宗教の存在意義 宗教は何のために存在するのか?
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宗教とは、人間が作った虚構であり偶像であり方便である、それが証拠に宗教は以下の点を的確に説明できないでいる。
💀物質界の説明
これは自然科学が正確に説明している
💀あの世の説明
これもスピリチュアリズムが詳細に説明している
💀霊的な説明
同様にスピリチュアリズムが詳細に説明している
💀精神世界の説明
これも心理学や精神医学が的確に説明している
💀人間世界の説明
これも政治学・経済学・歴史などの社会科学全般が的確に説明している
以上から、宗教が的確に説明している事は何もなく、あるとすれば虚構の世界についての説明だけである。
よってこの世の一切の宗教は、虚構の世界しか説けず偶像を呈示する事しかできない虚妄の存在と言えよう、そしてそれこそが宗教である。
このような虚構・虚妄が憲法よりも上位と考えるのは完全な誤りであり、危険なカルト思考と言えよう。
憲法や法令などの人間が作った決め事も、全ては自然界の摂理よりも下位的な存在でしかない、況や宗教などはそれ以下の存在と言えよう。

💀物質界の説明
これは自然科学が正確に説明している
💀あの世の説明
これもスピリチュアリズムが詳細に説明している
💀霊的な説明
同様にスピリチュアリズムが詳細に説明している
💀精神世界の説明
これも心理学や精神医学が的確に説明している
💀人間世界の説明
これも政治学・経済学・歴史などの社会科学全般が的確に説明している
以上から、宗教が的確に説明している事は何もなく、あるとすれば虚構の世界についての説明だけである。
よってこの世の一切の宗教は、虚構の世界しか説けず偶像を呈示する事しかできない虚妄の存在と言えよう、そしてそれこそが宗教である。
このような虚構・虚妄が憲法よりも上位と考えるのは完全な誤りであり、危険なカルト思考と言えよう。
憲法や法令などの人間が作った決め事も、全ては自然界の摂理よりも下位的な存在でしかない、況や宗教などはそれ以下の存在と言えよう。

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宗教は悪用すればカルト、善用すれば人々を導き救うツールとなる
とはいえ、「騙されやすい」「信じやすい」性質、言い換えれば「虚構を信じることができる能力」こそが、 実は人類だけが持つ最高の特質のひとつである…というのが悩ましいところでもあります。
地球には、現在1種類の人類しかいません。言わずと知れた、私たちホモ・サピエンスです。
しかし、かつて地球上に現れた人類は、ホモ・サピエンスだけではありませんでした。
他の生物と同様に、人類の進化の道筋は1本ではなく、さながら天に向かって成長する樹木のように、
いくつもの枝別れをし、さまざまな形態的特徴をもつ人類が誕生しました。
アウストラロピティクス、北京原人、ネアンデルタール人、ホモ・エレクトス、ホモ・フローレス…etc.
そして、あるものは途絶え、あるものは子孫を残しました。最後まで生き残ったのが、私たちサピエンスです。
かつて、たくさんの種類の人類が存在した地球上で、何故私たちだけが生き残ったのでしょうか?
たとえば、頑強な骨格・筋肉と優れた運動能力を持っていたネアンデルタール人とホモ・サピエンスが1対1で戦えば、
ホモ・サピエンスには全く勝ち目が無かっただろうと言われています。
そのように、相対的には特に身体的能力が抜きんでたわけではなかった我々の祖先の脳に、およそ7万年前、
“認知革命”が起きました。
何故かサピエンスには、「実在しないものを信じる能力」が身についたのです。
認知革命の始まりは、噂話をして、それを信じるようになったことです。
つまり、「あそこのあいつはめちゃくちゃ強いぞ」とか「あいつとあいつは仲が悪いらしい」と言った具合です。
他の人類種は、サピエンスのように噂話を信じない(そもそも噂話もしなかったのかもしれない)ので、
自分の目で見たものしか信用しません。つまり、全員が親しく知っている集団しか作れません。
そういう集団は、最大でも50人程度にしかならないと言われています。
一方、サピエンスの場合は、「あの人すごいらしいよ」、「あの人の言うとおりにすればネアンデルタール人にも勝てるよ」
などと言われれば信じることができるので、その話を共有するだけで、見知らぬ者同士でも協力し合うことができました。
そのおかげでサピエンスは、当時でも最大150人規模の集団が作れたそうです。
こうして、近隣の他の集団や、遠く離れた場所にある集団とも団結できるようになったサピエンスは、
大集団でネアンデルタール人を襲い始め、ついには滅ぼしてしまったのです。
その“認知革命”以降は、言わずもがな、国家、貨幣、宗教という、人類史最強の「虚構」が世界を構築し続け、
都合が良いと集団が認識すれば、時には真逆にも価値観を変えながら(フィクションは実在するものでないので、
その時の権力者やリーダーが新しいフィクションを柔軟に作りだすことができる)、歴史は今に続いています。
フランス革命が起きたり、明治新政府ができたりしたのは、フィクションが切り替わって、多くの人がそれに賛同した
(新しいフィクションを信じた)ということに他なりません。
生命の進化を遡ると、生命誕生から約20億年間は「無死」の世界でした。 むろん、事故や他の生物に捕食されることによって死ぬことは当然ありましたが、
「寿命で死ぬ」という現象はありませんでした。
いわゆる「一倍体」と呼ばれる大腸菌のような生物は、遺伝子のセットをひとつしか持たず、
その遺伝子を複製して二倍にした後に分裂を起こし、それぞれがまた“一倍体”になる
…という増殖の仕方をします。
個体の遺伝子をそのままコピーして、倍、倍、倍と増えてゆく ―― そこには親も子もなく、
死も存在しませんでした。
しかし、今から約15億年前に「二倍体細胞生物」(遺伝子の組み合わせを二つ有する生物)、
すなわち、父親と母親から受け継いだ遺伝子を両方持っている生物が出現し、それに伴って初めて
「寿命による死」という現象が生じました。
二倍体細胞生物が生きている間、その生命の元であるDNAは、活性酸素や食物の中の発がん性物質
などのストレスによって傷付き、この傷が時問とともに蓄積されて行きます。
生殖細胞が傷を負うと、それは子孫に引き継がれます。
また、傷付いた古い個体(親)と傷を受け継いだ子孫が再び合体する可能性もあります。
すると、集団の中に傷が蓄積される「遺伝的荷重」が起こり、種が絶滅する可能性が非常に高くなります。
これを安全に回避するためには、ある程度の時間生きてDNAが傷ついた個体は、
そのDNAを「個体ごと消去する」システムを作っておけば良いわけです。
つまり、再生系と非再生系の体細胞のどちらにも、「ある程度の期間が経つと死ねるプログラム」
を書き込んでおけば、遣伝的荷重による種の絶滅を防げます。
つまり、もともと生物というのは、外因さえ無ければ「永遠に生き続ける」存在であり、 死ぬことは不可避な現象ではありませんでしたが、二倍体細胞生物は「有性生殖」とセットで
「死」というシステムをわざわざ導入せざるを得なかったのです。
こうして、様々な個体の遺伝子をシャッフルすることによる多様性と進化のスピードを得た代わりに、
“寿命”がプログラムされて、生殖を終えた個体はいずれ死ぬことが運命づけられてしまったのです。
それが二倍体細胞生物にとっては、種全体の存続のために不可欠な選択であったとはいえ、
それぞれの個体の立場では死ぬことは本意ではなく、どこまで行っても悲劇でしかありません。
誰もが「生まれながらにして死刑囚」であるという残酷な現実。
有性生殖においては、同じ遺伝子の組成をもった個体は二度と生まれてきません。
私たちひとりひとりが、唯一無二のかけがえのない存在なのです。
それなのに、期限が来たら否応なく消去されてしまうという理不尽さ…。
そのため、これまでの人類の文化という文化は、「死と折りあいをつける」という問題に、
膨大な量の知的努力を注ぎこんできました。
大半の宗教は、死についての手のこんだ嘘を築きあげ、死をじっさいとは違うものに見せかけてきました。
―― もっとも、人生の方について嘘をついた宗教も数多いですが。
そして、哲学の中でもっとも宗教と縁遠いものでさえ、『死が最後には勝利する』と主張せざるを得なかったので、
歪んだものになってしまいました。
どんな小さ子どもにも、死は無意味で、不意に起こる、不当な、言葉にできないほど嫌なものであることはわかります。
だとしたら、その逆を信じることが、「高邁」な「大人」の思想である…と考える人が多いのでしょう。
作家たちも、何世紀ものあいだ、「不死人が死にあこがれ、『殺してくれ』と懇願する」という、
ひとりよがりで禁欲的な寓話を書いて、不死でない自分をなぐさめてきたことは周知のとおりです。
>>24
長文って読みたくないですよね。
文字ばかりがズラッと並んでるのを見ると、うんざりするという人も多いんじゃないでしょうか。
個人的には長文を読まないこと自体が悪いことだとは思っていないのですが、もし、
「自分はバカだから、長い文章を読んでも理解できないはずだ」という先入観によって
長文を読まないという選択をしてるのだとしたら、それは非常にもったいないことだと思います。
というのも、長文というのは基本的に、短文よりも理解しやすいことが多いからです。
まあ確かに、同じ内容をだらだらと繰り返すだけの悪文であるケースも無いとは言いませんが、
ほとんどの長文は、誰にでもわかるような内容である場合が多いです。
なぜなら、文章が長くなる最大の理由は「相手がバカでも理解できるように、言葉を尽くしている」
というものだからです。
簡単な例は辞書です。
辞書で言葉を引くと、その言葉の意味が、違う言葉でクドクドと説明してありますよね。
「熟語一つの説明に長文が一つ付いてる」なんてこともざらにあります。
その言葉の意味を知ってれば熟語一つで済むかもしれませんが、その言葉を知らない人に同じことを伝えたい時は、
細かくかみ砕いたり、辞書の説明のように、違う言葉で言い換える必要があります。
そして、短くてコスパの良い言葉には、知識的なハードルがあることのほかにもう一つ欠点があります。
それは、いろいろな意味を包括している反面、ニュアンスの違いに左右されがちなことです。
難しい言葉だらけの文章を読んでいると、「なんだかふわふわした文章だな」というイメージを抱きますよね。
このような「意味の揺らぎ」を抑えるために、文脈を文章で補完していく場合にも、自然と長文になってしまいます。
…とか何とか言いながら、「長文は分かりやすい文章であることが多いので、面倒くさくも怖くもないよ」
ということを説明するためだけに、結局、こんなに文字数を使っちゃいましたね。
「バカにこそ読んでほしい長文をバカまで届けるためには、まず長文の良さを長文で説明しなければいけない」
という矛盾に、言語というコミュニケーション・ツールの限界を感じます。
長文って読みたくないですよね。
文字ばかりがズラッと並んでるのを見ると、うんざりするという人も多いんじゃないでしょうか。
個人的には長文を読まないこと自体が悪いことだとは思っていないのですが、もし、
「自分はバカだから、長い文章を読んでも理解できないはずだ」という先入観によって
長文を読まないという選択をしてるのだとしたら、それは非常にもったいないことだと思います。
というのも、長文というのは基本的に、短文よりも理解しやすいことが多いからです。
まあ確かに、同じ内容をだらだらと繰り返すだけの悪文であるケースも無いとは言いませんが、
ほとんどの長文は、誰にでもわかるような内容である場合が多いです。
なぜなら、文章が長くなる最大の理由は「相手がバカでも理解できるように、言葉を尽くしている」
というものだからです。
簡単な例は辞書です。
辞書で言葉を引くと、その言葉の意味が、違う言葉でクドクドと説明してありますよね。
「熟語一つの説明に長文が一つ付いてる」なんてこともざらにあります。
その言葉の意味を知ってれば熟語一つで済むかもしれませんが、その言葉を知らない人に同じことを伝えたい時は、
細かくかみ砕いたり、辞書の説明のように、違う言葉で言い換える必要があります。
そして、短くてコスパの良い言葉には、知識的なハードルがあることのほかにもう一つ欠点があります。
それは、いろいろな意味を包括している反面、ニュアンスの違いに左右されがちなことです。
難しい言葉だらけの文章を読んでいると、「なんだかふわふわした文章だな」というイメージを抱きますよね。
このような「意味の揺らぎ」を抑えるために、文脈を文章で補完していく場合にも、自然と長文になってしまいます。
…とか何とか言いながら、「長文は分かりやすい文章であることが多いので、面倒くさくも怖くもないよ」
ということを説明するためだけに、結局、こんなに文字数を使っちゃいましたね。
「バカにこそ読んでほしい長文をバカまで届けるためには、まず長文の良さを長文で説明しなければいけない」
という矛盾に、言語というコミュニケーション・ツールの限界を感じます。
宗教という虚構を信じ宗教という偶像を崇拝する衆生
目くそ鼻くそを嗤う他宗批判
目くそ鼻くそを嗤う他宗批判
信仰そのものは特段悪いことではない。
自己を確実に認識し
客観的な視点で信仰と接していれば問題無い。
けど、バカはそうはいかない。
バカは自己が信仰に飲み込まれてしまう。
そうなったらもう生ける屍。
「我々は◯◯によって生かされてる!」
って言う人、時々いるでしょ?
そうなったら人間は終わり。無価値。
道端の犬の糞より役に立たない
ただのゴミ。
自己を確実に認識し
客観的な視点で信仰と接していれば問題無い。
けど、バカはそうはいかない。
バカは自己が信仰に飲み込まれてしまう。
そうなったらもう生ける屍。
「我々は◯◯によって生かされてる!」
って言う人、時々いるでしょ?
そうなったら人間は終わり。無価値。
道端の犬の糞より役に立たない
ただのゴミ。
『宗教なんか見抜いている俺様カッコイイ教』の教祖様が一杯いるなぁw
神と宗教を混同してはならない
神は自然界を創造した造物主だが、宗教は人間が作った虚構であり偶像である
神は自然界を創造した造物主だが、宗教は人間が作った虚構であり偶像である
かつてマルクスは「宗教はアヘンなり」と評したが、これは正しくはない。 💀一切の宗教は人間が作った「虚構」であり「方便」であり、とどのつまりの縋りつく都合のいい「偶像」に過ぎない。
これこそが宗教の真の姿と言えよう。
宗教とはきわめてドメスティックなものでしかなく、世界宗教と言えどもそれとは無関係に生きられしその懲罰もない。
キリスト教・イスラム教・仏教・その他を信じなくてもその戒律を無視しても、なんら懲罰はなく普通に健全に生きられるのがその証明だろう。
実際「無宗教」であっても何ら不都合はないのがその良い証明でもある。
宗教はそれを信じた者にこそ、その人心を呪縛し戒律で支配され虚構を真理と思い込むだけのものでしかない。
こうした宗教という虚構の偶像を信じ崇拝する限り、この地上から専制と隷従、圧迫と偏狭、破壊と殺戮、偽善と欺瞞はなくならない。
神の偶像崇拝禁止の意味を能々考えるべきだろう。
崇拝すべきは自然界を創造した神である。
>>35
それは「万能理論」という詭弁だよ。
かねてより万能理論は、科学の発展を阻害するものとして悪名高い。
歴史上、最も代表的な万能理論は "神様” だ。
地震や洪水などの天災が起きても起きなくとも、後から「それは神のおぼし召し」とすれば、つねに説明が可能になる。
しかし、天災が起きるのか起きないのかは “神様” が教えてくれれば別だが、一般に予測がつかない。
大地震で礼拝堂が崩壊して信者が死亡する事故が何度も発生しているが、「それも神のおぼし召し」なのだろうか。
一方、科学は天災の予測に挑戦して一定の成果を得ている。
必ずしも確実に予測できるわけではないが、地殻変動や気象現象の構造がモデル化され、確率的な予報がなされている。
またその精度は、失敗を積み重ねた経験を通じて徐々に改善している。
もし「すべては神のおぼし召し」ならば、地殻や気象を究明する科学者の努力にはなんの意味もないことになり、
科学の発展はままならなかっただろう。
皮肉なことに、失敗をしない “神様” は予測に使えないのだが、失敗を重ねる経験的科学は進歩し、予測に役立つので、
後付けで「神のご加護だった」と説明するしかない宗教よりも結果的に多くの人命を救うことになる。
それは「万能理論」という詭弁だよ。
かねてより万能理論は、科学の発展を阻害するものとして悪名高い。
歴史上、最も代表的な万能理論は "神様” だ。
地震や洪水などの天災が起きても起きなくとも、後から「それは神のおぼし召し」とすれば、つねに説明が可能になる。
しかし、天災が起きるのか起きないのかは “神様” が教えてくれれば別だが、一般に予測がつかない。
大地震で礼拝堂が崩壊して信者が死亡する事故が何度も発生しているが、「それも神のおぼし召し」なのだろうか。
一方、科学は天災の予測に挑戦して一定の成果を得ている。
必ずしも確実に予測できるわけではないが、地殻変動や気象現象の構造がモデル化され、確率的な予報がなされている。
またその精度は、失敗を積み重ねた経験を通じて徐々に改善している。
もし「すべては神のおぼし召し」ならば、地殻や気象を究明する科学者の努力にはなんの意味もないことになり、
科学の発展はままならなかっただろう。
皮肉なことに、失敗をしない “神様” は予測に使えないのだが、失敗を重ねる経験的科学は進歩し、予測に役立つので、
後付けで「神のご加護だった」と説明するしかない宗教よりも結果的に多くの人命を救うことになる。
『サイキック・マフィア : われわれ霊能者はいかにしてイカサマを行ない、大金を稼ぎ、客をレイプしていたか』 ( M・ラマー・キーン著 ; 村上和久訳)
改心した元スター霊能者が、自らの過去を懺悔し、心霊業界の暗部を洗いざらいぶちまけた内部告発の書。
世界各国をカバーし、客=カモの情報を交換しあう心霊マフィア・ネットワークの存在を明かすとともに、
霊能者が使うトリック、客についての情報を探るための盗聴工作、儀式と称して女性客をレイプする
霊能者たちの極道ぶりまで、破廉恥きわまりない業界の実態を克明に描く。
---------------------------
改心してイカサマと決別することを選んだラマーは、相棒だったラウールと対立。
「教会の心霊儀式を廃し、ごく普通のまっとうな教会にしよう」と提案したが、
「それではたいした儲けにならない」と一蹴されてしまう。
そして対決の日はやってきた。
上位の信者を集めた会合の席で、ラマーはこれまでのイカサマを暴露した。
カードの透視も、霊視能力も、物質化現象も、物品引き寄せも、自動書記も、霊が鳴らすというトランペットも。
これまで見せてきたことの全てがイカサマ、嘘、トリックだったと告白した。
ラウールはそれらに対する的確な反論ができず、苦渋の表情でそれを認めざるをえなかった。
そしてラマーはこの状態を正してまっとうな(心霊主義を廃してごく普通の)教会にするか、
そうでないのなら自分はこの教会から去ると宣言した。
そのやりとりを聞いていた信者たちは、信じられないといった表情でしばし呆然としていたが…
しかしある女性信者が言った。
「私はあなた(ラマー)の意見に賛成です。悪いことは正さないといけません。
私たちの霊もそう教えてくれましたからね」
たった今!
「これまで見せてきた霊能力は1つ残らず全てデッチ上げ!
僕らは霊の言葉を伝えるフリをしてアンタ達をずっとカモってきましたっ。
霊の存在自体がぜ~~~んぶ嘘なんです」
…という告白を聞いたところだというのに、まだ霊の言葉を根拠に意思決定するだって!!?
彼らの頭の中はいったいどうなっているのか!?
この時のメンバーの一人である資産家のジョージは、ラウールに直接「君は私を騙していたのか?」と問いかけ、
本人が「イエス」と答えたのにもかかわらず、その後もラウールと彼の見せるスピリチュアルを信じ続けている。
ラマーはこれを「狂信者症候群(true believer syndrome)」と呼んだ。
実はラウールは事前に「ラマーがカード透視の際にイカサマを行っていた」と信者たちに伝えていた。
先手を打って自分が告発者になることで、ラマーの発言の信憑性を落とす作戦だ。
しかし、ラウール自身もまたイカサマを行っていことを信者たちの目の前で認めざるを得なかった。
それなのに結局、その場にいた信者たちのほとんどは、教会がそのままの形で存続することを望み、
ラマーと数人の信者だけが教会を去ることになった。
ラマーは後に語った。
「人に嘘を信じさせるのがいかに簡単なことかは知っていたが、
騙されている人々が真実を突きつけられてなお、真実よりも嘘を選ぶとは思わなかった」
「狂信者症候群」は、詐欺師たちにとって最大の味方となる。
他の面ではまったく正常に思える人が、ある特定の部分に関しては、
いくら論理的に説明しても決してその嘘を嘘と認識しない。
周囲が説得しようとすればする程、むしろより強固にその嘘にしがみ付いてしまうのだ。
これの分かりやすい実例が、例えばオウム真理教。
学歴や知能は関係ない。東大卒の秀才も麻原の空中浮遊を信じて信者になった。
あれだけの大事件を引き起こした後ですら、教団から離れない人たちが多数いる。
そして新しく入信する人たちも。
信じる心は恐ろしい。
先手を打って自分が告発者になることで、ラマーの発言の信憑性を落とす作戦だ。
しかし、ラウール自身もまたイカサマを行っていことを信者たちの目の前で認めざるを得なかった。
それなのに結局、その場にいた信者たちのほとんどは、教会がそのままの形で存続することを望み、
ラマーと数人の信者だけが教会を去ることになった。
ラマーは後に語った。
「人に嘘を信じさせるのがいかに簡単なことかは知っていたが、
騙されている人々が真実を突きつけられてなお、真実よりも嘘を選ぶとは思わなかった」
「狂信者症候群」は、詐欺師たちにとって最大の味方となる。
他の面ではまったく正常に思える人が、ある特定の部分に関しては、
いくら論理的に説明しても決してその嘘を嘘と認識しない。
周囲が説得しようとすればする程、むしろより強固にその嘘にしがみ付いてしまうのだ。
これの分かりやすい実例が、例えばオウム真理教。
学歴や知能は関係ない。東大卒の秀才も麻原の空中浮遊を信じて信者になった。
あれだけの大事件を引き起こした後ですら、教団から離れない人たちが多数いる。
そして新しく入信する人たちも。
信じる心は恐ろしい。
私の叔父が僧侶なんですが、とある知り合いのご夫婦に
「中学生の娘に霊がとりついてるかもしれない」と
相談されて(叔父はイヤイヤ(笑))拝みに行ったことがありました。
ご夫婦に「娘さんと二人きりでお話させてください」と頼み話を聞いたところ
『部活の悩み』『人間関係の悩み』『勉強への悩み』など
ごくごくフツーの中学生の女の子の悩みを話してくれたそうです。
そして「両親はまともに聞いてくれず、どこかへお参りにいったり
お守りやパワーストーンなどを与えるだけでアドバイスもなにもくれなかった。
両親と話すのも疲れている」とのことでした………。
やっぱりなぁと叔父はあとからご両親に娘さんへの親としての接し方や
スピリチュアルへの傾倒への警告をみっちり説教してきたそうです(笑)
叔父が後日私に「おまえくらいにしかこんな話できんわ…」と
苦笑しながら教えてくれたのを思い出します(笑)
あのときのご両親や娘さんどうなってるでしょうかねえ………
「中学生の娘に霊がとりついてるかもしれない」と
相談されて(叔父はイヤイヤ(笑))拝みに行ったことがありました。
ご夫婦に「娘さんと二人きりでお話させてください」と頼み話を聞いたところ
『部活の悩み』『人間関係の悩み』『勉強への悩み』など
ごくごくフツーの中学生の女の子の悩みを話してくれたそうです。
そして「両親はまともに聞いてくれず、どこかへお参りにいったり
お守りやパワーストーンなどを与えるだけでアドバイスもなにもくれなかった。
両親と話すのも疲れている」とのことでした………。
やっぱりなぁと叔父はあとからご両親に娘さんへの親としての接し方や
スピリチュアルへの傾倒への警告をみっちり説教してきたそうです(笑)
叔父が後日私に「おまえくらいにしかこんな話できんわ…」と
苦笑しながら教えてくれたのを思い出します(笑)
あのときのご両親や娘さんどうなってるでしょうかねえ………
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