いじめの論理
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自分以外の誰かを貶め、唾棄することで、
つまらぬ存在に過ぎない自分が生きた心地を得る。
ちなみに、この心理を最大限に活用して
信者数を増やして来たのがキリスト教でもある。
「総督の兵士たちは、イエスを総督官邸に連れて行き、部隊の全員をイエスの周りに集めた。
そして、イエスの着ている物をはぎ取り、赤い外套を着せ、茨で冠を編んで頭に載せ、
また、右手に葦の棒を持たせて、その前にひざまずき、『ユダヤ人の王、万歳』と言って、
侮辱した。また、唾を吐きかけ、葦の棒を取り上げて頭をたたき続けた」
(権力犯罪聖書——通称聖書——マタイ禍音書27:27-30)

つまらぬ存在に過ぎない自分が生きた心地を得る。
ちなみに、この心理を最大限に活用して
信者数を増やして来たのがキリスト教でもある。
「総督の兵士たちは、イエスを総督官邸に連れて行き、部隊の全員をイエスの周りに集めた。
そして、イエスの着ている物をはぎ取り、赤い外套を着せ、茨で冠を編んで頭に載せ、
また、右手に葦の棒を持たせて、その前にひざまずき、『ユダヤ人の王、万歳』と言って、
侮辱した。また、唾を吐きかけ、葦の棒を取り上げて頭をたたき続けた」
(権力犯罪聖書——通称聖書——マタイ禍音書27:27-30)

無茶苦茶だなあ。
その引用で虐められてんのはイエスじゃねえか。
キリスト教はお前みたいに虐め批判してるんだろが。
どのみちキリスト教関係なくお前は虐められたんだから
違う事実を直視しないとダメだ。
その引用で虐められてんのはイエスじゃねえか。
キリスト教はお前みたいに虐め批判してるんだろが。
どのみちキリスト教関係なくお前は虐められたんだから
違う事実を直視しないとダメだ。
「いじめ」というわけではないんだが、儒学にも道徳者を上流の「君子」、不徳者を下流の「小人」と呼んで、
「君子は下流に居ることを悪む(論語・子張第十九・二〇)」などと、あからさまな小人への蔑視を晒すことすらある。
しかし、たとえば「君子は義に喩り、小人は利に喩る(里仁第四・一六)」など、環境に依存しない普遍的な比較によって
君子と小人を差別化し、結果として君子に該当する人間を称揚し、小人に該当する人間を貶めているわけで、そこに誰か
特定の個人への憎悪が備わっているわけではない(暴君として悪名高い殷の紂王すら子張第十九・二〇で擁護されている)。
ただ、それにしたって、「君子は○○、小人は××」流の分別知が、キリスト教などにおいてこそ顕著ないじめの論理にも
近似しているから、万物斉同の分別知否定者である老荘などによって否定され、真言密教の「十住心論」でも、下から二番目の
「愚童持斎心」にまで貶められている(十住心論も一つの差別体系だが、これは俗人への方便的な意味も持っている)。
相手に唾を吐きかけ、侮辱して棒で叩く醜悪ないじめの論理を、キリスト教のように全面的に肯定しているわけじゃなくても、
道理に即そうとしながらも少なからず持ち越していることが、儒家が道家や仏教と比べて卑賤視される所以でもある。
多かれ少なかれ、いじめの論理をキリスト教などとも共有していることが、儒家のほうが卑しまれる原因でもある。
「君子は下流に居ることを悪む(論語・子張第十九・二〇)」などと、あからさまな小人への蔑視を晒すことすらある。
しかし、たとえば「君子は義に喩り、小人は利に喩る(里仁第四・一六)」など、環境に依存しない普遍的な比較によって
君子と小人を差別化し、結果として君子に該当する人間を称揚し、小人に該当する人間を貶めているわけで、そこに誰か
特定の個人への憎悪が備わっているわけではない(暴君として悪名高い殷の紂王すら子張第十九・二〇で擁護されている)。
ただ、それにしたって、「君子は○○、小人は××」流の分別知が、キリスト教などにおいてこそ顕著ないじめの論理にも
近似しているから、万物斉同の分別知否定者である老荘などによって否定され、真言密教の「十住心論」でも、下から二番目の
「愚童持斎心」にまで貶められている(十住心論も一つの差別体系だが、これは俗人への方便的な意味も持っている)。
相手に唾を吐きかけ、侮辱して棒で叩く醜悪ないじめの論理を、キリスト教のように全面的に肯定しているわけじゃなくても、
道理に即そうとしながらも少なからず持ち越していることが、儒家が道家や仏教と比べて卑賤視される所以でもある。
多かれ少なかれ、いじめの論理をキリスト教などとも共有していることが、儒家のほうが卑しまれる原因でもある。
自分が儒者であることを認める以上は、いじめの論理を完全否定するというわけにもいかない。
儒学の実質的提唱者である孔子や、その高弟の子張などですら、小人への侮蔑を少なからず持ち越している。
孔子学派の正統な継承者を自認していた荀子においてもその侮蔑意識は持ち越され、さらにエスカレートすらしている。
だから、儒学のダークサイドである侮蔑意識を肥大化させた荀子は異端とされて、孔子の学からはかなりの飛躍なども見られつつ、
小人への蔑視などを極力排して、君子や聖人の偉大さだけを殊更に論じたてた孟子のほうが儒学の正統中の正統ともされている。
本当は孔子から荀子へではなく、孔子から孟子へと論議が発展して、いじめの論理にも近似する善悪二元論的な話から、
善一元論的な話へと持っていくほうが向上的なんだが、ただ、あえて今は儒学の落ち度でもある小人への侮蔑意識を強調して、
そこがキリスト教などにおけるいじめの論理とも近似しているから、儒学自体が卑賤の学として東洋で扱われてきたことをも
あえて指摘している。いじめの論理を未だ払拭しきれていないことが、儒学とキリスト教、俺とおまえらとでも共通している所で、
「いじめはいけない」だなんて奇麗事を掲げる資格は、キリスト教やおまえらだけでなく、儒学や俺のほうにだってない。
儒学の実質的提唱者である孔子や、その高弟の子張などですら、小人への侮蔑を少なからず持ち越している。
孔子学派の正統な継承者を自認していた荀子においてもその侮蔑意識は持ち越され、さらにエスカレートすらしている。
だから、儒学のダークサイドである侮蔑意識を肥大化させた荀子は異端とされて、孔子の学からはかなりの飛躍なども見られつつ、
小人への蔑視などを極力排して、君子や聖人の偉大さだけを殊更に論じたてた孟子のほうが儒学の正統中の正統ともされている。
本当は孔子から荀子へではなく、孔子から孟子へと論議が発展して、いじめの論理にも近似する善悪二元論的な話から、
善一元論的な話へと持っていくほうが向上的なんだが、ただ、あえて今は儒学の落ち度でもある小人への侮蔑意識を強調して、
そこがキリスト教などにおけるいじめの論理とも近似しているから、儒学自体が卑賤の学として東洋で扱われてきたことをも
あえて指摘している。いじめの論理を未だ払拭しきれていないことが、儒学とキリスト教、俺とおまえらとでも共通している所で、
「いじめはいけない」だなんて奇麗事を掲げる資格は、キリスト教やおまえらだけでなく、儒学や俺のほうにだってない。
会話になっていない(笑)
頼むから独り言なら日記でやってくれ。
頼むから独り言なら日記でやってくれ。
自分の読解力の無さを相手に転嫁してんじゃねえやw
ゴミムシが。
ゴミムシが。
イエスの受難劇という糞喰らい寓話を通じて、いじめという現象を手放しに褒め称えるキリスト教もキリスト教だが、
君子と小人の格差を普遍的な道理に基づいて定型化し、君子でいられた者が小人でしかいられない者を一方的に見下す儒学も
確かにそんなに上品な代物じゃない。むしろ普遍的な根拠に基づいて他者を蔑むために、余計始末が悪いのかも知れない。
キリスト教・・・イエスという空想上のいじめられっ子の礼賛に基づいて、だれかれ構わずいじめの論理に耽溺。
儒学・・・君子と小人の大まかな分化の下、君子でいられた者が小人でしかいられない者を見下す場合に限って認める。
道教・・・聖人も君子も小人も悪人も全てひっくるめて万物斉同。立場の違い如何に関わらず差別やいじめを否定。
仏教・・・差別もいじめも基本は否定するが、俗世の差別やいじめ合いを揶揄する方便として、俗世全体を蔑んだりもする。
善悪優劣を見極めた上での差別は、それも大して上品ではないにしろ、いじめよりはまだ蔑む根拠を持っている。
いじめは蔑みの根拠すら希薄で、とにかく言いがかりでもなんでも適当な理由で他者を蔑むことで成立する。
だから普遍的な根拠に基づいて小人を差別する儒学は、厳密にはいじめを肯定しているわけではないんだが、
蔑みという手段をある程度は用いることもあることから、根拠に基づかない蔑みとしてのいじめを大肯定するキリスト教とも、
蔑みをある程度は嗜んでいるという点については共通している。根拠のある差別か、ただのいじめかという違いはあっても。
君子と小人の格差を普遍的な道理に基づいて定型化し、君子でいられた者が小人でしかいられない者を一方的に見下す儒学も
確かにそんなに上品な代物じゃない。むしろ普遍的な根拠に基づいて他者を蔑むために、余計始末が悪いのかも知れない。
キリスト教・・・イエスという空想上のいじめられっ子の礼賛に基づいて、だれかれ構わずいじめの論理に耽溺。
儒学・・・君子と小人の大まかな分化の下、君子でいられた者が小人でしかいられない者を見下す場合に限って認める。
道教・・・聖人も君子も小人も悪人も全てひっくるめて万物斉同。立場の違い如何に関わらず差別やいじめを否定。
仏教・・・差別もいじめも基本は否定するが、俗世の差別やいじめ合いを揶揄する方便として、俗世全体を蔑んだりもする。
善悪優劣を見極めた上での差別は、それも大して上品ではないにしろ、いじめよりはまだ蔑む根拠を持っている。
いじめは蔑みの根拠すら希薄で、とにかく言いがかりでもなんでも適当な理由で他者を蔑むことで成立する。
だから普遍的な根拠に基づいて小人を差別する儒学は、厳密にはいじめを肯定しているわけではないんだが、
蔑みという手段をある程度は用いることもあることから、根拠に基づかない蔑みとしてのいじめを大肯定するキリスト教とも、
蔑みをある程度は嗜んでいるという点については共通している。根拠のある差別か、ただのいじめかという違いはあっても。
仲間がいなけりゃ寂しくて死んでまう、おまえらみたいな
U.S.A.G.I.ちゃんとは毛色から違うって何度も言ってんじゃねえかw
いじめっ子側か、いじめられっ子側かはともかくとして、
福音書におけるイエスの受難劇は、典型的な「いじめ」という現象の具現化なわけだ。
いじめられっ子だったのがイエスや洗礼者ヨハネで、いじめっ子だったのがピラトとかユダとか。
一応主人公だったのはイエスなんで、あくまでイエスの側に立って、イエスのような
いじめられっ子であることを率先して実践してきたのがカトリックとか正教とか。
やっぱりイエスの真似なんかできないとして信仰義認に終始したり、そもそもイエスの権威を
認めなかったりして、いじめっ子の側にまわったのがプロテスタントとかユダヤとか。
新旧約聖書信仰が提示したのは、「いじめ」という現象まるまる全てであって、
いじめである以上は当然、いじめっ子といじめられっ子との二手に分かれるうちで、
どちらの側につくかはあくまで信仰者の側の選択に拠っていた(ユダヤも血筋ではなく信仰)。
U.S.A.G.I.ちゃんとは毛色から違うって何度も言ってんじゃねえかw
いじめっ子側か、いじめられっ子側かはともかくとして、
福音書におけるイエスの受難劇は、典型的な「いじめ」という現象の具現化なわけだ。
いじめられっ子だったのがイエスや洗礼者ヨハネで、いじめっ子だったのがピラトとかユダとか。
一応主人公だったのはイエスなんで、あくまでイエスの側に立って、イエスのような
いじめられっ子であることを率先して実践してきたのがカトリックとか正教とか。
やっぱりイエスの真似なんかできないとして信仰義認に終始したり、そもそもイエスの権威を
認めなかったりして、いじめっ子の側にまわったのがプロテスタントとかユダヤとか。
新旧約聖書信仰が提示したのは、「いじめ」という現象まるまる全てであって、
いじめである以上は当然、いじめっ子といじめられっ子との二手に分かれるうちで、
どちらの側につくかはあくまで信仰者の側の選択に拠っていた(ユダヤも血筋ではなく信仰)。
いじめは、性的には「SM」などの形でも具現化されるが、SMもやはり西洋起源。
いじめっ子といじめられっ子、サディストとマゾヒスト、犯罪加害者と犯罪被害者など、
融和の余地が微塵もなくなる立場の断絶が、昔から西洋では嗜好されていて、
その元凶中の元凶となっているのが聖書信仰。その原初的な様相はより「いじめ」に近く、
SMや権力犯罪加害被害までへとエスカレートしていったのは、随分と後代になってからのこと。
新旧約聖書が「権力犯罪聖書」となったのは「結果」であって、その「原因」になっているのは、
福音書などに見られるいじめ現象の賛美。いじめっ子の側からであれ、いじめられっ子の側からであれ、
とにかく「いじめ」という現象全体が賛美されて、その規模を巨大化させた挙句に、重大権力犯罪ともなった。
その、重大権力犯罪の原因ともなっている、心理的病理としての「いじめの論理」が、
より原初的な「蔑みの論理」としては、儒学にもある程度存在していて、ただ、その蔑みの論理を、
根拠も不確かな虐げではなく、道理に即した君子と小人の差別に転じた。そのため、儒学を統治原理とした
社会では、いじめが肥大化するのではなく社会的序列こそが徹底され、君子の尊重と小人の貶めを通じて
社会的秩序を守った。それはそれで貶められた人々がいたわけだが、社会全体の安寧は保たれたために
権力道徳となり、儒学の根本聖典である四書五経なども、「権力道徳聖書」と呼んでも支障のないものになった。
蔑みの論理を内包しているのは同じで、そのせいで虐げられる人間がある程度生まれてしまうのも同じだが、
蔑みの論理がいじめの論理へとエスカレートして、虐げられる人数を極端に増加させたのが聖書信仰な一方、
君子と小人の差別に転化することで、虐げられる人数を減らして比較的優良な社会を実現したのが儒学だった。
「蔑み」という、人間にとって悪質なうちに入る情念を、そのまま悪用したか、善用に転じたかの違い。
いじめっ子といじめられっ子、サディストとマゾヒスト、犯罪加害者と犯罪被害者など、
融和の余地が微塵もなくなる立場の断絶が、昔から西洋では嗜好されていて、
その元凶中の元凶となっているのが聖書信仰。その原初的な様相はより「いじめ」に近く、
SMや権力犯罪加害被害までへとエスカレートしていったのは、随分と後代になってからのこと。
新旧約聖書が「権力犯罪聖書」となったのは「結果」であって、その「原因」になっているのは、
福音書などに見られるいじめ現象の賛美。いじめっ子の側からであれ、いじめられっ子の側からであれ、
とにかく「いじめ」という現象全体が賛美されて、その規模を巨大化させた挙句に、重大権力犯罪ともなった。
その、重大権力犯罪の原因ともなっている、心理的病理としての「いじめの論理」が、
より原初的な「蔑みの論理」としては、儒学にもある程度存在していて、ただ、その蔑みの論理を、
根拠も不確かな虐げではなく、道理に即した君子と小人の差別に転じた。そのため、儒学を統治原理とした
社会では、いじめが肥大化するのではなく社会的序列こそが徹底され、君子の尊重と小人の貶めを通じて
社会的秩序を守った。それはそれで貶められた人々がいたわけだが、社会全体の安寧は保たれたために
権力道徳となり、儒学の根本聖典である四書五経なども、「権力道徳聖書」と呼んでも支障のないものになった。
蔑みの論理を内包しているのは同じで、そのせいで虐げられる人間がある程度生まれてしまうのも同じだが、
蔑みの論理がいじめの論理へとエスカレートして、虐げられる人数を極端に増加させたのが聖書信仰な一方、
君子と小人の差別に転化することで、虐げられる人数を減らして比較的優良な社会を実現したのが儒学だった。
「蔑み」という、人間にとって悪質なうちに入る情念を、そのまま悪用したか、善用に転じたかの違い。
別にお前がいじめのトラウマで人間不信なのは構わないがな、
だったら、こういう掲示板コミュニティーに来て会話を求めてんじゃねえよ。
リアルで他人に相手にされないからといって
ネットだから相手にしてもらえるなんてことは無いの。
お前は皆のお荷物の屑で、迷惑な存在なんだから、
さっさと回線切って孤独に生活してくれ。
淋しがる、がらないんじゃなくて相手にされてないだけだろうが。
童貞が「モテないんじゃなくて興味がないだけ」
と言い訳するくらい気持ち悪い。幼稚。
だったら、こういう掲示板コミュニティーに来て会話を求めてんじゃねえよ。
リアルで他人に相手にされないからといって
ネットだから相手にしてもらえるなんてことは無いの。
お前は皆のお荷物の屑で、迷惑な存在なんだから、
さっさと回線切って孤独に生活してくれ。
淋しがる、がらないんじゃなくて相手にされてないだけだろうが。
童貞が「モテないんじゃなくて興味がないだけ」
と言い訳するくらい気持ち悪い。幼稚。
会話なんか別に求めてもいない。自分自身のメモ帳代わりであるのが第一。
もしも有志がいたとすれば、それらと有益な議論を交わすのが第二。
ただの馴れ合いの仲良し会話なんかを少しも求めてはいないし、
仲良し会話にしか価値を見出せないお子ちゃまの、勘違い説教を聞くためでもない。
いじめたりいじめられたりが当たり前のことであるかのようにほざくのも幼稚なことだが、
かといって「侮蔑」という、人間である以上は抱きうる悪念を完全に捨て去った聖人に誰しもが
なるなんてのも無理な話で、成人のいじめすら横行している今にこそ期待できることじゃない。
だから、「侮蔑」という悪念を完全に捨て去れなどということはまだ言わず、
侮蔑をなんの根拠もない虐げあい=いじめにそのまま流用するのではなく、「君子から小人へ」という、
確かな倫理的方向性を保っている場合に限って認めることをまず第一に考える。「論語」などの基準に即して、
君子でいられている者が、小人でしかいられていない者を侮蔑するのなら、まだいいということにして、
根拠もなくただ他者を蔑む、いじめの論理から一段階だけ高尚な領域に世の中を持っていく。
「不義にして富みかつ貴きは、我において浮雲の如し(述而第七・一五)」
「己に如かざる者を友とすること無かれ(学而第一・八)」
「唯だ女子と小人とは養い難し(微子第十八・二五)」
商売企業が採用を断る、小男が友好を拒む、女子が嫌う、そんなのは君子にもとる原因であるどころか、
むしろ君子こそは賜る栄光でこそある。だからこそ、商売企業ウケや小男ウケや女ウケばかりが気になる
賤人に過ぎないおまえらを蔑む根拠にすらなる。いじめの場合などと同じでやはり蔑んではいるんだが、
倫理的方向性が定まった上での蔑みなので、いじめの場合の蔑み以上にも完全だ。俺のおまえらへの
蔑みこそは、おまえらの俺への蔑みよりも完全で、普遍的で、揺るがない。蔑みの度合いや安定度でこそ、
俺はおまえらに常勝無敗である。あくまで卑賤な領域の話ではあるが、それはそれとして常勝無敗だw
もしも有志がいたとすれば、それらと有益な議論を交わすのが第二。
ただの馴れ合いの仲良し会話なんかを少しも求めてはいないし、
仲良し会話にしか価値を見出せないお子ちゃまの、勘違い説教を聞くためでもない。
いじめたりいじめられたりが当たり前のことであるかのようにほざくのも幼稚なことだが、
かといって「侮蔑」という、人間である以上は抱きうる悪念を完全に捨て去った聖人に誰しもが
なるなんてのも無理な話で、成人のいじめすら横行している今にこそ期待できることじゃない。
だから、「侮蔑」という悪念を完全に捨て去れなどということはまだ言わず、
侮蔑をなんの根拠もない虐げあい=いじめにそのまま流用するのではなく、「君子から小人へ」という、
確かな倫理的方向性を保っている場合に限って認めることをまず第一に考える。「論語」などの基準に即して、
君子でいられている者が、小人でしかいられていない者を侮蔑するのなら、まだいいということにして、
根拠もなくただ他者を蔑む、いじめの論理から一段階だけ高尚な領域に世の中を持っていく。
「不義にして富みかつ貴きは、我において浮雲の如し(述而第七・一五)」
「己に如かざる者を友とすること無かれ(学而第一・八)」
「唯だ女子と小人とは養い難し(微子第十八・二五)」
商売企業が採用を断る、小男が友好を拒む、女子が嫌う、そんなのは君子にもとる原因であるどころか、
むしろ君子こそは賜る栄光でこそある。だからこそ、商売企業ウケや小男ウケや女ウケばかりが気になる
賤人に過ぎないおまえらを蔑む根拠にすらなる。いじめの場合などと同じでやはり蔑んではいるんだが、
倫理的方向性が定まった上での蔑みなので、いじめの場合の蔑み以上にも完全だ。俺のおまえらへの
蔑みこそは、おまえらの俺への蔑みよりも完全で、普遍的で、揺るがない。蔑みの度合いや安定度でこそ、
俺はおまえらに常勝無敗である。あくまで卑賤な領域の話ではあるが、それはそれとして常勝無敗だw
メモ帳なら日記でやれや。
議論?コミュ能力のないお前に出来る訳無いだろ。
お前にできるのは日記帳で落書き書くことだけ。
対話が出来ないやつに議論は出来ない。
だから虐められてたんだろ、お前。
議論?コミュ能力のないお前に出来る訳無いだろ。
お前にできるのは日記帳で落書き書くことだけ。
対話が出来ないやつに議論は出来ない。
だから虐められてたんだろ、お前。
おまえらが俺をいじめている気でいるのなら、それもまた一つのいじめなんだろう。
相手をいじめるための理由なんてのは、全く根拠のない言いがかりであったって構わない。
根拠のない言いがかりでおまえらが俺を侮辱したからといって、それがいじめである
条件を満たさないわけじゃない。それでも十分に立派ないじめとして成立している。
しかし、もちろんそこに倫理的な方向性などはなく、相手を蔑む正当性も存在しない。
他者を蔑むことはそれだけでも、よろしくないことのうちに入れられるものだが、
蔑む根拠が道理に即しているわけでもないから、劣悪さの二乗ということになる。
ひるがえって、俺のほうはといえば、やはりおまえらを蔑んでいるのは確かだが、
何の根拠もなく蔑んでいるわけではなく、自分が「論語」などにおける君子の条件を
満たせている場合が多いことと、おまえらが君子の条件を満たさず、かえって小人の条件を
満たしているほうが多いのを根拠に、俺という立場からおまえらという立場を存分に蔑んでいる。
あくまで蔑むということはあまりよくないことにしろ、それが一端の道理に即した蔑みであることから、
蔑みという劣悪さと、道理に即す優良さとが相殺し合って、比較的マシなままでいられている。
蔑みという悪行を犯しつつ、しかもその蔑みが何らの確かな根拠にも即していない、
単なるいじめであることこそは、おまえらの蔑みが所詮は不完全なままにとどまる原因となり、
同じように他者を蔑みながらも、道理に即した確かな根拠に基づいて正当に差別していることが、
俺の蔑みがおまえらの蔑みなどと比べて、透徹したものとして安定していられる理由ともなっている。
俺がおまえらをゴミムシ扱いすることは道理に即している一方、おまえらが俺をダメ扱いすることは
全く道理に即しておらず、ただの自分たちの脳内での自己満足に過ぎないため、やはりゴミムシでもあるw
相手をいじめるための理由なんてのは、全く根拠のない言いがかりであったって構わない。
根拠のない言いがかりでおまえらが俺を侮辱したからといって、それがいじめである
条件を満たさないわけじゃない。それでも十分に立派ないじめとして成立している。
しかし、もちろんそこに倫理的な方向性などはなく、相手を蔑む正当性も存在しない。
他者を蔑むことはそれだけでも、よろしくないことのうちに入れられるものだが、
蔑む根拠が道理に即しているわけでもないから、劣悪さの二乗ということになる。
ひるがえって、俺のほうはといえば、やはりおまえらを蔑んでいるのは確かだが、
何の根拠もなく蔑んでいるわけではなく、自分が「論語」などにおける君子の条件を
満たせている場合が多いことと、おまえらが君子の条件を満たさず、かえって小人の条件を
満たしているほうが多いのを根拠に、俺という立場からおまえらという立場を存分に蔑んでいる。
あくまで蔑むということはあまりよくないことにしろ、それが一端の道理に即した蔑みであることから、
蔑みという劣悪さと、道理に即す優良さとが相殺し合って、比較的マシなままでいられている。
蔑みという悪行を犯しつつ、しかもその蔑みが何らの確かな根拠にも即していない、
単なるいじめであることこそは、おまえらの蔑みが所詮は不完全なままにとどまる原因となり、
同じように他者を蔑みながらも、道理に即した確かな根拠に基づいて正当に差別していることが、
俺の蔑みがおまえらの蔑みなどと比べて、透徹したものとして安定していられる理由ともなっている。
俺がおまえらをゴミムシ扱いすることは道理に即している一方、おまえらが俺をダメ扱いすることは
全く道理に即しておらず、ただの自分たちの脳内での自己満足に過ぎないため、やはりゴミムシでもあるw
いじめなんてのは他人と自分の比較からじゃねぇの。
他人が少しでも生活が良くなると「いてもたってもいられない」
なんてのは世の中に一杯いるよ。
大体が作り話で「チンチン出して踊れ」とか「握りぎんたま」とか
誰がそんなことを「入力作業中」に云うんだい。
それで「心の問題」・・・
笑わせんな。
とこういう労働問題も経験してきたんだが・・・。
他人が少しでも生活が良くなると「いてもたってもいられない」
なんてのは世の中に一杯いるよ。
大体が作り話で「チンチン出して踊れ」とか「握りぎんたま」とか
誰がそんなことを「入力作業中」に云うんだい。
それで「心の問題」・・・
笑わせんな。
とこういう労働問題も経験してきたんだが・・・。
いや、むしろいじめってのは、自分のことが見えてなかったり、
自分に自信が持てなかったりするからこそ引き起こされるもんだ。
「自ら反りみて縮からずんば、褐寛博と雖も、吾惴かざらん。自ら反りみて縮ければ、千万人と雖も吾往かん」
「自ら反省して正しくないと思った時には、たとえ相手がボロをまとった賤者であっても道を譲る。
しかし自ら反省しても正しいと思った時には、たとえ相手が千万億の大群だろうとも道を譲らない」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・公孫丑章句上・二より)
という、孟子ほどもの自信ってのは、本当に自己反省が行き渡った上で、自分が道理にも即せた場合にこそ
抱けるのであって、いじめを好む人間なんてのは、ここまで自己反省が行き渡っているわけでもないし、
もちろん道理に即せているわけでもないから、千万の大群相手に一歩も譲らないような自信は抱けない。
だからいじめをする時には大体多人数で群れて、自分一人に全責任がのしかかるような事態も避ける。
十分な自省も、自省に基づく確固たる自信もないから、なるべく自分に責任が伴わない形でのいじめを目論む。
自分に自信が持てなかったりするからこそ引き起こされるもんだ。
「自ら反りみて縮からずんば、褐寛博と雖も、吾惴かざらん。自ら反りみて縮ければ、千万人と雖も吾往かん」
「自ら反省して正しくないと思った時には、たとえ相手がボロをまとった賤者であっても道を譲る。
しかし自ら反省しても正しいと思った時には、たとえ相手が千万億の大群だろうとも道を譲らない」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・公孫丑章句上・二より)
という、孟子ほどもの自信ってのは、本当に自己反省が行き渡った上で、自分が道理にも即せた場合にこそ
抱けるのであって、いじめを好む人間なんてのは、ここまで自己反省が行き渡っているわけでもないし、
もちろん道理に即せているわけでもないから、千万の大群相手に一歩も譲らないような自信は抱けない。
だからいじめをする時には大体多人数で群れて、自分一人に全責任がのしかかるような事態も避ける。
十分な自省も、自省に基づく確固たる自信もないから、なるべく自分に責任が伴わない形でのいじめを目論む。
あほか。無職で職歴もスキルもなくて、
コミュ力もなくて友達も恋人もいない引きこもりは
どこの国いってもダメ扱いされるわ。
将来的な見込もないし、生きてる価値無し。
お前の意見に賛同する奴なんてこの世のどこにもいねーから。
コミュ力もなくて友達も恋人もいない引きこもりは
どこの国いってもダメ扱いされるわ。
将来的な見込もないし、生きてる価値無し。
お前の意見に賛同する奴なんてこの世のどこにもいねーから。

一概に社会的な評価を受けたりするほうがおかしく、今の俺がそうであるにも関わらず
自己の偉大さを誇るのは、虐殺者数億人なんていう、これ以上あり得ないほど
劣悪至極な今の世の住人であるからに過ぎない。
まあ、その今の世の中の極端に突出した劣悪さが、自分自身からゴミムシであるIi2PmZWoHoなどには分からない
として、まるで江戸時代の素浪人が見下されるようにして、俺のような無能力者が見下されるのだとしても、
素浪人以上にも世の中にとって有害無益極まりない、火付盗賊などほどにも見下されることはあるまい。
世の中全体が道徳の堅持に努めることで、「行動即犯罪」ほどにも世の中を劣悪化しないように努めていれば、
今度は火付盗賊などの犯罪者のほうが厳重な差別下に置かれて、ただ何もしないでいるだけの素浪人などはまだマシな
存在であることがわきまえられる。行動即犯罪であるほどにも一切劣悪と化している世の中で、その劣悪さに
気づかないでいる小人が、本物の劣悪さから目をそらして、何となくダメっぽい相手を探したときに、
無職やニートがそれに当てはまるような気がして、確かな根拠もないままの侮蔑=いじめの対象にしようとする。
道理のわきまえが至らないからこそ、そんな過ちが犯されるのであって、もしも江戸時代程度の道徳把握でも
行き届いていれば、それだけでも真っ当な労働者>無職≫犯罪者という序列ぐらいはわきまえられる。
早い話が、何もできたことがないということが、そこまでも侮蔑の対象とされているということが、
その世の中が道理もわきまえられない一切劣悪な世の中である自明な根拠にもなっている。
ちゃんと道理がわきまえられたなら、何もしていない、何もできたことがない程度のことは、
重大犯罪者であったりするよりはよっぽどマシであることが、誰にだって分かるからな。
何か勘違いしてるな。
お前は
「何もできたことがない」
のではなくて、
「何一つ出来なかった」
んだよ。
違うと言うなら自分の年齢と社会的に何をやったか言え。
犯罪者とか、曖昧で無根拠なことは誰も信じないから。
「俺以外のやつが間違ってる」
んなことは子供でも言える言い訳。
皆は社会的に評価されて、人と付きあい、
恋人と付き合い、家庭を持って職を得てる。
対してお前は何があるの?
いや、お前の言うことに賛同してくれる人が一人でもいるかあ?
お前は
「何もできたことがない」
のではなくて、
「何一つ出来なかった」
んだよ。
違うと言うなら自分の年齢と社会的に何をやったか言え。
犯罪者とか、曖昧で無根拠なことは誰も信じないから。
「俺以外のやつが間違ってる」
んなことは子供でも言える言い訳。
皆は社会的に評価されて、人と付きあい、
恋人と付き合い、家庭を持って職を得てる。
対してお前は何があるの?
いや、お前の言うことに賛同してくれる人が一人でもいるかあ?

>のではなくて、
>「何一つ出来なかった」
まったく一緒じゃねーかww
>犯罪者とか、曖昧で無根拠なことは誰も信じないから。
右手の人差し指で左の手のひらを指し示すほどにも、あからさま根拠を示されても信じない。
それは一種の狂信であり、「死者が蘇る」とかのイスラエル聖書中の妄言を信じ込んでいる奴らとも同じ心境だ。
そんな奴らが世の中の大多数と化して、あいも変わらず数億人規模の大虐殺を続けていくようなら、
もう民主主義も終了だな。全員禁治産処分下において、全ての取り決めはお殿様の一存で計らわれるようになる。
>皆は社会的に評価されて、人と付きあい、
>恋人と付き合い、家庭を持って職を得てる。
>お前の言うことに賛同してくれる人が一人でもいるかあ?
ボウフラがボウフラ同士で認め合って、ボウフラ同士の共感で嬉しがってら。
おまえら全ての承認や感覚を全てあわせたよりも、たった一人の人間の世界認識や感覚意識のほうが
正しくて貴いなんてことはいくらでもあり、正しくて貴いもの一つぶんの満足は、
間違いだらけで賤しいものを何億とあわせた以上もの満足となる。
糞1億トンの満足よりも、ダイヤ一粒の満足のほうが上に決まってる。

① とあるニートが、何とか自身の情けないニートっぷりを言い繕いたい、自己正当化したい。
② そのために自分より「ダメ」な犯罪者を引き合いに出して、自分は少なくとも犯罪者よりはマシだと宣う。
③ それだけのことを、イジメだのキリスト教だの儒教だのと頓珍漢な詭弁を弄して粉飾している。
ってことかな。
片や、屁理屈と恨み節、自尊心だけはいっちょまえのパラサイト・ニート。片や、弁は立たなくとも、
毎日汗水流して働き子を産み家族を養い社会を支えている労働者。
片や、犯罪者よりは自分はマシと宣うニート。片や、真面目に働かないニートに腹を立てる労働者。
前者ニートのほうがよっぽっど矮小な人間だと私は思うよ。
>糞1億トンの満足よりも、ダイヤ一粒の満足のほうが上に決まってる。
砂粒ほどの大きさも無い模造ダイヤよりも、糞1億トンのほうが、肥やしにして野菜を沢山作れるし、
世の多くの人達の腹を満たしてくれるから、ずっと良いと私は思うよ。
いくら過疎ってる思想哲学板とはいえ、
自分のメモ代わりに二つも自分専用スレを立てるのは如何かと。
自分のメモ代わりに二つも自分専用スレを立てるのは如何かと。

ちっともまともな労働者ではないから。
ここ30年の間に、資本主義先進国の人間8億人で、最低3億人以上の人間を殺害している。
先進国のほうもある程度は世代交代があるから、あえてその総人数を15億人にまで上乗せしても、全ての人間が
必ず5人がかりで1人の人間を殺害していることになる。リンチ殺人としても、全員に刑事責任を問える範囲内。
全員死刑とまではいかないだろうが、数年の服役程度は当然覚悟しなければならない。
ここまであからさまな重罪を犯してきているのだから、民主主義の終了はもはや避けられないだろうが、
かといって、民主主義の終了が大衆の同意を得てから行なわれたりするかといえば、そんなはずもない。
大衆意志の自由をどこまでも容認するのが民主主義、その民主主義を剥奪されることを大衆が嫌がるのは
当たり前だから、大衆の同意を得て民主主義を終了させるなんてことはまずない。民主主義を終了して、
封建主義などの、民政をも抑え付ける統治体制へと移行するとしても、それは強制的に行なわれる。
民主主義とか封建主義とかいった統治体制の原理的な構造上、当然のこととしてそうなる。封建主義が、
大衆の同意を得て復活するなんていうのも、封建主義のほうの存在性に反しているから。
結局のところ、現資本主義先進国の一般大衆であるところの、おまえらの意見や支持などは全く無視された所で
民主主義は強制終了し、封建主義も自動復活するだろうが、だからって今さら不平を唱えられる筋合いもない。
謂れのないこととして心外ぶったりする余地もないほどに、おまえらの無責任で蒙昧な大衆意志は、
5人がかりで1人の人間を殺害するレベルの犯罪行為を、全ての資本主義社会の人間に強制している。
ヤクザであるか否かなどに関わらず、労働者である時点で必ずリンチ殺人犯となるように仕向けている。
そんな劣悪な大衆意志を金科玉条に掲げるぐらいなら、まだお殿様に土下座させてでも悪行を抑制させるほうが
よっぽど社会体制としてもマシなものだから、あくまでこれも当たり前のこととして、民主主義は強制終了する。
現実は作られしもの。大勢にコントロールされるもの。
そんな、「(創作ではない)現実」とか「(誤謬ではない)真理」とかいった言葉の定義を
根本から覆しただけの転倒夢想による自己欺瞞で、本物の現実上の犯罪行為の
責任から逃れようとしている時点で、やはり無職やニート以下だ。
そんな自己欺瞞を「大勢のコントロール」で通し続けようとする民主主義も、やはり廃止対象だ。
根本から覆しただけの転倒夢想による自己欺瞞で、本物の現実上の犯罪行為の
責任から逃れようとしている時点で、やはり無職やニート以下だ。
そんな自己欺瞞を「大勢のコントロール」で通し続けようとする民主主義も、やはり廃止対象だ。
長文が書き込めなくなってるな。
こちとらもう、大量に溜まってるのにw
「いじめ」に関する書き込みはすべてこっちに書くようにすれば、
俺がメモ帳代わりにするのは四書五経(聖書)スレだけで済むのに。
こちとらもう、大量に溜まってるのにw
「いじめ」に関する書き込みはすべてこっちに書くようにすれば、
俺がメモ帳代わりにするのは四書五経(聖書)スレだけで済むのに。
「キ○○イに迷惑をかけられて腹が立った」→「自分がいじめられて辛かった」
という、おまえの側での勝手な脳内変換の責任をこちらに問われてもな。
今もまた勝手に「おまえの母ちゃんは美代子」なんて決め付けようとしてるし。
おまえ自身の稚拙な脳みその、論理的飛躍の一人歩きが、勝手に間違いを犯しているだけだ。
という、おまえの側での勝手な脳内変換の責任をこちらに問われてもな。
今もまた勝手に「おまえの母ちゃんは美代子」なんて決め付けようとしてるし。
おまえ自身の稚拙な脳みその、論理的飛躍の一人歩きが、勝手に間違いを犯しているだけだ。
DVで、殴られる側にも問題がある、みたいなことは言わない。
レイプで、いまどきレイプなんて大したことじゃないだろ、とも言わない。
犯罪被害者に、被害者にも非がある、みたいなことは言われない。
振り込めサギで、振り込んだ人に、身内のトラブルをカネで解決しようとするとはけしからん、
と責める意見もでない。
なのに、いじめ自殺は、被害者にも問題がある、みたいなたたかれ方をする。
これは、単に、子供が相手だと強気になるやつが多いからにすぎないと思う。
イジメ自殺問題をダメなオッサンが、自分のプライド回復に使うのをやめさせてほしい。
レイプで、いまどきレイプなんて大したことじゃないだろ、とも言わない。
犯罪被害者に、被害者にも非がある、みたいなことは言われない。
振り込めサギで、振り込んだ人に、身内のトラブルをカネで解決しようとするとはけしからん、
と責める意見もでない。
なのに、いじめ自殺は、被害者にも問題がある、みたいなたたかれ方をする。
これは、単に、子供が相手だと強気になるやつが多いからにすぎないと思う。
イジメ自殺問題をダメなオッサンが、自分のプライド回復に使うのをやめさせてほしい。
大人の犯罪被害者などの自己責任を追及すると、
自分が被害者となった場合に、その発言が報いとして自分に降りかかってしまう。
だから、自分はもはやそうでない「子供」のいじめ被害の場合などには平気で貶める。
ダメ人間でも(むしろダメ人間だからこそ)自分の身が可愛いから、ちゃんと逃げ道は確保している。
自分が被害者となった場合に、その発言が報いとして自分に降りかかってしまう。
だから、自分はもはやそうでない「子供」のいじめ被害の場合などには平気で貶める。
ダメ人間でも(むしろダメ人間だからこそ)自分の身が可愛いから、ちゃんと逃げ道は確保している。
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スレッドタイトル:いじめの論理