
「子貢曰く、我れ人の諸れを我れに加うるを欲せざるや、吾れも亦た諸れを
人に加うること無からんと欲す。子曰く、賜や、爾じの及ぶ所に非ざるなり」
「(孔子の弟子の)子貢が言われた。『私は己の欲せざるところを人に施さないように
したいと思います』 孔先生は言われた。『賜よ、それはおまえにできることではない』」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・公冶長第五・一二)
孔子の弟子の中でも修辞弁舌に優れ、見た目で人を判断するような人間には「孔子よりも優れている」
というほどもの賛辞を受けたことのある(子張第十九・二五参照)子貢が、真正福音書(論語)中でも
特に有名な「己の欲せざるところを人に施すことなかれ」の実践を志す旨を孔子に述べたところ、
「おまえには無理なことだ」と返された。もしかしたら、儒家道徳において賤業とされる投機で大金を
稼いでいた子貢の行状をも見越して、「おまえには所詮無理なことだ」と孔子も苦言を呈したのかもしれない。
ただ、この一文だけを根拠にするなら、孔子が子貢の「〜を欲する」という欲求不満を晒しつつ
同態加害忌避を志したところが矛盾じみているのを見抜いて、即座に「無理だ」と私的した可能性もある。
「孔子は老子に道家の奥義を教わった」という伝説があるが、道家の実践は無為自然であり、
欲求を消極化する点に集約されている。仕官を志して青い鳥状態の人生を送った孔子の有り様は、
決して道家の「絶対消極」の実践などにはなっていない。しかし、「欲はほしいままにすべからず(礼記)」
という儒家の徳目を究極化したところには、道家や仏教における欲求の捨離が確かにあるわけで、
欲求を捨て去ることと、欲求たらたらであることの中庸を行くために、孔子が道家の欲求捨離の
理念を学び、そのわきまえによって、子貢の欲求不満をも見抜いた可能性は確かにある。
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