みなまたの民話『山の神』(熊本県水俣市) 
   昔から水俣辺りでは、山の神はオコゼ(虎魚)が好きだといわれているが、その故事は次のようである。 
 大昔、山の神に一人の娘神がいた。この娘神は年頃になって、どうしたことか急に部屋にこもって食事にも出てこなくなった。 
 母神が心配して、娘神にその訳を尋ねてみると、娘は「谷川に下った時、ふと澄み切った谷川の水に自分の顔が写ったのを見て、 
 そのあまりにも醜い自分の顔に驚き、悲観して死んでしまいたくなり、食事も喉を通りません」と言った。   
 それを聞いた母神は、「なんだ、そんなことだったのか、この世の中にはまだまだお前よりも醜いものがいる。 
 ひとつも心配することはない」と慰めた。 
 すると娘神は「それなら、そんな醜いものは何でしょう? 私に是非見せて下さい」と母神にせがんだ。 
 それならと、母神は若者を海に走らせ、オコゼを捕ってこさせて娘神に見せた。   
 それを見た娘神は「ハッハッハー、これは本当に醜い顔をしている」と、大声を出して笑い出したが、それから機嫌をよくした山の神は、 
 オコゼをいつも自分の側に置いて居たとかで、それから「山の神はオコゼが好き」と言われるようになったそうである。 
 こうした故事に習ってか、昔の狩人たちはオコゼを求めて百枚の和紙に包み、お神酒と一緒に山の神にお供えして山の神を喜ばせ、 
 山での安全と豊猟を願った。そして、狩りで山に入る時には必ず山の神にお参りして、オコゼを包んだ和紙を一枚頂き、 
 それを身につけてお守りとした。その紙がなくなると、また新しいオコゼを求めて同じ様に和紙にくるんで奉納した。   
 山の神に供えたオコゼは、山の獣たちに失敬されずにミイラになっても残っているが、それはオコゼの背びれに毒針があることを 
 狐や狸どもが知っていたからかも知れない。 
 また、腐らないでミイラ化するまでに残っているのは、昔の和紙が蝿などの産卵を防ぐ役目を果たしていたからではなかろうか。 
 さらに、山の神がオコゼを好まれることについては、次のような話もある。 
 オコゼは「顔は一番醜い魚だが、腹の中はどんな魚よりもきれいである」( オコゼの内臓は非常に美味しい)したがって、 
 山の神が顔のきれいな者よりも邪心のない腹(心)のきれいな人を好かれるということは、邪心は災禍を招き、 
 正心は難を逃れるの道理を教えているものであろうと。   
 また昔は、女房のことを山の神といったが、これは女房が一般の家庭では苦しい家計を束ねる唯一その家の守り神的な存在で 
 あったからであろう。 
 そして山の神が自分より醜いオコゼが好きだということは、女性の嫉妬心の強さを物語っているのかも知れない。    
                                                         水俣市史「民族・人物編」より
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