ミステリー・ロマンを追いかけたい


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001 2025/03/15(土) 20:38:56 ID:JzYu3BkoTQ
歴史のミステリーを解き明かしたくないですか?追いかけたくないですか?
なんかいい題材ない?もしくは自分なりに研究してる人とかいますか?

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002 2025/03/15(土) 20:40:05 ID:JzYu3BkoTQ
もしくは事件の真相など。

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003 2025/03/15(土) 21:01:51 ID:gP2cnshrtc
しょっちゅうやってます。全部オリジナルでね。両手ぐらいは持説があるよ。

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004 2025/03/15(土) 21:02:46 ID:DCH24Go5gA
邪馬台国は架空。
しかもそれが日本だとするのも無理が有り過ぎる。

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005 2025/03/15(土) 21:54:16 ID:jOzgdIJfpM
徳島県だよな

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006 2025/03/15(土) 22:24:53 ID:JzYu3BkoTQ
>>3
おもしろそう。どんなのがあるんですか?
以前、地元の石碑に書いてある文字から、文化資料館とか図書館とかで調べて明治時代の事件の供養関係の石碑だったみたいなのが判明して面白かったんですよね。

>>4
てことは真相もなにもないって感じですかね。

>>5
いろんなところに説がありますよね。

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007 2025/03/15(土) 23:26:32 ID:gP2cnshrtc
>>6
その1 明治維新は神武東征の焼き直し説
その2 前方後円墳は、ホトをデザインしたもので、後継が神社建築の鳥居、鈴、参道、拝殿、本殿レイアウト説。
とかね。

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008 2025/03/16(日) 00:00:39 ID:5WOJI2Xcs6
>>7
その2がおもしろそうですね。
ホトが何か調べましたがそう言われればそう見えるかも。
それが神社関係に繋がってる説も興味深いです😄

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009 2025/03/16(日) 13:21:29 ID:q5QJbdiMYA
魏志倭人伝を書いた人って本当に日本に来たのか?
来てないって話もあるみたいだけど

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010 2025/03/16(日) 14:15:25 ID:gsytep3fmU
>>9
書いた人は来てないが、来た人の最新情報は盛り込まれているね。来た人は248年に来日し、魏が西晋に代わってから台与が派遣した遣使で帰還した塞曹掾史張政だよ。18年間もの間滞在した。

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011 2025/03/16(日) 14:25:53 ID:V5uIRTfa0I
>>10
>>18年間もの間滞在した。

それでも場所があやふやって、、、

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012 2025/03/16(日) 15:02:30 ID:gsytep3fmU
>>11
247年からの間違いでした。場所はあいまいなのではなく、張政自身が、邪馬台国を九州から畿内に東遷させた立役者だから。ヒヤリングした陳寿は、この張政の英雄的活躍を敢えて記載しなかった。張政の分を過ぎたる介入の咎めを避けたかったか、本家邪馬台国が、大陸通商のために残存したから、九州か、畿内かゴチャついた記述となり、現代人を悩ましている。本家邪馬台国が滅んだイベントが、磐井の乱。

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013 2025/03/16(日) 15:21:23 ID:gsytep3fmU
魏志倭人伝には山から朱砂が出ると記されているが、丹を産するのは、中央構造線沿いだから、九州邪馬台国ではなく、畿内邪馬台国の描写に違いない。張政は、帰国後に帯方郡太守にまで出世し、彼の地に墓があり、墓誌の磚に刻まれた文字に、張撫夷とある。夷狄倭国の都を遠ざけた手柄は伝わってはいたのに違いない。

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014 2025/03/16(日) 15:51:59 ID:7F/NIS0eMo
>>9

日本に来たことが無い妄想作家の作品に、
ちょこっとだけ出てくる全身刺青の裸族の島を、
それは日本だって言い張ってるアホが騒いでるだけ。

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015 2025/03/17(月) 11:39:48 ID:zIvRcZog1A
邪馬台国もアトランティスも似たようなもんだな

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016 2025/03/17(月) 16:38:29 ID:tZQSNCu0aw
これって完全に解明される時って来るのだろうか

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017 2025/03/17(月) 20:45:44 ID:j/rM5/AekQ
景行天皇記を読み込むと、九州には、本家邪馬台国(大和=倭)があった事が分かる。仲間の印の三種の神器を掲げ出迎える様子が度々登場するからだ。

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018 2025/03/17(月) 21:11:15 ID:j/rM5/AekQ
対馬伊都国ルートが東遷後に沖ノ島宗像、遠賀川ルートにシフトしたことも明確だ。張政は、瀬戸内海航路を拓いた人物でもある。のみならず、卑弥呼の亡骸を船に載せ、瀬戸内海を運び、箸墓に古墳を築いた人物でもある。古墳時代をはじめたのは、張政のアイデアによる。多分、張政の祖先に張騫がおり、張騫は、西方大月氏と国会を樹立しようとした一族の英雄冒険家だ。張政は、張騫に憧れていたろう。自分は東方海上を制する気概を抱き、皇帝の命を逸脱して倭の鎮撫後退工作に走った。却って国造りに貢献してしまったから、倭は早く4世紀には漢四郡滅亡後(313年)の朝鮮半島に進出してしまう。

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019 2025/03/18(火) 15:09:28 ID:gGqW5Jrd.M
>>13
墓は288年説が有力だから、張政来日時30歳だとすれば2017年生まれの享年71歳で没、49歳で帰国、なかなかバランスがいい。油の乗った人生の現役時代の大半が倭国に捧げられた人生だ。
嘗てはその線で書かれた張政レポートという作品がネット上にアップされていたが、消えてしまったのが惜しまれる。東遷主導は、私の妄想だがね。

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020 2025/03/18(火) 15:33:28 ID:gGqW5Jrd.M
魏志倭人伝には年号なしに
「壱与は倭の大夫で率善中郎将の掖邪拘等二十人を派遣して、張政等が帰るのを送らせた。そして、臺(中央官庁)に参上し、男女の生口三十人を献上し、白珠五千孔、青大句珠二枚、模様の異なるいろいろな錦二十匹を貢いだ。」
と締め括られている。
この年号は下記で266年と推定できる。

『日本書紀』の神功紀に引用される『晋起居注(現存せず)』に、泰初(「泰始」の誤り)2年(266年)に倭の女王の使者が通訳を重ねて朝貢したとの記述がある。現存する『晋書』武帝(司馬炎)紀では266年、同・四夷伝では文帝(司馬昭)の時代(255~265年)及び武帝の泰始の初め(266年か)に倭人が朝貢したことが書かれている。
木佐敬久も、ここから張政滞在期間を20年と割り出した。この重要な事実が、何故か無視されがちなのだ。

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021 2025/03/18(火) 16:56:00 ID:gGqW5Jrd.M
卑弥呼は倭迹迹日百襲姫命だから、孝霊天皇の娘。箸墓古墳にほうむられている。夫はいない。一応大物主の妻ということにはなっているが、大物主には活玉依毘売という妻がいるが、こちらは子をなし、倭迹迹日百襲姫命は、ホトを箸で突いて死ぬ。
一方、天服織女が忌服屋で神御衣を織っていたとき、須佐之男命が天斑馬を堕し入れたため驚いて梭(機織りの際、横糸を通すのに使う舟型の器具)で陰部を衝いて死んでしまう。この事件が天照大御神が天石屋にこもるきっかけとなった、とあるが、天服織女は登場せず、天照大神自身が機を織り、ホトを突いて死んだ説が濃厚だ。
つまり、天照大神=倭迹迹日百襲姫命=卑弥呼だ。

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022 2025/03/18(火) 17:12:28 ID:gGqW5Jrd.M
台与は誰に比定されるかといえば、倭迹迹日百襲姫命の姪孫崇神天皇の娘である豊鍬入姫だろう。年齢的にも合うし、斎宮の起源、天照大神の宮外奉斎の伝承で知られる巫女的存在だ。つまり、卑弥呼の後を継いだ巫女である台与(トヨの中国側当て字)自身が斎宮、斎王なのだ。南北朝時代までの660年間、皇女が台与を演じ続けてきたことになる。

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023 2025/03/18(火) 20:07:50 ID:gGqW5Jrd.M
なぜ、台与の霊的力を頼んだのか?台与が国の乱れを収めた故事は、中国の魏志倭人伝からも逆輸入されて知られていたからである。
南北朝時代に斎宮の終焉を迎えたのは、南北朝時代の始まる延元の乱で、朝廷の分裂により国が乱れて、台与の効力ももはやこれまでとの諦念が支配したからだろう。磐井の乱や壬申の乱を思い出させたに違いあるまい。

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024 2025/03/18(火) 21:32:39 ID:gGqW5Jrd.M
そもそも壬申の乱翌年の673年、天武天皇は「大来皇女(おおくのひめみこ)」を最初の斎宮として伊勢神宮に奉じた。

これは、天武朝が、倭国時代の卑弥呼死後国が乱れたのを収めた「台与共立による国家安定」を意識的に再現した可能性が高い。

台与(=豊鍬入姫命)が天照大神を奉じて国家を安定させた歴史を踏まえ、同じ役割を皇女に担わせることで、王権の正統性と霊的安定を確立しようとした。

斎宮制度は、明らかに台与共立事績の再演儀礼なのだ。

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025 2025/03/29(土) 14:13:38 ID:kf9VN3frho
壬申の乱まで伊勢神宮は、猿田彦を祀る地であり、猿田彦が二見ヶ浦で謀殺されて、伊勢大神として祀られていた。大海人皇子が伊勢の方に向かって拝んだとあるのは、伊勢大神に向かって祈ったので、天照大御神に対してではない。猿田彦終焉の地を北東に据えた場所に内宮、外宮を設けたのは天武朝であり、同時に斎宮も発足した。此処から、鬼門に猿という陰陽道の解釈が生まれ、平安京の鬼門に猿ヶ辻、日吉の神猿、比叡、賀茂神社と斎院、と繋がってゆく。猿とは、猿田彦なのであり、以来、伊勢神宮は、猿田彦封じなのだ。

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026 2025/03/29(土) 21:05:52 ID:kf9VN3frho
694年建設の大藤原京の鬼門にあるのは、もちろん、三輪山=大神神社である。三輪山のオオモノヌシ=猿田彦=ヤマタノオロチだ。オオモノヌシの子孫が太田田根子だが、猿田彦の子孫の大田命が伊勢神宮に土地を提供した。大田命は、大若子命であり、天日別命が猿田彦でもある。纏向は古くは、太田という地名だった。
垂仁天皇愛息ホムチワケノミコは、唖であったが、出雲に派遣され出雲大神を拝むと言葉を発する事ができた。仮宮で一晩過ごす際肥長比売が褥を共にしたが、寝姿を窺い見るとその正体は大蛇であったという。肥長比売=大蛇=三輪山=オオモノヌシ=出雲大神=猿田彦=伊勢大神。

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027 2025/03/29(土) 21:37:41 ID:kf9VN3frho
出雲の国譲りにおける建御名方神が、伊勢の国譲りにおける伊勢津彦だ。すんなりOKした事代主神は伊勢では大田命ということになる。
猿田彦の風貌描写は、ヤマタノオロチとそっくりで、「その神の鼻長は七咫わ背長は七尺、目が八咫鏡のように、またホオズキのように照り輝いている」とあり、ヤマタノオロチの「頭と尾はそれれぞれ八つずつあり、眼は赤い鬼灯(ホオズキ)のようであった。松や柏が背中に生えていて、八つの丘、八つの谷の間に延びていた」と似ている。つまりは、両者とも、国津神、葦原の中つ国の先住支配者である。

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029 2025/03/29(土) 21:49:52 ID:kf9VN3frho
古墳時代が終わり、皇祖を神に仕立てる試みが7世紀はじめから企てられ始め、壬申の乱後に仏教寺院建築を模倣した神社建築を創作した。もちろん、弥生時代以来の純倭風様式でだ。嘗ての国津神も同時に神社形式で祀ることになり、伊勢神宮、杵築大社、賀茂神社などが次々と生まれた。この神格化操作の中で、卑弥呼=倭迹迹日百襲姫命は、天照大御神になったのである。

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030 2025/03/29(土) 22:48:46 ID:kf9VN3frho
>>27
ホオズキのような眼とは、倭種の切れ長の目とは異なる縄文系の二重でつぶらなどんぐり眼だと思われる。

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031 2025/03/30(日) 07:05:09 ID:lsrsDzlnvM
>>29
古墳や神社建築は、近世の城普請と同じで、地方豪族の財力、富の蓄積を放出させる役割と、それに相反する動員力や地力を強める機能の二つの側面があった。古墳には土木技術や灌漑技術の伝播という意味もあったが、神社建築には寺院建築同様の文化的趣向、細工の普及と祭祀、祭事儀礼の統一という意味しかない中、住人の意識変革には大いに役立ち、率先して採り入れられた。

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