幽体離脱/体外離脱
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なんと手術中に「麻酔」が解けた女性…「壮絶な痛み」のなか「限界状況」で彼女に起こったまさかの「幽体離脱」
https://www.msn.com/ja-jp/news/opinion/%E3%81%AA%E...
からだと感覚にズレが生じて「自分のからだなのに自分でない感覚」「自分のからだじゃないのに自分のように感じる」
に陥る不思議な現象を「からだの錯覚」研究を通して科学的に解説する小鷹研理さん。
前回は、幽体離脱の予兆の一つである「金縛り」から、自分を「物理的な身体」から切り離して「内的な身体」に預けてしまう
「オーケストラ認知の崩壊」について考察してみました。
続いては、もう一つの幽体離脱である「臨死体験」から、「限界状態で起こる身体のモノ化」について考察していきます。
※本記事は、『からだの錯覚――脳と感覚が作り出す不思議な世界』から、内容を再構成してお届けします。
●限界状態下での幽体離脱
オーケストラ認知の崩壊と並んで、幽体離脱の強い引き金となりえるのが限界状態です。
この限界状態の典型的な事例が、何と言っても臨死体験です。
有名な、世界で話題になったマリアの幽体離脱※の伴う典型的な臨死体験というものがあるのですが、その例のように、
生死の淵をさまよった後に意識を回復した者が、幽体離脱の体験を報告する事例は、今も昔も枚挙にいとまがありません。
※マリアの幽体離脱:1970年代末、米・シアトルの病院で、マリアという患者が、体外離脱を体験したと、
ソーシャルワーカーに訴えた出来事。身体から抜け出し、病院の外まで浮遊したという。
この偶然の一致を説明する一つのモデルとして、「死後の世界」の実在が持ち出されることがあります。
実際、幽体離脱は死と隣り合わせにある、重大な事故の直後や戦場でも非常によく報告されています。
他方で、幽体離脱は、必ずしも物理的に死に直結しない程度の、拷問や性的虐待といった外傷的な状況でも一定数、
報告されています。
そうであれば、幽体離脱は、臨死の段階に固有のものではなく、(臨死を含む)自我が受け止めなければならない心理的負荷が、
途方もなく高い限界的状況において誘発される、と仮定するのが妥当であるように思います。
https://www.msn.com/ja-jp/news/opinion/%E3%81%AA%E...
からだと感覚にズレが生じて「自分のからだなのに自分でない感覚」「自分のからだじゃないのに自分のように感じる」
に陥る不思議な現象を「からだの錯覚」研究を通して科学的に解説する小鷹研理さん。
前回は、幽体離脱の予兆の一つである「金縛り」から、自分を「物理的な身体」から切り離して「内的な身体」に預けてしまう
「オーケストラ認知の崩壊」について考察してみました。
続いては、もう一つの幽体離脱である「臨死体験」から、「限界状態で起こる身体のモノ化」について考察していきます。
※本記事は、『からだの錯覚――脳と感覚が作り出す不思議な世界』から、内容を再構成してお届けします。
●限界状態下での幽体離脱
オーケストラ認知の崩壊と並んで、幽体離脱の強い引き金となりえるのが限界状態です。
この限界状態の典型的な事例が、何と言っても臨死体験です。
有名な、世界で話題になったマリアの幽体離脱※の伴う典型的な臨死体験というものがあるのですが、その例のように、
生死の淵をさまよった後に意識を回復した者が、幽体離脱の体験を報告する事例は、今も昔も枚挙にいとまがありません。
※マリアの幽体離脱:1970年代末、米・シアトルの病院で、マリアという患者が、体外離脱を体験したと、
ソーシャルワーカーに訴えた出来事。身体から抜け出し、病院の外まで浮遊したという。
この偶然の一致を説明する一つのモデルとして、「死後の世界」の実在が持ち出されることがあります。
実際、幽体離脱は死と隣り合わせにある、重大な事故の直後や戦場でも非常によく報告されています。
他方で、幽体離脱は、必ずしも物理的に死に直結しない程度の、拷問や性的虐待といった外傷的な状況でも一定数、
報告されています。
そうであれば、幽体離脱は、臨死の段階に固有のものではなく、(臨死を含む)自我が受け止めなければならない心理的負荷が、
途方もなく高い限界的状況において誘発される、と仮定するのが妥当であるように思います。
心理学者のブラックモア(Susan Blackmore)は、幽体離脱現象が、高いストレス下で、脳を感覚入力(身体内外からの刺激)から切り離し、
内部の情報源を基礎にして脳が作り出す現実のモデルである、という理論を提唱しています。
実際、死に限らず、圧倒的な力の前になすすべもない限界状態において、脳を感覚入力から切り離すことの効用は、明らかです。
いかに自分が残酷な仕打ちを受けていたとしても、その対象が単なる自分の容れ物であったとすれば(ちょうど自分の車が破壊されている状況を思い浮かべてください)、
物理的にも心理的にもダメージを最小限に抑えることができるからです。
●壮絶な痛みからの解放! 手術中に麻酔が切れた女性の体験
痛みは本来脳内現象であり、実質的には身体の特定部位に何らかの異常が存在することを知らせるアラートとして機能しています。
ところが、まるでなすすべもない拷問的な状況では、このようなアラート機能は、まるで意味を為しません。
当人にとって、問題の所在はとっくに自覚されているのですから。
BBC(英国放送協会)の記事で、全身麻酔が効いていない状態で、腹部の外科手術を受けたドナという名の女性の証言を読むことができます。
手術が始まって間もなく、予定よりも圧倒的に早く全身麻酔が解けて、ドナは眠りから覚めます。
直後、手術が終わったと思って安心していた彼女は、執刀医の「メス」という言葉を耳に入れることで、この最悪の状況を理解します。
終わったと思っていた手術は、まさにこれから始まろうとしていたのです。
寝台で凍りつく彼女は、この恐怖の事態を必死で目の前の人たちに訴えようとしますが、同時に投与されていた筋肉の弛緩剤が効いていたため、
話すことも動くこともできません。
ただただ腹部への強烈な痛みをやり過ごす拷問のような手術が終わろうとする頃、ドナは幽体離脱をして、自分の体から外へと抜け出します。
そこでは、恐怖は消え、痛みも消えていました。
皮肉なことに、まるで聞く耳を持たない(持てない)医者に代わって、彼女は、自分自身の意志で「全身麻酔を打つ」ことに成功したのです。
内部の情報源を基礎にして脳が作り出す現実のモデルである、という理論を提唱しています。
実際、死に限らず、圧倒的な力の前になすすべもない限界状態において、脳を感覚入力から切り離すことの効用は、明らかです。
いかに自分が残酷な仕打ちを受けていたとしても、その対象が単なる自分の容れ物であったとすれば(ちょうど自分の車が破壊されている状況を思い浮かべてください)、
物理的にも心理的にもダメージを最小限に抑えることができるからです。
●壮絶な痛みからの解放! 手術中に麻酔が切れた女性の体験
痛みは本来脳内現象であり、実質的には身体の特定部位に何らかの異常が存在することを知らせるアラートとして機能しています。
ところが、まるでなすすべもない拷問的な状況では、このようなアラート機能は、まるで意味を為しません。
当人にとって、問題の所在はとっくに自覚されているのですから。
BBC(英国放送協会)の記事で、全身麻酔が効いていない状態で、腹部の外科手術を受けたドナという名の女性の証言を読むことができます。
手術が始まって間もなく、予定よりも圧倒的に早く全身麻酔が解けて、ドナは眠りから覚めます。
直後、手術が終わったと思って安心していた彼女は、執刀医の「メス」という言葉を耳に入れることで、この最悪の状況を理解します。
終わったと思っていた手術は、まさにこれから始まろうとしていたのです。
寝台で凍りつく彼女は、この恐怖の事態を必死で目の前の人たちに訴えようとしますが、同時に投与されていた筋肉の弛緩剤が効いていたため、
話すことも動くこともできません。
ただただ腹部への強烈な痛みをやり過ごす拷問のような手術が終わろうとする頃、ドナは幽体離脱をして、自分の体から外へと抜け出します。
そこでは、恐怖は消え、痛みも消えていました。
皮肉なことに、まるで聞く耳を持たない(持てない)医者に代わって、彼女は、自分自身の意志で「全身麻酔を打つ」ことに成功したのです。
●幽体離脱中の「感覚鈍化」
幽体離脱では、現実の外在的な刺激に対するあらゆる感覚の感度が鈍化しますが、必ずしも完全に消失するというわけではありません。
聴覚に注目すると、ドナのケースでは、手術室の音がかすかに聞こえていたものの、それは、はるか遠くにあるような音であったといいます。
これは、一種のナムネス化した聴覚と捉えられます(ナムネス化とは、自分の手指に対する触覚が鈍化した際に感じられる麻痺感と対応する言葉です)。
この種の聴覚的な遠さは、実のところ、幽体離脱で紡ぎ出される「遠くから自分を見ている」視覚像と、とても相性が良いことがわかります。
仮に、執刀医などの声が(実際の通りに)十分な音量(および左右差)で聞こえてしまえば、「自分の身体から遠く離れた位置にいる」という
視覚像に基づく位置感覚は、早々に矛盾を抱えることになります。
このように考えると、幽体離脱は、一様に生じる感覚の鈍化をうまく説明するために要請された空間モデルである、という捉え方も可能でしょう。
●幽体離脱スイッチを自在にON、OFFできるのか
ドナの例は、幽体離脱が、「痛み」という機能が内在している(ある種の)バグを解除する、隠しコマンドのようなものである、
という見方を与えてくれます。
もし、幽体離脱のスイッチが、もっとわかりやすいところにあって、意図に応じてONとOFFを自在に切り替えることができたのであれば、
手術が始まってから幽体離脱を果たすまでの1時間半もの間、ドナは苦しむ必要はなかったかもしれません。
そうであれば、「痛み」という機能の仕様をオープンソース化する(誰もがアクセスできる状態で公開する)ことによって、
人類はより幸福になれるのでしょうか。
あるいは、今後、人類がそのような機能を手に入れるような形で、より環境に適応した人類へと進化することはありえるでしょうか。
幽体離脱では、現実の外在的な刺激に対するあらゆる感覚の感度が鈍化しますが、必ずしも完全に消失するというわけではありません。
聴覚に注目すると、ドナのケースでは、手術室の音がかすかに聞こえていたものの、それは、はるか遠くにあるような音であったといいます。
これは、一種のナムネス化した聴覚と捉えられます(ナムネス化とは、自分の手指に対する触覚が鈍化した際に感じられる麻痺感と対応する言葉です)。
この種の聴覚的な遠さは、実のところ、幽体離脱で紡ぎ出される「遠くから自分を見ている」視覚像と、とても相性が良いことがわかります。
仮に、執刀医などの声が(実際の通りに)十分な音量(および左右差)で聞こえてしまえば、「自分の身体から遠く離れた位置にいる」という
視覚像に基づく位置感覚は、早々に矛盾を抱えることになります。
このように考えると、幽体離脱は、一様に生じる感覚の鈍化をうまく説明するために要請された空間モデルである、という捉え方も可能でしょう。
●幽体離脱スイッチを自在にON、OFFできるのか
ドナの例は、幽体離脱が、「痛み」という機能が内在している(ある種の)バグを解除する、隠しコマンドのようなものである、
という見方を与えてくれます。
もし、幽体離脱のスイッチが、もっとわかりやすいところにあって、意図に応じてONとOFFを自在に切り替えることができたのであれば、
手術が始まってから幽体離脱を果たすまでの1時間半もの間、ドナは苦しむ必要はなかったかもしれません。
そうであれば、「痛み」という機能の仕様をオープンソース化する(誰もがアクセスできる状態で公開する)ことによって、
人類はより幸福になれるのでしょうか。
あるいは、今後、人類がそのような機能を手に入れるような形で、より環境に適応した人類へと進化することはありえるでしょうか。
筆者は、この種の想定について、あくまで否定的です。
すでに述べたように、痛みは、生理的に問題のある部位に改善を促す行動へとつながりますが、これが可能となるのは、
端的に痛みが不快であり、主体にとって有無を言わせず「OFFとされるべき」対象であるからです。
もし、痛みのONとOFFを自在に制御できるようになれば、不快を感じる一瞬の猶予も与えられぬまま、痛みは即座に遮断されるでしょう。
こうして、問題とされるべき身体の患部の治療が先送りされることは目に見えています。
この意味で、随意的な幽体離脱は、一種の麻薬として機能してしまうのです。
したがって、痛みをOFFにすることが生体にとって意味をなすのは、死ぬとわかっている、あるいは死を受け入れた状況に他なりません。
臨死体験の際に幽体離脱の報告が多いのは、こうした事情から説明がつくように思います。
逆にいえば、痛みとは、生きることを諦めていないことのサインなのです。
◇
オカルト的な興味で取り上げられることの多い「幽体離脱」ですが、科学的に考察すると、そこにはヒトが生きるために仕組まれた、
巧妙な心理構造が隠されていたことがわかります。
しかし、こうした幽体離脱も、特殊な状況下における現象なので、随意的なコントロールは危険と言います。
意図的に金縛りを起こすのはあぶない、などという俗説も耳にしますが、こうしたこととも関連するのかもしれません。
すでに述べたように、痛みは、生理的に問題のある部位に改善を促す行動へとつながりますが、これが可能となるのは、
端的に痛みが不快であり、主体にとって有無を言わせず「OFFとされるべき」対象であるからです。
もし、痛みのONとOFFを自在に制御できるようになれば、不快を感じる一瞬の猶予も与えられぬまま、痛みは即座に遮断されるでしょう。
こうして、問題とされるべき身体の患部の治療が先送りされることは目に見えています。
この意味で、随意的な幽体離脱は、一種の麻薬として機能してしまうのです。
したがって、痛みをOFFにすることが生体にとって意味をなすのは、死ぬとわかっている、あるいは死を受け入れた状況に他なりません。
臨死体験の際に幽体離脱の報告が多いのは、こうした事情から説明がつくように思います。
逆にいえば、痛みとは、生きることを諦めていないことのサインなのです。
◇
オカルト的な興味で取り上げられることの多い「幽体離脱」ですが、科学的に考察すると、そこにはヒトが生きるために仕組まれた、
巧妙な心理構造が隠されていたことがわかります。
しかし、こうした幽体離脱も、特殊な状況下における現象なので、随意的なコントロールは危険と言います。
意図的に金縛りを起こすのはあぶない、などという俗説も耳にしますが、こうしたこととも関連するのかもしれません。
「臨死体験は死後の世界が存在することの証明だ」と主張する人もいますが、
たとえば死の直前に見るといわれる走馬灯(パノラマ的記憶再現)は、
別に臨死体験に特有のものではありません。
側頭葉に病因を持つてんかん患者では、しばしばパノラマ的回想が見られます。
一方、てんかんの研究中に脳の各部を電気刺激する方法を開発したウィルダー・ペンフィールド博士は、
側頭葉のシルヴィウス溝を刺激すると過去の様々な記憶を思い出すことを発見しています。
しかし、臨死体験のパノラマ的回想には鮮明な情感が伴うので、これが特徴だという人もいますが、
ペンフィールド博士の研究では、側頭葉を刺激した際の記憶の再現にも強い情感を伴うことがある
と述べているので、これも必ずしも臨死体験だけに見られる特徴ではないようです。
つまるところ、臨死体験の際のパノラマ的記憶再現も、側頭葉の電気刺激による記憶再現と
同じシステムで発動する脳の機能であり、極端な危機に対して反応的に側頭葉が刺激され、
いろいろなことを鮮明に思い出すことにより、本人が死に瀕する不安や苦痛から
逃れようとしていると考えられるのです。
もう一つ注目すべきことは、過去を回想することは老人によく見られるということです。
アイオワ大学のラッセル・ノイエス博士は、この点に注目しています。
老人の場合、過去の回想はその意味を確かめるという役割も担っています。
つまり、老人が現実の生活や社会から離れて過去に意味を見出そうとする行為に
臨死体験のパノラマ的回想が似ていると言うのです。
それによって限りある人生(=死)を受け入れ、心の平安を保とうとするのです。
死の恐怖で危機に瀕した人は「時のない瞬間」に安全を求めると思われます。
人が自分の過去の体験の中に入り込んでいる時には、死は存在しなくなります。
このため、過去の経験、特に喜びに満ちた体験は意識に不安をのぼらせません。
殊に子供の時の想い出はそうです。
その頃は体験も強烈で、人生の中でも悩みを知らない頃だからです。
このように自分の意識を想い出にのめりこませることには、離脱現象も伴います。
つまり、自分は事故現場では第三者になっているのです。
死んだ自分や嘆き悲しむ家族を自分は雲の上から見ることによって、
死の恐怖を自分のものではない事として考えることにより、
不安を和らげようとするのだと考えられます。
この「体から抜け出て自分を見下ろしている」という感覚は解離性障害の症状ですが、
この現象もまた側頭葉への電気刺激によって人工的に再現することも出来ます。
たとえば死の直前に見るといわれる走馬灯(パノラマ的記憶再現)は、
別に臨死体験に特有のものではありません。
側頭葉に病因を持つてんかん患者では、しばしばパノラマ的回想が見られます。
一方、てんかんの研究中に脳の各部を電気刺激する方法を開発したウィルダー・ペンフィールド博士は、
側頭葉のシルヴィウス溝を刺激すると過去の様々な記憶を思い出すことを発見しています。
しかし、臨死体験のパノラマ的回想には鮮明な情感が伴うので、これが特徴だという人もいますが、
ペンフィールド博士の研究では、側頭葉を刺激した際の記憶の再現にも強い情感を伴うことがある
と述べているので、これも必ずしも臨死体験だけに見られる特徴ではないようです。
つまるところ、臨死体験の際のパノラマ的記憶再現も、側頭葉の電気刺激による記憶再現と
同じシステムで発動する脳の機能であり、極端な危機に対して反応的に側頭葉が刺激され、
いろいろなことを鮮明に思い出すことにより、本人が死に瀕する不安や苦痛から
逃れようとしていると考えられるのです。
もう一つ注目すべきことは、過去を回想することは老人によく見られるということです。
アイオワ大学のラッセル・ノイエス博士は、この点に注目しています。
老人の場合、過去の回想はその意味を確かめるという役割も担っています。
つまり、老人が現実の生活や社会から離れて過去に意味を見出そうとする行為に
臨死体験のパノラマ的回想が似ていると言うのです。
それによって限りある人生(=死)を受け入れ、心の平安を保とうとするのです。
死の恐怖で危機に瀕した人は「時のない瞬間」に安全を求めると思われます。
人が自分の過去の体験の中に入り込んでいる時には、死は存在しなくなります。
このため、過去の経験、特に喜びに満ちた体験は意識に不安をのぼらせません。
殊に子供の時の想い出はそうです。
その頃は体験も強烈で、人生の中でも悩みを知らない頃だからです。
このように自分の意識を想い出にのめりこませることには、離脱現象も伴います。
つまり、自分は事故現場では第三者になっているのです。
死んだ自分や嘆き悲しむ家族を自分は雲の上から見ることによって、
死の恐怖を自分のものではない事として考えることにより、
不安を和らげようとするのだと考えられます。
この「体から抜け出て自分を見下ろしている」という感覚は解離性障害の症状ですが、
この現象もまた側頭葉への電気刺激によって人工的に再現することも出来ます。
【バカと長文】
長文って読みたくないですよね。
文字ばかりがズラッと並んでるのを見ると、うんざりするという人も多いんじゃないでしょうか。
個人的には長文を読まないこと自体が悪いことだとは思っていないんのですが、もし、
「自分はバカだから、長い文章を読んでも理解できないはずだ」という先入観によって
長文を読まないという選択をしてるのだとしたら、それは非常にもったいないことだと思います。
というのも、長文というのは基本的に、短文よりも理解しやすいことが多いからです。
まあ確かに、同じ内容をだらだらと繰り返すだけの悪文であるケースも無いとは言いませんが、
ほとんどの長文は、誰にでもわかるような内容である場合が多いです。
なぜなら、文章が長くなる最大の理由は「相手がバカでも理解できるように、言葉を尽くしている」
というものだからです。
簡単な例は辞書です。
辞書で言葉を引くと、その言葉の意味が、違う言葉でクドクドと説明してありますよね。
「熟語一つの説明に長文が一つ付いてる」なんてこともざらにあります。
その言葉の意味を知ってれば熟語一つで済むかもしれませんが、その言葉を知らない人に同じことを伝えたい時は、
細かくかみ砕いたり、辞書の説明のように、違う言葉で言い換える必要があります。
そして、短くてコスパの良い言葉には、知識的なハードルがあることのほかにもう一つ欠点があります。
それは、いろいろな意味を包括している反面、ニュアンスの違いに左右されがちなことです。
難しい言葉だらけの文章を読んでいると、「なんだかふわふわした文章だな」というイメージを抱きますよね。
このような「意味の揺らぎ」を抑えるために、文脈を文章で補完していく場合にも、自然と長文になってしまいます。
…とか何とか言いながら、「長文は分かりやすい文章であることが多いので、面倒くさくも怖くもないよ」
ということを説明するためだけに、結局、こんなに文字数を使っちゃいましたね。
「バカにこそ読んでほしい長文をバカまで届けるためには、まず長文の良さを長文で説明しなければいけない」
という矛盾に、言語というコミュニケーション・ツールの限界を感じます。
長文って読みたくないですよね。
文字ばかりがズラッと並んでるのを見ると、うんざりするという人も多いんじゃないでしょうか。
個人的には長文を読まないこと自体が悪いことだとは思っていないんのですが、もし、
「自分はバカだから、長い文章を読んでも理解できないはずだ」という先入観によって
長文を読まないという選択をしてるのだとしたら、それは非常にもったいないことだと思います。
というのも、長文というのは基本的に、短文よりも理解しやすいことが多いからです。
まあ確かに、同じ内容をだらだらと繰り返すだけの悪文であるケースも無いとは言いませんが、
ほとんどの長文は、誰にでもわかるような内容である場合が多いです。
なぜなら、文章が長くなる最大の理由は「相手がバカでも理解できるように、言葉を尽くしている」
というものだからです。
簡単な例は辞書です。
辞書で言葉を引くと、その言葉の意味が、違う言葉でクドクドと説明してありますよね。
「熟語一つの説明に長文が一つ付いてる」なんてこともざらにあります。
その言葉の意味を知ってれば熟語一つで済むかもしれませんが、その言葉を知らない人に同じことを伝えたい時は、
細かくかみ砕いたり、辞書の説明のように、違う言葉で言い換える必要があります。
そして、短くてコスパの良い言葉には、知識的なハードルがあることのほかにもう一つ欠点があります。
それは、いろいろな意味を包括している反面、ニュアンスの違いに左右されがちなことです。
難しい言葉だらけの文章を読んでいると、「なんだかふわふわした文章だな」というイメージを抱きますよね。
このような「意味の揺らぎ」を抑えるために、文脈を文章で補完していく場合にも、自然と長文になってしまいます。
…とか何とか言いながら、「長文は分かりやすい文章であることが多いので、面倒くさくも怖くもないよ」
ということを説明するためだけに、結局、こんなに文字数を使っちゃいましたね。
「バカにこそ読んでほしい長文をバカまで届けるためには、まず長文の良さを長文で説明しなければいけない」
という矛盾に、言語というコミュニケーション・ツールの限界を感じます。
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