集団失踪事件【総合1】


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001 2016/05/07(土) 07:54:21 ID:uJs/HvYsGQ


まずは、『大塚団地集団失踪事件』から

1995年、滋賀県東近江市の大塚団地で不可解な事件が発生。
突然、団地住人が全員いなくなる。
一週間後には近くの森で老婆の遺体が発見。
さらに一週間後には行方不明だっ団地住人が自殺。
この事件をきっかけに心霊スポットとして有名に。
肝試しにきた大学生グループの一人が何者かによって日本刀で惨殺される。

https://www.youtube.com/watch?v=pB9mVpuy5J...


.

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002 2016/05/07(土) 08:00:42 ID:uJs/HvYsGQ
■ブラジルのオウロ・ヴェルデの村での集団失踪
http://tocana.jp/2016/04/post_9437_entry_3.htm...

 1923年2月5日、ブラジルのオウロ・ヴェルデの人口600人ほどの村を訪れた旅行者たちが見つけたものは、
一人の村人も残されていない村の残骸であった。家や建物からは、さまざまな私物や食料品までもが残されたまま、
まるで村人たちが大急ぎで村を放棄したかのように見受けられたという。

 すぐに当局による調査が開始されたが、残されたヒントとなるようなものは少なく、
発射残渣が残っている銃と黒板に殴り書きされた「どこにも救いはない」というメッセージだけであった。
ゲリラや麻薬カルテルなどの襲撃による緊急的な避難であったとも考えられたが、
それを示す証拠もなく、結局この集団失踪も不可解な謎を残したまま未解決となっている。

これは別 → https://www.youtube.com/watch?v=BcPCF2mpKM...

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003 2016/05/07(土) 08:32:04 ID:c08feH99ho
【総合1】と冠しているならば、当然続編を作る予定ですよね。
果たして、満レスできるほどの気力がおありか?

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004 2016/05/07(土) 08:41:58 ID:uJs/HvYsGQ
>>3
間の感想レスとか余談とかのレスを期待
それがなかったら正直キツイですね


『ノーフォーク連隊集団失踪事件』

第一次世界大戦中の1915年8月28日。
敵国であるトルコのガリポリ半島に上陸したイギリス陸軍ノーフォーク連隊341名が、
サル・ベイ丘へ向かって進軍していた。すると、丘の上から異様な”灰色の雲”がだんだんと降下し始めたという。
その灰色の雲はやがて丘を完全に覆い尽くし、ノーフォーク連隊はその雲の中へ行進していった。

しかし雲の中へ入って行ったはずのイギリス兵は、それ以降、誰一人姿を現さなかった。
彼らはどこへ消えたのか?この不思議な集団失踪事件の真相とは?

http://enigma-calender.blogspot.jp/2015/09/norfork-missing.htm...

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005 2016/05/07(土) 09:01:16 ID:uJs/HvYsGQ
『ピクニックatハンギング・ロック事件』とそれを元にした映画

次々と謎の失踪をする物語らしい
実話が元らしいが、ウィキではフィクションとも

http://roanoke.web.fc2.com/foreign/Hanging_Rock.ht...

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006 2016/05/07(土) 09:39:17 ID:FxT1o2iVZY
良スレありがと♪

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008 2016/05/07(土) 09:46:34 ID:c08feH99ho
「子供がかどわされるのは、多くはたそがれ時に起こる現象でした。上村中根の4、5歳(昭和33年当時)くらいの男の子ですが、
子供のころ、隣家の子供の守りをしていました。夕方、赤子を返して我が家に帰る道で、行方不明になってしまいました。
グリン様に連れ去られたといわれました。村中で探して歩きましたが、3日後、少年は自宅で寝ているところを発見されました。
3日間は山ばかり歩いていたそうです。中根や上村の下栗辺で、夕方のかくれんぼ遊びが固く戒められているのは、
こうした災いの故でした。」

                                      ……長野県遠山谷の『遠山谷の民俗』より抜粋


怪異・妖怪伝承データベース グリン様
http://www.nichibun.ac.jp/YoukaiCard/0030169.shtm...

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010 2016/05/07(土) 12:11:59 ID:cDLmeVAZr2
軍艦島は違うのね・・・

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011 2016/05/07(土) 12:49:24 ID:Kd.gmdLDIo
>>9
怖えーそれ

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012 2016/05/07(土) 13:33:54 ID:c08feH99ho
14世紀中ごろの貞治5(1366)年の興福寺六万衆評定事所によると、山伏によって稚児が大袋に入れられて誘拐された事件が少なくなかったという。
恐らく男色が目的であったとされている。

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013 2016/05/07(土) 22:19:06 ID:9cYk2kT.3.
真相が判明?謎のメッセージを残して集団失踪をとげた「ロアノーク植民地集団失踪事件」

16世紀後半、現在のアメリカのノースカロライナ州には、ロアノーク島という植民地があった。
この小さな島には開拓民が二度に渡って派遣されたという。
http://enigma-calender.blogspot.jp/2014/04/lost-colony.htm...

1587年、測量士兼画家であったジョン・ホワイトが指揮を執る植民者遠征隊が派遣されたが、
その後ホワイトは本国に帰らなければならず、ロアノーク島には115人の男女の植民者が残された。
再びホワイトがロアノーク島に戻ってきたのはその3年後の1590年8月18日だった。

ところがその時、ロアノーク植民地には、人が一人もいなくなっていた。
彼らの行方はわからぬまま、残された謎のメッセージだけが発見されたのだ。
この謎多き失踪事件に関しては、近年になって驚くべき発見がされたという。
果たして彼らはどこへ消えてしまったのか?

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014 2016/05/07(土) 22:21:40 ID:9cYk2kT.3.
●消えた30人のエスキモー
1930年12月、北カナダのモウンティ町から北の方へ600?ほど行ったところにある小さなエスキモーの村を、一人の猟師と騎馬警官隊が訪れた。
だが、不思議なことに、この村には大人と子供を合わせて30人くらいのエスキモーが住んでいたはずなのに、人っ子一人おらず、村は完全に静まり返っていた。

そして村の小屋や、テントの中には、火にかけて、食べかけの鍋の中身がそのまま残っていて、
すでに凍りついていた。また、エスキモーの人々が、寒さをしのぐアザラシの毛皮の上着もそれぞれの小屋に全部残されていた。

また、エスキモーにとっては命綱とも言えるライフル銃も全て残されてあり、数十頭の犬は木につながれたまま餓死していた。
また、ソリや船もそのまま残されてあり、これら、生活にとって大変貴重な物を全て残したまま、30人全員がどこへ消えたのか今だに判明していない。


●3000人の中国兵
第二次世界大戦中の1939年10月。3000人の中国兵が汽車で南京の近くの広野に運ばれ、夜になって約3?に渡って、兵士たちは配置された。
そして兵士の配置も完了し終わって数時間後、司令官が宿舎から、再びその前線に戻ってみると、さっきまでいた、3000人の兵士たちが全て忽然と姿を消していた。
野原には、焚き火が燃え続けており、銃は全て投げ出され、また、地平線に至るまで、一つの足跡も発見出来なかったという。

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015 2016/05/07(土) 22:49:05 ID:9cYk2kT.3.
全員が謎の失踪を遂げた「マリー・セレスト号」の怪異

1872年12月4日、イギリスのグラチア号が、大西洋上を漂う一隻の帆船(はんせん = 帆で動く船)を発見した。
その船の名前は「マリー・セレスト号」。だが、どこかに向かっているような様子はなく、
完全に海の上を漂っているような状態だったので、ひょっとしたら乗組員たちに何かあったのではないかと思い、
グラチア号は、マリー・セレスト号に近づいて声をかけてみた。

船を横付けして、マリー・セレスト号に、船長以下、数人の乗組員か乗り込んで行った。だが、
その船の中には人っ子一人いない。海賊に襲われたにしても、伝染病が流行って乗組員全員が死亡したにしても、
死体があるはずだ。だが、生存者も死体も何一つ発見されない。

すぐにグラチア号は、この船をジブラルタルに運び、港湾警察で調べてもらうことにした。
すると次々と奇怪なことが分かったのである。
この、無人で漂流していた「マリー・セレスト号」は、乗組員9名を乗せて11月7日にニューヨーク港を出航していたことが分かった。
そして発見されたのが12月4日の朝。

船長室のテーブルに置かれた朝食は食べかけのままで、コーヒーはまだ暖かく、湯気を立てていた。
そしてかたわらに置いてある、赤ん坊のミルクビンは、少し飲みかけのままであった。
また、船の倉庫にはたくさんの食料や飲み水もあり、8万ドル相当のアルコールの樽も置いてあったが何も盗まれた気配がない。

救命ボートも全部そのままで綱をほどいた形跡もなかった。
また、調理室では、火にかけた鍋がグツグツと煮立っており、水夫の部屋では食べかけの鳥の丸焼きと、シチューがそのまま残っていた。
洗面所では、あたかも今までヒゲを剃っていたかのような形跡があり、別の水夫の部屋には血のついたナイフが置いてあった。
そして船長の航海日誌には「12月4日、我が妻、マリーが」と走り書きがされていた。

12月4日の朝、この船に何が起こったのか。そして9人の乗組員は、何もかもやりかけのまま、どこへ消えてしまったのか、今だに謎のままである。

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016 2016/05/08(日) 06:50:37 ID:rnhTniBV0k
>>1が怖いな

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