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聖書 Part6
▼ページ最下部
世に、「聖書」の名に値する書物は数多く、その分量もほぼ、無尽蔵にのぼる。
特に、仏教の聖書である「大蔵経」や、ヒンズー教の聖書である「ウパニシャッド」、
道教の聖書である「道蔵」などは、一人の人間が一生かけても研究しきれない
ほどもの分量にのぼっており、その内容も極めて優良なものとなっている。
一方で、「新唐書」巻四十五・志第三十五・選舉下に書かれてあるような、厳密な「聖書」の定義には
基づかず、「その道の聖人が書いた書物」という、国語辞典にも載っている程度の一般的な意味に即して、
半ば、冗談交じりや比喩表現止まりの範囲で「聖書(バイブル)」と呼ばれている書物も数多くあり、
仮に著そうと思うのなら、鼻ほじりの聖人が書いた「鼻ほじり聖書」だって著せないことはない。
そこで、そのような適当な定義に即して勝手に名づけられた「聖書」は、すべて一旦排除して、
人類が著した聖書の中でも、最も聖書らしい聖書を挙げるとすれば、それは「四書五経」だといえる。
仏教などの本格的な聖道宗教が、書物ばかりに頼らない実践からの修養を重んじるのに対し、
四書五経などを聖書とする儒学の場合には、公務員などとして旺盛に働きながら勉強すること
をも念頭に置いているため、自然と教義的な実践以上にも、文献への依存性が高まっている。
人が聖道を目指す上で、聖書のような書物に依存することは、まったく程度の低いことであり、
程度の高い学問や宗教であればあるほど、聖書自体への依存も軽減されていくわけだが、ことに、
書物依存を脱け出せない範囲での、聖書に即した求道を目指す場合に、最大級の模範となるのが四書五経であり、
だからこそ四書五経こそは、より程度の高い教学の聖書以上にも、聖書らしい聖書であるのだともいえる。

特に、仏教の聖書である「大蔵経」や、ヒンズー教の聖書である「ウパニシャッド」、
道教の聖書である「道蔵」などは、一人の人間が一生かけても研究しきれない
ほどもの分量にのぼっており、その内容も極めて優良なものとなっている。
一方で、「新唐書」巻四十五・志第三十五・選舉下に書かれてあるような、厳密な「聖書」の定義には
基づかず、「その道の聖人が書いた書物」という、国語辞典にも載っている程度の一般的な意味に即して、
半ば、冗談交じりや比喩表現止まりの範囲で「聖書(バイブル)」と呼ばれている書物も数多くあり、
仮に著そうと思うのなら、鼻ほじりの聖人が書いた「鼻ほじり聖書」だって著せないことはない。
そこで、そのような適当な定義に即して勝手に名づけられた「聖書」は、すべて一旦排除して、
人類が著した聖書の中でも、最も聖書らしい聖書を挙げるとすれば、それは「四書五経」だといえる。
仏教などの本格的な聖道宗教が、書物ばかりに頼らない実践からの修養を重んじるのに対し、
四書五経などを聖書とする儒学の場合には、公務員などとして旺盛に働きながら勉強すること
をも念頭に置いているため、自然と教義的な実践以上にも、文献への依存性が高まっている。
人が聖道を目指す上で、聖書のような書物に依存することは、まったく程度の低いことであり、
程度の高い学問や宗教であればあるほど、聖書自体への依存も軽減されていくわけだが、ことに、
書物依存を脱け出せない範囲での、聖書に即した求道を目指す場合に、最大級の模範となるのが四書五経であり、
だからこそ四書五経こそは、より程度の高い教学の聖書以上にも、聖書らしい聖書であるのだともいえる。

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若いうちなら、そのような洗脳からの脱却もまだ可能だったりするが、寿命の大半を
洗脳状態に置かれ続けてきた高年者などの場合には、もはや完全な洗脳からの脱却も不可能。
せいぜい本人たちが光と見なしているものを無理やり闇とさせ、闇と見なしているものを
無理やり光とさせるぐらいしか、本人たちを洗脳の蒙昧からなる破滅から引き止めるすべはない。
本人たち自身はまだ光を闇と、闇を光と強固に思い込んでいるのだから、嫌がるところを無理やり
闇から引き剥がして光に繋ぎ止めるしかない。本人たち自身は、光から引き離されて闇に
つなぎとめられる仕打ちだと誤認識するような処置こそは、本当に被洗脳者を救う手立てとなる。
「坤は厚く物を載せ、徳は无疆に合し、含弘光大にして、
品物ことごとく亨る。(略)王事に従うとは、知光大なればなり」
「全陰の坤卦は極めて多くの事物をその上に湛え、全陽の乾卦と同等の聖徳で以て
万物を光が満たすようにことごとく包含してその使命を成就させる。
王君に臣従する形でことを行えばうまくいくが、これはその知恵が光大であるからだ。
(全陰の坤卦は確かに、全陽の乾卦と似たような性質を持ってはいるが、
万物を地の底から突き上げる縁の下の力持ち的な存在であり、
主導者ではなく追従者としてやっていってこそうまくいく。
全知全能とされる聖書の神なども、追従者ですらあれば吉祥なのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——易経・坤・彖伝、六三象伝より)
洗脳状態に置かれ続けてきた高年者などの場合には、もはや完全な洗脳からの脱却も不可能。
せいぜい本人たちが光と見なしているものを無理やり闇とさせ、闇と見なしているものを
無理やり光とさせるぐらいしか、本人たちを洗脳の蒙昧からなる破滅から引き止めるすべはない。
本人たち自身はまだ光を闇と、闇を光と強固に思い込んでいるのだから、嫌がるところを無理やり
闇から引き剥がして光に繋ぎ止めるしかない。本人たち自身は、光から引き離されて闇に
つなぎとめられる仕打ちだと誤認識するような処置こそは、本当に被洗脳者を救う手立てとなる。
「坤は厚く物を載せ、徳は无疆に合し、含弘光大にして、
品物ことごとく亨る。(略)王事に従うとは、知光大なればなり」
「全陰の坤卦は極めて多くの事物をその上に湛え、全陽の乾卦と同等の聖徳で以て
万物を光が満たすようにことごとく包含してその使命を成就させる。
王君に臣従する形でことを行えばうまくいくが、これはその知恵が光大であるからだ。
(全陰の坤卦は確かに、全陽の乾卦と似たような性質を持ってはいるが、
万物を地の底から突き上げる縁の下の力持ち的な存在であり、
主導者ではなく追従者としてやっていってこそうまくいく。
全知全能とされる聖書の神なども、追従者ですらあれば吉祥なのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——易経・坤・彖伝、六三象伝より)

その中では比較的明るいBの部分がキリスト信仰。
BとAは同じ明るさなのでAもキリスト信仰と同等だが、
非聖書圏である棒の影の外では、キリスト信仰もまた一種の暗がりに相当する。
精神薄弱による不能状態が、かつて「白痴」という差別語で呼ばれていた。
これは精神薄弱の蒙昧にあるものが、全くつまらないようなことでもいちいちウレシ
がったりしていたことから来ている。それと同じように、全くトンチンカンな実定法の
違反者を容赦なくコロし尽くしていく旧約のユダヤ教義に強迫観念を抱いてしまった
被洗脳者が、そこでキリストを信仰した時にこそ、キリストが光明であるかのように映る。
本当は元から精神薄弱でない状態、ユダヤ教義からなる強迫観念なんかに囚われていない
状態こそは真に明るい状態であり、その状態から鑑みれば、白痴がウレシがっているような
ものはみな全くつまらないものばかりだし、キリスト信仰だって陰湿な暗がりのうちに入る。
暗闇の中で比較的明るく見える暗がりは、本当の明るみの中では真っ暗闇にも等しいのだ。
「季子然問う、仲由、冉求は大臣と謂う可きか。子曰く、吾れ子を以って異なるを之れ問うと為せり。
曾ち由と求を之れ問う。所謂大臣なる者は、道を以て君に事え、不可なれば則ち止む。今の由と求や、
具臣と謂う可きか。曰く、然れば則ち之れ従う者か。子曰く父と君を弑するには、亦た従わざるなり」
「魯の家老の身内である季子然が問うた。『あなたの弟子で、いま私に仕えております子路と冉求とでは、
どちらのほうが優れた臣下と呼べるでしょうか』 先生は言われた。『私はあなたがもっとマシなことを
聞いてくるものかと思っていましたが、子路や冉求のことですか。大臣というものは、道義に即して
主君に仕え、それが不可能であれば辞職も辞さないものです。しかし、あの二人はただあなたに
くっ付いていってるだけの存在です』 季子然『では私に対して常に絶対服従でいるのでしょうか』
『さすがに親や主君を殺すような真似をすれば、服従もしないでしょう』 (凡庸な臣下である子路や
冉求ですら、親子兄弟での殺し合いを画策するような者には従わない。キリストに服従するということは、
ユダヤ洗脳の外側で見れば、まさに下の下の下の、奴隷人畜と化すどす黒い真っ暗闇であることが分かる)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・先進第十一・二四)
曾ち由と求を之れ問う。所謂大臣なる者は、道を以て君に事え、不可なれば則ち止む。今の由と求や、
具臣と謂う可きか。曰く、然れば則ち之れ従う者か。子曰く父と君を弑するには、亦た従わざるなり」
「魯の家老の身内である季子然が問うた。『あなたの弟子で、いま私に仕えております子路と冉求とでは、
どちらのほうが優れた臣下と呼べるでしょうか』 先生は言われた。『私はあなたがもっとマシなことを
聞いてくるものかと思っていましたが、子路や冉求のことですか。大臣というものは、道義に即して
主君に仕え、それが不可能であれば辞職も辞さないものです。しかし、あの二人はただあなたに
くっ付いていってるだけの存在です』 季子然『では私に対して常に絶対服従でいるのでしょうか』
『さすがに親や主君を殺すような真似をすれば、服従もしないでしょう』 (凡庸な臣下である子路や
冉求ですら、親子兄弟での殺し合いを画策するような者には従わない。キリストに服従するということは、
ユダヤ洗脳の外側で見れば、まさに下の下の下の、奴隷人畜と化すどす黒い真っ暗闇であることが分かる)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・先進第十一・二四)
イエスは、ユダヤ洗脳という真っ暗闇の中に「心神喪失の気休め」という
多少光っぽいものをもたらしただけで、それもユダヤ洗脳の外側から見れば暗闇である。
ユダヤ洗脳を全くの抜きにして、キリスト信仰だけを見てみれば、それは一つの暗闇である。
マッチポンプの脆弱なポンプであり、マッチの大火を少しも消しとめはしない小水である。
ユダヤ洗脳とキリスト信仰とが、マッチポンプという暗闇のセットであるため、
この世から「暗闇の標準」を絶やすというのなら、この二つを絶やすべきだ。
ユダキリを絶やしたからといって、この世から暗闇が消え去るなんてこともなく、
ヤクザやマフィアみたいな宗教性を持たない闇組織が存続することはあり得る。
しかし、そういった闇組織は宗教信仰などによる正当化を受けずに、始めから
村八分扱いを受けるため、社会的な多数派にはなり得ない。「犯罪稼業」という
暗闇がカルト信仰によって正当化推進されたときにこそ致命的な災禍を招くが、
それは同時に、当該のカルト信仰が犯罪稼業の標準を捉えている場合にも当たる。
多少光っぽいものをもたらしただけで、それもユダヤ洗脳の外側から見れば暗闇である。
ユダヤ洗脳を全くの抜きにして、キリスト信仰だけを見てみれば、それは一つの暗闇である。
マッチポンプの脆弱なポンプであり、マッチの大火を少しも消しとめはしない小水である。
ユダヤ洗脳とキリスト信仰とが、マッチポンプという暗闇のセットであるため、
この世から「暗闇の標準」を絶やすというのなら、この二つを絶やすべきだ。
ユダキリを絶やしたからといって、この世から暗闇が消え去るなんてこともなく、
ヤクザやマフィアみたいな宗教性を持たない闇組織が存続することはあり得る。
しかし、そういった闇組織は宗教信仰などによる正当化を受けずに、始めから
村八分扱いを受けるため、社会的な多数派にはなり得ない。「犯罪稼業」という
暗闇がカルト信仰によって正当化推進されたときにこそ致命的な災禍を招くが、
それは同時に、当該のカルト信仰が犯罪稼業の標準を捉えている場合にも当たる。
浄土信仰の悪人正機も犯罪稼業の正当化にすら見えなくもないが、実際のところ、
悪人正機も仏法の標準を捉えた正確な仏説であり、仏説であることのほうが
主体となって、信者を無意識から断悪修善へと導くようになっている。
だから浄土信仰は犯罪稼業を推進しないが、ユダキリ信仰はそうではない。
仏法に即していないのはもちろんのことだが、犯罪稼業を正当化する邪念の標準としては
えらく出来たもので、その点に関して疑いを差し挟む余地はない。この世に暗闇をもたらす
邪教の標準としてユダキリがピッタシカンカンなのは間違いないので、その負の名誉に即して、
まともな倫理観に基づいた場合の標準としての根絶措置をも受け入れるべきなのである。
「蟄蟲咸な俯して内に在り、皆な其の戸を墐る。
乃ち獄刑を趣し、有罪を留むる毋し。祿秩の當たらず、供養の宜しからざる者を收む」
「寒気が増して虫たちがみな内に入ろうとするため、戸を塗り固めて侵入を防ぐようになったころ、
王者は処刑を促して、もはや重罪人を牢屋の暗闇にとどめておかない。収入が不正に多かったり、
身だしなみが分不相応に華美であったりする者に対しても、矯正を講ずる」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・月令第六より)
悪人正機も仏法の標準を捉えた正確な仏説であり、仏説であることのほうが
主体となって、信者を無意識から断悪修善へと導くようになっている。
だから浄土信仰は犯罪稼業を推進しないが、ユダキリ信仰はそうではない。
仏法に即していないのはもちろんのことだが、犯罪稼業を正当化する邪念の標準としては
えらく出来たもので、その点に関して疑いを差し挟む余地はない。この世に暗闇をもたらす
邪教の標準としてユダキリがピッタシカンカンなのは間違いないので、その負の名誉に即して、
まともな倫理観に基づいた場合の標準としての根絶措置をも受け入れるべきなのである。
「蟄蟲咸な俯して内に在り、皆な其の戸を墐る。
乃ち獄刑を趣し、有罪を留むる毋し。祿秩の當たらず、供養の宜しからざる者を收む」
「寒気が増して虫たちがみな内に入ろうとするため、戸を塗り固めて侵入を防ぐようになったころ、
王者は処刑を促して、もはや重罪人を牢屋の暗闇にとどめておかない。収入が不正に多かったり、
身だしなみが分不相応に華美であったりする者に対しても、矯正を講ずる」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・月令第六より)
孔子の言うことと、イエスの言うことは漏れなく全て相反しているため、
どちらかを師とする以上は必ずもう一方を反面教師としなければならない。
一方の師のいうことをよく聞いてその実践に務め、もう一方の反面教師の
言うことはいい加減に聞いておいて、絶対に実践なんかしないように努める。
仏教でいう「顕教」に即するなら、反面教師の言うことは元から聞くべきですらない。
悪の規範を聞くだけ有害無益なことであり、最初から完全に無視し去ってしまう。
「密教」に即するなら、反面教師の言うことも一応は聞いておいて、それを実践する
誘惑に対しては、絶対不動の姿勢を貫くことが修行の一環として認められもする。
清濁併せ呑んだ上で断悪修善に持ち込む密教のほうが、もし修行が成就できたなら、
始めから清濁併せ呑まずに断悪修善を始める顕教よりも、より優位になれるという。
ただ、密教の修行を成就させることは不可能にも等しいほど困難なことであるために、
弘法大師の興した真言密教ですら、大師に匹敵するほどもの後継者が未だ現れていない。
どちらかを師とする以上は必ずもう一方を反面教師としなければならない。
一方の師のいうことをよく聞いてその実践に務め、もう一方の反面教師の
言うことはいい加減に聞いておいて、絶対に実践なんかしないように努める。
仏教でいう「顕教」に即するなら、反面教師の言うことは元から聞くべきですらない。
悪の規範を聞くだけ有害無益なことであり、最初から完全に無視し去ってしまう。
「密教」に即するなら、反面教師の言うことも一応は聞いておいて、それを実践する
誘惑に対しては、絶対不動の姿勢を貫くことが修行の一環として認められもする。
清濁併せ呑んだ上で断悪修善に持ち込む密教のほうが、もし修行が成就できたなら、
始めから清濁併せ呑まずに断悪修善を始める顕教よりも、より優位になれるという。
ただ、密教の修行を成就させることは不可能にも等しいほど困難なことであるために、
弘法大師の興した真言密教ですら、大師に匹敵するほどもの後継者が未だ現れていない。
今ここでは、権力犯罪聖書(通称聖書)の邪悪な記述をしらみつぶしに潰しつつ、
権力道徳聖書(通称四書五経)の記述の正しさを確認するという、密教的な作業を
試みているが、これも決して容易いことではなく、ヘタすれば犯罪聖書の邪義に
取り込まれて、劣悪な思考規範や言動規範が身に付くことにすらなってしまいかねない。
だから誰しもにこんな荒行を勧めるようなことは決してせず、世間一般の多くの人々に
対しては、始めから犯罪聖書なんか読まずに四書五経だけを勉強する、顕教的な修学の
ほうを推奨していく。もちろんここでの密教的な勉学も「誰にも教えない」なんてことは
ないが、修学を希望するものには、全人生をふいにするぐらいの覚悟を必ずしてもらう。
孔子が正義の教師として極めて優れている一方で、イエスが邪悪の教師として極めて
秀でているのも確かなことなので、イエスのほざく邪義には絶対に取り込まれず、
取り込まれた場合には禁治産にすら甘んずるというぐらいの覚悟でいてもらう。
「父母舅姑の所に在るとき、(略)足垢つくときは、湯を沸かして洗わんと請う」
「父母や舅、姑の所にいる時は、その足に垢が付けば、自分から湯を沸かして洗おうとする」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・内則第十二より)
権力道徳聖書(通称四書五経)の記述の正しさを確認するという、密教的な作業を
試みているが、これも決して容易いことではなく、ヘタすれば犯罪聖書の邪義に
取り込まれて、劣悪な思考規範や言動規範が身に付くことにすらなってしまいかねない。
だから誰しもにこんな荒行を勧めるようなことは決してせず、世間一般の多くの人々に
対しては、始めから犯罪聖書なんか読まずに四書五経だけを勉強する、顕教的な修学の
ほうを推奨していく。もちろんここでの密教的な勉学も「誰にも教えない」なんてことは
ないが、修学を希望するものには、全人生をふいにするぐらいの覚悟を必ずしてもらう。
孔子が正義の教師として極めて優れている一方で、イエスが邪悪の教師として極めて
秀でているのも確かなことなので、イエスのほざく邪義には絶対に取り込まれず、
取り込まれた場合には禁治産にすら甘んずるというぐらいの覚悟でいてもらう。
「父母舅姑の所に在るとき、(略)足垢つくときは、湯を沸かして洗わんと請う」
「父母や舅、姑の所にいる時は、その足に垢が付けば、自分から湯を沸かして洗おうとする」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・内則第十二より)
ただ「愛する」ということは、人間にとって最低レベルの情念であることが
孔子や孟子によって再三に渡って指摘されている。「愛しても敬いがないんなら獣畜も同然だ」
と孟子もいい、人間なら愛という感情に高い品性の備わった体系性を持たせるべきだとする。
たとえるなら、ボノボやチンパンジーも同然の、獣的に無軌道な愛が「洪水」である一方で、
親愛や仁愛といった志向性の備わった愛は、「治水によって自在に扱えるようになった用水」だといえる。
親愛や仁愛が人間精神に制御されて、その糧として自在に用いることができるようになった愛である一方で、
獣愛は人間精神の制御を全く受けない愛で、発露が行き過ぎると人間精神のほうを阻害すらするものである。
人間精神の部下となった親愛や仁愛こそは世の中に有益な影響をもたらす一方で、それ自体が一個の
至高価値と化した状態の仁愛は、世の中に氾濫すればするほど有害な影響を招く。獣愛も夫婦の営みや程度を
守った色遊びに用いられるぐらいなら許されても、人間社会を司る原理などとしては絶対に用いてはならない。
獣愛がメディアなどでも大々的にもてはやされて、それ以上の価値など存在しないような風潮にまで
持っていかれている点では、今の日本も聖書圏と様相を一にしている。君父への敬愛や万有愛護の仁愛を
蚊帳の外に追いやって、獣愛を原動力とする強欲ばかりを煽って、奴隷や牛馬も同然の過酷な経済活動に
従事させる。その原動力となっているのが一応は愛の一種であり、愛ゆえに多少は気休めともなるから、
民衆も自分たちが酷い迫害下に置かれていることを自覚しながらも、今の世の中の根本的なあり方に
疑義を呈するところまでには頭が回らない。まさに、愛の「鎮痛剤」としての悪用の最たるもの。
孔子や孟子によって再三に渡って指摘されている。「愛しても敬いがないんなら獣畜も同然だ」
と孟子もいい、人間なら愛という感情に高い品性の備わった体系性を持たせるべきだとする。
たとえるなら、ボノボやチンパンジーも同然の、獣的に無軌道な愛が「洪水」である一方で、
親愛や仁愛といった志向性の備わった愛は、「治水によって自在に扱えるようになった用水」だといえる。
親愛や仁愛が人間精神に制御されて、その糧として自在に用いることができるようになった愛である一方で、
獣愛は人間精神の制御を全く受けない愛で、発露が行き過ぎると人間精神のほうを阻害すらするものである。
人間精神の部下となった親愛や仁愛こそは世の中に有益な影響をもたらす一方で、それ自体が一個の
至高価値と化した状態の仁愛は、世の中に氾濫すればするほど有害な影響を招く。獣愛も夫婦の営みや程度を
守った色遊びに用いられるぐらいなら許されても、人間社会を司る原理などとしては絶対に用いてはならない。
獣愛がメディアなどでも大々的にもてはやされて、それ以上の価値など存在しないような風潮にまで
持っていかれている点では、今の日本も聖書圏と様相を一にしている。君父への敬愛や万有愛護の仁愛を
蚊帳の外に追いやって、獣愛を原動力とする強欲ばかりを煽って、奴隷や牛馬も同然の過酷な経済活動に
従事させる。その原動力となっているのが一応は愛の一種であり、愛ゆえに多少は気休めともなるから、
民衆も自分たちが酷い迫害下に置かれていることを自覚しながらも、今の世の中の根本的なあり方に
疑義を呈するところまでには頭が回らない。まさに、愛の「鎮痛剤」としての悪用の最たるもの。
愛は愛で、これからもあるのである。親愛や仁愛はおろか、獣愛だって完全に否定されはしない。
ただ、獣愛に関しては、今のような至上の存在としての地位は剥奪されて、公けには劣後されるべき
ものとなり、愛を語るなら親愛や仁愛を語るべきだということになる。親愛や仁愛は人間道徳に調律
された愛であるため、結局それら自体よりも「人間道徳」という枠組みのほうが総体的な理念ともなる。
今の世界人口爆発の元凶ともなっている、目的性抜きの単なる愛を至高の理念として世の中に押し付けることが、
もう許されない。単なる愛を至上命題として掲げるのはアブラハム教の特性なので、単なる愛を世の中の
至高理念にしないことは自動的に、地球社会での、アブラハム教の多神教に対する劣後ともなる。
「男女別ありて然る後に父子親しみ、父子親しみて然る後に義生る。
義生りて然る後に礼作り、礼作りて然る後に万物安し。別なく義なきは、禽獣の道なり」
「情愛が押し殺せるぐらいに男女の分別が付けられて初めて父子すらもが親しめるようになり、
父子が親しめるようになって初めて偽りでない道義心が起こる。本物の道義心が備わってから初めて
本気で礼節を嗜むようになり、本気で礼節が嗜めるようになってから初めて、何もかもが安泰となる。
男女の分別も付けられなくて女々しい情愛にまみれ、道義心も持てずにいるのでは禽獣も同然だ。
(父子の心は男女の情愛などよりも嗜み難いものだからこそ、情愛の総体的な劣後が必須となる)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・郊特牲第十一より)
ただ、獣愛に関しては、今のような至上の存在としての地位は剥奪されて、公けには劣後されるべき
ものとなり、愛を語るなら親愛や仁愛を語るべきだということになる。親愛や仁愛は人間道徳に調律
された愛であるため、結局それら自体よりも「人間道徳」という枠組みのほうが総体的な理念ともなる。
今の世界人口爆発の元凶ともなっている、目的性抜きの単なる愛を至高の理念として世の中に押し付けることが、
もう許されない。単なる愛を至上命題として掲げるのはアブラハム教の特性なので、単なる愛を世の中の
至高理念にしないことは自動的に、地球社会での、アブラハム教の多神教に対する劣後ともなる。
「男女別ありて然る後に父子親しみ、父子親しみて然る後に義生る。
義生りて然る後に礼作り、礼作りて然る後に万物安し。別なく義なきは、禽獣の道なり」
「情愛が押し殺せるぐらいに男女の分別が付けられて初めて父子すらもが親しめるようになり、
父子が親しめるようになって初めて偽りでない道義心が起こる。本物の道義心が備わってから初めて
本気で礼節を嗜むようになり、本気で礼節が嗜めるようになってから初めて、何もかもが安泰となる。
男女の分別も付けられなくて女々しい情愛にまみれ、道義心も持てずにいるのでは禽獣も同然だ。
(父子の心は男女の情愛などよりも嗜み難いものだからこそ、情愛の総体的な劣後が必須となる)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・郊特牲第十一より)
容量オーバー寸前なので、次スレへ移動。
四書五経 Part7
http://bbs77.meiwasuisan.com/bbs/bin/read/thought/132188235...
どこかで経験したような流れだな。
四書五経 Part7
http://bbs77.meiwasuisan.com/bbs/bin/read/thought/132188235...
どこかで経験したような流れだな。
↑「ショックによる死傷者」ってフレーズが良いね。
教養が滲み出てる。
教養が滲み出てる。
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