ミステリー・ロマンを追いかけたい


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001 2025/03/15(土) 20:38:56 ID:JzYu3BkoTQ
歴史のミステリーを解き明かしたくないですか?追いかけたくないですか?
なんかいい題材ない?もしくは自分なりに研究してる人とかいますか?

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101 2026/10/16(金) 06:15:13 ID:g3c3dqmjlw
瓊瓊杵尊は、饒速日命の弟である。
大海人皇子は、天智天皇の弟である。
神武東征は、弟(瓊瓊杵尊)の系譜に連なる者が兄の系譜(饒速日命)勝つ話であり、壬申の乱も弟が勝つ話だ。
神武天皇自身が末っ子である。
上の三人は
彦五瀬命(ひこいつせのみこと) - 長男長髄彦との戦いで負傷し、紀国(和歌山県)で亡くなる。
稲飯命(いないのみこと) - 次男東征の途中、熊野灘で暴風雨に遭い、海に入った。
三毛入野命(みけいりののみこと) - 三男稲飯命に同じ。

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102 2026/10/16(金) 09:48:33 ID:g3c3dqmjlw
ひふみ祓詞(布瑠の言)
「一二三四五六七八九十、布瑠部 由良由良止 布瑠部」
(ひ ふ み よ い む な や ここのたり / ふるべ ゆらゆらと ふるべ)」
これは十種神宝の祓詞だと先代旧事本紀にあるが、十種神宝を揺らしでも意味はなく、振るのは元々は十の銅鐸であったとみるべきである。

ここで訂正。
1.磐井と出雲の結びつきは親新羅で間違いはないが、阿蘇ピンク石の畿内輸送ルートは出雲経由ではなく瀬戸内海航路であったから、出雲の関与はなかった。
2.荒神谷と加茂岩倉遺跡の銅鐸埋納(廃棄)は、1世紀で確定で、崇神天皇の御代は、3世紀。続く垂仁天皇の御代でも天皇の命を受けた物部十千根による出雲神宝検校があり、その後神宝管理が物部の下に移された。いずれの場合でも神宝を破棄したり隠す必要はなく、前者は献上、後者は物部氏による神宝管理の始まりを表す。恐らくは銅鐸を巡るものではなく、勾玉の畿内移管なのだと考えられる。なぜなら銅鐸生産地は元々畿内だからだ。
加茂岩倉の加茂、葛城の鴨氏、賀茂県主賀茂神社、斎院の繋がりを大物主系物部一族のベースを踏まえて眺める視座を提供する話に留めるべきであった。

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103 2026/10/16(金) 12:07:15 ID:g3c3dqmjlw
>>13
その山こそ三輪山、初瀬山、宇陀山地=大和水銀鉱山なのね。

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104 2026/10/16(金) 13:45:32 ID:g3c3dqmjlw
神武東征は捏造。史実は邪馬台国卑弥呼の葬送+臺與の纏向入り。御間城入彦五十瓊殖尊=崇神天皇の皇后御間城姫が纏向に入った。→纏向に入ったからミマキ入り。崇神天皇の娘である臺與=豊鍬入姫命の母は、御間城姫ではなく八坂振天某辺(やさかふるあまいろべ)(『日本書紀』の崇神天皇紀(一云:別伝)に登場する人物で、尾張大海媛(おわりのおおあまひめ)の別名とされる女性)。
尾張の大海ということは当然物部縄文系先住民一族で、猿田彦に繋がりそうで、伊勢神宮外宮の豊受大御神に祀られるのも宜なるかな。
然るに別伝では豊鍬入姫の母は遠津年魚眼眼妙媛(紀国造の荒河戸畔(あらかわとべ)の娘)だともされており、こちらだと、荒河戸畔は日前神宮國懸神宮を代々祀ってきた「紀伊国造(きのくにのみやつこ)家(紀氏)」の当主(祖先)にあたるので、西を睨むなら荒河戸畔、東を拓くなら尾張大海媛という配置。
なお、八坂振天某辺という別名は、八坂=美濃、振=布留、天某辺=海部なので、伊勢尾張のみならず美濃まで及ぶ物部人脈を表す。

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105 2026/10/24(土) 11:24:24 ID:HG0b7J1t92
>>104
九州の卑弥呼の宗女臺與が、この様な畿内人脈から生まれた娘だとすると、東遷前に九州で擁立されたのはおかしくないか?
 それを言うなら卑弥呼=孝霊天皇皇女倭迹迹日百襲姫命が、大物主神の妻なのもおかしい。
欠史八代の孝霊天皇は創作だとして、卑弥呼が崇神天皇の大叔母であるというのも虚構だろう。
臺與の創作要素もその血縁親族関係にある。臺與は、卑弥呼と同じく九州女王国の生まれ。だが、その縁戚関係は畿内大和移転に伴ってかなり後から物部と結びつくようにでっち上げられたものだ。

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106 2026/10/24(土) 12:41:22 ID:HG0b7J1t92
>>101
これは、末子相続を表しているとされ、応神天皇までは皇統も末子相続で行われてきたと理解されたりする。


以下wiki引用


日本では邇邇芸命、彦火火出見尊など神話時代から応神天皇の時代にまでおける末子相続がみられる。これらの相続について、古事記や日本書紀には兄が死亡したり、怖気づいたりして弟に皇位を譲るという伝承があるが、これは末子相続による継承を不可解に思った後世の人物の付会である。また古代出雲族に末子相続の習慣があったとされている。


葛城王朝説を唱えた鳥越憲三郎は、著書「神々と天皇の間」において、神話時代から葛城王朝および三輪王朝の古代天皇までは第二子相続であり、長子は神官となって一定の権威を保持していたが妻帯せず、後代になって神官の役割が重視されなくなることによって長子の事績の記録が失われたものであり、仁徳天皇の代以降になると、第二子相続が守られなくなることによって兄弟の相続争いが頻発するようになったとする説を展開しているが、神八井耳命、大彦命、豊城入彦命など多くの皇室の長兄は子孫がおり、当然妻帯していたはずで彼の理論には疑問がある。


引用終わり


大国主命も末子相続であるから、天孫系に限らず、古代日本の習俗としての末子相続は、広く普及していたようだ。仁徳天皇以降は儒教思想が影響してか、長幼の序で相続の譲り合いが始まるとされる。


末子相続は、非農業民に見られがちな文化で、後世でも漁撈民にはその習慣が残存した例が多い。縄文時代からの慣習なのだろう。

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107 2026/10/25(日) 08:57:15 ID:gJzow8c/V2
[YouTubeで再生]
井沢元彦氏は、出雲振根からの連想で銅鐸=フルネ説をとるが、わたしはネは余計だと考える。
銅鐸の古称=フル。

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108 2026/10/25(日) 09:16:37 ID:gJzow8c/V2
>>107
なぜなら、振根の根は、崇神天皇紀同挿話に出てくる飯入根や物部十千根の根と同じだからだ。
フル=物部氏の本拠地の布留、ひふみ祓詞(布瑠の言)の布留こそ銅鐸。

「一二三四五六七八九十、布瑠部 由良由良止 布瑠部」

の布留こそ銅鐸の古称。布瑠の言で振られるのは十種の神宝ではなく、十個の銅鐸=布留であったはず。

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109 2026/10/25(日) 13:13:22 ID:gJzow8c/V2
713年に奈良県宇陀(長岡)で見つかった布留が、史料に書かれた2番目に古いの銅鐸記事で、銅の鐸(すず、鐘)である事は即座に見抜かれていた。「銅鐸」という言葉の初出でもある。

「四月癸丑。大和国宇陀郡人。無位村君東人。於長岡野地中。得銅鐸一。高三尺。口径一尺。其声清明。形状異常。献之。」
(※『続日本紀』巻第六、元明天皇・和銅六年四月条より)

天智天皇688年扶桑略記には最も古い記事がある。
(『扶桑略記』天智天皇七年正月条など)
こちらは近江国である。

「近江国崇福寺地、掘出古鐸。」
さらに詳細な史料(『催馬楽(さいばら)』の注釈や古記録など)には、以下のような具体的な状況が伝わっている。
天智天皇御宇、近江国滋賀郡、崇福寺地を穿つ(ほる)に、一つの鐸を得たり。大きさ三尺、其の声清明なり。

鐸である事はこの時にも理解されていた。

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