ミステリー・ロマンを追いかけたい


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001 2025/03/15(土) 20:38:56 ID:JzYu3BkoTQ
歴史のミステリーを解き明かしたくないですか?追いかけたくないですか?
なんかいい題材ない?もしくは自分なりに研究してる人とかいますか?

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083 2026/10/04(日) 21:18:36 ID:S3BnkCBGKo
>>82
この話には続きがあり、金刺氏の没落は、この建御名方神話に倣って諏訪入りした三輪氏=諏訪氏との対立、抗争の果てであった。諏訪氏も武田氏に敗れて滅亡するが、崇仏論争に敗れた物部氏も都落ちして逃げる先にはやはり信濃を経由して、さらに北上、匝瑳物部氏や常陸物部氏でとどまることなく奥羽陸奥にまで届いてゆく。

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084 2026/10/06(火) 20:12:08 ID:5D22hTvxas
磐井の敗北 →宇佐にての 大神氏による神式鎮魂開始6世紀後半~7世紀初頭、
6世紀末北部九州の前方後円墳終焉 → 同時期に瓦・仏教施設が出現 →
7世紀後半、豊前で寺院が本格化 → 宇佐で大神氏系の神祀りに仏教が接合 して仏式の成仏も合わさる→
弥勒寺=八幡神の神宮寺 → 八幡神が国家鎮護へ上昇。
なぜ霊鎮めに仏教式を上乗せしなければならなかったのか?
鎮めるだけではなく、仏となって護国に協力させるためである。宇佐八幡宮はこうして元々一体であった和御魂と荒御魂の共同祭祀を復活、天照大神と倭大国魂神、天津神と国津神などの二神一体祭祀を取り戻したのだ。

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085 2026/10/07(水) 08:32:05 ID:Q2UZ5WjC/c
>>84
ここに現れる二神一体こそは、東アジア全体の思想的な背骨で、陰陽、太極として構造化された2項対立とその合体融合で宇宙的な調和を司るということが、どこが最初ということもなく滲み出て東洋的世界観を形成してきた。
ヨーロッパにもないわけではなく、ヘーゲルの弁証法などはこの構造を歴史の推力として取り上げたものだ。

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086 2026/10/08(木) 16:59:08 ID:.erBkRfBIs
>>60
このミラーハウスブロックじゃ珍しい海豚だか水虎の、多分子孫だが、先祖の

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087 2026/10/13(火) 06:19:27 ID:iQ7wqqwDNI
物部氏とは何者か?
元は河内周辺の豪族だったのが後に拠点を布留に移すと石上神宮創建に関わり、モノノフと語源にもなった豪族で、始祖は饒速日とされるが長髄彦の系統とも交わる。強引に天孫系だとされているが、政争に敗れても滅亡はせず、都にとどまり石上氏となった子孫もあれば都落ちして信濃から関東、東北へと分家が北上してゆく痕跡も見られる。

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088 2026/10/13(火) 10:48:16 ID:iQ7wqqwDNI
>>87
実際は銅鐸祭祀縄文系民族だったのではないかな。銅鐸は、古代呼称は、モノとかカネとか呼ばれていたのではないだろうか?なぜ銅鐸が弥生系ではなく縄文系なのかは、そこに刻まれた文様や絵から判明する。大国主が、大物主と同一視され、出雲から三輪山までカバーしているのは当然で、河内から淡路阿波を中心とする縄文銅鐸祭祀圏が広がっていたからだ。

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089 2026/10/13(火) 11:15:25 ID:iQ7wqqwDNI
銅鐸文様と縄文晩期土器の共通性に注目したのは東京大学の設楽博己氏で、銅鐸の楕円文など、多くの文様の起源を縄文晩期の土器に求めた。しかも銅鐸には弓で鹿を射る人の像も描かれているもながあり、狩猟文化との繋がりを思わせる。
仏教寺院の梵鐘の伝来は中国からで、575年製の梵鐘が、重要文化財として奈良国陸博物館に保存されている。音を鳴らすカネの表記は8世紀の万葉集や懐風藻にも現れるが、梵鐘以前から音を鳴らす祭具なり生活具としてのカネは存在し、そのもとを辿れば青銅製の銅鐸にまで遡るというのが私の仮説。

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090 2026/10/13(火) 12:01:46 ID:iQ7wqqwDNI
>>89
『日本書紀』の崇神天皇60年条に記された、出雲の神宝をめぐる争いでは、神宝を管理していた出雲振根が不在の間に、弟の飯入根が神宝を朝廷に献上するとあるが、召し上げたのであろう。
帰国した出雲振根はこれを怒り、弟を殺害する。
朝廷は吉備津彦らを派遣して出雲振根を討つ。
出雲では大神を祀らなくなり、朝廷は託宣によるとして、
玉菨鎮石、真種之甘美鏡、押羽振、山河之水泳御魂を祀らせた。これを解くなら、出雲の神宝こそは銅鐸で、これを召し上げ、別の天孫系神宝を祀らせたのだと解釈するのが妥当だろう。
これは饒速日の話とリンクする。饒速日は十種の神宝を持っていたから天孫族だと認めた話になっているが、おそらくは饒速日から本来の神宝を取り上げてこれを祀れば天孫族だと認めてやろうと押し付けたのが十種の神宝なのである。このエピソードを再現再演したのが出雲の神宝召し上げの挿話。お陰で大国主は、素戔嗚の息子や6世の孫ということになってしまい、国津神ではなく天津神ということにされてしまうわけである。
これらのエピソードで隠されているのこそが、本来の神宝、即ちカネ=銅鐸だとするなら、全ての辻褄が合う。記紀に銅鐸が出てこないのは当然だ。意図的に隠しているからである。でも実はこの2つの挿話で語られているモノこそは銅鐸なのだ。

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091 2026/10/13(火) 13:25:01 ID:iQ7wqqwDNI
本居宣長以来、大国主は国津神という解釈、饒速日命は天津神という解釈できた。なぜか?
素盞嗚尊が乱暴狼藉により天界から追放された勘当息子だからである。これにより、素盞嗚尊の子孫は血統が繋がっていても国津神なのだという解釈である。
記紀本文には大国主が国津神だとかは書いてはいない。饒速日命については天神の子とあるから天津神だとは認めている。のみならず瓊瓊杵尊と饒速日命とは同じ天忍穂耳尊の子とされ兄弟関係にある。二十歳ほど年の離れた兄弟で、男子16歳で子をなすくらいのサイクルならは、神武天皇16の時に曽祖父の弟饒速日命28歳でご対面はありえなくはない。
饒速日命は帰服、帰順の意を示すが、国譲りとはならず、戦闘が始まる。大国主は瓊瓊杵尊に先立ちタケミカヅチに国譲りをするが、タケミカヅチはさっさと天上に帰還して支配はしない。日向高建穂降臨の瓊瓊杵尊も出雲は放置で崇神天皇の御世まで手つかず。

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092 2026/10/13(火) 13:59:24 ID:iQ7wqqwDNI
私の解釈はこうだ。
大国主=大物主=物部氏は、河内から布留に移転してヤマト王権と闘い敗れて帰服。三輪山祭祀も担うまでになる。
しかし、出雲には同勢力の残党があり、抵抗を続けてきたものの、本家の説得で帰服、大国主の国譲り神話を残してもらう。しかし、抵抗する神も多々いたことを日本書紀は恨みがましく記すが、古事記では建御名方一人に集約して国譲りのスマートさを演出。燻る抵抗は崇神天皇(実際にはもっと後)まで持ち越したのが現実。
加茂岩倉や荒神谷遺跡の銅鐸大量廃棄は、弥生期ではなく4,5世紀に廃棄されて埋められたと見るね。

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093 2026/10/13(火) 17:53:03 ID:iQ7wqqwDNI
銅鐸とはカネで畿内モノノフ=饒速日系の物部氏=縄文系先住民王族の神宝だが、出雲物部氏には玉という別の神宝が、やはり縄文時代から脈々と守られて来た。新羅と組んだ日本海ルートの要衝として出雲は古来畿内にも鉄をもたらして来たのだが、畿内側が提供する神宝こそがカネ=銅鐸であった。1世紀以降の銅鐸の巨大化と豪華装飾化は、鉄をもたらす日本海航路の国々への交易財として進化したものだ。出雲には装飾銅鐸がないのは、この頃畿内物部氏と出雲物部氏とが倭国大乱で内乱に陥ったからかも知れない。やがて、九州邪馬台国が東遷して瀬戸内海航路を拓き、畿内に鉄をもたらすメインルートが開設される3世紀になると、銅鐸の需要はなくなり、出雲は畿内ヤマト王権とも同族物部氏同士も疎遠になり、むしろ元祖九州邪馬台国と結ぶ。宇土からもたらされる阿蘇ピンク石は、九州邪馬台国から宇土立って出雲を経由して機内にもたらされたのである。
やがて、4世紀以降、畿内邪馬台国が百済と結び半島進出を企て始めるや、親新羅出雲は再び畿内邪馬台国=ヤマト王権と険悪な関係となり、崇神朝の出雲神宝事件となる。この時の神宝をカネ=銅鐸と見るなら、荒神谷や加茂岩倉遺跡の銅鐸は、その際に廃棄されたものだといえ、神宝を勾玉と見るなら、勾玉が畿内ヤマト王権に盗まれたのだ。
そうこうするうちに、磐井の乱で新羅派で親出雲の元祖邪馬台国磐井が滅ぼされると、阿蘇ピンク石も途絶えることになった。
7世紀末から8世紀初頭、伊勢神宮が創建されると、出雲大社も創建された。
熱田=剣、伊勢=鏡、出雲=勾玉という構想があったはずなのである。

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094 2026/10/13(火) 21:54:26 ID:dljQYgLxU2
神社の祭りに参加してあらためて分かる。
勾玉と銅鏡と刀がお神輿の中に入っていて、一般人は見てはいけない。
三種の神器はまさにソロモンの秘宝アークそのものだろ。

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095 2026/10/13(火) 22:35:12 ID:iQ7wqqwDNI
三種の神器そのものは北九州の墳墓に旧くから埋納されてきた。博多湾に面した早良の吉武高木遺跡の弥生時代中期の墳墓から出土している。
鏡は卑弥呼の魏鏡以前だし、勾玉も出雲の勾玉以前である。勾玉の意匠は獣の牙を模したとも、流産した胎児をモデルとしたとも言われているが、おそらくは縄文時代以来の獣の牙からの変形であろう。大陸文化の剣、漢鏡、縄文土着文化の統合を表し、邪馬台国の支配者のシンボルとなって、邪馬台国東遷後も、残存元祖九州邪馬台国と畿内ヤマト王権とは、互いの同族確認合図として三種の神器を示す事をしていると解釈できる記述が景行天皇紀に散見する。これを物部氏の尾張熱田、出雲杵築、猿田彦の伊勢に分祀したのは、後発畿内参入邪馬台国が、7,8世紀に至るも終始先住縄文系に対して畏怖と配慮、警戒と慰撫をもって国をまとめようとした苦心の現れではないかと思われる。

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096 2026/10/15(木) 06:35:43 ID:0l5mDd8IAU
本来は斐伊川=簸の川は初瀬川(大和川、三輪川)ではなかったか?
『夕さらず 河蝦鳴くなる 三輪川の 清(さや)き瀬の音(と)を聞かくし良しも』と万葉集に歌われた三輪川である。
この大和川の伝説を遠く離れた出雲の斐伊川の話に付け替えたと見立てるべきなのではないか?大和川も氾濫を繰り返す河川だ。
猿田彦とヤマタノオロチとは描写が似ており、最も際立った共通点は、両者の「目が赤カガチ(ホオズキ)のように赤く光る」という共通の形容表現だ。
古事記・日本書紀において「赤カガチ」という比喩が使われるのは、全編を通してもほぼこの両者(およびそれに関連する火・蛇の神性)に限られる。
さらに、広域支配を表す八の表現。
ヤマタノオロチ:八つの頭、八つの尾、八つの谷、八つの峰。
​猿田彦:八咫鏡(やたのかがみ)のような目、天の八衢(あめのやちまた:八方に分岐する道の交差点)に立ち塞がる。
​また、猿田彦の「口や尻が赤く光る」、オロチの「腹が血で赤く爛れている」という描写も、朱(水銀朱・丹)や鉄(鉱物資源)、あるいは縄文的な身体装飾・塗彩の記憶を象徴している点で共通している。ちなみに中央構造線が走るがゆえに、三輪山初瀬山に隣接する宇陀には朱(辰砂)が出る大和水銀鉱山がある。
これらから言えることは、両者がほぼ同じ特徴を有することと、辰砂に因む地域を拠点として身体装飾に朱を用いる大きな爛々たる目を持つ人であったこと。私はこれを朱を産する山を支配した先住縄文系豪族を表していると解釈する。ヤマタノオロチとは、ヤマトノオロチであり、三輪山の山容がとぐろを巻いた蛇体であることからの連想で、ズバリ三輪山の大物主の事である。
猿田彦は道案内だというが、先住縄文系からすれば裏切り者にほかならず、伊勢の海(阿良加の海)に沈められて謀殺された。伊勢の海は、現存する最古の相撲部屋の名称であるばかりではなく、荒ぶる縄文系海民が漁る海としてのイメージがあり、伊勢から東への海路、伊勢から信濃方面への陸路が走る中央構造線が生み出す地溝、この二つの東への起点だ。伊勢の海は猿田彦終焉の地であり、猿田彦を鎮める役目も帯びたのが伊勢神宮。ヤマトノオロチから、伊勢の海へと、内治政策の力点シフトが7世紀に起きたのだな。

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097 2026/10/15(木) 11:20:20 ID:0l5mDd8IAU
物部氏は、天孫でありながら銅鐸祭祀の縄文系先住民。そして、出雲かと思いきや大和の主であり、猿田彦とも同族。猿田彦は高天原から高千穂までを案内したことになっているが、実際には高千穂(九州邪馬台国)から大和(畿内ヤマト)までを案内した事績の神話化であろう。神武天皇が、饒速日命という瓊瓊杵尊の兄弟世代と顔を合わせる時代軸である。神武東征を天孫降臨と同一視していたり、武甕槌による大国主命の国譲りなどが習合されての一つの物語の多型分岐だと見るのが正しい。
全部一つの話を時間軸をずらして様々な時空にバラして神話時間に投影したものというわけだな。
いや、実際にはいくつかの波状複数回に渡る類似エピソードが実在したのかも知れんが、束ねて再配分したのや。明治維新や鎌倉幕府、江戸開府だって東遷で、類似パタンの再演だからね。何千年隔たっていても同じ一つの型なんだ。神話時間とはそういうものだ。

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098 2026/10/15(木) 12:50:31 ID:0l5mDd8IAU
纏向の外来土器分布は、そのまま物部氏の広域支配地域を表し、出雲を西端として播磨淡路讃岐、伊勢尾張まで及ぶ銅鐸祭祀圏に重なる縄文系先住民版図を描く。大和に残る杵築や出雲、鴨などの地名を含む痕跡は物部氏支族絡みの縁を表し、鴨氏は加茂岩倉の加茂であり、賀茂神社の賀茂でもある。斎院が賀茂神社なのは、斎王が伊勢神宮なのと好対照をなし、共に物部封じの意味がある。三輪山の大田田根子(大物主神子孫)は、伊勢の大田命(猿田彦子孫)と好対照をなす。
これほどまでに重要な物部氏をまともに扱った研究を私は知らないので、ここに短くまとめた。

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099 2026/10/15(木) 13:37:07 ID:0l5mDd8IAU
>>72
辰韓弁韓馬韓の頃から馬韓は主に北九州勢が帯方郡との交通のために重んじてはいたが、弁韓、辰韓は出雲地域や若狭但馬などの日本海山陰北陸勢が親しく交通する相手であった。
帯方郡滅亡314年、七支刀369年製372年贈与(石上神宮収蔵)。
これが畿内大和の親百済の始まりなのだが、どちらも九州邪馬台国東遷後である。
出雲物部氏は、伝統的に親新羅で来たから、畿内大和物部氏の親百済転換とは相容れない。残存九州邪馬台国も親新羅方針であることから出雲物部氏と結んだのだ。ここに出雲の孤立という形の物部氏内部分裂が始まり、磐井の乱で本家邪馬台国が滅ぼされるほどの大事件に発展した。継体天皇が担ぎ込まれたのは、遠慮なく親百済姿勢を取り親新羅勢を切れる立場を取れる皇嗣がいなかったからだろう。つまりそれ以前は物部系大王だったのではないかと推定される。継体は息長系だが、それ以前の葛城、河内、三輪王朝などは全て物部系なのだ。

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100 2026/10/16(金) 05:44:56 ID:g3c3dqmjlw
物部氏を天孫系にした理由は大王輩出して来た氏族だからである。蘇我氏も、大王輩出氏族だとされるが、それ以前の事実上の大王は、殆どが物部氏だったので、蘇我氏はクーデターを起こしたようなものである。その蘇我氏を乙巳の変で駆除したのが息長系の中大兄皇子だ。
磐井の乱で物部麁鹿火(饒速日命系)らにより本家邪馬台国磐井(瓊瓊杵尊系)が潰されたにも関わらず、饒速日命はではなく瓊瓊杵尊系の血筋が後の天皇家の本流となったが故に、継体天皇は、息長氏系であるのみならず応神の5世の孫(瓊瓊杵尊系)とされなければならなかったし、神武東遷(瓊瓊杵尊系)が大和の起こりとして描き出されねばならなかったのだ。応神天皇は、卑弥呼臺與に比せられる神功皇后(息長系)の息子故に瓊瓊杵尊系とされるのだが、河内王朝だから、実際にはどうか分からない。神功皇后は架空の存在にすぎないからだ。

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101 2026/10/16(金) 06:15:13 ID:g3c3dqmjlw
瓊瓊杵尊は、饒速日命の弟である。
大海人皇子は、天智天皇の弟である。
神武東征は、弟(瓊瓊杵尊)の系譜に連なる者が兄の系譜(饒速日命)勝つ話であり、壬申の乱も弟が勝つ話だ。
神武天皇自身が末っ子である。
上の三人は
彦五瀬命(ひこいつせのみこと) - 長男長髄彦との戦いで負傷し、紀国(和歌山県)で亡くなる。
稲飯命(いないのみこと) - 次男東征の途中、熊野灘で暴風雨に遭い、海に入った。
三毛入野命(みけいりののみこと) - 三男稲飯命に同じ。

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102 2026/10/16(金) 09:48:33 ID:g3c3dqmjlw
ひふみ祓詞(布瑠の言)
「一二三四五六七八九十、布瑠部 由良由良止 布瑠部」
(ひ ふ み よ い む な や ここのたり / ふるべ ゆらゆらと ふるべ)」
これは十種神宝の祓詞だと先代旧事本紀にあるが、十種神宝を揺らしでも意味はなく、振るのは元々は十の銅鐸であったとみるべきである。

ここで訂正。
1.磐井と出雲の結びつきは親新羅で間違いはないが、阿蘇ピンク石の畿内輸送ルートは出雲経由ではなく瀬戸内海航路であったから、出雲の関与はなかった。
2.荒神谷と加茂岩倉遺跡の銅鐸埋納(廃棄)は、1世紀で確定で、崇神天皇の御代は、3世紀。続く垂仁天皇の御代でも天皇の命を受けた物部十千根による出雲神宝検校があり、その後神宝管理が物部の下に移された。いずれの場合でも神宝を破棄したり隠す必要はなく、前者は献上、後者は物部氏による神宝管理の始まりを表す。恐らくは銅鐸を巡るものではなく、勾玉の畿内移管なのだと考えられる。なぜなら銅鐸生産地は元々畿内だからだ。
加茂岩倉の加茂、葛城の鴨氏、賀茂県主賀茂神社、斎院の繋がりを大物主系物部一族のベースを踏まえて眺める視座を提供する話に留めるべきであった。

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103 2026/10/16(金) 12:07:15 ID:g3c3dqmjlw
>>13
その山こそ三輪山、初瀬山、宇陀山地=大和水銀鉱山なのね。

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104 2026/10/16(金) 13:45:32 ID:g3c3dqmjlw
神武東征は捏造。史実は邪馬台国卑弥呼の葬送+臺與の纏向入り。御間城入彦五十瓊殖尊=崇神天皇の皇后御間城姫が纏向に入った。→纏向に入ったからミマキ入り。崇神天皇の娘である臺與=豊鍬入姫命の母は、御間城姫ではなく八坂振天某辺(やさかふるあまいろべ)(『日本書紀』の崇神天皇紀(一云:別伝)に登場する人物で、尾張大海媛(おわりのおおあまひめ)の別名とされる女性)。
尾張の大海ということは当然物部縄文系先住民一族で、猿田彦に繋がりそうで、伊勢神宮外宮の豊受大御神に祀られるのも宜なるかな。
然るに別伝では豊鍬入姫の母は遠津年魚眼眼妙媛(紀国造の荒河戸畔(あらかわとべ)の娘)だともされており、こちらだと、荒河戸畔は日前神宮國懸神宮を代々祀ってきた「紀伊国造(きのくにのみやつこ)家(紀氏)」の当主(祖先)にあたるので、西を睨むなら荒河戸畔、東を拓くなら尾張大海媛という配置。
なお、八坂振天某辺という別名は、八坂=美濃、振=布留、天某辺=海部なので、伊勢尾張のみならず美濃まで及ぶ物部人脈を表す。

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105 2026/10/24(土) 11:24:24 ID:HG0b7J1t92
>>104
九州の卑弥呼の宗女臺與が、この様な畿内人脈から生まれた娘だとすると、東遷前に九州で擁立されたのはおかしくないか?
 それを言うなら卑弥呼=孝霊天皇皇女倭迹迹日百襲姫命が、大物主神の妻なのもおかしい。
欠史八代の孝霊天皇は創作だとして、卑弥呼が崇神天皇の大叔母であるというのも虚構だろう。
臺與の創作要素もその血縁親族関係にある。臺與は、卑弥呼と同じく九州女王国の生まれ。だが、その縁戚関係は畿内大和移転に伴ってかなり後から物部と結びつくようにでっち上げられたものだ。

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106 2026/10/24(土) 12:41:22 ID:HG0b7J1t92
>>101
これは、末子相続を表しているとされ、応神天皇までは皇統も末子相続で行われてきたと理解されたりする。


以下wiki引用


日本では邇邇芸命、彦火火出見尊など神話時代から応神天皇の時代にまでおける末子相続がみられる。これらの相続について、古事記や日本書紀には兄が死亡したり、怖気づいたりして弟に皇位を譲るという伝承があるが、これは末子相続による継承を不可解に思った後世の人物の付会である。また古代出雲族に末子相続の習慣があったとされている。


葛城王朝説を唱えた鳥越憲三郎は、著書「神々と天皇の間」において、神話時代から葛城王朝および三輪王朝の古代天皇までは第二子相続であり、長子は神官となって一定の権威を保持していたが妻帯せず、後代になって神官の役割が重視されなくなることによって長子の事績の記録が失われたものであり、仁徳天皇の代以降になると、第二子相続が守られなくなることによって兄弟の相続争いが頻発するようになったとする説を展開しているが、神八井耳命、大彦命、豊城入彦命など多くの皇室の長兄は子孫がおり、当然妻帯していたはずで彼の理論には疑問がある。


引用終わり


大国主命も末子相続であるから、天孫系に限らず、古代日本の習俗としての末子相続は、広く普及していたようだ。仁徳天皇以降は儒教思想が影響してか、長幼の序で相続の譲り合いが始まるとされる。


末子相続は、非農業民に見られがちな文化で、後世でも漁撈民にはその習慣が残存した例が多い。縄文時代からの慣習なのだろう。

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107 2026/10/25(日) 08:57:15 ID:gJzow8c/V2
[YouTubeで再生]
井沢元彦氏は、出雲振根からの連想で銅鐸=フルネ説をとるが、わたしはネは余計だと考える。
銅鐸の古称=フル。

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108 2026/10/25(日) 09:16:37 ID:gJzow8c/V2
>>107
なぜなら、振根の根は、崇神天皇紀同挿話に出てくる飯入根や物部十千根の根と同じだからだ。
フル=物部氏の本拠地の布留、ひふみ祓詞(布瑠の言)の布留こそ銅鐸。

「一二三四五六七八九十、布瑠部 由良由良止 布瑠部」

の布留こそ銅鐸の古称。布瑠の言で振られるのは十種の神宝ではなく、十個の銅鐸=布留であったはず。

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109 2026/10/25(日) 13:13:22 ID:gJzow8c/V2
713年に奈良県宇陀(長岡)で見つかった布留が、史料に書かれた2番目に古いの銅鐸記事で、銅の鐸(すず、鐘)である事は即座に見抜かれていた。「銅鐸」という言葉の初出でもある。

「四月癸丑。大和国宇陀郡人。無位村君東人。於長岡野地中。得銅鐸一。高三尺。口径一尺。其声清明。形状異常。献之。」
(※『続日本紀』巻第六、元明天皇・和銅六年四月条より)

天智天皇688年扶桑略記には最も古い記事がある。
(『扶桑略記』天智天皇七年正月条など)
こちらは近江国である。

「近江国崇福寺地、掘出古鐸。」
さらに詳細な史料(『催馬楽(さいばら)』の注釈や古記録など)には、以下のような具体的な状況が伝わっている。
天智天皇御宇、近江国滋賀郡、崇福寺地を穿つ(ほる)に、一つの鐸を得たり。大きさ三尺、其の声清明なり。

鐸である事はこの時にも理解されていた。

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