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続・怖い島・いわくつきの村


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001 2013/10/13(日) 18:57:55 ID:/PiSTRs3Ps
全国に散らばる、おっかない伝承伝説が伝わる離島専用スレッド第2弾です(若干ながら村ネタもあり)。
もちろん島の奇祭や神秘の風習、島のみならずワケあり岩礁や奇岩なども含み、いかがわしいオカルトにとどまらず、
れっきとした民俗学としての側面を持ち合わせています。島ネタに関して異常に特化したソレを目指すつもりです。

……前スレが500レスに達する前に続編を立てた理由は、サイズが500KBを超過してしまい書き込めなくなったためです。
せっかく満杯になるまで文字で埋め尽くし、有終の美を飾ろうとしたのにカウンターストップとは……。いささか文章がボリューミーすぎたかも。
まあ、めげずにご要望に応え、続・怖い島と行きましょう。

ちなみに……スレ自体を保存し、あとで読む方法をお教えします。
書き込みできなくなったスレは後ろへ流れてしまい、新スレが立ち上がるたび、古いものから消えてしまいます。
そうなる前に貴重なスレは永久保存しておきましょう。前スレはネット世界は広しといえど、近年類を見ない極上の資料スレですぞ。
以下は、その手順。

任意のスレ内の適当な空白で右クリック→プロパティ→アドレスをコピー→画面上部のアドレス直接入力枠にペースト→そのアドレスへ飛ぶ→
このスレが表示される→ファイル→名前を付けて保存。

※スレ画は前スレ>>188で紹介した、愛知県蒲郡市、三河大島にある仏島(島というより岩礁だが)。


癒されたい僕のブログ カヤック編 三河大島へ
http://blog.livedoor.jp/usa_usao5/archives/1697874.htm...

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002 2013/10/13(日) 19:04:15 ID:/PiSTRs3Ps
     13代続く島守だけが住んでいた島 妻ヶ島

長崎県の壱岐島にある石田町印通寺港の南、約500mにある島を妻ヶ島という。
この島は前スレ、>>62で紹介した平野仁右衛門一家だけが住む仁右衛門島と同じく、1世帯だけの『島守』のみが住む島だ。
住人である百崎(ももざき)さんは江戸時代から数えて13代目。聞くところによると、松浦の殿様の側室付き人の血脈だとか。
百崎夫婦はおしどり夫婦として名が知られ、かつては島の暮らしぶりを描いた著書も出版された。島では牛を飼い、自給自足の生活をしていたとのこと。
もっともその百崎夫婦も高齢になられ、平成14年になって壱岐本島に転居しており、現在、妻ヶ島は無人となってしまったそうだ。

また島には百崎さんの生家と厩舎だけでなく、衣通姫(そとおりひめ)神社もある。祀られている神、衣通姫とはなんであろうか? ウィキにはこうある。
記紀(古事記と日本書紀との総称)では絶世の美女と伝承される人物で、あまりにも美しさで衣を通して輝くことからこの名がある。
本朝三美人の1人とも称される。
古事記と日本書紀では衣通姫の設定が異なる。古事記には、允恭天皇(いんぎょうてんのう・在位412〜453年)皇女であり、
同母兄である軽太子(かるのひつぎのみこ)との兄妹による許されざる恋に落ちる。それが原因で天皇崩御のあと、軽太子は群臣に背かれて失脚。
伊予へ流刑となるが、衣通姫もそれを追い、再会した2人は心中する。これを衣通姫伝説として伝えている。

また日本書紀においては、允恭天皇の皇后忍坂大中姫(おしさかのおおなかつのひめ)の妹・弟姫(おとひめ)とされ、允恭天皇に寵愛された妃として描かれる。
近江坂田から迎えられ入内し、藤原宮(奈良県橿原市)に住んだが、皇后の嫉妬を理由に河内の茅渟宮(ちぬのみや、大阪府泉佐野市)へ移り住み、
天皇は遊猟にかこつけて衣通郎姫の許に通い続ける。皇后がこれをいさめ諭すと、以後の行幸は稀になったという。
いずれにせよ、島の歴史や生誕につきものの女の悲劇がここにも見受けられる。しかも衣通姫のソレは、あまりの美人がゆえの受難であった。
なぜこうも女の悲劇譚が多いのか、近いうち言及するつもりだ。

余談だが、嫁ヶ島は2010年にテレビ番組の企画で話題となった。
テレビ朝日系の、『いきなり!黄金伝説。』の中の企画、よゐこ・濱口の「獲ったどー!」で有名な『無人島0円生活』で舞台となったことがあるのだ。
百崎夫人自らが濱口あてに手紙を送り、そこから実現した。文面には妻ヶ島での生活を懐かしく思い、もう一度島のおいしいお米や野菜を食べられるようにして
欲しいと綴られており、その切なる願いが通じたようだ。

文明の利器が普及しておらず、いくら生活に支障をきたすほど不便でも、長年住み慣れた土地は離れ難いものだ。
島守であった人の心にはいつまでも『島』が浮かび、『島』こそ全世界だったにちがいない。
小さな『島』であったけれど、百崎さん夫婦にとって世界は広かったはずだ。伝統を守り続けたことを誇りに持って欲しい。


司馬遼太郎が見た壱岐の風景 唐人神
http://mtv17.ninpou.jp/iki2/kaidou/kaidou.htm...
印通寺散策
http://www.ikishi.sakura.ne.jp/intuuzi.htm...
衣通姫伝説wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A1%A3%E9%80%9A%E5%A7%...
ザ・テレビジョン 「黄金伝説」がついに無人島の開拓に成功!? 濱口優が「今までにない伝説になった」と自信
http://news.thetv.jp/article/18290...

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003 2013/10/13(日) 19:39:17 ID:LnSe8g1X12
     7月11日にしか上陸できない秘境島 小築海島(こづくみじま)

三重の鳥羽湾、および県内ではもっとも大きい島である答志島から、さらに北上したところには小築海島という無人島がある。
周辺は禁漁区に指定されており、普段は人が立ち入ることができない。
小築海島は古くから秘境の島と呼ばれていた。島には神社があり、祠や石の祭壇が祀られており、毎年祭りが催される。
7月11日だけ地元の漁師だけが島に上がることが許されるという。そして答志島の八幡神社に供えるアワビを漁協青年部が採らねばならない。
代わりに小築海島から答志島へ桑やススキの葉を持ち帰り、八幡神社に採ったアワビを奉納し、海上安全と大漁祈願をする。
また小築海島の近くには洞窟があり、その洞窟は『9人ぼうら』と呼ばれている。名称は遭難者9人がこの洞窟で発見されたからだそうだ。


Archive.is - webpage capture 答志島海岸線調査
http://archive.is/vYKD...
海女のまつり
http://www.city.toba.mie.jp/kikaku/ama/documents/ama54-55....

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004 2013/10/13(日) 19:44:20 ID:LnSe8g1X12
     百日通いの九十九日目の悲劇 お初伝説 初島

初島は静岡県熱海市の網代から東へ約6kmの海上に浮かぶ静岡県内最大の有人島である。
今から1万年前の氷河期終息による海面上昇で、現在の網代辺りと切り離されるように残ったのが初島であり、島内からは7千年前の土器や石器、
また初木神社社殿下からは古墳時代の祭祀場跡が見つかるなど、古代人との関わりがあったことが知られている。

集落は島の北側に集中しているが、この集落がいつごろできたのかは不明。東明寺の建立が西暦800年ごろ、初木神社の創建は鎌倉時代の始めあるいはそれ以前、
竜神宮もそれに順ずる古いものだとされ、鎌倉期にはすでに小規模な集落ができていたと考えられている。
漁業と、限られた土地を耕す生活が連綿と続き、江戸時代後半になると耕作地や水源、漁獲を島民で均等に分け合う共同体生活が営まれるようになり、
初島特有の、「次男以降は島を出て、跡取りがいない家は婿養子をとる」という決まりごとが頑なに守られ、江戸時代から現代に至るまで40戸前後の
家と島の平和が維持されてきた。

そんな初島には、これまた女の悲劇譚が後世に語り継がれている。それが『お初伝説』である。
昔、初島にはまだ住人が6軒家族しかない淋しい島だった。
17才の美しい娘が伊豆山(伊豆半島・熱海)の祭りで、右近という若者と出会い、好きになった。 
「百夜通ってくれば結婚しよう」という約束を結び、お初は毎晩タライに乗って3里もの距離を渡って通ったのだが、99日目の夜、
なんとお初に横恋慕を抱いていた男が灯台の火を消してしまう。お初は海を渡りきれず、波に飲まれて命を落とした。
それを知った右近の悲しみはいかばかりか。右近は彼女を弔うため、いつ帰ると知れたものではない諸国巡礼の旅に出たという。
因果なことに、灯台の火を消した男は7日7晩、苦しんだ挙句死んだそうだ。

集落のそばには『お初の松』と名付けられた松の木が佇み、こんな悲しい歌が添えられている。
『島の乙女のはや胸に、秘めて高鳴る琴の緒の断たれて悲しい恋の火よ』


初島にいこうよ。
http://www.hatsushima.jp/find/legend.htm...
伊豆:初島
http://hobbyland.sakura.ne.jp/Kacho/tabi_yukeba/2008/2008_07...
百夜通い(ももよがよい)wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%99%BE%E5%A4%9C%E9%80%...
とっしーのツイッターまとめ blog 百夜通いの謎を推理する(1)
http://toshiey.cocolog-nifty.com/twitter/2012/02/post-d3a1.htm...

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005 2013/10/14(月) 07:48:32 ID:IlhFosf6t.
     百夜通い伝説の亜種 百夜月(ももよづき)集落

実は>>4の小野小町の『百夜通い伝説』とそっくりな伝説がある集落が、僕の地元からそう遠くないところにある。
それが『百夜月』というちっぽけな集落で、その惹きつけられる地名のとおり、ロマンチックな伝説が残されているから印象深い。
それも併せて収録しておきたい(もっとも、別スレ『地域の伝説やまじない・風習』の>>70で書いたのだが、個人的趣味で再収録)。
若干、スレチになるかもしれないが、村ネタということでご容赦を。

三重県熊野市紀和町花井(けい)に、上述した百夜月という風情ある地区がある。
北山川沿いにあり、今どき対岸の和歌山県新宮市熊野川町九重から、渡し船で渡ってでしか行き来できない陸の孤島のような集落である。
そこに百夜月と名付けられる元となった伝説が残されているのだ。

かつて、そこには光月山紅梅寺という寺があった。寺には若くて美しい1人の尼僧が住み、 仏道修行に励んでいた。
美人の尼僧は近隣村の若者たちの憧れの的でもあった。
対岸に住むある若者が彼女に会いたいと思い立ち、昼間では村人に知られるとなると尼僧に迷惑をかけてしまうので、夜陰に乗じて川を渡って会いに行こうと決意。
ところが川を渡ろうとするも、山の上に姿を見せた月があまりに明るいため、これでは村人に露見してしまう。結局その晩は行くのを諦め、家に引き返した。

次の日もその次の日も、若者は尼僧に会いにいくべく川まで下りるのだが、いずれも月明かりがまぶしくて行くことができない。
「今晩で何度目だろうか……」と、数えてみると、九十九夜目であった。
とぼとぼ家に帰り、母にそのことを打ち明けると、母は「あの方は仏様をお守りしている方だから、きっとお前が好きになってはいけない人なんだよ。
お月様の光は人々が悪さしないように、いつもあたりを照らしているんだね。だから百夜通っても想いは届かないってことさ。もう諦めなさい」と諭した。
それからというもの、この土地を百夜月と呼ぶようになった。

……そんな百夜月も、最近までたった1戸残っていた老人も今はいなくなってしまったようだ。というわけで完全に廃村となったわけだ。
百夜月集落はこれから朽ち果てていく一方なんだろう。こんな叙情的な伝説がありながら、なんともったいない……。


〜東紀州情報発信ブログ&twitter〜 ☆尼僧伝説 百夜月☆
http://blog.livedoor.jp/higashikishu/tag/%E7%99%BE%E5%...
百夜月
http://www.momoyoduki.com/momoyoduki.htm...
三重・熊野ふるさとBlog 川を渡る梅!!!!!
http://blog.murablo.jp/kiwafurusato/kiji/244253.htm...

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006 2013/10/14(月) 07:50:47 ID:IlhFosf6t.
     悪さする犬を断崖から投じた『犬の門蓋』 徳之島

徳之島は南西諸島の奄美群島に属する離島の1つ。鹿児島県内では奄美群島は奄美大島を中心とする、奄美地方という地区に分類される。
面積は約247.77km2、周囲およそ80km。日本では北方領土の色丹島よりやや小さく、14番目の面積を有する。人口約27,000人の島だ。

徳之島には平土野集落から南側へ入ってそんなに遠くない場所に、犬の門蓋(いんのじょうふた)と呼ばれる景勝地がある。
それは洞門状の奇岩で、穴は隆起した珊瑚が季節風や東シナ海の荒波によって浸食されたものらしい。
なぜ犬の門蓋なる地名なのだろうか? その由来となった話がこうだ。

昔、大飢饉が猛威をふるったことがあった。そのときに人間だけではなく獣たちも飢えた。
犬の群れが集落に出没しては人畜を襲い、それを食らったため、島民は頭を悩ませた。
ついに決断することになる。犬の群れを生け捕りしては断崖から投じて始末したというのだ。
それ以来、この地は犬の門蓋と名付けられたという。

門蓋は西向きに屹立しているので、この穴越しに眺める夕日は美しいとの評判。
そんな絶景の裏には、まさかこんな極限状況で生まれた陰惨な話が横たわっているとは……。


『島の散歩』 犬の門蓋(徳之島)
http://shimanosanpo.com/churajima11/tokuno00/innojyouf...
かごしま検定をめざす鹿児島案内 徳之島の畔プリンスビーチ
http://blogs.yahoo.co.jp/kagoshimaboy_2009/folder/59623...
徳之島町の史跡・聖地めぐり(PDF:2553KB)
http://www.tokunoshima-town.org/shakaikyoikuka/kurashi/kyoiku/...

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007 2013/10/14(月) 08:22:58 ID:1z.n8nYH3U
     見てはいけない男子禁制の秘祭『祖神祭』(ウヤガン) 大神島 1

沖縄県宮古島市に属する宮古列島の1つである大神島。面積は0.24km2、人口は約40人足らず。
前スレ>>79で海賊キャプテン・キッドが大神島に自身の財宝を隠したという伝説を書いたが、島にはそれ以外に秘密のベールに包まれたウヤガンなる
祖神祭があると知ったとなると、いやがうえにも興味をソソられるのは浅ましき人の業と言うべきか。

大神集落は港がある島の南部に固まっている。また島中央には標高75mほどの高台があり、宮古島、池間島などを一望することができる。
眺望は素晴らしく、とりわけサンゴ礁の海に描かれるエメラルド色のラグーンは、この世の楽園もかくやと思われるほど美しい。
この高台を遠見台(とおみばる)と呼ぶ。この地はかつて琉球王朝時代には、外国船の往来を知らせる狼煙台の役目を担ってきた。
ふだんの日は誰でも上にあがることが可能なものの、祭祀に関わる特別な日になると極端に立ち入りが制限される。
というのも、遠見台のはるか上には神が宿るとされる巨岩があり、神域として指定されているからだ。

実は大神島には上述したような神聖な場所が無数に存在する。それが森の中の洞窟であったり水辺であったりもする。
そのような聖域は御嶽(うたき・琉球神話に記された神々が来訪したり存在する場所で、祖先神を祀る場所)として崇められている。
大げさに言えば、集落以外のほとんどが聖域だといっても過言ではない。
沖縄は観光する分には開けた感があるが、宮古は特殊であると言う人は少なくない。ましてや大神島は観光地化されておらず(宿泊施設はおろか売店すらない)、
古くから周囲の島の人々から『神の島』(それにしてもこう冠された島の多いこと!)、もしくは島そのものがご神体と言われ尊ばれてきた。
国内最大級の聖地だとする声もあるほどだ。

大神島の御嶽の場合、祭祀を執り行う関係者……選ばれた女性しか立ち入ることができないのだ。
それは伝統的な祭祀である祖神祭(ウヤガン)になると、タブーはより厳しいものなる。これは旧暦6月〜10月の間、毎月12〜14ごろから4、5日間、
計5回行われる祭りで、豊穣や健康を祈るものだ。男子禁制であり、島外者にすら公開されない秘祭中の秘祭である。
公開どころか、その内容を説明することさえタブーとされている。関係者である女性たちは、家族にすら語ってはいけないのだとか。
もしも禁を破ったものなら、恐ろしい祟りがあると信じられているという……。
祖神祭自体は大神島だけではなく、宮古島の狩俣(かりまた)、島尻(しまじり)でも行われるが、島尻は1997年まで、狩俣では2001年まで行われたのを最後に、
祭祀関係者の女性の高齢化と、後継者の不在により中断されている。その中で唯一、大神島のソレだけが現在も引き継がれている。

祖神祭には何かとオカルト的な言い伝えが散見される。こんなことを書くのは、いささか躊躇われるのだが……。
今から70年ほど前、ある大学教授が祖神祭の秘密を暴こうとして島へ渡り、祭りが行われている山中に忍び込んでその様子を撮影したらしい。
ところがその教授は島から戻ったとたん急死。教授を信用して撮影に協力した島民一家もまた次々と怪死を遂げたという。
また、過去に1人だけ祖神祭の全容を調査し、記録した女性の学者がいた。その女性学者は10年来の時間を費やして大神島を行き来し、
すっかり島民と打ち解けた仲になっていた。だが、調査内容は決して論文にまとめることをせず、記録をすべて封印した。
……と、こう書くと、なんとも芳ばしい香りがするが、その実、島の人いわく、なんの変哲もない豊年祭にすぎず特筆に値するほどのものではないと否定する。

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008 2013/10/14(月) 08:28:55 ID:1z.n8nYH3U
     見てはいけない男子禁制の秘祭『祖神祭』(ウヤガン) 大神島 2

見ると祟りがある秘匿性の高い祖神祭。それはどんな祭りなのだろうか。
ならば見ずして、どうにか祭祀の一部だけでも知ることができないかと探りを入れた結果、少なくとも以下のことだけはつかめた。
箇条書きだが、これが祭祀の準備から本番に至るまでの大まかな流れだ。

①祭祀を執り行うのは『ウヤガミ』と呼ばれる祭祀集団である。
②『ウヤガミ』は『ウヤガミ筋』なる血筋の家からしか現われることがない。
③ウヤガミは神がかりを受けた女性(主婦である場合がほとんど)しか選ばれない。祖神祭に参加できる人は、毎年11人ほど。
④祭祀の時期になると、ウヤガミはある日突然、神が憑依したとされ意識不明に陥るという。全員が同時刻に同じ神がかり体験をし、同じ日の夕方に家を抜け出す。
祭祀が行われている4〜5日の間は、断食状態になり帰宅すらしない。
⑤ウヤガミがひとたび山篭りすると、聖域(とくに祖神祭の中心となる大神御嶽)には誰も足を踏み入れてはならない。
⑥ウヤガミの女性たちは円陣を組み、フサ(神歌)を謡って踊る。フサはフサヌス(白装束の女性)の音頭取りで謡われ、そのあとを続いて他のウヤガミが謡い踊る。
⑦踊りはフサヌスを取り囲んで、立って手にしているテーフサ(手草)をこすり腰を振る。単調な踊りながら、場合によっては長時間続く。
⑧木の葉で編んだカウス(木の葉で編んだ帽子のような草の冠)を目深にかぶり、手に木の枝や杖を持つ。
⑨手にはテーフサをもち、腰には神の糸・アヤと呼ばれる五色の腰ヒダを吊るしている。
⑩島外者はもちろん祭祀に関係のない島内の人間や、ましてや男がウヤガミたちと出会ったり、真正面から見るなどもってのほかとされている。
⑪祭りはすべて神役の女たちで話し合われて執行されるため、男たちや身内にさえ一切秘密裏に行われる。

日本には古来より女性をカミ(=神)として位置づける考えがある。ここ大神島をはじめとする沖縄や奄美諸島、伊豆諸島などである。
沖縄などでは、村の女性が、ある年齢に達すると、『カミンチュ』としての役職を司る。
カミンチュは村の年中行事のすべてを携わらねばならない。また伊豆諸島の新島では、隠居した女性は、『ヤカミ(家神)衆』と呼ばれ、やはり祭事、仏事を司るのだ。
東北のイタコなども同義といえよう。
このように、女性は神や先祖を代弁する役割(シャーマン)として、共同体になくてはならない役目を担ってきた。
いずれにせよ、島は彼女たちの領域だ。土足で踏み荒らすなどあってはならない。好奇心も大概にしとけってことである。


Diving Mania ダイビングの気になるネタ 大神島の伝説と謎 〜大神島の祭祀〜
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沖縄ジョートー市場ブログ『ななろぐ』 神の島・大神島 〜宮古諸島
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STUDIO VOICE 比嘉康雄展「母たちの神」
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009 2013/10/20(日) 01:56:29 ID:XEWJx8j1BI
     骨まで貪り喰らった海獣の正体とは? 海獺島(あしかしま)

神奈川県横須賀市、東京湾フェリー久里浜近くの沖に浮かぶ海獺島という無人島がある。画像右の灯台のある方がそれだ。
字面から『らっこ島』とも読まれることも多いが、可愛いイメージがある反面、昔、この地にいたとされる海獣が獲物を血を滴らせ、
骨まで貪り喰ったことから『鬼畜島』とも呼ばれていたらしい……。いろいろ調べてみたが、これ以上詳細はわからなかった。
海獣の正体とはなんであったのだろうか?
また海獺島は、かつて日本海軍が砲撃練習の標的に利用された島として知られている。砲弾の先端には艦独自の染料が入っており、着弾時に色で識別したという。


あぁ〜つかれる!! 東京湾フェリー
http://blog.goo.ne.jp/a-y_2006/e/a7ca4ae683b2060842b...
満天☆の海-2 アシカ島(観音崎ー剣崎間)の危険海域
http://mantenbosi.exblog.jp/10573061...

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010 2013/10/20(日) 01:59:23 ID:XEWJx8j1BI
     東洋のローレライ伝説 屋慶名(やかな)海峡

沖縄県うるま市に属する藪地島(やぶちじま)という無人島がある。勝連半島の東側に位置し、沖縄本島とは藪地大橋で結ばれている。
約300年前までは有人であったという。現在、島の一部は農地で、本島の住民が農業に従事している。

勝連半島と薮地島に挟まれた水路のことを屋慶名海峡と呼んでいる。さて、今回のネタは藪地島自体ではなく、むしろこの海峡にあり。
ドイツのライン川に伝わるローレライ伝説をご存知だろうか? 長大なる川の途中で水面から130mもの突出した岩山があり、川幅が狭くなっているうえ流れが速く、
浅瀬がそこかしこに潜んだ一番の難所であるため舟による転覆事故が後を絶たなかった。
それが転じて、「岩山に佇む美しい少女の姿と、その魔力を秘めた歌声で船頭を虜にするがため、舟が川の渦に飲み込まれてしまう」という伝説を作り上げた。
ローレライは岩山そのものであると同時に、この岩の妖精、あるいはセイレーンの一種であるという。

その伝説と酷似した話が、なんとこの屋慶名海峡にもあるというのだ。
「晴れた日には沈没した大和船(本土の船)の霊が和歌を歌い出す」だとか、「喪中の人が海峡を渡ると波が立つ」とかまことしやかに伝えられている。
もっともこの海峡には乙女こそ姿を現さないが、ここを通る船は岸辺にある、拝所『東大神(ヒガシウーカン)』の前で帆を降ろし、頭を下げてから船を走らせないと、
波が荒れ、この先を航行することができなかったとさえいう。

あるとき、このしきたりを知らない大和船がやってきて、こともあろうか拝所の香炉で刀を研いでしまった。
これが神の逆鱗に触れ、あっという間に船は転覆させられたと伝えられている。
それからというもの、晴天の日はどこからともなく櫓音とともに舟歌が聞こえてきたというのだ。


ローレライwikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%...
島の散歩 藪地島
http://shimanosanpo.com/churajima01/yabuchi00...
ジロの沖縄の徒然 東洋のローレライ
http://seseragijiro.at.webry.info/201302/article_6.htm...
ネオアイランド〜horizon〜 沖縄県うるま市与那城屋慶名・屋慶名海峡展望台(やけなかいきょうてんぼうだい)の下へ。
http://blogs.yahoo.co.jp/neoisland2/30808078.htm...

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011 2013/10/20(日) 02:25:35 ID:MTfFrTuV8M
     掟を破った者の末路……お浦と治作の悲恋物語 情島(なさけじま)

情島は広島県呉市阿賀港の南南西の沖合い約8kmに位置する有人島でありながら、世帯数は9、人口は10人にも満たず、
限界集落も瀬戸際まで立たされている。そんな情島にも『お浦と治作(おうらとじさく)』という哀れな男女の恋が引き裂かれる物語がある。

昔、瀬戸島(現在の倉橋島)の波多見(呉市音戸町)に、お浦という美しい娘がいた。
島の若者はお浦に言い寄るのだが、ことごとくあしらわれていた。袖にされた若者たちは、なぜ相手にされないのだろうと苛立つばかりであった。
どうにも納得のいかない。男たちはお浦の行動を監視することにした。
実はお浦には意中の人がいた。激しい恋に燃えてるのに他の男など眼中に入るはずもない。
月夜の晩、波多見の岬でお浦が1人待ち続けると、やがて小舟に乗って若者が渡ってきた。若者は浜に下り立つと、お浦をひしと抱きしめた。

「あの男は餘所村(よそむら)の治作じゃねえか!」見守っていた若者の1人が声を殺して言った。
「餘所だと? 夜中にコソコソとやってきて、お浦と逢引してたのか!」と、他の若者も激昂した。
「おれたちを差し置いて、餘所の男に取られてたまるか……」
瀬戸島の波多見では、餘所村の者と恋愛してはならないという厳しい掟があった。お浦と治作はその掟に背くことになる。
そんな若者たちの憤懣やるかたなき思いをよそに、2人は小舟に乗って沖に浮いた誰も住んでいない孤島に渡った。2人は毎夜、こうして逢瀬を重ねていたのだ。

ある日、若者たちは同じように波多見の岬で待ち伏せしてから、島に渡る前に灸を据えてやろうと決めた。
2人が揃ったのを見届けると、物陰から一斉に出て、お浦と治作を取り囲んだ。手には棒切れ。殺気を感じた治作はお浦を背中に回した。
「なんだ、おまえらは……おれたちをどうする気だ」と、治作。
「よくもぬけぬけと餘所から来たもんだな。掟を破ってお浦と乳くりあってたとは恐れ入るわ」
「掟がなにさ。治作さんとは別れるつもりはないわ」お浦は言った。
「うるさい。今からでも遅くない。お浦とは金輪際会うな。そして二度とこの島に来るんじゃねえ」

1人の若者が治作の腕を取った。治作はすかさず前蹴りを相手に放つと、包囲網にほころびが生じた。お浦の手をつかむと円陣を突破した。
「逃がすか!」「追え、追うんだ!」
治作とお浦は追っ手をまこうとしたが、しかしながら多勢に無勢、相手の男たちは数が多すぎた。
そのうち岬の突端に追い詰められてしまい、万事休す。あろうことか治作は足を滑らせ、海に転落してしまった。
「治作さん! 治作!」お浦の悲鳴がむなしくこだました。

翌朝、治作の変わり果てた遺体が浜辺に打ち上げられた。
お浦は嘆きは深く、その夜、治作が落ちた岬から同じく身投げして命を絶ってしまった。
この悲劇の結末に波多見の人々はみずからの行為を後悔し、岬の上に祠を建てて2人の霊を弔った。その後、この岬は『お浦の鼻』と呼ばれるようになった。
また、お浦と治作が人目を忍んで逢瀬を重ねていた島を『情島』と名づけたという。


阿賀まちづくり推進協議会(まち協) まちしるべ 旧町名「情島」
http://26.pro.tok2.com/‾agamachi/photo/machishirube/nasakezima.htm
:Elliott-7さんの旅行ブログ 瀬戸内,気ままなヨットセーリング・・・・過疎の島で男の隠れ家発見!
http://4travel.jp/traveler/elliott-7/album/10513...
お浦と治作
http://homepage2.nifty.com/buchaneko/kure/minwa/ouratojis...

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012 2013/10/26(土) 11:43:38 ID:vH2suprj1o
     夫の無事をひたすら祈り待ち続けた妻と無蔵水 伊平屋島(いへやじま)

沖縄本島北端、辺戸岬の北西約33kmにある沖縄最北の有人島、伊平屋島。
太陽に照り輝く美しい島の意である『てるしのの島』と呼ばれ、さまざまな伝説、神事や伝統行事が継承されている。
島の歴史は古く、琉球王朝の第1尚王朝・尚巴志の祖先・屋蔵大主(やぐらうふぬし)生誕の地として知られ、
屋蔵墓や天の岩戸などの史跡や伝説など、琉球史を語るうえにおいて欠かすことのできない貴重な島だという。

その伊平屋島には無蔵水(んぞうみじ)と呼ばれる大岩があり、とある伝説が残されている。それが以下の内容である。
昔、田名村に若い夫婦がいた。
ある夏のときであった。夫は小舟で田名岬の沖へ釣りに出かけたはいいが、前触れもなく強風と高波に襲われて漂流してしまった。
2、3年の間、皆目行方が知れず、村人たちはもう助かってはいまいとあきらめていた。
妻はまわりから諭され、村一番の美人だっただけに再婚話を持ちかけられたが、彼女は頑として、
「きっと夫は生きています。私はあの人が帰るまで待ち続けるつもりです」と言って聞かなかった。

そして小山ほどの大岩の上で1日と欠かさず、夫が消息を絶った沖合の見える方角を見守り、ひたすら無事を祈った。
数年後、奇跡は実現した。夫が無事に妻のもとに帰ってきたのだ。その後、2人は仲睦まじく家を興し、立身出世したという。
当時の村人たちはこの妻の貞操を讃え、女性たちへの教訓歌を作り残している。

この岩のてっぺんにある周囲6m、深さ50cmの水たまりが無蔵水と言われているもの。
水は決して涸れることはなく、それはまさしく夫の無事をひたすら信じ抜いた、妻の無償の愛のように滾滾と湧き出ているそうだ。


てるしのNET 伊平屋村 役場観光ガイドマップ|伊平屋村ホームページ
http://www.vill.iheya.okinawa.jp/detail.jsp?id=12532&menuid=423...
離島の旅日本の旅 伊平屋島
http://islands.travelaround.jp/okinawa/iheya.ht...

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013 2013/11/04(月) 15:46:38 ID:D2Glt/ToHo
>>1 いつも感心しながら読んでます。 
ここまで調べているならサイト立ち上げて残してほしい。いや、マジで。

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014 2013/11/04(月) 20:55:11 ID:Rltr9sTrYk
>>13
そう言ってくれて感謝。
サイト立ち上げは考えたことがあるけど、あくまで余興でやってるだけだから勘弁ね。
飽きっぽい性格だから、たぶんモチベーションが持続しないと思う。それに最近はネタも枯渇しつつあるし、
このスレも続編を立てたはいいがどこまで続けることができるかどうか怪しかったり……。
そういう危ういバランスを保ったまま、這うように進んでいくだけです。


     罪人を突き落とした処刑場跡・三丁落鼻 与路島(よろしま)

鹿児島県は奄美群島に属する有人島の与路島。島には集落が1つしかない。
家々はサンゴを積み上げた石垣が連なり、南方系特有の景観が広がっている。標高297mの大勝山を中心に、ほとんどが山で形成されている。
そんな与路島には島の南側に『三丁落鼻』と呼ばれるいわくつきの断崖絶壁がある。ここはかつて藩政時代、罪人の処刑場だったのだ。
処刑法は罪人をこの断崖から突き落とすやり方。高さは優に100mを超える。落ちたらひとたまりもあるまい。

あるとき、役人が1人の罪人を引きつれて三丁落鼻に行き、刑を執行することになった。時刻はまさに太陽が東から昇ったばかりの早朝。
刑の執行前、罪人は役人に向かってこう言った。
「あんなきれいな太陽を前にして死んでいくのは忍び難い。どうせこの世から消え去るなら、せめてささやかな頼みを聞いてくれ。
どうか太陽を背にしておれを落としてくれ。そもそも海の方を向いて突き落とされるのは怖い」
「どちらに転んでも、もうすぐおまえは死ぬんだ。……よかろう」と、役人は了解した。

ところが突き落とす瞬間、罪人はとっさに役人の胸ぐらをつかむと抱きしめ、もろとも転落した。怒涛が2人をかき消した。
これ以来、三丁落鼻での処刑は行われなくなったという。


SIESTA 秘島・大島海峡クルージング
http://www.nippon-ocean.jp/plan/kakerom...
徒然なる奄美 与路島・海物語
http://amamiturezure.blog67.fc2.com/blog-entry-440.htm...
奄美ホライゾン日記blog
http://amahorizon.exblog.jp/i5/32...

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015 2013/11/04(月) 21:00:18 ID:Rltr9sTrYk
     サバイバルの殿様、リベンジャーとなり生還を果たす 玄界島(げんかいじま)

玄界島は福岡湾の出入口に浮かぶ離島だ。標高218mの遠見山を中心に斜面が海岸線まで続き、平地はほとんどなく、
港がある南側の斜面に集落が張り付くように軒を並べている。
玄界島には太古より『百合若伝説』が伝えられており、それにまつわる小鷹神社が鎮座している。
百合若伝説は日本八大伝説の1つで、室町時代には幸若舞として脚色され、のちに近松門左衛門の浄瑠璃に影響を与えているという。
その伝説とは以下のとおりである。

昔、豊後の国主である百合若大臣という巨漢の殿様がいた。百合若は唯一、鉄の弓を引くことができる名人でもあった。
あるとき遠征に出かけた際、部下である別府貞澄の裏切りに遭い、当時は無人島であった玄界島に1人取り残されてしまう。
しかし強靭な意志をもつ百合若は、必ず故国に帰ることを誓い、木で作った弓で魚を射ては、それを食って生き抜いた。
とはいえ島での忍従生活は無味乾燥なものだった。耳に入るのは波が打ち寄せる音だけ。目にするものは大海原と空のみ。
夜、寝そべり、夜空の星を数えるでしか無聊を慰めるしかない。いつしか孤独に打ちのめされ、心が折れそうになる。
しだいに着ている服はボロ同然となり、髪もひげも伸び放題、肌は真っ赤に日焼け、さながら赤鬼のように変わり果てた。
かつての地位は見る陰もなかった。

しばらく経ったある日、百合若が獲物を狙っていると、空から1羽の鷹が飛んでくるではないか。
紛れもない。それはかつて百合若が可愛がっていた『緑丸』に相違ない。幾百の孤独の日々に耐え忍んできた百合若にとって、
愛鷹との再会は天にも昇るようであった。
百合若はさっそく着物の端をちぎってそれを紙とし、指を切って血文字で自身の無事をつづり、妻宛にと緑丸の足に手紙をくくりつけた。
あとは緑丸が無事豊後の国に帰り、妻に届けてくれるよう願うしかあるまい。
ところが待てど暮らせど緑丸は戻ってこない。ある日、島を散策していると、波打ち際に緑丸が力尽きて死んでいるのを発見する。
百合若は嘆き悲しんだが、緑丸の足に妻からの伝言が結わえてあるのを見つけると、むさぼるようにそれを読んだ。
手紙によると、裏切り者、貞澄は大臣になっていた。しかも百合若の妻を奪った挙句、牢に閉じ込めたうえ、民衆には重税を課し、
自身を含め権力者たちは贅沢の限りを尽くしていた。民はいま、絶望に打ちひしがれているという。

百合若の身内に沸々とマグマのような怒りがこみ上げてきた。
このまま野垂れ死にしてなるものか。必ずや豊後へ舞い戻り、妻を奪還し、奴に復讐の一矢を突き立ててやる。
その願いが天に届いたか、1艘の難破船が漂着した。百合若はそれを修繕し、ついに玄界島を脱出。一路、故国を目指す。
折しも豊後の国では、貞澄が力自慢の部下を集めて、鉄の弓を引かせる催しに戯れていた。みごと弓を引けた者には褒美を取らすという。
部下はこぞって挑戦するものの、鉄弓はビクともしない。何人束になってかかろうがまるでダメ。
そのとき、屋敷の屋根の上で、呵々大笑する巨漢が現われた。その姿は髪もひげも伸び放題の汚い男。
「その弓はおれにしか引けん。どれ、やらせてみろ」と、男は言った。
時ならぬ狼藉者に貞澄は激怒した。「たわけたことを。だったら引いてみるがよい。もしも引けぬなら打ち首にしてやるぞ!」
巨漢は鉄弓を手にすると、やすやすと引き絞った。そして貞澄に矢を向けてこう言った。「貞澄、待たせたな、地獄の底から這い戻ってきたぞ。
このおれが誰だかわかるか!」
「……ま、まさか百合若? 生きていたのか!」
「貞澄、おれをひと思いに殺さなかったのが運の尽きだ!」百合若は言うと、矢を放った。矢は貞澄の心臓を射抜き、仇は桟敷から転落した。
その後、百合若は妻と再会を果たし、ふたたび大臣と返り咲いた。時間はかかったが国はもとの平穏を取り戻した。


百合若大臣wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%99%BE%E5%90%88%E8%8B%...
日本語と日本文化 幸若舞「百合若大臣」(日本版「オデッセー」の物語)
http://japanese.hix05.com/Performing/kowaka/kowaka02.htm...
Dailymotion動画 0126 百合若大臣
http://www.dailymotion.com/video/xkoef0_0126-%E7%99%BE%E5...
福岡県島めぐり 玄界島
http://www.yado.co.jp/sima/genkai/genkai.ht...

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016 2013/11/10(日) 07:32:34 ID:PVkXY47n6Q
     時間厳守の島 六島(むしま)

長崎県の野崎島から北約1kmにある小島を六島と呼ぶ。人口は年々減り、今では30人ほどしか住んでいない。
小中学校分校はすでに廃校となり、診療所もないどころか1台の車すらないんだとか。
野崎島の東南にある小値賀島の笛吹港から定期船が出ており、六島にも寄るのだが降りる人も乗る人もほとんどいない。

そんな六島であるが、1つだけ他とは異なる『島憲法』がある。というのも、六島は時間厳守の島として知られているのだ。
ここでは自治会長(1年交替制)が決められ、漁業の入金、公共料金の支払いなど、島のお金の出入りはすべて会長が一括して行っており、
いわゆる共和制度を今も残している。
そもそも時間に厳しくなったにはわけがある。明治時代に発生したある事故がきっかけとなったという。
昔から六島の周囲は潮の流れが速く、港の出入りは苦労が絶えなかった。あるとき、1人の島民が船の出発時刻に遅れ、
その間に潮の流れが変わってしまい、船が潮に揉まれるうちに転覆事故を起こした。
以来、六島では時間に遅れることは御法度となったという。

それゆえ、こんなエピソードも生まれた。ある日、葬式をするため別の島へ僧侶を迎えに行ったはいいが、
約束した時刻に僧侶が間に合わなかったので船はそのまま六島に引き返してしまった……。
厳しい自然環境に囲まれているからこそルールは厳格に守る。生きることはかくも真剣なのだ。


上五島・小値賀ポータルサイト 時間厳守の島 島憲法もある時間厳守の島・六島
http://www.japan-island.info/portal/guide?cntnts_id=59&gnre...
五島の歴史(パート7)
http://members3.jcom.home.ne.jp/honnjyo/120rekisi.ht...

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017 2013/11/10(日) 07:35:50 ID:PVkXY47n6Q
     哀れ白縫姫、蛇体となりて行方をくらます……『白縫姫伝説』 蛇島(じゃじま)

かつて長崎県佐世保市の九十九島に属する五島灘に、蛇島と呼ばれる無人島があった。
島には悲しくも不思議な伝説が語り継がれているが、今やそれも忘却の彼方に押しやられようとしている。

時は戦国の世。まさに争乱の時代。ここ佐世保城主の遠藤但馬守に白縫姫(しらぬいひめ)という美しい娘がいた。
あるときのこと、主筋にあたる相浦の飯盛城主・松浦丹後守親九郎親が、烏帽子岳の狩りの帰りに、この但馬館の門を叩いた。
他ならぬ丹後守の訪問とあっては歓待せねばなるまい。但馬館では酒席を設け、姫に舞いを披露させもてなした。

このとき、丹後守はあでやかに舞う姫の姿を一目見るなり虜となり、ぜひとも自身の側室にと申し入れた。
さりとて姫には赤崎伊予という婚約者がすでにおり、ましてや間もなく嫁いでいく身。
時の支配者、平戸の松浦鎮信の弟でもある丹後守といえば、遠藤但馬守にとって平伏せざるえない存在であったが、
娘のことを思えばこそ、丹後守のしつこい申し出に首を振り続けた。
丹後守は諦めきれない。どうしても白縫姫を我が物にしたかった。ついには但馬守に対して怒りを憶えた。

やがて横恋慕は、但馬謀叛にかこつけて但馬館を急襲し、姫を力づくで奪おうとまでエスカレートしてしまう。
不意をつかれた但馬館はたちまち炎上。戦闘もあえなく片付き、ついに落ちた。
ところが丹後守は血眼になって館を探すものの、白縫姫の姿は見当たらない。
兵士たちも姫の行方を追って将冠岳の頂上近く来たとき、突然、岩穴の中から白い煙とともに1匹の白い大蛇が這い出た。
そして兵士たちが驚嘆しているのをよそに悠然と山をおり、佐世保浦のあたりから海に入って、赤崎館の方へ向かって泳いでいった。

しかしその蛇体は途中の小島でふっつりと消え、二度と姿を現すことはなかった。
これを目撃した人々は、きっと姫の一念が蛇の姿に変え、愛しい赤崎伊予がいる赤崎館に向かって渡ろうとしたが、
力尽きて無人島で死んでしまったに違いないと思った。それからというもの、誰がともなくこの島を蛇島と呼ぶようになった。

とはいえ1905(明治38)年、この島を利用して大繋船池が作られると、巨大なコンクリート岸壁の下に埋もれて、
蛇島は見る陰もない姿に変わり果てた。そういうわけで、この伝説もいずれ忘れられていくのだろう……。


佐世保人グスタフの熱情と冷静の間 蛇島伝説①
http://sasebodaisuki.blog38.fc2.com/blog-entry-123.htm...
長崎県佐世保市の民話 福娘童話集 きょうの新作昔話 蛇島(じゃじま)
http://hukumusume.com/douwa/new/2014/07/21.ht...
がんばらんば! 佐世保民商 佐世保と、その周辺(15)「島の伝説・昔話」・・・巻さんのコラム
http://sasebominsho.blog123.fc2.com/blog-entry-164.htm...

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018 2013/11/10(日) 15:14:00 ID:uyAVWtO8d2
この膨大かつ貴重な資料を
ここだけにとどめておくにはあまりに惜しい
自分もサイトを作って欲しいと思う
ここに記した情報をまとめるだけでいいからさ
片手間にでもやってもらいたい

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019 2013/11/10(日) 18:28:40 ID:nb0NvyCJHg
>>18
あれま……まさかこんなに反響があろうとは。
職場の人にも当スレを紹介すると、同じように勧められることがあるけど(そのたびに島マニアは変人扱いを受ける)、
こんなことより他にやりたいことがあるのになあ……。
確かにこれまで書いたレスも、誤字脱字・蛇足があったりして修正したいとは思ってたんだよね。
ここ最近、必ず土日か祭日のみ更新できるよう鉄の規則を己に課し(平日の夜はしこたま酒が入ってて、マトモに文が書けません)、
なんとか続けられているのは救いだけど、仮にサイトを立ち上げたはいいが、コンスタントにネタがひねり出せるかどうか不安なのよ。
しょっぱい話ばかり続くのはなんとしても避けたいし。
……まあ、前向きに考えておきます。どうせやるなら隙のないものを作りたい。そのためにはさらなる資料の調達が必須。

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020 2013/11/10(日) 18:37:14 ID:nb0NvyCJHg

     熊野川に御船明神が祀られた島あり 御船島(みふねじま)

我々は『島』をイメージするとき、ほとんどの人が海上に浮かぶシルエットを思い浮かべるにちがいない。
前スレを含め、9割方、海という水域にある島を取り上げてきた。変化球をつけるべく湖中の島もやった。
前スレ>>412の猫島などは巨大な池の中のソレだった。
島の定義によれば、「四方を水に囲まれた小陸地を島と呼ぶ」とある。とすれば、あとは川の中の島も選んで然るべきかもしれない。
実は以前から『川中島』(仮にこう命名する)で狙っていたネタがあった。それもわりと僕の地元近辺にあるのだから、ますます見すごせない。
それが御船島である。三重県南牟婁郡紀宝町に属し、熊野川河口より約2km上流に位置する堆積岩から形成された小島で、当然ながら無人島だ。
実はこの御船島、少し離れた対岸に鎮座する熊野速玉大社(和歌山県新宮市)の社地として指定されており、島には御船明神が祀られているという。

毎年10月15から16日にかけて、熊野速玉大社の例大祭として『熊野速玉祭』という神事が催される。
そのとき15日を『神馬渡御式(しんめとぎょしき)』とし、翌16日を『御船祭(みふねまつり)』が行われる。
速玉大社は『熊野十二所権現』と総称される複数の神を祀るが、本祭礼はその中でも主祭神である速玉大神と夫須美大神に対してのもので、
宗教民俗学的な解釈にしたがえば、常世から来た神霊が熊野川を遡上して御船島に鎮座したあと、乙基河原を経て新宮に遷座したという熊野権現来臨の
ありさまを演じた祭りである。

特筆すべきは16日午後の御船祭。
熊野夫須美大神(くまのふすみのおおかみ)が年に一度、神幸船で御船島に渡り、ふたたび速玉大社の社殿に還ってくるという神事で、
夫須美大神が来臨した様子を再現する祭礼のことだ。
神輿から神霊が諸手船(もろとぶね)に曳かれた神幸船に移されると、雅やかな神楽が奏される。
すると熊野大橋下の川原で艫(とも)を岸につけて一列になっていた9雙の早舟が我先に岸を離れる。
舟を操る男たちは川上を遡り、はるか御船島を目指すのだ。そして御船島を3周して対岸の相筋河原にゴールする上がりの早舟競漕が始まる。

上がりの早舟競漕が終了すると、斎主船に曳かれた諸手船、神幸船が上がってくる。
諸手船の上では女装の演者が櫂を回して、行く手を望遠するしぐさの『ハリハリ踊り』が行われる。
斎主船が相筋河原に着くと、御船島の上に立つ神職の合図で、下りの早舟競漕がスタート。岸で待機していた早舟が御船島を2周して神社裏の河原にゴールする。
神輿に遷された神霊とともに神職ら一行は御旅所へ渡御し、前夜と同様の祭儀を執行したあと、夜中、神霊を奉じて大社に戻り、
神霊を大社の第二殿におさめて、祭は幕を閉じる。

このような緒手船神事のなかで9隻の舟が競漕する船渡御は全国に類例がなく1800年以上の伝統を誇るという。
勇壮な競漕を見せる早舟は古式を保った舟形で鯨船の祖形といわれ、中世に強力な武力をもってその名を知らしめた熊野水軍の面影を偲ばせるもの。
『夫木和歌抄(ふぼくわかしょう)』という鎌倉後期の私撰和歌集に御船島が登場する歌がある。

 「三熊野のうらわにみゆるみふね島 神のゆききにこぎめぐるなり」


熊野速玉大社
http://www2.ocn.ne.jp/‾sanzan/NTTcontents/hayatama/index.htm
HBのページ 御船祭り
http://blog.murablo.jp/crushkun/kiji/15587.htm...
熊野ヒーリング 熊野速玉大社例大祭〜御船祭
http://blog.murablo.jp/kumano-healing/kiji/268628.htm...
YOMIURI ONLINE 傷ついた聖地 復興への祈り
http://www.yomiuri.co.jp/zoomup/zo_111031_01.ht...

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021 2013/11/10(日) 19:30:29 ID:nb0NvyCJHg
今日の午前中、外出したついでに熊野川まで足を伸ばし撮影してきた。撮れたてホヤホヤの御船島です。ところがあいにくの天気。
>>19の画像は拾いにすぎない。まさに御船祭の最中を写したものだろう。恐らく結構昔の在りし日の姿だ。
現実は2011年9月に発生した台風12号による紀伊半島豪雨で、周辺一帯のみならず、御船島も甚大な被害を受けた。
熊野川が氾濫し、この島も濁流に飲み込まれたのだ。以前はこんもりと木々が繁茂し、杜御用達の島としての風情を醸していたが、
木々はなぎ倒されてすっかりハゲ山と化し、瓦礫が積み重なった見るも無残な姿をさらしていたものだ。
あれから2年2ヶ月。瓦礫は撤去され、島はどうにか以前の面影を取り戻しつつある。

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022 2013/11/10(日) 19:33:04 ID:nb0NvyCJHg
真横のアングルだとこんな感じ。……なんていうか、ゾウリムシみたいな形をしていると思う。趣もへったくれもない比喩だ。
頭上は曇天にくわえ、川面もまったく透過しない翡翠色を湛えており、お世辞にもいい画だとは言い難い。
ちなみに葉陰から、はるか彼方に垣間見える赤い欄干が熊野大橋。

河原近くまで降りられるよう階段が備え付けられていたが、まわりは薄暗い森に囲まれ、折からの雨でジメッとしたうえ、
人っ子1人見当たらない。下まで行くのは気が削がれたのでやめた。また機会があれば。
今年の御船祭も終わったことだし、この時期に興味を示すバカは僕しかいまい。

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023 2013/11/10(日) 19:41:17 ID:nb0NvyCJHg
>>21
>>20の画像の間違いね。

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024 2013/11/24(日) 11:11:55 ID:BP56SEy2WQ
     日本が誇る3大景勝地の1つに神秘の7不思議あり 宮島(厳島) 1

言うまでもなく厳島神社の社が鎮座する宮島は、広島県廿日市市宮島町、広島湾の北西部の海上に佇む朱塗りの大鳥居が印象的な島だ。
この大鳥居は高さ16mもあり、海底に固定されておらず自重だけで立っている。日本が誇る松島・天橋立と並び、3大景勝地の1つとして有名である。
現在では人口1800人あまりの島に、国内外から年間300万人を超える参拝客および観光客が訪れており、2011年には、世界最大の旅行クチコミサイト
『TripAdvisor(R)』の日本法人・トリップアドバイザーが『外国人に人気の日本の観光スポット』のトップ20の堂々1位に輝いた。

前スレを含め、当スレでは『神の島』の異名をもつ島をくり返し紹介してきたが、宮島はその名に恥じぬ最たる例であろう。
宮島が太古より神の斎(いつ)く島として崇められるようになってからの歴史は古く、史実に名を連ねる多くの人物が崇敬してきた。
とりわけ平家清盛・平家一門の宮島崇拝は有名で、舞楽、清盛の保元の乱、平治の乱の勝利や官位昇進につれ、その信仰は年ごとに篤くなり、
仁安3年(1168)には、神社の造営まで行っている。
また平安朝の建造物から江戸時代にかけての美術品など国宝や重要文化財などを含め、多くのものが収蔵されている。
平成8年には厳島神社が世界遺産に登録を果たした。

宮島は島自体がご神体であり神域とされるため、血や死といったケガレの忌避は顕著であるという。
島で死人が出た場合、すぐに対岸の赤崎の地に移して葬るとされている。赤崎は現在のJR宮島口駅のやや西にあり、
かつては遺族は喪が明けるまで島に戻ることができなかった。この風習は第二次世界大戦ごろまで続いていたという。
それにともない、島には墓地がないそうだ。墓そのものを築いてはならず、それは現在とて1基もないほど。
また島の女性に出産が迫ると、対岸に渡って出産後、100日を経て島に戻るしきたりであった。女性は生理の時期には、町衆が設けた小屋ですごした。

……あの有名な宮島を、当スレに載せてしまうのはいささか暴挙とも言えるかもしれない。
しかしながら厳島神社特有の7不思議(実際は7つどころではない)の神秘は、あながちスレチとも言えまい。
もっとも、あまりにも多いため列挙するだけにとどめるが。

1.宮うつし貝……大鳥居の根潟にいる白い貝の殻には、鳥居や神社の形をした模様が入っているという。採るのはおろか食すると罰が当たるとされる。
2.猿の口どめ……毎年10月の初申祭で『口どめ』の行事が行われる。この日は、島で大きな声や物音を立ててはならない。
3.つもごり山伏……大晦日に行われる鎮火祭は、元は大聖院の祭りだった。大聖院から厳島神社拝殿まで山伏が松明を持ってほら貝を吹き、
火の粉をまき散らしながら走り抜ける行事。不思議なことに、この火が原因で火事になったことは一度もない。残り火は火事よけのお守りになるとされている。
4.多賀江念仏……毎年旧暦7月16日、17日は『厳島おどり』の日。昔々、多賀江兵衛なる大将が、厳島おどりの夜、戦船で沖を通りかかった。
島じゅうの人間が浜で踊っていたのを見て、激怒した兵衛。「兵たちが戦をやっているというのに、不謹慎ではないか!」と、船上から怒鳴った。
とたんに神罰がくだり、兵衛は船もろともに沈没。その後、死んだ兵衛の亡霊が夜な夜な沖を通る船に悪さをするので、厳島おどりの夜、
念仏百万遍を唱えて兵衛の霊を鎮めるようにした。これが多賀江念仏の始まりだという。
5.そとば石……昔、平康頼という人物が、薩摩の鬼界ヶ島に流罪になった。都に1人残した母を思い、康頼は墓に立てる卒塔婆に、
「薩摩潟 沖の小島に われありと 親につげよ 八重の潮風」という和歌を千枚書いて海に流した。
その卒塔婆の1枚が厳島に漂着し、たまたまお参りにきていた康頼縁者の坊さんが見つけて都の母に届けた。
康頼の母は70を超える高齢で、息子の流した卒塔婆をかき抱いて泣いた。やがて康頼は罪を許されると、無事に母のもとに帰ることができた。
康頼はこれも平家一門を日ごろからお守りくださる厳島明神のおかげと、大きな灯篭を神社に寄進したという。

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025 2013/11/24(日) 11:17:52 ID:wDBSlux00.
     日本が誇る3大景勝地の1つに神秘の7不思議あり 宮島(厳島) 2

6.干満岩……弥山の8合目にある目洗薬師のそばの干満岩には、1mもない浅い穴が口を開けている。
穴には水がたまり、海の満ち干にあわせて増減する。塩分を含んだ水で、この水で眼を洗うと眼病が治ると言われている。
岩穴は標高約500mの地点にあり、いまだ科学的証明がなされていない奇現象らしい。
7.宮島の神馬……厳島神社に献上された馬は、ふつうの毛並みの馬も、4、5年も経つとみな白馬に変わる。
8.消えずの火……弥山には1200年間、絶えることなく燃え続けている霊火がある。
大同元年(806年)、弘法大師が弥山山頂で100日間に及ぶ求聞持(ぐもんじ)の秘法を修して以来、今日まで途絶えることなく燃え続ける霊火だという。
この火で沸かした霊水は万病に効くと言われている。また、明治34年(1901年)に操業を始めた八幡製鉄所の溶鉱炉の種火や、
広島市の平和記念公園の『平和の灯』の元火にもなった。

9.拍子木の音……深夜、人の気配のないところから拍子木の音が響き渡るとされている。
10.龍燈の火……旧正月の初旬の夜になると島周辺の海面に出没する謎の灯りを龍燈という。
この龍燈がもっともよく見える弥山頂上の大杉は『龍燈の杉』と呼ばれた。現在この杉は枯れてしまったが、それらしき根株が残されている。
11.錫杖の梅……弥山本堂のすぐ西の脇にある八重咲きの紅梅。弘法大師が立てかけた錫杖が根をはり、ついには梅の木になったという伝説が残っている。
毎年美しい花を咲かせるが、山内に不吉な兆しがあると咲かないらしい。
12.しぐれ桜……どんな晴天の日でも時雨のように露が落ち、地面は通り雨がすぎ去ったように濡れる不思議な桜。
江戸時代に発行された『厳島図会』にもその奇妙な現象が記されているとか。現在は伐採され、切り株だけが残っている。

13.曼荼羅岩……弘法大師が石面に梵字と真字で、「三世諸仏天照大神宮正八幡三所三千七百余神云々」と刻んだ数十畳の大岩がある。
14.誓真井戸……誓真氏は宮島杓子の考案者として知られており、宮島では数々の公共事業を行った。なかでも飲料水の不足に苦しむ島民のため、
各所に井戸を掘った。その井戸はどんな干ばつのときにも枯れることがないという。
15.奥の院の迷い道……上述したように島には墓地はなく、対岸の宮島口に埋葬する。しかし死後50年経つと仏が神になり、宮島に帰ることができると
言い伝えられている。50回忌を済ませると宮島の奥の院に卒塔婆を立て供養する。奥の院に卒塔婆を立てに行った多くの人が不思議な体験をしている。
奥の院に行こうとしても、なぜか元の道に帰ってしまう迷い道があるという。
16.暗い山……宮島の山中には日中でも日の差さない暗い山がある。宮島の山は神域なので、奥は手付かずの原生林そのままなのだから無理もあるまい。


宮島観光公式サイト 人と神々が共に生きる島〜宮島 嚴島神社
http://www.miyajima-wch.jp/jp/itsukushima/index.htm...
一般社団法人 宮島観光協会
http://www.miyajima.or.jp/index.htm...
御山神社
http://www.7kamado.net/misen.htm...
キャンピングカーで放浪の旅 世界遺産の島、宮島を歩く 〜厳島神社、千畳閣、大聖院 他〜 他(2010/4/8)
http://akkamui21.blog39.fc2.com/blog-entry-926.htm...
下川友子オフィシャルブログ「あなたに神様の光がとどきますように・・・☆」 厳島神社のパワーの元は・・・??奥宮〜☆ 御山神社
http://ameblo.jp/tomo-chupi/entry-10462001265.h...

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026 2013/12/01(日) 01:03:01 ID:m1nh0gAucY
     ダイダラボッチが作った島 礫島(つぶてじま)

静岡県浜松市の浜名湖には唯一の島である礫島が浮かんでいる。松に覆われた、ほんの200㎡の無人島にすぎない。
島には鳥居があり、その先には1617(天和3)年に琵琶湖の竹生島から移設した市杵島姫と弁財天を祀った礫石神社がある。
竹生島の成り立ちは前スレ>>238で紹介したとおりだが、この浜名湖の礫島の誕生もなかなか味わい深い説話が語り継がれている。
というのも、ダイダラボッチ伝説がかかわっているからだ。ダイダラボッチといえば伝説上の巨人のことだが、
なぜか日本にはこの手の話がよく転がっており、彼らの正体がなんであったのか食指が動くところ。

その礫島の誕生の話がこうだ。
かつてこの地に住むダイダラボッチは、富士山が地元の秋葉山より高いことに腹を立て、秋葉山に土を盛ろうとした。
土を掘った窪地こそ、のちに浜名湖となったという(あるいは転んだ拍子に地面に手をつき、手の平の跡が浜名湖になったという説もある)。
またダイダラボッチは作業の途中で疲れ、浜名湖のそばで腰をおろして握り飯にかじりついていた。
その握り飯の中に小石が混じっていたのを発見。ダイダラボッチはそれをつまんで放り投げた。そのときの小石が礫島だと伝えられている。

浜名湖周辺には他にもダイダラボッチにまつわる伝説が点在している。
下気賀の北にある姫街道沿いに小さな池があり『ダイダラボッチの足跡』と言われるし、石巻山の中腹にも同様の足跡がある。


ダイダラボッチwikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%80%E3%82%A4%E3%83%...
礫島
http://homepage3.nifty.com/y-iwata/densetu/tubutejima.ht...
eしずおかブログ 静岡 新“十”不思議第8話 ダイダラボッチ伝説
http://shin10fushigi.eshizuoka.jp/e947892.htm...
ナルキッソスの黄昏 歴史雑学と世界的ニュースまとめ ダイダラボッチの正体は?
http://narcissu.doorblog.jp/archives/31660273.htm...
アプリ学園 【重要まとめ】「進撃の巨人」がブームだから世界中の巨人についてまとめてみた【進撃の巨人 デジタルフォトステッカー】
http://appgaku.com/iphone-pickup/2013/06/20130619...
わらじ祭り公式ホームページ
http://www.warajimatsuri.jp/

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027 2013/12/01(日) 01:06:34 ID:m1nh0gAucY
     島のヌシたる大蛇に相対し、潮垢離を済ませ正装し口上を述べる 比岐島(ひきじま)

愛媛県今治市桜井港沖、約6kmにある有人島である比岐島。
桜井地区の漁業者が移住して開拓した島で、もっとも多いときには70人を超える人口があったが、それも昔の話。
平成22年の国勢調査では1世帯人口3人まで減り、今や風前の灯となっている。だからこそ島の話をこのスレにとどめておきたい。
比岐島は慶長年間(1596〜1615年)に松の造林がなされ、最初の島民となる『守役人』が置かれた記録がある。
阿部家所蔵の古文書『当島言伝控書』にはその歴史が克明に記され、同時に不思議な大蛇伝説が添えられているのだ。
その経緯が以下のとおりである。

昔、玉川町の法界寺に利右衛門(りえもん)という農民がいた。ある日、利右衛門はもののはずみで大罪を犯してしまう。
打ち首にはされたくない。利右衛門は罪を償うため、比岐島に松の木を1万本植えることにより島を開拓してみせるので、
どうか命だけは助けてくれるよう、藩主をはじめ役人に願い出た。
当時の比岐島といえば、人が分け入ることができないほど雑草が生い茂り、樹木すら生えていない荒地だった。
利右衛門の必死の訴えが通じ、島での開拓作業が言い渡された。それからというもの利右衛門は島に入ると死に物狂いで働き、
3年がけで松の造林をやってのけた。

利右衛門はこうして放免され島から引き上げていった。それからあとは島に渡る者がなく、せっかくの造林も荒れてしまい、
たまりかねた今治藩主は、お触れを出して守役人を募った。
ところが名乗り出る者はいない。そこへ誰もいかぬなら私が行こうと、阿部孫左衛門(大庄屋曾我部三郎衛門の次男)が藩主に申し出た。
生来、豪胆で名が通っている孫左衛門は、松の木1万本を10万本に増やしてみせると誓ったほどであった。
この男、決断は早い。自身の3.6haほどの土地を売り払うと島へ渡り、さっそく住居の建築にとりかかった。

ところが比岐島開拓に暗雲が垂れこめる事件が起きる。
大工や左官を呼んで家を建てている最中に、突如草むらがガサガサと音がしたかと思うと、大蛇が姿を現わしたではないか。
その大きさたるや頭が3升樽なみ、長さ4.5mにも及ぶ巨大サイズ。その大蛇が家の棟に長々と巻き付いたうえ居座ったからたまらない。
大工と左官はあまりの恐ろしさに島から逃げ出すほどであった。

孫左衛門は腹を決めた。衣服を脱ぎ、海に入って身を清め、袴に袖を通した。
そして棟に居座る大蛇の前に平伏してこう言った。「あなたはこの島の主とお見受けします。私はこの島の開拓者として、
同時に見守り役として任命された者でございます。どうか私の仕事を無事完遂させていただきたい。
まずはあなた様がこの場から立ち退いてくれるようお願いします。その際には後日、祠を建て、
この島の産土神(うぶすながみ)として祀ることを約束いたします」

大蛇は孫左衛門の口上を理解したらしく、棟から巨体をすべらせると東の山へ去っていった。
後日、約束通り祠を建ててこの大蛇を祀り、これを氏神とした。
そのあとも例の大蛇が出たとの話が残っているが、やはり孫左衛門同様、みそぎをして拝むと、いずこともなく消え去ったという。
現代の比岐島では大蛇のことを『長い人』『あの人』『巳さん』というふうに人格化した呼び方をしており、大蛇の祠を丁重に祀り、
好物の卵やあずき飯が供えられるという。


旅、島、ときどき、不思議 今日は、人口6人の比岐島を紹介
http://ameblo.jp/tokaraushi/entry-10459814355.h...
日本の島々 日本の島、比岐島(日本に残された電気のない有人島)
http://islands.cocolog-nifty.com/blog/2007/05/post_22aa.htm...
今治商工会議所 六、動物に関するもの
http://www.imabaricci.or.jp/contentscci.php?prm=densetsu_...
教えて!goo 大蛇のいない日本で大蛇伝説が多いのはなぜ?
http://oshiete.goo.ne.jp/qa/2425223.htm...

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028 2013/12/07(土) 19:29:53 ID:BEXLi7FV9I
     干拓事業の際、人柱ならぬ犬柱を立てた歴史 青島

青島と呼ばれるごくありふれた島名は全国に星の数ほどあるが、最近は愛媛県大洲市の青島が猫好きの間で話題となっているのは、
こちとら先刻承知である。
島民たったの15人に対し、猫は優に100匹を超えており、『猫密度』は今や宮城県石巻市の田代島をも上回っているらしい。
だが今回紹介する青島は別の青島だ。猫の楽園ではなく、犬がいない島の方だ。
愛猫家御用達の島はスレタイに反しているので今回は見送らざるを得ない。

長崎県松浦市の北松浦半島の先端から北東へ1.3kmの位置にその青島は浮かんでいる。
昔は満潮になると低い部分は海に沈み、3つの島に分かれていた。北から『崎の島』、『中の島』、『南島』と呼ばれ、
島民と河童の河太郎(がたろう)一族が一致団結して1つの島にしたという民話『長者と河太郎』が残されている。

また江戸時代の干拓事業の際には、難工事を成功させるため人柱ならぬ犬柱を立て、神に祈願したという伝承も伝えられている。
それ以来、犬は神の眷属として尊ばれ、飼うのは御法度とされたという。
前スレ>>87の田代島や>>289の篠島、加えてこの青島のように、なぜか犬を飼うのがダメという島が多く、大変興味深い。
もっともそんな青島だが、最近はこのタブーも古臭く思われるようになったのか、犬を飼う人も増えてきたらしいが。


FUJIKAZEのちょっとピンボケな日々 生まれた島へ!(生家は何処・・・)
http://fujikaze.cocolog-nifty.com/blog/2013/05/index.htm...
山野草図鑑歳時記2
http://blogs.yahoo.co.jp/ryujumihouchida/61221213.htm...
長者と河太郎(がたろう)
http://www.eonet.ne.jp/‾nagasaki/kappa/aosima.htm

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030 2013/12/15(日) 17:51:07 ID:StlHc2JQ/A
     寄磯兄弟獅子 網地島(あじしま)

宮城県牡鹿半島の寄磯浜では、ある獅子舞にまつわる不思議な伝承が残されている。
文永3(1266)年建立の神石碑が鈴木寛也氏宅の角にある。その背後の東森山頂上には、住民が海上安全を祈願した『安波大明神』が祀られている。
『安波大明神』は関東から東北地方にかけての太平洋側の漁村で信仰されている神様であり、女神やお船霊様であるとされている。

寛永18(1641)年ごろには寄磯集落の人口は30人以上になり平和な日々を謳歌していたが、天保4(1835)年に大飢饉が起こり、
人々は食料を確保するため時化であるにもかかわらず出漁しなくてはならないほど困窮していた。
そんな綱渡りのような生活をしていたある日のこと、渡辺平五郎なる人物が漁に出ているとき、急な天候の悪化に遭遇。
波浪高く荒れ狂い、小船はたちまち大破して船子たちは絶体絶命に陥った。そこで船子たちは藁にもすがる思いで安波大明神を念じた。
安波大明神のご利益があったのか、小船はなんとか海岸にたどり着き、命拾いすることができた。
渡辺平五郎はこの海難事故から生還できた報恩御礼として、安波様を一層信仰するために天保6(1837)年、新たに安波大杉大明神の石宮を建立。
みずから神主となり、若者に呼びかけ『神風講(じんぷうこう)』という団体を組織し、毎年旧正月16日を祭日と定め、祈願するに至った。

時同じくして、他の地域では正月の行事として獅子舞が盛んに行われていた。寄磯においても先に述べた天保4年の大飢饉に続き、
大暴風、大洪水などが相次いで起こり、加えて悪病が流行。生活苦の辛酸を舐めていた神風講においても、
天下太平・五穀豊穣・家内安全・海上安全・大漁満足を祈願するべく獅子舞を舞わせることにしたのだ。

しかしながら、これほどの困窮を救えるのは霊験あらたかな獅子であり、よほどの名作でなければなるまい。
方々を探していると、網地島から来た遠藤英助信近という人物が興味深い話を語るのだ。
ちなみに網地島は宮城県牡鹿半島の最南端に位置する有人島。大きさは周囲20.7km、広さ6.43k㎡。細長い形をしており、
島のほとんどが南三陸国定公園特別地域に指定されている。この網地島もまた猫がたくさんいる島として知られている。

遠藤氏いわく、「網地島に獅子が2振りあり、時折その箱の中から不思議な音がする。
何度開けても箱の中には獅子しか入ってなかったが、ためしに別々に収めたところ、音はそれっきりしなくなった。
もしや元気な2振りの獅子が追いかけっこでもして暴れていたのではないか」

これを聞いた神風講は、これほどの不思議な力をもつ獅子であればご利益があるかもしれないと信じ、ただちに網地島へ向かい交渉した。
すると獅子1振りと、付属品として天狗の面、大小の木刀を譲り受けることとなったわけである(この獅子は天保6年の作と伝えられている)。
これを受けて神風講では獅子舞の唄を作り、笛太鼓の囃子をもって旧正月の16日、安波大明神の祭礼にて行うことになった。
以来、悪病の流行もおさまり、牡鹿半島の人々は平和な年月を送ることができた。
もっとも慶応年間の大火災に遭遇した際には、この獅子を燃やしてなるものかと、神主の井戸に入れて守り、
明治13年の大火災のときは渡辺松雄氏宅の井戸に入れてどうにか消失は免れたものの、度重なる火災で汚損が著しく、獅子舞ができなくなってしまう。

その後、遠藤栄四郎氏が東京で獅子を購入し寄付してくれたので、ふたたび獅子舞を始めることができるようになったが、
獅子を振るたびになぜか雨天が続き、困り果てた末、結局網地島から譲り受けた獅子を修理して行うようになったという。


網地島ラインホームページ
http://www12.ocn.ne.jp/‾ajishima/
石巻百景: 石巻観光案内(4)網地島・田代島
http://ishinomaki-photo.blogspot.jp/p/blog-page_13.htm...
宮城県牡鹿半島寄磯浜のアンバサンに見られる里海の記憶
http://archive.is/VlI4...
あじ島冒険楽校 「昔の子供たち」から「未来の大人たち」へ 「島の夏休み」体験 宮城県 石巻 牡鹿
http://plaza.rakuten.co.jp/ajisima/diary/200608040000...

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031 2013/12/22(日) 09:15:35 ID:HouxoVDPTE
     友は鳥となり相棒を助ける頓石物語 与那国島

おおッ……この画像は、まさしく前スレの顔になっていた与那国島の立神岩ではないか。
スレ画に選ばれていたのだから、なんらかのいわくがあるに相違ない。
このような立神岩は、古くから神が佇んでいる姿と見立てられ、信仰の対象とされてきた。
与那国島のソレも例外ではなく、別名『頓石・トゥンガン』と呼ばれ、案の定こんな伝説が語り継がれているのだ。

その昔、与那国島には2人の仲良しの若者がいた。1人は屈強な身体つきの乱暴者、もう1人は美しい顔立ちをした華奢で心優しい若者だ。
島の娘たちのお目当てはもちろん優しい若者の方。優しい若者が歩けば、娘たちが列をなしてついてくるほどだった。
しかしそんなにモテながら優しい若者は娘たちに詫びて、1人ぼっちになっている乱暴者のところへ行くのが常だった。
そして2人で寝転びながらクユ(与那国島の言葉で『月』)を眺めては肩を並べて家路に着くのだった。

島の南側は断崖絶壁になっている。絶壁には冬になると海鳥が巣作りをする。島民たちはこの時期に卵取りをするのが楽しみになっていた。
ある日のこと、乱暴者が優しい若者の家を訪ねて、一緒にトゥンガンに登って、平久保大鳥(アホウドリとの説もある)の卵を取ってこようと
誘う。優しい若者は危ないからやめろと止めるが、乱暴者は頑として引かない。結局2人してトゥンガンへ足を運ぶことにした。

崖の下から海へ50歩のところにトゥンガンは直立不動の姿勢で佇んでいる。見上げると天を衝くごとき高さである。
怖気づく優しい若者を尻目に、乱暴者はどんどん上へよじ登っていく。
ためらっていた優しい若者も、勇気を振り絞ると岩にかじりつくようにして登った。そして2人はどうにかてっぺんにたどり着いた。
2人は手を取り合って喜び、平久保大鳥の卵を取れるだけ取って、さあ帰ろうとしたとき、突然足元の岩が崩れて、
うっかりアングインナ(縄)を落としてしまう。
乱暴者は心配するなと言って相方を慰め、岩を降り始めた。ところが乱暴者は途中で手を滑らせ、真っ逆さまに落ちてしまう。
落下しながらも彼はこう叫んだ。「大丈夫だ。きっと助けがくるから待っていろ!」
自身の命よりも友の身を案じたこの言葉に、優しい若者は岩の上で泣き叫んだ。

幼少のころ、ひ弱だった優しい若者は、いつも他の子供たちにいじめられていた。そんなときはいつも乱暴者が助けてくれたものだ。
大人になると乱暴者は島民から嫌われ、逆に彼は娘の注目の的となった。
とはいえ、子供のころから優しい若者のことを気にかけてくれた真の友人は、実は乱暴者だけだったのだ。
泣き疲れて眠ってしまった若者は夢を見た。夢の中では大きな平久保大鳥が優しい若者の頭上を飛んでいた。
平久保大鳥は旋回しながら叫んだ。「待ってろ、今助けてやるからな」

そして若者が眼を覚ますと、そこはトゥンガンの頂上ではなく、地面の上だったのだ。不思議にもかすり傷の1つもついていない。
若者は大いに喜び、友と神様に感謝した。
このできごとがあってから、人々はこの岩を立神岩と崇めている。岩の前を行き来するときは、被り物を脱いで通るという。


美ら島物語 立神岩
http://www.churashima.net/shima/yonaguni/l_20010508_2...
琉球沖縄を学びながら、いろいろ考えていきたいな〜 与那国の頓岩の由来〜新『球陽外卷・遺老說傳』第44話
http://totoro820.ti-da.net/e4393811.htm...

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032 2013/12/22(日) 09:19:57 ID:HouxoVDPTE
     沖縄にも巨人伝説あり……その正体は? 伊江島

>>26の礫島でダイダラボッチ伝説を取り上げたが、沖縄にも類似の話が残されているようだ。
舞台は沖縄本島北部、本部半島の北西9kmの海上にある伊江島。
伊江島は俯瞰から見下ろせば中央がくぼんだ楕円形状をしている。東西8.4km、南北3km、総面積は22.77k㎡であり、
島の中央は標高172mの城山(ぐすくやま・通称『イージマ・タッチュー』)がそびえているのが印象的だ。
その山の頂上に、これまた『巨人の足跡』が残されているのだ。伊江島には古くから『力(ちから)タンナーバ』という大男が住んでいて、
彼にまつわるものだという。
隣村との戦いでタンナーバはタッチューに登り、迫り来る軍勢に岩を持ち上げて投げつけ、敵を追い払ったと伝えられている。
その際、踏ん張った地面にこの足跡ができたとのことだ。

……そもそもこれらの巨人伝説とはなにを意味するのだろう?
前スレ>>277の入砂島でも言及した『天人(あーまんちゅ)』も開闢の神であり巨人であるし(これは史実に基づかれたとは言えないが)、
同じく前スレ>>122の与那国島の女傑『サンアイ・イソバ』も身の丈180cmを超え、牛や馬よりも大きな身体をしていたという逸話がある。

人類学の分野でいえば『港川人』から1万年以上、人骨は発見されていなかったそうだ。
しかし近年、港川の近くのガルマンドゥ洞窟からは、縄文後期のものと思われる7体の人骨が発見される。
この人骨を調査した結果、これまで出土した人骨よりも骨のサイズが大きいことが判明。
身長にすると約160cmほど。現在の沖縄の人々につながる南西諸島弥生人と、『港川人』は身長が極端に低かったことを考えると、
その間を埋めるガルマンドゥ洞人に代表される沖縄の縄文人だけが大きかったことは一体なにを意味するのだろうか?
当時の沖縄の人より背の高かった巨人たちは、漂流してきたフェニキア人ではなかったのではないかとの説もある。


ハイヌミカゼHome 伊江島タッチュー(城山)
http://www.hainumikaze.com/iejima/iejima-tacchuu.htm...
沖縄に行く前に! 伊江島の伝説
http://okimae.higepapa.com/?eid=34799...
巨人 (伝説の生物)wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B7%A8%E4%BA%BA_(%E4%B...
港川人wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B8%AF%E5%B7%9D%E4%BA%...

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033 2013/12/22(日) 09:33:06 ID:HouxoVDPTE
     実在した伝説の巨漢力士・生月鯨太左衛門 生月島(いきつきしま) 1

長崎県の平戸島の北西にある島、生月島は前スレ>>261で『だんじく様』を取り上げてしまい重複になってしまうが、
そんなことは知ったことか、である。巨人つながりで偶然ネタを見つけたので、併せて紹介しておくべきだと思ったからだ。
それが『生月鯨太左衛門(いきつきげいたざえもん)伝説』だ。

生月島の英雄力士、生月鯨太左衛門は記録によると、江戸時代の終わりごろである文政10(1827)年の3月21日、舘浦に生まれ、
天保15(1844)年に18歳で大坂場所に姿を見せ、翌年には江戸相撲に進出して大いに江戸を賑わせたのの、嘉永3(1850)年、
24歳の若さでこの世を去った。
江戸相撲に登場した弘化2(1845)年と翌年にかけての鯨太左衛門ブームで多数の錦絵が印刷されたため、それにより彼の顔立ちや、
身長七尺五寸(なんと227cm!体重は169kg。日本一の巨漢力士としての記録保持者)など体格についても知り得ることが可能だ。

生月島には鯨太左衛門の幼少から青年期にかけての規格外の伝説が無数に存在する。
そもそも誕生についてもこんな秘話がある。長年子宝に恵まれなかった鯨漁師の多七・ハル夫婦が、志自岐大菩薩に詣って男子を授かるよう
祈願したところ、夢に子持ち鯨が現れ、自分を捕らずに逃がしてくれたら子供を授けようと言った。
漁師仲間はそれを信じ、漁場に入った親子鯨を逃がしてやった。するとお告げどおりハルは子供を身ごもった。
生まれてみると、鯨のように大きな赤ん坊だったという。
また別の話では、夢で現れた鯨が大宝寺にお詣りに行くので、行きがけには捕ってくれるなと言ったが、結局捕獲されてしまい、
しばらくして要作(鯨太左衛門の幼名)が生まれたため、周囲の人々は、あの鯨の生まれ変わりだに違いないと噂したとか(勤勉なる読者ならば、
前スレ>>373で書いた宇久島の『紋九郎鯨物語』の夢のお告げと同義であることにお気づきになられるであろう。
これはあくまで後付けの『伝説』だろうが)。

幼少時における鯨太左衛門のこんな力自慢もある。重いものを抱える話では、3歳のときひき臼を抱え上げただの、
5歳のときは造り酒屋の近藤家で一厘銭百貫五〇把をやすやすと抱えただの、7歳時には同じ近藤家から米俵を持ち帰ったなどの武勇伝があるほか、
先般志自伎神社の宮司いわく、同神社の上宮の石祠を山頂まで抱え上げたというから恐れ入る。
または船と綱引きした話。ある話では、要作は体重が重すぎて父の漁船に乗せてもらえなかったので、出漁の際、
もやい綱を引っ張り、なんと船を引き揚げたという怪力を見せた。
その一方で父親の船が帰ると1人で船を引き揚げ、いとも簡単に船をひっくり返してアカ水を出すといった孝行話もある。
14歳になると、1人で鯨を仕留めて『鯨の要作』『鯨吉』と呼ばれるようになったと、まさに生きる伝説そのものである。

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034 2013/12/22(日) 09:40:04 ID:HouxoVDPTE
     実在した伝説の巨漢力士・生月鯨太左衛門 生月島(いきつきしま) 2

その後、大阪の小野川嘉平次(小野川部屋)に入門。18歳で初土俵、翌年天保15(1844)年に江戸相撲の玉垣額之助(玉垣部屋)門下に入った。
生月鯨太左衛門の人気は高く、一陽斎豊国ら著名な作家の手による錦絵も多数残されている。巨体から繰り出される技は豪快で、
張り手と突っ張りに威力を発揮したとされているが、巨体お披露目的な興行が多く、番付に張り出されて以降の6年12場所間、
ほとんど土俵入りのみの出場であった。なおその巨体だけでなく、顔も人気であったらしい。

江戸では女遊びを覚えたようで、両国の水茶屋の評判娘に振られたので、腹いせに水茶屋の近くの見世物小屋に出ていた一寸玉之助という
身長1m程度の女性を妻にしたエピソードも伝わっている。度がすぎたのか、晩年の約5年間は瘡毒を患っていた。
平戸藩主の松浦熈は鯨太左衛門を、松浦家の江戸での菩提寺である天祥寺の長屋の2階に住まわせていた。嘉永3年に鯨太左衛門が24歳で死去した際、
遺体を運び出すのに、長屋の天井を切り開いて搬出したと伝わる。越後での巡業に出立の際、脚気にて病死とする資料あり。
また、瘡毒で死んだとする資料も残っている。 死してもなお「地獄で鬼があきれる」(その体格に)という題の絵が発行された。

幕内在位:12場所(1844年10月場所-1850年3月場所。但し実際に相撲を取ったのは1846年11月場所のみ)
幕内通算成績:3勝2敗115休 勝率.600(休場の大半は土俵入りのみの出場)
現役在位:12場所


昔に出会う旅 長崎旅行-16 「平戸市生月町博物館・島の館」江戸時代最大の捕鯨
http://blog.goo.ne.jp/tako_888k/e/620c24e65390a5d1b7...
珍スポット探訪・普通の旅に飽きたあなたへ キリシタンと捕鯨の島・生月
http://b-spot.iza.ne.jp/blog/entry/531558...
紀行歴史遊学 伝説の巨人力士
http://gyokuzan.typepad.jp/blog/2013/02/%E9%95%B7%E8%BA%A...
相撲人名鑑 生月 鯨太左エ門(いけづき げいたざえもん)
http://www.fsinet.or.jp/‾sumo/profile/1/18441003.htm
ロバート・ワドロー(ギネスブックに載ったもっとも身長が高い人間)wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AD%E3%83%90%E3%83%...
金太郎wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%91%E5%A4%AA%E9%83%...

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035 2013/12/22(日) 14:49:41 ID:HouxoVDPTE
     七城鬼女伝説 喜界島(きかいじま)

喜界島と来れば通常、俊寛の話を持ち出すのが王道なのだろうが、オカルト板でそれを書き連ねるのはいささか場違いな気がする。
よって今回は『七城の鬼女伝説』に焦点を絞る。
喜界島は鹿児島県大島郡に属し、奄美大島の東方約25kmに浮かんでいる。隆起サンゴ礁で形成されたのが特徴的で、
真横からのシルエットがなだらかな丘陵の美しい島である。件の鬼女伝説がこうだ。

はるかな昔。壇ノ浦の戦いに敗れた平家の残党200余名は追っ手から逃れるため、はるばる喜界島を目指していた。
命からがら喜界島にたどり着き、今でいう志戸桶から上陸したのだった。
志戸桶に上陸後、一行は伊実久にまわり、その上の森に城を築いた。その土塁は現在でも遺構をとどめ、七城(ななじょう)と呼ばれている。
別名『平家森』とも呼ばれ、早町の後方に位置し、早町港方面から来襲する源氏を想定した砦である。
この七城こそ『七城の鬼女』なる伝説を後世に伝えているのだ。

平家の落人たちが七城が建つ前の森に分け入ると、頭に薄布をかぶった着物姿の女が一行に背を向けてなにかの作業をしていた。
近づいてみると、どうやら女は機織りをしているらしい。
「すまぬ、女。そなたの土地に無断で入ったのを許されい」と、一行の首領である平盗盛が声をかけた。
女はそこで機織りの手をとめ、ゆっくりと振り向いた。顔は覆った布のせいで計り知れない。
「これはこれは武者さまのご一行とは。気配に気づかず背中を見せておりご無礼いたしました。ですが、このような僻地にいかなご用で?」
鈴を転がしたような声に一同はハッとした。おそらく妙齢の年のころであろう。

「某らは、恥ずかしながら戦から落ち延びてきた身でありますゆえ、どうか追っ手よりかくまっていただきたい」
「ホッホッホホ……さすればこの土地に屋城を築かねばなりますまい。喜んで協力しましょうぞ」
女は歌うように言うものだから一行の中には、内心癪に障る者もいた。しかもお辞儀しても頭の布を取らないときている。
「これ、女。殿の面前であるぞ。布を取りたまえ。無礼であろう」と、側近の1人がたしなめた。
「いかにも、手前は田舎者の女であるからでしてのう」と女は言うものの、おじきした姿勢のままクスクス笑うだけ。
「ざれごとを言うてからに」見かねた部下の1人が女の背後へまわり、だしぬけに布を剥ぎ取った。すると女の頭頂があらわになった。
「こ、これは……」一行は思わず我が目を疑った。なんと女の頭の両側には3cmほどの角が生えていたのだ。

「おのれい、よくもわらわに恥をかかせてくれたな。無礼はどちらじゃ!」女は夜叉のごとき形相で叫ぶと両腕を広げた。爪は鋭く尖っていた。
「出たな、物の怪、成敗してくれる!」
平盗盛の抜刀一閃と、女が電光石火の反応で宙に飛び退いたのはほぼ同時。
「やりおるな。仕損じるとは……」盗盛は苦々しげに刀をおさめた。
「うぬらは永遠に追っ手から逃れられはせん。うぬらは源氏の影に怯えて、一生すごすこととなろう。さらばじゃ!」と、
中空の闇の中から女の捨て台詞がこだまし、哄笑とともに消えていった。

昔の文献によると、喜界島は『鬼界島』と記されており、文字どおり鬼が住んでいたとされている。


喜界島ナビ.com
http://kikaijimanavi.com/
喜界島ドットコム
http://www.kikai-jima.com/sknh.htm...
播磨のしっぽ 平家伝説と小野豆
http://kiontgm.blogspot.jp/2012/06/blog-post_15.htm...
東方纏める神社 鬼女出ないかな/安倍氏
http://blog.livedoor.jp/kusurikan/archives/27848514.ht...
戸隠に伝わる鬼女紅葉の物語 (信州戸隠、鬼無里(きなさ・現長野市)集落に伝わる鬼女伝説)
http://www1.ocn.ne.jp/‾pia/momiji.htm

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036 2013/12/31(火) 20:46:35 ID:.ih5l2c0q.
     田んぼの中に神を祀った祠あり 八畝(ようね)集落

おざなりな感も否めないが、たまには村ネタもやらねばなるまい。島ばかりではいささか偏り気味であろう。
村といっても、その共同体を貶めるようなことを書くわけにはいかないので、ちょっと風変わりなものを紹介するにとどめるけど。

高知県大豊町は徳島・愛媛の両県と接する山深い土地。その斜面には日本の原風景である牧歌的な棚田が連なっている。
なかでも標高600mにある八畝集落の棚田の1つに笹岡家の所有する田があり、その田んぼの中央には神を祀った祠が鎮座しているのだ。
祠には『若宮八幡様』を祀ってあり、笹岡家が代々守ってきた。2013年時で86歳の笹岡富子さんいわく、
「いつの時代からあるのかわからんぐらい、昔からある」とのこと。
こんな祠が田んぼのど真ん中に据えられていれば田植え稲刈りする際、場所を取られるうえ作業に支障をきたしそうだが、
古来、日本は稲作を主とした農耕民族であり、豊作への切なる願いを込めて先人たちが建てたに違いない。


まほろばの島詩 高知県/八畝(ようね)の棚田2
http://mahorobanoshimauta.blog10.fc2.com/blog-entry-776.htm...
黄昏君の写真帳 朝もや煙る八畝の棚田
http://conan57.exblog.jp/2031946...
山田養蜂場 リトルヘブン-小さな楽園
http://www.3838.co.jp/littleheaven/200806...

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037 2013/12/31(火) 21:34:31 ID:.ih5l2c0q.
     オサバイ様祭 穴内集落

同じく大豊町穴内地区では、田植えのときに『オサバイ様』という無形の神を祀る神事が行われている。
昔は田植えを始めるときには、各家の一番上の小さな田んぼで『オサバイ様』を祀り、豊作祈願したものであるという。
オサバイ様とは毎年5月の田植えの時期に、五穀豊穣の願いを聞いてくれるとされている神様だ。


旅の発見
http://tabihatsu.jp/program/85747.htm...

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