近年、それが調べられ、実は、「自閉症患者の『脳』では、他人の視点を想像して推論する機能が働いていない」
ということが分かったのである。
ここに、自閉症という語感特有の「ココロを閉ざしている、引っ込み思案」などの性格的なものは一切ない。
単純に、脳に、その機能がないから、それができない、それだけの話だったのだ。
結局、脳みそという機械の問題なのであり、つまるところ、「テレビや冷蔵庫の回路が壊れている」 → 「正常に機能しない」
ということと同じで、そこに「ココロ」がどうとか、そういう妄想は一切いらないのである。
それを「ココロの病気」などというわけのわからない言葉でごまかしていたために、たくさんの誤解を生み、多くの人を苦しめてきた。
(追伸)
「サリーとアンの実験」で明らかになったのは、ワレワレが普段、当たり前で自明で普遍的だと思ってきた「論理」も、
実は、「単に脳の機能として発生している」にすぎない、ということである。
この、一見、自明そうな「物語」ですら、それを解釈するための機能を持たない人にとっては、まったく意味のわからないヨタ話にすぎないし、
「そんなの当たり前だろ!」と思っている人たちだって、脳のその部分を壊してしまえば、同じ物語が一瞬にして理解不可能なものに変わってしまうのだ。
ところで、一般的には、自分の「感性」や「性格」や「ものの考え方」というものを「自分とは決して切り離せない必須要素」
「自分を自分だと見なせる個性」として捉えていることが多い。
そのため、もしも、仮に、タマシイやココロが存在するならば、肉体という物質が崩壊しても、「今と、同じような感覚、感性」が、
そっくりそのまま残るだろうと思いがちだが、それはまったく不可能で絶望的なことである。
結局のところ、ワレワレが「これが自分だ」と思い込んでいる「感性、性格、ものの考え方」がすべて肉体に依存していることは、
明らかなのだから、ココロやタマシイやレイコンがあろうとなかろうと死後もそれが継続するだろうという考えは、まったくのナンセンスなのだ。
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