ミステリー・ロマンを追いかけたい


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001 2025/03/15(土) 20:38:56 ID:JzYu3BkoTQ
歴史のミステリーを解き明かしたくないですか?追いかけたくないですか?
なんかいい題材ない?もしくは自分なりに研究してる人とかいますか?

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014 2025/03/16(日) 15:51:59 ID:7F/NIS0eMo
>>9

日本に来たことが無い妄想作家の作品に、
ちょこっとだけ出てくる全身刺青の裸族の島を、
それは日本だって言い張ってるアホが騒いでるだけ。

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015 2025/03/17(月) 11:39:48 ID:zIvRcZog1A
邪馬台国もアトランティスも似たようなもんだな

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016 2025/03/17(月) 16:38:29 ID:tZQSNCu0aw
これって完全に解明される時って来るのだろうか

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017 2025/03/17(月) 20:45:44 ID:j/rM5/AekQ
景行天皇記を読み込むと、九州には、本家邪馬台国(大和=倭)があった事が分かる。仲間の印の三種の神器を掲げ出迎える様子が度々登場するからだ。

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018 2025/03/17(月) 21:11:15 ID:j/rM5/AekQ
対馬伊都国ルートが東遷後に沖ノ島宗像、遠賀川ルートにシフトしたことも明確だ。張政は、瀬戸内海航路を拓いた人物でもある。のみならず、卑弥呼の亡骸を船に載せ、瀬戸内海を運び、箸墓に古墳を築いた人物でもある。古墳時代をはじめたのは、張政のアイデアによる。多分、張政の祖先に張騫がおり、張騫は、西方大月氏と国会を樹立しようとした一族の英雄冒険家だ。張政は、張騫に憧れていたろう。自分は東方海上を制する気概を抱き、皇帝の命を逸脱して倭の鎮撫後退工作に走った。却って国造りに貢献してしまったから、倭は早く4世紀には漢四郡滅亡後(313年)の朝鮮半島に進出してしまう。

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019 2025/03/18(火) 15:09:28 ID:gGqW5Jrd.M
>>13
墓は288年説が有力だから、張政来日時30歳だとすれば2017年生まれの享年71歳で没、49歳で帰国、なかなかバランスがいい。油の乗った人生の現役時代の大半が倭国に捧げられた人生だ。
嘗てはその線で書かれた張政レポートという作品がネット上にアップされていたが、消えてしまったのが惜しまれる。東遷主導は、私の妄想だがね。

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020 2025/03/18(火) 15:33:28 ID:gGqW5Jrd.M
魏志倭人伝には年号なしに
「壱与は倭の大夫で率善中郎将の掖邪拘等二十人を派遣して、張政等が帰るのを送らせた。そして、臺(中央官庁)に参上し、男女の生口三十人を献上し、白珠五千孔、青大句珠二枚、模様の異なるいろいろな錦二十匹を貢いだ。」
と締め括られている。
この年号は下記で266年と推定できる。

『日本書紀』の神功紀に引用される『晋起居注(現存せず)』に、泰初(「泰始」の誤り)2年(266年)に倭の女王の使者が通訳を重ねて朝貢したとの記述がある。現存する『晋書』武帝(司馬炎)紀では266年、同・四夷伝では文帝(司馬昭)の時代(255~265年)及び武帝の泰始の初め(266年か)に倭人が朝貢したことが書かれている。
木佐敬久も、ここから張政滞在期間を20年と割り出した。この重要な事実が、何故か無視されがちなのだ。

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021 2025/03/18(火) 16:56:00 ID:gGqW5Jrd.M
卑弥呼は倭迹迹日百襲姫命だから、孝霊天皇の娘。箸墓古墳にほうむられている。夫はいない。一応大物主の妻ということにはなっているが、大物主には活玉依毘売という妻がいるが、こちらは子をなし、倭迹迹日百襲姫命は、ホトを箸で突いて死ぬ。
一方、天服織女が忌服屋で神御衣を織っていたとき、須佐之男命が天斑馬を堕し入れたため驚いて梭(機織りの際、横糸を通すのに使う舟型の器具)で陰部を衝いて死んでしまう。この事件が天照大御神が天石屋にこもるきっかけとなった、とあるが、天服織女は登場せず、天照大神自身が機を織り、ホトを突いて死んだ説が濃厚だ。
つまり、天照大神=倭迹迹日百襲姫命=卑弥呼だ。

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022 2025/03/18(火) 17:12:28 ID:gGqW5Jrd.M
台与は誰に比定されるかといえば、倭迹迹日百襲姫命の姪孫崇神天皇の娘である豊鍬入姫だろう。年齢的にも合うし、斎宮の起源、天照大神の宮外奉斎の伝承で知られる巫女的存在だ。つまり、卑弥呼の後を継いだ巫女である台与(トヨの中国側当て字)自身が斎宮、斎王なのだ。南北朝時代までの660年間、皇女が台与を演じ続けてきたことになる。

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023 2025/03/18(火) 20:07:50 ID:gGqW5Jrd.M
なぜ、台与の霊的力を頼んだのか?台与が国の乱れを収めた故事は、中国の魏志倭人伝からも逆輸入されて知られていたからである。
南北朝時代に斎宮の終焉を迎えたのは、南北朝時代の始まる延元の乱で、朝廷の分裂により国が乱れて、台与の効力ももはやこれまでとの諦念が支配したからだろう。磐井の乱や壬申の乱を思い出させたに違いあるまい。

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024 2025/03/18(火) 21:32:39 ID:gGqW5Jrd.M
そもそも壬申の乱翌年の673年、天武天皇は「大来皇女(おおくのひめみこ)」を最初の斎宮として伊勢神宮に奉じた。

これは、天武朝が、倭国時代の卑弥呼死後国が乱れたのを収めた「台与共立による国家安定」を意識的に再現した可能性が高い。

台与(=豊鍬入姫命)が天照大神を奉じて国家を安定させた歴史を踏まえ、同じ役割を皇女に担わせることで、王権の正統性と霊的安定を確立しようとした。

斎宮制度は、明らかに台与共立事績の再演儀礼なのだ。

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025 2025/03/29(土) 14:13:38 ID:kf9VN3frho
壬申の乱まで伊勢神宮は、猿田彦を祀る地であり、猿田彦が二見ヶ浦で謀殺されて、伊勢大神として祀られていた。大海人皇子が伊勢の方に向かって拝んだとあるのは、伊勢大神に向かって祈ったので、天照大御神に対してではない。猿田彦終焉の地を北東に据えた場所に内宮、外宮を設けたのは天武朝であり、同時に斎宮も発足した。此処から、鬼門に猿という陰陽道の解釈が生まれ、平安京の鬼門に猿ヶ辻、日吉の神猿、比叡、賀茂神社と斎院、と繋がってゆく。猿とは、猿田彦なのであり、以来、伊勢神宮は、猿田彦封じなのだ。

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026 2025/03/29(土) 21:05:52 ID:kf9VN3frho
694年建設の大藤原京の鬼門にあるのは、もちろん、三輪山=大神神社である。三輪山のオオモノヌシ=猿田彦=ヤマタノオロチだ。オオモノヌシの子孫が太田田根子だが、猿田彦の子孫の大田命が伊勢神宮に土地を提供した。大田命は、大若子命であり、天日別命が猿田彦でもある。纏向は古くは、太田という地名だった。
垂仁天皇愛息ホムチワケノミコは、唖であったが、出雲に派遣され出雲大神を拝むと言葉を発する事ができた。仮宮で一晩過ごす際肥長比売が褥を共にしたが、寝姿を窺い見るとその正体は大蛇であったという。肥長比売=大蛇=三輪山=オオモノヌシ=出雲大神=猿田彦=伊勢大神。

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027 2025/03/29(土) 21:37:41 ID:kf9VN3frho
出雲の国譲りにおける建御名方神が、伊勢の国譲りにおける伊勢津彦だ。すんなりOKした事代主神は伊勢では大田命ということになる。
猿田彦の風貌描写は、ヤマタノオロチとそっくりで、「その神の鼻長は七咫わ背長は七尺、目が八咫鏡のように、またホオズキのように照り輝いている」とあり、ヤマタノオロチの「頭と尾はそれれぞれ八つずつあり、眼は赤い鬼灯(ホオズキ)のようであった。松や柏が背中に生えていて、八つの丘、八つの谷の間に延びていた」と似ている。つまりは、両者とも、国津神、葦原の中つ国の先住支配者である。

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029 2025/03/29(土) 21:49:52 ID:kf9VN3frho
古墳時代が終わり、皇祖を神に仕立てる試みが7世紀はじめから企てられ始め、壬申の乱後に仏教寺院建築を模倣した神社建築を創作した。もちろん、弥生時代以来の純倭風様式でだ。嘗ての国津神も同時に神社形式で祀ることになり、伊勢神宮、杵築大社、賀茂神社などが次々と生まれた。この神格化操作の中で、卑弥呼=倭迹迹日百襲姫命は、天照大御神になったのである。

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030 2025/03/29(土) 22:48:46 ID:kf9VN3frho
>>27
ホオズキのような眼とは、倭種の切れ長の目とは異なる縄文系の二重でつぶらなどんぐり眼だと思われる。

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031 2025/03/30(日) 07:05:09 ID:lsrsDzlnvM
>>29
古墳や神社建築は、近世の城普請と同じで、地方豪族の財力、富の蓄積を放出させる役割と、それに相反する動員力や地力を強める機能の二つの側面があった。古墳には土木技術や灌漑技術の伝播という意味もあったが、神社建築には寺院建築同様の文化的趣向、細工の普及と祭祀、祭事儀礼の統一という意味しかない中、住人の意識変革には大いに役立ち、率先して採り入れられた。

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032 2025/04/05(土) 22:19:56 ID:n0avs4NDXw
大抵の神社は皇祖神関係ない。出雲大社、大神神社、賀茂神社、諏訪大社などはもちろん、本来は
伊勢神宮ですら関係なかったが、猿田彦封じの
二神を皇祖神にしてから、神祇神道系神社が建てられ始めた。如何にも霊験あらたかならざる心もとない宗教として始まったから、早く仏教の力添えにすがりたかった。早くも東大寺大仏開眼供養から、宇佐八幡宮の実験的神仏習合が始まった。

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033 2025/04/06(日) 09:37:58 ID:6aJxecxWck

卑弥呼は実在したのか?
本名は何というのか?
通名だっりしないだろうか?

九州に居たのか?
奈良に居たのか?

俺と何か関係があったのか?
無かったのか?

謎は深まるばかりだ

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034 2025/04/06(日) 09:52:24 ID:BEABVfRgSk
>>33
全部答えるよ。
実在したけど中国から馬鹿にされた政体であった時代の祭祀王だったから国史には書けず、加工したよ。
倭迹迹日百襲姫命だよ。
九州にいて死んでから奈良箸墓に葬られたんだよ。
あんたとは関係ない。
大した謎ではないし、深まらないよ。

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035 2025/04/07(月) 13:41:04 ID:6C/RXGu1vM
宮地嶽古墳、丸隈山古墳、石人山古墳は、磐井の一族の陵墓と考えられている。岩戸山古墳が磐井の墓だとされているが、磐井は即ち邪馬台国本家筋の末裔だ。更には、最後期の大王陵墓型前方後円墳でもある。
畿内でも、最後期の大王陵墓型前方後円墳は、継体天皇の今城塚古墳とされているから、このことから分かるのは、九州邪馬台国滅亡と同時に、九州は勿論ながら、畿内でも大王陵墓型前方後円墳か消滅したことである。
本家邪馬台国の滅亡が古墳時代の終わりを意味する。邪馬台国東遷と同時に古墳時代が始まり、本家邪馬台国滅亡と同時に古墳時代が終わる。
ならば、もはや九州本家筋は、飛鳥時代には捨て置かれたが?
いやいや、本家邪馬台国滅亡を鎮魂した神社こそが宇佐八幡宮ではあるまいか?

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036 2025/04/07(月) 14:33:09 ID:6C/RXGu1vM
応神5世の孫である継体天皇と、応神を祀る宇佐八幡宮、応神は実は九州本家邪馬台国出身大王ではなかったか?応神は、朝鮮半島進出に熱心に取り組んで好太王に敗れて引き上げざるを得なかった大王だ。この時の軍隊引き上げにより、列島内部に、馬、甲冑、武具などの騎馬民族的な文化要素の横溢が顕著になり、古墳副葬品も武張った物が増える。これを勘違いしたのが江上波夫の騎馬民族王朝説。邪馬台国本家と干戈を交えるに、邪馬台国本家出身の応神天皇5世の孫継体を探し出して充てたるは実に酷なる采配であった。

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037 2025/04/07(月) 14:50:19 ID:6C/RXGu1vM
中大兄皇子は、応神に擬せられ、恰も九州邪馬台国本家筋のごとく即位が躊躇せられた帝だった。そういえば、継体もまた、即位がグズグズしていた。中大兄皇子の場合は、白村江の戦いで唐に弓引いたのは、邪馬台国であり、倭国、日本ではございませんという偽装のためとも考えられる。なぜなら、遣唐使で日本は倭国とは別種と偽り、邪馬台国斬りを演出して敗戦国ウォッシュ、ロンダリングを企てていたからだ。継体の場合は、自己嫌悪からかも知れん。

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038 2025/04/07(月) 21:38:01 ID:6C/RXGu1vM
日本の天皇、大王で、崇神天皇、応神天皇、継体天皇は、実在性や、特徴的な存在感で、他とは異なる独自性を持つ。そこにさらに中大兄皇子を加えてもよいだろう。
彼らは、天皇皇統の中で、ひときわユニークで、時代を画す特別な存在だが、それは共通して、邪馬台国の影を引き摺った天皇、大王であることに由来する。歴史家も皆、この4名の特別性に気づいているが、邪馬台国絡みだとは考えていない。
邪馬台国絡みというよりは、邪馬台国を消した王たちと一括できる。まんまと消せているから、後世の歴史家もその実像を炙り出せない。
崇神天皇は、邪馬台国から東遷した初代天皇で、架空の神武天皇の実在モデル。
応神天皇は、九州邪馬台国出身で、朝鮮半島進出を試みて夢破れた武人天皇にして宇佐八幡宮に祀られた神仏習合権現様。神功皇后凱旋シーンでは、死を偽装されて瀬戸内海を船で運ばれた畿内入りが描かれるが、当時の人は妙な既視感に襲われたはずだ。卑弥呼の亡骸の喪船による航行に準えているからだ。つまりは、東遷イメージの再現だ。
継体天皇は、応神5世の孫で、九州邪馬台国末裔の磐井を滅亡させ、中大兄皇子は、斉明天皇共々神功皇后、応神天皇に擬せられ、対外的には最後の邪馬台国(倭国)王に偽装された大王。

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039 2025/04/08(火) 08:01:04 ID:iQ7wqqwDNI
邪馬台国や卑弥呼を歴史の闇に葬りつつ様々に何らかの方法で書き残そうとした苦心が日本書紀には刻まれている。なんとかして自分たちの本当の過去を遺したい。しかし、隠さねばならない、その葛藤の痕跡を読み取れるかどうかの力量が試される史書だと言える。
歴史家には歯が立たず、逆立ちしても炙り出せないが、時代状況や動機、書き記したい隠れた欲求に気づいたなら、空想家には浮かび上がる像がある。

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040 2025/04/08(火) 08:46:32 ID:iQ7wqqwDNI
武烈天皇の後を、本家邪馬台国の磐井が継ぐ線もあり得た。しかし、畿内大和は、本家九州邪馬台国の中央返り咲きを忌避した。地場豪族たちが許さなかった。磐井の乱は王位継承戦争であったわけだ。継体に、本家筋を滅ぼしてきたら、受け入れてやんよ、という意地悪な条件を突きつけた戦だった。そもそも本家筋九州邪馬台国の応神も、畿内大和は受け容れず、河内どまりであり、後世、河内王朝などと勘違いされたのだ。守旧派畿内大和の葛城やらの排他性は、応神以降の本家邪馬台国の血にも拒否反応をしめしたから、継体も越前なんぞに埋もれていたわけだ。本家対分家闘争の、分家に味方する地場勢力恐るべし。これが国津神の系譜であり、猿田彦や出雲、大物主、賀茂氏、三輪氏なのだ。もうそろそろ本家筋を潰して後顧の憂いを断とうではないか、という願いを抱くまでに6世紀畿内大和地場勢力は力を持ったのだ。

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041 2025/04/08(火) 20:38:42 ID:iQ7wqqwDNI
景行天皇の熊襲征伐は、畿内邪馬台国が、九州に残した本家邪馬台国と依然対峙し続けた狗奴国処分の話と読める。本家邪馬台国と共に狗奴国を討ち取ったわけだ。日本武尊が、東国、蝦夷征討に出るのは、嘗ての東遷の焼直しで、畿内から更に東征をして見せることで、神武天皇がそもそも南九州から立って日向から東征したくせに、なぜ今更景行天皇が日向を討つのかという疑義をかき消して見せたかった。
崇神天皇か、今さら四道将軍派遣のなぜと同じ構図。
正直、なぜ日向発の神武天皇の後続世代が今さら景行天皇の時代に日向を討たねばならないのか?

多分、景行天皇時代に狗奴国処分たる日向征討が成ってから、神武天皇の東征伝説を創作した。その東征伝説を畿内発東征伝説で延長して、邪馬台国九州説を掻き消そうとしたのが日本武尊の東国遠征説話。べ、べ、別に畿内大和王権の本家は、九州邪馬台国なんかではなく、畿内大和も東征するからね。邪馬台国は九州かどうか詮索しないでよ。確かに神武天皇は九州から東征したけど、イコール邪馬台国が九州にあったわけじゃないからね。景行天皇がいた畿内に卑弥呼がいたかもよ。倭王升帥が景行天皇のつもりだからね、と撹乱したくて、神武天皇と邪馬台国無関係説を打ち立てたかった。それくらい神武東征は、邪馬台国九州説を示唆しそうで危険視されたんだろう。だったら、神武天皇を捏造してまでの神武東征自体を載せなきゃいいだけなのに、どうしても実在崇神天皇の東遷は、畿内大和王権のアイデンティティだったのだろう。本音では、九州本家邪馬台国が恋しい魂の源郷だったのだ。

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042 2025/04/08(火) 20:54:54 ID:iQ7wqqwDNI
邪馬台国を消したかった理由
1.磐井の乱で滅ぼしたのが本家邪馬台国だと悟られたくなかった。王位継承戦争なんかではなかったよ。信じてね。
2.白村江の戦いで唐・新羅連合軍と戦った倭国=邪馬台国は、他所の国だから我等日本とは仲良くしてね、と媚び続けたから。
そんな理由で日本書紀からは邪馬台国が消し去られた影響を、現代の文献史家も被っている。

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043 2025/04/11(金) 09:32:32 ID:uGh0.aBbWc
卑弥呼の鏡の隠し場所が古墳から伊勢神宮に変わったわけやな。何かと畿内大和は、邪馬台国を隠したがってきた。所詮は邪馬台国は、他所から来たマレビトで、地元の豪族たちの権力闘争のパワーバランスの上にたなびく霞みたいなもんやったんちゃうか?地場豪族の和を尊ぶ政治が日本の政治の原点やから、そのために仏教も儒教も利用されてきたと。

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044 2025/04/11(金) 09:43:49 ID:uGh0.aBbWc
石凝姥命や八咫の鏡自体が、卑弥呼の鏡を隠すための物語だとは思わぬか?三種の神器もそうや。
記紀には魏鏡、即ち卑弥呼の鏡は載せられぬから、神話で隠した。

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045 2025/04/11(金) 13:31:53 ID:uGh0.aBbWc
なぜ神功皇后は、息長帯比売命で、近江出身なの?
答え 近江出身ではありませんし、台与に擬せられた架空の人物です。息長氏の本拠地が近江というのは、後付けで、継体天皇が近江出身だから。息長そのものは、筑後田川香春神社の祭神辛国息長大姫大自命に由来し秦氏が仰いだ神。秦氏は、継体天朝、磐井の乱後に、一部が畿内に招来され、丹後や近江、山城など、大和以外にも散らばった。近江に息長は、それ以降。なお、辛国息長大姫大自命は、台与、神功皇后と結びつくだけあって、豊受大神、稲荷神と同一神であり、丹後秦氏が信仰していたのだが、もちろん秦氏が丹後に持ち出したのである。伊勢神宮外宮に勧請された豊受大神は、秦氏の信仰した香春の神なんだよ。

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046 2025/04/12(土) 08:26:23 ID:5D22hTvxas
天日槍が、秦氏の神で、播磨、但馬、近江への秦氏の移植に関係があるけど、元々は、新羅神であり、田川香春なのだな。
イトテ五十迹手、伊都縣主、都怒我阿羅斯等などから、糸島渡来人通詞村、敦賀との関連も見逃せない。五十迹手は、本家邪馬台国の末裔だし、東遷後の糸島から香春への通詞村移転、香春経営の中心に秦氏が関与したことも分かる。天日槍の系譜を下ると神功皇后が現れるという寸法だ。

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047 2025/04/12(土) 10:09:08 ID:5D22hTvxas
筑紫王朝、三輪王朝イリ王朝、葛城王朝、河内王朝ワケ王朝、継体王朝……歴史家たちが騙された痕跡にこそ、真実が宿る。騙されるべくして騙されていたわけだな。スッキリくっきり見晴らすためには、大胆仮説を一つだけ補助線としてぶっ込めば良い。別に大胆仮説でもありはしない。日本の国の誕生の最初に起きた重要な出来事過ぎて視界から消えていただけだからだ。
それが、神武東遷だ。
神武東遷が事実だと認めるだけ。東遷後にもといた場所に誰も残さなかったかどうかリアルに考えるだけ。
あと一つ。
邪馬台国は、隠されてはいるが、書かれてはいると考えること。隠されたには理由があり、書いたにも理由があるという当たり前に気づけば良い。

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048 2025/04/12(土) 19:43:25 ID:5D22hTvxas
邪馬台国は、大和ヤマトであり、大和の名前の語源だ。しかし、筑紫に存在したのであり、磐井王国まで存続しながら、応神天皇も輩出した。
因みに、ヤマタノオロチは、大和のオロチであり、三輪山の大物主以下畿内八豪族のことだ。出雲は、信濃と同様に、敗走の地であり、敗れたものの魂を神祀りして弔うための地になった。もともとの出雲土着の豪族もいたことはいたが、畿内国津神の逃亡敗走先になり、根の国とされた。

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049 2025/04/13(日) 09:02:52 ID:V6SMFf5ojI
任那は、九州本家邪馬台国の経営地であり、新羅は、倭人が建国。新羅と九州本家邪馬台国は兄弟国家。帯方郡、楽浪郡滅亡後に百済が建国され、高句麗の圧力に晒され、倭国に頼り始めた。張政による邪馬台国東遷は、半島から倭国の影響を遠ざける狙いがあったのだろう。思惑通り本家邪馬台国だけでは百済、新羅を支えきれず、高句麗により半島から締め出された。
それでも5世紀までは栄山江流域には倭国の進駐軍が残存してはいたが、475年に百済が一旦滅ぶと彼らも撤収。再興百済は南下政策で伽耶任那を奪取、新羅とも衝突し始める。九州本家邪馬台国が滅亡するや、畿内邪馬台国が百済援護に過剰に肩入れ、白村江の戦いでボロ負けする。
新羅との縁は切れて百済は滅亡、次いで高句麗も唐に滅ぼされた。倭国は、完全に、半島からは身を引いた。その頃に史書が書かれたのだということを念頭に置かねばならない。

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051 2025/04/13(日) 14:07:23 ID:V6SMFf5ojI
「三国史書」によると、新羅建国に絡む瓠公は「倭人」で、始祖赫居世と同一人物(朴氏)とされている。のみならず、第四代脱解尼師今(昔氏)も丹波地方の「倭人」だというのである。ここで思い合わせるべきは神武天皇だ。
鵜草葺不合命と玉依姫命の子は四兄弟で、長兄五瀬命以外にも神武天皇には兄がいて、稲飯命、三毛入野命である。
「新撰姓氏録」には、稲飯命は新羅王の祖とする異伝があるという。稲飯命自身が新羅王の何れかに関わるかはわからないが、子孫が新羅王になったという訳である。新羅王家と倭人、それも天孫が無関係ではないようなのだ。素戔嗚尊とその子、五十猛神についても新羅との関係は常に取り沙汰される。

神武天皇の兄が新羅王の祖、即ち、九州本家邪馬台国から新羅の王が出たと、暗に語っている。神話化された素戔嗚、五十猛神父子も新羅に関与した事実を包み隠して伝えている。
はっきり言えば、邪馬台国からは、畿内大和と新羅が派生した訳である。
畿内邪馬台国は、新羅と兄弟国家、九州本家邪馬台国は親だと言える。

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052 2025/04/13(日) 19:22:40 ID:V6SMFf5ojI
畿内大和の親百済政策の下、大伴金村は、512年に任那四県を百済に割譲する。
磐井滅亡を期に新羅川の反撃で任那奪還、或いは任那自身が新羅に下る。
532年 新羅が金官伽耶を併呑
562年 新羅に任那が身売り?(任那滅亡)
任那を百済に売国してきた畿内大和が、磐井無き後、任那を口実に新羅を遠慮会釈なく攻め始める。
欽明朝 新羅討伐計画
崇峻朝 新羅討伐計画
推古朝 新羅討伐計画(3回)
この流れで明らかなように、九州本家邪馬台国は、新羅の親であり、新羅は、畿内大和の兄弟国家だからこそ、兄弟は他人の始まりで親を殺めた兄は、弟を憎み嫌ってしつこく討ち滅ぼさんと新羅征討計画を試みる。白村江の戦い後も新羅蔑視は続き、8世紀半ばになってすら、藤原仲麻呂が、新羅征討計画が練られたほどである。
この奇妙な新羅憎悪を読み解くには、同族嫌悪、恰も九州本家邪馬台国=磐井を討滅した時のような自画像的兄弟国消去願望があったとしか考えられない。

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053 2025/04/14(月) 06:21:10 ID:OY1TISgTog
畿内大和の九州、新羅憎悪がなにからくるのかが分からないミステリー。
隼人や佐伯、など南九州や百済への扱いと、中央から北部九州、新羅への扱いの落差。
そこに隠された王国、邪馬台国を挿入すると見えてくる物がある。

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054 2025/04/14(月) 08:38:17 ID:OY1TISgTog
畿内大和の二層構造だよ。畿内邪馬台国新参層という表層は、常に畿内国津神の古層に突き上げられ、動かされている。
新羅憎悪や邪馬台国嫌悪のベースには、近親憎悪を煽り駆り立てる畿内先住民スピリット基層が横たわっている。
佐伯、熊襲、佐伯、蝦夷、俘囚、土蜘蛛らは、畿内大和国津神と根底では繋がる先住民同士。
国津神古層は、南九州や蝦夷にまで広がっている。その中でまつろわぬ神はミシャグチ、アラハバキ、諏訪、出雲となって駆逐された。

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055 2025/04/14(月) 12:50:56 ID:OY1TISgTog
以上の思考フレームによって、なぜ建御名方や伊勢津彦が同じ信濃や諏訪に落ち延びたのかか分かる。
信濃と言えば、饒速日命、長髄彦、物部氏、安曇氏、秦氏などが、落ち延びた地として知られ、八面大王が、田村麻呂に討たれたりしている。物部氏、秦氏の都落ちは、壬申の乱後で信濃秦氏から、長宗我部に繋がったりしている。信濃は、落人の吹き溜まり、受け皿みたいだ。或いは戸隠伝説みたいに、弾き飛ばされて遠方から飛ばされてくるイメージだ。磐井一族も実は助命嘆願実り、八面大王の信州安曇野に逃れた伝説がある。九州八女には西に有明海。信州安曇野は西に有明山。磐井と同じく八つ裂きにされた八面大王は、八女大君=八女大王に重なるか。
安曇野も、かつては諏訪湖のような湖で、諏訪と同じく產鉄地域であったとも言う。長野は、天日槍との関係、田川や国東半島にも長野地名があったりするので、秦氏によるものなのか、北九州と長野は奇妙な繋がりがある。海人族安曇の安曇野流入も不思議だ。
新羅、百済へ向けられる視線の違いや信濃と出雲の違いなど、追うべきテーマは尽きない。

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056 2025/04/17(木) 08:37:05 ID:k.lVn1sdNQ
諏訪氏は、大神氏=三輪氏を祖とする。北条氏と親しく、なぜか、東北蝦夷への征討計画の要にいた。だから、当時の東北、北海道地域の安東氏の反乱にも関わり、北海道アイヌ事情を記す諏訪大明神絵詞を遺す。諏訪大社上社自体が、守矢神と大神の二重構造で、建御名方と地元縄文系のミックスだ。建御名方は、出雲から来たのではなく。出雲には落ちなかった三輪氏なのだ。信濃の懐は、縄文系が畿内旧地場豪族を受け入れる当時の最果て。都落ちは受け入れるが、都上りはしない地域だ。寧ろ、さらなる遠国からの上りをも吸収する。九州からであれ、関東東北からであれ。

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058 2025/04/19(土) 11:11:27 ID:2prNmAlnwA
安曇野、諏訪湖は、糸魚川静岡構造線が通る場所で、諏訪湖は、中央構造線も交差する。
非常に特別な場所であることは、偶然ではあるまい。

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059 2025/04/19(土) 11:12:42 ID:2prNmAlnwA
諏訪湖で交差する中央構造線

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060 2025/04/19(土) 16:22:36 ID:QKd9CUpTUQ
>>58
昨日地震があったトコじゃないか

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061 2025/04/20(日) 10:29:52 ID:QRjkmTfjgk
[YouTubeで再生]
まんが日本昔ばなしのOPの龍に乗った少年は、小泉小太郎という龍の子太郎のモデルにもなった信濃大町の伝説の主人公だ。
この伝説こそ、三輪大神、大物主、ヤマタノオロチ、蛇神、農業誕生説話、新田開発伝説、狩猟採集先住民北方駆逐などが詰まった出雲神話の派生類型である。母=龍神=縄文系と、父=開拓者=弥生系の異種婚姻譚から小太郎が生まれ、母を犠牲にして水田農耕を広める。

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062 2025/04/21(月) 06:39:56 ID:rfodJxuu4c
>>61
面白かった 39

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063 2025/04/21(月) 07:39:35 ID:Dk138pK/xY
八女 ヤメ=ヤマト 邪馬台
八女大君(6世紀)=八面大王(平安時代)=ヤマト大君(4世紀〜)=ヤマタノオロチ(出雲神話時代)
安曇=アズミ=イズモ=出雲
古代安曇湖(松本湖)は、存在は地質学的には証明されず、あっても縄文時代早期。
しかし、諏訪湖は、かつてより100m以上も水位が下がったと考えられる。

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064 2025/04/21(月) 07:56:06 ID:Dk138pK/xY
八女の由来∶この地方に女神あり、その名を八女津媛といい、常に山中にある

ヤメツヒメミコと呼んだらば、ヤマトヒメコと中国人には聞こえよう。
邪馬台卑弥呼爆誕である。

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065 2025/04/21(月) 19:46:02 ID:Dk138pK/xY
8世紀、ヤメオオキミと地元で呼びならわしてきた磐井末裔が信濃にいたとして、坂上田村麻呂が討ち取りに向かい、敵の名を「ヤメオオキミ」と聞いたら何とする?オオキミは、天皇のこと故、恐れ多しと憚り、せめて大王表記とするべし。また、ヤメを漢字表記するに、八面と当て字したるは打ち倒したる強敵をおどろおどろしく飾るにうってつけではなかったか?ヤメオオキミを八面大王と表記したる経緯なり。

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067 2025/04/22(火) 10:24:49 ID:4mcIOM8JcM
【地名】
青い線(標高600m)より上には窪海渡(ちひろ美術館:610m)、南海渡(鼠穴:620m)、北海渡(アルプスあづみの公園:650m)、梶海渡(神林:610m)という地名があります。
赤い線(標高580m)には渚、宮渕、島内という水辺を示す地名が並んでいます。


安曇野の低い場所は人が住めないところだったようです。松本市立考古博物館によると松本市内の縄文時代晩期の遺跡は中山あたり標高が650m前後、弥生時代後期になると標高が600m以下の北部に(宮渕本村、県など松本城あたりからも)多く発見されているそうです。確かに穂高郷土資料館によると安曇野の縄文遺跡は穂高牧の他谷(たや)遺跡や穂高烏川左岸の離山(はなれやま)遺跡ですが、標高は650m前後です。
https://www.blenoir.co.jp/Azuminonohimitu2.htm.....


ちなみに標高600mの湖だったとすると青い線の内側は湖水で満たされていた・・・
標高600mの主な地点:Vif穂高、安曇野山麓線、鼠穴、ちひろ美術館、松川村大門交差点、池田町二丁目交差点、花見、滝の台、池田町山辺の道、池田町北アルプス展望美術館、明科七貴、(篠ノ井線は550m)、松本市図書館、県の森公園、筑摩神社、野溝木工、大久保工場公園団地、島立、三郷明盛、三郷温、住吉神社、田多井

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068 2025/04/22(火) 20:19:34 ID:4mcIOM8JcM
小泉小太郎は泉小太郎であり、本来は安曇小太郎、或いは出雲小太郎と表記すべき人物。
安曇は、保高見熱躬という郡司名の熱躬あつみに由来すると説く古文書もあるが、穂高見といい安曇といい、ホタカ、アズミあって後の創作人名に思える。
縄文人には生きる糧を恵む湖が、稲作農民には邪魔でしかなく、小太郎の母は狩猟採集文化の分配の掟を破ったとして祟られて龍にされる。小太郎と引き離され乳で育てられない代わりに目を潰されて、龍の目玉を吸って小太郎はすくすく大きくなり、長じて再会してからは母龍の頭に跨り、母の目、頭となって操り山を崩し川を流して水利事業で田に変えた。農業文化の協働ルールの世界に変えて母龍は彼方へ去る。

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069 2025/04/25(金) 11:34:04 ID:LILAZit4c2
日本国建国とは、邪馬台国や出雲、安曇、諏訪を消すことで成就した。蝦夷、アイヌ、琉球を消す作業の中にも同じものが見て取れる。蝦夷を消したのは中世から17世紀までかかったし、琉球を消したのは19世紀までかかった。アイヌは、まだ消せていないから右派が現在進行形で消しにかかっている姿が目撃できるほどである。無事消し去ると歴史ロマン入りしてああでもないこうでもないと詮議する。消した当事者が頭を捻る姿が見苦しい。

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070 2025/04/26(土) 09:41:11 ID:xZ8SfGLcNU
国家とは消す作業である。中国が日本を乗っ取る未来があるとしたら、国譲りの伝統の繰り返されたわが国では、王朝交代劇にはならず、過去が消されよう。

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071 2025/04/27(日) 11:55:53 ID:BpZJ39/5p2
邪馬台国の卑弥呼という表現は、魏志倭人伝には一度たりとも出ては来ない。女王国ばかりで、一度だけ邪馬台国の位置を記述の傍ら、女王の都するところとだけ。
東南陸行五百里 到伊都國 官曰爾支副曰泄謨觚柄渠觚 有千餘戸 世有王 皆統屬女王國 郡使往來常所駐
東南至奴國百里 官曰兕馬觚副曰卑奴毋離 有二萬餘戸
東行至不彌國百里 官曰多模副曰卑奴毋離 有千餘家
南至投馬國水行二十日 官曰彌彌副曰彌彌那利 可五萬餘戸
南至邪馬壹國 女王之所都 水行十日陸行一月 官有伊支馬次曰彌馬升次曰彌馬獲支次曰奴佳鞮 可七萬餘戸

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072 2025/05/04(日) 20:35:35 ID:BedRtyZvRM
なぜ畿内大和王権は親百済で、九州邪馬台国ほ親新羅だったか?
九州邪馬台国は、新羅王族と近縁で倭人の王が建国以来支配して来たし、隣接する金官伽耶は、事実上の倭人支配地だった。その理由は、新羅から伽耶地域に産する鉄の重要性から来たものだ。
一方、百済は帯方郡の影響下に建国された国で、公孫氏滅亡直後に卑弥呼が帯方郡経由で遣使して以来、魏の後ろ盾を獲得するための重要性を持つ地となった。帯方郡滅亡後には、百済がその後継的ポジションになったため、畿内大和は親百済なのだ。ならば卑弥呼は畿内か?違う。卑弥呼は、死後畿内に移されたのであり、存命中は九州で魏と通じ、台与の代に帯方郡の張政に従って東遷した経緯から、畿内大和王権の礎となったから、畿内大和王権は、ことさらに親魏即ち親百済になったわけだ。親新羅と親百済は性質が違う。パトロンである魏、即ち帯方郡、後継国百済経由中国の威光や文化、ソフトパワーが百済の意味だ。

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073 2025/05/04(日) 22:20:25 ID:TRvmCdZ1vc
>>58>>>59縄文土器とか土偶も出土してるし、山には黒曜石が沢山あるらしい。たしか取ったら違反だよ。

縄文時代は諏訪が中心だったかも説もあるな。

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074 2025/05/05(月) 07:44:48 ID:QbVuLZJiDs
糸魚川という川はない。翡翠を産する姫川を源流まで遡るとそこは安曇野であり、さらに進むなら諏訪に至る。構造線に出る産出物で、縄文時代から大切にされてきたのは、翡翠と朱砂、丹砂であった。

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075 2025/05/06(火) 18:06:27 ID:HyiS5biAo2
記紀は、日本の誕生であり、同時に過去との決別であった。言ってみれば、葬送。
小説、マンガ、ドラマになった「ほどなくお別れです」の推薦文に印象的なメッセージがあった。 

「大切な人を亡くした時、ずっと思い続けることが愛だと思っていた自分に、愛ある別れは必要だと、この作品は教えてくれた」
――ジュンク堂書店滋賀草津店・山中真理さん

生きるために別れる。まさに、日本は、誕生するために別れなければならなかったのだろう。葬儀は、生きるために行われなければならない。

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076 2025/05/07(水) 13:34:07 ID:3qlAo4zd0E
https://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4299065069/pr...
この本が今のところ、かなりいい線いっている。

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077 2025/05/07(水) 13:38:35 ID:3qlAo4zd0E
https://president.jp/articles/-/94617?page=...
抜粋。
但し、崇神朝にあったはずの女王国東遷事実が抜け落ちている。

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078 2025/05/10(土) 11:10:29 ID:x7raPdsTOE
倭迹迹日百襲姫命
ヤマトトトヒモモソヒメ
意味は大和の尊い百生(長生きの)婆さんだよな。
卑弥呼にピッタリ。170年生まれ、248年没だから、享年78。

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079 2025/05/24(土) 09:25:03 ID:J4C8N4Jvok
国津神と天津神の恣意性。
斎王は、斎宮と斎院にいる。斎宮は、天照大神を祀ると見せかけて、実際には猿田彦を祀り鎮めている。斎院は、賀茂建角身命を祀る。
八咫烏と猿田彦、なぜ八咫烏は賀茂建角身命で
天孫族?猿田彦は国津神なのに。大国主も国津神のはずが、天孫族にされている。饒速日命もそう。おかしくないだろうか?

大国主は、素戔嗚の子孫にされてしまったし、素戔嗚だって本当に天津神だかは分からない。
事代主もしかり。伊勢神宮のあり方から察するに、国津神系地主神をどうにかして天津神系に変造するために、あっさりと神話で系譜を書き換えてしまう場合には、末裔の影が薄いか、婚姻関係で実際に外戚化している。婚姻関係がない場合には、国津神のまま系譜以外で取り込みを図る。
いずれにしても、斎王は、天照大神を祀る役割なのではなく、霊力をもって国の乱を鎮めんがために立つ事に意味がある。祀る対象は、天照大神でも良いし、国津神でも構わない。

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080 2025/05/24(土) 19:49:11 ID:J4C8N4Jvok
大和王権以前の倭国の中心は北九州にあり、北は朝鮮半島の金官伽耶まで含んでいた。帯方郡の公孫氏滅亡から政治的地殻変動が起こる。公孫氏滅亡は、何を引き起こしたか?公孫氏遺民の南下、北九州への亡命。卑弥呼の遣使、楽浪、帯方郡滅亡、神武東征、大和王権成立、朝鮮半島建国ブームだ。

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081 2025/07/20(日) 10:41:46 ID:P4w3q8qhmA
日本で最初に内戦回避を力を振るったシンボリックな存在は、卑弥呼だ。
次が
台与。
壬申の乱を経た天武天皇が、内戦予防策として制度化した儀礼が、台与に範を採った斎王制。
これも南北朝時代に失効し、内戦予防どころではない戦国時代が始まる。戦国時代を経た徳川政権が採用した内戦予防回避策として制度化した儀礼が、参勤交代制だ。
これが幕末に失効、戊辰戦争。箱館戦争、西南戦争を経て、明治政府が内戦予防回避策に採用した制度が、議会制民主主義と選挙だ。
日本内戦史には、内戦予防回避策の歴史が刻まれているが、歴史教育では、こうした観点からは歴史を教えない。

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082 2025/08/14(木) 16:19:27 ID:jT.Ggoi10g
出雲の国譲りで、建御名方が、諏訪に落ちのびる話は、出雲神話にはない。
信濃国の金刺氏やその同族の多氏(太安万侶が、多氏)の多品治が、信濃の牧で養った馬を引き連れて、騎馬軍として壬申の乱で大海人皇子側に参戦し、軍功を上げた論功行賞として、神話で報いたものだとされている。故に当時はさておき、諏訪信仰における建御名方の存在感は希薄で、重要視されては居ない。

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083 2026/10/04(日) 21:18:36 ID:S3BnkCBGKo
>>82
この話には続きがあり、金刺氏の没落は、この建御名方神話に倣って諏訪入りした三輪氏=諏訪氏との対立、抗争の果てであった。諏訪氏も武田氏に敗れて滅亡するが、崇仏論争に敗れた物部氏も都落ちして逃げる先にはやはり信濃を経由して、さらに北上、匝瑳物部氏や常陸物部氏でとどまることなく奥羽陸奥にまで届いてゆく。

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084 2026/10/06(火) 20:12:08 ID:5D22hTvxas
磐井の敗北 →宇佐にての 大神氏による神式鎮魂開始6世紀後半~7世紀初頭、
6世紀末北部九州の前方後円墳終焉 → 同時期に瓦・仏教施設が出現 →
7世紀後半、豊前で寺院が本格化 → 宇佐で大神氏系の神祀りに仏教が接合 して仏式の成仏も合わさる→
弥勒寺=八幡神の神宮寺 → 八幡神が国家鎮護へ上昇。
なぜ霊鎮めに仏教式を上乗せしなければならなかったのか?
鎮めるだけではなく、仏となって護国に協力させるためである。宇佐八幡宮はこうして元々一体であった和御魂と荒御魂の共同祭祀を復活、天照大神と倭大国魂神、天津神と国津神などの二神一体祭祀を取り戻したのだ。

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085 2026/10/07(水) 08:32:05 ID:Q2UZ5WjC/c
>>84
ここに現れる二神一体こそは、東アジア全体の思想的な背骨で、陰陽、太極として構造化された2項対立とその合体融合で宇宙的な調和を司るということが、どこが最初ということもなく滲み出て東洋的世界観を形成してきた。
ヨーロッパにもないわけではなく、ヘーゲルの弁証法などはこの構造を歴史の推力として取り上げたものだ。

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086 2026/10/08(木) 16:59:08 ID:.erBkRfBIs
>>60
このミラーハウスブロックじゃ珍しい海豚だか水虎の、多分子孫だが、先祖の

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087 2026/10/13(火) 06:19:27 ID:iQ7wqqwDNI
物部氏とは何者か?
元は河内周辺の豪族だったのが後に拠点を布留に移すと石上神宮創建に関わり、モノノフと語源にもなった豪族で、始祖は饒速日とされるが長髄彦の系統とも交わる。強引に天孫系だとされているが、政争に敗れても滅亡はせず、都にとどまり石上氏となった子孫もあれば都落ちして信濃から関東、東北へと分家が北上してゆく痕跡も見られる。

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088 2026/10/13(火) 10:48:16 ID:iQ7wqqwDNI
>>87
実際は銅鐸祭祀縄文系民族だったのではないかな。銅鐸は、古代呼称は、モノとかカネとか呼ばれていたのではないだろうか?なぜ銅鐸が弥生系ではなく縄文系なのかは、そこに刻まれた文様や絵から判明する。大国主が、大物主と同一視され、出雲から三輪山までカバーしているのは当然で、河内から淡路阿波を中心とする縄文銅鐸祭祀圏が広がっていたからだ。

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089 2026/10/13(火) 11:15:25 ID:iQ7wqqwDNI
銅鐸文様と縄文晩期土器の共通性に注目したのは東京大学の設楽博己氏で、銅鐸の楕円文など、多くの文様の起源を縄文晩期の土器に求めた。しかも銅鐸には弓で鹿を射る人の像も描かれているもながあり、狩猟文化との繋がりを思わせる。
仏教寺院の梵鐘の伝来は中国からで、575年製の梵鐘が、重要文化財として奈良国陸博物館に保存されている。音を鳴らすカネの表記は8世紀の万葉集や懐風藻にも現れるが、梵鐘以前から音を鳴らす祭具なり生活具としてのカネは存在し、そのもとを辿れば青銅製の銅鐸にまで遡るというのが私の仮説。

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090 2026/10/13(火) 12:01:46 ID:iQ7wqqwDNI
>>89
『日本書紀』の崇神天皇60年条に記された、出雲の神宝をめぐる争いでは、神宝を管理していた出雲振根が不在の間に、弟の飯入根が神宝を朝廷に献上するとあるが、召し上げたのであろう。
帰国した出雲振根はこれを怒り、弟を殺害する。
朝廷は吉備津彦らを派遣して出雲振根を討つ。
出雲では大神を祀らなくなり、朝廷は託宣によるとして、
玉菨鎮石、真種之甘美鏡、押羽振、山河之水泳御魂を祀らせた。これを解くなら、出雲の神宝こそは銅鐸で、これを召し上げ、別の天孫系神宝を祀らせたのだと解釈するのが妥当だろう。
これは饒速日の話とリンクする。饒速日は十種の神宝を持っていたから天孫族だと認めた話になっているが、おそらくは饒速日から本来の神宝を取り上げてこれを祀れば天孫族だと認めてやろうと押し付けたのが十種の神宝なのである。このエピソードを再現再演したのが出雲の神宝召し上げの挿話。お陰で大国主は、素戔嗚の息子や6世の孫ということになってしまい、国津神ではなく天津神ということにされてしまうわけである。
これらのエピソードで隠されているのこそが、本来の神宝、即ちカネ=銅鐸だとするなら、全ての辻褄が合う。記紀に銅鐸が出てこないのは当然だ。意図的に隠しているからである。でも実はこの2つの挿話で語られているモノこそは銅鐸なのだ。

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091 2026/10/13(火) 13:25:01 ID:iQ7wqqwDNI
本居宣長以来、大国主は国津神という解釈、饒速日命は天津神という解釈できた。なぜか?
素盞嗚尊が乱暴狼藉により天界から追放された勘当息子だからである。これにより、素盞嗚尊の子孫は血統が繋がっていても国津神なのだという解釈である。
記紀本文には大国主が国津神だとかは書いてはいない。饒速日命については天神の子とあるから天津神だとは認めている。のみならず瓊瓊杵尊と饒速日命とは同じ天忍穂耳尊の子とされ兄弟関係にある。二十歳ほど年の離れた兄弟で、男子16歳で子をなすくらいのサイクルならは、神武天皇16の時に曽祖父の弟饒速日命28歳でご対面はありえなくはない。
饒速日命は帰服、帰順の意を示すが、国譲りとはならず、戦闘が始まる。大国主は瓊瓊杵尊に先立ちタケミカヅチに国譲りをするが、タケミカヅチはさっさと天上に帰還して支配はしない。日向高建穂降臨の瓊瓊杵尊も出雲は放置で崇神天皇の御世まで手つかず。

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092 2026/10/13(火) 13:59:24 ID:iQ7wqqwDNI
私の解釈はこうだ。
大国主=大物主=物部氏は、河内から布留に移転してヤマト王権と闘い敗れて帰服。三輪山祭祀も担うまでになる。
しかし、出雲には同勢力の残党があり、抵抗を続けてきたものの、本家の説得で帰服、大国主の国譲り神話を残してもらう。しかし、抵抗する神も多々いたことを日本書紀は恨みがましく記すが、古事記では建御名方一人に集約して国譲りのスマートさを演出。燻る抵抗は崇神天皇(実際にはもっと後)まで持ち越したのが現実。
加茂岩倉や荒神谷遺跡の銅鐸大量廃棄は、弥生期ではなく4,5世紀に廃棄されて埋められたと見るね。

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093 2026/10/13(火) 17:53:03 ID:iQ7wqqwDNI
銅鐸とはカネで畿内モノノフ=饒速日系の物部氏=縄文系先住民王族の神宝だが、出雲物部氏には玉という別の神宝が、やはり縄文時代から脈々と守られて来た。新羅と組んだ日本海ルートの要衝として出雲は古来畿内にも鉄をもたらして来たのだが、畿内側が提供する神宝こそがカネ=銅鐸であった。1世紀以降の銅鐸の巨大化と豪華装飾化は、鉄をもたらす日本海航路の国々への交易財として進化したものだ。出雲には装飾銅鐸がないのは、この頃畿内物部氏と出雲物部氏とが倭国大乱で内乱に陥ったからかも知れない。やがて、九州邪馬台国が東遷して瀬戸内海航路を拓き、畿内に鉄をもたらすメインルートが開設される3世紀になると、銅鐸の需要はなくなり、出雲は畿内ヤマト王権とも同族物部氏同士も疎遠になり、むしろ元祖九州邪馬台国と結ぶ。宇土からもたらされる阿蘇ピンク石は、九州邪馬台国から宇土立って出雲を経由して機内にもたらされたのである。
やがて、4世紀以降、畿内邪馬台国が百済と結び半島進出を企て始めるや、親新羅出雲は再び畿内邪馬台国=ヤマト王権と険悪な関係となり、崇神朝の出雲神宝事件となる。この時の神宝をカネ=銅鐸と見るなら、荒神谷や加茂岩倉遺跡の銅鐸は、その際に廃棄されたものだといえ、神宝を勾玉と見るなら、勾玉が畿内ヤマト王権に盗まれたのだ。
そうこうするうちに、磐井の乱で新羅派で親出雲の元祖邪馬台国磐井が滅ぼされると、阿蘇ピンク石も途絶えることになった。
7世紀末から8世紀初頭、伊勢神宮が創建されると、出雲大社も創建された。
熱田=剣、伊勢=鏡、出雲=勾玉という構想があったはずなのである。

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094 2026/10/13(火) 21:54:26 ID:dljQYgLxU2
神社の祭りに参加してあらためて分かる。
勾玉と銅鏡と刀がお神輿の中に入っていて、一般人は見てはいけない。
三種の神器はまさにソロモンの秘宝アークそのものだろ。

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095 2026/10/13(火) 22:35:12 ID:iQ7wqqwDNI
三種の神器そのものは北九州の墳墓に旧くから埋納されてきた。博多湾に面した早良の吉武高木遺跡の弥生時代中期の墳墓から出土している。
鏡は卑弥呼の魏鏡以前だし、勾玉も出雲の勾玉以前である。勾玉の意匠は獣の牙を模したとも、流産した胎児をモデルとしたとも言われているが、おそらくは縄文時代以来の獣の牙からの変形であろう。大陸文化の剣、漢鏡、縄文土着文化の統合を表し、邪馬台国の支配者のシンボルとなって、邪馬台国東遷後も、残存元祖九州邪馬台国と畿内ヤマト王権とは、互いの同族確認合図として三種の神器を示す事をしていると解釈できる記述が景行天皇紀に散見する。これを物部氏の尾張熱田、出雲杵築、猿田彦の伊勢に分祀したのは、後発畿内参入邪馬台国が、7,8世紀に至るも終始先住縄文系に対して畏怖と配慮、警戒と慰撫をもって国をまとめようとした苦心の現れではないかと思われる。

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096 2026/10/15(木) 06:35:43 ID:0l5mDd8IAU
本来は斐伊川=簸の川は初瀬川(大和川、三輪川)ではなかったか?
『夕さらず 河蝦鳴くなる 三輪川の 清(さや)き瀬の音(と)を聞かくし良しも』と万葉集に歌われた三輪川である。
この大和川の伝説を遠く離れた出雲の斐伊川の話に付け替えたと見立てるべきなのではないか?大和川も氾濫を繰り返す河川だ。
猿田彦とヤマタノオロチとは描写が似ており、最も際立った共通点は、両者の「目が赤カガチ(ホオズキ)のように赤く光る」という共通の形容表現だ。
古事記・日本書紀において「赤カガチ」という比喩が使われるのは、全編を通してもほぼこの両者(およびそれに関連する火・蛇の神性)に限られる。
さらに、広域支配を表す八の表現。
ヤマタノオロチ:八つの頭、八つの尾、八つの谷、八つの峰。
​猿田彦:八咫鏡(やたのかがみ)のような目、天の八衢(あめのやちまた:八方に分岐する道の交差点)に立ち塞がる。
​また、猿田彦の「口や尻が赤く光る」、オロチの「腹が血で赤く爛れている」という描写も、朱(水銀朱・丹)や鉄(鉱物資源)、あるいは縄文的な身体装飾・塗彩の記憶を象徴している点で共通している。ちなみに中央構造線が走るがゆえに、三輪山初瀬山に隣接する宇陀には朱(辰砂)が出る大和水銀鉱山がある。
これらから言えることは、両者がほぼ同じ特徴を有することと、辰砂に因む地域を拠点として身体装飾に朱を用いる大きな爛々たる目を持つ人であったこと。私はこれを朱を産する山を支配した先住縄文系豪族を表していると解釈する。ヤマタノオロチとは、ヤマトノオロチであり、三輪山の山容がとぐろを巻いた蛇体であることからの連想で、ズバリ三輪山の大物主の事である。
猿田彦は道案内だというが、先住縄文系からすれば裏切り者にほかならず、伊勢の海(阿良加の海)に沈められて謀殺された。伊勢の海は、現存する最古の相撲部屋の名称であるばかりではなく、荒ぶる縄文系海民が漁る海としてのイメージがあり、伊勢から東への海路、伊勢から信濃方面への陸路が走る中央構造線が生み出す地溝、この二つの東への起点だ。伊勢の海は猿田彦終焉の地であり、猿田彦を鎮める役目も帯びたのが伊勢神宮。ヤマトノオロチから、伊勢の海へと、内治政策の力点シフトが7世紀に起きたのだな。

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097 2026/10/15(木) 11:20:20 ID:0l5mDd8IAU
物部氏は、天孫でありながら銅鐸祭祀の縄文系先住民。そして、出雲かと思いきや大和の主であり、猿田彦とも同族。猿田彦は高天原から高千穂までを案内したことになっているが、実際には高千穂(九州邪馬台国)から大和(畿内ヤマト)までを案内した事績の神話化であろう。神武天皇が、饒速日命という瓊瓊杵尊の兄弟世代と顔を合わせる時代軸である。神武東征を天孫降臨と同一視していたり、武甕槌による大国主命の国譲りなどが習合されての一つの物語の多型分岐だと見るのが正しい。
全部一つの話を時間軸をずらして様々な時空にバラして神話時間に投影したものというわけだな。
いや、実際にはいくつかの波状複数回に渡る類似エピソードが実在したのかも知れんが、束ねて再配分したのや。明治維新や鎌倉幕府、江戸開府だって東遷で、類似パタンの再演だからね。何千年隔たっていても同じ一つの型なんだ。神話時間とはそういうものだ。

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098 2026/10/15(木) 12:50:31 ID:0l5mDd8IAU
纏向の外来土器分布は、そのまま物部氏の広域支配地域を表し、出雲を西端として播磨淡路讃岐、伊勢尾張まで及ぶ銅鐸祭祀圏に重なる縄文系先住民版図を描く。大和に残る杵築や出雲、鴨などの地名を含む痕跡は物部氏支族絡みの縁を表し、鴨氏は加茂岩倉の加茂であり、賀茂神社の賀茂でもある。斎院が賀茂神社なのは、斎王が伊勢神宮なのと好対照をなし、共に物部封じの意味がある。三輪山の大田田根子(大物主神子孫)は、伊勢の大田命(猿田彦子孫)と好対照をなす。
これほどまでに重要な物部氏をまともに扱った研究を私は知らないので、ここに短くまとめた。

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099 2026/10/15(木) 13:37:07 ID:0l5mDd8IAU
>>72
辰韓弁韓馬韓の頃から馬韓は主に北九州勢が帯方郡との交通のために重んじてはいたが、弁韓、辰韓は出雲地域や若狭但馬などの日本海山陰北陸勢が親しく交通する相手であった。
帯方郡滅亡314年、七支刀369年製372年贈与(石上神宮収蔵)。
これが畿内大和の親百済の始まりなのだが、どちらも九州邪馬台国東遷後である。
出雲物部氏は、伝統的に親新羅で来たから、畿内大和物部氏の親百済転換とは相容れない。残存九州邪馬台国も親新羅方針であることから出雲物部氏と結んだのだ。ここに出雲の孤立という形の物部氏内部分裂が始まり、磐井の乱で本家邪馬台国が滅ぼされるほどの大事件に発展した。継体天皇が担ぎ込まれたのは、遠慮なく親百済姿勢を取り親新羅勢を切れる立場を取れる皇嗣がいなかったからだろう。つまりそれ以前は物部系大王だったのではないかと推定される。継体は息長系だが、それ以前の葛城、河内、三輪王朝などは全て物部系なのだ。

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100 2026/10/16(金) 05:44:56 ID:g3c3dqmjlw
物部氏を天孫系にした理由は大王輩出して来た氏族だからである。蘇我氏も、大王輩出氏族だとされるが、それ以前の事実上の大王は、殆どが物部氏だったので、蘇我氏はクーデターを起こしたようなものである。その蘇我氏を乙巳の変で駆除したのが息長系の中大兄皇子だ。
磐井の乱で物部麁鹿火(饒速日命系)らにより本家邪馬台国磐井(瓊瓊杵尊系)が潰されたにも関わらず、饒速日命はではなく瓊瓊杵尊系の血筋が後の天皇家の本流となったが故に、継体天皇は、息長氏系であるのみならず応神の5世の孫(瓊瓊杵尊系)とされなければならなかったし、神武東遷(瓊瓊杵尊系)が大和の起こりとして描き出されねばならなかったのだ。応神天皇は、卑弥呼臺與に比せられる神功皇后(息長系)の息子故に瓊瓊杵尊系とされるのだが、河内王朝だから、実際にはどうか分からない。神功皇后は架空の存在にすぎないからだ。

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101 2026/10/16(金) 06:15:13 ID:g3c3dqmjlw
瓊瓊杵尊は、饒速日命の弟である。
大海人皇子は、天智天皇の弟である。
神武東征は、弟(瓊瓊杵尊)の系譜に連なる者が兄の系譜(饒速日命)勝つ話であり、壬申の乱も弟が勝つ話だ。
神武天皇自身が末っ子である。
上の三人は
彦五瀬命(ひこいつせのみこと) - 長男長髄彦との戦いで負傷し、紀国(和歌山県)で亡くなる。
稲飯命(いないのみこと) - 次男東征の途中、熊野灘で暴風雨に遭い、海に入った。
三毛入野命(みけいりののみこと) - 三男稲飯命に同じ。

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102 2026/10/16(金) 09:48:33 ID:g3c3dqmjlw
ひふみ祓詞(布瑠の言)
「一二三四五六七八九十、布瑠部 由良由良止 布瑠部」
(ひ ふ み よ い む な や ここのたり / ふるべ ゆらゆらと ふるべ)」
これは十種神宝の祓詞だと先代旧事本紀にあるが、十種神宝を揺らしでも意味はなく、振るのは元々は十の銅鐸であったとみるべきである。

ここで訂正。
1.磐井と出雲の結びつきは親新羅で間違いはないが、阿蘇ピンク石の畿内輸送ルートは出雲経由ではなく瀬戸内海航路であったから、出雲の関与はなかった。
2.荒神谷と加茂岩倉遺跡の銅鐸埋納(廃棄)は、1世紀で確定で、崇神天皇の御代は、3世紀。続く垂仁天皇の御代でも天皇の命を受けた物部十千根による出雲神宝検校があり、その後神宝管理が物部の下に移された。いずれの場合でも神宝を破棄したり隠す必要はなく、前者は献上、後者は物部氏による神宝管理の始まりを表す。恐らくは銅鐸を巡るものではなく、勾玉の畿内移管なのだと考えられる。なぜなら銅鐸生産地は元々畿内だからだ。
加茂岩倉の加茂、葛城の鴨氏、賀茂県主賀茂神社、斎院の繋がりを大物主系物部一族のベースを踏まえて眺める視座を提供する話に留めるべきであった。

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103 2026/10/16(金) 12:07:15 ID:g3c3dqmjlw
>>13
その山こそ三輪山、初瀬山、宇陀山地=大和水銀鉱山なのね。

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104 2026/10/16(金) 13:45:32 ID:g3c3dqmjlw
神武東征は捏造。史実は邪馬台国卑弥呼の葬送+臺與の纏向入り。御間城入彦五十瓊殖尊=崇神天皇の皇后御間城姫が纏向に入った。→纏向に入ったからミマキ入り。崇神天皇の娘である臺與=豊鍬入姫命の母は、御間城姫ではなく八坂振天某辺(やさかふるあまいろべ)(『日本書紀』の崇神天皇紀(一云:別伝)に登場する人物で、尾張大海媛(おわりのおおあまひめ)の別名とされる女性)。
尾張の大海ということは当然物部縄文系先住民一族で、猿田彦に繋がりそうで、伊勢神宮外宮の豊受大御神に祀られるのも宜なるかな。
然るに別伝では豊鍬入姫の母は遠津年魚眼眼妙媛(紀国造の荒河戸畔(あらかわとべ)の娘)だともされており、こちらだと、荒河戸畔は日前神宮國懸神宮を代々祀ってきた「紀伊国造(きのくにのみやつこ)家(紀氏)」の当主(祖先)にあたるので、西を睨むなら荒河戸畔、東を拓くなら尾張大海媛という配置。
なお、八坂振天某辺という別名は、八坂=美濃、振=布留、天某辺=海部なので、伊勢尾張のみならず美濃まで及ぶ物部人脈を表す。

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105 2026/10/24(土) 11:24:24 ID:HG0b7J1t92
>>104
九州の卑弥呼の宗女臺與が、この様な畿内人脈から生まれた娘だとすると、東遷前に九州で擁立されたのはおかしくないか?
 それを言うなら卑弥呼=孝霊天皇皇女倭迹迹日百襲姫命が、大物主神の妻なのもおかしい。
欠史八代の孝霊天皇は創作だとして、卑弥呼が崇神天皇の大叔母であるというのも虚構だろう。
臺與の創作要素もその血縁親族関係にある。臺與は、卑弥呼と同じく九州女王国の生まれ。だが、その縁戚関係は畿内大和移転に伴ってかなり後から物部と結びつくようにでっち上げられたものだ。

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106 2026/10/24(土) 12:41:22 ID:HG0b7J1t92
>>101
これは、末子相続を表しているとされ、応神天皇までは皇統も末子相続で行われてきたと理解されたりする。


以下wiki引用


日本では邇邇芸命、彦火火出見尊など神話時代から応神天皇の時代にまでおける末子相続がみられる。これらの相続について、古事記や日本書紀には兄が死亡したり、怖気づいたりして弟に皇位を譲るという伝承があるが、これは末子相続による継承を不可解に思った後世の人物の付会である。また古代出雲族に末子相続の習慣があったとされている。


葛城王朝説を唱えた鳥越憲三郎は、著書「神々と天皇の間」において、神話時代から葛城王朝および三輪王朝の古代天皇までは第二子相続であり、長子は神官となって一定の権威を保持していたが妻帯せず、後代になって神官の役割が重視されなくなることによって長子の事績の記録が失われたものであり、仁徳天皇の代以降になると、第二子相続が守られなくなることによって兄弟の相続争いが頻発するようになったとする説を展開しているが、神八井耳命、大彦命、豊城入彦命など多くの皇室の長兄は子孫がおり、当然妻帯していたはずで彼の理論には疑問がある。


引用終わり


大国主命も末子相続であるから、天孫系に限らず、古代日本の習俗としての末子相続は、広く普及していたようだ。仁徳天皇以降は儒教思想が影響してか、長幼の序で相続の譲り合いが始まるとされる。


末子相続は、非農業民に見られがちな文化で、後世でも漁撈民にはその習慣が残存した例が多い。縄文時代からの慣習なのだろう。

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107 2026/10/25(日) 08:57:15 ID:gJzow8c/V2
[YouTubeで再生]
井沢元彦氏は、出雲振根からの連想で銅鐸=フルネ説をとるが、わたしはネは余計だと考える。
銅鐸の古称=フル。

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108 2026/10/25(日) 09:16:37 ID:gJzow8c/V2
>>107
なぜなら、振根の根は、崇神天皇紀同挿話に出てくる飯入根や物部十千根の根と同じだからだ。
フル=物部氏の本拠地の布留、ひふみ祓詞(布瑠の言)の布留こそ銅鐸。

「一二三四五六七八九十、布瑠部 由良由良止 布瑠部」

の布留こそ銅鐸の古称。布瑠の言で振られるのは十種の神宝ではなく、十個の銅鐸=布留であったはず。

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109 2026/10/25(日) 13:13:22 ID:gJzow8c/V2
713年に奈良県宇陀(長岡)で見つかった布留が、史料に書かれた2番目に古いの銅鐸記事で、銅の鐸(すず、鐘)である事は即座に見抜かれていた。「銅鐸」という言葉の初出でもある。

「四月癸丑。大和国宇陀郡人。無位村君東人。於長岡野地中。得銅鐸一。高三尺。口径一尺。其声清明。形状異常。献之。」
(※『続日本紀』巻第六、元明天皇・和銅六年四月条より)

天智天皇688年扶桑略記には最も古い記事がある。
(『扶桑略記』天智天皇七年正月条など)
こちらは近江国である。

「近江国崇福寺地、掘出古鐸。」
さらに詳細な史料(『催馬楽(さいばら)』の注釈や古記録など)には、以下のような具体的な状況が伝わっている。
天智天皇御宇、近江国滋賀郡、崇福寺地を穿つ(ほる)に、一つの鐸を得たり。大きさ三尺、其の声清明なり。

鐸である事はこの時にも理解されていた。

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