天才アルピニストと呼ばれた長谷川恒男のエピソード。
ヨーロッパ三大北壁を次々に冬季単独登攀で攻略した、まるで走るように垂壁を登ったと言われる登山家だ。
(1991年にパキスタンのウルタルⅡ峰登攀中、雪崩に巻きこまれて転落死。享年43歳)
彼の著書に興味深い描写がある。登山している最中、いくらプロとはいえ自分は落ちるのではないか、という不安にかられることがある。
そんなとき頭に何者かの、こんな言葉がかすめたそうだ。「おまえは絶対に落ちない」と。
そう励まされ、彼は平常心を保つことができた。すると今度はこんな『症状』が。
『肉体と精神とが分離したような、少し離れた空間から自分自身の行動を見つめているもう1人の自分自身の存在に気づいた。
もうひとりの私が、動作を逐一観察して、正確に登れるように、的確に導いていくような状態だった。』
他にもこんな記述が。
『単独登攀の場合、小さなミスが即、生命にかかわる。ミスを犯さないためには、自己管理をキチンとすることが大切だ。本当は無我夢中という状態ではいけない。
ところが、手足は勝手に動いていく。非常に長い時間にわたって登ることに没頭している。そのなかで、自分の身体と意識とが離れていくような状態がこの日に起こった。
心身離脱というのだろうか。心と身体がバラバラになり、動いている自分を別の空間から見ているような気がする。これはとてもおかしな気分だ。
後日、禅の僧侶にそのときの話を伝えた。「その状態になるには、禅の修業をしても30年以上はかかる」と言われた。「山でよかった。下界でやってたら悪霊が入って、
君はおかしくなっていただろう。山には精霊しかいないのかもしれない」とも。』
生前の長谷川恒男は、この話をよくしたものだ。
単にクライマーズ・ハイと片づけるには安易すぎる。実体験者ならではのリアルな話だろう。
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