唯物思考に立脚する現代西洋医学において、健康とは肉体に異常がない状態、病気とは肉体に異常がある状態と考える。
こうした有か然らずんば無かという二者択一なデジタル思考が齎す弊害は医学検査にも浸透している、つまり異常がなければ健康、異常があれば病気と診断される。
当たり前と言えばそれまでだが、しかし、健康か否かという判断はそう単純な事だろうか?
患者は唯物思考に感化洗脳された医師から検査値に異常がないことを知らされると、ひと安心するものの、また患者がどれだけ不調を訴えても唯物思考に感化洗脳された医師にとって検査結果に異常がないかぎり治療の必要なしと診断され相手にされないことになる、ここに唯物医学の健康観・病気観の貧困さが端的に示されている。
こうした現代唯物医学の健康観に従うならば全ての人間は「健康か病気」のいずれかに属することになり「健康人」か「病人」かの2種類の人間しか存在しないことになる。
以上を一言で表現するならば唯物主義に立脚した健康か病気かの「二分法的健康観」という事になり 、これが現代西洋医学の特徴である。
それに対してホリスティック医学は、現代唯物医学とは全く違った見方をする。
健康と病気をデジタル的な対立概念としてとらえるのではなく健康にはさまざまなグラデーション的レベルがあり病気はその1つの状態にすぎないと考える。
ホリスティック医学の健康観は人間の健康状態を1つの山に譬えて説明される。
要するにホリスティック医学の健康観によれば10人10色であり10人の人間がいれば10通りの健康レベルが存在し、健康そのものの人がいる一方で病気とは言えないまでも不快な症状に悩まされている人がいる訳で、それは死の間際にまで至っている人もいる。
つまり、「人の数だけさまざまな健康レベルがある」ということであり。すべての人々が、完璧な健康レベルと最低の健康レベルとの間の、どこかのレベルに属することになるというわけだ。
唯物論的デジタル思考の現代医学と反唯物論的アナログ思考のホリスティック医学では、どちらが人間の健康を細やかにに把握できるか己と理解されよう。
唯物論的デジタル思考の現代医学は人間の身体を機械と同様に考えることから臓器移植というパーツ交換のような極端な思考が生じてくるだけでなく、このような思考から臓器を資源のごとき考える悪魔的思考が蔓延る。
対して反唯物論的アナログ思考のホリスティック医学では、ある特定の臓器に異常が生じた場合、それは身体全体の異常がたまたまそこに現れたものと考える。
つまり身体の部分が病むということはその部分の異常だけではなく、本当は身体全体の異常を示していると考える。
ある臓器に病気が生じたならば、それは「身体という1つの生命体の健康レベルが低下し、異常をきたしている」と見なす。
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