チベットでは、仏教が盛んだったが、ひとつ大きな問題があった。
そもそも、どんな宗教でもそうだが、宗教家というのは、高いカリスマ性をもっている必要がある。
カリスマ性、指導力のない人物のもとには、人々は集まってこない。当たり前の話だ。
だから、逆にいえば、カリスマ性を持ったお坊さんがいる寺には、たくさんの民衆が集まっていく。
だが、もちろん、そんな偉いお坊さんだって、いつかは死んでしまうのだ。
問題は「その偉いお坊さんが死んだらどうするか?」である。
そういう偉いお坊さんの後継者として、親族や弟子が引き継いだとしても、うまいこと師匠に匹敵するようなカリスマ性や
指導力を持っているとは限らない。(というか、大抵はダメ)
後継者がダメだと、民衆は、去っていく。民衆の支持で生活が成り立っている寺にとって、それは死活問題なのだ。
さてさて。
当時、チベット仏教は、4つの宗派に分かれて争っていたのだが…。
そのうちの、カギュ派(さらにそのなかの一派であるカルマ・カギュ派)が、この問題について、うまい方法を考えた。
「あ、そうだ!じゃあ、師匠の生まれ変わりを立てればいいんじゃないの?」
と考えたのである。
そこで、いきなり、他人の家に上がりこみ「この子こそ、ワレワレが探していた師匠の生まれ変わりです!」と持ちかける。
そりゃあもう、信仰心の厚い国柄だもの「オラの子供が?へぇへぇ〜、もったいねぇ〜」と言って、当然のように子供を差し出す。
そうして、何も知らない子供も教育して、師匠の生まれ変わりとして、祭り上げるのだ。
そうしたら、これが大ヒット!! カギュ派は、大きく発展した。
これで、もう偉大な師匠が死んでも、師匠の信者をそのまま維持できるのだ。減る心配はもうない。
さらに、「生まれ変わり」という神秘性も功を奏して、信者がどんどん集まってきたのだ。
こうなると、当然、他の宗派は、面白くない。そうきたら、もう手はひとつ。
「ウチの師匠は死にましたが、この子が、その生まれ変わりです」
と他の宗派も一斉にマネをし始めたのである。
こうして、チベットの歴史に、突如、「お坊さんの輪廻転生ブーム」が巻き起こるのであった。
まったく……。
チベット仏教として、古くから、「お坊さんが輪廻転生で生まれ変わって、民衆に道を説く」ということがいつのまにかあった…
…という話であれば、まだいい。それなら、まだ信じるに値する。
だが、歴史的に、チベット仏教をみてしまえば、「輪廻転生による高僧の生まれ変わり」が、いかに歴史が浅く、
明らかに信者獲得のために作られた、ウソっぱちかってことが、はっきりしてしまうのである。
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