ミステリー・ロマンを追いかけたい


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001 2025/03/15(土) 20:38:56 ID:JzYu3BkoTQ
歴史のミステリーを解き明かしたくないですか?追いかけたくないですか?
なんかいい題材ない?もしくは自分なりに研究してる人とかいますか?

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002 2025/03/15(土) 20:40:05 ID:JzYu3BkoTQ
もしくは事件の真相など。

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003 2025/03/15(土) 21:01:51 ID:gP2cnshrtc
しょっちゅうやってます。全部オリジナルでね。両手ぐらいは持説があるよ。

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004 2025/03/15(土) 21:02:46 ID:DCH24Go5gA
邪馬台国は架空。
しかもそれが日本だとするのも無理が有り過ぎる。

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005 2025/03/15(土) 21:54:16 ID:jOzgdIJfpM
徳島県だよな

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006 2025/03/15(土) 22:24:53 ID:JzYu3BkoTQ
>>3
おもしろそう。どんなのがあるんですか?
以前、地元の石碑に書いてある文字から、文化資料館とか図書館とかで調べて明治時代の事件の供養関係の石碑だったみたいなのが判明して面白かったんですよね。

>>4
てことは真相もなにもないって感じですかね。

>>5
いろんなところに説がありますよね。

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007 2025/03/15(土) 23:26:32 ID:gP2cnshrtc
>>6
その1 明治維新は神武東征の焼き直し説
その2 前方後円墳は、ホトをデザインしたもので、後継が神社建築の鳥居、鈴、参道、拝殿、本殿レイアウト説。
とかね。

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008 2025/03/16(日) 00:00:39 ID:5WOJI2Xcs6
>>7
その2がおもしろそうですね。
ホトが何か調べましたがそう言われればそう見えるかも。
それが神社関係に繋がってる説も興味深いです😄

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009 2025/03/16(日) 13:21:29 ID:q5QJbdiMYA
魏志倭人伝を書いた人って本当に日本に来たのか?
来てないって話もあるみたいだけど

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010 2025/03/16(日) 14:15:25 ID:gsytep3fmU
>>9
書いた人は来てないが、来た人の最新情報は盛り込まれているね。来た人は248年に来日し、魏が西晋に代わってから台与が派遣した遣使で帰還した塞曹掾史張政だよ。18年間もの間滞在した。

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011 2025/03/16(日) 14:25:53 ID:V5uIRTfa0I
>>10
>>18年間もの間滞在した。

それでも場所があやふやって、、、

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012 2025/03/16(日) 15:02:30 ID:gsytep3fmU
>>11
247年からの間違いでした。場所はあいまいなのではなく、張政自身が、邪馬台国を九州から畿内に東遷させた立役者だから。ヒヤリングした陳寿は、この張政の英雄的活躍を敢えて記載しなかった。張政の分を過ぎたる介入の咎めを避けたかったか、本家邪馬台国が、大陸通商のために残存したから、九州か、畿内かゴチャついた記述となり、現代人を悩ましている。本家邪馬台国が滅んだイベントが、磐井の乱。

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013 2025/03/16(日) 15:21:23 ID:gsytep3fmU
魏志倭人伝には山から朱砂が出ると記されているが、丹を産するのは、中央構造線沿いだから、九州邪馬台国ではなく、畿内邪馬台国の描写に違いない。張政は、帰国後に帯方郡太守にまで出世し、彼の地に墓があり、墓誌の磚に刻まれた文字に、張撫夷とある。夷狄倭国の都を遠ざけた手柄は伝わってはいたのに違いない。

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014 2025/03/16(日) 15:51:59 ID:7F/NIS0eMo
>>9

日本に来たことが無い妄想作家の作品に、
ちょこっとだけ出てくる全身刺青の裸族の島を、
それは日本だって言い張ってるアホが騒いでるだけ。

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015 2025/03/17(月) 11:39:48 ID:zIvRcZog1A
邪馬台国もアトランティスも似たようなもんだな

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016 2025/03/17(月) 16:38:29 ID:tZQSNCu0aw
これって完全に解明される時って来るのだろうか

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017 2025/03/17(月) 20:45:44 ID:j/rM5/AekQ
景行天皇記を読み込むと、九州には、本家邪馬台国(大和=倭)があった事が分かる。仲間の印の三種の神器を掲げ出迎える様子が度々登場するからだ。

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018 2025/03/17(月) 21:11:15 ID:j/rM5/AekQ
対馬伊都国ルートが東遷後に沖ノ島宗像、遠賀川ルートにシフトしたことも明確だ。張政は、瀬戸内海航路を拓いた人物でもある。のみならず、卑弥呼の亡骸を船に載せ、瀬戸内海を運び、箸墓に古墳を築いた人物でもある。古墳時代をはじめたのは、張政のアイデアによる。多分、張政の祖先に張騫がおり、張騫は、西方大月氏と国会を樹立しようとした一族の英雄冒険家だ。張政は、張騫に憧れていたろう。自分は東方海上を制する気概を抱き、皇帝の命を逸脱して倭の鎮撫後退工作に走った。却って国造りに貢献してしまったから、倭は早く4世紀には漢四郡滅亡後(313年)の朝鮮半島に進出してしまう。

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019 2025/03/18(火) 15:09:28 ID:gGqW5Jrd.M
>>13
墓は288年説が有力だから、張政来日時30歳だとすれば2017年生まれの享年71歳で没、49歳で帰国、なかなかバランスがいい。油の乗った人生の現役時代の大半が倭国に捧げられた人生だ。
嘗てはその線で書かれた張政レポートという作品がネット上にアップされていたが、消えてしまったのが惜しまれる。東遷主導は、私の妄想だがね。

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020 2025/03/18(火) 15:33:28 ID:gGqW5Jrd.M
魏志倭人伝には年号なしに
「壱与は倭の大夫で率善中郎将の掖邪拘等二十人を派遣して、張政等が帰るのを送らせた。そして、臺(中央官庁)に参上し、男女の生口三十人を献上し、白珠五千孔、青大句珠二枚、模様の異なるいろいろな錦二十匹を貢いだ。」
と締め括られている。
この年号は下記で266年と推定できる。

『日本書紀』の神功紀に引用される『晋起居注(現存せず)』に、泰初(「泰始」の誤り)2年(266年)に倭の女王の使者が通訳を重ねて朝貢したとの記述がある。現存する『晋書』武帝(司馬炎)紀では266年、同・四夷伝では文帝(司馬昭)の時代(255~265年)及び武帝の泰始の初め(266年か)に倭人が朝貢したことが書かれている。
木佐敬久も、ここから張政滞在期間を20年と割り出した。この重要な事実が、何故か無視されがちなのだ。

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021 2025/03/18(火) 16:56:00 ID:gGqW5Jrd.M
卑弥呼は倭迹迹日百襲姫命だから、孝霊天皇の娘。箸墓古墳にほうむられている。夫はいない。一応大物主の妻ということにはなっているが、大物主には活玉依毘売という妻がいるが、こちらは子をなし、倭迹迹日百襲姫命は、ホトを箸で突いて死ぬ。
一方、天服織女が忌服屋で神御衣を織っていたとき、須佐之男命が天斑馬を堕し入れたため驚いて梭(機織りの際、横糸を通すのに使う舟型の器具)で陰部を衝いて死んでしまう。この事件が天照大御神が天石屋にこもるきっかけとなった、とあるが、天服織女は登場せず、天照大神自身が機を織り、ホトを突いて死んだ説が濃厚だ。
つまり、天照大神=倭迹迹日百襲姫命=卑弥呼だ。

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022 2025/03/18(火) 17:12:28 ID:gGqW5Jrd.M
台与は誰に比定されるかといえば、倭迹迹日百襲姫命の姪孫崇神天皇の娘である豊鍬入姫だろう。年齢的にも合うし、斎宮の起源、天照大神の宮外奉斎の伝承で知られる巫女的存在だ。つまり、卑弥呼の後を継いだ巫女である台与(トヨの中国側当て字)自身が斎宮、斎王なのだ。南北朝時代までの660年間、皇女が台与を演じ続けてきたことになる。

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023 2025/03/18(火) 20:07:50 ID:gGqW5Jrd.M
なぜ、台与の霊的力を頼んだのか?台与が国の乱れを収めた故事は、中国の魏志倭人伝からも逆輸入されて知られていたからである。
南北朝時代に斎宮の終焉を迎えたのは、南北朝時代の始まる延元の乱で、朝廷の分裂により国が乱れて、台与の効力ももはやこれまでとの諦念が支配したからだろう。磐井の乱や壬申の乱を思い出させたに違いあるまい。

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024 2025/03/18(火) 21:32:39 ID:gGqW5Jrd.M
そもそも壬申の乱翌年の673年、天武天皇は「大来皇女(おおくのひめみこ)」を最初の斎宮として伊勢神宮に奉じた。

これは、天武朝が、倭国時代の卑弥呼死後国が乱れたのを収めた「台与共立による国家安定」を意識的に再現した可能性が高い。

台与(=豊鍬入姫命)が天照大神を奉じて国家を安定させた歴史を踏まえ、同じ役割を皇女に担わせることで、王権の正統性と霊的安定を確立しようとした。

斎宮制度は、明らかに台与共立事績の再演儀礼なのだ。

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025 2025/03/29(土) 14:13:38 ID:kf9VN3frho
壬申の乱まで伊勢神宮は、猿田彦を祀る地であり、猿田彦が二見ヶ浦で謀殺されて、伊勢大神として祀られていた。大海人皇子が伊勢の方に向かって拝んだとあるのは、伊勢大神に向かって祈ったので、天照大御神に対してではない。猿田彦終焉の地を北東に据えた場所に内宮、外宮を設けたのは天武朝であり、同時に斎宮も発足した。此処から、鬼門に猿という陰陽道の解釈が生まれ、平安京の鬼門に猿ヶ辻、日吉の神猿、比叡、賀茂神社と斎院、と繋がってゆく。猿とは、猿田彦なのであり、以来、伊勢神宮は、猿田彦封じなのだ。

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026 2025/03/29(土) 21:05:52 ID:kf9VN3frho
694年建設の大藤原京の鬼門にあるのは、もちろん、三輪山=大神神社である。三輪山のオオモノヌシ=猿田彦=ヤマタノオロチだ。オオモノヌシの子孫が太田田根子だが、猿田彦の子孫の大田命が伊勢神宮に土地を提供した。大田命は、大若子命であり、天日別命が猿田彦でもある。纏向は古くは、太田という地名だった。
垂仁天皇愛息ホムチワケノミコは、唖であったが、出雲に派遣され出雲大神を拝むと言葉を発する事ができた。仮宮で一晩過ごす際肥長比売が褥を共にしたが、寝姿を窺い見るとその正体は大蛇であったという。肥長比売=大蛇=三輪山=オオモノヌシ=出雲大神=猿田彦=伊勢大神。

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027 2025/03/29(土) 21:37:41 ID:kf9VN3frho
出雲の国譲りにおける建御名方神が、伊勢の国譲りにおける伊勢津彦だ。すんなりOKした事代主神は伊勢では大田命ということになる。
猿田彦の風貌描写は、ヤマタノオロチとそっくりで、「その神の鼻長は七咫わ背長は七尺、目が八咫鏡のように、またホオズキのように照り輝いている」とあり、ヤマタノオロチの「頭と尾はそれれぞれ八つずつあり、眼は赤い鬼灯(ホオズキ)のようであった。松や柏が背中に生えていて、八つの丘、八つの谷の間に延びていた」と似ている。つまりは、両者とも、国津神、葦原の中つ国の先住支配者である。

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029 2025/03/29(土) 21:49:52 ID:kf9VN3frho
古墳時代が終わり、皇祖を神に仕立てる試みが7世紀はじめから企てられ始め、壬申の乱後に仏教寺院建築を模倣した神社建築を創作した。もちろん、弥生時代以来の純倭風様式でだ。嘗ての国津神も同時に神社形式で祀ることになり、伊勢神宮、杵築大社、賀茂神社などが次々と生まれた。この神格化操作の中で、卑弥呼=倭迹迹日百襲姫命は、天照大御神になったのである。

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030 2025/03/29(土) 22:48:46 ID:kf9VN3frho
>>27
ホオズキのような眼とは、倭種の切れ長の目とは異なる縄文系の二重でつぶらなどんぐり眼だと思われる。

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031 2025/03/30(日) 07:05:09 ID:lsrsDzlnvM
>>29
古墳や神社建築は、近世の城普請と同じで、地方豪族の財力、富の蓄積を放出させる役割と、それに相反する動員力や地力を強める機能の二つの側面があった。古墳には土木技術や灌漑技術の伝播という意味もあったが、神社建築には寺院建築同様の文化的趣向、細工の普及と祭祀、祭事儀礼の統一という意味しかない中、住人の意識変革には大いに役立ち、率先して採り入れられた。

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032 2025/04/05(土) 22:19:56 ID:n0avs4NDXw
大抵の神社は皇祖神関係ない。出雲大社、大神神社、賀茂神社、諏訪大社などはもちろん、本来は
伊勢神宮ですら関係なかったが、猿田彦封じの
二神を皇祖神にしてから、神祇神道系神社が建てられ始めた。如何にも霊験あらたかならざる心もとない宗教として始まったから、早く仏教の力添えにすがりたかった。早くも東大寺大仏開眼供養から、宇佐八幡宮の実験的神仏習合が始まった。

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033 2025/04/06(日) 09:37:58 ID:6aJxecxWck

卑弥呼は実在したのか?
本名は何というのか?
通名だっりしないだろうか?

九州に居たのか?
奈良に居たのか?

俺と何か関係があったのか?
無かったのか?

謎は深まるばかりだ

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034 2025/04/06(日) 09:52:24 ID:BEABVfRgSk
>>33
全部答えるよ。
実在したけど中国から馬鹿にされた政体であった時代の祭祀王だったから国史には書けず、加工したよ。
倭迹迹日百襲姫命だよ。
九州にいて死んでから奈良箸墓に葬られたんだよ。
あんたとは関係ない。
大した謎ではないし、深まらないよ。

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035 2025/04/07(月) 13:41:04 ID:6C/RXGu1vM
宮地嶽古墳、丸隈山古墳、石人山古墳は、磐井の一族の陵墓と考えられている。岩戸山古墳が磐井の墓だとされているが、磐井は即ち邪馬台国本家筋の末裔だ。更には、最後期の大王陵墓型前方後円墳でもある。
畿内でも、最後期の大王陵墓型前方後円墳は、継体天皇の今城塚古墳とされているから、このことから分かるのは、九州邪馬台国滅亡と同時に、九州は勿論ながら、畿内でも大王陵墓型前方後円墳か消滅したことである。
本家邪馬台国の滅亡が古墳時代の終わりを意味する。邪馬台国東遷と同時に古墳時代が始まり、本家邪馬台国滅亡と同時に古墳時代が終わる。
ならば、もはや九州本家筋は、飛鳥時代には捨て置かれたが?
いやいや、本家邪馬台国滅亡を鎮魂した神社こそが宇佐八幡宮ではあるまいか?

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036 2025/04/07(月) 14:33:09 ID:6C/RXGu1vM
応神5世の孫である継体天皇と、応神を祀る宇佐八幡宮、応神は実は九州本家邪馬台国出身大王ではなかったか?応神は、朝鮮半島進出に熱心に取り組んで好太王に敗れて引き上げざるを得なかった大王だ。この時の軍隊引き上げにより、列島内部に、馬、甲冑、武具などの騎馬民族的な文化要素の横溢が顕著になり、古墳副葬品も武張った物が増える。これを勘違いしたのが江上波夫の騎馬民族王朝説。邪馬台国本家と干戈を交えるに、邪馬台国本家出身の応神天皇5世の孫継体を探し出して充てたるは実に酷なる采配であった。

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037 2025/04/07(月) 14:50:19 ID:6C/RXGu1vM
中大兄皇子は、応神に擬せられ、恰も九州邪馬台国本家筋のごとく即位が躊躇せられた帝だった。そういえば、継体もまた、即位がグズグズしていた。中大兄皇子の場合は、白村江の戦いで唐に弓引いたのは、邪馬台国であり、倭国、日本ではございませんという偽装のためとも考えられる。なぜなら、遣唐使で日本は倭国とは別種と偽り、邪馬台国斬りを演出して敗戦国ウォッシュ、ロンダリングを企てていたからだ。継体の場合は、自己嫌悪からかも知れん。

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038 2025/04/07(月) 21:38:01 ID:6C/RXGu1vM
日本の天皇、大王で、崇神天皇、応神天皇、継体天皇は、実在性や、特徴的な存在感で、他とは異なる独自性を持つ。そこにさらに中大兄皇子を加えてもよいだろう。
彼らは、天皇皇統の中で、ひときわユニークで、時代を画す特別な存在だが、それは共通して、邪馬台国の影を引き摺った天皇、大王であることに由来する。歴史家も皆、この4名の特別性に気づいているが、邪馬台国絡みだとは考えていない。
邪馬台国絡みというよりは、邪馬台国を消した王たちと一括できる。まんまと消せているから、後世の歴史家もその実像を炙り出せない。
崇神天皇は、邪馬台国から東遷した初代天皇で、架空の神武天皇の実在モデル。
応神天皇は、九州邪馬台国出身で、朝鮮半島進出を試みて夢破れた武人天皇にして宇佐八幡宮に祀られた神仏習合権現様。神功皇后凱旋シーンでは、死を偽装されて瀬戸内海を船で運ばれた畿内入りが描かれるが、当時の人は妙な既視感に襲われたはずだ。卑弥呼の亡骸の喪船による航行に準えているからだ。つまりは、東遷イメージの再現だ。
継体天皇は、応神5世の孫で、九州邪馬台国末裔の磐井を滅亡させ、中大兄皇子は、斉明天皇共々神功皇后、応神天皇に擬せられ、対外的には最後の邪馬台国(倭国)王に偽装された大王。

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039 2025/04/08(火) 08:01:04 ID:iQ7wqqwDNI
邪馬台国や卑弥呼を歴史の闇に葬りつつ様々に何らかの方法で書き残そうとした苦心が日本書紀には刻まれている。なんとかして自分たちの本当の過去を遺したい。しかし、隠さねばならない、その葛藤の痕跡を読み取れるかどうかの力量が試される史書だと言える。
歴史家には歯が立たず、逆立ちしても炙り出せないが、時代状況や動機、書き記したい隠れた欲求に気づいたなら、空想家には浮かび上がる像がある。

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040 2025/04/08(火) 08:46:32 ID:iQ7wqqwDNI
武烈天皇の後を、本家邪馬台国の磐井が継ぐ線もあり得た。しかし、畿内大和は、本家九州邪馬台国の中央返り咲きを忌避した。地場豪族たちが許さなかった。磐井の乱は王位継承戦争であったわけだ。継体に、本家筋を滅ぼしてきたら、受け入れてやんよ、という意地悪な条件を突きつけた戦だった。そもそも本家筋九州邪馬台国の応神も、畿内大和は受け容れず、河内どまりであり、後世、河内王朝などと勘違いされたのだ。守旧派畿内大和の葛城やらの排他性は、応神以降の本家邪馬台国の血にも拒否反応をしめしたから、継体も越前なんぞに埋もれていたわけだ。本家対分家闘争の、分家に味方する地場勢力恐るべし。これが国津神の系譜であり、猿田彦や出雲、大物主、賀茂氏、三輪氏なのだ。もうそろそろ本家筋を潰して後顧の憂いを断とうではないか、という願いを抱くまでに6世紀畿内大和地場勢力は力を持ったのだ。

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041 2025/04/08(火) 20:38:42 ID:iQ7wqqwDNI
景行天皇の熊襲征伐は、畿内邪馬台国が、九州に残した本家邪馬台国と依然対峙し続けた狗奴国処分の話と読める。本家邪馬台国と共に狗奴国を討ち取ったわけだ。日本武尊が、東国、蝦夷征討に出るのは、嘗ての東遷の焼直しで、畿内から更に東征をして見せることで、神武天皇がそもそも南九州から立って日向から東征したくせに、なぜ今更景行天皇が日向を討つのかという疑義をかき消して見せたかった。
崇神天皇か、今さら四道将軍派遣のなぜと同じ構図。
正直、なぜ日向発の神武天皇の後続世代が今さら景行天皇の時代に日向を討たねばならないのか?

多分、景行天皇時代に狗奴国処分たる日向征討が成ってから、神武天皇の東征伝説を創作した。その東征伝説を畿内発東征伝説で延長して、邪馬台国九州説を掻き消そうとしたのが日本武尊の東国遠征説話。べ、べ、別に畿内大和王権の本家は、九州邪馬台国なんかではなく、畿内大和も東征するからね。邪馬台国は九州かどうか詮索しないでよ。確かに神武天皇は九州から東征したけど、イコール邪馬台国が九州にあったわけじゃないからね。景行天皇がいた畿内に卑弥呼がいたかもよ。倭王升帥が景行天皇のつもりだからね、と撹乱したくて、神武天皇と邪馬台国無関係説を打ち立てたかった。それくらい神武東征は、邪馬台国九州説を示唆しそうで危険視されたんだろう。だったら、神武天皇を捏造してまでの神武東征自体を載せなきゃいいだけなのに、どうしても実在崇神天皇の東遷は、畿内大和王権のアイデンティティだったのだろう。本音では、九州本家邪馬台国が恋しい魂の源郷だったのだ。

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042 2025/04/08(火) 20:54:54 ID:iQ7wqqwDNI
邪馬台国を消したかった理由
1.磐井の乱で滅ぼしたのが本家邪馬台国だと悟られたくなかった。王位継承戦争なんかではなかったよ。信じてね。
2.白村江の戦いで唐・新羅連合軍と戦った倭国=邪馬台国は、他所の国だから我等日本とは仲良くしてね、と媚び続けたから。
そんな理由で日本書紀からは邪馬台国が消し去られた影響を、現代の文献史家も被っている。

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043 2025/04/11(金) 09:32:32 ID:uGh0.aBbWc
卑弥呼の鏡の隠し場所が古墳から伊勢神宮に変わったわけやな。何かと畿内大和は、邪馬台国を隠したがってきた。所詮は邪馬台国は、他所から来たマレビトで、地元の豪族たちの権力闘争のパワーバランスの上にたなびく霞みたいなもんやったんちゃうか?地場豪族の和を尊ぶ政治が日本の政治の原点やから、そのために仏教も儒教も利用されてきたと。

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044 2025/04/11(金) 09:43:49 ID:uGh0.aBbWc
石凝姥命や八咫の鏡自体が、卑弥呼の鏡を隠すための物語だとは思わぬか?三種の神器もそうや。
記紀には魏鏡、即ち卑弥呼の鏡は載せられぬから、神話で隠した。

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045 2025/04/11(金) 13:31:53 ID:uGh0.aBbWc
なぜ神功皇后は、息長帯比売命で、近江出身なの?
答え 近江出身ではありませんし、台与に擬せられた架空の人物です。息長氏の本拠地が近江というのは、後付けで、継体天皇が近江出身だから。息長そのものは、筑後田川香春神社の祭神辛国息長大姫大自命に由来し秦氏が仰いだ神。秦氏は、継体天朝、磐井の乱後に、一部が畿内に招来され、丹後や近江、山城など、大和以外にも散らばった。近江に息長は、それ以降。なお、辛国息長大姫大自命は、台与、神功皇后と結びつくだけあって、豊受大神、稲荷神と同一神であり、丹後秦氏が信仰していたのだが、もちろん秦氏が丹後に持ち出したのである。伊勢神宮外宮に勧請された豊受大神は、秦氏の信仰した香春の神なんだよ。

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046 2025/04/12(土) 08:26:23 ID:5D22hTvxas
天日槍が、秦氏の神で、播磨、但馬、近江への秦氏の移植に関係があるけど、元々は、新羅神であり、田川香春なのだな。
イトテ五十迹手、伊都縣主、都怒我阿羅斯等などから、糸島渡来人通詞村、敦賀との関連も見逃せない。五十迹手は、本家邪馬台国の末裔だし、東遷後の糸島から香春への通詞村移転、香春経営の中心に秦氏が関与したことも分かる。天日槍の系譜を下ると神功皇后が現れるという寸法だ。

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047 2025/04/12(土) 10:09:08 ID:5D22hTvxas
筑紫王朝、三輪王朝イリ王朝、葛城王朝、河内王朝ワケ王朝、継体王朝……歴史家たちが騙された痕跡にこそ、真実が宿る。騙されるべくして騙されていたわけだな。スッキリくっきり見晴らすためには、大胆仮説を一つだけ補助線としてぶっ込めば良い。別に大胆仮説でもありはしない。日本の国の誕生の最初に起きた重要な出来事過ぎて視界から消えていただけだからだ。
それが、神武東遷だ。
神武東遷が事実だと認めるだけ。東遷後にもといた場所に誰も残さなかったかどうかリアルに考えるだけ。
あと一つ。
邪馬台国は、隠されてはいるが、書かれてはいると考えること。隠されたには理由があり、書いたにも理由があるという当たり前に気づけば良い。

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048 2025/04/12(土) 19:43:25 ID:5D22hTvxas
邪馬台国は、大和ヤマトであり、大和の名前の語源だ。しかし、筑紫に存在したのであり、磐井王国まで存続しながら、応神天皇も輩出した。
因みに、ヤマタノオロチは、大和のオロチであり、三輪山の大物主以下畿内八豪族のことだ。出雲は、信濃と同様に、敗走の地であり、敗れたものの魂を神祀りして弔うための地になった。もともとの出雲土着の豪族もいたことはいたが、畿内国津神の逃亡敗走先になり、根の国とされた。

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049 2025/04/13(日) 09:02:52 ID:V6SMFf5ojI
任那は、九州本家邪馬台国の経営地であり、新羅は、倭人が建国。新羅と九州本家邪馬台国は兄弟国家。帯方郡、楽浪郡滅亡後に百済が建国され、高句麗の圧力に晒され、倭国に頼り始めた。張政による邪馬台国東遷は、半島から倭国の影響を遠ざける狙いがあったのだろう。思惑通り本家邪馬台国だけでは百済、新羅を支えきれず、高句麗により半島から締め出された。
それでも5世紀までは栄山江流域には倭国の進駐軍が残存してはいたが、475年に百済が一旦滅ぶと彼らも撤収。再興百済は南下政策で伽耶任那を奪取、新羅とも衝突し始める。九州本家邪馬台国が滅亡するや、畿内邪馬台国が百済援護に過剰に肩入れ、白村江の戦いでボロ負けする。
新羅との縁は切れて百済は滅亡、次いで高句麗も唐に滅ぼされた。倭国は、完全に、半島からは身を引いた。その頃に史書が書かれたのだということを念頭に置かねばならない。

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051 2025/04/13(日) 14:07:23 ID:V6SMFf5ojI
「三国史書」によると、新羅建国に絡む瓠公は「倭人」で、始祖赫居世と同一人物(朴氏)とされている。のみならず、第四代脱解尼師今(昔氏)も丹波地方の「倭人」だというのである。ここで思い合わせるべきは神武天皇だ。
鵜草葺不合命と玉依姫命の子は四兄弟で、長兄五瀬命以外にも神武天皇には兄がいて、稲飯命、三毛入野命である。
「新撰姓氏録」には、稲飯命は新羅王の祖とする異伝があるという。稲飯命自身が新羅王の何れかに関わるかはわからないが、子孫が新羅王になったという訳である。新羅王家と倭人、それも天孫が無関係ではないようなのだ。素戔嗚尊とその子、五十猛神についても新羅との関係は常に取り沙汰される。

神武天皇の兄が新羅王の祖、即ち、九州本家邪馬台国から新羅の王が出たと、暗に語っている。神話化された素戔嗚、五十猛神父子も新羅に関与した事実を包み隠して伝えている。
はっきり言えば、邪馬台国からは、畿内大和と新羅が派生した訳である。
畿内邪馬台国は、新羅と兄弟国家、九州本家邪馬台国は親だと言える。

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052 2025/04/13(日) 19:22:40 ID:V6SMFf5ojI
畿内大和の親百済政策の下、大伴金村は、512年に任那四県を百済に割譲する。
磐井滅亡を期に新羅川の反撃で任那奪還、或いは任那自身が新羅に下る。
532年 新羅が金官伽耶を併呑
562年 新羅に任那が身売り?(任那滅亡)
任那を百済に売国してきた畿内大和が、磐井無き後、任那を口実に新羅を遠慮会釈なく攻め始める。
欽明朝 新羅討伐計画
崇峻朝 新羅討伐計画
推古朝 新羅討伐計画(3回)
この流れで明らかなように、九州本家邪馬台国は、新羅の親であり、新羅は、畿内大和の兄弟国家だからこそ、兄弟は他人の始まりで親を殺めた兄は、弟を憎み嫌ってしつこく討ち滅ぼさんと新羅征討計画を試みる。白村江の戦い後も新羅蔑視は続き、8世紀半ばになってすら、藤原仲麻呂が、新羅征討計画が練られたほどである。
この奇妙な新羅憎悪を読み解くには、同族嫌悪、恰も九州本家邪馬台国=磐井を討滅した時のような自画像的兄弟国消去願望があったとしか考えられない。

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053 2025/04/14(月) 06:21:10 ID:OY1TISgTog
畿内大和の九州、新羅憎悪がなにからくるのかが分からないミステリー。
隼人や佐伯、など南九州や百済への扱いと、中央から北部九州、新羅への扱いの落差。
そこに隠された王国、邪馬台国を挿入すると見えてくる物がある。

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054 2025/04/14(月) 08:38:17 ID:OY1TISgTog
畿内大和の二層構造だよ。畿内邪馬台国新参層という表層は、常に畿内国津神の古層に突き上げられ、動かされている。
新羅憎悪や邪馬台国嫌悪のベースには、近親憎悪を煽り駆り立てる畿内先住民スピリット基層が横たわっている。
佐伯、熊襲、佐伯、蝦夷、俘囚、土蜘蛛らは、畿内大和国津神と根底では繋がる先住民同士。
国津神古層は、南九州や蝦夷にまで広がっている。その中でまつろわぬ神はミシャグチ、アラハバキ、諏訪、出雲となって駆逐された。

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055 2025/04/14(月) 12:50:56 ID:OY1TISgTog
以上の思考フレームによって、なぜ建御名方や伊勢津彦が同じ信濃や諏訪に落ち延びたのかか分かる。
信濃と言えば、饒速日命、長髄彦、物部氏、安曇氏、秦氏などが、落ち延びた地として知られ、八面大王が、田村麻呂に討たれたりしている。物部氏、秦氏の都落ちは、壬申の乱後で信濃秦氏から、長宗我部に繋がったりしている。信濃は、落人の吹き溜まり、受け皿みたいだ。或いは戸隠伝説みたいに、弾き飛ばされて遠方から飛ばされてくるイメージだ。磐井一族も実は助命嘆願実り、八面大王の信州安曇野に逃れた伝説がある。九州八女には西に有明海。信州安曇野は西に有明山。磐井と同じく八つ裂きにされた八面大王は、八女大君=八女大王に重なるか。
安曇野も、かつては諏訪湖のような湖で、諏訪と同じく產鉄地域であったとも言う。長野は、天日槍との関係、田川や国東半島にも長野地名があったりするので、秦氏によるものなのか、北九州と長野は奇妙な繋がりがある。海人族安曇の安曇野流入も不思議だ。
新羅、百済へ向けられる視線の違いや信濃と出雲の違いなど、追うべきテーマは尽きない。

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056 2025/04/17(木) 08:37:05 ID:k.lVn1sdNQ
諏訪氏は、大神氏=三輪氏を祖とする。北条氏と親しく、なぜか、東北蝦夷への征討計画の要にいた。だから、当時の東北、北海道地域の安東氏の反乱にも関わり、北海道アイヌ事情を記す諏訪大明神絵詞を遺す。諏訪大社上社自体が、守矢神と大神の二重構造で、建御名方と地元縄文系のミックスだ。建御名方は、出雲から来たのではなく。出雲には落ちなかった三輪氏なのだ。信濃の懐は、縄文系が畿内旧地場豪族を受け入れる当時の最果て。都落ちは受け入れるが、都上りはしない地域だ。寧ろ、さらなる遠国からの上りをも吸収する。九州からであれ、関東東北からであれ。

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