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聖書 Part6
▼ページ最下部
世に、「聖書」の名に値する書物は数多く、その分量もほぼ、無尽蔵にのぼる。
特に、仏教の聖書である「大蔵経」や、ヒンズー教の聖書である「ウパニシャッド」、
道教の聖書である「道蔵」などは、一人の人間が一生かけても研究しきれない
ほどもの分量にのぼっており、その内容も極めて優良なものとなっている。
一方で、「新唐書」巻四十五・志第三十五・選舉下に書かれてあるような、厳密な「聖書」の定義には
基づかず、「その道の聖人が書いた書物」という、国語辞典にも載っている程度の一般的な意味に即して、
半ば、冗談交じりや比喩表現止まりの範囲で「聖書(バイブル)」と呼ばれている書物も数多くあり、
仮に著そうと思うのなら、鼻ほじりの聖人が書いた「鼻ほじり聖書」だって著せないことはない。
そこで、そのような適当な定義に即して勝手に名づけられた「聖書」は、すべて一旦排除して、
人類が著した聖書の中でも、最も聖書らしい聖書を挙げるとすれば、それは「四書五経」だといえる。
仏教などの本格的な聖道宗教が、書物ばかりに頼らない実践からの修養を重んじるのに対し、
四書五経などを聖書とする儒学の場合には、公務員などとして旺盛に働きながら勉強すること
をも念頭に置いているため、自然と教義的な実践以上にも、文献への依存性が高まっている。
人が聖道を目指す上で、聖書のような書物に依存することは、まったく程度の低いことであり、
程度の高い学問や宗教であればあるほど、聖書自体への依存も軽減されていくわけだが、ことに、
書物依存を脱け出せない範囲での、聖書に即した求道を目指す場合に、最大級の模範となるのが四書五経であり、
だからこそ四書五経こそは、より程度の高い教学の聖書以上にも、聖書らしい聖書であるのだともいえる。

特に、仏教の聖書である「大蔵経」や、ヒンズー教の聖書である「ウパニシャッド」、
道教の聖書である「道蔵」などは、一人の人間が一生かけても研究しきれない
ほどもの分量にのぼっており、その内容も極めて優良なものとなっている。
一方で、「新唐書」巻四十五・志第三十五・選舉下に書かれてあるような、厳密な「聖書」の定義には
基づかず、「その道の聖人が書いた書物」という、国語辞典にも載っている程度の一般的な意味に即して、
半ば、冗談交じりや比喩表現止まりの範囲で「聖書(バイブル)」と呼ばれている書物も数多くあり、
仮に著そうと思うのなら、鼻ほじりの聖人が書いた「鼻ほじり聖書」だって著せないことはない。
そこで、そのような適当な定義に即して勝手に名づけられた「聖書」は、すべて一旦排除して、
人類が著した聖書の中でも、最も聖書らしい聖書を挙げるとすれば、それは「四書五経」だといえる。
仏教などの本格的な聖道宗教が、書物ばかりに頼らない実践からの修養を重んじるのに対し、
四書五経などを聖書とする儒学の場合には、公務員などとして旺盛に働きながら勉強すること
をも念頭に置いているため、自然と教義的な実践以上にも、文献への依存性が高まっている。
人が聖道を目指す上で、聖書のような書物に依存することは、まったく程度の低いことであり、
程度の高い学問や宗教であればあるほど、聖書自体への依存も軽減されていくわけだが、ことに、
書物依存を脱け出せない範囲での、聖書に即した求道を目指す場合に、最大級の模範となるのが四書五経であり、
だからこそ四書五経こそは、より程度の高い教学の聖書以上にも、聖書らしい聖書であるのだともいえる。

ちなみに、「鼻ほじり聖書」とか「ゴキブリ聖書」とか「ウ●コ聖書」とかの、
適当な意味で名づけられる聖書までをも「聖書である」と認めるのならば、本来は儒学用語である
「聖書」という言葉を剽窃して、目的語抜きの「聖書」扱いをも受けている「新旧約聖書」などが、
“ある種”の聖書として多大なる支持を未だ取り付けてもいるわけだが、新旧約聖書にもちゃんと目的があり、
目的語をちゃんと冠するのならば、新旧約聖書は「権力犯罪聖書」であるといえる。
対して、四書五経のほうを、目的語を冠した聖書として呼ぶならば、こちらは「権力道徳聖書」
であるといえ、権力犯罪の聖書である新旧約聖書よりは、まだ世の中をマシなほうへと持って行く
ことのできる点が特徴となっている。そんなに程度の高いことを書いているわけでもないが、
権力犯罪の聖書である新旧約よりはまだマシなことを書いている点もまた、権力道徳の聖書である四書五経が、
くそみそな「聖書」という言葉の定義に即したとしても、聖書中の聖書と呼ぶに値する証拠になっている。
適当な意味で名づけられる聖書までをも「聖書である」と認めるのならば、本来は儒学用語である
「聖書」という言葉を剽窃して、目的語抜きの「聖書」扱いをも受けている「新旧約聖書」などが、
“ある種”の聖書として多大なる支持を未だ取り付けてもいるわけだが、新旧約聖書にもちゃんと目的があり、
目的語をちゃんと冠するのならば、新旧約聖書は「権力犯罪聖書」であるといえる。
対して、四書五経のほうを、目的語を冠した聖書として呼ぶならば、こちらは「権力道徳聖書」
であるといえ、権力犯罪の聖書である新旧約聖書よりは、まだ世の中をマシなほうへと持って行く
ことのできる点が特徴となっている。そんなに程度の高いことを書いているわけでもないが、
権力犯罪の聖書である新旧約よりはまだマシなことを書いている点もまた、権力道徳の聖書である四書五経が、
くそみそな「聖書」という言葉の定義に即したとしても、聖書中の聖書と呼ぶに値する証拠になっている。
「爾の靈龜を舎てて、我を觀て頤を朶る、凶なり。我れを觀て頤を朶るるは、亦た貴ぶに足らざるなり」
「自分自身の霊亀を捨てて、間抜けに口を開いておとがいを垂れ、こちらばかりを見ている、甚だ凶である。
こちらを見て、口を開いておとがいを垂れているようなままでは、貴ぶに足る存在ともなり得ない」
(権力道徳聖書——通称四書五経——易経・頤卦・初九−象伝)
人類最古の古典「易」に基づけば、霊魂はあたかも、何日も飲まず食わずのままでいられる亀のように
自存自明の存在であり、自分以外の誰かからもらい受けたりするような代物ではないという。
それこそ紙切れか藁人形のようなモノであれば、「霊魂を注入する」という体裁がまだ通用するものだが、
自らが霊魂を自得している人間のような生き物に、霊魂をさらに注入するというのは、全くおかしなこと。
自らに自明に霊魂が自存し、霊魂が自存する生命体の中でも最も高貴なる「万物の霊長」ですらあるのが
人間なのに、その人間に自存する霊魂(霊亀)を捨て去らせて、外部的に霊を注入したりすること、
それが、ありのままに不祥(凶)なことであり、霊亀を喪失して、おとがいが垂れ下がるほどにも
間抜けに口が開いたままの状態となってしまっていることが、貴ぶにも値しない下賤な姿であるとされる。
神が泥土をこねて霊魂を注入しアダムを作っただの、キリスト信者が神から新たな聖霊を授かっただのの
聖書教義よりも、何千年も昔から存在している「易」の判断。「サルが進化してヒトになった」だのの、
進化論などが提唱される以前に、易学のような人類の英知が、後々に退化して聖書教義などともなっている。
「自分自身の霊亀を捨てて、間抜けに口を開いておとがいを垂れ、こちらばかりを見ている、甚だ凶である。
こちらを見て、口を開いておとがいを垂れているようなままでは、貴ぶに足る存在ともなり得ない」
(権力道徳聖書——通称四書五経——易経・頤卦・初九−象伝)
人類最古の古典「易」に基づけば、霊魂はあたかも、何日も飲まず食わずのままでいられる亀のように
自存自明の存在であり、自分以外の誰かからもらい受けたりするような代物ではないという。
それこそ紙切れか藁人形のようなモノであれば、「霊魂を注入する」という体裁がまだ通用するものだが、
自らが霊魂を自得している人間のような生き物に、霊魂をさらに注入するというのは、全くおかしなこと。
自らに自明に霊魂が自存し、霊魂が自存する生命体の中でも最も高貴なる「万物の霊長」ですらあるのが
人間なのに、その人間に自存する霊魂(霊亀)を捨て去らせて、外部的に霊を注入したりすること、
それが、ありのままに不祥(凶)なことであり、霊亀を喪失して、おとがいが垂れ下がるほどにも
間抜けに口が開いたままの状態となってしまっていることが、貴ぶにも値しない下賤な姿であるとされる。
神が泥土をこねて霊魂を注入しアダムを作っただの、キリスト信者が神から新たな聖霊を授かっただのの
聖書教義よりも、何千年も昔から存在している「易」の判断。「サルが進化してヒトになった」だのの、
進化論などが提唱される以前に、易学のような人類の英知が、後々に退化して聖書教義などともなっている。
新スレのスレ画に誤表記があったので、新たに立て直した。
自分のレスを除けば、まだクズみたいなレスしかされてなかったので、別にいいだろう。
万物の霊長たる人間にとって、霊魂は自得のものであり、外からもらい受けたりすべきものではない。
霊魂は先天的に内在しているものだから、その霊魂が楽しむことは当然、内面からの楽しみとなる。
一方で、自らの霊魂(霊亀)を捨てて他者から霊魂をもらおうとしているような賤人にとっては、
「顔」のような外面が楽しみの輝きに満ちていることが重要となり、それを「心の内の輝き」
だなどとも倒錯する。実際には、霊亀を捨ててでも外部からの霊魂を欲しようとするような
賤人の内面は空っぽの暗闇であり、いくら外側から光を注いでも、暗闇のままである。
だから、そのような賤人同士の間には、卑しみや偽りや侮りばかりが横行する。
おとがいが垂れ下がるほどにも口の緩んだ、魂の抜けきった輩などに貴さは微塵もないから。
「心中斯くも和せず樂しまざるときは、鄙詐の心之れに入る。外貌斯くも莊ならず敬ならざれば、
易慢の心之れに入る。故に樂は内に動く者なり、禮は外に動く者なり。樂は和を極め、禮は順を極む。
内和らぎて外順なれば、則ち民其の顏色を瞻て與に爭わず、其の容貌を望みて民易慢を生ぜず。
故に 輝は内に動きて、民に承け聽かざる莫く、理は外に發して、民に承け順わざる莫し」
「心中に少しでも楽しくないところがあれば、卑しみ偽りの心が生ずる。
外貌に少しでも荘重でないところがあれば、侮りの心が生ずる。そのため楽しみは
内面にあるべきものであり、礼儀正しさは外面にあるべきものだといえる。
楽しみは和やかさを極め、礼儀正しさは貞順さを極める。内面が和らいで外面が貞順であったなら、
民たちもその顔色を見て闘争心を燃やすこともなければ、その姿を見て侮りの心を抱くこともない。
徳性の光輝が内面に躍動することで民も言うことを聞かないことがなくなり、
条理の正しさが外面に発することで民も受け従わないことがなくなる」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・楽記第十九より)
自分のレスを除けば、まだクズみたいなレスしかされてなかったので、別にいいだろう。
万物の霊長たる人間にとって、霊魂は自得のものであり、外からもらい受けたりすべきものではない。
霊魂は先天的に内在しているものだから、その霊魂が楽しむことは当然、内面からの楽しみとなる。
一方で、自らの霊魂(霊亀)を捨てて他者から霊魂をもらおうとしているような賤人にとっては、
「顔」のような外面が楽しみの輝きに満ちていることが重要となり、それを「心の内の輝き」
だなどとも倒錯する。実際には、霊亀を捨ててでも外部からの霊魂を欲しようとするような
賤人の内面は空っぽの暗闇であり、いくら外側から光を注いでも、暗闇のままである。
だから、そのような賤人同士の間には、卑しみや偽りや侮りばかりが横行する。
おとがいが垂れ下がるほどにも口の緩んだ、魂の抜けきった輩などに貴さは微塵もないから。
「心中斯くも和せず樂しまざるときは、鄙詐の心之れに入る。外貌斯くも莊ならず敬ならざれば、
易慢の心之れに入る。故に樂は内に動く者なり、禮は外に動く者なり。樂は和を極め、禮は順を極む。
内和らぎて外順なれば、則ち民其の顏色を瞻て與に爭わず、其の容貌を望みて民易慢を生ぜず。
故に 輝は内に動きて、民に承け聽かざる莫く、理は外に發して、民に承け順わざる莫し」
「心中に少しでも楽しくないところがあれば、卑しみ偽りの心が生ずる。
外貌に少しでも荘重でないところがあれば、侮りの心が生ずる。そのため楽しみは
内面にあるべきものであり、礼儀正しさは外面にあるべきものだといえる。
楽しみは和やかさを極め、礼儀正しさは貞順さを極める。内面が和らいで外面が貞順であったなら、
民たちもその顔色を見て闘争心を燃やすこともなければ、その姿を見て侮りの心を抱くこともない。
徳性の光輝が内面に躍動することで民も言うことを聞かないことがなくなり、
条理の正しさが外面に発することで民も受け従わないことがなくなる」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・楽記第十九より)
殷周革命を嫌い、首陽山に引きこもって餓死した
伯夷・叔斉兄弟の話はすでにここでも何度も述べた。
二人が半ば過剰なほどもの潔癖主義で、素行の不善な諸侯からの招きなどは決して
受けなかったことが、「孟子」公孫丑章句上・九などでも取り上げられている。
その伯夷・叔斉の評価を、弟子の子路が孔子に尋ねたところ、「古えの賢人だ」と答えた。
(伯夷・叔斉は孔子の代からもさらに500年以上遡る古えの人物である)
さらに「(周の武王に放伐革命を思いとどまるように諌めたが聞き入れられず、放伐の不義に
満ちた世での仕官を嫌って山にこもり、餓死したことを)怨んでいたでしょうか」と子路が聞くと、
「(道義を守って仕官を求めなかったことなどで)仁を求めて仁を得たのだから、
なぜ怨んだりすることがあろうか」と答えた。(述而第七・一四を参照)
仁を求めるための手段は、「不義の栄華を求めない」とかの禁欲的な要求の実践による所が大きく、
不義に根ざした富貴栄達を求めたりすれば、そもそもそれは「仁を求めない」ことにも直結する。
求めて得たりする以前に、そもそも誰も「求める段階」にすら進めないのが仁であり、仁を求めて
得ることもできないから、仁以外のあらゆるものを求め、貪って止まないザマとも化すのである。
「仁を欲して仁を得たり、又た焉をか貪らん」
「仁を求めて仁を得たのだから、これ以上なにを貪る必要があろうか」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・堯曰第二十・四より)
伯夷・叔斉兄弟の話はすでにここでも何度も述べた。
二人が半ば過剰なほどもの潔癖主義で、素行の不善な諸侯からの招きなどは決して
受けなかったことが、「孟子」公孫丑章句上・九などでも取り上げられている。
その伯夷・叔斉の評価を、弟子の子路が孔子に尋ねたところ、「古えの賢人だ」と答えた。
(伯夷・叔斉は孔子の代からもさらに500年以上遡る古えの人物である)
さらに「(周の武王に放伐革命を思いとどまるように諌めたが聞き入れられず、放伐の不義に
満ちた世での仕官を嫌って山にこもり、餓死したことを)怨んでいたでしょうか」と子路が聞くと、
「(道義を守って仕官を求めなかったことなどで)仁を求めて仁を得たのだから、
なぜ怨んだりすることがあろうか」と答えた。(述而第七・一四を参照)
仁を求めるための手段は、「不義の栄華を求めない」とかの禁欲的な要求の実践による所が大きく、
不義に根ざした富貴栄達を求めたりすれば、そもそもそれは「仁を求めない」ことにも直結する。
求めて得たりする以前に、そもそも誰も「求める段階」にすら進めないのが仁であり、仁を求めて
得ることもできないから、仁以外のあらゆるものを求め、貪って止まないザマとも化すのである。
「仁を欲して仁を得たり、又た焉をか貪らん」
「仁を求めて仁を得たのだから、これ以上なにを貪る必要があろうか」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・堯曰第二十・四より)
あんまり能弁をたれてたい気分でもないが、あっちが書いてるからこっちも書くしかない。
乳飲み子を抱いて非難してきた母子の映像なども多数放映されているし、
多少、今回の震災にちなんでの引用であるかのような感がなきにしもあらずだが、
仮にそうであるというのなら、
自分たちの引き起こした人災によって何億もの人々を犠牲に追いやっている連中が、
避けようのなかった天災などに対する憐憫の情などをひけらかすことからして、欺瞞にも程がある。
天の作せる災いはなお避くべきも、自らの作せる災いからは逃るべからず(書経)。
天災ですらこれほどにも避けようがないのに、どうして自業自得の災禍から逃れられようか。
「武王は邇きを泄ず、遠きを忘れず」
「武王は近親のものだからといって馴れ合ったりはせず、疎遠のものだからといって忘れ去ったりもしなかった」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・離婁章句下・二一より)
乳飲み子を抱いて非難してきた母子の映像なども多数放映されているし、
多少、今回の震災にちなんでの引用であるかのような感がなきにしもあらずだが、
仮にそうであるというのなら、
自分たちの引き起こした人災によって何億もの人々を犠牲に追いやっている連中が、
避けようのなかった天災などに対する憐憫の情などをひけらかすことからして、欺瞞にも程がある。
天の作せる災いはなお避くべきも、自らの作せる災いからは逃るべからず(書経)。
天災ですらこれほどにも避けようがないのに、どうして自業自得の災禍から逃れられようか。
「武王は邇きを泄ず、遠きを忘れず」
「武王は近親のものだからといって馴れ合ったりはせず、疎遠のものだからといって忘れ去ったりもしなかった」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・離婁章句下・二一より)
多くの人々が災難によって命を落としている中で「雄雄しくあれ」なんてのも、不謹慎にもほどがある。
被害に遭った人々への、悼み悔やみの念を湛えて、彼らの気持ちを逆立てないための配慮と共に援助などにも臨むこと。
そうでもなければ、まだいないほうがマシなぐらいの、火事場泥棒にすらなりかねない。
「晉侯、屠蒯をして周に如き、雒と三塗に事有らんことを請う。
萇弘、劉子謂いて曰く、客の容猛し、祭りに非ざるなり。其れ戎を伐たんか。(中略)乃ち戎の備えを警しむ」
「晋候が屠蒯をに命じて周に遣り、洛水と三途山で霊を鎮める祭りをしたいと請わしめた。応対した周の大夫の萇弘は、
公卿の劉子にこう報告した。『客人(蒯)の容貌は随分と雄雄しく、とても鎮祭の共催が目的であるとは思えません。
おそらく蛮族を討伐するのが本当の目的でしょう』 そこで劉子は蛮族を討伐する用意を推し進めた」
(権力道徳聖書——通称四書五経——春秋左氏伝・昭公十八年より)
被害に遭った人々への、悼み悔やみの念を湛えて、彼らの気持ちを逆立てないための配慮と共に援助などにも臨むこと。
そうでもなければ、まだいないほうがマシなぐらいの、火事場泥棒にすらなりかねない。
「晉侯、屠蒯をして周に如き、雒と三塗に事有らんことを請う。
萇弘、劉子謂いて曰く、客の容猛し、祭りに非ざるなり。其れ戎を伐たんか。(中略)乃ち戎の備えを警しむ」
「晋候が屠蒯をに命じて周に遣り、洛水と三途山で霊を鎮める祭りをしたいと請わしめた。応対した周の大夫の萇弘は、
公卿の劉子にこう報告した。『客人(蒯)の容貌は随分と雄雄しく、とても鎮祭の共催が目的であるとは思えません。
おそらく蛮族を討伐するのが本当の目的でしょう』 そこで劉子は蛮族を討伐する用意を推し進めた」
(権力道徳聖書——通称四書五経——春秋左氏伝・昭公十八年より)
放任主義でも雁字搦めでもない、適度な作為の介入による生育の助成という、
今の世の教育論すら全く及んでいない中正な成育論を、孟子が述べている。
これは、子供に対する教育などにも応用できるだろう一方で、孟子の論旨とおりに、
個々人の人々自身が浩然の気などを養うための手法としても参考にできるもの。
自らに内在する浩然の気を、何の考えもなく放置しているだけでは、雑念に養分を吸われて萎える
だけだし、逆に無理に「助長」しようとしても、全てを枯らしてしまうようなことにすらなってしまう。
精神不安定状態の人間なんてのも、自らの精神的安定を全くのほっぽらかしにした躁状態となったり、
逆に完全に精神の躍動が滞った鬱状態となったりの、双極に振れきることでさらに病状を悪化させる。
全く抑制しないわけでもなければ、完全に抑制しきるのでもない、適度な精神の躍動こそは
健康な精神状態をも育むのであるからして、精神に対する無理な助長を施すことも禁物である。
今の世の教育論すら全く及んでいない中正な成育論を、孟子が述べている。
これは、子供に対する教育などにも応用できるだろう一方で、孟子の論旨とおりに、
個々人の人々自身が浩然の気などを養うための手法としても参考にできるもの。
自らに内在する浩然の気を、何の考えもなく放置しているだけでは、雑念に養分を吸われて萎える
だけだし、逆に無理に「助長」しようとしても、全てを枯らしてしまうようなことにすらなってしまう。
精神不安定状態の人間なんてのも、自らの精神的安定を全くのほっぽらかしにした躁状態となったり、
逆に完全に精神の躍動が滞った鬱状態となったりの、双極に振れきることでさらに病状を悪化させる。
全く抑制しないわけでもなければ、完全に抑制しきるのでもない、適度な精神の躍動こそは
健康な精神状態をも育むのであるからして、精神に対する無理な助長を施すことも禁物である。
「宋人に其の苗の長ぜざるを閔えて之れを揠く者有り。芒芒然として歸り、其の人に謂いて曰く、
今日は病れん、予れ苗を助けて長ぜしめたり。其の子趨りて往きて之れを視れば、苗は則ち槁れたり。
天下の苗を助けて長ぜしむる者は寡なし。以て益無しと為して之れを舍つる者は、苗を耘らざる者なり。
之れを助けて長ぜしむる者は、苗を揠く者なり。徒に益無きのみに非ず、而って又た之れを害う」
「昔、宋に、田んぼの苗がなかなか成長しないのを憂えて、苗を自らの手で引き伸ばす者がいた。
茫然と疲れきって家に帰り、家族に語って言った。『ああ、今日は疲れた。何しろ全ての苗を助けて
伸長してやったのだから』 それを聞いて不審に思った息子が田んぼに行ってみると、苗は全て枯れていた。
この世に苗を助長してやろうとする人間は少なく、全くの無益としてこれを顧みないのは、あたかも
雑草抜きなどの田畑の手入れすらしないようなもので、これもよくない。かといって、件の宋人のように、
無理に助長してやろうとするのも、あたかも苗を手で引き伸ばして、全て枯らしてしまうような結果を招く。
これらのうちのいずれもが、ただ無益であるばかりでなく、積極的に害を招く行為ですらあるのだ。
(孟子は浩然の気を暗に『苗』に例えているが、浩然の気もまた上記の苗の場合と同じように、
全く打ち棄てて雑草ボウボウの状態にすれば生育しない一方で、無理に苗を引っ張るような
強引な手法によって助長しようとしても、全ての苗を枯らすようにして生育を妨げることとなる)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・公丑孫章句上・二より)
今日は病れん、予れ苗を助けて長ぜしめたり。其の子趨りて往きて之れを視れば、苗は則ち槁れたり。
天下の苗を助けて長ぜしむる者は寡なし。以て益無しと為して之れを舍つる者は、苗を耘らざる者なり。
之れを助けて長ぜしむる者は、苗を揠く者なり。徒に益無きのみに非ず、而って又た之れを害う」
「昔、宋に、田んぼの苗がなかなか成長しないのを憂えて、苗を自らの手で引き伸ばす者がいた。
茫然と疲れきって家に帰り、家族に語って言った。『ああ、今日は疲れた。何しろ全ての苗を助けて
伸長してやったのだから』 それを聞いて不審に思った息子が田んぼに行ってみると、苗は全て枯れていた。
この世に苗を助長してやろうとする人間は少なく、全くの無益としてこれを顧みないのは、あたかも
雑草抜きなどの田畑の手入れすらしないようなもので、これもよくない。かといって、件の宋人のように、
無理に助長してやろうとするのも、あたかも苗を手で引き伸ばして、全て枯らしてしまうような結果を招く。
これらのうちのいずれもが、ただ無益であるばかりでなく、積極的に害を招く行為ですらあるのだ。
(孟子は浩然の気を暗に『苗』に例えているが、浩然の気もまた上記の苗の場合と同じように、
全く打ち棄てて雑草ボウボウの状態にすれば生育しない一方で、無理に苗を引っ張るような
強引な手法によって助長しようとしても、全ての苗を枯らすようにして生育を妨げることとなる)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・公丑孫章句上・二より)
これから途方もない労力をかけて復興を目指していく被災者たちに、
「立ち返れば救われる」などとほざくのは、それこそ現実逃避を促すのみとなる。
現実逃避をするということは、完全に絶望しきるということであり、
一抹の希望すら捨て去ってしまった朦朧状態と化すことを、
「救い」であるのだとキリスト狂徒たちが倒錯していることがわかる。
絶望を救いに摩り替えさせる洗脳の強制は、特にアフリカの聖書教末端被害教徒などに対して顕著であり、
欧米社会からの酷烈な侵略征服被害によって、どうあっても救いようのないような惨状に置かれているのに、
アフリカの黒人たちはよくヘラヘラと笑っている。あれも希望があるからではなく、絶望を救いだと
倒錯しているから笑っているだけで、決してあの姿を「健気だ」などと思ったりしてはならない。
日本人の中でも、特に実直な性格の持ち主であるのが東北人であることもあって、
あまりにも大きな被害に遭った東北の被災者たちは、今みんな泣いている。
あれこそは苦難に対する健全な反応であり、家族を喪ったり家を失ったりしてまで
ヘラヘラ笑ったりしているほうが明らかにおかしい。苦難に相応の悲しみをこそバネとして
これからの復興にも努めていくのだから、決して絶望を促すような甘言を弄してはならない。
「凡そ民に喪有るときは、扶服して之れを救う。(中略)天下其れ孰れか能く之れに當たらんや」
「自国の国民に大きな不幸があったときには、国を司る者などは、(口先でごまかしたりはせず)
はいつくばってでもこれを救わねばならない。天下にそれが可能なものが果たしてどれだけいようか」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・檀弓下第四より)
「立ち返れば救われる」などとほざくのは、それこそ現実逃避を促すのみとなる。
現実逃避をするということは、完全に絶望しきるということであり、
一抹の希望すら捨て去ってしまった朦朧状態と化すことを、
「救い」であるのだとキリスト狂徒たちが倒錯していることがわかる。
絶望を救いに摩り替えさせる洗脳の強制は、特にアフリカの聖書教末端被害教徒などに対して顕著であり、
欧米社会からの酷烈な侵略征服被害によって、どうあっても救いようのないような惨状に置かれているのに、
アフリカの黒人たちはよくヘラヘラと笑っている。あれも希望があるからではなく、絶望を救いだと
倒錯しているから笑っているだけで、決してあの姿を「健気だ」などと思ったりしてはならない。
日本人の中でも、特に実直な性格の持ち主であるのが東北人であることもあって、
あまりにも大きな被害に遭った東北の被災者たちは、今みんな泣いている。
あれこそは苦難に対する健全な反応であり、家族を喪ったり家を失ったりしてまで
ヘラヘラ笑ったりしているほうが明らかにおかしい。苦難に相応の悲しみをこそバネとして
これからの復興にも努めていくのだから、決して絶望を促すような甘言を弄してはならない。
「凡そ民に喪有るときは、扶服して之れを救う。(中略)天下其れ孰れか能く之れに當たらんや」
「自国の国民に大きな不幸があったときには、国を司る者などは、(口先でごまかしたりはせず)
はいつくばってでもこれを救わねばならない。天下にそれが可能なものが果たしてどれだけいようか」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・檀弓下第四より)
明和水産も今、ネットからのアクセスができない。
サーバが計画停電中の区域にあるのか。
今回の地震では、車に乗って逃げたりする間もなく、津波に巻き込まれて命を落とした人々が多い。
迫り来る波から車で逃げ惑う映像なども相当数撮影されているが、車に乗れたかどうかではなく、
震源地から近かったか遠かったかで、命運を左右した場合が多いようだ。
陸地に乗り上げた頃の津波は時速40km程度となり、走って逃げるのは
無理にしても、震源地から十分遠かった場合に、車で逃げるのは効果的なようだ。
GPSのカーナビがまだ使える場合もあるだろうが、万全を期すのなら、読みなれた地図や
方位磁石なども車内に常備しておき、地理関係を把握できる準備をよく整えておいて、
地震が起これば即、海岸線とは真逆の方向に逃げ、高台があれば直ちにそこに乗り上げる。
そのような適切な処断が可能であれば、車による逃走なども一定の効果を持つようだ。
以下、地震関係に照らし合わせるには不謹慎な、戦闘行為に関する引用だが、
本当に今回の地震が、単なる天災ではなく、戦争級の人災である可能性も出てきたので、
仮に戦争であった場合には、東北人が下の孟之反のような、戦役の功労者であったのだ
という認識を、事後に広められたならと思う。今はまだ、その時期でもないが。
「孟之反伐らず。奔りて殿す。將に門に入らんとき、
其の馬を策ちて曰く、敢えて後るるに非ざるなり、馬進まざるなり」
「魯国の大夫である孟之反は自慢をしない人だった。昔、魯軍が斉軍と戦って敗走し、
最後尾で追っ手を迎撃する殿軍の長という難役を彼が務めた。見事迎撃を果たし、
安全な陣地の門にたどり着いたときに、自らが乗っていた馬を叩きつつこう言った。
『別にあえて殿(しんがり)を務めたのではありませぬ。ただ馬がなかなか進みませんでな』」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・雍也第六・一五より)
サーバが計画停電中の区域にあるのか。
今回の地震では、車に乗って逃げたりする間もなく、津波に巻き込まれて命を落とした人々が多い。
迫り来る波から車で逃げ惑う映像なども相当数撮影されているが、車に乗れたかどうかではなく、
震源地から近かったか遠かったかで、命運を左右した場合が多いようだ。
陸地に乗り上げた頃の津波は時速40km程度となり、走って逃げるのは
無理にしても、震源地から十分遠かった場合に、車で逃げるのは効果的なようだ。
GPSのカーナビがまだ使える場合もあるだろうが、万全を期すのなら、読みなれた地図や
方位磁石なども車内に常備しておき、地理関係を把握できる準備をよく整えておいて、
地震が起これば即、海岸線とは真逆の方向に逃げ、高台があれば直ちにそこに乗り上げる。
そのような適切な処断が可能であれば、車による逃走なども一定の効果を持つようだ。
以下、地震関係に照らし合わせるには不謹慎な、戦闘行為に関する引用だが、
本当に今回の地震が、単なる天災ではなく、戦争級の人災である可能性も出てきたので、
仮に戦争であった場合には、東北人が下の孟之反のような、戦役の功労者であったのだ
という認識を、事後に広められたならと思う。今はまだ、その時期でもないが。
「孟之反伐らず。奔りて殿す。將に門に入らんとき、
其の馬を策ちて曰く、敢えて後るるに非ざるなり、馬進まざるなり」
「魯国の大夫である孟之反は自慢をしない人だった。昔、魯軍が斉軍と戦って敗走し、
最後尾で追っ手を迎撃する殿軍の長という難役を彼が務めた。見事迎撃を果たし、
安全な陣地の門にたどり着いたときに、自らが乗っていた馬を叩きつつこう言った。
『別にあえて殿(しんがり)を務めたのではありませぬ。ただ馬がなかなか進みませんでな』」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・雍也第六・一五より)
ここにも、PCからアクセスできる人間はできているようだな。
ウチから明和へのアクセス系統だけに、特定して不具合が出ているのか。
超越神だと勘違いした脳内自我の肥大化に陶酔して、我執にまみれた自意識過剰な
言行に走ることが、親族兄弟までをも辟易させて、挙句には殺し合いにまで発展させる
自業自得の原因となっていることが、下の真正聖書の記述などからも明らか。
俺個人の意見だとすれば、「若造が何をいう」などということにもなりかねないが、
犯罪聖書よりも遥かに成立の古い真正聖書=四書五経にこそ書かれていることだから、
後からやってきた脳内超越神などに、言葉の信頼度の優越を微塵たりとも許すものではない。
「志し自慢すれば、九族も乃ち離る」
「自らの志しをやたらと披瀝することでいい気になっているようでは、親族兄弟ですら背き離れていく。
(この引用は、1700年前の永嘉の乱における『書経』全文散逸後の、断片の寄せ集め修復部分にあたる
『偽古文尚書』からのものだが、孟子も永嘉の乱や焚書坑儒以前に、今の偽古文尚書にあたる『書経』の
一部を引用したりしているため、偽古文部分もまた2300年以上前から存在していたことが明らかである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——書経・商書・仲虺之誥より)
ウチから明和へのアクセス系統だけに、特定して不具合が出ているのか。
超越神だと勘違いした脳内自我の肥大化に陶酔して、我執にまみれた自意識過剰な
言行に走ることが、親族兄弟までをも辟易させて、挙句には殺し合いにまで発展させる
自業自得の原因となっていることが、下の真正聖書の記述などからも明らか。
俺個人の意見だとすれば、「若造が何をいう」などということにもなりかねないが、
犯罪聖書よりも遥かに成立の古い真正聖書=四書五経にこそ書かれていることだから、
後からやってきた脳内超越神などに、言葉の信頼度の優越を微塵たりとも許すものではない。
「志し自慢すれば、九族も乃ち離る」
「自らの志しをやたらと披瀝することでいい気になっているようでは、親族兄弟ですら背き離れていく。
(この引用は、1700年前の永嘉の乱における『書経』全文散逸後の、断片の寄せ集め修復部分にあたる
『偽古文尚書』からのものだが、孟子も永嘉の乱や焚書坑儒以前に、今の偽古文尚書にあたる『書経』の
一部を引用したりしているため、偽古文部分もまた2300年以上前から存在していたことが明らかである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——書経・商書・仲虺之誥より)
またPCからも読み書きできるようになった。
とはいえ、今の自分の気持ちは、下の真正聖書の言葉にほぼ尽くされているので、あえて自ら長く語るまい。
強いて言えば、「天地は滅びなくていいから、犯罪聖書だけが滅びろ」とだけ思うのみだ。
「天は喪亂を降して、我が立王を滅ぼさんとす。
此の蟊賊を降して、稼穡して卒に痒なわしむ。
哀恫たる中國、具贅して卒に荒みぬ。
旅力以て、穹蒼を念ふもの有る靡し。
維れ此の惠君は、民人の瞻ぐ所。
心を秉りて宣く猶り、其の相を考え慎めり。
維れ彼の順わざるは、自から獨り臧からしむ。
自から肺腸有りて、民をして卒く狂わしむ。
彼の中林を瞻れば、甡甡たる其の鹿。
朋友にして已に譖り、胥い以て穀せず。
人亦た言える有り、進むも退くも維れ谷まれりと。
維れ此の聖人、百里の言を瞻る。
維れ彼の愚人、覆狂して以て喜ぶ。
言の能わざるに匪ず、斯の畏忌を胡んせん」
とはいえ、今の自分の気持ちは、下の真正聖書の言葉にほぼ尽くされているので、あえて自ら長く語るまい。
強いて言えば、「天地は滅びなくていいから、犯罪聖書だけが滅びろ」とだけ思うのみだ。
「天は喪亂を降して、我が立王を滅ぼさんとす。
此の蟊賊を降して、稼穡して卒に痒なわしむ。
哀恫たる中國、具贅して卒に荒みぬ。
旅力以て、穹蒼を念ふもの有る靡し。
維れ此の惠君は、民人の瞻ぐ所。
心を秉りて宣く猶り、其の相を考え慎めり。
維れ彼の順わざるは、自から獨り臧からしむ。
自から肺腸有りて、民をして卒く狂わしむ。
彼の中林を瞻れば、甡甡たる其の鹿。
朋友にして已に譖り、胥い以て穀せず。
人亦た言える有り、進むも退くも維れ谷まれりと。
維れ此の聖人、百里の言を瞻る。
維れ彼の愚人、覆狂して以て喜ぶ。
言の能わざるに匪ず、斯の畏忌を胡んせん」
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訳文を一部訂正。
「天はいま大いなる争乱を下して、我らが建てた王国すらをも滅ぼさんとしている。
作物を根絶やしにする甚大なる虫害を下し、五穀をも全て萎えさせんとす。
傷ましき我が中つ国、みなで力を上げて災害に臨むも、その中に余裕を以って復興を期待するものもいない。
かの道義に従順なる元君は、今でも民たちの仰ぎ見るところ。
真心を尽くしてよく慮り、忠臣の助けを借りて悪臣の助けを借りぬ所まで、考えを行き届かせられている。
一方で、道義に従わぬ彼の輩は、今でもただ自分独りの独善ばかりに執心する。
『自分にこそ義があるのだ』などとうそぶいて、民をことごとく狂乱に陥らせて憚らぬ。
今でも林野に目を向けてみれば、鹿たちが心置きなく群れ遊んでいるというのに、
ただ人間ばかりは互いに偽り合って、食料を均等に分け合うことすらしない。
今や人々はこう言っている、『もはや進むも退くも極まるときが来たのだ』と。
かの聖人君子は、百里の先への憂患すらも尽くしている。
一方でかの愚人は、災禍を福音だなどと倒錯して、完全に狂いながら喜んでいる。
この正邪曲直の分断を、告発しないでいることが怠りとなるのを恐れるばかり。
(害虫分子による賊害がある意味天災であるとは言える。天は害虫の蠢動などよりも、さらなる形而上に位置するから)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・大雅・蕩之什・桑柔より)
「天はいま大いなる争乱を下して、我らが建てた王国すらをも滅ぼさんとしている。
作物を根絶やしにする甚大なる虫害を下し、五穀をも全て萎えさせんとす。
傷ましき我が中つ国、みなで力を上げて災害に臨むも、その中に余裕を以って復興を期待するものもいない。
かの道義に従順なる元君は、今でも民たちの仰ぎ見るところ。
真心を尽くしてよく慮り、忠臣の助けを借りて悪臣の助けを借りぬ所まで、考えを行き届かせられている。
一方で、道義に従わぬ彼の輩は、今でもただ自分独りの独善ばかりに執心する。
『自分にこそ義があるのだ』などとうそぶいて、民をことごとく狂乱に陥らせて憚らぬ。
今でも林野に目を向けてみれば、鹿たちが心置きなく群れ遊んでいるというのに、
ただ人間ばかりは互いに偽り合って、食料を均等に分け合うことすらしない。
今や人々はこう言っている、『もはや進むも退くも極まるときが来たのだ』と。
かの聖人君子は、百里の先への憂患すらも尽くしている。
一方でかの愚人は、災禍を福音だなどと倒錯して、完全に狂いながら喜んでいる。
この正邪曲直の分断を、告発しないでいることが怠りとなるのを恐れるばかり。
(害虫分子による賊害がある意味天災であるとは言える。天は害虫の蠢動などよりも、さらなる形而上に位置するから)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・大雅・蕩之什・桑柔より)
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