漂白の民『山窩(サンカ)』について語ろう


▼ページ最下部
001 2013/04/03(水) 21:34:28 ID:SgQEWeFFls
否定する人もいるけど、爺様婆様の談によると、やはりいたとも言う。
結局、何なの山窩って?

サンカ (民俗学)wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%83%B3%E3%82%...

返信する

※省略されてます すべて表示...
059 2025/01/15(水) 05:54:18 ID:QFIlS9s4os
>>57
渡来漂泊民説はガセ。蝦夷、或いは俘囚(移配された蝦夷)の流れだ。つまり、縄文系。非農業民ゆえに遊芸や売春で繋がれなかった無戸籍者は、沈黙交易めいた接触を農村と保った

返信する

060 2025/01/15(水) 13:49:52 ID:QFIlS9s4os
大江匡房「傀儡記」

傀儡子(クグツ)は、定まれる居なく、当(マモ)る家なし。穹盧氈帳、水草を逐ひてもて移徙す。頗る北狄の俗(ナライ)に類(ニ)たり。男は皆弓馬を使へ、狩猟をもて事と為す。或は双剣を跳らせて七丸を弄び、或は木人を舞はせて桃梗を闘はす。生ける人の態を能くすること、殆に魚竜曼蜒の戯に近し。沙石を変じて金銭となし、草木を化して鳥獣と為し、能く人の目を□す。女は愁眉・啼粧・折腰歩・齲歯咲を成し、朱を施し粉を傳け、倡歌淫楽して、もて妖媚を求む。父母夫聟は誡□せず。亟行人旅客に逢ふといへども、一宵の佳会を嫌はず。徴嬖の余に、自ら千金の繍の服・錦の衣、金の釵(カンザシ)・鈿の匣の具を献ずれば、これを異(ウヤマ)ひ有(ヲサ)めざるはなし。一畝の田も耕さず、一枝の桑も採まず。故に県官に属かず、皆土民に非ずして、自ら浪人に限(ヒト)し。上は王公を知らず。傍牧宰を怕れず。課役なきをもて、一生の楽と為せり。夜は百神を祭りて、鼓舞喧嘩して、もて福の助を祈れり。

東国は美濃・参川(三河)・遠江等の党を、豪貴と為す。山陽は播州、山陰は馬州等の党、これに次ぐ。西海の党は下と為せり。その名のある儡は、小三、日百、三千載・万歳。小君・孫君等なり。韓娥(かんが)の塵を動かして、余音は梁を繞る。聞く物は纓を霑して、自ら休むこと能はず。今様・古川様・足柄・片下・催馬楽・黒鳥子・田歌・神歌・棹歌。辻歌・満固・風俗・咒師・別法等の類は、勝げて計ふべからず。即ちこれ天下の一物なり。誰か哀憐せざらむや。

返信する

061 2025/01/15(水) 14:04:25 ID:QFIlS9s4os
穹盧氈帳、水草を逐ひてもて移徙す。頗る北狄の俗(ナライ)に類(ニ)たり。
が、大陸の遊牧民、ロマ族やジプシーを思わせるが、日本の北狄=蝦夷を殊更に大陸北狄描写に準えただけ。
原文冒頭の「穹盧氈帳、水草を逐ひてもて移徙す。」は、『後漢書』の烏桓伝に「水草に随い放牧し、居に常処なし.穹盧を以って舎となす」とあり、やや下って『北史』の突厥伝には「穹盧氈帳,水草を随逐うして遷徙する」とあるように、北狄表現の決まり文句に過ぎない。
続く「男は皆弓馬を使へ、狩猟をもて事と為す」は、まんま蝦夷の描写に重なる。しかし、「東国は美濃・参川(三河)・遠江等の党を、豪貴と為す。山陽は播州、山陰は馬州等の党、これに次ぐ」とあるように、陸奥の蝦夷ではなく、陸奥から各地に移配後の俘囚蝦夷の成れの果てだから、分布が畿内を取り囲む西日本なのだ。
ゆえに>>59非農業民ゆえに遊芸や売春で繋がれなかった無戸籍者は、沈黙交易めいた接触を農村と保った、となる。
昭和の高度成長期前まで現存したサンカ(山窩)は、その末裔であろう。

返信する

062 2025/01/15(水) 14:39:06 ID:QFIlS9s4os
彼らが蝟集したのが、飛鳥時代以来寺院が多かったため、奇術めいた技や舞踊 、唄、人形使いなどの芸を仏教文化と共に持ちきたった渡来人から学び仕込まれたかもしれぬが、それは寺院とともに生きんが為の方便であった。帰属支配が進むと取り込まれ、山伏や僧兵、或いは神社系統にならば、犬神人、清め、巫女となったものも出たが、こちらはやがて中世の被差別民として独立性を失い、寺社から役や役得を得る立場になる。あくまでも自由、独立を守り、国家秩序から距離をとって山の民、河川流域セブリの民として生きたのが山窩であった。

返信する

063 2025/01/16(木) 11:33:36 ID:.x9lChG.GM
古墳時代の昔から、田を耕さぬものには役が与えられ、大抵はその役は先住民の中の非農業民が負わされた。陵戸なるものもそうした役を担わされた人々であった。冶金鍛冶、武具制作や馬の飼育も役であり、陸奥蝦夷が弓馬術に優れたのは、役から育まれた技能蓄積である。女性は行商から転じて遊行者になり、また、陵戸も古墳なき仏教時代に入ると門前に市をなす行商スタイルから市子(巫女)を輩出するに至る。とき恰も寺院に模して神社が建設される世に移行していた。
https://docs.miko.org/index.php?title=%E6%97%A5%E6%9...

返信する

064 2025/01/16(木) 11:52:59 ID:.x9lChG.GM
平安期から中世期に京を中心に、桂女、大原女、白川女などが名を知られるが、彼女らは、巫女にはならなかった商人系統とは言え、片方がもう片方の零落ならずも、時代を超え隔てたる同脈と言える。推して古代も知るべし、だ。

返信する

065 2025/01/16(木) 21:49:45 ID:.x9lChG.GM
>>60
「傀儡子記」を著した大江匡房自身が土師氏である。土師氏は、菅原氏も輩出したと言うより、由緒ロンダリングに文章博士が有効なるを身をもって知った一族。土師氏は土師部で部民であったから、土師部の一部は皇陵を守る陵戸とされた可能性もあるが、野見宿禰などをでっち上げてまんまと氏姓になり仰せた。
由緒書が国史なりというのだから恐れ入ったものである。

返信する

066 2025/01/16(木) 22:00:11 ID:.x9lChG.GM
川魚漁の巧みで知られる山窩は、桂女の夫と寸毫違わぬ生業だが、農業コミュニティとの距離感を異にする。行商、或いは閨事も辞さぬ営業接触など峻拒したるが山窩なり。
対人関係性だけに留まらない。
当時の貨幣経済の浸透、発達から見れば、桂女は街に現れ、金銭を求むるも、山窩は農村の生産物、現物しか当てにせず信用しなかったと言える。
そんな彼らが高度経済成長にあってはひとたまりもなく潰え去ったのも宜なるかな。

返信する

067 2025/01/16(木) 22:27:47 ID:.x9lChG.GM
遊女、遊廓、歌舞伎、芸者、田楽、文楽、能の起源がまさかの蝦夷(縄文人)。その傍流が山窩。歴史は奇なり。

返信する

068 2025/01/19(日) 04:28:17 ID:sBqSClkw8k
[YouTubeで再生]
1000年以上に渡り防人から逃れ、遊芸から逃れ、鉱山労働や開拓に使役されたる山住の俘囚の末裔が明治期の山林国有化事業で山間から追われて街場に出たものを山窩と称す。広島辺りが多かったようだ。都市部まで流れ出て、大阪天王寺の現アベノハルカスの場所にあったみかん山には、彼らが住み着いて部落をなした。付け加えるならば、蝦夷、傀儡子は人をとろけさせるほど歌が上手かったのだから、山窩も歌謡、舞踊は上手かったはず。往時をしのびアイヌ歌謡や琉球歌姫を物色するも一興か。

返信する

069 2025/01/19(日) 08:09:22 ID:1Do2UbRYXw

▲ページ最上部

ログサイズ:30 KB 有効レス数:68 削除レス数:1





オカルト掲示板に戻る 全部 前100 次100 最新50

スレッドタイトル:漂白の民『山窩(サンカ)』について語ろう

レス投稿

未ログイン (ログイン

↑画像ファイル(jpg,gif,png)