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聖書 Part6
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世に、「聖書」の名に値する書物は数多く、その分量もほぼ、無尽蔵にのぼる。
特に、仏教の聖書である「大蔵経」や、ヒンズー教の聖書である「ウパニシャッド」、
道教の聖書である「道蔵」などは、一人の人間が一生かけても研究しきれない
ほどもの分量にのぼっており、その内容も極めて優良なものとなっている。
一方で、「新唐書」巻四十五・志第三十五・選舉下に書かれてあるような、厳密な「聖書」の定義には
基づかず、「その道の聖人が書いた書物」という、国語辞典にも載っている程度の一般的な意味に即して、
半ば、冗談交じりや比喩表現止まりの範囲で「聖書(バイブル)」と呼ばれている書物も数多くあり、
仮に著そうと思うのなら、鼻ほじりの聖人が書いた「鼻ほじり聖書」だって著せないことはない。
そこで、そのような適当な定義に即して勝手に名づけられた「聖書」は、すべて一旦排除して、
人類が著した聖書の中でも、最も聖書らしい聖書を挙げるとすれば、それは「四書五経」だといえる。
仏教などの本格的な聖道宗教が、書物ばかりに頼らない実践からの修養を重んじるのに対し、
四書五経などを聖書とする儒学の場合には、公務員などとして旺盛に働きながら勉強すること
をも念頭に置いているため、自然と教義的な実践以上にも、文献への依存性が高まっている。
人が聖道を目指す上で、聖書のような書物に依存することは、まったく程度の低いことであり、
程度の高い学問や宗教であればあるほど、聖書自体への依存も軽減されていくわけだが、ことに、
書物依存を脱け出せない範囲での、聖書に即した求道を目指す場合に、最大級の模範となるのが四書五経であり、
だからこそ四書五経こそは、より程度の高い教学の聖書以上にも、聖書らしい聖書であるのだともいえる。

特に、仏教の聖書である「大蔵経」や、ヒンズー教の聖書である「ウパニシャッド」、
道教の聖書である「道蔵」などは、一人の人間が一生かけても研究しきれない
ほどもの分量にのぼっており、その内容も極めて優良なものとなっている。
一方で、「新唐書」巻四十五・志第三十五・選舉下に書かれてあるような、厳密な「聖書」の定義には
基づかず、「その道の聖人が書いた書物」という、国語辞典にも載っている程度の一般的な意味に即して、
半ば、冗談交じりや比喩表現止まりの範囲で「聖書(バイブル)」と呼ばれている書物も数多くあり、
仮に著そうと思うのなら、鼻ほじりの聖人が書いた「鼻ほじり聖書」だって著せないことはない。
そこで、そのような適当な定義に即して勝手に名づけられた「聖書」は、すべて一旦排除して、
人類が著した聖書の中でも、最も聖書らしい聖書を挙げるとすれば、それは「四書五経」だといえる。
仏教などの本格的な聖道宗教が、書物ばかりに頼らない実践からの修養を重んじるのに対し、
四書五経などを聖書とする儒学の場合には、公務員などとして旺盛に働きながら勉強すること
をも念頭に置いているため、自然と教義的な実践以上にも、文献への依存性が高まっている。
人が聖道を目指す上で、聖書のような書物に依存することは、まったく程度の低いことであり、
程度の高い学問や宗教であればあるほど、聖書自体への依存も軽減されていくわけだが、ことに、
書物依存を脱け出せない範囲での、聖書に即した求道を目指す場合に、最大級の模範となるのが四書五経であり、
だからこそ四書五経こそは、より程度の高い教学の聖書以上にも、聖書らしい聖書であるのだともいえる。

ちなみに、「鼻ほじり聖書」とか「ゴキブリ聖書」とか「ウ●コ聖書」とかの、
適当な意味で名づけられる聖書までをも「聖書である」と認めるのならば、本来は儒学用語である
「聖書」という言葉を剽窃して、目的語抜きの「聖書」扱いをも受けている「新旧約聖書」などが、
“ある種”の聖書として多大なる支持を未だ取り付けてもいるわけだが、新旧約聖書にもちゃんと目的があり、
目的語をちゃんと冠するのならば、新旧約聖書は「権力犯罪聖書」であるといえる。
対して、四書五経のほうを、目的語を冠した聖書として呼ぶならば、こちらは「権力道徳聖書」
であるといえ、権力犯罪の聖書である新旧約聖書よりは、まだ世の中をマシなほうへと持って行く
ことのできる点が特徴となっている。そんなに程度の高いことを書いているわけでもないが、
権力犯罪の聖書である新旧約よりはまだマシなことを書いている点もまた、権力道徳の聖書である四書五経が、
くそみそな「聖書」という言葉の定義に即したとしても、聖書中の聖書と呼ぶに値する証拠になっている。
適当な意味で名づけられる聖書までをも「聖書である」と認めるのならば、本来は儒学用語である
「聖書」という言葉を剽窃して、目的語抜きの「聖書」扱いをも受けている「新旧約聖書」などが、
“ある種”の聖書として多大なる支持を未だ取り付けてもいるわけだが、新旧約聖書にもちゃんと目的があり、
目的語をちゃんと冠するのならば、新旧約聖書は「権力犯罪聖書」であるといえる。
対して、四書五経のほうを、目的語を冠した聖書として呼ぶならば、こちらは「権力道徳聖書」
であるといえ、権力犯罪の聖書である新旧約聖書よりは、まだ世の中をマシなほうへと持って行く
ことのできる点が特徴となっている。そんなに程度の高いことを書いているわけでもないが、
権力犯罪の聖書である新旧約よりはまだマシなことを書いている点もまた、権力道徳の聖書である四書五経が、
くそみそな「聖書」という言葉の定義に即したとしても、聖書中の聖書と呼ぶに値する証拠になっている。
「爾の靈龜を舎てて、我を觀て頤を朶る、凶なり。我れを觀て頤を朶るるは、亦た貴ぶに足らざるなり」
「自分自身の霊亀を捨てて、間抜けに口を開いておとがいを垂れ、こちらばかりを見ている、甚だ凶である。
こちらを見て、口を開いておとがいを垂れているようなままでは、貴ぶに足る存在ともなり得ない」
(権力道徳聖書——通称四書五経——易経・頤卦・初九−象伝)
人類最古の古典「易」に基づけば、霊魂はあたかも、何日も飲まず食わずのままでいられる亀のように
自存自明の存在であり、自分以外の誰かからもらい受けたりするような代物ではないという。
それこそ紙切れか藁人形のようなモノであれば、「霊魂を注入する」という体裁がまだ通用するものだが、
自らが霊魂を自得している人間のような生き物に、霊魂をさらに注入するというのは、全くおかしなこと。
自らに自明に霊魂が自存し、霊魂が自存する生命体の中でも最も高貴なる「万物の霊長」ですらあるのが
人間なのに、その人間に自存する霊魂(霊亀)を捨て去らせて、外部的に霊を注入したりすること、
それが、ありのままに不祥(凶)なことであり、霊亀を喪失して、おとがいが垂れ下がるほどにも
間抜けに口が開いたままの状態となってしまっていることが、貴ぶにも値しない下賤な姿であるとされる。
神が泥土をこねて霊魂を注入しアダムを作っただの、キリスト信者が神から新たな聖霊を授かっただのの
聖書教義よりも、何千年も昔から存在している「易」の判断。「サルが進化してヒトになった」だのの、
進化論などが提唱される以前に、易学のような人類の英知が、後々に退化して聖書教義などともなっている。
「自分自身の霊亀を捨てて、間抜けに口を開いておとがいを垂れ、こちらばかりを見ている、甚だ凶である。
こちらを見て、口を開いておとがいを垂れているようなままでは、貴ぶに足る存在ともなり得ない」
(権力道徳聖書——通称四書五経——易経・頤卦・初九−象伝)
人類最古の古典「易」に基づけば、霊魂はあたかも、何日も飲まず食わずのままでいられる亀のように
自存自明の存在であり、自分以外の誰かからもらい受けたりするような代物ではないという。
それこそ紙切れか藁人形のようなモノであれば、「霊魂を注入する」という体裁がまだ通用するものだが、
自らが霊魂を自得している人間のような生き物に、霊魂をさらに注入するというのは、全くおかしなこと。
自らに自明に霊魂が自存し、霊魂が自存する生命体の中でも最も高貴なる「万物の霊長」ですらあるのが
人間なのに、その人間に自存する霊魂(霊亀)を捨て去らせて、外部的に霊を注入したりすること、
それが、ありのままに不祥(凶)なことであり、霊亀を喪失して、おとがいが垂れ下がるほどにも
間抜けに口が開いたままの状態となってしまっていることが、貴ぶにも値しない下賤な姿であるとされる。
神が泥土をこねて霊魂を注入しアダムを作っただの、キリスト信者が神から新たな聖霊を授かっただのの
聖書教義よりも、何千年も昔から存在している「易」の判断。「サルが進化してヒトになった」だのの、
進化論などが提唱される以前に、易学のような人類の英知が、後々に退化して聖書教義などともなっている。
新スレのスレ画に誤表記があったので、新たに立て直した。
自分のレスを除けば、まだクズみたいなレスしかされてなかったので、別にいいだろう。
万物の霊長たる人間にとって、霊魂は自得のものであり、外からもらい受けたりすべきものではない。
霊魂は先天的に内在しているものだから、その霊魂が楽しむことは当然、内面からの楽しみとなる。
一方で、自らの霊魂(霊亀)を捨てて他者から霊魂をもらおうとしているような賤人にとっては、
「顔」のような外面が楽しみの輝きに満ちていることが重要となり、それを「心の内の輝き」
だなどとも倒錯する。実際には、霊亀を捨ててでも外部からの霊魂を欲しようとするような
賤人の内面は空っぽの暗闇であり、いくら外側から光を注いでも、暗闇のままである。
だから、そのような賤人同士の間には、卑しみや偽りや侮りばかりが横行する。
おとがいが垂れ下がるほどにも口の緩んだ、魂の抜けきった輩などに貴さは微塵もないから。
「心中斯くも和せず樂しまざるときは、鄙詐の心之れに入る。外貌斯くも莊ならず敬ならざれば、
易慢の心之れに入る。故に樂は内に動く者なり、禮は外に動く者なり。樂は和を極め、禮は順を極む。
内和らぎて外順なれば、則ち民其の顏色を瞻て與に爭わず、其の容貌を望みて民易慢を生ぜず。
故に 輝は内に動きて、民に承け聽かざる莫く、理は外に發して、民に承け順わざる莫し」
「心中に少しでも楽しくないところがあれば、卑しみ偽りの心が生ずる。
外貌に少しでも荘重でないところがあれば、侮りの心が生ずる。そのため楽しみは
内面にあるべきものであり、礼儀正しさは外面にあるべきものだといえる。
楽しみは和やかさを極め、礼儀正しさは貞順さを極める。内面が和らいで外面が貞順であったなら、
民たちもその顔色を見て闘争心を燃やすこともなければ、その姿を見て侮りの心を抱くこともない。
徳性の光輝が内面に躍動することで民も言うことを聞かないことがなくなり、
条理の正しさが外面に発することで民も受け従わないことがなくなる」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・楽記第十九より)
自分のレスを除けば、まだクズみたいなレスしかされてなかったので、別にいいだろう。
万物の霊長たる人間にとって、霊魂は自得のものであり、外からもらい受けたりすべきものではない。
霊魂は先天的に内在しているものだから、その霊魂が楽しむことは当然、内面からの楽しみとなる。
一方で、自らの霊魂(霊亀)を捨てて他者から霊魂をもらおうとしているような賤人にとっては、
「顔」のような外面が楽しみの輝きに満ちていることが重要となり、それを「心の内の輝き」
だなどとも倒錯する。実際には、霊亀を捨ててでも外部からの霊魂を欲しようとするような
賤人の内面は空っぽの暗闇であり、いくら外側から光を注いでも、暗闇のままである。
だから、そのような賤人同士の間には、卑しみや偽りや侮りばかりが横行する。
おとがいが垂れ下がるほどにも口の緩んだ、魂の抜けきった輩などに貴さは微塵もないから。
「心中斯くも和せず樂しまざるときは、鄙詐の心之れに入る。外貌斯くも莊ならず敬ならざれば、
易慢の心之れに入る。故に樂は内に動く者なり、禮は外に動く者なり。樂は和を極め、禮は順を極む。
内和らぎて外順なれば、則ち民其の顏色を瞻て與に爭わず、其の容貌を望みて民易慢を生ぜず。
故に 輝は内に動きて、民に承け聽かざる莫く、理は外に發して、民に承け順わざる莫し」
「心中に少しでも楽しくないところがあれば、卑しみ偽りの心が生ずる。
外貌に少しでも荘重でないところがあれば、侮りの心が生ずる。そのため楽しみは
内面にあるべきものであり、礼儀正しさは外面にあるべきものだといえる。
楽しみは和やかさを極め、礼儀正しさは貞順さを極める。内面が和らいで外面が貞順であったなら、
民たちもその顔色を見て闘争心を燃やすこともなければ、その姿を見て侮りの心を抱くこともない。
徳性の光輝が内面に躍動することで民も言うことを聞かないことがなくなり、
条理の正しさが外面に発することで民も受け従わないことがなくなる」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・楽記第十九より)
殷周革命を嫌い、首陽山に引きこもって餓死した
伯夷・叔斉兄弟の話はすでにここでも何度も述べた。
二人が半ば過剰なほどもの潔癖主義で、素行の不善な諸侯からの招きなどは決して
受けなかったことが、「孟子」公孫丑章句上・九などでも取り上げられている。
その伯夷・叔斉の評価を、弟子の子路が孔子に尋ねたところ、「古えの賢人だ」と答えた。
(伯夷・叔斉は孔子の代からもさらに500年以上遡る古えの人物である)
さらに「(周の武王に放伐革命を思いとどまるように諌めたが聞き入れられず、放伐の不義に
満ちた世での仕官を嫌って山にこもり、餓死したことを)怨んでいたでしょうか」と子路が聞くと、
「(道義を守って仕官を求めなかったことなどで)仁を求めて仁を得たのだから、
なぜ怨んだりすることがあろうか」と答えた。(述而第七・一四を参照)
仁を求めるための手段は、「不義の栄華を求めない」とかの禁欲的な要求の実践による所が大きく、
不義に根ざした富貴栄達を求めたりすれば、そもそもそれは「仁を求めない」ことにも直結する。
求めて得たりする以前に、そもそも誰も「求める段階」にすら進めないのが仁であり、仁を求めて
得ることもできないから、仁以外のあらゆるものを求め、貪って止まないザマとも化すのである。
「仁を欲して仁を得たり、又た焉をか貪らん」
「仁を求めて仁を得たのだから、これ以上なにを貪る必要があろうか」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・堯曰第二十・四より)
伯夷・叔斉兄弟の話はすでにここでも何度も述べた。
二人が半ば過剰なほどもの潔癖主義で、素行の不善な諸侯からの招きなどは決して
受けなかったことが、「孟子」公孫丑章句上・九などでも取り上げられている。
その伯夷・叔斉の評価を、弟子の子路が孔子に尋ねたところ、「古えの賢人だ」と答えた。
(伯夷・叔斉は孔子の代からもさらに500年以上遡る古えの人物である)
さらに「(周の武王に放伐革命を思いとどまるように諌めたが聞き入れられず、放伐の不義に
満ちた世での仕官を嫌って山にこもり、餓死したことを)怨んでいたでしょうか」と子路が聞くと、
「(道義を守って仕官を求めなかったことなどで)仁を求めて仁を得たのだから、
なぜ怨んだりすることがあろうか」と答えた。(述而第七・一四を参照)
仁を求めるための手段は、「不義の栄華を求めない」とかの禁欲的な要求の実践による所が大きく、
不義に根ざした富貴栄達を求めたりすれば、そもそもそれは「仁を求めない」ことにも直結する。
求めて得たりする以前に、そもそも誰も「求める段階」にすら進めないのが仁であり、仁を求めて
得ることもできないから、仁以外のあらゆるものを求め、貪って止まないザマとも化すのである。
「仁を欲して仁を得たり、又た焉をか貪らん」
「仁を求めて仁を得たのだから、これ以上なにを貪る必要があろうか」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・堯曰第二十・四より)
あんまり能弁をたれてたい気分でもないが、あっちが書いてるからこっちも書くしかない。
乳飲み子を抱いて非難してきた母子の映像なども多数放映されているし、
多少、今回の震災にちなんでの引用であるかのような感がなきにしもあらずだが、
仮にそうであるというのなら、
自分たちの引き起こした人災によって何億もの人々を犠牲に追いやっている連中が、
避けようのなかった天災などに対する憐憫の情などをひけらかすことからして、欺瞞にも程がある。
天の作せる災いはなお避くべきも、自らの作せる災いからは逃るべからず(書経)。
天災ですらこれほどにも避けようがないのに、どうして自業自得の災禍から逃れられようか。
「武王は邇きを泄ず、遠きを忘れず」
「武王は近親のものだからといって馴れ合ったりはせず、疎遠のものだからといって忘れ去ったりもしなかった」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・離婁章句下・二一より)
乳飲み子を抱いて非難してきた母子の映像なども多数放映されているし、
多少、今回の震災にちなんでの引用であるかのような感がなきにしもあらずだが、
仮にそうであるというのなら、
自分たちの引き起こした人災によって何億もの人々を犠牲に追いやっている連中が、
避けようのなかった天災などに対する憐憫の情などをひけらかすことからして、欺瞞にも程がある。
天の作せる災いはなお避くべきも、自らの作せる災いからは逃るべからず(書経)。
天災ですらこれほどにも避けようがないのに、どうして自業自得の災禍から逃れられようか。
「武王は邇きを泄ず、遠きを忘れず」
「武王は近親のものだからといって馴れ合ったりはせず、疎遠のものだからといって忘れ去ったりもしなかった」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・離婁章句下・二一より)
多くの人々が災難によって命を落としている中で「雄雄しくあれ」なんてのも、不謹慎にもほどがある。
被害に遭った人々への、悼み悔やみの念を湛えて、彼らの気持ちを逆立てないための配慮と共に援助などにも臨むこと。
そうでもなければ、まだいないほうがマシなぐらいの、火事場泥棒にすらなりかねない。
「晉侯、屠蒯をして周に如き、雒と三塗に事有らんことを請う。
萇弘、劉子謂いて曰く、客の容猛し、祭りに非ざるなり。其れ戎を伐たんか。(中略)乃ち戎の備えを警しむ」
「晋候が屠蒯をに命じて周に遣り、洛水と三途山で霊を鎮める祭りをしたいと請わしめた。応対した周の大夫の萇弘は、
公卿の劉子にこう報告した。『客人(蒯)の容貌は随分と雄雄しく、とても鎮祭の共催が目的であるとは思えません。
おそらく蛮族を討伐するのが本当の目的でしょう』 そこで劉子は蛮族を討伐する用意を推し進めた」
(権力道徳聖書——通称四書五経——春秋左氏伝・昭公十八年より)
被害に遭った人々への、悼み悔やみの念を湛えて、彼らの気持ちを逆立てないための配慮と共に援助などにも臨むこと。
そうでもなければ、まだいないほうがマシなぐらいの、火事場泥棒にすらなりかねない。
「晉侯、屠蒯をして周に如き、雒と三塗に事有らんことを請う。
萇弘、劉子謂いて曰く、客の容猛し、祭りに非ざるなり。其れ戎を伐たんか。(中略)乃ち戎の備えを警しむ」
「晋候が屠蒯をに命じて周に遣り、洛水と三途山で霊を鎮める祭りをしたいと請わしめた。応対した周の大夫の萇弘は、
公卿の劉子にこう報告した。『客人(蒯)の容貌は随分と雄雄しく、とても鎮祭の共催が目的であるとは思えません。
おそらく蛮族を討伐するのが本当の目的でしょう』 そこで劉子は蛮族を討伐する用意を推し進めた」
(権力道徳聖書——通称四書五経——春秋左氏伝・昭公十八年より)
放任主義でも雁字搦めでもない、適度な作為の介入による生育の助成という、
今の世の教育論すら全く及んでいない中正な成育論を、孟子が述べている。
これは、子供に対する教育などにも応用できるだろう一方で、孟子の論旨とおりに、
個々人の人々自身が浩然の気などを養うための手法としても参考にできるもの。
自らに内在する浩然の気を、何の考えもなく放置しているだけでは、雑念に養分を吸われて萎える
だけだし、逆に無理に「助長」しようとしても、全てを枯らしてしまうようなことにすらなってしまう。
精神不安定状態の人間なんてのも、自らの精神的安定を全くのほっぽらかしにした躁状態となったり、
逆に完全に精神の躍動が滞った鬱状態となったりの、双極に振れきることでさらに病状を悪化させる。
全く抑制しないわけでもなければ、完全に抑制しきるのでもない、適度な精神の躍動こそは
健康な精神状態をも育むのであるからして、精神に対する無理な助長を施すことも禁物である。
今の世の教育論すら全く及んでいない中正な成育論を、孟子が述べている。
これは、子供に対する教育などにも応用できるだろう一方で、孟子の論旨とおりに、
個々人の人々自身が浩然の気などを養うための手法としても参考にできるもの。
自らに内在する浩然の気を、何の考えもなく放置しているだけでは、雑念に養分を吸われて萎える
だけだし、逆に無理に「助長」しようとしても、全てを枯らしてしまうようなことにすらなってしまう。
精神不安定状態の人間なんてのも、自らの精神的安定を全くのほっぽらかしにした躁状態となったり、
逆に完全に精神の躍動が滞った鬱状態となったりの、双極に振れきることでさらに病状を悪化させる。
全く抑制しないわけでもなければ、完全に抑制しきるのでもない、適度な精神の躍動こそは
健康な精神状態をも育むのであるからして、精神に対する無理な助長を施すことも禁物である。
「宋人に其の苗の長ぜざるを閔えて之れを揠く者有り。芒芒然として歸り、其の人に謂いて曰く、
今日は病れん、予れ苗を助けて長ぜしめたり。其の子趨りて往きて之れを視れば、苗は則ち槁れたり。
天下の苗を助けて長ぜしむる者は寡なし。以て益無しと為して之れを舍つる者は、苗を耘らざる者なり。
之れを助けて長ぜしむる者は、苗を揠く者なり。徒に益無きのみに非ず、而って又た之れを害う」
「昔、宋に、田んぼの苗がなかなか成長しないのを憂えて、苗を自らの手で引き伸ばす者がいた。
茫然と疲れきって家に帰り、家族に語って言った。『ああ、今日は疲れた。何しろ全ての苗を助けて
伸長してやったのだから』 それを聞いて不審に思った息子が田んぼに行ってみると、苗は全て枯れていた。
この世に苗を助長してやろうとする人間は少なく、全くの無益としてこれを顧みないのは、あたかも
雑草抜きなどの田畑の手入れすらしないようなもので、これもよくない。かといって、件の宋人のように、
無理に助長してやろうとするのも、あたかも苗を手で引き伸ばして、全て枯らしてしまうような結果を招く。
これらのうちのいずれもが、ただ無益であるばかりでなく、積極的に害を招く行為ですらあるのだ。
(孟子は浩然の気を暗に『苗』に例えているが、浩然の気もまた上記の苗の場合と同じように、
全く打ち棄てて雑草ボウボウの状態にすれば生育しない一方で、無理に苗を引っ張るような
強引な手法によって助長しようとしても、全ての苗を枯らすようにして生育を妨げることとなる)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・公丑孫章句上・二より)
今日は病れん、予れ苗を助けて長ぜしめたり。其の子趨りて往きて之れを視れば、苗は則ち槁れたり。
天下の苗を助けて長ぜしむる者は寡なし。以て益無しと為して之れを舍つる者は、苗を耘らざる者なり。
之れを助けて長ぜしむる者は、苗を揠く者なり。徒に益無きのみに非ず、而って又た之れを害う」
「昔、宋に、田んぼの苗がなかなか成長しないのを憂えて、苗を自らの手で引き伸ばす者がいた。
茫然と疲れきって家に帰り、家族に語って言った。『ああ、今日は疲れた。何しろ全ての苗を助けて
伸長してやったのだから』 それを聞いて不審に思った息子が田んぼに行ってみると、苗は全て枯れていた。
この世に苗を助長してやろうとする人間は少なく、全くの無益としてこれを顧みないのは、あたかも
雑草抜きなどの田畑の手入れすらしないようなもので、これもよくない。かといって、件の宋人のように、
無理に助長してやろうとするのも、あたかも苗を手で引き伸ばして、全て枯らしてしまうような結果を招く。
これらのうちのいずれもが、ただ無益であるばかりでなく、積極的に害を招く行為ですらあるのだ。
(孟子は浩然の気を暗に『苗』に例えているが、浩然の気もまた上記の苗の場合と同じように、
全く打ち棄てて雑草ボウボウの状態にすれば生育しない一方で、無理に苗を引っ張るような
強引な手法によって助長しようとしても、全ての苗を枯らすようにして生育を妨げることとなる)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・公丑孫章句上・二より)
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