ヤドカリ葬は実在するのか? その考察5
しかしながらこの考察も、いくつか疑問点が残ると当山氏自身が指摘している。あくまで『可能性がある』と見るべきである。
風葬場あるところにアダン林が近くに繁茂し、アダンの実(直径15〜20cmで、パイナップルに似た外見。熟すと黄色くなり甘い芳香を放つが、
ほぼ繊維質で構成されており人間が食べるには適さない。ヤドカリの好物)が実るところにヤドカリが集まり、そのヤドカリは人の遺体に群がり食べ尽す……という図式は、
極めて自然な成り行きでそうなった。海中での溺死体にシャコ、川でのソレにはモクズガニが群がるように、甲殻類は基本的にスカベンジャーである。
それゆえ風葬を行っていた当時を知る者たちにとっては、ヤドカリは死者の化身として映ったという。
なお、沖縄〜八重山に生息するヤシガニも基本的な生態は同じ。見た目はアレだが、食するとタラバガニと遜色ない味だと言う人もいる。
ヤシガニの行動範囲はさらに広く、海岸線から6km以上も離れたところで発見されたこともある。その習性を知っているので、現地人はあえて食べない。
頭蓋骨がひとりでにトコトコ歩いているので、見れば内側にヤシガニが入っていたという事例はよくある話だった。
さらに、近藤功行氏(沖縄キリスト教学院大学・人文学部、英語コミュニケーション学科)』が書いた『与論島における洗骨習俗の現状』という報告書では、
こんな記述が見られる。
与論島では風葬は明治10年まで続き、明治11年に鹿児島県が風葬禁止令を発令し、土葬に変更され、のちに火葬へと移行していった。
それに伴い、洗骨も激減。消滅の危機を迎えている。近藤氏は与論島において洗骨について現地にて、聞き取り調査を行ったところ、迫真性のある情報を得ている。
箇条書きだが、興味を惹く部分を抜粋してみる。
①明治時代、『ジシ』(死を慈しむと書いて、『慈死』)と呼ばれる洞窟や高い岩場の下にそのまま遺体を置いて、持ち帰らないで捨てたということを古老が言っている。
②明治6年ごろ天然痘が流行り、人口の半分が死に絶えた。あまりの数の死人が出たため葬儀や埋葬が間に合わず、遺体を運んだ人まで感染する恐れがあったので、
筵(むしろ)にくるんで放置した時代がある。
③『シミャー』(風葬地)は昔、獣が入らないから、また遺体を荒らさないためにそういったところを選んだ。昔は与論島には犬がいなかった。
④明治初期の天然痘が流行ったころ、薩摩支配の時代だった。疾病が蔓延し、家族でも骨を触れない時代があった。★生きながらに捨てられたような感じの骨を
『ジシ』の中で見たことがある。
⑤焼かれるのがイヤ。昔は風葬でよかった。天然痘の時代、ゴミを捨てるように人間を処分した。★生きた人までもが、その病気になったら、死んだ人たちと同じところに、
身内の迷惑にならないように行った。
コロコロ話が変わって恐縮だが、2004年に公開された邦画『風音』
http://www.cine.co.jp/fuon...では、沖縄を舞台に風葬場の場面が描かれている。
とある事情から特攻隊員の遺体を安置させ、しばらくして副主人公が現場に戻ってくると、ピキピキピキという無機質な音を立てて無数のオカヤドカリが群がるのを目撃し、
思わず怖気を振るって逃げ出すシーンがある。
物語後半にも、ある男が刺殺され、秘密裏に砂浜に埋葬される。その土饅頭の上にはアダンの実が置かれ、さもヤドカリをおびき寄せ、
ついでに埋葬された遺体をも食い尽くし、証拠を隠滅させるような形で締めくくられる。オカヤドカリは砂地なら地面を潜ることができるようだ。
さすがこの原作者(沖縄出身の芥川賞作家・目取真俊氏)、風葬について精通しているだけのことはある。
それと、冒頭と最後のあたりで蝶が舞うシーンが挿入されている。これは『再生・生』のメタファーであろう。
他にも魚を生のシンボルとし、カニ(ヤドカニも同義)は死のソレとして描いているのは注視すべきである。
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