場所として天草下島が選ばれ、その役目は重臣、小山田慶信と決まった。
いよいよ原城が落城とするや、小山田はひそかに財宝を舟で運び出した。
ところが、のちに小山田は埋蔵地を表すと思われる書き付けを残し失踪。
書き付けには目印となる三角形の池が描かれていた。
時代はすぎ、昭和10年代のこと。
天草上島の老岳山麓で、ある人物が金の十字架を発見した。しかも奇妙な文句が刻まれていたので、
これは天草四郎の埋蔵金伝説を裏付ける手がかりではないかと色めき立った。
それがこんな内容だ。
『さんしゃる二、こんたろす五、くさぐさのでうすのたからしずめしずむる』
この文句の後半は漢字に当てはめると、『……種々の天主(デウス)の宝沈め鎮むる』となり、いやが上にも期待は高まろうというもの。
天草地方の古地図によると、三角形(正確には二等辺三角形)の沼沢地帯『カラ池』こそ、『さんしゃる』なる地名と位置とが一致。
しかも『カラ池』はかつて、疫病で死んだ多くの死体を捨てた場所として、村人たちに決して近づくなと伝えられてきたのだ。
>>79のウイリアム・キッドの件に関してもそうだが、財宝の隠し場所というものは、人が近づきたくない忌避されるような場所が選ばれるものだ。
ところが日本を代表するトレジャーハンター、八重野充弘氏の発掘調査も空振りに終わる。
八重野氏の弁によると、『さんしゃる』とは『カラ池』である三角池を指すと同時に、キリスト像の後光の意味でもあるとのこと。
『こんたろす』とは十字架そのものを示す。数字の2と5の暗号は、三角池の2つの地点から十字架に結ぶ5間(9メートル)の地点ではないかと
八重野氏は推理したが……。
余計なお世話だが、人生を宝探しに捧げる人は借金まみれの生活を送り、悲壮感に満ちているという。
夢追い人は夢を追っている過程が楽しいはずだと信じたい。
埋蔵金伝説 天草四郎の埋蔵金
http://maizoukin.k-server.org/maizoukin09.htm...
これが宝探しの現場 【天草編】天草四郎軍の秘宝を求めて
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隠し念仏 1
『隠し念仏』。この板で取り上げてしまうとどうしても、
オカルティックかつエキセントリックな扱いになってしまう恐れがあるため、
気が引けるのだが……やむを得まい。
一山村にとどまらず、岩手県南部、宮城県北部には民間信仰である隠し念仏というものがある。
『隠し念仏』と『隠れ念仏』という概念があるが、2つは似て非なる信仰である。今回は前者に焦点を絞ってみる。
『隠し念仏』とは端的に言えば、農民たちが江戸幕府に迎合した本願寺を堕落したものとみなして、
親鸞を開祖とする浄土真宗をひそかに行い、長きにわたり呪術的要素が強く熟成、土着化したものである。
起源は、浄土真宗の開祖である親鸞の長男である善鸞が浄土真宗の東国布教に遣わされた際、現地で信じたと言われ、
邪教を布教したとして、以来、善鸞は父から絶縁、追放されている。
生きるのが困難だった時代、 どうにか仏のご加護を受けたいという一心から編み出されたものだと考えられよう。
隠し念仏とは通り名であって本来の名称ではない。正式には『浄土真宗御内法』、あるいは縮めて『御内法』という。
つまり寺を通して伝える『表法』に対する『内法』を意味する。
かつて隠れキリシタンを弾圧した仙台藩は、御内法を『犬切支丹』『秘事法門』『外道邪法』と罵り迫害、
キリスト教につぐ厳しさで弾圧した。明治政府からも公序良俗を乱すとして厳しく取り締まった。
とはいえ人々の信仰心はたくましい。その激烈な弾圧があったからこそ、この秘密宗教はより奥深くに潜伏し、
土着化して、今日まで隠し念仏として生き残ってきたのだ。
ちなみに、『隠し〜』ではなく、『隠れ』念仏は主に九州に分布した。
九州薩摩藩ではキリシタン禁制にも劣らぬ弾圧が真宗の念仏者に対して敷かれており、真宗門徒が地下に潜り、
強い信念のもと、危険を冒してまで独自の信仰形態を作りあげた。
このことから既成の宗教を隠れミノとし、ある程度習合するなど、隠れキリシタンと同義と見てよい。
薩摩藩の門徒信者は、藩への年貢納税よりも、本願寺への納付を優先しようとした。
それゆえ藩は真宗禁制を厳くした。だから門徒が隠れて信仰を守ろうとしたのが『隠れ念仏』。
したがって本願寺から見ると、東北の『隠し念仏』は異端であり、九州の『隠れ念仏』が正統ということになるそうだ。
隠し念仏はあくまで総称であり、地域や流儀などによって呪術的儀式は異なる。
さらに排他的秘密主義のために、その儀式の全貌はいまだ明らかにされていないが、
『隠れ念仏と隠し念仏—日本人のこころ九州・東北』の著者、五木寛之によると、
最近では少しずつではあるが、秘密儀式の一部などを公開する軟化の動きも見られるという。
『隠し念仏』。この板で取り上げてしまうとどうしても、
オカルティックかつエキセントリックな扱いになってしまう恐れがあるため、
気が引けるのだが……やむを得まい。
一山村にとどまらず、岩手県南部、宮城県北部には民間信仰である隠し念仏というものがある。
『隠し念仏』と『隠れ念仏』という概念があるが、2つは似て非なる信仰である。今回は前者に焦点を絞ってみる。
『隠し念仏』とは端的に言えば、農民たちが江戸幕府に迎合した本願寺を堕落したものとみなして、
親鸞を開祖とする浄土真宗をひそかに行い、長きにわたり呪術的要素が強く熟成、土着化したものである。
起源は、浄土真宗の開祖である親鸞の長男である善鸞が浄土真宗の東国布教に遣わされた際、現地で信じたと言われ、
邪教を布教したとして、以来、善鸞は父から絶縁、追放されている。
生きるのが困難だった時代、 どうにか仏のご加護を受けたいという一心から編み出されたものだと考えられよう。
隠し念仏とは通り名であって本来の名称ではない。正式には『浄土真宗御内法』、あるいは縮めて『御内法』という。
つまり寺を通して伝える『表法』に対する『内法』を意味する。
かつて隠れキリシタンを弾圧した仙台藩は、御内法を『犬切支丹』『秘事法門』『外道邪法』と罵り迫害、
キリスト教につぐ厳しさで弾圧した。明治政府からも公序良俗を乱すとして厳しく取り締まった。
とはいえ人々の信仰心はたくましい。その激烈な弾圧があったからこそ、この秘密宗教はより奥深くに潜伏し、
土着化して、今日まで隠し念仏として生き残ってきたのだ。
ちなみに、『隠し〜』ではなく、『隠れ』念仏は主に九州に分布した。
九州薩摩藩ではキリシタン禁制にも劣らぬ弾圧が真宗の念仏者に対して敷かれており、真宗門徒が地下に潜り、
強い信念のもと、危険を冒してまで独自の信仰形態を作りあげた。
このことから既成の宗教を隠れミノとし、ある程度習合するなど、隠れキリシタンと同義と見てよい。
薩摩藩の門徒信者は、藩への年貢納税よりも、本願寺への納付を優先しようとした。
それゆえ藩は真宗禁制を厳くした。だから門徒が隠れて信仰を守ろうとしたのが『隠れ念仏』。
したがって本願寺から見ると、東北の『隠し念仏』は異端であり、九州の『隠れ念仏』が正統ということになるそうだ。
隠し念仏はあくまで総称であり、地域や流儀などによって呪術的儀式は異なる。
さらに排他的秘密主義のために、その儀式の全貌はいまだ明らかにされていないが、
『隠れ念仏と隠し念仏—日本人のこころ九州・東北』の著者、五木寛之によると、
最近では少しずつではあるが、秘密儀式の一部などを公開する軟化の動きも見られるという。
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隠し念仏 2
おかしな話、秘匿性の高い隠し念仏は、柳田国男の名著『遠野物語』にすら登場するほどポピュラーだったりする。
もっとも、それは佐々木喜善の嗅覚と柳田の探究心があったからこそかもしれない。
全文引用してみよう。
>此話をしたる老女は熱心なる念仏者なれど、世の常の念仏者とは様かはり、一種邪宗らしき信仰あり。
>信者に道を伝ふることはあれども、互に厳重なる秘密を守り、其作法に就きては親にも子にも聊か(いささか)たりとも知らしめず。
>又寺とも僧とも少しも関係はなくて、在家の物のみの集まりなり。其人の数も多からず。
>辷石(すべりいし)たにえと云ふ婦人などは同じ仲間なり。阿弥陀仏の斎日には、夜中人の静まるを待ちて会合し、
>隠れたる室にて祈祷す。魔法まじなひを善くする故に、郷党に対して一種の権威あり。
隠し念仏は江戸時代ごろ、貧しい農民の間で広まった。
葬儀のたび坊さんを呼ぶとなると、お布施などの経費がかかってしまう。したがって、農民たちで念仏を唱えた方が安価である。
さらに唱えるお経は簡略化されたものなので、学がなくとも暗唱しやすい。
また特別な会場を必要とせず、道具も用意しなくてよかった。せいぜい長い数珠と木札だけで事足りた。
唱えた数が多いほど死後、極楽浄土へ早く行けるとして、爆発的に地域に広まったわけだ。
人の死後だけではない。隠し念仏では、生後1週間以内の赤ん坊にも『オモトヅケ』をと呼ばれる儀式を行う。
これは五島列島などで潜伏時代のキリシタンの間で行われた『お水受け』『御元附け』と同義。
さらに隠し念仏では、子どもが6、7歳のころに『オトリアゲ』の儀式をやる。
とすればこれは、キリスト教徒の洗礼に相当するのだろう。
この儀式に落第した子供は、石臼に乗せられるとか。石臼はキリストのメタファーであるという。
秋田藩主佐竹義宣の文書に『大ウス宗の者』という語句があり、大ウスはデウスを指す。
この通過儀礼を受けた者は、一連の内容を部外者には喋ってはならない。漏らせば血を吐いて死ぬと脅されることもある。
それゆえ、信者は堅く口を閉ざしたのだ。
隠し念仏 2
おかしな話、秘匿性の高い隠し念仏は、柳田国男の名著『遠野物語』にすら登場するほどポピュラーだったりする。
もっとも、それは佐々木喜善の嗅覚と柳田の探究心があったからこそかもしれない。
全文引用してみよう。
>此話をしたる老女は熱心なる念仏者なれど、世の常の念仏者とは様かはり、一種邪宗らしき信仰あり。
>信者に道を伝ふることはあれども、互に厳重なる秘密を守り、其作法に就きては親にも子にも聊か(いささか)たりとも知らしめず。
>又寺とも僧とも少しも関係はなくて、在家の物のみの集まりなり。其人の数も多からず。
>辷石(すべりいし)たにえと云ふ婦人などは同じ仲間なり。阿弥陀仏の斎日には、夜中人の静まるを待ちて会合し、
>隠れたる室にて祈祷す。魔法まじなひを善くする故に、郷党に対して一種の権威あり。
隠し念仏は江戸時代ごろ、貧しい農民の間で広まった。
葬儀のたび坊さんを呼ぶとなると、お布施などの経費がかかってしまう。したがって、農民たちで念仏を唱えた方が安価である。
さらに唱えるお経は簡略化されたものなので、学がなくとも暗唱しやすい。
また特別な会場を必要とせず、道具も用意しなくてよかった。せいぜい長い数珠と木札だけで事足りた。
唱えた数が多いほど死後、極楽浄土へ早く行けるとして、爆発的に地域に広まったわけだ。
人の死後だけではない。隠し念仏では、生後1週間以内の赤ん坊にも『オモトヅケ』をと呼ばれる儀式を行う。
これは五島列島などで潜伏時代のキリシタンの間で行われた『お水受け』『御元附け』と同義。
さらに隠し念仏では、子どもが6、7歳のころに『オトリアゲ』の儀式をやる。
とすればこれは、キリスト教徒の洗礼に相当するのだろう。
この儀式に落第した子供は、石臼に乗せられるとか。石臼はキリストのメタファーであるという。
秋田藩主佐竹義宣の文書に『大ウス宗の者』という語句があり、大ウスはデウスを指す。
この通過儀礼を受けた者は、一連の内容を部外者には喋ってはならない。漏らせば血を吐いて死ぬと脅されることもある。
それゆえ、信者は堅く口を閉ざしたのだ。
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隠し念仏 3
隠し念仏の主な秘儀であるオトリアゲやオモトズケとは別に、『百万遍念仏』という儀式があるが、
あくまで混成した行事にすぎず、本来は隠し念仏とは切り離して考えるべきだそうだ。
この動画がその様子を撮影したもの。3分45秒から。
補陀落渡海といい、スレチではないかと言うなかれ。我が国、日本も地球規模で言えば、全面積約37.8万km²のちっぽけな離島である。
島という隔離エリアでは独自の生産が行われ、独自の価値観を育み、独自の葬送儀礼で送り出す。
日本には、まだまだ日の当たらない歴史や文化が埋もれており、我々の知的好奇心をかき立て、また、信仰とはなんなのか、考えさせてくれる。
と同時に、あらためて日本の魅力を再確認することにもつながる。
しかしながら秘匿したものを土足で踏み荒らし、すべてを白日のもとに晒そうと穴をほじくり返すのもまた傲慢である。
節度を心がけようと肝に銘じなければならない。
隠し念仏 wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9A%A0%E3%81%97%E5%BF%...
水沢聖書バプテスト教会 隠れキリシタンと隠し念仏
http://blogs.yahoo.co.jp/mizusawa_church/61092917.htm...
アグリコ日記 隠し念仏
http://blog.goo.ne.jp/agrico1/e/71d917403262d0a4508a...
百万遍念仏 wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%99%BE%E4%B8%87%E9%81%...
清崎の百万遍念仏
http://sitarakankou.on.arena.ne.jp/hyakumanbenenbutu.ht...
発言小町発ホラー「真っ黒い手紙」(未完) 2010.10.17追記
http://haniwafactory.blog28.fc2.com/?mode=m&no=313...
オカ板で暇つぶし(仮) 東北地方の密教「隠し念仏」について語る
http://occult24.blog10.fc2.com/blog-entry-14.htm...
※あれほどオカルト色を控えたいと言いながら、2ちゃんねる系掲示板のURLを貼ってしまう僕はいけない子です……。
隠し念仏 3
隠し念仏の主な秘儀であるオトリアゲやオモトズケとは別に、『百万遍念仏』という儀式があるが、
あくまで混成した行事にすぎず、本来は隠し念仏とは切り離して考えるべきだそうだ。
この動画がその様子を撮影したもの。3分45秒から。
補陀落渡海といい、スレチではないかと言うなかれ。我が国、日本も地球規模で言えば、全面積約37.8万km²のちっぽけな離島である。
島という隔離エリアでは独自の生産が行われ、独自の価値観を育み、独自の葬送儀礼で送り出す。
日本には、まだまだ日の当たらない歴史や文化が埋もれており、我々の知的好奇心をかき立て、また、信仰とはなんなのか、考えさせてくれる。
と同時に、あらためて日本の魅力を再確認することにもつながる。
しかしながら秘匿したものを土足で踏み荒らし、すべてを白日のもとに晒そうと穴をほじくり返すのもまた傲慢である。
節度を心がけようと肝に銘じなければならない。
隠し念仏 wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9A%A0%E3%81%97%E5%BF%...
水沢聖書バプテスト教会 隠れキリシタンと隠し念仏
http://blogs.yahoo.co.jp/mizusawa_church/61092917.htm...
アグリコ日記 隠し念仏
http://blog.goo.ne.jp/agrico1/e/71d917403262d0a4508a...
百万遍念仏 wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%99%BE%E4%B8%87%E9%81%...
清崎の百万遍念仏
http://sitarakankou.on.arena.ne.jp/hyakumanbenenbutu.ht...
発言小町発ホラー「真っ黒い手紙」(未完) 2010.10.17追記
http://haniwafactory.blog28.fc2.com/?mode=m&no=313...
オカ板で暇つぶし(仮) 東北地方の密教「隠し念仏」について語る
http://occult24.blog10.fc2.com/blog-entry-14.htm...
※あれほどオカルト色を控えたいと言いながら、2ちゃんねる系掲示板のURLを貼ってしまう僕はいけない子です……。
死人返りと三日の墓参り 竹富島
八重山諸島にある竹富島(たけとみじま)は、石垣島からは約6km離れた面積5.42 km²の小島である。
沖縄特有の赤瓦屋根の家(カーラヤー)で形成された町並は、重要伝統的建造物群保存地区として指定されており、
そのまま観光資源として生かされている。
また、数多くの歌謡(民謡、古謡、わらべうた)、芸能、伝承、風習などの伝統文化が引き継がれている文化遺産の島でもある。
そんな竹富島には、奇妙な昔話が残されている。その話を契機に、独自の行事が生まれたほどだ。
弘化元年(1844年)のこと、竹富島の新田マハツという女が田福家に嫁いだ。
しかし月日が経てど、マハツは子供を授からなかった。
それゆえ臨終の間際には、私が死んだら田福家の墓には入れずともよいと言い残し亡くなった。
遺言に従い、実家である新田家の墓へ埋葬することに。
(※亀甲墓はなかったはず。琉球王府時代には庶民が墓を造るのは禁止されており、一般的に流行したのは明治中頃以降。
とすれば入口を扉で塞いだ共同使用の大きな墓所であろう。遺体を白骨化させる場所(シルヒラシ)があり、新しく死者が出た場合、
墓口に近い砂利敷きの場所に棺箱を安置したらしい)
そのころ、里の新田家には妊娠して臨月の嫁女がいた。
実は島の習慣で、妊婦のいる家に死人が出たら墓を開けることは禁じられていたのだ。
とはいえ遺言を無下にすることもできず、新田家の墓にマハツを葬った。
不思議なことに、墓の中でマツンーメという新田家の祖先の霊が現われ、こう言った。
「いいですか、田福家の嫁として嫁いだからには、子供ができずとも田福家の墓に入るのが道理です。
新田家には近日中に嫁がお産をひかえているのに、その墓を開けたことは許されない行為。
早く戻って嫁の安産をすませて来るのです」と言い聞かせて、マハツを生き返らせたのだ。
死んでいたはずのマハツは息を吹き返し、棺桶のフタを開け、暗い墓の中で3日の間生きていた。
ちょうどそのころ、墓所の地主であるカイシが、墓のそばで農作業をしていた。
墓の中から人の声がするではないか。恐る恐る入口の扉に耳を当てた。
「カイシ……カイシよ、どうか墓を開けておくれ」それはマハツの声だった。
カイシは仰天して村に帰り、村人や親族に事情を話した。
人々は松明を掲げ、墓の入口を開けると、蘇ったマハツと対面した。
村に帰ったマハツは祖先の霊の伝えを親族に言って聞かせた。
4日目に嫁が無事、子供を生むと、その子にカナシと名づけたのち、7日目にマハツは今度こそ死んだ。
それからというもの、竹富島では3日目のお墓見舞いという行事が行われ、墓では死人の名前を3回呼ぶようになったという。
全国竹富島文化協会
http://www.napcoti.com/index.ht...
八重山諸島にある竹富島(たけとみじま)は、石垣島からは約6km離れた面積5.42 km²の小島である。
沖縄特有の赤瓦屋根の家(カーラヤー)で形成された町並は、重要伝統的建造物群保存地区として指定されており、
そのまま観光資源として生かされている。
また、数多くの歌謡(民謡、古謡、わらべうた)、芸能、伝承、風習などの伝統文化が引き継がれている文化遺産の島でもある。
そんな竹富島には、奇妙な昔話が残されている。その話を契機に、独自の行事が生まれたほどだ。
弘化元年(1844年)のこと、竹富島の新田マハツという女が田福家に嫁いだ。
しかし月日が経てど、マハツは子供を授からなかった。
それゆえ臨終の間際には、私が死んだら田福家の墓には入れずともよいと言い残し亡くなった。
遺言に従い、実家である新田家の墓へ埋葬することに。
(※亀甲墓はなかったはず。琉球王府時代には庶民が墓を造るのは禁止されており、一般的に流行したのは明治中頃以降。
とすれば入口を扉で塞いだ共同使用の大きな墓所であろう。遺体を白骨化させる場所(シルヒラシ)があり、新しく死者が出た場合、
墓口に近い砂利敷きの場所に棺箱を安置したらしい)
そのころ、里の新田家には妊娠して臨月の嫁女がいた。
実は島の習慣で、妊婦のいる家に死人が出たら墓を開けることは禁じられていたのだ。
とはいえ遺言を無下にすることもできず、新田家の墓にマハツを葬った。
不思議なことに、墓の中でマツンーメという新田家の祖先の霊が現われ、こう言った。
「いいですか、田福家の嫁として嫁いだからには、子供ができずとも田福家の墓に入るのが道理です。
新田家には近日中に嫁がお産をひかえているのに、その墓を開けたことは許されない行為。
早く戻って嫁の安産をすませて来るのです」と言い聞かせて、マハツを生き返らせたのだ。
死んでいたはずのマハツは息を吹き返し、棺桶のフタを開け、暗い墓の中で3日の間生きていた。
ちょうどそのころ、墓所の地主であるカイシが、墓のそばで農作業をしていた。
墓の中から人の声がするではないか。恐る恐る入口の扉に耳を当てた。
「カイシ……カイシよ、どうか墓を開けておくれ」それはマハツの声だった。
カイシは仰天して村に帰り、村人や親族に事情を話した。
人々は松明を掲げ、墓の入口を開けると、蘇ったマハツと対面した。
村に帰ったマハツは祖先の霊の伝えを親族に言って聞かせた。
4日目に嫁が無事、子供を生むと、その子にカナシと名づけたのち、7日目にマハツは今度こそ死んだ。
それからというもの、竹富島では3日目のお墓見舞いという行事が行われ、墓では死人の名前を3回呼ぶようになったという。
全国竹富島文化協会
http://www.napcoti.com/index.ht...
死人島
その昔、丹後路では、沖合の名もなき小島に死人を捨てた風習があったとされている。
人が死ぬと、馬の飼葉桶(馬の飼料を入れる楕円形の容器)のような木をくりぬいた棺に収め、親族とともに船に乗って島へ渡った。
型どおりの葬儀を執り行ったあと、死体と故人の持ち物は島に放置された。
幡(『ばん』、もしくは『はた』。目印や装飾を意味する布製の仏具)や天蓋などが満潮時の波にさらわれ、
本土に流れ着くことはあっても、死骸だけが戻ってくることはなかった。
人はそこを死人島と呼んだ。
あやしい古典文学の壺
http://home.att.ne.jp/red/sronin/kotenlist1a.ht...
http://home.att.ne.jp/red/sronin/_koten/0660sininjim...
その昔、丹後路では、沖合の名もなき小島に死人を捨てた風習があったとされている。
人が死ぬと、馬の飼葉桶(馬の飼料を入れる楕円形の容器)のような木をくりぬいた棺に収め、親族とともに船に乗って島へ渡った。
型どおりの葬儀を執り行ったあと、死体と故人の持ち物は島に放置された。
幡(『ばん』、もしくは『はた』。目印や装飾を意味する布製の仏具)や天蓋などが満潮時の波にさらわれ、
本土に流れ着くことはあっても、死骸だけが戻ってくることはなかった。
人はそこを死人島と呼んだ。
あやしい古典文学の壺
http://home.att.ne.jp/red/sronin/kotenlist1a.ht...
http://home.att.ne.jp/red/sronin/_koten/0660sininjim...
現代版死の島? 散骨専用のカズラ島
島根半島から北へ50kmのところに位置する隠岐諸島。
そこには180もの無人島が点在しており、そのうちの1島を散骨場所にする試みが2008年8月からスタートした。
もともとは個人所有だった島を、東京都の葬儀社など8社が出資する株式会社カズラ(隠岐郡海士町)が買い取った。
言うまでもなく、散骨とはお骨を粉状にして撒くこと。
焼骨のままでは撒くことは遺骨遺棄罪に触れるので、必ずmm単位まで砕かなければならない。
規定では一応2mmになっているが、1mmが理想だそうだ。
さらに撒く場所はどこでもいいわけではない。生前、山好きだったからとはいえ、山には所有者がいるし、
海にせよ、海岸で撒くのは他人からすれば気持ちのいいものではない。
まして撒いたあとに土をかけるのは埋葬扱いになり、墓地埋葬法に触れるため安易に行うべきではない。
カズラ島に上陸できるのは5月と9月の各4日間だけだ。最初の2日間は見学者、あとの2日間は散骨者のためのもの。
それ以外は立入り禁止になっているそうだ。
散骨場所は1区画100人分の遺骨を撒ける形となっている。10区画作られているようで、1年に1区画を利用し、10年で一巡する予定。
10年経ったころには、骨は完全に土に還っているとのこと。
墓参り際は、他島からカズラ島を望む位置に慰霊所が設けられており、そこから手を合わせるらしい。
隠岐の島のご紹介|自然散骨カズラ島
http://www.kazurajima.jp/oki/index.htm...
大自然の中で静かに眠る 「散骨」専用島が隠岐に誕生
http://www.j-cast.com/2008/08/24025401.html?p=al...
島根半島から北へ50kmのところに位置する隠岐諸島。
そこには180もの無人島が点在しており、そのうちの1島を散骨場所にする試みが2008年8月からスタートした。
もともとは個人所有だった島を、東京都の葬儀社など8社が出資する株式会社カズラ(隠岐郡海士町)が買い取った。
言うまでもなく、散骨とはお骨を粉状にして撒くこと。
焼骨のままでは撒くことは遺骨遺棄罪に触れるので、必ずmm単位まで砕かなければならない。
規定では一応2mmになっているが、1mmが理想だそうだ。
さらに撒く場所はどこでもいいわけではない。生前、山好きだったからとはいえ、山には所有者がいるし、
海にせよ、海岸で撒くのは他人からすれば気持ちのいいものではない。
まして撒いたあとに土をかけるのは埋葬扱いになり、墓地埋葬法に触れるため安易に行うべきではない。
カズラ島に上陸できるのは5月と9月の各4日間だけだ。最初の2日間は見学者、あとの2日間は散骨者のためのもの。
それ以外は立入り禁止になっているそうだ。
散骨場所は1区画100人分の遺骨を撒ける形となっている。10区画作られているようで、1年に1区画を利用し、10年で一巡する予定。
10年経ったころには、骨は完全に土に還っているとのこと。
墓参り際は、他島からカズラ島を望む位置に慰霊所が設けられており、そこから手を合わせるらしい。
隠岐の島のご紹介|自然散骨カズラ島
http://www.kazurajima.jp/oki/index.htm...
大自然の中で静かに眠る 「散骨」専用島が隠岐に誕生
http://www.j-cast.com/2008/08/24025401.html?p=al...
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人身御供によって完成した人工島 経ヶ島(きょうがしま)
平安時代のころ、神戸港は『大輪田泊』と呼ばれた。
現在の兵庫区南部の地域であったといわれ、南東からの風波をまともに受けて停泊が危険だった。
福原に別荘を構えていた平清盛は日宋貿易の拠点として大輪田泊を重視し、承安3(1173)年に私財を投じて改修をした。
泊(とまり)の前面に防波堤となる人工島を築き、風から船を守ろうとしたのだ。
塩槌山を切り崩した土で海を埋め立てるものの、難工事が続き、ついには貴族たちの間で、
「これは海神様がお怒りだからではないか。とすれば人身御供を捧げ、お怒りを鎮めねばなるまい」と、迷信が流布するほどであった。
さすがの平清盛も人柱を立てるのは人道的ではないと考え、代わりに石の1つ1つに『一切経』を書いて埋め立てに使った。これを経石という。
その後、事故などもなく無事に工事が終わり、お経を広げたような扇の形をしたこの島を経ヶ島と名づけた。
……もっとも、この伝承も時代が経つにつれて変容していく。
一説には、やはり人身御供(人柱)を立て、工事が終わったともされているのだ。
『摂津名所図会』には、松王小児(松王健児(こんでい)、松王丸ともいわれる)について次のように書かれている。
「埋め立てても大波が土石をゆり流してしまう。龍神の怒りをなだめるため30人の人柱と経石を海底におさめよとの占いが出た。
平相国(清盛)は生田の森に関を据えて往還の旅人を捕らえさせたが、近隣の村民が嘆いて訴えるので兵庫の者はこの難を免れた。
今のことわざに『兵庫の者なり御免あれ』というのはこの由縁である。3ヶ月かけて30人を虜(とりこ)にしたが、
親族が群れ来てその悲嘆は尋常ではなかった。清盛はこれを悼んで延期すること5ヶ月に及んだ。
そこへ讃州香川城主、大井民部の嫡子、松王小児17歳が進み出て、身代わりに自分ひとりを沈めるように願い出た。
清盛は大いに心を動かされる。ついに、経石と松王小児を海に沈めて島は成った。沈めた所に建てられたのが築島寺(来迎寺)である」
平家物語では清盛の没後、円實という僧によって経ヶ島に埋葬されたと記述されている。
この経ヶ島を造ることによって、大輪田泊を日本一の港として名を馳させ、今日の神戸港の繁栄へとつながるのである。
松王丸法要祭に清盛茶屋出張 よみがえる兵庫津 〜平清盛プロジェクト〜
http://www.kiyomori.org/?p=95...
淡路の昔話
http://www.awaji-is.or.jp/otasuke/mukasi/matu.htm...
平安時代のころ、神戸港は『大輪田泊』と呼ばれた。
現在の兵庫区南部の地域であったといわれ、南東からの風波をまともに受けて停泊が危険だった。
福原に別荘を構えていた平清盛は日宋貿易の拠点として大輪田泊を重視し、承安3(1173)年に私財を投じて改修をした。
泊(とまり)の前面に防波堤となる人工島を築き、風から船を守ろうとしたのだ。
塩槌山を切り崩した土で海を埋め立てるものの、難工事が続き、ついには貴族たちの間で、
「これは海神様がお怒りだからではないか。とすれば人身御供を捧げ、お怒りを鎮めねばなるまい」と、迷信が流布するほどであった。
さすがの平清盛も人柱を立てるのは人道的ではないと考え、代わりに石の1つ1つに『一切経』を書いて埋め立てに使った。これを経石という。
その後、事故などもなく無事に工事が終わり、お経を広げたような扇の形をしたこの島を経ヶ島と名づけた。
……もっとも、この伝承も時代が経つにつれて変容していく。
一説には、やはり人身御供(人柱)を立て、工事が終わったともされているのだ。
『摂津名所図会』には、松王小児(松王健児(こんでい)、松王丸ともいわれる)について次のように書かれている。
「埋め立てても大波が土石をゆり流してしまう。龍神の怒りをなだめるため30人の人柱と経石を海底におさめよとの占いが出た。
平相国(清盛)は生田の森に関を据えて往還の旅人を捕らえさせたが、近隣の村民が嘆いて訴えるので兵庫の者はこの難を免れた。
今のことわざに『兵庫の者なり御免あれ』というのはこの由縁である。3ヶ月かけて30人を虜(とりこ)にしたが、
親族が群れ来てその悲嘆は尋常ではなかった。清盛はこれを悼んで延期すること5ヶ月に及んだ。
そこへ讃州香川城主、大井民部の嫡子、松王小児17歳が進み出て、身代わりに自分ひとりを沈めるように願い出た。
清盛は大いに心を動かされる。ついに、経石と松王小児を海に沈めて島は成った。沈めた所に建てられたのが築島寺(来迎寺)である」
平家物語では清盛の没後、円實という僧によって経ヶ島に埋葬されたと記述されている。
この経ヶ島を造ることによって、大輪田泊を日本一の港として名を馳させ、今日の神戸港の繁栄へとつながるのである。
松王丸法要祭に清盛茶屋出張 よみがえる兵庫津 〜平清盛プロジェクト〜
http://www.kiyomori.org/?p=95...
淡路の昔話
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ズラリと並んだ奇岩が壮観 橋杭岩(はしくいいわ・はしぐいいわ)
和歌山県串本町のそそり立つ奇岩群。それが名勝、橋杭岩。
海岸から紀伊大島方面へ向けて、大小約40の個性的な石柱が一列に、およそ850メートルもの長さにわたり並んでいるのだ。
まるで橋桁を失った橋脚を思わせることから橋杭岩と呼ばれている。
干潮時には岩の列の中ほどに位置する弁天島まで渡り、磯遊びに興じることもできる。
奇岩マニアにはたまらない奇跡のような光景だが、カラクリは単純。
泥岩層の間に火成活動によって石英斑岩が貫入してできた岩脈が、地殻変動で地表付近にあらわれ、
侵食に強い岩が残ったものにすぎない。
そんな壮観な眺めから、先人は橋杭岩にまつわる伝説を生み出した。
昔々、弘法大師と天の邪鬼(子鬼のこと)が熊野地方を旅したときのこと。
天の邪鬼は弘法大師と話をしているうちに、大師の偉大さが鼻につくようになる。
切れ者であると自負する天の邪鬼は、なんとか大師をギャフンと言わせたいと思った末、よからぬ案を考えた。
「弘法さん、あの紀伊大島は海中の離れ島で、天気の悪い日にゃあ、地元民は内地との行き来が難儀してるそうですぜ。
ひとつあなたのお力で、大島と陸地との間に橋を架けてやったらどうです?」と、ハッタリをかけた。
「なるほど、それはいい案だ。ならばひと肌脱ぐとするか」と、弘法大師は誘いに乗った。
「けど、ただ仕事するのもつまらない。あなたが一晩で橋を架けられるかどうか、賭けをしやせんか?」
「よかろう。では太陽が沈んでから、仕事に取りかかるか」
いかに弘法大師の力をもってさえ、まさか一夜にして橋を完成させることはできまい。
根負けした大師の姿を想像すると、天の邪鬼は無性にニヤけてくる。
日が暮れて弘法大師が動き出した。どうやって橋を架けるのだろうと、天の邪鬼は草むらの陰から様子を窺うと、
驚くべきことに、なんと大師は山から巨岩を束にして担いできては、ヒョイヒョイと海中に立てているではないか。
たった2、3時間のうちに橋杭が並んでしまった。
「こいつぁ大変だ……このままでは夜明けまでに立派な橋ができあがっちまう!」と、天の邪鬼は呆気にとられ、
なんとか邪魔する手はないか考えた。それで苦し紛れに、「コケコッコー!」と、鶏の鳴き真似をした。
弘法大師は、「なんと、もう夜が明けたのか?」と思い、仕事を中断してしまった。
そのときの橋を造る途中の名残りが橋杭岩だとされているのだ。
弘法大師よ、仕事を中途半端に放置してはいけませんよ……。
ふるさと元気風ネット 橋杭岩
http://www.osumi.or.jp/sakata/nanki/hasigui.htm...
悪神が作った橋!?「奇岩(3)橋杭岩」【和歌山】 :日本珍スポット100景
http://b-spot.seesaa.net/article/27690710.htm...
橋杭岩|自然・景観|和歌山県フォト博物館
http://www.pref.wakayama.lg.jp/prefg/000200/photomuseum/096.h...
ズラリと並んだ奇岩が壮観 橋杭岩(はしくいいわ・はしぐいいわ)
和歌山県串本町のそそり立つ奇岩群。それが名勝、橋杭岩。
海岸から紀伊大島方面へ向けて、大小約40の個性的な石柱が一列に、およそ850メートルもの長さにわたり並んでいるのだ。
まるで橋桁を失った橋脚を思わせることから橋杭岩と呼ばれている。
干潮時には岩の列の中ほどに位置する弁天島まで渡り、磯遊びに興じることもできる。
奇岩マニアにはたまらない奇跡のような光景だが、カラクリは単純。
泥岩層の間に火成活動によって石英斑岩が貫入してできた岩脈が、地殻変動で地表付近にあらわれ、
侵食に強い岩が残ったものにすぎない。
そんな壮観な眺めから、先人は橋杭岩にまつわる伝説を生み出した。
昔々、弘法大師と天の邪鬼(子鬼のこと)が熊野地方を旅したときのこと。
天の邪鬼は弘法大師と話をしているうちに、大師の偉大さが鼻につくようになる。
切れ者であると自負する天の邪鬼は、なんとか大師をギャフンと言わせたいと思った末、よからぬ案を考えた。
「弘法さん、あの紀伊大島は海中の離れ島で、天気の悪い日にゃあ、地元民は内地との行き来が難儀してるそうですぜ。
ひとつあなたのお力で、大島と陸地との間に橋を架けてやったらどうです?」と、ハッタリをかけた。
「なるほど、それはいい案だ。ならばひと肌脱ぐとするか」と、弘法大師は誘いに乗った。
「けど、ただ仕事するのもつまらない。あなたが一晩で橋を架けられるかどうか、賭けをしやせんか?」
「よかろう。では太陽が沈んでから、仕事に取りかかるか」
いかに弘法大師の力をもってさえ、まさか一夜にして橋を完成させることはできまい。
根負けした大師の姿を想像すると、天の邪鬼は無性にニヤけてくる。
日が暮れて弘法大師が動き出した。どうやって橋を架けるのだろうと、天の邪鬼は草むらの陰から様子を窺うと、
驚くべきことに、なんと大師は山から巨岩を束にして担いできては、ヒョイヒョイと海中に立てているではないか。
たった2、3時間のうちに橋杭が並んでしまった。
「こいつぁ大変だ……このままでは夜明けまでに立派な橋ができあがっちまう!」と、天の邪鬼は呆気にとられ、
なんとか邪魔する手はないか考えた。それで苦し紛れに、「コケコッコー!」と、鶏の鳴き真似をした。
弘法大師は、「なんと、もう夜が明けたのか?」と思い、仕事を中断してしまった。
そのときの橋を造る途中の名残りが橋杭岩だとされているのだ。
弘法大師よ、仕事を中途半端に放置してはいけませんよ……。
ふるさと元気風ネット 橋杭岩
http://www.osumi.or.jp/sakata/nanki/hasigui.htm...
悪神が作った橋!?「奇岩(3)橋杭岩」【和歌山】 :日本珍スポット100景
http://b-spot.seesaa.net/article/27690710.htm...
橋杭岩|自然・景観|和歌山県フォト博物館
http://www.pref.wakayama.lg.jp/prefg/000200/photomuseum/096.h...
四阪島専用の火葬地 鼠島(ねずみじま)
軍艦島こと端島に付随する形で火葬場や納骨堂が設けられた『中ノ島』(>>61)があるのに対し、
>>199で触れた銅山の工業島、四阪島にも同様の島があった。
もう一度おさらいしよう。
四阪島は瀬戸内海の燧灘(ひうちなだ)、大島の南東約10km、愛媛県新居浜市の北約20kmに浮かぶ島だが、
正確には『家ノ島』『美濃島』『明神島』『鼠島』『梶島』の5島で構成され、まとめて『四阪島』と呼ばれることが多い。
まさにその『鼠島』こそ火葬兼納骨堂の島だった。四阪島で働く身寄りのない精錬所関係者が亡くなると、ここで焼かれ埋葬された。
鼠島は5島の中で一番小さい島。この島は干潮になると南側に細長い尻尾のような陸があらわれる。
その姿は美濃島から見れば、まるで鼠のように見えるため、この島名がつけられたのではないかと言われている。
製錬所建設当時、病死事故死した親類縁者不明の人々を葬った無縁仏墓地が、島の北側に存在した。
また、大正中期に火葬場と納骨堂が完成し使われていたが、昭和40年に宮窪町営の火葬場が勝浦療養所跡に新設されてからは、
鼠島で火葬が行われることはなくなった。
四阪島製錬所建設から100年が経とうとしている現在も殉職者供養は続けられている。
日本の島へ行こう 四阪島
http://imagic.qee.jp/sima3/ehime/shisakajima.htm...
軍艦島こと端島に付随する形で火葬場や納骨堂が設けられた『中ノ島』(>>61)があるのに対し、
>>199で触れた銅山の工業島、四阪島にも同様の島があった。
もう一度おさらいしよう。
四阪島は瀬戸内海の燧灘(ひうちなだ)、大島の南東約10km、愛媛県新居浜市の北約20kmに浮かぶ島だが、
正確には『家ノ島』『美濃島』『明神島』『鼠島』『梶島』の5島で構成され、まとめて『四阪島』と呼ばれることが多い。
まさにその『鼠島』こそ火葬兼納骨堂の島だった。四阪島で働く身寄りのない精錬所関係者が亡くなると、ここで焼かれ埋葬された。
鼠島は5島の中で一番小さい島。この島は干潮になると南側に細長い尻尾のような陸があらわれる。
その姿は美濃島から見れば、まるで鼠のように見えるため、この島名がつけられたのではないかと言われている。
製錬所建設当時、病死事故死した親類縁者不明の人々を葬った無縁仏墓地が、島の北側に存在した。
また、大正中期に火葬場と納骨堂が完成し使われていたが、昭和40年に宮窪町営の火葬場が勝浦療養所跡に新設されてからは、
鼠島で火葬が行われることはなくなった。
四阪島製錬所建設から100年が経とうとしている現在も殉職者供養は続けられている。
日本の島へ行こう 四阪島
http://imagic.qee.jp/sima3/ehime/shisakajima.htm...
ドクロのような奇岩島 柱島(はしらじま)
瀬戸内海西部の安芸灘に位置する柱島群島の1つ、柱島は山口県岩国市に属する。
名前の由来は、島内に多くの神社(柱)が祭られていることだったとされている。
かつては島の近海が海軍連合艦隊の停泊地になっていた。
昭和18年には柱島沖合で戦艦『陸奥』が謎の爆発で沈没する事件が発生して以来、
毎年慰霊祭が行われているとのことである。
ドクロを思わせる奇怪な島の形だが、残念ながら他にいわくがあるわけではない。
基幹産業は農、水産業で、新鮮な魚や野菜、ミカンなどが出荷されている平和な島だ。
磯は良好の釣り場らしく、夏から秋にかけてタイ、チヌを狙いにフカセ釣りに興じる人が大勢つめかけるそうだ。
多島海に浮かぶ緑の島-柱島群島- 岩国市
http://www.pref.yamaguchi.lg.jp/cms/a123003/island/hashirajima...
瀬戸内海西部の安芸灘に位置する柱島群島の1つ、柱島は山口県岩国市に属する。
名前の由来は、島内に多くの神社(柱)が祭られていることだったとされている。
かつては島の近海が海軍連合艦隊の停泊地になっていた。
昭和18年には柱島沖合で戦艦『陸奥』が謎の爆発で沈没する事件が発生して以来、
毎年慰霊祭が行われているとのことである。
ドクロを思わせる奇怪な島の形だが、残念ながら他にいわくがあるわけではない。
基幹産業は農、水産業で、新鮮な魚や野菜、ミカンなどが出荷されている平和な島だ。
磯は良好の釣り場らしく、夏から秋にかけてタイ、チヌを狙いにフカセ釣りに興じる人が大勢つめかけるそうだ。
多島海に浮かぶ緑の島-柱島群島- 岩国市
http://www.pref.yamaguchi.lg.jp/cms/a123003/island/hashirajima...
獅子岩の反対側はドクロに見える 1
ドクロつながりで紹介したく、布石として>>227にて柱島を挙げた。
実は僕の地元、三重は熊野の国道42号線沿いには、名勝『獅子岩』と呼ばれる奇岩がある。
和歌山側から見ると、文字通り獅子がカッと口を開け、大海原に向かって咆哮している姿に映るので、
ちょっとした観光地として賑わいを見せているのだ。
そんな獅子岩だが、驚くべきことに左横顔(尾鷲側から見た反対側)は、虚空に向かってあんぐり口をあけたシャレコウベに見えるのだ。
まさしくさらし首にされ、朽ち果てた人骨の頭部のように……。
獅子岩は世界文化遺産にも登録された奇岩でありながら、まさかこんな暗黒面を持っているとはあまり知られていない。
それと因果関係があるかどうか、この獅子岩のすぐ隣にも奇岩、『人面岩』が立ち並んでいるのだ。
もっとも、人面と謳いながらゴリラの横顔に見えるのだが(これも和歌山側から見た場合)。
というのも、この獅子岩と人面岩は、熊野市井戸町にある大馬神社の狛犬に見立てられており、
2つで阿吽を表しているそうなのだ。
余談だが、人面岩はまたの名を『神仙洞』と呼ばれ、いわくつきの祠があるのだ。
今では厳重にフェンスが張られ、施錠付きの扉で塞がれている。
ここはかつて『北山一揆』の処刑場になっていたという。そういった血塗られた経緯があるからか、
獅子岩と人面岩で挟まれる格好で位置する喫茶店では、夜になるとナニが出るとかでひそかに有名だったり……。
北山一揆 wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E5%B1%B1%E4%B8%...
ドクロつながりで紹介したく、布石として>>227にて柱島を挙げた。
実は僕の地元、三重は熊野の国道42号線沿いには、名勝『獅子岩』と呼ばれる奇岩がある。
和歌山側から見ると、文字通り獅子がカッと口を開け、大海原に向かって咆哮している姿に映るので、
ちょっとした観光地として賑わいを見せているのだ。
そんな獅子岩だが、驚くべきことに左横顔(尾鷲側から見た反対側)は、虚空に向かってあんぐり口をあけたシャレコウベに見えるのだ。
まさしくさらし首にされ、朽ち果てた人骨の頭部のように……。
獅子岩は世界文化遺産にも登録された奇岩でありながら、まさかこんな暗黒面を持っているとはあまり知られていない。
それと因果関係があるかどうか、この獅子岩のすぐ隣にも奇岩、『人面岩』が立ち並んでいるのだ。
もっとも、人面と謳いながらゴリラの横顔に見えるのだが(これも和歌山側から見た場合)。
というのも、この獅子岩と人面岩は、熊野市井戸町にある大馬神社の狛犬に見立てられており、
2つで阿吽を表しているそうなのだ。
余談だが、人面岩はまたの名を『神仙洞』と呼ばれ、いわくつきの祠があるのだ。
今では厳重にフェンスが張られ、施錠付きの扉で塞がれている。
ここはかつて『北山一揆』の処刑場になっていたという。そういった血塗られた経緯があるからか、
獅子岩と人面岩で挟まれる格好で位置する喫茶店では、夜になるとナニが出るとかでひそかに有名だったり……。
北山一揆 wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E5%B1%B1%E4%B8%...
獅子岩の反対側はドクロに見える 2
とくと見るがいい、全国6000万の奇岩ファンよ、これが問題のドクロ奇岩だ。正真正銘、獅子岩の反対側。
右側面が獅子にして、反対側がドクロ……こんなアイロニー、他に類を見るまい。
ちなみにネットで検索しても、誰ひとりとして指摘している者はいない。もちろんこの画像もおそらく本邦初公開。
(こんな獅子岩の裏の顔が見られるのは明和水産の当スレだけ!)
国道沿いからでも展望することができるが、撮影にあたっては浜に降り、うんと近くでデジカメにおさめてきた。
ちょっと立ち位置を変えるだけで、このドクロの表情も微妙に変化する。
ちなみに真正面からだと、なんの変哲もない岩にしか映らないと思う。真下からのアングルも同様だった。
曇天の日に撮影していたが、この後、時ならぬ雨に祟られた。
不気味なドクロの横顔に見えるでしょ?
……でもこれ、島ネタじゃないね。まあ、奇岩つながりということでご容赦を。
獅子岩|ずっともっと - 熊野の観光情報サイト|ずっともっと
http://www.mottokumano.jp/spot/shishi.htm...
JAPAN WEB MAGAZINE 獅子岩
http://japan-web-magazine.com/japanese/japan-mie-shishiiwa1-...
とくと見るがいい、全国6000万の奇岩ファンよ、これが問題のドクロ奇岩だ。正真正銘、獅子岩の反対側。
右側面が獅子にして、反対側がドクロ……こんなアイロニー、他に類を見るまい。
ちなみにネットで検索しても、誰ひとりとして指摘している者はいない。もちろんこの画像もおそらく本邦初公開。
(こんな獅子岩の裏の顔が見られるのは明和水産の当スレだけ!)
国道沿いからでも展望することができるが、撮影にあたっては浜に降り、うんと近くでデジカメにおさめてきた。
ちょっと立ち位置を変えるだけで、このドクロの表情も微妙に変化する。
ちなみに真正面からだと、なんの変哲もない岩にしか映らないと思う。真下からのアングルも同様だった。
曇天の日に撮影していたが、この後、時ならぬ雨に祟られた。
不気味なドクロの横顔に見えるでしょ?
……でもこれ、島ネタじゃないね。まあ、奇岩つながりということでご容赦を。
獅子岩|ずっともっと - 熊野の観光情報サイト|ずっともっと
http://www.mottokumano.jp/spot/shishi.htm...
JAPAN WEB MAGAZINE 獅子岩
http://japan-web-magazine.com/japanese/japan-mie-shishiiwa1-...
鯛島の悲しい恋の話
鯛島(たいじま)は、青森県むつ市脇野沢の牛ノ首岬沖約800mの陸奥湾上にある無人島だ。
名の通り鯛に似ているから名付けられたといわれ、頭部は弁天島、尾の部分は立岩とも呼ばれている。
ところが実際の見た目はマンガチックな鯨に酷似しており、弁天島に設置されている灯台が鯨が潮を吹いているように見えて
ユーモラスな外観だ。
そんな鯛島であるが、弁天島の背中にある弁財天には悲恋伝説が残されている。
今から約1200年前、征夷大将軍である坂上田村麻呂が蝦夷征伐のために脇野沢村に訪れたとき、
村人である美しい娘と恋に落ちた。
娘はすぐに身ごもった。
けれども将軍は都に帰るとき、無情にも娘を置き去りにしてしまったため、彼女は恋しがり泣き続けた。
将軍の子を産んですぐ、自ら命を絶ってしまったのだ。
村人たちは娘を哀れみ、亡骸を少しでも都に近づけるようと鯛島に埋葬した。
ところがその後に船の難破事故が相次いだ。
人々はそれを、成仏できぬ娘の祟りだとして恐れるようになった。
そして500年後の南北朝時代、都落ちした藤原藤房がその話を聞き、鎮魂のために自らの天女の像を彫って弁財天を祀ったところ、
祟りがおさまったとされている。
しかし現代でも鯛島近辺のワカメは娘の髪の毛といわれ、漁を避けるなど、この悲恋伝説はもなお地元の人々の心に深く刻み込まれている。
美知の国あおもり“癒し”スポット一覧
http://www.pref.aomori.lg.jp/kensei/seisaku/tk_10_power.htm...
鯛島(たいじま)は、青森県むつ市脇野沢の牛ノ首岬沖約800mの陸奥湾上にある無人島だ。
名の通り鯛に似ているから名付けられたといわれ、頭部は弁天島、尾の部分は立岩とも呼ばれている。
ところが実際の見た目はマンガチックな鯨に酷似しており、弁天島に設置されている灯台が鯨が潮を吹いているように見えて
ユーモラスな外観だ。
そんな鯛島であるが、弁天島の背中にある弁財天には悲恋伝説が残されている。
今から約1200年前、征夷大将軍である坂上田村麻呂が蝦夷征伐のために脇野沢村に訪れたとき、
村人である美しい娘と恋に落ちた。
娘はすぐに身ごもった。
けれども将軍は都に帰るとき、無情にも娘を置き去りにしてしまったため、彼女は恋しがり泣き続けた。
将軍の子を産んですぐ、自ら命を絶ってしまったのだ。
村人たちは娘を哀れみ、亡骸を少しでも都に近づけるようと鯛島に埋葬した。
ところがその後に船の難破事故が相次いだ。
人々はそれを、成仏できぬ娘の祟りだとして恐れるようになった。
そして500年後の南北朝時代、都落ちした藤原藤房がその話を聞き、鎮魂のために自らの天女の像を彫って弁財天を祀ったところ、
祟りがおさまったとされている。
しかし現代でも鯛島近辺のワカメは娘の髪の毛といわれ、漁を避けるなど、この悲恋伝説はもなお地元の人々の心に深く刻み込まれている。
美知の国あおもり“癒し”スポット一覧
http://www.pref.aomori.lg.jp/kensei/seisaku/tk_10_power.htm...
丸子姫の亡霊伝説 怒和島(ぬわじま)
怒和島は松山市の北西海域に点在する忽那(くつな)諸島の有人島の1つで、津和地島と中島の間に位置する。
産業はレモンやみかんなどの柑橘類の栽培と漁業が主で、周囲の海は釣りのポイントとして知られており、
入り江を利用したヒラメやアワビの養殖も行われている、ごく牧歌的な島だ。
そんな怒和島にも秘められた伝説がある。それが丸子姫伝説だ。
昔々、大晦日の晩のこと。
西国の大名を乗せた船が暴風に遭い、潮に流されて丸子鼻の沖合で沈没した。
船には丸子姫という美しい姫が乗っていたが、船とともに海の藻屑と消えた。
以来、丸子姫の無念がそうさせるのか、旧暦の大晦日、深夜12時になると、沖合に怪しい火が灯ったり、
姫の亡霊が出没するという伝説が語られているのだ。
もっともこれは周辺海域の潮の流れが速いため、警告する意味で語られてきたのではなかろうか。
怒和島・上怒和
http://yomodado.blog46.fc2.com/blog-entry-837.htm...
忽那諸島の見所・過ごし方 忽那諸島
http://www.nakajimakisen.co.jp/contents/kutsuna-midokoro.htm...
怒和島は松山市の北西海域に点在する忽那(くつな)諸島の有人島の1つで、津和地島と中島の間に位置する。
産業はレモンやみかんなどの柑橘類の栽培と漁業が主で、周囲の海は釣りのポイントとして知られており、
入り江を利用したヒラメやアワビの養殖も行われている、ごく牧歌的な島だ。
そんな怒和島にも秘められた伝説がある。それが丸子姫伝説だ。
昔々、大晦日の晩のこと。
西国の大名を乗せた船が暴風に遭い、潮に流されて丸子鼻の沖合で沈没した。
船には丸子姫という美しい姫が乗っていたが、船とともに海の藻屑と消えた。
以来、丸子姫の無念がそうさせるのか、旧暦の大晦日、深夜12時になると、沖合に怪しい火が灯ったり、
姫の亡霊が出没するという伝説が語られているのだ。
もっともこれは周辺海域の潮の流れが速いため、警告する意味で語られてきたのではなかろうか。
怒和島・上怒和
http://yomodado.blog46.fc2.com/blog-entry-837.htm...
忽那諸島の見所・過ごし方 忽那諸島
http://www.nakajimakisen.co.jp/contents/kutsuna-midokoro.htm...
人類創世異伝 古宇利島(こうりじま)
沖縄県国頭群今帰仁(なきじん)村にある『古宇利島』。半径約1Km、周囲が約8kmの小島である。
島にはサトウキビ畑が広がり、昔ながらの沖縄の家屋が建ち並んでいる。
古宇利大橋が開通して以来、観光客もアクセスしやすくなり、週末ともなると島内は賑やかになる。
古宇利島のことを、昔はフィまたはクィ島と呼んだ。その流れで現在では別名『恋島』とも言われるらしい。
その恋島にちなんだかどうか、古宇利島には人類創世伝説が残されているのだが、これまた奇妙奇天烈。
それも旧約聖書『創世紀』に酷似していながら、沖縄らしい牧歌的なアレンジが施されており、たいへん興味深い内容なのだ。
『創世紀』では、人類最初の人間であるアダムとイヴがエデンの園で蛇にそそのかされ、禁断の果実を口にしてしまう。
そのことにより、裸でいることに恥じらいを憶え、イチジクの葉で秘所を隠す。
さらに果実に手を出した罰として、男は労働の苦痛を、女は妊娠に伴う苦痛を与えられてエデンの園を追放される話だ。
それに対し、古宇利島に伝わる人類創世伝説はこうだ。
昔々、古宇利島に、空から男女2人の子供が降ってきた。
彼らは無垢の裸のまますごし、毎日天から落ちてくる餅を食べて幸福に暮らしていた。
はじめはそれに疑問を抱かなかったのだが、あるとき、もしも餅が降らなくなったら……と、不安が頭をかすめた。
以来、毎日少しずつ食べ残すようにした。
ところが2人が貯え始めて直後、ついに餅は降ってこなくなったのだ。
たがいに天の月に向かって声を嗄らして歌ったが、餅は二度と降ることはなかった。
それからというもの2人は浜に出て魚や貝を捕り、働くことの苦しさを学んだ。
さらにある日のこと、海の中でジュゴンが交尾しているのを見つけた。
そこで男女の違いに気づき、恥部を蒲(がま)の葉で隠し、子作りを理解したのだった。
この2人こそ、琉球人のご先祖様にあたるのである。
……沖縄のキリスト教伝来は1622年、石垣島に寄港した南蛮船によってもたらされたと言われている。
琉球とキリスト教はあまりつながりがないように思われがちだが、どこからともなく聖書の話が伝わり、
古宇利島の古い歴史とミックスして、こんな奇妙な人類発祥伝説が生まれたのかもしれない。
アダムとイヴとウニの島 古宇利島
http://www.okitour.net/Column/akKouri...
沖縄県国頭群今帰仁(なきじん)村にある『古宇利島』。半径約1Km、周囲が約8kmの小島である。
島にはサトウキビ畑が広がり、昔ながらの沖縄の家屋が建ち並んでいる。
古宇利大橋が開通して以来、観光客もアクセスしやすくなり、週末ともなると島内は賑やかになる。
古宇利島のことを、昔はフィまたはクィ島と呼んだ。その流れで現在では別名『恋島』とも言われるらしい。
その恋島にちなんだかどうか、古宇利島には人類創世伝説が残されているのだが、これまた奇妙奇天烈。
それも旧約聖書『創世紀』に酷似していながら、沖縄らしい牧歌的なアレンジが施されており、たいへん興味深い内容なのだ。
『創世紀』では、人類最初の人間であるアダムとイヴがエデンの園で蛇にそそのかされ、禁断の果実を口にしてしまう。
そのことにより、裸でいることに恥じらいを憶え、イチジクの葉で秘所を隠す。
さらに果実に手を出した罰として、男は労働の苦痛を、女は妊娠に伴う苦痛を与えられてエデンの園を追放される話だ。
それに対し、古宇利島に伝わる人類創世伝説はこうだ。
昔々、古宇利島に、空から男女2人の子供が降ってきた。
彼らは無垢の裸のまますごし、毎日天から落ちてくる餅を食べて幸福に暮らしていた。
はじめはそれに疑問を抱かなかったのだが、あるとき、もしも餅が降らなくなったら……と、不安が頭をかすめた。
以来、毎日少しずつ食べ残すようにした。
ところが2人が貯え始めて直後、ついに餅は降ってこなくなったのだ。
たがいに天の月に向かって声を嗄らして歌ったが、餅は二度と降ることはなかった。
それからというもの2人は浜に出て魚や貝を捕り、働くことの苦しさを学んだ。
さらにある日のこと、海の中でジュゴンが交尾しているのを見つけた。
そこで男女の違いに気づき、恥部を蒲(がま)の葉で隠し、子作りを理解したのだった。
この2人こそ、琉球人のご先祖様にあたるのである。
……沖縄のキリスト教伝来は1622年、石垣島に寄港した南蛮船によってもたらされたと言われている。
琉球とキリスト教はあまりつながりがないように思われがちだが、どこからともなく聖書の話が伝わり、
古宇利島の古い歴史とミックスして、こんな奇妙な人類発祥伝説が生まれたのかもしれない。
アダムとイヴとウニの島 古宇利島
http://www.okitour.net/Column/akKouri...
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ソロモン大王のトンデモ秘宝伝説 江の島
正気か? あの江の島にはソロモン大王の秘宝(時価にして数百億円)が眠っているとされるウワサがあったのをご存知だろうか?
江の島には全部で3つの洞窟があるが、いずれも鍾乳洞ではなく、海水浸水作用によるものだ。
一番大きい穴は第一洞窟で、島の入口の桟橋から約1km、岩屋と呼ばれる島の西南端の断崖の下にあって、その名を金窟、
霊窟とも蓬莱洞ともいわれている。
財宝のある場所と推定されるのは、第一洞窟の奥宮の神壇が祀られているところ。
洞窟の入口は高さ20mと、とにかく巨大。大きな鳥居と祭壇があり、洞窟の奥の神壇裏には直径1mほどの竪穴が空いている。
その穴は深さ78mにも達しているという。
昭和32年ごろ、この竪穴に縄梯子をかけて降りた人の話によれば、穴の底は8畳間ほどの石の部屋で、岩壁には経文や仏像画が刻まれており、
判読できない暗号文字を記した石仏や、岩室の奥には女性器そっくりのものが掘られてあったらしい。
鎌倉時代、源頼朝は家臣の仁田四郎に命じて、富士山麓の風穴を調査させたことがあるが、その理由が「富士山の風穴洞窟のひとつは、
遠く鎌倉から江の島まで人工トンネルで結ばれている」という古文書の記録を確認するためだった。
また、江島神社の由来によれば、552年(仏教伝来の年)のころまでには、この洞窟は『御窟』もしくは『金窟』と呼ばれ、
洞窟のなかからは目もくらむばかりの金色の光を放っていたという。
昭和29年12月5日、その日の産経新聞朝刊に、江の島にてソロモン大王の秘宝を発掘している人物の記事が掲載されている。
その人物こそ、横浜市在住の高根正教氏(当時74歳)。
氏の話によると、ソロモンの財宝が日本にも埋蔵されている結論を得たのは、長年研究を続けていたヨハネ黙示録からだった。
16章の「また天より100金ほどの大いなるヒョウ、人々の上にふりしかば」と、第7章「イスラエルの子らのもろもろの族のなかにて
印せられるものはあわせて14万4千あり」とあることから、「ヘブライ大国のソロモン王の民、十二支族、
14万4千人がそれぞれ100金ずつを持って日本の四国に亡命、持ち運んだ黄金を徳島の剣山に隠した」ということを割り出したというから驚きである。
昭和11年、高根氏たちは剣山の発掘に取りかかったが、終戦直前、当局からにらまれ、工事は中止。
戦後になって、黙示録16章13節の「竜の口より……」から『竜の口』とは、江の島にある滝口寺を指し、つまり財宝は江の島に秘められていると結論づけ、
高根氏は3人の同志とともに、ひそかに江の島の発掘にとりかかった。
そこで黙示録から見当をつけたのは、第一洞窟の突き当たりの『天照大神』『須佐之男命』の二神を祀る祠の真後ろだった。
2mほど岩盤を掘り下げてみると、案の定、竪穴の下にポッカリと空洞が現われたではないか。
この空洞の壁面はきれいに磨かれ、意味ありげな装飾が施されていたという。その後、壁面にあった矢印を頼りに、さらに発掘を続けたものの、
新聞に記事が出てしまったため、またしても宝探しは中断を余儀なくされた。
ほかの資料によれば、高根氏たちが掘り当てた空洞の横壁には、もう1つの横穴があり、地下水の排水路が木材と石を組み合わせて作られており、
その木材には防腐剤が塗布されてあった。その材質を検査した結果、2000年以上の歳月が経ったものと判定された。
とすれば、この空洞は2000年以前に異国人の手によって作られたものとなると主張しているわけだ。
ソロモン大王が死んだのは、今から約3000年前。なんの目的もなく、こんな地底に空洞の石室を作る必要性があるだろうか?
洞窟の奥の小さな横穴は、その後何度か調査されたが、その行き先がどこまで続いているのか、見当もつかないという。
昭和46年の大落石事故があってから、この洞窟は立ち入り禁止になっている。かつて発掘調査した人も、口をつぐんだままである。
しかしながらこの後、洞窟から黄金製のL字形やU字形の破片を拾った人も少なくないのだ。
……財宝はあるかもしれないし、ないかもしれない。いや、あると信じたいものである。
イスラエル王国
http://www.vivonet.co.jp/rekisi/b01_create/israel.htm...
【ソロモン王】江の島岩屋【財宝】
http://blognoakuma.at.webry.info/200510/article_6.htm...
ソロモン大王のトンデモ秘宝伝説 江の島
正気か? あの江の島にはソロモン大王の秘宝(時価にして数百億円)が眠っているとされるウワサがあったのをご存知だろうか?
江の島には全部で3つの洞窟があるが、いずれも鍾乳洞ではなく、海水浸水作用によるものだ。
一番大きい穴は第一洞窟で、島の入口の桟橋から約1km、岩屋と呼ばれる島の西南端の断崖の下にあって、その名を金窟、
霊窟とも蓬莱洞ともいわれている。
財宝のある場所と推定されるのは、第一洞窟の奥宮の神壇が祀られているところ。
洞窟の入口は高さ20mと、とにかく巨大。大きな鳥居と祭壇があり、洞窟の奥の神壇裏には直径1mほどの竪穴が空いている。
その穴は深さ78mにも達しているという。
昭和32年ごろ、この竪穴に縄梯子をかけて降りた人の話によれば、穴の底は8畳間ほどの石の部屋で、岩壁には経文や仏像画が刻まれており、
判読できない暗号文字を記した石仏や、岩室の奥には女性器そっくりのものが掘られてあったらしい。
鎌倉時代、源頼朝は家臣の仁田四郎に命じて、富士山麓の風穴を調査させたことがあるが、その理由が「富士山の風穴洞窟のひとつは、
遠く鎌倉から江の島まで人工トンネルで結ばれている」という古文書の記録を確認するためだった。
また、江島神社の由来によれば、552年(仏教伝来の年)のころまでには、この洞窟は『御窟』もしくは『金窟』と呼ばれ、
洞窟のなかからは目もくらむばかりの金色の光を放っていたという。
昭和29年12月5日、その日の産経新聞朝刊に、江の島にてソロモン大王の秘宝を発掘している人物の記事が掲載されている。
その人物こそ、横浜市在住の高根正教氏(当時74歳)。
氏の話によると、ソロモンの財宝が日本にも埋蔵されている結論を得たのは、長年研究を続けていたヨハネ黙示録からだった。
16章の「また天より100金ほどの大いなるヒョウ、人々の上にふりしかば」と、第7章「イスラエルの子らのもろもろの族のなかにて
印せられるものはあわせて14万4千あり」とあることから、「ヘブライ大国のソロモン王の民、十二支族、
14万4千人がそれぞれ100金ずつを持って日本の四国に亡命、持ち運んだ黄金を徳島の剣山に隠した」ということを割り出したというから驚きである。
昭和11年、高根氏たちは剣山の発掘に取りかかったが、終戦直前、当局からにらまれ、工事は中止。
戦後になって、黙示録16章13節の「竜の口より……」から『竜の口』とは、江の島にある滝口寺を指し、つまり財宝は江の島に秘められていると結論づけ、
高根氏は3人の同志とともに、ひそかに江の島の発掘にとりかかった。
そこで黙示録から見当をつけたのは、第一洞窟の突き当たりの『天照大神』『須佐之男命』の二神を祀る祠の真後ろだった。
2mほど岩盤を掘り下げてみると、案の定、竪穴の下にポッカリと空洞が現われたではないか。
この空洞の壁面はきれいに磨かれ、意味ありげな装飾が施されていたという。その後、壁面にあった矢印を頼りに、さらに発掘を続けたものの、
新聞に記事が出てしまったため、またしても宝探しは中断を余儀なくされた。
ほかの資料によれば、高根氏たちが掘り当てた空洞の横壁には、もう1つの横穴があり、地下水の排水路が木材と石を組み合わせて作られており、
その木材には防腐剤が塗布されてあった。その材質を検査した結果、2000年以上の歳月が経ったものと判定された。
とすれば、この空洞は2000年以前に異国人の手によって作られたものとなると主張しているわけだ。
ソロモン大王が死んだのは、今から約3000年前。なんの目的もなく、こんな地底に空洞の石室を作る必要性があるだろうか?
洞窟の奥の小さな横穴は、その後何度か調査されたが、その行き先がどこまで続いているのか、見当もつかないという。
昭和46年の大落石事故があってから、この洞窟は立ち入り禁止になっている。かつて発掘調査した人も、口をつぐんだままである。
しかしながらこの後、洞窟から黄金製のL字形やU字形の破片を拾った人も少なくないのだ。
……財宝はあるかもしれないし、ないかもしれない。いや、あると信じたいものである。
イスラエル王国
http://www.vivonet.co.jp/rekisi/b01_create/israel.htm...
【ソロモン王】江の島岩屋【財宝】
http://blognoakuma.at.webry.info/200510/article_6.htm...
善行した家だけが残された 翁島(おきなじま)
福島県の猪苗代湖の西北部に位置する湖上の無人島。それが翁島である。
気になるのは翁島という名前の由来。長年、この地に老夫婦が住んでいたことから名付けられたとも言われている。
19世紀のはじめに編纂された『新編会津風土記』には、この島に長年老人が住んでおり、『翁明神』という祠があったことや、
重想なる真言宗の僧が『室生寺』を建てたという話、元和年間に興海という僧がこの島に暮らしたことなどが記されている。
それ以外にも、こんな伝承が残されている。
ある日、このあたりに住む機織りの娘の家に、旅の僧(一説によると、弘法大師だったとも言われる)が立ち寄った。
「あまりの暑さに難儀しております。どうか一杯の水をめぐんでくださらんか」と言った。
しかし機織り女は、「このへんは水不足で、とてもあんたみたいな旅人に飲ませるほど余裕はないね」と、愛想ない返事。
しかたなく旅僧は別の民家を求め、重い足取りで歩いた。しかし訪ねた先の村人に、ことごとく拒まれてしまう。
村はずれにさしかかると、身なりの貧しい女が小川のそばで米をといでいた。
「米のとぎ汁でもかまいません。どうか水を一杯おめぐみください」と、旅僧は声をかけた。
女は快く、「さあ、お飲みください」と言って、自分の大切な飲み水を飲ませてくれた。
「思いやりの心を忘れないあなたには、きっと幸運が訪れるだろう」僧はこう言い残して村を去っていった。
僧が去って3日後、磐梯山が噴火し、大地震が村を襲った。
最初に意地悪した女の家をはじめ、村が湖の底深く沈んでしまった。ただ1軒、貧しい女の家は沈むことなく島として残った。
娘の名を『おきな』といい、これが今の翁島となったのである。
翁島の由来
http://www.kuniomi.gr.jp/togen/iwai/okinasim.htm...
福島県の猪苗代湖の西北部に位置する湖上の無人島。それが翁島である。
気になるのは翁島という名前の由来。長年、この地に老夫婦が住んでいたことから名付けられたとも言われている。
19世紀のはじめに編纂された『新編会津風土記』には、この島に長年老人が住んでおり、『翁明神』という祠があったことや、
重想なる真言宗の僧が『室生寺』を建てたという話、元和年間に興海という僧がこの島に暮らしたことなどが記されている。
それ以外にも、こんな伝承が残されている。
ある日、このあたりに住む機織りの娘の家に、旅の僧(一説によると、弘法大師だったとも言われる)が立ち寄った。
「あまりの暑さに難儀しております。どうか一杯の水をめぐんでくださらんか」と言った。
しかし機織り女は、「このへんは水不足で、とてもあんたみたいな旅人に飲ませるほど余裕はないね」と、愛想ない返事。
しかたなく旅僧は別の民家を求め、重い足取りで歩いた。しかし訪ねた先の村人に、ことごとく拒まれてしまう。
村はずれにさしかかると、身なりの貧しい女が小川のそばで米をといでいた。
「米のとぎ汁でもかまいません。どうか水を一杯おめぐみください」と、旅僧は声をかけた。
女は快く、「さあ、お飲みください」と言って、自分の大切な飲み水を飲ませてくれた。
「思いやりの心を忘れないあなたには、きっと幸運が訪れるだろう」僧はこう言い残して村を去っていった。
僧が去って3日後、磐梯山が噴火し、大地震が村を襲った。
最初に意地悪した女の家をはじめ、村が湖の底深く沈んでしまった。ただ1軒、貧しい女の家は沈むことなく島として残った。
娘の名を『おきな』といい、これが今の翁島となったのである。
翁島の由来
http://www.kuniomi.gr.jp/togen/iwai/okinasim.htm...
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スレッドタイトル:怖い島・いわくつきの村・総合