漂白の民『山窩(サンカ)』について語ろう
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001 2013/04/03(水) 21:34:28 ID:SgQEWeFFls
069 2025/01/19(日) 08:09:22 ID:1Do2UbRYXw
070 2025/01/20(月) 16:42:00 ID:xITWKGpjTo
071 2025/02/03(月) 08:41:14 ID:To14mRrjso
江戸時代の幕府直轄地では、特定の地域で山仕事(炭焼き・狩猟・木材採取など)が認められていました。幕府は収益を確保するために林業を管理しつつも、住民が山を利用すること自体を厳しく制限することは少なかったと考えられます。特に、秩父や荒川水系のような山間部では、炭焼きや木材供給が重要な産業であり、幕府の管理のもとでの生業が許容されていた可能性が高いです。
明治政府の国有林化政策
明治政府は、1873年(明治6年)に「地租改正」を実施し、土地所有権を明確化しました。その後、**1897年(明治30年)の「森林法」**により、多くの山林が国有化され、国の管理下に置かれました。この結果、それまで慣習的に山を利用していた人々(炭焼き、狩猟民、木こりなど)は、国の許可なく山に入ることができなくなりました。
特に山窩のような人々は、もともと定住しない生活スタイルだったため、土地所有権が確立されると「不法居住者」とみなされやすくなり、山からの追放や定住化の圧力を受けることになりました。
関東山窩が秩父の炭焼で生業を立てていたものばかりだったとは限らないが、荒川水系流域に散った山窩たちは、秩父の山から追われた相当数の山暮らしの民が含まれていたろう。焼畑民もいたはずだ。
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072 2025/02/03(月) 21:34:22 ID:To14mRrjso
秩父の炭焼は、江戸中期、平賀源内のアイデアからだと「べらぼう」でやっていた。縄文時代からの山住の連続性は炭焼のわけが無い。それは日本各地の黒ボク土を生み出した焼畑でなければならない。椎葉村の焼畑、秩父の焼畑、四国山中の焼畑、飛騨高山の焼畑、中国山地の焼畑、越後村上の焼畑……焼畑民が木樵を兼ね、炭焼や鉱山師、山伏を兼ね、狩猟の傍ら、籠を編み、箒を作り、定住民と交易しながら山に暮らし続けた。自由に山を住処とした度合いに応じて、時の政治権力とは無縁であり、寺社が山に上がり込むなら、寄生し、権力が山から排除するならワラワラと街場に降りざるを得なかった。ちょうどそのタイミングで柳田は里に降りたサンカ、イタカに接する事案を取材しえたのだ。
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073 2025/02/05(水) 09:15:37 ID:Sxh66qBBnw
>>69 神奈川なら足柄。
大正の初めごろ)の話である。尾張瀬戸町の少年感化院に不思議な身元の二人の少年が保護されていた。ひとりはサンカ(漂泊民)の子で神奈川足柄山で親に捨てられ、甲州から木曾の山を歩いて名古屋の警察に保護された。もう一人は3年間父親と深山の中に住んでいたが、食べ物は自分で素手で捕まえた鳥や魚を生で食っていたそうだ。冬の寒い雨雪の夜、寝るときは岩や木の窪みやうつろの中で、川柳の繊維の多い枝を敷いて寝たそうである。サンカ漂泊民の生活が平地の農耕民と違うところは、穀物・果実・家畜に頼らないで、定まった家の無いことであった。自然の利用技術に長けており、いわば山に住む縄文式狩猟住民に近い生活であった。彼らは山伝いに移動する特別の交通路を持っており、人に会わない所(獣道)を縫って歩いた。磐城相馬地方では「テンパ」と呼び、いくつかの岩屋を持つ。平野の人と物々交換をして交際している。若狭、越前では竹細工、藤蘰などの工作をしたり頼まれ仕事をする。しかし常人と交わることを強度に警戒する。逆に常人からサンカの社会に投じる人もいる。京都の粟田口にちかい若王子の山にサンカがいたそうだ。
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074 2025/02/05(水) 15:21:34 ID:Sxh66qBBnw
075 2025/02/26(水) 11:36:53 ID:2zcKtrEflc
076 2025/02/26(水) 12:19:13 ID:2zcKtrEflc
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